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幼馴染みと恋女房

第1話 第2話                
                 


1

 カキンという金属音と共に、抜けるような青空へ白球が舞い上がった。
  大きな弧を描いたボールは、そのままレフトスタンドに吸い込まれていった。
  ひと呼吸おき、一塁側の応援席から大歓声が巻き起こる。
  城北高校の4番バッターが逆転サヨナラホームランを放ったのである。
「あぁ〜ん、健太郎クンがぁ……」
  三塁側応援席で母校桜宮学園の応援をしていた女生徒が呻くように悲嘆した。
  控え目だが整った目鼻立ちに、肩まである黒髪のボブカットが似合っている。
  その女生徒、竹下百合子はマウンドに立ちつくしているピッチャーを見詰めていた。
  悲劇の主人公、中川健太郎は百合子の幼馴染みであり、2人は全校生徒公認のカップルなのである。
  ヒーローになり損ねた健太郎は、最後の一投を悔やむようにレフトスタンドを見詰めていた。
  練習試合とは言え、地区予選を間近に控えた大事な一戦である。
  それだけに、健太郎にとって今日の敗戦はショックであった。
「けど、悪いのは健太郎クンじゃないもん」
  その感想は百合子の身びいきではなかった。
  彼が超高校級の投手であり、既にメジャーのスカウトの目に止まっているのも事実である。
  150キロを越えるストレートは、なまじっかな高校生ではバットに掠らせることもできない。
  ただ、本気になった健太郎のボールを受けることができる捕手が、
弱小桜宮学園にはいないのであった。
  桜宮学園は開校間もない私立高校で、野球部もようやく2年前にできたばかりある。
  部員は20名にも届かない、完全な弱小チームに過ぎない。
  なぜ中学野球きってのエースと呼ばれた健太郎が、名もない桜宮学園なんかに入ったのか──
「あたしが桜宮に入ったから……」
  自分と別れたくない余り、健太郎は同じ桜宮を選んだ──と、百合子はそう信じていた。
  そう考える他、彼が有名校の特待枠を蹴ってまで桜宮学園に進んだ原因は思い当たらないのだ。
  しかし、それが事実だとすれば、健太郎は自分が原因で甲子園への道を
閉ざされようとしているのではないのか。
  そう思うと、百合子は気が気ではなかった。

「試合……惜しかったね……」
  学校からの帰り道、百合子は健太郎に向かってそっと呟いてみた。
  自身は病弱で激しい運動はできない百合子は華道部に所属している。
  スポーツとは無縁の彼女は、こんな時どう言って男友達を慰めていいのか分からなかった。

「うん……でも、地区大会本番までにはどうにかするよ」
  切り替えの早い健太郎は、既に敗戦のショックから立ち直っていた。
  逆に幼馴染みに気を使い、彼女に心配を掛けまいと笑顔を見せた。
  女の子なら誰もがドキリとしないではいられない爽やかな笑顔である。
  端正なマスクとスラリとした長身で、その上野球部のエースで4番とくれば
健太郎がもてないわけがない。
  だが、玉砕覚悟で突撃した女生徒たちは彼と百合子の仲を思い知らされ、
悔し泣きして世を儚むしかなかった。
「どうにかしなくちゃ」
  どうにかすると言っても問題は健太郎本人ではなく、キャッチャーにあるのだから深刻である。
「もっとコントロールをつけて、変化球のキレも上げないと」
  健太郎は速球に頼ることなく、打たせて取るピッチングに
切り替えざるを得ないことに気付いていた。
  しかし、それにはやはり優秀なキャッチャーが必要となってくる。
  今、健太郎が欲しているのは、頭脳的に配球を組み立ててくれる恋女房役であった。
「健太郎クン」
  百合子は健太郎のことを気遣いながらも少しだけ幸せであった。
  学園のスターが弱気になっている姿を見られるのは、
彼女である自分にのみ許された特権なのである。
  そんな複雑な感情の入り混じった百合子の視線をどう受け止めたのか、
健太郎はキッと表情を引き締めた。
「俺、大丈夫だから。絶対に百合子を甲子園に連れて行くって約束するよ」
  百合子はその言葉だけで幸せな気持ちになり、並んで歩く健太郎にしなだれかかった。
「大丈夫だよ。健太郎クンなら、絶対どうにかできるって」
  百合子はそう信じて疑わなかった。

