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姉貴と恋人 -前編-

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前編
1

 久しぶりの日本だ。窓の外を眺めながら、私は興奮を抑えることができなかった。
  タカに会いたい。声を聞きたい。抱き締めたい。
  去年の夏から一度も会っていないタカ――双子の弟、隆史――を想う。
  両親の反対に遭いながらイギリス留学できたのはタカのお陰だった。
  タカは弟であると同時に良き理解者であり、ずっと私を支え続けてくれているパートナーだ。
  そんなタカに、今日はプレゼントを。
  私は向こうを立ってからずっと手に持っている紙袋を押さえた。ガサリ。そんな音さえ幸せに感じられる。
  日本まで、あと二時間。待っててね、タカ。

 ピンポーン。
「はーい、いらっしゃい――って姉貴!?」
  その驚いた表情がかわいくてかわいくて――
「ただいまっ」
  堪らずがばっと抱き付き、ぎゅーーっと抱き締める。ああ、幸せ。
「ちょっ、帰ってくるのは明日って言ってたじゃないかっ」
  慌てて私を引き剥がしにかかるタカ。……ちょっと淋しい。
「何よ、今までだってやってたじゃない」
  別に嫌がることをしたい訳じゃない。私は向き合える程度には腕を緩めた。
「それはそうだけど、今日はまずいんだよ」
「なんでっ」
「それは――」
  ガチャッ!
「遅くなってごめん――って、え?」
  目を見開いてこちらをみる可愛らしい女の子ひとり。利発そうな顔立ちにセミロングの髪。TシャツにGパンを穿いていて、全体的にラフな印象だ。
「あら、お邪魔だったみたいね」
  そしてそのまま帰ろうとする。私はとっさに声を掛けた。
「待って下さい、私は隆史の姉です。誤解しないで下さい」
  このまま返しては、きっと後でタカが困る。それに……
「あなたは?」
「えっと、進藤麻妃です。隆史君とは同じ学部の同級生で、たまに遊びに行ったりしてます。今日みたいに」
  敵の情報も知らなければならない。
「そうですか。うちの隆史がお世話になってます。それで、タカ?」
「えっ、な、何かな」
  ちょっと上擦った声。やっぱりかわいい。
「女の子を待たせるものじゃないわ。まあ、今回は私のせいだけどね」
  そう言って、ウインクしてみせた。タカの顔が赤く染まる。
「それで、えっと、隆史君のお姉さん?」
  見ると、わずかに頬がひくついている。そろそろ我慢できないのだろう。
「いつまで、その体勢でいるんでしょうか」
  そう。私とタカはずっと抱き合ったままだった。互いの吐息さえ感じられる距離。
「ああ、ごめんなさい。『同級生』の前とは言えはしたない真似を」
  同級生ではなく、はしたないという単語に反応する彼女。あまりに初々しいからついからかいたくなる。
「はい、どうぞ。あ、そうそう。私のタカなので、無傷で返して下さいね」
「「なっ!?」」
  タカと進藤の声が重なった。
「冗談です。いってらっしゃい」
  進藤麻妃。要注意ね。

2

「ただいま」
  ようやく帰ってきたようだ。むこうから持ってきたプレゼント、予定は少し変わったけれど早く渡さないと。
「おかえり。ねえ、タカ。約束覚えてる?」
  言った途端、タカはそっぽを向いた。覚えているようだ。
「ターカ。どうなの」
  身体を寄せて、囁きかける。
「えっと、あれはその、別れる勢いで言ってしまったというか」
  勢いでも何でも、約束は約束だ。
「そ、それに! 姉貴、プレゼントなんて……って、あるのか!?」
  タカは口の中で、あのいい加減な姉貴が……なんて言っている。このやろ。
「私のしたいこと、なんでもしてくれるって言ったよね」
  日本に戻る時のお楽しみが欲しい。そう言って約束を持ちかけたのだ。タカは笑って
『イギリス土産をくれたら、なんでもしてあげるよ』と言った。私は今まで土産というものを
買ったことがなかったから、タカも本気にはしていなかったのだろう。他愛ない約束だったけど、
あの女が現れた今は揺さぶる材料になるかも知れない。
「言ったけど……分かった、分かったよ。何をすればいいんだ」
  タカは、ちょっと睨んだだけで了承してしまった。
  物分かりのいいところは変わっていない。こんな風にいい子だから、他の女も寄ってくるのだ。
「そうねえ、デートして」
  タカはびくっと身体を跳ねさせた。ふふ、驚いてる驚いてる。
「な、デートって……待てよ、俺たち姉弟だぞ」
「確かに、姉弟で結婚してはいけない法律はあるけれど」
「待って、もう俺たち大学生なんだから、いや、年齢とか関係なく、その、とにかく駄目だ!」
「好きよ、タカ」
  息を呑む音が聞こえた。時が止まる。
「ねえ、タカ」
  甘く囁きながら、タカの身体を拘束していく。タカはたいした抵抗もせず、私のなすがままだった。
  そして、唇を近づける。
「ちょっと姉貴、まずいって」
  唇まであと1センチというところでタカは震える声で言った。私は吐息を漏らして微笑んだ。
「好きよ」
  胸が高鳴る。いつか思い描いた夢が、目の前にある。この状況を招いた原因が別の女だというのは
気にくわないけれど、今はどうでもよかった。
「タカ――」
  そして私は、タカに口づけした。タカは抵抗しなかった。
「タカ、私のこと、好き?」
  とどめとばかりに甘く囁く。タカは熱にうかされたような顔で、ああ、と頷いた。
  その夜、私達は繋がった。

