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俺と素直クールとツンデレと

第1回 第2回 第3回 第4回


1

「ほんとにありがとう! 恩に着る!」
  そういうと、奴は俺の両手を握りしめてぶんぶん振った。
  手を痛いほど握りしめてくれて、おまけに顔はゆるみっぱなしだ。
  奴は下級生の女から大人気、サッカー部のフォワード。
  学業も並で、顔は浅黒く精悍。
  普段なら俺に寄りつきもしないくせに、と意地悪なことを思ったが、すぐに気持ちが萎えた。
  美那(みな)が現れると、俺のことを忘れたかのように、
奴は美那のところにすっ飛んでいったからだ。
  奴と美那がにこやかに話してるのをみて、寂しいような悲しいような、
なにかこみ上げるものがあった。
ゆえに俺は表情に出さないように顔をうつむけて、自分の席に戻る。
「へー、ついに喜多口くん、及川にオッケーもらったんだ?」
「なんでも、藤沢くんに紹介してもらったんだって」
「えー? 藤沢くん、及川のこと好きじゃなかったの?」
「単なる幼なじみなんでしょ? 好きだったら紹介しないじゃない」
  誰かのその言葉に同意の声が密やかにあがった。
  それを聞いて俺は泣きたい気分にになった。
  好きな女を他人に紹介してしまう馬鹿がここにいますってわめきたくなったが、我慢した。
  その荒れ狂ったやるせない感情を、ため息にして長々と吐き出す。
  そこに声がかかった。美那だった。
「浩介、今日、私、少し遅くなるから」
  美那がそういうと、その視線が奴に流される。奴が露骨ににやついた。
「わかった。おばさんに言っておく。理由、部活にしとくけどいいよな?」
「ありがと。じゃあ、喜多口くん、行きましょ」
  胸にわき上がる何かを必死で抑圧し、作った笑顔と作った平静さは、
形ばかりの感謝の言葉で返される。
  思わず美那の背中を目で追いそうになるのを渾身の力で押さえ込んで、
読みもしない教科書を広げる。
  どちらにせよ、何をしたって、どういう奇跡があっても、俺と美那は交わらない線だ。
  だから、……だから美那と奴がくっつくので、なんの問題も……ない……はず……なんだ。
  熱くなる目の奥をなんとかこらえる。目の前がぼやけた。
  急いで目をこすり、それでもあふれそうになって目を押さえて下を向く。
  泣いてはいけない。好きだったなんて知られてはいけない。
愛してるなんて気取らせてはいけない。
  静かにゆっくりと息を吐いて、胸の中の何かを外に出した。
  その動作で、俺の心が収まり、悲しみに満ちた。……でもこれでいい。
  ……できれば、この美那が好きだって気持ちをえぐり取って捨ててしまえればありがたい。
  次の時間のチャイムが鳴り始める。周囲が席につき始める。
  それがこんなにありがたく感じたことはかつて無かった。

 俺は藤沢浩介。高校二年。黒縁眼鏡をかけて、ひょろっとした体格の、冴えない男子高校生。
  及川美那は、幼なじみだが、こちらは快活で明るいクラスのリーダー的な存在だ。
  顔もかなり綺麗でスタイルも良く、小学校の時から、つきあう男に不自由したことはない。
  俺がいつからこんな気持ちを美那に感じてしまうようになったのかは、はっきりしない。
  ただわかるのは、たとえ幼なじみでも俺達は恋人としては釣り合わないってことだ。
  そもそも俺は美那に男としてすら見られていないだろう。
  時々美那が俺の部屋に来るのも、俺のできあがったノートや課題、
ゲーム機や本が目当てなだけだ。
  それなのに、俺一人、馬鹿みたいに美那を気にしている。
  そんなことをしておいて、美那を紹介してくれという男共の橋渡しもしてやってる有様だ。
  自分でも馬鹿だと思うが、告白して何もかもぶち壊れるのは、もっといやだった。
  だから俺はこの思いを、忘れることが出来るそのときまで、
自分の中だけに留めていようと思った。
  その誓いに、俺の胸が締め付けられるような痛さで抗議する。
  そんな軟弱さを呪いながら、俺はやっと顔をあげた。
  この痛みで心が失血死すれば、楽になれるような気がしたからだ。
  ふと何気なく横を向く。二つのまっ黒く美しい瞳と出会った。
  瞳の持ち主は宇崎沙羅という女生徒だった。
クラスの女子の中からは孤立気味だがこれには、理由がある。
  美那とはちがった種類の、整いすぎて冷たいくらいの美貌がまず一つ。
  胸も大きくスタイルもいいが背が高すぎて、しかも姿勢がいいため、威圧感があることが二つ目。
  そして帰国子女で何事もはっきり言って、
空気を読まなければいけない状況をしばしばぶち壊す癖が三つ目。
  好感が持てる女だけど、今の俺の表情について、空気をぶち壊して聞かれるのはごめんだった。
  目をそらし、顔を隠すように俺はうつむいた。

