―――耳を澄まし、息遣いを隠し、一切の動きを止め。ただ、目標へと意識を傾ける。
遠く、パチパチと薪の爆ぜる音が聞こえてくる。
それに合わせ、男達の陽気な声が幾重にも森の中に反響する。
愚かなことだ。
身を潜めている茂みから窺う限り、標的たる盗賊達は、
いまだこの森林に潜む侵入者の気配を察せぬまま、宴に酔いしれている。
「隊長、敵はどうやらこちらに気づいていないようです」
「数はどれぐらいいるの?」
「焚き火の周りに二十人ほど、それに見張りが各方にニ人づつ。念の為に周囲を探らせましたが、
それ以上の人員は無いものと見ていいでしょう」
半端な装備に警備の甘さなどから考えて、おそらくろくな訓練を積んでいない
ならず者の集まりなのだろう。
「これで安全圏に逃げたつもりだなんて、うちの隊も随分と舐められたものね」
「同感です。……して、いかが致しましょうか」
「ふふっ…どうせすでに準備は出来てるんでしょう?」
言いつつ、おもむろに手を挙げた隊長が、そのアイスブルーの瞳に、たっぷりの余裕と、
私に対する信頼の意を込めた視線を宿す。
「より迅速に上官の意に応える為、当然の事です」
「そう言うと思ったわ。…うん、あたしの補佐が務まるのはサンドロだけ」
機嫌良さげに目を細めた彼女が、その手を振るい、
「―――全隊員に告ぐ。速やかに賊共を襲撃・掃討したのち、奪われた物資を回収せよ!」
指を鳴らす。その瞬間。
幾条もの弓矢の風を切る音が、正確に数人の賊の心臓を射抜いた。
突然の事態に、残りの連中が戸惑っているその隙に、
「突撃ィッ!!」
剣や槍を装備した部隊の、一斉攻撃が始まった。
+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
右に左に、声、声、声。
道行く旅人や世間話をする市民、軒先に店を広げて声高に品物を売る露天商。
城下町はそんな人々の活気で溢れていた。
「今回の敵もまるで歯ごたえがなかったわ」
「国内で起きる事件や紛争など、ほとんどそんなものでしょう。
厄介な問題は無いに越したことはありません」
あればそれは、すぐに私達の目の前にやってきてしまうから。
それこそ、隣国との戦争でも起きようものなら、今いるこの城下町の明るい空気も、
血と闘争にまみれたそれへと早変わりする事だろう。
物足りない、といった面持ちを見せていた隊長も、一転して惚けた笑みを浮かべる。
「そうね。あたしもサンドロと一緒に戦場を駆ける機会が減ったのは残念だけど、
こうして二人で街を歩いたりするのも、その、……良いものだと思うわ」
「隊の装備の補充、及び情報収集を兼ねた市街の警邏という事をお忘れなく」
「…それが、プレゼントを選びながら言う台詞かしら?」
「お言葉ですが、それは隊長が、「日頃の感謝の意を込めて、サンドロはあたしに何か贈り物でも
するべきだと思うの。そこのところどうなのかしら? あたしとしては最近は装飾類が
欲しいかもだけれど、どうなのかしら?」と、昨日の昼から詰め所から出るまで
延々言い続けていたからでしょう。周りに他の者が居るのも構わずに」
「ええ、わかってる、わかってるわ。こうした行為には色々と言い訳が必要だもの。
それはサンドロだって例外じゃないわ。だってあたしも、今かなり照れてるんだから」
皮肉と嫌味とを、口調と顔の両方に多分に出しつつ牽制したが、どうにも堪えた様子は無い。
めげない人である。
「ときに、リィス隊長。隊長は「社交辞令」という言葉をご存知でしょうか」
「「嫌よ嫌よも好きのうち」ならば耳にした事があるけど」
「隊長、それは世に蔓延る加害者達の免罪符です。デマに惑わされてはいけません」
「でも、「やらずに後悔するよりもやって後悔しろ」って昔の偉人も…」
「隊長、それは今貴女の頭に浮かんだ新しい格言です。歴史の捏造は良くありません」
「そうやって憎まれ口を言いつつも、しっかり良い品を選んでくれてる。
あたしはサンドロのそんなところが大好き」
「恐縮です。ええ、恐縮ついでにいっそ消えて無くなってしまいたいくらいです」
しっかりと選ばなければ、後で恨み言を山程言うくせに、まったく口の減らない人だ。
それでも仕事はきちんとこなすのだから文句は言えない。まあ、愚痴はこぼさせてもらうが。
「そんなの困るわ。サンドロが居なければ誰があたしの副官をするっていうのよ」
「何を。隊長ほどの人であれば、副官など居なくとも敵を倒すぐらいは問題無いでしょうに。
それでも自分の片腕を置きたいのであれば、有志を募ると良いでしょう。
隊長の奴隷となっても構わないという仕官が二桁は集まるはずですよ」
前例があったのだから間違いない。
彼等はきっと嬉々としてコキ使われるはずである。
私は仕事量の斜め上へと飛んだ酷使は御免被るが。
リィス=ブラム。
かつてこの国を巻き込んだニ年に及ぶ戦争の中、当時若干十六歳で貴族の一門たるブラム家から、
兄達を無能と誹り自ら軍人となり、手持ちの部隊で局地戦における軍の窮地を幾度と無く救った女傑。
歴戦の将軍らもかくやというほどの武勇を持ち、髪に身体に目に肌に、
これでもかと言うくらい美しさを強調しているその姿は、味方にはさながら戦乙女に見える事だろう。
「……嫌」
「はあ」
「言った筈でしょ。サンドロじゃなきゃあたしの片腕は務まらないんだから。
他の凡百の仕官兵なんかに用は無いの。あたしには、サンドロが居ればいいのよ」
「例え話です。お気になさらずとも、貴女は私の上官で、私は貴女の部下だ」
「むっ…はぐらかさないで。あたしが言いたいのはそうじゃなくて」
「隊長」
食い下がろうとする彼女に、私はその場凌ぎの餌を撒く事にする。
「これなんてどうでしょう、きっと隊長に良く似合うはずですよ」
「…またそうやって誤魔化す。卑怯者」
くい、と、自分の目の前に差し出されたネックレスを、隊長が恨めしそうに見やる。
「嘘は言ってません」
「ふん…待ってなさい。すぐに付けるから」
「いいえ、私が付けましょう。そのまま動かないで」
言うなり、出来る限り優しい動作で、肩までかかる銀糸のような細く美しい髪を分け、
その細い首筋に金のネックレスをかけてやる。
隊長は一瞬驚きに身を竦めたが、微かに頬を赤らめる以外はすっと大人しくなってくれた。
