カキンという金属音と共に、抜けるような青空へ白球が舞い上がった。
大きな弧を描いたボールは、そのままレフトスタンドに吸い込まれていった。
ひと呼吸おき、一塁側の応援席から大歓声が巻き起こる。
城北高校の4番バッターが逆転サヨナラホームランを放ったのである。
「あぁ〜ん、健太郎クンがぁ……」
三塁側応援席で母校桜宮学園の応援をしていた女生徒が呻くように悲嘆した。
控え目だが整った目鼻立ちに、肩まである黒髪のボブカットが似合っている。
その女生徒、竹下百合子はマウンドに立ちつくしているピッチャーを見詰めていた。
悲劇の主人公、中川健太郎は百合子の幼馴染みであり、2人は全校生徒公認のカップルなのである。
ヒーローになり損ねた健太郎は、最後の一投を悔やむようにレフトスタンドを見詰めていた。
練習試合とは言え、地区予選を間近に控えた大事な一戦である。
それだけに、健太郎にとって今日の敗戦はショックであった。
「けど、悪いのは健太郎クンじゃないもん」
その感想は百合子の身びいきではなかった。
彼が超高校級の投手であり、既にメジャーのスカウトの目に止まっているのも事実である。
150キロを越えるストレートは、なまじっかな高校生ではバットに掠らせることもできない。
ただ、本気になった健太郎のボールを受けることができる捕手が、
弱小桜宮学園にはいないのであった。
桜宮学園は開校間もない私立高校で、野球部もようやく2年前にできたばかりある。
部員は20名にも届かない、完全な弱小チームに過ぎない。
なぜ中学野球きってのエースと呼ばれた健太郎が、名もない桜宮学園なんかに入ったのか──
「あたしが桜宮に入ったから……」
自分と別れたくない余り、健太郎は同じ桜宮を選んだ──と、百合子はそう信じていた。
そう考える他、彼が有名校の特待枠を蹴ってまで桜宮学園に進んだ原因は思い当たらないのだ。
しかし、それが事実だとすれば、健太郎は自分が原因で甲子園への道を
閉ざされようとしているのではないのか。
そう思うと、百合子は気が気ではなかった。
「試合……惜しかったね……」
学校からの帰り道、百合子は健太郎に向かってそっと呟いてみた。
自身は病弱で激しい運動はできない百合子は華道部に所属している。
スポーツとは無縁の彼女は、こんな時どう言って男友達を慰めていいのか分からなかった。
「うん……でも、地区大会本番までにはどうにかするよ」
切り替えの早い健太郎は、既に敗戦のショックから立ち直っていた。
逆に幼馴染みに気を使い、彼女に心配を掛けまいと笑顔を見せた。
女の子なら誰もがドキリとしないではいられない爽やかな笑顔である。
端正なマスクとスラリとした長身で、その上野球部のエースで4番とくれば
健太郎がもてないわけがない。
だが、玉砕覚悟で突撃した女生徒たちは彼と百合子の仲を思い知らされ、
悔し泣きして世を儚むしかなかった。
「どうにかしなくちゃ」
どうにかすると言っても問題は健太郎本人ではなく、キャッチャーにあるのだから深刻である。
「もっとコントロールをつけて、変化球のキレも上げないと」
健太郎は速球に頼ることなく、打たせて取るピッチングに
切り替えざるを得ないことに気付いていた。
しかし、それにはやはり優秀なキャッチャーが必要となってくる。
今、健太郎が欲しているのは、頭脳的に配球を組み立ててくれる恋女房役であった。
「健太郎クン」
百合子は健太郎のことを気遣いながらも少しだけ幸せであった。
学園のスターが弱気になっている姿を見られるのは、
彼女である自分にのみ許された特権なのである。
そんな複雑な感情の入り混じった百合子の視線をどう受け止めたのか、
健太郎はキッと表情を引き締めた。
