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すみか

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第19回
 


1

体育館の外には夕暮れ空があって、カナカナのもの寂しい鳴き声がこだましていた。
九月も中場を過ぎ、秋の息遣いがはっきりと感じられるようになったのだが、
それでもまだ残暑は続いていた。
体育館内はシーンと静まり返っている。
運動部が残した熱が、まるで熱帯夜のように体にへばりつき、汗がじくじく吹きでて体を流れる。
ここだけ湿度が高いのだ。
「……サウナかよ」
思わず奏翔(かなで・しょう)は呟いた。
ともかく暑い館内は、明らかに外より湿度も気温も高く、体と心を際限なくげんなりさせる。
ズボンの右ポケットに手を突っ込むと、そこには一枚のルーズリーフが綺麗に折り畳まれている。
翔はそのルーズリーフを取りだし、折り目を開いた。
そして、翔は溜め息をつく。
『体育館の部活が終わったら、体育倉庫に来て下さい』
ルーズリーフの表面にはそんなメッセージがくっついている。
翔はこのメッセージに従って、体育館まできたのだ。
もう一度、翔は溜め息をついた。
このルーズリーフを見るたびに、翔はたまらなく憂鬱になるのである。
この普通のメッセージが孕んだ、おかしな文字に。
「普通、新聞の切り抜きなんか使うかよ……」
まるで脅迫文書のようなその文字一つ一つを撫でまわしながら、翔は言った。
べっとりとへばりついた糊の、のっぺりとした匂いが鼻の奥を刺激する。
そして、翔は三度目の溜め息をついた。
この手紙は今朝、下駄箱に入っていたのだ。それを登校時に発見し、泣きそうになった。
同時に一瞬でもラブレターだ、と考えて浮かれた自分が悲しくなった。
おそらくは友達のたちの悪い悪戯だと思う。
脅迫文を装おって、翔を怖がらせようとでも思っているに違いないのだ。
しかし、微妙な学力レベルの私立高に漫画や小説の世界に登場するような不良はいない。
もちろん悪ぶるやつも居るにはいるが、そいつらはトイレでコソコソ煙草を吸うくらいがせいぜいで、
人様に迷惑なんてかけられないだろう。

私立は校則が厳しいし、翔が通う高校は大学附属高であるため、
そんな馬鹿な事を起こして内申を下げたくないとみんな思っているはずである。
その時はそう確信し、意気揚々と自分のクラスに向かったのだが、
そんな気分はすぐに消え失せてしまった。クラスメートは誰もその手紙を知らなかったのである。
いかにもそんな下らない事をやりそうな大久保、本田、森の3バカトリオも知らぬ、
存ぜぬと犯人扱いされたためか不機嫌そうな顔で言う。
その顔は嘘を言っているようには見えなかった。彼等はかくれんぼで狭い密室に隠れると、
なぜか笑い出すタイプである。嘘は下手くそだ。
いつの間にかその差し出し人不明の手紙が怖くなっていた。
誰も知らないその手紙には重要な意図が内封されているような気がしたのだ。
自分の顔が青くなり、たらたらと冷や汗が出てくるのを、はっきりと自覚した。
そんな翔に対し、哀れみを抱いたのか3バカトリオは翔の肩をポンと叩き、
何かを手渡してくるのだった。
大久保は湿布。ありがとう、役に立ちそうだよ。
本田は絆創膏。まぁ、妥当だろう。ありがとう。
森はカッターナイフ。森よ、お前は俺に何をさせたいんだ?
そうこうするうちに授業は全て終了し、頭を抱え焦っているうちに部活も終わってしまい、
今、体育倉庫の前まで来たのである。
体育倉庫の鉄製扉は、まるでその奥に魔王でもかくまっているんじゃないかと思うほど重厚で、
檜の匂いに混じる鉄の匂いが不安な気持ちとあいなって場違いな威圧感を漂わせていた。
思わずごっくん、と生唾を飲み込む。心臓が早鐘をうち、体からフッと熱が消えた。
今なら魔王に戦いを挑む勇者の気持ちが分かる。だが反対に、勇者は翔の気持ちを分からないだろう。
翔には仲間も、経験値もないのだから。
たっぷり時間をかけてから、ようやく意を決して、その重厚な扉をノックする。
扉の雄大さから比べれば、その音はかなり小さく、すぐに重厚な鉄に吸い込まれて消えた。
返事はない。

不気味な静まりの中で、カナカナが鳴いていた。その沈黙が、翔の不安を増大させる。
逃げちまおうか、と思う。全てなかった事にして、家に帰って寝ようか、と。
しかし、そうもいかない。翔がばっくれたら、中の人がどんな反応を示すか分からないのだ。
だから下手に刺激せず、直接会ってうまく場をおさめる、それがベストだと思う。思う事にした。
再び、扉をノックする。
やはり返事はない。
気味の悪い感覚を撫でるような汗が流れ落ち、心臓は天井知らずに高鳴る。
そんな感情も感覚も全て吐きだしたくて、ふぅ〜と大きく息をはく。
覚悟を決めた。初めて扉をノックした時使った十倍の勇気を振り絞り、
錆びついたむちゃくちゃ重い扉を肩を当てて無理矢理押し開ける。
キィーッと蝶番が軋む嫌な音が、館内に反響した。
重い鉄扉は一度勢いがつけば一人出に開いていき、暗い体育倉庫の地面に帯状の光が広がっていく。
カビの刺激臭が鼻の奥をつく。
倉庫はひっそりと静まり返っていた。暗くて奥がよく見えないが、人の気配は感じられない。
中に足を滑らせると、不自然に敷きつめられたマットの、柔らかい感触があるだけで、
それ以外におかしな所は見当たらない。
「……誰もいないのか」
翔は問いかけるように、そして同時に自分にいい聞かせるように呟く。沈黙が答えだった。
やはり誰もいないようだ。
安堵の吐息を漏らす。憂鬱な気持ちが胃の中にストンと落ちて、消えたような気がした。
と、なれば長居は無用である。
「帰るか……」
翔が踵を返したその時、
「センパイ」
人に媚を売る仔猫のような甘い声が背中から聞こえた。
驚いて振り返ると、隅の飛び箱の上に少女が座っていた。
暗くて顔はよく見えないが、スラッと伸びる白い足がやけに綺麗で目に残る。
「待ってましたよ」
そう言って少女は飛び箱から飛び降り、大地を撫でるような柔らかな音と共に着地した。

「もう来ないのかなぁ、と思いました」
少女は翔の元にゆっくりと、しかし悠然と近付いてくる。
翔は思わず身を固くした。
この少女が不気味で仕方がなかった。
まるで多種多様の果物の中に一つだけ苺が混じっているような異質さ。
それは遠くで見るかぎりは分からないかもしれないし、実際廊下ですれちがっても分からないだろう。
しかしサシになるとその異質性がよく分かる。
帯状の光の中に侵入した少女の姿が、下半身からジワジワと写し出されていく。
驚いた事に可愛い少女だった。パッチリと大きな瞳はややつり上がり気味だが、
その分意思の強さを物言わずに語っている。
白く、高い鼻はツンと気高く、クローバーのように可憐な唇はぷっくりとしていてみずみずしい。
彼女が歩を進める度に、肩まで伸びた黒髪が柔らかく空を舞う。
胸元の校章が赤い事から、少女が自分より一つ年下の一年生であることが分かったが、
それ以外は何も分からなかった。もちろん名前も知らないし、見た事もない顔だ。
純粋に可愛い娘だとは思う。
この少女が美人かどうか、百人に質問すればまず全員が美人と答えるだろう。
しかし、それでも彼女の評価は二分されるよう翔には思えた。すなわち直感的に好きか、嫌いか。
現に、翔はこの少女はあまり好きなタイプではない。
かわいいとは思うが、それ以上に不快な感じを受ける。
そこに確かな理由や裏付けがあるわけではなく、ただ直感でそう思った。
「何のようだい?」
固まった表情筋を無理矢理緩めて、翔はやんわりと言葉をつむぐ。
少女はふふふと笑った。その笑みがドキリとするほど妖艶に見えた。
まるで獲物を見つめる小悪魔のようだ。
やがて、少女はゆっくりと翔の脇をすり抜けて行く。
柔らかく風に揺られた髪の毛から、甘いシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。
その芳香に頭がくらくらするような高揚感を覚えつつ、その匂いに魅入られたように動けなかった。
ズシンと腹の底に響くような重低音を背中で聞いて、ようやく翔は我に返る。
背後から照らしていた光が遮断され、鉄格子から真っ直ぐ伸びる赤い光だけの世界に急転した。
鉄扉が口を閉じたのだ。

