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螢火

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1

蛾が一匹蚊帳の中まで入ってきた。はたはたと鱗粉を舞い散らせながら宙を舞っていたが、
やがて行燈の中におのずから侵入していき、一際大きく瞬いた後、はらはらと落ちていく。
東条京之助はその様をじっくりと見ていた。
──飛んで火にいる夏の虫とはこのことだな。
時刻はもう子の刻(午後11時すぎくらい)をまわり、昼間はあれほど盛んだったセミの声も
今は聞こえない。
代わりに蛙の泣き声が静かな闇を裂き、蚊帳の中に響いていた。
とても蒸す夜なので、布団の中でじっとしているだけでも体から汗が次々と吹き出す。
汗が肌を伝う感触と、それが着物に染み込み、水っぽくなるのが気持悪かった。
夜はすっかり深くなったというのに京之助の目は冴えていた。どうにもこうにも眠れないのだ。
体を蒸すような暑さのためかとも思ったが、それ以上に体は疲れている筈である。
京之助は最近になって、御所院目付から近習頭主に挙げられたばかりで、仕事で覚えなければ
ならない事が大量にあり、家につく頃には心も体もぐったりになる。もちろん俸録は格段に増えたが、
それでもなお、仕事の辛さに割のあわなさを感じていた。
だからこそ仕事で失った体力を回復させるためにも、無理にでも寝ておかねばならないのに、
眠れないのである。
京之助は起き上がり、ふーっと溜め息をついた。ただでさえきつい仕事に、寝不足の状態で
明日を乗り切れるだろうかと、少し不安になると同時に、刻一刻と流れる時間に焦りを感じてる。
やがてその焦りは、眠れない自分に対する怒りへと変化していく。
しかし焦ったり、怒ったりしたところで何の得があるわけでもなく、
むしろ余計に目が冴えてしまうだけである。
京之助は胸に手を当て再び息をつき、はやる心を静めた。

 

ふと隣に視線を移すと、妻の素女(もとめ)がすやすやと気持ちの良さそうな寝息を立てていた。
頬の辺り、普段目にする白い肌が熱さに火照って僅かに赤く染まるのが、
何とも言い難い色気を放っている。
右手で頬の辺りに触れてみると、汗の水っぽい感触と、彼女の餅肌でペタリと張り付いた。
張り付いた先の素女の肌は、京之助のそれよりもずっと熱かった。
う〜ん、と素女が唸る。驚いて慌てて手を引くと、パリパリと乾いた音がして彼女の頬から
右手が離れた。
幸いにも彼女を起こすにはいたらなかったようで、京之助が手を離すと寝返りをうち、
再び穏やかな寝息をかきはじめた。
彼女も彼女で疲れているはずだから、自分のせいでそれを起こすのは忍びない、と思っていたので、
ひとまず京之助は胸を撫で下ろす。それからゆっくりと立ち上がり廁へと向かった。
特に尿意をもよおした訳ではなかったが、蚊帳の中は京之助と素女の二人の熱で、
外より暑くなっているような気がして、中より冷たいと思われる外の空気が吸いたいと思ったのだ。

 

外はやはり涼しく、肺に入った熱い空気が体の外にはきだされ、そして体が冷えていく感覚が
あまりに新鮮で気持ち良かったので、少々驚いた。
しかし、それ以上に驚いたのは外がやけに明るかった事である。京之助の家はもちろん近所の家々にも
灯りは見えないし、燈籠がともしてあるわけでもない。しかし。
京之助は空を仰いだ。西の空に真ん丸で大きな月が、まるで太陽のように強く明るく瞬いていた。
月は思った以上に美しく、空を埋めるように散らばる満点の星の下にいるだけで、
鎖から解き放たれたような開放感を感じる。
この空を見ているといつのまにか廁の事など、どうでもいいことのような気がしてきて、
京之助は月に誘われるようにゆっくりと道を歩きだした。特に意味も理由もなく、
散歩をしてみたくなったのだ。明るい月夜に提灯は必要なかった。
夜の帳がおりた辺りはびっくりするほど静かで、昼間、ところ狭しと歩き回る人影も、
楽しげな話し声も一切なく、ただ蛙の鳴き声だけが音の世界を支配している。
産まれて二十四年、この町で暮らしてきた京之助だが、こうして静まりかえった町を眺めるのは
初めてだった。
夜の町は新鮮で、そこを歩くのは、見知らぬ土地を探検しているような、それはまるで
童心に帰ったような気持ちで心踊る。
見慣れた家の形も見え方が昼間見るのとは違く、まるで別の国のように印象が変わってくる、
それが楽しかった。

武家町をゆっくりと闊歩し、町を二つに分ける架加勢(かかせ)川に突き当たる。
架加勢川は隣の藩から流れ込み、そして海へと流れつく大きな川である。冬場は水嵩も高く
激しい水の流れなのだが、夏になると水嵩が低くなり流れも格段に穏やかになる。
そのため日中は子供が水浴びを楽しむ声でにぎわうのであるが、やはり今の時間に子供はいなく、
音も立てずに川は流れていた。蛙の鳴き声が一段と大きくなったような気がした。
架加勢川に沿って上流に歩くと、架加勢橋がある。木造の大きな橋で、武家町と商人町を二分している
架加勢川を繋ぐ唯一の橋である。
そのためか橋の幅はとても広く、その広さに比例するように日中は多くの人が行き交う。
京之助は夜の散歩は架加勢橋までだと、歩き始めた時には決めていた。行くだけならまだしも
帰りもあり、あまり遠くにいくのは得策ではないと思ったからである。
月明かりに照らされぼんやりと浮かび上がる架加勢橋。そのすぐ側まできた時、
京之助は思わず息を呑み立ち止まった。
女がいたのである。
架加勢橋と共に月明かりに写し出されている女は、橋の淵に右手を沿え
ぼんやりと流れる川を眺めていた。
月明かりだけでは顔はよく見えないが、絹のようにしなやかで長い髪が、時折の風に揺られて舞うのが
綺麗だった。着物も今まで見たこともないような上等なもののようである。
その姿を見ているうちに、色々な疑問が頭をよぎってきて、京之助は思わず首をかしげた。
女は何者なのか、自分も言えた義理ではないが何故こんな時間に外にいるのか、
そして何をしているのか。疑問は腹の底に徐々にたまり、やがてそれはその女に対する
好奇心へと変わる。
その好奇心に圧されたのか、気が付くと京之助は女の方に歩き始めていた。
女は京之助に気が付く様子もなく相変わらず川を眺めている。

京之助が一歩ずつ歩を進める毎に、おぼろげだった女の顔が鮮明になってくる。
月の光を浴びて青さをもつが本来は雪のように白いのだろうと思わせる肌。
細い目元は涼しげで、どこか気品のようなものを感じさせる。その目元を引き立てるように高い鼻、
そして小さい唇。
しかし、その女は京之助が思っていた以上に若かった。二十歳そこそこだろうと思われるその顔には、
まだ少女の面影が残っている。
それでもなお、女は京之助が今まで見た女の中で、間違いなく一番の美人だった。

 

ゆっくりと歩を進めていた京之助は、いつの間にか女のすぐ近くまで来ていた。
右手を伸ばせば女に手が届く距離である。しかし、未だに女は京之助に気付いていないようで、
全く姿勢を崩さない。
「こんな時間に何をしているのだ?」
京之助は勇気を出して声をかける。女は一度大きく体を震わせ、慌てて振り返った。
月に青く照らされる女の瞳からは脅えたような、それでいて探るような色が伺えた。
「いや、俺は怪しい者ではない。この先の武家町に住む者だ」
そう言って京之助は自分の家の方角を指差した。女は顔をあげ、その指の先を見つめたが
すぐに顔を落とす。そして、
「川を、眺めてました」
女が言う。小鳥が鳴いたような高く美しい声だった。女は首を回して、川に目を向ける。
「この川はどこからどこに流れて行くのか。もしかしたら、
この川は京に繋がっているのではないか、と」
「京に?」
女はどこか寂しげに頷いた。
女の故郷は京なのかもしれない、京之助はふと思った。だからこそ、故郷から遠く離れたこの土地で、
故郷との繋がりを見付けたかったのだろう。
そう思うと、女にこの川が京に続いていないという事を教える気にはなれなかった。
それをすると彼女の故郷への繋がりを断つことになる。

 

「そうか、京か」
京之助が適当に相槌を打つと、二人の会話は完全に途切れてしまい、その間には重い空気が流れた。
京之助は必死で話の種を探すが、どうにもこうにも見つからない。
「帰ります」
しばらくの沈黙が続いた後、女が京之助に再び顔を向けて言った。京之助は少し残念に思いながらも、
「そうか。よかったら送って行こうか?」
「いえ、家はすぐ近くなので一人でも大丈夫です。お心使いありがとうございます」
女は律儀に頭を頭を下げ、それから京之助を真っ直ぐ見つめ笑った。
その顔があまりに美しかったので、心の臓がひときわ強く脈うつ。
「それでは」
女は再び下げると、踵を返し京之助の家がある武家町とは反対側の商人町に向かい歩き出した。
京之助は黙ってその後ろ姿を見送った。
女はゆっくりと闇の中に消えていく。その闇の先、商人町の方から酔っぱらいの笑う声が聞こえた。
夜はゆっくりとふけていく。

2

夏の太陽は夜への時間を引き延ばし、西の空の重なりあった入道雲から漏れて、
その光は世界を赤く染めあげていた。昼間は地響きのようにうるさく騒ぎ立てていたミンミン蝉も、
寝床に移動し始めたようで、若干その勢いを弱めている。
水嵩の低い架加勢川はいたるところに砂嘴が現れていた。その川の中では小さな子供達が
歓声を上げながら、水浴びを楽しんでいる。
京之助はそんな様子を横目に見ながら、幾分頼りない歩調で家路へと急いだ。
「ただいま」
京之助は家の敷居を跨ぐと、蚊のなくような小さな声を出した。すぐに溶けるように消えてしまった
小さな声だったのだが、妻の素女はそれに気付き駆け寄ってくる。
「まぁ、どうしたんですか。顔がやつれてますよ」
京之助の顔を見るなり、素女は心配そうに眉を寄せて言う。
「部下にずいぶんといたぶられたのだ」
京之助は履物を脱ぎながら答える。そして自嘲気味に笑った。
東条家は万年御書院目付だったのだが、先代の当主、つまり京之助の父が藩の家老同士の権力争いで
大活躍したらしく、その恩賞が父の死後にきたのである。父の死後、京之助が家督をついで
三年目の梅雨明け、つまり僅か一月前の事だ。
その当時、御書院の仕事もようやく板につきはじめ、同僚ともうまくいっていたのだが、
そんな中で突然に家老の望月孫之丞に呼び出された。
素女の事もあり何か悪い知らせがあるのではないかと、内心びくつきながら家老の自宅まで
はせ参じたのだが、家老はニコニコと笑いなが父の事を褒め称え、その場で京之助を
近衆頭取に挙げたのである。呆気にとられながらも、俸緑がほぼ倍になると家に帰って
素女とともに喜んだ。

 

家録が百石未満の家はそれだけではやっていけず、家計の不如意を補うために多かれ少なかれ
内職をしていた。御多分に漏れず、東条家も内職をしていたのだが、京之助が挙げられた近衆頭取は
家録百三十石で、その必要がなくなったのである。
しかし、その喜びもつかの間、新しい仕事を始めてみて激しく後悔した。
職場では京之助が一番の若年で、その上先の派閥の権力争いに破れ、上から落とされた者も
ごろごろいた。そう言った連中が、京之助にねちねちと嫌味を言ってくるのである。
もちろん派閥争いに破れたわけでもなく、それとは別に長年勤めている者もいるが、そう言った面々は
静観をきめこんでおり、京之助にとっては毒にも薬にもならない。そのため結局京之助は今の職場に
未だに馴染めずにいた。だからこそ最近は、あの頃の方がマシだった、
と昔の職場と内職を非常に懐かしく感じてい溜め息をついている。
そして今日も今日とて寝不足で仕事のはかどらない京之助に、
彼等はねちねちと嫌味を言ってきたのである。怒鳴り返そうとも思ったのだが、
寝不足の頭にそんな力は残っていなくただ聞き流していると、
その京之助の態度が火に油を注いだらしく、いつも以上に嫌味を言われた。
仕事の終わる頃には肉体的にも精神的にも参りきってしまった京之助がやつれるのも無理はない。
睡魔は京之助の体力を根こそぎ奪いさり、もう瞼を開けていることさえ辛い。
「今日は夜食はいい。すまぬが夜具の支度をしてくれぬか。もう寝る。夜食は素女一人で食べてくれ」
素女はえっと驚いた顔をし、それからその顔がみるみる悲しみに染まっていく。
瞳には涙をため、今にも泣きだしそうである。
またか、と思い京之助は思わず顔をしかめた。
子供の頃、素女を泣かせるといつも父に叱られた。か弱い女子を泣かせるとは何事ぞ、
と酷い剣幕で怒鳴られ、殴られた記憶さえある。

