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全部欲しい!

第1回 第2回 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話
 


1

 僕の目の前で一組の男女が楽しそうに歩いていた。

 どこにでもあるような高校生カップルの、ありふれた光景…。
  それは僕にはあまり見たくない光景だった。

 二人とも知っているから。

 いや、女子生徒の方は知っている以上の存在だ。
  彼女の名前は立木里沙、
  僕の幼なじみで…
  初恋の相手だ。

 昔は何時も一緒にいて、それが当たり前だと思っていた相手、
  何の疑問も抱かずに、二人で一つだと思えていた相手…。

 中学に上がった頃から微妙にスレ違うようになり、
今はもう一緒にいる事も話す事もなくなった相手。

 それについて、僕は悲しいとか辛いとかの感情は不思議と浮かばない。
  彼女と僕、本庄光彦とは住む世界が違う様に思えるから。

 それでも僕が今の、目の前の光景を見たくないのは、彼女が立木里沙だからだろう。

 今時の女子高生なら当たり前なのかも知れないけど、
  それでも、初恋の相手が、何時も違う男と寄り添い歩いている姿を見るのは、
嫌な思いしか感じない。

 里沙の大きめな声と相手の顔から、二人が恋人同士としての会話を楽しみ、
今日の予定を計画している事が容易に推測できる。

 つい、先日は違う相手と同じようなやり取りをしていたのに。

 何故か縮まる事も開く事もない、僕と二人の一定の距離、
  それがとてつもない苦痛を僕にもたらしていた。

 でもその苦痛は、もっとも気の合う友人が救ってくれた。

「本庄君、今、帰り?」
  控え目で優しい声が僕の耳に入る。

 声の人は、大人しい感じに少し地味な雰囲気がある、
  里沙とは正反対な、
  同じ部活という事で知り合い、友人になった相手、松下香織さんだ。

「あ……うん、松下さんも帰るところ?」 
「え、あ、そう!今日は部活もないから!」
  松下さんの存在に、少しだけびっくりして答えた僕に、松下さんが少しはにかみながら答えた。

 たまに俯きながら照れた様に言う彼女には、可憐さがあって、
  あまり目立つ存在ではないけど、それでも彼女の事を知っている男子生徒からは、
高い人気があるのも良く分かる。

「それなら!」
「い、一緒に駅まで行こう!」
「うん、そうだね…、一緒に行こう」
  妙に緊張している感じがする松下さんに、僕はなるべく普通に答えた。

 今の目の前の光景は辛いけど、松下さんと一緒にいる時間は楽しいものだから、
そんな事を忘れさせてくれる気がしたから。

 事実、松下さんと一緒に駅まで歩く時間は、楽しい時間だった。

 前を歩く二人との距離が変わる事なく、
里沙と相手の男子生徒とのやり取りが耳に入ってきたけど、
  そんな事実を忘れさせてくれる時間だった。

 そのせいか、僕もついつい口が軽くなって、自分の昔話なんかを喋りすぎた気もするけど…。

 それでも僕にとっては楽しい時間だった。

 気の合う相手との会話は、意味がなくても有意義だ。

 松下さんの事を好きかどうかは、僕自身にも良く分からないし、
彼女が僕の事をどう考えているかも良く分からないけど、
  それでも僕は、彼女との時間を大切にしていきたいと、心からそう思えた。

 楽しい時間は過ぎるのが早い。

 駅に着いてしまえば、反対方向の電車を使う、僕と松下さんは、ここでお別れになる。

 「松下さん、また明日ね」
  「あ…、う、うん」
  別れの言葉を言った僕に対して、松下さんの答えが淋しそうに思えたのは、
僕の自意識過剰だと思う。

「本庄君…」
  何か言いたげに、松下さんが僕の顔を見上げてくる。

「どうしたの?」
「う、うぅん、何でもない!」
  聞き返した僕に、松下さんが首を大きく振って答える。

「松下さん…?」
「あ…、そうだ!明日の課題、忘れちゅダメだよ!」
  松下さんの様子を気にして言った僕の言葉を振り払う様に言うと、
  松下さんは
  「で…電車の時間だから、また明日ね!」
  とだけ言って、慌ててホームに駆けて行った。

 一人残された僕は、
  「松下さんには松下さんの用事があるんだろうな」
  と自分を納得させて、自分の使うホームへと歩き出した。

 この時に僕は気付くべきだったのかもしれない。
  松下さんが去り際に残した、
  「今は私だけだよ、ね?」
  という一言に。

 そして、僕と里沙との距離が一切変わらなかった事実を。

 もっとも、当時の僕がそれに気付いたとしても、
  僕がとれる選択肢はなかったように思えるけど。

2

 僕が朝に家を出る時間は、はっきりと言って決まっていない。

 学校の用事、部活や日直なんかがあれば、当然に早く出るし、
  それ以外でも朝の支度、食事や洗濯などで遅く出る事もある。

 一人暮しではないけと、両親は離婚していて、父親は仕事で大変なのだから、
僕がやらなければいけないという、当たり前の話だけど。

 そんな僕の朝にも、絶対に変わらない事が一つだけある。

 里沙、
  僕の幼なじみである、この少女の存在だ。

 彼女が絶対に僕の前を歩いているのだ。

 それは時に友人同士とだったり、彼氏と思える様な男の人と一緒だったり、
  僕には関係のない理由によるものなのだろうけど、
  それでも毎朝、絶対に彼女の姿が目に入る。

 別に里沙の事をストーカーしているつもりはないし、里沙の時間に合わせてるつもりもない。

 それでも、絶対に彼女は僕の前を歩いていた。

 それこそ、僕が怪我をして、病院に行く為に遅刻した時でさえ。

 何か声をかけるべきなのかもしれない。

 でも、それは出来なかった。

 既に僕は、彼女と何を話したら良いか、分からなくなっているのだから。

 その日の僕は、家を出る時間がかなり遅くなった。

 珍しく父さんが家にいたからだ。

 ここしばらくで父さんが家にいるのは久し振りだから、話しておきたい事もあって、
  気付けば遅刻する様な時間になっていたのだ。

 何時もとは違う突発的な理由で遅くなった朝、
  それでも、その日も気付けば、里沙が前を歩いていた。

 何時も通りに、気付けば僕の前を歩いていた。

 自意識過剰、そう言われるかも知れないけど、
  考えてみれば、子供の頃から、朝に里沙を見ない日はない。

 一緒に登校してた頃から今に至るまで。

 とはいえ、僕から里沙に何か声をかけたりはしない。
  簡単な挨拶さえも途絶えているのだから、どうにも出来ない事だ。

 その日も、一人で歩いていた里沙に対して、僕は何も声をかける事も出来ず、
  ただ、彼女の後ろを歩いていた。

 決して広がる事も縮まる事もない距離を置いて。

 乗り込んだ電車では、流石に僕も、里沙とは違う、少しでも離れている車両を選んだ。
  その気はないつもりでも、里沙の跡を着けているような感覚は、
  自分の中にある、里沙への未練を意識させられるようで、嫌だったからだ。

