Side 草太
目覚ましがなる2分前に起きられた。目覚ましが仕事をする前にきっちり止めてやる。
いつもと変わり映えのしない部屋。いつもと同じ朝。
ただ、何もかもが今までと同じってわけじゃない。トントン、と居間に下りていくと、
少し前には見ることのなかった風景が広がっている。
綺麗な食卓。4人分の食器のうち、僕の分には既にご飯とお汁が盛ってある。完璧なタイミング。
父さんも母さんもまだ泥のように眠っているので、これは二人の仕業じゃない。
二人ともそんな気を使う人じゃないし、そもそも朝はほとんど僕の当番だ。
これをしてくれたのが誰なのかはわかってる。そんなことしなくてもいいんだけどな…。
「おはよう、お兄ちゃん。」
台所にはやっぱり、父さんのエプロン(父さん用の熊さんプリントを気に入ったらしい)
をつけた蝶子ちゃんがいた。
「はい、お兄ちゃん。お弁当。」
朝練に参加するため、早く出発する僕に、
ピンクの包みに入った弁当箱を手渡してくれる蝶子ちゃん。
「お弁当まで作ってくれたの!?蝶子ちゃん、そこまでして早起きしなくていいんだよ。
今日は加賀崎とパン食おうと思ってたしさ。蝶子ちゃんはもっと寝てても」
「ご、ごめんなさい!!余計なことした!?」
と、妹はいつの間にか半泣きになってしまった。
ああ、またやってしまった。最近この問答をずっと繰り返してる。
「そんなことしなくていいよ」「ごめんね余計なことして」「余計なんかじゃないんだ」
もうこれで何回目だろう。いい加減、僕は学ぶべきなんだ。
かなりの間入院していたからか、病的に白い肌と、それと対照的に真っ黒で艶やかな髪の色。
蝶子ちゃんが泣いているところは、綺麗だった。笑顔よりもかわいいかもしれない。
しかし、兄としてそんなことを思ってる場合じゃない。
「ううん、余計なんかじゃない。ありがとう。」
笑って、彼女の頭を撫でてやる。
蝶子ちゃんが、顔を上げて微笑む。ああ、やっぱり笑顔もかわいいや。
「良かった。いってらっしゃい、お兄ちゃん。」
「桐野、あんた最近朝練に良く出るようになったねー。」
「うん、朝の家事から開放されてね。時間ができたんだ。」
僕らは学校までの道を二人で走っていた。僕は陸上部で、彼女は剣道部。
「ガジュマルは朝練欠かさないんだよね。えらいな。」
「そりゃ一年生だもん、色々やらなきゃいけないことも多いさー。
あんたが不真面目なんだよ?まぁ両親共働きで当番制で仕方ないのは分かるんだけどさ。」
僕と併走している彼女の本名は、牙集丸 達子(がじゅうまる たつこ)。
…というのは冗談で、本名は栗本果樹。
かじゅ、という読みの名前からあだ名がガジュマルってわけだ。
栗本さんちは果樹園を営んでる。だから子供が果樹、ってのはなんとも安直だが、
ぴったりだとは思う。
なんというか、大木的な意味で。
ふと、ガジュマルの性格が蝶子ちゃんみたいだったら、どんななんだろうと考えてしまった。
この安定感たっぷりの体と、もう冬だというのに日焼けが抜けない顔色で
「ごめんねお兄ちゃん…。」
「ふあはははははははははははは!!!!!!!」
「な、なんだなんだ!?どうしたよ桐野!?」
