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最後の決断

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1

 今肯けば、この人と付き合う事が出来る。
「俺と、付き合ってくれないか?」
 霧島美智子は目の前の彼を見て、漠然とそんな事を考えた。

◆◆◆◆◆

 美智子にとって、この世で一番嫌な場所。それは学校だった。
大多数の人は逆なのだろう。だが彼女はその稀な人間だった。
理由は単純である。
彼女には味方がいない。一人ぼっち。それなのに敵ばかりが沢山居て、しかもどんどん増えている。
簡潔に言えば、苛めに合っていた。すると先の言葉も納得してもらえただろう。
これで嫌にならない訳がない。彼女は何度も泣いた。
悲しくて、痛くて、怖くて、何よりつらい。
それでいて逃げられない。学校を休み続ければ、無論進学などできるはずもない。
八方塞りだった。
教師も注意はする。絡まれている所を見ればすぐに来て庇う。
しかしそれまでだ。教師の目には限界がある。それに女の苛めは陰湿だ。
暴力を振るうのでなく、言葉で、精神を攻撃してくる。
彼女達が一言、喋ってただけです。
と言えば、教師はそれ以上何も言えない。
誰も助けてくれない。まさにそんな時だ、彼が現れたのは。
美智子はその日も数人の女子グループに囲まれていた。
もう放課後で教師の姿もない。
彼女達を抑止するものは何も無く、煽りや罵倒だった物は次第に暴力へと姿を変えていった。
始めは平手打ち程度だったが、そのうちにエスカレートし、仕舞いには腹に蹴りを入れてきた。
「ぅ……!」
美智子はガクリ、とその場に崩れた。
日々重なるこういった行為は、虐めに屈しないと誓った彼女の精神を徐々に弱らせ、
そしてついに打ち負かした。
美智子はこの生活に限界を感じた。逃げるようにぐっと目を塞ぐ。完全に心が折れた。
もう学校には来れないと思った。
中退するのならもうそれでいい。
それでも良いから、この場所から解放されたかった。
何もかもを諦めたのだ。
仮にここで何も起こらなかったら、彼女はまず普通の人生を歩めなかっただろう。
しかし、神の気まぐれか、悪戯か。
ともかく現れてくれたのだ、彼が。
ふと気付くと、辺りは静まっていた。
さっきまでの罵倒や、腹に入れられていた蹴りも止んだ。
美智子が恐る恐る目を開けて見上げてみると、誰も彼女の方を見ていないではないか。
皆一点に視線を注いでいる。
「何やってんだ、お前ら」
男子だった。
美智子は彼を知らない。恐らく別のクラスの生徒だろう。
どこか爽やかで、特別女子から騒がれる事はないが、彼女を作るには困らなさそうな、
そんな感じだ。
そんな彼が怒った顔でズンズンと此方に歩いて来た。
そして、その場でへたりこんだ美智子を一瞥すると、周りに居た彼女達に一言こう言うのだ。
「二度とするな」
一瞬の沈黙。
彼女達は何となく白けたのか、捨てゼリフもなく、やけにあっさりとこの場から去っていった。
「大丈夫か」
「あ……」
今の美智子の目からは、彼は光に見えた。
安心して力が抜けたからか、溢れてくる涙を抑えられず、
彼の胸に顔を埋め、我慢していた物を一気に流した。
先に礼を言うべきなのに、口から出るのは言葉にならない泣き声ばかり。
それでも、彼は彼女が落ち着くまで黙ってその場に居てくれた。
「あの、ありがとう」
「いや。……ずっとあんな事を?」
「うん」
「そうか。俺、クラス違うけど、なるべくお前のこと見てる事にするわ」
美智子には彼がまるで神のようにも見えた。
優しい少年だった。なるべく気楽に喋って、気を使わせないように徹してくれた。
これがどうしてそうでないと言えるだろうか。
「本当に、ありがとうございます」
「……それじゃ」
彼はそれだけ言って、すっと立ち上がり、そのまま去ろうとする。
「待って」
美智子は彼に声をかけた。名前を聞いておきたかったのだ。
「私、霧島美智子(きりしま みちこ)って言うの。貴方は?」
「堺信也(さかい しんや)だ」
それだけ言って、今度こそ彼は行ってしまった。
しかし彼が去った後も、その堺信也という響きが、美智子の胸に残っていた。
「堺、信也君……」
そう口にした声は、誰も居ない校舎の中で静かに木霊した。

 次の日から、やはりあのことが大きかったのか。
美智子に対する目立った苛めはすっかり無くなった。
例の女子グループも心なしか、距離を置いている様だった。
それも重なって美智子から見て彼、堺信也という存在はとても大きな物になった。
いままで彼女自身や教師が何をやっても出来なかった事を、一瞬でやってのけたのだから。
美智子は彼に夢中になった。
いつも信也の事を考えるようになり、常に彼を目で追うようになった。
彼を目にする度に胸の高鳴りを覚え、彼と目が合う度に頬を紅潮させた。
そして、そうして信也を見ていると、どうやら彼の方も自分の事をよくみている事に気が付いた。
それだけでなく、向こうから何度か話しかけて来てくれた事もある。
勿論、嬉しくて仕方が無かった。
色々な事を話した。
彼の母親がドイツ人で、ドイツ語を読み書きできることや、
彼の所属する卓球部はまるで自由部同然なことなど、それこそ色々。
ただ、苛められなくなってから、美智子は少し元気になりすぎた。
一日中信也の事を考えてニヤ付いて、まるであんな事無かったかのように過ごしていた。
それがどうして、女子グループの癇に障らないというのだろうか。
平和はつかの間だった。苛めは目立たぬように姿を変えて、再び彼女を襲った。
美智子の生活は元に戻ってしまった。
クラス内の小さい事は信也には分からない。
彼にこの事を伝える事も考えたが、出来なかった。
信也に伝えるという事は、彼女達と真っ向から立ち向かうという事になる。
美智子はその後の報復を怖れた。
苛めはずっと続いた。
信也はその間、美智子にまた何度か話をしに来たが、それに気付くことは無かった。
そしてそんな彼に対して、美智子は徐々に苛立ちの様な物を覚えていった。
自分の事を見ると言ったのに、何も気付かない間抜けに思えてきた。
彼女はそんな感情を抱くたびに、自分を恥じた。
そんな折、彼女は偶然にも彼が友人と話しているのを聞いてしまう。
「しかし、堺もこうみえて姑息な奴だよな」
「もうよせよ、それは」
(何の話かしら)
彼らは冗談交じりに笑いながら、階段に座って話し込んでいた。
友人も居る事もあり、話しかけるのに気が引けた美智子は、
彼等の死角になるように身を潜めてそれを聞き入った。
「まさか自作自演で女を釣るとは」
(えっ)
「人聞きが悪い。虐め現場に遭遇したのは本当に偶然だぜ?」
「で、本当は無視していくはずだったが、苛められてた子が超美人と分かるが否や
少女漫画バリの活躍で彼女の心を鷲掴みってか?」
「まぁ、そんなとこだ」
「ハハハ! 熱すぎんだろ!」
「はは、まぁ何にせよ、俺にもやっと彼女出来そうだよ」
「虐め女共に感謝だな!」
「まあな」
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。彼らは笑いながら自分達の教室へ戻っていった。

◆◆◆◆◆

「霧島、俺と付き合ってくれ」
信也は最後まで何も気付かないまま告白した。
ついこの間までは、狂おしいほどまでに欲したその言葉。
しかし、今の美智子にとって、そんな物はどうでも良いものになっていた。
美智子は冷め切っていた。
その告白で美智子は全てを理解した。
あの日、自分を助けたのは善意でもなんでもない。
初めからこの為に恩を売るのが目的だったのだ、と。
それを思うと、彼という存在がとても小さな物に思えてきた。
確かに、助けてもらったのは事実だし、感謝もするべきだ。しかし、それ以上の感情は消えていた。
口を開く。
美智子にとって忘れられない瞬間。
後になって彼女は、この時の事をこう振り返っている。
《時計の針を戻す事が出来るなら、私は躊躇無く自分の舌を噛み切るに違いない》
「ごめんなさい」
彼女は言った。言ってしまった。
「あ……」
そんな声を漏らして彼は俯いた。何故、という表情。
彼女は全てを話した。目一杯の悪意を見せつける様に喋り、彼を口汚く罵った。
そして、話し終えると彼は重たい表情で一言、すまん、とだけ言って去っていった。
それが、2人の全てである。

2

 新学期の朝は晴天だった。
だが堺信也の気分としてはその逆で、長かった休みが明けて
今日からまた普段の日常に戻るかと思うと、やはり陰鬱な気分にならずにはいられなかった。
「いってきます」
信也はそれだけ言って家を出た。
夏が終わったといっても、その名残はまだ強く残っており、強い日差しがジリジリと街を照り付けている。
「よう、堺。どうだったよ? 高校生最後の夏休みは」
学校に近づいてきたところで、突然声を掛けられた。
振り向くと、信也と同じ学校の制服を着た男子生徒が此方に手を上げながら歩いて来る。
彼の友人である中島悠太(なかじま ゆうた)である。
「別に変わらないさ。そういうお前はどうなんだよ?」
「ふふん」
そう笑うと、中島は何か誇らしげに自分の携帯を信也の方にやった。
見ると、カップルらしき一組の男女がそこに写っている。
男の方が中島である。女の方は、ゴリラみたいな顔のギャルだった。
夢に出てきそうで、信也は寒気すら覚えた。
「お前、彼女が出来たのか。でも見ない顔だな」
「無理もないな。隣の県の娘だ」
「プチ遠距離恋愛か。高校生ならそう会えないだろうに」
「まあな。でも、だからこそ、会ってる時間が充実した物になるんだよな」
「セックスも激しくなるわけか」
「お前、おっさんみたいな事言うのな」
中島が呆れ顔をする。下ネタで滑るのは厳しいものがあった。
そのまま他愛も無い会話をするうちに、彼らは学校に到着した。
校門を抜けて玄関口でへ。そこで、中島がふと思い出したように言う。
「そうだ、知ってるか? 今度、転校生が来るらしいぜ?」
「俺達の学年にか? また季節外れだな」
「おう、それに何でも、そいつは外人らしい」
「珍しい事もあるもんだな。それで?」
「ん?」
「一番重要な所が抜けてるぜ。って、ああ、お前にはもう関係ないことだったか」
「ははは、すまんな」
そう言ってニヤッと嫌な笑いを浮かべる中島。いや羨ましくねえよ、と信也は内心で呟く。
「いや、俺も外人の転校生が来るとしか知らないんだ。来るのは一週間後くらいと思うけど、
まぁ、淡い期待を持ち給え、少年」
「んなご都合展開にゃならねえよ」
「いや、分からねえぞ? あの霧島美智子が霞むっくらいめちゃくそな美人が……て、どした?」
「いや……」
突然出てきたその名前に、信也は思わず滑舌悪く言葉を濁した。
霧島美智子。その名を聞くと嫌でも昔の事を思い出してしまう。
「おや、噂をすれば影だな。ご本人の登場だ」
「え?」
中島が顎で示す。その方を向くとなるほど、確かに彼女が前を通り過ぎるところだった。
雪の様に白い肌、長く上品な睫毛。そして、艶のある黒い長髪。
それが今、信也の目の前を流れて行き、その後でふっと上品な香りがした。
「……」
3年前と比べて、彼女は変わった。無口で大人しかった彼女は、中学から高校への進学を機に、
部活動に参加し、そこで交友を深め、少ないながらも友人に恵まれた。
今の彼女は自信に満ち溢れ、輝いていた。
精神的な余裕が垣間見えるようになり、前に比べて人並みに話すようになった。
しかし、信也に対する態度だけは他の者とは違う。勿論悪いほうの意味だ。
仕方ない、と彼は自責の念を抱いていた。自分の好き勝手で、彼女の心を弄んだのだから。