「隆史、最近どうしたの? どうして私を避けるの」
  大学の講義の空き時間に、私は隆史をカフェに呼び出した。
「別に、そんなつもりはない」
「嘘言わないで。どうして。私が何かしたの?」
  特別思い当たることはない。だが、気付かないところで傷つけていたなら謝ろうと思った。
「麻妃のせいじゃない。違うんだ」
「じゃあなんで? 理由を教えて」
  隆史は押し黙った。
「どうして教えてくれないの」
「……すまん」
  まるで全てを拒絶するかのような態度。
  恐い。このまま引き下がったら、もうずっとこのままのような気がした。
  言うしかない。
「ねえ、その、私あなたのこと、その――」
  好きだから。一緒にいたいから。教えて。
「それ以上言わないでくれ」
  しかし隆史は、全てを言う前に私を遮った。
「あ――」
  そう。そういうこと。わたしは始めから関係なかったんだ。
  私みたいな他人に話せるような内容じゃないんだね。
  そう思った瞬間、私は泣いていることに気付いた。
「……すまない」
  隆史はそう言って、私の前から去っていった。

「どうしたのタカ。落ち込んでるみたいだけど」
  帰ってきてから、タカはずっとふさぎ込んだままだ。
「姉貴。俺たち、これでいいのか」
  何を今更。
「当然よ。いいに決まってるじゃない。好きなもの同士が好きあってて何が悪いの」
  その言葉を聞いて、タカは顔をあげた。
「俺はさ、姉貴のこと好きだよ」
  や、やだ。急に言われると照れる。
「でもな、家族として好きなのか、異性として好きなのか分からない所もある」
「どっちにしても、私のことを好きでいてくれるなら」
  私は後ろから抱き付いた。
「それでいいわよ――」
  口づけを交わす。隆史は僅かにうつむいたけれど、抵抗はしなかった。
「そっか。そうだな」
  頷き、今度は隆史から唇を近づけたところで。
  ピンポーン。来客だ。でも今は、そんなのに応対するような気分じゃない。
「居留守しましょ」
「……ああ」
  私達はそのまま互いの身体をまさぐり始めた――。

「あ、あ……そこっ、タカっ」
  ソファの上で、私はタカに覆い被さっていた。目の前には立派なモノがあり、私の唾液で濡れている。
「あ、あねきっ……」
  再びくわえると、絞り出すような声がアソコに響いた。思わずじゅんとなって、腰をタカの顔に押しつける。
「ん、んんっ! 姉貴の匂いがするよ……」
  恥ずかしいけれど、嬉しい。
  タカが私を求め、腰を突き上げてきた。口の中を、喉奥まで犯される。
「んぐっ!? んん……」
  苦しい……けれど、それが愛しい。こんなに私を好きでいてくれる。
  視界が涙で歪んでいるけれど、口の中の感触だけがあれば何も困ることはなかった。
「あ、姉貴、大丈夫か? うっ……」
  答える代わりに思い切り吸い上げる。
  すると、タカも私の中に舌を差し込んで――。
「あっ、いいよ……そこ……」
  うっとりとしてしまって、瞳を閉じる。
  お返ししなくちゃ――そう思った瞬間。
「っっ、なんなのよコレッ!!!!!!!!!!」
「なっ!? え、あ、あなた……」
「うわっ!? え、一体何が――」
  そこには、あの女、進藤麻妃が立っていた。その手はバッグを握りしめ、ぶるぶると震えていた。
  見開かれた目は涙に濡れ、眉はつり上がって、口は恐ろしいほどに歪んで、まるで般若のようだった。
「ふざけないでっ!! 何よ、すまないじゃないわよ! 何でこんなことになってるの!? 私はいったい
何だったのよ!! 私なんか、姉に手を出すほど価値のない女だったの!!?? 今まで優しくしてくれたのは、
今まで遊んでくれたのは、姉の代わりだったっていうの!!?? ねえ隆史っ!!! 答えてよ!! 答えてよぉっ!!!!!」
  いっきにまくしたてて、はあはあと荒く息をつく。
  私達はとりあえず手近にあった服で局部を隠してから、今にも掴みかかりそうな進藤と相対した。
  その瞳は血走り、髪が逆立つような怒りをありありと表していた。
「その、」
「待って」
  口を開こうとする隆史を制する。隆史は優しいから、余計なことまで言いかねない。ここは私が。
「進藤さん、何でそんなに怒ってるのよ」
「あなたは黙って!! 私は隆史に訊いてるのよ!!」
「黙らないわ。あなたにタカを責める理由があるの?」
「ある!! 姉に手を出すなんて、責められて当然でしょ!!」
「でも、あなたがここまで怒る理由にはならない。違うかしら」
  進藤がひるんだ。
「で、でも!! その、隆史が……勝手に」
「勝手に? タカはあなたの何? 恋人でも何でもないんでしょう? だったら、タカが誰と何しようと――」
  タカを抱き寄せる。
「あなたには関係ないんじゃないかしら」
「っ!! このっ!!」
  彼女はその手にあったバッグをこちらへ投げつけようとして、止まった。
「そっか、そうよね……」
  ぼそぼそと呟いて、彼女はその手にあったバッグの中身を足元へ落としていった。マグカップ、タオル、シャーペン、
その他多くの雑多なモノが床に広がった。
「それは一体?」
  私が訊ねると、生気のない目で「隆史のです」と答えた。
「じゃあね、隆史。短い間だったけどちょっと楽しかったよ」
  その言葉に、腕の中のタカが震えた。
  まだ、油断できないのかも知れない。