 変に憂鬱な気分のまま、僕は電車に揺られる。

 毎朝、僕の目の前を里沙が歩いている事実、
  この事実が、既に別の世界の人間だと考えているはずの相手、里沙に対して、
僕が抱いている未練が、僕の想像以上に大きい、
  そう思えてきてしまうからだ。

 (情けないなあ)
  自分で自分に溜め息が出る。
  男らしくない自分に対して。

 でもそんな憂鬱な気分も、駅に着いた時には吹き飛んだ。

 改札を出たそこに松下さんがいたからだ。

 しかも、
  「本庄君と一緒に登校したかったから…」
  なんて、少し照れた様に言われれば、憂鬱なんか感じてられない。

 自分の遅刻を考えずに言ってくれた松下さんの一言は、僕に元気をくれるものだ。

 一番に気の合う友人、
  だからこそ、何かを察してくれた、
  そう思い上がるのに充分な嬉しさだ。

 互いに挨拶をしたその後、僕と松下さんは駅で話し込み、それから学校へと向かった。

 その途中でも、僕と松下さんはいろいろと話しをしたりしながら、
  遅刻だという事も忘れて、ゆっくりと学校に向かっていた。

 だから僕は、気付く事はなかった。

 駅を出た、その後からも、それまでと変わらぬ距離で、ずっと里沙が前を歩いていた事を。

3

 放課後、僕と松下さんは部活に出ていた。

 部活と言ったところでたいしたことなく、
  文学部とは名ばかりの、快適な部室で各自が好きな小説を持ち寄って、
適当に雑談しているだけだが。

 僕と松下さんは隣同士の席に座り、それぞれに持参した本を読み始める。

 松下さんは最近に嵌まり出したという、恋愛サスペンスを読み耽っている。
  なんでも、その中の登場人物の一人が、とても感情移入出来るそうだ。
  僕はその本を読んだ事はないけど、松下さんが感情移入している人物は、
  幼なじみであるメインヒロインの当て馬としてのヒロイン、らしい。

 メインヒロインではない、サブ的なヒロインに感情移入出来る松下さんが、
僕の好きなところだったりするのは、内緒の話しだ。

 松下さんが言うには、そのヒロインは恐らく殺されるだろう、との話しだ。
  それでも、松下さんは、そのヒロインに感情移入しているらしい。

 理由を尋ねた時は、曖昧に笑ってごまかされたけど、
  それでも僕は、その後に松下さんが言った一言、
  「私はあんな馬鹿はやらない」
  と、強い決意を表明する言葉は聞き逃さなかった。

 誰が好き、そんな噂のない松下さんだけど、
  やっぱり恋はしているみたいだ。

 僕としては1番の親友であり、心許せる相手である松下さんの恋愛を、全力で応援したい。

 もっとも、彼女が僕に、その手の話しを相談してきてくれた事はないけど。

「本庄、本庄!聞いたか、聞いたか?」
  隣の松下さんと、ゆっくりと過ごしていた時間を、
まるで邪魔する様に一人の男が駆け込んで来た。
  佐藤圭吾、
  僕と同学年で同じ文学部、口数と早耳が長所の、ライター志望の奴だ。

「何だよ、それだけ言われても分からないよ」
  少し、いや、かなりのうっとおしさを感じながら答える僕、
  でも、佐藤は特に気にした様子もなく、
「その様子じゃ、知らねえだろうな!」
  と、自信満々に言葉を続ける。

「何だよ、何か知ったなら、早く言ってくれよ」
  正直にどうでもいい。
  佐藤の待つ情報は、校内ではか重要性の高いものなのかも知れないが、
  僕には、無意味なものが多い。

「聞いて、聞いて驚くなよ!」
  あまりの僕の言動に、腹でも立てたのか、佐藤の語気が力を増す。
  それでも、”はいはい”と言う感じで答える僕に対して、
  佐藤が自信満々に声を上げる。
「あの!立木里沙に新たなる新恋人!」

「井川良人誕生だ!」
  ためを置いてから、どうだと言わんばかりに言う佐藤。
  よっぽど自分の早耳に自信があるのか、
  言葉を止めて僕の反応を待っているようだ。

 でも、残念ながら僕としては、昨日に里沙と歩いていた相手が、井川だったと分かっただけで、
  それ以上には何も思わない。
「ふーん…」
  自然と淡泊になる僕の答え、
  そんな僕の答えに納得がいかないのか、佐藤の声が強さを増す。

「お前は何も思わないのか!」
「我が藤堂高校でも、トップランクに位置するだろう、立木里沙の恋愛情報を!」
「別に」
  熱い瞳で熱弁する佐藤に、白けた声で答えるしかない僕。

 残念ながら、何も思わない。
  昔ならいざ知らず、今の僕と里沙は、違う世界に住んでいるのだから。

「立木里沙に興味がなかったとしても、だ!」
  興味を持て、そう言わんばかりに、佐藤が僕に喰らいついてきた。
「立木の性遍歴には興味が湧くだろう!」
  それが当然だとばかりに言う佐藤に、僕は首を左右に振る。
「はあー…」
  話しに乗ってこない僕に呆れでもしたのか、それとも、佐藤が溜め息を吐く。

「普通なら、だいたいの奴がこの話しに、乗ってくるんだけどな…」
「そうか?」
  呆れながら言う佐藤に、適当に返事を返す。

「それもそうだろう、だって、あの立木里沙だぜ?」
「前に付き合ってたのは、サッカー部のキャプテン、三橋さんだし、
その前は秀才、伊藤君、バンドやってる今井とも付き合ってたって話しもあるし…」
  指を折り数える様にして、里沙の元カレ達を上げる佐藤、

 その事は僕も知っている、
  他にも何人かいる事も。

 それでも、何故かあまり良い気分はしない。

 そんな僕の気持ちに気付く事もなく、佐藤は言葉を続ける。

「ただのヤリマンじゃねえ、トップ狙いのヤリマン女、こんな女がどんな結末を辿るか…」
「佐藤!」
  饒舌になってきた佐藤に対して、
  僕は思わず、怒鳴り声を上げてしまった。

