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バトル・ドールズ

第1回      
 


1

 ある女子プロレス団体。
 選手を含めて社員10人にも満たない、ファイトスタイルの過激さだけに支えられている弱小団体。
 軽薄な格闘技ブームに乗っかって台頭したが、選手層の薄さのため興業は苦しい。
 対戦カードは限られ、エースにそれほどの名声が与えられているわけではない。
 そんな弱小団体が存亡を懸けた危機を迎えた。
 女社長にしてエースであるチャンピオンが再起不能の大怪我を負ったのだ。
 もはやマッチメイクにも限界は訪れ、地方興行すら危ぶまれる事態に陥った。
 元々が女社長の人気に支えられていた団体であり、取引銀行から解散も止むなしとの
 通告がなされたのも当然と言えた。

 さて、そんな女社長には直人という名の一人息子がいた。
アニメのヒーロー、タイガーマスクの正体にあやかって名付けたのである。
ところが当の直人ときたら幼少の頃より病弱で、風邪をひくだけで高熱を発して入院する
虚弱児であった。
高校生となった今では健康状態もよくなってきたが、荒事とは無縁の優男ぶりで、
線の細さは相変わらずである。

 最初、女社長は息子を女装させ、次期エース兼社長として売り出そうと考えた。
この世界では、団体の長がエースを兼任するのが当たり前なのである。
都合のいいことに、直人は女の子でも充分通用するような美少年だった。
しかし格闘技どころかケンカすらまともにしたことのない彼に、いきなりプロレスは無謀すぎる。
ショーマンシップに特化した団体であれば、それでも通用したであろう。
やられキャラとして観客のフェチシズムに訴えかけるのなら、女装した直人は逸材とさえ言える。
母は過激さだけを追究してきた自分のファイトスタイルを初めて呪った。

 そこで彼女は一計を案じた。
息子に嫁を取らせ、彼女に自分の後を継がせようと考えたのである。
すなわち格闘技トーナメントを開催し、優勝した者を直人の嫁に迎え、
次期社長とエースの座を譲ろうと言うのだ。

「母さん、どういうことですか」
皆口直人は絶世の美少年の呼び名も高いその顔に、苦悩の色を滲ませていた。
「どういうことって……そういうことだけど」
何か? というように女社長が小首を傾げる。
「エース級の選手が欲しければ、既存の団体から移籍を乞えばいいではありませんか」
それを考えない母でもなかった。
しかし、そうすることで、自分の団体が余所の下部組織に組み込まれるのが怖かったのだ。
吸収合併などということにでもなれば、何のためにここまで頑張ってきたのか分からない。

「立派に母さんの後を継いでくれるのなら、僕はWWAのレディ・コングだって喜んで結婚します」
レディ・コングは有力団体の主力選手で実力もあるが、
獣じみた容姿のせいで色物扱いされているレスラーだ。
とてもじゃないが、次期エースとして看板を背負わせることはできない。
「そんな禅譲じゃ、インパクトが弱すぎるの。話題になってこその社長交代劇なんだから」
「だからといって、何でも有りのアルティメットルールでのトーナメントはやりすぎです」
「過激なうちの団体を任せるんですもの。それ相応の実力者じゃないとやっていけないでしょ」
女社長は事も無げに言い放った。

 嫁候補に殺し合いをさせ、勝った者に息子と団体を与える。
女社長の考えは、息子には常軌を逸しているように思えた。
「あぁ、あなたが女の子で、もっと丈夫だったらねぇ」
それを言われると、直人としては黙り込むしかなかった。

 * * * * *

「直人さん、如何でした? 社長の翻意に成功されましたか?」
事務室に戻ってきた直人に、事務のアルバイトとして雇われている葉山由奈が駆け寄ってきた。
由奈は直人と同い年の少女で、訳あって高校を中退したばかりである。
いわゆる美人顔ではないがクリッとした目の愛らしい少女で、いつも笑顔を絶やさない。
肩口で切り揃えられた長目のボブカットは、見る者に清楚で控え目な印象を与える。
皆に愛されている癒し系のマスコットキャラであった。