 その翌日、百合子はいつものように登校した。
  健太郎は一緒ではなく、彼女一人である。
  中学生の頃は百合子が健太郎を家まで迎えにいき、連れ立って登校したものだった。
  それが高校に入ってからは野球部の朝練があるため、
健太郎はまだ暗いうちから一人で学校へ行ってしまう。
  彼女にすれば少々寂しかったが、これも健太郎が甲子園に行くためだと我慢することにしていた。
  百合子が校門をくぐると、グランドに黒山の人集りができていた。
  野球部の朝練を、というより健太郎のユニフォーム姿を見ようと集まったファンたちである。
  見慣れたいつもの朝の風景である。
  しかし、百合子は人集りにふと違和感を覚えて立ち止まった。
  普段なら女生徒のみで構成されている集団に、どういうわけか男子生徒が混じっているのだ。
  その数は男女半々といっていいほどである。

「どうして男子が健太郎クンの練習なんか?」
  訝しげに人集りに加わった百合子は、その理由を知ることとなった。
  マウンドの健太郎に対峙するように、キャッチャーボックスに一人の女生徒が座っているのである。
  着ている制服は桜宮のブレザーだが、その顔には全く見覚えがない。
  ミニのプリーツスカートの下から覗いているのは黒いスパッツで、
そのことが男子生徒たちを残念がらせていた。
「誰?」
  百合子は隣に立っていたクラスメートの宏美に尋ねてみる。
「さぁ? 転校生かな?」
  宏美もしきりに首を捻っている。
  ゴージャスな縦巻きロールに派手な顔立ちの美少女である。
  過去にひと目でも会っていたなら、きっと記憶に残っているであろう。
  気品と希少価値を併有させた美しさである。
  その美少女がミットを構えて健太郎を睨み付けていた。
「さあ、いらしてくださいまし」
  美少女は凛とした声で健太郎に呼び掛けた。
  その横では正捕手でキャプテンの篠田が困ったように首を振っている。
「仕方ないな。おい中川、放ってやれや。じゃないとこのお嬢さん、出てってくれそうにないぞ」
  篠田は眉をひそめて健太郎に指示を出した。
  その健太郎も困っていた。
  いきなり朝練に見知らぬ女生徒が飛び込んできたと思ったら、
「自分に向かって全力で投げろ」なのである。
  3年の篠田でさえ捕れない剛速球を、か弱い女生徒がどうにかできるわけがない。
「1秒だって無駄にしたくないのに」
  健太郎はお嬢さんに退場していただくための一計を案じた。
  すなわち、頭上スレスレに渾身の速球を投げてやろうというのだ。
  驚いた女生徒は、尻をまくって逃げ出すに決まっている。
  我ながら大人げないと苦笑いしながら、健太郎はワインドアップのモーションに入った。
  左足が高々と上がり、前方へと振り下ろされる。
  それにつられるように右腕がしなり、手首のスナップによりボールが弾き出された。
  久し振りの全力投球である。
  唸りを上げた剛球が、一筋の光となってホームプレートに向かう。
  その光は首をすくめた美少女の頭上を通過していくはずであった。
  ところが──
  バシィーンという小気味よい音がしたかと思うと、
白球は美少女が頭上に掲げたミットの中に収まった。
「ボール2個、上に外れていますわ」
  美少女は取り立てて騒ぐこともなく、
キャッチボールをしているような気楽さでボールを健太郎に投げ返した。
  スナップが利いた、結構いい球であった。
  一拍遅れてグラウンドがどよめきに包まれる。

