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三姉妹+1の夏休み 〜家庭教師編〜

第1話 第2回
第1話 第2回 第3回


1

 吉村一男は、一枚のプリントを握り締めていた。
  プリントを見ながら、プリントを掴む手をふるふると振るわせる。
  その度に、プリントが不規則な波をつくる。

「15点……じゅう、ごてん?!」

 そして、ひとり言にしては大きすぎる声を出した。
  周囲ではクラスメイトが騒いでいるため聞こえてはいないだろうが、
隣の席に座っている女の子には当然聞こえてしまった。

「15? 一男、あんたたったの15点しかとれなかったわけ?」
「ああ……」
「どれどれ……うあ、ホントだ。なんでこんな簡単な小テストで15点しかとれないのよ」

 知るか、と一男は言いたかった。
  だが、自分の学力を否応無く思い知らせるテスト用紙を見ていると、
落胆で何も言う気にならなかった。

 月曜日、一男たちのクラスでは国語の小テストが行われた。
  問題数は20。配点は一問につき5点。
  一男が15点しかとれなかったということは、3問しか正解できなかったということだ。
  一男は国語と社会と英語が不得手だったのだ。

 一男たちの学校では、来週から期末テストが始まる。
  一学期の期末テストで赤点をとろうものなら、夏休みの間、補習を受けることになる。
  夏休みに旅行へ出かけるつもりでいた一男は、当然補習を受けたくなかった。
  そのために、一男なりに勉強したつもりではいた。
  しかし結果はこの通り、一男には補習が必要だと証明することにしかならなかった。

「これはもう、補習確定ね。ご愁傷様」
「ああ、ううう。……自転車で県内一周する計画が、こんなことで、こんなことでぇ……」
「諦めなさい。行けなくなって良かったじゃない。
  あんた1人じゃ、トラブルに巻き込まれてそこで人生終わっちゃうわよ」
「くう……」

 幼馴染の組子の言葉を聞いても、一男は諦める気にならなかった。
  一男は先日自転車を購入したばかり。
  しかも、一男がずっと以前から欲しかったロードバイクを買ったのだ。
  ロードバイクに乗ってどこまでも、走れるところまで走ろう、と考えていた。
  そのためだけに一男は努力し、体の脂肪を削り、筋肉をつけてきたのだ。
  簡単に諦められるわけがない。

「頼む、組子!」
「なに?」
「勉強を教えてくれ!」

 深く頭を下げる一男を見て、組子は顔をしかめた。

「なんのために?」
「俺を助けるためにだ!」
「どうして私が?」
「お前しかいない!」
「他の友達に頼めばいいじゃない」
「どいつもこいつも勉強じゃ頼り甲斐のない奴ばかりなんだ!
  クラスで5番以内に入るお前なら、俺を補習の魔の手から救うことができるはずだ!」

 もう一度、深く頭を下げる一男。
  組子は腕を組んで、考えるように天井を見上げ、数秒してから顔を下ろした。

「……やっぱり嫌」
「何故だ!? 幼馴染の俺がこれだけ頼んでいるというのに!」
「私だって暇じゃないのよ。だいたい勉強教えるって言っても、私教えるの上手くないし」
「それでも構わない、お前が教えてくれたら、俺は必ず満点をとれる。
  俺にはお前が必要なんだ! 俺にはお前しかいない! 組子、お前さえいてくれればいいんだ!」
「…………なあっ?!」

 一男の言葉を聞いて、組子は驚いた。
  どれほど驚いたのかというと、顔を茹蛸のように紅くするほどだった。

「な、なななななななな……」
「……ななな?」
「あんた、いきなりこんなところでそんなことを……」
「そんなこと?」
「今、あんたには私が必要だって……」

 一男は怪訝な表情で首を傾げた。
  組子は何を驚いているのだろうか。
  自分にとって組子は仲のいい幼馴染であり、頼れる存在だ。
  おんぶにだっこというわけではないが、自分は組子にかなり助けられている。
  組子が必要だ、というのは自分の正直な気持ちなのに。

「もう一度言う。俺を助けてくれ。俺には、お前が必要なんだ」

 正確には組子の『助け』が必要だった。
  しかし、組子には一男の言葉しか届いていない。

「………仕方ないわね。現国だけなら、引き受けてあげるわよ」

 組子には、顔を紅くして返事することしかできなかった。

*****

 一男は1人で学校から自宅へ向かう帰路についていた。
  隣には、なんだかんだ言いながらも仲のいい幼馴染の姿は無い。
  今日、たまたま組子は他の友人と遊ぶ約束をしていたのだ。

 一男は歩きながら腕を組んだ。
  とりあえず、国語はなんとかなりそうだ。
  あとの苦手教科、社会と英語はどうするべきか。
  数学と理科は1人でもなんとかなる。
  しかし、1教科赤点をとっただけでうちの学校は夏休みの間補習をやらせやがる。
  穴は、すべて埋めなければいけない。

