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ジグザグラバー

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開幕

 僕のあだ名である『毒電波』とは巧く表現したもので、成程、中々的を獲ていると思う。
「おはようございます、御主人様」
  僕の眼前に立っている後輩の少女とは、別に主従関係を結んでいる訳ではない。
  彼女が一方的に僕をそう呼んでいるだけだ。
  端的に表現すると、変態。
  どうやら僕は毒電波を垂れ流しているらしく、それを受信しているこの手の輩が昔から
  こぞって寄ってくる。
  それも春だから産まれた限定品ではなく、天然ものばかりだ。
  因みに、この少女はその中でも群を抜いてトップクラスに位置している。
  僕は短く溜息を吐き、
「おはようございます。朝から絶好調だね」「はい、それでは今日も御願いします」
  言葉と一緒に僕に渡されるのは一通の便箋。ファンシーなピンクの封筒に入っているのは、
  僕への熱烈なラブレターだ。毎回違う文面というだけでも、その努力は伺い知れる。
  それを受け取ると、僕は細かく千切った。そして、少女の目に見えるようにばらばらと捨ててやる。
  この時のコツは、掃除をしやすいように一ヶ所に落としてやることだ。初めてこれをした時には
  ゴミが広がり、意外にモラリストな彼女に猛烈な注意を受けた。
  閑話休題。彼女がとろけた表情でそれを拾うのを見届けると、僕は蔑んだ表情と冷たい声を作り、
「満足したか、雌豚」
  この一言に、彼女の体は歓喜で震えた。
  僕としてはあまりこんな事をしたくはないのだが、土下座までしてきた彼女に根負けした。
  土下座中にとろけた表情をしていたのは、早く忘れたい思い出だ。
「今日は何点?」
「調子良いですね、98点ですよ」
「そうか良かった。それじゃあね」
  僕に手を振りながら元気に友達の所へと向かっていく彼女を見送り、僕は待たせていた
  華の所へと早足で歩く。

「遅い」
  いきなり怒声が飛んできた。
  なるべく早めに終わらせたつもりだが、それでも長かったらしい。
  只今御立腹らしい彼女が、あの後輩すらも断突で抜いて僕の人生の中でトップに君臨し続ける存在だ。
  恐らく生涯現役だろう。
  渡島・華。
  僕、鎚宮・誠の幼馴染みで一番の友達。長い髪に低身長、誰もが羨まない幼児体型。
  その愛くるしいポッコリお腹は珠玉の逸品だ。
「ごめん、許して」
「…姫ダッコ」
  僕は華をお姫様だっこすると、教室へと向かう。
  ついつい人を甘やかしてしまう。僕のこんな部分が、際限無く変態を引き寄せているのかな、
  などとどうしようもないことを考えた。
  華をなだめすかして教室に入るが、僕の朝はこの程度では終わらない。この程度で済むのなら、
  この人生もどれだけ楽になっていただろうか。
  机に教科書をしまい、今日の一時限目の予習をしようとすると、声を掛けられる。
  不本意だが、これも仕方のないことだ。
「おはよ、誠ちゃん」
  綺麗なソプラノの声の主は、学年一の美少女、ではない。
「おはよう」
「帰れ、オカマ野郎」
  華の辛辣な口調にその少年、城濱・勇二は苦笑を浮かべた。
  女子用の制服に身を包む外見の中身が僕と同じ性別なのは、中学の修学旅行の風呂で若干僕より
  小さいサイズの物を確認したので間違いない。
  そんな勇二は小首を傾げると、
「あれ、宿題出てたっけ?」
「いや、今日は当たる番だから」
  そう言って、僕は予習を再会する。いつもの如く首筋に抱き付いて、僕の体臭をかぐのに
  夢中になっている華も、今だけは無視。
  暫くして、予令が鳴る頃に予習が終わり、名残惜しそうにしている華を引き剥がす。
「ほら、席に戻って」
  渋々、といった表情の華は右手を前に出し、
「愛してるよ」
「僕もだよ」
  僕と軽く握り拳をぶつけあう。
  数分。
「はい皆さん、おはようございます」
  豪快に教室の扉を開いて、つい先日失恋をしたという担任が入ってきた。
「今日から皆と一緒に過ごす、新しい友達を紹介します」
  この言葉に、教室は独特の熱気に包まれる。

「それではどうぞ」
  教室に入ってくるのは、一目で分かる美人。失礼な言い方をすると華とは真逆の体型だ。
  彼女は細やかな指使いで黒板に名前を書いていく。
「陸崎・水です。よろしく」
  彼女はそう言って、ブイサイン。
  ブイサイン!?
  今時そんなマネをする女子高生が居るとは思わなかった。男子生徒でも居ないだろう。
  最後に担任は、絶望的な言葉を口にした。
「席は、鎚宮の後ろが空いているな」
  その一言で、一気に教室の空気がやるせないものになる。
  僕に向いた視線は、皆同じ考えを乗せていた。
  あぁ、また変人か。
  僕が嘆いている間に担任は幾つかの連絡をして教室を出ていった。恐らく、
  あまり関わっていたくなかったのだろう。万人共通の思いを、担任も持っていた。
「よろしく、旦那」
  陸崎さんは、ヘラヘラと笑いながら歩いてくると、握手の手を差し出した。

 握手の距離、これは不味い。
  危ない、と注意するより先にその手が引っ込められた。
「危なッ」
  手があった場所を通過したのは、華の鋭い拳。『暴君』程ではないにしろ、
  凡人では避けることは殆んど不可能なそれを陸崎さんは避けた。
  それだけでは終わらない。
  そのまま続く連撃を、一歩も動かずに上半身の動きだけで避けている。
「なかなか良いモン持ってんじゃん」
「ヘラヘラと笑うな」
  華が本格的にキレる前に、僕は羽交い締めにして暴走を止める。
「ごめんね、あと1m位下がって」
「誠はボクのだ」
  そう、これが華が常にトップに位置する理由。僕に依存するあまり異常に嫉妬深く、
  誰にでも牙を向く。男子は1.5m、女子は2m以内に近付けないのが華の不文律だ。
  他にも弊害は山程あるが、これが最大の彼女の個性。
「へぇ、これはこれは。どっちも面白い」
  彼女は意地悪く唇の端を歪めると、
「でも無理だ。一目惚れって、ホントにあるんだね。物事は貫き通す、それが私の礼儀だから」
  そう言って僕にキスをして教室から出ていった。

2

 陸崎さんが教室を出ていって数秒、クラスは緊張に包まれていた。クラスメイトは
  気不味さと恐怖に黙り込み、華は今にも暴れだそうと体を震わせ、僕に至ってはあまりの出来事に
  思考を遥か銀河の彼方まで飛ばしている状態だ。
  と言うか、あれが僕の初キス。
  どうしよう。
  取り敢えず僕は華を抱えて椅子に座るとシャツの下に手を滑り込ませて、滑らかなお腹を撫で始める。
  今日も抜群の感触の肌は、触れていて快い。
  普段はこれで大分機嫌も直るのだが、今回はいつもより強く抱き締めた。
  少しでも気にくわない事があると、周囲の人間を際限無く傷付ける。それが華のあだ名、
『殺戮姫』の所以だ。『暴君』と似ているが、あちらはルールを守っていて、華はノールール。
  それが二人の違いだろう。
  それから三分程して、机と椅子を持った陸崎さんが戻ってきた。
「よう旦那、さっきは悪かったね。流石に初めてって事は無いと思うけど、そっちのお嬢ちゃんには
  悪い事したなと思ってさ。ま、私の初物って事で許してくれよ」
  ヘラヘラと笑いながら、よく喋る。
  だけど、その勝負ならこちらの得意分野だ。
「僕の周りでのルールを言ってなかったね。悪いけど、半径2m以内に近付かないでくれるかな?
  それが友好関係の第一ルールだ」
  陸崎さんはどっこいしょと僕の後ろに机を置くと、しかし椅子に座らずに僕を向いた。
  恐らく、さっきのように華が攻撃してくるのを警戒しているんだろう。
「最初に無理って言わなかったっけ? 興味が湧いたら一直線に走っていく、それが私のあだ名
『疾走狂』の所以だよ?」
「それこそ距離を取らないと。道やゴールが無かったら、走るものも走れない」

 

