京之助と銀次郎は闇にぽっかりと浮かび上がった色町の中をぶらぶらと歩いていた。
助平根性と口車に乗った京之助はまんまとついてきてしまったが、
しかしそこに半十郎の姿はなかった。
「半十郎がかわいそうだったな、銀次郎よ」
京之助は隣を歩く大柄な男、立浪銀次郎に皮肉をたっぷりこめて言う。
それに対し銀次郎は顔を歪めて、
「悪かったと思っておる」
「しかしあれはないだろう?半十郎とて嫁が来ぬのには深刻な理由がある。
銀次郎も十二分に知っておると思ったのだがな」
半十郎は女経験が皆無なのを理由に銀次郎に嘲笑われ、怒って帰ってしまったのである。
元々半十郎の家は京之助の家以上に貧乏で内職をしなければ
その日の暮らしにも耐えられないほどである。しかも銀次郎は次男坊だ。
大した資産もない長兄の家に居候し、婿入り婚の話を待っているようだが、
元々貧乏である半十郎の元に婚姻の話などくるはずもない。
かと言って半十郎は京之助ほどの容姿があるわけでもなく、
かつ性格的にも内気で弱気で臆病である。そのため女と関係が持てないのもある意味当然と言えた。
「だから悪かったと思っておる、と言ったであろう。明日には謝る」
銀次郎は少しいらついたような口調で言うと、一人ずんずん先に歩いて行く。
そのむきになる所が面白くて、京之助は口を押さえて笑った。
少し銀次郎と放れた所を歩きつつ、京之助は左右に首を回して辺りを見渡す。
この町に生まれた京之助であったが、遊郭の集まる橘町に訪れたのは初めてであった。
厳格な父と気がふれたかのように京之助を縛りつける素女の前では、
ここに興味をもつ事は許されなかったのである。
遊郭街の通りの両端には、二階建の建物が、ひしめきあっている。
その全ての建物が淡紅色に照らし出され、他の町では見られないほどなまめかしい。
建物に出された座間には、着物をはだかせた女がその白い柔肌を見せつけつつ、
色っぽい視線を投げ掛けている。
そんな情欲の町をもの珍しげに眺めつつ歩いていると、突然右腕が柔らかい何かに絡めとられた。
驚いてそれを見ると、若い女が京之助の腕に両手を絡ませていた。
雪のような白い肌に、血のように真っ赤な唇が鮮やかだった。その紅い唇がゆっくりと動く。
「坊や、うちによっていかない。たっぷり気持ちよくさせてあげる。
ふふ、何だったら私が相手をしてあげましょうか」
女はまるで京之助を誘惑するように目元を緩ませ、甘い吐息を吹きかけてくる。
甘い女の匂いが鼻孔をくすぐる。
「あっ、お兄さんかっこいい。ねぇ、うちによってってや。たっぷり気持ちよくさせたるさかい」
今度は左腕に絡み付いてきた。驚いた事にその先の女はまだ12、3ほどの少女であった。
少女は自分の顔に化粧をほどこし、その年では考えられないほどに妖艶に飾りつけられている。
「おい、ちょっとはなしてくれ」
京之助は少し強めに右腕を引っ張る。しかし二人の女は腕をはなさない。
むしろより強く自分の体を京之助の腕に絡ませてくる。
柔らかな肌の感触が、京之助の腕に押し付けられた。京之助は思わず生唾を飲み込む。
そうこうしているうちに、次から次に女が駆け寄ってくる。
誰も皆妖しげな笑みを浮かべ京之助に色目を使っている。
気が付けば、京之助は女の波の中であった。
「おい、何をやっておるのだ」
急に京之助の首ねっこが掴まれ、ちから付くでその場から引っ張り出された。
京之助はむせたようなせきを繰り返す。
「京よ。それではただの田舎モノだぞ」
見上げた先の銀次郎はやれやれとばかりに溜め息をつきながら言う。
「あ、ああ。しかし凄いなあの客引きは、まるで津波のように押し寄せ、逃げられなかったよ。
皆、ああ言った客引きをされるのか?」
「京はこの場には珍しい美男子じゃからな。皆油の浮いた爺よりそなたに抱かれたいのだろ」
それから銀次郎は自嘲気味に鼻で笑うと京之助に背中を向け歩き出した。
京之助も今度ははぐれないように急いでその背に続いた。
「ここだ」
銀次郎が案内した先は、遊郭街の一番奥にある店だった。
「本当にここなのか」
京之助は驚きつつ、目をまん丸くしてその壮大な光景に言葉を失う。
銀次郎に連れてこられた遊郭はごてごてと豪華に飾り付けられた大公家の御殿のようだった。
「どうした?そんな所につったって。早く入るぞ」
目を丸くする京之助をしり目に、銀次郎は平然とした顔でその中に入っていく。
まるで場違いなその建物に気後れしつつも、京之助もその後に続いた。
銀次郎に案内された遊郭。その中は外装と比例して上品な作りで、