「いや、お話にすらならなかった。母さんは、あくまで殺し合いで僕の嫁を決めるつもりらしい」
直人の端正な顔に苦悩が滲む。
それを見た由奈の顔が、珍しく険しさを帯びる。
「そんな……酷いです」
「いや、母さんを責めないでくれ。弱小団体としては、生きるか死ぬかの一大イベントに
なるんだから」
「ですけど、それじゃ直人さんが……」
「僕は構わないんだ。母さんが大事にしてる団体を守るためだから」
直人はそう言って溜息をついた。

「でも、奥さんが僕より強い女性で、尻に敷かれるのが分かっているってのも複雑な気分だなあ」
そんな冗談で周りを和まそうとする直人。
それを見詰める由奈は余計に悲しそうな顔になる。
「そんな顔しないで、由奈さん。優勝するのが、君みたいな優しくて可愛いひとだったら
嬉しいんだけどな」
冗談とも本気ともつかない少年の一言が、少女にある決意をさせた。

「──郁」
「何でしょう、社長」
直人が去った後の部屋で、女社長と団体のナンバー2が向き合っていた。
「今の話だけどね、トーナメントに出るのは何も一般公募に限られている訳じゃないの」
何気ない呟きであったが、郁に出場を命じる社命が言外に含まれていた。

「やはり、母親としては素性の分からぬ女を迎えるのは心配ですか?」
葉山郁は幼少の頃から、女社長自らレスリングを仕込んだ実力者である。
センターから分けられた長い黒髪や、スレンダーで上品なボディスタイルから、
お嬢さまレスラーとして名を馳せている。
ある時は副社長として、またある時はエースの代理として、彼女は女社長を陰から支え続けてきた。
それだけに女社長の信頼も厚い。
高校を中退した妹の由奈に、アルバイトを斡旋してくれたのもその表れだった。

「それもあるけどね、私としてはやっぱり団体のことを真剣に考えてくれる人に任せたいわけ」
「うちの選手は層は薄いですが、忠誠心は旺盛な者ばかりです」
「けど、確実に勝ち抜ける選手となれば、自ずと限られてくるんじゃなくて?」
郁は少し考えてから口を開いた。
「候補として2名ほどいますが」
「何とぼけてるの? アンタが直人を好きなことくらい、私が知らないとでも思ってるの?」
「…………」
「それともはっきり命令した方がいいのかしら?」
「いえ、社長の御意のままに。葉山郁、トーナメントに出場を希望します」
ほんのり赤く染まった顔を上げ、郁はハッキリと答えた。

 * * * * *

 その日の昼下がり、ジムで汗を流す郁の元に妹の由奈がやってきた。
「お姉ちゃん。あたし、トーナメントに出ることにしたから」
由奈は相好を崩して姉に報告した。
「そう、奇遇ね。私も出場の届け出をしてきたところなの」
ジムの空気が固まった。
「…………」
「…………」
睨み合う2人の少女。

「止めといた方がいいんじゃない? お姉ちゃん、お嫁さんって柄じゃないし」
「あなたこそ。プロのリングは、あなたでも相手を殺せちゃうような学生のお遊びとは
レベルが違うのよ」
2人とも幼少の頃からアマレス出身の父親に鍛えられ、
常人を遙かに越える格闘センスを身に付けている。
姉はプロに転向し妹は学生選手権にと、それぞれ求める道は異なってしまったが、
その強さは並ではない。
姉はデスマッチを身上とし、主に外国選手の迎撃に当たり、高い勝率を誇っている。
妹の由奈は対外試合で相手を殺してしまい、高校中退を余儀なくされた。
この2人が戦うとすれば、そこいらの兄弟ケンカどころでは済まなくなるのは目に見えていた。

「ところで、どちらが勝つにしても」
「無視できない強敵がいるわね」
そういって姉妹は頷きあった。
常人離れした強さを誇るこの2人をして、無視し得ない存在があった。
「あの牛女……」