「お兄ちゃん!」
「ん?」

 後ろから声をかけられ、一男は立ち止まって、振り向いた。
  駆け寄ってきたのはもう1人の幼馴染で組子の妹の、恵子だった。

「えいっ!」
「ちょ、腕に絡みつくな」
「えー? いいでしょ、だって私達どこから見ても恋人だよ?」

 そう言ってくる恵子に、一男は沈黙を返した。
  俺とお前のどこが? とは言わなかった。
  一男が恵子を恋愛対象としてみないのは、恵子の容姿に原因がある。
  恵子は中学3年生、15歳だというのに、中学に入学したばかりの1年生のようにしか見えない。
  恵子を恋人だ、と友人に紹介しようものならロリコン呼ばわりされるのは間違いない。
  組子はクラスメイトと比べても大差ない発育具合だというのに、恵子は何故か成長が遅い。
  高校に入ったら一気に成長するタイプなのかもしれない。

「今日のお兄ちゃん、なんだか暗いね」
「ん……そうか?」
「うん。もしかして悩み事?」
「まあな」

 一男は恵子に小テストで赤点をとったことを話した。
  来週の期末テストで赤点をとったら夏休みがつぶれてしまうということも話した。
  全てを聞き終えた恵子は、ぶんぶんと頭を横に振った。

「だめだよそんなの! お兄ちゃんの夏休みがつぶれたら、お兄ちゃんと遊べなくなっちゃう!」
「ああ」
「そしたら、私誰と一緒にラジオ体操に行けばいいの?」
「それは1人で行けばいいだろ」
「嫌だ! やだやだやだやだ!」

 一男は、高校1年生だった去年も近所の公園で行われるラジオ体操に行っていた。
  不本意ながらも、恵子に誘われて毎日行ってしまっていたのだ。
  一男が夏休みを利用して自転車旅行を計画していた理由のうちの一つが、
ラジオ体操に誘ってくる恵子から逃げることだった。
  恵子を嫌っているわけではないが、17歳になった今小学生と混じって
ラジオ体操をするのは気が向かない。
  ラジオ体操の後で遊びに誘ってくる小学生から逃げるのも、
断られて悲しい顔をする子供たちを見るのも、一男は好きではなかった。

「やーだーよー!」
「あのな、恵子。俺は夏休みの間旅行に行くから、どっちにしろラジオ体操にはいかないぞ」
「え……、旅行? どこに行くの?」
「とりあえず、自転車で県内を一周するつもりだけど」
「……1人で? お姉ちゃんは?」
「1人旅だよ」

 一男の言葉を聞いて、恵子は泣き顔から満面の笑顔へと、表情を変えた。

「じゃあ、私と一緒に旅行にいこうよ!」
「だから、赤点をとったら旅行には行けないんだって。特に英語が絶望的で」
「私、英語が大大大得意だからお兄ちゃんに教えてあげる!」
「は? ……そうだったのか?」
「本当だよ。ほら」

 恵子は手提げの学生かばんを開くと、薄い紙を一枚取り出した。
  恵子が取り出したものは、英単語がびっしり書かれてある英語のテスト用紙だった。
  いたるところに赤い丸が記され、右上には赤いペンで100、と書かれてあった。
  中学校のテストとはいえ、難易度はそれなりに高いはず。
  事実、英単語の意味を覚えるのが精一杯の一男にとっては30点とることすらあやしい。
  もしかしたら、恵子は高校生の英語のテストさえわかってしまうのでは……?
  一男は心の中で、この偶然を起こしてくれた存在に感謝した。

「恵子」
「なあに、お兄ちゃん」
「教えてくれ、頼む。俺に、英語力を……」
「じゃあ、旅行に連れて行ってくれるの?!」
「おう」
「やったーーーーーーーーーーー!!!」

 キーの高い叫び声を上げる幼馴染の声を聞きながら、一男は一つ悩みが減ったことに安堵した。
  代わりに、どうやって恵子を旅行に連れて行けばいいのか、という悩みがあらわれたのだが。

*****

 自宅に帰ってきた一男は、玄関に女物の靴が置いてあることに気づいた。
  一男の両親は同じ会社に勤めていて、職場も同じ。
  そのため、ここ数ヶ月のように長期の出張に出かけるときは2人一緒に家を留守にする。
  つまり、玄関に置いてある女物の靴は母親以外の物だということになる。

 一男が自分の部屋に入ると、そこには近所に住む幼馴染であり、
組子と恵子の姉でもある女性がいた。
  ベッドの上に。

「ん、今帰ってきたのか一男。おかえり」
「ただいま、倉子さん」

 ベッドの上にいる倉子は、胸元をタオルケットで隠していた。
  一男は今までの経験から、倉子が服を着ていないということがわかっていた。
  床に脱ぎ捨てられているジーンズ、シャツ、ブラジャー、ショーツを手早くまとめ、枕元に置く。

「早く服を着てください。あと、出てってください」
「なぜ服を着なければならない? 一男は服を着てヤる方が燃えるのか?」
「……倉子さん、もっと恥じらいを持ってください」
「一男を前にしては、恥じらいなど消え去ってしまうよ……」

 うっとりした顔で一男を見つめる倉子。
  大人の魅力を全開にした瞳で見つめられては、たいていの男なら陥落してしまうだろう。
  小さい頃からこの視線にさらされ、今ではすっかり慣れてしまった一男には効かないのだが。
  一男は嘆息して、倉子に背を向け、椅子に座った。
  かばんから社会の教科書とノートを取り出し、机の上に並べる。

