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―――耳を澄まし、息遣いを隠し、一切の動きを止め。ただ、目標へと意識を傾ける。

 遠く、パチパチと薪の爆ぜる音が聞こえてくる。
それに合わせ、男達の陽気な声が幾重にも森の中に反響する。
  愚かなことだ。
  身を潜めている茂みから窺う限り、標的たる盗賊達は、
いまだこの森林に潜む侵入者の気配を察せぬまま、宴に酔いしれている。

「隊長、敵はどうやらこちらに気づいていないようです」
「数はどれぐらいいるの?」
「焚き火の周りに二十人ほど、それに見張りが各方にニ人づつ。念の為に周囲を探らせましたが、
それ以上の人員は無いものと見ていいでしょう」

 半端な装備に警備の甘さなどから考えて、おそらくろくな訓練を積んでいない
ならず者の集まりなのだろう。

「これで安全圏に逃げたつもりだなんて、うちの隊も随分と舐められたものね」
「同感です。……して、いかが致しましょうか」
「ふふっ…どうせすでに準備は出来てるんでしょう?」

 言いつつ、おもむろに手を挙げた隊長が、そのアイスブルーの瞳に、たっぷりの余裕と、
私に対する信頼の意を込めた視線を宿す。

「より迅速に上官の意に応える為、当然の事です」
「そう言うと思ったわ。…うん、あたしの補佐が務まるのはサンドロだけ」

 機嫌良さげに目を細めた彼女が、その手を振るい、

「―――全隊員に告ぐ。速やかに賊共を襲撃・掃討したのち、奪われた物資を回収せよ!」

 指を鳴らす。その瞬間。
  幾条もの弓矢の風を切る音が、正確に数人の賊の心臓を射抜いた。
  突然の事態に、残りの連中が戸惑っているその隙に、

「突撃ィッ!!」

 剣や槍を装備した部隊の、一斉攻撃が始まった。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 右に左に、声、声、声。
  道行く旅人や世間話をする市民、軒先に店を広げて声高に品物を売る露天商。
城下町はそんな人々の活気で溢れていた。

「今回の敵もまるで歯ごたえがなかったわ」
「国内で起きる事件や紛争など、ほとんどそんなものでしょう。
厄介な問題は無いに越したことはありません」

 あればそれは、すぐに私達の目の前にやってきてしまうから。
  それこそ、隣国との戦争でも起きようものなら、今いるこの城下町の明るい空気も、
血と闘争にまみれたそれへと早変わりする事だろう。
  物足りない、といった面持ちを見せていた隊長も、一転して惚けた笑みを浮かべる。

「そうね。あたしもサンドロと一緒に戦場を駆ける機会が減ったのは残念だけど、
こうして二人で街を歩いたりするのも、その、……良いものだと思うわ」
「隊の装備の補充、及び情報収集を兼ねた市街の警邏という事をお忘れなく」
「…それが、プレゼントを選びながら言う台詞かしら?」
「お言葉ですが、それは隊長が、「日頃の感謝の意を込めて、サンドロはあたしに何か贈り物でも
するべきだと思うの。そこのところどうなのかしら? あたしとしては最近は装飾類が
欲しいかもだけれど、どうなのかしら?」と、昨日の昼から詰め所から出るまで
延々言い続けていたからでしょう。周りに他の者が居るのも構わずに」
「ええ、わかってる、わかってるわ。こうした行為には色々と言い訳が必要だもの。
それはサンドロだって例外じゃないわ。だってあたしも、今かなり照れてるんだから」

 皮肉と嫌味とを、口調と顔の両方に多分に出しつつ牽制したが、どうにも堪えた様子は無い。
めげない人である。

「ときに、リィス隊長。隊長は「社交辞令」という言葉をご存知でしょうか」
「「嫌よ嫌よも好きのうち」ならば耳にした事があるけど」
「隊長、それは世に蔓延る加害者達の免罪符です。デマに惑わされてはいけません」
「でも、「やらずに後悔するよりもやって後悔しろ」って昔の偉人も…」
「隊長、それは今貴女の頭に浮かんだ新しい格言です。歴史の捏造は良くありません」
「そうやって憎まれ口を言いつつも、しっかり良い品を選んでくれてる。
あたしはサンドロのそんなところが大好き」
「恐縮です。ええ、恐縮ついでにいっそ消えて無くなってしまいたいくらいです」

 しっかりと選ばなければ、後で恨み言を山程言うくせに、まったく口の減らない人だ。
  それでも仕事はきちんとこなすのだから文句は言えない。まあ、愚痴はこぼさせてもらうが。

「そんなの困るわ。サンドロが居なければ誰があたしの副官をするっていうのよ」
「何を。隊長ほどの人であれば、副官など居なくとも敵を倒すぐらいは問題無いでしょうに。
それでも自分の片腕を置きたいのであれば、有志を募ると良いでしょう。
隊長の奴隷となっても構わないという仕官が二桁は集まるはずですよ」

 前例があったのだから間違いない。
  彼等はきっと嬉々としてコキ使われるはずである。
私は仕事量の斜め上へと飛んだ酷使は御免被るが。
  リィス=ブラム。
  かつてこの国を巻き込んだニ年に及ぶ戦争の中、当時若干十六歳で貴族の一門たるブラム家から、
兄達を無能と誹り自ら軍人となり、手持ちの部隊で局地戦における軍の窮地を幾度と無く救った女傑。
  歴戦の将軍らもかくやというほどの武勇を持ち、髪に身体に目に肌に、
これでもかと言うくらい美しさを強調しているその姿は、味方にはさながら戦乙女に見える事だろう。

「……嫌」
「はあ」
「言った筈でしょ。サンドロじゃなきゃあたしの片腕は務まらないんだから。
他の凡百の仕官兵なんかに用は無いの。あたしには、サンドロが居ればいいのよ」
「例え話です。お気になさらずとも、貴女は私の上官で、私は貴女の部下だ」
「むっ…はぐらかさないで。あたしが言いたいのはそうじゃなくて」
「隊長」

 食い下がろうとする彼女に、私はその場凌ぎの餌を撒く事にする。

「これなんてどうでしょう、きっと隊長に良く似合うはずですよ」
「…またそうやって誤魔化す。卑怯者」

 くい、と、自分の目の前に差し出されたネックレスを、隊長が恨めしそうに見やる。

「嘘は言ってません」
「ふん…待ってなさい。すぐに付けるから」
「いいえ、私が付けましょう。そのまま動かないで」

 言うなり、出来る限り優しい動作で、肩までかかる銀糸のような細く美しい髪を分け、
その細い首筋に金のネックレスをかけてやる。
  隊長は一瞬驚きに身を竦めたが、微かに頬を赤らめる以外はすっと大人しくなってくれた。
  予想通り、ネックレスはばっちりと似合っていた。恰幅の良い髭の商人に代金を払うと、
私達は城の方へと戻って行く。

「……本当に、卑怯な奴」
「それが嗜みです」
「名前で呼んでもくれない」
「普通に呼んでいるじゃないですか。リィス隊長って」
「隊長は余計」
「リィス殿」
「…わざとやってるでしょ?」
「卑怯者だそうですので」

 不満をもろに表情に出している隊長に、皮肉混じりの笑顔を向ける。
  それを見た隊長が、さらに落ち込んだ顔を見せるので、こちらとしても内心参ってきてしまう。

「そんなに沈んだ顔をしないで下さい。折角のプレゼントなんですから」
「優しくない。サンドロはこういうところが、本当に全くこれっぽっちも優しくない。
何がプレゼントなもんですか。一旦喜ばせてから更に落とすんだからもっとタチが悪いわ。
それならいっそ、最初からこっちの誘いを断ればいいのよ。
それは、まあ、断られても強引に取り付けたのは他でもないあたしだったけれど…」

 尚もグチグチと不満を並べる彼女を見て、どうしたものかと思い悩む。
  本当は、この曖昧なくらいの友好関係が一番良いんだが。あまり焦らして煮詰めるのも
互いの為にはならないし、私とて些か忍びないものがある。
  別に嫌いなわけではない。容姿は勿論だが、性格的・人間的、
あるいは自分との利益関係を考えても、彼女が好意を寄せてくれるというのは
こちらとしても望ましい。
  ただし、それは彼女が私に対し一方的に想いを寄せる場合に限った話。そこで私が応じてしまえば、
色々と不都合が出て来てしまう。正確に言えば、不都合が「出そうな気がする」のだ。

 いわゆる、経験による直感というやつだ。

 それほど長い年月を過ごしたわけではないが、密度で言うなら私にも多少の自信がある。
  そういったこれまでの人生の中で得た経験がそう、まさしく直感的に、
「この女に捕まると厄介だ」と言ってくるのだ。
  戦争中に敵であったこのリザニア国に捕虜として捕らえられ、
紆余曲折を経て、このリィス隊長殿と同じ隊の副隊長として配属されてから一年と少々。
  こちら側への侵入を許してしまえば、際限無く依存し、程度はあれどこちらにもそれを求めてくる。
あれはそういう女だと、機会のある度に本能が語りかける。
  度重なる戦いの中で何度も救われた自分の直感は、道行く老人の説教話のように
あっさりと無視出来るものではなかった。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 話は一年前に遡る。

「これより、この隊の副隊長として配属される事となりました、アレクサンドロ=ディールトンです。
よろしくお願い致します」
「ご苦労様。あたしが隊長のリィス=ブラムよ。先の戦いでは大分我が軍の兵を
屠ってくれたそうだけど、……あんた、そのままの勢いで味方を襲ったりしないでよね?」

 隊に入ってからはじめ、私は隊の副隊長としてここでの身の振り方やルール等、
リザニア軍内部における諸々の基礎を周囲から学んでいた。
  リィス隊長も、最初からああまで私に好意を示していたわけでは無かった。
むしろ、敵国から寝返った兵士として、侮蔑の眼差しを向けていたくらいである。
  そんな自らを取り巻く環境を良くないものと考えた私は、すぐにこの空気を改善する事にした。

「隊長、索敵完了しました。敵の数は正面に百騎余り、左右から遅れて五十騎。
先制攻撃の準備は既に整っております」
「む、そう、……早いわね」

「隊長、これより敵の援軍が来る事が予想されます。ここは一旦砦の中へ退避した方がよろしいかと」
「? どうしてそんな事がわかるのよ?」
「あらかじめ敵軍付近に兵を伏せておきました。間も無くここは敵兵で埋め尽くされましょう。
どうぞご決断を」
「……分かった。聞きなさい! 全隊、これより後方の砦へと急ぎ引き上げるわ!!」

「ご苦労様です。後は私が見張り役を引き受けましょう。隊長はどうぞお先にお戻り下さい」
「アレクサンドロ……。ごめん。礼を言っておくわ、正直助かった」
「いえ、どうぞごゆっくりお休み下さい」

 内心でどう思われていようと構わないが、それが戦闘中にまで影響してしまってはかなわない。
  私はなるべく彼女への印象を良くする様に、下された命令には忠実に従い、
ときには内容を先読みし、およそ気の付く事は全て先に行動して、
自分が補佐役として有能である事をアピールした。
  それでも隊長たる彼女の意思には逆らわず、提案が却下された際も大人しく引き下がり、
優秀であると同時に無害であることを証明する事も忘れない。
  水面下では他の部下達にも気を配り、また、軍務以外の雑用等の面でも
彼女の負担を軽減させようと、積極的に手伝いを申し出て、あれこれと手を尽くした。

 寝返った兵士が味方の信用を得るのは簡単な事では無い。
そこには見える努力も見えない苦労も多分に含まれているのである。
  荒んでいた信頼関係も時間をかけて地道に整えていけば、
いずれは自分にとって居心地の良いものへと変えることが出来る。
そういった事を理解し、実行できる程度には、当時の私も学習していた。
  そうして、惜しみない労力と一月半ほどの時間をかけて、
概ね現在の私の立ち位置に近いものを作るのに成功した。

 だがしかし、あまりに熱心に構い過ぎていた為か、抱かせた感情は友好を通り越し、
あらぬ方向へ走って行ってしまった。
  年若き彼女も、軍の中では常に気を張り詰めていたのだろう。
私に対する彼女の接し方がいつもと変わってきたのは、丁度その頃だったと記憶している。
  最もわかりやすい所でいくと、私の呼び方が変わった事だろうか。

「ああ、来た来たサンドロ。今度の作戦なんだけど…」

 少し照れたような表情で、隊長が愛称で私を呼ぶ。
  既に隊の部下達からはサンドロ副隊長と呼ばれ親しまれていたので、
彼女に突然そう呼ばれようと特にどうとも思わない。
  そのときは、ようやく彼女との友好関係が形となって現れたのだと、むしろ安堵していた。
  ただ、その日の隊長はいつもよりも身嗜みに気を配っていた気がする。

「ありがとう。サンドロのおかげで大分仕事が片付いたわ」

 いつものように、隊の細かな備品の整理を手伝った後で、私に労いの言葉をかける。
  この辺りから、少しの違和感を感じるようになる。
  私が入隊したてだったとき、隊長はこうも軍の雑務をこなしていただろうか?
  小さな疑問は、彼女が手ずから淹れてくれた紅茶と一緒に胃の中に流し込まれた。

「隊長、折り入って相談があるのですが…」

 戦争もじき佳境に差し掛かろうとしていたある日、軍の上層部に我が隊の活躍が認められ、
私は何人かの上官に作戦室へ呼ばれる事になる。
  話の内容は、これまでの戦いによる私の武勲を称え、軍が新たに作る部隊の隊長を務めてみないか、
との誘いだった。
  私が抜けた後の隊にはこちらから新しい補佐官を出すと、
上官の一人が用意していた候補者のリストを出して見せる。
  つまりは、事後処理もしっかりと用意出来ているという事だ。
  待遇のほどを聞いて見ると、なるほど、悪くない条件だった。
余所者の自分にここまでの評価が下されるとは思っていなかったので、正直気分は良い。
  しかし、私が今この隊から外れるのは少し都合が付かない。
断ろうとした私に、彼等は今回の人事異動の発案者たる将軍の名を出す。
ならばと私は同意する事にした。
  後は隊長からの除隊許可を得れば問題無い。私は上官達に礼をして作戦室を後にすると、
隊長のいる部屋へと足を運んだ。

「あれ、サンドロ。どうしたの一体? 何か良い土産でも見つけてきてくれたの?」

 午後の突然の来訪に隊長は機嫌を損ねるでもなく、まばゆいばかりの笑顔で対応する。
  その手に先ほどのリストを手渡し、作戦室での異動の件について私は話した。
  それまでにこやかだった隊長の顔が、一瞬で色を失う。

「…………………………なん、ですって?」
「ですから、私がこの隊を抜けて新しい隊へ行」

「しない」

 言い終える前に、隊長は私の除隊を拒否した。
  手にした新しい副隊長の候補者リストを、躊躇無くびりびりと破り捨てる。

「許可なんてしない。サンドロの除隊は、あたしが認めない」
「…隊長?」
「以上よ。用はそれだけ? なら今から紅茶の時間にしましょ。そこに座ってて、実は昨日、
良い茶葉を町で仕入れてきたの。サンドロもきっと気に入ると思って多めに買ってきちゃった」

 有無を言わせぬ口調で私をテーブルに座らせると、
いつもの笑みを取り戻した隊長が紅茶を淹れに席を立った。

 翌日の朝、私が朝の鍛錬をしに部屋を出ると、先に外で待っていた隊長に、
昨夜の内に異動の件を取り消しにした事を知らされた。
  そのとき彼女が浮かべていた笑みを、私はおそらく忘れる事は無いだろう。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 そうだ。あれから隊長は私に対し、露骨な執着心を見せるようになったのだ。
  今は一見して強気で気丈な態度を見せているが、本格的に交際でも始めようものならどうなる事か
わかったものではない。
  純真で一途な想いを持つ女性は美しいと思うが、それも匙加減一つで違うものへと変わってしまう。
  人間、軽い失敗は中々学べぬものだが、一度大きなミスを犯したら、
それと同じ種類の事には過剰なまでに敏感になるものだ。
  過去に、そうしたタイプの女から痛いほどに味わった教訓が、
私に女性に対するちょっとした警戒心と遠慮を植え付け、半ば強制的に拒絶を促す。

「……仕方ありませんね」

 それでなくとも、この手の女性というものは、
それとは別のところにある本能を揺さぶってくるので苦手だ。
  少しばかり相手に接近を許し過ぎた。これ以上向こうに要らぬ期待を抱かせる前に、
ここで適度に引き離しておく必要があるだろう。

「貴女のいるこの隊に配属されてから、今日まで様々な形で口説かれてきましたが」
「…サンドロ?」

 嘆息をついてそう言う私から何を察したか、
隊長は期待と不安の入り混じった目でこちらをじっと見ている。

「今、貴女の期待に応える事は出来ません。残念ながら、私にも都合というものがあります」
「何よそれ。なら何時なら良いの。あたしはどうすれば良いっていうの?」
「どうもしなくていいのです。私は貴女の望む関係になるつもりはありません。ありませんが」

 縋るような双瞳。ああ、私も出来ればこのぐらいが丁度良いのだが。
あれを思うと胃が痛んで仕方が無い。
  我ながら結構な小心者っぷりである。しかし仕方ない。
生きる上での面倒事など、ほどほど程度にあればそれで良いのだ。

「貴女がこの国の全軍に指揮を執れるほどになったなら、
そのときは一生貴女の片腕だろうが何だろうが謹んでお受けしますよ。
それまでの差が、そのまま、今の貴女と私との距離と思って下さって結構です」
「な………」

 言ってから、自分でも随分と無茶苦茶な要求をしたものだと思う。
  ようは、この国で最も偉い将軍になれ、と、そう言ったのだ。
  それこそ歴代の戦貴族達が、いくつもの大きな功績を積み上げようやく手にするだろう地位だ。
若くしてすでに一つの中隊をまとめ上げている彼女だが、それよりはるか上を行く地位への躍進は、
冷静に考えれば不可能である。

 というか、勢いで言ってしまったが、もう少し言い方というものがあったような気がする。
これでは事実上の絶縁宣言に等しいのではなかろうか?
  今でさえ自分より上の立場である彼女に対しこんな要求をするとは、
私の方こそ一体何様のつもりだと言われてもおかしくない。
  もしこの場で斬りかかられでもしたら、単純な力量で劣る以上、どうしようもない。
上官に向かって戯けた事を言ってのけた部下が一人、無残な姿で野に捨てられるだけだ。
  まずい、どうにも余計な事を口走ってしまった。こんな街中で剣の錆となるのは勘弁だ、
すぐに柔らかく訂正しなければ。
  思考は時間にしてわずか三秒。私はすぐさま口を開き、

「た」
「わかった。その条件で良いのね?」

 隊長、の隊の字すら言わせてもらえなかった。
  返事が罵声と斬撃でなかった事が予想外なら、応える隊長の瞳が、
ようやく目標を見つけた肉食獣ように輝いているのも、まったくの予想外である。
  どうやら、彼女は私の想像よりも大分タフで、ついでにポジティブ思考だったらしい。

「………は?」
「ふふっ、どうしたの。呆気にとられたような顔をして。
これまではのらりくらりとかわされてきたけど、これでようやくしっかりと捕まえたわ。
後は全力でその条件を満たしてやるまでよ。そう、サンドロはあたしの隣で
その様を見届けてればいいの。あたしの手助けをしながらね。
うふふっ、ああ、次の戦が楽しみだなぁ♪」
「な、ちょ、隊長待っ…」
「リィス隊長、アレクサンドロ副隊長、出動命令です!」

 丁度、私の声を遮るかのように使者が現れ、軍からの命令を告げる。
  内容は、この間任務で赴いた森から少し離れたところにある平原にて、
今度はここリザニアとは隣国であるイスト国の兵士達が現れ、現在はそこの警備兵達と戦闘中につき、
急ぎ応援に向かえとの事。 隣にいた隊長が、したり顔でこちらを見る。

「どう、サンドロ? まさに天の配剤ってやつじゃない。
神様もあたし達の仲を応援してくれてるみたい」

 もしそうだと言うのなら、物騒な祝福の仕方もあったものだ。
全く以って、笑えないジョークである。

「それでは、なるべく早く敵が去ってくれるようにとも祈っておいて下さい」

 そうして数分後、私達は馬を駆り、新たな戦場へと赴いたのだった―――。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 昼下がりの曇り空、鉛色の雨雲が泳ぐ草原は、今や兵士達の怒号と悲鳴で満たされていた。

「これは、…一体状況はどうなってるの? 敵は一個小隊程度では無かったの?」
「は、それがどうにも、あちらも既に増援要請をしていたようで」
「そんなのは見れば分かる! 報告員は何考えてるの、このぐらいは最初から
考慮に入れておくはずでしょ!!?」

 喜び勇んで馬を飛ばしていた隊長も、これには流石に衝撃を受けている様子。
  もはや先ほどまでの暢気なやり取りなどしている余裕は無い。
私の眼前に広がる景色はまさしく戦場であった。
  敵の数は、聞いていた情報の十数倍にものぼっていた。これではすでに大隊単位である。
  対し、こちらは増援として私達の隊と、他にも指令を受けて来た小・中隊が二つほどに、
現在向こうで見る間に切り崩されていく警備隊のみだ。
  防護陣を生かして、どうにか敵の攻撃を凌いでいるが、
急いで駆けつけなければ押し切られてしまう。
  今の状況ならば防ぎ切れない事は無いが、犠牲は多く出る。
加えて、これ以上の敵の増援が無いという保証はどこにも無い。
そうなれば、ただでさえ数で劣るこの局面はより絶望的なものになるだろう。

「単なるミスと考えるには楽観が過ぎる。現実的に見て、軍の内部に敵の回し者が居たようですね。
こうした外部からの攻撃に対処する命令を出せるということは、
おそらくそれなりの地位を持ったネズミでしょう。
あるいは、我が隊や共に来た小隊を快く思っていない上の嫌がらせか。
……敵方へ攻めるならばともかく、こちらの領土がかかっている事や、今回の咄嗟の命令を考えれば、
前者の可能性が高いですが」
「…あたし達は、その罠にまんま誘き寄せられたわけね」

 隊を戦場へと向かわせながら、隊長が忌々しげな声を出した。
どうやら、私の前フリに乗ってきてくれたようである。

「隊長、まだ状況はそう悲観したものではありません」

 一応、副隊長の体裁として味方を鼓舞する小芝居でも打っておこう。
  私は努めて冷静な声で、これから行うべき作戦を提案する。

「策は大きく二つあります。一つはこの場を離れ、以前来た森付近で戦況を見守りつつ
国へ援軍を要請します。敵が防衛線を突破し次第、そのいくつかをこちらへ誘い込み、
地の利を生かし殲滅ないし撃退を繰り返しながら援軍を待つ逃げの手です」
「向こうの出方次第で即全滅や、そのまま無視されることも考えられるけど」
「なるべく我が隊で受け持てるだけの敵を引き寄せる必要がありますが、
この平原で戦うよりはいくらかこちらに分があります。
幸いにして兵の質は我が隊が上のようですので…」
「そのつもりは無いわ。あるんでしょ? もう一つの勝てる手が」

 勿体振るなと言わんばかりの視線を投げて寄越す。見れば、兵達も一様に同じような、
期待とこれから起こるであろう乱戦への奮起の表情を浮かべている。
  ……きっと彼女というきちんとした隊長役がいるからだろう。
いつもの事ながら、この隊は士気を高めるのが容易に行えてとても助かる。
  この様子ならば、わざわざ逃げの守りに転ずる必要は無さそうである。いつも通り、攻めの姿勢だ。

「ええ、我が隊ならば、更に倍の敵でも耐えられるでしょう。……隊長、指示を」
「うふふ。言わなくっても、皆わかってるみたいね」

 不敵な笑みを浮かべ、隊長が剣を掲げる。

「全隊、これより防衛線へ向かい敵軍を撃退する! 蹴散らすわよ!!」
「「ォォォォォォォォォォッ!!!」」

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 偏に、戦争における彼我の優劣を決めるものは昔から数というのがまず基本である。
  十の兵よりも二十の兵、百の兵よりも千の兵が勝るのは言うまでも無い。
  しかし、実際の戦場においても兵の数がそのまま勝敗を分けるかといえば、
答えはまったく違うものになる。
  数で勝る方が上を行くという理論は、あくまでも互いの兵の質がある程度同じ場合にのみ言える事。
上がりたての新兵と熟練の兵とでは、単体としての質はまるで異なる。
  また、それら兵士個人の力量が個体の質を決定付けるのに並ぶように、
それらを束ねる軍全体の質を左右するものがある。それが士気である。

 例えば、武器を持った十の兵達の元へ一人の兵士が襲い掛かってくる。
相手も武器を持っていて、まずは背後からの不意打ちで一人を仕留め、
残りがその状況を把握しようとしているところをもう一人。
  突然の襲撃を受けた八人はまず混乱を起こし、次にたった一人の兵士に対し恐怖を覚える事になる。
八人が一斉に掛かれば、たかだか一人の人間程度、あっと言う間に無力化出来るだろう。
だが、彼等は想像してしまった。もしそうなれば、確率にして八分の一で自分が死ぬ事になると。
  結果として、九人を包む場の流れ、ペースというものは、
僅かな時間とはいえその一人のみに支配されるのだ。
そのときには、たとえ個人の質が本来近いもの同士であろうと、
互いの士気は大きく開いているのである。
  そして、そこで味方としてもう一人が、少ない方の加勢したとする。
おそらく八人はその瞬間、自らの生存確率を計算していた事だろう。
  大分強引な考え方だったが、この時点ですでに彼等の戦闘は決着が着いていると言っていい。
後はいかに勢いに乗ったまま、未だ驚愕の最中にある敵を倒すかである。
  詰まるところ、人間は不意の出来事に弱いのだ。
それを立て続けに起こし、相手を動揺を誘うのが士気を下げる有効な手段であり、
それでもなお冷静さを保つのが、優秀な兵士と言えるはずだ。

 では、その逆。この例えで言えば少数だった側の兵士達の士気を上げていたものは一体何か。
「どきなさいっ!ここから先はリザニア国が領土、決して行かせはしない!!」
「行くぞ、我が隊の実力を思い知らせてやれ!」

 隊長が槍を振るい、イストの兵を次々と切り裂きながら戦場を疾駆する。
仕留め損ねた者や、隊列を組み直そうとする残りの兵を、間髪入れずに私がもう一度切り伏せていく。
  烈風のような突進によって陣形を崩されたところへ、
周囲のリザニア兵達も口々に雄叫びを上げ猛攻を仕掛ける。
そのあまりの勢いに対処し切れず、敵は成す術も無く散っていくのみだ。
  その様を見た他の小隊も、我も我もと奮起して怒号と剣戟はより激しさを増す。
そして、それに反比例するかのように敵の陣営は旗色を悪くしていっている。
先ほどまでこちらが攻めていたかと思いきや、いつの間にか敵が怒涛の反撃を見せたのだ。
動揺のほども窺える。
  それら各隊の士気の変動で起きている一連の連鎖反応は、
今や追い詰められかけていた戦況をそのまま引っ繰り返す形にまでなっていた。

「何だこいつらは…ひぃぃ!」
「畜生! 聞いてねえぞこんな化け物ッ!!」
「敵は浮き足立っているぞ!この機を逃すなよ!!」

 実は、兵達の士気を最初から格段に上げる方法はそうは無い。
あるにはあっても、その方法はいずれも容易では無いのだ。
  軍隊の士気を高めるものは、これまでの戦闘で成功と勝利を積み重ねに裏打ちされた自信と、
指揮する者のカリスマ性である。
  名だたる名将、勇将たちには、その称号を得る前からか得た後か、
漏れなくこの能力が備わっていた。
  指揮者などとは言うものの、戦場で彼等が下す指揮はある程度熟練した者達ならば、
概ねは似たようなものだろう。
指揮能力とは、奇抜な策を編み出すものでは無く、本来は堅実さと信頼性に重きを置くようにある。
  ならば、その指揮者達の優劣を決めるのは如何なものか。それこそが、カリスマなのだ。
  凡将と名将、その裁量が同じであれば、兵士はどちらの下でならより自信を持って槍を振るえるか。
答えは言うまでも無く後者となり、前者たる凡将が相手たれば、なおその意気は高まる。
  そして、カリスマ性とは指揮者本人の武勇や容姿、ないし智謀や人徳、
家柄等に多分に依存するものだ。
  そう、それを確かだとするのなら、

「行けぇぇぇぇいッ!!」

 ―――前戦争以来、未だ無敗を誇る我が隊の隊長たる彼女に、
その資質が備わっているのは、疑うまでも無い事実だろう。

「敵将の首、このリィスが貰い受けた! リザニアに栄光あれ!!」

 もはや蜘蛛の子を散らしたかのような惨状のイストの部隊に、追い討ちを掛けるように
隊長が首級を掲げ高らかに宣言し、それに呼応してあちこちから兵士達の勝ち鬨の雄叫びが聞こえた。
  窮地を立て直すのにやや骨を折ったが、ともあれ此度の戦いは、無事リザニア軍の勝利に終わった。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 午後の城内。夕焼けに赤く染まった景色のを背に、
戦を終えた各隊の兵士達が馬から下りて自分達の部屋へと戻って行く。

「どうにか前線への合流に間に合う事が出来ましたね、お疲れ様です隊長」
「サンドロこそ。よくフォローに回ってくれたわ、おかげでこっちは敵陣に切り込み放題だった」

 とてもにこやかな笑顔で、馬から降りた隊長が槍を掲げてみせる。

「いや、これまで成功しているから問題無いとはいえ、
敵陣への突進はもう少し抑えて欲しいものです。付いて行きつつ部下達を引っ張っていくのも
一苦労なんで」
「何言ってんの、サンドロならそれが出来るでしょ。
だから今、こうしてあたし達はここに居るんだし」
「……いいですか隊長、少しは部下の苦労というものをですね」
「これで」

 愚痴を混ぜた説教を途中で遮られる。目の前にはいつもの自信に満ちた笑顔に、
熱情の色を宿した隊長が立っていた。

「一歩、サンドロに近づいた」
「そうですね」

 熱っぽい目線を送る隊長に、私はあくまでも平素の表情を崩さない。

「今の戦い。多分だけど隣国との戦争の下火として、上の連中に使われると思う」
「私も同感です。あるいは、これもネズミの撒いた何らかのエサだったのかもしれません」
「そうなれば、また戦争が始まる。あたしはサンドロにもっと近づく事が出来る」

 妖しく、それでいて頼りなげな雰囲気を醸し出しつつ、隊長が私の方へ歩み寄ってくる。
私はそこから動かない。
  ついには互いの吐息を感じられるほどの距離まで来ると、
今さっきまで戦場で槍や剣を振るっていたというのに、
銀の髪から鼻腔をくすぐる甘い匂いがしてくる。
  疲れきっているときにこの匂いは少しまずい。まるで頭の中を揺さぶられているようだ。

「待っていて」

 言って、するりと身体を離すと、隊長は自分の部屋へと戻って行った。

「…………参った」

 向こうの執念に負けて、あんな事言わなきゃ良かった。
  過去の失敗を忘れ、こういうのもやっぱり良いよなと思い始めている自分が情けない。
  軽く自己嫌悪に陥っていると、向かいの通路から衛兵が規則正しい足取りでやって来る。

「アレクサンドロ副隊長、エイブル将軍がお呼びです。至急作戦室へお願いします」
「この疲れてるってときに、本当部下を労わる気持ちが足りてないよなこの国は…」

 エイブル将軍は前戦争にてリザニア軍の攻撃の要として活躍した猛将で、
砦を落とした際に捕虜となった私を牢屋から出し、この隊へと配属させた張本人である。
  齢五十も半ばの爺さんなのだが、とにかくまあ豪胆かつ厄介にしてまことに食えない人物だった。
  今回のネズミ騒動とは多分関係は無いだろうが、未だ油断のならない相手ではある。
色々と恩はあるが苦手なものは仕方が無い。

「今度は何を言われる事やら、あの人やる事成す事情け容赦が無いからなあ…」

 やれ、孫に計略を教えろだの、肩を揉めだの、チェスの相手をしろだの。
  うちの隊長に振り回されるだけでもすでに手一杯だというのに、
老人はいっそ介護でも頼んでろという。
  どうせまたろくでもない事を頼まれるのだろう。私は諦めて作戦室へ足を向けることにした。

 ちなみに、その孫とは他でもないリィス隊長の事である。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「よく来たな、まあそこに座ると良い」

 ノックをし、名を名乗ってから作戦室の扉を開ける。奥の長椅子にどっしりとした身体を預けていた
初老の男性が、白髭をたっぷりと蓄えた強面に、にやりとした笑みを浮かべ私を迎え入れた。
  彼こそが、現在我が軍における最高責任者、リザニアの剣と誉れ高き大将軍エイブルその人である。

「用件は何でしょうか」

 立ったままでいると何をされるかわからないので、一礼してから席に着き、呼び出した用を尋ねる。

「そう急かすでない。……そう、まずは孫のリィスが先週わしに手作りのパイを振舞ってくれた事の
自慢をさせてもらおうか。どうだ、羨ましかろう? 何せ初めて作ったという話だ。
味の方こそけっして美味くは無かったが、その孝行振りにわしは心を打たれたね」
「先週の昼頃、部屋に来た隊長にぜひとも食べるようにと勧められた黒ずんだアレは、
成る程そういった経緯で作られたのですね。
「先に練習をしておいたから、きっとそれよりは上手く出来たはずだ」と言っておられましたが、
さては将軍殿は黒炭でも出されましたか」
「…………切なくなる事を言ってくれるではないか小僧」
「…炭だったのですね」

 焼けば良いというものでもあるまいに。
  壁の方を見て遠い目をしているエイブル将軍は、何やら年相応の哀愁を漂わせていた。
まあどうでもいい。

「で、用件は何でしょうか。まさか身内の虐待話を聞かせる為に
わざわざ呼んだわけではないでしょう」
「おぬしも、その達者な口は直らんようだな。命の恩人に向かってこの扱いとは、
全く以ってけしからん。給料差っ引くぞ」
「度量のほどが窺えますな。隊長殿が聞いたらさぞや哀れと思うに違いありません」
「待て待ておぬしそれは少しばかり卑怯というやつではないか。家族を出してくるのはいかんぞ。
ただでさえ、最近妻にも見放されつつあるというのに。さてはおぬし悪魔の化身か」
「将軍のお家事情は私めの知る所ではございませんが、
少なくともこの身は人より生まれたものと存じ上げます」
「おお、妻よ孫娘よ、ここに上司の恩を仇で返す不孝者の部下がいる。
クソ覚えてろいつか軍法会議にかけてやる」

 言葉は強気ながらも、手ではいじいじと机にのの字を描くエイブル将軍。実にウザイ。
  延々と続きそうな前置きにいい加減げんなりしてきた私は、もう一度はっきりと催促を試みる。

「それは結構ですので、もうそろそろ本題へ移ってもらってもよろしいでしょうか?
  あまり長いとお互い後の軍務に差支えが出ましょう」
「ぬぅ、そうだな。わしも先の戦で上の方が忙しくなったようでの、
これ以上怠けているわけにも行くまいてな」

 机をなぞっていた指を組み、気を取り直した様子の将軍がこちらを見る。
今度はその瞳に幾らか真剣さと凄味が増す。
  私も改めて姿勢を正し、次の言葉に耳を傾ける。

「さて、用というのは他でもない、その戦いについてなのだがな」

 エイブル将軍が、厳かな口調で続ける。

「おぬしにも見当は付いてると思うが、我がリザニアと隣国イストとで
互いに通じ合っている者達がいる」
「ええ、おおよその事態は察しております」
「こちらの方で、先ほどその内の一人を捕らえた。今尋問にかけているところだが、
まあそう容易く口を割る事もあるまい。喋ったとして、有益な情報を持っているとも限らん。
何せ下っ端もいいところだったからな」
「……それで、私に如何な事をお望みで?」

 変わらぬ表情で、私は将軍に問いかける。
  他の上官達ならいざ知らず、この老将が私を敵として見誤る事は無いと思う。
  それ以外の話だというならば、それは一体何か?