◆◆◆◆◆

 始業式が終わると、ホームルームの時間になる。
昼寝をするには丁度良い機会である。久しぶりの早起きが応えて、目蓋が重くなってゆく。
信也は器用に机に突っ伏して、早々に眠りについた。
しかし、それが仇となる。
目を覚ますと、前の席に居る中島。席は此処じゃないはずだが、と疑問に思い、
信也は頭を起き上げる。見ると、中島の他にも自由に席を外しているクラスメート達が目に付いた。
教室はざわざわとうるさい。
「終わったのか? HR」
「ああ、終わったな。委員会決めが」
「げげっ……!」
迂闊だった、と彼はひどく後悔した。
始業式の日のホームルームでは、学期ごとに委員会を決める事になっていた。
加えて、それを決めるのは挙手による早い者順。
それをすっかり忘れて寝ていた彼は、知らないうちに面倒の多い美化委員にされてしまっていた。
気の弱そうな者に交代を頼み込もうにも、もはや黒板に名前がしっかりと書かれているので手
遅れだった。
「では皆さん、2学期も宜しくお願いしますよ。あと早速で悪いですが、美化委員の2人は残って、
教室を掃除してから帰るように」
ぶつぶつ言ってる内にホームルームは終わり、担任もそれだけ言って、職員室に行ってしまった。
中島も一言よろしく言って帰って行った。勿論、手伝ったりはしない。
「まぁ、2人も居ればすぐに終わるだろ」
そこでようやく、彼はもう一人美化委員が居る事に気付く。半年間一緒に活動する者である。
あまり気を使わない仲の人間ならば良いが、と黒板に目を向ける。
「あ……」
そういった意味では最悪の相手だった。
黒板に張り出された表。それの美化委員の欄に書かれた2人の名前。1人は間違いなく堺信也。
そしてもう1人の名前、忘れもしない彼女、霧島美智子の名前。
何もおかしくは無い。彼女はこのクラスの一員なのだから。
ただ、信也自身が、こんな事は起こらないと何の根拠も無く決め付けていたのだ。
どうしよう。彼はひどく戸惑っていた。彼女と会話できない、どんな顔して喋れば良いんだ、と。
「堺君」
声がした。凛として、よく通る声。
はっとして振り向くと、やはり彼女、霧島美智子がそこに居た。
普段、他の者に見せている様な明るい表情は今はない。
冷めたような表情の内に、僅かだが拒絶の様なものを信也は感じとっていた。
だがその表情にしてなお、彼女は美しかった。彼女のどんな表情でも、彼の眼には綺麗に写った。
そう、彼女は綺麗だ。彼女に近づくとそれだけで、
信也は普段の自分では居られないようになるほどに。
(俺は、まだ未練があるのか……?)
仮にそうだとすると、信也にとっては辛いものがあった。
3年前のあの日。美智子は彼のした事を善意の押し付けと言った。
彼女を助けたのは、彼女を物にする為だったのだと。それは惑うことなき事実だった。
言い訳をする気は起こらなかった。
それ以上に、後の虐めに気付いてやれなかった事も含め、
自分が不甲斐なくて仕方が無かったのである。
「堺君聞いてる?」
「ああ、すまん。早く終わらせようぜ」
「ええ」
2人はそれだけ言うと、黙って掃除を始めた。
広い教室の中で、塵取りと箒を掃く音だけが小さく響く。
「その、久しぶりだな」
思い切って、彼は声をかけた。
「ええ」
彼女も返してきた。
「あの時の事は」
「あのときは」
美智子が信也の言葉を途中で遮る。
「そのときの感情だけで貴方を悪者扱いした、ごめんなさい」
そう言うと、彼女は、すっと丁寧に頭を下げた。
嫌味かとさえ思った。
「やめろ」
「理由はどうであろうと、助けてくれたのは本当の事だから」
「なら何で、今でも俺を拒絶するんだ」
口で何を言おうと、彼女の目や気配はやはり彼を否定していた。その事をどうとは思わない。
ただ、彼女に嘘をついて欲しくなかった。自分などの為に、つかせたくなかった。
「なにを言って」
美智子は若干眉を顰め、その表情は不快気なものに変わる。
そして何かを言いかけたとき、チャイムが鳴った。部活動の開始を告げるものである。
彼女は言うのをやめ、部活があると教室から出て行った。
誰もいない教室で立ち尽くす。
一人教室に残されていてもしょうがない。信也も帰る準備をする事にした。
それにしても、我ながら馬鹿な事を聞くもんだ、と彼は思う。
答えは自分自身が、よく知っているというのに。

3

 2学期二日目。
夏休みの間染み付いた習慣は、一日程度ではそうそう直らない。
信也は重い体に鞭を撃って学校へ向かった。
朝でもまだまだ暑い。日光を一心に受けたアスファルトが、高熱を発していた。
登校途中、ふと美智子の事を思い出した。
勿論、寄りを戻したいなんて事は考えていない。出来るならそうしたいが、現実的でない。
彼が考えていたのはもっと些細なことだった。
霧島に会いたくない。それが本音だった。
「どうしたもんかな」
「何が?」
信也の漏らした独り言に中島が返してきた。
話題は、この中島とゴリラ女とのラブコメ話くらいしかない。
ここは一つ、暇つぶしもかねて、話の種にしてみる事にした。
「実はな。美化委員、霧島とだったんだよ」
「何か不満でもあるのか? 結構な美人じゃないか。ま、俺の五里(いつり)に比べたら劣るけどな」
因みに五里とは、中島の彼女の名前である。ゴリラのような図体をした女が頭に浮かんだ。
信也は何かがこみ上げてくる感覚を覚えつつも、何とかそれを流す事に成功した。
「容姿の話じゃない、性格の話。どうも二人きりで掃除って気まずくてよ」
「ああ、友達以外とは基本無口だしな。けどよ、その分仲良くなれば、
こっちのもんだと思わないか?」
無茶を言う。信也は適当に否定する事にした。
「馬鹿。あんな根暗と付き合ってられるかよ」
心にも無いことを言う。
「だいいち、顔からして俺の好みじゃないね」
「お、おい」
信也の言葉を遮って、肩を叩いてくる中島。
見るとばつの悪そうな顔をして、目で『後ろを見ろ』と知らせていた。
嫌な予感が頭を過ぎた。
恐る恐るといった風に後ろを見ると、やはり美智子が静かに此方を睨んでいた。
彼が言い訳をする間もなく、彼女は「……そう」とだけ応えて、早足で行ってしまった。
最悪だった。

◆◆◆◆◆

 昼休み。
おなじみの音色が鳴って、校内放送が流れる。
《えー、本日13時、生徒会室にて美化委員の会議を行います。
美化委員の生徒は遅れないように集まること》
間違いない、今日は厄日だ。信也はそう確信する。
だが、無視する訳にもいかなかった。自分がサボれば、美智子に負担がかかるからだ。
信也はそう思って、美智子に声をかけようとするが、教室を見回してみても彼女はいない。
いつも教室で弁当を食っていたにも拘らずである。
信也は気になって、いつも彼女と一緒に居る娘に尋ねてみた。
「霧島はどこに居るか知ってる?」
「美化委員ね。霧島さんなら、もう既に生徒会室に向かったわよ」
信也はその娘に軽く礼を言って生徒会室に向かった。
因みに、2人は同じ教室に居た。ちょっと声をかければ済む事だ。
どうにも避けられている感は否めなかった。
今朝の事もあるのかもしれない。避けられているなら、無理に付き纏う事もない。
だが、美化委員の仕事は大変だと聞いたので、彼は一応行くだけ行ってみる事にした。
「遅れてすいません」
ガラッとドアを開けた途端、その教室に居たほぼ全員が信也の方を見た。
先生の苛立った声にひたすら謝りながら、霧島の横の席に着く。
「わざわざ根暗の所に来なくてよかったのに」
「そ、そのな。その誤解を解くには冷静に」
「別に、どうでもいいわよ。関係ないもの」
結局その日。会議の間、そして掃除の時間においても、2人は無言だった。

 人間の人生というのは、努力の積み重ねだと言う。
人生の価値はその者の努力した分だけの価値がある、と。
しかしその実、人間、いや人間に限らず全ての生き物は、
皮肉にも努力とは逆である偶然の積み重ねで成り立っているとも言える。
人間がいくら努力したとしても、偶然というある意味で圧倒的な力の前では、無力なのだ。
人間は、偶然というモノの手のひらの上で踊っているに過ぎない。
例えば、出かけてくると言ったのが災いして、母に買い物を頼まれる。
不運だと思いながら買い物を終えると、ガラガラ券が配られ、回してみると三等賞。
思わぬ幸運だと思った矢先、差し出されたのは女物のカシューシャ。
上等のものらしいが、男からすればどうでも良い。
これが、偶然に弄ばれた今日の彼。カチューシャは母親への土産にする事にした。
「それにしても畜生、ぬか喜びさせやがって。商店街の連中め」
ぶつぶつと言いながら、夕暮れに染まる街を歩く。どこか懐かしい感じのする光景。
彼はいつしか美智子のことを考えていた。
あの助けた日もこんな夕暮れだった。
この数日、彼らはずっと無言だった。だがこれも仕方が無い事。
寧ろ、これが俺たちのあるべき形なのかもしれない。信也はそう考えるようになっていた。
物思いにふけてふと気付けば、あまり人気のないところを歩いていた。
ゲーセンや居酒屋が並んでいる地域。不良の溜まり場である。
遊びたい気分でもあるが、買い物袋片手に1人でっていう状態では流石に無理だった。
「さっさと帰るか……おや?」
ふと見ると、道端で不良に絡まれている女子が居る。
制服を見るに、どうやら信也と同じ学校の生徒のようだ。
いや、彼は制服を見る前に、その女子がそうだと分かっていた。
何せその女子は、今まで彼の頭を支配していた彼女なのだから。
「……」
助ける理由もないし、向こうもそれを望んでいるか分からない。
全く無意味な事だ。それだというのに、信也は彼女を助けようと思った。
「まったく、何がしたいんだよ俺は」