その時の記憶が脳裏にありありと刻みこまれている京之助は女子の、その中でも特に素女の
悲しそうな顔は苦手なのだ。素女の顔を見ると、どうしようもない罪悪感にさいなまれるのである。
それは夫婦になった今でも拭いきれておらず、そのためか夫婦喧嘩などしたことなく
円満な夫婦でいられるのだが、時折ささいな事で仲違いする際は常に素女が泣き
京之助がひたすら謝るという情けない構図を作り出す原因ともなっている。
「わかった。夜食は一緒に食べよう」
今日も京之助が妥協する。
素女は正直なもので京之助の言葉を聞くと、急に顔を綻ばせた。その笑顔は本当に嬉しそうで、
京之助はまるで世紀の大英断をしたかのような高揚感に包まれる。妥協がもたらす唯一の恵みだ。
素女は、すぐに夜食の準備をいたします、と言い残し台所へと消えていった。
その後ろ姿を京之助は見送り、やれやれと肩をすくめ溜め息をつきつつ、自分の頬を二、三度叩く。
睡魔との戦いが今始まったのである。

3

夜中、京之助は突然目を覚ました。
しかも悪い事に目が完全に覚めてしまい、寝ようと目を閉じても頭の芯がそれを許さない。
外が明るければ爽やかな朝を迎えられるのだろうが、あいにく太陽ではなく月が出ていた。
今日は夜食を食べてすぐに寝てしまったためかと京之助は思った。時刻は子の刻である。
青白い月夜に蛙の鳴き声が響いていた。
京之助がぼんやりと天井を眺めていると、しだいに目が闇になれてくる。
気が付けば妻の素女は京之助の隣ですやすやと寝息をたてていた。
京之助はむくりと起き上がると、首を回して蚊帳から入り込む月の光で青白く見える素女の寝顔を
じっと見つめた。
素女は美人というわけではない。もちろん醜悪というわけでもないのだが、
眉目秀麗で知られる京之助と並ぶと幾分目劣りする。
京之助は姿を見れば市中の女は必ず振り向くとまで言われているほどの美男である。
そのため素女はいつも浮気の心配をし、何かと京之助を縛りたがる。帰りの時間が少しでも遅れると
根掘り葉掘りどこに行っていたのか、何故遅れたのかと問いつめてくる。その執拗な聞き方は
ほとんど病的と言っていいほどで、そんな素女の態度にでくわす度に京之助は心の中で
溜め息をついていた。
しかし、それは裏を返せばそれだけ慕われているという意味でもある。
そのためその問いつめを不快に感じるわけではないのだが、さすがに息苦しさを感じる。
しばらくジッと青白く染まる素女の顔を眺めていると、
唐突に、昨日の夜橋の上で出会った美女の事を思い出した。
十人並の素女と橋の上に佇んでいた美女。容姿だけなら間違いなく素女が劣るだろう。
月光を浴び、橋の上に佇む姿はそれだけで一枚の絵画に匹敵するほど綺麗で、
かつ何やら育ちの良さを感じさせる気品をかね揃えていた。
その気品も美しさも残念ながら素女はもちあわせていない。

──今日も彼女は来ているかもしれない。
素女から視線を蚊帳の外に写し、丸く光る月を見て思った。昨日と同じ月夜で、
時刻も重なっているはずである、が、しかし。
京之助はその雑念を振り払うかのように首をふる。
女が一人、しかも真夜中にそう何度も来ているわけがない、と心の底でその陳腐な考えを冷笑し、
仮にも妻帯者が思うような事ではない、と戒める。
しかし、それでも京之助はあの女に会いたいという気持ちの歯止めにはならなかった。
それだけ昨日見た彼女は美しく、そしてその姿に心ひかれていた。
やがて京之助は意を決して立ち上がると、そろそろと寝床を後にした。
素女はそんな京之助に気付かず、気持ちのよさそうな寝息をたてていた。
少し胸が締め付けられるような気がした。
忍び足で居間をぬけ、草鞋をはいて家の外に立つ。月に照らされて、外は今日も明るかった。
京之助は首を回してその月明かりに照らされた町並みを見渡した。昨日はあんなに新鮮に感じた
夜の町並みも、今日は一段劣る気がした。元々は見慣れた町並みなので、
その新鮮さも長続きしないようである。
蛙の鳴き声だけが聞こえる道を真っ直ぐ進み、架加勢川に突き当たる。それからその川を沿って
上流に向かい歩いていく。
京之助が足を前に動かすたびにゆっくりとだが、月明かりの向こうにぼんやりと橋の輪郭が
浮かび上がってきた。京之助は目を細め、その橋の袂を見つめる。昨日はそこに女がいたのだ。
陽炎のようにぼんやりとだがその全容をさらけだした架加勢橋。その袂に、あの女の姿はあった。

 

それはまるで写し絵のように、昨日と何一つ変わりない姿形で佇んでいた。相変わらず架加勢川を
京に繋げているのだろうか、と京之助は思いつつ、その陽炎に向かい歩いていく。
不思議と女がいたことに驚きはなかった。
女はあきもせずに、橋の下の川の流れを見つめている。その女に一歩づつ近付くにつれ、
京之助は自分の心臓が緊張に似た高鳴りをみせるのを感じていた。
昨日と同じく女は京之助が側に来ても、それに気付かず、無防備に背中をさらけだしている。
京之助は女の隣に体を滑り込ませ、橋の手すりに両肘をついた。ようやく京之助の存在に
気付いた女は、慌てて京之助の顔に目を向ける。やはり綺麗な女だった。
女は京之助の顔を驚いたような顔で見つめたが、それは一瞬で京之助が瞬きしている間に
その様子は消え、一つ息を吸う間には何事もなかったように川に視線を戻していた。
「そんなに京が恋しいのか?」
女にならい自分もその女からも川の流れに目を移し言った。
女は質問に答えなかった。黙って川の流れを見つめているだけである。
京之助はその沈黙を肯定ととり、そうか、と言った。
「何故、そんなに京にこだわる」
京之助の質問に女は先程と同じく黙って川を眺めたままだった。
その様子に京之助はひとつ大きく息をついた。
その時、柔らかな風が橋の上を駆け抜けた。女の髪が風にあおられ宙にまい、
むきたての桃の実のような芳香を放つ。それは今までかいだことのない甘い匂いだった。
「京は、私の故郷なのです」
不意に女が言う。

 

髪の匂いに心を奪われていた京之助は女の声にドキリと胸を高鳴らせ、
気の抜けたような声をだしてしまった。その声を女に聞かれた、と思い何だか恥ずかしくなる。
しかし女は京之助のそんな様子を気に止めず、
「いつかまた京に帰りたい。でも、もうあそこには帰れないんです」
女の声は静かだったが、蛙の声の木霊する世界を切り裂いて京之助の鼓膜に直接響いた。
その声には心の悲痛な叫びと、願望がいっぱいに詰まっているような気がした。
女はそれ以降黙りこくり、川の流れを見つめている。京之助も黙って川を見つめた。
川は音も立てずにさらさらと流れている。
この川を眺めているとだんだん女が哀れに思えてきた。この川にどんなに思いをはせたところで、
繋がるのは青く、どこまでも広い海だ。そこは京ではない。
そう言えば、と懐かしい匂いをかいだような気がして京之助は目を閉じた。
すると海と架加勢川に纏わる昔の記憶が鮮やかに蘇ってくる。
確かまだ物心がついたばかりの頃である。京之助は背中に素女を引き連れ、架加勢川に向かった。
特に理由があった訳ではなく、ただ自分が遠くまで行ける大人である事を素女に見せたかった。
京之助の家から架加瀬川までそう遠い距離ではないのだが、
当時の小さい体ではそれは大冒険であった。
素女も怯えて今にも泣き出しそうな顔をしていた事を覚えている。
架加瀬川はただ静かに流れていた。それを京之助は満足気に、素女は目を輝かせて眺めた。
京之助はほとりにはえた竹から笹を取り、船を折り川に流した。
笹船は緩やかな川の流れにのって水面を滑るように走り、やがて見えなくなった。
その様子が素女にはたまらなく魅力的に映ったらしく、素女も京之助にならい、
笹を手に取り見よう見まねで船を折ろうとした。
しかしどうしてもうまく出来ず、すぐに鼻を鳴らして泣き出す。
京之助は慌てて素女に折りかたを教えたのだが、それでもうまく出来ず泣き声は大きくなるばかり。
仕方なく二人で一緒に一つの笹船を作り、川に流した。
素女は涙と鼻水でくしゃくしゃの顔で笑っていた。

 

あの笹船海までたどり着けたのだろうか、と思いを笹船にはせる。
笹船に乗せた初めての冒険の思い出は、色褪せる事なく京之助の胸にはっきりと根付いていた。
「川に、笹船を流してみるか?」
「えっ?」
京之助は昔の情景を頭に描き出しつつ、呟くように言った。その突飛な提案に女は驚いた様子で
こちらに顔を向ける。彼女の二つの大きな瞳と京之助の視線が重なる。その瞳があまりに真っ直ぐに
自分に向けられていたため、
「あ、いや。何でもない」
と、慌ててそっぽを向いた。何だか昔の自分が覗かれているような気持ちになり、
恥ずかしくなって頬が熱くなる。
女は目を見開き、口を小さく開け呆気にとられている様子だったが、すぐにその見開かれた瞳が
細くなっていき、やがて声を殺して笑いだした。
「何がおかしい」
京之助はムッとする。
「あ、いえ、随分子供らしい方だな、と」
その女の答えに、京之助はますますムッとする。
「ふふっ、申し訳ごさいませぬ」
女は口では謝っているが、しかし赤い舌をぺろっと出して、いたずらをした子供のように
悪びれた様子なく相変わらず笑っている。
「話ぶりから随分と大人びた方だと思っておりましたから。あっ、そう言えば、お名前を聞いて
おりませんでした」
ひとしきり笑い終わった後、ほたるが言う。その言葉の響きに先程までの悲壮感はなかった。
笹船発言が彼女の心の琴線にふれたようで、声色がずいぶんと明るくなったようである。
「私はほたると申します」
「……ほたる、か。いい名前だ。可憐なそなたの容姿にあっている」
「ありがとうございます」
ほたるは少し照れたように頬を染めた。
その姿があまりにいじらしく、少々いじわるな気持ちが胸の底につのる。
「俺は京だ」

 

あえて自分の本名は明かさなかった。その時ほたるがどのような反応をするか、
見たいと思ったからである。
「は?」
「いや、だから俺の名前」
女は少し困惑した様子だったが、やがて分かりました、と言った。
自分の名前についてもっと言及してくるものだと思っていたが、予想に反してその言葉は一切なく、
いささか肩透かしをくった気分だった。
それにしても、と女は言う。
「"京"とは随分私とゆかりのある名前ですね。私の故郷と同じ名前です」
「ん、そうだな」
京之助としては京に何の思い入れもないのだが、せっかく柔らかくなった彼女の物腰を
再び硬化させたくなかったため、適当に相槌をうつ。しかしかといって、
京の話に持っていかれても困る。
「ところで、ほたるはどの辺りに住んでいるのだ?」
京之助は話を変えた。
「はい、今は橘町に住んでいます」
橘町は商人町の一部分で、飲み屋が集中する夜の町である。そのためか酔っぱらいによる喧嘩が多く、
しかもそれらが夜遅くまど騒ぎたてるためお世辞にも住みやすいとは言えない。
しかしその分働く場所は多い。
「そうか。ではやはり橘町で働いているのか?」
京之助の問いにほたるはぎこちない笑顔を作りながら、
「え、ええ、橘町のゆ、蕎麦屋で働いております」
橘町に食事処はいたって少なく、蕎麦屋は一軒しかない。
「蕎麦屋か、橘町の蕎麦屋と言えば竹川屋だな。あそこの蕎麦はうまい。
以前は俺もよく行っていたぞ。もしかしたら以前そこで会った事があるかもな。
次に竹川屋へ行った時には是非安くご馳走してほしいものだ」
ほたるは、しまった、と顔をしかめたように見えたが、見間違いかもしれない。
それは確信をもつには短すぎた。しかし、それでもさっきのほたるの表情が心の底にひっかかる。