「この大陸に、新しい流れが出来つつある。これまでおぬしには孫の背中を守らせてきたが、
それも事情が変わってきた」

 ぎらりと、年老いて尚衰えぬ鋭い眼光を宿し、将軍が言う。

「この国に巣食う虫どもはわしが全て捕らえておく。おぬしにはわし個人の私兵として、
ここへ攻め入ったイストのみならず、いずれはその他の国にも潜り込んで敵の情報網を掴み、
それを逆にこちらへ流してほしい。その為の人員も必要ならば用意しよう」

 自らの内心に浮かんだ僅かな動揺を無表情の裏に隠す。
  それは、つまり、

「向こうの規模の知れぬ網を更に上回る間諜となれ、と?」
「そういう事だ。戦乱の草とくれば、おぬしの右に出るものはそうは居まいて」

 再び長椅子に背を預け、国一の名将が頷く。

 ―――相変わらず、きつい要求を出してくれる。

 私は額に手を当て、しばし考え込む。
  おそらくは失敗に終わったであろう、今回のイストによる襲撃。
しかし、これで両者の間に少なからず緊張が生じてしまった。
  そうなれば襲撃を受けたリザニアは勿論、攻め入ったイストにも今以上の警戒が敷かれる事だろう。
そのイストに、手始めに探りを入れて来いと言う。

 間諜とは、本来何も無い状態においても後の憂いを考え、
機先を制す布石として他の国へ置くのが本来の用途であり、最も効果的なやり方だ。
  それを攻め入られた直後の、このタイミングで敵国へ差し向けようというのは、
普通ならば裏目に出る可能性の高い悪手である。
  だが、

「承知しました」

 この、幾多の戦場で槍を振るい、単純な武勇に優れる強者であり続けながら
決して術数権謀を軽んじず。
  敵軍の兵をして、「名将」と呼ぶに相応しいエイブル将軍が、
何の用意も無しにそんな愚挙に出るとは到底思えない。
  何せ実際に戦場で刃を交えた私が言うのだ。
これほど敵にしたくない相手も中々見つからないだろう。

「引き受けてくれるか」
「……将軍は私の事を些か買い被り過ぎな気がしますが。
此度の件も、おそらく考えがあるのでしょう。それが何かなどと、今更一々問う気はございません」
「そう言ってくれると助かる。おぬしには面倒をかけるな」
「恩義と信用と、ついでにささやかな自負を量りにかければどうという事は。
……むしろ、将軍こそよろしいので? 私は仮にも元・敵軍の将なのですよ?」
「なに、たとえもう一度寝返ったとしても、そのときにはまたわしが引っ捕らえてやる。
それにしても、ささやかな自負だと? よく言うわ、おぬしがそんな殊勝なタマか」

 私とエイブル将軍、お互いにある程度の理解と信頼を表した笑みを交わす。
  作戦とは、元よりそうした上司と部下との繋がりが無ければ成功しないものだ。

 私はリィス隊長の部下として働いてきたが、
それも元を辿ればエイブル将軍の手引きによるものであり。
言ってみれば、エイブル将軍に捕らえられ、捕虜からこの軍の兵に転じたときから、
形の上ではどうあれ私はこの老将の私兵同然に動いていたのである。

「つきましては、こちらに数人手持ちの兵を頂きたいのですが」
「ああ構わん。許可はわしが出しておく、気に入った者を見繕って来てくれ。
行動は早い方が良い、…そうだな、明日までに出る準備を全て整えて来い」

 猶予は一日。妥当なところだろう。
  戦の疲れを癒すべく、さっさと休もうと思っていたが、そうとあれば手早く事を済まさねば。
  私は将軍に向かい一礼をする。
 
「では、これにて失礼…………する前に。そうだ、将軍に一つ申し上げておきたい事がございます」
「む? 何だ、言ってみよ。わしと妻と孫の悪口以外は許す、
それが馬鹿な宰相共なら喜んで聞いてやろうではないか」

 どんと来いとばかりに構えるエイブル将軍に、私は大分無責任な口調で、
ごく最近頭を悩ませている一人の女性の事を口にする。

「ええ、実はその将軍のお孫さんなのですが。どうにも今日から貴方の地位を狙うそうですので、
戦場にてしばしば敵に特攻しに行かれるやも知れませんので、その際はどうかご用心を」

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 空の白み始めた夜明けの城内、身支度を終えた私は自分の部屋を見渡す。

 エイブル将軍との約束から、期日の翌日になった。

 最低限の装備や道具類は昨夜のうちにまとめた。
部下は前日から、適正のありそうな者を軍から選び抜いてある。
  準備は万端だ。

「……行くか」

 最後に、まだ幾らか生活臭の残る部屋に軽く一礼をして、私はドアの取っ手を掴み、

「どこへ行くの、サンドロ」

 ―――開けた先には、無表情のままじっと立っている隊長が居た。

「耳が早いですね。将軍に直接聞きでもしましたか」

 実の孫に迫られては、さしもの大将軍もつい口を滑らせてしまったのだろう。
  仕方の無い人達だ。

「まあいいでしょう、出来れば知られずに行きたかったのですが。
……隊長、私は今からイストへと出向きます」
「……嘘」

 それを聞いた彼女の、宝石のようなアイスブルーの瞳が不安に揺れる。
  私の服の袖を掴み、隊長が苦しげに声を出した。

「嘘よ。サンドロはあたしの部下でしょ、どこへも行かせはしない。
サンドロもあのときそう言った…」
「貴女が私の上官であり、私は貴方の部下であるとは言いましたが、
所属を離れないと約束した覚えはありません」

 きっぱりと言い放つ。

「聞いてない。あたしはこんな話は聞いてない…!」
「貴女の許可を得る必要が無かったからです」
「なんで…なんで、サンドロが行く必要があるの! 間諜ならお爺様が自分の兵にやらせれば良い。
それをどうして、サンドロに行かせる必要があるっていうのよ…っ!!」
「今回の件に対し適格と判断された私が、この隊の隊長である貴女の部下である前に、
エイブル将軍の部下だからです」
「サン…ドロ?」
「現場の上官の指示は聞かねばなりません。
さりとて、それより更に上の命令とあらばそれに従うのが務めです」
「あたし…あたしが、まだ中隊長の地位にしかいないから、サンドロはあたしの元を離れるの…?」

 本当はそれ以前に、私が将軍お抱えの駒としているからなのだが、
わざわざ両人の関係をこじらす原因を撒く事も無い。
  顔中に怯えと戸惑いを見せる彼女の手が、痛いほどに両腕を握り締めてくる。

 その手を、ゆっくりと引き剥がしていく。

「リィス隊長、今まで色々とお世話になりました。
またいずれここへ帰ってきたときにお会いする事もあるでしょう、それまで隊長もどうかお元気で」
「サンドロ…や、嫌だ! 駄目、行っちゃ嫌だ! 待って、サンドロ!!」

 もはや絶叫に近い声を上げるリィス隊長に背を向け、
私は外へ待機させている部下達の所へと歩き出したのだった。

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「よろしかったんで? 隊長殿」

 城の外へ出たところで、後ろの方から声を掛けられる。

「…聞いていたのか」
「すいやせん、どうにもそれっぽい空気がぷんぷんしてたもんでつい」

 へっへ、と、陰気な笑いを浮かべ、特に悪びれた様子も無く私の後に付いて来る痩せた男。
  私がエイブル将軍から兵を借りて編成した部隊の副隊長に選んだ、ゴースである。
  ゴースはリィス隊長の隊に就いたときから共にいた部下で、諜報・参謀能力に優れ、
見た目は悪いが信頼の置ける奴だ。

「構わん。早いか遅いかは別として、あそこに居続けたとしてもいずれ起こるべき事態だったさ」

 まあ、その場合においても、割と早くにありそうだったが。

「アンタも中々の女泣かせでいらっしゃる。リィス隊長は後でさぞかし恨む事でしょうに」
「そうなると思ったから、これまで深い付き合いを避けてきたのだ。
どうやらそれも無駄だったようだが」
「こりゃ参った。我らが隊長殿は女の扱いにも精通してる、まったく大したもんだ」

 もうすぐ残りの部下達との集合場所である。
  変わらぬ笑みで軽口を叩くゴースに、私は溜息を一つ吐く。

「その距離を測り損ねたからあんな事になったのだ。
勘違いするなゴース、私はそれほど上手い人間ではない」
「そう言いつつ、結構良い具合に転がしてたじゃねえですか」
「不可抗力だ。望んでやったわけではないさ」
「へえへえ、ではそういうことにしておきやしょう」

 口が減らないのはお互い様、か。

 これから厳しい環境に身を投じるのだ、それぐらいの気概でなければ困る。
  気付けば指定の場所へ着いていたようだ。
視線の先には、これから共に敵国へ潜り込む為に私が選んだ部下達。
  課された任務は一筋縄では行きそうにないが、なに、やってやれない事は無い。
  せいぜい、あの爺さんの期待に添えてやろうじゃないか。
  こちらに集まってくる兵士達に向けて、私は軽く手を挙げる。

「今日より結成された我が隊に、その身を預けてくれた兵の諸君。お早う。
私が諸君等の隊長を務めさせてもらうアレクサンドロ=ディールトンだ」

 あまり恨んでくれるなよ、リィス隊長。私は悪い奴なのだから。

 まだ土地柄暖かくなっていない初春のリザニア国。
辺りには早朝特有の、全身に染み入るような冷たい風が吹いていた。

2

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 暖かな日差しが差し込む室内に、羊皮紙をめくる音が静かに響く。

「……国の掃除には一応の片が付いた、か」

 エイブル将軍の使者から寄越された報告書を読み終えた私は、その内容にとりあえず安心した。
  直接の連絡手段を持たない今、私とエイブル将軍は、使者を通じて半ば定期的に
報告のやり取りをしている。
  無論、他者に怪しまれないようにと使者は至って普通の配達人を雇い、
報告書には暗号隠語その他色々を使い合わせて、結果私と将軍が恋人同士であるかのような内容に
なってしまっている。
甚だ不愉快な事に、私の文通相手は故郷に一人残してしまった恋人かつ幼馴染のエリスン十八歳だ。
  ちなみに、特にどちらが先に出すとは決められていない。
何らかの進展が見られた側が、それを逐次伝え合っているのである。
どうやら、今回はこちらが先に受け取る側になったようだが。
  というわけで、恋人エリスンからの秘密の手紙を読み解いたところ、
どうやらリザニア国内に紛れた敵国の間諜は、一部を除き概ね始末あるいは懐柔したらしい。
  国の内部に存在する草を一つ残らず根こそぎ除去する等というのは、
すなわち国の滅亡に他ならないと、私は一間諜として考えている。
見えていないだけで、どこにだって人の目と耳は付いているのだ。
  それを考えると、この報告書の内容がジジイのお茶目な嘘八百でも無い限り、
向こうも相当頑張ってくれているようである。
  何も書かれていない羊皮紙を書類棚から机へと引き抜き、自分も椅子に腰掛ける。

「私も、やるべき事をやらねばな」

 羽ペンにインクを付けて、何はともあれ、まずは「愛しのエリスンへ」と前置き。
  続く文章を、私は頭の中であれこれと暗号化していった。 

 

 リザニアを出る際に選抜した隊を率い、敵国の制圧により祖国を追われた将を装って
このイスト国の内部に将兵として潜入してから、もう一、二月ほどで半年が経つだろうか。

 常の如く諸々の下準備をしっかりと整えてからイスト軍に入り、概ね文句の無い状態で
スタートを切ったかのように思われた今回の任務だったが、蓋を開けてみれば、
司令部から末端の一兵卒に至るまで、軍全体に何とも胡散臭い雰囲気が漂っている。
  最も怪しかった一例を挙げるならば、各隊のあちらこちら…あるいは部隊そのものに、
やたらと他の草らしい者達が目に付いた。
  他の一般の軍人がそれに気付くかどうかは知らないが、少なくとも私の部隊の全員や、
もしくは勘の鋭い将はそれとはっきり認識出来る程度に、……そう、これではわざと撒いているのでは
ないかと思えるほど、不自然さが蔓延している。
  原因を確かめる為と、手っ取り早く手柄と信用とを挙げる為に、
手始めに最初の任務にて共に行動する事になった、
あからさまに不審な部隊の隊長を任務完了の直前に締め上げてみる事にしてみたのだが、
やはりと言うべきか、向こうもこちらと同じ事を考えていたらしく、
報告を告げに戻るまでの若干のタイムラグの中、味方同士での小規模な戦闘が起こった。
  とは言え、私もその手の戦いならば慣れたもの。
ましてやこちらの不審さを見出すでもなく、ただ賊のように襲い掛かった来ただけの敵など
寝中の牛を仕留めるに等しい。

 かくして、一方的なうちの隊による攻撃によってあっさりと捕らえられたチンピラ部隊に、
とりあえず現在のイスト軍を取り巻く違和感と、軍の中に居る間諜達について小一時間ほど尋問した。
  隊長をしていた男に血反吐と一緒に引き出した情報は、それまで組み立てていた私の推論を
決定付ける要因となった。

 ―――今のイストは、他国の傀儡と成りかけている。

 それが一体どこの国か。
  考えるまでもない。イストと国境を面している国はそう多くないからだ。

 地図上大陸の北方付近にあるリザニアより西に位置するイストは、
国土面積こそ大国に劣る横長に伸びた形の、北と南とをそれぞれ険しい山々や森林に挟まれ
交易と軍事に乏しい造りとなっているが、しかし、その地形ゆえに他国による侵攻も
正面から少数の軍勢でぶつかるしか術が無く、結果として今日まで王都は戦火に晒されぬまま、
豊富な資源を蓄えた農産業の国として十分栄えていた。
  そのイストに隣接する国といえば、片やついこの間まで争いの気配をちらとも見せず
協調の姿勢を見せていたリザニア。
  そして、片やリザニア国が東方の強国と熾烈な争いを繰り広げている以前から、
じわじわとイストに攻略の手を進めていた工業国イストリア。

 外からでは手間がかかると、内側から侵食されていったのだろう。

 何せ戦争経験に乏しい国である。リザニアから移った兵も幾らかは居るだろうが、
今までがなまじ正面攻撃のみだったのに油断して、計略に対する警戒を怠っていたのだろう。
  私がイストリア側の立場だとしても、イストへ侵攻するならまずは内から攻めるはずだ。
  しかも、あの不自然な空気が放置されたままということは、
おそらくこの軍の上層部には有能な人材が極僅かと限られているのか、
もはや軍の掌握は秒読み段階となっているか。
  前者は国柄からして多分に有り得そうだが、後者は……まだかろうじで間に合いそうだ。
むしろ、そうでなくては困る。
  だが、ならばこの腐敗した軍内部の状況にもある程度納得が行く。

 ―――イストという庭のそこらじゅうに植わっていたのは、
草ではなくイストリアという名の種だったというわけだ。

 

「失礼します、イズルード将軍」
「何だ」

 ノックの音に反応して報告書を懐に仕舞い込むと、使いの衛兵がドアを開け入ってくる。
  イズルードというのはここで生活する際の私の偽名だ。

「定時会議の時間が迫っておりますので、急ぎ作戦室までお越し下さい」
「わかった、すぐに向かおう」

 腰掛けていた椅子から立ち上がると、イスト国軍の模様の付いた甲冑を身に付け、私は部屋を出た。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「イズルード様、参られました」

 衛兵の声と共に私が幕をくぐって出ると、室内がやにわにざわめき立った。
  既に席に着いている他の将兵らが羨望や尊敬、あるいは嫉妬に畏怖を宿した視線を傾けてくる。

「遅れてしまい申し訳ありません。軍師兼第二軍団長イズルード、ただ今参りました」
「いや、丁度良い時間だ。では、全員揃ったところでそろそろ会議を始めたいと思う。
今回の議題は――」

 イスト国王がそう言って私に着席を促し、実際に私が自分に割り当てられた席に座るまで
彼らの目はずっとこちらへ向いていた。
  それら度の過ぎた注目のされようも、私のしてきた事を考えれば無理もないだろう。
  隠密を旨とする間諜として、この注目のされようはよろしくないものなのだが。
今はそんな悠長に構えている暇は無い。

 

 事態は急を要する。もしもこのままイストリアに攻め入られ、完全にイストが陥落してしまえば、
未だ戦後の建て直しが整っていないリザニアが、その直後起こるであろう戦い、
先の平原でのものより更に規模の大きな争いで不利を被る事になってしまう。
  そこで負ける事は無いにしても、敵はイスト、イストリアだけではない。
痛手を負ったのが他の隣国に悟られては、これ幸いと叩かれる事になる。

 そうなる前に私がここで歯止めをかけ、イスト国軍の機能を復帰させる。
  尚且つ、その際に不安定極まりない国の情勢に付け入り、イストリア兵ごとこの国を取り込むのだ。

 およそ並の所業ではない。
  しかしまた、決して不可能でもない。
  現実的に考えれば、この時点ですぐ隣のリザニアに侵略要請を出し、
他の二国より兵の質と勢いで勝る今のうちに徹底的にイストを制圧しておくのが常套策である。
  だが、その場合リザニアとイストリアが争う最前線は、まだ統治者の判然としないイスト領地内。
それも、周囲を山林に囲まれた狭い土地での争いは確実に長期戦になるだろう。

 そんな事になれば、そこに住んでいる民間人はどうなる?
  計略により混乱に陥っている今のイストに、国民を無事に逃す術など当然有りはしない。
どころか、イストリアがリザニアの兵力を削る為の捨て駒として、
真っ先に敵地へと差し向けられる筈。
  後はもう、イストリア軍とリザニア軍双方に、端から端まで国土を蹂躙されるだけだ。
  たとえリザニア軍の進撃がどれだけ調子良く行われ、その中で私もあらゆる策を用いたとて、
どうあってもイスト制圧までには一月以上の時間がかかってしまう。
  そうして残ったものは、無残に荒れ果てたイスト領と、
怒りと絶望に染まった住民達を落ち着かせるための戦後処理。疲弊した自軍に残存勢力との攻防。

 これではリザニアにとっての旨味がまるで無い。
上にスマートさに欠ける辺り、私の個人的な美学にも全くそぐわない。

 件の部隊からイスト国軍の内情を聞き出し、ゴースをはじめとする部下数人により
詳細な情報を数日ほど探らせ、今後の方針を固めてからの私の行動は素早かった。

 まずは取り急ぎエイブル将軍の元へ使者を送る。イスト軍の兵士達は可能な限り捕らえて、
指揮官級の人間で怪しい者が居れば迷わず尋問にかけ、
イストの領土へは決して攻め入る事のないように。
  特にリィス隊長なんかは血気に流行って敵を片っ端から殺して、
勢いのままにこちらに突撃してきそうだったので、そこもきっちりと念を押しておく。

 次に、私はゴース達により寄せられた王侯貴族や、軍の各隊の情報を元に国内の有力者達をイスト、
イストリア問わず、脅迫、勧誘、煽動、交渉、懐柔、篭絡と、とにかく使える手段を全て使って
次々と吸収していった。無論、全ては明るみに出ないよう、水面下で密かに速やかに。
  必要な分だけ手中に収めた軍事的、政治的発言権を駆使し、
まずは徒に兵力を消耗させるリザニアへの進撃回数を徐々に減らして、
最終的にはぱったりと止めさせるまでに至った。
  それと少々遅れてから平行するように、イスト領内で戦闘を行う場合を考慮した
住民の緊急避難時のシミュレートや危機意識を促す演説、加えて兵士達の錬度を上げる為の訓練等、
強引に得たコネクトを最大限に活かして国力回復を計り、それに伴い協力者達の信頼も脆かったものを
より頑丈なものへ固めていった。

 どうにも回避の出来ない衝突や暗闘も数度かあったが、
そうした場合はむしろ周囲に私の存在をアピールし、ともすればイストリアの手足を
少しでも鈍らせるべく、派手にわかりやすく実力を見せ付る。
昼夜を問わず襲い掛かってくる暗殺者には、漏れなく恐怖を植え付け、
こちらの勢力が大きくなった頃には見せしめと敵方の士気低下の為に晒し首にもして見せた。

 そう。こちらの勢力はこの数ヶ月の間に、既にそこまでの事が出来る程に大きくなったのだ。
  このイスト国内において、今や将軍イズルードの名を知らぬ者は居ない。
  現在この地で起こる出来事に、その全てに大小あれど私が関与していると言っても
過言ではないだろう。
  それほどまでに私がイストを動かし、急速に国を纏め上げていっていた。

 こんな無茶がまかり通ったのも、偏に国の極端な不安定さと、
侵略する側のイストリア兵とされる側のイスト、共に頭の回る有能な人材が私の前に
立ちはだからなかった事が最も大きな理由だ。要するに運である。
  いずれ力を付けるであろう才能を持った若手の将達も、この段階では殆ど使い物にならない。
  せめてもう少し手こずるかと警戒していたのだが、
正直ここまでスムーズに事が運ぶとは思わなかった。
  統率者の育ち難いイストだけならまだわかるが、そこそこ隣国の多いイストリアまでもが
この体たらくというのは些か不可解である。
  このイスト侵略にしてもやり方が下手というか、どうにも焦りや徹底不足が垣間見えた。
力で押し切る場面でも兵力が不十分で片手落ちだったり、
何人かはこちらの勧誘に割合あっさり乗ってきたりと、何かと不自然な点が諸所に浮上している。
  何より各国の位置関係からして、イストを手に入れたイストリアを待ち構えているのは、
どうあっても現時点で勝ち目の薄いだろう強敵リザニア国のみ。

 そう、イストリアがイストに攻めるメリットなど、それこそ皆無な筈なのだ。
だからこそ、これまでイストとイストリアの長年に渡る争いも本当の本気でなく、
あくまでじっくりとやってきたのだから。
  それがどういった意味合いを持ち、今後の行動にどのように影響していくのか、
私はしばらく思案した後、試しにイストリアへ偵察隊を仕向けてみた。

 戻ってきた部下から報告を聞いたその瞬間、私は今回のイスト乗っ取りの成功を確信した。

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「―――以上が、今後の我が国の方針となります。陛下、何かご不満な点はございますか?」
「……いや、何も文句は無い。このような状況とあっては、例え属国となろうとも、
今リザニアとの繋がりを持たねば、イストもイストリアの二の舞か、最悪、
リザニアによって滅ぼされかねんのだからな。仕方あるまい」

 私の出した方策にイスト王は得心のいった顔で頷き、他の将軍らに意見を仰ぐが、
細々とした質問や確認はあったものの、反対的な意見はついに一つも挙がる事は無かった。

 当然だろう。何せ今の私はこれでもかというくらい勢いに乗っている状態だ。

 下手に意見など出して敵対的と見られようものなら、どんな恐ろしい事になるか。
そんな内心の恐怖が彼等の態度からありありと見て取れた。
  別に、それがただの嫌がらせや反抗意識によるものではなく、
建設的な意見であればむしろ喜んで聞き入れるのだが。
まあ、少なくともイストリアとの件で片が付くまでは、
誰もそうした意思は表してくれなさそうな空気である。

「では確認を。西のイストリア軍に関しては、私とレイナート将軍であたりたいと思います。
王は大臣らと共に内政を、他の諸将軍らには兵の鍛錬を引き続き行ってもらいます。
レイナート将軍は残って私と打ち合わせをするように。陛下、よろしければ解散のお言葉を」
「うむ。では会議をこれにて終了する、各員、与えられた役目を怠らぬように」
「「ははっ」」

 その一言を幕引きに、長机を囲んでいた面々がそれぞれの持ち場へと戻って行く。
どうやら鍛錬の成果が目に見えてきたのが嬉しいらしく、
何人かの将兵が仲間同士で自分の受け持つ兵達を自慢し合っていた。
その表情には現在の環境による熱意と充実感の色が浮かんでいる。
  ここへ来た当初にあった不穏な雰囲気は、もはや微塵も感じない。
  良い傾向だ。

「しかし、王を始め、私に対するお偉方の頼りきりな姿勢は後で正さなければな。
便利屋が欲しければ他所をあたれという」
「ぐ、軍師様。王にそのような畏れ多い事を申されるのはどうかと……」

 嘆息を吐き作戦室の出入り口を見つめる私に、おそるおそるといった風に一人の将兵が声を掛ける。
  レイナート将軍。イスト軍内で有望な人材は居ないかどうか探していたところ、
戦闘指揮において適正有りと判断し、以来何度か私自らが陣形や隊列等の指導をして
育てている青年である。計略や外交の方面は望み薄だが、今のイストには私やゴースといった
その道に精通したエキスパートが居るので、専ら戦闘面を担当してもらうつもりだ。

「何、いずれ戦いを繰り返していくうち誰もが気付く事だ。
非力を嘆き助けを求める事が悪いわけではない、ただ、出来ることは自分でやるようにならないとな」

 現に、この国は私を通じてリザニアに多大な借りを作ってしまったが故に、
こうして同盟という名の属国化を免れぬ事態になってしまっている。
我々を救ってくれた軍師殿の指示ならば仕方なし、と。
  この度の件にしても、イストの領土に政治的な価値があると踏んで、
その他諸々の利害関係からなるべく国土を荒らさぬように行動したが、
もしイストがそのような価値も無いありふれた国家で、もう少しだけ周囲を覆う山や森の面積が
広かったとしたら、私は迷わずにここを戦場に選んだだろう。
  脅威から身を守る術を持たぬ愚かしさも敵国たればこそ、利用する手段として望ましい。
  一度こちらの側として加わったとなれば、役に立たない荷物にしておくわけには行かないのだ。
その為の内政であり、鍛錬である。

「ともあれ、まずは目の前の問題を解決するのが先だ。……おい、そんなに硬くなってどうする。
まだ戦いが始まったわけでも、陣中に居るわけでもないぞ」
「は、はい、ですがどうにも…」

 私の対面に座り直し緊張した面持ちのレイナートに、落ち着かせるように口を開く。

「物事は初めての事ほど気楽に、慣れてる事ほど緊張している方が上手く行く」
「……え」
「お前が会議中に落ち着かずに考えを回すのも、夜に眠れないくらい目を冴え渡らすのも、
まだ早いって事だ。それじゃ、打ち合わせを始めるぞ」
「!? は、はいっ!」

 半ば当てずっぽうだったが、心当たりがあったらしい。
レイナートは驚いたように背筋をビシッと伸ばして威勢の良い返事を出した。

 

 イストリアへ飛ばした偵察隊が見てきたものは、国土の西と南に面した二つの隣国から
集中攻撃を受けて、それらに必死の抵抗を試みる傍ら、退路を求めイストへ向かう
イストリアの軍勢であった。
  私の予想のうち、こちらにとって最も都合の良い筋書き。裁量を誤りさえしなければ、
手勢の被害を抑えたまま、二国三国と芋蔓式に絡め取る事の出来る絶好の機会である。
  そして、これはその為の第一歩。

 ………全く、ここまで予測していたのだとしたら、
あの爺さんの慧眼もいよいよ化け物じみてくるな。

「イストリア軍吸収合併計画」

 笑みを浮かべる私と、息を飲むレイナート。どちらからともなく、そんな呟きが零れ落ちた。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 イスト領内、西の森。
  所々踏み固められた道があるものの古くから天然の要塞としてその防衛性能を誇ってきた、
この国の象徴とも言える深い緑。
  纏った甲冑に柔らかな木漏れ日を浴びつつ、私はイスト軍の部隊に王都へ連れられていく負傷兵達を
主としたイストリア軍の姿を見送っていた。
  向こうが先に連れて来た一部の国民達は都の安全な場所へと避難させており、
現在はイストとの国境付近に位置する砦を拠点として、イストリア軍で余力を残している部隊と
イストの補給部隊で陣を敷いている。

