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An wizard for 1000 years(仮)

第1回


1

問 男を寝取られて、十八年間嫉妬し続けたらどうなるの?
答 リアルな話するとたぶん音速を超える。

 人里離れた山奥の洞穴に一人の魔女が住んでいた。魔法がたくみであった。
まじないを唱えれば嵐が吹き荒れ、杖を一振りすれば石ころを黄金に変えた。
老いることも死ぬることもなかった。白い肌は少女のように瑞々しく、
腰ほどの赤い髪は艶やかに波打っていた。
けれども魔女は自身がいつ生まれて、なぜ魔法が使えるのかは知っていなかった。
数百年は生きたと思われるが、森閑な洞穴で孤独に暮らす魔女にとって、
時間というものは月の満ち欠けと草木の生育でしか計ることが出来なかった。
ただ過ぎ去る年月の中でおぼろげに残った記憶といえば、
彼女が唯一接した人間である母親の微かな思い出だけであった。
  棲家の洞穴から少し離れたところに切り立った崖があった。
下に広がる鬱蒼とした森林と、遠い山肌にぽつんとある小さな村がそこから見渡せた。
月の光を浴びに魔女がそこへ訪れると、時折、向こう側にぼんやりと明かりが灯っている。
魔女はそれを見るとわけもなく不愉快な心地がして、日課の儀式もそこそこに
逃げるように洞穴へ舞い戻る。
それが人恋しさであるともわからない。段々と薄らぐ母親の思い出の中で、
外の人間と接することを禁ぜられ、その約束を愚直に守り続けていた魔女が
孤独を意識できるか疑わしい。
  ある満月の晩、魔女が崖に行くと、村の方で赤い光が烈しく揺らめいて
星空に黒い煙が伸びていた。
いつのことか山火事で味わったのと同じ焼け焦げた臭いを生暖かい風に感じた。
魔女は洞穴へ引き返そうとしたが、物音を聞いて足を止めた。
いつも聞く獣の足音ではなくて衣擦れに近い音であった。
魔女が杖を構えて音の聞えるところに歩いて行くと、
全身煤だらけの女が怯える顔で魔女を見ていた。
女は、魔女が目の前まで近づいたとき、片手で抱かえる布の塊をいっそう強く胸に寄せ、
もう片手に握る十字架を額に付けてなにやら祈り始めた。
女が神の名を唱えたかと思うと、たちまち魔女は猛烈な吐き気を覚えた。
魔女は思わず杖を一振りして女を呪い殺した。

 魔女は胃袋の中身を地面にあらかた吐き出してしまうと、落ち着いて女の死体を調べ始めた。
母親以外で初めて見た人間である。魔法の効き目を疑うわけではないけれども、
どうも薄気味悪い心地がするので、杖の先で突付くという消極的な仕方であった。
死体の抱えているものに興味が湧き、杖に力を込めて腕を退かしてみると、
その布の塊が奇妙な声で鳴き始めた。春先の獣に似た高い鳴き声であった。
魔女は思わず後ずさりした。そうして小さく揺れたかと思うとはらりと布が捲れて、
包まれていた赤子の姿があらわになった。
魔女は恐る恐る近づいてその赤子を抱き上げてみた。
赤子は魔女と目が会うと、苦しげに歪めていた顔を和らげてキャッキャと小さく笑い始めた。
  魔女は赤子を洞窟に連れ帰った。彼女自身理由は解らないが、殺す気にはならなかった。
赤子を抱いていた女の死体は衣服や持ち物を剥ぎ取ってから魔法で燃やした。
死体の焼けたところには十字架だけが残った。
それに触れると手が焼け爛れて捨てようにも捨てられなかったのである。
  魔女は赤子をナナシと名付けた。名前を呼んでくれる人が居なくなって久しい彼女にとって
赤子の名を呼ぶことは楽しかった。
オムツやらなにやらは死体から剥ぎ取ったものと同じものを作ってやった。
はじめのうちはミルクばかり飲ませていたが、しばらくしてナナシがお腹を壊し始めたので、
咀嚼したパンを口移しで食べさせるようになった。
  一年の月日が過ぎた。
  立って歩けるようになったナナシが、岩の角に体をぶつけて擦り傷を作った。
魔女は洞穴に魔法をかけて岩壁を柔らかい蒲団に変えた。
ナナシが昼間を起きて過ごすので魔女もそれに合わせた。
月の晩の儀式を行うときは眠気を振り払うのに苦心した。
  さらに一年の月日が過ぎるとナナシは片言で話し始めた。
母さんと呼ばれて、魔女は胸の奥がほのかに温められるように感じた。
  ナナシとの時間はゆるやかに過ぎて行った。魔女にはこれまで生きてきた数百年が
ぼんやりした白昼夢であるとも思え、まるでナナシと出会ったときに目が覚めた心地であった。
ナナシの成長する姿は魔女に実感を与えた。ナナシの背丈が魔女に追いついたときには、
一緒に暮らすようになって十五年近い年月が過ぎていた。