 

「どうした? 何か悪い事でも言ったか」
京之助の言葉にほたるは慌てて笑顔を取り繕い、いえ何でもありませんと言った。
そして、その後でいかにもおずおずと言いづらそうに、
「あの、出来れば職場には来ないでくれますか」
京之助は怪訝そうな目をほたるに向ける。
「いえ、そういう意味ではないのです。ただ、その恥ずかしいんです」
ほたるは下を向いた。それからしばらくの沈黙が続いた後、
「あの、私そろそろ帰ります」
ほたるがうつ向いたまま言う。
「そうか、送っていこうか?」
「いえ、大丈夫です。それより、約束してください。仕事場にはこないって」
そんなに自分の働く姿を見られるのが恥ずかしいのだろうか。その考えが理解出来ず、
ますます首をかしげる。
しかし、ほたるの目は真剣そのものだった。
京之助は大きく息をつき、うなずく。するとほたるはよかったとばかりに文字通り胸を撫で下ろした。
「あの、それと、もうひとつ」
ほたるは胸の前で両手を組み、祈るような姿勢で、
「明日もこの時間にこの場所で会えませんか」
と言った。京之助の瞼の裏に一瞬素女の顔が浮かび上がったが、それでもうなずいた。
心の天秤がゆっくりと傾き始めていた。

翌日、京之助はほたるとの約束を破った。御所院時代の同僚に誘われどうしても断りきれず、
ほたるが働いているという竹島屋へ行ったのである。
竹島屋はそこそこに客で込み合い、店の者もしきりにその中を往復していた。
京之助は内心びくつきながらその様子を眺めていたが、幸いにもその中にほたるの姿はなかった。
恐らく非番なのだろうと、胸を撫で下ろしながらも少し残念にも思った。特に不審には思わなかった。
京之助は同僚を先に店の外に出し、自分は全員の代金を払いつつ、
中年の女将と思われる女にそれとなくほたるの事を聞いてみた。
女将と思われる女は終始怪訝そうな表情を浮かべていたが、やがて想像もしていなかった事を口にする。
「ほたる? 誰だい? それ」

4

朝の爽やかな陽射しが家の中に入り込み、部屋を明るく照らしていた。
早起きの蝉達はすでに鳴きはじめ、まだ朝だと言うのに夏の匂いは猛烈に香りたっている。
夜の冷たい空気をすいとった木造の床は、ひんやりとしていて気持ちがよく、
素女は座布団を外し直に床に座っていた。
素女はお味噌汁をすすりつつ、目の前で眠そうに瞼を半開きにさせながら、
白米を口に運ぶ京之助を覗き見る。元々京之助は朝に弱く、気だるげな表情を浮かべるのは
いつもの事なのだが、最近の京之助に素女は違う色が浮かんでいるような雰囲気を感じとっていた。
具体的に言えば、近ごろ京之助の表情がキラキラと輝き始めたのである。
それは瞬きほどのかすかな変化で、おそらく京之助と関わりがある人でもその変化に気付くものは
まずないだろう。しかし、十年以上常に京之助と生きてきた素女である。
そんな小さな変化も見逃さず、その違いを敏感にかぎとっていた。
素女が京之助に嫁いで以降、京之助の様子がおかしい、と感じたのは今回がはじめてだが、しかし、
素女には京之助と積み重ねてきた年月がある。その年月の中には京之助の表情に見覚えがあった。
だから素女は心の奥底にある記憶の古い引き出しを掘り返し始める。
京之助と過ごした日々をひとつひとつあぶり出し古い順に頭の中で再生させていくと、
すぐにそれは見付かった。

子供の頃の話である。京之助と素女の年齢がよくやく二桁に達したと言うころ、
京之助は人知れず猫を飼っていた事がある。とは言ったものの、それは自分の飯の残りを
餌として与えるだけで、飼うと言うにはぞんざいだった。
しかし、それでもいっぱしにその猫を育てているような、そして自分が大人になったような気分は、
子供心を満足させるには十分だったらしく、京之助の瞳は毎日いつもより数段強い輝かせ、
いきいきとしていた。日常に組み込まれた非日常は、確実にそこに変化を与え、
退屈な日常に張り合いをもたらす。それは時に趣味へと変わり、
人に生きる楽しみを認識させてくれるのだが、あの時の京之助はまさにその張り合いを
見つけたのである。

猫の件は当時の素女にも内緒にされていたが、その異様なまでの目の輝きを怪しく思った素女が
密かに京之助の後をつけたところ、架加勢橋の下で猫とじゃれあう彼の姿を発見した。
恐る恐る声をかけてみると、京之助は目を白黒させてこちらを見つめてきた。それから困ったような、
そして哀願するような顔になり言うのだ、内緒にしてくれと。それに対し、素女はしばらく悩んだ後で
ある条件付きで承諾した。
その日以降猫の飼い主は二人になった。素助と名付けたあの猫はいつの間にか姿を消してしまったが、
その時の記憶はいくら時間がたっても色褪せる事なく、鮮やかに素女の心に刻まれている。
素女は再びお味噌汁をすすりつつ、京之助の顔をたっぷりと見つめた。
今の京之助は、あの時の人知れず猫を飼っていた時の表情によく似ている気がした。
「何だ? 俺の顔に何かついているのか?」
穴が空くほど見つめられた京之助は怪訝そうな様子で口を開く。
「あ、いえ。何でもないです」
素女は慌てて笑顔を作った。京之助はまだ何か言いたそうな顔であったが、
再び白米を口に運び始めた。素女はまだまだそれをジッと見つめ続けた。
気になる事はもうひとつある。

十日前に話は遡る。夏の太陽の熱が染み込んだ地面が、夜になってそれを外へとはきだし、
さながら昼間のように蒸し暑い夜だった。その暑さにうなされ、素女は思わず目を覚ましてしまった。
背中は寝汗で湿り気をおびて、その水分をすいとった着物が肌に張り付き気持ち悪く。
額には雨粒のように大きな汗が浮かんでいた。
蚊帳をすり抜けて入る青白い月光が、部屋をうっすらと照らして、その光をうけた蚊帳の細かい網目が
影をひいて床から布団にまで延びていた。その影を辿り蚊帳から布団までぼんやりとなぞっていくと、
視線がその影の終点である京之助の布団と重なった。
薄い掛け布団が乱暴にはたかれており、その下に京之助の姿はなかった。
体を起こしてその空の布団に手を当ててみると、まだ人肌の熱が冷えきっておず、
寝汗で湿り気をおびていた。どうやら京之助が寝床を後にしてからそれほど時間は
たっていないようである。

しかしさして不思議な事ではない。おそらく自分と同じように暑さに起こされ、
外の空気を吸いに廁にでも行ったのだろうと、素女はあまり気にとめず再び目を閉じた。
しかし眠れない。ともかく体の芯まで響くくらいに暑かったのだ。
それからしばらく眠れずに布団の上を転がっていると、突然背中の襖が開いた。
驚きつつも寝返りをうつふりをして、そちらに目を向けると京之助が寝床に入ってくるところだった。
素女が目覚めてから四半時(三十分くらい)ほど時間が立っていた。
京之助はおもむろに布団の中に潜り込むと、かなり疲れているのかすぐに泥のような
静かな寝息を立てはじめた。長い廁だ、と素女は思ったがそれだけだった。
その日以降十日前の間に四度。しかもその四度とも、京之助は子の刻を僅かに過ぎたくらいで
突然起き上がり、幽霊のように音もなく闇に紛れて寝床から消えていく。
──間違いなく何かある。
素女は幾度となくそう思い、どこかに妾でも囲い、よなよな逢瀬を繰り返してるのでわ、
とも疑いもしたが、それにしては四半時は短すぎる。
移動時間も考えると、それではせいぜい多少の会話が限度だろう。廁とも思えなくもないが、
四半時は長すぎるし、何より四度も同じ時刻に廁に行くとは思えない。
それは偶然とも必然とも考えられ、つまるところ、素女には何も分からないのである。
しかし、だからこそ不安なのだ。京之助に限り妾を囲うなどと言うことはないと信じたいが、
それでも万が一の可能性がある。そしてもしその万が一が実際に起っていた場合、
最悪の展開も十分にありうる、と素女は考えていた。不安は募るばかりである。
素女と京之助との関係は決して不穏ではなくむしろ良好なのだが、それは京之助が自分を
女として見ていないからであろう、と素女は薄々気付いていた。
物心ついてから今まで、あまりに長い間一緒だったおかげでお互いの事を知り尽し
喧嘩はほぼ皆無だが、その代わり京之助は素女の女に疎くなってしまったのである。
その証拠に素女はここ一年ばかり京之助に抱いてもらっていない。

素女としてもそんな夜の生活に不満を感じてはいるものの、かと言って自分から話を持ちかけるのは、
まるで淫乱な遊女のようで気が引ける。しかしそうは思うが、京之助に愛されたいという願望は
とどまる事を知らず増長し続けているので、日々悶々とした心の煮えくりを感じていた。
そしておそらく、理由は違うにせよ京之助にもそのての欲求はあるに違いないだろう、と思っていた。
そこで問題になるのが京之助のその欲求がどこに向いているか、なのである。
万が一囲っているかもしれない妾にその欲求が向いてしまっているとしたら、
もはや素女に打つ手はない。そもそも素女は京之助にとって女ではないのだ。
その時点で、女としての素女は圧倒的に不利な状況に立たされているのである。
京之助は優しい。だからこそ実家が潰れてしまった素女に離縁を言い渡すような事は
絶対にしないだろう。しかし、京之助の心が素女以外にあるのならば、
形式だけの「妻」の名など慰めにもならない。それではただの家政婦と同じである。

素女は一度深く息をついた。考えれば考えるほど気がめいる。
お味噌汁はいつの間にか空になっていたので、仕方なくたくあんをかじり、
一時中断した思考の尻尾を再び引きずり出す。
今までの想像はあくまで最悪の状況に陥った話であり、事実ではない上に、
まだ京之助が妾を囲っていると決まったわけでもない。
がしかし、有り得ない話でもないのだ。
幸いまだ時間にゆとりはあるはずである。例え相手がとびきりの美人だとしても、
たったの数日で京之助の気持ちを奪うことなど出来やしない。
しかし、早く手を打たねばならないとも思っていた。可能性は出来るだけ発芽する前に、
それが無理なら芽が育つ前に摘んでおかねばならないのである。
では具体的にどうするか。素女は二つ目のたくあんをかじり、箸を唇に当てて考える。

京之助は優しい。だったらその優しさにつけこもうか、と素女は考えた。京之助の逢瀬の現場を抑え、
泣いてやるのだ。京之助の心が傾く前に欲求が妾に移る前に、素女に対する罪悪感で
その心を埋めてしまう。そうすれば京之助の心は素女から離れなくなるはずだ。
そしてその罪悪感はその後も抑止力となり、京之助の胸の奥に蔓延り続けるに違いない。
しかし素女はクッと唇を噛んだ。一見素晴らしく思えるこの作戦にも、弱点があるのだ。
この作戦は素女が女として戦う以前に戦う事さえ出来ないため、京之助の優しさに甘えるだけ甘えて、
結局のところただの同情を買おうとしているだけなのだ。つまり自分に女としての魅力がないと
言っているようなもので、女として最大の屈辱でもある。しかし、それでもいい、と素女は思った。
例え女として愛されていなくとも、京之助に思われる女がいないのなら、
必然的に一番近い場所にいる素女が一番という事になるのだから。
素女は、次に京之助が夜中出歩く事があればその後をつけよう、と心に決めた。
たくあんを食べ終えた素女はようやく白米に箸をつけた。一方の京之助は左手に茶碗を持ったまま、
大きな欠伸をしていた。
続々と目覚め始めた蝉達は、必死で自分の愛を詠っていた。