「む、勉強か。珍しいな」
「ええ、今回は頑張らないとまずいんで」
「そうか、とうとう私を迎えるために努力を始めたんだな。だが無理はしないでくれ。
  いくら私との結婚生活を順風満帆にするためとはいえ、一男が倒れては意味が無い。
  いや……倒れたとしても、それはそれでいいか。一男を朝から晩まで看病できるからな」
「来週の期末テストで赤点を一つでもとったら、補習になるんです。
  邪魔するんなら、帰ってくれません?」
「補習? 補習というと、あれか。夏休み中ずっと学校へ通わされ、
どこにも遊びに行けなくなるという」
「まさしく、その通りです」

 着替えを終えた倉子は、机に向かう一男の手元を覗き込んだ。

「現代社会……か、これは。最近の学校ではえらく簡単なものを教えているんだな」
「これでも俺にとっては天敵なんですけど」
「……なるほど、そうか。誰でも得手不得手があるものな。一男にとっては、これがそうだと」
「まあ、そういうことです」

 一男は倉子を視界の隅に追いやり、教科書に向かった。
  しかし、全く頭に入ってこない。
  世界の政治や歴史など、一男にとってはどうでもいいものにしか思えないのだ。
  そんなものよりも体育の授業で体を動かす方が余程自分のためになる。
  そう考えて今まで現代社会という科目から逃げ回ってきたツケが今、一男を追い詰めている。

「かなり悩んでいるようだな、一男」
「はあ……どうしよ。あとこれさえなんとかなれば、問題ないのに」
「そうか……そうなのか。ならば、取引をしないか」

 倉子の言葉を聞いて、一男はなんとなく嫌な予感を覚えた。

「……何と何を取引するんです」
「そう警戒しなくてもいい。お互いに持っているものを交換しあうだけだ。
  私から差し出すものは、私の脳に詰まっている現代社会の知識。
  一男から差し出して欲しいものは、一男が持つ夏休みの時間だ」
「いや、俺は夏休みは旅行に行くつもりだったんですけど」
「全てとは言わない、一日だけでいいんだ。一男の時間を、24時間だけ私にくれたらそれでいい」
「え? ……そんなので、いいんですか。それだけで、俺に勉強を?」
「うん」

 これは罠?倉子さんが最初からこんな甘い条件で取引を申し出てくるなんて、どういうことだ?
  もしかして今日、何か悪いものでも食べたのか?

「何を不思議そうな顔をしている。取引するのか? しないのか?」

 だけど、これはチャンスだ。
  倉子さんは昔から優等生でとおっていた。
  今は隣接する市にある、有名大学に通っているほどの才媛。
  高校の現代社会のテストなど、朝飯前に解いてしまうだろう。

「本当に、その条件でいいんですね。あとから追加とか、なしですよ」
「この胸の内に秘める愛に誓って、そんなことはしない。一男の一日を独占できるだけで充分だ」
「……わかりました。じゃあ、さっそく今から……」
「では、さっそく明日、火曜日から始めるとしよう。私にも準備があるしな。
  じゃあ、明日来るから待っているんだぞ、一男!」

 倉子は一男に言い聞かせるように、びしっと指を指した。
  そして、さっさときびすを返して部屋から出て行ってしまった。

 やれやれ、と言いそうになった口を制し、一男は現代社会の教科書と向き合った。
  ……やっぱり、少しも頭に入ってこない。
  一男は勉強の内容を、現代社会から数学へと切り替えた。
  数式がすらすらと浮かび、教科書の例題がたちまちのうちに解かれていく。
  一男は、得意教科と不得意教科の実力差が極端だった。
  三姉妹の教えによりこの差が埋まることを期待し、一男は勉強を続けた。

2

 吉村一男は、一枚のプリントを握り締めていた。
  プリントを見ながら、プリントを掴む手をふるふると振るわせる。
  その度に、プリントが不規則な波をつくる。

「15点……じゅう、ごてん?!」

 そして、ひとり言にしては大きすぎる声を出した。
  周囲ではクラスメイトが騒いでいるため聞こえてはいないだろうが、
隣の席に座っている女の子には当然聞こえてしまった。

「15? 一男、あんたたったの15点しかとれなかったわけ?」
「ああ……」
「どれどれ……うあ、ホントだ。なんでこんな簡単な小テストで15点しかとれないのよ」

 知るか、と一男は言いたかった。
  だが、自分の学力を否応無く思い知らせるテスト用紙を見ていると、
落胆で何も言う気にならなかった。

 月曜日、一男たちのクラスでは国語の小テストが行われた。
  問題数は20。配点は一問につき5点。
  一男が15点しかとれなかったということは、3問しか正解できなかったということだ。
  一男は国語と社会と英語が不得手だったのだ。

 一男たちの学校では、来週から期末テストが始まる。
  一学期の期末テストで赤点をとろうものなら、夏休みの間、補習を受けることになる。
  夏休みに旅行へ出かけるつもりでいた一男は、当然補習を受けたくなかった。
  そのために、一男なりに勉強したつもりではいた。
  しかし結果はこの通り、一男には補習が必要だと証明することにしかならなかった。

「これはもう、補習確定ね。ご愁傷様」
「ああ、ううう。……自転車で県内一周する計画が、こんなことで、こんなことでぇ……」
「諦めなさい。行けなくなって良かったじゃない。
  あんた1人じゃ、トラブルに巻き込まれてそこで人生終わっちゃうわよ」
「くう……」

