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Who am I ?(仮)

第1回 第2回    


1

 どうして、ボクはボクである存在になれなかったのだろうか。
  幾度も、自分自身になりたいと思った。
  しかしそれは、ボクの心が、許さなかった。
  有限の命の限りに生きていかなければならないというのに、
  自信を見つめることは、何よりも躊躇うことだから。
それは、これまでの人生がそうであったし、これからの人生も変わることはないだろう。
  その所為なのだろうか。彼女たちの気持ちに気付いていたのに、最後には全てを捨てて、
逃げ出してしまったのは。
  ボクが、ボクで無い存在に完全になってしまったなら、きっと彼女たちは諦めてくれるだろう。
  そう、信じていたから――。

 

 

 

 ボクは、誰なのだろうか。

 

 

 

 まだ早朝の気だるさは残っている。
  珍しく寝巻きから着替えもせずに、朝刊を膝の上に乗せたまま、
呑気にテレビに映るニュースの内容に没頭していた。
  端的にその内容を説明するのならば、世の中は金さえあれば
ほとんどのことは許容されてしまうということ。
  無論、それがおかしいとは思わなかった。
  それは人の心の中に必ず根付いていること。その思いの大小に関係なく、
認めなければならないことだろう。
  しかし、もし何らかの出来事で被害を受けた人たちがいるとすれば、どうだろうか。
  やはりそんなことがあったとしても、裁判を行なって勝利を得たとしても、
結局は金という形で結果が返ってくる。
  例え人がどんな想いを抱いていたとしても、だ。
「……ととと、もう七時になってる」
  ニュースの内容が変わったことで、先ほどまで頭の中を巡ってた思考が途切れた。
  朝から呆けている場合じゃない。まだシャワーすら浴びてないのに、
あと一時間半で朝食も身支度も終えて、急いで学校に行かなければならないのに。
  内心、かなり焦っている。
  何せ慌てることなんて、普段の生活からは考えられない。
  寝巻きを脱衣篭に脱ぎ捨てて、風呂場へと入る。
  夏の朝から冷水を浴びる、という体育会系の思考はなく、あくまでも熱めのお湯を全身に浴びる。
「頭が痒い〜」
  正直なところ、まだ意識は覚醒しきっていない。
  その証拠に先ほどまでニュースを見ながら考えていたことは、
綺麗さっぱり頭の中から忘却されていた。
  しかしそれも、自身の髪の毛に手を伸ばしたところで終わりを告げる。
「ふむ、最近は暑いから汗も掻いちゃうし、やっぱり毎日朝夜って風呂に入らないとダメかな」
  鏡には、一男子としては有り得ない姿が映し出されている。
  腰まで届きそうな長い黒髪に、つられて見えるすらりと細い腰。
  高校生男子とは思えない体格のくせに、背はそこそこ伸びているが、
自分でも諦めが付いてしまうほどの男らしくない顔。
  そんな自身の見てくれに肩を落としながらも、静波雅(しずなみ みやび)は
髪の毛だけは大事にしていた。
  痛まないように丁寧に、髪をシャンプーするときは割れ物を扱うかのように繊細な指使いで触る。
  すでに両親が他界している自分にとって、母親譲りらしい質のいい髪は、
物心付いた頃から大事にしていた。
  男らしくないとか、気持ち悪い趣味だとか、周りからは思われているだろうが、
そんなことは関係ない。
  声も聞いたことがなく、触れたこともない家族の繋がりを、
少しでもいいから残したかっただけなのだから。

 