5

蚊帳の隙間を縫うように入り込む蛙の鳴き声に混じり、
隣の寝床から微かな物音が耳に飛びこんできた。時刻も子の刻を回り、うつらうつらと忍び寄る睡魔に
屈しようとしていた素女であったが、重かった瞼もその音を聞いた途端に軽くなって、
あっというまに睡魔は吹っ飛んだ。頭はまるで氷につけられたかのように冴え渡り、
にわかに心臓が高鳴り始めた。とうとう来たか、と思わずにやけそうになる顔を引き締めて、
ひとつ大きな息をつき気持ちを落ち着かせる。
素女は僅かな音も聞き逃さないように聞耳を立てつつ、うっすらと目を開き京之助の様子を伺う。
枕元に置かれたあんどんの火が、部屋を橙色に染めあげて、その中で京之助は布団から起き上がり、
大きな影を背中に従えてそのままジッと動かない。と思ったら、目玉をギョロリと流し
素女の様子を覗きこんできた。
京之助の視線は素女の顔に槍のように突き刺さり、冷たい物が背中を駆け抜ける。
その瞳は暖かみのまるでない、興味のない玩具を見つめる子供のようだった。
黒真珠のように光を吸い込んだり、反射したりはするがその瞳が光を放つ事はない。
ひたすらに無機質で、どこか投げやりで冷めた目。まるで素女自体に興味を感じていないかのようだ。
素女の体は判決をまつ罪人のように膠着し、心を押し潰さんとする強大な緊張感に襲われる。
その緊張感は喉にまで圧力を加え、まるで喉を締め付けられたかのように息苦しい。
しばらくそんな冷めた目で素女を見つめていた京之助であったが、いきなり大きな溜め息をつき
素女から視線を離した。途端に素女の緊張は弛緩し、すーっと背中の汗が引く。
喉元を押さえ付けられたかのような息苦しさも霧散した。
京之助はおもむろに立ち上がると、寝床に綺麗に畳まれた上着を着込み、そのまま寝室の襖を開けた。
その先は底知れぬ闇が大きく口を開いていて、
京之助は振り返りもせずにその中に吸い込まれて消えていく。

素女の耳にミシミシと木造の廊下が軋む音が聞こえた。古くなった廊下の板は所々が
限界点に達しており、人が歩くと大きな音を立てて軋む。
こと夜になると、静かな闇にその音は反芻し高らかに響くのである。
次第にその音は小さくなっていき、やがて消えた。するとすぐに立てつけの悪い玄関の戸が
鳴き声をあげ、それから大きな音を立てて戸が閉まる音が聞こえた。
どうやら京之助は外に向かったようである。
そこまで聞くと、素女もようやく立ち上がり、京之助の後を追った。
軋む廊下を駆け抜け、一目散に玄関に駆け付ける。分かりやすいように玄関のあがりはなに
置いておいた提灯が消えていた。京之助がそれを持っていったのだろう。
素女は履物を履き、玄関の戸に近付くとそこに耳を当てて外の音を聞く。
足音が聞こえた。土を力強く踏みつけ、そこを蹴る。その繰り返しが徐々に音を小さくさせつつも
素女の鼓膜に響く。ゆっくりとまるで雪が溶けるように消えていく足音を確認しつつ、
素女は静かに戸を開けた。
玄関の戸を抜けるとそのまま家の垣根まで出る。下弦の月が空気が荒んだ夏の空にゆらゆらと
浮かび上がり、かすかな光を地上に振り撒いていたが、それだけでは足元がおぼつかない。
八日前までは満月に近く、夜でも月明かりが明るかったのだが、それだけの光量はもはや見る陰もなく
失せていた。いっそ提灯でも持てば幾分歩きやすいだろうと思うのだが、
提灯を持つと闇夜に光で浮き上上がってしまい京之助に気付かれる可能性があるため
持つわけにもいかない。
不気味に静まり帰った武家町の家並みはもの言わず立ち尽くし、昼の喧騒とは打って代わり
どこまでも静かで、そして暗かった。その暗闇蔓延る町の中、架加勢川に繋がる道の上に
人玉のような赤い火が漂っていた。京之助の提灯の火である。火は京之助の背中だけを写し出し
素女はそれを道標に後を追った。

一見平で綺麗に舗装されているように思われる歩道も、雨で刷りへって凸凹していた。
昼間は特に気にもならないのだが、目の利かない夜となると状況は一変し、
幾度となく素女の足を絡めとる。それにあいなって、足首辺りまでのびた着物がいちいち足に絡み、
歩きづらいことこの上ない。自然素女は慎重に歩くしかなくなるのだが、提灯をもつ京之助は
そんな素女なぞどこ吹く風でずんずんと大股で先を行く。
次第に二人の距離は開き提灯の火は小さくなっていき、京之助が架加勢川までたどり着くと、
川の上流に進路を変え、物陰の向こうに消えていった。素女はそれを少しガッカリしながら
見つめていた。僅かに信じていた廁の可能性は事実上消失したのだ。廁は川の下流にあるのだから。
さて、いよいよ京之助が怪しくなってきたわけである。こんな時間に何故出歩く必要があるのか、
そして何故こんなに頻繁なのか。
それらをひとつの線で結べる理由はひとつしかない。少なくとも素女には一つしか考えられない。
──京之助はやはり妾を囲っている。

道を真っ直ぐ進み、素女も架加勢川に突き当たった。水嵩の少ない川は音もなく流れ、
川からはいだしたと思われる蛙が声高らかに合唱している。
視線を川に向ければ、土手の境界線に設置された低い柵の上部がかろうじて見えたが、
川自体は闇に沈んで何も見えなかった。
素女はそこからさらに首を回して川の上流に目を向ける。離された提灯の光は既に闇の向こうに
見えなくなっていて、深淵な闇が大きく口を開け素女を誘っていた。
そこは光が入り込む隙のない完全な闇。いつの間にか下弦の月は雲に隠れ見えなくなっていて、
空から降り注ぐ僅かな光さえも消え去っていた。しかし、それでも素女は動じない。
弱きの虫がはいずりだす隙間は腹の底にはなく、躊躇なくその闇に飛込んだ。
闇も妾も今だけは怖くない。心の中からふつふつと沸き上がる独占欲は、あらゆる感情を昇華し、
ひたすらに京之助だけに向いていた。
ゆっくりと歩きながら考える。仮に京之助が妾を囲っているのならば、どうすればいいのか。
その答えは一つである。現場を抑えて泣いてやればいい。そうすれば京之助はきっと妾の事なぞ
すっかり忘れて自分の元に帰ってくる筈である。子供の頃からちっとも変わらない
申し訳なさそうな顔で、ひたすらに謝罪してくることだろう。しかし、今回は許してやらない。
とことん京之助をいびり倒し、二度と悪い虫がとりつかないようにお灸を据えてやるのだ。
這うように足を擦らせ、上流に向かい歩いていると闇の中に
蛍のような小さな光が浮かびあがってきた。多分京之助の提灯だと思われるそれは
丁度架加勢橋の上辺りにゆらゆらとうごめいている。
一歩づつ橋に近付くにつれ、その光に照らされて見慣れた背中が陽炎のようにぼんやりと
浮かびあがってきた。見慣れた京之助の背中である。しかし、浮かびあがってきたのは
京之助の背中だけではなかった。
その背中の向こう、ぽっかりとあいた闇の中に振袖が浮かび上がっていた。
闇に紛れて顔は見えないが、その振袖から伸びた腕が細く雪のように白い。
そして何より目を引いたのが、その振袖の鮮やかさだった。

少なくとも素女が着ていた物より段違いに豪華な色使いで、
まるで貴族やお城の姫様が着る振袖のようだ。
正直その振袖が少しうらやましかったがしかし、そんな憧れに似た感情を振りきる。
いずれにせよ、やはり京之助は妾を囲い、夜な夜な逢瀬を繰り返していたのである。
──許せない。
ある程度覚悟をしていたとはいえ、現場を生で目撃すると京之助に対する怒りが腹の底から
ふつふつと沸き上がってくる。素女はすぐにでも爆発しそうなその怒りを押し込めるように
唇を噛んだ。唇の端が切れて、そこから生臭い液体が口の中に流れ込んでくる。
それを一息に飲み干したその時、雲の隙間から月の光が地上に降り注いだ。
それは雀の涙ほどの僅かな光であるが、その光は橋上の女の顔を写し出した。素女は思わず息を飲み、
呆けた顔でそれに見とれる。その豪華な振袖に似合う、とても綺麗な女だった。

6

遠くの空の入道雲が、夕日を浴びて少しづつ茜色に染まる頃、城の中に太鼓の音が響きわたる。
下城を促す太鼓である。その音が聞こえると、仕事に励んでいた者も皆帰り始め、
そのせいで二の丸は人がごった返す。
京之助はその込み合いを避け、しばらく仕事場に残る。以前はゆっくりしすぎると、
家で素女の尋問にあう羽目になっていたのだが、最近は素女が妙に優しく問いつめられる事も
なくなった。だからこうしてのんびりと人が少なくなるのを待つ事が出来る。
「おーい、京。いるかー?」
一人仕事場でぼんやりと外を見ながら人が少なくなるのを待っていると、
背中から自分の名前を呼ぶ声がした。その声に誘われてゆっくりと振り返る。
その声の主が誰なのか、目星はついていた。京之助を京と呼ぶのは限られた人だけだからである。
「銀次郎、江戸から帰ってきたのか?」
「ああ、五日ほど暇を頂いてな。江戸にいてもしょうがないから帰ってきたのだ」
そう言って立浪銀次郎は笑った。
銀次郎とは今は遠く江戸の藩屋敷に勉めていて疎遠になっているが、
剣術道場時代にはよくつるんでいた。銀次郎は石のようにがっしりとした体格で、
さらに身の丈は六尺を越え、その大きな体を生かした豪剣で藩屈指の剣の使い手とうたわれていた。
健康そうな顔は真っ黒に日焼けし、鼻の頭の皮が剥けはじめている。
日焼けし黒い顔の中で真っ白な歯だけがキラキラと光っていた。
「それでだ、今日は久々に山崎剣術道場三羽鴉で飲みに行こうと思っての。京を誘いにきた。
ほれ、こうして半十郎は捕まえておる」
銀次郎はその太い腕でグイっと脇の小男、片山半十郎の首を締め付ける。
半十郎の元々青白い顔色がさらに青白くなったような気がした。
半十郎は銀次郎とはあらゆる面で正反対な男である。背も低く、体ももやしのように細い。
痩せこけとがった顎で、具合の悪そうな青い顔をしている。性格も銀次郎が豪快で強気なのに対し、
半十郎は物静かで臆病。だからガキ大将気質の銀次郎に、半十郎は金魚の糞のようにつきまとい、
そして振り回されていた。おそらくは今回も強引に引かれてきたのだろう。

 

その中は表面通りに狭く、汚い。羽目板も天井もすすけている。狭い店内には
帳場にくっついた卓しかなく、椅子も四つしかないが、幸いにも他の客の姿はなかった。
三人は銀次郎を真ん中に京之助が奥に、半十郎が玄関側に座った。
三人が座ると店の奥で狸の置物のように動かなかった小さな老婆が注文を取りにきた。
その老婆は銀次郎の顔を見て目を輝かす。
「あら、銀ちゃん。こっちに帰ってたの? 京ちゃんも半ちゃんもいらっしゃい」
三人は名前を呼ばれた順に頭を下げる。
老婆は京之助が以前見た時より白髪が増え、顔は小さな皺でくしゃくしゃになっているように思えた。
しかし、笑顔の明るさと声の張りは剣術道場時代から全く変わっていない。
その姿はまるで剣術時代が遡ったような懐かしさを感じさせる。
「注文はいつもので」
銀次郎が言う。それに京之助と半十郎も続くと、老婆はすぐに三本の酒を持ってきてくれた。
そして、おつまみは少し待っててと言い残し、老婆は店の台所に消えていく。
店内には三人だけになった。静かに酒が喉を下る音が響く。京之助は徳利から銚子に酒を写しつつ、
「時に銀次郎、二の丸で言っていた話とは何だ?」
と言った。
銀次郎は杯の酒をグイッと飲み干し、それから溜め息をつき、おもむろに口を開く。
「京よ。お前、大分出世したらしいな」
銀次郎の前後の脈拍にあわない言葉に多少困惑しつつも、ああ、と頷く。
京之助はまた出世したのである。おととい再び望月家老に呼び出され、
その場で御使い番頭領に取り立てられた。御使い番頭領は家録四百石以上である。
僅かの期間の間に、しかも泰平な世には異例の出世だ。
「そんなに早く出世して、おかしいとは思わぬか?」
「思う。甚だ思う。しかしいくら考えても分からぬのだ。この出世を家老は父上への褒録と言うが、
では何故父上が存命中に行わなかったのか、となる。そもそもその父上が一体何をしたかも分からぬ」
京之助は杯の中身を飲み干し、大きく息をつく。あまり酒に強くない頭に、一気酒はがんがん響く。

