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12.24(仮)

第1回


1

 今日は12月24日。
  街は煌びやかなイルミネーションで彩られ、そこかしこからクリスマスムードが溢れ出す中、
恋人たちが愛を交し合う。
  幸運なことに、そんな特別な日を共に過ごす予定の恋人が僕にもいた。
  付き合ってもう一年になる、美人で、性格がよくて、
大学でも一二を争うくらいの女の子―――白井さんだ。
  当初は、そんな彼女とクリスマスデートでもしようかと計画していたが、
彼女がまとまった時間がどうしてもとれないということで、
夜から僕のうちでパーティーをすることになっていた。
「ごめんね、ごめんね」としきりに謝る彼女に、準備をして待っているからなるべく早くおいでね、
と答えたのは一週間ほど前だったか。
  申し訳なさそうに、けれどどこか嬉しそうな表情で頷いた彼女の表情は、
今でも僕の中で鮮明に残っている。

 クリスマスを一緒に過ごそうとするのは二度目になる。
  一度目、一年前のクリスマスは、二人がまだ付き合い始めたばかりの頃だった。
  ―――その時の思い出は、あまり思い出したい類のものではなかった。
  その時のことを思い出す度、僕は胸が締め付けられるように苦しく、
切なくなり、自責の念に囚われ続けていた。
  彼女もまた、そんな僕を見て気まずそうな表情を浮かべ、
そしてその瞳に僅かな嫉妬の炎を揺らめかせていた。
  だからこそ、僕は今年は二人にとって最高のクリスマスにしたかった。
  白井さんにとっても、僕にとっても最高の、
思い出したとき幸せな微笑を浮かべられるようなものになるように、と。
  約束通り、室内は街の装飾ほど華美ではないものの、
色とりどりのレースやライトで飾り付けられ、それなりに華やかで楽しげな雰囲気を醸し出している。
  美味しそうな料理やケーキなんかもテーブルの上に並び、
後は彼女の到着を待つだけ、といった感じだった。

 そして今現在。僕はその部屋にて一人馬鹿みたいに立ち尽くしている。
  手に持った携帯電話から何やら大声が聞こえてくる。
  主治医と名乗った男性が、先程から何度も「落ち着きなさい」「必ず見つけ出すから」
「もう直ぐ戻ってくるかもしれない」といった類の科白を連呼しているからだろう。
  だが、その声は僕の耳には入ってきても頭にまで入ってこず、
単なるノイズとして処理されていたのだった。
  携帯から呼びかける声に反応する余力などない。
  僕はただ、崩れ落ちそうになる体を支えることだけで精一杯だったのだから。

 この瞬間、僕の脳が理解していたことは一つ―――妹が施設から逃げ出したということだけだった。

 そう。ここまで言っていなかったが、僕には妹が一人いる。
  彼女の名前は可憐。
  その名の通り、まるで一輪の花のように清楚で、可憐な少女だ。
それだけでなく、彼女はとても優しく、知的で、周囲の人望も厚く、
そしてその事を鼻にもかけなかった。
  学校の男は妹を恋心と下心の交じり合った視線で、
女は羨望と嫉妬の交じり合った視線でいつも見詰めていた。
それほどまでに(兄の僕から見ても)彼女は魅力的だったのだから無理はない。
  そう、可憐はとても僕の妹とは思えないほどに、正に完璧を絵に描いたような人間だった。

 ――――――ただ一点。『明らかに異常なほど兄を慕っている』ということを除けば。

 

 僕もまだ幼かった頃は気にすることもなかった。兄妹間で仲が良いのはいいことだ、と。
  可憐と同じ年頃の妹をもった同級生が、妹への不満を愚痴る姿を見て、
何となく優越感に浸ったこともあった。
  周囲もそう思っていたらしく、いつも僕の傍にいた可憐を
「本当にお兄ちゃんっ子だね〜」などと微笑ましく見守っていた。
  それがいつの頃からだっただろうか。
徐々に僕は可憐の自分への好意が単純な兄妹愛などではないのだと気が付きだした。
  確証はない。けれど、彼女の僕に対する態度や接し方を見れば、
いくら鈍感な僕でもわからない筈はなかった。
  