◆◆◆◆◆

 下校時。
物思いにふけていて、うっかり道を間違え、美智子はいかにもガラの悪そうな通りを歩いていた。
いつもなら目を合わせない様にとビクビクする所だが、今の彼女は無関心だった。
今彼女の頭を占めていたのは、堺信也という1人の男子。
彼との委員会が決まって数日。
最初の2日以降、彼から美智子に話しかけてくるという事は無かった。
話したのは最初の2日だけで、それも一言二言のみ。会話ともいえないものだった。
しかし、ただ一言《何で、今でも俺を拒絶するんだ》この言葉が美智子の胸の中に残っていた。
彼の事を今でも恨んでいるわけではない。
あの時は確かに彼の全てを拒絶した。だが、時が経った今では落ち着いて考えられるようになった。
彼が悪いわけじゃない。頭では分かっている。
だが、あのような別れから3年間、しかも殆ど一切口を利かずに来たのだ。
いまさら此方から話しかけるような勇気は、彼女は持ちあわせていなかった。
美智子は彼を拒絶している訳ではない。ただ、何を喋ったら良いのか分からなくて、
気まずくて、話しかけられないでいるのだ。
何を話して良いか分からず、彼との会話を恐れて冷たい態度を取ってしまう。
それに、中島と話していた事もある。《あんな根暗と付き合ってられるかよ》とまで言われていた。
(あの時は必死に告白してきたくせに……!)
そういう風に思われていたと知った今、彼との距離は遠のく一方だった。
「よう、女子高生。彼と喧嘩か?」
「え?」
ふと、声を掛けられた。
見ると、美智子の横で1人の男が並んで歩いていた。考え事をしていて気付かなかったのだろう。
「違います。……それじゃ」
「待てよ。ちょっと付き合わない?」
前を塞がれて、立ち止まらざる負えなくなる。
美智子はどうにも、こういうタイプは苦手だった。
「ごめんなさい」
「まぁまぁ、そう言わずに。な?」
強い力で腕を引っ張られる。何処かに連れ込むつもりらしい。
美智子は必死に手を離そうとするが、男の手はびくともしなかった。
腕の力だけで、逃げようとする彼女を、苦もなくまるで犬みたいに引っ張っていく。
力で女が男に勝てるなんていうのは、漫画やゲームの世界だけだと改めて、
それこそ十分すぎるほど実感した。
「や、やめて。助けて誰か」
少し涙目になっているらしく、声もうまく出せない。
無論、そんな声では人に届くわけも無く、通行人は素通りである。
(ああ、もうダメだ)
彼女は少しでも恐怖から逃れる為に、目を瞑る事しかできなかった。
前にもこんな事があった。思えば、あの時もこんな夕暮れだった。
そして、そう。あの時だ、彼女が信也と出会ったのは。
美智子の脳裏に信也の姿が浮かんでくる。
彼女を助けてくれた彼。彼女を慕ってくれた彼。彼女が好きだった彼。
その彼が目の前に居る。
「さ、堺君!?」
妄想ではない、本物の堺信也。
彼はあの時と同じ表情をして、そこに立っていた。
「なにお前?」
男は信也を見るなり、美智子に向けていたモノとは全く違う顔を、彼に向けた。
そして、邪魔だといわんばかりに美智子を強く振り放した。
バランスを失った彼女は地面に倒れた。
その拍子に、つけていたピン留めが外れて溝に落ちてしまった。
「随分と御粗末なナンパだな、おい」
「あ?」
「失敗したらさっさと退散するのが、ナンパのセオリーだって言ってるんだ」
言っている言葉は軽口だが、怒気の篭った口調で信也は言う。
にらみ合う2人。やがて、まるで睨めっこでもしていたかのように、男の方がブッと噴出した。
「そんな臭い台詞言う奴、始めてみたよ。笑わしてもらったからもういい、その女は譲ってやるよ」
男はそう言って、ぶらぶら歩いて行ってしまった。どうやら酔っていたようだ。
人気のない通りに残されたのは2人だけ。美智子はこれで2度も彼に助けられてしまった。
まずはすぐに礼を言った。
「あ、ありがとう。本当に」
「ああ、いいよ別に。体は大丈夫か?」
「何ともないみたい」
信也はあくまであっけらかんとした様子だった。
助けてくれたことは本当に感謝するべきだ。しかし、1つ気になるところがあった。
「でもどうして、私を助けてくれたの、堺君。もう私を助ける事なんか」
(そうよ。彼にとって私なんかもう……なのにどうして)
今の2人の関係を考えると、特にそう思わずには居られなかった。
色々な考えを巡らせながら、美智子は彼の答えを待った。
「堺? 誰だそいつ?」
予想していなかった答えだった。今、目の前に居るのは確かに堺信也だ。
不意を突かれた様にポカンとしていると、
彼は今度はカバンの中から何かを取り出して彼女に差し出した。
「やるよ、髪型が崩れてる。いや気にするな、ガラガラの景品だ」
彼は、シンプルなカチューシャを彼女の頭につけて、髪を整えた。
美智子はそんな彼に完全に飲み込まれて、されるがままになっていた。それに悪い気もしなかった。
「あ、ありがとう」
「別にいいよ。じゃあな」
彼はそれだけ言うと、赤い夕日の中へ消えていった。
1人残された彼女。ふと、横の店の硝子ケースを見ると、
そこに3年前の霧島美智子が写っていた。

◆◆◆◆◆

 次の日。信也はいつも通り、中島と適当な話をして学校に向かっていた。
ふと、中島が何かに気付いて彼に合図してくる。
「おい、霧島だぞ」
此方が振り向くまでも無く、彼女は信也を追い越すところだった。
「それにしても、愛想のない女だなぁ」
「……ああ、そうだな」
彼女は特に何も変わらない。
ただ、1つだけ変化があったとすれば、そう。
彼女の頭に、あのカチューシャが付けられていた事くらいだった。

4

 夏の名残は、美智子を強く照らしていた。
彼女の信也に対する嫌悪感は、既に無い。当初あれほどに嫌悪していた掃除の時間も、
今となっては楽しみですらある。
美智子は彼を誤解していた事に気が付いた。
あの時は裏切られた様な気持ちになった事も、今考えれば、可愛いものだった様に思える。
その事に気付かずに3年も過していた事を後悔してもいたが、
それでも美智子の心は晴れやかだった。普段ならば若干憂鬱になる土曜日の部活も、
今日は心なしか足が軽い。
彼女は学校に着くと、すぐに着替えと日焼け止めを済ましてコートに上がった。
「霧島さん。今日はサーブが良い所に入るじゃない。その調子よ」
「ええ、ありがと」
自分のペアである加田俊子(かだ としこ)の言葉に返事をする。
彼女は美智子の最初に出来た友人であり、テニス部に誘った本人である。
その明るい性格が幸いし、彼女を通して当時極度の人見知りだった美智子にも
自然と友人が出来るようになった。
俊子が居なければ、今の美智子も無かったかもしれない。そういった意味で、
彼女は敏子に感謝していた。俊子がいたから、家族以上に分かり合えるような
友人達を持つことが出来たのである。
「皆も力をつけてきたし、秋大会はいい所までいけるかも」
「そうね。頑張らないと」
友人達の居るこの狭いコートが、美智子の最も心休まる場所だった。
部活は昼頃には終わった。
練習で重たくなった足を引き摺っての帰宅途中、家に帰ったら何をするかと考えていた
美智子の目に、ふと古本屋の看板が映る。今読んでいる本はもうすぐ読み終える所なので
丁度良いと、彼女はその店に入った。
そして店に入った途端、美智子は面食らった。
「あっ」
「ん? おう、偶然だな」
堺信也は、漫画コーナーで単行本を立ち読みしている最中だった。
彼が居た事にも驚いたが、それ以上に偶然出会っただけにも拘らず、
こんなにもうろたえる自分に驚いた。
完全に不意を突かれた美智子は、何とか動揺を隠そうと懸命に努めた。
店内が狭いという事もあり、目を逸らしにくい。何かを話さなければならない気がしてならなかった。
「本当ね。ところで堺君、何を読んでるの?」
「これか? 表紙みれば分かるだろ。ドラゴンボールだよ」
「そ、そうよね」
信也とは、以前と比べるとよく話すようになった。
しかしまだどこか話しづらく、会話はぎこちない。
「お前はどんな本を読むんだよ?」
「推理小説とか、最近」
「クイーンとか?」
「そのうちに。今はD坂の殺人事件を読んでいるの」
「ああ、乱歩か。でも推理小説ならやっぱり海外だろ」
「いえ、そんな事ないわ。私はどちらかというと日本の方が好き」
「うーん、まあ、人によって感じ方が違うのが小説だからな」
始めこそ取り乱した美智子だが、好きな話題のおかげで幾らか緊張は薄れ、
会話もそれなりに弾んでいった。
2人は一緒に店を出た。話す事は一通り話し、会話はぽつぽつといった風である。
それでも美智子にとっては、普段と比べて信也とよく喋る事ができ満足だった。
そして帰り際、彼から声を掛けられる。
「霧島」
「なに?」
「いや、その、よかったよ。あのまま終わらなくてさ」
「なんか、ごめんなさい今まで」
「なんで謝るんだよ。俺はお前を……っ」
信也はそれ以上何も言わなかった。そして美智子も同じ様にした。彼を楽にしてやりたかったのだ。
そのうち信也が切り出した。
「……また明日」
「明日は日曜よ」
「また明後日」
「ええ、また明後日」
そうして2人は別れた。 
美智子は今日一日を過ごして理解した。彼が好きだという事に。
2人の会話はまだぎこちなく、気まずさが残る。だが、そのかわりに2人には時間がある。
焦る事なんて無い、3年の空白は少しづつ埋めていこう。美智子はそう決意した。
明後日で、丁度1週間。
彼と話すようになって1週間が経とうとしていた。

◆◆◆◆◆

 学校が再開して一週間が経とうとしていた。
週末の授業も終わり、明日から始まる連休を前にすると、
面倒な美化委員の仕事をしていても気が楽だった。
いや、それだけではない。今まででは考えられなかった事だが、驚く事に信也は、
美智子と話をするようになっていた。お喋りとまではいかないレベルのやりとりだが、
それでも、口も利かなかった頃に比べると大きな変化だった。
「霧島。塵取、持ってて」
「ええ」
一見何の意味も無い事務的なやりとりだが、信也にはこれで十分だった。
彼は恐れていた。
数日前、偶然不良に絡まれている美智子を助けた。
今、彼女が取っているこの態度は、それに対する後ろめたさがあるのではないか。
自分は無意識にそれを強要してはいないか、と。
あのとき美智子は、何故助けたのかと信也に尋ねた。
それに対して彼は、自分は堺ではないと答えた。
少なくともこれは、善意の押し付けなどではないと、彼女に伝えたかった。
真意は、過去における自責の念、申し訳なさ。
信也が最も恐れるのは、過去を繰り返し、彼女を再び傷つける事だった。
だから彼は、これ以上は求めない。
だから2人は、これ以上進めない。
「ドイツ人だと」
連休跨いで月曜日の朝。中島の話を聞いた信也はそう聞き返した。
「ああ。間違いないね。そういやお前はあそこの言葉を喋れたな」
「会話だけなら一応な。読み書きは出来ねえぞ」
信也は確かに純粋な日本人だが、世界各国の中で、
ドイツという国には特別な思いいれがあった。母がドイツ人なのだ。
父が仕事でベルリンに行ったときに、母と知り合いそこで恋に落ちた。
短い期間で2人は愛を深め合い、彼を産んだのである。
彼は5歳までをドイツで暮らし、それから日本に移り住んだ。
2年に1回は母方の実家にも帰る。今となっては完全に日本人だが、
その事情で彼はドイツ語を喋る事ができる。
「たぶんお前、グループとかそいつと組むことになるぜ」
「男だったら悲惨だな」
「いや男ならまだいいさ、良い友達になれるかもしれないしな。一番いけないのはブサイクな女だよ」
話している内に先生が来た。
「みなさん。新しい仲間を紹介します。
ドイツから来たルイーゼ・バルト(Luise=Barth)さんです。
お父さんの仕事で年末までの間、日本に滞在するそうです」
信也が彼女を見て最初に思ったことは、ブサイクでなくてよかったというものだった。
彼女の顔は可でもなく不可でもなく、平凡。
頬には幾つかのソバカスがあるが、逆にそれが似合っており悪印象は受けない。
金髪の髪をポニーテールにして括っており、可憐というよりは活発そうに感じた。
「えー、では自己紹介を」
「はい。先生」
彼女はぎこちない日本語で答えた。
「父の仕事の都合で今学期の間しか滞在しませんが、宜しくお願いします」
「ルイーゼさん、そこの堺君はドイツ語が話せるんです。
グループなどを作るときはなるべく彼に付くように」
「はい」
「いいですね? 堺君」
「はいよ」
彼が了承すると、ルイーゼはその隣の席まで来て座り、隣の彼に微笑みかけた。
その微笑が何とも可愛らしく、彼は思わず目を泳がせてしまった。
「よろしくね、サカイ。えーと名前は?」
「あ、ああ信也だ。シンヤ」
「シンヤ、シン。こっちの方がすき。よろしくね、シン」
「こっちこそ、とりあえず校内を案内しようか」
彼女は特に美人ではなかった。だが信也は、その奥にある魅力を垣間見た様な気がした。

