目覚めるとそこは、天国でも地獄でもなく――そもそも天国と地獄がどういう場所かも
知らないのだが。
智は自分が生きていることを悟った。
目の前にはエルの姿。智に跨って繋がり、口には血を滴らせ、手は首に掛かったまま。
腕や胸に無数の刺し傷が増えているが、状況は気を失う前と変わっていない。
いや、一つだけ決定的に違うところがあった。そして、智の取り戻した意識は
そこに釘付けになっていた。
「ぐすっ、うぅ、うああぁぁぁん・・・!
嫌だよ、やっぱり一人は嫌だよ。さみしいよ・・・。
お父さんもお母さんも、もう誰もいない。みんな私を置いていった。
私を一人にしないでよ。私のことを見てよ。ずっと私の傍に居てよ。私のことを愛してよ!
誰か、私を助けてよ・・・。
さみしいよ、さみしいよ、さみしいよ、さみしいよ・・・」
エルが泣きじゃくっていた。迷子の子供のように、ただ寂しいと呟く。
人として生きられなくなった100年に対する、万感の慟哭がそこにはあった。
首に置かれた手にも、もはや力は篭っていない。
思い浮かぶのは帰り道での会話。突然、人が変わったように纏う雰囲気が変質したエルのこと。
(あの時は、まだ彼女が吸血鬼だと知る前だったけど・・・)
勿論、智にはエルが過ごしてきた100年という孤独を理解することは出来ない。
ただ、あの冷たさも、第一印象の無邪気さも、先程の狂気も、この子供じみた幼い泣き声も。
全て、エルという『人』の一部だと智には思えた。
そして、そう考えると不思議なもので。
智は、先程まで感じていたエルへの恐怖が、霧が晴れるようになくなっていくのを感じていた。
敵意や悪意がなかったのも当然だった。
エルは訳の分からない狂った女などではない。
孤独の恐怖にただ震える、幼い子供でしかなかったのだ。
12歳で転化したというが、その時から心の成長が止まってしまったのかもしれない。
心は、人と触れ合い続けることによってしか育まれないのだから。
泣き止ませなければ。
どうすればいいかは分からないけれど、とにかく何か言わなければ。
その思いに突き動かされ、智は必死に身体を起こそうとする。
しかし、色々あって弱りきった身体は言うことを聞かず、ただ身体を小さく揺らしただけに終わった。
だがその小さな動きは、もはや死姦の如く智を貪っていたエルに絶大な反応をもたらした。
「え・・・? サトシ・・・くん?」
光を取り戻したエルの瞳が智を見下ろす。
智は泣いていた。
それは苦痛の涙ではなく、哀しみの涙。
自分のためではなく、エルのための涙だった。
殺そうと思った。でも殺し切れなかった。どうしても、あの照れたような笑顔がちらついて。
だから決断を放棄して、子供の心という殻に閉じこもった。
勝手に惚れて、勝手に犯して、勝手に殺そうとして。
それでも彼は、私を見てくれるの?