 多分、この言葉さえも時間稼ぎにしかならないだろう。こんな目をしたタイプは、勝手にルートを
  決めてつき進む。さっきからの僅かなやりとりでも分かるが、陸崎さんは馬鹿じゃないから尚更危険だ。
「それに、何で僕なんだ? 他にも沢山良い男は居るだろう、例えば…勇二」
  僕の声に、勇二が顔をこちらに向けた。浮かんでいる表情は、巻き込むなの一言だ。
「あれは女子だろ? え? 嘘? 男?」
「どうだい?」
  僕は薄笑いを浮かべて陸崎さんを見たが、視線は既にこちらを向いていた。
「アレは無し、彼氏が彼女より可愛いくてどうすんの。それに一目惚れって言ったでしょ、
  旦那の存在に惹かれたの」
  かなり厄介な上に、しつこい。本当に偏執的な性格らしく、一目惚れとは思えない程に
  食い下がってくる。成程、僕の後ろの席にも着くわけだ。
「それこそ無理だ。僕の隣は華の名義で、墓穴の中まで予約済みだよ。それにキスも、
  僕だって初物なんだから許すことなんて出来ないね。せっかく、華の成人まで取っておいたのに」
  気は進まないが華の御機嫌取りも兼ねて、強攻手段に出る。この方法を使うと一週間は
  依存が酷くなるのであまり使いたくなかったが、背に腹は変えられない。
  これで諦めてくれるかと思ったら、完全に予想外だった。
「そうかぁ、えっと…華ちゃん以外には?」
  ヘラヘラと笑いながら、近付いてくる。
「予約殺到中でね、僕はこれでもモテるんだ」
  主に変人にだが。
「だから、大分並ぶよ?」
「だったら先頭まで走っていくさ、それが『疾走狂』だからね」
  駄目だ、今の彼女には言葉は通じない。
  僕は溜息を吐くと、
「とにかく僕に嫌われたくなかったら、離れて離れて」
  以外にもこの言葉が効いたらしく、陸崎さんはあっさりと距離を取った。
  腐りきっても、根っこの部分は乙女らしい。

 これは、使える。
  僕がそう思って陸崎さんを見ると、その視線は下を向いていた。
「ところでさ」
「うん?」
「さっきから気になってたんだけど、何で華ちゃんの腹を直撫でしてんの?」
  お前のせいだ、という言葉を飲み込むと僕は笑みを作り、
「これをしてると、気分が落ち着くんだ。最高の触り心地だぜ、他の誰にも触らせたくないから
  分からんかもしれんがな」
  華を刺激しないように、落ち着かせるため、とは絶対に言わない。それに、この言葉は
  僕の本心でもある。他の誰かが触っていることを考えるだけで、気分が悪くなる。
「へぇ」
  陸崎さんは唇の端を歪めると、華を見下ろした。
  それに気が付いたのか、気持ち良さそうにしていた華は顔を上げると、
「何見てるんだ、この泥棒猫。見せ物じゃないぞ」
  表情を厳しくして、陸崎さんを睨みつける。
  逆に陸崎さんは、表情をヘラヘラとしたものに戻すと、
「泥棒猫ね。その名前も良いんだけと、私にゃもう、『疾走狂』って名前があるから頂けないね」
「容量の少ない奴だな」
「まぁね、ひひひ」
  そう言うと、陸崎さんは独特な笑い声をあげた。
  本当に、よく笑う娘だ。
「まぁ。その代わりにささやかではあるけども、『疾走狂』の名前にふさわしい働きをしてみせるよ。
  昼休みを楽しみにしておきな」
  そう締め括って、陸崎さんは席に着いた。

 

 華を抱えて授業を受け、昼休み。授業中、教師が溜息や疲れた視線を送りながらも注意をして
  こなかったのは、悲しむべきなのか、喜ぶべきなのか。陸崎さんを含め、クラスメイトが
  何か諦めきった悟りのような表情をしていたのもいろいろ考えるべきなのだろう。
  華だけは始終御満悦で、それだけは嬉しいことだ。
  『女』が『喜』ぶと書いて、『嬉』しい。
  閑話休題。
  僕たちは超満員の購買に居た。今日は二人とも寝坊をしたので、僕も華も弁当無しの状態だ。
  それに手を差し延べたのが陸崎さんで、朝の詫びにとパンを奢るつもりだったと言われて
  僕たちはのこのこと着いてきたという話だ。
「混んでるねぇ」
  楽しそうに陸崎さんが笑いかけてくる。
  確かに今日はいつもより人は少ないが、それでも多過ぎるので僕は入っていけない。
  僕の胴体にしがみ付いている華が原因で上手く歩けないし、何よりあんな沢山の人に囲まれたら
  暴走した華によって一瞬で地獄絵図だ。

 どうすんの、と言おうとして隣を見ると、何故か陸崎さんは準備運動をしていた。
  そして5m程下がると僕に向けて笑いかけ、
「危ないから端っこに寄ってしゃがんで」
  嫌な予感がして、僕は言われた通りにした。
  次の瞬間、陸崎さんは一瞬で加速するとそのままの勢いで壁を疾走。窓枠を踏み切り台にして跳躍し、
  先頭に居た男子生徒にドロップキックをしつつクッションにして着地した。
  化け物。
  その一言が頭をよぎる。
「おまたせ」
  帰りはモーゼのように人垣を割りながら悠々と歩いてくる。
  パンを華に放り投げながら、
「どう? 少しは凄いでしょ」
  少しどころではない。
  華が指紋を拭き取ったパンを受け取りながら、僕は視線で訊いた。
「昔は『偏執狂』だったんだけど、陸上にハマった時に頑張りすぎてこんな事まで出来るように
  なったのさ。それ以来、私のあだ名は『疾走狂』。心配しないで、それとも残念なのかな。
  下にはスパッツ穿いてるから。夏にはムレて困るぜ」
  言い終えると、ヘラヘラと笑いながら教室へと向かっていく。
  僕は、とんでもない奴に目を付けられた。

3

 時間は深夜、時計は既に二時を示している。満月が照らす明るい月夜に、街灯の下で二人の少女が
  肩を並べて歩いていた。
  それだけなら普通の光景だが少女達の場合、それとは異なる点があった。
  武器を持って歩いている。
  小柄な方は刃渡りの長いナイフを持ち、もう片方は鉄パイプを持って歩いている。
「この時間に会うのは久し振りですね」
「まぁな。落ち着いてきたと思ってたんだが、久し振りにカッと来た。人殺しでもしない
  とグッスリと眠れない。誠が隣に居るのに、だ」
「転入生、ですか」
  誠を『御主人様』と呼んでいる少女、宮内・さくらは溜息を一つ。
「厄介ですね。頑張って下さい」
「そっちこそ。虫の駆除は良好なのか?」
「最近は警察も厳しくて」
  さくらと華は同時に肩を落とすと、大きな溜息を吐いた。
  暫く無言で歩き、十字路に着くと立ち止まる。
「それじゃあ、精々頑張れ変態」
「『奴隷』ですってば。そっちこそ殺戮も程々に」
  さくらと華は軽口を叩くとお互いに背を向けて、歩き始めた。
  一人になったさくらは、鉄パイプを引き擦りながら、深夜の散歩を再会する。本当ならば警察の目が
  厳しい今、不自然な音をたてて歩くのは自殺行為だ。そもそも今の状態は見付かった時点で
  即通報だし、この独特な音だけでも非常に危ない。しかし、それを理解しながらも止めないのは、
  彼女を突き動かす目的が有るからだ。
  住宅の多い部分を抜け、安心している彼女の視界に人影が映った。

「あれは…」
  その姿を確認して、さくらの体が歓喜に震えた。
  人影の名前は、陸崎・水。今のところの最大の的で、それを見付けた自分に天は味方をしていると
  確信した。幸いにして人影も無いし、近くに寂れた駐車場もある。
「こんばんは」
  さくらは笑みを浮かべると、明るい声で話しかけた。
「こんばんは」
  水はヘラヘラと笑いながら返事を返す。
「ちょっとお話しませんか? こんな良い月夜に独りは寂しくて」
「ごめんね、早く帰らないとアイスが溶けちゃうからさ」
  さくらは鉄パイプで強くアスファルトを打ち鳴らすと、
「そう言わずに、少しだけでも良いので」
「へぇ、そういう事か。そうだね、この辺りに開けた場所はあるかな?
  夜道で女子高生が立ち話なんて、危険すぎていけない」
  無言で、しかし満面の笑みで歩き出すさくらに水は黙って着いていく。
  数分後、二人は野外駐車場へと来ていた。
  水はヘラヘラと笑いながら、
「理由は? さっき言ったのは無しだ」
「そうですね、『御主人様』に近寄りすぎたからです」
「ごしゅじんさま、ね。変態め」
「変態じゃなくて『奴隷』ですよ」
  数秒、二人は短く笑い声をあげる。
  一瞬。
  高速で何何度も振り下ろされる鉄パイプを、ジャージのポケットに手を入れたまま水は避ける。
「剣道何段?」
「ちびっ子剣道クラブで、三日間習っただけです」
  言葉と共に突き込まれる鉄パイプ。
  水はそれを蹴りあげると、そのままの勢いで後方回転飛び。更に着地した身を上げ、
  さくらの間合いの中へと滑り込む。
「危なッ」
  追撃をするように飛んできた左フックをしゃがんで避けると、足払い。立ち上がり、
  仰向けに倒れたさくらの腹上で、いつでも振り下ろせるように足を固定する。

