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とらとらシスター

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Another Another2
正月編


序章

 僕の一日は、妹に起こされるところから始まる。そして、ぼんやりとする意識の中で、
  自分の右側に暖かな体温を感じるのも毎日のこと。この不文律は、多分僕が結婚するまで変わらない。
「兄さん、起きて」
  心地の良いソプラノと、体を揺するゆったりとしたリズムは僕を優しく起こしてくれる。
「起きろ姉さん」
  その次に僕の右側で寝ている姉さんを、少し乱暴に起こすのもいつものこと。
「兄さんの布団に入るなと、何回言ったら分かるんですか」
「だって、虎徹(コテツ)ちゃんも嫌がらないし」
  姉さん、虎百合(コユリ)が薄く開いた瞼を擦りながら呟く。
「だからって、入って良いことにはならないですよ」
「だってぇ、隣が良いんだもん。それに虎徹ちゃんも嫌じゃないよね?」
  今年て18にもなる女性が『だもん』などと言い、更には理屈を無視した発言や弟に責任を丸投げ
  というのは恐ろしい。でも、更に恐ろしいのは慣れや諦めというもので、個性という単語で
  僕がその現実を受け入れているということだ。
  しかし妹の虎桜(コザクラ)は、当然だけれども納得する訳ではない。姉さんを睨むと、
「そんな嘘つい…」
「ホントだもん」
「兄さん」
「良いんじゃないかな」
「くっ」
  虎桜は悔しそうに唇を嚼むと、あろうことか姉さんの乳を鷲掴んで揉み始めた。
「この乳ですか、この乳なんですか?」
「ちょ、痛いよ」
「『乳にばかり栄養が行って頭に大切なものが足りない私は、このユサユサで弟を誘惑する
  淫乱な雌豚です』と言え」

 こんな朝っぱらから何を言わせようとするんだ、妹よ。
  言葉遣いこそは丁寧だが、意外にもキレやすい妹も姉と変わらない個性派だ。そんな姉妹を
  僕は血筋だという言葉でかたずけ、その性格も、そんな年頃という一言で諦めていた。
  男の子の僕には、女の子の気持ちは分からない。
  ぼんやりとそんなことを考えている間にも、残虐乳揉みショウは続行されていたらしい。
  残虐行為手当てだったら、いくら貰えるんだろう。きっと、一年間の日常だけで一生遊んで
  暮らせる額になるのは間違いない。
「ほらほら、どうしたんですか?」
「えぇと、一編にそんな長いの言われても、お姉ちゃん分かんない。ち、乳にばかり…」
  姉さんも、言わなくて良いから。
  僕は社会的にアウトになりそうな姉さんが完全なアウトになる前に、その口を塞いだ。
  ただ口に手を乗せると力づくでどかされるので、指をしゃぶらせるようにして塞ぐ。
  こんな方法をとっている自分が時々嫌いになるのは、皆との秘密だ。
  そして反対の手で虎桜の頭を撫でる。
「もう止めておけ、サクラ」
  その一言で、虎桜は変態行為を止めた。
  因みに僕が虎桜をサクラと呼ぶのは、虎の文字が入った少し変な名前を本人が嫌がって
  いるからである。姉さんは逆に気に入っているらしい。
  では何故姉妹揃って、正確には一族皆が名前に虎の字を入れているかと言えば、微妙に長い話になる。

 時は戦国時代、貧乏武家だった僕らの先祖に、一人の忌み子が産まれた。嫡男と
  その妹の間に産まれた子供はとても強くて戦では活躍したが、誰にも認めてもらえず、
  名前すら与えてもらえなかった。しかし、そんな哀れな子にも千載一偶の機会が来た。
  その軍の大将が余興で三匹の虎と戦わせ、勝ったら名前をやると言ってきたのだ。
  当然、その子は話に飛び付き、見事小刀一本で虎を倒して名前や家族を貰った、という話だ。
  それから、殺虎の名前を貰ったその人の遺言に沿い、一族は皆、名前に虎を入れている。
  曰く、
『虎のように。殺されることを覚悟しながらも、しかし己は曲げずに行け』
  正にその通り。殺虎さん、あなたの意思は確かに受け継がれています。
「そんなに言うなら、サクラちゃんも一緒に寝れば良いのよう。追い出すけど」
「馬鹿ですか、姉さん。好きな人の目の前で、しかも名前を呼びながらオナニーしたら
  嫌われるじゃないですか」
  この娘は。
  本当に、もう。
「へへん、お姉ちゃんはしたもんね。やったぁ、あたしの勝ち。だから虎徹ちゃんもあたしのぉ」
「私のです」
  本当に、もう!!!!
  殺虎さん、あなたの子孫は変態です。
  因みに僕の名前にも虎の文字は入っているけれど、それはただの偶然です。
  きっと僕は養子なのです、あの人たちとは血が繋がっていないのです。
  そうご先祖様に言ってから、取り敢えず喧嘩を止める。
「おはよう、今日も元気ね」
「あ、母さん。おはよう」
  朝食が出来たらしいので、母が呼びに来た。ということは、随分と長い間喧嘩をしていたことになる。

 僕と母さんは、向かい合って溜息を一つ。
「兄さん、食べに行きましょう」
「朝御飯だね、虎徹ちゃん」
  朝のコントまがいは、まだ終らない。
  居間に着くと同時に左右の引き戸が勢い良く動き、一瞬で並びが逆になった。
  仕組みは単純で、
  先に入りたい。
  一緒の戸から入りたくない。
  相手の妨害をしたい。
  負けたくない。
  それらの気持ちがお互いにあり、結果並びが逆になった引き戸が完成するのだ。
  僕は後ろに立つ母さんを見て微笑み、
「あなたの娘さんたちって、面白いですねえ」
「ほんと、虎徹の姉や妹って面白い」
  自分は無関係だという表現をするのは、悪いことではないと思います。
  でも、最終的には、
「家族だしね」
  どんなに変態でも、喧嘩ばかりしていてもその繋がりは変わらない。
「早くしてください、兄さん」
「ごはんごはん」
  僕はいつもの指定席、姉妹の間に腰を下ろした。
  本当に困った姉と妹で、問題しか起こさないし、喧嘩ばかりだし、もしかしたら
  良いとこ無しの駄目人間じゃないかと思うときもあるけれど。
  僕に依存しっぱなしの姉も、
  言動がおかしな妹も、
  どちらも大切な家族。
  これからも、兄弟なのに三角関係という変な状態はしばらく続くと思うし、どちらも選べないけれど、
  この関係を大切にしたい。
  まずは両手を合わせて、
「「「いただきます」」」

始虎

 電子音。
  四時限目の終了を示すこの音は、この織濱第2高校においては祭の開始を告げる開幕のベル。
  これを聞いた生徒はあちらこちらで手作り弁当を広げていちゃいちゃとカップルぶりを
  見せ付けるように食事を開始し、今さっきこのクラスで熱弁を繰り広げていた世界史の教師も
  自慢の愛妻弁当を食べに職員室へと駆け足で戻って行った。自慢するように重箱を持ち、
  全クラスを訪ねていたことは記憶に新しい。兔にも角にもどちらを見てもカップルカップル
  カップルカップル、男女交際率が90%をこえるこの高校はそんな男女で満開だ。
  たまに男々だったり女々だったりするのは御愛敬だが、世界は愛で満ちている。
  え? 僕?
  生徒全員がカップルという訳ではないので、それには含まれません。だけどそれでも一人寂しく
  という訳ではなく、一緒に昼を食う人は居る。そろそろ来る頃だろうと考えていると、教室の扉が開いた。
  しかしそれはいつもとは逆、教室の前の扉。
「守崎・虎徹君は居るか?」
  禀とした声に視線を向けると、そこには有名人の織濱・青海(あおみ)さんが立っていた。
  僕に何の用だろうか、正直心辺りが無い。片や理事長の娘で才色兼備のお嬢様、僕は平凡な一生徒、
  会話をしたこともなければ接点すらもない。そんな人からの突然の指名に、思考が混乱を始めた。
「返事くらいしてくれないか?」

 織濱さんは僕を鋭い目で睨みつけると、大股で寄ってきた。美人なので様になっている、
  という考えと恐怖が混ざり、僕は自然に椅子ごと後退をする。
  僕が何をした?
  自慢ではないが、自分でも「温厚・人畜無害・平和主義者」と三拍子の揃った普通人の
  代表のような生徒として暮らしてきたつもりだ。理事長の娘さん直々に詰め寄られる覚えは欠片もない。
  だが向こうはその気持ちは関係無いらしく、僕の僅か1m手前に立つと、
「君の子供を産ませてくれ」
  随分と直球で告白してきた。
  ちょっと待て。
「分かりにくかったか? 短刀直入に言うと、結婚を前提に付き合ってくれ」
  その言葉を聞いた瞬間、僕を含めてクラス中の空気が凍りついた。
  その原因はこの高校での禁忌を犯した哀れな愚者に対する恐怖の念だ。
  僕だって好き好んで独り身でいる訳ではなく、それなりの理由が存在する。それが今、
  織濱さんが平気で踏み込んできたもので、僕の周りでの最大のタブー。
  僕にはブラコンの猛獣が二人居て、他人が近付こうものなら迷わず噛みついてくる。
  結果、僕は年齢と彼女が居ない暦が等しくなっているのだ。
「どうした? そんなに固まって」
  しかし、織濱さんは周囲の空気など関係無いらしい。純粋に不思議そうに小首を傾げて、
  僕の顔を覗き込んでくる。
「もう一度言おう。好きだ、付き合ってくれ」
「ちょっと待ったァ」
「それとお昼ご飯です」