僕の突然の笑い声で、ガジュマルをびっくりさせてしまったようだ。
驚いた顔でこちらを見ている。
「いやね、メイド服姿のガジュマルを想像しちゃって。絶望的に似合わないんだこれが。」
返事の代わりに、ガジュマルは走りながら器用に竹刀袋を解いて、左手で持つ。
「りやああああああああああああああ!!!!!」
烈風の気合と共に繰り出される突き。
しかし僕はそれをあっさりと避ける。というか、間合いから逃れる。
こう来ることは分かってたから。
「貴様はいつもいつもいつもいつもーーー!!!」
「あはは、ごめーん。」
言いながら、ギアをトップに変える。スタミナ消費を考えない、全力疾走。
「まちやがれえええええええええ!!!!」
ガジュマルも鬼の形相で追いかけてきた。さぁ、朝の練習はここからだ。
「あー、なんとか引き離した、か。」
それでも今日は危なかった。ちょっと彼女の足を舐めすぎていたかもしれない。
全力疾走してガジュマルを引き離して、スピード落としてガジュマルが追いついてくるのを待って、
繰り出される技を寸でで避けきり、またスピードを全開にして、を何回か繰り返す。
スリルとサスペンスに溢れた、最高のインターバルトレーニング。ガジュマルと過ごす最高の朝だ。
多分、彼女も僕のトレーニングに付き合ってやってくれてるのだろう。
じゃないと毎回毎回同じこと繰り返す説明がつかない。
友人に恵まれた幸せを感じながら、僕は校門をくぐった。
「お前の今日の弁当は、いつもより豪華だな。」
「あ、やっぱり分かる?ほら、前に言っただろ。新しく妹になった子が作ってくれたんだ。」
「それはまた、羨ましい話だな。」
加賀崎は、しかし大して羨ましがってるとは見えない顔で自分のパンを貪っている。
こいつはいつもこんな風に落ち着きすぎているので、表情の変化はあまり読み取れない。
僕は、蝶子ちゃんのことについて、友達には包み隠さず話すようにしている。
隠すようなことじゃないし、蝶子ちゃんと会った時に「親をなくしたかわいそうな子」
という像だけであの子を見るような人たちとは、友達になっていない。
加賀崎の言うとおり、その弁当は豪華だった。
僕は昨日の余りものを弁当に詰めてくるのが常なので、肉じゃがが箱いっぱい詰め込まれてるとか、
ロールキャベツと肉汁とご飯が渾然一体になっているとか、まぁ「貧相」ではないけれど、
お弁当というカテゴリに入れていいのかどうか悩むシロモノになることが多い。
「僕もちょっとびっくりしてるよ。朝からこんなの作ってくれるんだもんね。」
ご飯どころか綺麗に握られたおむすびに玉子焼き、
丁寧にもタコさんにしてあるウィンナーに彩りのアスパラ。
その他色々なおかずがきっちり並べられてて、それはお弁当の見本という感じだった。
「気を使わなくていい、って言ってるんだけどね。蝶子ちゃん、自分からやりたいみたいで。」
ちょっと困るくらいなんだ、って言おうとしていたところで、隣にガジュマルが近づいてきていた。
もしや朝の決着をここに持ち込むつもりか?とちょっと身構えたが、矛先はそこではなかった。
「なんだそれはっ!世界にそんな妹がいるわけがないっ!!許されねぇありえねぇ!!
妹ってのはもっと殺伐としたもんなんだよ!