「俺、大丈夫だから。絶対に百合子を甲子園に連れて行くって約束するよ」
百合子はその言葉だけで幸せな気持ちになり、並んで歩く健太郎にしなだれかかった。
「大丈夫だよ。健太郎クンなら、絶対どうにかできるって」
百合子はそう信じて疑わなかった。
その翌日、百合子はいつものように登校した。
健太郎は一緒ではなく、彼女一人である。
中学生の頃は百合子が健太郎を家まで迎えにいき、連れ立って登校したものだった。
それが高校に入ってからは野球部の朝練があるため、
健太郎はまだ暗いうちから一人で学校へ行ってしまう。
彼女にすれば少々寂しかったが、これも健太郎が甲子園に行くためだと我慢することにしていた。
百合子が校門をくぐると、グランドに黒山の人集りができていた。
野球部の朝練を、というより健太郎のユニフォーム姿を見ようと集まったファンたちである。
見慣れたいつもの朝の風景である。
しかし、百合子は人集りにふと違和感を覚えて立ち止まった。
普段なら女生徒のみで構成されている集団に、どういうわけか男子生徒が混じっているのだ。
その数は男女半々といっていいほどである。
「どうして男子が健太郎クンの練習なんか?」
訝しげに人集りに加わった百合子は、その理由を知ることとなった。
マウンドの健太郎に対峙するように、キャッチャーボックスに一人の女生徒が座っているのである。
着ている制服は桜宮のブレザーだが、その顔には全く見覚えがない。
ミニのプリーツスカートの下から覗いているのは黒いスパッツで、
そのことが男子生徒たちを残念がらせていた。
「誰?」
百合子は隣に立っていたクラスメートの宏美に尋ねてみる。
「さぁ? 転校生かな?」
宏美もしきりに首を捻っている。
ゴージャスな縦巻きロールに派手な顔立ちの美少女である。
過去にひと目でも会っていたなら、きっと記憶に残っているであろう。
気品と希少価値を併有させた美しさである。
その美少女がミットを構えて健太郎を睨み付けていた。
「さあ、いらしてくださいまし」
美少女は凛とした声で健太郎に呼び掛けた。
その横では正捕手でキャプテンの篠田が困ったように首を振っている。
「仕方ないな。おい中川、放ってやれや。じゃないとこのお嬢さん、出てってくれそうにないぞ」
篠田は眉をひそめて健太郎に指示を出した。
その健太郎も困っていた。
いきなり朝練に見知らぬ女生徒が飛び込んできたと思ったら、
「自分に向かって全力で投げろ」なのである。
3年の篠田でさえ捕れない剛速球を、か弱い女生徒がどうにかできるわけがない。
「1秒だって無駄にしたくないのに」
健太郎はお嬢さんに退場していただくための一計を案じた。
すなわち、頭上スレスレに渾身の速球を投げてやろうというのだ。
驚いた女生徒は、尻をまくって逃げ出すに決まっている。
我ながら大人げないと苦笑いしながら、健太郎はワインドアップのモーションに入った。
左足が高々と上がり、前方へと振り下ろされる。
それにつられるように右腕がしなり、手首のスナップによりボールが弾き出された。
久し振りの全力投球である。
唸りを上げた剛球が、一筋の光となってホームプレートに向かう。
その光は首をすくめた美少女の頭上を通過していくはずであった。
ところが──
バシィーンという小気味よい音がしたかと思うと、
白球は美少女が頭上に掲げたミットの中に収まった。
「ボール2個、上に外れていますわ」
美少女は取り立てて騒ぐこともなく、
キャッチボールをしているような気楽さでボールを健太郎に投げ返した。
スナップが利いた、結構いい球であった。
一拍遅れてグラウンドがどよめきに包まれる。
「…………」
健太郎は内心驚いていた。
肩が完全に出来上がる前とは言え、時速150キロ近く出ていたはずである。