「いってきます」
  一人暮らしの我が家から学校までの距離は近い。始業の予鈴が鳴るのは八時半だが、
それよりも一時間早くには家を出る。
  片道十分ほどのその距離を歩くのに、普通の学生はそんな早い行動はしないだろう。
  つまり、雅にはこの時間に登校しなければならない理由があるのだ。
  学校へ向かうルートを歩く前に、隣人もとい幼馴染を起こしにいかなければならない。
  つい最近またリフォームをしたとか、そんな話を聞いた隣人の家の前に立っていた。
  新築のような綺麗な外見の家を眺めながら、チャイムを鳴らす。
「あらあ、おはようみぃちゃん。毎日ご苦労様」
「おはようございます。繁縷、まだ寝てます?」
  自分のことを“みぃちゃん”と呼びながら現れたおばさんに会釈し、目的の人物について訊ねる。
  返答の代わりに、苦笑しながら首を左右に振ってきたのだが。
「あと五分で部屋に入るよ、って言っておいてください」
  仕方ないので、そのまま玄関の外で待つことにした。
  毎度のことなのだが、ここからは背中に煩い音が聞こえてくる。
器物を破壊したような音や、水が吹き出るような音。とにかく音という音が出尽くしてくる。
  そしてきっちり五分。背にしていた玄関から物凄い勢いで人影が飛び出してきた。
「はあ、はぁ……お、おはよう、みぃちゃん」
  家の中で何があったのかは知らないが、思い切り息を切らせている彼女が、
申し訳なさそうにこちらを見た。
「おはよう。相変わらず朝から飽きないね。寝坊するの好き?」
  彼女――和泉繁縷(いずみ はこべ)が困ったような笑いを見せてから、突然頬を膨らませる。
  ばたばたとその場で暴れる様子が、小動物の行動のように見えて微笑ましいものなのだが。
「仕方ないのー! お姉ちゃんだって色々忙しいんだから!」
  通学路でそれをやられるのは、恥ずかしいことこの上ない。
  お姉ちゃん、という通り、繁縷は雅よりも一つ年上であり、
今年で卒業を控えている高校三年生だ。
  成績優秀であり、美人、よりかは可愛い印象のほうが強い顔立ちに、
雅よりも長い黒髪を揺らしている。
出るところは出過ぎているスタイルは、学校ではかなりの人気を博している。
  非常に落ち着いて穏やかな性格であり、人間的にも確立されているため、
生徒会長に就いている彼女を知らない、という生徒は少ないだろう。
  だが、どこでどう間違ったのか、学校外の実生活はその姿はまったく見受けられないのだ。
「ほらほら、もう少しで学校に着くんだから、そんなおバカなことはやめなさい」
  肩を叩いて、とてもじゃないが年上とは思えない繁縷を宥める。
  それでも未だに不貞腐れているのか、じろじろとこちらを見ては、
目を逸らすということを繰り返している。
「だぁーってえ、みぃちゃんが苛めるんだもん!
  そうやっていっつもいっつも、どれだけ私が傷ついてると思ってるの!?」
  泣いたフリを演じているのは明らかなのだが、都合の悪いことに学校が目の前に迫っている。
  諦めてこちらが折れるしかないのだが、学校の敷地に入るまでに渡さなければいけないものがある。
  弁当の包みを二つ、鞄から取り出して繁縷に渡す。
  未だに暴れていた繁縷の動きが、それでピタリと止まる。
「あ、今日のお弁当だ。ありがとう」
  二つの包みを受け取って、繁縷の表情が柔らかくなる。
  同時に腕を絡ませてくるが、学校目前ということもあって強引に引き剥がす。
「もう学校だからおしまい。これ以上おバカになったままでいると、繁縷のイメージが悪くなるよ」
  言われて繁縷も気付いたのか、自分の頬を何度か軽く叩いて表情を引き締める。
  自分で叩いて痛かったのか、涙目になっているのだが、大丈夫だろう。
  それから校舎までの道はあっという間だった。
「それじゃあ雅君。またあとでね」
  先ほどとは打って変わり、まるで別人のような繁縷が手を振りながら、
優雅な仕草で先に教室へと向かっていった。
  ようやく彼女の体が、“学校モード”に切り替わったのである。
  姉の本当の姿を知っている身としては、それは奇妙な光景だったが、
今更のことなので気にすることもなく、雅も自分の教室に向かっていった。

 