驚くと同時に慌てて振り返ったその時、いきなり首に手を回されそのまま乱暴に押し倒された。
もう何がどうなったのか理解できなかった。
「セ〜ンパイ」
腰の上で馬乗りになった少女が、押し倒された翔の顔の左右のマットに手をついて、体を傾けてくる。
顔と顔との距離が狭められ、その間にはもう拳一つ分ほどの隙間しかない。
彼女の小さくも甘い吐息がいちいち鼻頭をくすぐる。
「大好きです」
いきなり唇を奪われた。狂った果実のように、どこまでも甘い唇の感触。
しかし、その感触はさざ波のようにすぐに消えていった。
顔をあげた彼女の唇に糸が引いていた。
頭がくらくらする。夢と現の境界線が曖昧になってしまったような気がした。
ふふふ、と少女は満足気に目を細めて、再び唇を合わせてくる。
今度は濃厚でむさぼるように彼女の唇が吸い付き、そのまま唾液を潤滑油にして滑らせるように、
柔らかな舌が口内に侵入してきた。
彼女の舌がなまめかしく、かつ濃密に翔の舌と絡みつく。いやらしい水音が鼓膜の奥から聞こえた。
甘い唾液がじくじくと喉の奥に流し込まれ、それを嚥下する度に思考が恍惚となっていく。
それでも彼女は唇をむさぼる。
そのまま右手を滑らせて、翔の下半身へと手を伸ばす。
片手で器用にズボンのチャックを下ろし、すっかり隆起したペニスを握りこむと、
嬉しそうに目を細め口を離した。
「ふふ、センパイおっきくなってますよぉ〜」
冷たい彼女の指が熱を奪っていく。まるで上半身と下半身が別の体になってしまったかのようで、
夢の中を漂う頭とは対照的な股間の冷たい快楽が直接神経を刺激する。
「どうですかぁ、気持ちいいですかぁ〜?」
言いつつ少女は右手をゆっくりと動かしはじめた。
自分の手では絶対に感じられない快感が、じわじわと神経を刺激する。
この少女の手の動きは熟練の域に達していた。
竿を激しく扱いたと思ったら、滑るように指先を這わせて亀頭を愛撫する。
手の平で敏感な亀頭を優しく撫で回し、カリ首を指でじらすようにつついた。

電撃が走ったような快感にピクン、と翔の体が震える。
「センパイ、ここがいいんだぁ〜」
鼻にかかるような甘い声を出して、少女はカリ首を執拗に刺激する。
雪のように白く細長い指で輪を作り、カリを包んで締め付けてきて、
もどかしい快感が全身を駆け抜けた。
「あはっ、やっぱりここがいいんだぁ。ほら、先っぽから我慢汁が出てきましたよ」
少女は加虐的快楽を享受し、その目をうっとりととろけさせていた。
甘く熱い少女の吐息が激しさをまし、翔の顔にふりかかる。
亀頭から漏れたカウパーを人指し指によく馴染ませ、少女はわざといやらしい音を立てつつ、
カリに指を滑らせていた。
「すごいですよぉ、センパイの我慢汁で手がベトベトです」
芯に届く圧倒的快感。しかし、少女は頂には決して昇らせてくれない。
少女は絶頂の寸前で指を離したり、見当外れな場所を愛撫するのだ。
イキたいが、イカしてくれない。
そんなもどかしさに耐えかねて、翔は無意識のうちに快感を求めて腰を動かしていた。
「あれ、どうしたんですか?センパイ」
その動きを感じ取ったのか、少女はしごいていた右手をピタリと止めた。
それから翔の耳元に口を持っていき、甘く熱い吐息と共に少女は囁く。
「気持ちよくないんですか?」
優しくしごく。
「そんなわけありませんよね?ここはもうこんなに大きくなってますし、
我慢汁だっていっぱい出てます」
頂が見えはじめると、少女の手の動きはピタリと止む。
「まさか、もういっちゃいそうなんですか? まだ五分もたってないですよ。
もしかしてセンパイって早漏さん?」
熱い吐息が耳に絡みつく。
脳の中を直接愛撫されているような錯覚に陥り、脳自らがその快楽を求めている。
「分かったぁ、童貞さんなんだぁ」
にっこりと笑う少女。その唇の隙間から可愛らしい八重歯を覗かせていた。
「センパイ、初めてなんですね。ふふふ、嬉しいです」
フッと耳元でジンジン響いていた彼女の声が遠くなった。少女は中腰に立ち上がったのだ。

その体勢のまま少女は右手でペニスを扱きつつ、左手で器用にパンツを下ろした。
スカートをまくし上げた股間の、うっすらと生えた淫毛の向こうに、ピンクの花が咲き誇っていた。
「ほらぁ、ここに入るんですよぉ。入ったら、童貞卒業です」
彼女は見せつけるように、両手で花びらを押し広げた。
ヒクヒクと脈うつそれは、獲物を待つ食虫植物のように甘い粘液を滴らせている。
「じゃあ、食べちゃいますね」
と、少女は膝立ちになり自分の花びらに、ペニスを押し当てた。
これからもたらされる快感の期待に、翔の体が震える。
「いただきます」
それを合図に少女はゆっくりと腰を落としていく。
翔のペニスが狭い膣を押し広げ、ゆっくりゆっくり奥底へと潜りこんでいく。
肉の花びら一枚一枚が愛液でたっぷりと濡れていて、絡みつくようにまとわりついてくる。
やがて、コツン、と最深部に先端が辿りついた。
「んあ……、お、奥まできました。ふ、ふふふっ、ど、どうですか? 女の子の中に入った感想は?」
そう言って、少女は腰をくねらせた。
暖かくて柔らかい膣の感触。びらびらの一枚一枚がまるで舌のように絡み付き、
ずっとおあずけを食らっていた翔の肉棒はあっさりと限界に達した。
「あん、すごい。ピクピクって、中に出てます」
少女は腰を反らして、止めとばかりに膣を絞め上げる。
まるで巾着のように、貧欲に精を絞りとる肉の壺を前に、白い快楽で頭が塗り潰されていく。
やがて、全ての快楽を吐き出したときには意識が朦朧としていた。
「はははっ、センパイやっぱり早漏さんでしたね。早すぎですよ」
屈辱的な言葉は既に遠く、意識が快楽の中に抱かれて薄れていく。
そして、翔は意識を失った。

2

「おーい、翔」
休み時間の喧騒に溶けこむような目立たない声で自分の名前が呼ばれた。
翔は談笑を中断し、声のした教室のドアに目をやる。
そこにはクラスメートの箕輪がぶすっとした顔で立っていた。箕輪は翔の顔が向けられると、
「お客さんだ」
箕輪はどこか投げやりに言いつつ、親指でドアの陰を指した。
「誰?」
窓に体を預けていた中野早苗が、眉をひそめた。
「知らん」
「心当たりは?」
翔の前の席で、後ろ前逆に椅子に座った寺田宏樹が問いかけてくる。
「心当たりねぇ……」
考える。しかし、いくら考えても何にも浮かび上がらない。
「ないな」
はっきりと言い切った。しかし言い切ったそばから、唐突に昨日の少女の事を思い出した。
表情はあくまで平静を装いつつ、慌てて昨日のぼやけた記憶をたどる。
昨日、あの少女に告白されたような気がしてきた。記憶が曖昧で鮮明には思い出せないが、
返事をした覚えはないから、あの少女が返事を聞きに来たのかも知れない、と思う。
しかし、仮にそうだとすれば行きたくなかった。
昨日はいきなり襲われたわけだし、どう対応すればいいのか分からないのだ。
それに不本意ながらも、肉体的関係を持った相手と顔を合わせるのは恥ずかしい。
しばらく思い悩んでいると、中野がいきなり腕を掴み、もの凄い力で翔を引っ張り立たせた。
翔は中野を睨みつけ、
「何しやがる」
「何って、お客さんが来てんでしょ?早く行ってあげなさいよ」
中野は怯まない。逆に、鋭い視線で睨み返され、翔がたじろいでしまった。
「い、いや、そうだけど。行きたくないんだよ」
「はぁ?何でよ?誰だか分からないんじゃないの?」
「あ、そ、そうだけど」
「じゃあ、さっさと行きなさいよ」
ドンと、背中を押された。恨めしげに中野を振り返ると、彼女は無然とした表情で直立していて、
あらゆる抗議を無言のままはね返している。