「そこまで分かっておるなら話は早い。まぁ、本題に入る前にまずは派閥争いについて
話しておこうか。実はな、先の派閥争いで敗れた佐内派が再び動き始めているのだ」
「佐内? 前筆頭家老の佐内か? あの家は望月との派閥争いに破れ、取り潰されたと聞くが」
詳しい事は知らないが京之助も話くらいは聞いている。
現筆頭家老望月孫之丞と、前筆頭家老佐内権兵衛の権力争いは壮絶を極め、お互いが謀略をつくし、
泥沼化していった。しかし、その壮絶な争いも終わりは驚くほどあっさりとしていた。
争いの最中、佐内権兵衛が突然病死したのである。当主を失った佐内家には後継ぎがいなく、
そのまま取り潰された。十年前の話である。
「確かに取り潰されたのだが、どうも佐内一派は権兵衛の遠縁を後継ぎに立てて
再び藩の権力を握ろうと画策しているらしい」
銀次郎は静かに言う。
「しかし、仮に佐内一派が再び動き出したとしても、望月派には何も問題もあるまい。
望月は今や藩の七割の藩士をその傘下に置いている。もはや佐内派など望月派の敵ではない」
「いや、案外そうとも限らないようだ。佐内派には莫大な金があるからの」
「金? 佐内に?」
「ああ、佐内は米問屋笹塚屋と結びついていたらしくてな。かなりの藩費を横領していたのだ」
京之助は銀次郎の話を聞き、なるほどな、と納得し頷いた。
藩の公費は領内からの年貢米を藩士に支給し、その残りを上方に輸出してその売り上げ金で賄う。
他にも収入もあるものの、それが財政の大半を担う。
この業務を進めるために、御倉方や勘定方などの多数の藩士が働いているわけだが、
実際の実務を一手にまかされてるのが笹塚屋なのである。
だからその笹塚屋と組めば公費の横領などたやすい。

7

「佐内が笹塚屋から受け取った賄賂がどれほどあるか、実は想像もつかん。何しろ佐内は
二十年近く藩の頂点に立っておったのだからの。ただ、その金で望月に一泡以上ふかせる事が
出来るのは確実だ」
  銀次郎は自分の知識をひけらかし、得意気に言った。それを聞いて京之助はむう、と唸る。
  佐内について京之助はほとんど何も知らない。何しろ望月との派閥争い当時はまだ父が存命で、
京之助は剣術道場に通っていたころだ。家督もついでないので藩の事情なぞ知るよしもない。
「待てよ、銀次郎。今も米問屋笹塚屋が藩の業務を取り仕切っておるよな。まさか、笹塚屋はまだ佐内と繋がりがあるのか?」
  「いや、望月が笹塚屋に手を出さない事を考えると、おそらくもう切れておる」
  銀次郎は杯に再び口をつける。そして、
「そんな事より、一番やっかいなのは佐内がその金をどう使っているか、ということじゃ。
現在、奴らはその潤沢な資金を惜しげなく使い、江戸の藩屋敷の連中に対し買収攻勢をかけておる。
現に一応望月派に席をおく俺のところにも来た」
「その金、受け取ったのか?」
「まさか。追い返したわ。しかし、中立の者にも望月派の中にもその金を受け取った者が
おるやもしれぬ。その賄賂でどの程度佐内に力が傾くかは知らんが、少なくとも三割強、
多くて五割が佐内に傾くと言われておる」
  三割と言えば、望月もうかうかしていられないだろう。先の派閥争いでは望月派が
その程度の勢力であり、数は佐内派の方が上だったらしい。今回はそれが逆になったわけだが、
以前の佐内派のように望月派も足元をすくわれる可能性がある。銀次郎をはじめ望月派の人間には
由々しき問題であろうが、しかし、
「それが俺に関係のある話なのか? 望月と佐内が争うやもしれぬと言う事は分かった。
いずれ領内をも二分するやも知れんと言うことも。しかし、俺はどちらの派閥に
ついたわけでもないし、つくつもりもない」

「そう。そこなのだよ。俺が京にどうしても話しておきたいのは」
  銀次郎の声色が一段上がる。頬が赤いのは酒のせいだけではないだろう。その銀次郎の様子から、
その話しておきたいことと言うのは、ずいぶんと重く深いものであることがうかがいしれる。
  京之助は椅子に座り直し、腕を組んだ。それから銀次郎に視線を流し、話の続きを要求する。
  銀次郎はその京之助を満足そうに見た後で、急に眉をひそめ怖い顔になる。
それから、真っ直ぐ京之助を見据えて口を開く。
「実はな、京は既に望月派に組み込まれておるのだ」
  時が止まったような気がした。銀次郎の発した言葉が頭からすり抜け、それが何を意味しているのか
分からなかった。その間も銀次郎はその固くこわばらせた顔を崩していない。
  しばらくたってようやく止まっていた時が動きだすと、一気に頭の中が激情に染めあげられた。
その激情に導かれる前に京之助は思わず立ち上がり、
「バカな。俺は望月についたつもりはないぞ」
  と声を張り上げる。
  冗談ではなかった。京之助は確かに望月に取り立てられはしたが、それは父の恩償であり、
京之助自体が特別な恩を感じるものではない。しかも以前の争いでは少なくない数の死人がでていると
聞いている。ない義理で自分の命を危険に晒すことなどまっぴらごめんだ。
「ひとまず、冷静になれ。そして座れ」
  銀次郎はなだめるように京之助の背中を優しく叩く。しかし、京之助としては収まりがつかない。
一応座りはしたが、頭は沸々と沸き上がる激情に支配され、冷静とはほど遠い状態だった。
「頭は冷えたか? まぁ京の気持ちも分からんではない。京は望月派についた覚えはないじゃろう。
しかし、それでも京は望月派なのだ。理由はそう、先に話した異例の早さでの出世じゃ」
  と銀次郎は言う。予想通りの答えだった。京之助と望月を繋ぐものなど父と、
あの異例の早さでの出世しかない。

 しかし、解せなかった。出世はあくまで父の恩償だし、京之助は父とは違い派閥にも
加わった事などない。だからその出世だけで自分を望月派とするのは強引で短絡的に思えた。
「解せぬ、と言った顔だな」
  銀次郎は京之助の心をピシャリと読み当てる。
「確かに異例の早さでの出世だけで京を望月派とするのは短絡的すぎるやもしれぬ。
しかし問題は出世の早さではなく、出世の時期なのだ」
「時期?」
「そう時期だ。京が出世したここ一月で、遠く江戸ではある衝撃的な話が広がっておった」
  俺を望月派とする方がよっぽど衝撃的だ、と心の底で毒づきながらも、
京之助は静かに聞耳を立てる。
「佐内、権兵衛を知っておろう。先の派閥争いで病死した佐内家の当主だ。その権兵衛、藩の記録では
確かに病死となっておるのだが、これがなんともおかしい。と言うのも、権兵衛の死する僅か二日前に
殿と接見されておるのだ。しかもその時の様子はいたって健康そうだった、と殿がおっしゃっておる。
考えられるか? 僅か二日だぞ。その二日の間で命を失う程に病は悪化するものなのか。
否、権兵衛の死因は結核じゃ。二日でそこまで悪化するわけがない。ありえない。と言うことは、だ。
その二日の間に何か別の事が権兵を死においやり、しかもその死を病死にかいざんする強大な力が
働いた。それら全てを一本に繋げる事が出来るのが」
「暗殺、か」
  銀次郎はニヤリと顔を崩し、大きく頷く。
「毒殺などではなく、一太刀で切り捨てられていたそうだ」
「一太刀? 権兵衛はかなりの剣の使い手と聞いておったが、本当に一太刀で殺されたのか?」
「ああ、一太刀じゃ。まぁ権兵衛がかなりの剣の使い手だった事は確かだが。
なぁに、暗殺者の腕の方が一枚も二枚も上を行っていただけだ。さて」
  銀次郎は急に大きな声を出し、言葉を区切る。静かな店内にその声は反芻し、
その後で訪れた静寂の中、銀次郎はもったいぶるかのようにゆっくりと、そして静かに口を開く。

「さて。問題はその暗殺者が誰かと言うことだが、ひとまず今までの話からその暗殺者の素性を
整理すると。一に望月派の人間であったこと。二に剣の達人であったこと。そして三に、
京に深い関係がある人間であったということ」
  京之助は思わず身震いした。さっきまでの激情がうそのように引き去り、熱かった顔から
血の気が引いていく。望月派の人間で剣の達人で自分に深い関係のあった人間。そんな人間は
一人しかいない、いや、いなかった。
「どうやら分かったようじゃな」
  銀次郎は笑った。愉快そうに、しかし声は立てずに。
「そう、佐内権兵衛を殺したのは」

 「京の父上じゃ」

 京之助は驚愕し思わず息をのみつつも、ようやく全てが一本の線で繋がったような気がした。
今までの疑問が、心に残ったしこりのようなモノが、まるで櫛で髪を鋤くように綺麗に溶けていく。
「京の出世が京の父の功績に対する恩償であると言うことは周知の事実だが、実際に京の父が
何をしたか、その話は領内で広がっておらん。現に息子である京でさえ知らなかった。
だからこそ望月家老は話を江戸にだけ広めたのだ。遠く江戸からならそなたに父の話が
伝わる事もないし、その話を止める術もない。そして、望月家老はその話が江戸で広がった時期と、
京が出世した時期を重ねる事で、京が望月派の人間であると言う虚言を江戸で既成事実化させ、
やがて領内に話が広まる頃には揺るぎない事実として伝わるよう仕向けたのじゃ」

8

 今までの望月。つまり京之助に優しい笑顔を振り撒き、
まるで孫に語りかけるかのような柔らかくなだめるような口を聞く。
しかしそれは全て京之助を望月派に引きずりこむための演技であり、
実はそのこうこうやの仮面の下ではクモのように糸を張り巡らせていたのである。
  京之助自身、もう既に憤怒や自責、驚愕だとかその他諸々の激情に身を焼かれる段階は
過ぎ去っていた。むしろさすが先の派閥を勝ち抜いただけの事はある、
とその見事すぎる望月の手椀に感服さえしていた。それほど望月の手筈は稀代の先見性を持ち、
卓越した頭脳と自分の権力を最大限にいかした策略は完璧だった。
  そして、これらの事情を全て知る銀次郎が領内に帰ってこれたのは、
望月がすでにその策略を京之助に挽回不可能だと判断したためだろう。
つまる所、京之助に逃げ場はないのである。
  京之助は腕を組んで、唸った。頭の底にへばりついた知識と理性を総動員して、
この状況を逆転出来うる起死回生の一打を探す。が、降って沸いたような銀次郎の話に
瞬時にうまい手など浮かび上がるはずもなく、頭の中は雪が降り積もったかのように
真っ白に塗り潰され、ずっしりと重かった。それはジワジワと焦りに変わり、
その焦りから今の状況が京之助の中でどんどん深刻さをましていくような気がして、
胸の底が塞いだように苦しかった。
「しかし、な。案外何も起きぬやも知れぬぞ」
  銀次郎がなだめるように落ち着いた声で言う。
「いや、と言うのも、望月も殿もこの佐内の動きを大事にしたくはないのだよ。
なんせ今、幕府はああじゃからの」
「幕府が?ああ、そうか」
  京之助は納得して頷いた。
  幕府は慶長から元和、寛永と次々に時が流れてもしきりに大名をとりつぶしていた。
その理由は法度に背いて城を改築しただとか、
後継ぎがいなかったなど様々であるが、領内の不和を咎められた結果と言うのも少なくなかった。