5

「何読んでんだ?」
午後の休み時間。信也はルイーゼに声を掛けた。
校庭の隅、木々の陰にひっそりとあるベンチで、彼女は静かに読書をしていた。
名画を再現したかのようなその風景は、声を掛ける事さえ躊躇われるほどである。
彼女の容姿はヨーロッパ圏の女性にしては平凡だったが、
その表情や仕草には何とも表現し難い魅力があった。
信也はルイーゼの横に座って、彼女の表情に見惚れた。
「椿姫よ」
彼女はそれだけ答えて、読んでいた本の表紙をスッとこちらに見せた。
信也はドイツ語を話せるだけで読む事は出来ないが、その題名には聞き覚えがあった。
「アルフレッドと、ヴィオレッタの?」
「それはオペラの方ね。小説では、アルマンとマルグリッドよ」
「恋愛小説が好きなのか?」
「ええ、とっても。人が一番美しくなる時って、恋をしている時じゃないかしら」
「ぶっ!」
いまどき映画でも言わないような台詞に、信也は思わず噴出してしまった。
「ちょっとシン、どうして笑うの?」
「いや、悪い悪い」
「ふふ、もうっ」
ルイーゼはその顔を赤く膨らましたかと思えば、今度は手で口を抑えて笑った。
表情が豊かで、可愛いらしい娘だった。
信也は彼女の表情を見るたびに、自分の胸の高鳴りを強く感じた。
出会ってまだ数日しか経っていないにも拘らず、彼女に対してほのかな恋心を抱いていたのである。
それに、美智子から離れる良い機会になると彼は考えていた。信也は鈍感ではない。
美智子が自分に対して好意を持っている事を薄々感じ取っていた。
それでも離れようとするのは、なにも彼女を嫌っているわけではない。
寧ろ、まだ過去の想いを捨てきれないで居るくらいである。
しかし、美智子と付き合うわけには行かなかった。彼の罪の意識がそれを許そうとしなかったのだ。
彼は美智子の事を振り払うかのように、街にルイーゼを連れて様々な遊びを教えた。
ボーリング、カラオケ、ビリヤードにゲーセン、それに校則では禁じられているような事もした。
いけない事だからこそ、やりたいというのは、馬鹿だろうか。恐らく馬鹿な事だろう。
しかし、馬鹿でも良かった。それ以上に彼女との時間が楽しかったからである。
まだ若い2人は、善悪も見極めずに遊び回った。
勿論、ルイーゼのコミュニケーションの相手が信也だけというわけではない。
中島をはじめとする彼の悪友達とも、彼女は交友関係を築いていった。
彼女はその外見に反して様々な経験を持っており、それはたびたび信也を驚かせた。
例えば、彼の不良仲間、中身はただの馬鹿だが、外見が外見なので普通は怯えられるのだが、
彼らを前にしても全く平気に接していたという事。
こいつらが怖くないのかと信也が聞くと、彼女は首をかしげて、
別に普通、日本の人は何故彼らを怖がっているのと不思議そうに言った。
なんでも、タイや中国なんかではマフィアがゴロゴロ居るらしい。動じない筈だった。
意外に彼らは気が合うようである。
もう1つ驚かされたのは、彼女のテニスの腕前である。先日遊びでの試合をし、
信也は完膚なきまでに打ち負かされた。聞けば、彼女はドイツの大会で結構良い成績を収めていた
実力者であるという。勝てるわけがなかった。
このような事が毎日続いていた。勿論、楽しくて仕方が無かった。
この日も、信也は放課後にルイーゼを連れて、ボーリング場へ遊びに行く事になっていた。
周囲に一軒しかない為、レーンはすぐに埋まってしまう。授業が終わってすぐに向かわなければ、
確保できないのである。そのため、放課後に掃除などをする時間は無く、
彼は同じ美化委員である美智子に断りを入れなければならなかった。
「駄目よ」
「何でだよ。今日頼む代わりに明日明後日こっちでやるからさ」
だがこの様に難航していた。特に今日の美智子は妙に頑固で、聞く耳持たぬという風だった。
「部活はどうするのよ?」
「サボるに決まってるだろ。何のために卓球に入ったと思ってるんだ」
「私だって、用事あるもの」
「なら、これで終わった事にしてサボろうぜ。文句言われたら俺の所為って事で良い」
「で、でも」
それでも彼女は首を縦には振ろうとしなかった。
このままでは水掛け論である。信也はボーリングを諦めて、ついに折れる事にした。
「ごめんなルイーゼ。今日は無理だわ」
「良いのよ別に。霧島さんも、無理言ってごめんね」
「……」
それからルイーゼは自分も手伝うと言った。断る理由も無く効率も良いので、
掃除は3人で行われた。
それまでボーリングの予定の事を考えていた信也だったが、途中トイレに行った時にふと、
美智子の様子が気になった。彼女は何故あそこまで食い下がるまいとしたのか。
しかし杞憂だろうと、そこで考えをやめた。

◆◆◆◆◆

 美智子は自室に入ると、大きなため息を漏らし、倒れるようにしてベッドに身を投げ出した。
その表情に明るさは無く、代わりに曇ったものがある。彼女の脳裏にはここ数日の出来事が
繰り返されていた。ドイツから来たルイーゼ。そして彼女と接する信也。
嫉妬の感情はすぐには現れなかった。
彼女の外見はそばかすだらけで、美人とはいえない。
美智子は、容姿では自分の方が勝っている事を自負していた。
過去に信也からの告白を受けている事もその自信の内に含まれている。
それに加え、ルイーゼが日本に滞在する期間は僅かである。
2人が恋愛関係になるなどとは思っていない。
ただ、悔しかった。
出会ったばかりにも拘らず、地元の話で親しげに話すルイーゼと、未だに会話がぎこちない
自分とをどうしても比べてしまう。そんな妙な劣等感を抱かずにはいられなかった。
美智子は小説を取り出して、逃げるように読み始めた。信也に勧めてもらった
クイーンの国名シリーズ『ローマ帽子の謎』である。
しかし、読んでいるうちにどこからか入ってきた小さな羽虫が、活字の上に止まり
その上を歩き回る。彼女はそれを払う訳でもなく、なんとなく見つめていた。
本の内容など頭に入っていなかった。
「……はぁ」
小さなため息をついて、最近の出来事を思い返す。
何もかも、突然だった。
信也はルイーゼと仲良くするばかりで、美智子に対して何ら感情を見せなくなった。
毎日掃除はあるので顔は合わせるのだが、そこでも心此処にあらずといった風である。
彼は残酷なまでに純粋だった。
ルイーゼと話す時に覗かせる、まだ知らぬ彼の表情を横目で見るたびに、美智子は胸を焼かれた。
彼の感情をルイーゼに奪われたかのようだった。
先日の自信は、徐々に脆さを表しつつある。
美智子の危機感は日に日に募っていった。嫌悪や焦燥が入り混じり、ひどく気分が悪かった。
今日、信也の提案を拒んだのは、それに耐えられなくなったからである。咄嗟の行動だった。
彼との唯一の接点である放課後の時間。
それさえも奪われては後はないと、本能で感じたからである。本当は用事など無かった。
美智子は自分から信也を奪うルイーゼを恐れた。しかし、同時に憎む様にもなった。
また、容姿の面で勝っている事が、逆に美智子のプライドを傷つけこれもルイーゼへの
憎しみへと変わっていった。
「彼に付き纏わないで」
今日の掃除の時間。信也がトイレに行ったのを見計らい、美智子はそうルイーゼに切り出した。
彼女は始めこそ面食らったようだったが、それからはいつになく真剣な表情を見せた。
「貴方、シンの事が好きなの?」
馴れ馴れしく彼の名を口にするルイーゼに、一層の嫌悪感を覚えながらも、
それを呑み込んで彼女は言った。
「貴方に振り回されてる彼が可哀想だから言ってるの。私達は就職や進学で大事な時期なの。
彼の邪魔をしないで」
「英語なら、私が教えてあげられるけど?」
「……!」
ピクリと、美智子は眉をひそめた。意図しての発言だろうか。
彼女を逆撫でするような事を言うルイーゼ。それに耐えられず、
美智子は感情を表に出してしまう。言葉こそ出さないが、ルイーゼはそれを見逃さなかった。
「やっぱり、好きなんじゃない」
「う……うるさい」
「そんなに好きなら、どうして今まで行動しなかったの?
彼には一生女が寄り付かないとでも思ってたの?」
美智子は何も言い返すことは出来なかった。
まして、彼を振って、そのうえ3年も冷たく接していた事など、言えるわけが無かった。
彼女が口に出来るのは、何の意味も持たない問いだけだった。
「……彼をどうするつもりなの?」
「私、彼の事気に入ったの。……何をするか、分かるでしょ?」
返す言葉が見つからない。美智子は何も言えずに押し黙ってしまった。
そのあとで信也はすぐに戻ってきた。
「はぁ……」
ため息とともに現実に戻る。
ルイーゼが来た事で、信也は急激に変わってしまった。
美智子の体は不安でたまらなくなって、震え始めた。
苦しくて、胸が押しつぶされそうになり吐き気がする。
ルイーゼが来てまだたったの数日しか経っていない。
にも拘らず、彼女と信也は既に旧知の仲の様である。
それに比べ、前から知り合いであるはずの自分は、まだ碌に話す事すらできない。
何時の間にか噛み締めていた爪が、ガリッと割れた。
悔しい。そう、悔しい。悔しくて仕方が無い。
「せっかくこれから……これから、だったのに」
徐々に分かり合えるようになってきたと思っていた。だが、今の彼は美智子の事を見向きもしない。
「どうしたらいいの……?」
答えは返ってこない。

◆◆◆◆◆

「卓球部?」
昼休み。弁当をかっ食らうルイーゼは、信也の突然の提案に目を丸くしてそう言い返した。
「そ、この学校は必ず何かしらの部活に所属しなきゃいけないんだ。
でも、この時期からそんなもの真剣にやるつもりないだろ?」
「まぁ、ね。私は数ヶ月しか日本にいないし、滞在の期間が長引くとしても、もう卒業だしね」
「だろ? そこで卓球部の出番ってわけさ。ここは部活とは名ばかりで、
真面目に卓球なんてやる奴はいない。要は、やる気ない奴用の自由部」
「そういうのって、やっぱり卓球部なんだ」
ルイーゼは思わず苦笑いを浮かべた。だが彼女自身も、信也に近い思考回路を
持ち合わせた人間である。そうでなければ、一緒に遊んだりはしない。
雑談交じえながら、信也の提案を気軽に了承した。
「ありがとう。あ、卓球部には中島も居るから」
「それは、なんとなく予想が付いてたわ」
「……ルイーゼちゃんよ、それどういう意味?」
噂をすれば影とはこの事を言うのだろう。2人の会話を聞きつけて、中島本人が話に入ってきた。
「そういやお前、彼女はどうしたんだよ。最近話効かないけど」
「この外道。察しろ」
しまった、と信也は後悔した。
中島は突然ボロボロと泣き始めたからだ。何があったかは一目瞭然だった。失恋である。
振られたのだ、あの彼女に。
「うぅ。なんで、なんでなんだよゴリィィ」
「ゴ、ゴリ? まさかお前」
あれに向かってそう言ったのでは。可能性を否定しながらも、念のために尋ねると、
中島は軽く首を縦に振った。
そんな彼と見て、信也は絶句せざる負えなかった。
「いやなんか、スラダンに出てくるゴリに似てたから」
(あ、アホだこいつーー! あれは男だから良いんだぞ)
「なぁ、俺の何がいけなかったんだ。ケチ臭いて言われないように、月のバイト代の殆どを
デート代やプレゼントに回したのに……。やっぱり、金じゃ人の心は動いてくれないのか!」
あまりに不憫な彼に、友人として信也が出来る事は励ましの言葉を掛けてやることくらいだった。