 小気味の良い音と共に教室の扉が左右に動き、再び閉まる。僕にとっては見慣れた光景だが、
  織濱さんは眉根を寄せてそれを不思議そうに見た。
  しかしすぐに視線を戻すと、再び僕の顔を覗き込んでくる。
「それで、答えだが…」
「待ちなさいってば」
「この雌豚」
  今度は普通に扉を開き、姉さんとサクラが入ってきた。叫びながら織濱さんを睨みつけているのは、
  二人とも共通だ。ここ暫く見ていなかったから、その迫力も増して見える。
「誰だ?」
「奥さんだよ」
「妻です」
「姉と妹だけど」
  今まで何度もしてきたやり取りに、僕は少し肩の力が抜けるのを感じた。少し問題ありだが、
  やはり家族というのはそれだけで安心出来る。
  改めて話を聞こうと、織濱さんに向く。
「何で僕なのさ」
  よくぞ聞いてくれたとばかりに、織濱さんは胸を反らした。胸に手を当てて軽く上を向き、
  何か過去を反芻するように目を閉じてうっとりとした表情を浮かべている。
  今時、このポーズはどうなんだろう。
「あれは、一週間前のことだ」
  一週間前、何かあっただろうか。思い出せる事と言えば、捨てられていた三毛猫を拾った事しか
  覚えていない。まさかそんなベタな事が理由とは思いたくないが、念の為に携帯の待ち受けにしてある
  呑助(のみすけ)の画像を出す。因みに名前の由来は、牛乳を恐ろしい勢いで飲んでいたからだ。
「もしかして、これ?」
「それだ、その優しい姿に心がときめいた」

 余計な言葉は要らない、僕は移心伝心したことをこれ程悔いたことはない。
  こんなことで惚れられるのは有り得ないだろうが、しかし彼女からは何かラブいオーラが
  伝わってくるのがはっきりと分かる。一週間もそんなことを考えていたとすると、
  それはもう、大変だっただろう。
  一週間。
  不意に、疑問が湧いてきた。彼女ははっきりと物事を言うタイプなのは周知の事実で、
  即断即決の人としても有名だ。乙女心というものもあるのだろうが、無神経にも不思議に思ってしまう。
「そんな、何で一週間も間を開けたんですか? それは愛していない証拠なので、
  豚小屋にでも帰って下さい」
  言葉は汚いが、サクラが上手い具合いに質問をしてくれた。誰に対しても怯まずに言葉を放ち、
  簡潔にまとめようとする。好みは分かれるところだがこれは僕の好きなところで、
  サクラの数多い個性の一つだ。因みに姉さんは付いてこれずに後ろでうろうろしていた。
  話を戻す。
  僕も興味があったので視線を向けると、
「見とれて雨に打たれて風邪を引き、三日間寝込んだ。その後二日間伝える方法を悩み、
  残りの二日は友人に止められた」
  納得した。現に今でも僕の後ろでは二匹の虎が襲いかかるタイミングを見計らい、
  獲物が妙な動きをするのを待っている。殺虎の血は今日も全開だ。
  しかし彼女からは恐れのようなものは感じない。
「話が反れたが、答えを聞かせてくれないか?」

 正直、僕にもそろそろ春が来てほしいと思っていたから、その申し出はありがたい。
  だがそれの相手が織濱さんとなると話が微妙に変わってきて、僕自身気後れするのと、
  織濱さんの安全が心配になってくる。この姉妹虎は、過去に僕が付き合いかけた女の子を
  病院送りにした前科者だ。出来ることならば織濱さんだけではなく、姉さんにもサクラにも、
  傷付いてほしくない。皆で笑って暮らすのが一番に決まっている。
  僕が答えあぐねていると、横から手が伸びてきた。
「駄目えぇッ」
  鈍い音と共に姉さんが織濱さんを突き飛ばす。
「虎徹ちゃんは、あたしと結婚するの。お姉ちゃんのお婿さんだもん」
  何て事をするんだ、仮にも理事長の娘さんなのに。しかも、どさくさに紛れて
  変態発言をしないでほしい。只でさえ僕まで変態だという噂が流れているのに、
  これ以上酷くなったら堪らない。
「私の夫に手を出すな、この泥棒猫」
  サクラまで!!
  流石に注意をしようと後ろを向くと、そこには恐ろしい表情をした二人が立っていた。
  先祖の血を色濃く受け継いだ、『虎殺しの虎』がそこに居る。過去に一度しか見たことのない
  その表情は、僕を恐怖のどん底に突き落とした。
  蛮勇だと分かっていても、しかし男には動かなければいけない時がある。このままいくと、
  確実に血を見ることになるのは誰の目からも明白だ。

 立ち上がろうとすると、後ろから制止の声がかかる。見ると、埃を払いながら織濱さんが
  ゆっくりと立ち上がっていた。お嬢様していると思っていたが、結構タフな人らしい。
「君の姉妹は、少し変わっているな」
  少しで済むんだろうか。僕には彼女の基準は分からないが、動揺もせずにこの二人を
  少しの変わり者と評する彼女が大物なのは分かった。
「あたしは普通だもん」
「姉さんは兎も角、私は普通です」
  この娘達は…。
  しかし織濱さんは気にした様子もなく微笑むと、
「そうだな、すまなかった」
  一礼する。
  流石はお嬢様、僕らとはどこか出来が違うのかもしれない。だが、未だに凶悪な視線を二人は続行中。
  もしかしたら、この人は大物とはもっと別の、
「返事は後の方が良さそうだ。今は友達から、昼御飯でも一緒に食べよう」
  曲者かもしれない。

2虎

 織濱さんが弁当を取りに一旦戻っていく背中を見送ると、僕は後ろを向いた。因みに、
  僕なんぞが逆らえる訳もないし彼女自身もあまり人の話を聞くタイプではなさそうなので
  諦めて一緒に食べることになった。
  閑話休題、僕の目の前では尚も険しい表情をした姉さんとサクラが立っていた。
  二人は織濱さんと一緒の食事をとることになったことや、僕のさっきの態度が
  気に入らなかったらしい。露骨に機嫌が悪そうな二人を見ていると、悲しくなる。
  しかし、だからと言って甘くしていてはいけない。普段から僕のことを好きだ好きだと言って
  懐いてきたり、そんな風に好意を持って接している家族が他の誰かに取られるのが嫌なんだろう。
  昔はそれが過剰になりすぎて事件を起こしたが、高校生にもなってもまだそんなことでは
  いけないと思う。今は一緒だし、繋がりが消えることは一生ないけれども、
  それでもいつかは別れや巣立ちのときが来る。
  僕は吐息を一つ。
「はい、二人とも座って」
  文句を言いながらも、おとなしく二人は床に座った。これもそう珍しいことではないので、
  クラスメイト達は再びイチャイチャと弁当をつつき始めた。僕も本当はそうしたいのだけれど、
  説教が先だ。
  鉄は熱い内に打て、悪いことをしたらそれはすぐに直すのが僕の信条だ。
  今は大変かもしれないけれど、これを続けていればいつかは平和に弁当を食べることが
  出来る日が来ると僕は信じている。
  だから、今は心を鬼に。

「姉さん、女の子座りしない。サクラも体育座りをしないの、パンツが見えるでしょ」
「お姉ちゃん、正座苦手だもん」
「見せているんです」
「黙って正座しなさい」
  渋々といった様子で二人は正座、僕を上目使いで見上げてくる。
「何で、あんな事したの。失礼だし、乱暴はいけないでしょ?」
  その言葉に、二人はしゅんと頭を下げる。あまり強く言ったつもりはなく、多分内容よりも
  怒られているという行為が堪えているのだろう。あまり良いこととは言えないけど、
  説教自体はよくあることだから、僕が久し振りに怒ったことに対してもばつが悪いのかもしれない。
「姉さん?」
「だって、あの人が虎徹ちゃんを取ろうとしたから」
「サクラ?」
「兄さんが取られると思うと、つい」
  やっぱり、予想通りの解答だ。家族仲良くは良いことだけど、ブラコンまでは許容出来ても
  それ以上の重依存はどちらにとっても良くない。それは個人の価値観だけれども、
  意思や尊厳を他人にまで被せ預けることだ。それをした方もされた方も、個人のバランスや
  境界がおかしくなる。
  今までに何度も自分に言い聞かせた言葉、それを反芻して二人と目を合わせた。
「あのね、僕らはいつまでも家族だし、僕も居なくならない。それは変わらないけど、
  僕も一人の人間だからいつかは家族を持つ。今はそうでもないけど、いつかきっと」

 悲しそうな目には、もう先程の怒りや不満は見えない。黙って僕の話を聞いているのを見ると、
  これで良いと思うのだが、それとは逆に鈍い痛みも襲ってくる。
「いつかは、僕も誰かとこんな風になるんだから、少しずつ分かってほしい」
  黙り込んだまま、ついには涙まで浮かべ始めた二人を見るとこれ以上は喋る気が消えた。
  手を掴んで立ち上がらせると、膝や靴下に付いた埃を払う。
「終わったか?」
  突然かけられた声に振り向くと、織濱さんが涙を浮かべて立っていた。肩を小さく震わせて、
  何故だか慈愛に満ちた微笑みと眼差しを向けてくる。それは、姉さんやサクラに対しても向いていた。
  彼女は小さく拍手をすると、
「素晴らしい話だった」
  聞かれていたのか。
  説教をしている間は気にならなかったし、クラスメイトもあまり気にしている様子もなかったので
  油断をしていたが、実際に意識をしてみると気恥ずかしい。家ではよくしているものの、
  学校ではこれが初めてで、人目があるところでこんなことをするとこうも悶えたくなるものだとは
  思わなかった。いや、それよりも心配なのが相手の二人で、只でさえ恥ずかしかっただろうに
  それが嫌った相手に見られたとなればどれだけ苦痛だったのだろう。
  今更になって僕は後悔をし始めた。
「どの辺りから聞いてたの?」
「パンツ云々から」