「んで、ごしゅじ…あ、成程。でも、これはバレたら嫌われるんじゃないか?
  他にもやりようがあるだろ? それに直接旦那に手を出さないの?」
  動けない状態のさくらは、しかし笑みを浮かべ、
「それなりに頭は回るみたいですけど、馬鹿ですねアナタ。どんなに強い思いを持っていても、
  直接的には触れ合わない。それが『奴隷』のたしなみですよ。そして主が気付かないまま
  事を終えるのが一流というものです」
「成程、そんなもんか。で、何で旦那なんだ? って聞くまでもないか。眼、だな」
「そうですね、あの人は華さん以外、誰も見ていない。そこが良いんです」
  さくらは鉄パイプを捨てると軽く身をよじり、
「もう攻撃しないので、足をどけて下さい」
  水はさくらの上から足を外すと、助け起こして座らせる。
  そして、袋に入っていたアイスを一つ渡し、
「旦那とはどんな出会い方?」
  さくらはアイスを受け取りながら、
「長くなりますよ」
  構わない、といった表情で自分のアイスを舐め始める水を見て、さくらは溜息を一つ。
「あたしは自分で言うのもアレなんですけど、頭も良くて、運動も得意です。容姿にも
  自信がありますし、正直負け知らずだったんですよ」
  この高校に入ってからは化け物ばかりで、すぐに間違いだと気付かされたんですけどね、
  とさくらは苦笑を浮かべてアイスを舐める。
「それでも、そんな人達からも高評価だし、周りからは相変わらず好意や嫉妬、羨望の眼を向けられて
  いたんです。調子に乗っていたあたしは、この高校の化け物が集まる人の噂を聞いて近寄って
  いったんです。最初は驚きました。何もかもが、平均より若干上なだけの人なんですよ。
  なのに、あの人はまるで他の人を見下しているどころか、眼中にすら無かったんです。
  その視線でどん底に落とされたあたしは、あの人を遠巻きながらも崇拝するようになりました」

 どん底になると、上しか見えませんから。周りの全てが幸福で良いですよ。
  とろけた表情でアイスにかぶりつくさくらを見て、水は苦笑を浮かべた。
「成程ね。じゃ、次。何でこの方法なの? 正直、辛いだろ?」
  さくらは少し考え、
「呪いって、どんなシステムか分かりますか?」
  水は数秒呆けた表情をすると、次の瞬間には笑いだした。
「んな非科学的な」
  逆に、さくらは溜息を吐いた。
「それは、非科学的な考え方をしているからです。呪いっていうのは、例えるなら爆弾みたいな
  ものですよ」
  困惑した顔で見てくる水に、さくらは苦笑で返し、
「例えば、熱心な仏教徒が仏像を傷付けたら、その人は困りますよね。逆に、アマゾン奥地の人は、
  そんなの気にしません」
「そりゃそうだ。アマゾン奥地の人から見たら、ただのオブジェだからね」
「その三日後に怪我をしたら、仏教徒の場合は祟りだと思うかもしれません。しかし、
  アマゾンの人が怪我をしても、本人はただの事故だと思うわけです」
「成程ね。関係のない複数の現象を関連付けさせる意識が、あんたの言う呪いの本質か。
  そして、意識が爆薬で現象が起爆剤。それで引き起こされる感情が爆発、と」
「そう、そして今は爆発中なんですよ。殺人でも、あの人の為だと思えば快楽の極みです」

 暫く水は考えていたが、やがて立ち上がると自分のものとさくらのアイスの棒を袋に入れて歩き出す。
  数歩進んで振り返り、
「いや、勉強になった。あと一つだけ訊きたい事があるんだけど」
「何ですか?」
「旦那のあだ名って何かな? 交流には周知のあだ名が必要だ」
  さくらは苦笑で、
「聞かない方が良いと思いますよ? 仲良くしたいなら尚更。日常で呼べませんし」
「そんなに酷いの?」
「『毒電波』」
  お互いに苦笑をして、眼を反らす。
「それじゃあ、また今度遊ぼう。殺人も程々にな。私も昔ハマったけど、良いこと無いよ?」
  ひひひひ、と笑いながら去ってゆく水の背中を見て、さくらは呟いた。
「しまった。今日は誰も殺してない」
  太陽が昇りかけていた。

4

 雀の鳴き声と電子音が部屋に響き、僕は眠りから覚めた。必要な家具以外は殆んど無い
  殺風景な部屋は、必要以上に電子音を大きく聞こえさせる。
  首だけ起こして視界に入ってくるのは、いつもと同じ、ワンルームマンションの室内風景だ。
  続いて視線を僕の隣へと移す。
「ヨッシャヨッシャ。バッチコ〜イ」
  意味の分からない寝言を呟く華を見て、僕は溜息を一つ。登校まではまだまだ時間があるので、
  もう少し寝させても良いだろう。ワイシャツ一枚でしがみ付いているのに、何故だか全く
  情欲がそそられない寝姿を僕は眺めた。当然、僕の手は神が作りし逸品であるその愛くるしい
  ぽっこりお腹へ。
「成長してないなぁ」
  成長していない、と言うよりは、姿が変わっていない。目線の高さが変わることもなければ、
  ワイシャツの胸の部分を押し上げるような変化もない。初潮すらも来ていない。
  たった一つだけ変化があるとしたら、それは僕への依存が深まったことだけだ。
  昔から僕にベタベタとくっついていたが、これ程酷くはなかったと思う。しかし、華が十歳になった
  日がきっかけでそれが悪化した。それから考えるともう七年になるのか、と時間の流れる速さを実感する。
  華の両親の蒸発。それで一人になることが出来なくなった華は、引き取られた先の一人息子である
  僕に深く依存した。華と僕の両親は昔からの友人で交流があり、華が僕にくっつくのを
  不自然に思わなかったし、僕も嫌ではなかったので仲良くしていた。

 そして、気が付いたら重度の依存になっていた。
  まるで、十歳の誕生日で止まった成長の代わりとでも言うように。それとも、もしかしたら
  華の両親は時間と自制心を持っていったのかもしれない。
「馬鹿馬鹿しい」
  僕は呟くと小さく体を揺すり、華を起こす。目が覚めたとき、僕が隣に居ないとパニックを
  起こすので、華が起きるまではベッドから出られない。
「起きろ起きろ」
「おはよう」
  十数秒動かし、やっと薄目を開いた華は小さく唇を動かす。
  ここからが大仕事で、寝惚けたままの華を洗面所まで連れていき…
「おはようさーん」
  突然玄関の方から、非常識な声が飛んでくる。つい最近聞いた、超聞き覚えのある声だ。
「どうする誠」
  すっかり目が覚めたらしい華が眉を寄せて尋ねてくるが、答えは一つだ。
「無視」
  しようとしたら、ドアを何度も打撃する音が聞こえてきた。
「あんにゃろぉ」
  若い男女高校生の二人暮らしってだけで周りからの視線が厳しいのに、これ以上
  酷くさせてなるものか。しかもマンションの修理費を出したり、大家さんや近所の人に謝りに
  行くことの苦痛がどれ程のものか。実際にやってみればもう二度とそんな気は起きなくなる。
  僕は酷くなる音を聞きながら、持っていく菓子折りの金額を算段をしつつ玄関に向かった。
  除き窓から見ると、やはり陸崎さんだった。
  チェーンをかけたままドアを開ける。
「おはよう」
「えへへ、来ちゃった」

「帰れ」
  一言言って、ドアを閉めようと…閉まらない!?
  視線を下に向けると、ドアの隙間にブーツが超しっかり指し込まれていた。
「大体、何で僕の住所を知ってるんだよ」
「愛の力?」
「よし、帰れ」
「ごめんウソウソ。乙女の秘密スキル、ストーキングしちゃった。テへ☆」
  何がテへ☆、か。第一、そんな乙女が居るものか。仮にだが、それが本当に乙女の秘密スキル
  だとしたら、僕はこの世界に絶望する。
「誠、どうした?」
「お、その声は華ちゃん」
  恐ろしいことに、陸崎さんは鞄から取り出したチェーンカッターでチェーンを切ると、
  強引にドアを開け室内に入ってきた。これはもう、積極的の範囲を越えている。
「うわ、華ちゃん。何その格好」
「羨ましいだろう」
  僕との身長差が45cmなせいでワンピースのようになっている、僕の着古しのワイシャツ姿。
  華はその薄い胸を反らして、陸崎さんを見下した表情だ。
「それにしても、何で華ちゃんがここに居るの?」
「ララブ同棲中だ、だから帰れ」
「それよりも」
  急に華の表情が真剣なものになった。
「昨日、いや今日か。鉄パイプに会わなかったか?」
  その言葉に陸崎さんの唇の端が歪んだ。