「ど…どうした?」
  普段とは違う僕の声に驚いたのか、佐藤が目を丸くしながら、僕の顔を見て聞いてくる。

「え、いや、その…」
  正直、答える言葉が分からない。

 何と言ったら良いか、悩む僕に対して、佐藤が顔をニヤケさせて、
「ははぁ、お前、立木のコト、好きなんだ?」
  と聞いてきた。

 そういう訳ではない。
  でも、簡単には否定出来ない、
  そんな複雑な思いが僕にはある。
  だから、
「いや、それはそんなんじゃなくて…、なんて言うか…」
  としどろもどろになってしまった。

 そんな僕の態度を見ていた佐藤が、
「そうか、お前も立木の事が好きなのか!」
  と、分かった様に言う。
「ち…ちが…」
「隠すな、隠すな!あれだけの女なんだから、当たりま…」
  愉快そうに言葉を紡ぐ佐藤を遮ったのは僕ではなかった。

「そんなんじゃありません!」
  力強く他人に反論を許さない、そんな一言を言い放ったのは、
  それまで沈黙を保っていた、
  松下さんだった。

 それまでの松下さんは、僕と佐藤との会話に加わるどころか、
まるで興味すら感じていない様子に思えただけに、
  二人とも動きを止めてしまった。

「ま…松下さん…?」
「本庄君は、立木さんと昔に幼なじみだっただけなんです!」
  何か言いかけた佐藤に向かって、松下さんが勢い良く言葉を投げる。

 佐藤は完全に松下さんの勢いに飲まれてしまっているようで、
「あ…そ…、そうなの!」
  と頷くだけだ。

 そういう僕も、松下さんの勢いに飲まれており、
  松下さんの言葉に感じた違和感を口に出来ず、
「そうですよね、本庄君!」
  との松下さんの問いに、
「う…う、ん…」
  と、微妙に、いや、かなり、腰の引けた答えしか返せなかったが。

 その後、松下さんは再び読んでいた本に視線を戻し、
  その後に佐藤が何を言おうが、何の反応も示す事はなかった。

「松下さんって、なんなんだ?」
  目を丸くして、なるべくちいさな声で聞いてくる佐藤に、僕は何も答えようがなかった。

 僕も、松下さんの気持ちなんて分からないから。

 でも、松下さんの気持ち、
  いや、松下さんが僕に対する想いの強さは、
  すぐに思い知らされる事になる。

4

 彼女、立木里沙が”その事”に気付いたのは、何時の事だろう。

 初めて彼の事を思って自慰をした日では、遅すぎる。

 彼の両親が離婚し、彼が一時的に孤独となったその日よりも、前からである事は確実だ。
彼の両親の離婚の原因は、彼女が”作り上げた”のだから。

 いつ頃から里沙が、彼にそんな感情を抱き始めたのかは、里沙自身にも定かではない。

 ただ一つ言える事があるとすれば、
里沙はある種の運命を信じている。

 自分が彼と出会えた事、
それが物心つく前から共に過ごす、”幼なじみ”という存在な事。

 過去の全てに自分がおり、今の全てにも自分が主役になり、それが未来永劫に続いていく…。

 彼女は、それが運命だ と信じて疑わない。

 運命が与えてくれた、自分と永遠に一つになるべくした存在、
それが本庄光彦だ、と。

 里沙が本庄と、満足に口も聞かなくなったのは、中学2年の時からだ。

 理由ははっきりとしている。
里沙が、本庄を無視し始めたからだ。

 何故、里沙がそんな事をし始めたのか、説明するのは容易だ。

 里沙は、自分が無視した時の本庄の表情、
戸惑いの目、憂いを帯びた眉間、何か言いたそうな口元、
その姿を見る度、
その全てが、自分が引き起こした結果によるものだと思うと、
彼女自身がどうしようもないほどに、
暗く、それでいて満ち足りた、快楽に襲われてしまったからだ。

 だからこそ、なのかもしれない。

 里沙は、その行動をエスカレートさせていった。

 最初は、本庄以外の男子生徒と、本庄に見せ付ける為に、親しく話始める、それだけだった。

 でも、その時に感じてしまった快楽、
自分の行動が、彼の全てを決めているという、濁り湿った情欲、
それが里沙の行動に、歯止めを奪った。

 親しくから親密に、そして恋人同士に見えるよう、
里沙はその行動を、本庄に見える範囲で、
強くしていく。

 かと言って、里沙の気持ちは本庄一人に向けられている事に代わりはない。

 事実、里沙は誰とも付き合った事はないし、
本庄の見ているところ以外で、彼女が相手の男子生徒と親しく接する事はない。

 何より、里沙は本庄と同じ高校に通う為、自分の学力より1ランク以上レベルの高い、
今の高校に合格しているのだから。

 ある日の放課後、とある喫茶店、
里沙はそこで考え事に耽っていた。

 一人で来ている訳ではない。
帰り道を一緒に歩いた男子生徒がいる事にはいるのだが、
既にその相手に対して意識を向ける事はない。

 里沙が彼に興味を失った、
訳ではない。
元から、本庄を嫉妬させる為だけの存在であり、
それ以上の価値など見出だしていなかったのだから。

「なあ里沙、俺の話、聞いてるか?」
相手が里沙に、真剣な顔で問い掛ける。

 里沙は特に返事を返さない。
既に里沙は相手に関係なく、溜め息をついたり頬を綻ばせたり眉間に皺を寄せたり、
そうして、自分の考えに没頭していた。

 もはや、里沙にとっては、相手が発する言葉は、ただの雑音にしか過ぎなくなっていた。

「俺の話、聞いてくれよ…」
懇願するような相手の言葉に、里沙は、
「うーん…」
と軽く首を捻った。

 今、里沙は悩んでいる。
無論、本庄光彦の事で、だ。

”なんで光彦は、私に何も言ってこないのかなあ”
その事に、真剣に頭を悩ませていた。

 傍から見れば滑稽な悩みに思えるかも知れない。
が、里沙にとっては切実な、それでいて理解出来ない悩みだ。

 何せ、里沙から見れば、常に本庄にチャンスを与えているのだから。

 それは、登校時だったり放課後だったり、休みの日さえも、そうだ。
常に本庄の前を歩く事を、意識づけているハズだからだ。

”前の時にやり過ぎちゃったかな…?”
小さな後悔を思い出して、溜め息をつく。

 それは中学2年の時の事、
里沙が初めて本庄を無視したその日から数日、
本庄光彦という人間が存在しないものとして、里沙は行動した。

 理由は簡単だ。
そうする事によって見れた本庄の気持ち、
自分に存在をアピールしようとしてとった、行動の一つ一つ、
それが里沙に例えようのない快楽を与えてしまったからだ。