 二時限目の授業も終わり、次の三、四時限連続の体育授業のために更衣室に向かう。
  が、席を立ったところで不意に呼び止められた。
「雅ー、一緒に行こうぜ」
  これがまた、実生活の繁縷と肩を並べれるほど騒がしい人物である。
  ――清原墨人。中学の頃から何かと腐れ縁がある男友達。
  一人よりかは二人で歩いたほうが楽しいのは事実で、
それは気の知れた人物だからこそ成り立つものである。
  無論、体育の授業中でもそれは続いていた。
  男女共同で使っている体育館は、それぞれにスペースが半分ずつ分けられている。
  男子のほうではバスケが行なわれており現在は雅と墨人共々、
組み合わせのチームではないので壁際に座って無駄話をしていた。
「女子はバレーか……エロいよな」
  唐突に変態的な発言をした墨人を一瞥して、雅も何気なく女子のほうに目が向いた。
  なるほど、と納得してしまうような光景が広がっている。
  シャツとジャージという姿の女子たちが、身体を目一杯使って球技に集中している。
  当然、揺れている箇所は揺れているわけで、墨人の言いたいことはよく分かった。
「やっぱ久遠の胸が一番だよな、ホント」
  と、墨人の目が一点に集中していた。
  一際大きく揺れている胸が、本人の存在を更に強調しているように見える。
  丁度、久遠美津希(くおん みつき)が相手チームのコートに
スパイクを打ち込んでいたところだった。
「ちょっと、同級生相手にそんなこと言うのって……」
  かといって、墨人が躊躇いもなく胸だの何だのと言う神経が理解できない。
  思わず言いかけたが、墨人はあっさりと言い切ってしまう。
「周りからオナペット扱いされてるし、別にいいんじゃね?」
「本人に聞こえたらどうするのさ……」
  その墨人の発言に、否定することもなかった。
  事実、彼女の噂と周りの男子の奇異な視線を見る限り、
その発言は間違っていないと素直に思えるからだ。
  久遠の容姿は、それこそ雅がよく知る女性の繁縷に負けず劣らず、
見事なまでに完成されている。
  よく手入れされた長髪に、豊満な胸にすらりと伸びた脚。
同年代の女子に比べて一つ上を行く美人の容貌。
  加えて大企業の久遠グループの娘というお嬢様であれば、目を付けない男はいない、らしい。
  そして彼女に突撃していった男は、次々と玉砕していったと言われている。
  学校ではイケメンと言われている男、スポーツが出来る男、勉強が出来る男、
数えるのが面倒なほどの人数の男たちが潰されたのだ。
「うちのクラスだって、そう思ってる奴らはたくさんいるだろ」
  しかし振られた男達は、決して彼女のことを諦めてはいないらしい。
日々熱い視線を彼女に向けていて、再び機会を狙っているとのこと。
  墨人の言葉につられてふと周りを見る。
  バスケに参加していない何人かの男子が、卑しい目つきで久遠を見ているのが分かる。
  恐らくは、この中にも彼女に告白した者はいるのだろう。
  気持ちは分からなくもない。
  ただ、共感することはできない。
「どうしたの雅? そんなに難しい顔して」
  ふと掛けられた声に驚く。
  いつの間に女子の試合が終わったのか、久遠が覗き込むように目の前にいた。
  こちらが座っているせいか、彼女の姿勢が前屈みになっていることもあり、
シャツ越しに見える胸が柔らかそうに揺れている。
「あ、ううん。ちょっと疲れてて」
  まさか、『先ほどまで墨人と、あなたの胸について話してました』などと言えるわけがない。
  とうの墨人は、まるで何事もなかったかのように別の男子と話を始めていた。
「久遠さんは、試合どうだったの?」
  彼女と話すようになったのは、二年に進級してから間もない頃からだった。
  明るく、それでいてはっきりと自分の意思を伝える彼女の性格には、羨ましく思うものがある。
  告白を次々と断っている、というのは自尊心が強いのだろう。
「あら、見てくれてたの? もちろん試合には勝ったわ」
  試合に勝てたのがそれほど嬉しいのか、満足したような表情を見せてくる。
  これがなかなか、可愛いものである。男子に人気があるというのも、分かる気がする。

「凄いね。ボクはあんまり運動は得意じゃないから、羨ましいよ」
  掛け値無しに久遠を称賛できるのは、
心の底から彼女のことを羨ましく思っているからなのだろう。
  対して試合後すぐということもあるのだろうか、久遠の顔は赤く染まっていた。
  かと思いきや、突然周囲を何度か窺ったりと落ち着かなくなってきている。
「ご、ごめんなさい。もう戻るわ」
  久遠はそう言うや否や立ち上がって、今度はこちらの様子を何度か窺いながら
女子の輪に戻っていった。
  終わった頃合を見計らっていたのだろうか、久遠が女子の輪に戻って程なくしてから、
墨人が話しかけてきた。
「なあ、お前って久遠とよく喋るよな」
  不思議そうに訊ねてくる。が、これまで何度墨人が同じことを訊いてきただろうか。
  溜め息を吐きながらそれに答える。
「さあ? ボクの顔が男っぽくないからじゃない?」
  自分で言っておいてなのだが、何気なく傷ついてしまう。
  久遠が異性と話している姿を見るのは、
男のほうから声を掛ける以外はほぼ見かけることはないらしい。
  男が嫌いだから、誰に告白されても断っている、という噂もある。
  しかし、そうは言っても現に彼女は先ほどのように、たまに話しかけてくることがあるのだ。
  恐らくは、雅の顔を見ても男だと認識しないのだろう。
  残念なことに生まれてからこれまで、学校指定のブレザーを着ていようが、
男子トイレにいようが、初対面の人間からは必ず女だと間違えられている。
  伸ばしている髪のせいもあるだろうが、何よりも鏡を見たときに、
自分でも悲しくなるほどの女顔が映っているのが原因なのだろう。
「そう言うなら髪を切れ、髪を」
  墨人が厄介払いをするかのように、雅の長髪を手で追い払うような仕草をする。
  しかしそれは無理な話だ。
  この髪は、自分の母親の姿を思い浮かべるための証であり、そして、
「もう、そんなこと言ったって切れないよ。大事な髪なんだから」
  自分に残っている、唯一の家族との繋がりなのだから。