エイブル将軍との連携もあって、リザニアへと恭順する手引きも滞り無く終わり、
全ては思惑通りに動いていた。

「何とか、無事に交渉が済みましたね」
「ああ。彼等も既に後が無い状況だったからな、加減を間違えればあの場で
人質にされかねない所だった」

 本当、冷や冷やしましたよ。と、隣でしきりに頷くレイナート。

 イストリア国に使者を送り、軍の代表と交渉を開始したのは昨日の昼頃。
  その際にこちらが信用出来るかどうか確かめる為、
イストリアの陣中の真っ只中に私とレイナートは丸腰の状態で立つ事になった。
  実際に捕らえられでもしたらどうしようもないのだが、
向こうの切迫具合もいよいよ極まってきていた様子で、今更敵の将兵二人を人質に取ったところで、
滅亡は免れないと理解しているのだろう。
  あちらの代表として出てきたのが、今までの者とは違い義理堅く、そこそこに頭の回る
有能な人物であり、自分達の圧倒的不利をきっちり納得した上で交渉に応じてくれたお蔭で、
敵陣に身を置きながらも話はイスト側にかなり有利な条件で運ぶ事が出来た。

 ―――我等が祖国の地を取り返して、残された国民達を救って欲しい。

 こちらがイストリア国のイスト属国化を条件に出したのに対し、
彼等の要求はイストの今後の動向を考えればそうするのは当然と言えるような、
実に真摯でささやかなものだった。

「でも、今までうちの軍をあれだけ掻き回してた敵にも、
やっぱりどうしようもないって理由があるんですねえ……」
「妙な悩みを持つ前に言っておくが、争う者同士に良いも悪いもありはしないからな。
大抵はその時点での周囲の過半数が味方をする方が正義と呼ばれて、
後は戦いに生き残った側がそれを自分の都合に合わせて随時修正してきただけの話だ」

 民衆や兵士に聞かせる演説の向上としてならばまずまず上等の煽り文句だが、
戦場において正義だ悪だのと青臭い台詞を大真面目に持ち出すのは、
実戦経験の無い甘ったれだけである。

「隊長殿。ここに居やしたか」

 最後の集団を見送ったところで、真横の茂みから気配を消していたであろうゴースが突然現れた。
  後ろでレイナートが面白いくらい驚いていたが、それはこの際脇へ置いておこう。

「どうした」
「へえ、イストリアの代表が隊長殿に用があるみてえで、国王陛下が王都までお呼びですぜ。
何やら向こうの王族の生き残りを連れて、どうのこうのと騒いでやしたが」

 国を追われた王族の生き残り。その取り扱いで、向こうの軍の代表と揉めているのだろうか。
  一通りの指示は既に言い渡してある筈だが、さて……

「わかった、今からそちらへ向かうとしよう。……いつまでも味方に驚いてるな、とっとと戻るぞ」
 
  深く茂った森の中で全く物音を立てずに動くゴースを、
物珍しそうにまじまじと見ていたレイナートが、
ふと思い出したかのように私の後ろへ駆け足で追い掛けてきていた。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「と、いうわけなのだが。……おぬしはどうしたら良いと思う、イズルード?」
「はあ」

 半ば条件反射的に口を突いて出た相槌は、不覚にも若干間の抜けた声になってしまった。

「なりませぬ、姫様! これまで姫様の我侭を情けなくも度々通してしまいましたが、このゾモロフ。
今は亡き父上様の為にも、それだけは断じて許すわけには参りませぬぞっ!!」
「ゾモロフは黙っていて下さい。わたしはこの方々と話をしているんです」
「姫様っ!」
「上に立つ者が自ら前に出て道を示さずして、どうして人を従えられますか。
それでなくても、ゾモロフや周りの人は私に対して過保護なんです」

 時はじきに夕刻を迎える頃だろうか。
  あれから急ぎ足で王都の宮殿に戻って来た私は、玉座に着いていつもの困り顔を浮かべている
国王と共に、眼前で繰り広げられるイストリア軍の代表と、イストリア国王女との問答を
しばし眺めていた。

 事のあらましを尋ねたところ、イストの傘下に入ったイストリア軍を現在の我が軍に
どう組み込んでいくかについて、国王ならびに数名の将兵がイストリア軍代表……ゾモロフだったか、
と話し合おうと集まり、さあどうするかとこちらが切り出した直後、
顔出しという事でこの場に参じた王女様が、何を思ったかいきなり「自分も兵士として志願したい」と
申し出たのだと、早くも助けてイズルード状態の王が説明してくれた。

 …………アホらしい。こんな事の為にわざわざ私に使いを寄越したのか、このヘタレ国王は。
  周りに居た他の将らも同罪である。誰も彼もが揃ってそんな姿勢だから
簡単に国を奪われかけるというのに、平和ボケも大概にしろという。

「失礼、ご両人。お互い意見をぶつけ合うのも結構ですが、どうかここが国王陛下の御前という事を
お忘れないように」

 とりあえず、放っておけば夜が明けるまでここで平行線の会話を続けていそうな二人の仲裁に入る。

「むう!? こ、これはとんだご無礼を。……申し訳ありませぬ、イスト王に軍師殿」
「……………私語が過ぎた非礼をお詫びします。どうかお許しを」

 完全にうろたえているゾモロフ氏と、返事が数拍遅れた辺り、
自分まで一緒に窘められた事に納得の行きかねる様子の王女。
 
「ええ、会話の成立には双方が落ち着いている必要があります。
ここからは王に代わり、ひとまず私イズルードが話をお伺いしましょう。
ではまず、イストリア国王女殿下。……の前に、遅れて来てしまったもので、申し訳ありませんが、
今一度貴女のお名前の方をお聞きしたい」

「え、あ、………わたくしの名は、アリアベル。アリアベル=ド=イストリアです」

 突然硬質の空気を当てられ、イストリア国王女、……アリアベルがびくりと返事をする。

「では改めまして、アリアベル殿。貴女は先ほど我が軍への入隊を志願したそうですが、
その心は如何に?」
「真実です。わた、……わたくしは、これからイストリアの国土を取り戻すにあたって、
それを他者の手にのみ任せて……、自らは隠れて安穏と戦火が過ぎ去るのをただ待つなど、
到底耐えられません」

 言葉遣いに気を付けて、私の問いにアリアベルが一つ一つゆっくりと答えていく。
  世間知らずゆえの強情さとはいえ、私の言外に込めたプレッシャーに負けじと
自分の意思を引っ込めずに話す度胸は確かに大したものだろう。
そこで事の推移をハラハラしながら見学しているうちの根性無しどもにも
少し見習わせてやりたいくらいだ。

「ではゾモロフ殿、彼女の言い分に対する貴殿の意見は何でしたかな」
「無論。イストリア王家に長年仕えて来たこの身に賭けて、一族最後の生き残りたる姫様が
みすみす死地へ飛び込むのを、見過ごすわけには参りませぬ故」

 続いてゾモロフ氏に尋ねると、こちらもようやく冷静さを取り戻したようで、
先日に同じく威厳を持った受け答えをしてくれる。
  わかりました、と置いてから、私はとっととこの茶番を終わらせる為に、
妥当と思われる落とし文句を言わんと口を開く。

「結論から申し上げまして、我が軍は志願者に対しての貴賎は問うておりません。
それは、属国であるイストリアの姫君においても、あるいは、我等がイスト国の王妃であったとしても
例外ではありません」

 その瞬間、すぐ横で先程のレイナートの三倍は面白い顔を作っている国王が
こちらを凝視していたが、それに対する反応を鉄の意志でもって制し、私は続けて一気に畳み掛ける。

「しかし、それらは当然、志願者に軍人として何らかの適正があると見られた場合のみに
限られるわけですが。
  ………ときにアリアベル殿、これまでに軍隊で活動した経験や、各種武器の扱い、戦術、乗馬、
ないし救護の心得等の内、自身に当てはまるものを何か三つ以上お持ちでしょうか?
  体力に自信があるだけでも、十分こちらの要求は満たせますが」

「ぅ……」
 
  途端、それまでの勢いを失ってアリアベルが沈黙する。

「王族が軍を率いるのは決して珍しい事ではありません。その存在はただそこに居るだけで
味方の士気を高める事が出来ますし、のみならず、先程アリアベル殿が言われた通りに、
国の指導者が自ら戦場へ赴く姿は国民にも影響を与えます。
  ですが、それは生きて帰ってくるのが前提の話です。身を守る為の武力を持たず、
指揮官に必要な戦術知識も無い。にも関わらず戦地へ向かい敵と出会おうものなら、
私が敵の立場であればまず真っ先に貴女を捕虜にするか、もしくはその場で殺害するでしょう」

 無表情にそう言い放たれ、アリアベルの表情から血の気が引いていく。
  実際そんな都合の良い標的が戦場に居るなら、私だったら殺さず人質にして交渉材料にするが、
まあ今は彼女の気勢を削ぐのが目的なので黙っておこう。

「もしそうなれば味方の士気をどれだけ下げる事になるか、それでなくとも貴女を守る為に
戦力を割かねばならないのですから。前線は鉛を背負って戦うようなものです。
  もう一度お聞きします、アリアベル殿。貴女は我が軍の役に立つ要素を何かお持ちですか?」

 無いならこれで話は終わりだ。そう言わんばかりの目で私は属国となったイストリアの姫を見やる。
  既に虚勢が崩れかけ、半泣きに近い状態になっているアリアベルが、
それでも引き下がらんと服の裾を掴んだ拳と声を震わせて、一言。

「………ま、まほうなら…すこしだけど、つかえます……」

「「…………?」」

 ぽつり、と。蚊の泣くような声で捻り出された言葉に、王室は再び困惑の色を漂わせた。
  アリアベルの傍で黙って成り行きを見守っていたゾモロフ氏が、「姫様っ!?」と
必死の表情になって、王女を言い咎める。……………ほう。

「魔法と、そう申されましたか」

 問い質すような視線の私に、発言者であるアリアベルはおずおずと、
しかし多少は希望が射したかのような調子で続ける。

「は、はい。……その、小さい頃に庭で転んで擦りむいてしまったとき、
頭の中でおまじないをして手を当てたら、その……」
「擦り傷が塞がった、と?」

 こくり。こちらの様子を窺うように、綺麗に整えられた赤毛の頭が上下した。
  また何か言い出しそうだったゾモロフ氏に目をやってみると、どうやらそうした事例に
彼も覚えがあるらしい。

「他には?」
「え、えっと、それだけ、です。……他には、何も………」
「成る程」

 言うなり、私は懐から短剣を抜き出して、おもむろに自らの袖を捲り左腕に当てた。
  そこまで深くはしないが、浅くもしない。手入れの行き届いた鉄の刃を、
程々に加減して食い込ませる。

 ジワ……

「……っ!」
 
  目を見張るアリアベル。出血の目立ちやすい箇所を狙ったので、
多分足元には小さな血溜まりが出来ているだろう。
  唐突な行為に周囲の視線が少し動揺めいたものになるが、大した事はない。
気にせず私は問いかけた。

「それではこの場で、アリアベル殿。私の傷を癒してみて頂こう。どうぞこちらへ」
「え、あ………」

 まだショックから立ち直りかけている途中なのか、私の差し出した血塗れの腕に向かって
フラフラとした足取りで歩み寄って来る。
  おそらく血の流れ出る様を間近で見るのは初めてだろう。端正な顔立ちはすっかり青くなっていた。

「さあ。どうぞ」
「は、……はい。わかりました……」
「……………………」

 …………いや、早くしてくれないとこっちもそろそろ痛いんだが。

 数秒硬直していたアリアベルを視線で促して、ようやく決心が付いたらしく、
未だに身体を震わせているものの、ゆっくりとその手が傷口かざされた。

「……い、いたいのいたいの、とんでけ〜………」
「……………………」
「……ぇ…………ぇと……」

 何を言ってるんだこいつは。

「王女殿下、呪い文句は何も口にする必要は無いのではありませんでしたか?」
「うぁ、ぁっすみません! 間違えました!」

 慌ててもう一度やりなおそうとするアリアベル。しかし、

「おぉ……」
「なんと、これは……」
「……ぬう」

 周りからそんな声が幾つも上がる。

 それはそうだろう、私の傷口が淡く白い光に覆われ、少しずつだが塞がっているのだから。

 自らの施した術の成功に気が付いたアリアベルが、あわわともたつきながら再度傷口に手をかざす。
  私以外の誰もが固唾を飲んでその様子に注視するも、弱々しい光は程なく霧散してしまい、
後には治りかけの傷が残るのみだった。
  その場に居た誰からとなく、落胆の溜息が漏れる。

「あ………」
「どうやら、ほんの軽傷ならともかく、それ以上は出来なさそうですな」

 だがそれらの反応に対し、私はまるで磨けば輝く原石を発見したような心境だった。

「陛下、折角こうして王都へ戻って来た事ですので、私もイストリア軍の処遇について
検討させて頂きますが、今はこの傷を医療班に治してもらおうと思います。
ですので、二時間後、もう一度ここで。
  ……それと、アリアベル殿はお話したい事がありますので、私にお付き合い頂きたい。
心配でしたら、ドモロフ殿も是非ご一緒に」

 有無を言わせぬ口調で王に告げ、集まりはそこで一旦お開きになった。
私はこれから自分がどんな目に遭うのか不安の色を全面に出しているアリアベルと、
困り果てた様子のゾモロフ氏を連れて医務室へと向かう。
  途中の廊下で幾つかの質問を二人にしたが、彼等の返事は私に満足の笑みを浮かべさせるに
十分なものだった。
  曰く、あの「魔法」は誰かに教わって覚えたものではなく、
いつの間にか使えるようになっていたもので、以降もそんな事の出来る人物は他に居なかった、と。
つまり、この王女にはまだまだ成長の余地が見込めるという事。

 ―――使える。 

 私は頭の中で、まずはゾモロフ氏を説き伏せる為の方便を思索していた。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 二時間半後。

「それでは、兵の訓練内容、戦術指導はイスト軍のものと一律にしますが、
基本的にイストリア軍の指揮はゾモロフ殿を中心に、そちらの将軍に任せる形で。
国土奪還の要として動いてもらいますが、どうかよろしくお願いします。
  アリアベル殿については、一時的に我が隊に身を置いてもらい、
私自らが戦闘についての指導をしつつ、イストリア領開放後を目処に自国の統治に戻って頂きますが。
……ゾモロフ殿、よろしいでしょうか」

「………承知致しました」

 これで良し。

 医務室からここまで、延々説得を続けた甲斐があった。
  アリアベル王女の保護者であるこの人物さえ押さえてしまえば、他は鶴の一声である。

「うむ、ではこれにて解散としよう。諸君らもこれまでの疲れが溜まっている事だろう。
今夜は早々に身体を休めるが良い」
「は、失礼させて頂きます……」

 王の前で礼儀正しく振舞ったのは最後の意地だろうか。
廊下へ出る直前、顔を両の手で覆いううと唸り声を上げるゾモロフ氏の姿がかろうじで見て取れた。
  あの老人もリィス隊長に邪険にされたときに同じような動きをよくしていたが、
性格は違えど子を持つ親の反応は概してこんな感じなのだろうか。
エイブル将軍の場合、正しくは子ではなく孫にあたるが、似たようなものだろう。

「私もこれで失礼しますが。陛下、私の手がいつでも空いてるわけではない事、ゆめお忘れなきよう」
「む、むう……済まぬ」
「いえ、では」

 最後に王に皮肉を言い残すと、踵を返して私は自室へ向かった。
  その背後から、とことこと付いて来る人物。
言うまでも無く、イストリアの王女、アリアベルである。

「凄いです! ゾモロフがあんな風に言い負かされる所なんて。わたくし、初めて見ました……」
「それは良かったな」

 ドアを閉めて、医務室での舌戦から未だ興奮冷めやらぬ様子のアリアベルに対し、
私はようやく素の口調で話す。

「ああ、お前も別に無理して喋りを変えなくても構わんぞ。
王の相手をしてるわけでなし、特に気を遣う必要は無い」

 普段が平均以上に礼儀正しくしている為、初めての相手には大抵意外に思われるが、
どうやら今度も例外ではなかったようだ。キョトンとこちらを見つめるアリアベルに、
客人用のソファに腰掛けるよう勧める。

「あ、はい。どうも、…………なんだか、ちょっとびっくりしました」
「よく言われるが。気にするな、そこまで粗悪な口は利かん。……紅茶を出すが、茶菓子はいるか?」
「え、と、いただ、じゃなくて、もらいます」

 しどろもどろに対応するアリアベル。
私はわかった、と言って二人分のティーセットを用意していった。
  適当な葉を棚から選び、両方のカップに淹れたての熱い紅茶を注ぐと、
私は向こうと反対側のソファに腰掛けて、早速話を切り出す事にした。

「さて、それじゃお前をうちの隊に入れるのを許可した理由だがなアリアベル。
王族だというのもそうだがそれ以上に、ずばり、お前の持つその力が狙いだ」
「え? でもわたしの力なんて……」

 全然大した事無いのに。そう言いたげな目である。

「それは今までお前に魔法を教えてやれる奴が居なかったからだ。
我流でどうにか出来る場合もあるが、普通は誰かに習うでもしない限り、
才能があってもろくに使えやしない」

 当然ながら魔法の才能を持って生まれてくる者は稀であり、それに気付くのもまた稀だ。
  特にこの周辺の国々では、その手の話に縁が無い。アリアベルのような者が時折現れても、
素質を開花させる事なく生涯を終えるのが殆どだろう。
  リザニアと争う以前の私は、かつてそうした魔力を持った者の多く生まれる土地で
一度生活していた事があり、そうした魔法について造詣の深い住人から多くの知識を学んだ。
  結果として、秀でた才能には恵まれずとも、希少価値の高い情報と、
少しばかりの恩恵に与った私は、以来その能力を様々な方向で有効活用している。
  例えば、相手の意識に軽い暗示をかけ、自分の意見を少しだけ通しやすくする魔法。
  これだけでは気持ち程度の役にしか立たないが、それにこちらの話術等を掛け合わせてくると
中々馬鹿に出来ない効果を発揮するもので、私は演説や作戦会議等、
とかくハッタリが勝負の場面において重宝している。

「そこで」

 仄かに湯気の立ち上るカップの中身を一口啜り、私はアリアベルに視線を合わせた。

「今日から私がお前に魔法の師として、また戦術の師として基礎からみっちり叩き込んで、
実戦で使えるレベルの指揮官に育て上げてやる」
「え、…………ええー!? ま、魔法って、使えるんですか? えっと…」
「イズルードだ。名前でも軍師殿でも将軍殿でも好きなように呼べ」

 私の呼び名をどうしようか迷っているアリアベルに、軽く息を吐きつつ答えてやる。

「そ、……それじゃ、イズルードさん。イズルードさんも、わたしと同じで魔法が使えるんですか?」
「生憎と才能は普通の人間に毛が生えた程度だがな。お前が一人前になるよう教えてやれるだけの
知識は持ち合わせている」

 それを聞いたときのアリアベルの目の輝きようときたら、余程魔導師に憧れがあるらしい。
  まあ、やる気があるならそれに越した事は無い。
  基本的な事が出来るようになるまで最低でも半月は必要だろうし、
それに加えて指揮官としても鍛えなければならない為に、
それに掛かる手間暇は今の私には非常に重荷であるが、あの異能の力を使いこなせるようになれば
後々の戦術にも幅が増えるし、衆目へのパフォーマンスにも箔が付くというもの。
  諸々のコスト対効果を考えれば、ここでの苦労はむしろ嬉しい悲鳴だ。

「ともあれ今夜はもう遅い、さし当たっては指導よりもお前の寝床だ。
ここから出て右隣の部屋がお前に割り当てられた部屋になっているから、
それを飲んだら今日はもう寝ておけ。明日から本格的に鍛えてやる。
  ただ、私も暇なわけではない。イスト、イストリアとあちこち走り回る事になるだろうが、
その際は訓練も含めて一緒に来い。くれぐれも勝手な行動は取るなよ」

 言ってから、私は残った紅茶を一気に喉に流し込む。
ようやく適温になったばかりの紅い液体が、胃の中に熱く染み渡っていった。
  レイナートの面倒を見るのも忘れてはならないが、そちらは魔法に関する知識に依らないので、
適時ゾモロフ氏に付けて経験を積ませても問題は無いだろう。

「はい、わかりました! お休みなさいイズルードさん」

 同調するようにアリアベルもカップを空にし、
――何も急げば明日になるというわけでもあるまいに――私に深々と礼をしてから、
挨拶もそこそこに部屋を出て行った。

「元は大人しそうな気質だが、まだまだ年相応の娘という事か」

 天真爛漫と言えば聞こえは良いが、祖父に似て結構平気で無茶をする性格のリィス隊長と比べれば。
  最初の接触もそこそこに好感触だった分、あの少女を扱う上での苦労は少なく済みそうだ。
  頼まれたから出したものの、結局食べられずじまいだった茶菓子を一つ摘まみ、
ひょいと口に入れて咀嚼する。そこそこに高級品だというのに、勿体無い。
  幸い紅茶はまだ温かいままポットに残っている。外交、内政、戦闘に教育と、
更に忙しさを増す今後の対応を今だけは忘れ、優雅な夜のひとときを過ごすのも悪くないだろう。

「あ、あの…………すみません。ト、トイレはどこへ……」
「…………………」

 前言撤回。
  私がそんな洒落た事を出来るようになるまでは、まだまだ時間が要りそうだ。

3

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 ちゅっ、ちゅちゅ、ちぅぅぅ

「ん、ちゅぷ……ふぁ、ぁ………ぁ」
「……おい、おい。気を確かにしろ、アリアベル…」
「ふぇ? んちゅ、ちゅ、………んふふふ♪」
「ちぃ、やはり無駄か! まずい……これはまずいぞ……」

 薄雲に覆われた空の上、その姿を大きく欠けさせた月が時折顔を覗かせる夜のイストリア。

 悩ましい吐息を伴い、若い女特有の甘い匂いが微量ながらも室内の空気と混ざっていく。
  衣服を僅かにはだけさせた赤毛の少女、アリアベルが私の身体にぴたりと密着し、
上着から開いた胸板に何度も口付けをしては、体臭を嗅ぎ恍惚の表情を浮かべる。
  ベッドが二人分の重みを受けてかすかに軋む音を出した。

 何たる不覚。

 この部屋に見える煉瓦の数ははて幾つだろうか等と、
思わず現実逃避に走りたくなる意識を叱咤する。
  今から数分だけ時間を戻せるなら一秒も待たずに即決したい所だが、
ここで目を背けるわけには行かない。

 リザニアよりイストへ渡って以来久しく、私は焦りの感情を表に出していた。

 

 話は数時間前。現在のイスト、イストリア連合軍の最初の目標である国境付近の都市制圧を
無事に終えた所まで遡る。

「これは祖国開放の足掛かりに過ぎぬ! この勢いで王都も近く取り戻して見せるぞ!!」
「「ぉぉぉぉぉぉお!!」」

 砦の頂上にゾモロフ隊の手によってイストリアの旗が上がる様子を、
私は都市部に敷かれた陣から眺めていた。
レイナートも今頃はあそこで正式な初陣での勝利に歓喜して、
大勢の雄叫びの一つに紛れているだろう。 
  今回の私の役割は、イストリア領解放軍の総大将に据えたゾモロフ氏の副官として
序盤は彼等と共に戦闘に参加し、こちらが優勢になってきたところで後方からの補給支援や
負傷兵と増援部隊の敏捷な入れ替えをする為の指示にあたる事。
  この地方の民衆はイストリア軍合併に際してイストに避難済みなので、
各部の連携は作戦通りの機能を発揮してくれた。
  元はイストでもイストリアでもない流れ者な上に、今はアリアベルという重石を抱えた私が
前線の指揮を執るより、ここは地の利に聡く、且つイストリア兵の信頼も厚いゾモロフ氏が適格と
判断しての総大将任命だったわけだが……

「中々やりやすね、あの爺さん」
「ああ、思った以上に上手く兵を動かしてくれる。流石に敵の集中攻撃を耐え凌いできただけあるな」

 敵部隊を撹乱しに行っていたゴースが、仕事を終えて陣に戻ってきた。
  アリアベルには悪いが、さっきまでさながら水を得た魚の如く敵を屠っていたゾモロフ氏も、
あるいは主君に恵まれなかったが故に、王都防衛時は実力を出せなかったのかもしれない。
  そうでなければ解せないくらい、彼の率いる軍は抜群の指揮系統を誇っていたのだから。

「そっちも、首尾は上々といった所か」
「ええ、ええ、そいつぁ勿論。……ところで隊長殿、あのお姫様はあそこで
一体何をしてらっしゃるので?」
「パフォーマンスを兼ねた実技訓練だ」

 訝しげなゴースの視線の先、傷付いた兵士達を医療隊が介抱している中に混じり、
そのアリアベル王女殿下がずらりと並んだ列の先頭に立って治癒の術を掛けていた。

「知識を詰め込むのも確かに大事だが、目の前にある実践経験の場を見逃す手は無い。
まだ出来る事は限られているが、本人に自信を付けさせるには丁度良いだろう」

 それなりに深い切り傷を負った者達を優先的に回して、まずそこでアリアベルが
軽傷程度まで再生してから隊員に譲り、包帯等の道具を用いて治療をさせる事で、
隊の持つ消耗品の負担を軽減している。
  ああした類の術は、術者の力の源たる魔力を効き目に応じて消費する為、
大きな怪我を癒して即座に魔力切れを起こすより、
他に治療を任せられる者と役割を分担した方が賢明だ。
  そもそも、アリアベル自身が未だ大きな力を操れないので、
望む望まざるに関わらず節約を余儀無くされているのではあるが。

 まあ、小出しとはいえあれだけ連続して回復させられるのだから、
私と比べれば魔導師としての下地は雲泥の差だろうな。

 同じ事をしようと思ったら、せいぜいが四、五人で打ち止めだ。
  だからこそ私の用いる魔法は、生まれ付いた才能からくる魔力よりも、
本人の集中と精神力の側に多く依存するものを選んでいる。
  馬鹿も鋏も、全ては使い方次第だろう。

「イズルードさぁぁん……」

 これからこの砦を王都制圧までの一時的な司令塔にして、
そこへ常駐する為の軍をどうするか考えようとしていた所に、魔力が底を付いたのと、
ついでに気疲れもあるのだろう、くたびれた様子のアリアベルが私の元へ戻って来た。

「ご苦労だったな、あの人数を相手に出来たのならまずまずの成長だ」
「思った通りに力の調節が効かなくて、もうへとへとです……」
「兵士達の前では弱気を見せるなよ。統率者は常に余裕を浮かべていなければならない、
全体の士気に影響するからな」

 うぅ〜……、と苦渋の色を露わにするアリアベル。
  私に対してあれこれと弱音を吐くものの、もう嫌だなどと言って
自分に課せられた役目を投げ出す事の無い姿勢は評価に値する。

「向こう方も今制圧が完了した所だ。行くぞ、付近の警備は他の隊に任せ、
私達はこのまま砦に入り待機する。そこでも私の仕事量に変わりはないが、
お前はひとまずゆっくり休めるだろう」
「はい。………あの、イズルードさんは疲れたりしないんですか?」
「馬鹿者」

 民の気配が消えた街中を歩き、やがて他の隊の兵士が見えなくなると、
私は至って自然な動きでアリアベルの頭を小突いた。

「ぃたひっ!」
「人の話を聞いていなかったのか? やせ我慢は指揮官の必須技能だ」

 慣れと器量でいなせる部分も多くあるが、最終的には常に気力頼みである。
  実際は出陣して敵と戦っている間はただ戦闘のみに集中して指揮を振るえばいいのであって、
本当に忙しくなるのは制圧を終えた後の戦後処理だ。
  これまでに場数をこなしてきた私にはまだ幾許か余裕が残っているわけだが、
いつ予想外のアクシデントが起こるとも知れないこの戦場、驕りや油断は命取りになりかねない。
  涙目でぐずっているアリアベルを連れ、私は今し方手に入れたばかりの拠点へと向かう足を速めた。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「………………………で、だ」
「あ、んむ……ちゅむ、ん」

 それが何故、どのような経緯で以って今の状況に繋がるのか。

 

 あの後、砦に入った私達は、他の兵士達が外と内とで不寝番をして大半が一つの部屋に
許容数ギリギリの人数まで入っているのに対し、私はともかくアリアベルの分まで
個室を用意するわけにも行かず、仕方なく用意された指揮官用の部屋に一緒に入れたのである。
  そこで各方面から寄越される報告を順に処理していき、
とりあえず今日しておくべき事が無くなった頃。

「少し遅くなってしまったが、まあ今は相部屋だから問題有るまい。勉強の時間にするぞ」
「はい」

 私がせっせと働いている間、ひと寝入りして多少は魔力も身体に戻ってきただろうアリアベルが
元気な返事を出した。

 まずはこれまでのおさらいという事で、その場で幾つか魔法理論の基礎について問いを出す。
たまに織り交ぜた意地の悪い内容の質問に対しても、アリアベルは正確に答えていった。
  魔法の師事を始めてから三週間と少し。生徒本人の熱心さもあってか、
どうやら早くも次の段階へと進めそうである。

「さて、いよいよお前にも治癒以外の魔法を教えるときが来た。
私が昔に作った本を後でやるから、それを参考に相性の良さそうなものを覚えると良いだろう」

 簡素な造りの椅子に腰掛けて一息吐く。聞かされた言葉に、ベッドに座っているアリアベルが
不思議そうに首を傾げた。

「今すぐ渡してくれるんじゃないんですか?」
「それはこっちが手を離せないときの自習用だ。その前に、私が実際に手本を示してやれる魔法を、
この場で伝授してやる。目を合わせてみろ」

 そう指示されて、素直にこちらの目をじっと見つめる黒い双眸。
  神経を鋭く研ぎ澄ませ、私はその瞳の更に奥を目指すイメージで、一瞬、魔力を込めた視線を送る。
  いつものようにハッタリを使わない分、丁寧に失敗の無いよう。

「よし、もういいぞ。……ところで、ちょっと着ている服を全部脱いで見てくれないか?」

 椅子ごと後ろを向き、何気ない口調でそう言い放つ。
  すると、背中の辺りからスルスルと衣擦れの音が響き、四半秒程を経過した辺りで、

「ぇ………わひゃぁっ!!?」

 慌てて両腕で自分の身体を抱き締める音、……結構持ったな。

「な、ななななな……!」
「落ち着け、まずは服を着ろ。話はそれからしてやるから」

「……は、はい」 

 急ぎ脱ぎかけの衣服を元に戻し、終わりました、と合図を出すアリアベル。
許可が下りたので私が振り返った後も、その顔は羞恥と混乱により赤くなったままだった。

「あれが私が最も得意としている暗示の魔法だ。慣れないうちはさっきのように
一対一で睨めっこでもしない限り効かないが、努力次第で演説のような多人数を相手にするときにも
使えるようになる」
「そ、そうですか、……でも、なにもあんな命令にしなくても…」
「済まない。それについては少し配慮が足りなかった」

 感心しつつも、非難めいた目を向けられる。確かに他にもやりようはあったが、
通常従わないような内容であの時すぐに思い浮かんだ命令があれだったのだから仕様が無い。
  しかしそんな理屈が被害者側に通用するとも思ってないので、さっさと謝っておく。

 それから、術のやり方と使用上の注意を簡単に説明して、今度はアリアベルが私に仕掛ける番
となった。暗示の内容は先に知っておくと意味が無いので、実際に本人が口にするまでは聞かない。
  再び向かい合い目と目を合わせる私とアリアベル。

「いいか、絶対に力んで必要以上の魔力を込めるなよ。結構加減の難しいやつだからな」
「はいっ」

 初めて人から教わる魔法に緊張してか、はたまた新しい力を得た高揚感からか、
髪を揺らし力強く頷くアリアベル。

 ………絶対にわかってないだろうな。

 内心で呆れ半分の嘆息を漏らすが、真剣な表情でこちらを見据えるアリアベルには気付かれぬように
ポーカーフェイスを装っておく。
  最初は多少失敗しておいた方が、魔法を学ぶ事の厳しさを知り、後の慢心からくる事故を
未然に防ぐ事にも繋がる。いきなり成功から入ってしまって調子に乗った見習い魔導師が、
身の程を弁えず上級の魔法を行使した挙句の大惨事等、かの地ではよく耳にした話だった。
  なので、少なくとも今夜中はアリアベルの意識にも、しっかりと失敗を刻み付けてもらわなければ
ならない。その為に、自習前に私が自らフォロー出来るように先んじて、
数ある”中級”のうち特に失敗し易い暗示の魔法を教えているのだから。