  僕も勿論可憐のことは好きだ。可愛くて、素直で、誰よりも優しく、誰よりも僕を慕ってくれる。
そんな可憐を嫌うことなど有り得なかった。
  だけど同時に、その感情が妹以上になることもまた、有り得ないことだった。
  僕にとって可憐は妹であり、
その一線を越えることは彼女がどれだけ熱望しようとも不可能だったのだ。
  けれど、そんな僕の気持ちとは裏腹に彼女はますます露骨に自分の気持ちを表すようになる。
  そして、それに比例するように彼女の独占欲も日毎高まっていった。
  可憐が必要としていたのは僕だけであり、同時に僕もまたそうであることを彼女は望んでいたのだ。
  そうした可憐の狂おしいほどの愛情と嫉妬心に触れる度、
僕はそこから必死で目を逸らし続けていた。

 登下校時に一緒に―――手を繋いで、ある時からは腕を組んで―――歩き、
その途中話しかけようとする女子を恐ろしい眼で睨みつける時。
  僕が風呂に入っているときに自分も一緒に入ろうとしてくる時。
  僕が眠っている間に、いつの間にか同じベッドで眠り、朝嬉しそうに僕の寝顔を眺めていた時。
  バレンタインに僕が貰ったチョコレートを、
妹が恐ろしい笑顔を浮かべて全て叩き割ってしまった時。
  その後、恥ずかしそうに手の込んだ手作りのチョコレートを渡され、
それを口移しで食べさせられそうになった時。
  ・・・・・・可憐が部屋で僕の服を着て、何度も何度も僕の名を呼び、
一心不乱に秘所を弄っていたのを見てしまった時。
  その度に僕は何度も自分に言い聞かせていた。
  これはあくまで一時的なものなんだ。
いずれ可憐が恋をして、好きな人が出来たら直ぐに忘れてしまうものなんだ、と。

 ああ―――今ここで懺悔しよう。つまり、僕はただの卑怯者だったのだ。
  恐かった。
  可憐の想いに応えることが恐かった。それで彼女が世間の奇異の目にさらされることが。
そして、何より可憐のあれほどの愛情を全て受け止めることが。
  可憐の想いを否定することが恐かった。それで可憐が傷ついてしまうことが。
そして、何よりそれで自分が死ぬほど苦しむであろうことが。
  そして僕は何も気が付かないふりをすることにしたのだ。
居心地のいい、可憐の兄という立場が変わってしまうことを拒否して、
必死で鈍感な兄を演じ続け―――可憐を苦しめて続けていた。

 一年前の出来事も、結局のところ僕が引き起こしたも同然だったのだろう。

 一年前、僕は新しく大学で新しく彼女ができたことで浮かれていた。
  それまでは妹と同じ学校―――可憐の学力なら県内最高の進学校も選択できたのだが、
彼女は頑なに僕と同じ平凡な高校への進学を望んだ―――だったため、
女友達さえ僕にはいなかったのだ。
  ようやく妹の影に怯えることなく、僕は自由に大学で交友関係を広げることができた。
  それまで妹以外殆ど接することのなかった女の子との会話は、
僕にとって新鮮で、楽しいものだった。そしてその中で白井さんと出会ったのだった。
  お互いに初めは何でも話せる友人という感じだった。
それが一緒に遊びに行ったり、同じ時間を過ごしたりしていくうちに、
段々とお互いを意識していった。
  それから暫くして僕は勇気を出して告白し、
白井さんは満面の笑顔と共に、僕の想いを受け入れてくれたのだった。

 勿論、そのことは妹には言っていない。
  その理由はさっき述べた、可憐の愛情を直視したくないものが主だったものだ。
  また大学に進学してからというもの、学校が違う為昼間僕に会えない、
お兄ちゃんを守れない、と可憐が若干精神的に不安定だったためでもある。
  とにもかくにも、色々考えて、いずれ時期を見て可憐には僕たちのことを話そうと思っていた。
  そうして僕は可憐の目を盗んで白井さんと交際し、関係を深めていったのだった。
  今から考えてみれば、この時可憐は何となくわかっていたのかもしれない。
  昔から僕のことをずっと見詰めていたのだ。些細な、自分で気が付かないほどの微細な変化にも、
可憐が気が付いていた可能性はある。

