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ホワイトデー・ケーススタディ(仮)

第1回      


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 三月十四日はホワイトデーです。
気があろうとなかろうとバレンタインデーのお返しをしなければいけないので、
一年間でもっとも泥棒猫が得をする日です。
貴女の幼馴染や隣の席の人ももれなくあの女にプレゼントを渡しています。
普段はぼんやりして貴女の想いに気付かない朴念仁も屋上で後輩といい雰囲気になっています。
貴女が片思いしているあの不器用な青年もどこぞの女狐と懇ろにしています。
貴女にもし年頃で義理の息子さんや兄・弟がいて、いま家にいないのでしたら
間違いなくクラスメイトの少女とお城のような建物で仲良く遊んでいます。
貴女が別れなければならなかったあの方も貴女がその方にしてもらったことを別の女にやっています。
貴女の運命の人や前世からの恋人は、いま違う女の体を獣のように貪っています。

 貴女はつい素直になれなくて、バレンタインデーにはよそよそしい態度をとったかもしれません。
気後れがして、せっかく徹夜で作ったチョコレートを燃えるゴミで捨ててしまったかもしれません。
今年こそ、今年こそと思いながらも、見知らぬ後輩が体育館裏で彼と逢引している光景を
物陰から覗き見ていただけかもしれません。
直に渡すのが照れくさくなって下駄箱に入れた小箱は、
彼が登校する前にぐしゃぐしゃに潰されてゴミ箱に押し込められていたかもしれません。
机の中に忍ばせておいたマフラーもとっくに焼却炉で灰になっているかもしれません。
たとえこっそり鞄の中に紛れ込ませていたとしても、彼の目に付くより早く彼の姉か妹、
あるいは母親が処分してしまったかもしれません。
もし彼に手渡してもらうよう親友に頼んだとしたら、
中のメッセージカードをすりかえられたかもしれません。
弟は貴女の真意に気が付かず、めんどくさいから現金でいい?
なんてトチ狂ったことをのたまうかもしれません。
今ごろ兄は幼馴染と一緒に貴女への贈り物を選んでいて、
偶然立ち寄った露店で幼馴染に指輪を買ってやっているかもしれません。
貴女が息子にあげたチョコレートは息子にとってありがたみが薄く、
まだ包みを開けられてすらいないかもしれません。
あなたは義理と称して彼に手編みの手袋を渡しましたが、
彼はそれを言葉どおりに受け取ったにすぎなくて、
むしろ別の女の手作りチョコに有頂天になったかもしれません。
電柱の影や向いのマンションや隣の部屋から、望遠鏡やカメラや盗聴器で長年にわたって
貴女が見つめ続けて来た青年に、貴女はチョコを渡して告白したと
勘違いしているだけかもしれません。

 貴女はお腹の下にそっと手を当てながら彼の来るのを待っています。
クリスマスに生まれる小さな命を思うにつけ、どうしても口元が緩んでしまいます。
彼のうろたえぶりを想像して微笑みはますます深まります。
けれどもこの日、春も近いというのに彼に秋風が吹きます。
彼は雨で濡れた体を拭きもせず、とても信じられないような言葉を口にします。
貴女が呆然としていると、やかましく足音を立てて制服姿の少女が部屋に入って来ます。
この少女は彼の妹で、前々から貴女に辛く当って貴女と彼の交際の妨げとなっていたのですが、
今はなにやら勝ち誇ったような笑みを浮かべています。
少女は彼の言葉を遮って、口にするのも憚られる事実を告げながら自身のお腹に手を触れます。
貴女と違って一目でわかるほどに膨らんでいます。
貴女が彼の目を見つめると、彼は辛そうに顔を背けます。
少女は彼の腕をぎゅっと抱きしめて、貴女の返答を聞こうともしないで
彼を玄関のほうに引っ張って行きます。
その間彼は妹のなすがままになっています。
しばらくすると、貴女は震える体を起こして台所に立って行きます。
まな板の横に立てかけてある包丁が目に入ります。
長い間、彼のために夕食を作るのに使っていた包丁です。
こまめに研いであるので鶏肉の塊くらいなら簡単に切り裂けます。
貴女はその刃先を手首に当てます。
ですが刃を引こうとする直前、先ほどの少女の顔が刃に映った気がして、
なぜか笑い出してしまいます。
貴女はひとしきり笑い声を上げてしまうと、大きなレインコートを着て家を出ます。
レインコートのポケットには先ほどの包丁が入れてあります。