 術の習得如何はこの際どうでもいいのだ。

「んっ…………!」

 その瞬間、こちらに刮目したアリアベルの瞳に魔力が宿ったのを私は感知した。

 

「甘かった」

 何が、と問われれば、ずばり「詰めの深さ」である。
  私も何だかんだで、ここまで気を張ってきた疲れが溜まっていたのだろうか。

 わかっていたのだ、……聞き訳が良いとは言え、この少女が年齢と相応程度には子供だという事は。

 おそらく掛けようとした暗示の内容は、私がアリアベルにした命令と似たようなものだろう。向こう
にしてみれば、それはささやかな悪戯心だったに違いない。

 結果、魔力を込め過ぎて暴発した暗示は、威力を増して使用者の身に降り掛かった。
  仮に放出するのに成功して、やや効果の乱れた術がこちらに向かってきたとしても、
私ならば防御法を心得ているので問題は無い。
  また、今のようにアリアベル自身がその脅威に晒されても、「笑え」、「踊ってみろ」といった
普通の命令だったら、私が気にせず周囲に怪しまれないように対処すれば済む。

「んちゅっ、………ぁ、イズルードさん……」

 しかし、この有様ではお手上げだ。

 真っ赤に火照った表情で、私の名を愛しそうに呼ぶイストリア国王女の、
冷水を浴びせ掛ける程度の手段では持ち直しそうに無いその状態。
  上着は既にばっちり脱がされてあり、その手が今は生地の上から私の股間をゆっくりと撫でさすって
いる。その中にあるモノを心待ちにするように。
  これから行うべき処置を砦内に居るイストリア兵に見られたら、
ほぼ確実に内部分裂の引き金となる事だろう。

「いい加減、腹を括らねばな……」

 部隊を率い怒り狂って突撃してくるゾモロフ氏の姿を頭の隅に追いやってから、
私は下半身にべったりと絡み付いているアリアベルの衣服の下半分を丸々綺麗に脱がし、
ポケットに常備させているハンカチを持って開きっぱなしの彼女の口を塞いだ。

「都合良く記憶が抜けてくれれば助かるが、………悪く思ってくれるなよ」

 小さく謝罪の言葉を呟くと、その華奢な身体を引き寄せ、まだ毛が生え揃ってもいないだろう
薄い茂みに残る片手を忍び込ませる。
  指先に触れる感触から、既に秘部が十分に濡れそぼっている事が見るまでもなく把握出来た。
これならわざわざほぐす必要も無いだろう。

 他の人間に気付かれないうちに、手早く済ませなければ。

 私は手の平でそこを軽くひと撫ですると、皮を被ったままの小さな陰核を探り当て、
愛液を掬った指の腹で包皮ごと摘まんだ。
  グリグリと、少女の神経が集中している粒の果実を覆う外膜をゆっくり剥き上げていく。

「ん、んん、……ん〜〜!」

 自らの性感が高められていく様子に、いやいやをするように首を振るアリアベル。
しかし、その動作は拒絶からではなく、耐え切れない感覚に身悶えるものだった。
  私は弄る指の動きを止めない。
  今や完全に皮を剥かれてしまった芽は、僅かに膨張して外気に晒されながら更なる刺激を求め、
ピンと屹立している。
  裸身を暴かれ不安に怯えるいたいけな少女の様なそれを、二本の指先で挟み込み、引っ張り、
抓って、掻き、擦り。思い付くが侭に嬲り尽くす。

「―――! ――――っ!!」

 体内に篭った情欲を全て抜き取る為。
  一回や二回達したくらいでは決して離さず、何度も、何度も、執拗に。
  小さな豆粒程度に凝縮された少女の全てを通じて、私は若いアリアベルの肉体を征服し続けた。

 

「…………ふぅ」

 一時間後、ベッドには小水を漏らしたように大きな染みを作って、数え切れない絶頂を迎えピクピク
と痙攣しているアリアベルが仰向けに横たわっている。
  放って置くと風邪を引くので、布で身体に付着した汗や愛液を拭き取ってから服を着せてやった。

 ……………どれ、今日は床で我慢するとしよう。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「おんや、何やら女難の相が出ておりやすが、隊長殿」

 翌日の昼前、敵陣偵察の報告に上がったゴースは、部屋に入るなりそう言った。
  消臭、換気処理には苦労したのだが、やはりこいつの鼻は誤魔化せないらしい。

「………わかるか」
「匂いが残ってますぜ、それもついさっきって感じの」

 ひっひ、と肩をすくませ笑われる。

 そりゃそうだ、何せ三十分前の話だからな。

 あれから目を覚ましたアリアベルは、事情を忘れているどころか、
暗示の効果が未だに持続していたようで起きるなりこちらに襲い―――
私の心境的には語弊は無い―――掛かり、お蔭で魔力を多く食う人除けの術まで使い、
朝食もままならずに昨夜の再現と相成った。

 まさかああも暗示に弱い体質だったとは、……これは先に精神防御を教えた方が良さそうだ。

 そうすればもしも敵の魔導師から精神攻撃を受けても多少は緩和が効くし、
何より今回のような肝を冷やすハプニングも無くせる。
  当の本人には事後に冷水をバケツで浴びせてやり、今ははっきりと、
余計な事まで含めて意識を取り戻したようで。
私の一応の弁明を聞いて、自らの赤毛に負けず劣らずの顔で一通り押し黙ってから
静々と部屋を出て行った。
  逆効果になりかねない口封じをする訳にも行かないので、
どうかゾモロフ氏の襲撃が来ないよう祈るばかりである。

「まあ、………過ぎた事だ、悔やんでいる暇は無い。報告の方を頼む」
「承知致しやした」

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 幾重にも、前方を見据える私の耳に其処彼処から金属のぶつかり合う音が鳴り響く。
  イストリア王都。
  鉱山付近に巨大な工場を置いて大量の鉄を扱う事により、従来の軍事力に強力な付加要素を
盛り込んできた工業都市が、今まさに鉄の剣戟で埋め尽くされている。

「前線の被害状況は?」
「ゴース殿の撹乱によって敵連合軍の連携が崩れているのと、幸いにも近隣住民が
我等に協力してくれている為、各隊の被害は軽微に御座います」

 次に行うべき作戦に備え一時的に撤退しているゾモロフ氏から、前線部隊の途中経過を聞く。

「敵の喉元を掻き切るまで、あと一歩と言った所か」

 ………やはり有能な将を据えると兵の動きも違うな。

 イストリア領の攻略を開始してから一月半。私達は領民の支持と土地勘、
加えて二国の兵が合わさった敵軍の亀裂を煽る事で極めて迅速に領土を解放していき、
この戦い最大の山場である王都制圧戦を迎えていた。
  ここさえ押さえれば、後は領内に取り残された部隊を端から掃除して行けばいい。
  喋る傍らで周囲の隊に指示を飛ばす私に、しかしゾモロフ氏は懸念の色を浮かべる。

「イズルード殿、我等の軍もこれまでの連戦で疲弊しております。このまま王都を押さえたとて、
程なく大挙してくる敵の増援を前にしてはひとたまりもありませんぞ」
「案ずるな、手は既に打ってある」

 対し、私は笑みのまま答えた。

「え、………援軍です、援軍が到着しました!!」
「何っ!? それはどちらのだ、敵か! 味方か!?」

 叫ぶ連絡兵の声に、どきりと背筋を伸ばし緊張を走らせるゾモロフ氏。

「そ、それが……」
「見ろ。来たぞゾモロフ、とても頼りになる味方がな」

「やぁやぁ! 我等、リザニアが大将エイブル様より遣わされた精鋭軍なり。
その方等が軍師イズルード殿の呼び掛けに応じ、只今参上仕った!!」

 高らかに宣言してこちらへ駆けて来たのは、リザニア一の戦闘力を誇る
エイブル将軍直属の騎兵軍団だった。

 イストリア軍との交渉を終えた直後、敵との兵力差を見越した私が予め使者を送り、
かの将軍に援軍を要請しておいたのだ。

 ”追伸:実家で採れた野菜を送っておくわ。そっちの人たちと一緒に仲良く食べてね”

 少しの後に返って来た手紙の文末には、その許可を示す言葉が記されていた。

「何と、……あの大将軍エイブルの軍ですとっ!?」

 ゾモロフ氏が驚愕を露わにそう叫ぶ。
  じきに目の前までやって来た軍団長の男が、私に威勢の良い口調で話し掛けてくる。

「よお、軍師殿! 今はこっちで色々やらかしてるみたいだな、
追加注文の騎馬も後で別隊が連れて来るはずだぜ」
「障害物に囲まれたイストならともかく、ここからは平地の戦いも必要になってくるからな。
助かったぞ、ラウリィ。
  ……それにしても、私はただ援軍を出すよう言っただけなのだが。
わざわざ一番槍のお前達を寄越すとは、あの爺さんも随分気前の良い事をしてくれる」
「違いねぇ、帰ったらあんまし甘やかすなって伝えといてやるよ。
それで、俺等は一体ここで何をすりゃいいんだ?」

 軽く周囲を見回してから、チラとこちらに目線をやる軍団長、ラウリィ。

「お前達には敵の増援が来る位置に先に待ち伏せて、向こうがノコノコやって来たら
返り討ちにしてもらう。案内はその辺から適当な奴を選んで構わん」
「おうよっ、任せな!」

 指示を受けるなり、ラウリィは最も近くに居た先程の連絡兵を軽く掴み上げ、
そのまま電光石火の勢いで軍を率い国境沿いへと駆け去って行った。
相変わらず行動が一直線というか、清々しいまでに迷わない男である。
  待ち侘びていた援軍の到着で、こちらの準備も全て整った。

「聞こえたろう、ゾモロフ。後詰めは向こうに任せて、お前が引き上げた部隊で全力を挙げ
王城を制圧するんだ。私はゴース達と共に都市内の敵を引き受ける」
「りょ、了解しましたっ」

 すぐに放心から立ち直ると、突撃の掛け声を上げて城へと向かっていくゾモロフ氏。
  これで、イストに続きこの国も無事手中に収まるだろう。

 ―――次なる標的は西と南の二国。果たして、どちらが先に味方を売るか……。

 それから間も無く、制圧を終えた王城にイストリアの旗が上がり、王都は俄に歓声の渦に包まれる。

「の前に、さて。折角の祝勝会も王族が出て来ないんじゃ場が締まらん」

 私は後衛に預けておいたアリアベルを迎えるべく、戦闘開始時の拠点としていたあの砦へと
馬を飛ばした。

 

「おい、アリアベル。居ないのか? おい!」

 周辺の警護を担当していた隊も、常駐しているはずの衛兵さえも見当たらない無人の砦。
  自らの足音のみが反響する廊下を歩くうち、私の思考が少しづつ戸惑いの色を帯びていく。

 何故誰も居ない? 敵襲があったとしても、死体の一つすら落ちていないのは一体どういう事だ?
まるで自分達で勝手に出て行ったように。……いや、いい。まずはアリアベルを見付けなくては。

 名前を呼びながら砦内を隈なく探して回る。都合五度目の空き部屋を覗き落ち込む傍らで、
ようやく彼女の居そうな所に一つ思い至った。
  指揮官用に誂えた幾つかの個室のうち、私とアリアベルが使っていた場所へとやって来て、
木製の扉のノブに手を掛ける。

「アリアベル、ここに………っ」

 果たして、そこに居た少女に私は安堵の息を吐こうとして、
突如目標がこちらに向かって思い切り抱き付いて来た衝撃によろめいた。

「何を………」

 口を開こうとするも、迫る唇にまさしくあっと言う間に塞がれてしまう。
  途端、鼻腔を刺激する女の匂いと、それに伴う魔力の残滓。
  押し問答の末に私が強引に身体を引き剥がして見れば、そこに震える足で立っているのは
淫蕩な顔付きで続きを求めんとするアリアベルの姿。
  そして無言で私を見つめる、その目。

「……………………」
「お前………また暗示を」

 暴走させたのか……? それとも、………

 様々な予測が頭を過ぎるが、私は続く言葉を声には乗せず、
とにかく一度落ち着かせる為にアリアベルをベッドへ連れて押し倒した。

 

 私達以外の人間が存在しない砦内。
  時計の長針がおよそ四分の三程度は回っただろうか。
  スカートを捲って、下着の中へ手を滑らせ幾度も繰り返した行為。
そのちょっとした節目にふいに頭を両手で掴まれ、再び唇を合わせられる。
  雛が餌を啄ばむ様な動きに、諦めの念を込めてさせるがままにすると、
意外にも彼女はそこで顔を離した。

「す、………好きです」

 ぽつり、と。
  息も絶え絶えに、耳まで赤くなったアリアベルがそう呟く。
  潤んだ黒い瞳には、もう魔力の気配を感じない。

「貴方の事が、……好き、なんです………」
「そうか」

 空いた片手で赤毛の頭をくしゃりと撫でた。
  擽ったそうにしつつも、まだ理解を得られていないと思ったのか不安げな双眸がこちらを見る。

「……あ、あのっ、魔法とか、暗示は関係なくて」
「知ってるよ。どうせ勇気付けるつもりで鏡に向かって自己暗示でも掛けたんだろう」
「ぁ、え」
「で、ついでに周りの兵士達にも出てってもらおうと人除け」
「ぅ………」

 図星を突かれた様に黙り込んだ。
  こんな事をする為だけに、短期間で中級魔法を二つ。
………魔力に物を言わせれば何とか使える人除けにしてもこの広範囲で、
のみならず難易度の高い暗示まで習得してしまうとは。

 呆れたな。

 私は軽く畏怖の混じった苦笑いを浮かべた。
  これでは怒りたくても怒れない。アリアベルの才能は、並の魔導師を凌駕している。

「お前の気持ちはわかった。だが正気に戻ったのならまずは王都に行くぞ、
勝利したのに王女が不在ではゾモロフ達が心配する」
「それで、向こうへ帰ったらイズルードさんと離れないといけないんですか?」
「まあ、お互いの役職を考えたらそうなるな」

 そもそも、最初からそういう約束だ。

「………嫌です。わたし、これからずっとイズルードさんのお傍でお手伝いしたいんです」

 アリアベルが、聞き分けの無い子供の様に、しかし目付きだけは女のまま駄々を捏ねる。

「こら、それでは話が違うだろう。大体、お前がイストリアに居ないとだな……」
「ゾモロフだってきっと納得してくれます。イズルードさんは自分の主君に相応しい人物だ、って。
  ……それに、もし聞いてくれないようだったら………」

 その瞬間の表情を見て、私の背筋に冷たいものが走った。
  尻すぼみになって最後まで聞き取れなかったが、あの後に続く内容など考えなくてもわかる。
何も、人心掌握の類は暗示のみとは限らない。

 この少女の力を常に懐に収め利用すれば、あるいは………

 いつの間にか自らの秘部を触っていた私の腕を抱え、大事な宝物を逃がさないように、
けれど強過ぎない加減できゅっと締め付けるアリアベル。
その様子が、まるで私の現状を端的に表しているかのように思えてくるのだから笑えない。

「お願いします。絶対、絶対役に立って見せますから……」

 必死に許可を求める態度は、あくまでも従順で純真無垢な少女のもの。
  なのに、あの瞳は、………あの顔は、かつて私を縛り付けたそれを彷彿とさせる。

「ああ、……ああ、わかった。参った、降参だ」

 そう容易くは逃げられない。ならば自らが手綱を繰るしか方法は無い。
  美味なる毒を食らわんとすれば、同じく華美な皿までも。

 我ながら運が良いやら悪いやら。

 ”おんや、何やら女難の相が出ておりやすが―――”

 あの時言ったゴースの皮肉は、奇しくも私という的の正鵠を未来に向けて射抜いていた。

4

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 リザニアの王宮内、初陣以来祖国に数多の勝利を貢献してきた英傑たる大将軍に割り当てられた
豪奢な造りの私室。

「アレクサンドロ。イスト属国化の件、実に良い仕事をしてくれたな」

 庭木に群がる鳥の囀りを耳にしつつ、部屋の主たるエイブル=ブラムは
労いの意を込めそう口にした。

「全ては将軍の先見性を以ってしての事。私はそこで自分の役を果たしただけです」
「イストリアまで手に入れておいて、言いよるわ小僧め」

 ぐわはは、と豪快な笑い声を上げて、エイブル将軍は愉快極まりないといった表情で私を見る。
  どうやらあちらは彼の注文外だったらしい。

「誰がそこまでするなどと考えようか。向こうで戦う為の援軍要請を手紙で目にしたときは、
おぬしを部下にして心の底から得した気分だったわ」
「私はてっきり今回の件、皆見通した上で遣いに出されたのだと思ってましたが」
「見通す為におぬしを出したのだろうに。いつぞやの際は結果的にわしが勝ったとはいえ、
あまり過大な評価はしてくれるなよ? 妄信するのはラウリィのような奴の仕事だ」
「確かに、それは仰る通りですな」

 二人して、扱い易い兵士の見本の様な男を思い出して吹き出す。
  実際、相談役でもない限りはあれぐらい指示に対して迷わず行動してくれる部下が望ましいだろう。

 最後に個人的な手落ちがあったものの、概ね完璧にイストリアの制圧を終えた私は
戦後処理を済ませてから少しして、自分の代理になる軍師や足りないと思われる人材を
リザニアから派遣した後、任務完了の報せをするべくこうしてエイブル将軍の元へ戻って来ていた。
  これまでの戦力では領土の維持が心許なかったが、今回の戦いを経てこちらの属国となった
イストリアに、正式にイストを国の一部としたリザニアより優秀な将兵を加えて、
当面の相手となる西南の二国に対し互角に渡り合う事が可能となるだろう。

「ところで、そこの娘は確かイストリアの王女であろう?
  わけは知らんが連れの部下にしては随分と異色な気がするのだが。………その、服装的にも」

 将軍は笑いが収まると、先程からずっと気になっていた様に。
  奇異の眼差しで、私の後ろで慎ましやかに佇んでいる侍女服姿に身を包んだ少女、
アリアベルを見やった。

「存じていらしてるようで光栄です、将軍閣下」

 外向け用の態度で、注目を受けたアリアベルがぺこりと礼儀に則った挨拶をする。

 それなりの地位を持った者が従者を傍に置く事自体は、さして珍しい事では無い。
大きな家柄となってくると邸宅の管理や自身の補佐等、むしろ雇っていない方が不自然である。

 私はリザニア軍でこれといった高い地位にあったわけでも、
何か爵位を与えられているわけでもないが、ここへ来るまでの忙しさで言えば
黙々と判を押すだけだったイストの王よりは格段に上であり、従者の一人や二人抱えていても
特におかしい立場では無い。
  事実、従者でないにしても確かな補佐役としてゴースが居た。
  だがこの場合エイブル将軍が疑問に思っているのは、何故それがイストリアの王女なのかという事。

「魔法の使い手なもので、ゴース同様部下として向こうから引き抜いて来ました」

 不本意ながらも。
  ほお、と感心した様子でアリアベルを観察する将軍の傍ら、私は一人複雑な心境でいた。

「して、私は今後如何致しましょう」

 イスト偵察の任は既に果たされたのだ。再び元の所属で働くというのは考えづらいので、
おそらくはまた通常とは毛色の違う命令が下されるだろう。

「それなんだがな、おぬしには再び隊を率いて他国へ飛んでもらおうと思う。
それも今度はイストの様な隣国ではなく……」

 言いながら懐から大陸の地図を取り出し、エイブル将軍はリザニアを一度指差してから海路に出て
南東へと進み、とある名前の部分でその動きを止めた。

「………成る程。ウォーレーンへの援軍に伴い、同盟の解消を防ぐ為に監視。
敵対するようであれば、その時点で私の手で何らかの処置を施せ、と」
「奴め、どうやら手強いのを相手にしてるようでの。ともすればわし等と手を切り
敵に降ってしまう可能性が出て、今後東側への勢力拡大が難しくなってしまうやもしれぬ」

 丁度三日月を太くして、両端を南に向けた様な形をしている大陸キルキア。
地図上から見てその東端に領土を広げているのが、同盟国ウォーレーンである。
  実質的な国の支配者であるモンストロ将軍が、大陸制覇の野望に燃えるエイブル将軍と
数年前から結んでいた軍事的な協力体制を敷いた国家。それが今、南側からやって来た敵によって
脅かされていると、向こうに伏せてある間者から聞かされたらしい。

「モンストロは虫の好かん男だが、リザニアがウォーレーンを潰すタイミングは今ではない。
行ってくれるな? アレクサンドロ」
「ええ。少なくともイストのときよりは目的が判然としている分、対処もし易いでしょう」

 あくまでも予測は予測に過ぎないが。
  正直今のリザニアには多少居づらい事もあり、依頼を断る理由など私には無かった。

「うむ、ありがとう。ではあちらへ行く際に同行してもらう部隊として……」
「サンドロっ!!」

 将軍が説明を言い終える前に、後ろの方で扉が勢い良く開く音と半年振りに耳にする声が響く。

 げ………。

 その刹那、エイブル将軍の「済まぬ」と書かれた顔を見て内心愕然としつつ、
私は今回の同行者たる声の主へと振り返る。

「……お久し振りですね、リィス隊長。お変わりないようで」

 何より、とは言えまい。自分の元から離れていった男など、さっさと忘れてくれれば良いものを。
  あれ以来目にする事の無かった銀の髪に、強い意志を秘めた青い瞳。

 押さえ切れない喜びの色を湛えたリィス=ブラムが、そこに立っていた。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 ―――恨むぞ爺さん。

 私は臨時に貸し与えられた客室で、深い溜息を付いていた。
  アリアベルのときといい、ゴースを呼び出して八つ当たりに前蹴りの一つも
喰らわせてやりたい気分である。

 何故にリィス隊長をここで出してくるのか。

 あの後、出発へ向け準備を整えるようにとの言葉で締め括られたエイブル将軍の私室内で、
リィス隊長は私に会えなかった半年間の寂しさを切々と語り続け、
仕舞いには痺れを切らした祖父自らの手によって部屋を追い出された。
  今頃は自分の隊の兵士達に遠出の支度を急がせているに違いあるまい。
  援軍が目的とはいえ船で海を渡る為、比較的少数で向かわねばならない今回の任務。
まだ軍内で小回りの利く立場にあり、戦力面も申し分無い彼女ではあるのだが。
  向こうは俄然やる気を出してくれるかもしれないが、こちらは精神的にやりづらい事この上無い。
主な働きをするのは私だというのに、相変わらずこの軍の中間職への配慮の無さときたら。

 わかっている。あの爺バカな将軍の事、どうせまたリィス隊長に押し切られたのだろう。

 そうでなくとも、今挙げた条件だけでも彼女が出てくる理由としては十分納得が行く。
要は私情を挟まず職務を全うせよ、という事だ。………ああ、絶対に無理。不可能。

「はい、ご主人様。あったかい紅茶です」

 机に肘を付いて目を閉じていると、淹れたての葉の穏やかな香りが鼻腔をくすぐる。
  瞼を持ち上げれば、手元にそっとティーカップを置くアリアベルの姿。

「……丁度一服したかった所だ、助かる」
「イズルードというのは偽名だったんですね。アレクサンドロさん」

 私は今度こそ本気で頭を抱えたくなった。

「言いたい事はわかる、名を偽ったのは悪かった。
だがあのときは出自を知られるわけには行かなかったのであって」
「さっきエイブル将軍から聞いたのが初めてでした」

 イストリアを治めてもう何日も経つのに。

 そう言わんばかりの恨みがましい視線をぶつけるアリアベル。
銀のトレイを持つ手に僅かに力が込められている。

「済まん、伝えておくのを忘れていた」
「自分の仕えるご主人様の名前も知らないなんて、従者としてあってはならない事だと思います。
本当に反省してるんですか、アレクサンドロさん」
「ああ、している」
「そうですか」

 じゃあ、と、彼女はトレイを机に置き、おもむろにスカートの裾を持ち上げる。
  ソックスを固定しているガーターベルトの上に、秘部を隠す為の布は履かれていなかった。

「………いつもの、して下さい。その、……優しく………」

 頬を朱に染め、アリアベルが弱々しい声音で呟く。断っておくがやったのは砦内での二回だけで、
まだ「いつもの」などと言われる覚えは無い。
  市場に出回っている艶本の湯文字じゃあるまいし、そういった補佐を欲しているのでも無いのだが。

 安売りは決して出来ないが、仕方が無いな……。

「二十分だけだ。それまでに気をやったらそこで止めにするからな」
「! ………はいっ!」

 

 きっかり二十分間後。

「はふぅ」
「………………」

 ベッドの上ですっかり夢心地となっているアリアベルを放置して、
私は憮然とした表情で既に風味の掻き消えてしまった紅茶をぐいと飲み下した。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「サンドロ、この女は何?」
「わたしはご主人様付き添いをしている、アリアと申します」
「あんたには聞いてないわ。サンドロ、答えて」

 どんよりと。
  空は快晴、順風満帆である筈の航路は何故か極局地的に嵐の気配が漂っている。
その渦中に立たされている私に、逃れる術など当然用意されてはいない。

 事の発端はつい先程。イスト潜入時のメンバーに若干変更を加えた私の隊、
リィス隊長の戦闘特化部隊を乗せ、軽快にウォーレーンへと帆を進めるリザニア軍の船内で
それは起きた。
  船室にて、出航前にエイブル将軍から渡された詳細な資料へ目を通しながら、
教育の一環としてアリアベルにこの土地で戦闘を行う場合の注意点等を授業していた所、
さも「遊びにやって来たわサンドロ」という風情のリィス隊長が部屋の扉を開いた。

 人によっては仲睦まじくひとときを過ごしている様にも見えるのだろうか、
少なくとも彼女にはそう映ったと思える。昔もこうだったが、
そろそろこの人にも浮かれてる時にノックを忘れる癖を直してもらいたい。

「彼女は私のメイドのアリアです。これでも多忙なもので」

 せめて苦味を表には出すまいと、涼しげな顔で返答する。アリアというのは私のメイドとした際に、
高貴な響きの長い名前では妙なので短く変えた彼女の新しい呼び名。
  由来は言うまでもなくアリアベルの略である。

「む…………ぅ」

 そう言われては黙り込むしかなく、むくれた表情で私を見るリィス隊長。
  はっ、と。次の瞬間、その視線が鋭さを何倍にも増して肩越しの誰かに向けられた。

「くす」

 確認するまでもない、問題の付き添い侍女である。
  私の半歩後ろに控えていたアリアベル、………アリアの喉から漏れた、
僅かな失笑の響きが耳に届く。
その声音には、紛れもない優越の色が混じっていた。

「こ、ここここ、………この」

 鶏、という単語が思い浮かんだが、今そんな事を言おうものなら本気で殴られかねないので
心に留め黙しておこう。

 リィス隊長が怒りに肩を震わせ、親の仇を見つけたが如く睨み付ける。
  対して、アリアは余裕の表れかこほん、と、わざとらしい咳払いまでして見せる始末。

「あー、……リィス隊長。今は向こうに着いてからの行動を思索してる途中ですので、
私用であれば後にしておいて下さい」

 そのうちきちんと構ってあげますから。

「なっ……!? サンドロ、サンドロまでそんな………」

 口元を手で押さえ、衝撃の程を露わにするリィス隊長。
  半ば以上に呆れと諦めを含んだこちらの言葉に、
向こうはさも恋人に浮気を居直られた片割れのように、…………………違うよな? 私は。

「………っ!!」

 場の雰囲気に堪え切れなくなったか、彼女は来た時とは真逆の様子で部屋を出て行った。
  開けっ放しになったドアを閉めたアリアが、振り向きざまに笑みを浮かべる。

「さあ、続きを教えてください。ご主人様」

 ありありと見て取れる、相手を独占したい気持ち。
そうまで誰かに好かれ求められるのは、重みを感じる傍ら心地良いものだと思う。
それについては否定しない。

「その前に。私と一つ約束をしろ、アリア」
「はい、……約束って、何をですか?」

 但し、あくまでそれは私個人に限った話。
想いの矛先が他の誰かに向き、結果が私の都合にそぐわないものとなるのであれば、
見過ごす理由など何処にあろうか。

 あの手の問題は、事が起きてからでは何もかも手遅れなのだ。

 条件反射で返事をしたアリアに、平素の表情を些かしかめ、
かつて彼女を隊に加えるかどうかという問答の際に見せた態度を作る。

「今後、さっきのような感情を他人にぶつけて、それが元で私に何らかの不都合が生じた場合」

 続ける内に徐々に細められていく目に悟られぬ技量で暗示を宿し、眼前の侍女を見据えた。

「お前をただちにイストリアへ送り返す」

「え………」
「状況的に不可能であっても、そのときはお前を頭の中から捨て去る」
「っ!?」

 その数秒。まさしく絶句、といった様子で、アリアが驚愕に目を見開く。
  瞬く間に顔を青ざめさせ、ガタガタと震えながら小さく声を漏らす彼女の姿は、
私が放った言葉の威力を知るには十分過ぎるものだった。

「そ、それだけは、……それだけは」
「約束出来るか」
「ごめんなさい………します、しますから……ゆるしてください………」

 涙に濡れた瞳で必死に懇願するアリア。そんな所まで、彼女と似ている。

 ドクン、ドクン

「そうか」

 握った手綱には、離れる時まで責任を持とう。
  懲りずに鎌首をもたげる支配欲を程々に押さえ込み、私はカチューシャの乗った頭に手を置き、
優しく数回撫でてやる。

「なら、いいだろう」
「………ありがとうございます……」

 女の泣き顔は、やはり魅力的だった。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「おお……、これはこれはリザニア軍の、よくぞ遠路はるばるお出で下さった!
  ささ、長い船旅でお疲れの事でしょう。部屋を用意しておりますゆえ、
隊の方々はどうぞごゆるりと休んで下され。隊長殿らは馬車で私とお話を」

 数日に渡る船旅を終え、大陸から見て内側にあるウォーレーン国の港町に到着した私達を
自ら出迎えたのは、近衛隊を引き連れて馬車に乗って現れた、やたらツヤの良い顔付きの男。
  どうやら、この如何にも周囲に金品と女を山程置いていそうな狸っぽい親父が、
ウォーレーン軍最高指揮官のモンストロ将軍で間違い無さそうだ。

「ええ、私達も是非ともこの地の詳しい事情を、閣下御自身の口からお聞きしたい」
「閣下とは何ともくすぐったい響きですなあ。我々はあなた方を頼る身、
もっと毅然と構えて下さって一向に構いませんぞ。アレクサンドロ殿。
  ………ところで、そこの女性も隊の長をしておられるのですかな?
  何やら随分若く美しいお顔立ちをしておられるようですが」

 満更でも無さそうな笑みを浮かべながら、
彼は私の横に並び同じく隊長格の勲章を付けたリィス隊長をまじまじと見やり、
ぐふふ、と内心の声が聞こえて来そうなくらい口元を歪めた。

「私は今回アレクサンドロ隊長の任務に戦闘部隊として同行させて頂いております、
リィス=ブラムです。以後、お見知りおきを」

 覚えてもらおうなどと欠片も思っていないだろうリィス隊長が自らその名を名乗ると、
モンストロは驚きもそこそこに、早速彼女への対応を女性兵から「お偉方用」のものへと
切り替えた模様。ある意味賞賛に値する、素晴らしい反応速度である。

 ………予想通り、権威を持った下衆の手本のような男だな。

 城に着くまでの二時間程の間。彼の話し方や立ち居振る舞い、馬車から覗く町の様子等。
モンストロという人物の持つ自らの利に執着し民を慮れない傲慢さ、
そして有力者にはいち早く媚を売る目敏さといった性質を把握するには十分な猶予だった。
  同盟相手でありながら、エイブル将軍が毛嫌いするのも良くわかる。
あれは私達と似て非なる出来損ないだ。