 よりにもよって、そんな表現をするか。もう少し言葉を選んだり、気を使っても
  良いんじゃないだろうか。場を和ませたりするのが目的かもしれないが、女子がそんなことを言うのは
  どうかと思う。
  天然なのか、織濱さんはすぐに表情を切り替えると、
「それは兎も角、弁当を食おう」
  手に持った重箱を机の上に置いた。
「帰って下さい」
「虎徹ちゃんはあたしと食べるの」
  さっきの説教がまるで意味を成していない。今すぐに、というのは無理だとは思うし、
  急に変えることもないと思うけれど、それでも少しは我慢してくれるのを望んでいた僕は
  誰にも聞かれないように小さく吐息した。
「そう言わないで、ご飯くらいは良いんじゃないかな」
「ありがとう。さっきの弁舌と言い、あなた達は素晴らしい兄弟を持っているね」
  その一言で、姉さんとサクラの表情が少し和らいだ。あまり乗り気ではないようだが、
  それでも渋々席に着く。目を合わせないようにしているのは、せめてもの抵抗だろうか、
  そのくらいは仕方ないと怒らないことにした。
「ところで」
  蓋が開いた重箱を眺めてサクラが眉根を寄せた。因みにサクラがこの高校に入学してからは、
  僕らも重箱。このクラスを担当している世界史の教師のを合わせて三大重箱と呼ばれているらしい。
  最後の一つが分からなかったが、織濱さんだったのか。
  僕がそんなことをぼんやりと考えている間にも、サクラは重箱を睨んだままだった。

「それは、自分で作ったんですか?」
「いや、家の料理人に作ってもらったものだが」
  小姑攻撃が始まった。
「制服も綺麗だけど、それもお家の人だよね?」
  姉さんまで!!
  確かに、朝食は母さんが作るが弁当はサクラが作るし衣類は姉さんが全て管理している。
  どちらも本人の強制的な申し出によって割り振られたポジションで、誇りも持っているのだろうが、
  こんな露骨に言うとは思わなかった。
「そんな甘えた人には」
「家の虎徹ちゃんをお婿さんに出すことは」
「「出来ません」」
  何でこんなときだけ仲が良いんだよ。普段は喧嘩ばかりしているくせに、牙を剥くときは
  見事なコンビネーションだ。だからこそ、今まで僕には彼女が居なかったのだ。
  それに対して織濱さんは、
「わたしは、このくらいでは負けない」
「あんたもかよ」
  つい、いつものノリで突っ込んでしまった。
  せっかく、綺麗な流れで行けると思ったのにこれでは台無しだ。しかも、治ってないのは
  まだ我慢が出来るが、それどころか悪化をしている。
  仲良く、してほしいのに。
  僕は吐息をすると、サクラの作った弁当を食べ始めた。

妹虎

 兄さんが告白を受けている、その事実に私は気が狂いそうになった。無謀にもそんなことを
  しているのは織濱さん、この高校での有名人。天衣無縫とはよく言うけれども、だからと言って
  何をしても許される訳ではない。実際彼女はこの高校の女王のように扱われているけれども、
  それとこれとは話が別だ。
  止めなければいけない。
  私の血が、それを叫んでいる。いつだって兄さんは私に優しくしてくれた、これからも
  きっとそうだろう。いつまでも永遠に、私の側に居てほしい。それだけ、たったそれだけの願いなのに
  織濱さん、いやさん付けどころか名前で呼ぶのももったいない。あの雌豚はそんな些細な願いさえも
  摘み取ろうとしている。
  そんなのは、許せない。
  兄さんはいつまでも私の兄さんなのだ。
  思えば、自然に体が動いていた。
  快音。
  その音と共に、開いた筈の扉が目の前に現れる。それを行ったのはもう一人の邪魔な雌豚で、
  それを見る度に毎回苛々してくる。本当に毎回毎回、何故私の邪魔をするんだろう。
  兄さんは優しい人だからいつも姉さんをかばうけれど、それに突け込んでいつもいつも、
  それに甘えて困らせてばかりいる。いつも優しく素敵な笑顔の中に苦笑が混じっているのが
  分からないのだろうか、いや分からないんだろう。天然を通り越してもはや馬鹿の世界に
  どっぷりと脳や脊髄まで浸っている姉さんは、そんな兄さんの苦しみなど分からないに決まっている。
  気が付かないどころか、気付こうとすらしていないんじゃないだろうか。

 そう考える度に、兄さんがかわいそうという思いと、姉さんに対する殺意が湧いてくる。
  兄さんも、そんな馬鹿な女は切り捨ててさっさと私と二人きりになれば良いのに。
  いけない。
  一瞬で兄さんとの幸せな未来を想像した私は、その魅力的な世界に囚われそうになった。
  私もまだまだだ、決まりきっている栄光に溺れるなど、修行が足りない。確実な未来だけれども、
  そんなので満足していては兄さんに申し訳ない。もっと幸せにならないと、更に兄さんには
  幸せになってもらわないと。
  いけないいけない。
  再び快楽の虜になりそうだった自分を戒める。これでは勝手に布団に入り込んで満足し、
  兄さんに迷惑をかけている馬鹿な姉と同じになる。もし相手が自分だったら兄さんも
  幸せだろうけれど、しかし私は我慢する。結ばれるまではお互いに慎みあうのが、
  たしなみというものだ。兄さんと結ばれるにあたって、これは大切なもの。
  そう自分に言い聞かせながら、今度はまともに扉を開く。姉さんも今回はまともだった。
  姉さんは勢い良く雌豚へと向かっていく。兄さんがそれに苦笑しているけれど、今回は仕方がない。
  何しろ、家畜に告白されているのだ、それは表情を曇らせるというものだ。
  こんなときばかりは、あの馬鹿な半畳も少しは認めても良いように思える。

 結果、雌豚は失礼な視線と共にこちらを尋ねてきた。姉さんの馬鹿な意見は耳障りだが、
  聡明な兄さんはきちんと訂正してくれる。私の意見も、きちんとフォローしてくれた。
  今はまだ在学中だし、大事にするような馬鹿な真似はしない。優しいから姉さんが取り乱さないように
  考えて喋るし、変な印象を与えるようなこともしない。その気遣いに私は誇りと嬉しさを覚える。
  それとも、周りが騒ぎ立てて私に構うのが嫌なんだろうか、そうに違いない。
  意外と独占欲が強いんですね、でも私はその方が嬉しいし、私も兄さんしか見えてないから
  大丈夫ですよ。安心して下さい。
  しかし、どんなに兄さんが立派な方でもこの雌豚はどんな方法を使ってくるのか分からない。
  なにしろ動物だ、まともな思考回路の人間では想像もつかないようなことをしてくるだろう。
  もしかしたらシンプルに、姉さんのように無駄に大きくて下品な乳で誘惑してくるのかもしれない。
  兄さんのように高尚で潔癖な人なら大丈夫だと思うけれど、一応警戒するに越したことはない。
  それが未来の妻の役目というものだ。
  取り敢えず兄さんの質問のフォローをすることにした。内助の効、というのもあるが、
  嫌々聞いている様子の兄さんにはこれ以上の負担をかけたくなかったのが一番だ。優しい兄さんは、
  人の意思を踏みにじろうとはしない。それが、どんなに嫌な相手であってもだ。
  美徳とは思うけれど、少し直してほしいとも思う。

 雌豚といえば、今時宝塚の人しかしないようなポージングでうっとりとした表情をした。
  正直気持ち悪いのでさっさと消えてほしいと思う、兄さんもそう思っているに違いない。
  表情が、その事実を如実に物語っていた。
  口から出てきた言葉は、一週間前。
  それは、私にとって一種の記念日だ。初めは兄さんに引っ付きまわっている呑助を殺そうとも
  思ったけれど、兄さんと一緒に愛でていると安らいだ。今はまだ高校生なので子供は産めないが、
  その子が二人の愛の結晶に思えてきた。今にして思えば、今はあれは子供を持てない私達に対する
  神様からの贈り物だったのかもしれない。
  案の定、雌豚の答えも呑助がらみだった。携帯の待受を見て、頷いている。だが今はそんなことは
  どうでも良い。一週間も間を開けて、それなのに愛しているなんてどんな了見なんだろう、
  その神経が知れない。
  思ったらそのまま口から出てきて、返ってきたのはつまらない言い訳だった。
  本当に、この雌豚は。
  あまつさえ、再び兄さんに求愛行動をしてくる。
  思わず手が出そうになったとき、既に姉さんが突き飛ばしていた。いつもの行動は気に食わないが、
  兄さんに付く悪い虫を払うヤジや、こんな暴力だけは認めている。
  それに便乗する形になったのは嫌だったが、つい口から本音が出てしまった。

 だがモラリストな兄さんは姉さんの行動が気に食わなかったらしく、振り向く。
  それと雌豚が立ち上がるのは同時、偽善的な言葉を吐くと一方的に昼食を一緒にとる約束をして
  教室から出ていった。
  数秒。
  兄さんは吐息をすると、座るように指示をしてくる。下着はいつ兄さんに見られても良いように、
  寧ろ見てもらうためにいつも気を使っているが、他人に見られそうになるのは嫌だし、
  そもそも計算外だった。それに気が付いて注意してくれる兄さんはやはり優しい。
  それに、兄さんも他人に見られるのが嫌なのだろう。それとは逆に、
  よほど姉さんの行動に腹が立ったのか、初めて学校でお説教が始まった。
  お説教と言っても、姉さんに対する注意と私との将来に対する真摯な言葉だけだったので幸せだった。
  兄さんの美しい声でそんなことを言われて少し濡れてしまう、それも仕方のないこと。
  終わった後も腰砕けになった私を気遣い優しく立たせてくれたし、あの雌豚も祝福の言葉を私に向けた。
  それでも私の幸福は止まらない。
  邪魔者が二匹居る食事も、問題なし。聞けば弁当もあの雌豚が作ったものではないらしいので
  妙なものは入っていないようだし、そもそも雌豚の弁当には手を付けてもいない。
  兄さんはやはり私が一番のようだ。
  美味しそうに私の作ったお弁当を食べてくれている。
  唾液の混じった炊き込み御飯。
  愛液の入ったダシ巻き卵。
  その他にも色々、全て私の愛情のこもった自信作。
「美味しゅうございました」
  兄さんのその一言で更に濡れてくるのが自分でも分かる。
  自分でもはしたないとは思うけれど、それも兄さんが魅力的だから。
  責任、とってくれますよね?