予想通り、ネックレスはばっちりと似合っていた。恰幅の良い髭の商人に代金を払うと、
私達は城の方へと戻って行く。
「……本当に、卑怯な奴」
「それが嗜みです」
「名前で呼んでもくれない」
「普通に呼んでいるじゃないですか。リィス隊長って」
「隊長は余計」
「リィス殿」
「…わざとやってるでしょ?」
「卑怯者だそうですので」
不満をもろに表情に出している隊長に、皮肉混じりの笑顔を向ける。
それを見た隊長が、さらに落ち込んだ顔を見せるので、こちらとしても内心参ってきてしまう。
「そんなに沈んだ顔をしないで下さい。折角のプレゼントなんですから」
「優しくない。サンドロはこういうところが、本当に全くこれっぽっちも優しくない。
何がプレゼントなもんですか。一旦喜ばせてから更に落とすんだからもっとタチが悪いわ。
それならいっそ、最初からこっちの誘いを断ればいいのよ。
それは、まあ、断られても強引に取り付けたのは他でもないあたしだったけれど…」
尚もグチグチと不満を並べる彼女を見て、どうしたものかと思い悩む。
本当は、この曖昧なくらいの友好関係が一番良いんだが。あまり焦らして煮詰めるのも
互いの為にはならないし、私とて些か忍びないものがある。
別に嫌いなわけではない。容姿は勿論だが、性格的・人間的、
あるいは自分との利益関係を考えても、彼女が好意を寄せてくれるというのは
こちらとしても望ましい。
ただし、それは彼女が私に対し一方的に想いを寄せる場合に限った話。そこで私が応じてしまえば、
色々と不都合が出て来てしまう。正確に言えば、不都合が「出そうな気がする」のだ。
いわゆる、経験による直感というやつだ。
それほど長い年月を過ごしたわけではないが、密度で言うなら私にも多少の自信がある。
そういったこれまでの人生の中で得た経験がそう、まさしく直感的に、
「この女に捕まると厄介だ」と言ってくるのだ。
戦争中に敵であったこのリザニア国に捕虜として捕らえられ、
紆余曲折を経て、このリィス隊長殿と同じ隊の副隊長として配属されてから一年と少々。
こちら側への侵入を許してしまえば、際限無く依存し、程度はあれどこちらにもそれを求めてくる。
あれはそういう女だと、機会のある度に本能が語りかける。
度重なる戦いの中で何度も救われた自分の直感は、道行く老人の説教話のように
あっさりと無視出来るものではなかった。
+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
話は一年前に遡る。
「これより、この隊の副隊長として配属される事となりました、アレクサンドロ=ディールトンです。
よろしくお願い致します」
「ご苦労様。あたしが隊長のリィス=ブラムよ。先の戦いでは大分我が軍の兵を
屠ってくれたそうだけど、……あんた、そのままの勢いで味方を襲ったりしないでよね?」
隊に入ってからはじめ、私は隊の副隊長としてここでの身の振り方やルール等、
リザニア軍内部における諸々の基礎を周囲から学んでいた。
リィス隊長も、最初からああまで私に好意を示していたわけでは無かった。
むしろ、敵国から寝返った兵士として、侮蔑の眼差しを向けていたくらいである。
そんな自らを取り巻く環境を良くないものと考えた私は、すぐにこの空気を改善する事にした。
「隊長、索敵完了しました。敵の数は正面に百騎余り、左右から遅れて五十騎。
先制攻撃の準備は既に整っております」
「む、そう、……早いわね」
「隊長、これより敵の援軍が来る事が予想されます。ここは一旦砦の中へ退避した方がよろしいかと」
「? どうしてそんな事がわかるのよ?」
「あらかじめ敵軍付近に兵を伏せておきました。間も無くここは敵兵で埋め尽くされましょう。
どうぞご決断を」
「……分かった。聞きなさい! 全隊、これより後方の砦へと急ぎ引き上げるわ!!」
「ご苦労様です。後は私が見張り役を引き受けましょう。隊長はどうぞお先にお戻り下さい」
「アレクサンドロ……。ごめん。礼を言っておくわ、正直助かった」
「いえ、どうぞごゆっくりお休み下さい」
内心でどう思われていようと構わないが、それが戦闘中にまで影響してしまってはかなわない。
私はなるべく彼女への印象を良くする様に、下された命令には忠実に従い、
ときには内容を先読みし、およそ気の付く事は全て先に行動して、
自分が補佐役として有能である事をアピールした。
それでも隊長たる彼女の意思には逆らわず、提案が却下された際も大人しく引き下がり、
優秀であると同時に無害であることを証明する事も忘れない。
水面下では他の部下達にも気を配り、また、軍務以外の雑用等の面でも
彼女の負担を軽減させようと、積極的に手伝いを申し出て、あれこれと手を尽くした。
寝返った兵士が味方の信用を得るのは簡単な事では無い。
そこには見える努力も見えない苦労も多分に含まれているのである。
荒んでいた信頼関係も時間をかけて地道に整えていけば、
いずれは自分にとって居心地の良いものへと変えることが出来る。
そういった事を理解し、実行できる程度には、当時の私も学習していた。
そうして、惜しみない労力と一月半ほどの時間をかけて、
概ね現在の私の立ち位置に近いものを作るのに成功した。
だがしかし、あまりに熱心に構い過ぎていた為か、抱かせた感情は友好を通り越し、
あらぬ方向へ走って行ってしまった。
年若き彼女も、軍の中では常に気を張り詰めていたのだろう。
私に対する彼女の接し方がいつもと変わってきたのは、丁度その頃だったと記憶している。
最もわかりやすい所でいくと、私の呼び方が変わった事だろうか。
「ああ、来た来たサンドロ。今度の作戦なんだけど…」
少し照れたような表情で、隊長が愛称で私を呼ぶ。
既に隊の部下達からはサンドロ副隊長と呼ばれ親しまれていたので、
彼女に突然そう呼ばれようと特にどうとも思わない。
そのときは、ようやく彼女との友好関係が形となって現れたのだと、むしろ安堵していた。
ただ、その日の隊長はいつもよりも身嗜みに気を配っていた気がする。
「ありがとう。サンドロのおかげで大分仕事が片付いたわ」
いつものように、隊の細かな備品の整理を手伝った後で、私に労いの言葉をかける。
この辺りから、少しの違和感を感じるようになる。
私が入隊したてだったとき、隊長はこうも軍の雑務をこなしていただろうか?