◆◆◆◆◆

 夏休みが過ぎてから幾からの日が経ち、夏の暑さはその鳴りを潜めつつある。
暑くも寒くも無く、過し易い秋の日が続いた。
ルイーゼは、信也の提案通り卓球部に入部し、その中でも既に交友関係を広めている。
持ち前の明るさからか、彼女の人との付き合いの上手さは、度々信也を感心させた。
しかし、彼は1つ引っかかる物を感じていた。それは、いくら仲が良くなっても、
それ以上の関係にはならない事である。クラス、部活、自分の友人達、誰とでも楽し気に話し合う。
だがそれはあくまで話し相手としてであり、それ以上親しくなる事はなかった。自分を除いて。
信也はそれがどうしても気になり、ルイーゼに尋ねた。すると、彼女は微笑んで答えた。
「私は人が好きなの」
信也は返さず、相槌をうって次の言葉を待った。
「人との触れ合いが好き。本当は、皆ともずっと仲良くやっていきたいの。
けど父さんの仕事は忙しくて、またすぐに別の国へ行かなきゃならない。
仲が良すぎると、別れる時つらいから」
「そうか、やっぱりそういうもんだよな」
少し考えてみれば分かる事だった。彼は自分の軽率な問いを後悔して、
そっと隣に座るルイーゼの表情を伺う。だが、彼女のそれは少しも曇っていなかった。
でも、と彼女は続ける。
「それで何もしないかというと、それも違うの。折角異国の地にまで来たんですもの。
ずっとホテルの部屋に篭ってる生活は耐えられない。何処かに行くたびに私は外に出たわ」
「道理で、落ち着きが無い訳だ」
「そっ、私落ち着きのない女なの。ヨーロッパの街を歩き回った。トマト合戦をした事もあるし、
インドの川に入った事もあるわ」
自分の過去や思い出を話すルイーゼ。だがそれは何れも、孤独なものだった。
各国の祭りや行事に参加することで、人と触れ合ってはいる。
しかし、その対象はあくまで知らない他人であり、彼女は親しい友というものを、
得る事は出来なかったのである。
執拗に人を求めるのは、孤独に対する彼女なりの抵抗だった。
「ルイーゼ」
「何?」
「日本に来るたび、顔見せろ」
「……うん!」
簡単な事だったのである。別れがつらいなら、また会えば良いのだ。
そして、それは信也の願望でもあった。
「けどよ、他の連中はともかく、俺には随分と近づいてねえか?」
「ん、まぁ良いじゃない。1人くらい」
ルイーゼは少し言葉を詰まらせながら答え、所無さげに目を逸らした。
以降彼女との時間が更に増え、他愛も無い会話を沢山した。だが、それでも話題は尽きなかった。

◆◆◆◆◆

 ボールを打つ返すラケットの音が、木霊している。
それに加え、公式戦が間近に迫っている事もあり、何時もより掛け声がコート内によく響いていた。
美智子はその努力が認められ、選抜メンバーに選ばれる事になった。
そして、選ばれたからには勝たなければならない。彼女は今、猛特訓の最中にある。
試合が近くなるにつれ、技術面は勿論、身体面にも気を遣わなければならない。
これはどのスポーツにおいても同様で、体調を崩したばかりに実力を出せずに涙を流すケースも
少なくない。その点、彼女の体は健康そのものであった。ただし、それはあくまで体の事であり、
精神においては良好とは言えなかった。
「霧島さん。あとサーブレシーブ10本やったら少し休みましょ」
「ええ、分かったわ」
俊子の声に返事をして、美智子はサーブのモーションに入る。
ボールを軽く手で弄び、ラケットを握りなおす。
そして、いざ打とうする刹那。偶然にも他の部員の会話が彼女の耳に入った。
「堺の話聞いた?」
「うん。あのドイツの娘と付き合ってるんでしょ?」
それだけで美智子は集中力を乱されてしまう。ボールは見事ネットに引っかかった。
「しっかりね」
「ごめん。次行くね」
気を取り直して、再びサーブ。先程と同じ動作を繰り返し、ボールを打つ。
今度はしっかりと入った。俊子もすかさずレシーブを返し、そのままストロークをすることになる。
だがその間にも、会話は美智子を揺さぶり続けていた。
「まぁ、そうでしょうね。あのバカップルぶりは」
(……うるさい)
呼吸が乱れる。
「毎日一緒に帰ってるし」
(うるさい)
集中できない。
「まぁ、お似合いじゃない?」
(うるさい!)
パシュ、という音がして、美智子の打ったボールは再びネットに引っかかる。
無駄な動きも多かったらしく、息が上がっていた。
俊子は励ましてくれたが、結局その日の練習はいつもよりも調子が出なかった。
家に帰った頃には、既に日は落ちて薄暗くなっていた。
すぐに夕食と、風呂とを済ませ、自分の部屋に入る。
既に何もする事は無かったが、寝る時刻にはまだ早い。
ならばと、読みかけだった小説に手を掛けようと机を見たとき、
ふと信也から貰ったカチューシャが目に留まった。
あの日からずっと愛用しているお気に入りの髪留め。
美智子は半分無意識の内にそれを手に取り、そのまま眺めていた。
それで思い起こされるのは、堺信也という1人の男。彼の声、表情、仕草。
かつて自分に向けられていた物。今は、他人に向けられている物。
「……どうして、あんな女に」
小さく、弱々しく、絞り出した様な声。しかし確かな悪意を含む声。
そこからあふれ出る感情は紛れも無く、醜い嫉妬だった。
はっとそれに気付き、彼女は自らの感情を否定する。
(やめて、情けない……。あんな女に嫉妬なんて)
大丈夫、美智子はそう声に出して自分に言い聞かせた。
3年前。かつての彼は、確かに自分の事を好きだと告白した。
ならば、例え振られたとしても、未だその想いが残っている可能性はある。
少なくとも、付き合いたくないとは思わないはずである。なにせ告白までしたのだから。
加えて、彼の遊び相手であるルイーゼは残り数ヶ月程で日本を去る。彼も本気ではないはずである。
だが、それならば何故告白しないのか。また、今までしなかったのか。先日の女の言葉が蘇る。
既に答えは出ていた。怖いのだ。
もし否定されたら。もし拒絶されたら。その可能性が僅かでも存在する限り、
美智子はそれを恐れ、その先へ踏み込む事ができなかった。
彼女は今にして思う。3年前の自分の愚かさを。
あの時の信也も、このように苦悩した末に、それでも自分に告白してきたのだ。
かつては許せなかった彼のやり方も、今にして思えば微笑ましい程度の物だったのかもしれない。
後悔が胸に押し寄せ、自らを呪う。けれど、時計の針を戻すことはできない。
彼女は激しい自己嫌悪に駆られた。信也が見放してもおかしくないと、自分を責めた。
だが、それは彼女の恐れている事であり、更に不安は募る。全くの悪循環である。
彼女は弱い。
恋愛に対してだけでない。全てにおいて、彼女は積極的にはならない。
怖いからである。
それは過去の苛めの反動であった。
化粧を薄めに留めるのは、無難な服しか着ないのは、髪型を変えないのは、
そんなものに頼りたくないからと自分では言い聞かせている。だがその実は、変わるのが怖いのだ。
改悪されるのが怖い。それによって、誰かの嘲笑を受けるのが怖いのだ。
そんな風だから会話も受身になる。学校で友人が出来てもそれ以上の仲にはならない。
卒業を迎えれば、自然所滅していく。
しかし、堺信也は違った。彼と一緒に居ると恐れるものは何もない、なんでも出来る気がする。
そして、彼と一緒なら自分は強くなれる気がした。いや、強くなれる。
出来ることなら、ずっと彼の傍にいたい。寄り添っていたい。
だが、その信也はルイーゼの元に居る。
「私は、どうしたら……」
意味の無い自問自答を繰り返していると、そのうちに部屋のノック音がした。
差し入れにとお茶を運んできてくれたのは、美智子の母であった。
生まれてから今日まで、ずっと美智子を見守ってきた母は、娘の異変にすぐ気が付いた。
「何かあったわね?」
「ど、どうして?」
「貴女の顔にそう書いてあるわ」
美智子は言い返す気にもなれず、黙って茶を飲んだ。
そしてぽつんと、独り言の様に呟いた。
「お母さん。どうしても諦めたくない物があって、でもそれを手に入れる自信が無い時って、
どうすればいい?」
母はふっと微笑んで言った。
「自信がないなら、付ければ良い。なんでもいい。たとえそれとは関係のないものでも、
自信が付けば人は変われる」
頑張ってね。それだけ言って母は出て行ってしまった。
「自信を付ければ良い、か」
母の言葉を口にする。
そんなに簡単に出来るのなら、初めからやっている。しかし、やらなくてはいけない。
美智子は自分のやるべき事がわかった気がした。部屋に転がっていたテニスボールを手に取り、
ぐっと握り締める。
「……変わらなきゃ、私が」

6

 学校内はある話題で持ちきりだった。女子テニス部が、試合で大会の優勝候補を破ったというのだ。
勿論、テニス部には美智子も所属しており、彼女自身も勝利に貢献した1人だった。
なので、自然と彼女の周りには男女問わず、それに興味を持った人だかりが出来ていた。
『今度の試合見に行くよ』
『ペアは誰?』
『前衛と後衛どっち?』
そんな会話が信也のところまで聞こえてきた。
テニスの事を話している美智子は心底から楽し気に見えた。ワイワイと微笑みながら、
クラスの皆と話している。中学の頃からは想像も出来ない光景だった。
信也はチラリと彼女の方を見て、そう感じた。今の彼女は自信に満ち溢れているようだった。
(あの頃とは、違うもんな)
彼女は新しい道を歩き続けている。いつまでも過去の象徴である自分が付き纏うのもどうだろうか。
彼は思索を巡らす。
既に彼女とは和解を果たしているので、一旦距離を置いたほうが良いと、そう考えた。
彼女に未練は無いといえば嘘になるが、今では大切な人が居る。
隣で座っているルイーゼを見る。目が合った。
「お前もテニス強かったよな」
「やってたのは中学の頃だけどね。腕は鈍ってないと思うけど」
信也はある娯楽施設で、ルイーゼと1度だけ遊びでテニスをしたことがあった。
運動に自信のあった彼だったが、経験者である彼女の前では手も足もでなかった。
腕が鈍っていないと言うのは本当なのだろう。
「興味があるなら、少し見ていくか? テニス」
「うん、そうする」
そう、ルイーゼは僅かに微笑んで頷き、信也もそれにつられて同じ様にした。
この日は短縮授業であったにもかかわらず、授業終了までが少し長く感じた。
部活動は普通、放課後になるとすぐに始まるが、信也には美化委員の仕事があるため、
少し遅れる事になる。そして、ルイーゼもまた、今日の授業で分からなかった所を聞こうと、
職員室へ向かった。
信也は彼女を待たせる事の無いようにと、彼女が戻ってくるより先に掃除を終わらせようと
勤しんだ。そしてその努力は無事に実ったが、今度は却って暇な時間が出来て、
ならばと彼は、掃除が終わって部活に行こうとする美智子に声を掛けた。
彼女は一瞬普段と違う表情を彼に向けたが、すぐに元の凛としたものに戻り、何かと尋ねる。
しかし口調は心なしか穏やかに感じられた。
「見学って出来たっけ? テニス部」
「あ、えっ?」
「ルイーゼが以前テニスをやってたみたいで、それでここのテニス部の練習みたいんだとよ」
「あ、ああ……、そうなの?」
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
どうにも、今日の美智子は表情の移り変わりが激しかった。
信也はその事が気にならなかった訳ではなかったが、あえて聞き出そうとはしなかった。
やがて美智子は、妙案を思いついたと切り出した。
「休憩の時、一試合やりましょうか」
「いいのか?」
彼女は今忙しい身である。次の試合も数日後に控えているのだ。
強豪校に勝った事で他の学校からもマークされ、一層の奮戦と努力を要する事になる。
そんな時期に遊び試合などして良いのだろうか、信也はそう思った。
「私は構わないわ。練習の相手は多いほうがいいもの。尤も、ルイーゼさんがよければだけど」
「ありがと、多分大丈夫だと思うよ」
「そう。じゃ、私は先に行ってるから」
彼女はそれで教室から出ようとして、しかし何か思い余ったようにもう1度信也の方を振り返り、
言った。
「あの、私の事、ちゃんと見ててね」
「えっ」
信也が返す間もなく、彼女は出て行った。彼は少し変な物を感じた。
快く引き受けてくれた彼女だが、その裏で何かがある。彼は何となしにそう感じていた。
それから何分か経って、ルイーゼが帰って来た。信也が早速試合の事を話す。
そして、それを聞いた彼女は少し不思議そうな反応を示した。
「試合が出来るの?」
「ああ、霧島が相手してくれるって」
「彼女が?」
信也はこのとき、彼女の目蓋が細くなるのを見た。
それにまた何かを感じながらも、2人でコートに足を運んだ。