”私からも動かなきゃ…”
そこまで考えた里沙の思考は、
「聞けよ、俺の話!」
という怒鳴り声で中断された。

 里沙にとっては、この事態は寝耳に水、そんな感覚だ。
何で自分が怒鳴られているのかは勿論、
相手の男が誰なのかさえも、里沙はには分からないほどだったのだから。

「おまえ、俺のコト、ナめてんだろ!」
青筋を立てて、そんな表現が似合う感じで怒鳴り出した相手に、里沙が思い出した事がある。

”そういえば、誰かを誘って帰り道を歩いてたっけ”
と。
それだけは思い出す事が出来た。

「おまえから誘っといて、何だよ、この態度!」
周囲を気にせずに、怒鳴り声を上げて、席を立ち上がる相手、
里沙はそんな事、お構いなしに、
”確かコイツは、池田、井川、井上、猪股、そんな名前だったっけ”
と、相手の名前を思い出そうとしていた。

「おまえさ、男のコト、ナめてんだろ?!」
判で押した、そう思えるような一言に、
里沙は思わず笑いそうになった。
良く言われる一言、だから。

「教えてヤんよ、男の怖さを…!」
本気、そう思える顔で言う相手に、
里沙は特に動じた様子も見せず、
「ふーん」
と、見下した言い方をすると、
「で、何をするの?」
と、からかう、相手を激情させる一言を言う。

「おまえに男の…」
「そういえば、今日はアンタと一緒にいるって、ダチに言ったんだよねえ…」
何かを言いかけた相手の言葉を遮るように、里沙は言葉を発する。

「もし、私になんかあったら…」
そこで小さく言葉を切り、相手の顔を見る。
「アンタが真っ先に疑われんだろうねえ…」
そう言った時、相手の顔はそれまでと見る陰のないほどに、青ざめていた。

「そんなの…」
「関係ないって、言える立場、じゃないよね」
里沙の一言に、相手は言葉を無くす。

 里沙は、常にある程度の立場にいる人間を使うようにしてきた。
それは、今回のような事が起きた時に、扱い易いからだ。

「おま…!」
「何かしてもイイよ」
平然と里沙が言い放つ。
そして、付け加える。
「その時はアンタも終わりなんだけど、ね!」
淀みなく、その言葉を言い切る。

「クソ!」
そう言いながら、相手が席を離れた。
だから、里沙は聞いた。
「どこ行くの?」
「帰るんだよ!」
吐き捨てるような一言に、里沙は思わず微笑を隠せない。

 自分の思い通りに事が運んだから。

 そこで里沙はもう一押しする。
「帰るなら、伝票よろしく!」
業と挑発するような一言を。

「ちっ!」
相手が、回りに聞こえるほどの大きな舌打ちと共に、相手が一言放つ。
「覚えてろ!」
と。

 その一言は、里沙が言って欲しかった一言だ。

 だから、里沙はすぐに答えられた。
「覚えとくよ」
「私に何か遭ったら、犯人はアンタだって…」
「その事を、ね!」

 里沙のそんな言葉に、相手は既に何も答える事が出来ず、早足でその私に場を後にしていった。

「バカみたい」
立ち去った相手を見ながら、里沙が小さく呟く。

 何度も繰り返して行為、
里沙に恐れはない。

「光彦も、あそこまで単純に動けばイイのに」
小さく溜め息をつきながら言った言葉。

 里沙からしてみれば、
本庄光彦ほど、自分の思惑通りに動いてくれない人間もいない。

「ハァー…」
大きな溜め息と共に、里沙は思う。

”私からも動いてヤらなきゃダメか”
と。
”とりあえずは、明日の朝に、光彦の前を一人で歩いてやるか”
とも。

 里沙の根本的な発想、
それは、本庄光彦、それは自分だけの物であり、
自分がいるからこその存在だという考え。

 この考えは、里沙にとって絶対であり、
変わる事のない真実でもあった。

 だが、その日の翌日にこの考えは覆される。

 そして、覆された後、
彼女は思い知らされる事になる。

 自分がどれだけ、本庄光彦を愛しているか、を。
自分にとっての本庄光彦が、どれだけ必要な存在か、を。

 既に気付くのが遅い、その事実に。

5

 運命、
  そんな言葉を、私は信じません。

 その運命とやらが、どれだけ私に都合が良かろうと悪かろうと、
  私にとっては、何の意味ももたらさない言葉に過ぎません。

 私には今、好きな人がいます。
  単純に好きだ、と、
  そう思えるけど、そうは言えない人、
  そう言う人が私にはいます。

 私は本当の意味で、私は彼を愛しています。

 例え彼が、既に過去の人となった幼なじみの事を想っていたとしても、
  例え、運命が彼と幼なじみに向いていたしても、
  私は、彼を諦めたりするつもりはありません。

 彼は、私が愛した唯一の人だから。

 彼と、彼が想っていた相手が幼なじみだった現実、
  これだけは私にも変える事はできません。

 それでも、私には分かります。

 私が彼を、絶対に手に入れる事が出来る、
  そんな現実を。

 それは、私が運命に導かれたから思えた、
  そんな理由じゃありません。

 私は自分の意思、自分の本心で、
  彼を想い、感じ続けているからです。

 彼を想う心だけは誰にも負けない、彼の親以上に、
  既に亡霊となった、あの”幼なじみ”以上に、
  私は彼を愛し、愛し続けます。

 何しろ、私の全てが彼の物だと、そう理解しているのですから。

 だから、彼の全ては私の物、です。

 放課後、僕は松下さんと一緒に下校した。

 部活がある時に関して言えば、日常の出来事だけど、
  僕としては、松下さんと一緒に帰るこの時間は、
  嫌な事をいろいろと忘れさせてくれる、最良の時間だ。

 でも、そんな時間は、絶対に邪魔をされるように、出来てるのかも知れない。

 この時がそうだ。

 僕が松下さんといる時間を、まるで邪魔するかのように、
「よぉ、本じょー!今帰りかあ?」
  と、声をかけてきたクラスメートがいた。

 声をかけてきたのは、宮田奈美という、ただの級友だ。

「帰るの遅いねえ、もう5時半を過ぎてるよ?」
  本人にその気があるかどうかは知らないが、まるで嘲るように言う宮田、
  正直、腹が立つ。
  だから、僕の口調も、
「部活があったんだから、当たり前だろ!」
  と、微妙に強い口調になってしまう。