 ありがたいことに、それきり何も起こらず、その日の授業はすべて終わっていった。
  そう、俺は思いこんでいた。
  覆されたのは最後のチャイムが鳴り終わった後だった。

 授業から解放されたざわめきも小さくなり、
部活のかけ声があちこちで始まった頃、俺達は屋上にいた。
  宇崎が俺をここまで連れだしたのだ。
「で、用って?」
「ふむ。なぜ君は、好きな女を他人に紹介して、それで泣いているのだ?」
  何もする気が起きなくて言われるままついてきた俺に、宇崎が仏頂面をいささかも崩さず尋ねた。
  だが能面のような表情とうらはらに、内容は鉈のように俺の心をまっぷたつにした。
  人は単刀直入すぎる言葉を投げかけられると、フリーズするらしい。
  何か言おうと口を動かそうとしたが、出たのは意味のない「あ」の音のみ。
「質問の意味が分からないか? 藤沢、君は及川に強い好意を持っていたはずだ。
なのに、どうして及川と喜多口の間を取り持ってやって、それでなぜ泣くのだ?」
  何も言えない俺に、宇崎は質問が分からなかったと誤解して追い打ちをかけた。
  だがそのストレートな質問が、焼けただれた心に突き刺さったがゆえに、フリーズは解けた
「……好きじゃない」
  俺の言葉に、宇崎は長身の俺よりほんの少しだけ低い位置で、頭をかしげた。
「俺は、美那を好きじゃない。……だから泣いてなんかいない」
「そうか」
  宇崎は、なぜか俺の、精一杯の強がりに満ちた言葉を否定しなかった。
  ただ真剣な顔で頷いただけだった。
「ならば、良かった。君がそう言うなら、私も安心できる」
  心の奥底からこみ上げてくるものが、宇崎の妙な返答で動きを止めた。
「へ?」
「……繰り返して聞くが、藤沢、君は及川のことを好きではないのだな?
  愛していないのだな?ただの、仲がいい幼なじみなのだな?」
  そういいながら宇崎は俺を見据えて、問いつめるように顔を近づけてきた。
すごく迫力に満ちていた。
「あ、ああ。……そうだよ」
  そのとき、俺は気圧されていたのだと思う。
胸が痛みながらも、肯定の回答はするりと口を滑り出た。
「……良かった。……本当に良かった。……だったら、言える……」
  宇崎が目を閉じて深呼吸をした。その顔がなぜか不安げで……そして奇妙に俺の心を騒がせた。

「藤沢……私は、君のことが好きだ。……君が及川の事を好きでないのなら、
どうか……私とつきあって欲しい」
  その顔は相変わらず無表情だった。
そのはずだった。なのに、その黒瞳は美しいきらめきを発して、俺を射抜いた。
  そして俺は二度目のフリーズをした。単刀直入過ぎても予想外過ぎても、
俺の心はハングアップするらしい。
  好きだという言葉と、宇崎の目が俺の脳裏で渦を巻く。
「……その、だめだろうか?」
  呆けていた頭が元に戻ったが、結論が出るはずもなく。俺は呆然と突っ立っているしか無かった。
  そんな、俺に宇崎が突然頭を下げた。
「……すまない。君が……悲しさを押し殺すために、
……心に決着をつけるために、そう言ったのはわかっていた。
  君が、及川のことを好きなのは、良くわかる。私だって、君のことが好きだから。
同じ立場だからよくわかる」
  頭をあげた宇崎の目が思い詰めた光を放っていた。
「でも君自身が及川なんて好きじゃないって言ってくれたから、
……すごくうれしくなって……すまない。
  だけど、一つだけ……。同じ思いを持つ友人として、一つだけ」
  宇崎の顔は、やっぱり表情を変えてなかったのに、なのに、その顔がとても優しい感じになった。
「失恋したら、泣いていいと思う。……泣いた方が、早く立ち直れる……」
  そして、俺は三度目のフリーズを起こした。
  気がつくと、目の奥から熱い何かが止めどもなくあふれ出し、頬を伝い、顎からしたたっていた。
「あ……、どうして……、俺……」
  言葉も心も裏切って、涙は流れ落ちる。
  視界がうるみ、体が震えだし、声がかすれて、……次に漏れたのは、声。
  そして息がどうしようもなくしゃくりあげるようになって、
俺は……たぶん……とてもひさしぶりに……声をあげて泣いた。