 そして丁度今日、12月24日。
  その日の夜、僕は白井さんの部屋にいた。その頃僕は家族と一緒に住んでいたため、
マンションで一人暮らしをしていた彼女の家は丁度よかったのだ。
  もしも泊まりになったとしても酔いつぶれて眠っていたといえばいいと考え、
予め可憐には友達と飲んでいると言っておいた。
  デートも食事も終えた僕たちは、彼女の部屋に行き、どちらともなく唇を重ねた。
  そしてそれを合図に、いつものように何度もキスを繰り返し、
互いに愛を囁きあいながらベッドへとなだれ込んだ。
  恥ずかしそうに頬を染める白井さんの体を抱きしめながら、
僕は胸に手をあて、その豊かな質感を思う存分味わう。
  僕の手が動く度に漏れる彼女の喘ぎ声をもっと引き出そうと、僕がその服に手をかけたときだった。
 
  ドンッ!! ドンドンドンドン!!!
  と、いきなり叩きつけられるような音がドアから鳴り響いた。
びっくりした僕が慌てて体を起こすと、
「お兄ちゃん!! そこにいるんでしょう!? 可憐だよ! 開けて、今すぐ開けてっ!!
  お兄ちゃん、お兄ちゃん!!」
  ドアの向こうから大声でそう呼びかけられた。
  いつもの高く、鈴の音のように澄んだ声ではなく、
暗い、ドロドロとした感情が幾つも混じりあった、そんな声色だった。
  お兄ちゃん、お兄ちゃん! と何度も何度も狂ったように叫びながら、
ドンドンと物凄い音を立ててドアを殴りつけている。
「どうしてっ!? お兄ちゃんは可憐のことが嫌いなの!?
  お兄ちゃんに嫌われちゃったら・・・・・・可憐もう生きていけないよ!!
  お願いお兄ちゃん、何でも言うこと聞くからっ、だから、お願いだからここを開けてっ!!
  可憐のこと一人にしないで!!」

 白井さんが不安げに僕を見詰め、抱きついてくる。
その瞳はドア一つを挟んだ所にあるおそらくは彼女が目にしたこともないであろう狂気に怯えていた。
  その瞬間も一秒ごとにドアを叩く音は激しく、僕の名前を呼ぶ声は大きくなっている。
  流石にその状況下で、自分には関係ないことと無視するわけにはいかなかった。
  それに、こんな可憐を放っておくことも僕にはできなかったのだし。
  意を決して僕は立ち上がると、尚も物凄い音で鳴り続けるドアへと進んでいき、
そして震える指先で鍵を外した。
  瞬間―――
「お兄ちゃんっ!!!!!」
  ドアが勢いよく開かれると涙声と共にいきなり外にいた可憐に抱きつかれる。
  いきなりのことにどう反応していいのかわからず、戸惑う僕の胸で可憐が泣きじゃくる。
  嗚咽と泣き声で途切れ途切れになっていた彼女の声はひどく聞き取りにくかった。
  それでも、「可憐はお兄ちゃんのことが大好きなのにどうして嘘吐くの?」、
「お兄ちゃんはあの女には騙されてるの」、「可憐が絶対に守ってあげる」
といった科白は何とか聞き取ることができた。
  そしてその言葉に僕が疑問の声を発するよりも早く、僕に抱き付いていた腕を離し、
血走った眼で家の中を睨むと、そのまま土足で室内へ上がりこんでいった。

 あまりの展開に頭がついていかず、僕は僅かな時間放心していた。
だが、突如聞こえた彼女の悲鳴に我に返ると、慌てて彼女の元へと走り出した。
  部屋に飛び込んだ僕が眼にしたのは、どこに隠し持っていたのか、
その手に包丁を握り締め、恐ろしい形相で白井さんを睨みつけている可憐の姿だった。
「っ!? 可憐、やめろ!!」
  今にも白井さんに向い走りだそうとする可憐を、僕は必死で羽交い絞めにする。
そうでもしないと、妹は躊躇うことなく白井さんを刺し殺していただろう。

「お兄ちゃんっ、邪魔しないで!! 許さない、可憐の、可憐だけの、
大事な大事なお兄ちゃんをよくも・・・・・・!! 許さない、絶対に、絶対に殺してやる!!」
  僕の拘束を振り払おうと暴れながら―――それでも僕に包丁が刺さらないように
注意はしていてくれていたようだった―――怒鳴りつける可憐。
  その小さく細い体のどこにそんな力があるのか、物凄い力でずるずると可憐に引きずられる僕は、
怯えて固まっている白井さんに今すぐ出て行くようにと大声で呼びかけた。
  それを聞いた白井さんが震えながらも立ち上がり、部屋から出て行こうとするのを見て、
可憐がますます激しく暴れた。
  そして一瞬右手の拘束の緩んだ隙を突いて包丁を白井さんに向って全力で投げつけた。
  悲鳴を上げてしゃがみこむ白井さん。間一髪、包丁は彼女の頭上を掠め、
バリンと音をたて、窓ガラスを破るにとどまる。
  白井さんが泣きながら必死で部屋から逃げ出した後も、僕はひたすら可憐を押さえつけていた。
凶器がなくなったとはいえ、今の妹なら素手で白井さんを殺害しかねなかった。
 