 元和四年、越後村上九万石の村上周防守義明、伯耆黒坂五万石の関長長門守一政が改易されたのも、
領内での家臣騒動が表沙汰になった結果だった。そして元和七万、出羽十二郡のうち秋田を除く
五十七万石をゆうした最上源五郎義俊が潰されたのも、同じ理由である。
  数ある話の中でも、元和五年にとりつぶされた安芸広島五十万石をゆうした福島正則の減封は
幕府の意図がかいま見れた。つまる所、幕府は大名をとりつぶしたいのである。
  そんな幕府に派閥争いが大袈裟に伝われば、改易の浮き目に合うのは必至であり、
銀次郎の言う通り江戸の殿や望月としては事が大きくなるのを避けたいに違いない。
  領内にも改易された他藩の牢人が流れつき、藩の新規登用の折り込みの際には
大挙して押し寄せてきた。そんな連中がどんな生活を送っているかは、その貧相な体と
あかだらけの着物を見れば一目で分かる。
  それら牢人は主家をとりつぶした幕府を恨み、中でも遠く江戸で由井正雪、
丸橋忠弥らが幕府転覆を画策したが、途中で計画が漏れてしまい捕えられ処刑された事件もあった。
「分かるじゃろ?だから全ては日の目を見ずに闇のウチで終わるやも知れぬのだ。
それ仮に佐内がよからぬ動きを見せるにしても、まだ時期ではない。
望月を崩せるほどの力が佐内にはまだないからな」
  銀次郎は台本を読む役者の如く、一度も噛まずにしゃべり、ようやくふぅと一息つくと、
京之助に満面の笑顔を向け笑った。
「いや、いや、すまぬな。せっかくの酒にこのような辛気臭い話をしてしまって。
この話は推測も交じっておるため確証のある話ではないから安心してくれ。
それより、さぁさぁ、話は終りだ、飲もう」
  銀次郎は一人勝手に話を締め括ると再び酒をぐいぐい飲み始めた。
それから一番外に近い席に座る半十郎の焼き鳥を奪い取り、豪快に肉を咀嚼しだした。
焼き鳥を奪われた半十郎は困ったように眉をひそめ、恨めしそうな溜め息をもらす。
  完全に話の蚊帳の外にいたので半十郎の存在をすっかり忘れていたが、
今日は三人で飲みに来ていたのである。

 半十郎は銀次郎と京之助が話をしている時も、一人酒を飲み、その量はかなり多いはずなのだが、
まるっきり酔った様子を見せていない。相変わらずの真っ青な顔をしているわけだが、
その青い顔に京之助はふと思う。
「ところで、半十郎は派閥争いでどちらかの派閥につくのか?」
  半十郎はギョッと体を固くさせ京之助に顔を向ける。先程まで銀次郎に向けていた
恨めしそうな顔とは違う、どこか脅えたような顔だった。半十郎はその青い顔を何度も横に振り、
否定の意を表明する。
「まぁ、そうだよな」
  京之助は当たり前の事を聞いたような気がして、何だか馬鹿らしくなった。
  半十郎は弱虫で臆病である。自分に火の粉の降りかかる恐れのある話に
首を突っ込まないその判断は、半十郎に最も適した判断と言える。
  酔っている、と京之助は思った。半十郎の風見鳥的思考はよく理解しているし、
そこから半十郎の行動も十分に予想出来た。しかし、なぜか今回だけは半十郎の行動が
無性に気になり、聞かずにはいられなかった。それは酔いからくる高揚感と、
胸が騒ぐような不安感に違いなかった。
  京之助は自分の前に置かれた徳利に手を伸ばした。今日は酔いに身を任せようと思った。
難しい話は明日考えればいい、とせっかくの酒にまかせてうやむやにしたかった。
  机の上に置かれた徳利。しかし手に掴んだそれは陶器の重さ以外に何も感じられなく、
降ってみてもなに一つ音を立てない。
  せっかくの気分が台無しにされたようで、京之助は舌うちをする。
「婆さん。酒を追加してくれ」
  京之助が店の奥に声をかけた。が、店の奥は静まりかえっている。
「おーい、婆さん」
  いつまでも出てこない老婆に、京之助は前より少し大きな声を出す。
しかし、それでも返事はもちろん物音さえ聞こえてこなかった。
「何だよ、寝てんのか」
  京之助はぶつぶつ文句を言いつつ店の奥を覗き込むために、席を立とうとした瞬間、
店の奥とは反対方向の店の戸か、ガタガタ震えながら開いた。

 京之助、銀次郎、半十郎の視線がその戸の先に立つ人物に向く。
  戸の先に立っていたのは店の奥にいるはずの老婆だった。老婆は肩でふぅふぅ息をしながら、
両手に紙袋を抱えこんでいた。その先からごぼうの先や、大根の葉が垂れ下がっているのが見える。
どうも老婆は店をほっぽり出して買い出しに行っていたらしい。
  老婆は型で息をしていた。紙袋を抱える細い腕はプルプル震え、皺くちゃな顔からは滝のような汗が
ぽたぽた滴り落ちている。足元も酒に酔ったかのような千鳥足で危なっかしくて見ていられない。
  京之助はやれやれと、老婆の荷物を持とうと立ち上がろうとした時、
京之助より一足早く半十郎が立ち上がった。
  半十郎はスタスタと老婆に近寄ると、何も言わずに老婆の持つ紙袋を取りあげた。
老婆は驚いたように半十郎の顔を見上げたが、やがて目を細めて、ありがとうと言った。
  半十郎が酒でも赤くならなかった頬を朱に染めて、恥ずかしそうに笑うのが印象的だった。

 

「時に京よ。そなたやや(子)は出来たのか?」
  酒も大分入り軽くなった空気に乗せて、昔話や今の職場での話をした後、
ついに話題がなくなったところで、銀次郎が何の脈拍もなくきりだした。
  京之助は飲みかけていた酒を吹き出した。銀次郎はその様子を大きな声を立てて笑う。
「なんだ、まだ出来んのか。京と素女が祝言をあげて四年、いや五年だっけか?
まぁ、いいや。ひとまず未だ出来んとなると、そろそろしかるべき対応を取らねばならぬだろう」
  京之助は顔をしかめつつ、背筋を伸ばす。
  女の最大の仕事は子を産むことである。だから子を産めない女は失格の烙印を押され、
無理矢理実家に戻される場合がたたあった。
「しかしな銀次郎。離縁も何も素女には実家がない。離縁すれば素女は路頭に迷う事になる。
幼馴染みでもある素女のそんな姿を見るのは忍びないし、俺に娘を託して死んでいった義父に
申し訳が立たない。それに、ややが出来んのは素女の責任ではないんだ」

 言葉を発しながら、京之助はしまったと顔を歪めた。酒に酔いが回り、
いつになく饒舌で一言余計だった。聞き逃していてくれれば、と思ったが、
しかし銀次郎はその泣き所をめざとくついてくる。
「責任がない? どういう事だ」
  京之助は心の底でしたうちをする。
「何だよ。そんなにマズイ事なのか?十年来の付き合いだろ? 話せよ」
  銀次郎はニタニタ笑いながら言う。その悪意に満ちた笑みを見せつけられ
京之助は観念し溜め息をついた。
「素女を、女として見れんのだ」
「はぁ?」
「素女とは幼馴染みだったから、どうしてもその時の感覚を捨てきれず、
女としてより妹のような存在として思えてしまうのじゃ。まぁだから、その」
  何だか恥ずかしくなり、京之助は言葉を濁した。
「抱けんのか?」
  そんな京之助の敏感な感情を分かるはずもなく、銀次郎は直接的かつ強引に核心をついてくる。
「ま、まぁつまる所、その通りだ。もちろん素女は大切な存在だとは思うが、
しかしそれが妻としてましてや一人の女としてか、と問われれば疑問符がつく」
  そう言いつつ京之助は家にいるはずの素女に思いをはせた。
  素女は決して見映えが悪いわけではないのだが、美人とはほど遠い。
しかし、家事や炊事、洗濯を文句を言わずにこなしてくれている良妻である。
気立てもよくかつ贅沢品に固執することもない最高の妻である。
  しかし彼女は京之助にとって妻ではあったが女ではなかった。
物心つくより以前からの付き合いでは、京之助に恋を感じさせるには近すぎたのだ。
  京之助は溜め息を一つ、視線を宙に泳がせた。どうも素女の事を考えると
心にモヤがかかったような気持ちになる。それは決してここちよい気分ではなかった。
「そうか、それは困ったの。いや、困った困った」
  絶対に困っていない銀次郎は楽しそうで、声が妙にうわずっている。
「しかし安心しろ。俺にいい考えがある」
  銀次郎はニヤリと悪戯をした子供のように笑った。何やら嫌な予感がする。
このような顔をした際に思いつく考えとやらが役にたったためしはない。
どうせしょうもない事を言うのだろう。

「違う女を抱いてみてはどうだ」
  たいして期待はしていなかったが、やっぱり、とばかりに京之助は肩をすくめて
今日何度目かわからぬ溜め息をついた。
「銀次郎よ、浮気を薦めてどうするのだ」
「馬鹿だな、京は。浮気などではなく女体を提供する店があるだろう」
「店?まさか、遊郭か?」
  銀次郎は鼻の下を伸ばして下品に笑う。その笑いが肯定の意を唱えていた。
「遊郭なら確かに浮気にはならぬかも知れんが、それでも無理だな」
  素女は京之助に女の影がつきまとうのを極端に嫌っている。 それが異様なまでの鎖となり、
京之助の生活を制限しているのである。最近急激に、その鎖は緩くなりだしたものの、
その急な変化が逆に怖くあまり素女を刺激したくなかった。
「妻への気づかいか?それは俺が口裏を合わせてやるから大丈夫だ。それに」
  銀次郎は肩に手を回し、自分の方に引き寄せ、酒臭い口を細かく動かす。
「金は俺がだす。どうだ?こんなにうまい話は他にないぞ」
「し、しかし」
  確かに銀次郎の話通り、うまい話ではある。が、やはりのこのこと遊郭に行くのも
素女に悪い気がしてすんなりと首を縦にふることが出来ない。
「なぁにそんなに妻が大事なら、女を抱かなければいいだけだろう。ただ着いてくるだけでいい。
遊郭に入り、その先で京が何をしたかは絶対に分からぬし、俺はその先に踏み込まない。
そなたもしばらく女を抱いていないのだろう?」
  煮えきらない態度の京之助に、銀次郎は色の魅力をちらつかせながら言う。
  京之助はゴクンと喉を鳴らして、唾を飲み込んだ。色の魅力は心の天秤をゆっくりと傾かせ始めた。

9

 京之助と銀次郎は闇にぽっかりと浮かび上がった色町の中をぶらぶらと歩いていた。
助平根性と口車に乗った京之助はまんまとついてきてしまったが、
しかしそこに半十郎の姿はなかった。
「半十郎がかわいそうだったな、銀次郎よ」
  京之助は隣を歩く大柄な男、立浪銀次郎に皮肉をたっぷりこめて言う。
それに対し銀次郎は顔を歪めて、
「悪かったと思っておる」
「しかしあれはないだろう?半十郎とて嫁が来ぬのには深刻な理由がある。
銀次郎も十二分に知っておると思ったのだがな」
  半十郎は女経験が皆無なのを理由に銀次郎に嘲笑われ、怒って帰ってしまったのである。
  元々半十郎の家は京之助の家以上に貧乏で内職をしなければ
その日の暮らしにも耐えられないほどである。しかも銀次郎は次男坊だ。
大した資産もない長兄の家に居候し、婿入り婚の話を待っているようだが、
元々貧乏である半十郎の元に婚姻の話などくるはずもない。
  かと言って半十郎は京之助ほどの容姿があるわけでもなく、
かつ性格的にも内気で弱気で臆病である。そのため女と関係が持てないのもある意味当然と言えた。
「だから悪かったと思っておる、と言ったであろう。明日には謝る」
  銀次郎は少しいらついたような口調で言うと、一人ずんずん先に歩いて行く。
そのむきになる所が面白くて、京之助は口を押さえて笑った。
  少し銀次郎と放れた所を歩きつつ、京之助は左右に首を回して辺りを見渡す。
この町に生まれた京之助であったが、遊郭の集まる橘町に訪れたのは初めてであった。
厳格な父と気がふれたかのように京之助を縛りつける素女の前では、
ここに興味をもつ事は許されなかったのである。
  遊郭街の通りの両端には、二階建の建物が、ひしめきあっている。
その全ての建物が淡紅色に照らし出され、他の町では見られないほどなまめかしい。
  建物に出された座間には、着物をはだかせた女がその白い柔肌を見せつけつつ、
色っぽい視線を投げ掛けている。