 どのくらい経ったのか、俺にはわからない。
  顔も袖も心もぐしゃぐしゃになって、それでも宇崎はずっと側にいてくれて、
俺はようやく涙が収まってきて。
「ありがとう、宇崎」
  かすれた声で俺は礼を言った。宇崎は慰めの言葉を掛けてくれたわけでもなく、
抱きしめてくれた訳でもない。
  でもそんなことよりも、ただ何も言わず側にいてくれた、その心が俺には伝わった。
  そして俺を心配そうに見る宇崎の顔が、今はなぜかとても綺麗に見えた。
  だから、言うべき事はわかっていた。同じ思いを分かち合っていたのだから。
「宇崎」
「うん?」
「……俺は……俺の心は……まだ美那にひかれている部分がある。
でもそれでもよければ……俺からも……その」
  宇崎の表情がこんなに変わるのを見たのは初めてだった。
それは恐怖にも驚きにもにた表情だった。
  彼女は無表情の下に、優しくて熱い心を隠していたんだとわかった。
「……つきあって欲しい」
  それは俺が先ほど味わった気分だと思う。彼女はフリーズしていた。
でも目に涙が盛り上がっていた。
  きっとダムは決壊し、心のもやもやしたものが押し流されてしまうだろう。
  一筋の水滴が流れ落ちた。
「……宇崎、これからよろしく」
  俺は頭を下げた。

 そして俺達は二人して、ぐしゃぐしゃになった。

 その日、俺達は一緒に帰りながら、いろいろとしゃべった。
  夕日に映える宇崎の顔は、とても輝いていた。それを好ましく思う自分に、俺は苦笑した。
  美那の事を思い詰めていたのに、もう俺は宇崎に心を移しかけているらしい。
  だが、心の片隅のそんな声にも関わらず、宇崎は魅力的だった。
  彼女のまっすぐさと優しさが、俺の心にしみた。心からの笑顔が、まぶしかった。
俺の視線に照れる仕草が可愛かった。
  どうして彼女を無機質な女だと思っていたのか、
過去の自分の感じ方が、まったく腑に落ちなかった。
「じゃあ、また明日!」
「ああ、明日な!」
  夕日の中を去っていく彼女に、どうしようもなく寂しい気分を感じて、
俺はそんな自分自身にもう一度苦笑いを噛みしめた。

 次の日から俺達の生活は変わった。
  昼休みになると、俺達は目の合図で、屋上に上がった。
  涼風に吹かれながら、俺は彼女の作ってきた弁当を食べて、そんな俺を見て彼女は笑った。
  放課後は、二人であちこちうろつき、休日はデートで、いろんなところを遊び回った。
  美那のことが気にならなかった、というのは嘘になる。
  だけど、日に日に美那よりも……沙羅のことが大きくなっていった。
  時間と沙羅が、俺を変えていった。
  そしてそんな俺と沙羅の変化を、周囲が気付かない筈もなく、
いつしか俺達は新カップルとしてクラスの噂になってきていた。

 その日、俺は沙羅と次の休日の予定を決めるべくファーストフード店で粘り、
海に行くことで合意した。
  そのため少し遅めに帰宅して、夕食を食べ、自室にあがった。
  いつものごとく、マグカップに茶を満たし、扉を足で開けて入ると、そこに女の姿があった。
「美那!」
「こんばんわ、お邪魔してるから」
  俺の驚きの叫びにも動じず、美那は俺の部屋で漫画を読んでいた。
  わりと久しぶりだった。彼女は時々ベランダを乗り越え、俺の部屋に無断進入する。
  俺は彼女の部屋には小学校5年以降は行っていない。彼女に来るなと言われたからだ。
  彼女が俺の部屋に来るときの目当ては、俺のノートとか課題、もしくは漫画かゲームだ。
  しかし最近俺はデートに金をつぎ込んで、漫画は買っていなかった。試験はもう少し先だ。
「どうしたんだ? 新しい漫画は買ってないよ?」
「そんなことはどうでもいいの」
  なにやら機嫌が悪いらしい。切って捨てるような口調に、俺は肩をすくめて椅子に座った。
  こういうときは放っておくのが一番というのは、長年のつきあいから来る知恵だ。
  俺は美那に背中を向けて机に向かうと、勉強をはじめた。
沙羅と同じ大学に行くためには少々頑張る必要があるからだ。
  しばらく鉛筆が走る音だけが室内に満ちた。俺は美那が居るにも関わらず勉強に集中していた。
  そのことを自分でおかしいことだと思わなかった。……その変化を指摘したのは美那だった。
「珍しいじゃない。私が居るのに勉強に集中して」
「……あ? そういやそうだ」
  確かにそうだなと思いつつも、俺は勉強を続けた。
「ふーん、宇崎さんに遊んでもらってることがそんなにうれしいの?」
  脈絡無く美那の口から沙羅の名前が出て、俺は思わず美那に振り返った。
「な、なにが?」
「勘違いは早く気付いた方が、後々苦しまなくて済むよ」
「どういう意味だよ?」
  俺の問いに美那が嫌な笑いを口に浮かべた。
「浩介と宇崎さんって全然似合ってないよ。宇崎さんにふさわしい人が来たら、
浩介なんてあっという間にバイバイだよ?」
  美那のしゃべった内容よりも、その口調に嫌なものを感じて、俺は顔をしかめた。
「美那は沙羅を知らないからそんなことを言うんだよ。……それに沙羅が他の人を
好きになったとしても、それでも沙羅がくれたものの価値は変わらないから」
  何が、美那の逆鱗に触れたのかわからなかった。
ただ、俺の言葉とともに美那が恐ろしい目つきをしたのは確かだ。
「ふーん、浩介って鈍いね。……宇崎さんが浩介の事、うざいって噂してるの知らないの?」
「え? 嘘だろ?」
「本人に向かって聞こえるように言うわけ無いでしょ。
浩介は鈍感なんだから、早く気付いて、身を引いてあげないと」
  正直、美那の言葉に現実味が薄かった。
「まあ、振られたら、あたしが遊んであげてもいいよ。でも早く現実を見つめて再出発しないとね。
宇崎さんは浩介にはもったいなさ過ぎるから」
  それだけを言うと、美那は窓から出ていった。