それを目の前の女生徒は、いともあっさり受け止めたのである。
プロテクターもマスクも着けていないのにも関わらず、怯む様子は全く見せなかった。
誰より、一番近くで見ていた正捕手の篠田が驚いていた。
自分では捕れそうもない剛速球を、この女生徒は瞬き一つせずに涼しい顔で捕球したのだ。
「さぁ、健太郎様ッ。次はわたくしの構えた所へちゃんと投げてくださいませ」
美少女はミットを拳で叩くと、健太郎にど真ん中を要求してきた。
よく見ると様になった構えである。
昨日今日、野球を始めたキャッチャーの構えではない。
「よぉ〜し」
健太郎はボールを深く握り締めると、再びワインドアップのモーションに入った。
今度は本気で投げ込むつもりだった。
しかし、左足が地面に付く寸前、彼女がプロテクターを着けていないことを思い出した。
「くっ……」
健太郎は咄嗟にボールの握りを変更する。
そして投げる寸前、手首を強引に捻ってボールに高速回転を与えた。
時速140キロを超えるストレートが美少女の胸元目掛けてまっしぐらに進む。
と思った次の瞬間、剛速球は真横に流れるように軌道を変更した。
健太郎の秘密兵器、高速スライダーである。
女生徒が捕り損ねた時のことを考えて、ギリギリで球種を変えたのだ。
ところがそんな心配は無用であった。
美少女はノーサインであったのにも関わらず、
ミットを右へずらしてあっさりとキャッチしたのである。
「ひぇっ、あのスライダーを」
篠田は目を丸くして驚いた。
自分がそれを捕れないばかりに、折角の秘密兵器を本当に秘密のままにしてしまっているのである。
このことだけでも、謎の女生徒がキャッチャーとして篠田より優れていることは明らかであった。
「なかなかのキレ味ですわ。しかしリードはわたくしの役目ですの」
ボールを投げ返す美少女の声に、わずかに怒りの成分が含まれていた。
それを感じ取った健太郎は帽子を目深に被り直す。
スポーツマンとして、相手を侮ったことを恥じたのである。
そして振りかぶると、今度こそ渾身の力を込めてストレートを放った。
健太郎の指先からボールが離れるのと、ほとんど同時に美少女の構えたミットが轟音を上げた。
美少女はほとんど構えた位置からミットを動かさず、
捕球した後もしばらくそのままの姿勢を保っていた。
「噂どおりの剛速球。気に入りましたわ」
美少女がふと笑みを漏らす。
「よろしい。わたくし、花園香織がこの野球部に入ってさしあげましてよ」
香織と名乗った美少女はオホホホと高笑いした。
百合子たちは呆気に取られてそれを見守るだけ。
後に桜宮の女王として君臨する香織の鮮烈なデビューであった。
気が付けば、HRの始まりを知らせるチャイムが鳴っていた。
花園香織。
新興財閥の一人娘であり、この春まで名門ラ・セーヌ女学館に通う生徒であった。
ラ・セーヌではソフトボール部のキャッチャーとして鳴らし、
インターハイを制したことがあるという。
マウンドとホームの距離が野球より短いソフトでは、
100キロちょっとの球が160キロにも感じるものらしい。
香織が健太郎の剛速球に動じなかったのも、それならば納得いく。
「でも、どうしてそんな人が桜宮なんかにっ? それもこんな中途半端な時期にっ?」
百合子は華道鋏を握った手を止めると、情報をもたらせてくれた宏美に詰め寄った。
「ちょっとぉっ、百合子っ、鋏っ、あぶない……落ち着きなさいって」
宏美は百合子の両肩を掴んで畳の上に座り直させる。
その日の放課後、百合子は香織のことが気になって生け花どころではなかった。
今現在も、左手に持った見事な管物の大菊がさっぱり目に入らない状態にある。
こんなことでは何をするのにも全く集中できない。