姉虎

 お家に帰ってあたしは一息吐いた。
  虎徹ちゃんには泥棒猫の匂いを落とすために、お風呂に入ってもらっている。サクラちゃんは
  お母さんと晩御飯の支度、あたしと言えば暇を持て余していて呑助ちゃんと戯れていた。
  最初は虎徹ちゃんのお布団に図々しく入るこの子が嫌いだったけれど、今は好き。
  二人と一匹で寝ていると、新婚夫婦に思えてくる。そうなってくると不思議なもので、
  途端に愛らしく見えてくる。
  あたしと虎徹ちゃんの子供もこんな風になるのかな?
  前足を摘んで遊んでいると、そんな幸せな光景が浮かんできた。
  でも、少し不安もある。
  泥棒猫、サクラちゃんは織濱さんをそう呼んでいた。いつもいつも口を開けば酷い言葉を吐くけれど、
  今回はなかなか面白いと思った。同じ猫の名前でも呑助ちゃんとは大違い。
  こっちが天使なら、あの娘はあたしと虎徹ちゃんを引き剥がす悪魔だ、許せはしない。
  殺してやる。
  一瞬物騒な言葉が頭に思い浮かんで、慌ててそれを否定。何故か脅えた様子の呑助ちゃんに
  笑いかけると軽くキス、そう言えばこれって虎徹ちゃんと間接キスだと思うとあたしの心は
  幸せに包まれた。心も嵐から凪に、これで良い。あたしはお姉ちゃんだから、毎回
  すぐに怒りだすサクラちゃんのようなことはしない。
  何で、いつもいつも。
  でも、今日は少しかわいそうだったなぁ。あたしは未来設計を言ってもらって嬉しかったけど、
  怒られていたサクラちゃんは少し辛そうだった。自業自得と言っちゃえば、もうそれまでだけれども。

 そんなことより、もう一つ大事なことがある。真剣な表情でお説教をする虎徹ちゃんは、
  久し振りに見たこともあって更に格好良く見えた。いつものにこにこ笑ってお説教をする虎徹ちゃんも
  良いけれど、真面目な表情なのも大好き。
  その表情を思い出していたら、自然に片手が股間に伸びていた。下着の中に手を差し込んでみると、
  既に洪水と呼べる程に愛液が溢れ出ていてすぐにでも指がふやけそうになる。
  昼間に虎徹ちゃんが言っていた言葉を思い出しながら、指を入れて掻き混ぜる。それだけのことで、
  あっというまにイッてしまった。
  だけれども、まだ足りない。はしたないと思うけれども止まらないものは仕方がない、
  それだけあたしの未来の旦那様は魅力的。薬も過ぎれば毒になると言うけれども、
  それは本当かもしれない。それとも、もともと薬物のように毒なのかも。
  どっちでも良い。
  今は、快感に身を任せるだけだ。
  不意に、思いつく。
  いつのまにか手を離していた呑助ちゃんにキスをする。どうやら、無意識の内にキスをしまくって
  いたみたいで小さな口の周りはベトベトになってしまっていたけれども、気にしない。
  これからすることを考えていたら、その程度では済まないから。
  股間で動かしていた指を抜くと、呑み助ちゃんに舐めさせる。それだけでは足りないから、
  優しく撫でるとあたしの股間まで動かし、直接舐めさせた。

 瞬間。
  虎徹ちゃんが口を付けていた部分が触れたという事実と、これから間接的にでもそこに
  虎徹ちゃんの口が触れるという意識で絶頂に達してしまった。体が弓なりになって、
  押し殺していた声が漏れる。
  呑助ちゃんが口を付けていたのは一秒にも満たない時間だったけれども、それでも満足をした。
  引いていかない快感と絶頂の余韻に、呼吸がいつも以上に乱れているのが分かる。
  数秒。
  呑助ちゃんの顔を秘蔵の虎徹ちゃんの使用済みタオルで拭いつつ呼吸を整えていると、
  ノックの音がした。その音からして、相手は虎徹ちゃん。いつも長いのにもうお風呂から出たんだ、
  と思って時計を見てみると、既に一時間は経っていた。
  再び聞こえるノックの音に慌てて返事をすると、着替えを持って部屋を出る。
  お風呂場に向かう途中、なんとなく気になった。この家は防音がわりとしっかりしているけれど、
  声を聞かれたかなと思って後ろを振り向くと虎徹ちゃんが呑助ちゃんとキスをしていた。
  あたしの唇や唾液、股間の割れ目や愛液が付いた部分に口を付けている。
  我慢出来ない。
  あたしは液が太股に垂れてくるのを感じると、早足でお風呂場に向かう。途中で擦れ違った
  サクラちゃんが妙な表情を向けて何かを言っていたけど気にしない。
  やっと着いた。

 あたしは速攻で服を脱ぐと、洗濯籠の中を見た。そこに入っているのは虎徹ちゃんの脱いだ洋服、
  下着もちゃんと入っている。これがあたしが洗濯係を選んだ理由、このくらいの役得は
  あっても良いよね。下着やシャツを手に取ると顔に押し付け、匂いを思いっきり吸う。
  脱ぎたてと言うには少し時間が経ちすぎているから体温が残ってないのは少し残念だけれども、
  それでも充分。匂いを堪能したあとに、だらしなく垂れてきた股間の液を拭う。
  それだけで、再び快感が押し寄せてきた。
  イッちゃった、でも、まだまだ。
  これはもう癖と言うよりも、日常だ。あたしは虎徹ちゃんのシャツとパンツを着ると、
  そのままお風呂場に入った。
  シャワーの蛇口を捻り、全身にお湯を浴びる。温かく濡れた服が体に張り付いて、
  全身を抱き締められ、舐められている感覚。言葉では表現できないくらいの快感に身をよじらせると、
  布が擦れてまた気持ち良くなる。脱出不可能、快感の無限ループに酔いしれる。
  いけないいけない。
  あたしは一番大事なことを思い出すと、一旦シャワーを止めた。そして服に洗剤をかけて
  胸を揉み始める。これはいやらしいことじゃなくて、奥さんとしての義務。愛する人の衣服を
  丹念に手揉み洗いしているだけ。全身を使うのはより綺麗にするため、そして虎徹ちゃんが
  いつも良い匂いと笑ってくれるようにするためだから気は抜けない。特に今日は泥棒猫が
  寄ってきたから念入りに綺麗にしないとね。

 数分。
  多目にかけた洗剤がぬめって気持ち良い。けれど、まだ足りずに結局股間をいじり始めてしまった。
  だらしないなぁ、と思うけれども体は正直。
  いや、違う。
  正直なのではなく、きっと正解を選んでいるんだ。あの泥棒猫が二度と近付かないように、
  匂いも消えるように、あたしの匂いがしっかりと付くように。そうすれば虎徹ちゃんも、
  もっと喜んでくれる。だから頑張らなきゃ。
  数十分。
  暫く続けてもう体が動かなくなり、漸くあたしは手揉み洗いを止めた。これだけじゃあ
  まだまだ足りない気もするけれど、もう限界らしいので仕方ない。今になって、
  部屋で楽しんだことを少し後悔したけれど、最後に良いことをしたから気にしないことにした。
  あ、また。
  思い出して、再び体が熱くなるけれどもう動かない。名残惜しいけれども、
  体に付いた泡を流していく。体にかかるお湯の圧力が気持ち良い、それだけでまた
  愛撫されているような気持ちになり、またイッてしまった。
  だるい体を動かして、虎徹ちゃんが入ったお湯に入る。
  温い。
  少し冷めているけれど、人肌に近い温度で、虎徹ちゃんの体温に感じられる。この温度で
  もう一度したくなったけれど、体が動かないのが残念だった。

 ごめんね、虎徹ちゃん。もう限界なの。
  心の中で謝ると、適当に体を温めてお風呂場から出た。着ていたままが良かったけれども、
  仕方なく服を脱いで絞る。虎徹ちゃんの匂いは消えていたけれども、あたしの匂いは
  たっぷりと付いた筈なので我慢。
  お姉ちゃんだから頑張らなきゃ、駄目なことはしないしやるべきことはやる。
  自分にしっかりと言い聞かせて、体を拭いた。
  でも、
  このことを話したら、虎徹ちゃんは誉めてくれるかな?
  いけないいけない。
  夫婦になった後にじっくり聞かせて驚かそう、そんなことがあったんだって。ささやかな
  夢だからこそ、楽しいし驚きも増す筈だから。楽しみにしていてもらわなきゃ。
  その光景を想像していると、ノックの音が聞こえた。この音は、未来の旦那様。
「ご飯出来たって」
  軽く返事をして、服を着る。
  それにしても、いつ聞いても素敵な声。
  また、濡れてきちゃった。
  今夜も頑張らなきゃ。