3
 
もともと、姉貴は俺と同じT大学で学んでいた。イギリスのM大学に一年の短期留学に行ったのが去年の夏。
ずっと一緒だと思っていた姉貴がどこかへ旅立っていくのは淋しくまた辛かったが、周囲から散々シスコン呼ばわり
されてきた自分を変えようと思ったのもその時からだった。
しかし、俺はひとりが不安だった。誰か側にいて欲しかった。
そこに現れたのが麻妃だった。
彼女は強烈だった。姉に負けるとも劣らないキャラクターを持っていた。それでいて他を圧倒するようなことはなく、
うまく目立たない方法も知っているようだった。
俺は彼女に興味を持った。
しかしそれは、今から思えば、やはり彼女の言葉通り「姉の代わり」だったのかも知れない。少なくとも最初のうちは。
利用しようと思ったことはないが、きっと誰でもよかったのだろう。寂しさを埋めてくれる人が欲しかったのだ。
だがそれは、彼女と話をし、遊びに行くごとに変わっていった。
麻妃は姉貴ではなかった。姉貴の代わりでもなかった。俺は姉貴に抱いたことのない感情を彼女に抱き始めた。
純粋に隣にいたい、彼女の姿を眺めていたい、彼女に微笑みかけていたい。
彼女は不安を埋めてくれる存在ではなく、俺が何かをしてあげたいと思える存在になっていた。
それから、俺たちはよく一緒にいるようになった。決して付き合っている訳ではなく、ただ隣にいるのが心地いい関係。
他愛のないことで互いの家を行ったり来たり。ビデオを見るとか、ノートを写すとか、なんとなく暇だとか。
そう言えば、以前麻妃が「何も言わずにすぐに来て、お願い」なんて思わせぶりなセリフを吐いたことがあった。
あの麻妃に一体なにが起こったのか。俺は全速力で麻妃のアパートへ向かった。
そしてそこで見た光景は、凄まじい臭いと煙が立ちこめる、修羅場と化したキッチンだった――なんてこともあった。
楽しかった。
それが唐突に失われることなど、誰が想像し得たろうか。
しかも、実の姉によって。半ば自らの意思で。
久しぶりに姉貴に会えた。その喜びや安心の方が、麻妃との他愛ない楽しみより大切に見えた。そういうことなんだろう。
だが、あの時の俺は正しかったのだろうか。
分からない。
4

 最近、タカの元気がない。やはりあの女のせいだろうか。
  強引にふり向かせたいとは思うけれど、あの女に負けるみたいでそれは嫌だった。
  いや、そもそも。
  私は既に勝っている。タカは私を選んだのだ。
  その証拠に、タカは今も私の隣でぐっすりと寝ている。
  男にしては綺麗な髪の毛を梳く。
  愛しい。全てが愛しい。絶対に離さない。絶対に。

 隆史に会いたい。

 あれから一週間、麻妃は大学に来ていない。講義は無断欠席、レポートも出していなかった。
  麻妃は今ごろどうしているだろうか。
  そう思うたび、無責任な自分を殴りたくなる。
  俺は幸せになるために、幸せになれると信じて、姉貴を選んだはずなのに。
  あれは間違いだったのだろうか。
  いや、違う。違うはずだ。俺は確かにあの時、姉貴と共にある未来に幸せを想っていた。
  そう、間違いがあるとすれば。
  きっと、麻妃と知り合ってしまったこと。
  そして、麻妃を好きになってしまったこと。
  俺は麻妃が好きで、そして姉貴が好きだ。その上で姉貴を選んだのだから、俺は、間違ってない。
  間違っては、いない。
  なのになぜ、麻妃は苦しんでいるのだろうか。
  麻妃の気持ちが何なのか、薄々気付いてはいた。だから、そのせいにするのは容易い。
  ただ、俺は、姉貴に告白されるまで自分の気持ちに気付いていなかった。
  姉貴にキスされて初めて、麻妃を想って胸が痛んだ。
  あの時にはもう手遅れだった。
  そう考えれば原因は、己の愚鈍。
  しかし、あそこで姉貴を断ることを想像するたび、自らの足場が崩れていくような不安が
起こる。もし気付いていたとしても、どうしたか分からない。
  だからあの判断は間違ってはいない……のだろうか。
  どちらにしろ、既に起こってしまったことだった。
  時を戻すことなどできないし、丸く収めることもできそうにない。
  せめて、麻妃に謝りたかった。
  自分の重荷を下ろしたいからなのかも知れない。それでも、麻妃が救われるなら。
  偽善だとしても救われるなら、それでいい。
  今日、麻妃のアパートへ行ってみよう。二週間ぶりくらいだろうか。麻妃の様子が気になった。