 * * * * *

「トーナメント? それでナオトが賞品として貰えるのでェすかァ!?」
勢い余った声の主は、自分のマネージャーを締め落としていた。
「オゥ、ノォォォ〜ゥ!? 気絶しないでェ、詳しく教えて下さァい!」
ゴージャスな金髪を振り乱し、若いヤンキー娘はマネージャーを揺さ振る。
その動きに連動するように、チビTの下で巨大な乳房がユッサユッサと動く。

 彼女、ケイスQは全米アルティメット大会の現役女王、いわゆる『地上最強の女』である。
寝技の心得もあるが、本職のボクシングで鍛えた右ストレートの威力には定評がある。
幾多の寝業師が彼女にタックルを試み、カウンターの餌食となってリングに沈んだ。
並の反応速度では、稲妻のような彼女のパンチを避けることは不可能なのだ。

 今年24歳になるケイスは北米を本拠とするLWAの代表で、同団体のエースでもある。
加えて、直人の母が主催する団体のスポンサーとして、有名選手をレンタルしてくれる
恩人でもあった。
本人も何度か来日しており、直人の母や郁とデスマッチを戦ったこともある。
プライベートではスポンサー様であるケイスだが、試合となれば関係ない。
妥協のないストロングスタイルを強いられる彼女たちとの戦いは、
ケイスにとっても苦痛を伴うものであった。
それでも彼女が繰り返し来日しているのには、それなりの理由があったのだ。
直人の存在がそれである。
ケイスは何とか彼をモノにしようとあの手この手で接近を図っているのだが、
夢は今だ果たせないでいる。
そこへ、降って湧いたようなトーナメントのニュースであった。

「これで正式にナオトをお婿にできまァす。ついでにあの邪魔なイクもデリートしてあげられまァす」
決意すると同時に、ケイスは入っている全ての予定をキャンセルし始めたのだった。

 * * * * *

 翌日の昼、直人は保健室で目を覚ました。
心労が祟った直人は、午前の授業中に倒れてしまったのだ。

 なんとか上体を起こしてボンヤリとしていると、ガラガラッとドアが開けられた。
と思うとカーテンが開いて愛らしい顔の女子生徒が顔をのぞかせる。
「直人先輩っ、お弁当持ってきましたよ。そろそろ食べられますか?」
それは何かと直人の世話を焼きたがる後輩、津之宮しのぶであった。
直人は格闘技研究会という、限りなく文化系じみた格闘技クラブの部長をしている。
津之宮はクラブのマネージャーとして入部してきた1年生なのだ。
マネージャーとして部長のお世話をするのは当たり前、と言うのが彼女の主張であった。

「ありがとう、ツノミ。そろそろ大丈夫だと思う」
食欲はあまりなかったが、せっかくの親切を無にするのも可哀相だ。
「それじゃ、早々に」
津之宮はベッドに横掛けすると、鞄から綺麗にラッピングされたお弁当箱を取り出した。
そしてデミグラスソースの滴るミートボールを箸でつまんで直人の口元へ持っていく。
「自分で食べられるからさ」
直人は困ったように眉をひそめるが、津之宮は引き下がる気配すら見せない。

「そんなこと言って、先週おそそしたのはどなたでしたっけ?」
それを言われると直人も意地を張り通せず、突き付けられたミートボールをパクッと頬張る。
甘辛く煮詰められたソースが美味しい。
「すっごく美味しいよ」
お世辞でなく、本心から感心する直人。
それを見た津之宮は口元をだらしなく緩める。

「ああ、もうっ……ナオッチったら、嬉しいなあ」
我慢できなくなった津之宮は、先輩の首元に飛び掛かる。
後輩にあるまじき行為だが、直人は狼狽えこそすれ怒ったりはしない。
「ダ、ダメだよツノミ。保健の先生が来たらどうするの」
「平気だって。センセも昼休みは職員室でごはん食べてるよ。
あぁ、ナオッチの肌って女の子みたいにスベスベで気持ちいい」
「ちょっとツノミ……お弁当食べられない……」
「文句言わないの。人前ではジャーマネする代わり、2人っきりの時は全力で甘えていいって
約束じゃない」

 ツノミこと津之宮しのぶは、元々は格闘技研究会という軽薄なクラブを叩き潰すために
門を叩いた道場破りである。
津之宮流忍術14代伝承者の娘で、暗器を用いた殺人術を得意とする。
そんな津之宮だったが、立ち会った当の直人を一目見た瞬間──彼女は恋に落ちていた。