そこで情報収集能力では定評のある親友に、香織についての調査を依頼したのであった。
「で、どうして?」
百合子はすがるような上目遣いで宏美を見る。
「ラ・セーヌには野球部がありませんもの。わたくし、ソフトでは満足できなくなりましたのよ」
宏美は香織の口調を真似て説明すると、オホホホと高笑いしてみせた。
西暦200X年、ジェンダーハラスメント防止法の拡大施行に伴い、高野連は法の前にその膝を屈した。
頭の固い親父たちも、遂に全国高等学校野球選手権大会参加規定の
第4条第1項を撤廃せざるを得なくなったのだ。
女子の公式戦参加を阻んできたシステムが無くなったとはいえ、
女子には体力の差という大きな壁が立ち塞がっていた。
現実として、公式戦のベンチに入れるような女子選手は、日本中何処を探しても皆無であったのだ。
「けど、香織さんは違うよ。なんせ、あの健太郎君の剛速球を平然と受けちゃうんだもん」
宏美は人の悪そうな顔になると、意味深な調子でウシシと笑う。
「キャッチャーはピッチャーの恋女房なんて言うくらいだから、
百合子もボヤボヤしてる場合じゃないよ」
次の瞬間、百合子の手元でパチンという音がした。
「オゥ、ノォォォ〜ッ、百合子サァ〜ン」
華道部顧問のキャサリン・ジョンウェイン先生が、金髪頭を抱えてオーバーに首を振った。
その視線の先には、斬首されたように転がっている大輪の菊があった。
「大丈夫、大丈夫だもん。あたしと健太郎クンは、人も羨む相思相愛のカップルなんだから」
帰宅途上、百合子は自分に言い聞かせるように何度も呟いた。
いつもなら帰りは健太郎と一緒なのだが、今日の百合子は一人である。
「何よ、健太郎クンったら……」
彼女の瞼の裏には、グラウンドで仲良く練習する健太郎と香織の姿が焼き付いていた。
下校時間が近づき、百合子はいつもの待ち合わせ場所であるバックネット裏へと向かった。
百合子が到着した時、ちょうど野球部の練習も整理体操に入ったところであった。
そんな中、百合子はネット越しに信じられない光景を目の当たりにすることになった。
ユニフォームの上衣に、下は何故かスパッツを履いた香織が、
柔軟体操をする健太郎の背後から全身を預けていた。
わざとサイズの小さいユニフォームを着ているのか、
香織の胸は今にもボタンを引きちぎらんばかりであった。
きっと健太郎の背中は豊満な乳房の柔らかさをタップリ感じていたことであろう。
部員たちはポカリと口を開けて羨ましそうに2人を見詰めていた。
その視線に気付いた香織は、居ずまいを正して部員たちを睨み付けた。
「なんですの? わたくしは健太郎様のキャッチャーですわ。
恋女房がバディを努めるのは当然でしょうに」
そのセリフを耳にした途端、何故か百合子はその場から走り去っていた。
オホホホホホホッという勝ち誇ったような笑い声が、百合子の耳にこびりついて離れなかった。
今思うと、どうして自分が逃げ出さなければならなかったのか分からない。
しかし、仲むつまじく体を接している2人を見て、いたたまれなくなったのは事実である。
「何よっ、あんなオッパイ。あたしだってそのうちに……」
百合子は申し訳程度に膨らんだ自分の胸に手を当ててみる。
財閥の香織とは栄養状態が違うのか、同じ高校2年生だというのに発育の差は歴然としていた。
「成金なんて悪いこと一杯してるに決まってるわ。
だいたい財閥なんてのは、祖先が悪人だったっていう証拠じゃない」
そんなことを考えているうちに、百合子は惨めな気分になってきた。
「バッカみたい……あたしが健太郎クンを信じてあげなくちゃいけないのに」
百合子は自分の頭をポカリと殴ると、香織のことを頭から追い出した。 |