小さな疑問は、彼女が手ずから淹れてくれた紅茶と一緒に胃の中に流し込まれた。
「隊長、折り入って相談があるのですが…」
戦争もじき佳境に差し掛かろうとしていたある日、軍の上層部に我が隊の活躍が認められ、
私は何人かの上官に作戦室へ呼ばれる事になる。
話の内容は、これまでの戦いによる私の武勲を称え、軍が新たに作る部隊の隊長を務めてみないか、
との誘いだった。
私が抜けた後の隊にはこちらから新しい補佐官を出すと、
上官の一人が用意していた候補者のリストを出して見せる。
つまりは、事後処理もしっかりと用意出来ているという事だ。
待遇のほどを聞いて見ると、なるほど、悪くない条件だった。
余所者の自分にここまでの評価が下されるとは思っていなかったので、正直気分は良い。
しかし、私が今この隊から外れるのは少し都合が付かない。
断ろうとした私に、彼等は今回の人事異動の発案者たる将軍の名を出す。
ならばと私は同意する事にした。
後は隊長からの除隊許可を得れば問題無い。私は上官達に礼をして作戦室を後にすると、
隊長のいる部屋へと足を運んだ。
「あれ、サンドロ。どうしたの一体? 何か良い土産でも見つけてきてくれたの?」
午後の突然の来訪に隊長は機嫌を損ねるでもなく、まばゆいばかりの笑顔で対応する。
その手に先ほどのリストを手渡し、作戦室での異動の件について私は話した。
それまでにこやかだった隊長の顔が、一瞬で色を失う。
「…………………………なん、ですって?」
「ですから、私がこの隊を抜けて新しい隊へ行」
「しない」
言い終える前に、隊長は私の除隊を拒否した。
手にした新しい副隊長の候補者リストを、躊躇無くびりびりと破り捨てる。
「許可なんてしない。サンドロの除隊は、あたしが認めない」
「…隊長?」
「以上よ。用はそれだけ? なら今から紅茶の時間にしましょ。そこに座ってて、実は昨日、
良い茶葉を町で仕入れてきたの。サンドロもきっと気に入ると思って多めに買ってきちゃった」
有無を言わせぬ口調で私をテーブルに座らせると、
いつもの笑みを取り戻した隊長が紅茶を淹れに席を立った。
翌日の朝、私が朝の鍛錬をしに部屋を出ると、先に外で待っていた隊長に、
昨夜の内に異動の件を取り消しにした事を知らされた。
そのとき彼女が浮かべていた笑みを、私はおそらく忘れる事は無いだろう。
+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
そうだ。あれから隊長は私に対し、露骨な執着心を見せるようになったのだ。
今は一見して強気で気丈な態度を見せているが、本格的に交際でも始めようものならどうなる事か
わかったものではない。
純真で一途な想いを持つ女性は美しいと思うが、それも匙加減一つで違うものへと変わってしまう。
人間、軽い失敗は中々学べぬものだが、一度大きなミスを犯したら、
それと同じ種類の事には過剰なまでに敏感になるものだ。
過去に、そうしたタイプの女から痛いほどに味わった教訓が、
私に女性に対するちょっとした警戒心と遠慮を植え付け、半ば強制的に拒絶を促す。
「……仕方ありませんね」
それでなくとも、この手の女性というものは、
それとは別のところにある本能を揺さぶってくるので苦手だ。
少しばかり相手に接近を許し過ぎた。これ以上向こうに要らぬ期待を抱かせる前に、
ここで適度に引き離しておく必要があるだろう。
「貴女のいるこの隊に配属されてから、今日まで様々な形で口説かれてきましたが」
「…サンドロ?」
嘆息をついてそう言う私から何を察したか、
隊長は期待と不安の入り混じった目でこちらをじっと見ている。
「今、貴女の期待に応える事は出来ません。残念ながら、私にも都合というものがあります」
「何よそれ。なら何時なら良いの。あたしはどうすれば良いっていうの?」
「どうもしなくていいのです。私は貴女の望む関係になるつもりはありません。ありませんが」
縋るような双瞳。ああ、私も出来ればこのぐらいが丁度良いのだが。
あれを思うと胃が痛んで仕方が無い。
我ながら結構な小心者っぷりである。しかし仕方ない。
生きる上での面倒事など、ほどほど程度にあればそれで良いのだ。
「貴女がこの国の全軍に指揮を執れるほどになったなら、
そのときは一生貴女の片腕だろうが何だろうが謹んでお受けしますよ。
それまでの差が、そのまま、今の貴女と私との距離と思って下さって結構です」
「な………」
言ってから、自分でも随分と無茶苦茶な要求をしたものだと思う。
ようは、この国で最も偉い将軍になれ、と、そう言ったのだ。
それこそ歴代の戦貴族達が、いくつもの大きな功績を積み上げようやく手にするだろう地位だ。
若くしてすでに一つの中隊をまとめ上げている彼女だが、それよりはるか上を行く地位への躍進は、
冷静に考えれば不可能である。
というか、勢いで言ってしまったが、もう少し言い方というものがあったような気がする。
これでは事実上の絶縁宣言に等しいのではなかろうか?