 幼馴染の組子の言葉を聞いても、一男は諦める気にならなかった。
  一男は先日自転車を購入したばかり。
  しかも、一男がずっと以前から欲しかったロードバイクを買ったのだ。
  ロードバイクに乗ってどこまでも、走れるところまで走ろう、と考えていた。
  そのためだけに一男は努力し、体の脂肪を削り、筋肉をつけてきたのだ。
  簡単に諦められるわけがない。

「頼む、組子!」
「なに?」
「勉強を教えてくれ!」

 深く頭を下げる一男を見て、組子は顔をしかめた。

「なんのために?」
「俺を助けるためにだ!」
「どうして私が?」
「お前しかいない!」
「他の友達に頼めばいいじゃない」
「どいつもこいつも勉強じゃ頼り甲斐のない奴ばかりなんだ!
  クラスで5番以内に入るお前なら、俺を補習の魔の手から救うことができるはずだ!」

 もう一度、深く頭を下げる一男。
  組子は腕を組んで、考えるように天井を見上げ、数秒してから顔を下ろした。

「……やっぱり嫌」
「何故だ!? 幼馴染の俺がこれだけ頼んでいるというのに!」
「私だって暇じゃないのよ。だいたい勉強教えるって言っても、私教えるの上手くないし」
「それでも構わない、お前が教えてくれたら、俺は必ず満点をとれる。
  俺にはお前が必要なんだ! 俺にはお前しかいない! 組子、お前さえいてくれればいいんだ!」
「…………なあっ?!」

 一男の言葉を聞いて、組子は驚いた。
  どれほど驚いたのかというと、顔を茹蛸のように紅くするほどだった。

「な、なななななななな……」
「……ななな?」
「あんた、いきなりこんなところでそんなことを……」
「そんなこと?」
「今、あんたには私が必要だって……」

 一男は怪訝な表情で首を傾げた。
  組子は何を驚いているのだろうか。
  自分にとって組子は仲のいい幼馴染であり、頼れる存在だ。
  おんぶにだっこというわけではないが、自分は組子にかなり助けられている。
  組子が必要だ、というのは自分の正直な気持ちなのに。

「もう一度言う。俺を助けてくれ。俺には、お前が必要なんだ」

 正確には組子の『助け』が必要だった。
  しかし、組子には一男の言葉しか届いていない。

「………仕方ないわね。現国だけなら、引き受けてあげるわよ」

 組子には、顔を紅くして返事することしかできなかった。

*****

 一男は1人で学校から自宅へ向かう帰路についていた。
  隣には、なんだかんだ言いながらも仲のいい幼馴染の姿は無い。
  今日、たまたま組子は他の友人と遊ぶ約束をしていたのだ。

 一男は歩きながら腕を組んだ。
  とりあえず、国語はなんとかなりそうだ。
  あとの苦手教科、社会と英語はどうするべきか。
  数学と理科は1人でもなんとかなる。
  しかし、1教科赤点をとっただけでうちの学校は夏休みの間補習をやらせやがる。
  穴は、すべて埋めなければいけない。

「お兄ちゃん!」
「ん?」

 後ろから声をかけられ、一男は立ち止まって、振り向いた。
  駆け寄ってきたのはもう1人の幼馴染で組子の妹の、恵子だった。

「えいっ!」
「ちょ、腕に絡みつくな」
「えー? いいでしょ、だって私達どこから見ても恋人だよ?」

 そう言ってくる恵子に、一男は沈黙を返した。
  俺とお前のどこが? とは言わなかった。
  一男が恵子を恋愛対象としてみないのは、恵子の容姿に原因がある。
  恵子は中学3年生、15歳だというのに、中学に入学したばかりの1年生のようにしか見えない。
  恵子を恋人だ、と友人に紹介しようものならロリコン呼ばわりされるのは間違いない。
  組子はクラスメイトと比べても大差ない発育具合だというのに、恵子は何故か成長が遅い。
  高校に入ったら一気に成長するタイプなのかもしれない。

「今日のお兄ちゃん、なんだか暗いね」
「ん……そうか?」
「うん。もしかして悩み事?」
「まあな」

 一男は恵子に小テストで赤点をとったことを話した。
  来週の期末テストで赤点をとったら夏休みがつぶれてしまうということも話した。
  全てを聞き終えた恵子は、ぶんぶんと頭を横に振った。

「だめだよそんなの! お兄ちゃんの夏休みがつぶれたら、お兄ちゃんと遊べなくなっちゃう!」
「ああ」
「そしたら、私誰と一緒にラジオ体操に行けばいいの?」
「それは1人で行けばいいだろ」
「嫌だ! やだやだやだやだ!」

 一男は、高校1年生だった去年も近所の公園で行われるラジオ体操に行っていた。
  不本意ながらも、恵子に誘われて毎日行ってしまっていたのだ。
  一男が夏休みを利用して自転車旅行を計画していた理由のうちの一つが、
ラジオ体操に誘ってくる恵子から逃げることだった。
  恵子を嫌っているわけではないが、17歳になった今小学生と混じって
ラジオ体操をするのは気が向かない。
  ラジオ体操の後で遊びに誘ってくる小学生から逃げるのも、
断られて悲しい顔をする子供たちを見るのも、一男は好きではなかった。