 それ以来、彼女の仕事はマネージャーとして直人に尽くす傍ら、
彼に仇なす存在を片っ端から闇討ちすることになった。
東に直人に惚れた女子柔道部員がいれば、行って「無駄だから早く死ね」と半殺しにしてやり。
西に彼の美貌をやっかんでリンチに掛けようとする不良グループがあれば、
「つまらないからヤメロ」と返り討ちにする。
そうやって陰ながら直人に尽くすことは津之宮の生き甲斐であった。

「ところで、雑誌で見たんだけど……デスマッチで勝った女の子がナオッチと結婚するって……
ホントなの?」
直人は保健室の中が急速に冷えていくのを感じた。
「ナオッチ……お婿さんに行っちゃうの?」
津之宮が悲しそうな声でポツリと呟く。
皆口直人の彼女でいる限り、津之宮しのぶは彼を殺さない──半年前にかわした
その約束が破られようとしている。
でも、今の津之宮には直人を殺すことなどできそうになかった。

 * * * * *

 この港町には多種多様な人種が存在している。
軍港にたむろする白人黒人の水兵、街角で怪しげなクスリを売っている中東人。
そして、チャイナタウンを根城とする中国人。
華僑、と呼ばれる彼らは、比較的古くからこの町に居住し、有力な一大勢力となっている。
それだけに大陸からの新参者からは頼りになる同胞と見られ、手続きの正規不正規を問わず
多くの本省人が訪ねてくる。
うら若き姑娘、フェイ・ファの場合は一応正規の手続きを取っての入国であった。

 フェイ・ファが来日した目的は婿探しである。
彼女の一族は武術家の家系であり、母親も少林拳の使い手であった。
その母が日本からやって来た空手家と恋に落ちたのは、もう随分と昔の話である。
結局その恋は周囲の猛反対で実らなかったが、母にある決意をさせることになった。
もし自分に娘が生まれたら、日本人の格闘家と結婚させようと。
フェイ・ファは生まれながらにして、結婚相手の条件を極度に限定されている可哀相な少女なのだ。

 彼女にとって、母の命令は絶対的なものである。
それでも彼女は結婚相手となる男に、自分なりに定めた理想を追求していた。
すなわち、容姿端麗であること。
そしてある程度の経済力を有すること。
この2つだけは、本国にいる友人に自慢するためにも譲るわけにはいかなかった。
そんなフェイ・ファが面白い情報を耳にしたのは、この町のチャイナタウンに
立ち寄った時であった。
来月開催される格闘技大会を制すれば、会社社長の座と美しい御曹司が手に入るらしい。

「なんだそりゃ」
フェイ・ファは驚いたが、同時に絶好の機会だとも考えた。
上手く行けば社長の身分と見目麗しい婿が転がり込んでくるのだ。
これは自分が追い求めてきた理想に限りなく近いのではないか。
「なかなかにいい」
一人頷いたフェイ・ファは、さっそく噂の美少年がどの程度の物か品定めに出向くことにした。

 * * * * *

 下校時間になり、直人は津之宮しのぶにせがまれるまま街へと出かけた。
街に用事があるわけでもなかったが、真っ直ぐ家に帰る気にもなれなかったのだ。
母の顔を見ると、嫌でも格闘技大会のことが思い出され気が滅入る。
それに学校帰りにデートするのは、津之宮とかわした約束の一部なのであった。

 何をするともなく適当にぶらついていると、波止場へ続くメインストリートに出た。
そろそろ夕刻ということもあって、平日にもかかわらず通りは人でごった返している。
そんな中、2人は前方に人集りができていることに気付いた。
何かの観衆なのか、時々声援が上がっている。
「なんでしょう?」
観衆の顔付きからして喧嘩沙汰ではなさそうだ。
大道芸人がアクロバットでもやっているのかもしれない。
津之宮は興味津々な顔になると、直人の手を引いて駆けだした。