今でさえ自分より上の立場である彼女に対しこんな要求をするとは、
私の方こそ一体何様のつもりだと言われてもおかしくない。
もしこの場で斬りかかられでもしたら、単純な力量で劣る以上、どうしようもない。
上官に向かって戯けた事を言ってのけた部下が一人、無残な姿で野に捨てられるだけだ。
まずい、どうにも余計な事を口走ってしまった。こんな街中で剣の錆となるのは勘弁だ、
すぐに柔らかく訂正しなければ。
思考は時間にしてわずか三秒。私はすぐさま口を開き、
「た」
「わかった。その条件で良いのね?」
隊長、の隊の字すら言わせてもらえなかった。
返事が罵声と斬撃でなかった事が予想外なら、応える隊長の瞳が、
ようやく目標を見つけた肉食獣ように輝いているのも、まったくの予想外である。
どうやら、彼女は私の想像よりも大分タフで、ついでにポジティブ思考だったらしい。
「………は?」
「ふふっ、どうしたの。呆気にとられたような顔をして。
これまではのらりくらりとかわされてきたけど、これでようやくしっかりと捕まえたわ。
後は全力でその条件を満たしてやるまでよ。そう、サンドロはあたしの隣で
その様を見届けてればいいの。あたしの手助けをしながらね。
うふふっ、ああ、次の戦が楽しみだなぁ♪」
「な、ちょ、隊長待っ…」
「リィス隊長、アレクサンドロ副隊長、出動命令です!」
丁度、私の声を遮るかのように使者が現れ、軍からの命令を告げる。
内容は、この間任務で赴いた森から少し離れたところにある平原にて、
今度はここリザニアとは隣国であるイスト国の兵士達が現れ、現在はそこの警備兵達と戦闘中につき、
急ぎ応援に向かえとの事。 隣にいた隊長が、したり顔でこちらを見る。
「どう、サンドロ? まさに天の配剤ってやつじゃない。
神様もあたし達の仲を応援してくれてるみたい」
もしそうだと言うのなら、物騒な祝福の仕方もあったものだ。
全く以って、笑えないジョークである。
「それでは、なるべく早く敵が去ってくれるようにとも祈っておいて下さい」
そうして数分後、私達は馬を駆り、新たな戦場へと赴いたのだった―――。
+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
昼下がりの曇り空、鉛色の雨雲が泳ぐ草原は、今や兵士達の怒号と悲鳴で満たされていた。
「これは、…一体状況はどうなってるの? 敵は一個小隊程度では無かったの?」
「は、それがどうにも、あちらも既に増援要請をしていたようで」
「そんなのは見れば分かる! 報告員は何考えてるの、このぐらいは最初から
考慮に入れておくはずでしょ!!?」
喜び勇んで馬を飛ばしていた隊長も、これには流石に衝撃を受けている様子。
もはや先ほどまでの暢気なやり取りなどしている余裕は無い。
私の眼前に広がる景色はまさしく戦場であった。
敵の数は、聞いていた情報の十数倍にものぼっていた。これではすでに大隊単位である。
対し、こちらは増援として私達の隊と、他にも指令を受けて来た小・中隊が二つほどに、
現在向こうで見る間に切り崩されていく警備隊のみだ。
防護陣を生かして、どうにか敵の攻撃を凌いでいるが、
急いで駆けつけなければ押し切られてしまう。
今の状況ならば防ぎ切れない事は無いが、犠牲は多く出る。
加えて、これ以上の敵の増援が無いという保証はどこにも無い。
そうなれば、ただでさえ数で劣るこの局面はより絶望的なものになるだろう。
「単なるミスと考えるには楽観が過ぎる。現実的に見て、軍の内部に敵の回し者が居たようですね。
こうした外部からの攻撃に対処する命令を出せるということは、
おそらくそれなりの地位を持ったネズミでしょう。
あるいは、我が隊や共に来た小隊を快く思っていない上の嫌がらせか。
……敵方へ攻めるならばともかく、こちらの領土がかかっている事や、今回の咄嗟の命令を考えれば、
前者の可能性が高いですが」
「…あたし達は、その罠にまんま誘き寄せられたわけね」
隊を戦場へと向かわせながら、隊長が忌々しげな声を出した。
どうやら、私の前フリに乗ってきてくれたようである。
「隊長、まだ状況はそう悲観したものではありません」
一応、副隊長の体裁として味方を鼓舞する小芝居でも打っておこう。
私は努めて冷静な声で、これから行うべき作戦を提案する。
「策は大きく二つあります。一つはこの場を離れ、以前来た森付近で戦況を見守りつつ
国へ援軍を要請します。敵が防衛線を突破し次第、そのいくつかをこちらへ誘い込み、
地の利を生かし殲滅ないし撃退を繰り返しながら援軍を待つ逃げの手です」
「向こうの出方次第で即全滅や、そのまま無視されることも考えられるけど」
「なるべく我が隊で受け持てるだけの敵を引き寄せる必要がありますが、
この平原で戦うよりはいくらかこちらに分があります。
幸いにして兵の質は我が隊が上のようですので…」
「そのつもりは無いわ。あるんでしょ? もう一つの勝てる手が」
勿体振るなと言わんばかりの視線を投げて寄越す。見れば、兵達も一様に同じような、
期待とこれから起こるであろう乱戦への奮起の表情を浮かべている。
……きっと彼女というきちんとした隊長役がいるからだろう。
いつもの事ながら、この隊は士気を高めるのが容易に行えてとても助かる。
この様子ならば、わざわざ逃げの守りに転ずる必要は無さそうである。いつも通り、攻めの姿勢だ。
「ええ、我が隊ならば、更に倍の敵でも耐えられるでしょう。……隊長、指示を」
「うふふ。言わなくっても、皆わかってるみたいね」