 モンストロに支配する者として足りなかった物。それは自らが民をどう思うかに関わらず、
国を動かす土台として利用しようと試みる為に必要な、国民に対する関心である。

 諸所にかつての栄華の名残を見せながらも、町を包む全体的に鬱屈した空気。
  おそらくは政治に優れていただろう前の統治者の遺産を、
あの権力に敏感な鼻を持った豚が横合いから掠め取ったに違いあるまい。

 そんな今回の出先であるウォーレーン。家畜の食いかけに残った価値は如何ばかりか……。

 

「ああああムカつく! 何よあのスケベ親父!!」
「まあまあ、落ち着いて下さいリィス隊長」

 憤懣やる方ないといった感じにリィス隊長が思い切り投げつけた枕を、
届きそうな距離だったので片手でどうにかキャッチ。そっと元の位置に戻しておく。
  今はウォーレーン国城内、宛がわれたそれなりに豪華な客間に私達は居た。
ここはリィス隊長用の部屋であり、アリアは私の方に自習を含め留守番させている。

「うちの官僚連中も大体似たようなものでしょう。何事も慣れが肝心ですよ」
「あいつらだってあそこまで露骨な視線じゃなかったわよ。あんな目で見られたら肌が汚れるわ、
ほんっと気分悪いったら!」

 確かに。戦場に咲く花とリィス隊長を崇める軍人や文官は多いが、
相手がかの大将軍の孫娘とあっては迂闊に下賤な目を向けるわけにも行かない。
誰だって長生きはしたいのだから。
  ただ、そんな爺さんのお膝元であるリザニアの人間と違い、
事情を知らなかったモンストロの舐る様な品定めの目線は、
彼女にとっては未だ経験の無い代物だったのだろう。
  少々乱心召されている様子のリィス隊長を、とりあえずどうどう、と宥めておく。

「うう、……あんな奴の為に戦ってやらなきゃならないなんて、屈辱だわ」
「でしょうね。そんな悔しそうな顔を見るのは、昔エイブル将軍が茶目っ気を出して
貴女の入浴中に背中を流しに来た時以来でしょう」
「何でよりにもよって今そんな事思い出させるのよこの馬鹿ぁぁぁああ!!」

 先程のも確かに全力だった筈だったのだが。
  気のせいでなく速度と威力を増して一直線に飛来して来た枕が、
掴もうとした私の両手を潜り抜け見事顔面に命中する。
部屋の内装はともかく枕の質はそれ程でもなかったようで、かなり痛い。

「ぐ、……どうやら私が居ない間、腕力には更に磨きが掛かっていたようですね。
今後の戦いでも頼もしい限りです」
「ち、ちがっ!? 今のはサンドロが変な事言うから、……ああもう! 折角久し振りの再会なのに、
どうしてこんな事になるのーー!!」

 ドスドスドスッ、と、今度はベッドに拳を打ち込み始めるリィス隊長。う
む、やはり彼女との間合いはこのぐらいでなければ。
  出来ればアリアも以前の関係に戻したいが、それはまあ、追々何とかするとしよう。

 それよりも、まずするべき事は別にある。
  此度の我々の相手となるであろう、敵勢力について。

 ウォーレーン領南方より現れたという軍団。………話では見慣れぬ姿をしていたらしいが、さて。

 援軍として来たからには、モンストロの指示無しに勝手な戦闘は行えない。
さし当たっては偵察隊を送り様子見となるだろう。
  ベッドを殴り続けるリィス隊長を横目にしながら、私は未だ相見えぬ敵の対処法を思案していた。

5

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 二日後の朝。
  幸か不幸か、敵の姿を拝む機会はすぐに向こうから訪れてきた。
  国境の外側に居る敵からの侵略を防ぐ為に、ウォーレーン国土外周に配置された八つの砦。
その内で東南東を守る役割を与えられた私達は、隣にある南東の砦へと草原から粉塵を巻き上げ
敵軍が押し寄せて来る光景を目にしていた。
  遠目にはためく軍旗には知らない模様が織り込まれており、
どうやら敵は情報通り何処かの地方で新たに興った国らしい。
  モンストロから聞かされた西南西で戦っていたという軍は、
ウォーレーンの主力をそこへ引き付ける為の囮だろう。
真の狙いは、手薄になった南東の守備の、更に奥にある大きな市街地。

 やはり、補給路を断ちに来たな。

 北と南で半々に数を分けられた砦。戦闘時その南側の四つに補給物資を送る役を果たすのが、
南東の街になっている。
  中に居るのはこれといった抵抗力を持たない補給部隊と、
その援助に協力させられる一般市民。武装した兵士達が襲い掛かれば
領土を丸ごと制圧するのは造作も無い。
  そうなると困ってくるのが、砦に残った守備軍である。
戦の命綱である兵糧を運ぶ為のラインが途絶えてしまっては、
数に頼ったウォーレーンの戦術はそのまま裏目に出てしまう。
日に日に活力を失っていく防衛線に攻撃を仕掛け、効率良く早期に周り囲む砦を残さず落とせれば、
後は無防備となった本陣へと王手をかけるのみ。

 これまでの経緯を把握した私はモンストロにそこを重点的に守るべきだと進言したが、
外交技術ばかり身に着け戦術に疎い奴は
「何を仰る、それでは南西が落とされてしまうではありませぬか」と、
頑としてこちらの言葉に耳を貸そうとしなかった。
  暗示の魔法も使い併せ言う事を聞かせようにも、
向こうの領土を奪われる事に対する怯えの念が強くて失敗するのは明らかだろう。

 馬鹿め、何の為に私がエイブル将軍直々に派遣されたと思っている。

 そうした敵の戦略から弱将率いる多数の軍を救うのが、今回の目的だ。
ざっと見た限り、数の差のみを除けばイストの時とする事はさして変わらない。
  しかし、自信のまるで無かったイスト国王と違い、モンストロは逆に己を過信していた。
  指導者がこれでは余所者の私が軍を動かせる筈も無い。
結果、ものの見事にウォーレーンは敵の奇襲を自らの急所に浴びる羽目に遭っている。
  ここへ来たとき、あるいはエイブル将軍から話を聞く段階から薄々思ってはいた事だが、
この任務で敵軍から猛攻を受ける同盟国を守るというのは。

「手に余るな……」

 砦の窓から外の景色を眺めるのを止めて、私は額を軽く押さえる。
  せめて時間的余裕がもう少しあれば、モンストロに信用させ多少の権限を得てから
巻き返す事も出来るのだが。そうしようにも、何せ状況は既に敵の手の中だ。
  リザニアへ間者が来た時点ではまだ猶予を残していただろうに、運悪くも敵は相当に有能らしい。

 豚の首を刎ねて代わりの頭を据えようにも、誰がここの長に適しているかすらわからんのでは……。

 事態を混乱に導くばかり。
  時期が遅かった、正直言って手詰まりもいい所である。

「へえ、隊長殿」

 自前の戦力でこの負け戦をどう立ち回ろうか考えていた所に、
偵察を終えたゴースが緊迫した様子で戻って来た。
  手練れの隠密たる身体には数本の血筋が浮かんでおり、その事実が私の敵に対する警戒感を
否応無しに高める。

「その傷は、………ゴース、何を見て来た」

 横に控えていたアリアが驚きつつもすぐに治癒を施す中、私は偵察部隊隊長の男に急ぎ報告を促す。

「陣地を四割方記録した所で向こうの隠密に気取られやして、迎撃から逃げるうちに
三人がその場で捕まっちまいやした」

 私が選び抜き育てさせた諜報専門の隊員達が三人も……。

「それで、敵はどんな連中だった」
「やはりここ数年で出来た勢力で、名をヒラサカ国と近くの奴等が言っておりやした。
兵士は騎兵が主でも、やけに反りの強い剣に妙な鎧や兜と、キルキアの物に混じって
見た事の無い装備を……」
「ご苦労。もういい」

 報告を続けるゴースを手で遮り、大きく項垂れる。
  卓越した戦運び、キルキア大陸にはない武装、極め付けにその国名。

 まさか、こんな所で出くわすとは………。

 私は、それら全てに関わる人物に覚えがあった。
  室内が沈黙に包まれかけたとき、扉を叩きつつ開けるという器用な真似をしながら、
リィス隊長が入って来る。

「サンドロも見たでしょ。どうするの、あれ? 援護に回るなら急がないと」
「間に合いませんよ。この国はここで終わりでしょう」

 リィス隊長とアリアがごくりと息を飲んだ。ゴースは直接見に行っただけあって、
二人と違い驚いたりはしない。
  今回の敵がこれまで相手にしていたイストやイストリア、その先にいた二国とは
勝手が異なる事を理解しているのだろう。

 ここでもたついていればウォーレーン軍のみならず、近くに居る私達までもやられかねん。

 少なくとも、ろくに準備の整っていない態勢で槍を交えて良い相手では決してない。
援軍に向かえば国の僅かな寿命と引き換えに、味方の被害が当初より数隊分増えるだけだ。
  知らず握り締めていた拳に、じんわりと汗が浮かぶ。

「リィス隊長。これより私達はここに着いた時の港町まで戻り、船で本国へ撤退します。
至急、兵士達を集めて下さい」

 南東の砦と市街地が落とされれば、そこで我々の逃げ場は失われる。
ウォーレーン軍が持ち堪えている今の内に、一刻も早くこの国を立ち去らねばならない。
  数分で撤退の準備を終えると、私達は任された砦を置いて一路港を目指し馬を飛ばした。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「居たぞ! 目標確認!!」
「二番隊、三番隊、左右から挟み込め! 四番隊は後方に連絡を入れろ、目標を捕捉したとな!!」
「ちぃぃっ!!」

 ウォーレーン、………いや、つい先程ヒラサカの占領地と化した、
まだ記憶に新しい港町の一角にて。
  周囲から飛んでくる怒声に舌打ちしながら、私は深刻な状況に表情を険しくさせる。
  途中で通り過ぎた西南西の砦から聞こえる剣戟音が、先程よりも心なし減っていたかと思えば、
やはりこういうつもりだったらしい。

 手の内を読まれていた―――!

「まずいわっ! こっちからも!!」
「どんどん数が増えてます、ご主人様!」

 リィス隊長とアリアが叫ぶが、伝えられるまでもなくぞろぞろと大勢の兵士が現れる様が、
私の目にもはっきり映っていた。
  闇雲に逃げ回ってはすぐに捕まってしまう。

「右方の隊を突破します、リィス隊長!」
「ええ、行くわよっ!!」
「「ウォォォォォォォォオオ」」

 街道を進んでいた私達の左右二方向から、同時に襲い掛かって来るヒラサカの部隊。
狙うならば砦寄りで陣の固まっている左側面より、脇道も多い右側面だ。
  先頭を駆けるリィス隊長が、近くまで迫っていた兵士数人の首を薙ぎ払うのを皮切りに、
隊は雄叫びを上げながら凄まじい勢いで取り押さえようとする敵兵に向かって突撃する。
  流石に幾多の戦場で常勝不敗を誇ってきただけあって、彼女の戦闘における技量は抜きん出ていた。
  兵の錬度で言えば強国リザニアと全く遜色無い動きをする向こうの集団に、
一切の反撃を許さないままいとも簡単に切り刻んで行く。
歴戦の英雄である祖父エイブル将軍譲りの、神懸かっているとしか言いようのない圧倒的強さ。
  まだ多少、戦闘中冷静に周囲を見渡す戦術眼に欠ける所があるが、今この場には私が居るのだ。
時折ばらけそうになる味方の間隔に、こちらの兵士を援護に回して全体のバランスを補ってやる。

「腕を負傷した者は私の横に来い! アリア、頼んだぞ」
「わかりましたっ!」

 私自身はアリアを後ろに乗せている為無理が利かないが、傷付けられた兵が居れば傍に呼び寄せ、
多少強化された治癒によって走りながらも器用に回復を施していった。
矢傷に切り傷と、槍を振るう関節部の動きを取り戻した兵士達は、
その腕に新たな武器を携え再び敵へと切り掛かる。
  こちらの方も、まだまだ改良の余地を残しているものの、
現段階でも十分実戦で魔法が活用出来る程度に戦術を確立していた。
  惜しむらくは彼女自身が未だ治癒以外の戦闘向きな術を習得していない事だが、
それらは今後の成長待ちだ。この場に無い物を求めても始まらない。

「うろたえるなっ! 各個撃破の隙を与えず徐々に包囲だ!!」

 しかし敵方の指揮官も大したもの。眼前でこちらの猛威を見せ付けられても怯む事無く、
落ち着いて隊列変更の指示を周囲へと飛ばし連携を取り直す。
力で押さえ付ける形から、引きも加えた翻弄の形へ。
  先程までと明らか変化した様子のヒラサカ兵達の動きは、
その辺の小国や弱将の元ではそうそうお目にかかれない素早さと正確さを誇っていた。

 陣形が細やかでより捕らえづらくなった為、最初は気迫と勢いで立ちはだかる敵を圧倒していた
リザニア兵達も、掴み所の無い機敏な戦法を前に次第と補え切れないばらつきが目立ち始め、
危うく隊を分断されそうになる。

「敵兵に惑わされるな! 我々の目的は退路を走るのみ、脱出に繋がらん攻撃は無用だ!!
  ……アリア、私の腰に掴まっていろ!」

 叱咤しつつ、今まさに切り掛かられんとしていた兵士の眼前に片手槍を投擲する。
力み過ぎずしなやかに、放たれた鋭い一撃は敵の武器を両手ごと吹き飛ばした。
  すかさずこちらの足元へ勇み飛び込んで来る突撃兵。槍を投げる姿勢の延長動作で抜き放った剣が、
馬に刃が突き刺さる寸前で相手の首を刎ね飛ばす。

 数を増す相手にこれ以上構っていられる暇は無い。
向こうが包囲網を完成させる前に、後はひたすら走り続けねば。

 敵の動作が慎重になったと言うなら、そこを逆手に取って突き抜けるのみ。
  本格的に逃げる態勢を整える為に声を張り上げる傍ら、
リィス隊長もこちらとやや距離を置いた所で、一つの隊に単機で苦戦していた。

「くっ……この! ちょこまかと!!」
「深追いしては思う壺です、リィス隊長もこちらへ!」

 味方から外れそうなる彼女を進行方向に導きながら、私はこの窮地を脱する方法を考える。
  だが幾ら手を考え付こうとも、それら全てが条件不足に終わってしまう。
現在の戦況は、こちらにとって余りに不利過ぎた。
  予め確かめておいた裏道や町中の死角を辿り退路を探す私達に対し、
学習した敵は反撃を警戒するようになり、少数では当たらず要所に威嚇を与えながら、
互いに連絡を取り合いジワジワと追い込んで行く。
  こちらが一小隊程度ならばまだしも、なまじ単独行動するには多いこの人数。
これでは細過ぎる道幅は通れず、上手く撒く事が出来ない。

 退却開始時の位置が、港に最も離れた東南東の砦でさえなければ……!

 来てくれた援軍に途中で突然帰られない為の措置だ。
今頃は泡を食っているだろうモンストロに対し、苛立ちの感情が湧き上がってくる。
  相手は私が南東のウォーレーン軍を無視して港へと直行するのを承知した上で、
囮として戦わせていた西南西の戦力に追加の部隊を寄越し、強引に砦を突破して、
そこから更に離れたこの港町まで先に回って待ち伏せていたのだ。
  西南西から南東、そしてもう一度攻め込んだ西南西の守りは、
奇襲に焦ったあの将軍によってその大半がとうに東へと移動済み。
崩れかけで手薄になった砦の制圧はさぞかし容易だった事だろう。

「よし、今だ! 二、四番隊、五から七番隊、取り囲め!!」

「サンドロ!!」「ご主人様!!」
「……………………」

 ここまでか……。

 リィス隊長とアリアの必死の呼び掛けに、私は静かに押し黙る。
出来る事なら彼女達だけでもリザニアの、エイブル将軍の元へと何とか送ってやりたかったのだが。
  町の噴水がある大きな広場まで誘導され、私達はとうとう視界をヒラサカの兵で覆われていた。
  進退窮まるとは言い得て妙だろう。

 敗北は砦で爺さんとやりあった時と、その前にあった魔導の町での件を含めて、
これでもう三度目か。……このキルキアに渡って以来、私もケチの付きっぱなしだな。

 思わず自嘲の笑みを浮かべてしまう。
  かつてあらゆる武将から天才などと畏れられ自惚れていたこの自分にも、
勝てない相手はどうやら意外に多いと見える。

 打てる手は全て打った。
その末の結果がこれならば、もはや犠牲を増やすだけの悪足掻きもするまい。

 負傷した味方は三分の一程度だが、まだ奇跡的にも死者は出ていなかった。
この辺りでいい加減潮時を弁えておくとしよう。
  黒い甲冑を身に纏った兵士達が、いずれも訓練の行き届いた身のこなしで構えを取り、
油断を見せずに私達を注視する姿勢を維持する。
  ようやく全様が明らかとなったその兵力差、数にして我々リザニア軍のおよそ三倍強。
これでモンストロの居る城へ向けての攻略と、多少遅れながらも同時進行しているのだから、
全く以って恐れ入る。
  全方位から突き付けられる武器には、確かに件の反りの強い剣、………刀や、薙刀といった、
私にとって馴染みの深いものが混じっていた。

「全員馬から降り武器を捨て、ゆっくりと両手を挙げろ!」
「……ああ、わかった」

 部隊の指揮官らしき男の声で、私を始め他の兵士達が次々に下馬して向こうへと武器を放り捨てる。
  ”あれ”から逃れたい一心で藻掻いてみたものの、わざわざ戦うまでもなかった。
相手の総大将が誰かわかった瞬間に、頭の中で勝敗は既に決していたのだから。
  降参の意を示すポーズを取りながら、私は戦いに集中する為に放置していた、
今回の敵軍の腑に落ちなかった点を掘り下げてみる。

 こちらを追うべく下された臨機応変且つ的確な命令。
しかし、決して予想出来なかったわけではない。

 例えば私がリザニア軍を追い詰める側の立場であっても、やはり同じ手段を用いただろう。
何故ならウォーレーン周辺は匿う勢力の居ない、エイブル将軍の影響が及ばない土地。
城を落としながらでも、国境を越え他国に亡命する前に、追撃の手を伸ばすには事足りる。
  逃げ道は最初から航路の一択しか有り得ないのだ。
  だが、それを行うにはリザニアが援軍としてこの戦いに参加している事と、
その位置が東南東の砦という事。
何より、狙う理由として私が隊の中に居たという情報を持っていなければならない。
  こちらの隊に敵の間諜が紛れ込んでいたという可能性は、
両者の距離を考えれば連絡の手間が掛かり過ぎる為、リザニアとウォーレーンのように
船での速やかな交通ラインを確保しない限り非現実的だ。
  では先に捕らえられた偵察対の誰かが口を割ったのかというと、
私の受け持つ兵に関してはそれこそ愚問だろう。
彼等はただの懐柔策やそこらの拷問技術では喋りはしないし、
そんな事をする時間も向こうには無かった筈である。
  モンストロに尋ねてみた所、戦が始まって以来ウォーレーンも余所者は中へ入れていなかったと
聞いているが、果たしてそれ以前ならばどうだろうか?
  戦いは情報を制した者が勝つ。来るべき日に備え草を撒いての諜報活動は、
戦略家たるもの基本中の基本だ。

「……私の名前を触れ回らせるのも、あるいはやりかねんだろうな」

「勿論。そんな程度、わたくしにしてみれば至極当然の事ですわ」

 私の正面、僅かに開けた人垣の奥から護衛を従え一人の女が姿を現していた。

「あの状況で一兵の部下も死なせず、わたくしの部隊をここまで手こずらせるだなんて。
……うふふっ、やはり貴方様は」

 何て素敵な御方でしょう、と。
  恍惚に色めく声の響き。

 嫌な予感自体はしていたのだ。何せここ最近ゴースのお告げが立て続けに当たっているのである。
  ともすればこんな事も起こり得るのではないかと、
密かに浮かんだ冗談交じりの懸念を自分で笑っていた。用心も度を過ぎれば気を病むのみ、と。
  まさかそれが現実のものになってしまうなどとは、流石に夢にも思っていなかった。

「あれから、ずっと探していたのですよ?」

 頼んだ覚えはついぞ無いがな。

 額に冷や汗を垂らしつつ、心中でそう毒づく。
  小声で何事か命令を受けた護衛兵は、失礼、と、きちんと言い置いてから私を拘束し、
そのまま彼女の目の前まで連行された。

 向かい合う顔と顔。

「ユエか」
「ええ、サンドロ様」

 ユエ=ヒラサカ。
  着物と言う、キルキアとは異なる大陸の色彩鮮やかな装束に身を包み、長い黒髪を綺麗に揃えた女。
  もう何年も前の事、当時住んでいた国で若気の至りから大きな過ちを犯した原因であり、
叶うならば二度と会いたくはなかった私の最大のトラウマにして、最愛の妻”だった”女―――

「貴方様の夕重が、只今お迎えに上がりました」

6

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 ”わたくしを前にしてその様な無礼な態度……!
わたくしは、貴方の様な不届き者の妻になるつもりなどチリほどもございませんわっ!―――”

 済まなかったな。だが私からしてみればお前の方が余程無礼だぞ、小娘。

 ”ふ、ふんっ……少しはお出来になられる様ですが、天下を取るにはまだまだですわね!―――”

 言われなくても、それぐらいはわかっているよ。

 ”あ、と…その、……ん、  様………―――”

 何だ、初めて名前で呼ばれたな。

 ”美味しゅう御座いますか?   様―――”

 ああ、美味いぞ。よく頑張ってくれてるのがわかる、ありがとう。

 

 ”  様、……夕重は、貴方様を永遠にお慕い申しております―――”

 

「お目覚めになられまして、サンドロ様?」
「…………」

 重い瞼を開けば、後頭部に暖かな感触。
  見上げた先には微笑を浮かべた懐かしい顔が、こちらをじっと見つめている。
  愛しみ、慈しむその眼差し。ユエが私に膝枕をしていた。

 ああ、そういえば捕まってしまったんだったな。こいつに。

 起き上がろうと力を入れるが、やんわりと両肩の力点を押さえられて思う様に行かない。
  主に徒手空拳において効果を発揮し、更に応用として得物を用いた武芸全般に通ずる達人の業、
……柔術だったか。私が行く先々から盗み得た数ある知識、技術の内、
特に役立った一つなだけはある。

「こうして膝枕をして差し上げるのも、随分と久し振りに感じますわ」

 涼しい表情で、全く力を込めずに私の上半身の動きを封じるユエ。
ほぅ、と感慨に耽り、拘束しているような素振りはまるで見えない。
  本人にもそのつもりがあるのかどうか。無意識でやってるとしたら怖過ぎるので、
過去にも尋ねた事はついに無かった。やられる度に無言の抵抗をするのみである。

「……四年、…っ……だったか」
「ええ。四年もの間、貴方様と離れてしまいました」

 そうだな、と、適当な相槌を打ちながら点をずらそうと藻掻く。
水面下での熾烈な攻防を繰り広げた末、こちらが先に根負けしてしまった。

 四年間。人探しの期間にすれば、いい加減投げ出しそうなものだと思うが。
  相も変わらず、何と執念深い女だろうか。
  昔はそんな所も含めその他諸々分け隔てなく愛せていたが、今の私にはとても不可能な芸当である。
人は、取り分け女は自分の思い通りには動いてくれぬものと知ったが故に。

「……とりあえず、食事を摂らせてくれ。話したい事は色々あるだろうが、正直腹が減って仕方無い」

 横まで垂れていた長い黒髪をさらさらと撫で付けながら、私はユエに頼む、と。

「そうですね。わかりました、この夕重が直々に朝餉を振舞って差し上げましょう。
四年振りの妻の手料理、楽しみにしておいて下さいませ」
「ああ」

 意外にもあっさりと承諾してくれた。朝餉と言うからには、今は朝なのだろうか。
  膝から私の頭を解放し、彼女は嬉しそうにスタスタと襖の向こうへ、…………襖?

 ………はて。では、この不自然だった床の手触りは。

 身を起こしつつ、ゆっくり下を見る。やはり、丁寧に伊草で編み込まれた畳があった。
  襖に、畳。

「……何?」

 再び天井を仰ぐ。目に映ったのはキルキア全土で基本となっている造りの、
決して和風と称されていたそれとは違う。

 周囲を観察するも、内装はこれまで良く見かけてきた室内と何ら変わりない。
ただ、床部分を草色に染め上げる畳と、出入り口たる箇所に取り付けられた襖の二つだけが、
強烈な異彩を放っていた。

 こ、これは一体……。

 窓は、―――無い。どこか大きな建築物の中心付近にあるのだろうか、
それらしい物は見当たらない。
  垣間見えた襖の向こう側にもキルキア式の廊下が続いていたので、
おそらくここがかの土地で無い事は確かなようだ。
  段々と、まどろんでいた意識が覚醒してくる。

 そもそも、私は今までどれくらいの時間を眠っていたのだ。

 あの後、護衛兵の一人に睡魔を促す香を滲ませた布を手渡され、
有無を言わさぬ様子で嗅ぐように指示された自分が、
観念してその匂いを吸い込んだ事までは覚えている。
  遅効性だが効果は長持ちするので、不眠症で疲れの溜まっている者が良く服用する薬だ。
  眠りに落ちる前に、リザニア軍の部隊を見逃してくれるようユエに頼み込んだ筈だが、
果たして彼女の返答は如何な内容だったか。
  ふと、己の身体に目が行く。撤退の際に纏っていたリザニア軍の甲冑は
いつの間にか脱がされており、代わりに浴衣と呼ばれる、
主に向こうでの寝巻きとして使っていた物を着せられていた。
  向こうではキルキアの事を洋大陸と呼んでいたので、部屋の内装も含め、
今の様子は差し詰め和洋折衷と言った所になるか。

 まずは、あいつに聞かなければならんな……。

 ユエの料理の腕は確かだ。
  気は進まねど食は進む。もうじき出される懐かしい和食の味に思いを馳せて、
何はともあれ彼女が戻って来るのを待つとしよう。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「美味かった」
「お粗末様です。お茶の用意も出来ておりますよ」

 使わなくなって久しかった箸を置き、私はユエから手渡された湯呑みを一度口に運んでから、
しげしげと中を覗く。思えば緑茶というのも、この大陸に着いてからは見る事の無かった飲み物だ。
気候や風土によって育つ作物や独自の文化も国ごとに違ってくるものだが、
海を隔てればその幅も更に増してくるという事なのだろう。
  味で言えば正直和風の方が好みではある。旅する内に知ったが、キルキアは食の趣が些か雑だ。

 まあ、今はそんな事はどうでもいいな。

「私はどれだけ寝ていた?」

 この場で食通を気取るつもりは無い。熱い緑茶を軽く啜り息を整えると、
私はユエの方へ視線を傾ける。
  把握しかねる箇所が幾つかある今の状況、まず聞いたのは時間の事。

「丸一日眠っておられました。ここを用意させるのも同程度時間が掛かりましたので、
丁度よろしかったでしょう」

 ここ、と言うと、やはりこのごった煮状態な空間を指すだろう。
聞くと、列島に居た頃の暮らしを少しでも思い出してもらえたら、という理念に基づき模様替え、
もとい改築したらしい。

「すると、港町の何処かという事か」
「いいえサンドロ様。ここは城の中に御座いますわ」

 しれっとした表情のままユエが言う。

「城? ……ウォーレーンの、王城の事か?」

 ええ、と、さも何でも無い事のように彼女は笑った。

 馬鹿な。

 いくら戦略に優れ、あのように強力な軍勢を従え、且つ敵が兵力を活かせぬ無能であろうとも。
  指揮官や兵の強さ、戦況の進み具合から予想したヒラサカ軍の数はウォーレーン軍のおよそ半分。
寡兵を以って敵を制するにしても、そのスピードが速過ぎる。
  あれからたった一日。力押しで敵本拠地を攻略するなど、到底有り得ない筈だ。
  もしそんな事が出来るとしたら………。

 そういえば、こいつ確か。

 抵抗空しく広場で捕らえられ、向かい合った彼女が口にした名前。
そして、今も先程から何度となく耳にしていた名前。

 彼女は私の事を何と呼んだ。

 ………ふん、おかしな話だな。

 必死で押し隠していたものの、心の内側まではやはり誤魔化し切れなかったようである。
  再び出会ってしまった恐怖と緊張で、そんな考えすら浮かばなかったが。そう、そうだった。

 私はユエの前では、一度もアレクサンドロという名前を使った覚えは無い。

「そこまでの仕込みとは、さぞや蔓を張り巡らせたのだろうな。私のこの名はいつ知った?」
「準備に二年半。貴方様の新しい御名と居場所を知り、行動に移したのが一年半前」

 口の端を苦笑に歪めた私に、ユエは歌を諳んじるように答える。

「…………成る程」

 爺さんめ、これでは話が違う、……ああ、いや、そうか。”一部”を除き、だったな。

 つまりは、目の前のこの女こそがエイブル将軍の懸念していた、キルキア大陸の新しい動き、
その波紋を生じさせた張本人という事。
  しかし、ならばリザニアまでの航路も確保済みだろう。
何せウォーレーンの一部が、既に彼女と通じている筈なのだから。
  その後はモンストロの性格を考慮した上で、私を捕らえるに足る状況を自然に作り上げ、
仕掛ける段階と踏めば敵方の同盟国リザニアへと使者を出させる。
  あるいはあの男も、この罠の仕掛け人だったのかもしれない。
間接的に私を追い詰めるよう演じさせた、策士である彼女の駒として。

 更に、決定的な一つ。戦略的な意味合いではなく、これは個人的なプライドの問題だ。
  くっく、と忍び笑いを漏らす。

「何だ。列島の覇者たる男も、本当に大した事は無かったのだな」

 本音を言えば、そんな状況で負けただけだったならまだ納得出来た。言い訳が利くからだ。
土台からして崩れていたのでは致し方有るまい、と。
  戦乱の草が聞いて呆れる、自分の隊からして余所者混じりなのだから世話は無い。
  一年半前、入隊したリィス隊の元に同じく居て、以来私の動向を傍で見る事の出来た者。
そしてウォーレーンの援軍をした際、偵察から戻り敵の情報を伝えて間接的に砦を捨てさせた、
この捕り物の最後の一手。

「ゴース、か」
「あの大将軍と貴方様を出し抜くには、あの者ぐらいでないと出来ませんでしたから。
放った間諜の中で最も優秀だったのが、わたくしにとって非常に大きな幸いでした」

 此度の任務、エイブル将軍の元へ間諜がやって来て、そのお鉢がこちらに回った時点で、
ユエとの勝負には敗れていた。
  更に、前段階として植えつけられた草を見抜けなかった事で、かつての偉大なる天才は、
一個人としても負けていたのだ。完膚なきまでに。

「貴方様がここへお出でになって下さるかどうか試みたのは、これで二度目になります」
「わかっている。大方、所属を異動しそうになった辺りだろう」

 そこを考えると、ウォーレーンにはかなり早い内から手を伸ばしていたのかもしれない。

 あの時はリィス隊長の癇癪により止められたが、あれが無ければユエの前に連れ出されるのも
一年ほど早まっていた事になる。どちらへ賽が転んでも似た目が待っているとは、実に皮肉な話だ。

「私の為にわざわざこんなお膳立てまでしてくれたか。……ヒラサカ国、だったな。
装備等は向こうから遙々ここまで運んで来たのか?」
「潮の流れや位置関係から、もしも海へ出たのならこの大陸に流れ着くのは予測出来ましたから。
列島中を支配していたわたくし達の力を以ってすれば、事は容易でした」
「ここから向こうへは戻れんのだぞ。島の統治は誰がする」

 和の国を治めていた頃、キルキアから島へ戻る為の航路は、
行きとは向きを変える周囲の強い潮流によって成り立たず、近場の漁師達から「帰らずの海」と
恐れられていた。
  島を離れる直前だった私の場所が偶然にも大陸寄りだった事もあり、
ならばいっそという気持ちで海へと出たのだが。