3虎

「…――ちゃ、ん。―てつ、ちゃん」
  僕の名前を呼んでいるのは誰だろう、聞き覚えのある声にぼんやりと目が覚めてくる。
  薄く目を開けてみると部屋の中はまだ暗く、時刻が夜中であるのはぼやけた思考でも分かった。
  声のする方向に顔を向けてみると、柔らかいシナモンの香りのする吐息と甘い匂いが
  顔にかかってくる。声で女性だと分かるその人影は、小刻みに体を揺らしていた。
「もう、だ、め」
  何が駄目なんだろうか、それと先程から聞こえてくる水っぽい音はなんだろう。
  確認をしようとしても、久し振りに家に帰ってきた父さんの酒に付き合わされたせいで
  大分体にアルコールが回っているらしく、動かそうにもだるくて動かない。
  その間にも誰かの動きは続いていて、水音と荒い息が激しくなったと思ったら突然それが止まった。
  体を一層大きく揺らし、一瞬硬直させた後に動くのを止める。疲れているのか、
  荒く乱れたままの呼吸のリズムと共にその体が上下にゆるゆると揺れていた。
「イッ、ちゃ、った」
  行ってしまったのか、どこに、何をしに。
  その女性は僕の髪を優しく撫でる。大分落ち着いてきたのか、体も動かずにじっとしていて
  手の振動だけが伝わる感覚が心地良い。
  しかし、この人は誰なんだろう。僕の隣で安らかそうにしているその姿は、密着している今は
  とても安心できる。
  僕の隣。
  僕の隣。
  僕の隣。
「ごめんね、虎徹ちゃん」
  この呼び方。
  ちょっと待て、自分。

 思考が急に冴えてくるのが分かるのと同時に、急激に冷や汗が出てきた。
  待て待て待て待て。
  今隣に居る人が何をしていたのかなんて少し考えれば、いや考えなくても分かる。ヒントは
  今まで沢山貰ってきた、それどころか答えすらも貰っている。
  答え合わせのために彼女の方を体ごと向くと、
「姉さん?」
「なぁに?」
  正解だった。
  僕は跳ね起きると部屋の明かりを点ける。
「う…ん、眩しい」
「我慢しなさい」
  あまり気乗りはしなかったが、確認のために布団を剥がす。
「やん」
  あれだけの事をしておいて、何が「やん」なのだろうか。
  僕の視界の中の姉さんは、少しアブノーマルな姿だった。パジャマは着ているものの、
  上半身のボタンは全て外されていて、たわわな胸が姿を覗かせていた。下半身はズボンが
  下着ごと膝の辺りまで下げられており、愛液で電灯の光を反射する股間の割れ目が露出をしていた。
  口元から溢れている唾液や潤んだ目、そして股間や指に付着した潤沢な液体がアクセサリのように
  鈍く光を反射している。僅かに赤く染まった肌や緩んでいやらしくなった表情と合わさって
  独特の淫靡な雰囲気となり、一つの芸術作品のようになっていた。
  などと表現してみても、事実は変わる訳ではない。
「姉さん?」
「虎徹ちゃん、見ないでぇ。ううん、やっぱりもっと見て…」
「ストップ」
  再び股間に伸びていった姉さんの手を掴むと、僕は真面目な表情を作った。

「まずは服を正して、そこに正座しなさい」
  僕は姉さんにティッシュを渡すと、背中を向ける。後ろでする衣擦れの音や、先程の姿に
  股間が反応しなかったのはありがたい。この時ばかりは、強制的に沢山飲ませてきた父さんに感謝をした。
  言いたいことは山程あったが、上手く言葉にならない。多分それが正解で、ただ酷い言葉を
  投げつけるよりはよっぽど良いだろう。これも幸運といえば幸運だった。
  数秒。
「終わったよ」
  僕は姉さんに向き直ると、
「えぇとね」
  少し考えた。
  酷いことを言わないようにとしたものの、どう言葉をかけていいかが分からない。
  まず何と言ったら良いのだろうか、自分の気持ちすら整理が出来ない。
「何でこんなことをしたか、説明を考えておいて」
  結局、僕は背を向けると時間稼ぎをしようとした。
「どこ行くの?」
「トイレ」
「えぇと、虎徹ちゃんもオナ…」
「しません」
  言って、部屋を出る。
  トイレに向かって歩いていると、サクラの部屋から声が聞こえてきた。盗み聞きをするつもりは
  無いけれど、声量が大きくて内容が伝わってきた。乱れた声で呼んでいるのは、
  予想通りに僕の名前。
  こっちもか。
  半分分かっていたけれど、いざ体験してみると途端に精神的な被害が予想以上に大きい。
  でも。
  この問題から逃げてはいけない、家族だから。

 多分、姉さんもサクラも少しずれているだけだ。それは年頃の女の子なんだから、
  自慰行為の一つや二つは当然するだろう。ただ僕の名前を呼ぶのは、僕以外の男性と触れ合う機会が
  極端に少ないだけで、そうなってくれば対象になるのが僕という話になるだけだ。
  実際に家族として暮らしていて、懐いているからこうなっただけ。深い意味はなくて、
  僕が冷静さを欠いていたのも悪かった。
  それに、さっきの姉さんだってもしかしたら寝ていて偶然にコトに及んだのかもしれないし、
  そうでなくても兄弟としてその趣味を理解してあげるのが大切なのかもしれない。
  他の誰もが拒絶をしても、それが身内としての在り方だと僕は思う。
  家族だから。
  毎日、それこそ何度も思う言葉を心の中で呟いたら、覚悟が決まった。
  部屋へと向かう。
「姉さん」
「はーひ?」
「…何してんの?」
「ぱんつくってんの」
  姉さんは口に含んでいた僕の下着を吐き出すと、笑顔で答えた。因みに正座はしたまま、
  僕の言いつけは守っていたらしい。
「もう一度訊くけど、何してたの?」
「ぱんつくってたの」
  パンを製造していたようには見えないから、文字通りパンツを食っていたのだろう。
  別に小腹が空いたからという訳でもないのは僕でも分かる。もしかしたらそうかもしれないけれど、
  これはパンはパンでも食べられないパンだ。
  何で姉さんは、真面目に物事を進められないのだろうか。

 僕は脱力しそうになるのを無理矢理堪えると真面目な表情を作り、
「正座、パンツは横に置きなさい」
「はい」
「あのね、今回のオナニーのことはもう問いません」
「うん」
「でも、もう家族の前ではしないように」
「うん」
  別に、行為を禁止しようとは思わない。行為自体は健康な証拠だし、ネタならネタで構わない。
  一編にするよりも、きちんと手順を踏んでいけばいい。少しの勘違いが積み重なって起こったことなら
  少しずつ戻していけば良い話だ。
「僕の話はこれでおしまい」
「あのね、虎徹ちゃん」
  姉さんを見ると、小さく指先を合わせていた。
「一緒に寝ちゃ、駄目?」
「良いよ」
「良いの!?」
  このくらいは良いだろう。寂しいのかもしれないし、それは僕を安心出来る人として見てくれている
  証拠だ。それに、急激に変えてもどこかで歪んでは元も子もない。
  二人で布団に入る。朝にしか感じたことのない、密着した独特の感触や体温が少し新鮮な感じがする。
  気持ちが良くて、少しだけ得をしたような気がした。この安心感は、兄弟だからなのだろう。
  数分。
  僕は言い忘れていた言葉を思い出した。
「姉さん」
「なぁに?」
「言うのを忘れていたんだけど」
「うん」
「織濱さんとは付き合うことにしたよ」
  背後で少しだけ姉さんが強張ったような気がしたけれど、気のせいだろう。
  これで良い。
  姉さんもサクラも少し僕離れが必要で、そのためには今回は丁度良い機会なのだろう。
  少し辛いかもしれないけれど、姉さんにもサクラにも幸せになってほしいし、お互いの為にも
  それが一番だ。これは昔から思っていたことで、少し寂しいけれどいつかはすること。
「おやすみ、姉さん」
  返事は返ってこなかった。

Side青海

 わたしはバイオリンの稽古が終わったことに安堵して、部屋に戻った。時計を見ると、
  時刻はもう深夜を示している。慣れきった稽古にもうんざりだが、それよりもこんなに時間を
  取られたことに怒りを覚えた。折角の個人の時間をこんなにも奪うなんて。
  荒れる心を鎮めるために、部屋の中に視線を移す。そこに居るのは、等身大の彼だ。
  親の金を使うのはあまり好きではないし、それだけで心が汚れていく気がした。
  それは勿論必要最低限のものは必要だし、半分強制的ではあるが与えられる衣服や食事、
  アクセサリなどは受けとるけれども、それもあまり好きではなかった。
  だけれども、それは少しずつ変わってきている。
  その証明が今目の前に居る彼と、先程終えてきたバイオリンの稽古だ。
  彼、正確には寸分違わぬ彼の模型だけれどそれに向かって立つ。彼に微笑みかけて優しくキスをすると
  バイオリンを構えて弓を持ち、静かに演奏を始めた。習い始めたばかりだが幸運にも
  私との相性は良かったらしく、それなりの腕前になってきている。私の奏でる音を
  静かに聞き入ってくれているのが嬉しく、弦の震えも指の運びもこれまでで最高の状態になっていた。
  これを始めたばかりの頃は嫌気が差したものだけれど、上達してくればとても楽しい。

 きっかけなど些細なもの、友達の言葉一つだ。
  音楽の授業時間、虎徹君がバイオリンを美しく弾いていた。その言葉を聞いて同じ土台に
  立ちたくなり、稽古を始めた。人とは不思議なもので、そうなると興が乗ってきて部屋は彼の毛髪や
  使用済みの道具で溢れかえってしまった。ついには等身大のフィギュアなども作らせてしまい、
  自分でも呆れた程だ。
  しかし、後悔はしていない。
  問題はどんなお金をどれだけ使ったかではなく、どのように使ったか、だからだ。
  今ではあまり躊躇いもなく親の金を使うようになってしまい、そのことには少し心が痛むものの、
  それ以上の幸福がそれを拭いさってくれる。
  彼のため、わたしのため。
  問題は無い。
  わたしは彼を愛している。
  愛とは崇高なもの。
  だから、この使い方は絶体に間違ってはいない。
  いけない。
  彼のためだけに演奏をしていたつもりだったのに、余計なことを考えてしまった。そのせいで
  少し音がぶれて曲が少し狂ってしまった。自分のことながら情けない。
  数秒。
  許してくれるだろうかと思って彼を恐る恐る見てみると、演奏前と変わらぬ優しい表情をしていた。
  そのことに安堵をして、再び演奏を開始する。今度は何の雑念も挟まない、本当に彼だけのための演奏。