「やーだーよー!」
「あのな、恵子。俺は夏休みの間旅行に行くから、どっちにしろラジオ体操にはいかないぞ」
「え……、旅行? どこに行くの?」
「とりあえず、自転車で県内を一周するつもりだけど」
「……1人で? お姉ちゃんは?」
「1人旅だよ」

 一男の言葉を聞いて、恵子は泣き顔から満面の笑顔へと、表情を変えた。

「じゃあ、私と一緒に旅行にいこうよ!」
「だから、赤点をとったら旅行には行けないんだって。特に英語が絶望的で」
「私、英語が大大大得意だからお兄ちゃんに教えてあげる!」
「は? ……そうだったのか?」
「本当だよ。ほら」

 恵子は手提げの学生かばんを開くと、薄い紙を一枚取り出した。
  恵子が取り出したものは、英単語がびっしり書かれてある英語のテスト用紙だった。
  いたるところに赤い丸が記され、右上には赤いペンで100、と書かれてあった。
  中学校のテストとはいえ、難易度はそれなりに高いはず。
  事実、英単語の意味を覚えるのが精一杯の一男にとっては30点とることすらあやしい。
  もしかしたら、恵子は高校生の英語のテストさえわかってしまうのでは……?
  一男は心の中で、この偶然を起こしてくれた存在に感謝した。

「恵子」
「なあに、お兄ちゃん」
「教えてくれ、頼む。俺に、英語力を……」
「じゃあ、旅行に連れて行ってくれるの?!」
「おう」
「やったーーーーーーーーーーー!!!」

 キーの高い叫び声を上げる幼馴染の声を聞きながら、一男は一つ悩みが減ったことに安堵した。
  代わりに、どうやって恵子を旅行に連れて行けばいいのか、という悩みがあらわれたのだが。

*****

 自宅に帰ってきた一男は、玄関に女物の靴が置いてあることに気づいた。
  一男の両親は同じ会社に勤めていて、職場も同じ。
  そのため、ここ数ヶ月のように長期の出張に出かけるときは2人一緒に家を留守にする。
  つまり、玄関に置いてある女物の靴は母親以外の物だということになる。

 一男が自分の部屋に入ると、そこには近所に住む幼馴染であり、
組子と恵子の姉でもある女性がいた。
  ベッドの上に。

「ん、今帰ってきたのか一男。おかえり」
「ただいま、倉子さん」

 ベッドの上にいる倉子は、胸元をタオルケットで隠していた。
  一男は今までの経験から、倉子が服を着ていないということがわかっていた。
  床に脱ぎ捨てられているジーンズ、シャツ、ブラジャー、ショーツを手早くまとめ、枕元に置く。

「早く服を着てください。あと、出てってください」
「なぜ服を着なければならない? 一男は服を着てヤる方が燃えるのか?」
「……倉子さん、もっと恥じらいを持ってください」
「一男を前にしては、恥じらいなど消え去ってしまうよ……」

 うっとりした顔で一男を見つめる倉子。
  大人の魅力を全開にした瞳で見つめられては、たいていの男なら陥落してしまうだろう。
  小さい頃からこの視線にさらされ、今ではすっかり慣れてしまった一男には効かないのだが。
  一男は嘆息して、倉子に背を向け、椅子に座った。
  かばんから社会の教科書とノートを取り出し、机の上に並べる。

「む、勉強か。珍しいな」
「ええ、今回は頑張らないとまずいんで」
「そうか、とうとう私を迎えるために努力を始めたんだな。だが無理はしないでくれ。
  いくら私との結婚生活を順風満帆にするためとはいえ、一男が倒れては意味が無い。
  いや……倒れたとしても、それはそれでいいか。一男を朝から晩まで看病できるからな」
「来週の期末テストで赤点を一つでもとったら、補習になるんです。
  邪魔するんなら、帰ってくれません?」
「補習? 補習というと、あれか。夏休み中ずっと学校へ通わされ、
どこにも遊びに行けなくなるという」
「まさしく、その通りです」

 着替えを終えた倉子は、机に向かう一男の手元を覗き込んだ。

「現代社会……か、これは。最近の学校ではえらく簡単なものを教えているんだな」
「これでも俺にとっては天敵なんですけど」
「……なるほど、そうか。誰でも得手不得手があるものな。一男にとっては、これがそうだと」
「まあ、そういうことです」

 一男は倉子を視界の隅に追いやり、教科書に向かった。
  しかし、全く頭に入ってこない。
  世界の政治や歴史など、一男にとってはどうでもいいものにしか思えないのだ。
  そんなものよりも体育の授業で体を動かす方が余程自分のためになる。
  そう考えて今まで現代社会という科目から逃げ回ってきたツケが今、一男を追い詰めている。

「かなり悩んでいるようだな、一男」
「はあ……どうしよ。あとこれさえなんとかなれば、問題ないのに」
「そうか……そうなのか。ならば、取引をしないか」

 倉子の言葉を聞いて、一男はなんとなく嫌な予感を覚えた。

「……何と何を取引するんです」
「そう警戒しなくてもいい。お互いに持っているものを交換しあうだけだ。
  私から差し出すものは、私の脳に詰まっている現代社会の知識。
  一男から差し出して欲しいものは、一男が持つ夏休みの時間だ」
「いや、俺は夏休みは旅行に行くつもりだったんですけど」
「全てとは言わない、一日だけでいいんだ。一男の時間を、24時間だけ私にくれたらそれでいい」
「え? ……そんなので、いいんですか。それだけで、俺に勉強を?」
「うん」

 これは罠?倉子さんが最初からこんな甘い条件で取引を申し出てくるなんて、どういうことだ?
  もしかして今日、何か悪いものでも食べたのか?