「そんな物、貴方様のお傍に居れないのでしたら興味は御座いませんわ。
場所が変わるだけならば、この地で再び貴方様と共に覇道を歩む手立ても致しましょう」
「そうか」

 言いながら、緑茶を啜る。程よい渋みが口中に広がった。
  その為のヒラサカ軍。まあ、こっちでまで列島に居た頃の国名を引き摺る必要は無いが、
なんともはや。
  向こうでは死後の世界を意味するらしい、ユエの氏。

 黄泉路の海より渡って来た、死の国の軍勢、か。

 全く、大した手土産を持って来てくれたものだ。

「リザニア軍はどうした」
「ご希望通り、本国へ送り返して差し上げました。
行きに使われた船は念の為にと壊してしまったので、それよりやや小振りの船で二隻。
……本当は一人残らず引き入れるなり始末するなりしたかったのですが」

 身の内に湧き上がる何かを堪えるように、すっと俯くユエ。その様子に、内心ひどく驚いた。
  目を閉じる直前、リィス隊長とアリアがユエに対して食って掛かっていたのを覚えている。
ゴースからの報告でも、それぞれ私との関係を耳にしている事は間違い無いだろう。
  にも関わらず、彼女はそれを黙って見逃したと言うのだ。
その場で殺さずに、わざわざ船へと乗せて。

 あの、ユエが……。

 夫婦の契りを結んだ次の日。周りに仕えていた女達を給仕に至るまで全て締め出し、
妾は勿論、私が一度でも伽を共にした相手は目に入った瞬間殺すか、
獄中にて夜な夜な拷問に遭わせていた、あのユエが。

 まだ私が列島の制覇を遂げる途中、城下町の団子屋で看板娘に気に入られる事があった。

 何処かで身分を知っての事かは定かでは無い。ただ、そうした態度は見なかったように思える。
  そこの店は味が確かで娘も可愛らしいと、巷でも評判の有名所である。
当然、城主であった私も偶に忍びで通い、常連客とはいかないが、それなりの回数を重ねていた。

 ところがあるとき店から上機嫌で戻った私は、その次の日からユエの出してくる茶菓子が
団子に変わった事を知る。
  さては誰かから聞き出し、自分の茶菓子が相手にされないのに妬いたのか。
  最初の方こそ見てくればかりで味が伴わなかったが、本人の影なる努力の賜物か、
日を追う毎にそれは質を上げていった。職人芸たる菓子造りというものを考えれば、
目を見張る成長振りだろう。
  その頃になると、巷の方でも団子屋の噂がいつの間にかぱったりと止んでおり、
私もユエの懸命さがただ嬉しくて、店へ通うのをしばらく止めていた。
  そんなある日、久しく来ていなかった件の団子屋へと足を運ぶと、
店の主人は弱り果てた表情で客に謝り倒している。
何事か尋ねてみると、返った言葉は「娘がしばらく前から使いに行ったきり帰って来ない」、との事。
  嫌な推測が頭の中に閃いたので急ぎ城内を探し回ってみると、果たしてそこに見つかったのは、
恐怖に塗り潰されかつての明るい面影を失った看板娘。
  震える姿に、何があったのかは敢えて聞かなかった。知った所でどうするつもりも特に無い。
  娘を店の主人の元へ送った後、私はこれで何度目かになるユエの団子を茶の供として頬張った。
顔に少し疲れの色が見えるものの、彼女はやり遂げた満足気な笑みを浮かべている。

「いかがですか?」

 味は、文句無しに店と寸分違わぬ物になっていた。

「そうか……」
「そちらでの話は、ゴースから伺っております。
サンドロ様がわたくしとの事を悔いていらっしゃるのも、様子を見ればわかります」

 ……まあ、だろうな。

 港町で散々逃げ回ったのだ。それもそうだろう。
  ですが、と、ユエが言い置く。その目には、やはりかつて良く見たものが浮かんでいる。

「この身が冷たい。空虚なものへと、変わっていくのがわかります……」
「…………」
「夕重はもう、……貴方様に嫌われたく御座いません……っ…置いて行かれたく、ございません……」

 止め処なく流れ落ちる雫で顔をくしゃくしゃにしながら、彼女が胸に縋り付いて来る。
これまで何度も困らされてきた、弱々しい顔で。
  惚れた女の涙だ。その効果は今もなお健在で、どうしても憎めずつい許してやりたくなってしまう。
  そもそも、私はユエの嫉妬と執念を恐れてこそすれ、憎しみや怒りといった感情を持って
逃げ出したわけではない。恐怖の原因の片方が薄れれば、
自然と表情から険しさが抜けるのもまた道理だ。
  大分都合の良い思考だが、仕方有るまい。そう思ってしまうのが性なのである。
遍く人々がどうかは知らない。ただ、少なくとも私だけは。

 ああ、入ったな、これは。

 手に持っていた湯呑みを置く。……これも、所謂勝ち負けのある戦いに数えられるのだろうか。
  だとしたら私の戦績はえらい事になりそうだ。

「ユエ」
「離れないで…離さないで下さいまし……久景様」

 ヒサカゲ、嗚咽交じりにそう言う。

 列島での私の名前。由来は、向こうへ渡ったとき一番最初に殺した男。
  彼女が十二の頃に居た、まだ会った事も無い許婚の名だった。

「お前には色々と手を焼かされた。笑えん事も度々あった」
「申し訳御座いません、久景様……全て、この夕重が悪う御座いました………!」
「加えて、今回は私をも謀ってくれたな」
「ああっ……! 二度と、そのような事はもう二度と致しませんから……っ……ですから!!」

 我ながら、よくもまあいけしゃあしゃあとこんな台詞を吐ける。

 最初から今も含め、騙した嘘の数と質なら勝てる者などそうは居ないだろうに。
  ユエも、リィス隊長もアリアも。
  可哀相に、随分と仕様の無い男に引っ掛かってしまったものだ。

「後ろを向いて、跪け」
「っ!」

 一瞬身を竦ませたかと思うと、ほぼ反射的な動作で、背を向け指示通りの姿勢になるユエ。
  こちらに尻を突き出す形になり、その顔に怯えの色が微かに過ぎる。
  それが上辺だけな事も当然知っていた。一皮捲れば歓喜と悦楽を混ぜ合わせた、
不安とは程遠い表情へとすぐにも変わるに違いない。
  何故ならこれが、出会った頃から私と彼女の間で行われていた許しの儀式。

「準備をしろ、いつものように。早く」

 努めて冷たい口調で言い放つ。……この演技も随分と久々にする。
  今にして思えば、まだ幼さを多分に残す少女時代、
こんな事をしていたせいで精神的な安定感を失くしてしまったのかもしれない。
心の拠り所を、自分からこちらの側へと強引に向けられて。
  ユエが慌てながら膝を浮かせて着物の裾を捲り上げ、
私の眼前に桜模様をあしらった生地で隠されていた、桃のような美しい尻が露わになった。

「ひ、久景様」

 畳に手足を付き、既に喜びが僅かばかり滲んでいる声で。

「準備が、ととの……ひっ!?」

 スパァンッ!

 合図を言い終える前に、その油断し切った箇所を目掛け渾身の一発を見舞ってやる。

「い、痛い、……久景様、そんっ!!?」

 パァン、パァン、パァン、パァン

「ひぃっ! …っ! ぁ……」

 続けて四発、間髪入れずに平手を打つ。慣らしの意味合いも込め、まずはこんなものだろう。
  自分の合図を無視した突然の開始に呆然となっているユエ。
早くも赤くなりかけている尻に手を置き、これまではそこに無かった物をくい、と指で引っ張り弄ぶ。

「何だ、これは」
「ぁ……し、下着、です」

「何故こんな物を身に着けている。キルキアに来て、お前も一丁前に洋風の真似事か」
「それは、ここでは女性は皆……ぁぅっ!?」

 パァンッ!

 室内に乾いた良い音が鳴る。弁明しようとするユエを黙らせ、私は更に詰問を続けた。

「なあユエ、仕置きの最中にこんな物は要らんな」
「も、もうしわけございませんっ、すぐに脱ぎ……ぃっ!」

 パァン、パァン……パァンッ!

「妙だな、私は先程”準備が整った”と、お前の口から聞かされた気がするのだが」
「あ、ああ……もうしわけございま……っ……ぅあ……ぁっ」

 パァン、パァンパァンパァンパァン

 使い親しんだ楽器を叩くように、丸い尻肉へリズミカルに平手を打ち続ける。
ユエは手足をプルプルと震わせ謝罪の言葉を声に出そうと努力するが、
鋭い痛みに遮られてそれもままならない。

「………っ……っ………っ」

 しばらくそんな調子でやっていると、初めはしきりに
「申し訳御座いません」「お許し下さい」の二言を熱心に繰り返していた彼女も、
次第に呂律が怪しくなってきて、今では悲鳴とも嬌声とも取れない声を漏らしながら、
ただ私の名前を呼ぶのみになった。
  涙をボロボロと零す綺麗な顔立ちは、強く叩かれ続けている場所と同様に、
羞恥と恍惚、被虐に興奮と、様々な感情によって見事な赤に染まっている。
  その中でユエの心中の割合を一際多く占めているのが、
私という相手にこの行為を”してもらっている”という充実感。

 優れた才能を持ちながら、幼さ故に無邪気で傲慢な少女だったのを覚えている。

 元々、これを始めたきっかけがユエと出会った当初、
家臣達に無茶な命令を下し横暴を極めていた我慢知らずの彼女に対して、
私が言う事を聞かせるべく行った、何処の一般家庭でも比較的有り触れていた躾だった。
違いは、私達がそうした一般の家庭では無かったというだけである。
  他の者は誰も叱れる立場に居らず、養育係もほとほと手を焼いていた為、
やって来た許婚に白羽の矢が立ったと言う訳だ。厄介な事に。
  しかしどういうわけか、二回目辺りからこの行為に対し味を占めてしまったユエは、
前にも増してこちらの手をわざと煩わせるようになったのだ。

 ……そこで考えた最終手段が無視刑、と。

 罰を受ける本人に喜ばれては丸きり仕置きの意味が無いので、
彼女が家臣の一人が大事にしていた壷を割ったと聞いたとき、
試しに一週間決して話し掛けないよう過ごしてみた。

 効果は抜群で、二日と持たず泣き付かれたのを今でも偶に思い出す。
  以後、ユエが悪行に走った際の手段として、無視は本当の仕置き、尻叩きは許しの意味を、
それぞれ持つ事となったのだが。

 ”許し”の方まで続けてしまったのは、明らかに逆効果だったのだろうな。

 ときにはねだられる事さえあったそれも、あるいはもっと早くに止めておけば、
彼女にこのような性癖を植え付ける事も無かったろうに。
  あれから私がキルキアへ渡る決意をした事件まで、従順さに比例して依存の度合いは上りに上った。
  飴と鞭とはよく言うが、きっとあの場合はもう一つ何らかのアクセントが必要だったのだろう。
お蔭で敵として捕まえた相手でありながらも、私に対しユエは未だにこんな行為を心から望んでいる。

 パァン……パァンッ

「全く、相も変わらずだらしのない奴だ。少しは心身共に成長したかと思えば、
やはりまだ私に叱られて喜んでいるのだからな。
  おい、尻を叩かれるのがそんなに嬉しいか? 構ってもらえてそんなに嬉しいのか?」
「はひ……はぃぃっ……うれしゅうございます…夕重は、うれしゅうございますぅ……」

 言葉で詰られ、身体も嬲られ、それを至上の幸福と言わんばかりに受け止めるユエ。
  そうしたのが他でもないこの私だというのだから、もう何とも言えない。
  この状態もいい加減やりづらいので、邪魔だった下着を太股辺りまで摺り下ろしてから、
正座をした上に柔らかな身体を持ち上げ、うつ伏せにした彼女を抱え込む。本格的に躾ける態勢だ。
  行為を再開する前に、ようやく剥き出しになった柔らかな尻をしばし撫で続ける。
秘肉からは愛液が止め処なく流れ出ており、淫靡な空気が部屋一面に広がっていた。

「ぁ……っ…ひさかげ、さまぁ……ひさかげさま、ひさ…っ…ま……ぁん」

 うわ言の様に、私の名前を甘えた声で何度も呼ぶユエ。
その姿は、何処となく主人の膝元へ擦り寄って来る子犬を連想させる。
  情とは、かくも人を狂わすものか。

 当時もそうだったが今にしても、私も半分くらい楽しんでるというのがな。

 ユエの件から先は意識的に禁欲生活を送っていたが、最近ではアリアが危うくなった良い例だろう。
  普段理性で押さえている異性に対する征服欲が、事ある毎に顔を覗かせてくる。
  そうして最後まで事を終えてしまってから、一人後悔と自責の念に駆られるのだ。
ああ、またあれがやってくるのだろうか、と。
  何も抱いた全ての女がそこまで危険な訳では無い。
ただ、私は抱く度に恐怖と、それと同じくらいの興奮に頭を支配される。
まるで麻薬のような、後を引く感覚。

 パァァンッ!!

「………っっ! …………ぁ……ぁ」
「仕置きはこれで終わりだ、ユエ」

 打ち方はそれ用のものにしているが、四年振りともなるとやはり手も痛くもなるか。

「許してやる」

 私の膝の上には、失神寸前と言った面持ちで涎と愛液を垂れ流し、
目に幸せの色を浮かべているユエ。
  姿勢を変えてから三分、彼女の尻は既に元の肌色を探す方が困難な状態だった。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「いやはや。………旦那も、本当に見てて面白いお方でいらっしゃる」
「私も、最近は段々そう思えてきたよ」

 事が済んで、ユエと正式にヒラサカ国へ入る事を約束した私は、
ウォーレーン城屋外の壁に寄り掛かり、物陰に潜む一人の隠密と話をしていた。

「確かに、”列島の覇者”だった頃のアンタじゃ、負けていたでしょうなあ」
「ああ、……何せ向こうでは、魔法などと言う反則技は存在しない」

 ゴース。
  私が魔導の町にて得た魔法で、暗示等の系統における上級の一つ、
読心の術によってその出自を見破られたユエの隠密頭。

 読心は目を合わせた相手の考えを、瞳を通じて細部まで読み取る力。
細部とは言うが、その時考えている事しか読めずタイミングが非常に困難な上に、
魔力よりも消費される集中力が暗示とは桁違いなのでコスト面も劣る、
本当にここぞと言う場面以外は滅多に用いない大変使い勝手の悪い魔法である。
  有効な利用法は、暗示である程度相手の思考を知りたい情報へ方向転換した後に掛ける事だが、
ただでさえ神経を使う暗示の最中、更に大きな精神力を要求されるのだから、
およそ尋常な燃費の悪さではない。
  魔法の存在自体知っているものはそう多くなく、
中でも読心の知名度は限り無く噂に近いものなので、初見で防がれる心配がないのが唯一の旨味だが、
使った後は立ち眩みを起こす事請け合いだ。
  ここまで来るとただ魔力が豊富にある程度では絶対に習得出来ないし、
覚えるにも努力と結果が見合わないので、
おそらく使えるのは大陸中で二、三人居るか居ないかだろう。
  ちなみに私の場合は、習得の際にこの系統とかなり相性が良かった事に起因する。

「さしもの奥方も、まさかいきなり旦那に密偵の正体を掴まれていたとは思いませんぜ。
それが自分から釣られに来たってんだから、仰天ものでありやしょう」

 身の回りに居たそれらしい人物には労を惜しまず、日を重ねながら読心を掛けていった私は
じきにゴースと出会い、その背後にユエが居るのを知りながら逆に彼を絡め取った。
  何故なら、そう、非常に不本意ながら。

 私がこの地を全て収めるには、今は悔しい事に力が不足している。

 ”国を用意しろ。強い、リザニアと張り合えるだけの国を――― ”

 その瞬間のゴースの顔は、長蛇の列を作る劇場で最高の舞台を前にした観客のようで。
  私は、この男こそ自分の影の片腕に相応しいと判断した。

「しかし、ユエにあんな形で負けるとは思わなかった。もっと粘る筈だったが、あれは悔しかったぞ」
「おんや? すると旦那、撤退の時は本気でやってたんで?」
「腕試しだ。あの悪条件で今の自分がどこまで逃げれるか、
……犠牲を考えなければもっと行けただろうが、それでは条件付けの意味が無いからな。
戦闘指揮というやつは、何より経験が物を言う」

「こわやこわや。列島てえのはどんな地獄だったのか、あっしにゃ及びも付きませんぜ」

 陰気な笑い声を上げ、ゴースがそう皮肉る。皮肉とくれば、
こいつもアリアのときは中々味な事を言ってくれたものだが。まあ良い、許してやろう。
  事実、あそこまで逃げ続けられたのも、それを含めて何度か受けた敗北も、
全てがこれまで培われた経験と技術の結果なのである。
  あれから、ユエもどうやら更に腕を上げたようだ。お蔭で私の自負が少なからず傷付けられたが、
これもまた明日への確実な糧だ。

「ところで旦那。奥方はあの通りですが、残りのお嬢様方は一体どうなさるおつもりで?
  それと、あの鬼みてえに強い将軍殿」
「ああ、そうだな」

 さあ、こちらはもう逃れようが無くなってしまったが……。

 この身に絡まる思慕の縄は、恐れ多くもこれ一つでは無い。
  意外にも本当にユエが船で逃がしたらしい二人。
  それぐらいなら、これまでを考えればまだ比較的マシと言える。
彼女達の力はまだユエのように組織立ったレベルでは無いのだから、捕まる可能性は極僅かだ。
が、しかし。

「本当に大きいのが、この足元に掛かってるからなあ……」
「アンタのお望み通りの展開でしょうに。今更情けない事言ってがっかりさせて下さんなよ」

 まあ、そうなのだが。どう考えても、道筋としてはこっちの方が洒落になっていないだろう。
  何はともあれ、まずは任務の失敗と、ついでに離反の意を添えた別れの手紙を送らねばなるまい。
勿論、相手は”故郷に一人残してしまった恋人かつ幼馴染”。
  口元に歪んだ、征服者がするに相応しい強かな笑みを浮かべる。
仔細はどうあれ、私はヒラサカ軍に敗れたのだ。あの時とまた同じく。
  だから、そう。

 ―――恨んでくれるなよ? 将軍。これは元々、貴方も承知の上での事なのだから。

 ”なに、たとえもう一度寝返ったとしても、そのときにはまたわしが引っ捕らえてやる―――”

 エリスン、もといエイブル=ブラム。
互角の条件で破れ、私が戦った中で最も強く恐ろしかった相手。
  今度は地獄の王となって、あの英雄大将軍と再び争うのかと思うと、
運命などという物を信じるわけでは無いが、そのあまりな筋書きに笑えてくる。

「上を目指すもの同士、こればっかりは譲れんでしょうなあ」
「男の命題だな」

 このキルキア大陸に真の覇者は二人も必要無い。
  一度負けたハンデとして、多少の領土を増やす手伝いはしてやった。
リィス隊長やアリアなど、適度な位に育った人材もくれてやった。
これらは勝利の為には全くの無駄な行いだが、その無駄を善しとする美学こそ、
私の生きる上でのルールであり最大の目的だ。
  理念を伴わないただの称号に用は無い。欲するのは、ここに生き様を駆けて戦ったという証。
  彼女等も、あるいは私の元へ再び舞い戻って来るかもしれないが、そこは奴の裁量次第だろう。
どう使おうが好きなようにすれば良い。
  リザニアが有する強大な力も。その他、未だ見ぬ在野の勢力も。

 先は長くなるが、いずれはこちらが全て叩き伏せ、奪い尽くしてやるまでの事。

「私が勝つ。今度こそ、あの男に」

 ―――これは、宣戦布告だ。

7

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 ヒラサカの領地と化した旧ウォーレーン城内、会議室。
  大陸制覇という目標を秘め十人程度で囲んだ長机には、列島から渡って来た
ユエ達ヒラサカ家の者や、ウォーレーン周辺の将兵だった者など、見知った顔も居れば
そうでないものも並んでいた。

「では各地への侵攻を計画する前に、初めに現時点での簡単な勢力図をお教えします。地図を」
「はっ」

 側近の部下が用意していた大判の地図を持ち上げ、そのまま机の上に広げて見せる。
三日月を太くした様な大陸の内部に、それぞれの国との境界を表す線が数本。
  ユエは懐から扇子を取り出し、その先端でおもむろに幾つかの線をなぞっていく。

「まずは東端から横長に根を張り、大陸東半分の上下を完全に分断している二本線。
その内側がかつてのウォーレーンであり、我らヒラサカ国が現在所有している全ての領土になります。
  旧来のウォーレーンよりも下幅が増しているのは、ここを手にする前準備として
押さえておいた領土分の修正を加えたものです」

 そう説明されたヒラサカの領土は、確かに以前地図で見たウォーレーンより若干南に広がっていた。
こここそ私が大陸制覇を行う出発点であり、全てにおける最重要拠点。

「そして、現状において最大の勢力と思われるリザニアはここ」

 次いでユエが指したのは、ヒラサカからそれなりに離れた比較的規模の大きい領土。
二年に及ぶ激闘の末、東にあった強国を見事打破してみせ、最近では西側の隣国イスト、
そこから更にイストリアを取り込み領土を広げた北の大国リザニアである。

 ……悪くない位置取りだ。

 机に肘を付き、私は内心の笑みを深めた。
  出来たばかりのヒラサカ国に、今リザニア軍と直接対決するだけの力が不足しているのは
否めない事実。列島から渡って来た選りすぐりの精鋭達は心強いが数が限られ、
これから集めなければならない新兵ともなれば、当然あちらとの錬度がまるで違う。
  リザニアを攻略するには、ヒラサカは未だ準備の段階にある。だが、それは向こうとて同じ事。

 イストとイストリアはくれてやった。が、ウォーレーンは既にこちらの手の内よ。

 確かに私はリザニアに居た頃、エイブル将軍に協力する形で西側の領土を広げていた。
その行為の殆どが、同じく大陸の制覇を目論むあの男に利するものだというのも承知の上で。

 ”リザニアに勝てる国”か、……考えたものだな。

 しかし、戦争で被った被害の建て直しが完全に済んでいないリザニアが直面する、
イストリアを手にした事による隣接国の増加、拡大した領土の統治という問題。
  それらの相手をする傍らに、距離のあるヒラサカを攻めるという策は現実味に乏しい。
何より、同盟国であるウォーレーンを陥落され、憂慮していた国境を囲む防壁たる八つの砦、
それが有効活用出来るだけの敵に渡ったとくれば、制圧は困難を極める。

 加えて、周囲を固めようにもヒラサカは大陸東側の上下を完全に分断しており、
よしんば北側の国境に隣接する土地を全て制圧したとしても、旧ウォーレーンの誇った防壁に対して
軍は真正面からぶつからざるを得ない。そして、そんな不利な条件での長期攻略にかまけていては、
西側の国々からあっと言う間に足元を掬われてしまう。
  結果として、リザニアはヒラサカから先の領土を諦め、
イストリアを基点として大陸の西半分から攻めて行かなければならないのだ。
  その間に、こちらは他勢力が支配する東半分の侵略を進める事が出来る。
リザニアから襲われる心配もなく、着々と国力を高めながら。
  まさに、彼我の位置関係を逆手に取った理想的なスタート。

「進むは南だな」

 私の声に、ユエを始めとする何人かの将兵が、賛成の意を口にしながら頷く。
そう、この国を覆う強固な防壁をリザニアに対しての盾とし、時間稼ぎに活かさぬ手など無いのだ。

「仰る通り。それゆえ当面、我々の侵略先はこちらを予定しております」

 扇子の先端が、南の方へと徐々に下がっていく。それが止まり示した部分は、

「……奴隷の名産地か。安く手早く兵を増やすには、実に都合が良い」

 外海に面し、ヒラサカよりやや南東に位置する領土。
戦争の最前線に用いる決死部隊の兵士等を主に、とかく重労働を課す奴隷の調達場として、
キルキアに渡ってから私もよく耳にしていた地名である。
  本国周辺に広大な植民地を置き、人身売買が生業となっている国、ジウ。

「国王は暴君で知られており治安も悪く、支配後の統治も民衆の支持を得られる事でしょう」
「だが、そこへ行くには障害があるな。手勢を考えるに、あるいはこれもまた丁度良いか」

 呟く先には、互いの国境間に存在する線で象られた領地。
  ヒラサカからジウまでの直線上にはだかる小さな国。ここもまた、ジウの持つ植民地の一つである。

「ええ、ですのでまずはここを落として、ジウへの経路を繋ぎます。
今の状態でも戦力的には問題ありませんが、先にジウ北方にあるこの植民地を奪い、
数割の奴隷兵をこちらで確保しておけば、互いにより低い損害での制圧が望めるでしょう」

 そう締め括り、異論は無いか周囲の将達へ意見を求めたが、誰もが反対を唱えず黙って頷いた。
最後に全員分の視線が数人から釣られる様に私へと集まり、静かに指示を仰ぐ形に落ち着く。

 一応、ここでの立場はただの参謀なのだが、…どうせユエが吹聴して回ったのだろうな。

 逃げた男の身としては、全く以って複雑な心境である。
  肩書き上はユエが女王であっても、私が実質的な最上位に居るならば、
確かにそれに越した事は無い。
むしろ、列島からの将兵はユエが王妃で私が王と見ている者が大半だろう。
  既に夫婦の縁は切ってあるにも関わらず、未だに古株達からは旦那様や、殿などと呼ばれる始末。
離縁の件についても、ほんの行き違い程度にしか思われていないのではなかろうか。

 ともあれ、今はこちらの問題が先になる。

 思考中に閉じていた目を開き、私は平素の態度を崩さずに口を開く。
  敵はウォーレーンを腐らせていたモンストロと同様に、一般大衆の求める繁栄には不要な存在。
ならば、侵略の際に最も重要な大義名分もまたこちらの手にある。

「決まりだな、狙うはジウだ」

 

「サンドロ様、何故わたくしと共に指揮を執っては下さらぬのですかっ!?」

 会議終了から間も無く、私に割り当てられた例の和洋折衷部屋にて。
  あの後、私が出したジウ攻略にあたっての具体的な案が余程堪りかねたらしい。
部屋まで無言で半歩後ろをぴったりと付いて来ていたユエが、
襖を閉じるなりやや錯乱気味にそう言い放った。

 …二人になるまで持ったのは大した進歩だな。

 正直に言えば、若干視線がこちらへ寄っていた気がするが。
まあ、そのぐらいは許容範囲と見て良い。

「何故も何も。植民地の一つを奪う程度なら、お前達だけでも十分に事足りるだろう」

 それに、ただ正面から当たるのみでは旨味が薄い。
どうせするならば、外と内との両面侵攻がより効果
的で理に適っている。
  奴隷の産地で知られるだけあり、向こうの本国には金持ち連中を楽しませる為の施設として、
植民地から持ち寄った奴隷や、賞金を求め参加する者達を殺し合わせて儲けを得る闘技場がある。
そういった中には大抵即戦力と成り得る実力者が居たりするもので、
他国との戦が始まれば兵隊として使われてしまう奴隷剣闘士や腕利きの戦士も、
事前にこちらが買い取るなり雇うなりしてしまえば大得だ。
  故に、今回の植民地制圧に始まるジウへの攻撃を行う前に、
私やゴースを中心とした隠密部隊が先んじて潜り込み、
いつもの様に偵察や諜報をしながら現地で優秀な人材を引き抜く。
その間にユエ達がヒラサカの方で戦争へ備え、指示を受け次第いつでも進軍出来る状態にしておく
というのが、つい先程纏まった作戦方針なのだが。

「ならばわたくしもお供させて下さい!」
「馬鹿言え、お前が居なかったら誰が軍の指揮をするという。ツガワには城の留守を頼んであるし、
総大将のお前が出なければ兵の士気が下がるだろうが」

 第一、ユエは戦闘指揮や計略をやらせてこそ非常に強力な将であって、
周辺国への外交手腕はともかく、内政や諜報活動では長所に劣り、
立場的にもその真価を発揮する事が出来ない。こうした裏方仕事は私やゴースの様に、
その道を得意とした者へ回す方が無難である。

「適材適所だ。諦めろ」
「ああああ、そんな。…ようやく、ようやくお傍に居られると思いましたのに……」

 よよよ、と、畳にのの字を指でなぞって分かりやすくいじけるユエ。初めての頃から相変わらず、
私と二人きりの時は精神年齢が低下する傾向にある様だ。
  何と言うか、これさえ無ければ避けようとする意識も多少薄れるというものを。
甘え頼られるのは結構だが、あくまでも仕事の時は仕事優先であって、
私情を挟み過ぎるとロクな目に……

「………おい、何をしている」
「だっこ」

 くい…

「だっこ、……して下さいな?」

 上目遣いにそう言って、私の懐に入り服を掴む。幼さを漂わせた言葉遣いをするユエからは、
半ば状況を開き直ったかの様な、”ここで元を取っておこう”という意思がひしひしと感じられた。
  列島時代の私の生活では、頻繁にあった事。

 ……もう次が来たか。

 何らかの形で私に対する不安や不満が溜まると、ユエはだだ甘えの状態になる。
私個人の連れなさに止まらず、部下や官僚等からの嫌味を理由に飛び込んで来る事もしばしばで、
今回は部下が私だから、その両方になるだろうか。
  とにかく、そんな状態で更に蔑ろにすると、不機嫌な態度が後々までしつこく尾を引くので、
私はこれをユエの理性メーターに付いた程々の目安として捉えている。
常ならばもう少し自制も利くのだが、最も新しい記憶が再開時のあれだったので、
今のペースはまさに不在だった期間を取り戻すが如き勢いだ。

「お前と言う奴は……。十代半ばの子供とて、いい加減に卒業する頃だぞ」

 言いつつも、機嫌を取る為にその柔らかな身体を持ち上げ、しっかりと抱えてやる。
巻き込んでしまうと少々痛がるので、長く切り揃えた黒髪を腕の外側へと払っている途中、
こちらの背に回された両手が一層強く締められたのを感じた。

「良いの。わたくしは特別だから、だっこしてもらっても大丈夫なのです」
「訳の分からん事を」

 所々に子供口調が混じり出したユエの頭を片手で胸元へ引き寄せ、
そのまま艶やかな髪を梳いていく。
昔からこれが一番のお気に入りらしく、甘ったるい猫撫で声を出しながら身体を震わせている。
  仕置きといい、これでは夫婦と言うよりむしろ親子なのではと思う。
夫婦と言っても”元”という字が付く上、親に恋心を持つ子もまたそれで問題有りだが。

 急場さえ凌げるならば、そんな細かい事はどうでもいい。

 過去の行いを清算する許しは出したが、復縁までした訳ではないのだ。
そうして元の木阿弥と成り果てては、酒の席での笑い話にも使えはしない。
  甘えるなり、依存するならある程度応えもしよう。私自身もまたそういう質の人間であり、
それがこちらが引きずり込んでしまった責任に対しての義務でもある。

「ふや、……ふぁぁぁあ……ぁ」

 生来、人心掌握の為の話術や洞察力に関しては他に劣らぬ自負を持っていた。
それでも、感情心理を解けば解くだけ、今度は余計な心配事が勝手に増えてしまう。
  かく油断ならないものなのだ、人間関係というやつは。見方によって底は広く狭く、深くも浅い。

 明けれども暮れて止まぬは理なりけり。
  ……どうにかしたいとは思うものの、こればかりはな。

 季語が付かないものは、確か川柳だったろうか。心の中で、ひっそりと一句を諳んじる。
  抱きかかえたユエの髪を撫でながら、見えない位置にある私の顔は
半ばそうした状況を楽しむかの様な、僅かな苦笑を浮かべていた。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「こりゃまた、領主の人が知れやすなあ」

 出立から十日。途中にある幾つかの関所を掻い潜り、
障害となっていた小国を越え目的地へ辿り着いて
開口一番、ゴースは押し殺した笑い声を上げそう言い放った。
  もっとも、その感想には私も全面的に同意だが。