 数分。
  わたしは曲を弾き終えると、彼の手を取ってベッドへとなだれ込む。ここから先は、
  彼とわたしの至福の時間。一日の締め括りを飾る、最高の瞬間だ。
  まずは、熱いキス。
  強引に舌を割り込ませると、乱暴に彼の口内と舌をむさぼった。それだけで心臓が異常に跳ね上がり、
  自分の股間が湿り気を帯びてくるのが分かる。こればかりは何度行っても慣れてくるということは
  ないだろう、寧ろ行えば行う程に濡れやすくなってきている気がする。はしたないと思うよりも、
  これが愛情の深さだと思う。そう考えると、更に嬉しく愛しくなり、行為の勢いも激しくなってくる。
  口からだらしなく漏れてくる唾液と嬌声も気にせず続けること数分、わたしは口だけで
  軽く絶頂を迎えた。息や鼓動が激しく乱れているが、そんなのには構っていられない。
  大事なのは、これから。
  わたしは意外に厚い胸板に顔を埋めると両足で太股を挟んで、熱くぬめる股間を擦りつける。
  荒れ狂う快感はそれだけで麻薬のように思考をとろけさせて、腰の動きを激しくさせた。
  不意に来た撫でるように髪を鋤く掌の感触が快くて、只でさえ激しくなっている動きを
  更に加速させた。 絶頂はすぐに来た。
  先程とは比べ物にならない程の快感に、虎徹君に覆い被さるように崩れ落ちた。
  擦りつけていた彼の太股を軽く指でなぞってみると、かなりの量の愛液が付いていた。
  下着越しであるにも関わらず付着したそれ程の量に、自分の濡れやすさを実感する。

 本当に、はしたない女だ。
  やや自虐的に思いながら体を丸めて、彼の太股を舐めた。独特の味がするぬめりを口に含むと、
  彼に口付ける。わたしの唾液と共にそれを流し込むと、言いようのない幸福感が湧き上がってきた。
  思考のほぼ全てを浸食するそれは、まるで毒だ。
  なんとなく時計を見た。正確には、腕時計が巻いてある彼の手首を持ったときに
  視界に入ってきたのだけれども。
  深夜二時。
  もう結構な時間だ。次で終わりにしようと思いながら、パジャマを脱ぐ。寝る直前だったから
  ブラは着けておらず、下半身の一枚を脱げばもうほぼ全裸だ。ほぼと言うのは靴下を
  着けているからで、最近はこのような姿ですることが多い。彼の何気無い一言を小耳に挟んでから
  始めたもの。最初は珍妙だなと思って始めたものの、姿見に映した自分の姿を見たときに納得し、
  驚いた。扇情的と言うのか倒錯的と表現するのか、妙な色気がそこには存在した。
  特に彼の好みだという膝上の長さのものは、自分でも気に入った。
  君はこんなことも教えてくれるのだな。
  心の中で小さく呟いて彼にキスをすると、残りの下着に手をかけた。ゆっくりと下ろしていくときの、
  絹が滑らかに肌を滑る感触が心地良い。僅かな衣擦れの音と共に聞こえる粘着質な水音に
  目を向けると、愛液が長い糸を引いていた。

 荒い息を吐きながら今日何度目かになるキスをすると、彼の手を股間の割れ目に持っていく。
  指先が触れただけで軽く達してしまったが、満足を出来ずにその指を膣内へと滑り込ませた。
  中を指でかき混ぜてもらいながら親指で淫核を撫でられると、それだけで頭が狂いそうになった。
  少し恥ずかしいが、もう片方の手を尻に持っていく。撫でられ、やわく揉まれ、
  ついには穴の中へと指が侵入するともう何度目だろう。絶頂に至り、キスをする。
  行為の最中はずっと続けていたせいで、彼の口元は唾液にまみれてどろどろになっていた。
  きっとわたしも同じような状態だろう。
  わたしは笑みを交したあと指で軽く彼の口元を拭い、その顔に跨った。唇が触れただけで
  軽く達したが、ここで止める訳にはいかない。ゆるく擦りつけながら両手で胸を揉み、突起をこねる。
  彼の鼻で淫核を刺激され、唇や舌で股間の割れ目をついばまれる。彼の手は尻をいじり、
  五点から与えらる快楽で何度も絶頂を迎えた。
  ぐったりと彼の胸に崩れ落ちる。
  下着を脱いだあと一度だけと決めてしまったのに、結局何度もしてしまった。虎徹君が関わると、
  何もかもこうなってしまう。理性の箍が外れ、歯止めがきかなくなる。人を好きになるというのは、
  多分こういうことなんだろう。
  念のために虎徹君の顔色を見てみると、いつもと何も変わりのない優しく穏やかな笑顔。
  そのことに安堵をすると、彼の胸に頭を埋めた。広くて温かいこの居場所は、
  何物にも代えがたい安堵と幸福感を与えてくれる。今日だけで何度思ったかも分からない、
  わたしの心の言葉。
  寄り添って寝そべっていると、急に睡魔が襲ってきた。時計を見ると、もうかなり遅い時間を示している。
「おやすみなさい」
  わたしは彼にキスをすると目を閉じた。

5虎

 いつもの如く痛々しい家族コントを終え、聖なる学び舎へと向かう。春の陽射しと朝の
  爽やかな空気が快い、そんな日常を送るのが僕の数多い楽しみの一つであった。
  姉妹の喧嘩は絶えないけれど、変わらぬ空気、代えられぬ世界が他の何より愛おしい。
  そんな筈だった。
  なのに、
「リムジンかよ」
  思わず突っ込んでしまった。
  細長くシャープではあるけれど、意外な無骨さも持ちあわせた魅力的な車体。
  滑らかに下がっていくスモークガラスのウィンドウから顔を覗かせたのは、織濱さんだった。
  随分と分かりやすい金持ち像をしているな、と感想を思い浮かべる。口には出さないけれど、
  多分僕の左右で獲物と対峙しているような目付きの二人も同じことを思っているのだろう。
  家は守崎の本家で取り敢えずは普通の家庭よりは裕福なのだろうけれども、
  さすが織濱さんは飛び抜けている。家の前に停車していたことにも
  気が付かなかったくらいだから、相当ハイスペックな高級車なのだろう。こんな車は見たことがない。
  意見を言うのも忘れ、茫然と言うよりも静寂といった空気の中、それを破ったのは
  ことの中心人物である織濱さんだった。彼女は不思議そうに小首を傾げると、僕と目を合わせ、
「どうした?」
  僕としては、織濱さんがどうしたのだろうという気分だけれど、敢えて口にはしないでおく。
  そのような細やかな気遣いが我が家に伝わる伝統の一つ、殺虎さんの教えでも
  基本的なものだから。御先祖様の努力は無駄にしてはいけない。

 沈黙。
  何を話そうかと考えていると、サクラが一歩前に出た。
「どうした?じゃないでしょう、常識をヒントにもう一度考えてみて下さい」
  こら、サクラったら何てことを。
  更に姉さんも一歩前に。デジャブを感じるのはきっと幻覚じゃない、普段の行動というか、
  日々更新されているこんな行動が僕の脳細胞にしっかり刻み込まれているからだろう。
  姉さんは財布から十円玉を取り出すと、その艶やかな車体に向けて勢い良く振りかぶり、
「何なのよぅ!?」
  慌てて僕は姉さんの腕を押さえ付けた。サクラにあっさりと破壊された伝統は諦めるとしても、
  さすがに血筋が絶えるのは駄目すぎる。こんな車の車体に十円傷を付けるのは
  カタルシスに満ちているのは分かるけれど、その代償は大きすぎる。
「離して、虎徹ちゃん。お姉ちゃんはやらなきゃいけないことが出来たの」
「姉さん、良い娘だから我慢して」
  底冷えするような抑揚のない声に答えると、いつの間にかメイドさんが
  開いていたドアの中へと引っ張り込んだ。凄い目付きで織濱さんを睨んでいるサクラに
  手招きをすると、渋々といった様子ではあるけれど、きちんと乗り込んできた。
  役者が揃ったところで、僕は今のところの一番の目的を思い浮かべた。
  姉さんがさっき必要以上に暴れたのも、きっとこのせいだろう。
  昨日の夜、寝る直前に姉さんには話してある。

 小さく短くという卑怯な言い方だったし、答えも返ってこなかったら聞いていなかったかも
  しれないと思っていたけれど、ちゃんと聞いていてくれたらしい。
  リムジンが発車したのを流れる景色で確認しながら、僕は織濱さんを見た。
  少し時期が早い気もしたけれど、走り出したからもうじたばたなどは出来ない。
「織濱さん」
「何だ、虎徹君?」
  言うしかない。
「昨日の答えだけど」
  そう切り出した瞬間、僕の左右をがっちり固めていた姉さんとサクラから
  殺気が露骨に伝わってきた。妙な言葉を出したら、間違い無く殺される。
  固唾を飲んで僕を見ている織濱さんと目を合わせ、
「こちらこそ、お願いします」
  鈍音。
  今にも床を踏み抜かんばかりの振脚の音が、左右からステレオで聞こえてきた。
  二人の表情を見てみると、怒りのあまりまるで槃若の面を被ったように歪んでいた。
  いつもとは逆で、普段から言葉豊かなサクラは舌打ちを一つ、舌を動かすよりも行動派の姉さんは
  体を全く動かさずにうつむいて何かをブツブツと呟いている。辛うじて聞き取れる範囲で
  言葉を拾うと何やら物騒な単語が聞こえてきたので、敢えて聞かなかったことにした。
  今は二人を意識から外して、織濱さんだけを見る。
「織濱さん?」
  笑顔のままおかしな方向を見て口元をもごもごと動かしている織濱さんは、
  正直あまり見たくはなかった。だけれども、現実から目を反らしてはいけないのは家訓の一つ。