「会わなかったのならまだ良い。今日は機嫌が良いんでな、忠告しといてやる。死にたくなかったら、
  二度と面を出すな」
「残念。倒して丸め込んだよ」
  二人の間に流れている空気が急に冷たいものへと変わる。しかも、流れを読むと僕の知らない
  物騒なことがあり、多分それに僕が関わっているらしい。もしかしたら関わっているどころか、
  僕がその中心かもしれない。
  またか。
  僕は心の中で溜息を吐き、華を見た。
「…好きにしろ」
「ひひひ、お邪魔します」
  数分後。
  我が家では珍しく、三人分の朝食が並んでいた。
「いただきます」
  もしかしたらだけど、陸崎さんのどこかを華が認めたのかもしれない。僕としては少し寂しいけれど、
  これを機に華の友達が少しずつ出来ていくのは正直嬉しい。
「あ、醤油とって」
  陸崎さんの言葉にいち早く反応した華は、醤油刺しを取り、
「ほら」
  陸崎さんの手に醤油を垂らした。ソースを取ったり、勝手にかけるのは予想していたが、
  これ以上は予想外だ。
「な」
「違ったか? ボクは醤油と聞こえたんだが、ソースだったか」
「醤油」
「なら合ってるだろ。醤油入りの瓶とは言ってないしな」
  軽音。
「ごめんね。醤油を取ってくれたお礼に、蚊を退治したの」
  陸崎さんはヘラヘラと笑いながら、華をビンタした醤油まみれの手を拭う。
  取り敢えず僕は華を抱き締めながらお腹をさすり、頬を拭い始めた。

5

 エントロピーが増大しすぎた朝食を終え、僕たちは登校。
  そして不自然な程に何事もなく授業も進み、ついには四時限目の中程になった。
  僕の頭の中にあるのは、珍しく華以外の人間のこと。陸崎さんは何故僕に関わってきたのだろうか、
  ということだ。しかも、朝は強烈すぎる程に関わってきたのに、教室に入ってからは一言も
  話しかけて来ずに、何か考え事をしているらしかった。他にも朝に華が言っていた鉄パイプも
  気になるし、あの変態な後輩(今日初めて名前を知った、さくらという少女)と知り合いなのも疑問だった。
  僕の唯一持つ解決方法である交渉をするにしても、分からない事が多すぎて使えない。
  話し合いをするための言葉がなければ、そもそも話し合いなんて不可能だ。仮説は幾つかあるが、
  突飛なものばかりで使えない。証拠を揃えるまでは只の妄言としてしか機能しないし、
  下手をすれば逆に相手に利用されるのがオチだ。
「どうしたものか」
「うん? どうしたの、旦那」
  大きな悩みの種の一つである陸崎さんが話しかけてくる。昨日約束した通りに、迂濶に触れてくる
  ようなことはしない。破天荒なくせに、このバランス感覚は卑怯な組み合わせだ。
  もしかしたら、それを維持するために発達したのかもしれないけれど。
  閑話休題。
  どうもしない。と言いかけて、しかし止めた。分からない事があるのなら、一つづつ解決していくのが
  凡人である僕の方法だ。もしかしたら発展するかもしれないし、上手くいけば問題も幾つか解決出来る。

 僕は陸崎さんに聞こえる程度の小さな声で、尚且つ前を見ながら、
「陸崎さんとの関係で悩んでいたんだよ」
「へぇ、華ちゃん以外の人のことも考えるんだ。嬉しいけど、意外」
  返ってくるのは、喜びではなく警戒の声。しかし、その中にも多少の興味が入っているのは
  間違い無いだろう。そして、引きずり込めば僕の仕切りだ。
「出来れば僕との間に問題を作らないでほしいんだけどね」
「なら、まずは私を名前で呼んで。名字なんて他人狭義なのは止めてさ。これで意外と、
  ストレス溜るんだよね」
  一瞬考える。まず相手に従って交渉をすることは、動かしやすく出来る反面、調子付かせる
  事にもなる。それに、僕が陸崎さんを名前で呼ぶと華の方に問題が起きるかもしれないし、
  大元はそれを避けるための交渉だからそれこそ本末転倒だ。
「悪いけど…」
「もちろん、華ちゃんは気にしなくて良い。聞かれたら、脅されたって言ってくれても私は気にしない。
  ただ、私が旦那を好きだからその不名誉も被ることを忘れないで」
  やっぱり、陸崎さんはただの馬鹿じゃない。先に相手の逃げ道を用意して、そこに追い込む。
  これは交渉ではなく、寧ろ誘導だ。
「どうしたの?」
  選ぶ余地なんて無いでしょ、という言葉が声の端に僅かに現れる。
  僕はこの時間に交渉を開始したことを、成功だと確信した。

 授業中だから、という理由で向き合わなくて済むし、小さく発音する声は感情の揺れを伝えにくい。
  それは相手も同じハンデだが、相手の表情を見ずに済むし、自分の揺らぎを見られたくない
  僕にとっては重要だった。更に、僕は短期決戦型なので適当に打ち切るのに授業は丁度良い。
「水、だっけ?」
「うん。宜しく、旦那」
「このまま交渉を開始、ってので良いのかな」
「へぇ、良い言葉使うじゃん」
「茶化すな」
  本当に、この娘はやりにくい。
「僕からの要求は二つ。今朝に言ってた鉄パイプのことと、僕に対する明確な目的だ」
「はいはい、まずは目的ね、これは簡単。ねぇ旦那、この世界で一番優れている人間って、
  どんな人だと思う?」
  そんなの、分かるわけがない。人間の価値基準が人によって違う以上、明確なランク付けが
  出来るわけがないし、それは考えるだけ無駄というものだろう。質問の答えが存在しない以上、
  その問題は破綻していて質問としての意味を持っていない。
  だから僕は、
「そんなの居ないよ」
  人類が有限である以上、この答えも矛盾しているが、こう答えた。
「そう、それで正しい。だから私は上も見ずに、下も見ずに、横に走った。それこそ偏執的に。
  そして会ったのが旦那だ。視線が誰にも向いていない旦那は、枠から離れて完結していた。
  それこそ最高の人間だよ」

「過大評価だよ」
「社会の価値観を決めるのは社会だけど、個人の価値観を決めるのは個人だよ。行動するのも、
  また個人。それこそ、旦那の考えだろ?」
  反論が出来ない。
「そして、私はその人間の隣に立ちたいと思った」
  これが、一つ目の答えか。無意味にこだわっているのではなく、明確に目標を持ち、
  更には偏執的に寄って来る。本当に不器用だけと、だからこそ厄介なタイプだ。
「鉄パイプは、ごめん。今は言えない」
  成程。一つを言えないからもう片方を素直に言ったのか。更には、僕へのアピールもあるんだろう。
  僕への愛情故に泥を被ると言い、更には理由も言われた今は、心が重い。
「ごめんね、他の要求は?」
  二つの手札を出そうとしているのは、要求が二つ有るからか、大きなものなのか。
  勘だが、多分前者だ。
  愛情を無下にしている現状を考えると、多少は無茶な難易度でも数が同じで通るだろう。
  結局は押しに弱く、通してしまう。それが僕の甘さだ。
  それは後にして、今は僕の要求だ。聞いてもらえる内に布石を打っておいた方が良いだろう。
  僕は少し考え、
「僕と華がくっついている時には話しかけるな」

 これで水からの行動を防げるし、行動自体も制限できる。僕や華から話しかけた場合は行動できる
  というのが、一番の大きな利点だ。
「良いよ。それじゃあ、私からの要求は二つ」
  正解だった。こちらも制限が大きく付くかもしれないが、状況は多分こちらが有利。
「一つは、昨日のキスを許して」
  また、愛情故に、という言葉を出してくる。
「もう一つは要求じゃないかもしれないけど、旦那と華ちゃんの関係や気持を考えてみて?」
  瞬間、心臓が強く脈打った。
  僕と華との関係?
  気持ち?
  馬鹿らしい。二人は幼馴染みで大親友。僕は華が大切で、華は僕に依存していて…
  考えたところで電子音が鳴り、授業を終えた教師が礼もせずに出ていった。
「誠、メシだメシだ」
  言いながら、華が背中に抱きついてくる。
「そうだな、早く食おう」
  華を振り返ると、視界の端に水が映る。
  今日出来たらしい、新しい友達の席に向かう横顔は、やっぱりヘラヘラと笑う顔で、
  でもなんだか寂しそうで、
  少し胸が痛んだ。