「今更何の用があるのよ」
  ドアを開けて一言目に、麻妃は言った。
  思わず怯んでしまう。
「あ、その……謝ろうと」
  麻妃の目がスッと細くなった。
「で?」
「ああ……その、麻妃には本当、悪い事したから……すまなかった」
  言った途端、麻妃に胸ぐらを掴まれた。その瞳にゾクリとした。
「ふざけないで。なに、哀れんでるのよ。あんたのせいでこうなってるっていうのに、自分だけ楽なところにいて」
「そんなつもりは――」
「そういうつもりでしょ! 何が、すまなかったよ。何が、悪いことしたよ。全部アンタの自己満足じゃない。
それで、全部アンタが救われたいからじゃない! 私はあなたの為に生きてるんじゃない! これ以上私を使わないで、
私はあなたの道具じゃない……」
  それを言ったきり、麻妃はぐったりと俺にしなだれかかってきた。両手に力はなく、弱々しく震えていた。
「……ってやる」
  ぼそりと呟いた声色に背筋が寒くなった。と、急に麻妃は俺に抱き付き、部屋へ連れ込もうとする。俺は為す術もなくしたがった。
「ちょっと、待て、どうして」
  久しぶりに入った部屋は薄暗く、どこか退廃的な雰囲気がしていた。アルコールの臭いが鼻を突く。
  彼女は普段からウイスキーを好むが、見ればテーブルの上にはハーパーのボトルが数本置いてあった。
  あれを一週間で飲んでしまったのだろうか。
「麻妃、待て」
「待たないよ! 待てない! 待ってたら、隆史はあっちへいっちゃうんだから!!」
  涙声だった。
「この、バカッ!」
  麻妃は叫んで、俺をベッドに引き倒した。
「ばかぁっ!!」
  そして自身も倒れこんで、シャツを掴んで何度も何度もバカと繰り返す。
「すまない」
  思わず抱き締めたくなったが、そんなことをすればまた彼女を傷つける。
  何もできなかった。
「うるさい、バカ!!」
  麻妃は、俺の胸に顔を埋めてわんわん泣き出してしまった。
「何で今更、もう顔なんて見せないでよバカ!」
「すまない」
「顔見たら、辛いじゃない!! それくらい察しなさいよこのバカ!」
「すまない」
「なんで……もう、私の前から消えてよ……ばか」
  言われた。ここまで拒絶されたなら、もう文句はないだろう。麻妃への未練は断ち切れる。
  なんだ、結局、俺は麻妃への未練があったからこの部屋へ来たのか。最低だな。
「……分かった」
  もう去るべきだ。
  覆い被さっている麻妃の方に手を添えて、そっと押し上げる。

  麻妃の瞳が揺れた。
「あ……」
「すまなかった。本当に。もう、二度と麻妃と関わらない。大学では、顔を合わせるかも知れないが、関わらないようにする」
「あ、待って、たかしまってよ」
  麻妃の虚ろな瞳がすがってきた。
「たかし……さみしいよ」
  さっきの言葉とは逆に、麻妃はギュッと抱き付いてきた。
  どうすればいいのか……。
  さっきの言葉は本気だったと思う。しかし、今の麻妃の様子は一人にしておいたら死んでしまいそうに見えた。
「さみしいよ」
  再びの言葉と共に、麻妃の顔が迫ってきた。
  予想はできた。しかし、避けられなかった。
「たかし……」
  そして、唇が触れ合った。
「麻妃……」
  すき、と彼女は言った。
「なっ」
  頬を染めたかと思うと、麻妃は俺の身体を抱き締め、弱々しく、しかし艶やかに微笑んだ。思わずくらっとした。
「落ち着け麻妃。こんなことして、後で後悔するぞ」
  麻妃は首を振った。
「後悔……してもいい。このまま隆史を帰すよりはずっといい」
  その瞳は泣きそうで、嬉しそうで、辛そうで、苦しそうで……どこか穏やかにも見えた。
「待て、麻妃。待ってくれ」
  何としても、思い留まらせなければ。これ以上彼女を傷つければ、取り返しのつかないことになる。
「麻妃、俺は……その、姉貴と」
  麻妃は微笑んだ。
「分かってる。いいの」
「俺は、きっと麻妃を選べない。それでもいいのか……」
  ふっとその瞳に影がよぎり、麻妃は俺を見た。
「いい。私は、あなたのことを」
  その瞬間の麻妃は、まるで聖母のようだった。
「だいすきなのだから」

5

 電話があったのは夜の八時頃だった。
「はい、岸本ですが――」
「あ、姉貴? 隆史だけど、今日」
「タカ!? こんな時間までどこに行ってるのよ!」
  サークルに入っている訳ではないから、こんな時間になるのはおかしい。
「あ……ええと、カラオケ」
  カラオケ。友達と一緒なのだろうか。
「タカ、友達と遊びに行ってるの?」
「え? あ、ああ。そうだよ。それで、その」
  一瞬の沈黙。
「今日、帰れないから」
「え?」
「ごめん」
「あ、ちょっとタカ!」
  切れてしまった。慌ててどうしたのだろうか。何か急ぐ理由があったのだろうか。
  タカの様子が気になったが、それにしても。
「こういうの、息子が夜遊び始める頃の親の心境よね」
  まったくしょうがない。ま、そこが可愛いんだけど。