「用途がはっきりとそう定められていた分、植民地の方にはまだ納得が行ったものの…」
「どちらも大した差はありやせんね、こっちの市民も大半は奴隷階級なんでしょう」

 税収は高く見込めるだろうが、これではその他の産業発展は望めん。

 事前に聞き及んだ情報通りの混沌とした街並み。道行く貧しい人々の目に映る、多くの絶望。
  商業、取り分け奴隷を使った商売が盛んな事で知られるジウ城下の、噂に違わぬ風景であった。

「とりあえずは、今後の宿だ。ここならば情報収集や交渉も他より容易い、手分けして行くぞ」
「承知いたしやした」

 頷くなり、即座に街の中へと消えるゴースに続いて、私も別方向へと一人歩みを進める。
互いに真髄を心得ている者同士、付き添う理由などないだろう。

 これとはまた微妙に異なるが。
考えてみれば単独行動など、リザニアに降って以来久しくしていなかった気がするな。

 何となく、このキルキア大陸、あるいは列島へ渡って来た最初の頃を思い出し、
そこはかとない郷愁感が胸を掠めていく。

 今も大概だが、あの頃は輪を掛けて無茶を繰り返していたものだ。懐かしい。

 以前まで共に行動していたリザニアでの部下達は残らずあちらへ送ってしまったので、
現在の偵察部隊編成はヒラサカから新たに若干名加えたのみ。それもジウ本国へ入る前に別れ、
植民地周辺での工作を任せている為、今ここへ居るのは私とゴースの二人だけだ。

 まあ、多ければ良いものでもなし。向こうも気の知れた奴等だ、きっと上手くやってくれるだろう。

 かつて列島における隠密任務を私の下で携わってきた者達。
列島組と一緒に隊の半数程付いて来た彼等も、どうやら昔と変わらず影ながら奔走していた模様。
  未だに私の事を主と慕い、忠義を尽くさんとする彼等に期待を寄せつつ、
反面些か後ろめたい気持ちもあったのだが。
腹を割って元副隊長と話してみた所、
「夕重様の御乱心では致し方有りますまい」
と笑ったもので、思わず他の者も交えて当時の話を酒の肴に盛り上がってしまった。

 ……が。つい盛り上がり過ぎてしまったな。

 その様子が、後でしっかりユエの耳に入った事は言うまでも無い。

 
  潜入して翌日の昼。

「そいつぁ朝の分とまとめて、昨日のサービスに付けとくぜ。兄ちゃん」
「ありがたく頂こう」
「なぁに、あんたは久々の上客だ。いいってことよ」

 肉やパン、スープ等の料理が多めに並べられ、宿の亭主がテーブルにグラスと酒瓶を置いて行く。
礼を述べると、がっしりとした体格の強面の男主人は、口髭を弄りながら陽気に笑った。

 何時の時代も、持つべきものは金と人脈と、それを扱う器量だな。

 物事の成否において有益な相互作用を及ぼす、黄金の三角関係。
  水で半分程度に薄めて中身を攪拌した後、一口含む。異常が無いか一応の確認をし終えて、
私はグラスに新たな酒を注ぎ足していく。

 指し当たって、ここは有用、と。

 夜の内に、別々の宿を取る片手間で大まかな調査を済ませ、
互いの宿泊先を報告し合って終わった初日。二階建ての宿の下半分が酒場となっているそこで、
私は出された料理と共に得られた情報を脳内で咀嚼していた。
  最初にわかったのは、ジウの国民は全部を十で数えるとして、貴族と商人と奴隷市民と、
それぞれ概ね1:3:6の比率で構成されているという事。
確立された神官職や宗教家などは見かけず、こうした土地では良くある
極端に流行っているか廃っているかの二択、ジウはその内の後者だという解が窺える。
  奴隷達に救いは必要ないという事だろう。
現地民の不満抑制の為の、侵略後における一定の文化保護等を考えれば、
国に妙な宗教が根を張っていたりしない方がこちらとしても好都合だ。
  他にも、多くの貧困層はやはり植民地から来たのが殆どである事や、
それら奴隷階級の扱いが度を越しているのを主な原因に、
一部の上流層を除いた国の治安が著しく乱れている事。かく言う私の居るこの宿も、
酒場としては普通に機能し、宿泊客に対しては寝込みを襲って儲けを得るという、
所謂追い剥ぎ宿と呼ばれる類のものである。

「代わりは要るかい?」
「いや。それよりそろそろ他の客が見え始めてきた、仲介は頼むぞ」

 平らげた皿を片付ける亭主にそう告げると、私はまだ栓を開けていない酒瓶を手に持ち、
時間にそぐわず早くから人の集まり出した一角へと足を運んだ。
  恰幅の良い者や、服装の所々に装飾をしている者。何よりその場所に居る全員に共通した、
奴隷階級達の悲観と諦念から来たものではない、余裕を窺える捕食者側の笑み。

「楽しそうだな。私も一つ話の仲間に加えてもらおうか」

 テーブルを囲む男達の前に酒瓶を置き、まずはそう挨拶する。

「お? こいつぁありがてえ」
「何だ。アンタ見ねえ顔だが、よそから流れて来たか?」

 それまで自前の商売の話で盛り上がって、如何にもな雰囲気を醸していた四、五人の男達は、
どうやらそうした飛び入りにも慣れている様子。

「ああ、ここは金の匂いが特に強いんでな。海を越えて稼ぎに来た」

 類は友を呼ぶ。この手のあくどい商売をしている酒場宿では、
似た様な連中による取引現場を目にするのも日常茶飯事というもの。
  国の暗部を熟知している闇商人達の溜まり場。多少のリスクはあるものの、
押さえておけば貴重な情報源になる上に、協力を得られれば国へ攻め入る際の工作も非常に有効だ。
  なので、手始めに私は宿の亭主を金銭で懐柔した。
場所代というやつで、一定の金を持った者達のみが酒場の裏側を利用する資格を得られ、
そこから仲間同士で様々な情報提供や交渉を行う仕組みである。
  ちなみに、私が払った額は土地相場の約三倍。握らせる時に浮かべた微笑は「黙って従え」の意。
  目の前の金貨袋を見て一瞬怯んだ後に、上客の気配を素早く察した亭主は、
にやりと悪人の笑顔で応えた。性根はどこも人それぞれだが、
やはりこうした所の人間は基本的に話が通じ易くて助かる。

「亭主、メニューを出してくれ」
「あいよ! 今日は何でもじゃんじゃん頼んでくれー!」

 私の声掛けに、気前の良い返事がカウンターから飛んで来た。
おおー、と、その様子に感心する数人。

「すげえな。マスターの口からそんな景気の良い台詞、オラぁここしばらく聞いてなかったぞ」
「最近は泊りの女客が来てない様だ。所帯を持たぬ亭主殿は、
下の方もさぞかしご無沙汰だったろうさ」
「そりゃ本当かよ! おいおい、どうりでここんとこ飯がイカくせぇと思ったぜ!」

 どっ、と、店内に下卑た哄笑が響く。後ろで亭主の冗談半分の怒鳴り声が聞こえ、
それがまた笑いの燃料となって場が沸いた。

「……さて。酒に良く合う美味い摘まみがあるならば、是非とも教授願いたいのだが」
「ひー、…くっく。お前さん、中々わかってんじゃねえの。
ツラ構えといい、そこらの俄か連中共と違って、かなり場数を踏んで来てやがるな?」

 笑い過ぎて涙が出たのか、目元を拭いながら一人の男が私を見つめて言う。
未だに堪え切れぬか身体を震わせているものの、やはり視線は真剣に品定めをしていた様だ。

「何、各地を流れていく間に得た、ほんの嗜み程度に過ぎん」

 出だしは良好。後は掴んだ流れを離さずに、メンバーの一員として順応し、情報の交換に臨むのみ。
  ユエ辺りは言うに及ばず。たとえ隠密として他の技術では私が今一歩後ろを行くゴースにも、
この状態から更に彼等ともう一足飛びの信頼関係へと進める事は出来まい。
  紛れもない自負。イストリアで、アリアに初めて暗示の魔法を教えてやったときの事を思い出す。

 慣れれば使えるとは言ってやったが、実践的にここまで扱える者はまあ居ないだろう。

 私の瞳に、常人には不可視の仄かな光が宿り始める。―――交渉開始だ。

8

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 ワァァァァァァァァア

「やれー、やっちまえーー!!」
「いいぞぉ、そこだっ! ぶっ殺せぇ!!」
「もたついてんじゃねぇ、とっとと刺し殺してやれ!」
「がぁぁ!! なぁにやってやがる!」

 しかし、耳が痛くなってくるな、ここは。

 場内に轟く、市民達の怒号の嵐。現在、城下町で最も活気のある施設。
  本国潜入から一週間半。二日目以降通い続けていたジウの闘技場は、今日も大賑わいであった。

 ずしゃっ

 近くに居たら、おそらくそんな鈍い斬撃音が聞こえただろう。
  たった今まで戦っていた男達の片方が、もう一人の振り抜いた剣によって
頭上から口の辺りまでざっくりと切り裂かれた。その瞬間、客席から一際大きな歓声が上がる。
  私は最前列から三つほど離れた席に座って、生き残った側の疲労困憊な様子を眺めていた。
服装からして、あちらは闘技場で取り扱われている奴隷剣闘士。

 今のは狙っていたな…。こういう所でも客を喜ばせなくてはいけない辺り、奴隷が勝つのは難しい。

 ルールは鎧や盾などの防具抜きに、一対一で先に相手を戦闘不能にした者が勝ち。
方法は問わず、武器を落としての降参宣言でも、命を奪うでも個人の自由だ。
  観客は盛り上がるものの、毎試合人死にが出ては流石に全体の参加者が減ってしまうので、
非殺傷での勝利の方が貰える賞金は高く設定されている。
とは言え、いざ戦うとなると余裕を見せている訳にも行かず、それらを狙って実践出来る者は少ない。
  胴元に飼われている奴隷剣闘士や、金と名声が目当てで来た他所からの剣士、戦士達。
中央の広場で互いが敵を倒さんと、ともすれば殺す気で切り掛かる。
  普段の酷使による鬱屈した気分を払拭する為、
観客達も思い思いの参加者になけなしの賭け金を出し、ここぞとばかりに熱狂の渦へとその身を置く。

「おらぁ! 次の試合はどうしたぁ!!」
「もったいぶってんじゃねえぞー!」

 他の国でも幾つか見てきたが、これ程までに盛況はしていない。…圧政の反動ここに極まれり、か。

 侮っていた。初日での見解とは、どうやら思っていたより食い違いがあったらしい。
  事は何も闘技場に限った話ではない。ここの他にも、各種賭場、風俗店と、
周囲の植民地とは違った点として、本国には下級市民の心の均衡を程々に保つ施設が、
これもまた狙い済ました様な価格設定で整っていた。
  彼等は金の掛からぬ神への祈りよりも、金を捧げて一時の快楽を得ているのだ。
背後で糸を引く人間達の手によって、ほぼ無意識に。

 お偉方も楽しませる為、それ専用の高級施設まで周到に揃えてある。

 こういった一般大衆の心理を煽っての莫大な収入源があるからこそ、
ジウの様な国は市街の見た目と裏腹に上手く回っている。
ついでに周辺国の貴族達も娯楽として誘えば、有力なコネクションも出来上がって行くという、
国の性質を活かしたかなりの上策と言えるだろう。

 加えて、酒場にて今やすっかりと親睦を深めた闇商達の話では、
この界隈を取り仕切っている大元の組織にも、
やはりスポンサーとして積極的に関わる貴族が多いとの事。

 確かに、今のジウは体裁はともかく、金と労働力を巻き上げる仕組みと貴族の行楽地としてならば、
おそらく大陸で一、二位を争う完成度だろう。誰かは知らんが、味な真似をするものだ。

 間違いなく、今後のヒラサカの経済的、人員的動力源に成り得る領地。
来た当初は若干心配になっていたが、この国を支配するに辺り俄然意欲が沸いてきた。
  ジウの実権を握る者がこちらに応じてくれれば僥倖だが、ただでさえ新参勢力であるヒラサカに
どれ程の価値を見出せるものか、考えるまでも無い話。しからば、取る手段も自ずと決まる。
  要は、見せ付けて、認めさせてやれば良い。無視出来ない状況にまで持ち込んで、
それから時間を掛けて賢い連中を融和してしまえばこちらのもの。
  そして、今はその下準備。

「アレクさんよ、こっちの根回しは済んだぜ」

 ふと、背後から野太い声が聞こえてくる。

「後はアンタが大抵の無茶しようが、その辺に散ったオレ達の仲間がどうにかしてやる」
「協力感謝する。前金とは別に、報酬は事が済み次第すぐに渡そう」

 振り返れば、そこには私がここ数日の間で仲間とした、あの酒場を使っている面子の内の一人。
これからこの闘技場内で起こる出来事を、”ちょっとしたハプニング”程度に揉み消す為、
各所へそれぞれ話の付く商人達を回してもらった。
  二人して観客席を後に、登録所へと向かって行く。

「おうおう、アンタが言うんなら期待して良いんかね」
「さあな。それは私の体力によるだろうが、なるべくその期待には応えよう」

 使える兵は一人でも多く欲しいからな。

「んじゃ、オレぁ入り口の所に居るぜ。死ぬんじゃねえぞ」

 そう言って別れた闇商に対して手を振って応え、私は受付へ到着した。
  室内にはそこそこの実力者と思しき数人の剣士が互いの様子を見合って留まっているものの、
割り込んでくる強敵を警戒してか登録に踏み切る者は未だ居ない。
このまま行けば次が奴隷同士の戦いになる事は確実だろう。

 丁度良い。ならばこの身を以って引き摺り込むとしよう。

「次の試合に参加したい。登録を頼む、名前はアレクだ」
「おっ、良いねえ。命知らずな若者がまた一人。…あいよ、っと」

 ぴくり

「……おい、俺も頼む」

 担当に申込の旨を伝えて踵を返した直後、横に居た男が素早く参加登録を要求した。
私の気軽な雰囲気に勝てると踏んだのか、随分とあっさり掛かった。
  それを見ていた受付の男が、口元をにやりと嫌らしく歪める。
これもまた、賭場や闘技場では比較的良くある光景。

「アンタなら余裕だってよ兄ちゃん、まあせいぜい頑張んな」
「無論だ」

 顔が売れてしまっては、戦争が始まるまで他の行動をする事は許されない。
  ジウに潜入してから一週間半。ヒラサカで出陣を待っている軍への頃合を見計らった攻撃命令、
現地での撹乱部隊の指揮等は既にゴースに任せてある。
  植民地の方に配置した部隊も、各々与えられた役割を果たしてくれるだろう。

 私も、私の仕事をせねばな。

 

「これより次の試合を行う。前へ!」

「見ろ、今度はどっちも奴隷じゃねえぞ!」
「おーおー。いいぞーおめえら、やっちまえーー!!」

 立会人の声に応じ、私と先程の剣士が広場の中央へと進んで行く。戦う両方が西側、
登録参加者側から現れたので、観客席から軽い歓声が上がった。

「両者共、武器を持って準備を」

 指示を受け、腰に差した細く鋭い剣を一振りで抜き放つ男。対し、私は素手のまま。

「おいお前、なぜ剣を抜かん」
「宿に置き忘れてしまってな。別に武器は無くとも良いのだろう?」

 両腕を広げて、何も持っていない事を立会人に表明し、このままで構わないと宣言する。
向こうは何も言わず了承して、試合を開始せんと手を挙げた。

「き、……きっさまぁ」
「不服なら、更に目でも閉じてやろうか」

「始めっ!!」

 手を降ろし、合図を出した瞬間。
  怒りと屈辱に身を震わせ、相手の剣士はこちらへ全力で切り掛かってくる。
  それなりの速度で袈裟から襲いくる刃をかわし、一旦距離を取ってから、
私は敵の実力をしばし窺う事にした。

「許さんっ!!」

 武器による反撃の恐れが無い為、怒涛の勢いで剣を振る男。言葉からは憤慨の意が
はっきりとしているが、決して荒れて乱れた剣筋ではなく、
積み重ねた経験に比例した機敏な動きを見る。
  中々に強い。これならば並の兵士三、四人分は役に立つだろう。

「おお、あの素手の野郎よく避けやがるな!」
「あれでもう五度目だ!」

 初撃は油断を誘うのと様子見、か。いきなり良い相手にぶつかった。

 ヒュン、ヒュ!

(筋が良いな。お前、私の下でその剣を振るう気は無いか?)
「?……な、なにぃっ?」

 攻撃を避けながら、少し離れた所に居る立会人に聞かれない程度の声で、
私は口元を動かさずにそう語り掛ける。他者との密会等で、周囲に唇を読まれない為の技術だ。

(闘技場での敗北は死を意味する。衆目の為に散るのも結構だが、どうせならお前の力を役立てたい)
「! くっ……どこまで侮辱すれば!!」

 ヒュンヒュン、…ブンッ!

「どうだ?」
「俺を殺せるものならっ、殺してっ、見せろぉ!!」

 挑発とも取れる誘い文句に、剣を振る男の怒りが頂点に達し、次第に詰めの一撃が甘くなって行く。
ここまで来れば、後は煮るも焼くも、得物を奪うのも容易い。

 ヒュヒュヒュヒュ、ヒュカッ、ヒュン、……パシッ

「そうか」
「なっ、ぁ…!?」

 男の呼吸と完全に合わせて、剣線の死角に自然な動きで入り込み、武器を持つ側の手首を軽く叩く。
力点を押されて呆気なく地面へ取り零される剣の柄を、残った片手で逃さず掴む。
  比良坂流柔術において、得物持ちの敵を無力化して逆に奪う技術の一つ。
改良の余地が殆ど見当たらない程に洗練された、その冴え具合。

 ……刀身の細い剣で助かった。これなら普通の幅のものより、加減も少なく済む。

「ならば、死ね」

 スッ

 流れる動作で柄を反転させて逆手に持ち、鋭い剣先を男の胸目掛け一気に突き刺した。

「ッ……か、は………ぁ…」

 音は一切漏れない。持ち主である男の背から、僅かに赤い斑点の付いた刀身が顔を出す。
  傷口を徒に広げぬ様、静かに手際良く剣を引き抜く。二、三度の痙攣後、
力を失った身体が私の肩に持たれかかる様に崩れた。

「「…………………」」

 その光景を目にして、客席が驚愕のあまり静まり返る。

「心音と脈は取った方が良いか?」
「ぇ、ぁ……」

 言われて、我に返った立会人がこちらへと恐る恐る近付き、剣士の脈拍確認をした。
血は殆ど流れていないものの、男の顔は既に青白くなっており、容態は診るまでも無い。

 …が。周囲には、はっきりとそう認識させておかねばな。

「ウ、ウォレス選手、死亡により戦闘不能。勝者、アレクッ!!」

「「ぅぉぉぉぉぉぉぉおおお!!!」」

「すげえ! おいすげえぞあいつ!!」
「見たか今の!? 一体何したんだあの野郎!」
「こいつはとんでもねえのが来たもんだぜ、ええおい!!」

 ようやく状況を飲み込んだのか、やにわに会場内が大きな歓声に包まれた。
至る所から観客達の狂喜した会話が耳に届き、私は成功の感触に胸中で満足の笑みを浮かべる。

「ま、まだ続けるか?」
「ああ。だがその前に、次の戦いに備える時間を一試合分貰いたい」
「そうか、…わ、わかった」

 目の前の人間に得体の知れなさを覚え、初めと違い完全に及び腰になっている
立会人へ許可を取ると、私は控え室へ向かって行く。

「おいやるじゃねえかアンタ、まさかあれ程つえぇなんてよ! 何だありゃ!」

 鉄柵を潜り抜けて室内に入ると、その場所を任されていた闇商達の一人が、
興奮冷めやらぬといった様相で私に話し掛けてきた。列島独自のキルキアには全く無い動きなので、
彼等にとって柔術等は特に珍しいものなのだろう。

「諸国を旅する内に身に着けた技術だ。ここらの奴には一度じゃ見切れんだろうさ」
「へえ、今度オレも教えてもらいたいもんだね。何せ物騒な世の中だ、けっけ! ……と、ご到着だ」

 入退場門とは逆方向の入り口から、二人の工作員が担架を運んでやって来る。担がれている人物は、
つい先程の試合で私に敗れたウォレスと言う名の剣士。

「アレスさん。言われたとおり運んで来たけどよ、こんなん一体どうすんだい?」
「おう、もう死んじまってるぜ? こいつ。奪うなら装飾品だけでもいいんじゃ…」
「見ればわかる。少し下がっていろ」

 傍まで寄ってから、戸惑いながらも担架を床に置く二人に離れるよう指示を出し、
私はおもむろに拳を振り上げ、

「ふんっ!」

 ドン!

「っ……ごふっ!?」

 刺された跡の残る胸部に狙いを定め、かなり強めに叩く。
と、それまで死体同然だったウォレスが突如息を吹き返した。

 ……間に合ったか。

 鋭利な先端部を持つ凶器による刺突を用い、目立たぬ程度の血量で心肺の機能を絶つ無音の暗殺術。
今回はその応用として、引き抜く際に剣を持つ方とは別の手で内部へと僅かな治癒を施し、
一時的に心停止した仮死状態へ持っていく。
  その後で、止まった血の流れを再び戻す為に、元の位置へと正確に打突を放ち蘇生を図る。
差し詰め改良版、無音の活殺術といった所だ。

「うぉおぉおおぉぉ!!?? こいつ、生き返りやがった!!」

 私の後ろでそれを見ていた男が、驚きと恐怖で腰を抜かす。
下がっていた二人も、声こそ上げなかったものの、気持ちは全く同じな様子。

「お、っふ! っは、っはぁ………? ここは、俺はさっきあいつにやられたはずじゃ…」
「ああ、そうだな」
「ぅんっ!? おおお、お前は……!!」
「動くなよ、まだ血液が完全に循環していないんだからな」

 眼前に自分を殺した相手の姿を認め、がくがくと震えるも、すぐに貧血を起こし
担架へと倒れるウォレス。まあ、いきなり死んで生き返って、
それを驚くなと言うのも無理な注文だろう。

「生還おめでとう。もう五分処置が遅ければ本当にあの世行きだったが、そっちの方が良かったか」
「――――――」

 自らの身に起きた諸々の現実を理解した剣士は、しばらく呆然とこちらを見ていた。
これなら次の返事は期待出来そうである。

「ところで、勧誘の件は覚えているな? 私の下に付くならば、今よりは良い思いをさせてやるぞ」
「………一度は死んだ身だ…どうするなり好きにしろ……」

 仰向けた顔を両手で覆い、ウォレスは観念した様にそう呟いた。

 良し、まずはこれで一人。

 死んだ筈の人間が生きており、それを他の者に見つかっては八百長と疑われてしまう。
展開に付いて行けず動揺している他の連中へ、私は次なる指示を出す。

「動ける様になり次第、周りの目を避けて例の宿へ案内してやれ。亭主には話を通してある。
  私もこれ以上控え室に留まるわけには行かない。……ゴース、次から蘇生はお前に任せたぞ」
「承知いたしやした」

 ざわわっ!

 突如物陰から聞こえた声に、私以外の四人が一斉に驚く。今の彼等から見て、
果たして私やゴースはどう見られたものか、いつかのレイナートを思い出す状況だ。

「それではな、仲良くやれよ。……ああ、それとウォレス」
「? な、何だ今度は…」
「良い剣だな。しばらく借りるぞ」
 
  完全に奇異の眼差しでこちらを見るウォレスに、その手から奪った細剣をちらつかせる。
最初に当たった相手がこいつで本当に良かった。
  後は同じ作業の繰り返し。あのパフォーマンスの後なら、次もまた強い剣闘士が出て来る事だろう。
リィス隊長並の実力者が現れたら洒落にならないが、そうなったら大人しく降参すれば良い。

 その後できっちりと、今度は用意を整えた上で正々堂々と勧誘する。

 勧誘方針を今一度確認してから、私は更なる軍の戦力を求め、再び広場へと続く門を潜って行った。

 

「勝者、アレクッ!!」

 わああああああああああ

「お、おいっ、今ので何人やった!?」
「そんなんも数えらんねえくれえ酔ってんのか? 四連勝だよ、よんれんしょう!!」
「うぉぉぉーー!! 最高だぜ兄ちゃん!!」

 そうそう目にしない光景を前に、場内はまさに割れんばかりの大歓声。
掛け金の売り上げもそれに比例して、今頃は既に大した額になっている事だろう。

 これで小隊長格が四人か。……大収穫だな。

 一度の勝利で退場するのが凡その基本である闘技場で、
現れる挑戦者を初戦以降休み無しで打倒していく私は、さながらショーの捌き役と言った所か。

「続けますかっ!?」
「ああ」

 もはや新しい脅威にも慣れたのか、立会人の男がやたら威勢の良い口調で戦闘の続行を尋ねてくる。
  成るべく傷付けないまま生け捕りたいが為とは言え、敵の攻撃を殆ど無傷で避け続け、
最後に一撃で仕留めるという戦法は、観客からすれば華麗なパフォーマンスにしか映らない。
そこから察せられる実力差に剣闘士としての血が滾るのか、
飛び入りで挑んで来る挑戦者達の全員が全員、それなりに名を売れるぐらいの腕利き揃いだった事は
どう捉えるべきか。

 お蔭で、さっきの奴は懐に入るまで少し手こずってしまったな。

「すぅぅぅぅ………はぁぁぁ」

 回を増す毎に強まる声援を耳にする反面、私はゆっくりと呼吸を落ち着けていく。
疲労もそこそこに溜まってきているが、中堅級の相手を一対一で次々と手玉に取って歓声を浴びる内、
ここ最近落ち込み気味だった私の戦闘に対する自信も徐々に立ち直ってきている。
波に乗っているのだ。

 しかし、今日はこれで最後にした方が良さそうだ。

 主催者側の注目を集める役割も込めたここでの振る舞いも、度が過ぎれば会場荒らしとみなされ、
数に物を言わせて襲われる可能性がある。
主催者側の貴族に勧誘されれば有力な繋がりを持つチャンスだが、
邪魔者として命を狙われては話にならない。
  加えて、治癒を続ける私の小容量な魔力も問題だ。

 今の所はそれらしい動きは見せていないが、もうそろそろ向こうの考えが出て来てもおかしくは……

 ざわざわざわ…ざわざわ

「……おお、来たぞ来たぞ」
「あの首刎ね奴隷だ! ほれ、見ろ!」

 突然、会場全体が軽くざわめき、興奮と緊張の入り混じった奇妙な沈黙を見せる。
どうやら予想した通り、いよいよ本命のお出ましのようだ。

「……………」

 次の試合を始めんと東門、主催者側の鉄柵から現れたのは、
ボロボロになった奴隷服を身に纏う一人の小柄な少女。
手入れのまるでされていない荒れ放題の髪や煤けた顔は、
貧しく薄汚れた印象を前面に押し出している。
  私が今まで通っている間に見た中で、少なくとも十一人の剣闘士を葬った。
この闘技場の売り上げを大きく賑わせる、主催陣営の擁する花形役者の一人。

「奴隷番号0913、前へ!」
「……………」

 自らの番号を呼ばれて、少女がこちらに無言のままぺたぺたと歩いて来た。実際に前に立たれると、
尚の事その身長の低さが際立つ。
  だがそれ以上に目を引いたのは、破れほつれた奴隷服から垣間見える、
薄く付いた皮下脂肪に隠されたしなやかで無駄のない筋肉。単に鍛えて手に入れたそれとは違う、
生来に備わった才能という幸運のもたらした産物。

 少しまずいな。………こいつは、速いぞ。

 向こうの得意な戦法は、筋を見切れなければ一瞬でやられるスピード勝負。
暢気に様子見をかましている余裕が果たしてあるものか、
とりあえず無傷での決着は有り得ないだろう。
  一応のルールとして降参は認められているが、この空気で今更そんな事をしようものなら、
街に留まっていられるかさえ疑問だ。ここまでしたからにはショーを最後まで盛り上げろという、
主催者側の思惑がありありと感じ取れる。

 順調だった狩りの帰りに、獰猛な熊と出会った密猟者の心境だな。

 行けるだろうか若干不安だが、周囲ははいそうですかと待ってはくれない。

「両者、武器を持って準備を」

 私はウォレスから借り受けた細剣の切っ先を正面に向け、防御の構えを取る。
対して、少女はシミターと呼ばれる、刀身の大きく反り返った斬るに適している剣を手に持ち、

「始めっ!!」

「―――――」

 試合開始の合図と同時にその姿が消え、横合いからウォレスの時とは比較にならない速度の白刃が、
私の首元を目掛け襲い掛かる。―――やはりそこへ来たか!

「ふっ!」

 キィィィンッ

 予測済みの動作に素早く剣を降り抜くと、金属同士の甲高い衝突音が広場に響いた。
初撃を防がれた事を理解した少女は、軽い身のこなしで更にこちらの死角へと飛び込んで行く。

 キィン、キィン、キィンキンキィンキィィン!

 見えない方向から次々と繰り出される斬撃の嵐に、
経験から手筋を読んで少女の動きに剣を持つ手を合わせ相殺する。
息を付く間もない攻防が十数秒続いた所で、ようやく間合いを離す事が出来た。
  すぐさま追い縋ろうとする少女に対してもう一度、次はやや上段に構えを取って牽制。

「なんつう速さだ、まるで筋が見えやしねえ…」
「だがあの兄ちゃんも負けてねえぜ!
  あのガキの攻撃があれだけ防がれる場面なんざ、オレはこれで初めて見るぞ!!」
「こいつぁわかんなくなってきやがった!! 一体どっちが勝つんだ!!?」

 緊張から一旦外れると、それまで息を飲んで見守っていた外野の声が途端に広がっていく。
観客達を黙らせる程に、数秒前までの剣戟は見事なものだった。

 物騒な異名の通り、さっきから隙を突いては狙って首に斬り掛かって来るが。
生憎と、こちらもそれ相応の研究は事前に済ませてある。

 それが闘技場主催者から、彼女に課された勝利の条件なのだろう。
実用性より観客を魅せる事に重視した戦い方は、私の取っていたそれとお互い良い勝負である。
  死角へ回り込む足運びと斬撃の速度は確かに驚異的なものだが、
多分に勘に頼った動きと首狙いという条件付けの為、数合でも打ち合ってしまえば、
不規則な様に見えて単調な太刀筋を把握するのは容易い。
しかし、これまでの相手にはその数合を耐え切れる者が居なかったので、
それでも十分に通用したのだろう。

 殺すだけならまだ行けるが、捕らえるとなるとこちらも際どいか。

 純粋な反射神経やバネの良さでは私を上回るものの、
如何せん上級者相手の経験不足が災いしているせいで、それらの長所を活かし切れていない。
その他にも、これから伸ばせる点はまだ幾つもある。

 ………欲しいな。

 隠密。ゴースとはまた違った意味での懐刀として、実に育て甲斐がある逸材だ。
  適当に茶を濁してしまっては、少女が自らの意思で行動出来ない奴隷の身分なだけに、
再び闘技場を訪れたとして次があるとも知れない。
中堅所ならまだしも、花形ともなれば買い取れるだけの持ち合わせも当然無い。

 例え命を賭してでも、ここで手を伸ばす価値はある。

 静かに、わかりやすく深呼吸をして隙を作る。
剣を垂らす様に構えた少女が、案の定すかさずそこへ割って入ってきた。

 ヒュン、ザシュッ!

 足元から這う様に迫る、一歩間違えれば片足が吹き飛ぶだろう斬撃を、
打ち合おうとはせずに大きく飛び退く。
が、どうやら上手く避け切れなかったらしく刀身と私の居た空間に、多少の赤色が見えていた。
  が、そんな程度で怯んでいる暇など無い。
  更に追撃せんと足を踏み込んだ少女へとタイミングを完璧に合わせて、
後ろへ引いた際に、弓を絞る形に片手で構え直した剣の狙いをその胸に定め、

「シッ!」
「―――――」

 ヒュカッ……キィィィィン!