 今日は土曜で休日ですが、貴女はどこにも出かけず部屋に篭っています。
携帯電話を開いて幼馴染の彼からのメールを読み返し、枕を抱きしめて身もだえします。
朝早くから何度となく同じようなことをしていたのですが、貴女は飽きもせず繰り返しています。
呼び鈴が鳴ります。貴女は急いで身繕いします。
湿ったティッシュを丸めてゴミ箱に押し込み、乱れた髪を手櫛で整えます。
手鏡に映る顔はやや赤らんでいますが、火照りを冷ます時間はないのです。
三度目の呼び鈴の前に、貴女はどうにか鍵を開けることが出来ます。
敷居の外に幼馴染の彼が立っています。
彼は貴女の血色をいぶかしむ様子もなく、さっと小さな包みを差し出します。
貴女は仕方ないから貰ってあげるといった風を装ってその包みを受け取ります。
すると彼は、用事があるからと言って敷居を跨がず立ち去ろうとします。
貴女があわてて声をかけても、急いでいるらしくぞんざいに手を振るばかりです。
貴女は彼の素っ気無さを怪しく思い、彼の後をつけることにします。
彼を追って駅近くの公園に行くと、噴水の前に一人の少女が立っているのが見えます。
彼は貴女のときとは打って変わって楽しげな調子で少女に声をかけます。少女が振向きます。
貴女は初め自分の目を疑いましたが、その少女の身振りや彼と話す様子などで、
少女が自分の親友であるのを認めます。
彼と少女が仲睦まじそうに腕組したのを見るに至って、
ようやく貴女は親友に裏切られたという事実を知ります。
夕闇の濃くなりつつある頃になると、幼馴染と親友がいそいそと後ろ暗そうな足取りで
建物の中に入って行きます。
建物の看板には宿泊の他に休息の値段も書いてあります。
貴女は地団駄踏んで口惜しがることさえ出来ない気分で建物を打ち眺めます。
貴女は翌朝までそこに立ち続けています。

 文脈に頓着せずつらつら例を挙げて参りましたが、要するに三月十四日というのは、
このような出来事が起こりうる日なのです。
貴女にもいくつか身に覚えがあるに違いありません。
貴女は既に恋人をそこらの売笑婦に寝取られてしまい、
毎日寝床に入ってから枕を濡らしていらっしゃるのかもしれません。
貴女が何年も遠くからじっと見守り続けていたのに、
ほんの数ヶ月前に現れたにすぎない蓮っ葉に既成事実を作られてしまうこともあり得ます。
首吊りの足を引っ張るようなことを申しますが、たとい貴女と貴女の恋人が
どれほど愛し合っていたとしても、この世間にホワイトデーという行事があるかぎり
このような事態は防ぎようがないのです。
意地汚く狡賢い泥棒猫は、何匹駆除しても沸いてくるものです。
連中は言葉巧みに彼を騙し、度重なる誘惑で正常な感覚を麻痺させ、
肉体的な作用に従属させることで貴女への愛情を薄らがせます。
さらには法の目を掻い潜り、感情の錯覚と行為の責任とで貴女の愛する人を雁字搦めにするのです。