「……ごめんね」
  電話を切ると、麻妃はうなだれてそう呟いた。
「気にするな。さすがに麻妃をこのままにしては帰れない」
  麻妃を選べないとは言ったものの、抱いた女性を放っておいて家に帰るほど薄情でもないつもりだ。
「その優しさが……」
  麻妃は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
「ん? どうした?」
「何でもない」
  麻妃が身体を寄せてきたので、その思ったより華奢な肩を抱いた。温かかった。

 明日は何を作ろう。どうせ外食ではたいした物食べられないだろうから、しっかり作ってあげないと。
  それにしても、隆史も夜遊びを覚えたか。
  友達と一緒だというのは安心できるけど、心配でもある。
  隆史はいい子だから。友達に誘われたら嫌とは言えないだろう。悪いことしてないかな。
  そうだ、明日は炒飯にしよう。隆史が昔から大好きだったシーフードの。
  そう言えば、私が初めて作ってあげたのも炒飯だった。今でこそレパートリーは増えたけれど、
当時の私が一番自信を持って作れたのは炒飯だったから。
  ありがちな残り物で作るんじゃなくて、ちゃんとしたもので作ってあげよう。
  喜んでくれるかな。
  喜んでくれるに決まってる。

 薄暗い部屋。月明かりがカーテンの隙間から滑り込んでいる。
  それが、麻妃の部屋を断片的に照らし出す。
  荒れていた。
  激情家な所もある麻妃だから、その様子は容易に想像でき――
「すまない」
  自らの思い至らなさに嫌気が差した。
「え?」
「その、酷いことした。それに、してる」
「……うん」
「謝ったって仕方ないことだが、すまなかった」
「……いいよ」
  まるでそれが幸せだといわんばかりに、麻妃は微笑んだ。
「隆史は今ここにいる。だからいいよ」
  喉の奥に苦い味がした。
「でも、いつも一緒には」
「分かってる。隆史はお姉さんを……選んでるんだから」
  その言葉に非難めいた色はなく、ただ、淋しい諦めの香りだけがする。
  そして、その言葉に少なからず安堵を覚えずにはいられない自分。
  泣きたいくらいに情けない自分が嫌だった。

「もう帰るから」
  次の日の朝。今日は日曜だが、さすがに家へ帰らないとまずい。
  麻妃は一瞬悲しそうに眉を寄せたが、すぐに笑顔になった。苦しい笑顔だった。
「うん。また、学校で」
「その……すまない」
「もういいよ。あんまり謝られると私が辛くなる」
  目を合わせられない。思わずうつむいた。
「じゃあね」
  キィ、という音に顔をあげると、彼女はバイバイと手を振ってから、ドアを閉じた。
  俺は、しばらくそこから動くことができなかった。

 遅いなあ。
  昨日の電話の様子では、遅くとも朝の早いうちに帰ってくると思っていたんだけど。
  夜通しカラオケで過ごしたとしても、空が白み始める頃には解散するんじゃないだろうか。
  もしかして、どこか別の所に行ったのだろうか。そして、そこで夜を明かしたとか。
  そうだとすれば、タカは風邪を引いてしまうかも知れない。いや、もっと悪ければ、誰かに絡まれて――。
  その時、ピンポーンと音がした。
「タカっ!?」
  玄関へ向かう。知らず駆け足になっていた。
「あ……姉貴」
「タカぁっ!!」
「うわっ!?」
  ギュウっと抱き締める。ああ、タカだ。タカが帰ってきた。私の所へ帰ってきた――!!
「良かった、タカが無事で……心配したんだからぁ!!」
  暖かい。タカはいつもと変わらず暖かくて、いい匂いが――。
「……うそ」
「え、何が?」
「ううん、何でもない」
  何この臭い。香水?
  柑橘系の、そんなに強くはない……オレンジか。
「あ、姉貴。苦しいって」
  更に締め付ける。悟られないように嗅ぐと、私の知らないタカの――いや、タカ以外の臭いがした。
「一日ぶりに会うんだから、いいじゃない」
  街にいたならもっと雑多な臭いがつくはずだ。こんな微かな臭いがきちんと残っているということは。
「やれやれ」
  誰だ。私のタカに手を出したのは。
「タカは私のものなんだから、いいじゃない――ね?」
「あ、姉貴……ん」
  タカに口づけた。タカは身体をこわばらせるだけで、いつものように舌を絡ませてはくれなかった。
「あ……タカ……あ、ん」
  この臭い……忘れない。絶対に。