 そんな情欲の町をもの珍しげに眺めつつ歩いていると、突然右腕が柔らかい何かに絡めとられた。
驚いてそれを見ると、若い女が京之助の腕に両手を絡ませていた。
雪のような白い肌に、血のように真っ赤な唇が鮮やかだった。その紅い唇がゆっくりと動く。
「坊や、うちによっていかない。たっぷり気持ちよくさせてあげる。
ふふ、何だったら私が相手をしてあげましょうか」
  女はまるで京之助を誘惑するように目元を緩ませ、甘い吐息を吹きかけてくる。
甘い女の匂いが鼻孔をくすぐる。
「あっ、お兄さんかっこいい。ねぇ、うちによってってや。たっぷり気持ちよくさせたるさかい」
  今度は左腕に絡み付いてきた。驚いた事にその先の女はまだ12、3ほどの少女であった。
少女は自分の顔に化粧をほどこし、その年では考えられないほどに妖艶に飾りつけられている。
「おい、ちょっとはなしてくれ」
  京之助は少し強めに右腕を引っ張る。しかし二人の女は腕をはなさない。
むしろより強く自分の体を京之助の腕に絡ませてくる。
柔らかな肌の感触が、京之助の腕に押し付けられた。京之助は思わず生唾を飲み込む。
  そうこうしているうちに、次から次に女が駆け寄ってくる。
誰も皆妖しげな笑みを浮かべ京之助に色目を使っている。
  気が付けば、京之助は女の波の中であった。
「おい、何をやっておるのだ」
  急に京之助の首ねっこが掴まれ、ちから付くでその場から引っ張り出された。
京之助はむせたようなせきを繰り返す。
「京よ。それではただの田舎モノだぞ」
  見上げた先の銀次郎はやれやれとばかりに溜め息をつきながら言う。
「あ、ああ。しかし凄いなあの客引きは、まるで津波のように押し寄せ、逃げられなかったよ。
皆、ああ言った客引きをされるのか?」
「京はこの場には珍しい美男子じゃからな。皆油の浮いた爺よりそなたに抱かれたいのだろ」
  それから銀次郎は自嘲気味に鼻で笑うと京之助に背中を向け歩き出した。
京之助も今度ははぐれないように急いでその背に続いた。
「ここだ」

 銀次郎が案内した先は、遊郭街の一番奥にある店だった。
「本当にここなのか」
  京之助は驚きつつ、目をまん丸くしてその壮大な光景に言葉を失う。
  銀次郎に連れてこられた遊郭はごてごてと豪華に飾り付けられた大公家の御殿のようだった。
「どうした?そんな所につったって。早く入るぞ」
  目を丸くする京之助をしり目に、銀次郎は平然とした顔でその中に入っていく。
まるで場違いなその建物に気後れしつつも、京之助もその後に続いた。

 銀次郎に案内された遊郭。その中は外装と比例して上品な作りで、
そのまま本陣として使えそうなほど広々としていた。玄関正面に番台がでかでかと設置され、
その左手に廊下が真っ直ぐに伸びている。
綺麗に磨かれた檜の床はピカピカと檜の原色を映えさせていた。
  その真っ直ぐな廊下の左右は襖で仕切られており、中の様子は伺いしれないが
およそ10ほどの部屋があるように思える。番台の右手にも緩やかな傾斜の階段が設置されており、
二階にもいくつかの部屋があるようである。
  しかし高級に見えるこの建物も見栄えのよさとは異なり、思いのほか客入りは悪く
その広々とした玄関には京之助と銀次郎の二人以外の客はいなかった。
だからだろうか、京之助は外の世界とは別の世界に来たような疎外感を感じていた。
「ようこそいらっしゃいました」
  変に明るい声が玄関に高々と響く。番台にいた小柄な男が黄色い歯をにぃと見せつつ近寄ってきた。
  貧相な男で、顔は醜く痩せほそり頬骨が浮いている。年の頃は三十後半と言ったところだろうか。
髪には白いものが目立ちはじめている。
  下種な笑みを満面に浮かべ駆け寄ってきた男であったが、銀次郎の姿を見た途端に
その笑みが一気に凍りついた。緊張からかさの額には光るものが浮き始め、
硬直した筋肉が頬肉をピクピク痙攣させている。
「た、立浪様。こ、これは失礼いたしました。すぐに主を呼んで参ります」
  男がようやく絞りだした声は思いの他大きかった。
「いや、よい。それより、早く女の所に案内してくれぬか」

 銀次郎の普段の様子からは想像できないほど落ち着いて低く、威厳さえ感じられるよう思えた。
「は、はい、かしこまりました。立浪様には当店一番の女を用意いたしまする」
「いや、二番でいい」
  そう言うと銀次郎は京之助の肩を軽く叩いた。
「一番は、こいつに回してくれ」
  不意に肩を叩かれ、驚いて銀次郎の顔をに目をやる。その銀次郎は不適な笑みを浮かべていた。
「え?あ、はい、少々お待ち下さいませ」
  小柄な男は萎縮し、困惑した様子の顔のまま深く頭を下げると、駆け足で店の奥に消えていった。
  下種な男が消え、広々とした玄関に二人きりになる。
静かになったそこに、ピタリと締められた背中の戸から表通りの客引の甘い声が染み入ってくる。
「俺は誰でもよかったんだが」
  京之助はその中に消えるように呟いた。
  正直な話遊女は苦手である。厳格で頑固な父に育てられた京之助には、例え生活のためとは言え、
男に体を売るという根性があまり好きにはなれないのである。
  しかし、それにしても、と思う。
  京之助は銀次郎の顔を覗きこんだ。銀次郎はその言動や、下級武士である京之助や半十郎と
付き合っている事からは想像も出来ないが、彼は藩屈指の名家の跡継ぎである。
彼の父親も家老として藩政に携わり、望月と共に藩の梶取りを担っている。
将来的には銀次郎も藩政を担う事になるだろうと言われている。
  しかしその藩の将来を担う男の威厳がこんなしょうもない所で発揮されるのは、
またなんとも悲しい話ではある。
「お待たせいたしました」
  静寂を打ち破り、二人の男が足音を立てて駆け寄ってきた。一人は先程の男のようだが、
もう一人に見覚えはなかった。派手な上着を肩から羽織り、お腹はでっぷりと膨らんでいる。
目元が垂れ、口元からは白い歯がうかがいしれる。先程の男とは違い比較的上品だが、
主だろうか、と京之助はそんな事を思った。

「ささ、立浪様。お部屋はお二階でございます。ささどうぞどうぞ」
  主らしき人がしわくちゃな顔で銀次郎に頭を何度も下げ、さりげなく銀次郎を階段へと導く。
まるで主らしくない腰の低い態度で、滑稽にさえ思えたがその顔に堀こまれた二つの瞳の奥に、
権力への平伏とあからさまな欲望がにじみでているように思えた。
銀次郎にうまく取り入ろうとしているのだろう。
「じゃあな、京。また後で」
  銀次郎は右手を上げ軽く会釈をすると、二階への階段を登り始めた。
その後に主とおぼしき男が素早く続く。
「さぁ貴方様はこちらでございます」
  銀次郎の後を追っていた視界の先に、貧相な男の顔が大きく写り、思わず一歩引いてしう。
「着いてきてください。案内いたします」 男はいかにも好色そうな目を京之助に向け、
品性の欠片も感じられない笑みを浮かべる。思いの他男の顔が近く、呼吸をするたびに
鼻が千切れるような悪臭が鼻の奥を刺激し、京之助は顔を歪めた。
  その京之助の様子におくすることなく、男は一度大きく息をはくと、
京之助に丸い背中を向けて歩き出した。あまりの悪臭に鼻を摘み空気を右手であおりつつ、
京之助は無言でその背中に続いた。

 京之助が案内された部屋は、他とは隔離された小さな建物の中だった。
廊下の先から外に出た渡り廊下の先の部屋である。
  行灯に火がともり、橙に照らし出されている部屋の中。
広さは十畳ほどで、障子で外の空気と遮断され少し蒸している。
その蒸した中に化粧と香水が交わったような甘い匂いが濃密に香りたっていた。
  部屋の中央には大きな布団が一枚だけ敷かれており、
それがここでこれから行われる行為を如実に語っているような気がして卑猥に思えた。
その一枚の布団の枕元に置かれた行灯の火が妖しく燃え、
雰囲気をより淫美により妖艶に作り上げている。
  遊女と思われる女は部屋の中央の布団の前で三指をついていた。
真っ白な着物は薄く、そこから肩口がうかがいしれる。頭を下げた、
絹のようにしなやかで光沢を放つ長い髪は髪止めもつけられておず、
背中から入りこむ風にあおられて僅かに揺らいでいた。

 京之助は女の前まで行くと、立ち止まりその場に腰を下ろした。甘い匂いはさらに濃密度をまし、
酔いそうなくらいに鼻につきまとう。
「かげろうにございます」
  女は闇に溶けてしまいそうなほど静かに自分の名を名乗った。
どこか聞き覚えのある声のように思えた。
「本日はよろしくお願いいたします」
  女は頭を下げたまま、ゆっくりと丁寧な口調でそう言うと、両手を畳の上に置いたままもったいぶるかのようにゆっくりと顔を上げる。女の長い髪が左右に別れて滝のように下へと流れ落ちた。
  その隙間から除く顔立ちを覗き見、京之助は声を上げそうになる口を両手で押さえ込んだ。
  この女を京之助は知っていた。
  あの橋の上、月に照らされて幾度となく話を交した女。執拗なまでに都に思いをはせる女。
美しくかつ上品で儚げに笑う女。そして、心を惹かれつつあった女。
  ようやく顔をあげた女も瞳に京之助の姿を捕え、明らかに困惑したぎこちない笑みを浮かべた。
「ほたる?」
  ほたる。かげろうの名もここから来ているのであろう。
「京様。どうしてここに?」
  ほたるは唇をふるふると震わせながら言う。
「それは、こちらの台詞だ。何故、こんな所に、蕎麦屋ではなかったのか」
  ほたるは黙って下を向く。それを京之助は正面から真っ直ぐ見据えた。
ほたるは沈んだ表情のまま唇を噛み締め、ただ畳を見つめているだけで動かない。
  まるで人形のように固まってしまっているほたるを見ていて、
ふと番台が没落した公家がどうとか言っていたような事を思い出した。
  公家の生活は戦乱の時代を越えて、泰平の世になっても相変わらず苦しいと聞いている。
ほとんど公家が意味をなさなかった安土桃山から時代はうつり、官職の優位が再び証明され、
武士からの尊敬を集められるようになったものの、古代の頃のように莫大な荘園は既になく、
公家は一部を除き内職に精を出さねば経済的に成り立たなくなっていた。
もちろん経済的に成り立たなくなれば、行き着く先は没落である。

 ほたるは京が恋しいと言っていた。もしもほたるが没落した公家の出身ならば、
京に思いをはせていた理由も説明がつく。
「軽蔑いたしますか?」
  考え込む京之助にほたるが心配そうな顔で話しかけてくる。
「軽蔑、とは?」
「私が、こんな汚れた女でって事です」
「いや、そんな事はしない。確かに驚きはしたがな」
  京之助は笑顔を取り繕い嘘をついた。本当の所ほたるにかなり失望していた。
  遊女は嫌いである。そう思うように教育された京之助には、そこにどんな理由があろうとも、
たとえ遊女が知り合いでかつ心惹かれつつあった女でもその感情はゆらぐ事はなかった。
現にあの美しいと思った長い髪も、整った顔も全てが既に汚れたモノのように思えて、
淡い心が萎えていく。
「ありがとうございます。すごく、嬉しいです」
  そんな京之助の思惑に気付くはずもないほたるは本当に嬉しそうに笑った。
まだ二十歳前の幼さの残る子供の笑みだった。
その笑顔が針で刺されたような痛みを胸の奥に走らせる。
  ほたるは瞳を閉じ息を吐くように、さて、と言った。それからゆっくりと瞳を開け、
まるで獲物をみつけた蛇のように目を細くさせ、妖艶に自分の唇を舐める。
そこに幼さは欠片もなく、男を欲する女の仕草だった。
「ここは遊郭にございます。私に体を預けてください。たっぷりと気持ちよくさせて、
天国に連れていってあげます。京様に最高の女を教えて差し上げますね」
  ほたるの体が京之助の体に徐々に近付いてくる。
「ま、待て、俺は」
「据え膳食わぬは武士の恥ですよ」