翔は溜め息をついた。渋々ドアの方にに行くと、箕輪が悔しそうに舌うちをして悪態をつく。
「ケッ、彼女なんか作りやがってよぉ」
ああ、と思う。たった今予感が確信へと変わってしまった。最悪だ、嘘だと言ってよバーニィ……。
「それじゃあ、ごゆっくり」
嫌味ったらしく箕輪は言うと、不機嫌そうに足音荒く自分の机に帰っていった。
そして、その代わりに、一人の少女がドアの陰から顔を出す。昨日の少女だった。
その瞬間、目の前から色素が消えて、世界が真っ白になった。
同時に足下の地面が崩れ落ちたような錯覚に襲われ、立ちくらみがした。
「セ〜ンパイ、会いに来ましたよ」
真っ白な頭の中に、少女の声が風のように流れていく。ニコニコと笑う彼女はご機嫌な様子であった。
たっぷり十秒の時間を消費し、真っ白になった頭を立て直す。それからようやく翔は口を開いた。
「え〜と、なぜここに?」
声が裏返っていた。
「なぜって、私達付き合ってるんですよ。会いにくるのは当然じゃないですか」
少し不機嫌そうに唇を尖らせて、少女は言う。
彼女の声は透明感に溢れ、休み時間の喧騒をすり抜けてカーンと響いた。
教室中の視線が自分に集まるのを、翔は感じた。冷や汗がふきでる。
集中した視線の中でも、背中に突き刺さる誰かさんの視線が一番痛い。
もし視線に質量が伴っていたら、自分は蓮根のように穴だらけになってしまうに違いない。
しかしその視線の痛みが、翔の思考をある程度回復させていた。
そして、彼女のとある言動に思い至る。
「ん?付き合って、る?」
はて、と思う。告白に頷いた覚えはなかった。
「そうですよ。忘れちゃったんですかぁ?昨日、体育そ」
何か、とてつもなく嫌な予感がした。
放っておくと、恐ろしい事を口にしそうな気配。
その気配を敏感に感じ取った翔は、慌てて彼女の肩に手を置き、
「そうだった。うっかりしてたよ、すまん」
その先を言わせない。言わせるわけにはいかない。
「はい。もう忘れないで下さいね」
少女は満足そうに笑った。

そんな笑顔を見せ付けられ、何だかドッと疲れた。翔は溜め息をつきつつ、
「で、何の用?」
「あっ、え〜と。伝言があるんです」
「伝言?」
「はい。今日も昨日と同じ時刻に同じ場所に来て下さい。私、待ってますから」
は?と聞きなおすのが精一杯だった。
「昨日と同じ時刻に、同じ場所に来て下さい」
少女は繰り返した。そして彼女は自分の体を乱暴に揺らして、肩に置かれた翔の手を振り払う。
それから、
「待ってますから、絶対に来て下さいね」
と言い残し、踵を返して颯爽と廊下を駆けて行った。
抗議も質問もする暇がなかった。
「な、何だったんだ?」
風と共に去っていった彼女の幻影を廊下に見つつ、翔は呟いた。

ところが、翔の苦難はこれからであった。
長い魅了の時間から我に返り、翔が教室に入ろうと反転した瞬間、
中野が怖い顔でズカズカと近よってきて、ネクタイをしめあげてきたのである。
「何?あの娘?彼女?付き合ってどれくらいたつの?」
「わ、悪い。俺は聖徳太子じゃないんだ質問はひとつにしてくれ」
「奏、翔くんは、あの娘と、付き合ってるん、ですか?」
彼女はひとつひとつの単語にそれぞれアクセントをつけ、
さらにアクセントの度にネクタイを強く絞めあげてくる。キリキリと首が痛む。
「ぐあ、そ、そんなに青筋立てると可愛いい顔が台無しだぞ」
「茶化さないでちょうだい。今は私が質問してるの」
そう言いながら、ネクタイを今まで以上に締め付ける中野。いい加減苦しくなってきた。
「さぁ、答えなさい。あの娘とは付き合っているの?いないの?」
「い、一応付き合っている事になってる……らしい、ぞ」
「はぁ?何それ?」
わけがわからない、と言った表情を浮かべる中野。
そのとき、ネクタイを絞め上げる中野の手が微かにゆるんだ。
その隙に翔はネクタイを外すと、ギャーギャー喚く中野を無視して、息もたえだえに自分の席に戻る。

翔が自分の席に座ろうとした時、難しい顔をして腕を組みをしている寺田に気付いた。
何かを考え込んでいるようだった。
「あれ?寺田、何考え込んでいるだ?」
「翔は、さっきの娘と付き合っているのか?」
間髪入れずに、寺田は言葉を被せてきた。てっきり名前も知らない少女について、
茶化してくるものと思っていた翔は、思いの外静かな寺田の声に面食らった。
「まぁそうみたい、だけど。それよりお前、どうしたんだ?急に真面目な顔して。
何か、悪いもんでも食ったのか?」
「いや、違う」
寺田は大きく息をついた。その姿は決心を固めているように見えた。
やがて、覚悟を決めたのか寺田が口を開いた。
「実は……」寺田が何かを告白しようとしたその瞬間、やかましい声が寺田の声を打ち消す。
「翔、さっきのってどう言う意味?」
再びの中野。翔の肩が掴まれ、凄い力で反転させられる。その手には翔のネクタイが握られていた。
「あんたがあんな可愛いい娘と付き合えるなんて、何か弱味でも握ってるの?」
「しょ、それは違う。むしろ弱味を握られてる方だ」
「弱味?何それ?」
中野がキョトンとした顔になる。翔はようやく自分の失言に気付いて、
「い、いや、それは言葉の綾と言うやつで。と、ともかく、本当に俺にも付き合ってるのか
分からないんだよ。だいたい彼女の名前すら知らないし」
「……スミカ」
ゴトリと石のような声が翔と中野の間に入った。口を開いたのは寺田である。
「藤宮澄香(ふじみやすみか)って言うんだよ。彼女」
「何であんたが彼女の事知ってんのよ」
中野は翔の肩から手を離し、至極全うな疑問を寺田にぶつける。翔も再び寺田に向き直った。
「藤宮とは中学が一緒だったから」
「中学が一緒?」
「ああ、だからってわけじゃないけどな。
あの娘は、藤宮はウチの中学ではちょっとした有名人だったんだよ」

「へぇ〜有名人ね。校庭にけったいなミステリーサークルでも書いたのか?」
翔はおどけて見せたが、寺田はゆっくりと首を振る。気味が悪いほど真面目な顔だった。
「藤宮はさ、その、ホテルって呼ばれてたんだ」
「ホテル?何それ、意味分かんない」
中野はそう言って肩をすくめたが、その意味が翔には分かった。
寺田は観察するように中野、そして翔の瞳を覗きこんでくる。
そして、その瞳は翔を真っ直ぐ見たまま固まった。その瞳は告げている、言っていいのか、と。
その無言の問いに翔は静かに頷いた。どうせいずれ知れる事になるだろうから、
今言われても構わないと思った。
それを確認したのか寺田は小さく頷き、再び中野に向き直り静かに口を開いた。
「誰でも泊まれる。つまり誰とでも寝る女、って意味だよ」

3

「誰でも泊まれる。つまり、誰とでも寝る女、って意味だよ」
中野は絶句した。翔も黙りこむ。その沈黙の中を静かに流れる寺田の言葉。
「俺もひとづてに聞いた話だから、詳しい事は分からないし、実のところ藤宮と寝た男の話も
聞いた事がない。だけど、ウチの中学ではそう呼ばれてたって事は事実だ。
だけど、まさかウチの高校に入ってるとは知らなかったよ、新入生名簿にはなかったし」
一気に場の空気が重くなった気がした。
それなのに無邪気に響く休み時間の喧騒がやけに白々しかった。
「……誰とでも寝る女、か」
しばらくして翔はつぶやく。少し残念な気もしたが、ようやく多くの疑問がふに落ちた気がした。
だいたい翔は取り分け格好いいわけではない、と自認している。
そのうえ、部活をやっているわけでもないし、勉強が出来るわけでもない。
いわば長所も短所もないのだ。そんな男に惚れる女などそうそういるもんではない、と思う。
彼女にしてみても、翔と寝た理由は特にないのだろう。
彼女は翔の事が好きだから翔と寝たのではなく、男と寝る事が好きだから翔と寝たのだ。
「……不潔」
そんな翔の思考を遮り、いきなり中野はそう吐き捨てた。
それから翔に視線を写しかえ、まるで敵兵の死体でも見るような目で、
「あんたも寝たの? 藤宮さんと」
ドキリ、と一際強く心臓が脈うつ。
中野の言葉は身も蓋もない故に、的確に翔の動揺を誘う。
思わず言葉につまってしまうと、彼女の瞳の色がみるみる変わり、
「最っ低」
もう一度、中野は氷のように冷たく吐き捨てた。
それから、中野は持っていたネクタイを翔の顔面に投げつると、踵を返して自分の席に戻っていった。
翔は、それを呆然と見送る。
中野が自分の席に着いたところで、寺田がいきなり口を開いた。
その口ぶりはいつの間にかいつもの寺田に戻っていた。
「どうするんだよ、怒らしちまったぞ」
うひひひひ、と笑う寺田はなぜか嬉しそうだった。野次馬を決めこんでいるようである。