6

 タカの取っている講義は……ここだ。この講義室だ。
  私は何食わぬ顔で中に入った。
  講義開始までにはまだ時間があるので、人はまばらだ。それに私はイギリス留学していた
お陰で知り合いが少ない。バレることはないだろう。
  後ろの方に席を取る。この講義室は大きい方だから、一度に200人からの人が入れる。
私も入学したての頃、ガイダンスを受ける為に入ったことがあった。
  しばらくして人が増えてきた。開始時間まで後3分。そろそろタカも現れるだろう。
  私は伊達眼鏡を掛けた。変装なんてものじゃないが、気付かれにくくはなるはずだ。
  そのまま左右の入り口にさり気なく視線を巡らす。
  そこへ、隆史は現れた。
  隣には誰もいない。隆史を誑かした女は、この講義を取っていないのだろうか。
「あの、隣いいですか」
  わっ!?
「っ……え、ええ。どうぞ」
  すんでの所で声を抑える。
  私は相手を見ないまま半分腰をずらした。
「ありがとうございます。あの……いえ、何でもありません」
  彼女は何か言いたかったようだが、そのまま隣に腰を下ろして用意をし始めた。
「あれ……おかしいな」
  何か手間取っているようだ。
  目立ちたくない。無視しようか。
  いや、でも、この教室にいるうち私のことを知っているのはタカくらいなものだろう。
  騒がなければ大丈夫だ。
「どうかしましたか」
「あ、その、実は筆箱を忘れてしまって……久しぶりの学校なので」
  彼女は微笑んで私の方を見て――
「あなた……」
  目を見開いた。彼女、進藤麻妃は信じられないという顔をしていた。
  信じられないのは私も同じだ。
「……まさかってやつね」
  動揺を悟られないようわざと素っ気なく言う。
  なぜ気付かなかった。彼女だ。
  他のどんな女より怪しいのはこの女、進藤じゃないか。
  互いに黙り込む。
  今はまだ様子を見るべきだ。余計なことは言えなかった。
  講師が入ってきた。どうやらタカは一人で講義を受けるようだが……。大学にいる間は
それと見せないでいるつもりだろうか。
  不可解だ。私からタカを奪おうとしているにしてはあまりに覇気がない。
  まるで、私とタカの関係を容認しているかのように見える。
  彼女はそんな位置に甘んずるような女ではない。少なくとも私にはそう見える。
  演技か。それとも進藤ではないのか。
  どちらにしろ、情報を得なければならなかった。

  結局、それ以降講義が終わるまで私と進藤は話をしなかった。
  チャイムが鳴り、生徒が次々に講義室を出て行く。
  私もタカに気付かれる前にここを出ないと。
  そうだ、その前に聞いておかなければならないことがあった。
「ところで、進藤さん香水は?」
「今は使ってません」
  確かに、彼女からはボディーソープかシャンプーのような香りしか感じられない。
  私自身あまり飾るのは好きではないので、好ましい香りと言えた。
「そう。じゃね」
  進藤はまだ灰色だが、怪しい。この先注意しておかないと。
  それに、タカ。
  私というものがありながら他の女に手を出すなんて。
  しっかり躾ないと。

「隆史、さっきの講義お姉さんも取ってたのね。先に言ってくれてれば注意したのに」
  何だって?
「そんなバカな。姉貴は第一、学部が違う。文学部で比較文化論を専攻してるはずだ」
「でも、私は隣に座って話までしたわよ」
  麻妃が嘘をついているとは思えない。ということは。
「何でそんなことを」
  麻妃は、しばし顔を伏せてから言った。
「たぶん、タカと私の関係に……いや、そこまでは分かっていないと思うけれど、
少なくともタカがお姉さん以外の誰かと『そういう関係』になってるってことには
気付いてるんじゃないかしら。今日はそれを調べに来たのよ」
「そんな……」
  しかし、いきなりの門限宣言といい、今日の不可解な行動といい、そう考えるのが
妥当に思える。
「どうして気付いたのかしら。隆史、心当たりはない? その、相手は私……しかいないんだから、
あれ以降で隆史がお姉さんと会った時になるけれど」
  麻妃は僅かに頬を染めて目を逸らした。
  そんな仕草をされると、俺まで恥ずかしくなってくるじゃないか……。
「と、とにかく。もう少し考えてみるよ。何か分かったら連絡する」
  麻妃はじっと俺を見た。
「なんだ?」
「今日は、その、家には」
  ぽつりぽつりと呟いた声が妙に艶やかで、どきりとした。
「あ、そ、そういえば言ってなかったな!」
  動悸を吹き飛ばすような勢いで言う。そうでもしないとうまく口が動かない。
「実は、姉貴、いきなり門限を決めたんだ。午後八時までって」
「じゃあ、それまででいいから」
  麻妃は一歩近づいて、縋るように言った。
  断ることなどできなかった。