 ちょうどその時期、至極自然的な、品の良い読者のために
言い換えればひどく動物的な作用が魔女とナナシの間に起こるけはいを見せた。
満月でない晩、二人はこれまでそうしてきたように一つの寝台で床に着いた。
しばらくして、魔女は寝ぼけ眼でナナシを見つめた。
ナナシも同じように開いた目で魔女を見ていた。
二人ともぼうっとした夢見心地で、血の巡りがどうもおかしいということに気が付いた。
ナナシが首をかしげて尋ねるが、魔女にも不調の理由は解らなかった。
そのままうとうとして朝になると、ナナシが起きたときに
奇怪なことが起きていたのを魔女に話した。
魔女はナナシが病気になってしまったと慌てふためいて、様々なまじないを試してみたが、
数日後にはまた例の奇怪な出来事がナナシに起きた。
魔女自身も胸の奥に感ずる温かさの質が多少荒々しいものに変化していた。魔女は無知であった。
けれども無知であるために、自然に背いた行為を行うことなしに、
いっそう自然の理に適った過程でそれは行われたのであった。
  行為の後も罪を犯したような気持ちは無かった。
無知な母子にとって快と徳は同様のものであった。
初めの数度は痛みのうちに過ぎて行った。魔女は夜の来るのを恐れた。
ナナシの労りだけが慰めであった。
互いに施行錯誤を重ねて痛みが薄れたころになると、
情愛を仕分けすることの得意な道徳屋たちが目の仇にする、例の烈しい感情が魔女を苦しめ始めた。
  魔女は毎日、ナナシを拾った所を一人で訪れて、そこに十字架が打ち捨てられているのを
確かめるようになった。
それからナナシに向かって、ずっといっしょに居てくれというような意味のことを
しきりに言うようにもなった。
  果たして魔女の不安は現実のものとなった。ある日、そこの十字架が無くなっていた。
地面は踏み荒らされていた。幾人もの人間の足跡と馬の蹄の跡であった。
あわてて魔女が洞穴に帰ると、頑強な体格の男たちに囲まれたナナシが、
その男たちと楽しげに話していた。

 男たちは魔女が戻って来たのに気付いた。そうしてナナシを庇い立てるように前に出て、
腰の剣を抜いた。
剣を向けながら、男たちは横暴な口ぶりで怒鳴るように何やら魔女に言い放ったが、
魔女は相手の言い終わるのを待たず杖を振りかざした。
一人の男が胸を掻き毟りながら絶命した。魔女は続いて杖を振りかぶろうとした。
けれどもいつの間にか背後に現れた男が、魔女の背に一太刀浴びせた。
魔女は倒れ、手にした杖が蹴り飛ばされた。
  男たちは各々に十字架を構えて祈祷文を唱え始めた。
焼け付く傷の痛みと神の名による苦しみで、魔女は恐ろしい呻き声を上げた。
死ぬるばかりの苦痛の中、覚束ない目を自身の手に落としてみれば、
肌が段々と褐色に変って、醜く皺になって行くところであった。
生きているのか死んでいるのか分からない心地で、魔女はナナシの名を呟いた。
  祈りは止まっていた。ナナシが魔女に覆いかぶさって泣き叫んでいた。
男たちは丁寧な口調で退いてくれるよう懇願したが、ナナシはやめてやめてと言うばかりで、
一向に退こうとはしなかった。
男たちは暫しの相談の後、魔女に二度と洞穴から出てくるなと言い残し、
ナナシを連れて立ち去った。
  それからというものの、ナナシを奪われて老婆のような姿にされた魔女は、
昼夜を泣いて暮らした。
風の音しかしない薄暗い洞穴にナナシの居ない事が悲しかった。傷の痛みは忘れていた。
ナナシとの思い出に浸ってはいっそう辛い思いで泣き伏した。
  一年が経った。傷は癒え、魔法も以前と同じように使えるようになっていた。
けれども老いた姿だけは元通りとはいかなかった。
醜い魔女は水晶玉で、世界のどこかに居るナナシの消息を探り始めた。
魔女がこうして外の世界を眺めるのは初めてであった。
覗き見た人間たちの生活の中には、美しいものもあれば醜いものもあった。
  それから三年が過ぎてから、ようやく魔女はナナシを見つけることが出来た。
  宮殿の玉座にナナシは坐っていた。
ナナシの脇には、魔女からナナシを奪ったあの男たちが控えていた。
男たちは長く仰仰しい名前でナナシを呼び、ナナシもまた憂鬱そうにその呼び名に答えていた。
今やナナシは若い王であった。

