夕食を終えて、洗いものを済ませる。
一人暮らしには少し大きめの食器乾燥機に数日分のお皿を詰め込んで、あとは放置。
前掛けを外し、ベージュ色のソファに腰を降ろした。
ウレタンとスプリングが私の体を深く包んでくれる。
リモコンでテレビをつける。チャンネルを回して、シーンをザッピングしていく。
中東の爆撃のニュース、旅館の料理、芸能人、ガッテン、見るものはない。私はテレビを消した。
小さなテーブルに詰まれた女性雑誌。手にとって開く。先週読んだ内容。
トレンド? 芸能? この無気力な私の興味を引く記事は、すでに読み終えている。
雑誌を元に戻した。背もたれに首を置いて、白い天井を眺める自分。寝るには早い。
しかしやることは無い。
時間が潰せない。
時間を使えない。
時間に急き立てられない。それがなぜかとても不安になってくる。
時間に押しつぶされそうなのだ。
何も無い時間というものに。
無の時間に。
「……今日も、やろう……」
私はまた昨日、一昨日、一昨昨日、いつものように、
テーブルの上に置いてある錠剤の瓶を開けるのだ。
中に詰められているのは、緑色した小さな錠剤。
ドラッグではない。数年前に認可され、いまでは普通に世間でも出回っている合法なものだ。
今の私の心を縛り付ける小さな粉の塊。
4粒、手のひらへ乗せる。じっと眺めていると、小さな緑の塊が私を見つめているよう。
『やっぱり。今日もやるんだね』
錠剤の一つが口を開いた。
『いつも、いつも、やめよう、やめようと想っているのに、やっちゃうんだね』
錠剤は、私の心を見透かしたように、皮肉まじりの口調で語り掛ける。
黙れ。
錠剤の言葉を遮りたくて、私は問答無用で手のひらの薬を喉へ押し込んだ。
わかっている。
これが、このクスリが私にとってまったく無益であることぐらい。
どうせ、最後は……これを使ったことに対する後悔しか残らないとわかっている。
でも。でも。
私は、あの甘いひと時が恋しくて、恋しくて、恋しくて、堪らないのだ。
何度も心を傷つけられても。
彼と一緒に過ごした時間の、あの幸福感を忘れることが出来ないのだ。
「うっめぇっ。めっちゃうめぇっ!」
彼は私の作ったカルボナーラをもりもりと口に運んでいた。
そんなにバクバク勢いよく食べてると、本当は味なんてわからないんじゃないのかしらと思うけど。
「どこらへんが美味しいの?」
「ん、えーっと。 とにかく美味い!」
「いい加減なんだから……」
……味なんてわからなくてもいい。
私の料理を食べて彼が笑顔で喜んでくれるだけで、私は幸福なのだから。
私も、フォークでつるつるとカルボナーラをすする。ちょっと塩味が強かったかしら。
つるりとパスタを一本啜り、ふと彼へ視線を向けると、彼は味塩の瓶を振っていた。
彼はもうすこししょっぱいほうが好みなのね。
彼は私の視線に気付くと、口にパスタをくわえたままにぃっと笑いました。
日に焼けた褐色の肌が健康的で、私の心はどきりと高鳴る。
「あはは、わっりぃ。俺、塩辛いのが好きだからさ」
「次から、そうするわ」
「おうっ」
そんなこと言いながら食べ終わると、私はお互いの食器を重ねて、
台所へ向かい洗剤とスポンジで洗う。
しゅわしゅわとあわ立つ洗剤の泡をCMのようにふぅと息で飛ばしながら、
彼の舐め取ったお皿を綺麗にしていく。彼が嘗め尽くしたフォークにスポンジを滑らせて行く。
振り向くと、彼はソファに座ってテレビを眺めていた。