そのまま本陣として使えそうなほど広々としていた。玄関正面に番台がでかでかと設置され、
その左手に廊下が真っ直ぐに伸びている。
綺麗に磨かれた檜の床はピカピカと檜の原色を映えさせていた。
その真っ直ぐな廊下の左右は襖で仕切られており、中の様子は伺いしれないが
およそ10ほどの部屋があるように思える。番台の右手にも緩やかな傾斜の階段が設置されており、
二階にもいくつかの部屋があるようである。
しかし高級に見えるこの建物も見栄えのよさとは異なり、思いのほか客入りは悪く
その広々とした玄関には京之助と銀次郎の二人以外の客はいなかった。
だからだろうか、京之助は外の世界とは別の世界に来たような疎外感を感じていた。
「ようこそいらっしゃいました」
変に明るい声が玄関に高々と響く。番台にいた小柄な男が黄色い歯をにぃと見せつつ近寄ってきた。
貧相な男で、顔は醜く痩せほそり頬骨が浮いている。年の頃は三十後半と言ったところだろうか。
髪には白いものが目立ちはじめている。
下種な笑みを満面に浮かべ駆け寄ってきた男であったが、銀次郎の姿を見た途端に
その笑みが一気に凍りついた。緊張からかさの額には光るものが浮き始め、
硬直した筋肉が頬肉をピクピク痙攣させている。
「た、立浪様。こ、これは失礼いたしました。すぐに主を呼んで参ります」
男がようやく絞りだした声は思いの他大きかった。
「いや、よい。それより、早く女の所に案内してくれぬか」
銀次郎の普段の様子からは想像できないほど落ち着いて低く、威厳さえ感じられるよう思えた。
「は、はい、かしこまりました。立浪様には当店一番の女を用意いたしまする」
「いや、二番でいい」
そう言うと銀次郎は京之助の肩を軽く叩いた。
「一番は、こいつに回してくれ」
不意に肩を叩かれ、驚いて銀次郎の顔をに目をやる。その銀次郎は不適な笑みを浮かべていた。
「え?あ、はい、少々お待ち下さいませ」
小柄な男は萎縮し、困惑した様子の顔のまま深く頭を下げると、駆け足で店の奥に消えていった。
下種な男が消え、広々とした玄関に二人きりになる。
静かになったそこに、ピタリと締められた背中の戸から表通りの客引の甘い声が染み入ってくる。
「俺は誰でもよかったんだが」
京之助はその中に消えるように呟いた。
正直な話遊女は苦手である。厳格で頑固な父に育てられた京之助には、例え生活のためとは言え、
男に体を売るという根性があまり好きにはなれないのである。
しかし、それにしても、と思う。
京之助は銀次郎の顔を覗きこんだ。銀次郎はその言動や、下級武士である京之助や半十郎と
付き合っている事からは想像も出来ないが、彼は藩屈指の名家の跡継ぎである。
彼の父親も家老として藩政に携わり、望月と共に藩の梶取りを担っている。
将来的には銀次郎も藩政を担う事になるだろうと言われている。
しかしその藩の将来を担う男の威厳がこんなしょうもない所で発揮されるのは、
またなんとも悲しい話ではある。
「お待たせいたしました」
静寂を打ち破り、二人の男が足音を立てて駆け寄ってきた。一人は先程の男のようだが、
もう一人に見覚えはなかった。派手な上着を肩から羽織り、お腹はでっぷりと膨らんでいる。
目元が垂れ、口元からは白い歯がうかがいしれる。先程の男とは違い比較的上品だが、
主だろうか、と京之助はそんな事を思った。
「ささ、立浪様。お部屋はお二階でございます。ささどうぞどうぞ」
主らしき人がしわくちゃな顔で銀次郎に頭を何度も下げ、さりげなく銀次郎を階段へと導く。
まるで主らしくない腰の低い態度で、滑稽にさえ思えたがその顔に堀こまれた二つの瞳の奥に、
権力への平伏とあからさまな欲望がにじみでているように思えた。
銀次郎にうまく取り入ろうとしているのだろう。
「じゃあな、京。また後で」
銀次郎は右手を上げ軽く会釈をすると、二階への階段を登り始めた。
その後に主とおぼしき男が素早く続く。
「さぁ貴方様はこちらでございます」
銀次郎の後を追っていた視界の先に、貧相な男の顔が大きく写り、思わず一歩引いてしう。
「着いてきてください。案内いたします」 男はいかにも好色そうな目を京之助に向け、
品性の欠片も感じられない笑みを浮かべる。思いの他男の顔が近く、呼吸をするたびに
鼻が千切れるような悪臭が鼻の奥を刺激し、京之助は顔を歪めた。
その京之助の様子におくすることなく、男は一度大きく息をはくと、
京之助に丸い背中を向けて歩き出した。あまりの悪臭に鼻を摘み空気を右手であおりつつ、