「何を不思議そうな顔をしている。取引するのか? しないのか?」

 だけど、これはチャンスだ。
  倉子さんは昔から優等生でとおっていた。
  今は隣接する市にある、有名大学に通っているほどの才媛。
  高校の現代社会のテストなど、朝飯前に解いてしまうだろう。

「本当に、その条件でいいんですね。あとから追加とか、なしですよ」
「この胸の内に秘める愛に誓って、そんなことはしない。一男の一日を独占できるだけで充分だ」
「……わかりました。じゃあ、さっそく今から……」
「では、さっそく明日、火曜日から始めるとしよう。私にも準備があるしな。
  じゃあ、明日来るから待っているんだぞ、一男!」

 倉子は一男に言い聞かせるように、びしっと指を指した。
  そして、さっさときびすを返して部屋から出て行ってしまった。

 やれやれ、と言いそうになった口を制し、一男は現代社会の教科書と向き合った。
  ……やっぱり、少しも頭に入ってこない。
  一男は勉強の内容を、現代社会から数学へと切り替えた。
  数式がすらすらと浮かび、教科書の例題がたちまちのうちに解かれていく。
  一男は、得意教科と不得意教科の実力差が極端だった。
  三姉妹の教えによりこの差が埋まることを期待し、一男は勉強を続けた。

954名前:名無しさん@ピンキー[sage]投稿日:2007/07/09(月)18:03:27ID:YrZ9gadi
>>940よ、こんなのが好きか?
955名前:名無しさん@ピンキー[sage]投稿日:2007/07/09(月)20:04:02ID:dl2TByo9
940じゃないが大好きだ
是非このまま書いてほしい
956名前:名無しさん@ピンキー[sage]投稿日:2007/07/09(月)22:00:04ID:Se6bWS/8
  _  ∩
( ゚∀゚)彡 GJ!GJ!
   ⊂彡
  _  ∩
( ゚∀゚)彡 続き!続き!
   ⊂彡

957名前:名無しさん@ピンキー[sage]投稿日:2007/07/09(月)22:15:19ID:RTBfEqf3
三姉妹の個性が良い
続きを書かれるならば、おおいに期待する所存
958名前:名無しさん@ピンキー[sage]投稿日:2007/07/10(火)03:47:47ID:o96XjrFK
なんという35スレの底力
これは間違いなく本妻の意地
959名前:姉妹家庭教師ネタ[sage]投稿日:2007/07/12(木)02:08:40ID:WkTcT84v
*****

 翌日、火曜日。
  帰りのHRが終わってすぐ、一男は隣の席に座る幼馴染に声をかけた。

「組子、今日は勉強教えられそうか?」
「ええ。皆今の時期はテスト勉強してるみたいだから、遊ぶ予定はなし」
「こんなこと聞くのもなんだけどさ、お前は大丈夫なのか?」
「私は普段から勉強してるから。あんたと違ってね」
「へー……」

 組子の言っていることは本当だ。
  組子は入学以来、テストの成績で学年トップ10に必ず入り込んでいる。
  授業中居眠りしない、宿題を忘れない、予習復習をしっかりする、ノートに授業の内容を書く。
  そんな小さなことを自然にこなせるから成績がいいのだろう。
  一男は組子を見習おうとしたことがあるが、どうしてもできない。
  結局、自分には向いていないと考えて、組子の真似をするのはやめてしまった。

「さ、始めましょ。あんまり学校でゆっくりしてると先生に文句言われるし」
「あ、そのことなんだけどさ。俺ん家で勉強やらないか?」
「え?」
「俺の家なら遅くまで勉強教えられるだろ?」
「あんた、私を遅くまで付き合わせるつもりなの?」
「いいだろ、家がすぐ近くなんだし」
「まあ……7時までならいいけどね。それ以降は教えないわよ。
  今から帰れば5時には着くから、それから2時間は勉強できるでしょ」
「たしかに。あんまり勉強しすぎても集中力が持たないしな」
「そういうこと。さ、帰るわよ」

 組子と2人で教室を出て、廊下を歩いて、下駄箱で靴を履きかえる。
  正門をくぐったところで組子が口を開いた。

「あのさ、一男。変なこと考えてないわよね?」
「変なことってなんだ?」
「それは……ほら、アレよ」

 変なこと?組子が思う変なことというと……あれか?