 この痛ましい悲劇を如何にして防ぐかといいますと、防ぐという考え方ではどだい無理な話で、
むしろこちらから攻めるという心構えでなくては横恋慕の女を撃退することは出来ません。
つまり貴女から行動するのです。
宮本武蔵が生涯無敗であったのは、試合になる前から入念に準備を重ねて、
いざ試合となったらことごとく相手の不意を付いて先手を取ったためであるといわれています。
剣の腕前がいくら良くても、剣を振る前に斬られてしまうなら
もはや剣豪も女子供も変わりありません。
どこかの女に横恋慕の気配が見え始めたら、まずその女を彼の近くから排除してしまうといいでしょう。
遠ざけるのではなく、あくまでなくしてしまうのです。
猫は犬と同じくらいに鼻が利きます。ただ遠ざけるだけでは、臭いを辿って戻って来てしまいます。
その上猫味というものがありますので、貴女が遠ざければ遠ざけるほど、
作用反作用の法則通り彼に近づきたがる度合いも強まるのです。
むろん、手が後ろに回るような行為は、貴女の愛する人の目に付くところでしてはいけません。
男性というものはとても臆病ですから、法に触れるということは、貴女へ抱く感謝の念より、
むしろ相手の女性への負い目を作ってしまうものです。
具体的な方法に関しましてはここでは述べません。
ただ、貴女の恋人に纏わり付く辻君どもに、貴女自身がもっともされたくない手口を選ぶ
というのがよろしいでしょう。
敵に学べという言葉もあります。売女どもの猿知恵も、なかなかどうして役立つものです。

 逆転の発想というものがあります。二足獣の中には狡猾なのもありますから、
浅ましい情念をひた隠しに隠し通され、いつの間にやら文字通り咥え込まれて
もはや手遅れになっていることがあります。
このような事態に立ち入らぬようにするには、先ほどとは逆に、
守るべき恋人のほうを手の届かぬところに隠してしまうのです。
そもそも餌や臭いがなければ蝿は寄ってきません。
彼と同棲することにして彼を二度と家から出さないようにしたり、
もし家賃がかさむなら、貴女の今住んでいる部屋で彼と同棲したりしましょう。
初めのうち、彼は錯乱したり暴れ出したりするかもしれませんが、
それは彼が浮世の慣習に囚われて貴女の愛情をしんから信じきることが出来ないためで、
貴女が何日も何日も愛情をもって彼をお世話すれば、じきに快方に向かうでしょう。
暴れて怪我をしてはいけませんので、必ず鎖や手錠を用意してください。
もちろん、防音には充分に気を付けて、もしも同じ屋根の下に貴女がたとは別な人間も
住んでいたのなら、仕方ありません、誠心誠意頼むか貴女自身が頑張るかして、
どこか遠くへ行ってもらいましょう。
さて、平穏無事に同棲を始められても、貴女の愛する彼が強情を張って
貴女の言葉に耳を傾けないこともあるでしょう。
そんなときはまず、可愛そうですが、暫くのあいだご飯を控えさせてください。
人間は空腹に陥ると物分りが良くなるものです。
やせ細った彼はぼんやりと目を開けて、あたかも神託であるかのごとく貴女の言葉を聞くでしょう。
それでも彼が貴女の愛を信じられなかったなら、
今度は愛情を示すために貴女自身が苦しい思いをするとよろしいでしょう。
貴女にとっていちばん苦しいことは、彼を傷つけることです。
罪の意識に苛まれて涙を流しながら愛の鞭を振り回す貴女を見ているうちに、
彼は貴女の愛情をひしひしと感じて、じきに大人しくなるでしょう。
もちろんその際、彼にごほうびをあげるのを忘れてはいけません。
これを何度も何度も繰り返してください。
こういう仕方で愛情を示すときは、何よりも繰り返しが大切なのです。

 もし貴女がお金持ちのお嬢さまなら、どこかの無人島に彼と二人きりで暮らすのもよいでしょう。
一人ぼっちだったロビンソン・クルーソーと違って、十年後には小さな家族が
出来ているでしょうから寂しくもなりません。
先に挙げた方法が一身上の都合でどれも選べないというのでしたら、
現世で結ばれるのは止して、別な世界で幸せになりましょう。
その際は事前にお寺や教会に通っておくことをお勧めします。
また、もし貴女が世界を滅ぼすくらいの力をお持ちでしたら、
こんな世界はいっそ滅ぼしてしまいましょう。
貴女と彼以外の人間なんて、みんな余計者にすぎません。
誰も彼を奪おうとする者はなく、貴女を責める者はそもそも残っていません。
世界はもはや、貴女と彼の愛の楽園です。もちろんそこにホワイトデーなんてものはありません。

2009/03/14 完結

 

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