 

「雅君ー、お弁当食べよう?」
  大して動きもせず、それでも適度に疲労感が溜まった体育授業が終わり、
昼休みの時間になった途端だ。
  教室の前で待っていたらしい繁縷が、嬉しそうにこちらに駆け寄ってきた。
  墨人とのんびりと教室に入ろうとしていたところで呼び止められたが、
別段いつものことであった。
  しかし、その“いつものこと”で毎度ながら墨人が激昂するのだが。
「うおおおお雅いいいい!! お前はまたしても会長の弁当を食べに行くのか!!!!」
  ボクが作った弁当なんだけどね、と言いかけたが踏み止まる。
  苦笑しながら黙って聞いていると、なおも墨人が続けて叫び声を上げる。
「我らのアイドルの和泉会長が、よりにもよって本人自体に男っ気の無い奴が!!
  ただ幼馴染だからという理由で手作りの弁当を食べさせてもらうなど許すことができるか!!」
  長々と喋る墨人につられて、徐々に雅に対しての悪意ある声が上がってくる。
  改めて繁縷の人気を再確認されているようだが、全く持って気分は良くない。
しかもよく見渡すと、体育授業から戻ってきたクラスの生徒たちも見かけるから
堪ったものではない。
  いつの間にか嗚咽を漏らして泣きじゃくる墨人だったが、
結局は構わずに周囲に微笑を向けている繁縷の手を引いて、急いでその場から避難した。
  この学校は、普段は屋上は解放厳禁である。
  しかし、一時的な備品の保管場所の役目など、意外と使用する機会が多い。
  そのため、生徒会が鍵を保管している。
つまり、繁縷と昼食を済ませるときは、いつも屋上に行くことになっているのだ。
「ほらみぃちゃん、早く食べようよー」
  繁縷がいそいそと嬉しそうに弁当の包みを解きながら、こちらにも弁当を渡す。
「作ったのはボクだから、複雑な気分なんだけど」
  朝に手放した弁当が、よもや幼馴染が作った弁当へと早代わりするとは。
  しかも昼には必ずご対面という、なんとも無駄なことである。
「ダメなの! 私が作ったってことにしなきゃ、生徒会長としての威厳がないでしょ?」
  何処がダメなのか分かりません。
  ただ見栄を張りたいだけじゃないのか。
「なら、別にボクの分の弁当まで取っていかなくてもいいじゃない」
  広げた弁当箱を見て、これが本当に繁縷が作った弁当なら、と思う。
  しかしそれは叶わないことだろう。何せ繁縷を台所に立たせるということは、
単純に死を意味することになるのだから。
  それに、自分の弁当だけ持っていけば、わざわざそんな愚行をすることもないのだから。
「だ、ダメダメっ! 絶対ダメ! みぃちゃんと一緒にお弁当食べれなくなるじゃない!!」
  物凄い形相で、繁縷が迫ってきた。
近すぎて、おでこ同士がくっ付きそうになるほどの距離までだ。
  焦っているようで、危機迫っているようで、
恥ずかしそうな繁縷の表情が視界一杯に広がっている。