コナンを見るか関口博を見るかで血で血を洗う抗争が起き、
朝目が覚めれば油断した方のツラにハイキックが飛んでいく!!そういうのが妹と姉の関係だろ!!」
「いや、俺兄だから。姉じゃないから。」
他にも突っ込むべきところはたくさんあるような気もするが、
ガジュマルのペースにくっついていくと落ち着いて飯も食えないので、申し訳程度に突っ込む。
「おかしい、おかしいよ不公平だよ…。私のところにも『お姉さま、はい、お弁当です。』って
言ってくれる妹が生まれるべきだったよ…。」
勝手に身の不幸を嘆きながら牛乳を飲みだした。ほっとこう。
「妹さん、かわいいか。」
最初からガジュマルのことに興味をなさそうにしていた加賀崎が、突然聞いてくる。
加賀崎は誰それがかわいいとかそういうのにあんまり興味ないんだろう、
と何となく思っていたので、ちょっと驚く。
「か、かわいいよそりゃあ。」
おかげで、ちょっとどもってしまった。
「そうか。良かった。両親の関心が新しい兄弟に行くのを憎んで苛める、なんて話を思い出してな。
お前ならそういうことはないとは思うが、一応聞いてみたかった。」
「…んなことするような奴に見えるのかよ、僕は…。」
「いや、見えない。だから、ないとは思うが、という前提をつけただろう?」
落ち着き払って、2個目のパンの包装をビリビリ破き始める。
褒められたのか貶されたのか、微妙な気分になりながら、僕も箸を進めた。
実際、僕ら家族が蝶子ちゃんをいじめるとか、そんなことをするわけがない。
彼女はおそらく、「養子」とか「義妹」と呼ばれる存在としては、完璧だった。
食事は当番制だから、という前に自分からやると言い出すし、
洗濯掃除も気づいたらやってしまっている。
僕も蝶子ちゃんのおかげで朝練に参加できるようになったし、
父さんも母さんも当番が減った分ゆっくりできる。
(母さんの暇が増えて、一緒に酒量も増えてしまったことだけはマイナスだった。)
僕らが蝶子ちゃんに文句を言うべきことなんて、何一つ思い浮かばなかった。
「むしろ、こっちがちょっと気を使うくらい、あの子はいい子だよ。」
あの子の泣き顔を見て、ちゃんと「お兄さん」をやろうと決めた。
けど、新しい生活が始まってみると、僕のやるべきことはあんまりないようだった。
そもそも、彼女の境遇から考えたら、
「あんたたちなんて私のパパとママじゃない!!」
とか、
「なんで私だけこんな目に会わなきゃいけないのよーーーー!!!」
って叫びだしちゃうとか、そういうことがあると思ってた。覚悟していた。
蓋を開けてみれば、あの子は割合早く状況に順応したみたいだった。
一番驚いたのが、来て3日くらい経つと、もう父さんと母さんのことを
「パパ」「ママ」と呼び出したことだ。
普通、こういう時は何年か「おじさん」「おばさん」と呼ぶ時代があって、
ある劇的な事件をきっかけにようやく「お父さん」「お母さん」と呼べるようになる、
ってのがセオリーなんだと勝手に思っていたのだが。
もしかして、そう呼ばないと追い出されるとでも思っちゃってるのかもしれない、と思って、
「無理はしなくていいよ。」と諭したこともある。しかし彼女は
「無理なんかしてないよ。二人は新しいパパとママだから。
前のパパとママは、もういなくなったから。」
と、ごく普通のことのように答えた。
「やっぱり、どこか無理してるんだろうな。」
放課後練習を終えて、帰ってきた玄関で呟く。
あんな出来事に巻き込まれたのに、立ち直りが早すぎる。
今日こそは、あの子にこの家でもっと楽に生活していけるような言葉をかけてあげよう、
と考えながら、扉を開けたところで。
「おかえりなさい、お兄ちゃん。」
すぐに蝶子ちゃんが迎えてくれた。
小学生の蝶子ちゃんが帰ってくるのは僕よりずっと早い。
随分長い間、ここで待っててくれたんだろう。
そんなことしなくてもいい。だけどそれをストレートにいうと
「ごめんなさい。次からは部屋でちゃんと待ってるから…。」