「グットタイミングね」
2人が来たとき、丁度練習が終わって休憩時間が始まった所だった。
2人に気付いた美智子が寄ってくる。普段見慣れぬテニスウェア姿が眩しくて、
信也は思わず目を奪われた。
彼女は2人に目を合わせ「うん」と軽い確認の様な挨拶だけして、単刀直入に言った。
「じゃ、始めよっか。ラケットはそこにあるから」
「ありがと」
そんなやりとりの後、信也をベンチに残して2人はコート内へ入る。
休憩中との事もあって、女子は勿論男子もそれを覗いており、ギャラリーは結構な数になっている。
「ん、試合やんの?」
「霧島か。相手は誰だ?」
「取りあえず、私審判やるね」
ざわざわと沸き立つコート。しかし、それと反比例して彼女等2人の間に会話は無かった。
遊びにも拘らず妙に淡々としており、見ている信也は息苦しささえ覚えていた。
根拠は無いが、この試合が何か良くない結果を生むような気が、信也にはしてならなかった。
「じゃ、先攻後攻を」
テニスの試合を始める前には、まずサーブとレシーブを決める。ラケットを駒の様に回し、
倒れた向きによってそれが決まるのだ。
カランとラケットが倒れて、サーブは美智子からに決まった。
「よろしくね、ルイーゼさん。……ありがと、堺君連れてきてくれて」
「……よろしくね」
生返事のルイーゼに美智子は背を向けて、自分のコートへ入ってゆく。
先程の美智子の言葉には棘が含まれており、この時点でルイーゼはある事を思った。
(なに彼女、私と張り合おうとしてるわけ?)
ルイーゼはそう感じたのだ。いや、美智子がそう感じさせるように言ったというのが正しい。
要は挑発である。
なるほどとルイーゼは思った。
(えぐい事考えるじゃない)
彼女は人知れず、クツクツと笑い始めた。美智子の目的が手に取るように分かったからだ。
信也の見ているこの試合で完膚なきまでに叩きのめし、彼に自分の存在を意識させよう。
そんな所だろう。
実際、化粧や髪、果てはソックスに至るまで、彼女なりに気を回している様だった。
(でも健気で可愛くもあるわね。私が男なら惚れちゃいそう。……でもそれって)
「試合開始ね」
1セット目、美智子がサーブを打ってくる。
良いコースだった。ラインすれすれの所で、スピードもある。並みの選手には厳しいところだろう。
そう、あくまで並みの選手にとっては。
(勝てなきゃ意味ないよね?)

◆◆◆◆◆

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
呼吸が乱れて苦しい。多種多様な汗が肌に纏わり付いて、髪や化粧を乱してゆく。
普段の凛とした表情は消え去り、代わりに苦痛のそれがそのまま晒されていた。
向こうのコートから球が返ってくる。嫌なコースだ、スピードもある。
1バウンド、そして2バウンドするかの所でやっと追いつく。
だが不安定な姿勢からやっと返した球は遅く、敵にとっては絶好のカモだった。
ズバンとスマッシュを打たれる。今度は何の反応もできない。
「セットカウント0−45」
試合は多くの者の予想に反して、ルイーゼの圧倒的優勢の展開で続いていた。
審判がポイントをコールするが、美智子にはもはや聞こえない。
(そんな……こんなの、聞いてない)
動悸と吐き気が酷い。胸が苦しくて、手を膝につき息を切らす。そして激しく動揺し、混乱した。
一刻も早く、この場所から逃げ出したい感情に襲われる。
試合は終始ルイーゼに主導権を握られていた。
美智子のサーブは彼女に通じず、逆に強いレシーブを返されて軽々と1セット目を取られた。
ならばこちらもとレシーブに望むが、彼女の重たいサーブに対し、非力な美智子は
向こうのコートに返すのが精一杯だった。
もちろん、ルイーゼにとってそんなものは絶好のカモであり、その後は難なくポイントを取られた。
更に、ある程度試合が傾いてくるとルイーゼは、わざとストロークに持ち込んだ。
スマッシュを打てば確実に決まっていたコースでもだ。最初美智子は意味が分からなかった。
手加減をしてくれるのかと考えたが、違った。
美智子が返すことの出来るギリギリのコースで打ってくるのだ。
そして、その何とか返した球を、また違うコースに打つ。
自分は今、ルイーゼにいたぶられているという事に、美智子はすぐに理解した。
そして、その目的が、今の姿を信也に見せ付ける為のものである事にも。
彼女が汗まみれになり、必死に走って球を拾うのに対し、ルイーゼは軽々とその球を返す。
傍から見れば、フリスビーで遊ぶ犬と人である。それが現在までずっと続いている。
堪らなかった。
コートは静まりかえっている。ギャラリーの視線が、そして何より、信也の視線が痛い。
(堺君が見てるのに……もう嫌だ、逃げたい)
2人が、見学に来る事を聞いたとき、美智子は咄嗟にこの試合の事を思いついた。
自分の良い面をアピールでき、かつルイーゼを無様に打ち負かす事ができる。一石二鳥である。
そして、これを告白する良い機会にしようとも考えた。
だが、それがこのような事になると、誰が予想しただろうか。
(帰って……皆、帰ってよ! もう見ないでよ!)
彼の目に止まりたくて、興味を引きたくて、テニスで良い成績を収めようと努力した。
何でも良いから自信が欲しかったのだ。
試合で強豪を倒した時、彼に近づき、彼と向き合えるだけのそれを得る事が出来たと思った。
だが今、それが全て潰されてゆく。
ルイーゼのスマッシュが容易く決まり、美智子はこの3ゲーム目も落としてしまう。
「ゲームカウント0-3。コートチェンジしてください」
美智子は息を切らしながら、フラフラと向こうのコートへと歩いて行く。
そして、向こうからも同じ様にルイーゼが歩いてくる。
ただし、その表情は美智子とは正反対のものだった。
「貴女の晴れ姿、シンに見てもらえて良かったわね」
「……やめて」
「?」
「お願いだから、もうやめてよ」
「何を?」
「白々しい! 私が堺君の事好きなの、知ってるくせに!」
「ええ、知ってる。でも貴女からしようって言い出したのよ?」
「……お願いだから、もう許してよ」
「私、普通にテニスしてるだけだけど?」
「……もういい」
それだけ話して、もう無駄だと判断したのか、美智子はルイーゼから離れた。
ルイーゼも何も無かったように自分のコートへ向かってゆく。
試合はそれからも、展開が変わる事はなく、ルイーゼのストレート勝ちで終わり、
美智子は試合が終わるなり、一目散にコートから出て行った。
これ以上一目に晒される事は、彼女には耐えられなかったのだ。
部室に逃げ込むなり、美智子は手にしていたラケットを無造作に投げつけた。
コンクリートの壁にぶつかってカランカランという音が鳴る。
フレームが歪むかもしれないが、どうでもよかった。そして、滅茶苦茶になって泣いた。
「霧島さん」
「霧島!」
「美智子ちゃん」
心配した部員達が、後を追って部室に入ってきた。
その中には、美智子の親友である加田俊子も居る。彼女等が来たのは、公開処刑のような試合で、
美智子の精神が相当参っているのが手に取るように分かったからである。
しかし、美智子の症状は彼女等の想像を遥かに越えていた。
彼女は、過去の反動で恥を掻く事を何よりも恐れていた。
その古傷を、今日これでもかという程抉られたのだ。
それに加えて、信也にこれを見られたというのも大きい。
彼にアピールする為だった試合が、この様な結果になった事。
それが余計に彼女を苦しめた。数時間前までの自信などは粉々になって消えた。
「その、気にするなよ霧島」
「そうよ。今日の事は早く忘れて、次の試合頑張ろ?」
「ほら、ラケット持って」
部員達はそう言って、美智子に投げられたラケットを差し出してくる。仲間からの励ましの言葉。
しかし、それは彼女には届かなかった。
そしてあろう事か美智子は、彼女等の最も適さないとする答えを言うのである。
「私、今日でテニス部やめます」
意外にも、場の沈黙は一瞬だった。皆、彼女がこう言ってもおかしい事ではないと、
どこかで覚悟していたのである。かといって、簡単に聞き入れられるものでもなかった。
「馬鹿、ここまで来ておいて今更何を言ってるんだ」
「そうよ。それに、相手はヨーロッパの大会で成績残してるような選手なんだから、負けて当然よ」
それでも美智子は聞こうとしない。彼女は隅で小さくなり、もう嫌だ、もうやりたくない、
恥ずかしい、怖いと、こんな言葉を永遠と羅列していた。
それで始めは美智子を励ましていた部員達だったが、数十分も経つと彼女等にもやや疲れと苛立ちが見え始め、やがて見かねた加田が、半分無理やりラケットを握らせた。
「今日はもう帰って良いから、明日また」
「もう、放っといてよ!」
結果的に最後の気遣いの言葉となるそれを遮って、美智子はヒステリックに叫んだ。
そしてそれは、部員達のある一定のラインを超えさせるに足る物だった。
「……じゃあ、もう好きにすれば?」
美智子がしまったと気が付いたのは、彼女等が出て行った後になってからだった。

7

 放課後、信也とルイーゼは互いに寄り添いながら、道を歩いていた。
「今日、どうしようか」
「じゃ、シンの家に行っても良い?」
彼女は笑顔で聞いてきた。夕暮れの所為だろうか。こちらを振り向く表情が、やけに眩しかった。
2人の仲は更に深まっていった。学校に居る間は勿論、放課後にもよく遊んだ。
だが、2人が付き合う事はなかった。どんなに愛し合ったとしても、一緒になることは叶わない。
卒業した後、ルイーゼはドイツに帰ってしまう。
これは2人の力ではどうすることもできない決定事項だ。
別れは徐々に、だが確実に近づいてきていた。
2人はそうなる前に、悔いの残らぬようにしようと決めていた。
一緒に居ることの出来る今のうちに、飽きてしまうまで一緒に居ようと。
しかし、それとは裏腹に、2人の互いに対する想いは強くなってゆく。激しさを増してゆく。
2人は抜け出せなくなった。
信也は、自分のルイーゼに対する想いに、歯止めが効かなくなる事を恐れていた。
もしそうなれば、苦しすぎるからだ。
「汚いから、無理」
「えー」
信也は拒絶した。だが、本当は来て欲しかった。そして、すぐにでも押し倒してやりたかった。
今すぐにでも、ここでキスしたかった。
彼は、ルイーゼの事を愛しく想う反面、大きく思い悩む。いくら彼女の事が好きでも、
好きというだけでは、恋人にはなれない。セックスはおろか、キスも出来ない。
ここまできて、彼はようやく気が付いたのだ。
1人憂鬱になり、ふと脇を見ると、老人が道路を掃除している。
「あ」
それで、美化委員の仕事を忘れていた事に気が付いた。
「悪い。掃除忘れてた」
「良いじゃない。一日くらい放っておいても」
「でも、待たせてるし。ごめん行ってくる」
信也は逃げたくなった。もう、ルイーゼの事を忘れてしまいたかったのだ。