 ――やっぱり、姉よりも妹と言ったほうが正しいのか。
  小さい頃は自分がどこに行くにも、繁縷はその後ろをちょこちょこ付いて歩いていた。
中学生くらいになった頃からどうしたのか、突然繁縷が姉のような振る舞いを見せてきてからは、
その立場は変わったが。
  とは言うものの、繁縷の後ろを好きで付いて歩いたことも多くはないし、
大抵は引っ張られていったことばかりなのだが。
  彼女には、小さい頃からの癖が抜けてないのだろう。
  ただ、自分と一緒にいるということが習慣付けられていることで、
幼馴染をこれまで通しているのだろう。
  気の知れた仲で、尚且つ甘えて、文句を言ったとしても許容される仲。居心地がいいのは確かだ。
「もう、繁縷も子供じゃないんだから。……そんなんじゃ彼氏の一人や二人出来ても、
苦労しちゃうんじゃない?」
  居心地の良さを知ってしまっているから、それ以上のことは望もうとすら思わないのだろう。
  だがそれでは、彼女自身は成長しないだろう。
  確かに、自分としても姉と呼べる繁縷がいるのは嬉しい。
事実、彼女がいなかったら今の自分があるかすらも、分からないのだから。
  誰よりも身近に彼女を見てきたと自負しているからこそ、彼女はこのままではいけないと思う。
「ねえ、みぃちゃん?」
  いつの間にか、繁縷がこちらの様子を伺っていた。
  声の調子が、先ほどに比べて低いのが分かる。
もしかしたら、気に障ることを言ってしまったのではないだろうか。
  だが、その思考は繁縷の言葉によって断ち切られる。
「みぃちゃんは、今の私のこと、嫌い? 一緒にいて、疲れる?」
  何かに怯えているようで、恐る恐ると訊ねられた。
  雅は首を傾げて、けれどもほんの少しの間を置いてから、ふるふると首を左右に振った。
  自然と、その心は穏やかな気持ちで溢れて、
「疲れるわけないでしょ。お姉ちゃんの面倒を見るのも、弟の仕事、じゃない」
  自分を頼ってくれている姉の存在が嬉しい。姉と呼ぶことが出来て、
頼られて、それこそが繁縷の活力である。
  そう遠くなく、彼女の目の前には良い男性が現れるだろう。
  現在の彼女こそ、子供らしさが存分に残っており、
また誰からも頼られる存在であることも事実である。
  自分は、彼女の心が子供から大人の女性に成熟するまで、温かい目で見守ることが望んでいる。
  何も無かった自分を生かしてくれた幼馴染に対する恩返しでもあるから。
  雅は薄らと微笑み、繁縷の頭をなるべく優しく撫でた。
「ん……ありがと……」
  くすぐったそうに、けれどもどこか寂しそうな表情を浮かべながら、
繁縷は雅の腕にゆっくりと自身の腕を絡ませた。
  不安なのろう。彼女は根底ではしっかりとしているが、まだまだそれは表に出ることが少ない。
  もうしばらくは、彼女の面倒を見なければならないだろう。
苦笑しながら、雅はそのことを嬉しく思うのであった。

2

 帰りのホームルームは、ほとんどの生徒が退屈なものだと思うだろう。
それは教師たちも同じはずである。何が楽しくて、近々行われる学園祭についての話を
毎日口に出さなければならなのかと。
雅は手帳を開きながら、教師の話を聞きながら改めて連絡事項の確認をしていた。
どれもこれも、以前に通知された内容と同じだ。つくづく、繰り返す必要があるのかと思う。
ホームルーム終了の鐘と共に、一日の授業が終わる。
面倒くさそうに教壇の上に立っていた教師が、ぬらりくらりとした足取りで教室から出て行った。
(買い物行ってー、繁縷に回覧板渡してー……)
一日の授業が終わって安堵しながら、メモ帳を片手にぼうっと机に突っ伏した。
他の生徒たちは、部活に向っていたり、そのまま友達と帰るなり、学園祭の準備に没頭するなり、
各々の行動は様々だ。
ただ、帰るしかなかった。
一戸建てに一人暮らしで住んでいる雅にとって、友達と遊ぶという時間は限りなく少ない。
家主、ということになるのだから、家のことを全て管理しなければならないのは当然である。
それは本当に、何気ない偶然だったのかもしれない。
昼食の時間に丁度よく、姉を見ながら感じた思いが、この場に一人でいる自分を寂しく思えたのは。
「雅、雅!」
唐突に名前を呼ばれて、反射的に机から面を上げた。
どことなく真剣そうで尚且つ、期待しているような眼差しを向けている久遠の顔が、
雅の目の前に広がっていた。
「放課後、予定ある? よかったら私たちに付き合ってくれない?」
本来、女性が異性を誘うという光景は、思春期を迎えた高校生たちの間では
ちょっとした意識を向ける矛先となる。
「……いいよ。あまり遅くまではいれないけど」
しかし、その対象となった自分が移る光景は、異性という意識を感じさせない空気を
漂わせているのかもしれない。
面を上げた顔も、返答をした声も、どれも男性とは思えない。
いや、思うべきではないと言ったほうが正しいのだろうか。
雅の容姿は、一部の特殊性癖系の人物たちで知られているところのふたなりと見紛うもの。
つまりは限りなく女性。
一クラスという集団の中で、明らかに異質な存在。
それでも周りもある程度の心身の成長はある。そんな雅を最初こそは訝しむ者もいたが、
やがて慣れて意識すらしなくなる。
男が嫌い、という噂が立っている久遠が雅に声を掛けるのは、
周囲の目からは女友達を誘う光景にしか映らなくなっていた。
「い、いいの? ホントに、大丈夫?」
何度も訊ねてくる久遠だが、雅は大丈夫と笑顔で答える。
彼女のことは、雅にとってはよく分からないとしか言いようがなかった。
見るとさばさばとした性格のようで、いざ話してみるといまのように何度も訊ねてきたり、
相手の様子を窺う素振りを見せる。
他の男子よりかは彼女と接する機会は多いだろうと、雅は自覚していた。
しかし、周りから聞く彼女の話と、雅自身の目で実際に見る彼女は、一致していない部分が多い。
彼女自身が気紛れなだけなのか、各人で彼女の捉えかたが違うだけなのか。
「そういえば、どうしてボクを誘ったの?」
鞄を持って椅子から立ち上がる。
念のために周囲を見渡すが、やはり墨人の姿はなかった。部活に行ったのだろう。
久遠からこうして誘われるのは、何気に初めてのことだった。
噂のこともあり、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
そのせいで、多少なりの不安があるのだが。
それでも気になり、さり気なく訊ねてみた。
が、その返答はない。
「いいから、他のみんなも待っているし、早く行きましょうよ」
代わりに急かされて、雅は渋々と彼女に付いていった。
そのときの彼女の表情は、どことなく赤くて、なぜか影が差していたが。