7

「はい、コーヒー」
  行為を終えて一息つくと、門限まであと一時間を切っていた。
  もうここを出なければならない。
「ありがと」
  麻妃は微笑んでカップを受け取ると、そっと口を付けた。
「なあ、麻妃。香水使ってるか?」
  いきなりだったからか麻妃は目を見開いている。
「なんで?」
「いや、例の心当たりってやつなんだけどな。あの日俺が帰った後、姉貴に……
なんていうか、匂いをかがれたんだと思うが、その時、俺の知り合いにオレンジの
香りの香水を使ってる奴がいないかって聞かれたんだ。もし麻妃がそういうのを
使ってたら、そこからバレたんじゃないかと思って」
  麻妃はうつむいた。
「……そうね、あの時までは使ってたわ」
「あの時まで『は』?」
「ええ。変えたの。というより、使わなくなったのよ」
  麻妃は何故か、斜め下を見て恥ずかしそうにしている。
「なんで変えたんだ?」
「……隆史が言ったから」
「は?」
  麻妃は俺を恨めしそうに見た。
「あの日、その、終わってシャワーを浴びた後、『いい匂いだ』って」
「あー、そんなことを言ったかも知れないな」
  というより言ったんだろう。
  確かに香水の匂いよりは石けんの香りの方が好きだった。
「前の方がいい?」
「いや、今のままでいいよ。……さて、そろそろ行かないと本当に遅れるな」
  麻妃は何も言わず、その柔らかい手を俺の手に添えた。
「麻妃?」
「あ、ごめん……」
  麻妃はパッと手を離した。
「いや」
  気まずい空気を紛らわすかのように麻妃は微笑む。
「バイバイ。また明日」
  その微笑みは、泣いているようにも見えた。


「ただいま」
「どこ行ってたの」
  帰宅するなり姉貴に詰問され、思わずどきりとした。
「えっ? 駅ビルにずっといたけど」
  用意しておいた答え。
「何をしてたの」
「CD探してた」
  姉貴はまだ納得しないようで、じーっと見つめてくる。
「本当? 何のCDを探してたのよ」
「えっと、ポップスを」
  さすがにこの先は用意していない。
「ポップスねえ……タカ、そういうの聞く方?」
「いや、聞かないけど……たまたまっていうか、ちょっと気が向いたから」
  沈黙。姉貴は探るような視線を投げかけた後、ため息をついた。
「まあ、門限まであと10分残ってたからいいけれど。次はあまり遅くならないようにするのよ」
  助かった。どんな曲を探したのかまで聞かれたら答えられなかった。
  しかし、明日からはどうしようか。
  きっと、姉貴はもう疑っている。講義に紛れ込んでくるような姉貴だから、
ひょっとしたら後を付けられかねない。
「タカ、早く」
「分かってる、今行くよ」
  重い。
  姉貴の存在が重かった。

8

「隆史、ちょっといい?」
  2コマ目の講義が終わったところで、麻妃に声を掛けられた。
「ん、なに?」
「その、お姉さんのことで少し」
  思わずつばを飲み込んだ。
「……いいよ。どこで話そうか」
「カフェに行きましょう。隆史は今日はこれで終わりよね」
「ああ。木曜は2コマだけだ」
  麻妃は頷くと先に歩き出した。
「しかし、まさか麻妃の方から話があるとは思わなかった」
「どういうこと?」
「いやさ、麻妃と姉貴には……その、色々あったじゃないか」
  彼女は一拍おいてから「そうね」と答えた。
「でも、別に私は気にしてないわ。私にとって彼女はライバルでも何でもなく、届かない人だから」
「届かない?」
  返事はない。
「麻妃?」
「ところで隆史、何でお姉さんのこと好きになったの?」
「なっ……いきなり、いきなり何を」
  そんなの、麻妃に言いたくない。
「そんなに驚かないでよ。別に嫉妬してる訳じゃないし、聞いたから私が何をする訳でもない。ただの興味よ」
  いや、でも。
「言えない」
  彼女の眉が動いた。
「言えない? なんで?」
「それは、分からないけど。言いたくない」
「そう」
  沈黙が降りた。
  しばらく歩き、屋外に出たところで彼女はふり返り、口を開いた。
「私は、隆史がお姉さんのことを好きならそれでいい。でも」
  そこまで言って、麻妃はかぶりを振った。
「ごめん。いい。私が口出しすることじゃなかった」
  一体何なんだ。
「何だよ。言えよ」
「言っていいの?」
  深い鳶色の瞳に吸い込まれそうになった。
  堪らず目を逸らす。
「……いや」
「そう」
  麻妃は再び歩き出した。
  胸の奥がぐつぐつ煮えたぎるような不快感。
  足取りが重くなる。
  麻妃はふり返ってくれない。
  そして、麻妃との距離が10mにもなりかけた頃、彼女はようやく俺の所へ来てくれた。
「もう、しょうがない人」
  麻妃は微笑んでいた。

  カフェに着いて席を取り、オーダーし終わったところで麻妃は口を開いた。
「話っていうのは、この前言っていた、門限についてよ」
「門限?」
「ええ。分かっているとは思うけど、おかしいわ。今でも寮なら門限はある。
でも隆史はお姉さんと賃貸マンションで二人暮らしでしょう?」
「それは分かるよ。でも、何で今更」
「隆史、本当にそれでいいと思ってるの?」
  強い口調だった。
「いや、思ってはいないけど」
「お姉さんは昔からそういうのに厳しかった?」
「いや……むしろ姉貴の方がよっぽど奔放な生活をしてたな」
「ならやっぱり異常よ。このままだと、いつかお姉さんは隆史を監禁、とまでは
いかないと思うけれど、何らかの形で隆史を拘束してしまうわ。隆史のことだから
私がとやかく言うべきじゃないとは思うけれど、それでも隆史、お姉さんを
止めるなら今のうちだと思う」
  麻妃は必死だった。
  彼女の言うことはもっともだ。最近の姉貴は普通じゃない。
  恐らく彼女の言うとおりにするのが正しいのだろう。
  だが、それは聞けない。
「いや……大丈夫だ」
「隆史」
「拘束されても仕方ないよ。俺は姉貴のことを」
「好きなの?」
  胸の奥にじんわりと熱がこもる。さっきの不快感があふれ出しそうになる。
  それら全てを振り切って、俺は言った。
「好きだ」
  麻妃は何も言わなかった。ただ、揺れる瞳で見つめるだけだった。