 もっとも、僕のそんな気持ちは、宮田には伝わる事がないようで、
「ふーん、部活…ねえ?」
  好奇心丸出しで、僕と松下さんの顔を見比べてきた。

 僕はともかく、松下さんまで変な目で見られるのは辛い。

 だから業と、
「宮田!」
  そんな大声を張り上げた。

 「な…な、に?」
  都合よく、宮田が僕の方に気を向けてくれた。
  ここは手早く畳み込まなければいけない。

「宮田こそ、何をやってたんだ?」
  僕のそんな質問に、宮田は少しだけ、困ったような顔を見せた気がする。
  それを見て、僕は言葉を続ける。
「また、男漁りか?」
  普段なら、こんな質問は絶対にしない。

 例え宮田が、何を言おうと、何も感じそうにない女だと知っていても、
  そこにも礼儀は存在するから。

 でも今は事態が違う。
  まずは、松下さんを守らなきゃイケない。

 だから僕は、そんな言葉を普通に言う事が出来た。

 宮田が何を言い返してくるか、
  僕は少しだけ身構えた。

 コイツは、一を言えば十を、二を言えば五百を返してくる女だからだ。

 でも、この時ばかりは違った。
「ゴメンゴメン、少しだけ言い過ぎたみたい」
  そう、素直に謝ってきたのだ。

 そうなると、今度は僕の方が言葉に詰まる。

 元から宮田に悪感情を抱いていた訳ではない。
  少し馬鹿なだけで、宮田は良い奴だ。

 松下さんにさえ、変な目を向けなければ、
  特に何を言う筋合いもない。
  それで僕は言い淀んだ。

「いや、別に…謝らなくても…」
「アッハハ!、ちょーっとだけ、怒らせちゃったみたいだからね!」
  僕の言い分に、宮田が笑い声を上げながら言う。

 気のせいか、その言葉は、僕には向けられていないような感じだけど。

「まあ、心配しなさんなって!」
  僕の肩を叩きながら言う宮田、
  目線は何故か松下に向けられている。

 ”まだ、松下さんに何か言うつもりか?”
  そう思った僕が、一言言ってやろうか、としたその前に、
  宮田が僕の両肩を叩きながら、
「心配しなさんな、ってね!」
  と、良く分からない事を言い出した。

 コイツは何を言いたいのか、
  朗らかに笑う宮田を見ながら、疑問を感じる。
  少し目を横にやれば、松下さんが、疑心暗鬼の目でこちらを見ている。

 訳が分からない。

 悩む僕に関係なく、宮田が大声で言い出した。
「頑張りな!あたしは人のモンを奪う気もナンもないから!」
  そう言いながら、大きく僕の背を叩くと、
「じゃあね!」
  とばかりに、その場を去っていった。

 最後まで良く分からない奴だ。

 言ってる台詞といい、
  松下さんとは初対面のハズなのに、最後に松下さんに変な目配せをしたり…、

 僕には理解出来ない生物なのかもしれない。

「凄い人、だったね?」
  宮田が去った後、松下さんが小さく口を開いた。

 「うん、まあ、悪い奴じゃないんだけどね」
  僕は少しだけ、宮田のフォローを入れて答える。
  もっとも、
「ただ、宮田は勢いだけの奴だけどね」
  と、付け加える事も忘れない。

 僕の答えが何か間違っていたのか、
  松下さんの顔は、僕から見ても分かりやすい程に沈んでいる。

 そして松下さんが、僕に聞いて来た。
「今の人とは、どんな関係なの?」

 どんな関係、
  そう聞かれても、僕は答えにつまる。
「親しいクラスメート…かな?」
  そうとしか答えようがない。

「ただのクラスメート…」
  納得いかないのか、松下さんが呟く。

 そこに僕は頷くしかない。
  それ以外に答えようがないのだから。

「でも、呼び捨て…だったよね?」
「えっ…、そう、だね」
  松下さんの突然の一言に、僕は妙に腰が引けた答えを返す。

 何が言いたいのか、分からずにいた僕に、
  松下さんが言葉を続ける。
「私に対しては、一度も呼び捨てで呼んだ事はないよね」

 そう言われればそうだ。
  松下さんは松下さんだから松下さんだ。

 それは別に遠い存在と感じているからでなく、
  むしろ、もっとも呼吸が合う相手だと思う、
  それでもやっぱり、松下さんは松下さんだ。

「うーん…」
  僕は少し考える。
  松下さんと宮田に対する呼び方の違いを。
  宮田は少しだけ、里沙に似た要素がある。
  ひょっとしたら、それが馴れ馴れしい態度を取らせている理由なのかも知れない、
  そんな無意味な事が頭を過ぎっていたその時、
「こんな事を今、言うのは違うかも知れないけど…」
  という一言が僕の耳に入った。

 そして次の言葉、
「私は、本庄君の事が大好きだから!」
  の一言が、僕の思考回路を、どうしようもない程に混乱させた。

6

 言いました。
  ついに言う事が出来ました。

 ずっと胸に秘めていた、”好き”の一言を。

 今日、その一言を言えたのには、理由があります。

 彼が私以外の人間と、親しくお喋りしているところを、2回も見せられてしまったから。

 私は、彼以外の人とお喋りしません。
  なのに、彼は私以外の人とお喋りします。

 それが、私に拷問のような苦しみを与えてくるのです。

 最初に話していたのは男の人でした。

 空気の読めない人って、本当にいるんですね。

 私と本庄君との世界に土足で入ってきたばかりでなく、
  本庄君に、嫌な女の事を思い出させます。
  この男と話をするのは嫌だったけど、私はこの男を叱り付けてしまいました。

 次に本庄君が話したのは、女でした。

 頭の中身が入っていなさそうな、軽い女です。

 その眼も濁っています。
  私と本庄君は、恋人同士なのではなく、
  一つなのですから。
  こんな女と話をしていたら、本庄君まで腐ってしまいそうです。

 もう私が耐える事は出来ません。

 だから言いました。

 不安はありません。
  自信があります。

 本庄君も私の気持ちと同じだと。

 そして、正真正銘、本当の二人だけの世界を作っていけると。

 僕は身動きがとれなくなった。

 松下さんは、僕に対して”大好き”と言った。
  その言葉の意味が僕には分からない。
  一人の友人として、とも思うし、それ以上の意味も含まれているよう感じも覚える…。

