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夢時雨(仮)

第1回    
 


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 このごろ私は今住んでいるアパートから引っ越そうかと考えている。
築四十年のあまり綺麗とはいえないアパートで、
世帯を持った当初から約二年間ずっとここに暮らしている。
稼ぎも安定し、そろそろ契約も一旦切れるので、もう少し上等の住まいに移り住むには
ちょうど良い頃合いであるけれども、私がここから引っ越したいと思うのは
別の個人的な理由も絡んでいる。
  私たち夫婦の部屋は七号室で、廊下側から見て右側に六号室があり、
左側の東に面した角部屋が八号室である。
私たちがここに越してきたときの六号室には大学生らしき青年が住んでいたが、
去年の四月あたりに引っ越してしまい、今は住人の無い空き部屋となっている。
八号室は、私たちが来るよりも以前から暮らしている田中さんという熟年夫妻の部屋である。
そうして、一年程前から私はその田中さん夫妻に悩まされてきた。

 粗品を持って挨拶回りに出かけた際、新入居者の私たちを田中さん夫妻は快く迎えてくれた。
細君は私たちに部屋に上がることを勧め、私たちもその申し出を辞退せずにお茶を御馳走になった。
良人も細君も慇懃に私たちをもてなした。
二人は姿勢を正した丁寧なお辞儀をしてかえってこちらが恐縮したくらいであった。
元来こうした人付き合いが苦手な私は始終下手な相槌ばかり打っていたが、
家内の葉子は引っ込み事案な彼女にしては珍しく積極的に細君に話しかけていた。
細君はなかなかの話し好きのようで、
葉子に向かって問わず語りに自分たち夫婦のあらましを話して聞かせ、
時々、私と同じく「どうも」や「ええ」としか喋らない良人にも声をかけて同意を求めていた。
聞くところによれば田中さん夫妻は五年前からこのアパートに暮らしているらしい。
以前は都市部の小さな一軒家で暮らしていたのが、良人が定年で仕事を止して、
子供たちも独立したため、余生をのんびり過ごそうとこの片田舎のアパートに
夫婦だけで移り住んだそうである。
なるほど、窓を見れば小さな集落のほか田園ばかりが広がっているこの地方は
都会の喧騒から逃れるには打って付けである。
年配の二人暮しは色々と不便もありそうであるけれども、四方山話の最中、
私はそうしたことについて何も尋ねなかったし、
田中さん夫妻の方でも余計な愚痴を言おうとはしなかった。
そうした慎ましさと、挨拶回りで回った部屋の中で
彼らが一番親身に私たちと接してくれたことから、私は田中さん夫妻に好印象を抱いた。
ゴミの分別や町内会の決まりごとなどもそれとなくにおわせるだけに留めて、
「何かあったら頼って下さいね」と言い添えてくれたことは、
新婚で右も左も判らない私たちにとって大変ありがたい申し出であった。

 しばらく経って、私は良人のほうの田中さんと将棋仇の間柄になった。
彼が重松さんという名前であると知ったのはそのころである。
重松さんの細君の名は聞く機会が無かったので私は未だに知っていない。
だから私は二人を呼ぶときに良人のほうを「重松さん」、
細君のほうを「田中さん」と呼ぶようにしている。葉子も私と同じ呼び方である。
また田中さん夫妻が私たちを呼ぶ場合には、葉子だけが名前で呼ばれ、
私は一家の主人として苗字で呼ばれている。
つまり、私たち夫婦と田中さん夫妻では呼び名が男女逆である。
このことについて初め私は夫婦それぞれの力関係をあらわしているかもしれないと考えたが、
最近ではそうも自惚れていられなくなった。
葉子の尻に敷かれ始めていると感じるようになったからである。
  重松さんは、老人会の会合などに出かけるほかは、いつも部屋で読書をするか、
でなければアパートの庭の花壇と植木をいじっている。
将棋が好きだが、あまり強くはない。散歩へもそんなに行きたがらないようである。
休日には、重松さんの細君と葉子が連れ立って買い物へ出かけ、
残された私と重松さんは私の部屋で将棋を差すのが慣わしである。
だいたいにおいて勝負は引き分けに終る。しかし早差しで差すとなると重松さんが圧勝する。
長考する場合、重松さんには悪手を打ったときに考えながら顎の下を掻く癖があり、
私はいつもそこに付け入って勝利を収めるからである。
女二人が買い物から帰って、自室に荷物を置いた細君が重松さんを呼びに来た際には、
重松さんは胡坐を掻いていた足を正座にして、手のひらを畳に置き、しかつめらしい調子で、
「では、愚妻が戻って参りましたので、そろそろお暇させて頂きます。お邪魔しました」
と挨拶し、それに釣られて私もあわてて正座をして、
「あ、はい。どうも、こちらこそ」と的外れな言葉を返す。
そんな光景に葉子と重松さんの細君は噴き出し、
真面目くさった私たち男は毎回きまり悪い思いをするのであった。
  田中さん夫妻と付き合うようになってから葉子の家事の腕前が上達した。
掃除洗濯は勿論、結婚前はカレーくらいしかまともに作れなかった料理においても
目覚しい成長を遂げた。
彼女が言うには、田中さんに弟子入りしたお陰らしい。
私が外に出ている間、葉子はときどき重松さんの細君から主婦の手練手管を
指南してもらっているそうである。
得意げに語る妻の様子を見て、しかし私はあまりいい気持ちがしなかった