  結局、僕が妹の拘束を解いたのはマンションの住民から通報を受けた警察がやってきたときだった。

 その後、可憐は警察に連れていかれた。
  住居不法侵入や、何より殺人未遂を起こした可憐だったが、
未成年ということもあり、幸か不幸か施設に半強制的に入れられることが決定した。
  連絡を受けた僕の両親も、最終的には同意した。
  可憐は泣きじゃくりながら僕と離れたくはないと言っていたが、
僕はそんな彼女に対して何もしてやれず、ただ必ず会いに行くからと約束することしかできなかった。
  そして僕はその後両親と同じ家に居辛くなり、逃げるようにして一人暮らしをはじめたのだった。

 一方白井さんは、彼女に合わせる顔がなく別れようとした僕に、
「妹さんのことはもう気にしないでよ。私もあなたも無事だったんだから、もういいじゃない。ね?
  もしどうしてもそういう風に思えない、私に対して申し訳ないって思ってくれているんなら、
私がそれを忘れちゃうくらいに幸せにしてほしいかな・・・・・・」
  微笑みながら僕にそう言ってくれた。

 それから僕は暇さえあれば可憐に面会に行った。
せめてそうしてやることが、可憐に対する唯一の償いだと思って。
  可憐は僕が会いに行くたび、ぱっと笑顔を咲かせ、歓迎してくれた。
  施設の中で彼女は暴れることもなく、僕と話していても嫉妬心や執着心など微塵も見せなかった。
  以前のように過剰な愛情を向けることも泣く、また僕を恨み憎むわけでもなく、
本当に、まるで昔の可憐がそのまま戻ってきたような樹がした。
  少し前に僕が施設で「白井さんとはまだ付き合っているの?」と可憐が訊ねた際、
躊躇いながらもうんと頷いた時もそうだ。
  可憐は少しだけ寂しそうに「そうなんだ・・・・・・」と呟いたものの、
特に取り乱すこともなく、それ以降も普通に会話を続けていた。
  やはりあれは思春期特有の精神的な不安定さからくるもので、
直ぐに収まる類のものだったんだ、と。
  そしてこの分ならもう直ぐ可憐が施設から出てこれる、と。
 
  そう思っていた矢先、先程施設から彼女の脱走を知らせる電話が入ってきたのだった。

 僕が茫然自失の状態に陥っていたその時、ぷるるるる・・・・・・と、突然家の電話が鳴り響いた。
  飛び上がるほど驚いた僕はおそるおそる電話を取る。
  すると、
「もしもし? お兄ちゃん? こんばんは、可憐ですよ?
  ふふふ・・・・・・こうして電話で話すのって久しぶりだよね」
  そんな楽しげな声が受話器から聞こえてきた。
「か、可憐!? お、お前、どうして逃げ出したりなんかしたんだよ! 今一体どこにいるんだ!!」
「どうしたんですか、そんなに大きな声を出したりして?
  可憐は別に逃げ出したりなんてしていませんよ?
  ただ、ちょっとお兄ちゃんにご用があっただけです」
「用・・・・・・?」
「はい。お兄ちゃん、今日は何の日かわかりますか? 今日はクリスマスですよ?
  恋人たちは・・・・・・やっぱり一緒にいないと」
「恋人・・・・・・? 可憐、お前何を言って・・・・・・いや、そんなことより、今すぐ施設に戻るんだ!!
  僕も一緒に行ってあげるから!」

