「―――というわけだから、寄り道せずに早く帰ること。それじゃあ日直」
先生の声に日直が号令を出す。緩々と帰る準備をする生徒達の中、僕もご多分に漏れず、
鞄を手に教室を出た。
騒々しい放課後の廊下を、ぼんやりと今晩の姉さんの料理でも考えていると背後から呼び止められた。
「皆川くん、ちょっと良い?」
振り返ると、うちのクラスの委員長である如月さんがこちらに近づいてくる途中だった。
世間一般で言う友人という間柄にしては少々近いのではないか、という距離で彼女は止まると、
いつものようにこちらを見上げてくる。
クールビューティとは彼女のことを言うのだろう。
あまり感情の振幅を感じさせない瞳は相変わらず慣れそうにない。
そんな僕に構うことなく彼女は続ける。
「少し手伝って欲しいことがあるの。気づいたら副委員長も帰っちゃってたし、
どちらかといえば男手が必要だから。それとも忙しい?」
淀みなく出てくる言葉に僕は首を横に振る。僕の返答に彼女はそう、とだけ言うと
クルリと踵を返してスタスタと歩いていってしまう。どうやらついて来いということらしい。
僕も承諾した以上、ついていくほかに選択肢はない。いつ見ても背筋をピンと伸ばしている彼女と
猫背気味の僕とでは、こうして歩いている世界もどこかずれているのだろうなんて思ってしまう。
その背中に、思えば如月さんとは長い付き合いなんだなと、準備室までの道のりでハタと思う。
いや、付き合いというほど親密であったわけではないが小学校に中学校、
おまけに幼稚園とクラスは違えど同じだったと、初めて同じクラスになった最近になって
彼女の方から教えられた。もちろん、ずっと地元の学校を選んできたわけだから
たいした偶然ではないかもしれないけど、年を経るにつれて共有した時間を持った友人が
少なくなっていく中、それでも彼女の存在は僕の中で嬉しいものだった。
そのことを正直に伝えた時の彼女の笑顔は、今の所、僕の確認した中の彼女の一番の笑顔だと思う。
準備室についた如月さんと僕は、一人でも頑張れば持てそうな荷物を二つに分けて運んだ。
大丈夫?とあんまり心配してなさそうな彼女に、僕はうん、とだけ答えた。
「今日はありがとうね。今度、なにかお礼するわ」
「いや、そこまでしなくていいよ」
校舎から出て校門へと続く道を如月さんと僕は歩いていた。
校庭からは部活動の生徒達が元気に活動している。
僕は言わずもがなだけど、如月さんも帰宅部だったことには驚いた。
「無趣味なのよ。休日もあまり出かけたりしないし」
確かに活発な印象ではないけれど、ストイックに何かに打ち込む彼女の姿を思い浮かべていただけに、
無趣味という言葉まで出てくると彼女のイメージを少しばかり変えなければいけないのかしれない。
だからといって印象が悪くなった、というわけでは全くないことは付け足しておく。
「でも、一度熱中すると周りが見えなくなることもあるわね」
あんまり喋ったことがないせいか、簡単に引き出しを開けてくれる彼女に少し戸惑いを感じながらも、
どんなことに?と続けようとする僕の言葉はあっけなく次の瞬間には締め出されることになった。
「あ、そーちゃん来た来た」
校門を出てすぐ、姉さんが校門に寄りかかって待っていた。仕事帰りから直接来たのだろう。
朝に見かけたのと同じスーツ姿に僕は慌てる。
「姉さん。今日、何か約束してたっけ?」
ブラコンと言われている姉さんでも流石に僕の学校まで来る事は滅多にない。
もしや約束の一つでもすっぽかしてしまったのではないだろうかと思ったのだが、
姉さんはううん、と首を横に振った。
「仕事が早く終わったから。何となく来ただけだよ、そーちゃん」
ニコニコと浮かべる笑みにそうなんだ、と僕はホッとする。
一度、放課後に買い物の約束をしていたのだがどうも間が悪く大遅刻してしまった時、
姉さんは雨の中、傘もささずに待っていたことがある。
「だってそーちゃんがここに来るって言ったから、待ってないといけないから。だよね? そーちゃん」
寒さで震え、それでも微笑む姉さんを見て以来、
約束事は必ず守ろうと人間として当然のことを学んだわけで。
「で、そーちゃん。その隣の子、だれ?」
いつのまにか飛んでしまった思考が急に戻される。またやってしまったと密かに戒めていると、
如月さんが一歩前に出る。
「申し遅れました。私、皆川くんと一緒のクラスの如月千鶴と申します。皆川くんのお姉さんですね?
いつも皆川くんにはお世話になっております」
「いえいえ。いつも弟がお世話になっています」
深々とお辞儀をする二人。僕はそのまま見ていることにした。
「それじゃあ皆川くん。私、先に帰るわね」
「ああ、うん。さよなら」
顔を上げた如月さんはそう言うと、
最後にまたお辞儀をしてスタスタといつものように行ってしまった。
どこかであっけなさを感じたけれど、普段の彼女を考えれば別段、気にすることでもないだろう。
「それじゃ帰ろうね。そーちゃん」
出された右手に戸惑いながらも、僕は姉さんの手をしっかりと握り返す。
「うん」
最後に、一度だけ後ろを振り返った姉さんは僕の手を引いて一歩を踏み出した。
「ねえ、そーちゃん。お節介かもしれないけど、良い?」
それはスーパーでの買い物も済んで商店街から家に帰る道の途中だった。
こう言う時の姉さんは大抵、僕に対して不満のある時だ。
「あのねそーちゃん。今日、クラスの女の子と出てきたじゃない?
……でもね、ああいうのってお姉ちゃん、あんまり関心しないな。
だって、そーちゃんとあの子、別に恋人でもなければそんなに親しい関係でもないでしょ?
それなのにああいう風に一緒に帰ると、その、あの子が迷惑しちゃうんじゃない?
周りから付き合ってるかもって噂されるかもしれないし、
やっぱりそういうのってどうしてもあの子ぐらいの年齢の女の子には重荷になっちゃうし。
あの子と仲良くしちゃダメってことじゃないよ? でも、あの子のことを考えれば、
もうちょっと距離を取ってあげた方が良いんじゃないかな。ね? そーちゃん?」
さきほどよりも左手は強く握られている。こちらを見上げてくる姉さんの瞳はどこまでも真っ直ぐだ。
この瞳にいつも支えられてきた。守られてきた。だから僕の答えも決まっている。
「……うん。分かったよ、姉さん」
「そっか。そーちゃんは偉いね。帰ったらそーちゃんの好きなもの作ってあげる」
姉さんは手を放すと、袋の中の卵も気にせずに大手を振って先に行ってしまう。
僕はその背中を夕日に目を細めながらずっと眺めていた。 |