「聞いてる?」
  改めて訊いてみると、その声でやっと現実に復帰出来たのだろうか、
  宇宙の真理を見つめていたとしか思えない織濱さんの瞳の焦点が合い始めた。
「あ、あぁ、すまない。子供は少し多くても良いが、避妊はきちんとしてくれ」
  一体どんな論理展開が彼女の頭の中で行われたのか、直球飛躍の答えが返ってきた。
  僕がどんな人間として見られているのかは分からないけれど、現実と少しずれがあるらしい。
「一姫二太郎がベストだと思うんだが、虎徹君はどう思う?」
  轟音。
  先程の倍はある音量で、振脚の響きが耳に入ってきた。
「織濱さん、寝言はお家で一人きりになってから言いましょうね? 虎徹ちゃんは、
  そこまでメルヘンなことを言ってないよ?」
「あまりふざけたことを言っていると、車の行き先が学校から地獄に変わりますよ?」
  左右からの強烈な圧力。
  そうか、この雰囲気は何かに良く似ていると思っていたけれど、中学の時の
  三者面談にそっくりだ。あのときの状況は教師を眼前にして僕の左右を両親が固め、
  どんな効果があるのかは分からないが背後には殺虎さんの写真が飾ってあった。
  教師のポジションが織濱さんに変わり、左右に控えているのが姉妹になったという
  違いはあるものの、恐ろしい程に酷似している。言いたいことは当時とは違うものの、
  僕が心の中で殺虎さんに助けを求めているのまで変わらない。
  しかし、今の僕と昔の僕は違う。

「姉さんも、サクラも、よく聞いて?」
  母さんから遺伝した綺麗な虎毛色の髪が逆立っているけれど、その恐怖も気にしない。
「これからは織濱さんと付き合うし、一緒に居る時間は少なくなるけど、二人とも大好きだから。
  それは分かって」
  暫くの、沈黙。
  二人の雰囲気から納得していないのは丸分かりだが、何も喋らないのは
  言葉を探しているからなのだろうか。それとも、迷っているからなのだろうか。
  分からない。
  僕はさっきの言葉を後押しするように、
「いつまでも、家族、だから」
  付け加える。
「お義姉さんも義妹さんも、愛が深いんだな」
「あなたにお姉ちゃんと呼ばれる義理は無いわよぅ、この(SE:バキュンバキュン)!!」
「あら、この埃は何ですか?」
「こら、姉さん。女の人がそんなことを言っちゃいけません。サクラも、埃なんて無いでしょ?
  窓に指紋は付けちゃ駄目」
  織濱さんの言葉に、昨日のような小姑コントのような間抜けな流れになった。詰まっていた
  重苦しい空気が流れたのはありがたいけれど、どこか不自然だ。
  まるで無理に空気を押し退けているような、そんな空気。空元気にも近い雰囲気は、
  違和感を覚えさせる。
  言葉では表現出来ないけれど、どこかがおかしい。
「わたし、負けませんよ。秋茄子も食べてみせます」
  僕の思い過ごしなのだろうか、織濱さんは普通に流れに乗っている。
  そこから繋がっている会話には、不穏な空気は無い。本当に、思い過ごしなのだろうか。
  上手く行けば良いけれど。
  僕は誰にも聞こえないように、小さく溜息を吐き出した。

6虎

 四時限目の終了を告げる電子音が、教室中に高々と響き渡る。
  と同時に、教室に快音が三つ響いた。音の原因は考えるまでもなく、虎姉妹と織濱さんだろう。
  その内の二つはもう僕の日常に組み込まれているので諦めているが、
  最後の一つはいかがなものかと思う。殺虎さんの格言でもこうあった。
  曰く、『戦で大切なのは諦めることじゃない、何を諦めるのかを選ぶことだ』
  その言葉を実践すべく織濱さんを見ると、
「あれ? 手ぶら?」
  僕が不思議に思っている間にも、織濱さんは凄い勢いで近付いてくる。
  それに一歩遅れてやってくる姉さんとサクラ、その手にはきちんと重箱があるのを確認して
  僕は少し安心した。それにしても織濱さんは家の弁当を食べるつもりなんだろうか、
  多分サクラは拒否すると思うんだけど。
  そう思っている間に三人は到着、僕は織濱さんを見上げた。
「食事にしよう、虎徹君」
「うん、そのつもりだけど。織濱さん、弁当は?」
「私の作ったものだったら、汁の一滴すらあげませんよ。重箱の中の空気すら惜しい気分なので…
  そうだ、食事の間に呼吸を止め続けて窒息なんてどうでしょう?」
「サクラ、そんなことを言うのは止めなさい」
  しかし気になるのは本当で、サクラをたしなめた後で再び織濱さんを見上げた。
  このお嬢様も人間だから昼になれば腹も空くだろう。昼食抜きなんて無様なことは
  絶体に無いだろうし、だからと言って愛や希望や霞で腹が膨れることもないだろう。
  現に昨日はえらく豪勢な弁当を持ってきていたから間違いない。

「心配ない」
  どうするのかと思えば、答えは予想を遥かに超越したものだった。
  快音。
  指先一つで音を鳴らすと、大きな重箱を抱えたメイドさんが教室に入ってきた。よく見てみれば、
  朝にリムジンのドアを開けたり運転をしていた人だ。僕たちとそれほど年の差が無いように
  見えるのに、働いていたり、仕事をきちんとこなしていたりするのを見ていると
  素直に凄いと思えてくる。
  僕の視線に気が付いたのか、こちらに振り向いて微笑を浮かべながら会釈を一つ。
  僕はじろじろと失礼な視線を送っていたことに気が付き慌てて会釈を返した。
「ついでと言っては失礼だが、紹介しておこう。虎徹君はこれから多分何度も会うことに
  なるだろうしな。執事のユキだ」
「よろしくお願いします」
  笑顔でお辞儀をするユキさん。風鈴の音のように澄んだその声は、多分何度も人を癒して
  きたんだろう。珍しく、姉さんもサクラも敵意の無い視線を向けていた。
「あれ、でも女の人だったらメイドさんじゃないの?」
「姉さん、それは今は差別用語です。きちんと待女とか秘書と言うべきですよ」
  僕と同じことを二人も考えていたらしい。説明を視線で求めると、
「私は男ですよ?」
  ユキさんが答えてくれた。
  なるほど、男だったら執事でも間違っていない。それに、姉さんやサクラが
  敵意の視線を向けなかったことにも納得がいった。多分、無意識の内に見破っていて、
  警戒を解いていたんだろう。これで全てに説明がついた。
  男だったらそうだよな。

「ちょっと待て」
  僕の驚きを聞いて、織濱さんとユキさんは不思議そうな表情をして首を傾げていた。
  逆にサクラや姉さんがどんな表情をしているかと思って見てみれば、何故か納得した表情で
  ユキさんを見ていた。何の疑問も持たなかったのだろうか。
「男!? 大丈夫なのこの人!?」
「うむ。男で、しかも妻子持ちだ。わたしとは干支も一回り違うような年だというのに、
  家族の写真を毎日周囲に見せびらかす妙な性癖を持っているのが問題と言えば問題だが、
  有能なのは間違いない。わたしが保証する」
  人格は保証しないんですか!?
「そんな、照れますよ。あと家族を愛するのは若さの秘訣です」
「そんな問題じゃねぇ!?」
  若さの秘訣は納得するにしても、問題が有りすぎる。このユキさんの外見はどう見ても
  美少女だし、しかもメイド服を着ている。とてもじゃないけれど、三十手前の男には
  見えやしない。それなのに、何故皆は平然とこの事実を受け入れているのだろうか。
  普通なら通報の一つや二つはしているんじゃ無いだろうか。
「何で良い年の男がそんな服装なんですか?」
  美少女的な外見は個人差と言うか、天文学的な確率で発生した遺伝子の産んだ
  奇跡だということにしても、その服装は明らかに人為的なものだ。言い訳のしようがない。
  しかし当然のように織濱さんは頷いて、
「似合っているだろう」
「そうだねぇ、羨ましい」
  この姉は…。

「普段の手入れが大事なんでしょうか? 特別な方法があるなら後で教えて下さい、
  これから熱さや紫外線が強くなりますが夏になると肌がどうもやられて」
  サクラまで…。
「ビタミンですかね、フルーツが好きでよく食べるので」
「あんたも普通に答えるな!!」
  何だろう、この気持ちは。言葉では上手く表現出来ない、不思議な気分になってきた。
  今までに味わったことのない、混然一体となった複雑な感情。
「この気持は一体?」
「虎徹君」
  流石に失礼が過ぎたのか、少し睨むように織濱さんが僕の顔を見ていた。それもそうか、
  いくら変態疑惑があるとはいえユキさんは織濱さんに結構信頼されているみたいだし、
  その人を悪し様に言われたらあまり良い気分はしないだろう。僕だって家族や殺虎さんの
  悪口を言われたら気分が悪くなるし、恨み言の一つも言いたくなる。それに、いくら外見が
  美少女といってもこの人はずっと年上なのだから尊敬の念が足りなかったのも事実だ。
「すみません、ユキさん」
「気になさらないで下さい」
  だがそこはやはり大人、柔らかい笑みが返ってきた。
「そうじゃない」
  目を向けると、織濱さんは膨れた表情のまま。僕が他に何かをしたんだろうか。
「せっかく付き合い始めたのに、君は彼女…」
  鈍音。
  『彼女』という単語に反応したのか、姉さんとサクラが織濱さんを睨みつけながら腕を組んで
  仁王立ち、言葉の代わりに振脚の音を響かせていた。

