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老人と七誌(仮)

第1回    


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 私の若い頃には一面が焼け野原で、数軒のバラック小屋が立っているに過ぎなかったこの辺りも、
今となっては随分と様変わりしてしまった。
所狭しと近代風の建物が立ち並び、申し訳ばかりの街路樹が植えられている。
戦前の面影は忘れ去られてしまい、
そこに住む人間も、昔ではとても考えられなかった気質に変化している。
私のようにいつ死ぬかもしれん年寄りともなると、今時の若い者は、なんて言葉を吐く気力もない。
奇怪千万としか思えない若者たちの行動も、一昔前に流行った新人類という言葉が当を得て、
今と昔の日本人は別の人種であると思わざるを得ない。
私は八十近くの年寄りである。
耄碌のためにまともにものを考えられなくなっているのかもしれず、
私が若いころにも似たようなことがあったのかもわからない。
  午後の散歩をしていたときのことである。
私が杖を付いて歩いていると知り合いの青年とすれ違った。
その青年は私の家の隣に住む大学生で、七詩君という少しばかり変わった名前の青年である。
彼は同年代の女性と腕を組んで歩いていたが、私の顔を見た途端に立ち止まって、
照れくさそうに頭をかきながら挨拶した。
微笑ましいものである。私は会釈を返して歩き続けた。
すると、二十間ほど進んだ電信柱の影に、奇妙な女学生が立って居るのを見つけた。
その女学生は電信柱にぴったりと体を寄せて、
顔の半分だけをちょこなんと外にのぞかせていたため、もし歯軋りのような音が聞こえなかったら、
私は彼女がいるのを知らずに通り過ぎていたであろう。
それだけうまく身を隠していたのである。
女学生はその姿を私に見られても一向に気に留めず、私の歩いてきた方向に顔を向けて、
じっと何かを眺めていた。
私もそちらを向いて見たが、先ほどすれ違った七誌君たちが歩いているだけで、
そんなにも熱心に観察できるようなものは見受けられなかった。
不思議に思った私は年甲斐も無くその女学生に声をかけてみた。
「何を見ていらっしゃるんですか?」
「邪魔しないで下さい」
  顔を向けられずにそう云われた。随分熱心な少女である。
私は女学生の情熱に水を差さぬよう静かに立ち去った。

 ある日の病院帰りに、以前と同じく逢引中の七詩君と会った。
しかし七詩君が連れているのは前の女性ではなく、
前のときに私が見かけた電信柱の女学生であった。
私が顔を覚えていても、向こうは私の顔を知らない素振りを見せていた。
会話の際、七詩君は終止きまり悪そうにしていて、
去り際に両手を合わせて拝むような恰好をして見せた。
昔の道徳ではけしからんことであったろうが、私は何も言わず首を縦に振った。
戦後、進駐軍に持ち込まれた自由恋愛とはこういうものであるとも思う。
今更GHQ憎しと言っても意味は無い。
そんなことを考えながら私が歩き始めようとしたら、突然黒塗りの車が私の目の前で急停車した。
私は呆然として、危うく跳ねられそうであったことに気が付かずその場に立ち尽くしていた。
車の中から運転手と思わしきスーツ姿の中年男性が慌てた様子で飛び出して、
私にぺこぺこと頭を下げた。
しばらくすると居ても経っても居られなくなった態で、上品な服装をした少女が車を降りた。
少女はハンカチを破れんばかりに食いしばりながら、中年男性を怒鳴りつけたり、
地団駄を踏んだり、大仰な仕草で何かを嘆いたりしていた。
そのとき茫然自失であった私は、少女の言葉のなかで「七詩」と「あの女」という言葉だけを
おぼろげながら覚えている。
その二つがそれだけ多く使われていたためかもしれない。
私が我に返ったときには、黒塗りの車はどこかへ走り去り、
例の中年男性に持たされたのであろうか、分厚い封筒を握って立っていた。
何やらろくでもない物事に首を突っ込んでしまっている気がしたが、
曾孫が欲しがっていた玩具を買ってやれるので、私はこのことについて深く考えるのを止した。