◆◆◆◆◆

 美智子は1人で教室に残り、信也を待っていた。表情は暗く、弱りきっている。
彼女は部活をやめた。そして友人を1人残らず失くした。
入学してから今日まで、2年半に渡る交友は、嘘のように消え去っていた。
そもそも、今考えれば、美智子の交友関係は自分から築いた物ではなく、
全て親友だった加田を間に挟んでの物だった。
その加田を拒絶した美智子に、友人などは1人も残らなかったのである。
自分の友人は加田だけしかいなかったのだと。ここに至り、美智子はようやく
それに気が付くのだった。そして、気が付くにはあまりにも遅かった。
彼女等に謝りに行く事も考えたが、今のすっかり弱った美智子には拒否される事が
たまらなく恐ろしく思えて、出来ずにいた。
(結局、何も変わっていないんだ)
美智子は失意の底に居た。
彼女が試合で惨敗した事は、あっという間に広がっていった。
試合にギャラリーがたくさん居た事もあるが、何よりも、強豪を破ったとして注目されていた
最中の事だったのと、試合中での無様な姿、その後ですぐにテニスをやめた事などが重なり、
全学年の生徒達が美智子の事を奇異の目で見るようになった。
例えば、廊下を歩いていていると、まわりの者達は彼女を見てクスクスと笑うのだ。
中には平然と話しかけてくる者もいる。
「あ、どうも霧島先輩……って、無視しないでよ」
見ず知らずの男子生徒が数人で話しかけてきて、素通りしようとすると案の定、
無遠慮に手を掴んでくる。美智子に対して、彼らは彼女が自分達よりも
上の学年であるにも拘らず、馴れ馴れしい物言いをした。
「……何?」
「何か噂で男掛けて試合してたとか聞いたんすけど」
「うっわ、マジパネェっすよ。負けたけど」
「ギャハハハ」
下品な笑い上げて彼女に絡んでくる数人の男子生徒。彼らは美智子とはまったく接点が無い。
つまり他人なのだ。
これが初めてという訳ではなかった。彼らの様な人間は、彼女を見かけるなり
物珍しい物でも見るように、話しかけ、散々からかって、それで帰っていく。
スキャンダルを受けた芸能人などに、プライバシーなどはほぼ無いのと同様に、
彼女の噂は広がりすぎ、周りの人間は彼女を1人の生徒として見れなくなっているのだ。
そういう周りの反応は、美智子を追い詰めるのには十分な力を持っていた。
あの自信に満ちていた頃の面影は既に無い。常に他人の目を意識して、
話しかけられるとひどく動揺する。そして、うまく話せずに目が泳ぐ。
それが彼女の正体でもあった。
やがて美智子の周りには、友人どころか話しかけてくれる人さえ消えていった。
誰も彼女に近づこうとしなかったのだ。
「……堺君」
美智子は信也を待っていた。あれだけの醜態を晒してなお、待っていた。
彼女にはもう彼しかいなかった。彼女が友人達を失ってなお、ギリギリのところで
踏みとどまる事ができたのは、ひとえに彼の存在があったからだ。彼女は彼に依存していた。
(今に堺君が助けてくれる)
望みが薄いのは分かっている。だが、そう信じる事しか出来なかった。
中学の頃、信也の告白を受けてさえいればと考えると、ずしりと重い後悔の念が押し寄せてくる。
あの卒業式の日、もし彼を受け入れていたら、どんな未来が待っていたのだろうか。
信也との日々を想像して、美智子は胸が痛むのを感じた。
その空想と、この現実とではあまりにもかけ離れている。
あの時に受けていれば、後悔の文字が頭を支配する。
美智子は俯いていた顔を上げ、教室の時計を見る。
いつもなら、丁度掃除が終わるくらいの時間だった。
それを見て、彼女はぎゅっと胸が縮む感覚に襲われた。
信也までもが自分を見捨てたのである。
美智子は呆然として、時計を眺めていた。絶望は後から来た。秒針の針が規則正しく時を刻む。
その音が、美智子の心に少しずつ、チクリ、チクリと刺すような痛みを与え続けるのである。
針は少しずつ、だが確実に美智子の心を削ってゆく。
やがて心はぎしぎしと音を立てて、崩れていった。

◆◆◆◆◆

 教室に入るなり、信也はぎょっとした。
しんと静まり返った教室の隅のほうで、美智子は崩れていた。
表情はうつろで、どこを見ているのかはっきりしない。
ただ、その目から今もなお、溢れ出ている涙は彼女の今を伝えてくるのに十分だった。
美智子の敗北が噂となって広がり、彼女が孤立してゆく中、
それに関して信也は無関係を決め込んでいた。本心からいうと、彼は美智子に呆れていた。
たかが一回の敗北で、何がそこまで気に入らなかったのか。
確かに屈辱的な試合であっただろうが、部活をやめる理由にはなりえない。
何も知らない信也にとっては、そんな程度の認識だった。
そういう呆れや疲れもあって、今回は何1つ首を突っ込まないように決めていた。
しかし、今それ以上の物があっても、かつて好きだった女にこう泣かれると、
手を出さずにはいられなかった。
「霧島、おい大丈夫か?」
「……ぁ」
信也が話しかけて、初めて美智子は彼の存在を認識したようだが、
涙のせいで何か言いたくても言えないようだった。
彼女の顔は涙でくしゃくしゃになっていたが、普段から美しいその顔は、(ベクトルこそ違えど)
やはり美しかった。
「し……んや君」
彼女は驚いているようだった。その証拠に普段は堺君というところを信也君を言った。
今の彼女は霧島美智子そのものなのだ。彼女はしゃっくり混じりの震える声で、言葉を紡ぐ。
「貴方、が……いないとダメ、私」
すがりつくようだった。
掃除に来るのが遅れた事が、美智子の不安を煽ってしまったようだった。
凛とした彼女はどこかに消え去り、ぎゅっと信也につかまってきた。
「大丈夫だ。落ち着くまでここにいてやるから。涙全部出しちまえ」
「……っ」
どのくらいそうしていただろうか。ずっとすすり泣いていた美智子が、不意に尋ねてきた。
「どうして?」
「ん?」
「どうして貴方は、こんなに優しくしてくれるの?」
「……」
言葉に詰まった。この状況では、自分は堺ではないなどと、ふざけて済ますこともできない。
彼女の目は真剣だった。しっかりとした理由を聞きたいようだった。
「俺は、過去にお前を守ってやれなかったから。だから」
「そんな事ない!」
彼女は強く否定した。
「私がまだ貴方を恨んでいると思っているのね」
「……ああ」
「違う、違うわ。今は寧ろその逆、私は貴方に感謝しているのよ」
「なんでだ」
「当然じゃない、貴方は私を助けてくれた。これがどうして恨めるって言うの」
「……」
信也は答えなかった。ただじっと美智子の話を聞いていた。
「この3年間、本当にどうかしてた。貴方には、感謝してもしきれないほどなのに、
それなのに私は……っ」
それから彼女は、謝罪の言葉と共に、信也に頭を下げた。
「もう、お互いにあの頃は忘れようぜ」
「それは、嫌!」
嫌な思い出ばかりの頃など、忘れたほうが良い。それが信也の言い分だった。
しかし、それもすぐに否定される。それが彼にとっては意外だった。
「なんでだ。お前にとってあの頃は」
「……あの頃を忘れるなんて嫌」
「……」
「3年経ってやっと分かったの。私、あの頃が幸せだった。
貴方と笑ってたあの頃が一番楽しかった。貴方を嫌うなんてありえない。
好きなの、貴方が好きなのよ堺君」
美智子は止まらなかった。
自分を偽るだけの余裕が、彼女にはなかったのだ。

8

 朝の登校中、夏の名残もようやく影を落としつつあり、少し涼しくなってきたかという通りを、
信也は歩いていた。その心中は疑問で渦巻いていた。
これで良かったのだろうか。そんな風に悩む彼の目に、その元凶が姿を現した。
「霧島、おはようさん」
「あっ……うん。おはよう。しん……堺君」
霧島美智子。綺麗な黒髪に、整った顔。スタイル良し。凛とした佇まい。
改めて見て美人だなと、信也はちょっとした感動を覚えた。
「いや、名前でいってくれていいぞ? だって俺たちは」
「うん……恋人、だもんね。有難う、信也君」
昨日の告白。彼はそれを受け入れる事にした。昨日の彼女が、とても儚げに思えたから。
それに、ルイーゼへの決別でもあった。彼女への想いが消えたわけではない。
しかし、彼女はすぐに日本を去ってしまう。信也にはそれは耐えられそうになかった。
「あの、アドレスいい?」
美智子が話しかけてくる。携帯のアドレスのことだろう。
普通は受け入れたときに交換するものだが、まだだったのを思い出す。
信也は自分の器量のなさを恥じつつ、携帯を取り出した。
「ああ、ごめん」
「いえ、私も気が動転してから……その、うれしくてそれどころじゃなかったから」
「……じゃ、こっちから送るぞ」
「うん」
赤外線受信。信也には、その沈黙が何か滑稽なように感じた。
「届いたわ」
言って、彼女は笑う。前よりも、それこそ、テニス部に居るときにも見せた事のない表情だ。
学校まで美智子と歩く。だが会話は弾まなかった。2
人とも、そんな風によく喋るタイプではないので、ぽつりぽつりと話すくらいだった。
どこか重苦しい。
ああ、自分は口下手なのだという事を、信也は思い出した。
ルイーゼがよく喋るから、それに答える彼もまた多弁になっていただけの事だったのだ。
そこまで来て、信也は自分の考えを振り切るようにした。
(霧島に失礼だ。俺は霧島の彼氏なんだから)
校門を通り、下駄箱で履き替え、教室に入る。と同時に、視界が消えた。
「だ〜れだ?」
ルイーゼの声だとすぐにわかった。いつもと変わらぬ明るい声。そうだと、信也は心を重くした。
信也は、美智子がじっとこちらを見つめてくるのが分かった。そうだ。言わなければならないのだ。
「ルイーゼ」
「当たり」
目隠しをしていた手が離れて、振り返るとやはり彼女が穏やかな笑顔で微笑んでいる。
それはいままでの彼女のどんな表情より魅力的に思えた。
まだ、言わないでおこうか。信也の弱い心に、そんな考えがふと過ぎる。
だが、隣にいる美智子の顔を見ると、流石に決心がついた。
「あのさ、ちょっと言いたい事があるんだけど……いいか?」
「なに?」
「俺、霧島と付き合う事になった」
言った。
信也の言葉を聞いて、ルイーゼは一瞬固まった。そして、目に見えて沈み込んだのだ。
言い様のない罪悪感が彼を襲った。
「そう、か。……でも、仕方ないよね。私達じゃ、無理だものね」
お二人さん末永く。そういって彼女は離れていった。去り際の彼女の表情は見えなかった。
しかし、信也は恐らく、今の自分と同じ様な顔をしているなと感じたのだった。