 織濱さんは一度途切れた言葉を咳払い一つで直し、改めて僕を見ると、
「彼女を無視して他の人に目を向けるなんて。そうか、分かった。いますぐ本場モロッコ行きの
  飛行機を…いやタイの方が近いか。大丈夫、わたしは同性愛者を差別はしないし、
  君がどんなに変態でもそれを受け入れるつもりだ。そしてまた一つ君の理想に近付いてみせる、
  楽しみにしていてくれ」
  この人は、本当は馬鹿なんじゃないだろうか。
「ごめん、織濱さん。突っ込むところが多すぎて」
「男の人なら、逆に少ないんじゃないのかな? 友達から借りた本で読んだもん」
「食事時に、そんなボケは止めてください。周りの人が、複雑そうな表情をしています。
  あそこのカップルなんか、ウインナーを食べるのを止めました」
  この二人の会話は聞かなかったことにして、織濱さんを見た。確かに、少し不真面目だった
  かもしれない。織濱さんは僕のことをずっと考えてくれていて、
  漸く付き合い始めたっていうのに、僕ときたらそんなことは全然考えていなかった。
  それどころか、付き合い始めた理由も姉妹を僕離れさせる為なんていう不誠実なものだ。
  一方的に利用するだけなんて、人として完全に駄目だろう。
  だから、
「ごめん、織濱さん。お詫びに何か要求に答えるよ」
  人として付き合いたいと、改めて思った。
  やっと笑顔を見せると織濱さんは、
「なら二つ。まず一つ目、放課後デートというものをしてみたい」
  後ろから殺気がするけれど、気にしない。
「次に、わたしのことは青海と呼んでくれ。出来れば呼び捨てで。せっかく付き合っているのに
  名字で呼ぶなんて味気無い」
「分かった、良いよ。これから宜しく、青海」
  そう呼ぶと、青海は嬉しそうに笑った。

7虎

「虎徹君、これなんかどうだろう?」
  通い慣れた喫茶店、『極楽日記』の店内で青海はメニューを必死になって見ていた。
  僕といえば注文は既に決まっているので若干暇を持て余し、専ら青海の相談役に徹している。
  真剣に注文を選ぶ青海の言葉に応じながらその表情を見てみれば、普段の毅然としたそれとは違い
  年相応の可愛らしい雰囲気が心をくすぐってくる。そして二人きりというこの状況、
  向かい合って座っているという事実に改めて付き合っているという実感が湧いてくる。
「こっちはどうだろう?」
「それは大分甘いけど、そういうの平気?」
「望むところだ、甘いものは別に溜る」
  漸く注文が決まったらしく、僕はマスターを呼んだ。極悪な人相とは裏腹に人の良い笑みを
  浮かべながら、店主の笹垣さんが寄ってくる。いかつい体も温厚な表情もいつもと
  何も変わらないが、普段と少し違うのは視線の中に僅かに含まれている好奇心。
「決まったかい?」
「僕はいつもの、青海は?」
「これとこれを」
  笹垣さんは注文表に幾つかの単語を書き込むと、僕を見て笑みを強くした。
「どうしたんですか?」
「いや、何も。ただ虎徹君もついに春が来たかと思うと嬉しくてね。いつも女っ気はないし、
  女連れだと思えば虎百合ちゃんか虎桜ちゃんばかりだったから」
「なら、わたしが虎徹君の最初の彼女という訳か。嬉しいものだな」
  青海はそう言うと、小さく笑った。
「おや、彼女なんだ。ならサービスしないとな」

 愉快そうに体を震わせて、笹垣さんは店の奥へと向かっていった。
  彼女、か。
  そうなんだよな、僕たちは付き合っている。二人きりだという状況でも少し照れ臭いのに、
  そんなことを言われたら恥ずかしさが一気に込み上げてきた。敢えて意識しないように
  していたが、相手は完全無欠のお嬢様。僕よりずっとハイクラスな相手だ。
「虎徹君?」
  不味い、意識した途端に言葉が浮かばなくなってきた。いつもの下らない冗談やふざけた発言が、
  全くと言っても過言じゃない程に言葉が浮かんでこない。友人をして『詞食い』と
  言わしめた僕がどうしてこんなに黙っているんだ、不自然な態度は僕らしくない。
  助けて殺虎さん。いや、もうこの際誰でも構わない。ユキさんでも姉さんでもサクラでも良い、
  今更になって嫌がる姉さんやサクラを置いてきたりしてきたことが悔やまれる。僕の馬鹿馬鹿、
  大っ嫌い。
「どうしたんだ、虎徹君!? 君が今から何をしようとしているか分からないけれど、
  そっちは壁だぞ!?」
「ごめん、ちょっと緊張してて。ほら、青海って美人だから」
  壁に頭突きをするその一歩手前で現実に引き戻され、僕は慌てて言葉を取り繕ったが、
  我ながら悪くない。漸く調子が戻ってきたような気がしてきたので、青海に向かい直して
  笑みを作った。冷静になってきたのなら、きっと大丈夫。
  しかし今度は笑顔に戻った僕とは逆に、青海は複雑そうな顔をした。

「君は緊張すると壁に頭突きをす…え、び、美人?」
  それも長く続かず、今度は顔を紅く染め上げる。挙動不振に両手を空中に上げ、
  その拍子にお冷やの入ったグラスを倒して慌てる姿を見ていると、今度は作ったものではない
  笑みが漏れてきた。普段の姿からクールな性格だと思っていたけれど、以外に俗っぽいらしい
  その行動に緊張が完全に緩んだのが分かった。
「ほら、青海。落ち着いて、ラマーズ方」
「うぁ、すまない。突然言われたものだから」
  テーブルを拭きながら青海を見ると、本当にラマーズな呼吸をしていた。
  相当気が動転しているのか浮かべている表情は複雑なもので、
  僕にはどんな心情か判断が出来ない。笑い事ではないのだけは、本人の様子で簡単に分かる。
  数秒。
  やっと落ち着きを取り戻したらしい青海は僕にいつもの表情を見せ、
「不意打ちというものは、案外効くものだな」
「そうみたいだね。でも、本当に可愛いと思っ…」
  鈍音。
  壁の向こう側、丁度僕が座っている辺りから壁を叩くような音が聞こえてきた。
  それも尋常じゃない力で。
  やはり、誰か居るのだろうか。
  この店に入った理由は、放課後デートっぽいからだけではない。学校を出た辺りから、
  たまに強烈な視線を感じたからだ。気にはなるものの、よそに目を向ければ青海に失礼だし、
  昼のこともあってか後ろを向き辛かった。なにより青海が怒るのであまり確認は
  出来なかったけれど、それでも何回か周囲を見てみても、それらしい人影は無かった。

 もしかしたら姉さんかサクラかもしれないと道の途中で思ったけれども、流石にそこまで
  偏執的ではないと思う。二人とも今日は友達と遊ぶと言っていて、
  その友達と一緒に帰っているところも見たし、何より身内を疑うのは良くないから。
  根拠はないけれど、多分ユキさんも違うと思う。あの人は多分変態だけれども、
  なんとなくではあるけれど、こんなことはしそうにない気がする。
  格好以外はとても善人だということは、昼の短い時間だけれども一緒に話をしていて分かった。
  だとすると、本当に誰だろう。
「虎徹君、大丈夫か? また上の空だが」
「ごめん、ちょっと考え事してて」
  誰だ。
  青海は確かに美人だし、欠点なんてものは見当たらないからファンも多そうだし、
  その類だろうか。ストーカーのような存在はテレビの向こう側にしか居ないような
  ものだけれど、だからと言って近くに居ないとは限らない。
「虎徹君」
  大きな声に顔を上げてみると、青海が悲しそうな表情をして僕を見つめていた。
  何かしただろうかと考えてみると、すぐに答えが出た。
  また、やらかした。
  何かをした、ではない。それなら、まだ幾らかましだったかもしれない。
  昼のことは反省をしていた筈なのに、もう破ってしまっている自分が何とも情けない。
  青海は僕の彼女なのだから、もう少し気を使うべきだった。

 僕が見つめ返すと青海は軽く視線を伏せ、
「もしかして、わたしと居るとつまらないか?」
「そうじゃなくて…」
  考えろ、今はどんな言葉が有効か。これは交渉のようなものだ、相手を出し抜き自分を有利にし、
  世界を円滑に進ませる言葉を見付け出せ。自分の持っている情報を確実に把握して、
  相手を騙す手札に変えろ。
  自分に言い聞かせ、答えは以外と簡単に出てきた。
「ほら、僕もこんなのは初めてだし、経験が無いから。青海は楽しんでるのかなって、
  そんなことばっかり考えてて」
「そうだったのか、ならお互い様だな。わたしも同じことばかり考えていた」
  果たして、結果は上手くいった。足掛かりを掴めば、続く言葉は簡単に出てくる。
  はにかんだように笑う青海を見ていると心が少し痛むけれど、好きになりかけてきている青海を
  ここで切り離したりは出来はしない。
  だから、言葉を続ける。
「正直、少しつまらないかもしれない」
「やっぱり、そうか」
  悲しそうな表情は、もう見たくない。
「僕は青海のことをよく知らないし、そっちもそうだと思うしね。だから好き合ってるじゃなく、
  付き合ってるとしか表現出来ないし。そもそも順番が逆だしね」
  ますます暗くなる青海の表情だが、それもこれまでだ。
「だけど、これから二人で進んでいけば良いと思う。例えば、さっきの注文で青海が甘党
  だって分かったみたいに」
  少し驚いた表情で顔を上げる青海に、僕は笑みを向けた。
「これから二人で知っていけば良い」
  気を利かせてくれたのだろう少し遅目に出てきた珈琲を一口飲むと、青海の顔色を見る。
  そこには少しぎこちない笑みがあり、きちんと進めたことの証明として軽い笑い声も
  それに付いてきた。
  珈琲をもう一口飲んで考える。
  まずは何から話していこうか。

To be continued....

 

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