不敵な笑みを浮かべ、隊長が剣を掲げる。
「全隊、これより防衛線へ向かい敵軍を撃退する! 蹴散らすわよ!!」
「「ォォォォォォォォォォッ!!!」」
+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
偏に、戦争における彼我の優劣を決めるものは昔から数というのがまず基本である。
十の兵よりも二十の兵、百の兵よりも千の兵が勝るのは言うまでも無い。
しかし、実際の戦場においても兵の数がそのまま勝敗を分けるかといえば、
答えはまったく違うものになる。
数で勝る方が上を行くという理論は、あくまでも互いの兵の質がある程度同じ場合にのみ言える事。
上がりたての新兵と熟練の兵とでは、単体としての質はまるで異なる。
また、それら兵士個人の力量が個体の質を決定付けるのに並ぶように、
それらを束ねる軍全体の質を左右するものがある。それが士気である。
例えば、武器を持った十の兵達の元へ一人の兵士が襲い掛かってくる。
相手も武器を持っていて、まずは背後からの不意打ちで一人を仕留め、
残りがその状況を把握しようとしているところをもう一人。
突然の襲撃を受けた八人はまず混乱を起こし、次にたった一人の兵士に対し恐怖を覚える事になる。
八人が一斉に掛かれば、たかだか一人の人間程度、あっと言う間に無力化出来るだろう。
だが、彼等は想像してしまった。もしそうなれば、確率にして八分の一で自分が死ぬ事になると。
結果として、九人を包む場の流れ、ペースというものは、
僅かな時間とはいえその一人のみに支配されるのだ。
そのときには、たとえ個人の質が本来近いもの同士であろうと、
互いの士気は大きく開いているのである。
そして、そこで味方としてもう一人が、少ない方の加勢したとする。
おそらく八人はその瞬間、自らの生存確率を計算していた事だろう。
大分強引な考え方だったが、この時点ですでに彼等の戦闘は決着が着いていると言っていい。
後はいかに勢いに乗ったまま、未だ驚愕の最中にある敵を倒すかである。
詰まるところ、人間は不意の出来事に弱いのだ。
それを立て続けに起こし、相手を動揺を誘うのが士気を下げる有効な手段であり、
それでもなお冷静さを保つのが、優秀な兵士と言えるはずだ。
では、その逆。この例えで言えば少数だった側の兵士達の士気を上げていたものは一体何か。
「どきなさいっ!ここから先はリザニア国が領土、決して行かせはしない!!」
「行くぞ、我が隊の実力を思い知らせてやれ!」
隊長が槍を振るい、イストの兵を次々と切り裂きながら戦場を疾駆する。
仕留め損ねた者や、隊列を組み直そうとする残りの兵を、間髪入れずに私がもう一度切り伏せていく。
烈風のような突進によって陣形を崩されたところへ、
周囲のリザニア兵達も口々に雄叫びを上げ猛攻を仕掛ける。
そのあまりの勢いに対処し切れず、敵は成す術も無く散っていくのみだ。
その様を見た他の小隊も、我も我もと奮起して怒号と剣戟はより激しさを増す。
そして、それに反比例するかのように敵の陣営は旗色を悪くしていっている。
先ほどまでこちらが攻めていたかと思いきや、いつの間にか敵が怒涛の反撃を見せたのだ。
動揺のほども窺える。
それら各隊の士気の変動で起きている一連の連鎖反応は、
今や追い詰められかけていた戦況をそのまま引っ繰り返す形にまでなっていた。
「何だこいつらは…ひぃぃ!」
「畜生! 聞いてねえぞこんな化け物ッ!!」
「敵は浮き足立っているぞ!この機を逃すなよ!!」
実は、兵達の士気を最初から格段に上げる方法はそうは無い。
あるにはあっても、その方法はいずれも容易では無いのだ。
軍隊の士気を高めるものは、これまでの戦闘で成功と勝利を積み重ねに裏打ちされた自信と、
指揮する者のカリスマ性である。
名だたる名将、勇将たちには、その称号を得る前からか得た後か、
漏れなくこの能力が備わっていた。
指揮者などとは言うものの、戦場で彼等が下す指揮はある程度熟練した者達ならば、
概ねは似たようなものだろう。
指揮能力とは、奇抜な策を編み出すものでは無く、本来は堅実さと信頼性に重きを置くようにある。
ならば、その指揮者達の優劣を決めるのは如何なものか。それこそが、カリスマなのだ。
凡将と名将、その裁量が同じであれば、兵士はどちらの下でならより自信を持って槍を振るえるか。
答えは言うまでも無く後者となり、前者たる凡将が相手たれば、なおその意気は高まる。
そして、カリスマ性とは指揮者本人の武勇や容姿、ないし智謀や人徳、
家柄等に多分に依存するものだ。
そう、それを確かだとするのなら、
「行けぇぇぇぇいッ!!」
―――前戦争以来、未だ無敗を誇る我が隊の隊長たる彼女に、
その資質が備わっているのは、疑うまでも無い事実だろう。
「敵将の首、このリィスが貰い受けた! リザニアに栄光あれ!!」
もはや蜘蛛の子を散らしたかのような惨状のイストの部隊に、追い討ちを掛けるように
隊長が首級を掲げ高らかに宣言し、それに呼応してあちこちから兵士達の勝ち鬨の雄叫びが聞こえた。
窮地を立て直すのにやや骨を折ったが、ともあれ此度の戦いは、無事リザニア軍の勝利に終わった。
+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
午後の城内。夕焼けに赤く染まった景色のを背に、
戦を終えた各隊の兵士達が馬から下りて自分達の部屋へと戻って行く。
「どうにか前線への合流に間に合う事が出来ましたね、お疲れ様です隊長」