6

 夜は人の気持ちを解放する、という話を昔に聞いたことがある。これは多分、暗闇が
  人の後ろめたい行動を隠してくれるからで、その定義で考えると人は生悪説が正しいことになる。
  続けて考えると、解放が必ずしも良い方向に向かうとは限らない。例えば殺人鬼は夜に動くものだし、
  悪い方えの考えも夜には活発化する。
  僕がそんなことを考えていたのは、要は困っていたからで、
「泣き止め、華」
  そう。華が泣いていたからだ。
  華は元々泣きやすい娘で、普段の生活では必死に涙を堪えているだけだ。
  因みに、今の状況は深夜0時。二人で仲良くベッドに入り、僕が華を抱き締めながら
  お腹を撫でている状況。いつも通りの、何気無い日常の一コマというものだ。
「今日はどうした?」
「誠に嫌われた」
  今日はそんなに酷いことはしていない筈だが、これは流石に僕の中での話であり、もしかしたら
  何気無い一言があったのかもしれない。
「嫌ってないよ」
  しかし暗闇の中で返ってくるのは、すすり泣く声だけだ。いつも以上に酷い状態で、
  僕は今日一日の出来事を思い出す。いつもと違う行動は、
「もしかして、酒と煙草か?」
  いつもの奇行の中で埋もれていたが、これ位しか思いつかない。昨日見た映画の中で男女の俳優が、
  いかにも大人な雰囲気で酒と煙草を呑んでいた。それを真似した華が未成年禁止な
  それらを買ってきて、僕が先程叱ったことだ。

「さっきのことなら、怒ってないよ」
  少し抱き締める力を強くする。
「だって、誠は怒っただろ? それに、成長にも良くないって」
  確かに、今は成長が止まっているとは言え、これから伸びる可能性があるので強く叱った覚えがある。
  だがそれは華の為を思ってしたことだ。
「誠はロリコンじゃないよな?」
  ちょ、華さん?
「確かに、僕こと鎚宮・誠は普通の性癖しか持っていないと自負し…」
  僕が言い終える前に華は、お腹を撫でるためシャツの中に滑り込ませていた僕の右手を
  胸元へと持っていく。指先に膨らみのない胸の先にある突起が当たり、僕は息を飲んだ。
  しかし僕の意思を無視して、華は僕の右手を使って擦り続ける。
「華?」
  僕の声に応えるのは、興奮して荒くなった華の吐息だけ。
「華、止めろ」
  続けて華は、湿り気を含んだ股間の谷間へと僕の右手を運んでいく。無毛のそこは、
  しかし幼い外見とそぐわない程に濡れていた。
  心臓が、冷たく脈を打つ。
「止めろ」
  僕は強く華の手を振り払うとこちらを向かせ、ほぼ全力できつく抱き締めた。
  それと同時に、華の泣き声が大きくなる。
「こういうのは、20になってからって言っただろ?」

「ボクはこんな体型だし、欲情しないのかもしれない」
「そんな事はない」
「だったら、キスをしてくれ」
「20になってからって約束だ」
「やっぱり、嫌われた」
  会話が、噛み合わない。
「嫌ってないよ」
「だったら、キスをして」
「だから…」
「あいつとはしたのに」
  ようやく合点がいった。要は、華は焦っていたんだろう。自分の体型に劣等感を持ち、
  大人らしいと思っていた行動も閉ざされ、繋がりに不安を持っていたのだ。
  将来結婚するという約束にしても、普通の高校生がするような行為も禁止しているから、
  余計に辛かったに違いない。これでは、守られるか疑うのも当然だ。
  そして極めつけは、僕と水が不本意ながらキスをしてしまったことだ。
  僕が他の娘をなるべく避けていたことで保たれていたバランスが、
  昨日のキスで壊れてしまった。そして、今みたいに大胆と言うには大胆すぎる行動に出たんだろう。

「あの女とはしたのに、出来たのに、ボクは、ボクじゃ」
「ごめん」
  僕は、更に強く抱き締める。
「だけど華のことは大切に思ってるから、誰にも文句を言われないようにしたくて」
  本当にそうだろうか。
  突然浮かんだ小さな疑問に、心が痛む。
『旦那と華ちゃんの関係や気持を考えてみて?』
  痛みから浮かび上がってくるのは、水の呟いた最後の言葉と、僕と華から無言で離れていくときの
  寂しそうな表情。
  何で今更。
「誠?」
「僕と華は」
「うん」
「今は友達だけど」
「うん」
「大好きだよ」
「ボクもだよ」
「愛してる」
「愛してる」
  強く、抱き締めあう。
  何を今更、分かりきっていることじゃないか。昼に考えたときと、寸分も違わない。
  僕と華は産まれた時からの幼馴染み、今では大親友。華は僕のことが大好きで、
  僕は華のことが大好きだ。今はプラトニックにしているだけで、将来二十歳になったら
  結婚をして思う存分いちゃいちゃして暮らす。
  だけど、
「華」
「ん?」
「キスをしようか?」
  今までのようなごまかしのキスではない。いつもしているような、家族の、頬や額のものではないもの。
  視線を華に向けると、顔を真っ赤にしてうつむいていた。僕から逃げようと手足をばたつかせる様子は
  可愛らしくて、見ていて父性本能を刺激される。
  父性本能?
  違う。
「するよ?」
  僕の言葉に、華は小さく頷く。
  僕は頭に浮かんだ疑問を振り切るように、行為で確認するように、
  華にキスをした。

7

 暗闇に、鈍い音が響き渡る。
  音の発生源は寂れた駐車場に横たわる高校生の少女と鉄パイプで、生まれる音は水気を含んだ
  粘着質なもの。さくらが血まみれの少女に鉄パイプを振り下ろす度、その音は生まれていた。
  どれ程続けられていたのか、既に骨が砕ける音は無い。
  一度振り下ろすのを止め、相手が呼吸をしていないことを確認すると、更に念を押すように
  三回殴り漸く完全に行為を止めた。
「ふぅ、良い汗。奴隷も楽じゃないですね」
  そう呟きながら鉄パイプを杖代わりに姿勢を正すと、さくらは笑みを浮かべて額の汗と返り血を拭った。
  一瞬後。
  不意に、さくらは駐車場の入り口に視線を向けた。寄せられた眉根が示す視線の先、
  女性の陰と軽い足音、そして下手な鼻唄が聞こえてくる。
「あれ? 随分な血の匂いに誘われて来てみれば、さくらちゃん」
「水さんですか」
  さくらは溜息を吐き、数秒。
  僅かな体重移動を初速にし、二歩目でトッピスピードに加速をして、水の隣へと移動。
  そして慣性のままに銅を横回転。遠心力と共に、横薙に水へと殴りかかる。
  決着は一瞬。
  水が蹴り上げた鉄パイプは回転しながら上空に飛び、高い音をたてながら数m離れた場所へと転がった。
  片足を上げた姿勢のまま水は笑みを作ると、
「ありゃ、随分な挨拶じゃねぇの」
「昨日で馴れ合ったと思ったら大間違いです。今はあなたの方が強いから殺さないだけ」
「自分のことを客観的に見れるのは良いことだけど、酷くない?」

「御主人様以外に屈し、ましてや尻尾を振るのは『奴隷』の名折れですから」
  水は足を下ろすとバックステップで数歩下がり、
「そう言わないで。今日はドンパチしに来たんじゃないの」
  どういうことだ、とさくらは表情を険しくした。無意味にここに来るには、たとえ無関係だとしても
  危険すぎるし、はっきり言って利益が皆無なのは誰の目にも明らかだ。しかし、それなのに
  自発的に来るには、何か明確な目標があるということで、血生臭い現場に一人で来るというのは
  争いを望むか殺されたいということだ。攻撃を防いだら残る選択肢は争いで、
  それを否定したら選択肢は残らない。
  しかし水は、そんなさくらの考えを無視するようにニヤニヤと笑い、
「第一、女子高生が殺し合いなんて出来る訳ないじゃん」
  さくらは白々しい、と内心毒を吐き、
「何が目的ですか?」
「いや、ね。コムスメからマジナイシに転職したから、レベル上げ」
「大胆なジョブチェンジですね」
  さくらは昨日の会話を思い出し、少し呼吸を整える。
  要は、自分に危害は加えないが、騙し合いをこれから始める。それで、あわよくば手駒にして
  使おうということだろう。目的は華の排絶か、誠の攻略だろうか。
  どちらにしろ、
「気に食わないですね」
「そう言わないで」
「要は、自分の為でしょう?」
「言い方が悪かったね、旦那の言葉を借りるなら交渉かな」
  それはつまり、相手を自分の手駒にしてしまう、という宣言だ。
「それなら尚更」