 

 とりあえず雅を連れ出すことには成功した。
「お待たせー」
校門前で待っててくれた友達たちは、私が雅と一緒にいることを確認して、
各々にこの後の予定を話し合いながら歩き始めた。

 この下校時間には、普段は多くの生徒が我先ばかりに帰ろうと躍起になっている。
しかし今日からは学園祭の準備期間。係りのある生徒は各クラスの半数以上。
ほとんど全員で行うクラスもある。
おかげで人はまばらで、いつもみたいに車を呼び出して帰らなくても十分なほどだ。
「雅は、どこか行きたい場所とかはあるの?」
正直、この質問は無意味だ。
ほとんどの場合、町で買い物に行ったりゲームセンターで遊んだり、高校生にはその程度だろう。
自分とは世界が多少違うのは分かっている。
中学までは学校帰りは必ず車が迎えに来て友達と遊ぶ機会は少なかった。
娯楽こそ同じ買い物といっても、周りと比べて場所や値段の高さのズレがある。
周囲から見たら、私は金持ちの家の娘なのだろう。自分でもそう思っている。
どこぞの米国の学者であり、普段家には姿を見せない両親たちの言うことを聞くよりも、
こうして友達に合わせて遊んでいるほうが居心地がよかった。
「えっと、あまり遊びに行かないから……帰りにスーパーに寄れればいいかな。久遠さんは?」
なんというか、端から見れば雅は面白みのない人間なのだろう。
事実、彼を誘ってもいいかと周りに訊ねたところ、すんなりと了承を得た。
彼女たちは普段関わらないというのに。
どうでもいいという意識が強い、ということなのか。
「私も別に、どこに行ったっていいのよ。ただ雅は行きたい場所ないのかなって」
自分で言った言葉が、深く胸に突き刺さるようだった。
今の発言が、最初から最後まで全てが嘘で出来上がっているから。
「ねえ、服見にいこっか、服!」
突然先頭を歩いていた一人が、こちらに同意を求めてきた。
隣を歩いている雅は笑顔で頷いていた。――本当に楽しいのかと、逆に疑ってしまうほどに。
対して、普段から一緒に遊んでいることもあるのか、自分の発言が無くても行き先は決まっていた。
そうなってしまったのなら、別に構わないからいいのだが。
今日からは、あの女は雅といないのだから。
話が固まってからは、駅から地下鉄に乗って町まで繰り出す。
途中、同じ学校の制服を度々見かける。自分たちと同じような考えを持って、
遊びに出ている人たちも少なくないのだろう。
周囲を散策しながら手ごろな店に入り、各々に服を品定めする。服の値段も、まあ良心的だろう。
制服姿のままで服を買いに行く、というのも難しいと思うのだが、彼女たちは苦にしていなかった。
上から下まで適当に漁り、試着室に消えては全て着替えて出てくる。
「これこれ、どう?」
それぞれからお互いに評価を上げる中で、ふと何気なく雅を見る。
楽しいのか、つまらないのか、判断し難い表情でいた。
そんな雅に気づいたのか、たった今試着室から出てきた彼女たちが彼に声を掛ける。
似合っているか? と。
聞かれてから、雅は彼女たちを一目ずつ見て、先程の表情から一変して薄く微笑みながら言った。
「うーん、ボクは女の子の服とかあんまり詳しくないけど、可愛いと思うよ」
彼女たちにとって、それは意見の一部なのだろう。それも、あまり重要視されない程度の。
しかし、私にとっては違う。
その雅の発言と、彼女たちに向けていた視線を見ていると、胸がちりちりと焦げるようだった。
なぜそれは、自分に向けられていないのか。
簡単なことだ。彼の隣に立っているから。つまりは服を着替えていないからだ。
評価されていないのも当然である。
ただ彼女たちが羨ましかったから、ほんの少しだけ妬ましかったから。
いつの間にかいくつか服を手にとって、試着室に向ってしまう自分がいた。
自分も言われたい、見てもらいたい。
そう思いながら、試着室で制服を脱いで持ってきた服を着込む。
適当に掴んだ服を組み合わせるだけだ。