「俺のせい、なのか?」
「いや、それはまだ分かんねーけどさ。翔に原因の一端があるのは確かだぜ、まぁ、いいけどな。
そんな事よりさ、お前本当に藤宮と付き合ってるのか?」
「いいや、そんなつもりはないんだよ。別に彼女が好きってわけでもないし。ただ……」
「ただ?」
「拒絶しようとも思えないんだよ。自分でも理由はよく分からないんだけど、
何となくしちゃいけない気がするんだ」
寺田は肩をすくめ、
「好きじゃないけど、別れたくない? 意味が分からん」
「いや、別れようとは思ってるんだよ。だってさ、何か、彼女の纏う雰囲気が苦手でさ」
寺田は両手を叩いて、
「あ〜〜、それ分かるわ。俺も駄目。顔は可愛いいんだけど、なんつ〜か、年下のくせに
腐った大人みたいなんだよなぁ。一緒にいるとこっちまでおかしくなりそうな」
言い回しがすっきりしないが、寺田の言いたい事はなんとなく分かったので、
「そうそう、そんな感じそんな感じ」
あははと空笑いをひとしきりした後、翔は一息ついてから、自分の思う事を素直に告白した。
「ともかく今日別れようと思う」
「そうか。でも、出来んのか?」
「ああ、最大限頑張ってみるよ」
力なく翔は笑った。

4

「で、結局、ダラダラきちまったわけだな」
向かい合って座った寺田が呆れたような溜め息を一つつき、わざとらしく肩をすくめて言った。
「面目ない」
翔は小さくなる。
結局、藤宮との別れの決意を寺田に話してから一週間が経過していた。
あれから幾度となく別れるチャンスはあったのだが、その度に藤宮のペースに流され続けて、
別れ話を切り出せなかったのだ。
「まぁ、俺は部外者だしぃ、翔が誰と付き合っても構わんよ。ただなぁ」
そう言って寺田は右手に持った箸で、中野を指した。
そこで中野は女子と談笑しながら弁当を囲っていた。楽しそうに笑っているが、
その笑みはどこか空回りしているような気がした。
「最近中野の元気がないんだよねぇ。俺は翔と中野のやり取りが好きだったんだけどなぁ」
寺田は遠い昔を思い出しているような目で呟く。
翔は返答に困り、弁当箱から玉子焼きをつまみあげ口に投げ入れた。
寺田の言うように、最近の中野に元気がないのは事実である。いつもつっかかってきた休み時間も、
最近では自分の席に座りただぼんやりと頬杖をついている時間が多くなった。
翔以外の誰かに話しかけられれば、返事こそはするが、それも気持ちが篭っていないためか
会話に繋がらない。だから中野は休み時間の間中、ずっとたそがれているのだ。
翔から話しかけようにも、避けられた理由が理由なだけに、何を話しかけたらいいか分からなかいし、
またその理由の根本を正していないので話しかける権利がないような気もした。
だから仕方なくそっとしておいたのだが、逆にどんどんアンニュイになっていって
しまっている気もする。ともかくどうしたらいいのか分からない、お手上げなのだ。
「どう話かけたらいいか分からないんだよなぁ」
無意識に翔は本音をこぼした。すると寺田はその無意識をめざとく拾いあげ、心外といった顔で、
「どうって言われても、気持ちを正直に伝えればいいんじゃん?」
「へぇ〜、具体的に何て言えばいいんだい?是非教えて頂きたいね」

「俺はお前の事が好きだ、とか」
寺田は真面目な顔で言うが、翔は大きな溜め息を返した。
「あのな、誤解しているようだから言っとくが俺は別に中野が好きなわけじゃないんだぜ?
そりゃ確かに藤宮といるより中野と話している時間の方が楽しいよ、それは認める。
だけど、だからといって中野と付き合いたいとは思っていない」
「でも、中野は翔の事好きなんだと思う。だから藤宮がお前に会いに来るたび不機嫌になるんだよ。
それに、俺はお前ら二人お似合いだと思うけどなぁ」
やたらと中野の肩をもつ寺田に、翔はうんざりした気分になる。
もちろん中野が嫌いなわけではないが、そういう類の話は気乗りしない。
「いい加減にしてくれ。仮に寺田の話が事実だとしても、
それでも俺は中野と付き合おうとは思えないよ」
いささか乱暴に言って、翔は黙々と箸を進める。
まだ何か言いたげだった寺田も、かたくなな翔の様子に観念したのか、
やれやれとばかりに弁当の中身を静かに口に運びはじめた。
会話が途切れると、不思議と空気がどんよりと曇りだす。
自分が作り出した空気なのに、それがたまらなく居心地が悪い。気まずい雰囲気は苦手なのだ。
だからその空気をなんとか打破しようと、翔は辺りをキョロキョロ見渡して話のネタを探した。
その時である。たまたま目が移った教室のドアの陰から、こちらを黙って見つめる人影と目が合い、
翔は石のように固まった。その人影の主こそ、翔を悩ます藤宮澄香であったのだ。
藤宮は翔と目が合うと、ニコリと笑いそのまま悠然と翔の方向に歩き始めた。
あまりに悠然としていたため、上級生の教室に侵入した下級生に誰も気付かなかった。
例外は先程目の合った翔と、槍のような鋭い視線を突き刺す中野だけである。
もちろん寺田も気付いてない。彼は気まずそうに箸を口へ運んでいるだけだ。

やがて、藤宮は翔の前に堂々と立つ。その時にはひたすら弁当を食らっていた寺田も、
さすがに彼女の存在に気付き、馬鹿みたいに口をあんぐりあけて彼女の姿を眺めていた。
しかし、そんな視線も彼女の愛くるしい顔は平然と受けとめ、
ニコニコと気味が悪い満面の笑みを浮かべている。何か、とてつもなく嫌な予感がした。
「センパイ、今日家に泊まりに来ませんか?」
藤宮は当たり障りのない導入の話もせずに、いきなり本題を口にした。
ロベカルの左足ばりの威力をほこる彼女の言葉に、寺田は箸を落とし、翔は凍りついた。
「今日は金曜で、明日は休みです。だから今日家に泊まりに来てください」
玩具を買ってもらった子供のように嬉しそうに言う藤宮。
話の順序を無視したうえ、まったく物怖じしない彼女のもの言いに、空気が凍ったように固まり、
翔と寺田もまた凍ったように固まっていた。
そのとき、まるでその空気をかき乱すように、何かが乱暴に倒れる音が響いた。
空気を切り裂くようなその音の大きさに、教室の喧騒が嘘のように静まり返り、
同時にようやく翔は我にかえった。
藤宮と寺田が音のした方をみやる。それにならい翔もそこに目をやった。
中野が先程まで座っていた椅子が豪快に倒れている。
机の上に寂しげに広がっている弁当箱はまだ半分ほど残っていたが、肝心の主の姿はすでになく、
中野と共に箸を進めていた女子達は魂が抜かれたような顔でその空席を見たまま固まっていた。
何かとてつもない事が起きたようである。
しかし、それでも藤宮は何事もなかったかのように翔に視線を移し、話を再開する。
「では、今日の帰りに迎えにきますから待っててくださいね」
そう言うと藤宮は踵を返す。 早くも帰ろうとする藤宮に、翔は慌てて話を割り込ませた。
「ちょ、ちょっと待った」