「相手も甘い汁を吸えないと、交渉とは言えないんだよ?」
  こっちにも、それなりのメリットがある。
  さくらは少し考え、「良いでしょう。少しなら付き合います」
「そう来なくっちゃ」
  笑い、水は唇の端をシニカルに歪めた。
「私の要求はもう決まっているから、そっちから」
「そうですね。では、御主人様に…」
「待ってよ。私の要求が旦那に関わるものだから、定義崩しはいけないよ。一度納得して
  交渉を始めたら、それをおじゃんにするような話は無しだ」
  さくらは舌打ちし、
「それでは、一度だけで良いので御主人様とサシで話せる機会を作って下さい」
「難しいね」
「だから交渉の手札になるんです」
  数秒。水は少し黙り目を閉じると、
「分かった。でも、一度だけで良いの?」
「構いません、それでも多いくらいです。奴隷の定義からすれば外れまくりもいいところ、
  大反れている上に破廉痴です」
「奴隷ね。言い過ぎじゃない、その単語。大義名分にこだわる年でもないのに」
「それよりそっちの要求を言って下さい」
  少し苛ついたさくらの言葉に、水は今日何度目か分からない溜息を一つ。
「簡単。私と旦那と華ちゃんが揃っているときに、会話を作って。ちょっとした事情で、
  旦那たちには私から話しかけられないんだ」
  そんなことですか、とさくらは苦笑。
  今日の目的は簡単で、誠に口先で丸め込まれたから、それの定義を破壊する手札が欲しかったのだ。
  他にも含みはあるが大元の意思が分かり、さくらは口元を綻ばせる。

 表情をヘラヘラとしたものに戻すと、癖なのか水は溜息をまた一つ。
「交渉はこれで終わりとして、雑談タイム」
「何ですか」
「さくらちゃんが旦那に近付く娘を退治しているのは分かるんだけどさ」
  私も殺されかけたしね、という言葉と一緒に出てくるのは乾いた笑い。思い出して少し引いたのか、
  その目には、先程までには無かった警戒の色が大量に含まれている。
「華ちゃんは?」
「あの人は特別です。居なくなったら、御主人様が悲しまれますから」
  その言葉を聞いて水の口から漏れてくるのは、氷点下の冷たい笑い声。視線には最早警戒は
  含まれておらずに、ただ愉悦の色が浮かんでいる。
  ひひひひひ、と独特な笑い声と共に、水は近くに転がっている鉄パイプを見た。
「悲しまなきゃ、手を出すって聞こえるよ」
「どうでしょうね?」
  両手を肩の高さまで上げ、笑みを作りながら緩く首を振る。しかしその目は笑っておらず、
  浮かんでいるのは明確な敵意。
「それじゃあ、仮に悲しまないとする方法があれば?」
  その言葉に、さくらは無言。
「例えば、好意がさくらちゃんに向いていたとしたら?」
「それこそ、定義崩壊ですよ。奴隷の定義を忘れたんですか?」
  しかし、水の余裕の表情は崩れない。
「でも、可能性はある。サシで話をしたいのも、だからでしょう?」
「それは…」

「それに、旦那の初キスの話は聞いているよね。最初は華ちゃんが本命かと思ったんだけど、
  キスもしていない。友達とも言っていたし、華ちゃんに対する旦那の好意は、異性や恋人に対する
  ものじゃなくて、家族や友達に対するそれじゃないのかな。つまり、恋人の座は常に空席なんだ」
  さくらは、いつの間にか乾いていた唇を舌で舐めると、
「でも、御主人様の隣を狙っているのはあなたもでしょう? 何であたしに? 第一に、
  御主人様は誰も見ないで…」
「だから、その定義を崩す必要がある」
「それに、誰も見ていないからこその…」
  震え、脅えた表情のさくらに対し、水は笑顔のまま、
「だからこそ、だよ。自分と旦那で閉じるんだ。キスにしたって、私からしたからで…」
  さくらを見ながら軽く唇を舐め、
「旦那からしたことは無い。つまり、旦那が自発的にしてくる人は、これから出来るんだ」
「な」
  いつの間にかさくらに密着する程に寄っていた水は、唇を耳元へと寄せると、
「旦那の隣に、立ちたいとは思わない? 主従関係のみで成り立ちながらも、甘美な欲が作る
  箱庭的な極限世界」
  呟き、再び独特な笑い声を漏らしてさくらから離れる。
「ま、考えておいて」
  先程とは打って代わり、快活な声で笑いかけると水は駐車場を後にした。

8

 皆は、リバウンド、という言葉を聞いてどんなことを思い浮かべるだろうか。若い男性なら
  バスケットボールで、シュートされたボールを取ることを思い浮かべる人が多いだろう。
  但し僕が今言いたいのはそれではなく、若い女性が思い浮かべる言葉だ。最後の審判のとき、
  我等が主に地獄行きを命ぜられるかのような恐れを持って若い女性の間で使われる。
  そう。恋にときめき、御洒落に忙しく、美貌を磨くのに切磋琢磨する若い女性の戦友にして好敵手。
  天敵にして獲物であるダイエット。それの最悪な害悪まみれの副産物。理想の体重になり、
  油断をして隙を見せると襲ってくる魔物。僅かな心の穴から入ってくる炭水化物や、
  肉や甘いものが引き起こす極悪現象。それが一度起これば反発係数1以上で体は脂肪で豊かになり、
  貧相になりにくくなり、豊満への一歩を辿ることになる。
  何故僕がこんなことを考えているかといえば、決して僕がデブへの一歩を着実に歩み始めたから
  ではなく、ましてや華がそうなっているからでもない。そもそも華の腹はあれが標準で、
  仕方のないことなのだ。詰まっているのは、脂肪ではなく内臓。
  僕はずれそうになった、正確に言えば現実逃避をしそうになった思考を元に戻す。
  リバウンド、これは神秘の塊である人体だけでなく、依存心にも現れるらしい。
  話は簡単で今は一時限目、教師の都合により自習時間。それが始まると同時に、
  華と勇二が僕の席へと寄ってきた。

『あれ、華。御機嫌だね』
『まあな。昨日ボクと誠はあぁもぅまだるっこしい我慢ならん』
  叫ぶと周りの机を巻き込みながら豪快に僕を押し倒し、キスを始めた。
  そんな事があり、今に至る。
「誠ちゃん、視線がどこにも合ってないよ」
「ボクを見ろ」
  ちょっと、華さん。ディープは駄目です。流石にそれは僕でも引きます。
  華を押し退けようとするが、その小柄な外見にそぐわない程の怪力で押さえ込まれる。
  この学校で唯一、『暴君』と互角の喧嘩が出来る我がクラスメイト。その伸人君だったら
  何とかなるのかもしれないが、極めて普通の人間なので脱出は不可能。僅かな可能性に賭けて
  伸人君を見ると、いつも通りに三人の女子に囲まれ、参っていた。
「誠、どこ見てるんだ」
  伸人君と目が合った。その中に浮かんでいるのは、諦めの色。シニカルに唇の端を歪めると、
  僕から目を反らしてゆるゆると首を振った。
  他にクラスメイトで華に対抗出来そうなのは、
  最悪だ。
  初日に華の攻撃を全て避けきった水しか居ない。第一、それ以外のクラスメイトはとばっちりを
  避けるために関わってこないだろうし、自習時間という甘美な世界を守るために隠蔽工作に
  夢中になっていた。
  唯一自由になる視線で水を見ると、ニヤニヤと笑ってこっちを見下ろしていた。
  この表情は危険だ。
  助けを求めることはそのまま交渉になりかねないし、それは相手の手札を増やすことになる。
  それに今話し掛けたら華が暴走する可能性もあるし、しなくてもここぞとばかりに怒濤の勢いで
  話を進め、罠を仕掛けてくるだろう。

 思考は一瞬。
  華の依存を更に深めるよりはましだろうと思い、水を見た。
「ちょいと華ちゃん」
  思いが通じたのか、水は立ち上がると僕に寄って歩き、
「旦那が迷惑してる」
  僕と華の間に足を差し込み、投げるように振り上げた。体に負担がかからないようにした、
  というのは分かったが、その乱暴な方法に僕は水を睨みつけた。しかし、特に気にした様子もなく
  水はヘラヘラと笑っている。
「何するんだ」
  巧く体を捻って着地すると、華も水を睨みつける。
「旦那に迷惑だと思わないの?」
「昨日は誠からキスをしてくれた。お互いに好きだから問題無い」
  その言葉にどうなるかと水を見たが、表情は変わらない。
「どうせ、困らせて自分からするように仕掛けたんでしょ? それとも、その貧相な体でも使った?」
  僕には、意見を求めてこない。多分、そこが重要だと分かっていて敢えてぼかしているんだろう。
  華が何も言わず、僕に視線を向けてきたので正解だと思ったようだ。
「それに、旦那とは私もキスしたしね」
「それこそ無理矢理だろぉ」
「でも、許してくれたよ」
「嘘だ!!」
  華は僕を見てくるが、それには答えられない。取引した以上、これは本当だ。
「でも、なん、で」
「同情と、恋愛の、温度差?」
  その一言が起爆剤となり、華は水に殴りかかる。
  しかし、拳は届かない。