 キャミソールを着る……サイズが合わないのか、胸の部分が大きく開いていて、
ブラジャーがちらちらと顔を覗かせていた。
フレアのスカートを穿くが、丈が短くてぎりぎりショーツが見えそうなくらいだ。
(ああ……やっちゃった……)
あまりにもお粗末な具合だった。
申し訳程度にボレロを羽織るが、あくまで気休め。
普通の男ならこれでも構わないのだろうが。もう着てしまっては仕方がない。
「ど、どう……かな」
試着室のカーテンを開けて、誰とも言わずに訊ねれてみる。
が、目に映った視界を見て愕然とした。
居心地の悪そうに苦笑している雅が、たった一人でその場にいたのだから。
もしかしたら、他のみんなは気づいていたのだろうか。私が雅に向けている視線に。
「えっと、サイズとか……合ってないですけど、久遠さん美人だし、似合ってますよ」
たどたどしく、それでいてどこか控えめに言った雅の言葉が、心の中で何度も響いては静まり、
その繰り返しが延々と続いた。
その言葉を聞くだけで、恥ずかしい気持ちが溢れて、嬉しくなって、
少しずつ温かいものが広がっていく。
もし雅ではなくて、他の男だったらこんな気持ちにはならないだろう。
例え同じことを言われたとしても、その言葉の影から下心が見えて、相手の目を見るのも嫌になる。
現に今の自分の姿は、男にとっては手を伸ばしたくなるようなものだろう。
普段学校で向けられている視線が、あれだけ多いのなら。
自意識過剰と思われていようが、自分は性欲の対象として確かに見られていると、自覚している。
男というものは、そういった存在なのだと認識していた。
けど、雅は違った。
「そ、そう? 雅が言ってくれるなら、別に気にしないんだけど……」
気にしない。それは嘘だ。
雅に言われるから、気になって仕方がなくなるのだ。
彼からは他の男から感じるものがない。あるのは、温かい母性の眼差し。
男のくせにどうして、と思うことは何度もあった。
けれども、雅を見ているだけで母親のような温かさと、
異性としての意識が自身の中で少しずつ混ざっていく。
その想いが、一気に湧き上がってきたからなのだろうか。
雅の次の言葉を聞く前に、試着室に逃げ込んでしまったのは。
結局、それだけだった。
その後は別の服屋に移動して、同じことの繰り返し。
私のことをみんな感づいたのか、度々雅の隣を歩いてはいたけれども、
それからはたまに言葉を交わす程度だった。
「じゃあねー!!」
「また明日ね」
けれども、最後にみんながチャンスを与えてくれた。
地下鉄で無理やり雅と同じ駅に降ろされた。恥ずかしいとは思っていても、気遣いが嬉しい。
ただ、とうの雅は私のことなんて全く気にしていないのか、
少し疲れているような表情で隣を歩いている。
「ねえ雅、その……」
何かを話して、少しでも雅に近づきたい。
いつも雅の隣を歩いている人がいないこんなときでしか、私は彼の隣にいることは出来ないから。
その思いが先走ってしまったのか、口に出した途端、物凄く自分自身を恨んでしまった。
「私って……どうかな?」
その言葉は、私の中の期待と不安が込められていた。
いくらなんでも早すぎる。確かに雅とは色々と話をしたりする仲だけれども、
突然そんなことを訊くほど親密な仲じゃない。
せいぜい学校内での友達程度がいいところ。一緒に外に出たのはもちろん初めてだし、
夜に二人で歩くことなんて考えられなかった。
こんなことを言ってしまって、どうにもならなくなりそうで不安で仕方がない。
けれども、雅自身が私以外の女と話しているのはほとんど見かけない。ただ一人を除いては。
もしかしたらと、淡い期待が募ってしまっている。
「どうって……どうも?」
ただ、やっぱり聞く相手が雅だということである。
そこら辺の男女の色恋沙汰には、どこまでも疎かった。