「…………」
  健太郎は内心驚いていた。
  肩が完全に出来上がる前とは言え、時速150キロ近く出ていたはずである。
  それを目の前の女生徒は、いともあっさり受け止めたのである。
  プロテクターもマスクも着けていないのにも関わらず、怯む様子は全く見せなかった。
  誰より、一番近くで見ていた正捕手の篠田が驚いていた。
  自分では捕れそうもない剛速球を、この女生徒は瞬き一つせずに涼しい顔で捕球したのだ。
「さぁ、健太郎様ッ。次はわたくしの構えた所へちゃんと投げてくださいませ」
  美少女はミットを拳で叩くと、健太郎にど真ん中を要求してきた。
  よく見ると様になった構えである。
  昨日今日、野球を始めたキャッチャーの構えではない。
「よぉ〜し」
  健太郎はボールを深く握り締めると、再びワインドアップのモーションに入った。
  今度は本気で投げ込むつもりだった。
  しかし、左足が地面に付く寸前、彼女がプロテクターを着けていないことを思い出した。
「くっ……」
  健太郎は咄嗟にボールの握りを変更する。
  そして投げる寸前、手首を強引に捻ってボールに高速回転を与えた。
  時速140キロを超えるストレートが美少女の胸元目掛けてまっしぐらに進む。
  と思った次の瞬間、剛速球は真横に流れるように軌道を変更した。
  健太郎の秘密兵器、高速スライダーである。
  女生徒が捕り損ねた時のことを考えて、ギリギリで球種を変えたのだ。
  ところがそんな心配は無用であった。
  美少女はノーサインであったのにも関わらず、
ミットを右へずらしてあっさりとキャッチしたのである。
「ひぇっ、あのスライダーを」
  篠田は目を丸くして驚いた。
  自分がそれを捕れないばかりに、折角の秘密兵器を本当に秘密のままにしてしまっているのである。
  このことだけでも、謎の女生徒がキャッチャーとして篠田より優れていることは明らかであった。
「なかなかのキレ味ですわ。しかしリードはわたくしの役目ですの」
  ボールを投げ返す美少女の声に、わずかに怒りの成分が含まれていた。
  それを感じ取った健太郎は帽子を目深に被り直す。
  スポーツマンとして、相手を侮ったことを恥じたのである。
  そして振りかぶると、今度こそ渾身の力を込めてストレートを放った。
  健太郎の指先からボールが離れるのと、ほとんど同時に美少女の構えたミットが轟音を上げた。
  美少女はほとんど構えた位置からミットを動かさず、
捕球した後もしばらくそのままの姿勢を保っていた。

「噂どおりの剛速球。気に入りましたわ」
  美少女がふと笑みを漏らす。
「よろしい。わたくし、花園香織がこの野球部に入ってさしあげましてよ」
  香織と名乗った美少女はオホホホと高笑いした。
  百合子たちは呆気に取られてそれを見守るだけ。
  後に桜宮の女王として君臨する香織の鮮烈なデビューであった。
  気が付けば、HRの始まりを知らせるチャイムが鳴っていた。

 花園香織。
  新興財閥の一人娘であり、この春まで名門ラ・セーヌ女学館に通う生徒であった。
  ラ・セーヌではソフトボール部のキャッチャーとして鳴らし、
インターハイを制したことがあるという。
  マウンドとホームの距離が野球より短いソフトでは、
100キロちょっとの球が160キロにも感じるものらしい。
  香織が健太郎の剛速球に動じなかったのも、それならば納得いく。
「でも、どうしてそんな人が桜宮なんかにっ? それもこんな中途半端な時期にっ?」
  百合子は華道鋏を握った手を止めると、情報をもたらせてくれた宏美に詰め寄った。
「ちょっとぉっ、百合子っ、鋏っ、あぶない……落ち着きなさいって」
  宏美は百合子の両肩を掴んで畳の上に座り直させる。
  その日の放課後、百合子は香織のことが気になって生け花どころではなかった。
  今現在も、左手に持った見事な管物の大菊がさっぱり目に入らない状態にある。
  こんなことでは何をするのにも全く集中できない。
  そこで情報収集能力では定評のある親友に、香織についての調査を依頼したのであった。
「で、どうして?」
  百合子はすがるような上目遣いで宏美を見る。
「ラ・セーヌには野球部がありませんもの。わたくし、ソフトでは満足できなくなりましたのよ」
  宏美は香織の口調を真似て説明すると、オホホホと高笑いしてみせた。
  西暦200X年、ジェンダーハラスメント防止法の拡大施行に伴い、高野連は法の前にその膝を屈した。
  頭の固い親父たちも、遂に全国高等学校野球選手権大会参加規定の
第4条第1項を撤廃せざるを得なくなったのだ。
  女子の公式戦参加を阻んできたシステムが無くなったとはいえ、
女子には体力の差という大きな壁が立ち塞がっていた。
  現実として、公式戦のベンチに入れるような女子選手は、日本中何処を探しても皆無であったのだ。
「けど、香織さんは違うよ。なんせ、あの健太郎君の剛速球を平然と受けちゃうんだもん」
  宏美は人の悪そうな顔になると、意味深な調子でウシシと笑う。
「キャッチャーはピッチャーの恋女房なんて言うくらいだから、
百合子もボヤボヤしてる場合じゃないよ」
  次の瞬間、百合子の手元でパチンという音がした。
「オゥ、ノォォォ〜ッ、百合子サァ〜ン」
  華道部顧問のキャサリン・ジョンウェイン先生が、金髪頭を抱えてオーバーに首を振った。
  その視線の先には、斬首されたように転がっている大輪の菊があった。