彼女が肩越しに振り返る。その間僅か零コンマ数秒、翔は頭の中でくるくる回る言葉を
必死にまとめていた。このままでは藤宮の話がまかり通ってしまう。
そうなると、寺田を介してクラスでもおかしな噂が煙のように立ち上がってしまうに違いない。
だから翔はその負の流れを止めようとしたのだが、
「あのさ、きょ、今日は部活があるんだけど」
ようやく出てきた言葉は情けないくらい単純な嘘だった。
「センパイ、帰宅部じゃないですか」
藤宮はあっさりと嘘を看破しニコリと笑う。
「そ、そうだった。で、でもさ、実は今日深夜にスカパーでサッカーを見たいんだ。
だからさ、今日は」
「安心して下さい。家の人がサッカー好きでスカパーありますから」
「えっ? ああ、そうか、それはよかった。で、でも、家の人に心配されないか?
ほら、俺も一応男だし」
「大丈夫です。センパイを連れてくるようにと言ったのは、家の人ですから」
まるで底無し沼のように、もがけばもがくほど深みにはまっていく。
「だ、だけど、だけどだよ、着替えとか歯ブラシとかはどうするんだ?ほら、いきなりだと……」
「安心してください。それも準備してあります」
弾切れ。
「では、センパイ。放課後迎えにきますから、帰っちゃ駄目ですよ」
さんざん和やかな空気をかき乱してくれた藤宮はそう言うと、駆け足で教室から出ていった。
結局、また彼女のペースに飲み込まれてしまったのだ。
翔は何とも情けない敗北感を胸に、彼女の残像に魅了されていた。
「愛されてんだなぁ」
藤宮が去ってしばらくして、彼女の前では案山子となっていた寺田がしみじみと呟く。
それから寺田は思い出したように喉を鳴らして笑いだした。翔はムッとする。
「何がおかしいんだよ」
「え?ああ、悪い悪い」
ひとしきり笑った後、寺田は急にかしこまったように姿勢をただし、さて、と息をついた。

「で? どうするんだ?」
「行くしかないかな? やっぱ」
「違う違う、その話じゃなくてあれ」
寺田は顎を指した。その先にはもぬけの空となった中野の席。
相変わらず寺田は中野の話を持ってくる。さっきの藤宮の話はどうでもいいようだった。
「怒ってるぜ、かなり」
「あいつは潔癖お嬢様だから、性的な匂いのする話が耐えられなかっただけだろ」
翔が答えると寺田は心の底から呆れかえったような顔で、
「お前、さっきの俺の話を聞いていなかったのか?」
「いや、聞いてたよ」
「じゃあ、質問を変える。それは本気で言ってんのか?」
「ああ」と答え、翔は疲れた笑みを浮かべつつ「半分な」と言ってやった。

 

そして、翔は藤宮の家にお泊まりすることにあいなった。

4

驚いた事に、藤宮の降りる駅は翔と同じであった。
寺田の話だと、あと二つ先の駅で降りるはずである。どういう事だろう──、
──そんな事を考えながら、翔は自宅とは反対方向にある碁番目のように整然とした住宅街に入った。
駅前の喧騒は背後でからからと騒ぎ、不安と緊張でざらついた足音がアスファルトに響いている。
バブル崩壊と共に急激に寂れた住宅街にはほとんど人影もなく、
アスファルトの上には奏翔と藤宮澄香の二人だけだった。
西の空で、茜色の雲を裂くように飛ぶ烏丸がカァカァとかん高い声で鳴き、
どこかでパトカーが忙しく走り回る音が聞こえた。役所で鐘がなる。
赤とんぼのメロディーに合わせて、五時になった事を伝えているのだ。
もう山の向こうに太陽があるのに、急傾斜の日の光は粘土のように体にへばりつき、
体がジワジワと焙られて汗が滴り落ちる。その汗の流れを追うように足下に目を写すと、
細長い影がそこまで伸びていた。翔より数歩前を歩く、藤宮のものである。
その藤宮はまるで翔の存在を認知してないように、淡々と歩を進めていた。
時折、自分の後をついてきているか確認するように振り返るだけで、
藤宮は無言のまま一人でずんずん先へ先へと歩いていく。
そこには沈黙だけがあり、会話らしい会話は、放課後に交した一言か二言以降途絶えていた。
どこまでも長く続く沈黙。時間をかけてワインのように濃縮されたその空気は、
いつの間にかとても重苦しいものへとなっていた。
「……恋人、ね」
ふと、藤宮の告白を思い出し、自虐的な気分で、翔は呟いた。
恋人同士を包む空気は、こんなに重苦しく居心地が悪いのだろうか、
と自問する。
「……やっぱり、違うよな」
そう、こんなではないはずなのだ。街で見掛けるカップルはどれも幸せそうで、
少なくとも今の鬱屈した空気とはかけ離れているように思えた。
そのような空気を作り出しても平気な藤宮は、
やはり翔を快楽を享受するための男と見ているのだろう。
そんな事を思う。

沈黙はその実体をはっきりと現さず、そして勝手に空気の密度を上げていくから嫌いだ。
だから何とかして、この空気を、沈黙を打破したいとは思う。
しかし話を切り出そうにも、翔は藤宮について何も知らないゆえに、
何を話せばいいのか分からなかった。
藤宮は自分の事を話さないし、すぐに別れるつもりだった翔も彼女について
積極的に知ろうと思わなかったのだ。そのため彼女について知っている事と言えば、寺田の伝聞だけ。
しかも、それはとびきり悪い噂だ。
改めて話題が何も無いことに愕然として、翔は深い溜め息をついた。お手上げた。
ふと藤宮を見ると、翔と同じ空気に包まれているはずの彼女は、
相変わらず規則正しく足を動かしていた。その逆光を背負う後ろ姿からは、
彼女の沈黙が作り出した蔭鬱な空気を特に気にしている様子は感じられず、
どうやらこの空気を打破出来るのは翔だけのようだった。
「あのさ、藤宮……」
思いきって、翔は口を開いた。しかも出来るだけ、明るく。
話題は思い付かないが、下らない話で間を持たせようと思った。
すると、終始淀みなく歩いていた藤宮の足が、ピタリと止まった。
そして、そのまま電池が切れたように動かなくなる。
重かった空気が瞬間的に固まり、それの孕んでいたものが変化したような気がして、
ヒヤリと肝を冷やした。
「ふじ、みや……?」
ピクリとも動かない藤宮に、さすがに心配になって翔が声をかけた、そのとき、
「藤宮ではありませんっ!!!」
いきなりだった。
いきなり藤宮がそう叫んだ。
藤宮はくるりと体を反転させる。
ゾッと、寒気が背中を駆け抜けた。
藤宮は般若のようにつり上がった目で、翔を睨んでいた。
「私は藤宮ではなく、水樹です」
低い声だった。肩を震わせた藤宮が怒りに震える声でそう言ったのだ。
その声にも瞳にもヒステリックな色がにじんでいるのを、翔ははっきりと感じとっていた。
「二度と、二度とその名前で呼ばないで下さい。
次にその名前で呼んだら、いくらセンパイでも許しません!!」

藤宮のあまりの形相、迫力に恐怖さえ感じ、翔は頷くしかなかった。
そんな翔に、藤宮はひときわ鋭い視線を突き刺し、それから再び体を反転させて、
無言のまま歩き出した。
その足音はざらざらしていて、彼女が不機嫌である事をありありと告げている。
意味が分からず、翔は一人取り残されていた。
「……何なんだよ」
何故自分が怒鳴られなければならないのか。そんな不条理に対する怒りがふつふつと沸き上がる。
いつの間にか空気は溶け出し、再び辺りを包んでいた。
その余計に重くなった空気はもはや拷問でしかなかった。
永遠に続くかと思われた拷問は、藤宮がふいに立ち止まった事で終わりを告げた。
そこには小さな二階建の住宅があり、藤宮はその垣根を越えていく。
普通の家だった。
すぐに記憶から消されてしまいそうな、没個性的な白い鉄筋の家。
同じような家が、通りに幾軒も連なり、それが余計にひとつひとつの家の個性を消している。
ただ、もし再びここに来る事になっても迷う事はないように思えた。
この家だけが、強い生活の匂いを感じさせていて、それが油のように頭にこびりつくのだ。
辺りは、もう暗い。それなのに明かりのついている家は少なく、
その少ない中のひとつが、藤宮の家だった。それが翔には少しだけうらやましかった。
「センパイ、こっちです」
久しぶりに、藤宮の声を聞いた気がした。彼女は、玄関の前でこちらを手招きしている。
機嫌はすっかり直ったようで、ニコニコしていた。
しかし、その掌の返しように、先程のヒステリックな形相が、翔の頭をかすめる。
ジワリと、あの理不尽さへの反感が頭の奥でうずくのを感じた。
その感情を無理矢理押し込め、藤宮の所へ行こうとした時、
ふと垣根の入口にある郵便受けが目に入った。
そして、その上には黒い石の表札があり、白く『水樹』と繰り抜かれている事に気付いた。