京之助は無言でその背中に続いた。
京之助が案内された部屋は、他とは隔離された小さな建物の中だった。
廊下の先から外に出た渡り廊下の先の部屋である。
行灯に火がともり、橙に照らし出されている部屋の中。
広さは十畳ほどで、障子で外の空気と遮断され少し蒸している。
その蒸した中に化粧と香水が交わったような甘い匂いが濃密に香りたっていた。
部屋の中央には大きな布団が一枚だけ敷かれており、
それがここでこれから行われる行為を如実に語っているような気がして卑猥に思えた。
その一枚の布団の枕元に置かれた行灯の火が妖しく燃え、
雰囲気をより淫美により妖艶に作り上げている。
遊女と思われる女は部屋の中央の布団の前で三指をついていた。
真っ白な着物は薄く、そこから肩口がうかがいしれる。頭を下げた、
絹のようにしなやかで光沢を放つ長い髪は髪止めもつけられておず、
背中から入りこむ風にあおられて僅かに揺らいでいた。
京之助は女の前まで行くと、立ち止まりその場に腰を下ろした。甘い匂いはさらに濃密度をまし、
酔いそうなくらいに鼻につきまとう。
「かげろうにございます」
女は闇に溶けてしまいそうなほど静かに自分の名を名乗った。
どこか聞き覚えのある声のように思えた。
「本日はよろしくお願いいたします」
女は頭を下げたまま、ゆっくりと丁寧な口調でそう言うと、両手を畳の上に置いたままもったいぶるかのようにゆっくりと顔を上げる。女の長い髪が左右に別れて滝のように下へと流れ落ちた。
その隙間から除く顔立ちを覗き見、京之助は声を上げそうになる口を両手で押さえ込んだ。
この女を京之助は知っていた。
あの橋の上、月に照らされて幾度となく話を交した女。執拗なまでに都に思いをはせる女。
美しくかつ上品で儚げに笑う女。そして、心を惹かれつつあった女。
ようやく顔をあげた女も瞳に京之助の姿を捕え、明らかに困惑したぎこちない笑みを浮かべた。
「ほたる?」
ほたる。かげろうの名もここから来ているのであろう。
「京様。どうしてここに?」
ほたるは唇をふるふると震わせながら言う。
「それは、こちらの台詞だ。何故、こんな所に、蕎麦屋ではなかったのか」
ほたるは黙って下を向く。それを京之助は正面から真っ直ぐ見据えた。
ほたるは沈んだ表情のまま唇を噛み締め、ただ畳を見つめているだけで動かない。
まるで人形のように固まってしまっているほたるを見ていて、
ふと番台が没落した公家がどうとか言っていたような事を思い出した。
公家の生活は戦乱の時代を越えて、泰平の世になっても相変わらず苦しいと聞いている。
ほとんど公家が意味をなさなかった安土桃山から時代はうつり、官職の優位が再び証明され、
武士からの尊敬を集められるようになったものの、古代の頃のように莫大な荘園は既になく、
公家は一部を除き内職に精を出さねば経済的に成り立たなくなっていた。
もちろん経済的に成り立たなくなれば、行き着く先は没落である。
ほたるは京が恋しいと言っていた。もしもほたるが没落した公家の出身ならば、
京に思いをはせていた理由も説明がつく。
「軽蔑いたしますか?」
考え込む京之助にほたるが心配そうな顔で話しかけてくる。
「軽蔑、とは?」
「私が、こんな汚れた女でって事です」
「いや、そんな事はしない。確かに驚きはしたがな」
京之助は笑顔を取り繕い嘘をついた。本当の所ほたるにかなり失望していた。
遊女は嫌いである。そう思うように教育された京之助には、そこにどんな理由があろうとも、
たとえ遊女が知り合いでかつ心惹かれつつあった女でもその感情はゆらぐ事はなかった。
現にあの美しいと思った長い髪も、整った顔も全てが既に汚れたモノのように思えて、
淡い心が萎えていく。
「ありがとうございます。すごく、嬉しいです」
そんな京之助の思惑に気付くはずもないほたるは本当に嬉しそうに笑った。
まだ二十歳前の幼さの残る子供の笑みだった。
その笑顔が針で刺されたような痛みを胸の奥に走らせる。
ほたるは瞳を閉じ息を吐くように、さて、と言った。それからゆっくりと瞳を開け、
まるで獲物をみつけた蛇のように目を細くさせ、妖艶に自分の唇を舐める。
そこに幼さは欠片もなく、男を欲する女の仕草だった。
「ここは遊郭にございます。私に体を預けてください。たっぷりと気持ちよくさせて、
天国に連れていってあげます。京様に最高の女を教えて差し上げますね」
ほたるの体が京之助の体に徐々に近付いてくる。
「ま、待て、俺は」
「据え膳食わぬは武士の恥ですよ」 |