「大丈夫、大丈夫だもん。あたしと健太郎クンは、人も羨む相思相愛のカップルなんだから」
  帰宅途上、百合子は自分に言い聞かせるように何度も呟いた。
  いつもなら帰りは健太郎と一緒なのだが、今日の百合子は一人である。
「何よ、健太郎クンったら……」
  彼女の瞼の裏には、グラウンドで仲良く練習する健太郎と香織の姿が焼き付いていた。
  下校時間が近づき、百合子はいつもの待ち合わせ場所であるバックネット裏へと向かった。
  百合子が到着した時、ちょうど野球部の練習も整理体操に入ったところであった。
  そんな中、百合子はネット越しに信じられない光景を目の当たりにすることになった。
  ユニフォームの上衣に、下は何故かスパッツを履いた香織が、
柔軟体操をする健太郎の背後から全身を預けていた。
  わざとサイズの小さいユニフォームを着ているのか、
香織の胸は今にもボタンを引きちぎらんばかりであった。
  きっと健太郎の背中は豊満な乳房の柔らかさをタップリ感じていたことであろう。
  部員たちはポカリと口を開けて羨ましそうに2人を見詰めていた。
  その視線に気付いた香織は、居ずまいを正して部員たちを睨み付けた。
「なんですの? わたくしは健太郎様のキャッチャーですわ。
恋女房がバディを努めるのは当然でしょうに」
  そのセリフを耳にした途端、何故か百合子はその場から走り去っていた。
  オホホホホホホッという勝ち誇ったような笑い声が、百合子の耳にこびりついて離れなかった。
  今思うと、どうして自分が逃げ出さなければならなかったのか分からない。
  しかし、仲むつまじく体を接している2人を見て、いたたまれなくなったのは事実である。
「何よっ、あんなオッパイ。あたしだってそのうちに……」
  百合子は申し訳程度に膨らんだ自分の胸に手を当ててみる。
  財閥の香織とは栄養状態が違うのか、同じ高校2年生だというのに発育の差は歴然としていた。
「成金なんて悪いこと一杯してるに決まってるわ。
だいたい財閥なんてのは、祖先が悪人だったっていう証拠じゃない」
  そんなことを考えているうちに、百合子は惨めな気分になってきた。
「バッカみたい……あたしが健太郎クンを信じてあげなくちゃいけないのに」
  百合子は自分の頭をポカリと殴ると、香織のことを頭から追い出した。

2

 翌朝、百合子はいつものように一人で学校へ向かっていた。
「ふぁ……あぁぁぁ〜ぁぁ……」
  寝不足気味の百合子が大あくびを一つする。
  昨夜は悶々としていつまでも寝付けなかった。
  ベッドに入って目を瞑っても、仲良く体を重ねている健太郎と香織の姿が瞼の裏に蘇ってきた。
  妄想の中で、健太郎は地面に座って整理体操をしていた。
  その背中に香織が身を預け、あの豊満な乳房を押し付けていた。
  いつしか妄想の健太郎は香織と向き合っていた。
  そして、健太郎は幸せそうな顔を胸の谷間に沈める……。
  その度、百合子は激しく首を振って否定せねばならず、
なかなか眠りに落ちることができなかったのだ。
「ふぁあぁぁぁ〜ぁぁ……」
  百合子が大口を開け、もう一つ盛大なあくびをする。