「止めなよ」
  華の拳を止めたのは、意外にも勇二だった。中学からの付き合いだが、これ程とは知らなかった。
  こんなことは初めてだ。華の拳を横合いから掴んで、じっと僕を見る。
「本当なの、誠ちゃん」
  僕は溜息を吐いて、覚悟を決めた。
「本当だ」
  こんなことをするのは、本当に嫌だ。
  出来ることなら、二十歳まで表に出したくなかった。
  でも仕方ない、いつかは来ると思っていた。
  華も交渉に巻き込む事態。
  僕は今だけ、最低になる。
「へぇ。日和見だと思ってたら、違うんだ」
「まあね」
「おい誠、どういう」
「黙ってろ。勇二、華を押さえててくれ」
  勇二は無言で華を羽交い締めにした。口も押さえられているのか、華がもがく声がする。
  これも結局華のためにはならないな、と吐息を一つ。華に対しては、拒絶の手札はあっても、
  絶縁の手札はない。結果、華の暴走は止まることはなくノールールになってしまう。
  この甘やかしがいけないと自覚はあるが、どうにも出来ないのが僕という人間だ。
  だから、
「せめてこれ以上に悪化しないように、敵は潰す」
  だが今は、さっきの事に借りがあるのでアドバンテージは彼女にある。
「さっきの事だが」
「会話の免除。一日五回」
「二回」
「四回」
「三回、これ以上は譲れない」
「仕方ないか、嫌われたら元も子もないし」
  また、悲しそうな笑みを見せる。
  他人のルールは気にしないくせに、こんな表情を見せてくるから、彼女は本当にやりにくい。
「これで互角。次は、華を刺激するな。したら、絶縁だ」
「私にメリットは? 嫌われない為ってのは入らないよ?」

 僕は少し考え、
「距離を無視」
「乗った」
「誠、ボクは」
  勇二の拘束を無理に解いたらしい華に、僕は冷たい目線を向けると、
「黙れ」
  絶縁するぞ、と視線に意思を込めながら呟く。僕は本当に絶縁など出来るような人間で
はないが、しかしこの場では二人に対してはそれなりの効果がある。
  そして、これからが本番。
「華」
「な、何?」
  華の表情は、恐怖で固まっていた。
「もうこれからは、こんな真似をするな。その代わり、後で何か言うことを聞いてやる」
  僕の存在そのものが、華への手札。
  僕が離れるのを極端に恐れる彼女は必ず言うことを聞くだろう。
  本当に、最低だ。
「あと華も水も、一編話をしろ。これで交渉は終わりだ」
  僕はそうして話を閉めた。

9

「あぁ、風が気持ち良いね」
  放課後の屋上、そこに水と華は立っていた。そこに居る二人の少女は対照的で、
  笑みを浮かべた少女は柵にもたれかかり、もう片方は怒りを顔に浮かべたままドアから
  一歩も離れない。外見すらも正反対の二人に共通しているのは、精々髪の長さ程度だ。
  風に長い髪をなびかせながら、水は微笑みを華へと向けると、軽く手招き。
「華ちゃんもこっちにおいでよ、気持ち良いよ?」
「突き落とすぞ。更に風を浴びれるだろう。それに気持ち良いだろうしな、ボクが」
「やっぱ来ないで、目が」
  水は小さく笑い、
「夜中のさくらちゃんと同じになってる」
「そうかもな」
  苛立った様子を隠すこともなく、舌打ちをすると華は水を睨みつけた。
  理由は簡単、誠だ。教室に残ってもらう約束をしていて、早く誠の隣に戻りたいからだ。
  それに、誠の隣に今誰が居るかと思うと気が狂いそうになってくるし、そうでなくても話しかけてくる
  奴がいるかと思うだけで殺したくなる程の怒りが生まれてくる。
「怖いよ、華ちゃん。顔が槃若みたいになってる」
「なら、お前は泥眼だな」
  華が笑ってそう呟いた瞬間、空気が氷付いた。
「気付かれてないとでも思ったのか? 誠は優しいから気付かなかったかもしれんがな、
  ボクから見たら丸分かりだ。お多福を作っていたつもりなら、滑稽ここに極まれりだな」

 一般的には有名な槃若やお多福だが、それが能のお面だと知っている人はあまり多くない。
  そして誤解している人も多いが、槃若は嫉妬心ではなく女性の怒りを表している。
  怒りの原因に嫉妬というものもあるだろうが、あくまでそれは原因。嫉妬の表情というものは、
  泥眼というお面で表される。輪郭はお多福にも似ているが、表情が絶対的に違うものだ。
「どうした、表情が消えたぞ。しかし、槃若と泥眼か」
  華は、普段絶体に誠に見せない種類の笑みを浮かべて水に近寄る。
  その中には、既に苛立ちや怒りは消えていた。
「ボクは確かに独占欲も人の何倍もあるし、泣き付いて甘えるしか脳のない女だ」
  更に、近寄っていく。
「でも、そんな醜い嫉妬は、絶対に、しない」
  近寄る。
「依存を、舐めるな」
  言い終わったときには、既に1mも離れていない場所に立っていた。
  強い風が、二人の長い髪を揺らす。
「っ、この」
  水は、拳を振り上げかけて、しかし止めた。
  それよりも、久し振りに自衛以外の手段で相手を殴ろうとした自分に驚愕する。
「図星か? この程度で殴りかかろうとするなんて、誠への愛が少ない証拠だな」
「そっちこそ」
  水は呼吸を整えると、静かに頭を回転させた。
「いつも旦那の周りに噛みついて、それこそ信じてないんじゃない?」
  再び作るのは、いつも顔に浮かべている笑み。
「そうでもしないと、旦那が離れていくと分かってるから。自分の居場所がなくなるから。
  自分は旦那の隣にふさわしくない、それ以前に気持ちが自分に向いていないと理解して…」

「黙れ」
  睨みつけてくる華を鼻で笑い、水はますます笑みを強めた。口からは、ひひひ、
  と独特の笑い声が漏れてくる。
「黙らないね。第一に、何が愛しあっているだ。それは愛じゃなくて依存と束縛でしょ?」
「違う」
  襟元を掴む華を見下ろし、水は溜息を一つ。
「これを、旦那に言ったらどうなると思う?」
「あ」
  小さく呟くと、華はすぐに手を離した。
  そして、脅えた表情をして床に座り込む。
「頼む、言わないでくれ」
「ほら、旦那を信じてない」
  軽く咳き込みながら華を見下ろすと、水は真剣な表情をして呟いた。
  そこには、いつものふざけた陸崎・水の姿はなかった。
「今はどっちも悪いけど、言われても構わない。私なら、旦那を最後まで信じれるし、
  自分も信じられる。離されたって構わない、自分の足で追い付いてやる。隣の空席は私が貰う」
「…れ」
  不意に、華の体が小さく震えた。
「嫉妬深くても、それが私。文句あんの、弱虫」
「黙れ、クソ虫」
  低く重い声で呟くと、華はゆっくりと立ち上がった。
  突然の変化に、水の表情が強張る。
「誠の隣は、僕の指定席だ」
「そんなの…」
「黙れ泥棒猫」
「誰が華ちゃんのだって言ったの? それこそ、旦那に迷惑じゃない」
  漸く作った笑みと言葉は、しかし、怒りに狂った華には通じない。
  華は軽く溜息を吐くと、薄笑いを浮かべた。
「馬鹿が、それこそさっきお前が言っただろ。誠を信じる、って」
「それは」
「嘘でも構わんさ。それならボクが誠を信じきれなかったのも無効になる。どっちにしろボクが一番だ」
  水は禁句を言ってしまった。

『誠の隣が空席』
  そんなものは華自身が一番理解している。
  だからこそ、本気になった。
  普段、それでも抑えていた依存心が溢れてくるのを、華は実感する。
「誠の隣が空席? 当然だ。ボクと誠は一心同体だからな、席は一つで十分だ」
  しかし、水は言葉を探す。この程度で折れたら、そもそも『疾走狂』という名前は付かない。
  そう自分に言い聞かせ、水は華を見た。
「じゃあ、一つ訊くよ。何で、旦那はキスを許したんだろ」
「無意味だからだろ。それに優しいし」
  その言葉から漏れてくるのは、絶対無比の依存性。
  しかし、そこに勝機がある。
「もう一回訊くよ。何で、華ちゃんの為に取っておいてくれた大切な初キスを無くしたのに、
  許してくれたんだろうね? 心がいくら広くても、普通は許せないよ」
  言い終わったところで、水の携帯電話が鳴った。
「ごめんね、今日はこれで終わり。またね」
  笑いながら言うと、水は屋上から出ていった。