「サンドロこそ。よくフォローに回ってくれたわ、おかげでこっちは敵陣に切り込み放題だった」
とてもにこやかな笑顔で、馬から降りた隊長が槍を掲げてみせる。
「いや、これまで成功しているから問題無いとはいえ、
敵陣への突進はもう少し抑えて欲しいものです。付いて行きつつ部下達を引っ張っていくのも
一苦労なんで」
「何言ってんの、サンドロならそれが出来るでしょ。
だから今、こうしてあたし達はここに居るんだし」
「……いいですか隊長、少しは部下の苦労というものをですね」
「これで」
愚痴を混ぜた説教を途中で遮られる。目の前にはいつもの自信に満ちた笑顔に、
熱情の色を宿した隊長が立っていた。
「一歩、サンドロに近づいた」
「そうですね」
熱っぽい目線を送る隊長に、私はあくまでも平素の表情を崩さない。
「今の戦い。多分だけど隣国との戦争の下火として、上の連中に使われると思う」
「私も同感です。あるいは、これもネズミの撒いた何らかのエサだったのかもしれません」
「そうなれば、また戦争が始まる。あたしはサンドロにもっと近づく事が出来る」
妖しく、それでいて頼りなげな雰囲気を醸し出しつつ、隊長が私の方へ歩み寄ってくる。
私はそこから動かない。
ついには互いの吐息を感じられるほどの距離まで来ると、
今さっきまで戦場で槍や剣を振るっていたというのに、
銀の髪から鼻腔をくすぐる甘い匂いがしてくる。
疲れきっているときにこの匂いは少しまずい。まるで頭の中を揺さぶられているようだ。
「待っていて」
言って、するりと身体を離すと、隊長は自分の部屋へと戻って行った。
「…………参った」
向こうの執念に負けて、あんな事言わなきゃ良かった。
過去の失敗を忘れ、こういうのもやっぱり良いよなと思い始めている自分が情けない。
軽く自己嫌悪に陥っていると、向かいの通路から衛兵が規則正しい足取りでやって来る。
「アレクサンドロ副隊長、エイブル将軍がお呼びです。至急作戦室へお願いします」
「この疲れてるってときに、本当部下を労わる気持ちが足りてないよなこの国は…」
エイブル将軍は前戦争にてリザニア軍の攻撃の要として活躍した猛将で、
砦を落とした際に捕虜となった私を牢屋から出し、この隊へと配属させた張本人である。
齢五十も半ばの爺さんなのだが、とにかくまあ豪胆かつ厄介にしてまことに食えない人物だった。
今回のネズミ騒動とは多分関係は無いだろうが、未だ油断のならない相手ではある。
色々と恩はあるが苦手なものは仕方が無い。
「今度は何を言われる事やら、あの人やる事成す事情け容赦が無いからなあ…」
やれ、孫に計略を教えろだの、肩を揉めだの、チェスの相手をしろだの。
うちの隊長に振り回されるだけでもすでに手一杯だというのに、
老人はいっそ介護でも頼んでろという。
どうせまたろくでもない事を頼まれるのだろう。私は諦めて作戦室へ足を向けることにした。
ちなみに、その孫とは他でもないリィス隊長の事である。
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「よく来たな、まあそこに座ると良い」
ノックをし、名を名乗ってから作戦室の扉を開ける。奥の長椅子にどっしりとした身体を預けていた
初老の男性が、白髭をたっぷりと蓄えた強面に、にやりとした笑みを浮かべ私を迎え入れた。
彼こそが、現在我が軍における最高責任者、リザニアの剣と誉れ高き大将軍エイブルその人である。
「用件は何でしょうか」
立ったままでいると何をされるかわからないので、一礼してから席に着き、呼び出した用を尋ねる。
「そう急かすでない。……そう、まずは孫のリィスが先週わしに手作りのパイを振舞ってくれた事の
自慢をさせてもらおうか。どうだ、羨ましかろう? 何せ初めて作ったという話だ。
味の方こそけっして美味くは無かったが、その孝行振りにわしは心を打たれたね」
「先週の昼頃、部屋に来た隊長にぜひとも食べるようにと勧められた黒ずんだアレは、
成る程そういった経緯で作られたのですね。
「先に練習をしておいたから、きっとそれよりは上手く出来たはずだ」と言っておられましたが、
さては将軍殿は黒炭でも出されましたか」
「…………切なくなる事を言ってくれるではないか小僧」
「…炭だったのですね」
焼けば良いというものでもあるまいに。
壁の方を見て遠い目をしているエイブル将軍は、何やら年相応の哀愁を漂わせていた。
まあどうでもいい。
「で、用件は何でしょうか。まさか身内の虐待話を聞かせる為に
わざわざ呼んだわけではないでしょう」
「おぬしも、その達者な口は直らんようだな。命の恩人に向かってこの扱いとは、
全く以ってけしからん。給料差っ引くぞ」
「度量のほどが窺えますな。隊長殿が聞いたらさぞや哀れと思うに違いありません」
「待て待ておぬしそれは少しばかり卑怯というやつではないか。家族を出してくるのはいかんぞ。
ただでさえ、最近妻にも見放されつつあるというのに。さてはおぬし悪魔の化身か」
「将軍のお家事情は私めの知る所ではございませんが、
少なくともこの身は人より生まれたものと存じ上げます」
「おお、妻よ孫娘よ、ここに上司の恩を仇で返す不孝者の部下がいる。
クソ覚えてろいつか軍法会議にかけてやる」
言葉は強気ながらも、手ではいじいじと机にのの字を描くエイブル将軍。実にウザイ。
延々と続きそうな前置きにいい加減げんなりしてきた私は、もう一度はっきりと催促を試みる。
「それは結構ですので、もうそろそろ本題へ移ってもらってもよろしいでしょうか?