やはり、彼女の苗字は水樹なのだろうか。翔は考える。
寺田の話とは食い違いが発生するが、苗字など親の都合で変わる事を知っていたので
大きな驚きはなかった。むしろ、寺田の街ではなく翔の街で藤宮が電車から降りたのも、
親の都合でこの街に引っ越してきたと考えれば辻褄が合うような気がした。
しかし、だとしても消化出来ない疑問がひとつ残る。先程のヒスだ。
旧姓で呼ばれる事が、あそこまで取り乱すほど嫌なのだろうか。
例えば親が離婚するなどして、苗字が変わっていたとしても、
翔なら旧姓で呼ばれたくらいでは大した怒りを感じないように思う。
それほど、さっきの藤宮は異常だったのだ。
藤宮の怒りの原因、その真相は結局想像の域を脱せないが、
いずれにせよ、藤宮に対する疑問は雪のように積もるばかりだった。
古い疑問が溶けても、そこにはまた新しい疑問が降り積もるのである。
翔が玄関前まで行くと、藤宮は力いっぱい扉を開いて、
「ただいまっ」
と言った。それは自分の帰宅を知らせると同時に、人を呼んでいるようだった。
その声に遅れる事五秒ほど、家の奥底から「はぁーーい」と元気な声が聞こえた。
家の奥で微かな物音がした後、スリッパがペタペタと廊下を踏む音が響き、
そしてその音が少しずつ大きくなっていく。
やがて、藤宮家玄関の上がり段に現れたのは、一人の女性であった。
よほど慌てていたのか、もう肩で息をしている。
「おかえりなさい」
息を弾ませながらそう笑いかけてくる女性は、美人だった。とてつもなく美人だった。
「この人が、奏翔さん」
藤宮が、翔を指して言う。すると美人は上品な顔立ちを下世話に崩してニヤニヤと笑い、
「へぇ〜〜、なるほど〜ねぇ〜〜。ふぅ〜〜〜ん、あ〜なたがねぇ〜〜」
その美人は目玉をくるくる回して、舐め回すような視線を翔に向けてくる。
その好奇心剥き出しの瞳で見つめられて恥ずかしくなり、翔は彼女から目を外す。
玄関の向こうでクスクスと彼女の笑い声が聞こえた。

「で、この人が由美さん」
楽しそうな美人を指して、藤宮が言う。すると、先程の下世話な表情から一変して、
彼女はニッコリと子供のように笑い、
「はじめまして、奏くん」
無邪気さを隠そうとしないその笑顔は、爽やかな魅力に溢れていた。
ややあって、翔は「どうも、はじめまして」と頭を下げ、それから改めて由美の容姿を見る。
あまりジロジロ見ると怪しいので、あくまでチラチラと。
やはり美人だ、と思う。
化粧っけがないが、それでもその肌は少女のようなみずみずしさを保っている。
目元や輪郭といったパーツは藤宮に似ていたが、そこから受ける印象は大分違った。
藤宮のどこか人の不快な部分を刺激するような雰囲気に対し、
由美は見ているだけで人のテンションを上げるような明るい雰囲気なのだ。
だから、藤宮とは違い由美には素直に好感が持てた。
ただ、同時に気になる事がひとつ。由美の年齢はどう見積もっても二十代後半のように見えるのが、
頭の先に引っ掛かるのだ。藤宮とは肉親なのは間違いないだろうが、
姉にしては年が離れすぎている気がするし、母親にしては若すぎる。
それが意図する意味を翔は考えてみる。
しかし、そんな翔の思考を遮るように由美は言うのだった。
「立ち話も何だから、中に入って」

5

三人で食事を済ませると、リビングでスカパーの海外サッカーを見る事となった。
午後九時五十五分に放送開始の、某ダービーマッチだ。
いつもはガラガラのスタジアムも今日は満員に膨れ上がり、発煙筒の怪しい光と野太い応援歌が、
スタジアムのボルテージをググッと上げている。
そのスタジアムの興奮が、遠く日本の水樹家のリビングまで伝わってくるようだった。
熱い試合は、スタジアムの熱気が作りだす。今日のスタジアムはそんな雰囲気が匂いたっていて、
自然、胸が高鳴る。
しかし、蓋を開けてみるとその雰囲気はあっと言う間に霧散した。
時期が悪かったのかもしれない。シーズンが始まったばかりで、
コンディションが上がってなかったに違いない。それに、負けたくないという気持ちが
空回りしてしまっているようだった。まず、両チームとも無理をしない。
勝つ事よりも負けない事に重点を置いているようだ。
すると、ディフェンスラインで延々とパス回しとなり、結果、出てくる選手は兄貴と、
壁と若禿げばかりであった。ともかく、最悪のパターンに陥ったのだ。
試合開始当初はテンションの高かったスタジアムもすっかり冷えきり、
その空気にあてられたのか実況も解説もうんざりした様子で下らない事を語りあっている。
そのしらけた空気のまま試合は前半を終え、後半に突入する。
あまりのつまらなさゆえか、前半終了と同時に藤宮はリタイアし、一人でさっさと寝てしまった。
見たい、と言った手前、離脱するわけにもいかず、仕方なく翔は試合を見続ける。
由美の様子がおかしいのに気付いたのは、後半の二十分前後で、
たまにケロロのティーシャツで登場する眼鏡の実況が仕事を放棄し、
コアなアニメの話を始めたころであった。
由美は隣のソファに座り、顎の下で両手を合わせている。
その姿は、何かを考えこんでいるように見えた。試合に飽々していた翔は彼女が何を考えているのか、
少し考えてみる事にする。すると、前半は試合展開にブーブー文句を垂れていたのに、
藤宮がいなくなってからはずっとだんまりだった事に思い至った。

「ねぇ、翔くん」
突然、由美が口を開いた。その声は低くそしてずっしりと重く、頭の中に染みるように響いた。
「はい」
「澄香の事なんだけど……」
やっぱりか、と思う。
由美が押し黙ったのは、澄香がいなくなってからだったので、確信に近い予感はあった。
「これから話す事は、すごく重要な事なの。それによって、翔くんと澄香の関係に
何らかの変化があるかもしれない。良い変化か、悪い変化かは私にも分からないわ。
でも、あなたは聞かなければならない」
はっきりと、由美は言い切った。それから彼女は二つの瞳で、翔の瞳を真っ直ぐ見据えてくる。
翔の覚悟を測っているようだったが、やがて由美は翔から視線を外し、
それからまたややあって言葉を絞りだした。
「実はね、私は澄香の母親じゃないの。もちろん、姉妹でもない。澄香は私の姪なんだ。
澄香には、もう両親がいないから」
「……そうですか」
翔は淡々と言う。
「驚かないの?」
「ええ、だいたい察しはついてましたから」
「そっか……。いつ、気付いたの?」
「実は、今日彼女に泊まりにくるよう言われた時には、そんな気がしてました」
「澄香が、直接言ったのかしら?」
「いいえ、違います。ただ、彼女が俺を誘う時に『うちの人が』って言ったんです。
そこで、薄々気が付きました。普通そういう時、父親とか母親とか肉親の略称を出しますから」
なるほど、と由美は呟いた。それから感心したように、鋭いのね、と翔を誉めた。
鋭くなんてない、そんな言葉を翔は飲み込む。よくある話なのだ。そう、よくある話……。
「そこまで分かっているなら話は早いわ」
由美は、深い溜め息と共に言う。
翔は目を剥いた。
てっきり話したいのはその事だとばかり思っていて、話の続きを聞く準備がなかったのだ。
「さっき、両親はもういないって言ったけど、本当はちょっと違うの。
澄香のお父さんはまだ生きてる。ただ親権が私にあるだけ」