 晩酌のとき葉子の作った二杯酢の肴をつつきながら、葉子にそれとなく切り出してみた。
「世話になりっ放しは良くない。そのうちちゃんとお礼をしないといけないな」
「お盆で実家に戻ったときに、お土産を見繕ってくるのはどうかしら?」
「ああ、それでいいだろう。だがな、向こうさんにあまり迷惑をかけないようにしておくれよ」
「ご迷惑なんかかけてません。あたし、この間田中さんに誉められたくらいよ?」
「そういうことじゃないんだ。なんというか、ニュースで近所付き合い云々あるじゃないか。
あれみたくお互いに深く立ち入りすぎるのはよろしくない」
「あなた、もしかしてさみしい?」
「ばか。心配なんだ」
  私が嫉妬していると思ったのか、葉子はくすくす笑いを漏らし、
私がそっぽを向いて黙っていると米を研ぎに流しへ立って行った。
上機嫌に鼻歌なんぞ鳴らしつつ、普段より小気味良い研ぎ音を出したために、
私はなおさら不愉快な気持ちになった。
  重松さんの細君が大変なやきもち焼きであると知ったのは、
その年の夏、葉子の妹、つまり私の義理の妹にあたる由美ちゃんが大学の夏休みを利用して
私たちのアパートへ泊まりがけで遊びに来るようになった時期で、その初日は雨が降っていた。
由美ちゃんは葉子と違って気の強い女性で、ヒステリーとまでは言えないけれども、
お天気屋のうえ熱し易く冷め難い性質を持っている。
彼女は私たちの結婚に最後の最後まで反対し、しまいには結納の席で泣き喚いて
親戚一同に気まずい思いをさせたが、それ以来落ち着いて、
今では以前同様に私と遠慮ない仲である。
  雨の中葉子だけを買出しに行かせて私が由美ちゃんの相手をしていると、
玄関の方から重松さんの細君のものと思わしき声が響いてきた。
このアパートは、室内で発せられた音はあまり通らないが、
廊下での話し声などはよく響く作りである。
問答の様子から省みて、なにやら揉め事が起こっているようであった。

「まあそういうな。この大雨に、出かけられるもんじゃない。
出かけるにしても、それ相当の理由がなくちゃ、なんだかみっともないじゃないか」
「なにが、みっともないんです。今日に限って、なに言ってるんです。
飲み屋でもパチンコでも行けばいいでしょう。
一家の主人であるものが、どこに出かけようと、いつ出かけようと、
よそ様の知ったことじゃありません」
「それなら、出かけさえすればいいんだろう。
獏連女めが、パチンコ止せって言ったのは手前じゃねえか」
  私と由美ちゃんは話すのを止めて老夫婦の言い争いを聞いていた。
  そんなことがあった後、重松さんはたびたび細君に
家から追い出されるような目に遭わされていた。きまって由美ちゃんが遊びに来たときである。
重松さんの細君は、可能な限り重松さんと由美ちゃんが会う機会を作らせないよう気を配っていた。
葉子も由美ちゃんが居るときにはなるべく彼女を連れ出して外へ出かけ、
重松さんの細君の希望に叶うよう行動していた。
  ある時そのことについて私が尋ねると葉子は、
「健気じゃありませんか。田中さんはやきもち焼いていらっしゃるのよ」
「いい加減、世帯崩れしないというのも考え物だぞ」
「あなたみたいに、秋風を吹かすよりはいいですよ」
  甘ったるい話が苦手な私は「風呂に入る」とだけ言い捨てて立ち上がった。
  体を拭きながら、私の入浴中に葉子が籠に入れておいた着替えに目をやると、
いつもの下着にちょっとした変化があるのを見つけた。
広げて見ると私の名前があった。葉子は良くない性質を帯び始めてきたらしい。
「おい。子供じゃあるまいし、いい年してこれはないんじゃないか」
「けれど、なかなか上手に縫えてるでしょう。
田中さんのおかげで、縫い取りも綺麗に出来るようになったんです」
「俺のパンツで遊ぶな」
「このごろ、しょっちゅう由美が遊びに来るじゃないですか。
あの娘が間違えるといけませんからね」
  眠る私の横で真夜中に黙々と刺繍を続ける妻の姿を想像して、私は薄気味悪い心地がした。
そうして携帯電話に残っている由美ちゃんとのメールの履歴を消去した。
ロックはちゃんとかかっていた。風呂に入ったばかりだというのに結構な冷や汗を掻いた。

2008/04/23 To be continued.....

 

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