と泣かれるというのはついこないだ経験したばかりだったので。
「ただいま。」
だけ答えておいた。もちろん笑顔で。
「ご飯にする?お風呂にする?」
「蝶子ちゃん、そんな台詞どこで覚えたの。」
蝶子ちゃんの言った台詞は嘘でも冗談でもなく、
実際もうお風呂の準備もご飯の準備も終わっていた。
「あー、極楽だわー。こんなに美味しいビールが飲めるようになるとは。」
今日の諸々の当番は母さんだったはずなのに、既に蝶子ちゃんが全部済ませてしまっているので、
母さんは早々に管を巻いていた。
駄目だ。
このままじゃ蝶子ちゃんに気楽に振舞ってもらう前に
母さんの駄目人間度メーターが振り切れてしまう。
ふとんの中で、どうしたら蝶子ちゃんがもっと楽に過ごせるようになるのかを考える。
答えは出ない。家事をしないと家を追い出される、
と考えている線は、もういくらなんでもないだろう。
僕らはそこまで彼女を冷たい目で見てない。それは彼女も分かってくれてると思う。
じゃあ何であんなに僕らに甲斐甲斐しいのか。
それはやっぱり…そうしないと、身が保たないんじゃないか。
彼女が事故のことをあれこれ考えていないはずはない。
一時でもそれを忘れるためには、ほかの事に気を配るしかなかったんだろう。
他の方法で蝶子ちゃんを楽にしてあげられる方法は、ないんだろうか。思いつかない。
「ああ、情けないなぁ…。」
こんな時、あの人なら何かいい手が思いつくのかな、と、従姉妹の顔を思い浮かべる。
その想像は、すぐに頭の中から消えた。
「お兄ちゃん、入っていい?」
という蝶子ちゃんの声が聞こえたからだ。
「ごめんね、今日もやっぱり、眠れなくて。」
もぞもぞ、と彼女がふとんの中に潜り込んでくる。
ごめんねと言いつつ、そこに躊躇の色は見えない。慣れたものだった。
僕の方ももう随分なれてきたので、何もいわずに隣を開けてやる。
もちろん、最初こうなった時は、ドギマギしていたどころの騒ぎじゃなかった。
「怖くて眠れないから、一緒に寝て。」
と彼女が頼んできた時は。
ありえない。今日のガジュマルの言葉じゃないが、その時の僕もそう思った。
お兄ちゃんになるとは決めたが、本当の兄妹でもこの年になったらそんなことしないだろうし、
大体そういうのって普通お母さんとかお父さんの役目のはずだ。
ただ、彼女の言葉で納得せざるを得なかった。
「パパもママも疲れてて、邪魔しちゃったら悪いから…。」
確かに、うちの二人はいつも家に帰ってくると疲れきっていた。
何度か仕事場を見にいったが、すごいハードワークなんだと実感した。
蝶子ちゃんも、二人が夜どれだけゆっくり寝たがってるか、ってのを感じ取っているのだろう。
だから僕も、受け入れた。ただ隣で寝るだけでいいんだから、応じないわけにはいかない。
僕の布団の中に入ると、彼女はあまり喋ることもなくすぐ目を閉じる。
すーっすーっという寝息が聞こえてくるのもすぐだ。
僕は。最初のころは、目の前にあるかわいい女の子の顔に緊張しっぱなしで
眠るどころじゃなかった。
嬉しくないわけじゃないけど明らかに拷問だ。学校で居眠りする回数が増えた。
だんだん慣れてきた今はというと。こうしている蝶子ちゃんを見て、少しだけ安心している。
嬉しい。嫌らしい意味ではない。…ほんの少しも嫌らしい意味がないというとそれも嘘になるけど。
昼間はずっと気丈に振舞ってるけど、この子が失ったものは想像つかないくらい大きなものだ。
だから、もっともっと頼ってほしかった。色々な思いを受け止めるつもりだった。
けれど彼女が僕を頼ってくれるのはこの時だけ。夜が怖い時だけ。
この時だけは、僕は彼女のお兄さんとして振舞えている時なのだろう。
いつかこの子が安心して一人で眠れる時がくればいい。
その時には、もう過剰に気を配るようなこともなくなっているだろう。
そんな日を願って、僕も眠りについた。香ってくるシャンプーの匂いが気持ちよかった。 |