私のかちゃかちゃというお皿がぶつかる音に、
まるで新婚家庭のような気分を味わっているのかもしれない。
そう想うと、私もなんだかそんな気分になってきて、うきうきとお皿を洗う手も楽しく動いていく。
さらりさらりと水ですすぎ、泡を洗い流して、食器乾燥機へ。
私の使ったスプーンと彼の使ったスプーンが重なり合ってて、キスしているみたい。
背中越しに感じる彼の気配。幸せな感じ。
前掛けを外して、ソファに座る彼に後ろから抱きついた。
大きな肩幅と、筋肉質な首元。腕をまわせば、彼の顔が私のすぐ近くに。
「ん、どっしたの?」
「ふふ」
抱きつく私に彼は手を伸ばす。
彼が触れてくれる。私は、体をひねって彼の前へ。そして彼の膝元へ座った。
「なんだよっ。そんなに甘えて」
「そういう気分なの。嫌かしら?」
「いや、もっと甘えてよ」
その言葉が嬉しくて、私は体を彼に押し付けた。服越しに伝わる彼の体。温かな感触。
こうして触れているだけでも心が高鳴なるのに、抱きついてさらに彼に体ごと大きく抱きしめて、
包みこんでもらえるなんて。
キスをせがむように彼の首元へ、唇を近づけた。なぞるように触れる。
すると、彼はくすぐったそうにして笑う。
そして、私の顎を指で掴み顎を上げさせると、すぅっ。
唇が触れ合う。彼の赤い唇と、私の唇。交じり合う。交じり合う。交じり合う。
目を閉じて、二人はキスに没頭する。吸いあい、なぞりあい、愛を確かめ合い……。
クローゼットから覗く女の視線など気付くことなく。
クローゼットを静かに開けて、足音を立てずに二人の傍へ向かう女に、
キスに夢中の二人は気付くことなく。
女が握っていたアイスピックを抱き合う二人の背中めがけて振りかぶる。
彼を奪った泥棒猫に対する憎しみを、銀色に光るこの先端に込めて。
ぐしゃっ。
ぐしゃっぐしゃっぐしゃっ。
ざくっざくざくざくざくざくざくざく。
「お、お前!」
ぐしゃっ。
彼の恐怖に歪む綺麗な瞳に針を押し込む。
ぐしゃっ。
ぐしゃり、ぐしゃり、ぐしゃり、ぐしゃり。
ざくり、ざくざく、ぐしゃ、ざく、ざく、ぐしゃっ。びちゃ、びちゃ、びちゃ、びちゃ、ざくぅ。
目が覚める。
いつもと同じ部屋。ソファにもたれていた私は、脱力感に溢れた体に鞭を入れて起こす。
時計に目を向けると午前1時。2時間程眠っていたようだ。
「やっぱり、どうやってもこうなっちゃうのね……」
緑色の錠剤を眺め、私は一人呟いた。
夢。この薬を服用した自分が見ることになる夢は、いつもこうだった。
私が大好きだったあの人と日常を過ごし、笑いあい、体を触れ合い、愛し合い、
そして最後は背中を刺され二人は絶命。
最悪な夢。悪夢。
そんな夢をこの錠剤は私に見せるのだ。
服用した後目から冷めた私の心を支配するのは、
飲む前よりも肥大した静かな虚無感と寂しさと激しい自己嫌悪だけ。
でも、刺される前までの。あの一瞬にも似た、彼との過ごした時間が。あの幸福感だけが。
とても、とても、大きくて。大きくて。
それだけのために。
私はこれを飲んでいるのだ。
直後に受ける、虚無感も、寂しさも、自己嫌悪も。
この甘いひとときさえ、感じられるのならば。私は何も要らない。
「私は、この甘いひとときさえ。一切……あなたから貰えなかったのだから」
部屋の隅で、もう二度と動かなくなった顔面ぐちゃぐちゃの彼と、
背中を赤黒に染めた女の姿を眺めながら。
私は一人呟いた。
(終わり) |