 混乱する僕を見据えるように、松下さんが言葉を続ける。
「好き、そんな言葉は私の気持ちには浅い言葉になるかな、だから…」
「愛しています。」
  真っすぐに、僕の眼を見つめながら、真剣な表情で言う松下さん。

 僕は何も答える事が出来ない。
  この時の僕は、多分固まっていたと思う。

 松下さんの事は間違いなく好きだ。
  その好きは、親友に対する好きで…、
  でも、松下さんが僕に対する好きは、違う意味での好きだから…、
  松下さんの好きも、僕と同じ意味、そう思いたかったけど、
  だとしたら、愛してるなんて言葉は使わない訳で…。

 思考は混乱し、まとめようがない。

 そんな僕に、松下さんが言う。
「私は本庄君の全部が欲しいから、私の気持ちを知って欲しくて…」
  途中から、何を言っているのか分からない程にかすれた松下さんの言葉、
  それが僕に、松下さんの気持ちの強さを、思い知らさせた。

 僕は何も出来ずにいた。

 松下さんの気持ちに、どう答えて良いのか、分からなかったから。

 松下さんは、もっとも気の合う友人で、でも、それ以上には考えた事はないし…、
  混乱を深める思考、
  言葉がない。

「私、本庄君の事…、ただの友人でなんて終わりたくないから!」
  僕の考えを読み取ったかのように、松下さんが叫んだ。

 それに僕は、
「えっ…?」
  という、間抜けな返事が出ただけだ。

 少しの沈黙、
  そこで僕は何かを言おうとした。
  でも、それは出来なかった。
  何か柔らかい物で、僕の口は塞がれてしまったから。

 それが、松下さんの唇だと気付くのには、少しだけ時間が必要だった。

「えっ、えっ…何を…」
  松下さんを強引に引き離した僕は、上手く回らない舌を懸命に動かし、
  辛うじてそんな言葉を吐いた。

「知って欲しかったから…」
  小さく、でもしっかりと松下さんが言う。
「私の言葉が本気だって事に」
  真摯に僕の眼を見つめての強い言葉。

 それに対して、情けない事に僕は何も答える事が出来ない。
  頷く事さえ出来ず、ただ呆然としていた。

 松下さんが女性だという、当たり前の事実を思い知っただけだった。

 だから僕は気付く事が出来なかった。

 この時の僕らを見つめる、強い視線があった事に。

 「ふざけるな!」
  その場面を目撃してしまった里沙が、吐き出すように呟く。

 「ふざけるなふざけるふざけるなふざけるなふざけるなふざけるななふざけるなふざけるな!」
  何度となく、憎悪と憤怒を込めて繰り返す。

 里沙は憎む。
「あの女は一体、何のつもりだ!」
「何で人の物に手を出しているんだ!」

 里沙は怒る。
「光彦は一体、何をしているんだ!」
「あんたは、アタシがいてこその存在じゃないのか!」

 強い意思と鋭さを持った視線で、里沙は二人を睨み付ける。

 それでも里沙は、それ以上に動こうとしない。

 動くべきは、本庄光彦だと考えている。

 今すぐに自分の存在に気付き、自分に土下座する為に、走って来るべきだと、考えている。

 里沙自身、自分が今、嫉妬している現実に気付いている。
  気付いているからこそ、そう考える事で、動こうとしないのは、彼女のプライドからだろう。

「何をやってんの、里沙?」
「え、えっえ…!」
  唐突に、そんな風に後ろからかけられた声に、里沙は思わず慌てた。

 振り返れば、そこには親友である宮田奈美が、笑みを浮かべながら、立っていた。

「べ…別に、なにもしてないよ…」
「アンタこそ、何やってんのよ!」
  自分の気持ちを隠す為、里沙が懸命に声を上げる。
  奈美は、そんな里沙の気持ちに気付いているのか、
「私も、何もしてないよ」
  と、クスクスと笑いながら言う。

 正直なところ、里沙は、この宮田奈美という友人が苦手だ。
  今がそうであるように、どこと無く嘲笑しているような笑みを何時も浮かべているだけでなく、
  勘が鋭く、人の気持ちを見抜いたような発言をする事が多いから。
  直接に口にした事はないが、奈美はおそらく、里沙の本庄光彦に対する感情にも気付いている。
  少なくても、里沙はそう考える。

 ”やり切れない相手だな”
  溜め息混じりに里沙は思う。
  おそらく奈美は、自分が何をしていたのか、分かっているのだろう。
  その上で聞いてきたのだろうから。

「まあ、里沙が何を考えているかは知らないけど…」
  笑いを止め、少しだけ真面目な顔で奈美が言う。
  そして里沙の後ろ、すなわち本庄達がいる場所を見ながら、
「欲しい物があるなら積極的に動かないと、手に入らないよ?」
  と、まるで囁くように里沙に語る。

「ア…アタシは別に欲しい物なんて…」
「隠さない隠さない」
  反論の声を上げた里沙に、奈美が薄ら笑いを浮かべながら言う。
「もっと積極的に動きな?じゃないと逃げられちゃうよ」
  からかっている様にも、親身になってくれている様にも感じる一言に、里沙は言葉を失う。

 「積極的に…か」
  それは里沙がそれまでに考えた事のない言葉、
  光彦が動くべきだ、そう考えてきたのだから。

「そうそう、私も協力してあげるから!」
「協力って…?」
  自身ありげに言う奈美に、里沙が聞く。

「知らなかった?私、本庄とは結構仲イイんだよ」
  笑みを浮かべたまま、片目を閉じて言う奈美、
「だから、何か分かったら、すぐに里沙に連絡するからね!」
  とそれだけを言うと、用事があるから、とその場を後にした。

「動かないとダメか」
  一人残された里沙が呟く。
  本庄と奈美が関係ある事を、里沙は今まで知らなかった。
  あの女の事も、知ってはいたが、軽く考えていた事実もある。

「やっぱり、ヤらなきゃダメか…」
  本庄がいた場所を睨みながら呟く。
  既にその場に二人の姿は見えなくなっていた。

 里沙は考える。
  本庄光彦にとって、自分、立木里沙がいれば、それだけで良いのではないか、
  他者の存在など、まるで必要ないのではない。
  本庄光彦は自分の為だけの存在なのだから。
  そろそろ、その真実を分からせる必要がある。