そんな人、いるわけないじゃない。100年探して見つからなかった存在。
まして、それが吸血鬼の男なら尚更・・・。
期待さえしなければ、落胆することもない。孤独の100年で得た教訓だ。
それでも何故か、今度こそという思いが心を縛って離してくれない。
目の前の少年が、恐らくは見た目の年齢通りの年月しか生きていない子供の瞳が、
心を揺さぶって苦しめる。
彼に見つめられることがこんなに苦しいなら、今度こそ本当に殺してしまおうか。
たとえ、後でどれだけ後悔することになろうとも。
エルの冷静な部分がそう判断しかけた時。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・!」
それは、音にさえならなかった少年の声。
首に生々しい鬱血の痕を残しながら、それでもそれでも必死に言葉を紡ごうとする。
そして、エルには彼の言おうとしたことがはっきりと分かった。
泣かないで、と。
首に掛けられたエルの手が智の両手を握り、繋がったままの腰が再び動き出した。
しかしそれは、先程までのように一方的に貪るためのものではない。
相手に気持ち良くなってもらう為の、奉仕の動きだった。
時に激しく、時に優しく擦られ、しぼんでいた智のモノが硬さを取り戻してくる。
今のエルには、それがどうしようもなく嬉しい。
たとえ吸血鬼の精力によるものだとしても、智が自分を求めている証を感じられる。
「サトシ、サトシ、サトシ、サトシ、サトシ、サトシ、サトシ、サトシ・・・!」
狂ったように智の名前を連呼するエル。
動けない彼の為に、抱きしめた細い身体を揺り動かし、自分の動きと一致させる。
そして、すぐに波が来た。耐えるだけの余力のない智と耐える気のないエルでは
それも仕方ないだろう。
「一緒にイこうね? 二人でだよ? もっと、もっといっぱい感じさせて! ねぇ、サトシぃっ!」
度重なる酷使の所為か、もはや智の意識は半ば無い。
身体の感覚はほぼ精神と切り離され、エルとセックスしている自覚もなくなっている。
ただ、エルが泣き止んだこと――泣いてはいるが、それが悲しみの涙でないことだけを
何とか悟り、安堵する。
そして、一瞬感じた心地よい浮遊感に身を任せると、今度こそ完全に意識を落とした――。
「サトシ君・・・私の運命の人。
キミに逢うために、きっと私は100年の時を生きてきたんだね。
もう離さない。逃がさない。キミは私だけのもの。
血の一雫も、肉の一片も、精の一滴までも私のもの。
100年後のキミも、1000年後のキミも、朽ち果てる時のキミも、
生まれ変わったキミも私のもの。
ね、お別れしよ。人間の世界に。
化け物は化け物と共にしか生きられないの。だからキミには私しかないの。
しがみついても辛いだけ。このままじゃいつかきっと、キミは私と同じ絶望を味わう。
そんな悲しい思い、キミにはしてほしくないから。
未練があるならさっさと断ち切って? 自分でするのが難しいなら手伝ってあげるから」
勿論、気を失った智が答えられるはずが無い。
それでもエルには、智の未練が分かってしまった。
夜な夜な出歩き、すまないと思いながらも赤の他人の血を吸い、そうしてまで智が
守りたいと思うもの。
『千早・・・』
最初に気が付くまで、智が寝言で何度も呟いていた言葉。
日本が長いエルには、それが女の名前だとはっきり分かった。
自分に犯される智が、夢の中で犯していたであろう女。
あの時は気にならなかったが、今になって思うと酷く心が苦しい。
もしかして、付き合っている相手なのだろうか。
智はとても魅力的な男の子だから、それも仕方ないのかもしれないけれど。
毎日一緒に学校へ行き、向かい合って食事を取り、寝る前は欠かさず電話し、
休日は手を繋いで色んな場所を散策して。
その日の夜は暗い部屋で抱き合い、愛を囁き、唇を貪り、一糸纏わぬ姿で睦み合い、
奥深くへ解き放って。
あの優しい笑顔を、自分以外の誰かに向けるのだろうか。
衝動的に智の首へ手が伸びる。
が、すぐに我に返るとその手で智の髪を優しく梳った。
所々が尖ったようにはねている短い黒髪が、心地よいくすぐったさを伝える。
愛おしくて堪らない。食べてしまいたいほどに。
もう、この子は自分のものだ。
この子を傷つけていいのは自分だけ。他の誰にも触れさせはしない。
だから。