◆◆◆◆◆

 美智子は何事にも勝る幸福感に満たされていた。
彼女の横には信也が居る。堺信也だ。中学校の頃好きだった彼。思えば、遠い道のりだった。
自分の勝手で疎遠になってから、高校の間ほとんど口を聞かなかった。
気まずい別れ方をしたから、もう言い出せないかと思っていた。
こうして話すことも出来ないんじゃないかと思っていた。
だから彼女は、テニスや勉強に打ち込むことで、そして、彼に必要以上につらく当たる事で、
完全に見切りをつけようとしていたのだ。しかし、委員会で偶然一緒になって、話をして、
助けられて、美智子の想いは蘇った。始めは罪悪感もあった。恥ずかしいとも思った。
だが、1度意識してしまうと、もう抑えられなくなった。
彼女は迷う事をやめた。信也が好きだ。その感情を信じて、彼に近づいた。彼と話をした。
彼が自分を受け入れてくれるかどうか。
不安は大きかったが、長い間2人を遠ざけていたモノは予想外に脆かった。
過去のしがらみを乗り越えて、2人の交友はずっと深くなっていくはずだった。
しかし、ここに障害が現れたのだ。
ルイーゼ。
転校生として突然現れた彼女は、彼が自分と同じドイツ人の血を持っているというだけで、
軽々しく近づいてきて、彼に付き纏うようになったのだ。
それでも美智子は、少しの不快感を覚えただけで、初めはほとんど気に留めていなかった。
なぜなら、彼女は美智子に比べて、容姿が劣っていたのと、数ヶ月も経てば、
すぐに居なくなる予定だったことと、そしてなにより、空白があるものの、
ずっと前から親しかった自分を差し置いて、彼がルイーゼを選ぶはずがないと考えていたからだ。
しかし、その考えは日に日に脆くも崩れてゆくのだった。
信也はルイーゼが気に入ったのだ。
何故、という疑問が尽きなかったが、事実、彼らは何をするにも行動を共にして、
異常とも言える速さで交友を深めていった。そこに美智子の入る余地はなかった。
彼が朝教室に入って、最初に話すのはあの女。
彼の机の隣もあの女。
彼が昼食を共に取る相手もあの女。
下校時に一緒に帰るのもあの女。
美智子が彼と話すのは、美化委員の掃除の時間だけ。
その大切な時間までも、ルイーゼの為にサボろうとするのだ。
なにもかも、ルイーゼルイーゼルイーゼ。たった数日である。
たったの数日で、ルイーゼは美智子よりも、彼と親しくなっていたのだ。
美智子は気が狂いそうだった。何事にも手がつかなくなり、何も考えないという時間が増えた。
それでもはっきりとしていたのは、ルイーゼに対する憎しみだけだった。
それで、策に出た。ルイーゼを陥れるための策。
それはテニスを使って、大勢の前で彼女を叩きのめし、恥をかかそうというものだった。
だが、これが成功したからといって、信也の気持ちに変化が現れるかどうかは分からなかった。
それよりもまず、ルイーゼが憎かった。彼女を叩きたかった。
結果は酷かった。美智子はルイーゼに惨敗して、彼女にやろうとしていた事が、
そのまま自分に降りかかった。美智子はそれでひどく気を病み、加田達のと口論の末、
テニスをやめるに至った。
そこからの彼女の急落ぶりは、まさに急落だった。クラス仲間は気まずさからか彼女を避け、
知りもしない生徒に馬鹿にされ、テニス部員には白い目で見られた。
そして、信也さえも自分を拒絶したのだと思ったとき、彼女の心はいとも簡単に折れた。
憎しみ、悲しみ、後悔。
様々な感情が彼女の心を支配して、絶望といっても良かった。
彼はそんな時に現れたのだ。そのときに彼が何を言ったのか、美智子ははっきりと覚えていない。
ただ彼が来てくれた。自分の為に来てくれた。
その事がうれしくて、彼が愛しくて、気付けば告白していた。そしてもらったOKの返事。
夢だと思った。何度も現実なのだと確認して、それでようやく、彼の恋人になったことを知った。
それだけで、周りの不幸など吹き飛んだ。それが昨日の事である。
そして今、彼、信也は美智子の隣に居る。美智子は今でも信じられない。
ぼぅっとして彼の横顔をチラチラと見るのが背いっぱいで、話もろくに出来ない。
それでも美智子は、彼の愛情を感じていた。堺信也と、霧島美智子は恋人同士。
あのルイーゼにも、きちんとそう言ってくれたのだ。これで何も怖い事はなくなった。
本当に、本当に自分は信也の彼女なのだ。美智子は最高の幸福を感じていた。
夢にまで見た日々が始まったのだ。もう何も気にならなかった。

「ねえ、霧島さん?」
「……?」
一旦信也と別れた後、廊下で声を掛けられた。先程から何度か呼ばれていたようである。
美智子の頭の中は信也一色だった為、話しかけられている事に気付かなかったのだ。
だが声の主はすぐに分かった。ついこの間まで、頻繁に聞いていた声だった。
「何、加田さん?」
加田だった。美智子の、かつて一番の友人だった彼女。
美智子がテニス部をやめたのをきっかけに、それ以来2人は一言も口を利いてはいなかった。
最後が最後なので、当然と言えば当然である。
しかし、その加田が今更話しかけてきたのだ。美智子は彼女の返事を待った。
「実は、仲直りしたくて」
「仲直り……?」
「うん」
彼女は続ける。
「このままじゃなんか、後味悪くてさ」
「……」
この態度で、彼女の目的が何なのかが、美智子はすぐに分かった。
「やっぱり、続けようよ部活。ここまで私達頑張ってきたじゃない」
「……!」
やはり。と、美智子は思った。
彼女はテニス部の部員の大半から、蔑んだような視線を感じていた。
だが、目の前の加田だけは、話しかけてこそ来なかったものの、そんな風には見ていなかったのだ。
恐らく、これを言おうかどうかを悩んでいたのだろう。
「ね? 部活の皆には私から言ってみるからさ」
笑みを作って手を差し伸べてくる彼女。普通なら感激のあまり泣いても良い所である。
しかし、美智子はそんな彼女が疎ましく感じた。今そんなものを始めたら、
信也と過す時間がなくなるからである。それに、テニス部にはもううんざりだった。
「私、信也君と付き合ってるの。堺信也君」
「え? ……へえ、そうなの」
「だからね、貴女はもう、いらない」
はっきりと言った。顔から色の抜ける加田。美智子は更に続ける。
「だいたい、テニス部なんて入ったのがいけなかったのよ。貴女があんな部に誘わなければ、
私と信也君はもっと早くに仲直りできてた。……そしたら、信也君があんな女に気を許す事も
なかったのに」
静かな口調だったが、そこには確かな苛立ちが垣間見えた。
テニス部はいつも、信也と自分を離れさせる要員でしかなかった。それが理由だった。
彼女の話を聞くうちに加田の表情にも色が戻ってきた。黒い嫌悪の色が。
「そんなの、関係ないじゃない」
「あるわよ。……全部、貴女のせいよ、全部」
「……」
加田は声にもならなかった。そして正気かと言わんばかりに、目の前の女の醜態をまじまじと見る。
凄まじい形相で、妄執に取り付かれたかのようにぶつぶつと呟いている美智子。
それは、ただ醜かった。

◆◆◆◆◆

「ねえ、信也君。今度の日曜日なんだけど、空いてる?」
「ん、ああ。確か大丈夫だったと思うぞ」
美智子の問いに、信也は頭の中で確かめながら、そう答えた。
嬉しくなって、彼女は自然と頬が綻ぶ。
「じゃあさ、映画とか見に行かない?」
「おっ、いいね。何か面白い奴でもあんのか?」
映画への期待もあってか、信也の表情も明るい。即ち、OKという事だろう。
(やった!)
心中でガッツポーズを作る美智子。そこに先日までの彼女はいない。
美智子が信也と付き合うようになって、数日が過ぎた。
だが、彼女の周りの人間関係は、一向に戻っていない。それどころか、明らかに悪化している。
本人がそれを望んでいないため、当然である。
元友人らの美智子に対する無視は、嫌がらせ、果ては苛めのようになっていき、
始めは復縁を希望していた加田も、先日の会話をきっかけに、
自ら進んでいじめに参加するようになった。
美智子の境遇は中学の頃に戻っていた。

 しかし、1つその頃にはなかった物が、彼女を強く支えていた。

 信也との交際である。
「東極冬彦の、『妖怪の箱』って知ってる?」
「あー、知ってるよ、アニメ見てた! 東極堂がかっこいいんだよな。あと馬場の旦那も」
「だよね! ふふっ、やっぱり知ってた」
他愛も無い会話が、これ以上ないような至福の時間のように感じられる。
最初はうまく接する事の出来なかった2人だが、日が経つに連れて会話の量も増えていった。
増えたといっても、ルイーゼと居た頃の様に喋り続けるという訳ではなく、
自分達の形を築いていったのだ。
そうするうちに、美智子は少しずつ自分に自信がみなぎってくるのを感じた。
何をやっても満たされる事のなかった充実した時間、それが彼とのひと時であった。
あの忌々しいルイーゼも、最近では信也に寄って来ることはなく、その時間を別の級友や、
部活仲間との交流に傾けていた。
美智子は、確かに幸せだった。
たとえ信也以外に話す相手がいなくても、いじめを受けていても、それでも彼女は幸せだった。
信也と一緒だと何も怖くない。彼が自分を守ってくれる。彼女は本気でそう思っている。
勉強も、テニスも、人間関係(もちろん信也以外の)も何もかもをかなぐり捨てても、
傍で信也が微笑んでくれれば、それで満足だった。
信也が居れば、他はどうでも良かった。信也が傍にいれば大丈夫なのだ。
彼が自分を守ってくれるのだ。

「1時間目、移動教室だったな」
「うん、じゃあまた後でね」
「おう」
「……」
教室の前で、彼が離れていく。
信也がいれば、他はどうでもいい。気持ちではそう思っていても、
やはり世界は信也だけでは出来ては居ない。
生きている以上、彼以外にもかかわりを持たなければならないことが山ほどある。
今のように。
「随分見せ付けてくれるね、霧島さん?」
「……」
美智子は答えない。信也の入る事の出来ないトイレを狙われた。
彼女、かつて友人であった加田は以前と同じ笑顔で話しかけてくる。
美智子にはそれがたまらなく気色悪かった。
「無視しないでよ、ねえ」
今度は他の女子が彼女を煽り立てる。
「卑怯者。いつも私が1人だけの時を狙って」
「酷いよね。男が出来たとたんにこれだもん。一番友達できないタイプの女ね」
美智子を囲んでいる、加田を中心とした数人の女子。
いずれもテニス部であることはすぐにわかった。
彼女等はニヤニヤと、苛め集団特有のサディスティックな笑みを浮かべながら、
舐め回すように美智子を見るのだ。
気分が悪くなってきた。
「私は信也君さえいれば、それで良いの」
「そう? でも彼ならさっき別の女とどっか行っちゃったよ?」
「え」
瞬間、地面が消えたような感覚に陥った。信也が他の女と居る。
自分ではない、他の女と楽しげに喋っている。
そんな事を想像しただけで、彼女の脳は思考を失い、フラフラとめまいがしてくる。
どんな表情をしているのだろうか。女達がクスクスと含み笑いをしているが、
美智子の耳には入らない。
彼女はネガティブな思考を止めることができない。自分が信也と別れたら、どうなるのだろう。
彼に飽きられたら、どうなるのだろうか。その先を想像したくない。
それはあまりに恐ろしいので、想像したくないのだ。それでも、嫌な想像を止める事ができない。
1人ぼっちでずっと過す。いじめを受けながら。ずっと1人。
そして、隣では楽しげに笑い合う信也と、他の女の姿。
いくら彼の名を呼んでも、彼は美智子に目もくれずに去っていく。
孤独。
彼女に残されたモノは、なにもない。
倒れそうになる。さっきの、別れ際の信也の笑顔が思い出せない。
これは動揺しています。といっているようなもので、それは彼女等を余計に刺激する。
「必死ねぇ、冗談よ」
「……!?くっ!」
加田の言葉で、はたと我に帰る。
彼女等のペースに巻き込まれてはならない。今すぐにここから出た方がいい。
そう自分にも言い聞かせるが、信也の事になると無視する事ができない。
どうしても反応してしまうのだ。
「でも、貴女がそこまで執着するだけあって彼、良いよね」
「……何が言いたいの」
なんとか強気でいようとする美智子だが、加田の笑みを見てぞくりと、嫌な予感がして、
鳥肌が立った。
「私ね、思い切って信也君にアタックかけてみようと思うけど、どう思う?」
「なんで!」
叫んでいた。
信也の事になると、彼女は神経質なまでに反応するのだ。
そこを突付いていじめてやると言うのが加田の考えだった。
実際は彼女にとって信也などはどうでもよかった。
加田の思惑通り、美智子はもう平生の彼女ではなくなり、無様にわめき散らすのだった。
色白で、普段は寡黙である彼女の端正な顔が、耳まで真っ赤になって歪む。
傍から見たその様は、ひどく滑稽なように見えた。
「貴女の自慢の彼なだけの事はあるわ。ルックス良いし」
「ふざけないで! 信じられない、なんでそんな考え方が出来るの!?
なんで人の大切なものを、そんな風に出来るのよ!」
「それはごめんね。でも気にしなくても良いよ、特攻みたいなものだから。
彼が本当にあなたの事好きなら、問題ないでしょ?」
「……」
激情の次は不安が雪崩のように押し寄せて、美智子の表情は、今度は逆に青ざめていた。
言い様もない焦燥感に嬲られて、体の震えを止める事ができない。
あんなものはただの戯言である。冷静になれば分かるはずだった。
しかし何故か、彼女の心を染めてゆくのは、悪いほうの予感だけだった。
これを境に、美智子はいままで以上に、執拗なまでに彼を束縛するようになるのである。

2009/08/27 To be continued.....

 

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