 方法は幾つかある。
  実行すれば、本庄光彦は確実に自分だけの物となる。
  そのうちの、どの手段を持って、この真実を分からせるか、まだ里沙は決めてはいない。

「少しだけ待つかな」
  里沙はそう呟いた。

 どの手段を使うにせよ、その後の光彦が、日常生活を送れなくなるのは間違いがない。
  だから、里沙も少しだけ仏心を感じていた。

 ”奈美からの話を聞いてからでも遅くはならないだろうし…”
  里沙は、そう甘く考えていた。

「欲しい物があるなら、積極的に動かないと、ね」
  里沙から大きく距離を取った場所、
  そこで宮田奈美が呟く。

 その視線は、里沙のいる方、
  更に言えば、本庄がいた方角へと、向けられていた。

7

 松下さんの突然の告白、
  それは僕にとって、正しく晴天の霹靂だった。

 それは僕が、松下さんを、友人以上に見ていない、
  そうするように努力してきたからだ。

 友人以上の関係になってしまえば、松下さんとの付き合いが終わる、
  それが僕には怖かったから。

「変わらないから!」
  別れ際に松下さんが言った言葉、
「私の本庄君…」
「光彦君に対する想いはずっと変わらないから!」
  その言葉がやけに耳朶に残った。

 それに対して、僕は何も言えない。

 人の心なんてたやすく変わる。

 僕の両親がそうだったし、
  僕と里沙がそうなのだから。

 昔、中学2年のあの頃までは、僕にとっての里沙は掛け替えのない、大事な女性だった。
  それが今は見る影もないのだ。

 人の心の明日に絶対はない、
  その考えに変わりはない、
  それでも、それを言う事が出来なかったのは、
  松下さんから強い意思を感じたから。

 信念、
  そう言っても良い物を感じさせる雰囲気に、
  僕は何も言えなかった。

 松下さんと別れた後の帰り道は、至極違和感を感じる物だった。

 自分の思考が混乱しているせいか、
  目の前の光景からは、何かが欠けている、そんな印象を僕に与えた。

 違和感の感じる光景を見ながら、僕は家に帰る。

 そして考える。
  松下さんの告白を。

 いつまでも親友でいたかった相手からの告白…。

 この告白に、僕がどんな答えを返そうと、僕と松下さんとの関係は絶対に変わる。
  少なくても、今までのような、同性異性を考える必要のない、
気楽な親友に戻る事は難しくなるのは間違いない。

「松下さんは女性なんだよなあ…」
  微かに唇に残った松下さんの感触、
  その時に嗅いだ松下さんの女性としての香り、
  それを感じながら、思わずそんな呟きが口から漏れた。

「はあ…」
  小さな溜め息が出た。

 異性を感じる事が、松下さんとの関係の終わりを、僕に考えさせてしまうから。

 ネガティブな思考から抜け出せないまま、
何もする気が起きずにベットに横になっていると、携帯が鳴った。

 気分転換になれば、
  それだけのつもりで電話に出ると、
  その相手は、宮田だった。

「本庄ー、ヒマしてる?」
  何時も通りの、明るいとも軽いとも言えるような宮田の声が、僕の耳に入って来た。

「何だ、宮田か…」
  電話相手が宮田だと分かると、僕の口調は自然といい加減になる。
  嫌っている訳でもないが、別段と何も思わない相手だからかも知れない。

「せっかく人が、ヒマだから電話してあげたったってのに、そんな言い方ないでしょー」
  僕の言い方に、抗議の声を上げる宮田だけど、
  その顔には、何時もの悪意なき嘲笑が浮かんでいるだろうから、気にする事はない。

「何か用か?」
「別にー、ヒマだったけえ!」
  わざとぶっきらぼうに質問した僕に、宮田は特に動じた様子も感じさせずに答える。
  正直にやりづらい相手だと思う。

「はあー」
「何?何か悩み事?悩み事ならアタシが相談に乗って上げるよ!」
  小さな溜め息が出た僕に、しゃしゃり出るように突っ込んできた宮田。

 コイツに悩み事を相談する気は僕にはないし、
  それに今、抱えているなやみは、安易に人に喋るような類いのものでもない。

 だから僕は、
「別に悩みなんてない」
  と言い切ろうとしたけど、
  その言葉は、宮田の
「恋愛の悩み?そうでしょー」
  という、得意げに言った言葉に遮られた。

 コイツの言った事が事実だっただけに、返答に窮した。
  とにかく、否定の言葉を言わないといけないと思い、
「そんなんじゃねえ!」
  と逆切れ気味に答えたのだが、
  宮田にはまるで通用しなかったらしく、逆に、
「親しい相手にでも告白されて、どう答えたら良いかって悩んでる?」
  と、的確に今の悩みを突いてきた。

 コイツはあの時の情景を見ていたのだろうか、
  そう思いもしたが、すぐに否定した。
  俺と別れた後、コイツは真っすぐに駅へと向かって歩いていったのだから。

 あの時の事を、宮田が見ていたにしろ、ただ勘だけで言っているにしろ、
ここはきちんと否定しなければいけない。

 松下さんにどう答えるかはまだ決めていないし、
何とか親友としてやっていく方法を考えているのだから。

 だが、僕が口を開こうとする前に、宮田が先に口を開いた。

「もしそうなら…」
「親友として、なんてくだらない考えは捨てた方がいいよ」
  また、的確に人の考えを言い当ててきた。
「あ…うっ…」
  何か言おうと思った僕の口から漏れたのは、
  こんな情けない言葉だけだ。

「やっぱりねえ」
  僕の言葉に、宮田がそんな一言を言いながら笑い声が上げる。
  そして言葉を続けた。

「アンタが、何を悩んでんだかは知らないけど…」
  そう前置きした上で、
「オトモダチ、ならいくらでも関係が続くなんて、ただの甘えだよ?」
  と言った一言は、何時もは感じさせない、真面目さを感じさせる一言だった。

「えっ…?」
  自分の考え、逃げ道を的確に塞がれた気がした僕は、思わずそう聞き返した。

「だからさあ」
  普段の悪意なき嘲笑で宮田が答える。
「ヒトとヒトとの関係なんて、二人で努力していかないとイケないってコト!」

 宮田が言ったのは、何の変哲もない、至極当たり前の事実、
  その当たり前が僕に重くのしかかる。

”松下さんは勇気をだした…、なら僕は…”
  思わずそんな考えが頭を過ぎった。

 「まっ、アタシが言えるのは、そんだけだから!」
  宮田は明るい声でそう言うと、
「後は一人で考えな」
  とばかりに電話を切った。

 宮田が電話を切った後、僕はしばらく携帯を握りしめたまま、松下さんに対する返事を考えていた。

 既に答えは出ている。

 後はどれだけ真剣に応えられるか、だけだ。

 