狼狽して思わず上ずる声で怒鳴る僕だったが、特に気にした様子もなく、
平穏な―――平穏過ぎるくらいの声で答える可憐。
  何故こんなことをしたのか問いただそうかと思ったが、
それよりもとにかく施設に戻すのが先決だと考え、僕は一緒に帰ろうと可憐を諭す。
  だが、受話器から聞こえてきた答えは謝罪でも言い訳でもなかった。
「帰る・・・・・・? はい。だから今から帰りますよ。可憐の・・・・・・可憐とお兄ちゃんのお家にね。
  今繁華街の裏通りに居るんです。
だからもうちょっとかかっちゃうけど、急いでいくから待っててね。
  あ、そうだ。今年のクリスマスプレゼントは楽しみにしていてくださいね?
  うふふ・・・・・・用意するのなかなか大変だったんですから。気に入ってくれたら嬉しいな・・・・・・」
  至って普通の声で、至って普通でないことを言う可憐。
  はぐらかしともとれる言葉を残し、いきなりぶつりと電話は切れてしまった。

「どういうことだよ・・・・・・」
  僕も何となく可憐の様子が尋常ではないことに、このまま放っておくのはまずいと気付いていた。
  でも可憐の今いる場所も正確には分からないのに探しにいくより、
来ると言っている以上ここで待つ方が確実だとは思えた。
  一応施設に電話を入れ、今妹から電話があったこと、様子が少しおかしいこと、
家に来ると言っていることを伝える。
  担当の先生もそれを聞き、やや安心した様子で、
「きっとクリスマスになって、どうしてもお兄さんに会いたくなったんでしょう。
まだ子供ですし、あまり強く怒らないようにしてあげてください。
  それと連れて来るのは明日でもいいので、今日は可憐さんに付き合ってあげてくれませんか?」
  と話してくれた。

 なるほど。確かにそうかもしれない。
  可憐も寂しくて仕方なかったのだろう。面会だけでは我慢できなかったのかもしれない。
  それを考えるとクリスマス・・・・・・聖夜くらいは我侭を聞いてあげるべきだろう。
  白井さんには悪いけれど、今日は妹に会ってやることにしよう。
そう思った僕は白井さんの携帯に電話をかける。
  だが、

「・・・・・・あれ? でない?」
  何回電話をかけても白井さんが出ることはなく、留守電に繋がってしまう。
  何だろう・・・・・・嫌な予感がする。
  メールを送ってみても返事は返ってこない。
  そうして何度目かの電話をかけようとした時、再び家の電話が鳴り響く。

「もしもし・・・・・・」
「あ、もしもし。お兄ちゃん、可憐ですよ。
駅前の大通りを歩いているところです。楽しみだなぁ・・・・・・早く会いたいね」
  先程と同じく、楽しそうに弾む声。
  迎えにいこうかという僕の提案はそのまま無視し、
彼女はようやく会えると嬉しそうに笑い話を続けていく。
  その態度に違和感を覚えつつも、僕はなるべく刺激しないように話を続けていった。
  ただ、電話が切れる直前、可憐の声質が初めて少しの変化を見せた。
  底冷えするようなくらい愉悦を含んで、くすくすと笑い声と共に囁かれる。

「あ、そういえば電話してたみたいだけど・・・・・・無駄ですよ?
  だって、あの人が電話に出ることは二度とないんですから」

 僕が疑問の声を上げるより早く電話は切れてしまう。
  それからも等間隔で、丁度五分毎に、可憐から電話がかかってきた。
 
「もしもし、可憐です。今、歩道橋を渡ってます」

「もしもし、可憐です。今、商店街を歩いているところです」

「もしもし、可憐です。今、中学校の近くです」

「もしもし、可憐です。今、大きな坂を上っているところです」

 規則正しく報告される場所は、確実に自分の家へと近づいていた。
  本能的にドアの傍まで行き鍵を確認する。
  ・・・・・・大丈夫。鍵はしっかりとかかっていた。
(って、待てよ僕。どうして妹が来るのにいちいち施錠して、しかもそれに安堵しているんだ?)
  そこまで考えて妙に怯えていた自分が急に情けなくなった。
そう、何もそんなに過敏になることじゃない。
  ようやく僕に会える嬉しさからだと思えば、妹の様子がおかしいのもわかるじゃないか。
  まったくそれにしても可憐の奴もわざわざ家に電話までかけて――――――

 ちょっと待て。
  そこで僕は気付いてしまう。
  僕は一度たりとも新しく引っ越した先の電話番号を話したことなどなかったと。
  そして―――施設に入っていた妹は、携帯電話をもっていなかったことを。
  じゃあ、じゃあ、今妹はどうやって、どうして僕の家に電話することができたのだろう・・・・・・?