10

 華と水が屋上に行っている間、僕は何とも暇を持て余していた。
  僕が出来ることは全てやってしまったし、喧嘩の結果がどうでも僕は華の隣に居るつもりだ。
  交渉では喧嘩を止めるようにしたし、本気で止めようと思ったけれど、無理だろうな、
  という感情もある。結局は依存が問題で、根本的な解決をしなければこれからも多分続いていく。
  今だって、きっと喧嘩の最中なんだろう。そんな諦めにも似た思いが僕の中にあり、
  結果的には思考の停止が起きていた。
  あまりにもすることがないので、目の前の空間に華を作り出そうと空中をこねてみる。
  無理だ。
  所詮偽物なんて、いくらあっても本物には勝てはしない。
  だけど、
  人の脳は今だブラックボックス。そこには無限の可能性が…!!
「何をなさっているんですか、御主人様」
  心の底から嫌だが声のした方向を向く。
  クラスメイト達は、華や、今となってはもう一人の危険人物である水に関わりたくないらしく
  既に全員が帰った後だ。そして声の主は唯一人、この高校で僕をこんなイカれた名前で呼ぶのは
  後輩のさくらしか居ない。周りに人影も見当たらず、つまりはこの異常者と二人きりで
  過ごさなければいけないということだ。
「何か用かい? 僕は今とても忙しい」
  再び、僕は自分の限界に挑戦を始めた。
「交渉が、あります」
  僕一人の教室に、冷たい声が響いた。
  今、彼女は何と言った。僕に対して向けられたのは、僕が普段口にする単語。

 しかしそれは、相手を利用して自分の駒にするという意味合いを持った戦線布告の宣言。
  今は、まずい。
  只でさえ問題ばかりで解決の糸口は見えないのに、これ以上の問題は御免被りたい。
「何でですか? 今は、二人とも屋上じゃないですか」
  その言葉に、僕は心の中で溜息を吐いた。
  どうにもタイミングが良いと思ったら、やっぱり水の差し金か。耳が早いという線もあるが、
  流れとしては水が関わった可能性の方が高い。
  少し考える。
  この後輩も馬鹿じゃないから敢えて今、華と水の事を口にしたんだろう。簡単に人の言うことに
  従うタイプとも思えないから、きっと水とも交渉をした筈だ。とすれば、問題なのはその内容。
  こちらの興味を引くために言い出したことなら、価値はあるかもしれない。
「まずは、要求を言え」
「せっかちですね、でも良いです。今の言葉は、交渉を始めるということで良いんですね」
「早くしろ」
「急かさないで下さい。それとも」
  いつものとろけた表情と違い、嫌らしく痛ぶるような視線。
「華さんが来たら困る話ですか?」
  言葉の端々が、やけに絡んでくる。いつもの、馴れ馴れしいが一歩引いて僕に遠巻きに接してくる、
  そんな矛盾した彼女ではない。例えるならば、まるで水のような、強制的に自分の内側に
  引っ張り込もうとする態度。
「図星ですか?」
  黙り込んでしまった僕の態度を肯定と受けとめたのか、彼女は唇の端を上げた。
  心の中で舌打ちを一つ。

 このままの流れだと相手のペースで話が進む。普段交渉しているからこそ、それが痛い程に分かる。
  話し合いでのこのタイプのマイペースは、一種の禁じ手だ。無意識でやっているとしたら、尚更質が悪い。
  だが、禁じ手には、禁じ手が一番効く。
「そっちこそ。早とちりだなんて、せっかちも良いところだね」
  上げ足取りは、実は結構有効な手段だ。相手との会話のテンポを乱すし、言葉の一つ一つが
  相手の感情や思考を少しづつ奪っていく。立場が同等か自分以下のワンマンタイプには、正に天敵だ。
「僕は問題無いさ。そっちこそ、水に聞かれたらまずいことは無いのかい?」
  僕は言いながら、心を落ち着かせた。
  華には聞かれたくないに決まっている。だからこそ、冷静にいかなければいけない。
  交渉を早く終わらせるこつは、一つづつ問題を消してゆくこと。相手をパニックにはさせても、
  焦らせてはいけない。どちらがが焦れば話は泥沼になり、かえって時間がかかる。
  僕は吐息を一つ。
「さあ、交渉を始めよう」
「キメ台詞ですか?」
  少し恥ずかしかったが、今の僕はそんなことは気にしない。
「そっちから仕掛けてきたってことは、そっちの要求がまずあるんだよね。言ってみて、
  少なからず応えるよ」
「では、私からは二つ。距離の限定解除と、御主人様の立ち位置です」
  距離の問題は、多分大丈夫だろう。
「立ち位置ってのは?」
「御主人様の隣に居るのは、華さんですか? それとも一人ですか?」
「何を馬鹿なこ…」
  言いかけて、僕は愕然とした。

 さっき僕は、何を考えていた。あれほど華が嫌がっているのに、既に一人目の侵入者を許し、
  今は二人目を作ろうとしていた。今までは絶対に破られなかった不文律が、
  簡単に崩れそうになっている。華に対して妥協を許すようになったのはいつからだろうか、
  と考えたらすぐに答えは出た。水が関わり始めてからだ。
「僕からの要求は一つ」
  今は無駄な思考を捨てて、冷静に答えを出す。聞きたいことは二つ程あったが今すぐにではないし、
  そもそも知っているかも分からない。
「先に二つ目の質問に答えるよ。僕の隣は華しか居ない。こっちからの要求は、
  水と交わした契約の内容だ。二つ目の答えだけで不満なら、もう一つ要求を言ってくれ」
「では水さんと交わしたという契約で、水さんから話しかけられない、というもの。
  それに変化はありますか?」
  随分と直球だ。
  だが今の言葉から考えると、さくらと水の交渉も大体予想がついた。これはまだ推測だが、
  多分その契約のことで水がさくらに持ちかけたのだろう。内容としては、水から話しかけることが
  出来ないのでそれを何とかする代わりに、今のような僕との二人での会話の状況を作ることか。
  それなら僕が一人の今、タイミング良く現れたのも分かる。
  ここで嘘をついても後で水がばらすだろうし、それどころかそれをネタに交渉が始まっても厄介だ。
  仕方なく僕は吐息し、
「一日三回までは許可した」
「そうですか」
  さくらは少し考え込んだ様子だったが、すぐに僕の顔を見ると、
「では肝心の距離の限定解除は」
「無理だ」

 これも後で再交渉をして、水を何とかしなければ。
「何っでっ」
  突然の涙声にさくらを見ると、うつむいて体を小さく震わせていた。その数秒後に液体が床を打つ
  小さな音がして、泣いているのだと理解する。
「何で華さんじゃないと駄目なんですか。私じゃ駄目なんですか」
  叫びながらさくらが詰め寄ってくる。今までは、手紙を渡すのにも律儀に距離を守っていた
  さくらだが、完全に無視をしてきた。
「何で」
  襟首を掴まれ、
「何でなんですか!!」
  僕が何かを言おうとした直後、さくらは唇を重ねてきた。
「何を」
  しやがる、と言う前にさくらは、僕にもたれかかりながら崩れ落ちた。
「ごめんなさい、ごしゅ、先輩。謝ります、謝りますから見捨てないで下さい。
  お願いしますお願いしますお願いしますお願いします」
  異常な程に謝る彼女。しかし、僕はそれ以外のことに驚いていた。
  鉄パイプ。
  その言葉で表される存在は、近くに居た。知らない間に水と知り合いになり、
  更には華とも共通の存在。華がたまに付けるからかぎ慣れた、血の匂い。
  本物の、異常者。
  僕が呆然としていると、突然さくらが離れた。
「すいませんでした。もう帰ります」
  涙声で教室を出ていくさくら。
  数分。
  まだ呆然としていると、教室に華が入ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
  その目には涙が溜っていて、声は涙声だ。
「今日は手を繋いで帰らないか? あ、嫌なら良いんだ」
  いつもなら有無を言わさず抱きついてくるのに、それをしないのは朝の交渉が原因か。
「それ位なら良いよ」
  言いながら手を繋ぐ。
「なぁ誠。誠はボクのことを嫌いにならないよな」
「当然だ」
「愛してる」
「愛してる」
  僕らは揃って教室を出た。

To be continued...

 

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