2

「脚本通り…かな?」
  本庄との電話を切った宮田が一人呟く。
「これなら、里沙に言うコトは嘘にはならないだろう、ね」
  その顔に浮かんでいるのは、普段の嘲笑的な笑い顔ではなく、
  満ち足りた喜びと、どこかに暗さを感じさせる笑いだ。

 宮田は里沙に電話する為、携帯を操作する。

 里沙にある事実を伝える為に。

3
  翌朝、僕は妙に晴れ晴れとした気持ちで学校へと向かっていた。

 松下さんに何て応えるか、
  それが決まったからだ。

 僕の用意した応え、
  それは僕と松下さんとの関係を変えさせるモノとなるだろう。

 でも、僕に不安はなかった。
  松下さんとなら、一緒に頑張って行けると、努力していけると、
  そんな確信が抱けていたから。

 昨日に感じた違和感は、今日も感じている。

 何かが欠けている風景のままだったけど、
それを特に気にする事もなく、僕は何時もの通学路を進む。

 そして、歩道橋の下り階段に差し掛かった時、
  誰かに背中を押された。

 その後の事は良く覚えていない。

 思い出せるのは、スローモーションの様に一段一段と、自分が階段を転げ落ちていった事、
  その後、見知らぬ人達の騒ぎ声が、他人事の様に響いていた事、

 そんな騒ぎの中、一つだけ僕に囁きかけてきた言葉、
「コレが始まりだからね」
「二人だけの全てがココから始まるから」
  そんな言葉を最後に、僕は意識を失った。

8

『絶対安静』
  そう付けられた病室の中、
  そこには、点滴と呼吸機を付けて、昏々と眠り続ける一人の男子と、
  その男子の手を握り、ずっと見つめ続ける一人の女子の姿があった。

 男子の名前は本庄光彦、
  不幸な゛事故゛により、今も意識不明の状態をさ迷っている。
  医者が言うには、熱さえ引けば自然と意識も回復するだろ、との事だが、
事故から五日が経った今も、熱が下がる様子はなく、ただ眠り続けていた。

 そしてそんな本庄の傍で、付きっきりで看病している女子の名は立木里沙、
  事故の第一発見者であり、救急車や色々と手配した女子、
  そして、仕事に忙殺される本庄の父親に代わり、本庄に面会が出来る唯一の人物…。

「光彦…」
  眠る本庄の手を握りながら、今まで何度繰り返したか分からない呟きを里沙が漏らす。
  そんな時の里沙の顔には、例えようのない程に至福な笑顔が浮かんでいた。

 里沙は、本庄の今の状態に対して、何の心配もしていない。

 何故なら、自分がこうして生きているから。
  自分が生きているのならば、自分の為の存在である本庄光彦に、何かがあるワケがない。
  だから里沙は本庄の容態について、一切の心配をしていない。

 私がいて光彦がいる
  私がいるから光彦が生きる。
  彼女のそんな考えは、彼女の中では揺るぎようのない真実だ。

「光彦」
  そう呼びながら、里沙はその顔を綻ばせる。
  今の里沙は無条件に喜びのみを感じていた。

 「こんな風に二人だけになるのって、何年ぶりだっけ…?」
  眠る光彦に、里沙は小さな声で問い掛ける。

 小学生の頃、いや中学に上がったばかりの頃までは、良く二人っきりになった。
  それはもう随分と昔の事だったような気もするし、最近の事だったような気もする。
  自分がいて光彦がいて、それだけで世界が完結していた頃の思い出。

「光彦…」
  里沙は優しい微笑みを浮かべながら、光彦の顔を撫でる。

 今までの間、少しだけ狂っていた運命の歯車、
  それが再び正しく動き出そうとしている。
  そう思うと、里沙は喜びを抑え切れない。

 運命は自分と光彦を祝福している、と。

 この状況を作り上げた人間も、その運命には逆らえないのだから。

 時間が流れる。
  里沙と光彦の二人だけの病室に流れる二人だけの時間。
  それは里沙に大いなる幸福感と、快感にも似た満足感を与えていた。

 だが、そんな時間というものは長続きしないものだ。

 二人を邪魔するかのようなノック音とともに、一人の看護師が病室に入ってきた。

「何か用ですか?」
  低く冷たい、殺意すら思わせるような声が、里沙から発せられる。
  里沙から見れば、今の時間を邪魔する人間は全て敵に見えるのだろう。

「あ…あの…、面会の方が見えられてるんですけど…」
  里沙に圧倒されてか、看護師が脅えたような声を出す。
  それでも里沙は躊躇なく相手を攻める。

「面会?」
「全部お断りして下さいって言ってありますよね?」
「わざわざ来る必要ないですよ」
  口調の丁寧さだけを保っているだけの里沙の言葉、
  看護師はそんな里沙に恐怖感を覚えながらも、
「あ…あの…、同じ学校の女の子で…」
  と、辛うじて自分が伝えるべき用件切り出し、
「入院してから何度も来ている子なんで…」
  と、何とか言葉を紡ぐ。

「同じ学校の…、何度も来ている女の子…」
  そう言うと里沙は、その相手に対して思案を巡らせる。
  それが誰なのか、二人ばかり思い当たる相手がいる。
  そのうちの一人はまだ行動を起こす事はないだろう。
  それを考えれば、来ている相手はもう一人の方となるだろう。

 そこまで思考を巡らせた里沙は、
「私が直接会って、相手の人に話をしてきますよ」
  と、笑顔で看護師に答えた。

 その相手とも何時かはしっかりと話を付けない相手であるし、
  もう一人の相手に知らしめる為の前哨戦だと思えば、ここは動くべきだろう、そう里沙は考える。
  何せもう一人の方は、里沙が苦手とする人物なのだから。

「すぐに行きますから、案内して下さい」
  里沙はそう言うと、口許に小さな笑みを浮かべた。

 今来ている相手は、裏表の分かりやすい、楽な相手、
  その程度の相手に勝てなければ、もう一人の相手には勝てない。
  そう考える里沙が浮かべているのは、余裕の笑み、
  里沙は、今から話を付けに行こうとしている相手の名前すら、
苗字に松が付いていた事以上に覚えていないのだから。

「分かって貰いに行きますか」
  そう言うと里沙は、自分と光彦との運命を知らない女の元へと、足を進めた。

2008/07/09 To be continued.....

 

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