 魔女はナナシが悲嘆に暮れているのが嬉しかった。
ナナシはきらびやかな寝台のヴェールの奥で一人きりになると、魔女の名を呟いて涙を拭った。
自身のことを忘れずに、そのまま暮らしてほしいとさえ魔女は思った。
醜くなってしまった魔女は、二度とナナシの前に現れるわけにはいかなかったのである。
  魔女が残酷な喜びに浸るようになって数ヵ月後、宮殿で婚礼が執り行われた。
  若い王妃は美しい姿をしていたが、おどおどして気の利かなそうな顔つきで、
婚礼の最中ずっと怯える目であたりを見回していた。
その顔が以前の魔女に似ている風に見えたことは、
魔女の欲目であったか妬みであったかわからない。
婚礼の翌朝、ぼんやり顔の王妃にナナシが優しげに声をかけたのを見て魔女は歯軋りした。
  子が生まれた頃になると、初め王と王妃の間にあったわだかまりもすっかり無くなって、
見るからに睦まじく、絵に描いたように幸福な暮らしが魔女の水晶玉に映し出されていた。
  ある年、王国では地震や干ばつなどの天災が立て続けに起こり、大規模な飢饉となった。
その翌年も洪水などが続いて作物は真っ当に育たなかった。国民は皆飢え、王宮でさえ質素倹約し、
清貧の暮らしを送った。
さらに次の年、城下の国民たちが城門に押し寄せてパンを寄越せと叫んだ。
外国から輸入された自由主義やら社会主義やらが国民の間に蔓延したのであった。
王と王妃は子供らと幾人かの家臣を連れて出奔せざるを得なくなった。
  数年間に及んだまじないの代償に、魔女はよりいっそう老いさらばえていた。
思考も記憶も覚束なく、なぜこうまでしてあの王国を滅ぼしたのか、
なぜ苛まれる王と王妃とを見ると、背筋がぞわぞわする風変わりな心地よさと、
それと同時に微かな胸の痛みを感ずるのか理解できなかった。
  満月の晩、辺りが一望できる洞穴近くの崖に出て、遠い山肌の微かな明かりに目をやると、
魔女は思い出すともなく思い出した。
水晶玉を取り出して見てみれば、やはりナナシと彼の妻と子供らがその山肌の村で宿を取っている。
十八年前に生き別れ、その後他の女に寝取られたナナシが、
魔女の殺めた彼の母親と同様に逃げ延びて来たのであった。
箒に跨って地面を蹴り、それから数瞬で魔女は宿の前に降り立った。

 ひとりでに開いた扉から醜い姿の魔女が現れると、
ナナシは素早く家族の者たちの前に立って剣を抜いた。
敵意があるのを見て取った魔女は狂ったような笑い声を上げて、濡れた目蓋を拭わないまま、
怯えるナナシの妻と子供らに杖を向けた。
怒気を孕んだナナシの声に魔女は目を瞑った。悲しかった。魔女は自身の名前を小さく呟いてみた。
目を開けばナナシは呆然顔で、剣も取り落としていた。魔女は杖を振り降ろした。

 国境に程近い山肌に小さな村の跡がある。荒れ果てて、煉瓦と石畳しか残っていないような
村跡であるが、そこの外れに一軒の山小屋が建っている。
旅人が宿を求めて山小屋の扉を叩くと、温和な顔の老人が出迎えてくれる。
電気も通っていない土地に住むこの隠遁者について、いささか風変わりで奇妙な噂が
旅人たちの間で囁かれている。
ある旅人が若い頃にそこに泊まって、年を取ってからまたその山小屋に赴くと、
以前と全く同じ老人が出迎えたという話がある。
山小屋のあるところからは、遠い昔と変わりない山々と、
その辺り一帯でひときわ目立つ大きな崖が一望出来て、
そこには昔から恐ろしい魔女が住んでいるという伝承がある。
そうして山小屋に住む老人はその魔女に呪いをかけられて、ガリヴァ旅行記に登場する
不死の人間のように老いても永遠に生きねばならなくなってしまった。そんなばかげた話まである。
  身内は居ないのかと聞くと、その老人は指折り数えて、曾々孫までは覚えとるんですけれども、
と妙な事を言って旅人を煙に撒く。
満月の日に訪れる旅人は、深夜になると老人が山小屋を抜け出ることに気付くであろう。
物見高い旅人がこっそり後をつけると、老人は例の崖を眺めて立っている。
そうして大きな声で古風な女の名前を呼ぶ。
すると、瞬きする間もなく、向こう側から黒い影が飛んで来て老人の傍に下りる。
暗闇に目が慣れ、月明かりで照らし出されるのは、老人と同じくらい皺の刻まれた顔で、
杖を持って箒に跨り、黒いローブを着たいかにも御伽噺の魔女というような老婆である。
ここで旅人は自身の正気を疑る。
老婆が降り立ったのは、老人の叫び声が山彦となって帰って来るより早かった。
つまりは音速を超えた速度でもって飛んで来たことになる。ばかばかしい話である。

2008/08/23 完結

 

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