 その時、百合子は後ろから駆け寄ってくる足音を耳にした。
「おはようっ、百合子」
  振り返るまでもなく、声の主が健太郎だと分かる。
「あれっ、健太郎クン。朝練は?」
  そう言えば、今日から定期試験の準備期間に入るのであった。
  学業を本分とする建前のため、運動部の朝練も今日から5日間は禁止となるのだ。
  となると、久し振りの登校デートができる。
  思わぬ幸運に、百合子の口元がほころんだ。
  ドロリとした眠気も一瞬で吹き飛んでしまう。
  ところが、健太郎が口を開くと百合子の心に再び暗雲が立ち込め始めた。
「どうして先に帰っちゃったんだよ?
  少しくらい遅くなったからって……待っててくれてもいいだろ」
  健太郎は不機嫌そうに唇を尖らせた。
  昨日、百合子は健太郎との帰宅デートをすっぽかしてしまったのだった。
「だって……健太郎クンが香織さんなんかと仲良くしてるから……」
  とも口にできず、百合子は拗ねたように口をつぐんだ。
「用事があったのなら言ってくれよな。俺……心配になって、しばらくあちこち探し回ったんだぞ」
  健太郎が語気を強めた。
  その言葉に自分への思いやりを感じ、百合子はハッとして立ち止まった。
  自分が一方的にヤキモチを焼いている時にも、健太郎は自分のことを心配してくれていたのだ。
  それに気付かされた途端、百合子は急に自分がつまらない女に思えてきた。
  同時に健太郎に対する申し訳なさで一杯になった。
「ごめん、あたし急用ができて……健太郎クンの練習……邪魔したくなくて」
  百合子が謝ると、健太郎はプッと吹きだした。
「そんなことだろうと思った。気にせず声を掛けてくれたら良かったのに。
百合子は気を使いすぎるんだよ」
  健太郎はいつもの口調でそう言うと、人差し指を使って百合子のおでこをつんと一押しした。
  それで百合子にも笑顔が戻る。
  笑いながらも、嬉し涙が込み上げてくるのを必死でこらえていた。
  やはり健太郎と自分の仲は、ちょっとやそっとで壊れるようなものではないのだ。
  2人の絆の強さは、十数年に渡って培ってきた信頼の強さそのものなのである。

 百合子が健太郎にしなだれかかって歩き始めた時、2人の横手に黒塗りの高級外車が停止した。
「健太郎様ぁっ、ごきげんよう」
  後部座席のスモークガラスが降りると、艶やかな美人顔が現れた。
  昨日、鮮烈なデビューを果たした転校生、花園香織である。
「健太郎様、ご一緒しませんこと?」
  制服制帽の運転手付き高級外車による送り迎えは、財閥令嬢に相応しい正統な登校スタイルである。
  そして、その姿は憎らしいほど様になっている。
  健太郎の袖口を掴む百合子の手にギュッと力が加わった。
「いいよ。楽すると体がなまっちゃうから。それと健太郎“様”はよしてくれって」
  健太郎は頭を振って香織の申し出を辞退した。
  それは嬉しかったが、百合子としては少しだけ不満であった。
  同じ断るにしても体がどうこうというのではなく、
自分が一緒だからとキッパリ言って欲しかったのだ。
「そうですの」
  香織は残念そうな顔をしてパワーウインドを上げる。
  百合子がいい気味だと思っていると、ドアを開いて香織が車から降り立った。
  手には通学カバンを提げている。
「健太郎様が歩かれるのでしたら、わたくしもお供しましてよ」
  香織はニッコリと笑うと、慌てふためく運転手に屋敷へ帰るよう命じる。
「柳田、お父さまには内緒にしててね。心配なさるといけないから」
  そう言うと、香織は運転手を置き去りにして歩きだした。