「今日はやらない。ていうか勉強しないとやばいしな」
「……そりゃそうよね」
「んー、でももしかしたらむずむずしてやってしまうかも」
「へっ!?」

 組子が素っ頓狂な声をあげて、一男から離れた。
  肩を抱きながら、一男を睨みつける。

「やっぱりあんた、そんなことするつもりで……」
「だめか? 勉強ばっかりじゃ気が滅入るから息抜きにしようかと思ってたんだけど」」
「ばっ、馬鹿! そういうのは、そんな軽がるしくやるもんじゃなくて、
  ムードとか大切にしたいって私は思っているし、それに私とあんたはまだそんな仲じゃ……」
「ムード? 筋トレするのにムードなんかいるのか?」
「へ?」
「いや、だから、これだよこれ」

 一男は学生かばんを右手で持ち、ダンベルカールの動きをした。
  一男がついやってしまうことというのは、筋力トレーニングのことだった。
  組子は曲げ伸ばしされる一男の腕を、大きく開いた目で見つめている。
  時間が経つにつれて、組子の顔が赤く染まりだした。

「どした、組子?」
「……なんでもない! さっさと行くわよ!」

 早足で歩き出した組子に遅れないよう、一男も早足で歩き出した。

*****

 一男と組子が一男の家に入って玄関を見ると、倉子の靴が置いてあった。

「これ、姉さんの靴? なんで、一男の家に?」
「ああ、それは……」

 一男が組子に答えを返そうとしたとき、台所から倉子が姿を現した。
  長い髪を頭の後ろでまとめ、服の上にエプロンをまとっていた。
  倉子の抜群のプロポーションをエプロンが強調している。

「おかえり、一男。……お、組子も一緒か。2人揃って今帰りか?」
「ただいま、倉子さん」

 納得できない、といった顔をして組子は口を開く。

「姉さん、なんで一男の家にいるの……?」
「なんで、か? それは愚問だ。私が一男の家に存在するのは生まれたときから
約束されていたことだからだ」
「一男、どういうことか説明しなさい」

 組子は倉子に聞いても無駄だと判断し、一男に話を振った。

「倉子さんに現代社会を教えてもらおうかと思って、昨日頼んだんだよ」
「ああ、頼まれたんだ。色気に満ちた眼差しで迫られては、私に断れるはずがない」
「事実はかなり違うけど、俺がお願いしたのは本当だ」
「さ、一男。さっそく勉強をはじめよう。私がみっちり教えてやるぞ」

 エプロンを脱いだ倉子は一男の背中に手を回した。
  そして一男の部屋へ歩き出す。が。

「帰って、姉さん」

 腕を組み、厳しい顔つきをした組子が2人の進路を塞いだ。
  組子の目は倉子へと向けられている。
  倉子はひるんだ様子もなく、悠然と組子を見返した。

「なぜ私が帰らなければいけない?」
「一男は今から、私と勉強をするの。姉さんはお呼びじゃないわ。
  一男、現代社会なら私が教えてあげるわよ」
「組子、わがままを言ってはいけない。一男は私に勉強を教えてくれと頼んできたんだ。
  お前は一男の意思を無視するのか?」
「姉さん。私は今、姉さんはお呼びじゃない、と言ったのよ。……早く帰って」
「それはできない。むしろ組子が帰るべきだろう。自分こそテスト勉強でもしたらどうだ?
  ……1人きりで」

 一男は玄関の空気が圧縮された錯覚を覚えた。
  声を出すことができない。動くこともできない。
  倉子の手が一男の背中を撫でた。
  背筋を伝い肩甲骨まで達すると、今度は腰へ向けて移動する。
  一男の尻が倉子の手に撫でられた。

「一男、勉強の前に私がいいことを教えてやろうか? きっと勉強なんかよりずっとずっと楽しいぞ」
「いや、俺は勉強をしないと」
「勉強に集中するためには、煩悩を払わなくては。私が一男の煩悩を払ってあげるよ。
  私と一緒にいては、一男も集中できないだろう? 若い男なんだから」

 倉子は空いた左手で一男の左腕を抱きこんだ。

「どうだ? 欲しくないか、私が」
「ちょ……離れて、倉子さん。組子が、組子の顔が……」

 組子の顔が般若のようになっていた。
  目がつりあがって、黒くて丸い瞳が真円を描いていた。
  上下の唇のすき間から食いしばった歯が見える。

「一男」
「な、なんですかっ組子さん?」
「今すぐ選びなさい。私か、姉さんか」
「えっと……それは勉強を教えてもらう相手っていうことだよな?」
「……………………ええ、そうよ」

 本当だろうか。今の長い間はなんだ?
  もしかして、今の俺はとても重要な選択肢を選ばされている?

「一男、私がいいだろう? 私は、今すぐにでも一男のものになってもいいんだぞ」
「私は真面目に勉強を教えない姉さんとは違う。ちゃんと一男に勉強を教えてあげられる」
「ねぇ、一男……」
「一男、赤点をとりたくないんでしょ……?」

 一男の前と後ろにある選択肢。
  どちらか一方を選べばどちらかを捨てなくてはならない。
  どちらを選んでもかまわないのだろう。
  だが、今一男の近くにいるのは狼と虎だ。前門の組子、後門の倉子。
  片方を選んだらもう片方に食い殺されそうな状況では簡単に選ぶことはできない。
  2人に勉強を教えてくれと頼んだだけなのになぜこんなことになっているのか。
  なぜだ。俺はただ赤点をとりたくないだけなのに。夏休みを利用して旅行に行きたいだけなのに。
  誰か、助けてくれ――――