 再び電話が鳴り響いた。
  僕は震えそうになる足を必死で押さえつけ、擦れる声で可憐に問いかけた。
「もしもし、可憐です。今、お兄ちゃんのマンションが見えました」
「か、可憐。お前、お前今どうやって電話してるんだよ・・・・・・?」
「もうすぐですよ、お兄ちゃん。後五分くらいでつくと思います」

 電話が切れた瞬間、僕は急いで白井さんの携帯に電話をかける。
  一回、二回、三回・・・・・・やはり出ない。それでも諦めず、何度も何度もかけ直す。
  そして十何回目。機械的な音声が流れ出す前に、プツリと呼び出し音が途絶えた。
  当然僕は何も押していない。ということは―――
「もっ、もしもし!! 白井さん!? 何ともないの!?
  よかった・・・・・・っ、そうだ。今ここに来ないで!
  絶対に来ないで! 妹が、可憐が来てて・・・・・・!」
  安堵と焦りからか、早口で捲くし立ててしまう。
そんな僕に驚いたのか、受話器からは何も返事がかえってくることはない。
  耳の痛くなりそうなほどの沈黙が続く。

 僕もそれに異変を感じ、落ち着いてもう一度呼びかけようとした時だった。
「白井さん? 大丈―――」

「もしもし、可憐です。今、お兄ちゃんの部屋の前にいます。
 

 ―――だから、言ったじゃないですか。電話しても無駄だって」

 ブツリッ。
  長い沈黙の果てに僕の声にこたえたのは、
有り得ない、そこから聞こえてはいけないモノの声だった。
  理解できない。理解したくない。
  それが何を指し示しているのかわかってしまえば、僕は発狂しかねなかった。
「はっ―――はっ・・・・・・ッ、はぁっ―――」
  暴れだしそうになる呼吸を懸命に押さえつける。過呼吸を起こしそうなほどの恐怖。
  僕は何も考えることができず、ただ無意識の内にドアの傍まで歩き出す。
  鍵は―――きちんとかかっている。

 そして、永遠とも呼べる時間の後、今度は僕の携帯が鳴りだした。
  携帯の画面を見れば、そこには『白井さん』の文字。
  僕は、それに出ることなどとても出来ない。
  同時にガチャガチャガチャとドアノブを鳴らす音が響く。
「ひいっ・・・・・・・・・・・・!!」
  情けない悲鳴と共に後ずさる。
  薄っぺらい、この恐怖に対抗するにはあまりに頼りないドア一枚が、今の僕を支える全てだった。

 ドアから聞こえていた音が、そして延々と鳴り続けていた携帯の呼び出し音が、突如掻き消えた。
  一転して、一切の物音が途絶えた静寂が訪れる。
  死に絶えたかのように静まり返った空気の中、僕の荒い呼吸の音だけがする。
  そして。
  カチッと差し込まれる音、その後、ガチャリと何かが外された音。
  鍵は―――かかっていなかった。

「こんばんは、お兄ちゃん」
「か、可憐・・・・・・」
  目の前でにっこり微笑む可憐。いつも傍で見せてくれた、僕の大好きだった笑顔がそこにあった。
  その手には、何故か握られているこの家の鍵。
  何故だろう―――その鍵についているマスコットは、確か、確か白井さんのもので・・・・・・
「あはは、お兄ちゃん驚いてる。でも嬉しいなぁ・・・・・・
またこうしてお兄ちゃんと会えるなんて・・・・・・あっ、そうだ」
  無邪気にはしゃいでいた可憐が思い出したように呟き、そして手に持った紙袋をがさごそ漁りだす。
「はいっ、これ。お兄ちゃんへのプレゼント。
ちょっと苦労したけど、結構綺麗に取り外せてるはずだよ?」
  呆然と立ち尽くす僕に、少し自慢げな表情を浮かべた可憐から、
綺麗に装飾された箱が差し出される。
「開けていいよ? ふふふ・・・・・・でも可憐びっくりだよ。
だって、お兄ちゃんを色気で惑わす雌猫も、そんな面白い表情が出来るんだから」
  一切の光を映さない、淀んだ暗い瞳で僕に笑いかける可憐。
  手渡された箱からは、見た目に反してずしりと重い質量。
そこから、ポトポト真っ赤な滴が次々と床に垂れていく。
  思考を停止したままの僕を尻目に、ドアがゆっくり締められ施錠される。

 ―――意識を失う直前、僕と外界が完全に遮断されたことだけは理解できたのは
果たして幸せだったのだろうか?

2007/12/26 完結

 

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