10

 ほたるは妖艶に笑うと、畳をはい京之助にゆっくりと近付いてくる。
その妖しい瞳はまるで獲物を見つめる蛇のようにしっとり湿って、
京之助の体にまとわりつくようだった。
「おい、ほたる?」
  その迫力に圧され、京之助は後ろに手をついた。ほたるは着物をはだかせつつ、
胸元を露に京之助に近付いてくる。
  ほたるは両手を京之助の首に回し、京之助の唇に自分の唇を重ねてきた。
熱く甘い吐息が京之助の口内に広がる。その甘美な感触に頭の中が何か恐ろしいモノに
襲われたかのように真っ白になった。
  ほたるは唇を重ねたまま全体重を乗せるように体を密着させ、京之助を畳の上に押し倒した。
体が仰向けに寝転がされると、ほたるはその上にのしかかり、京之助の顔を両手で抑え、
むさぼるように激しく唇に吸い付てくる。
「む、ん……あ…は、ん」
  口が彼女の口に塞がれ、うまく呼吸が出来ない。息苦しくて、意識がモヤの中に埋まっていく。
それでいて頭が宙に浮くような浮遊感と共に、思考が溶けていくような快感に包まれていた。
  ほたるはまるで飴でも舐めるかのように執拗に唇だけを舐め回している。
ぬめぬめと湿った感触を残し、舌が唇をはい回るがその感触は決して不快ではなかった。
「ふ……んっ、ちゅ」
  さらに彼女の舌は京之助の唇の隙間を縫うように、じわじわと口の中に侵入してくる。
「ちゅっ……はっ…ん……はぁ、ん…」
  ほたるの舌は意思を持ったかのように京之助の口の中を蹂躙する。
まずは頬の裏側を慎重に舐めあげ、続いて唇の裏に丁寧に舌を這わす。
それから京之助の前歯を舌先でくすぐり、やがてそれは京之助の口内に眠っていた舌に
濃密に絡みついてきた。
「ん…ちゅ…あ……ちゅ…ん……」
  ほたるはまるで泉のように湧き出る唾液を京之助の口に流し込み、舌と共に口内で絡めてくる。
ほたるの唾液と京之助の唾液が混ざりあった互いの舌は、淫猥な水音を部屋に響かいた。
  その溢れるほど流し込まれるほたるの唾液を京之助は喉をならして次々と飲み込んでいく。
その唾液が喉を通過するだけで、限りなく甘い、頭がぼやけるような快感を感じた。

「ん…ちゅ…は、ちゅ、んはぁ」
  しばし、口内を滅茶苦茶にしたほたるの舌が、唾液の糸を引きつつ京之助の口を解放した。
京之助は肩をならした激しい呼吸が繰り返す。
ほたるの激しい接吻に、もともとの酒酔いがいっそう回って頭の中がくらくらした。
「ふふ、京様。接吻も気持ちのよいものでございましょう?」
  ほたるは京之助の瞳をジッと見つめながら言う。
頬はうっすらと赤く、唇がなまめかしく光っている。
彼女の目元は涼しげにすわって淫らに京之助を誘っていた。
  すでに京之助に余裕の欠片ほども残っていない。彼女が重ねる舌の淫猥な動きに翻弄され理性や、
あれほど胸を占めていた素女に対する道義心も彼女の舌使いの前に溶けるように消えていた。
  そしてその後に残ったものが、ただ快楽だけを欲する止まることを知らない欲望。
快楽を享受したいという安易な思考だけであった。
  酒の酔いと彼女の与える快楽。その二つに頭がなぶられ京之助は正気を保てていないのだ。
「まだまだ、これからにございます。天国はもう少し先ですよ」
  朦朧とする京之助にほたるは舌を出し、京之助の鼻の頭をペロリと舐めあげる。
と、思うとその舌は唾液の線を残しつつ、鼻から右の頬を通り耳まで伝っていく。
  鼻の頭でかわいた唾液から彼女の甘い香りが猛烈に香り立つ。
それはまるで春の風の匂いのような芳しい匂いに感じた。
「殿方の中には耳も気持ちよいと仰せの方もございます。京様はいかがでしょうか」
  ほたるは熱い吐息を耳に吹きかけつつ、脳味噌が溶けるような甘ったる声で囁く。
その吐息、声は脳天を突き破り、快楽が股間に直撃した。そのあまりの快感に京之助は
びくびくと体を痙攣させる。
「京様は耳がよろしいのでございますね?分かりました。たっぷりと舐めて差し上げます」
  あくまで囁くような声で、かつ熱い吐息を吹きかけ続けていたほたるの口内に、
京之助の耳がゆっくりと飲み込まれていく。唇で耳たぶを優しくかみ、
舌を這わせて耳の筋を丁寧に舐めあげていく。熱い吐息を絡めるのを決して忘れずに。

 それからほたるの馬手が、京之助のはだけた着物の隙間を這わせ、
ゆっくりと下へ下へと伝っていく。決して爪は立てずに、しかし撫でるようなその感触に
京之助は幾度となく体を震わせた。
「やん、そんなに動かないで下さいませ。うまく御着衣をお脱がせ出来ませぬ」
  と口では言いつつも、彼女は手慣れた手付きで京之助から着物をはぎとっていく。
下着で痛いほど押さえ付けられていた蔭茎は、
下着が外されようやく猛々しく隆起した全身を明らかにした。
「まぁ、大変。こんなに腫れ上がっております。大丈夫ですか?痛くないですか?」
  ほたるはからかうような声で囁くと、着物を脱がせた馬手で、男根の先端に振れてくる。
その瞬間、快楽の電流が全身を駆け巡り、京之助は一際大きく体を痙攣させ悶えた。
「やっぱり痛いんですね?ほら、先から膿が出てきております」
  ほたるは先からにじみ出た汁を先端によくなじませ、人指し指で亀頭を撫であげる。
「膿は全て出さないといけませんよね」
  その囁きを最後に絶えず耳を刺激していた暖かい口から、ようやく解放された。
それでも右脳が痺れたような快感は引く事はなく、いつまでもその口の感触が耳に残っていた。
  ほたるは京之助の体の上を滑るように下に移動する。
柔らかな女体が京之助の上を撫で回すような心地よさを残し、体の上のほたるの体重がスッと消えた。
  ほたるは京之助の股間の正面まで移動すると、京之助のほうけた瞳を真っ直ぐ見据え、
にぃっと笑う。それから先ほどまで耳をなぶりまわしていた口を大きく開けてその中を指差した。
「治療はここで行います。痛くしませんのでご安心下さい。
たっぷりの唾液を絡ませますから、ふふふ」
  ほたるの大きく開いた口に唾液が充満していく。彼女の淡紅色の口内はピクピクと痙攣し
膣口のように伸縮を繰り返す。その奥では真っ赤な舌が糸をひきうねうねとうごめいていた。
  あそこに飲み込まれたら、きっと極上の快楽を与えてくれる。
その期待感に京之助は酸欠の金魚のように口を動かした。

 ほたるは愉快そうに笑う。軽蔑と侮辱、そして京之助をこれからてごめに出来るという
優越感の混じった笑みだった。
  ほたるの顔が落ち、その唇が京之助の蔭茎へと近付く。
その折那、ほたるの口に入りきれなくなった唾液が糸を引きこぼれ落ちた。
  蔭茎に暖かくて柔らかい彼女の唇が吸い付いた。そして彼女が顔を落とすと、
男根はその唇を押し広げながらゆっくりと彼女の口の中に飲み込まれていく。
  暖かく柔らかい感触。それでいてぬめぬめの唾液と粘膜がまとわりつくように絡みつく。
「は…んっふぁ……ちゅ、…ぷはぁ……んあ」
  彼女はわざといやらしい水音を立てつつ、亀頭を舐め回す。
たっぷりと唾液が染み込んだ舌はうねうねとうごめき、亀頭から裏筋を伝いカリの部分を舐めあげる。
「うん……ちゅ…あん……ふちゅ…ん、…あはぁん、ぷちゅ……」
  ほたるは摩羅を飲み込んだまま顔を上下に動かし始めた。唇をきゅっと絞め上げ、
柔らかで暖かくてぬめぬめとした粘膜で扱きあげてくる。
蔭茎はほたるの唾液がまぶされ、べとべとに湿りてかてかと光っていた。
  ほたるが与える快楽を京之助は唇を噛み締めて耐える。
「うん…ちゅ……ふふふん…ちゅぱ」
  ほたるは京之助の瞳を真っ直ぐ見据え目を細めて笑う。それから彼女は唇をすぼめて、
蔭茎の先を吸いあげる。その新たな快感に京之助は声にならない声を立てた。
「ちゅぱ、ふふふ、可愛いい。我慢しているのですか?」
  彼女は蔭茎から口を離し、まるで子供をなだめる母親のような穏やかな声で話しかけてくる。
その間、馬手で絶えまなく蔭茎を扱きあげていた。直もほたるは語る。
「では、こんなのはどうでしょう?」
  ほたるは蔭茎を激しく扱きつつ、唇の間から唾液の糸をひく真っ赤な舌を出し、
尿道をチロチロと舐めあげてくる。すると、下半身の神経が限界が近いと泣きはじめた。
「あれ?もう限界ですか?少し早い気がしますが、それでは最後は私の口の中で果てて下さい」
  ほたるはそのぬめぬめの口内に再び京之助を飲み込んだ。
それから顔を激しく上下に動かし尿道を舐めあげ、蔭茎を唇で絞めあげつつ口内で扱きあげる。

「ちゅ…ちゅ………ちゅううぅぅ」
  最後にほたるは物凄い力で尿道を吸い上げた。それが京之助の糸を切ることとなる。
  京之助は全身を激しく痙攣させ、大きな声であえいだ。白い欲望が一気に尿道を駆け抜け、
ほたるの口内にはきだされた。蔭茎が彼女の口内でビクビクと震え、
その度に勢いよく牡汁がほとばしる。
「ちゅるるるるる………」
  ほたるはずっと尿道を吸い上げたまま、何度も何度も顔を上下に動かす。
尿道に残った精液を全てを要求するようなほたるの口使いに欲望の放出は
一向に終わる気配を見せない。
  ちゅぽんと音を立てて彼女の口内から蔭茎が解放された時には、
京之助は魂まで吸いとられたかのように体が動かなくなっていた。
丘を全速力で駆け抜けたような疲労感にひゅうひゅうと息を鳴らす。
瞳からは涙、口からは唾液がだらしなくしたたり落ちる。
  ほたるは両手で器をつくり、その中に口の中の液体をはきだした。
真っ白で固形物まで混ざったようなドロドロの牡汁が、ほたるの口からとめどなくしたたり落ち、
たちまちのうちに白い水溜まりが広がる。それを目の前にほたるは満足そうに笑う。
「ふふふ、気持ちよかったんですね?ホラ、 こんなに濃いのがいっぱい」
  ほたるはそう言うと、水溜まりに口を近付け唇をすぼめてそれを全て飲み干した。
こくこくと喉が鳴らし全てを胃の中に流しこんだあと、ほたるは唇の端から垂れたモノまで
人指し指ですくいとり、ペロリと舐め上げる。その仕草がたまらなくいやらしかった。
「ふはぅ、全部飲めました。本当はこんな事はしないんですけどね。でもこれは京様のだから」
  ほたるはうっとりと瞳をとろけさせ、頬を赤く染めた。その顔は行為中に見せた大人の顔とは違う、
年齢相応の少女の顔だった。

To be continued

 

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