「ただいま」
「お帰りタカっ! 今日は早かったじゃない」
  喜色満面。
「うわっ」
  案の定抱き付かれ、口づけされる。
「タカ、タカっ……好きよ」
  ついばむように。次第に深く。
  それに応えながら俺は、頭の奥では別のことを考えていた。
  どうして姉貴なんだろう。いや、どうして麻妃じゃないんだろう、と。
「どうしたの、タカ。元気ない?」
  ぎゅっと密着する身体。
  熱い。
  くらくらする。
「そんなことないよ」
  姉貴の背中を撫でまわす。曰く、これが好きなのだという。
「あ……ん。ゾクゾクする……」
  とろけた瞳で見つめられ、思わず首筋に顔を埋め、唇で愛撫していく。
  こうしていながらもやはり、どこかで冷静な自分が麻妃の姿を探す。
  こんな所にいるわけないのに。
  そもそも、俺は姉貴を選んでいるというのに。
  今腕の中で震えている女性は紛れもなく俺の姉だ。
  そして、間違いなく恋人でもある。
  俺は姉貴を選んだ。
  なぜ。
  ――綺麗だから――。
  ――頼りになるから――。
  ――魅力的だから――。
  違う。
  姉貴に、求められたからだ。
  思えば今まで俺は姉貴に従いっぱなしだったし、それが当然だった。
「タカ……タカ大好きだよ」
「ああ、俺も、だ」
  姉貴は熱っぽい吐息を漏らした。淫靡な瞳で見つめてくる。
「行こう?」
  俺は答えずに姉貴を抱き上げ、ベッドへ連れて行く。
「あん……」
  横たえる時にまた、悩ましげな声を漏らす。
  我慢できず、姉貴にむしゃぶりつく。
「あはっ」
  乱暴にさえ思われる俺の行動を嬉しそうに受け入れていく姉貴を見て、思った。
  俺は姉貴のことを、何の為に抱いてるんだろう、と。

9

 私のタカ。
  愛しいタカ。
  双子の弟。恋人。同級生。
  どんな言葉も意味がない。
  どんな言葉でも表せない。
  愛しいひと。
  頼りなげで可愛くて。それでもしっかり男の子で。
  私のことを大好きで、私が大好きなひと。
  タカがいれば何も要らない。
  私はずっと側にいてあげる。
  だからタカも。
  ずっと側にいてね。いつまでも。

 ベランダでぼんやりと月を見ていると、姉貴との思い出が浮かび上がってくる。
  こうするのは何ヶ月ぶりか。
  姉貴がいなくなって三ヶ月。毎日こうしていた。
  姉貴がいなくなって六ヶ月。麻妃と知り合って、でも毎日月を見ていた。
  姉貴がいなくなって九ヶ月。満月の夜にはこうしていた。
  姉貴がいなくなって丸一年。麻妃と知り合って丸半年。
  こうして月を見るのが懐かしくなるほど、俺は麻妃で満たされていた。
  そこへ姉貴が帰ってきて。
  全てが変わった。
  姉貴は強く優しく美しく。あまりに眩しかった。
  太陽は姉貴で月は麻妃。そう見えた。
  そして太陽に惹かれた。月を捨てた。
  しかし同時に太陽は強すぎた。あまりに強すぎた。
  近づきすぎて、熱さに耐えられなくなって。
  俺は月の優しさを知った。
  でも。もう月には向かえない。
  太陽はあまりに強すぎて。俺を離してくれないから。

 

 隆史。大切な隆史。
  彼の心は弱々しくて。
  昔の私を見ているようで。
  今の私を見ているようで。
  私達は傷をなめ合うもの同士。
  さみしい。あったかい。
  あったかい。さみしい。
  大切なひと。包んであげたいひと。
  そして包んでほしいひと。私を大切にしてほしいひと。
  私は弱くて、傷ついて一人泣いていた。
  彼は弱くて、傷ついて一人泣いていた。
  だからいっしょ。
  一緒にいれば淋しくない。
  でも。
  彼は去った。
  大切なひとを見つけて。
  隆史の大切なひとは。
  私じゃなかった。
  淋しかった。
  淋しすぎた。
  隆史というあたたかさを手に入れて。
  それを失ったときのさみしさ。
  さみしさ。
  そして隆史が現れたときの憤り。喜び。
  よかった。どうでもよかった。隆史がいるならそれでよかった。
  一人がいやだった。いてほしかった。私のものにならなくてもよかった。
  それなのに。
  隆史は今、一人で苦しんでいる。
  私を癒し、傷つけ、癒し、そして今苦しんでいる。
  隆史。大切なひと。
  包んであげたいひと。

後編へ

 

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