 香織は胸を張り、伸びやかな手足を大きく使って颯爽と歩く。
  よく見ると、彼女が着ているブレザーやスカートは、色や柄こそ百合子の物と同じだが、
生地や仕立ては別物である。
  おそらくオーダーメイドなのであろう、胸のリボンも一際大きく大輪のバラのように結われていた。
  それが、百合子の目にも全く不自然に映らない。
  香織はそれほど絵になる美少女であった。
「ところで、そちらの方はどなたですの?」
  歩きだしてしばらくのこと、香織が健太郎に向かって百合子のことを尋ねた。
  ようやく、という感じで話題に出され、百合子は不機嫌そうに顔をしかめる。
  百合子は握りあった自分と健太郎の手を、香織が横目でチラチラ気にしていることを知っていた。
「ああ、こっちはC組の竹下百合子。俺たちの隣のクラスの子だよ」
  健太郎は別に言い淀むこともなく答えた。
  香織はしばらく百合子をねめ回していたが、やがて冷たい口調で健太郎に尋ねた。
「……で……健太郎様とはどういうご関係ですの?」
  いきなりの不躾な質問であった。
  しかし、これぞ百合子の待ちに待った瞬間であった。
  健太郎の口からハッキリ彼女だと言って貰えれば、
厚かましそうなお嬢さまといえども目が覚めるであろう。
  世間知らずの身には少々きつかろうが、これは全校生徒も知っている既成事実なのである。
  ひょっとすると、香織はショックのあまり転校してしまうかも知れない。

「でも、そんなの関係ない」
  百合子の耳朶が真っ赤に染まり、ドキドキ感が高まっていく。
  ところが、健太郎の答えは余りにも素っ気ないものであった。
「あぁ、百合子なら俺の幼馴染みだよ」
  途端に百合子は目の前が真っ暗になるのを感じた。
(幼馴染みだよ……幼馴染みだよ……幼馴染みだよ……)
  百合子の脳裏に健太郎の声が虚ろに響く。
「まぁ、健太郎様の幼馴染みでしたの。となれば、わたくしにとっても大事なお友達と同じ」
  香織の顔がパッと輝くのがハッキリ見てとれた。
  いきなり、香織は百合子の手を健太郎から無理やりむしり取り、親しみを込めて両手で握り締めた。
「百合子さん。是非、わたくしとも仲良くして下さいましね」
  香織の声は明らかに弾んでいる。
  だが、その声は百合子の耳に届いていなかった。
「ど……どうして彼女だって紹介してくれないの?」
  思考が停止した百合子は、ロボットみたいなギクシャクした歩き方になっていた。
  いつの間にか巧妙に健太郎と切り離されていることにも気付かない。
「幼馴染みってのは嘘じゃないけど……
香織さんの前だから、あたしが彼女だって言えなかったの……?」
  鈍感というか、健太郎がその辺りの機微に疎いことは知っているが、
百合子としては何か裏切られたような気がした。
「やっぱり健太郎様は、お二人だけの時には“ユリッペ”とかおっしゃるの? ねぇっ?」
  香織が親しげに話し掛けてきているが、百合子の耳には何も聞こえていない。
  ただ、言葉の一部分だけが脳裏に反響していた。
(仲良くして下さいましね……下さいましね……ましね……しね……しね……死ねぇっ……)
  寝不足のせいもあり、百合子の思考能力は普通の状態ではなかったのかもしれない。
(ひぃっ……殺される? あたし、香織さんに殺されるぅっ?)
  この時、百合子は香織に対してハッキリとした恐怖を感じていた。

 

 このところ、学園における花園香織の人気は鰻登りである。
  先に行われた定期テストで、香織は学園始まって以来の高得点で首席の座を勝ち取った。
  聞けば、彼女は名門ラ・セーヌ女学館でも学年一位をキープしていたらしい。
  数段レベルの落ちる桜宮学園で首席を取ることくらい、彼女にとっては朝飯前だったのだろう。
  その、勝って当たり前のような傲然な物腰が、かえって彼女のステータスを高めることになった。
  変に謙虚な態度を取っていたなら、
鼻持ちならぬ嫌味な女として白い目で見られていたかも知れない。
  口に手の甲を当ててオホホホと高笑いする香織には、
全校生徒をひれ伏させる女王の威厳が溢れていた。
  彼女を畏怖したのは生徒ばかりではない。
  学園側もそうであった。
  創立4年にして、早くも東大合格者が現れそうなのである。
  それは新設の私立高校にとって最高の宣伝効果を生む。
  ヘソを曲げられて転校でもされたら一大事であった。
  それに加え、花園グループによる多額の寄付金は理事長の懐を大いに潤した。
  もはや学園側に香織に表立って逆らえる勢力はほとんど残っていなかった。