あまり長いとお互い後の軍務に差支えが出ましょう」
「ぬぅ、そうだな。わしも先の戦で上の方が忙しくなったようでの、
これ以上怠けているわけにも行くまいてな」
机をなぞっていた指を組み、気を取り直した様子の将軍がこちらを見る。
今度はその瞳に幾らか真剣さと凄味が増す。
私も改めて姿勢を正し、次の言葉に耳を傾ける。
「さて、用というのは他でもない、その戦いについてなのだがな」
エイブル将軍が、厳かな口調で続ける。
「おぬしにも見当は付いてると思うが、我がリザニアと隣国イストとで
互いに通じ合っている者達がいる」
「ええ、おおよその事態は察しております」
「こちらの方で、先ほどその内の一人を捕らえた。今尋問にかけているところだが、
まあそう容易く口を割る事もあるまい。喋ったとして、有益な情報を持っているとも限らん。
何せ下っ端もいいところだったからな」
「……それで、私に如何な事をお望みで?」
変わらぬ表情で、私は将軍に問いかける。
他の上官達ならいざ知らず、この老将が私を敵として見誤る事は無いと思う。
それ以外の話だというならば、それは一体何か?
「この大陸に、新しい流れが出来つつある。これまでおぬしには孫の背中を守らせてきたが、
それも事情が変わってきた」
ぎらりと、年老いて尚衰えぬ鋭い眼光を宿し、将軍が言う。
「この国に巣食う虫どもはわしが全て捕らえておく。おぬしにはわし個人の私兵として、
ここへ攻め入ったイストのみならず、いずれはその他の国にも潜り込んで敵の情報網を掴み、
それを逆にこちらへ流してほしい。その為の人員も必要ならば用意しよう」
自らの内心に浮かんだ僅かな動揺を無表情の裏に隠す。
それは、つまり、
「向こうの規模の知れぬ網を更に上回る間諜となれ、と?」
「そういう事だ。戦乱の草とくれば、おぬしの右に出るものはそうは居まいて」
再び長椅子に背を預け、国一の名将が頷く。
―――相変わらず、きつい要求を出してくれる。
私は額に手を当て、しばし考え込む。
おそらくは失敗に終わったであろう、今回のイストによる襲撃。
しかし、これで両者の間に少なからず緊張が生じてしまった。
そうなれば襲撃を受けたリザニアは勿論、攻め入ったイストにも今以上の警戒が敷かれる事だろう。
そのイストに、手始めに探りを入れて来いと言う。
間諜とは、本来何も無い状態においても後の憂いを考え、
機先を制す布石として他の国へ置くのが本来の用途であり、最も効果的なやり方だ。
それを攻め入られた直後の、このタイミングで敵国へ差し向けようというのは、
普通ならば裏目に出る可能性の高い悪手である。
だが、
「承知しました」
この、幾多の戦場で槍を振るい、単純な武勇に優れる強者であり続けながら
決して術数権謀を軽んじず。
敵軍の兵をして、「名将」と呼ぶに相応しいエイブル将軍が、
何の用意も無しにそんな愚挙に出るとは到底思えない。
何せ実際に戦場で刃を交えた私が言うのだ。
これほど敵にしたくない相手も中々見つからないだろう。
「引き受けてくれるか」
「……将軍は私の事を些か買い被り過ぎな気がしますが。
此度の件も、おそらく考えがあるのでしょう。それが何かなどと、今更一々問う気はございません」
「そう言ってくれると助かる。おぬしには面倒をかけるな」
「恩義と信用と、ついでにささやかな自負を量りにかければどうという事は。
……むしろ、将軍こそよろしいので? 私は仮にも元・敵軍の将なのですよ?」
「なに、たとえもう一度寝返ったとしても、そのときにはまたわしが引っ捕らえてやる。
それにしても、ささやかな自負だと? よく言うわ、おぬしがそんな殊勝なタマか」
私とエイブル将軍、お互いにある程度の理解と信頼を表した笑みを交わす。
作戦とは、元よりそうした上司と部下との繋がりが無ければ成功しないものだ。
私はリィス隊長の部下として働いてきたが、
それも元を辿ればエイブル将軍の手引きによるものであり。
言ってみれば、エイブル将軍に捕らえられ、捕虜からこの軍の兵に転じたときから、
形の上ではどうあれ私はこの老将の私兵同然に動いていたのである。
「つきましては、こちらに数人手持ちの兵を頂きたいのですが」
「ああ構わん。許可はわしが出しておく、気に入った者を見繕って来てくれ。
行動は早い方が良い、…そうだな、明日までに出る準備を全て整えて来い」
猶予は一日。妥当なところだろう。
戦の疲れを癒すべく、さっさと休もうと思っていたが、そうとあれば手早く事を済まさねば。
私は将軍に向かい一礼をする。
「では、これにて失礼…………する前に。そうだ、将軍に一つ申し上げておきたい事がございます」
「む? 何だ、言ってみよ。わしと妻と孫の悪口以外は許す、
それが馬鹿な宰相共なら喜んで聞いてやろうではないか」
どんと来いとばかりに構えるエイブル将軍に、私は大分無責任な口調で、
ごく最近頭を悩ませている一人の女性の事を口にする。
「ええ、実はその将軍のお孫さんなのですが。どうにも今日から貴方の地位を狙うそうですので、
戦場にてしばしば敵に特攻しに行かれるやも知れませんので、その際はどうかご用心を」