 放たれた、先の四人を例外なく仕留めてきた必殺の一撃を、これまでの試合を見て
向こうも予期していたか、少女は神業的な反射速度を以って打ち返した。
私の得物であった細剣が歪に折れ曲がって地面へと弾かれた絶好の勝機を見逃さずに、
返す刀で今度は逆にこちらの首筋目掛け、彼女の止めの剣線が迸る。

 ここまでは、全て計算通り。後はこの並外れた高速の一太刀を、全身全霊で―――止める!

「は……っっっ!!」
「―――――」

 パシィィ!!

「「………ぉ…ぉぉおお……!!!」」

 観客席から漏れる声には、紛う事なき驚嘆の色。
  皮一枚斬られた私の首から、一筋の鮮血が流れていく。
剣は標的を断ち切るには至らず、あと少しという所で現れた障害物によって、
その動きを完全に停止していた。
  硬直したシミターの反り返った刀身に新たな赤を彩るは、細剣を弾かれる直前に手放した私の手と、
それを補うもう片方の手。ウォレスの時よりも更に難易度の高い、
振り抜かれた敵の斬撃を素手で直接無力化する技。
  比良坂流柔術、対刀戦技が一つ。別名、白刃取り。

「せい!」

 ブンッ

 両手で挟んだシミターを梃子の原理でもぎ取り、後方へと放り投げる。
武器を失った少女はそれでも私を殺そうと、再度態勢を取り直して襲い掛かってきた。

 シュ、ヒュ、ババッ

 が、ユエやゴースならばいざ知らず、両者が徒手空拳ならばリィス隊長とて敵ではない。
身体能力は人並み以上とはいえ、先程までの剣技とは違い、明らかに精彩を欠いた少女の格闘技術。

 猛獣も、こうなっては俎板の上の鯉に等しい。

 互いに武器を手放した状態ではあるが、ここまで来てしまえば主催者側とて
この試合を中断する事は出来ない。ただ、黙ってショーの結末を眺めているのみ。

 パシ、パシ……スッ

 最初は右肩。続いて、左肩。
  至近距離で攻撃を捌きながら、私の両手がするりと丁寧な細工を施す。

 パシ……ス

「―――――」

 痛みを感じぬ程に綺麗に関節を外され、力の入らない自らの垂れ下がった両腕。それを目にしても、
驚くべき事に少女は一切表情を変化させなかった。
  ただがむしゃらに。死を恐れず、むしろ死を求めているかの様な無謀な特攻。

 ……ふん、こうした境遇ではありがちなタイプだ。

 ブンッ!! パシィ

 大きく飛び上がりまたしても首狙いに放たれた回し蹴りを、勢いを殺さないまま受け流し、
一回転させてから仰向けに地面へ叩き付ける。衝撃に咽ている少女の長い前髪から覗く瞳は、
まるで感情が存在しないのではと錯覚してしまう程、無機質な灰色を見せていた。

(待っていろ。これから先、必ずもう少しマシな目をさせてやる)

 馬乗りになった私がそう呟いてから、再び少女の胸元へと目掛け、左手で指突の構えを取る。
ウォレスに借りた細剣が折れてしまった今、互いに激痛を伴う荒業となるが致し方ない。

 ゴリュッ……ポキ、ゴキ。

 躊躇わずに、寸分の狂い無く。人差し指と中指を、少女の薄い胸に渾身の力で突き刺し、
剣の場合と同じ要領で活殺術を試みる。
  本来貫く程の勢いで指突を用いる箇所ではない、筋肉の集中する胸部狙い。
貫手とは違いこちらは二指しか使えない為、途中で何度か骨の拉げる音がした。

「っ、…! ……っ!! っ………」

 当然そうそう使うやり方では無いので、武器でのものと比べて熟練の程は未だ完璧からは遠い。
しばらく続けられる剣で貫かれた程度では済まない激痛に耐えかねたか、
少女は抜け出そうと藻掻いた数秒後、ぱたりと意識を失う。
  引き抜きざまに治癒を掛け、処置は無事に終了。但し、私の左手は一部悲惨な状態だ。

 何日か治癒に魔力を専念しなければならんが、良しとしよう。それより、流石に無茶をし過ぎた…。

「ど、……奴隷番号0213死亡により、勝者アレク!」

 ワァァァァァァァァァア!!!

 両肩の関節を外され呼吸も無い。これまでより更に酷い敗者の有様に、
立会人は既に診断を放棄したらしく、こちらが立ち上がると同時に勝敗を下す。
  興奮が最高潮に達した観客席からの大歓声は、心身共に消耗し尽くした私の耳へ、
さながら音の暴力となって長々と降り注いでいた。

9

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

 扉を開けた先には椅子にソファは勿論、床の絨毯や壁画等、あらゆる高級家具が
瀟洒な雰囲気を持って飾られた室内。
  市街の闘技場より少し掛かる距離に建った、その地方を統括する領主が住まう大きな館。
他方や自国の要人を迎え入れる応接間へ、私は足を踏み入れていた。

 これは良い趣味をしている。

「ただ高価な家具を集めただけでは真似の出来ない、見事な内装ですな。
無理に舶来もので格好を付けようとはせず、揃い易い地元産の素材を活かした統一感を覚えます」
「ほう、君にもこの美しさがわかるかね」

 左右に護衛を従え片方のソファに腰掛けている男が、賞賛の言葉に口元を綻ばせる。
素朴で風雅な造りの和風部屋も気に入っていたが、
こちらもまた、相応に落ち着いた印象があり好感が持てた。

「ええ。長らく国々を旅した経験から、少々目が利くもので」

 そう言って、館の主たる身なりの良い小男へと笑いかける。互いに穏やかな表情をしているが、
その視線は至って冷徹に、相手の器を品定めしている最中だ。

「お初にお目に掛かり光栄です、伯爵。私の名はアレク、しがない流れの剣闘士に御座います」
「話は聞いておるよ。何でも先日は我輩の闘技場で五人抜きをやってのけ、
最後はこちらが秘蔵の奴隷剣闘士さえ圧倒したそうではないか」
「恐縮ながら。伯爵から御声が掛かるのを期待してとは言え、
売り上げに貢献する大事な花形を殺めてしまい申し訳御座いません」

 口調とは裏腹に涼しげな顔の私に対して、ジウ王都周辺をその手に収める男、
デコーズ伯爵は浮かべた笑みを更に深くした。自分と同類の存在を見つけた様な、細くギラついた目。
  この男、やはり只者ではない。

「食えん奴だな、君は。これまでもそうして旨味に有り付いて来たのかね?
  ……とりあえず、腰を据えて話をしようではないか」
「では御言葉に甘えて」

 許しが出たのでもう片方のソファへ私も浅く腰掛け、真正面に居るデコーズと対面した。
向こうの護衛と同じく、こちらの背後にも数名の兵士が付き、槍を手に持ち待機をしている。

「どうやら互いに求める所は同じ。ならばここで、貴殿へ単刀直入に切り出させてもらおう」

 懐から一枚の紙を取り出し、見える様にテーブルの上に置く。
そのとき、重なり合う視線の先にある伯爵の瞳は、
私にとって非常に馴染みの深い薄明かりを点していた。

 ……成る程。道理でどこか似た感じがしていたが。

「アレク殿、その武勇を高く評価した上で命じよう。我輩直属の部下となり、忠誠を誓いたまえ」
「はっ、しかと了解致しました」

 続く台詞に向かって、私はそれを掛けられた者が取るだろう反応と、全く同じ演技をする。
  暗示の術。瞳に込めた魔力が隠れもせずに漏れている為、彼のはおそらくは教わったものでは無い。
かつてアリアが用いていた治癒と同じ、理論を学ばず感覚的に扱う天然の魔法。
  デコーズ伯爵。闇商達から聞き得た情報では元々貴族の家柄でなかった筈の男が、
偶然にしては出来過ぎな勢いで上り詰めた地位の理由は、つまりそう言う事なのだろう。

 くくくっ、…こちらにも既にその気があるからと、いきなり吹っ掛けてきたものだ。

 当然ながら、私にそうした類の術は通用しない。おそらくは以降も度々同じ様に言葉を掛け、
次第に対象を自分へ完全に取り込んで行く寸法なのだろうが。
  目の前の人物へ、魔力の気配を遮断した、本物の魔法を掛ける。

「では今日の所は一旦宿へと帰り、明日にまたこちらへと窺わせて頂きます。
なにぶん、闘技場を出た直後の事により、準備が済んでおりません故」
「うむ、わかった。送って行こう」

 私の意見に対し何も不審を抱かず、傍に居た護衛の一人に馬車の手配を命じるデコーズ。
自らが放った暗示を弾かれ、逆に相手に同じ術を受けたなど、
その存在を正しく把握していない彼には想像も付かないだろう。

 これで今日の分の魔力は底を付いた。しかし、見返りに得られた成果は、こちらの両手に余る程だ。
 
  宿へと送らせた剣闘士達は逃げていたりはしないか。ゴースに任せていればまず大丈夫だろうが、
ここへしばらく留まる事になる前に、自分で直接話を通しておきたい。

 生きてるか心配な奴も一人居るからな。

 あの奴隷の少女。上手く蘇生が行えたのか、他に比べて少々自信に欠ける所である。
  そんな思案に暮れながら、私は伯爵の出した馬車で街の宿へと向かった。

 

「おお、来たぞ! 五人抜きのアレクの到着だ!!」
「見せてもらったぜ、アンタの戦いぶり! べらぼうに強えな兄ちゃん!」

 入る前から漂っていたアルコールの匂いは、中で如何に大勢の人間が飲み騒いでいるかを
分かり易く表している。闘技場にて手を借りたここの会員達も、今夜はほぼ勢揃いだろう。

「お疲れさん、送ってきた面子は大体こっちに集まってるぜ。あんたのおかげで今夜は大繁盛だ」

 伯爵低を出てからしばらく経った、夜中の街。
  途中で馬車から降り、少し歩いてから酒場の扉を開いた私を、闇商達と亭主の明るい声が出迎えた。

「どうやら報酬は無事に賞金で足りた様だな」
「おうよっ、オレぁ二試合目からはアンタに張ってたからな。そりゃ儲けさせてもらったぜ!」
「あ、おれもおれも!! こいつなんか最後の試合に有り金全部賭けやがってよ!」
「うう、うっせー、勝ったんだから良いじゃねえか! そら、みんなでヒーローに酒飲ますぞっ!!」

 特に騒々しい一角へと立ち寄った途端に、酔っ払った男達に取り囲まれ、酒や料理を渡されては
バシバシと背中を叩かる。仕舞いには全員で瓶の口を振り回して、自分達の身体はおろか、
テーブル丸ごと酒浸しにしかねない勢いだ。

 皆で囲む酒の席で、共に羽目を外してはしゃぐというのも、周りの雰囲気を含め、
私も決して嫌いではない。だが、怪我と疲労でやや足に来ている今の状態には、
正直かなり堪えるこの状況。
  酒宴に誘う彼等の手をやんわりと断り、闘技場で手を合わせた剣闘士達の居るテーブルへと向かう。

「ウォレス。済まないがお前に借りた剣を駄目にしてしまった、替えは用意しておこう」
「ぅっ…、い、いや、良い。それぐらい構わん」

 ウォレスを始めとする四人の男が、視界に私の姿を認めた瞬間僅かに身体を硬直させた。
相変わらずこちらに対する恐怖心が残っている様子に、軽く嘆息する。

「そう固まるな、取って食う訳でなし。お前達がこっちに従う気があるか、確認の為に来ただけだ」
「いや…。頭ではわかっているのだ、一応は……うむ」

 自分を納得させる様に、口々に何やら言い訳をして男達はジョッキを呷った。
…多少の苦手意識があるものの、これなら全員滞りなく戦力に加えられるか。

 …まあ、舐められるよりはマシだろう。

「そういえば、もう一人ここへ送った筈だが。あの娘はどうした」
「ああ、あの首刎ね奴隷なら上に運ばれていったよ。…そうだ、あれもあんたが負かしたんだよな」

 不在者に気付いた私の質問に、横に居た剣士が恐々と答えた。
確かに、ここの人間ではあの少女と一対一で戦い、勝てる者は居ないだろう。

「そうか」

 なら、疲れて寝る前に会っておかなければな。

 傘下に入るにあたっての諸注意を適当に添えてから、今後は一先ずゴースの指示に従うように
言い付け、その場を後にする。
  小さな軋み音を上げる足元。私は二階の宿へ続く階段を、ややふらつきながら上って行った。

「へえ、旦那」
「……噂をすれば」

 明かりはあれど、階下の酒場とは打って変わって人気の無い宿。自らの部屋に辿り着く数歩前方に、
スッと、何の前触れも無くヒラサカが誇る隠密頭が姿を現す。
  相変わらず気配の読み辛い奴だ。痛みと疲労と働き詰めだった虚脱感とで、今は余計にそう思う。

 一息付くには、まだ少しばかり早いか。

「例の娘、ここまでほとんど動きらしい動きをしておりやせんが、
とりあえず旦那の部屋に逃げないよう拘束しておきやした」
「ご苦労、こちらも伯爵に取り入る事が出来そうだ。下の奴等も含め、残りは頼んだぞ」
「承知」

 他人に聞かれない程度の声量での会話を終え、音も無く去って行くゴース。
心なしか普段より雰囲気が違って感じたが、どこかに思う所でも………ああ。

「ゴース」
「へえ」

 見えない位置から、その声が聞こえる。

「気になるか、あの娘」
「……何のことやら。覚えはついぞありやせんが」
「ただの勘だ。違っていたなら、笑ってくれて結構」

 首を竦めて両手を軽く持ち上げる私に対し、ひっひ、と、陰気な笑いが響く。
そこへほんの一滴だけ含まれた、悲哀と憐憫の色。

「旦那にゃ敵いやせんね」
「お互い、柄にも無い状態という訳だ」

 違えねえ。
  そう言ってゴースはもう一度だけ笑い、それきり気配は消えてなくなった。

「……ふう」

 思わず溜息。
  誰が何を思おうと、するべき事に変わりはない。そんな仄かな感傷も、ここでは山と転がっている。
  無人の廊下を数歩渡り、私は自分の部屋へ繋がるドアのノブをゆっくり回した。

「……………」
「加減が上手く行ったかどうか今一つ自信が無かったが、どうにか無事のようだな」

 目の前には、両手両足を縄でそれぞれ対になるよう縛られ、ベッドに横向きに倒れている少女。
灰色の瞳は相変わらずの無感情で、こちらを見るともなく見ていた。
  酒場から持って来た肉の入ったスープの皿を、横にあった机の上に置く。
それからすぐベッドへ向か
って、身体の自由を奪っていた拘束を手早く解いて起き上がらせる。

「手荒な真似をして済まなかった。何か腹に入れておいた方が良いだろうと思って持って来たが、
食べられるか?」

 というか、そもそも言葉を話せるのだろうか。この娘は。

「……たべ…る」

 ふとそんな事を考えたが、どうやら杞憂だったらしい。私の手から離れて、
少女はよたよたと机から床へスープを下ろし、備え付けたスプーンを使わずに口で直接啜り出した。

「待て待て、それでは口元が汚れる。これで食べるんだ、これ。…使った事は無いか?」
「……」

 こくり

 手に持って見せたスプーンに対して、少女が無言で頷く。他にどれだけの事を知らないかは
定かではないが、せめて最低限の作法だけでも覚えてもらわねばなるまい。

「では私が手本を見せてやる。ほら、こうして食べるんだ」
「……」

 そう言って、持ったスプーンを使い皿のスープを口に運んで見せた。

「わかったか?」
「……」

 ふるふる

 その後にもう一度尋ねたものの、見ただけでは理解出来なかったか、
それとも単に使う気が無いのか、少女は首を横に振るのみ。
  疲れている身として、これ以上一々向こうの認識を確かめながら相手をしてやるのは、
正直言って非常に面倒臭い。
気分的には、今この瞬間にでも少女を無視してベッドへ倒れ込みたいくらいだ。

「そうか、ならとりあえずこっちを向いて口を開けろ」
「……」

 スッ…ぱく

 スープの入った皿を持ち、正面に向かい合った少女がその小さな口を開いた所へ、
中身をひと掬いして運ぶ。向こうもこちらの意図は分かっている様で、
自分の方へと近付くスプーンを咥え、スープを啜っては離してという行為をしばし繰り返していた。
  何処となく、親鳥から餌を与えられる雛鳥を連想する食事風景。

「ん、食べ終わったな。替わりがもっと欲しいか?」
「……」

 ふるふる

 程無くして空になった皿を持って尋ね、もう要らないとの意思表示を確認してから机に戻した。
  内心ではっとして、小さく項垂れた。さっきまでのゴースとの会話を思い出す。

 …いかん。また、まだるっこしい手順を踏んでいる。

 どうやら私も、他人にとやかく言えた身分ではなかったらしい。
…そんな事は、これまでの女性遍歴を振り返ればこそ、とうの昔に把握していた事なのだが。 

「次は、その服装をどうにかせんとな」
「……」

 荷物から自分用のシャツを取り出してから、特に躊躇はせずに少女の奴隷服を脱がして
タオルで軽く拭き取り、着替えさせてやる。
何らかの抵抗や反応があるかと思ったが、少女は嫌がる素振りも見せず、
じっと私にされるがままの態度だった。

「…これで良し、と」

 流石に物乞いの様な格好で隣に居られるのも、気分は良くないからな。

 などと、胸中で理由付けをしているが、それだけでは無い事もまた否定し切れない。
九割の打算に対し、残る一割分の情。
  少なくとも、私は他との接し方をそう捉えている。
果たして、その冷静なつもりの分析も合っているのかどうか、
先に浮かんだ前例を鑑みるに全くわかったものではないが。

「後は寝床だが、何処で寝るなり好きにしろ。私ももう眠いんでな、そこまで付き合ってられん」

 どのみち、今の様子ならば脱走する恐れも有るまい。
逃げたところで、この娘には帰る場所すら既に無いのだから。
  一般的に死ぬまで続くと言われている闘技場での奴隷剣闘士は、植民地から自ら出稼ぎに来た者や、
あるいは、本人にその気が無くとも身内に金で売られるパターンの二択。
まだ十台半ば程に見えるこの少女が、それらの内どちらに当てはまるかなど、
わざわざ考えるまでも無い。

「私はもう寝かせてもらう、お休み」

 言うなり、とうとう待ち焦がれたベッドに倒れ伏して以降の思考を放棄した。
斬られた足や、折れた指の痛みも気にせず、あっという間に頭の中が睡魔で染まっていく…

 ス…

 筈、だったのだが。

「……」
「………何だ」

 私の視界に、不意にボサボサの頭が現れる。
ベッドを使うなら使うで、僅かに空いてるスペースがまだあるだろうに。

「なん…で」
「質問に質問で返すな。私は暇ではない」

 閉じた瞼の先には、おそらくまだこちらを見つめ続けているだろう灰色の瞳。
少女が服の裾をほんの少しだけ掴む気配がした。

 ああ、目を閉じたら本当にもう駄目だ…疲れた。

「なんで……たすけて、くれたの…?」
「必要だったからだ。…もう十分だろう」

 意識の方が半分以上船を漕いでしまっている状態。こうなっては、もはや声を出すのも億劫である。
  私の記憶は、そこで遂に途絶えた。

「なまえ……なんて、いうの?」
「アレクサンドロ……アレクで良い……」

「……あり、が…とう…アレク」

10

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + 

「おう、アレクの兄ちゃんか。昨日はこっちが大分うるさかったが、上じゃ良く寝れたかい?」
「問題なく熟睡させてもらった。…しかし悲惨だな、これは」
「夜明け前にゃあらかた追い出したんだが、まあいつものことよ」

 心身共に疲弊しきって泥の様に深く眠り、一晩明けた早朝。寝覚めも良く部屋から一階の酒場へ
降りると、飲み過ぎてテーブルに突っ伏したまま眠っている数人の会員達のだらしない有様と、
頭と胃が不快感を伴う位まで室内に充満したアルコール臭。
  私が部屋で寝入ってからも、宴はあのペースのまま夜通し行われていたようだ。

「ほれ、まずはそれで目ぇ覚ましな」

 とりあえずカウンターに座ると、目の前に冷えた水の入ったグラスを置かれる。
 
「仕事の話や、商品の引渡しなんざも大抵はここでやるもんだから、
下手すりゃ家よか入り浸ってる奴もいるくらいだ。…朝メシはどうする? もうすぐに出るのかい」
「いや、向こうへ着くのは昼過ぎにしようと思う。軽めにパンとスープをくれ、
この空気の中で朝から重いメニューは到底行けそうもない」

 あいよ、と応え、調理を始める亭主。

 ここの連中で、デコーズの所と接点がある奴は誰だったか…。

 グラスを手に持ち揺すりながら、伯爵低での自由を利かせる為の協力者を割り出していると、
不意に階段の方から足音がしてきた。目線をそちらへやると、
そこには先程まで私のベッドでぐっすりと寝ていた少女の姿。

「……」
「早いな、普通はまだ眠っていても良い時間だぞ」

 ふるふる

 睡眠はもういい、という意思表示だろうか。少女は例によって無言のまま首を横に振り、
その度にボサついた髪がみっともなく揺れる。

 ………この不潔さは問題だな。服役中の囚人でも有るまいし。

 変装というでもないのにも関わらず不衛生で汚れた格好は、私の持つ個人的な美意識に反する。
昨日は身体を軽く拭いて着替えさせるだけに留まったが、気力の回復した今、
そのみすぼらしい姿を黙って容認する訳には行かない。

「亭主、出来上がりを少し遅くする替わりに、料理は二人分を用意しておいてくれ。
それと、浴場を借りるが構わんな」
「……なるほどな。わかった、好きに使ってくれ」

 材料庫に潜っていた亭主が顔を出し、事情を把握してから再び準備に戻る。
朝から湯を沸かすのは流石に無理なので水洗いになるが、それだけでも十分だろう。

「さあ、起きたのならさっさと身体を洗って汚れを落とすぞ。来い」
「……」

 

 結論から言って、私が朝食を摂る事が出来たのは、それからたっぷり一時間強が経った後となった。

「ほおー、見違えたねえ。兄ちゃん、手先がえらい器用なんじゃねえのか」

 浴場からようやく戻って来た私達、と言うか私の横に立つ少女を見て、亭主が驚嘆の声を上げる。

「まあ、一通りはな」

 それもその筈、ついさっきまで煤けた顔に荒れ放題だった少女の肌は、
念入りな水洗いによって年齢相応の瑞々しさと色合いを取り戻していた。
無造作に伸びた頭髪に至っては、鋏と櫛を用いて肩上まで小洒落た感じに切り揃えて、
鬱陶しい前髪も程々に処理し、今や完璧に別人の様子。

 ……張り切り過ぎた。

 自らの手腕に惚れ惚れしながら、内心で呆れ声を出す。
  と言うのも、最初はただ単純に汚れた部分を落としてやるだけのつもりだったのが、
磨き、洗っていく内に、少女の他より優れた下地が見えてしまい、
ついこちらも興が乗ってしまったのだ。

「さあ、メシの用意は出来てるぜ、嬢ちゃんも食いな。
…しっかし、ははあ、オレの目もまだまだ節穴だなこりゃ」
「……」

 再びカウンターへと腰掛け、暖め直したスープとパンを食べる私と少女。
  相変わらず着ているのは昨夜与えたシャツのままだが、これでそれなりの服装もさせてやれば、
途端に育ちの良いお嬢様が出来上がる。予想外に高かった完成度は、
私の美意識をこの上なく満足させた。
  くい、と服の袖が横から引っ張られる。

「どうした、お前は気に入らなかったか?」

 ふるふるふる

「なまえ」

 気持ち強めに首を横に振ってから、生地を掴む手を離さずそう言う。
数秒考えて、私は浴場で少女と交わしていた会話の内容を思い出した。

 後の作業に集中してて、あまり気に留めていなかったからな…。

「どしたい、兄ちゃん」
「いや、こいつの名前をどうするかという話を、ついさっきしていてな」

 親か身内によって、生まれ落ちて間も無く闘技場へ売り飛ばされていたのか。
本人に名を聞いてみた所、最初から自分は奴隷番号で呼ばれていたとの事。

「そうか、そういやそうだな。名前ねえ…」

 空になった皿を順に片付けていきながら、宿の亭主がふむと得心した風に頷く。
  呼び名が無ければ何かと不便だし、その意味では個人的にはいっそ番号のままでも構わないのだが、
自分から不要な悪印象を与えるのも馬鹿馬鹿しい。
と言う訳で、こうして少女の名前を考えてやる事になったのだ。

 時間もそう無くなってきているし、とっとと決めてしまおう。

「わかった、少し待っていろ」
「お?」
「……」

 そう言い残して踵を返し、私は二階の自室へと足早に歩いた。
ドアを開けて荷物から取り出したのは、ジウ潜入に際して自分の装備にと持って来た武器。

 ……これか、運が良いな。

 再び階段を渡って二人の元へ戻った私の右手には、鞘に納まった一振りの片手剣が握られていた。

「受け取れ、そして抜いてみろ」
「……」

 それを手渡された少女は、しばしの逡巡の後、両手で柄と鞘とを持ち、ゆっくりと引き抜く。
  横に居た亭主が、その刀剣の正体に思い至り目を丸くした。

「おいおい、そりゃタルワールじゃねえか。あんたそんなもんを何処で…ってえか、
ホイホイくれてやっても良いのかよ」
「以前イストリアへ渡ったときに、仕事の報酬に貰い受けた物の一つだ。
何、誰であれ優秀な使い手の元にあれば、武器にとっても本望だろう」

 現れたのは造形美と機能美とを兼ね備えた、木目の様に流麗な模様の浮かぶ反りが強い片刃の刀身。
闘技場にて彼女が使っていたシミターと概ね似た形状だが、こちらはよりしなやかさと
強靭さを併せ持つ非常に高品質な鋼の産物で、売る場所を考えればその辺の財宝にも勝る価値がある。

「前の物と扱い方は同じだし、重量もそう変わらん。どうだ、使えそうか?」
「……」

 こくこく

「なら決まったな、タルワール。今日からそれがお前の名だ」

 刃の模様をまじまじと見ていた少女、タルワールが、刀身を鞘に収めこちらへ振り向いた。
  由来を知る者には些か違和感が残るものの、高級感のある響きは女性に付けるものとしても、
あながちずれたネーミングでも無い筈である。同じ剣でもカッツバルゲルやグレートソード等、
聞くからに無骨で男臭い感じのものよりは数段良いだろう。
  と言うか、グレートソードに至ってはもはや人名にすら聞こえない。この場合はむしろ、
トゥハンドと呼ぶのが正しいのか、それともソードの部分を抜かすのが正しいのか。

 いずれにしろ似た様なセンスだな。

「…タル、ワール」
「そうだ」
「……タルワール…」

 何度もそう呟き、自らと同じ銘を冠した剣を胸に抱え込む。どうやら私の付けた名前は無事、
彼女のお気に召したらしい。

「良かったじゃねえか嬢ちゃん。そんな箔の付く名前もそうそうねえぜ」
「…うん…。ありがとう…アレク」
「手入れはしっかりするんだぞ、替えは用意してやれんからな」
「うん」

 頷く顔は無表情のまま、しかし、こちらを見つめる瞳には微かにではあるが、
ようやく感情の光が窺えた。プレゼントが武器と言うのもなんだが、
喜んでいるならそれに越した事は無い。

「命名はこれで済んだわけだが。ところで亭主、私が戻ってくるまでこいつを預かってはくれないか」
「ああ? 他の奴らもウチの宿に泊めるんだから、そりゃそうだろ」
「少し違う。あいつらは後でこちらの仲間と別行動を取ってここを離れるが、
こっちは私が直接迎えに来るまでだ」

 不可解と言う風に首を傾げる亭主に、私は続けて説明をした。

 実力はともかく、今の状態ではろくに指揮も下せん。

 勧誘した他の剣士達は現場での経験も当然積んでいるので、ジウへ本格的な攻撃を行う際に、
上官であるゴースの出す指示にも比較的スムーズに対応出来る。
奇襲や撹乱を主とするゴースの部隊では、個人の武力よりも、的確で迅速な情報伝達が重要なのだ。
  そこへ行くとタルワールは単独行動の資質は優れているにしろ、
集団行動の任務にはかなり不向きである。
何せ会話もはっきりと出来ない上、そもそも実地の経験が不足しているのだから、
いきなり群れでの精密さを求める場面へ放り込むのは妥当ではない。
  素早い連携が取れず味方を危機へ追いやるとも知れぬし、最悪、敵に囲まれて孤立する恐れもある。
そうなってしまえば、何の為にここまで手を尽くして彼女を引き入れたか分かったものではない。

「一応の話だからな。私の仲間が連れて行くと言ったなら、その時は止めなくても良い。
  まあ、見ればわかるがこの容姿だ。それまではせいぜいそっちで皿洗いなり給仕なりに使って、
ついでに言葉や簡単なマナーでも教えてやってくれ」
「注文が多いなオイ。人手は足りねえときもあるから、おれも助かりはするけどよ、大丈夫なのか?」

 つい、と、話の中心たる少女を顎で指す亭主。
当のタルワールは、またどうでも良さそうな表情へと戻り、私の隣で食後のミルクを飲んでいる。

「大丈夫になる様に、頼んだぞ」
「おい本当かよ、参るぜ。ったく…しょうがねえな」

 苦笑いを浮かべて大きく肩を落とす亭主に、感謝の意を込めた笑みを返す。
  人物の貴賎は始めに容姿や職で見極められる事も多いが、
必ずしも全てが受けた印象通りの性格である事など、広い世の中では当然有り得ない話。
彼等も人から悪徳と呼ばれる立場にあると言えど、一度輪の中へと入れば、
そこにあるのは普通の有り触れた仲間関係に過ぎないのだ。

「アレク、どこかへ行くの…?」

 手からコップを置き、タルワールがふと私にそう尋ねると、こちらにしか見えない様に
口笛を吹く真似をする亭主。一瞬、投げ飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、
預かってもらう恩もあるのでこの場は堪える事にする。

「仕事をしにな。その内お前にも手伝ってもらうから、それまでここで大人しくしていろ」
「いつ帰ってくるの?」
「正確にはわからん。一ヶ月で終わるか、それ以上になるとも…」

 じ……

「それまで、アレクには会えない…?」

 口調は平坦ながら、真剣な眼差しでこちらを見つめる灰色の瞳。
  返事に対して間髪入れずに質問を続けるタルワールに、とうとう我慢出来なくなった亭主が、
震えながらカウンターの裏へ沈んでいく。…この野郎。

「暇があればここにも寄る。必ず一回は様子を見に来るから、要らん心配をするな」
「ほんとう、に…?」

 尚も注意深く聞き返す少女の頭を無造作に掴み、ぐしゃぐしゃと撫でて黙らせる。
たかが子供の相手如きで、何故に自分がこうも手を焼かねばならないのか、
幼かった頃のユエを思い起こして無性に心が空しくなってきた。

「良いか、三度は言わん。ちゃんと来てやるから、心配するな」
「……」

 こくり

 その言葉にようやく満足したのか、タルワールはそれ以上言葉を発する事なく、
ただじっとしているのみ。
時計の時刻が差し迫っている中、これで私もやっと伯爵低へと向かう準備に移れるというもの。
  頭の中で編み出した訪問先リストを反芻しながら支度を整え、少しの荷物を背負い出入り口に立つ。

「亭主、私はもう出る事にする。余裕はあまり無いが、道の途中で他の者にも声を掛けようと思う」
「こっちからも口利きはしておくぜ、安心しな」
「ああ、有難う。…ではな、行儀良くしているんだぞタルワール」
「……うん」

 返答までのぎこちない間から察するに、どうやら自信はそれ程でも無い様子。
無論、特に期待らしい期待も抱いてはいない、言ったのはほんの気紛れである。
  店の前まで見送る二人に小さく手を振り、私は酒場宿を後にした。

To be continued.....

 

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