 それに引き替え、百合子の成績は最悪であった。
  健太郎と香織のことが気になって、ほとんど勉強が手に付かなかったのだから仕方がない。
  ショックだったのは担任の言葉である。
「竹下ぁ。お前、3年になったら進学クラスを希望するんだったよな」
  担任の中谷が言うとおり、百合子は一応大学へ進むつもりでいた。
  できれば健太郎と同じ大学に通い、楽しい学生生活を送りたかったのだ。
  一杯勉強して、お洒落して、そして健太郎とあんなことやこんなことも……。
  我知らず、百合子はムフフと小鼻を膨らませていた。
「しっかしなぁ。お前、こんな点数取ってるようじゃ希望のクラスには入れんぞ」
  次の瞬間、百合子の目がブラックアウトした。
  健太郎は野球バカに見えて意外と成績はいい。
  スポーツ推薦枠に頼らなくとも、充分に有名大学に入るだけの学力は持っている。
  だから、3年ではスポーツコースをとらず、百合子と同じ進学コースを選ぶと言っていた。
  百合子は、健太郎が自分と同じクラスになりたいがためにそうするのだと信じていた。
  そして、彼は野球にこだわらず、百合子が入る大学に自分も入るのだろうと。
  健太郎ならどの大学に入ろうが、日本最強の野球部を作れるに決まっているのだから。
  でも彼のことを考えると、できれば世間の注目度が高い東京六大学で活躍してもらいたい。
  だから、百合子も東大は無理としても、なんとか残る5校のいずれかに進みたいと思っている。
  それだけに中谷先生の忠告は、もの凄いショックを伴って百合子を直撃したのだ。

「あ、あたし……健太郎クンと離れ離れになっちゃうの?」
  それはもの凄い危機感を生んだ。
  香織も勿論進学コースを選ぶだろう。
  このまま2人だけを同じクラスにさせていては親密度がますます高まってしまう。
  なんとか2人の間に割り込まなければならない。
  そこで百合子はある事実に思い当たった。
「ちょっと待ってよ。割り込んできたのは香織さんじゃないの。どうしてあたしが……」
  百合子は、気の優しい自分の性格につけ込んできた香織のことが憎らしく思った。
「健太郎クンも健太郎クンよっ。一度香織さんにハッキリ言ってもらわなくちゃ」
  何を?
  自分が健太郎の彼女だということをであろうか。
  百合子は急に心配になってきた。
  自分は本当に健太郎の彼女なのであろうか。
  少なくとも自分はそう信じ、周囲もそのように認識している。
  しかし思い返してみると、どちらからか明確な告白があったわけでもない。
  ただ幼い頃から家族ぐるみで付き合いがあり、2人で仲良く遊ぶ機会が多かっただけではないのか。
  仮に今、百合子が告白したなら、健太郎はどんな態度を取るのだろう。
「今更あらたまって何を。お前、頭大丈夫か」
  そう言って笑い飛ばしてくれるのだろうか。
「ごめん。百合子は家族みたいなもんだから……そういうのは、ちょっと……」
  などと拒絶されるのではないだろうか。
  百合子が健太郎を恋愛対象として意識し始めたのは中学に進んだ頃である。
  当然、向こうも同じ感情を共有していると、これまで信じて疑わなかった。
「えぇっ? あたしって、ひょっとして……健太郎クンにとって本当にただの幼馴染みなの?」
  健太郎が百合子を甲子園に連れて行くと約束したのも、
彼が小学校に入って野球を始めた頃の話である。
  彼が自分のことを大事に思ってくれているのはハッキリ伝わってくる。
  しかしそれが、人が肉親に対して抱く感情と同種のものでないという保証はどこにもなかった。
  思いこみが激しい百合子は、一旦感情がマイナス方向に流れると歯止めが利かなくなる。
「あたしのせいなの? あたしが健太郎クンに彼女らしいこと何にもしてあげなかったから……」
  百合子は自分の足元が音を立てて崩れていくような錯覚を覚えた。

2008/01/31 To be continued.....

 

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