「親権って、どう言う事ですか?」
「澄香のお父さんは刑務所にいるのよ」
刑務所? と翔は顔をしかめた。
「そう刑務所」
「何を、やったんですか?」
「虐待よ。澄香を、ね」
虐待。最近よく聞く言葉だなと翔は思った。
しかし、リアリティを感じられず、まるで月の裏の話を聞かされている気分だった。
「ただね、その虐待がちょっと特殊なのよ。
彼がやったのは、肉体だけでなく精神までも追い詰める最低最悪の虐待。
女の子の尊厳を全て否定するような、ね」
「えっ?それって……」
それは、つまり──。
戦慄が翔の体を駆け抜け、急に話が現実身を感じさせるようになった。
しかし、そこから先は考えられなかった、考えたくなかった。
そこから先の思考は、薄皮一枚に守られた真実は、最悪だ。
しかし、由美は冷酷に薄皮を突き破り、真実を白日のもとに晒す。

「──つまり、性的な虐待よ」

肺が急にせばまった気がした。酸素は十分肺に行き渡っているはずなのに、息苦しい。
翔は慌ててワイシャツの裾を引っ張り、元から塞がっていない気道を確保する。
もちろんそんな事をしても、息苦しさから逃れられそうもなかった。
「いい人だったのよ。とてもそんな事をする人には見えなかった。
だけどね、姉さんが、自分の妻が亡くなって、彼は狂ってしまったのよ」
──もういい、止めてくれ。
これ以上話を聞いたらおかしくなりそうで、翔は慌てて両手で耳を塞いだ。
しかし由美の言葉は手の隙間をすり抜けて鼓膜に直接響く。
「澄香が中学に入学する前、小学校の高学年にはもう虐待が始まってたみたいなの。
だけど、全然気付かなかった。だって私の前での彼は理想の父親で、
澄香も幸せそうに笑っていたから。
馬鹿な話よね、もっとしっかり澄香を見てれば淀んだ彼女の瞳に気付いたはずなのに」
息苦しさは、吐気へと昇華していった。
突発的に、胃の中の物が逆流し翔は右手で口を押さえて、それを飲み込んだ。
喉が焼けたように熱くなった。

「気付いたのは、澄香が中学二年になった頃。何で気付いたんだだと思う?」
由美は真っ直ぐ翔を見てくるが、翔は何も答えなかった。答えられなかった。
答えたら、胃の中身が再び逆流してしまいしそうな気がしたのだ。
たっぷり十秒以上の沈黙。その沈黙を破り、やがて由美は答えを口にする。
「お腹がね……膨らみ始めたのよ」
由美の声はどこまでも悲痛に翔の胸に響いた。
小学校、お腹が膨らみだした、そんな断片的な言葉が翔の胸に染みるような痛みを残す。
ありえない、という実体のない言葉が翔の頭の中でくるくる回った。
ふと、口の中に酸味の強い唾液が溢れはじめている事に気付いた。
「さすがに私も気付いてね。すぐに彼は逮捕されて、澄香は保護された。
そして慌てて子供を降ろしたの。だけど、その時情報を遮断仕切れなくて、
学校でひどいあだ名で呼ばれる事になった、『誰とでも寝る女』って。
もうその頃の澄香はね、全然笑わなかったの。死んだ魚のような目をしていて」
胸がざらざらするような吐気の中で、翔は寺田の言葉を思い出していた。

『誰とでも寝る女って意味だよ』

その真の意味が、今分かった。寺田は誤解していた。
『誰とでも寝る女』とは不特定多数の男と寝るという意味ではなく、特定の、
それも人間の倫理外の男と寝ていた、という意味だったのだ。
その噂が、いつの間にかねじまがった意味で受けとめられるようになったのだろう。
「だから私、翔くんに感謝している。あなたのおかげで澄香はずいぶんと明るくなったわ」
嘘だ、と思う。翔は流されるだけで、彼女のために何もやっていない。何も知らない。
そして、何も知るつもりもなかったのだ。
「あの子ね、いつも翔くんの話ばかりしてたわ。翔くんの周りにはいつもたくさんの人がいるって、
その中心で一番楽しそうに笑っているって。貴方と一緒にいると胸がドキドキするって。
付き合いはじめた時なんて、一日中のろけていたのよ」
──ああ、そうか。翔は思う。

由美は誤解しているのだ。翔には藤宮と付き合っているつもりはないし、彼女を好きなわけでもない。
ただ何となく藤宮に流されていただけで、そんな重い話を背負う覚悟なんて、翔にはないのだ。
だから、藤宮の過去を知ったところで翔は何も変わらない。
そんないくぶんか身勝手な翔に、由美は真っ直ぐな瞳を向けてくる。
「こんな事言うのはずるいかもしれない。だけど、翔くんお願い。あの子と一緒にいてあげて」
その黒く澄んだ瞳を見て、ようやく翔は悟った。結局、由美はこの部分を言いたかったのだ、と。
彼女は意図的に空気を重くして、良心にナイフをつきつけて、翔に頷かさせたかったのだ。
やられたな、と思う。
こんな話をされては、頷くしかないではないか。
今さら藤宮が好きではないなんて、別れたいなんて、言えない。
本当にずるいですよ、と翔は心の中で呟く。
テレビの中では青と黒のチームが、セットプレーで点をとっていた。白けたスタジアムに一瞬の熱狂。
その熱をあおるように、ゴールを決めた兄貴が、ユニフォームを振り回して喜びを爆発させている。
そして兄貴は二枚目のイエローで退場。翔は猛烈な既視感に襲われた。

6

時刻は深夜十二時を回っている。来客用の布団に横になっていたが、頭はすっきりとしていた。
二階にある和室である。澄香の部屋の隣でもある。
窓の外には夜があって、濃密な雨の匂いが漂っていた。
部屋の電気は消していたが、街灯のためか外は思いの外明るく、天井の網目の細かい所まで見えた。
まるで迷路のような幾科学的なその模様を目で追いつつ、翔はぼんやりと藤宮について考えていた。
由美は言っていた。藤宮と一緒にいてくれと。
あの時は頷いくしかなかったが、本当にそんな事が出来るだろうか。今さら自問する。
考える。
そもそも、自分は藤宮が好きなのか。
考える。
違う。藤宮を好きなわけではない。ただ、流されて一緒にいるだけだ。
考える。
考える。
考える。
やがて思考がぼやけはじめ、意識がまどろみの中に足を踏み入れたそのとき、
外の廊下に灯りがついた。引き戸の隙間から光が真っ直ぐ漏れ入っている。
その光に気付いた瞬間、眠気の沼が急に消え去り、不思議と頭がすっきりした。
廊下を軋ませながら、誰かが歩いている気配がした。もちろん顔は見えない。
しかしそれが誰か、翔には分かっていた。
やがて、気配は引き戸の前で静止する。
「センパイ、起きてますか?」
戸の向こうで、藤宮の声がした。
「ああ、起きてるよ」
「部屋、入っていいですか?」
「……いいよ」
失礼します、と言うと、藤宮は引き戸を開けた。薄暗い部屋の中に、廊下の光が染み込む。
「わぁ、暗い」
藤宮は呟いた。
そうでもない、と翔は思う。眩しい明かりの中にいると気付かないが、
暗い中にいると小さな明かりを目でを拾う事が出来る。
そして、小さな明かりの中で何かを見る事が出来る。それは決して悪い光景ではない。
しかし、藤宮はその暗闇が気にいらないようだった。
「電気、つけてもいいですか?」
「ああ」
プラスチックがかち合う音と共に、天井の蛍光灯にジジッと電気が通り、
白い明かりが部屋を満たした。こうなるともう、外の明かりは分からない。

「ふふふっ、セ〜ンパイ」
突然、藤宮はミルクをねだる仔猫のような甘い声を出した。そして、まるで翔を誘うように目を細め、
人さし指を舐めつつ言う。
「エッチ、しましょうか」
クスリ、と。
藤宮は妖艶で扇情的な笑みを浮かべている。
翔は布団から起き上がり、考えを巡らせながら藤宮の笑顔を見つめた。
やっぱり嫌な顔だ、と思う。藤宮の笑みが、表情が、そして何より彼女の纏う空気が、
翔の心の琴線をざわつかせるのだ。しかし、その藤宮の正体を言い表す言葉を、
翔は持ちあわせていなかった。ただ、確実にその核心へと近付いている実感はあった。
喉元まで来ているのだ。ただ、あと一歩足りない。
それが、まるで喉に魚の骨が刺さっているような煩わしさを生み、気持ちが落ち着かない。
考える。
──由美の言葉。藤宮の過去。
由美は言っていた。藤宮はよく笑うようになった、と。
笑うようになった? ふと、思う。こんな顔でか?自問する。
考える。
彼女は何故笑うんだ? 俺を誘うためか?
そもそも、彼女は何故俺と体を重ねたがるんだ?
その時だった。