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空の白み始めた夜明けの城内、身支度を終えた私は自分の部屋を見渡す。
エイブル将軍との約束から、期日の翌日になった。
最低限の装備や道具類は昨夜のうちにまとめた。
部下は前日から、適正のありそうな者を軍から選び抜いてある。
準備は万端だ。
「……行くか」
最後に、まだ幾らか生活臭の残る部屋に軽く一礼をして、私はドアの取っ手を掴み、
「どこへ行くの、サンドロ」
―――開けた先には、無表情のままじっと立っている隊長が居た。
「耳が早いですね。将軍に直接聞きでもしましたか」
実の孫に迫られては、さしもの大将軍もつい口を滑らせてしまったのだろう。
仕方の無い人達だ。
「まあいいでしょう、出来れば知られずに行きたかったのですが。
……隊長、私は今からイストへと出向きます」
「……嘘」
それを聞いた彼女の、宝石のようなアイスブルーの瞳が不安に揺れる。
私の服の袖を掴み、隊長が苦しげに声を出した。
「嘘よ。サンドロはあたしの部下でしょ、どこへも行かせはしない。
サンドロもあのときそう言った…」
「貴女が私の上官であり、私は貴方の部下であるとは言いましたが、
所属を離れないと約束した覚えはありません」
きっぱりと言い放つ。
「聞いてない。あたしはこんな話は聞いてない…!」
「貴女の許可を得る必要が無かったからです」
「なんで…なんで、サンドロが行く必要があるの! 間諜ならお爺様が自分の兵にやらせれば良い。
それをどうして、サンドロに行かせる必要があるっていうのよ…っ!!」
「今回の件に対し適格と判断された私が、この隊の隊長である貴女の部下である前に、
エイブル将軍の部下だからです」
「サン…ドロ?」
「現場の上官の指示は聞かねばなりません。
さりとて、それより更に上の命令とあらばそれに従うのが務めです」
「あたし…あたしが、まだ中隊長の地位にしかいないから、サンドロはあたしの元を離れるの…?」
本当はそれ以前に、私が将軍お抱えの駒としているからなのだが、
わざわざ両人の関係をこじらす原因を撒く事も無い。
顔中に怯えと戸惑いを見せる彼女の手が、痛いほどに両腕を握り締めてくる。
その手を、ゆっくりと引き剥がしていく。
「リィス隊長、今まで色々とお世話になりました。
またいずれここへ帰ってきたときにお会いする事もあるでしょう、それまで隊長もどうかお元気で」
「サンドロ…や、嫌だ! 駄目、行っちゃ嫌だ! 待って、サンドロ!!」
もはや絶叫に近い声を上げるリィス隊長に背を向け、
私は外へ待機させている部下達の所へと歩き出したのだった。
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「よろしかったんで? 隊長殿」
城の外へ出たところで、後ろの方から声を掛けられる。
「…聞いていたのか」
「すいやせん、どうにもそれっぽい空気がぷんぷんしてたもんでつい」
へっへ、と、陰気な笑いを浮かべ、特に悪びれた様子も無く私の後に付いて来る痩せた男。
私がエイブル将軍から兵を借りて編成した部隊の副隊長に選んだ、ゴースである。
ゴースはリィス隊長の隊に就いたときから共にいた部下で、諜報・参謀能力に優れ、
見た目は悪いが信頼の置ける奴だ。
「構わん。早いか遅いかは別として、あそこに居続けたとしてもいずれ起こるべき事態だったさ」
まあ、その場合においても、割と早くにありそうだったが。
「アンタも中々の女泣かせでいらっしゃる。リィス隊長は後でさぞかし恨む事でしょうに」
「そうなると思ったから、これまで深い付き合いを避けてきたのだ。
どうやらそれも無駄だったようだが」
「こりゃ参った。我らが隊長殿は女の扱いにも精通してる、まったく大したもんだ」
もうすぐ残りの部下達との集合場所である。
変わらぬ笑みで軽口を叩くゴースに、私は溜息を一つ吐く。
「その距離を測り損ねたからあんな事になったのだ。
勘違いするなゴース、私はそれほど上手い人間ではない」
「そう言いつつ、結構良い具合に転がしてたじゃねえですか」
「不可抗力だ。望んでやったわけではないさ」
「へえへえ、ではそういうことにしておきやしょう」
口が減らないのはお互い様、か。
これから厳しい環境に身を投じるのだ、それぐらいの気概でなければ困る。
気付けば指定の場所へ着いていたようだ。
視線の先には、これから共に敵国へ潜り込む為に私が選んだ部下達。
課された任務は一筋縄では行きそうにないが、なに、やってやれない事は無い。
せいぜい、あの爺さんの期待に添えてやろうじゃないか。
こちらに集まってくる兵士達に向けて、私は軽く手を挙げる。
「今日より結成された我が隊に、その身を預けてくれた兵の諸君。お早う。
私が諸君等の隊長を務めさせてもらうアレクサンドロ=ディールトンだ」
あまり恨んでくれるなよ、リィス隊長。私は悪い奴なのだから。
まだ土地柄暖かくなっていない初春のリザニア国。
辺りには早朝特有の、全身に染み入るような冷たい風が吹いていた。 |