 あれから、結局は何件も店に付いて行って、あれこれ話して、
普段は決して外に出ない時間を回ってた。
帰路に着いた頃には、既に夜九時を過ぎていた。
夕食も用意していないし、帰りに久遠と適当に言葉を交わしてから別れて、
ついでにスーパーに寄ってこそはいたものの、支度をする気分でもない。
暗い中で、家の外観を見ることは、本当に数えるほどだったが。
「ただいまー」
一人暮らしのくせに言うことでもないのだろうが、何と無く言っている自分がいる。
ただ、それに答えるものが返ってくるとは、思ってなかったけれども。
「みぃちゃん!!」
と、居間のドアが全壊するのではないか、と思えるくらいの音が響いた。
声で誰が飛び出してきたのか瞬時に分かった。
繁縷が、庭に隠してある鍵でも使ったのだろう。居間から現れて抱きついてきた。
「ど、どうしたの繁縷?」
どうしたもこうしたも、まず明かりもつけずに他人の家で何をやっていたんだ。
そう思ったが、彼女の肩に手を乗せてから、その思考が停止した。
震えているのが、直接伝わってくる。
「どうしたじゃないわよ……こんな遅い時間になっても帰ってこなくて、心配したんだから……」
繁縷が襟を掴んできて、離さなかった。少しばかり苦しいのだが。
「ご、ごめん……」
まあ、ここまで心配していたということなのだろう。
自分にも悪いことをしてしまったと思うところもある。
「それで、どこの女と遊びに行ってたの?」
「……は?」
思考が、停止した。
その言葉は、あまりにも短絡的で、的を射ており、
「ううん、他の女の臭いもある。誰と遊びに行ったのか、お姉ちゃんに話しなさい」
いつの間にか襟に鼻を押し当てられて、何かを品定めするように臭いを嗅いでいた。
というか、臭いなんてあるのかと聞きたくなる。
どうして、繁縷がそんなことを気にするのか、分からない。
「え、クラスの友達と……」
今日一緒に出かけたのは、クラスの数人の女友達。
と言っても、実際には久遠辺りとしか話をしていないのだが。
その言葉を聞いて、繁縷は眉を顰めていた。
「ダメよ。こんな時間まで外に遊びに行ってるような子達となんて。
みぃちゃんはいい子なんだから、もうその友達と遊んじゃダメ」
暗がりの中でさらに、繁縷の表情に影が差した。
どうして釘を刺されなければいけないのだろうか。
心配していたというのは分かる。けれどもそれだけで、
自分の交友関係も制限しなければならないのだろうか。
否、そんなことはない。
ある程度の付き合いは必要だ。どんな相手であっても、自制すればなんの問題も無い。
しかし、そう思ってはいても、口から言葉が出てこなかった。
「わ、分かった……から」
喉元まで引っかかっていた言葉を飲み込み、代わりに彼女に同意をしてしまった。
彼女の目が、手が、否定することを許さなかった。
反抗することさえ許されず、ただ従わなければいけないと思考が警報を上げている。
「本当に分かったの?」
再度確認される。その声は普段の姉の声ではない。
ただ何度も、頷くしかなかった。
そうするとどうだろうか、先程まで繁縷から感じていた重い空気は薄れて、
いつの間にか彼女の表情はいつもの姉の様子を見せていた。
「それじゃあみぃちゃん、ご飯まだ食べてないなら、うちで一緒に食べよう?」
驚くほど笑顔だった。いつもの子供っぽさが抜けていない、自分だけに見せる彼女の顔。
そうやって、表情をころころと変えて、疲れないのだろうか。
腕を引っ張られて、外まで連れ出される。
ふと、引っ張られた腕が、軽くなった。
「ねえ、みぃちゃん」
今度は、か細い声だった。
胸に柔らかい感触を受けて、繁縷の体を抱き止めていた。
襟を掴まれたときの苦しさは感じられない。
その代わりに、彼女の温かさが、夜の涼しさを感じさせなかった。
「本当に、心配したんだからね?
他の女の子と遊んで、お姉ちゃんを置いてけぼりにしないかって……」
先程までの、物を言わせぬほどの剣幕の彼女はいない。
いるのは、どこまでも小さく見えてしまう、自分を心配してくれている姉の姿。
やっぱり、自分が馬鹿だったのだろう。姉をこんなに心配させるなんて、ただの不幸者でしかない。
答える代わりに、彼女を体を優しく抱き返す。
罪悪感があった心が、不意に穏やかになっていくのが、心地よかった。

2009/02/12 To be continued.....

 

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