「ちょっとゴメンね」
他人の体をコントロールするのは津之宮の十八番である。
気を逸らしている人間をどかせることくらい朝飯前なのだ。
観衆を掻き分けて前列に出た2人が見たものは、喧嘩沙汰ではなかったが、
限りなくそれに近いものであった。

 通称『殴られ屋』という商売がある。
ボクサー崩れなどが己の体を好きに殴らせ、それ相応の対価をいただくのだ。
無論ディフェンス技術を使って相手のパンチを避けたりするが、自分からは一切攻撃しない。
今どき殴られ屋とは珍しいが、目の前の光景は珍しいで済まされるようなものではなかった。
8オンスほどのグラブを着けたサラリーマンと対峙しているのは、まだ若い女だったのだ。

 浅黒い顔に穏やかな微笑が浮かび、理知的な目は澄んでいる。
眉間に赤いビンディを付けているところから見て、彼女はインド人なのであろう。
そのとおり、彼女、サラサムはインドからやって来た留学生だった。
日本文化を学ぶ毎日は楽しかったが、やがて折からの不況のため
本国からの援助は途絶えがちになった。
たちまち窮地に陥ったサラサムだったが、留学生が就ける職など簡単に見つかる訳がない。
このままでは異国の土になると考えた彼女は一計を案じた。
それが殴られ屋であった。

 客の持ち時間は1分。
その間彼女は逃げ回り、攻撃を掠らせもしない。

 そしてラスト10秒だけ、彼女は一切の抵抗を止め、好きに殴らせてあげるのだ。
ストレスを発散させて満足した客は、ニコニコ顔で紙幣を支払ってくれる。
「アリガトネ」
手を合わせて微笑むサラサムの体には、ダメージなど一切残っていない。
ヨガの達人である彼女は、特殊な呼吸法で体を鋼鉄のように硬化させることができるのだ。
8オンスのグラブは彼女を守るためのものではない。
客の拳を守るためのプロテクターなのである。

 今や持ち時間も残り僅かとなったため、サラリーマンは左右の拳をムチャクチャに振り回し始めた。
サラサムは細く長い呼吸で波動を高め、全身の筋繊維を膨張させていく。
腱は関節と関節を強固に結びつけ、全身の骨格を一つに固めていく。
へなちょこリーマンのパンチを受けるには、それだけで充分だった。

 パスンパスンと顔面やボディにパンチが命中する。
端から見ていると、一方的ななぶり殺しにも思えるが、
その実サラサムは蚊が刺したほどにも感じていなかった。
ところが。

「やめてぇっ」
悲鳴を上げて2人の間に割り込んできた人間がいた。
勢い余ったリーマンのパンチがその人物の頬を捉える。
その人物は、見るに見かねて飛び出した直人であったのだ。
ひ弱な直人がもんどりうってアスファルトに転がった。

「どうしてあんなことしたのですか?」
サラサムは柔和な笑みを浮かべ、津之宮の膝枕に寝たままの直人に尋ねかけた。
その内心では、商売の邪魔をしてくれた彼に、殺意に近い感情を抱いている。
津之宮の介抱で、直人はようやく意識を取り戻したばかりだった。
「ん、よく分からないけど……女の子が一方的に殴られてるところなんか、見ていられなかったんだ」
サラサムは「ほぅ」という顔になった。
これまで会ったこの国の男ときたら、どいつもこいつも自分と寝ることしか考えていなかった。
もしくは浅黒い肌に好奇心を向けるくらいで、後は丁重に無視してくれるのが普通だった。
こんなに優しい言葉を直接掛けて貰ったのは初めての経験だったのだ。

「お願いだから、もうこんなことは止めてよ。そのうち体を壊しちゃうから」
自分より遙かに弱い相手が、自分の体のことを心配してくれている。
そのことがサラサムの心を動かした。
優しい言葉に感動した。
というよりは、目の前の美少年をこれ以上悲しませたくなくなったのだ。