 次に七詩君と会ったのは、庭で盆栽を弄っているときである。
正確に言えば、会ったというよりも、七詩君が私の家の庭に逃げ込んできたのである。
私は久々に現れた悪戯っ子を叱り付けようとしたが、
一喝する前に七詩君は素早く体をくの字に折り曲げて、
「少しだけでいいんで匿ってください」
  そう切羽詰った調子で言った。
そうしてこの手の話に関わり合いたくない私が肩に手を置いたのと同時に、
横合いから楽しげな女性の声が聞こえた。
「七詩、勝手に人のお家に入っちゃだめじゃない」
  呼ばれた当人は「ひい」と情けない声を発して、腰が抜けたのかその場にへたり込んでしまった。
私が視線をやると、器用に口元だけを歪めて笑っている妙齢の女性が立っていた。
むろん、私の見知らぬ女性である。
その女性の右手にはわが家で使っているのと同じ種類の万能包丁があった。
野菜がくっ付かなくてたいへん使い勝手の良い逸品であるが、用途によっては銃刀法違反である。
思案に投げ首した私は家内を呼ぶことにした。
「ばあさんや、客が来たんで茶を淹れてくれんかね」
  家内の説教は夕暮れ時になるまで続いた。
若いんだから心中は止しなさい、浮気は三回まで許してあげなさい、
包丁は粗末に使うものじゃありません、
あなたのそれみたいな小まめに研がれていない包丁じゃちゃんと切ることは出来ません、
あたしの若いときは云々、といった小言に若い男女は口ごもりながら答え、
私が盆栽の手入れを終えたころにはすっかり大人しくなっていた。
  七詩君に因んだ咄咄怪事にはうんざりしていたが、
その後もたびたび彼に関係する女性の奇行に悩まされた。
行き掛かり上、私が取り持たなければならない場合もあった。
  神社へ参拝に行くと、御神木の裏で、昼間から藁人形を打ち付けているOL風の女性を見つけた。
「よくも七詩を」をなんて呟いているのが聞こえ、私は彼女に歩み寄って、
「夜中じゃなければ効験はありませんよ」とだけ言って家に帰った。
参拝出来ず仕舞いである。
  夢遊病者のような美女にも遭遇した。
早朝、まだ日の昇らない時間にゴミを出しに行くと、白いパジャマ姿で七詩君の家の前に立ち、
ぶつぶつと一人問答を繰り返している美女がいた。
回覧板に書かれていた不審者というのは彼女のことであろう。

 曾孫にせがまれて雑貨屋へ行くと、十六、七くらいで瓜二つの顔をした二人組みの少女が、
玩具の手錠と、それから桃色の非常に短い玩具の警棒を吟味していた。
「これとかどうかな?」
「うん、これなら七詩も喜んでくれるかも」
なんてことを言うのが聞こえてきて、
いい年して警察ごっこをする七詩君の姿を想像して不愉快な気持ちになった。
  デジタル放送とやらがテレビ番組で喧しく言われ、
新しいテレビジョンを家内同伴で電気街へ買いに出かけたら、
「ですから違うんです。これは、その、七詩さんに頼まれて買ったんです」
  そんなことを言って職務質問の警察官に弁解している少女がいて、
見捨てるわけにもいかず、仕方無しに庇ってやらねばいけなかった。
  夜中にふと目が覚めて、頭が冴えて眠れないので縁側に出て月を眺めていると、
七詩君宅のベランダに怪しい三人組が忍び込むのを見つけた。
曾孫が日曜の朝に見ている番組に登場するような、
体全体をぴっちりと覆う服に身を包む女性たちであることが月明かりでわかった。
けれども私は面倒なので通報しなかった。
  時が経つのは早い。
戦後、私の生きる時代は瞬く間に移り変わり、周囲の風景や生活様式だけではなく、
人間性までも一変してしまった。
人間はもし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほど
必然的に気が違っているものである、と言った人が居る。
なるほどもっともである。
二人の愛は清かったで締められる逐電と心中譚が私の時代で言う純愛であったが、
今はもはや、性愛を前提とした乱痴気騒ぎか、
さもなければ四谷怪談紛いの気違い沙汰でなくては純愛とはみなされないようである。
怨嗟のまとと紙一重でなくては恋愛できないとは、男が生き難い時代になったものである。
今日もまた、隣の家から金切り声が聞こえてきた。
三人、四人、五人と、回数を重ねるごとに人数も増えて、
彼女らの諍いも段々と規模を大きくしている。
泥棒猫やら女狐やらと、不貞の輩を罵倒する言葉は今の時代でも変わりないようである。
「ところでばあさんや。飯はまだかね?」
「さっき食べたばかりでしょう」
  家内でさえ馬鹿なことを言う。まったく、嘆かわしい時代である。

2008/05/07 完結

 

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