(消さなきゃね・・・その千早っていう子)
智が彼女と付き合い続けていれば、いつか必ず壁が現れる。
人間と吸血鬼という、越えられ得ぬ壁が。
その時に女の目に浮かぶのは、間違いなく怯えと蔑みの色。
そして残るのは、ズタズタに引き裂かれた彼の心。
許さない。
そんなもの許せるわけが無い。
だが、それは確定した未来だ。
・・・今のままなら。
自分が、未来を変えなくては。
自分の為に。そして何より、智の為に。
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「んんぅ・・・・・・」
カーテンごしに入る光が、智の目を覚ました。
「いだだだだっ・・・!」
起きあがろうとして、激痛に身を捩る。
負担を掛けないようそっと身体を起こすと、辺りを見渡した。
どこかのホテルの部屋、ベッドの上。少なくとも自分の部屋ではない。
「・・・・・・・・・・・・」
色々と思い出して、すぐ隣りを見下ろすと。
「んん・・・・・・」
エルが眠っていた。目が腫れて真っ赤になっているが、寝顔はとても安らかだ。
よかったと、智は安堵の溜息が漏らした。
だが、微笑ましい気持ちでいられたのも一瞬だった。
当然だが、目の前のエルは裸。
辛うじてシーツで大事な部分は隠れているが、服を着てないため身体のラインが
布越しにくっきりと映る。
きわどい胸元や露出した太股による『見えそうで見えない』状態は、ある意味裸より性質が悪い。
そして思い出す、昨夜の自分たちの狂態。
一応初体験だったのだが、思い返して浸るには、あまりに衝撃的な思い出となってしまった。
自分の身体を見下ろすと、身体中傷だらけだった。刺し傷、歯型、その他諸々・・・。
(すごい傷だな・・・。ケンシ○ウかよ、俺は)
それに、一体何度エルの膣内に放ったのか。
自覚が無いのはある意味幸せなのかもしれない。
吸血鬼の性衝動を嫌い無意識に自慰さえも忌避していた智なので、昨夜の射精量は
正気を疑うほどのものだったのだから。
(やっちまったんだよな、俺・・・。それも、こんな美人と)
エルに襲われた形とはいえ、『やられた』より『やった』と思ってしまうのは、男ゆえか。
これからどうすべきか、智は悩む。
取り敢えず頭に浮かんだのは、責任、避妊、妊娠、認知、否認。そんな言葉ばかりだった。
(ええい、ニンニンうるさいんだよ、俺!)
急速に引いていく血の気に、智は自分を叱咤する。
とにかく、エルと落ち着いて話さなければならない。
これからの自分、これからのエル。自分がすべきこと、彼女が望むことを。
そうと決めると、まずはシャワーでも浴びようかと考える。汗や様々な体液で身体はベトベトだった。
そして、何とはなしに時計を見て――絶句した。
(7時だって!?)
そう、朝7時。もう少し経てば千早が自宅にやってくる。その時自分がいないのはまずい。
千早に嘘はつけない。智自身千早に嘘はつきたくないし、何より言っても見破られる。
基本的にのんびり屋だが、智のこととなると異常なまでに鋭くなるのだ。
だからといって、本当のことを言えるわけも無い。
となると、どうすればいいのか――。
(すぐ家に帰ってベッドに潜り込む! そして体調不良を訴えて学校を休む! これしかない!)
実際身体は疲労でボロボロなのだ、嘘ではあるまい。
千早がやってくるまであと30分、このホテルと自宅の距離を考えると結構ギリギリだ。
となると、ゆっくりシャワーを浴びてはいられない。
タオルを濡らすと乱暴に身体を拭き、脱ぎ散らかされた服を身に纏う。服に性交の名残は無い。
全部脱がしておいてくれてよかったと、ずれた感謝をエルにした。
部屋を出て行こうとして、そのエルを振り返る。眠りはかなり深い様子だった。
朝に弱いというのは本当なのだろう。それに、彼女も相当疲労しているはずだ。
智が何とか起きられたのは、学校という毎日の習慣があったために過ぎない。
「・・・念のため、残していくか」
呟くと寝台のメモを一枚破り、何か書いてエルの枕元に置く。
智の携帯の番号だった。
「それじゃエルさん、また後で」
小さく微笑み、智は部屋を飛び出した。
何があっても、千早は智にとって一番大切な存在だ。その彼女に無用な心配はかけたくない。
思いのほかスピードが出ない、そんなままならない身体に鞭を打ちながら。
これが最後と、力を入れて智は走り出した。 |