「では、もう止めることにしましょう。しかし、生きていくためには新しい仕事を見つけなくては」
失業したばかりのインド人美少女は、腕を組んで思案顔になった。

 * * * * *

 津之宮と別れた直人は、帰宅途中にあるガード下に立ち寄っていた。
私鉄の特急電車が通過する度、轟音と共にガタタンガタタンという振動が伝わってくる。
ここは直人にとって特別の場所であった。
裏通りに当たり、車の通行が閑散としているため、昼間は結構広い子供の遊び場となっている。
それが夜になると様相が一変する。

 ガード下には何本ものロープが垂らされ、昼間は子供がぶら下がって遊ぶそれに、
今はサンドバッグが吊されていた。
ドシッ、ドシッ、ドシッっと重々しい音がして、吊されたサンドバッグが跳ね回る。
半パン一丁の男たちの動きは、一幅の絵を見るように鮮烈だった。
夜のガード下は、子供広場から格闘技のジムに早変わりするのだ。
しかも、格闘技の中でも一番荒っぽいと言われるムエタイのジムにである。
ジムを経営するのは本場ラジャダムナンから招聘されたタイ人だ。
最初は直人の母が、なんとか息子に格闘技を仕込もうと開いたジムであった。

 組技中心のグラップリングは非力な直人に向いていない。
ハッキリした体重制度があり、打撃技がメインである。
選手層が薄く、直人にも上位に食い込める余地が残されている。
ムエタイは、直人に少しでも興味を持って貰うのに恰好のセレクトに思えた。

 しかし直人の格闘技音痴は絶望的であった。
更に、ムエタイのメイン技は首相撲、即ち直人が苦手なグラップリングであったのだ。
せっかく設立したジムだったが、直人の母が手放すのにさほどの日数を要しなかった。

 だが、それでも招聘されたタイ人は母国に帰らなかった。
ムエタイを日本に根付かせるため、私財を投じてガード下のジムを設立したのである。
今では日本キックボクシング連盟の上位ランカーを何人も輩出し、
タイのタイトルを狙えるところにまで来ている。
しかし当時は悲惨な状況であり、責任を感じた直人も暇さえあれば立ち寄り、
あれこれと手伝いしたものであった。
周辺の掃除、グラブやサンドバッグなどの補修、ストップウォッチ係、
直人はできることを一生懸命頑張った。
その頃の悲惨を思えば、現在の隆盛振りが嘘のようである。
そしてオーナーは成功した今も、「初心を忘れず」として、
練習場をこのガード下から移さないでいるのだ。

「わぁっ、ナオトだ、ナオトだ。ナオトォ〜ッ」
目聡く直人を見つけた娘が、嬉しそうに手を振って迎えてくれた。
オーナーの娘、ムエである。
ムエとはあちらの言葉で“対人格闘技”を意味する物騒な単語だ。
すなわち“ムエタイ”とは“タイの格闘技”という意味になる。
強い子に育つようにと父が願って付けた名前であった。

 かつて、ジムの手伝いをしていた直人の重要な仕事の一つに、ムエの子守があった。
他の日本人にはあまり慣れなかったムエも、不思議と直人にだけはよく懐いた。
一人っ子の直人にとってムエは妹も同然であり、今では家族同様の関係になっている。
そんな直人だけに、ムエの天真爛漫な笑顔の底に、憂いの感情が隠れているのを見逃さなかった。
「どうかしたの、ムエ?」
学校で何かあったのかと、直人は優しく先を促す。
ややあって、ムエが口を開いた。

「ナオト、お婿に行っちゃうの?」
スポーツ新聞でも読んだのか、ムエは既に格闘技大会のことを知っていた。
妹相手に嘘を言う気にもなれず、直人は正直に答える。
「うん、大会の優勝者とね。多分、相手はケイスになると思うけど」
「……ムエも。出るぅ」
ムエが珍しくだだをこねた。
「ダメだよ、ムエまでそんな危険な大会に出るなんて。絶対にダメだ」
直人は即座にはねつけた。
それでもムエは引き下がらない。

「やだ、やだ、やだ。出るったら、絶対出るのっ」
ムエは駄々っ子そのままに激しくかぶりを振る。
「直人はムエの大事な人だから、ムエも直人の大事な人になるぅっ」
そう泣き喚くムエの目には、一片の迷いも浮かんでいなかった。

2009/01/26 To be continued.....

 

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