◎◎◎
「ただいま、雪乃(ゆきの)」
扉を開けて、最初の一言。
敷居を跨ぐ暇もない。
何故なら、彼女は目の前にいたから。
「おかえりなさい、にいさん」
にっこりと微笑んで、妹の雪乃は僕を出迎える。
長い睫毛がチャームポイントの妹は、肩口で切りそろえられた髪を揺らしながら、
「にいさん、おはなし、きかせて?」
いいよ、と答えると、雪乃は嬉しそうに部屋へと戻った。
妹の姿が見えなくなってから、僕は我慢していた冷や汗を一気に流す。
今日も、彼女は待っていた。
そのことが、僕を憂鬱にさせる。
現在の時刻は午後1時。
大学生の僕が帰るのには珍しくない時間だが、高校生の妹が出迎えるには、少々早い時間だった。
今日は午前中に2コマ授業が入っていたが、最初のひとつが突如休講になっていた。
唐突に空いた一時間半の空白。
することも無しに構内をぶらついていたら、見知った顔が声をかけてきた。
サークルの先輩だった。
今時珍しい黒髪のロングで、しかし活動的な彼女は、何故か僕に気を掛けてくる。
そんな彼女が、中途半端な時間に構内を歩いていた僕を、誘ってきた。
よく考えてみれば、初めてのこと。
しかも相手はかなりの美人。
これは誘いを受けなければ男じゃない。
だから、僕は。
「――それで、にいさんはどうしたの?」
ぴちゃぴちゃと。
猫がミルクを舐めるような音が、部屋の中で静かに染みる。
僕は時折体を震わせながら、妹の質問に正直に答えた。
「断ったよ」
「んふ。よくできました」
音が若干大きくなる。耐えきれず呻き声を上げると、妹の嬉しそうな笑い声。
「にいさんは、わたしのいうことをきいてればいいの」
「ああ、ちゃんと約束を守ってるよ。だから」
「それだけでいいの。あとはなにもいらない」
雪乃はそれきり何も言わなかった。
僕はいつものように諦める。
本当は、もっと粘らなければならないのかもしれない。
もっと強情になった方がいいのかもしれない。
でも、妹の手首の傷が増えるのが怖くて。
どうしても、消極的に受け入れてしまう。
だから、いつものように無言になる。
響くのは音。ぺちゃぺちゃと舌を当てる音や、
ずずずと吸い上げる音だけが、僕の部屋に響いていた。
○○○
――断られちゃったなあ。
角津天音(すみづ あまね)は構内のベンチで空を見上げて、重い溜息。
結構勇気を出したのだが、結果は無惨にも不戦敗。
お気に入りの後輩と、もう一歩仲良くなりたくて、二人きりの時間を作ろうとしたのだが。
「稲葉(いなば)くんって、飲み会にも顔を出さないしなあ」
同じサークルの後輩、稲葉竜司(りゅうじ)は、付き合いの悪いことで有名である。
色々な噂は聞いているが、どれも信憑性は薄く、親しい者は首を傾げるばかりだった。
しかし、ここで挫けては角津天音の名が廃る。
一度断られたからといってそれがどうした。
一回誘いを持ちかけてしまえば、後は何度仕掛けても同じ。
はっきりと断られたわけではないのだから、諦めるには早すぎるだろう。
幸いにも、バッグの中には彼のノート。
先日、彼が忘れていたものを、紆余曲折あって自分が所持していたりする。
これを届けに行ってしまえ。ついでに週末の約束でも取り付けてしまえ。
彼の住所は既に確認済み。手土産でも用意して、突貫あるのみ。
◎◎◎
――ぴーんぽーん、と。
チャイムの音に顔を上げた。
いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。時計を見ると午後4時過ぎ。
隣では幸せそうに寝ている雪乃。その手は僕の手首をしっかりと掴んでいた。
申し訳ない気分で優しく外しながら、手早く服を着て応対に向かう。
滅多に来客のない家なので、おそらくは宅配便かなにかだろう。
そう思いながら扉を開けると、
「こ、こんにちはー。稲葉君、6時間ぶりー」
「……先輩?」
きっと僕は、間抜けな顔を晒していたのだろう。
先輩はそんな僕を笑いながら、ノートを届けに来た旨を伝えてきた。
それで用件は終わりかな、と思ったが、何故か先輩はモジモジしている。
はてなと首を傾げていると、やがて先輩は意を決したように。
「――こ、今度の週末、暇かな?
よ、よければ、わ、私と一緒にどこか遊びに行かない?」
誘い慣れてないことがまるわかりの、たどたどしい口調でそう言ってきた。
突然の誘いに僕の頭は真っ白に。
別段仲良くしていなかったはずの、しかも美人の先輩に。
男なら跳び上がって喜ぶようなシチュエーションだろう。
でも、今はまずい。
何故なら――
「なに、それ」
振り返ると。
いつの間にか、妹がいた。
「あ、あら? 妹さん?
は、初めまして。私、稲葉くんと同じ大学の角津っていいま」
「なんで、ここにいるの?
にいさん、ことわったんでしょ?」
雪乃の声は震えていた。
まずい。危険な状態だ。
先輩のことを放置して、僕は直ぐさま、妹のもとへと駆け寄った。
しかし、一歩遅かった。
「にいさん、うそついたんだ」
言うなり、雪乃は。
がぶり、と。
己の手首に、噛み付いた、
○○○
目の前で、とんでもない光景が展開されていた。
稲葉くんの妹さんが、わけわかんないことを言ったと思ったら、
おもむろに自分の手首を食い千切った。
ぼたぼたと垂れる鮮血と、泣きわめく妹さん。
ただノートを届けて、ついでに誘おうとしただけなのに、この展開はいったい何なのだろうか。
妹さんは泣きわめき、ばしばしと稲葉くんを叩いている。
しかし彼はそんなことは気にも留めず、とにかく妹さんを落ち着かせようとしている。
同時に手首の止血をしているあたり、手慣れているなあ、と場違いな感想を抱いてしまう。
妹さんは、まるで絶叫するかの如く、稲葉くんを罵倒していた。
「にいさんのうそつき! やくそくしたじゃない!
だれもちかづけないって! わたしがいちばんだって!
だからにいさんがそとにでるのもがまんしたのに!
なのににいさんはうそついた! あのおんなにちかづいてた!
ひどいひどいひどいひどい! しんでやるしんでやるしんでやる!
わたしがいちばん、にいさんのことをあいしているのに!
にいさんはわたしのことなんてどうでもいいんだ! しねばいいとおもってるんだ!
にいさんはひとごろしだ! わたしをころそうとしてるんだ!
いやだいやだいやだ! ころさないでころさないでころさないで!
ひとごろしひとごろしひとごろし! うそつきうそつきうそつき!」
まともに聞いていたら気の狂いそうな罵倒を、しかし稲葉くんは真摯に受け止めていた。
妹さんをぎゅっと抱きしめて、優しい声を掛けている。
「嘘じゃないよ」とか「雪乃のことが一番だよ」とか。
それを見ていると、何故か胸の奥がぎしりと軋んだ。
「うそじゃないなら! うそじゃないなら!
はやくそのおんなおいだしてよ! わたしたちのうちからおいだしてよ!
にいさんのちかくからけしてよ! そいつのこところしてよ!
ころしてころしてころしてころしてころせころせころせころせ殺せっ!!!」
それからのことはよく憶えてない。
ぼんやりと駅のホームに立ちながら、私はひとつの確信を持っていた。
――あの妹が、彼を縛り付けてるんだな、と。 |