 一男が天に助けを求めたその時、玄関が開いた。

「お兄ちゃーーん! お勉強教えに来たよーー!!」

 玄関を開けたのは、輝くような笑顔をした恵子だった。
  恵子は一男の傍に駆け寄ると、一男の右手をとって引っ張った。
  しかし、その動きは倉子の抵抗によって止められた。

「恵子、なぜお前までここに?」
「お兄ちゃんに英語を教えにきたんだよ。昨日お兄ちゃんに頼まれたんだ。ね?」
「一男……どういうことだ? 恵子にまで浮気をしていたのか、お前は?」

 一男はぶんぶん、と頭を振った。精一杯否定したつもりだった。
  浮気をしたわけではない。ただ勉強をおしえてくれ、と頼んだだけなのだ。
  無言の責めに堪えながら一男は首を振り続ける。
  だが、ここで一発の爆弾が落ちてきた。
  いきなり来て状況を把握していない恵子が冗談交じりにいった言葉がそれだった。
 
「お兄ちゃんね、私と一緒に旅行に行きたいからお勉強を教えてって頼んできたんだよ」

 爆弾はすぐに効果を発揮しなかった。
  たっぷり時間を空けてから、衝撃を一男のもとへ届ける。
  一番最初に届いたのは倉子の嘆きの声だった。

「一男、お前……胸が小さくて背が低くて童顔でどことなく舌足らずな
言葉遣いの女が好きだったのか!!」
「違います! 俺は恵子に英語を教えてもらおうと思っただけです!」
「ああ、きっと私のせいだ! 私があまりにも一男に密着しすぎるから
反動でロリコンになってしまったんだ!」
「ロリコンじゃないです! 俺はものすごくノーマルです! な、組子…………組子?」

 組子が一男に届けたものは本物の衝撃。
  一男の腹に拳がめり込み、体がくの字に折れ曲がった。
  続いて放たれる左拳のアッパー。下を向いた一男の額に命中した。

「この、浮気者おぉぉぉぉっ!!!」
「ちょ、待ってくみ……ごぉっ!」

 頭を上げた一男の左テンプルにハイキックが命中した。
  蹴りを受けた勢いで一男の体が右に倒れる。
  しかし組子の攻撃は倒れることを許さない。
  返す刀で左フックを放つ。組子の左拳がカウンターで一男の右側頭部を打った。
  トドメに放たれた右足刀を受けて、一男は倒れこんだ。
  しゃれにならない。息ができない。頭にひびが入ったみたいだ。
  組子は大の字になって倒れた一男の胸倉を掴み、怒りの声を吐き出した。

「あんた私が必要だって、私しかいないって言ってたじゃない!
  なんで姉さんや恵子にまで頼んでるのよ!」
「いや……おま、えが現国しか教えないっていうから……」
「私を無理矢理押し切ればいいでしょ! それでも男なの?!」

 お前を無理矢理押し切れるわけないだろ。あと俺はれっきとした男だ。タマだってついてる。
  一男は軽口を叩きたかった。しかし口から音が漏れない。
  組子の手が一男の首を絞めていたのだ。
  組子を止めようにも一男の手は機能停止したように動かない。

「なんか言いなさいよ! この馬鹿! 女の敵! 痴れ男!」

 一男の首ががっくんがっくんと動く。
  視界がかすむ。気が遠くなる。体が冷えていく。
  睡魔が一男の意識を蝕んでいく。

「あれ? ちょっと……やばい、やりすぎた!」
「起きろ、一男! 起きたらいいことしてあげるから!」
「お兄ちゃん!」

 一男は、小さな手が自分の頭を包み込んでいくのを感じた。
  この手は誰だろう? ああ、きっと天使様だ。
  とうとう俺にもお迎えがやってきたのか。でも本当に天使の手って柔らかいんだな。
  一男はいろいろなことを諦めつつそう思った。

「……ごめんね、お兄ちゃん。こんなことになっちゃって。
  あ、でも結果オーライだったかも。朝ならお兄ちゃんも私に付き合ってくれるよね?
  お兄ちゃん、今年も一緒にラジオ体操に行こうね」

 耳元で聞こえたかすかな声を最後に、一男は意識を手放した。

*****

 二週間後、期末テストの返却日。
  教室に置いてある一男の机の上には、5枚の解答用紙とうなだれた男の体が乗っていた。
  現代国語、13点。
  数学、78点。
  理科、88点。
  現代社会、26点。
  英語、9点。
  そして、夏休みの間補習を受けることが決定して男泣きしている男。
  一男の『夏休み県内一周自転車旅行計画』は頓挫した。

 教室には一男と同じように机に伏せている者の姿もある。
  彼らにも一男と同じように夏休みを利用してやりたいことがあったのだろう。
  もっとも、彼らは同じ痛みをもつ者同士で傷を舐めあうことなどしない。
  自分の受けた傷の痛みは、自分ひとりにしかわからない。

 一男は今決心した。
  赤点をとらない程度に勉強すること。
  幼馴染の三姉妹に、同時に頼みごとをしないこと。
  そして、来年の夏、いや、今年の冬休みは絶対に自転車旅行へでかけること。

 そんなことを思いながら、一男は窓の外を見た。
  一男の今の気持ちを表すように、雨が降っていた。
  もっと、もっと振ってくれ。俺の気持ちを洗い流してくれ。
  雨粒が地面を打つ音を聞きながら、一男は目を閉じた。

2007/07/12 完結

 

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