──ああ、そうか。

ようやく、核心へと手が届いた。今まで抱いた疑問の全てが腑に落ちた気がして、
急に世界が開けたような気さえした。
しかし同時に、大きくなった心の隅で、翔が伝えなくてはならない事が息づいていた。
それは、あっと言う間に翔の心を支配し、最優先項目となる。
どうしても今、気付いた事を彼女に伝えなければならないのだ、自分のために、そして藤宮のために。
それは、もはや義務だった。
「センパイ、したくないんですかぁ?」
長い沈黙を破って、藤宮が心配そうに口を開いた。
全てが分かった事による奇妙な達成感と、そしてこれからの自分を励ますために、
翔はニッコリ笑ってやった。その笑みを肯定と取ったのか、藤宮は嬉しそうに近付いてくる。
──さぁ言え。
翔は大きく息を吸った。

「あのさ、俺、お前に言わなきゃなんない事があるんだ」
肺に溜った空気を吐き出すように、ゆっくりと間を取りながら言った。
「何ですか?」
「俺さ──」翔は、藤宮に自画辞賛の完璧な笑みを向けて、
「──お前の事、大嫌いなんだ」
ピタリと、藤宮の足が止まる。その表情は凄惨に氷りついていた。しかし、翔は言葉を止めない。
「……それでも、するのか?」
沈黙。
後、藤宮は苦虫を噛み潰したような顔で、頷いた。
「何でだ?」
「……センパイが、好きだからです」
「だから、するってわけか。支離滅裂な話だと思わないのか?」
すると彼女は翔の瞳を真っ直ぐ見つめて、逆に問い返してきた。
「……何がです?」
藤宮の瞳は深く重い、錆びた鉄のような濁りをみせ、それは翔の本意を探っているようにも見えた。
だったら言ってやる、自分の本意を。
「だって俺さ、好きでもない人と、無理矢理体を重ねさせられようとしてんだぜ?」
思い至る事があるはずの藤宮は、口をへの字に曲げて押し黙った。
唇をきつく結ぶその姿は、翔の話を胸の奥で噛み締めているように見えた。
「ひどい話だよなぁ。嫌だよなぁ。無理矢理肉体関係結ばされんの。
だけどさ、お前はそんな俺の気持ちがよく分かるだろ?」
何かを耐えるようにふるふると肩を震わせていた藤宮が、がっくりとうなだれる。
ようやく自分の間違いに感付いたのかもしれない。いや、元々心の奥底で感付いてはいたのだろう。
それが表面に浮かび上がらなかっただけで、今ようやく浮上した。しかし、それだけでは駄目なのだ。
「由美さんに全部聞いたよ。全部、な。だからこそ、はっきりと言わせてもらう。
お前がやっている事はな、お前の大嫌いな親父のやっていた事と全く同じなんだよ」
強い口調でそう言いきった。話は終結を迎えつつある。
しかし、終わりが見えて僅かに翔の気が緩んだ。
あと、一息だ。あと一息で全部終わる。
そんな余裕が心に隙間をもたらしたそのとき、藤宮がうつ向いたまま重い口を開いた。

「……もん」
消えるように呟いた藤宮の声は、雨音に溶けて消えていった。
不意に口を開いた藤宮に、翔が今まで積み上げたペースが揺らぎ一瞬の空白を作り出す。
そして、その空白を打ち破ったのは藤宮であった。
「だって、どうすればいいのか分からないんだもんっ!!」
藤宮が、髪を振り乱して叫んだ。
その拍子に、彼女の瞳から涙が宙に飛び散り硝子の欠片のようにピカピカ光った。
「センパイが、どうしたら私の事を好きになってくれるか分からないんだもんっ!!
どうやって自分の気持ちを証明したらいいのか分からないんだもんっ!!」
まるでダダをこねる子供のように狂乱する藤宮。呆気に取られる翔。
しかしその狂気も栓の抜けた風船のように萎んでいくのが分かった。
やがて全ての狂気を吐き出した藤宮は、糸の切れたマリオネットのように膝から崩れ落ち、
両手で顔を隠してその場でむせび泣きはじめた。
その涙声に交じり、
「嫌いにならないで」と言う声が聞こえて胸がチクりと痛み、翔は我に返る。そして気付いた。
いつの間にか、藤宮の事が嫌いではなくなっていた。
もちろん好きなわけではないが、嗚咽をもらす彼女からは、
あの嫌な雰囲気は微塵も感じられなかったのだ。
まるで眼から鱗が落ちたように、藤宮が普通の少女に見えていた。
──以前、藤宮に感じた嫌な雰囲気の正体。
それは、彼女の行動と感情のずれだった。
そのずれは藤宮が嫌悪している父親の影響を、一番近くにいたゆえに受けてしまった皮肉であるように
翔は思えた。人間の人格が形成されていく過程を、全て父親に黒く塗り潰された結果なのだろう。
今までの藤宮は自分がされて嫌な事、嫌だった事──無理矢理体を重ねたり、
強引に人を連れだしたり──を実行にうつしていたくせに、彼女の奥底は自らの行動を嫌悪していた。
だから、藤宮の行動の中でにじみ出る感情にギャップが生じ、
それがまるで自分で自分を騙しているように見え、翔は気に入らなかったのだ。

しかし、そのギャップはまるで空気のように実態のないものだった。
だから、誰もがそのギャップに気付くわけではない。
現に由美は気付かなく、矯正する事ができなかった。
たまたま翔はそれに気付き、藤宮に悪印象を抱いたのだ。
しかし、その空気に気付いたからこそ、翔は空気が変わった事にも気付けた。
もう藤宮は大丈夫だと思う。無意識の嫌悪を意識にまで引き上げた。
これからは感情と行動にギャップが生まれる事はない。
鎖は解き放たれたのだ。あとは藤宮次第である。
翔の最後の仕事は藤宮の背中を押してやる事。そこから先は考えていない。

──これから、考えていけばいいのだから。

「俺さ、ひとつだけ嘘ついたわ」
翔は照れ隠しに頭をかいた。
「俺、お前の事嫌いじゃないよ」
えっ、と驚いて顔をあげた藤宮の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
それでも、翔は可愛いと思えた。
「もちろん、好きってわけじゃないけど……。だからもう一度だけ、今度はゆっくり始めよう」
それは同情と、由美の言葉が生み出した結論である。
甘い、とは思う。しかし不思議と後悔はない。
やり直そう。ひとまず、手をつなぐところから。

──これから、澄香と一緒に。

Epilogue
間の抜けたチャイムが鳴り響き、四時間目の授業がようやく終わった。
その瞬間に、クラスの空気は糸が切れたように弛緩する。
折り返し地点の長い休息に、みな一息つくのだ。
もちろん翔も例外ではなく、
「ようやく、飯だぁ〜〜」
と、午前の授業を終えた達成感と、それによる疲労とがいりまじった吐息をはいた。
だれた空気のまま、クラスが日本史の先生を送り出すと、人がのそのそ動きはじめる。
学食に行く者、購買にパンを買いに行く者、そして気の置けない友人達と教室で弁当をつつく者。
翔の前の席に座る寺田は弁当派であった。
その寺田はいつものように椅子を反転させて、翔の机に弁当を置き、
「一緒に食おうぜ」
と、言った。しかし、今日の翔は顔をしかめる。
「今日からそれは駄目なんだ」
翔が言うと、寺田は眉をひそめた。意味が分からない、といった顔だった。
「セーンパイ、来ましたよ」
その時、元気一杯の澄んだ声が教室に響き渡り、翔はその声のした方に顔を向ける。
そこには澄香がいた。
再び寺田に視線を写し、ニィと笑う。
「悪いな、寺田。そういうわけだ」
翔は寺田の肩を軽く叩き、立ち上がった。
すると、寺田が驚いたようにそれでいて不思議そうに口を開く。
「なぁ、翔。藤宮ってあんなに可愛かったっけ?」
寺田は眩しそうに目を細め、澄香を見ていた。意外な言葉に、翔は少し戸惑う。
しかし、すぐにある考えに思い至った。
寺田は気付いていたのだ。以前、澄香を包んでいた空気を、そしてその不快さを。
だからこそ、寺田は澄香の変化に気付いたのだろう。
ニヤリと胸の奥の喜びを隠すように笑い、翔は言ってやった。
「そうだよ。知らなかったのか?」
第2章へ

 

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