「というような話を聞いてさ、……その俺のうっとおしいと思うところ、
……直すようにするから……」
「誰から聞いた?」
「え? あ、いや、小耳に挟んだだけで」
「言って欲しい。 私は冤罪を晴らさなければならなくなった」
  昼休み、中庭で沙羅の弁当をわけてもらって食べながら、俺は意を決して、尋ねた。
  だが、俺の言葉は、沙羅の瞳に劇的な変化をもたらした。
  いつもは、きれいで感情の読みにくいその目が、今日は珍しく高温の青い炎を燃やし始めていた。
「あ、その、間違いだったら気にしなくていいから」
「それは間違いなんかじゃない。浩介を侮辱し、私をおとしめる、卑劣な悪意だ」
  その迫力に、俺は少し焦った。
  なんとか話を打ち切りたくて、俺は沙羅が作った弁当のおかずを口に放り込む。
  絶妙な味が口に広がり、心から、おかずの味を賞賛できた。
「うーん、しかし、これ、ほんとにおいしいよな。どうやって作ったんだ?」
「……ふふっ」
  少しだけ沙羅の迫力が和らいで、俺は心の中でほっと安堵のため息をつく。
「それは母の直伝なんだ。……ところで、その話、及川じゃないのか?」
  雪解けで現れた地面のように、かすかな笑顔が浮かんで、俺が油断したところに、
鋭い推理の刃が突き立った。
  盛大にむせこみ、口を押さえて咳をする。眼前に茶が入った水筒の蓋が差し出されて、
それを急いで飲んだ。
「なるほど……」
  沙羅がうなずく。
「げほっ……はぁはぁ……。さ、沙羅、あのさ、あくまでもそういう噂を聞いたって話だからね」
「私は、浩介の事を、クラスの人間と話したりはない」
「え?」
  沙羅の目が、俺の顔を見据えた。
「浩介に思いを受け取ってもらったことは、私の大事な宝物だ。
……暇つぶしの話で揶揄されたり、からかわれたりしたくない。
だから、つきあっているのかと聞かれれば、肯定の返事はするが、詳しい話は一切しない」
  沙羅の黒くそして限りなく澄んだ瞳が、俺の心の中にしみ通っていった。
「だからこそ、わかる。その話は悪質なデマなんだ。
私を、なによりも浩介をおとしめようとする許せないものだ」
「……沙羅、俺は沙羅が俺のことをうっとおしいと思ってないことがわかっただけでいいんだ。
……沙羅が影でそんなことを言うはずがないって思ってたんだけどね。
……ごめん、俺が沙羅を信じていなかったのが悪いよ」
「浩介!」
  いつも抑揚に乏しい沙羅の声が、少しだけ高くなった。
「もうこの話は、よそう。せっかくの沙羅の美味しいお弁当がもったいないよ」
「でも!」
「誰かを疑うより、今、俺は沙羅と楽しい時間を過ごしたい。……な?」
  俺はこの時、たぶん吹っ切れた笑顔を作れたと思う。
沙羅のまっすぐさが……とても愛おしかったから。
  でも……沙羅の背後、その向こうの校舎の隅にこっちを見ていたような
美那らしい影がいたことは、口に出さなかった。
  美那は、奴と……喜多口とうまくやっているはず。美那に、デマを飛ばす理由がない。
  かすかに涌いた疑念を、俺はその事を思い起こして封じた。

「では、開票します!」
  数日後のロングホームルーム、退屈な時間。文化祭なんて、俺には関係なかった。
  ましてやクラス代表文化祭実行委員選挙、そんなものは別世界の話。
  立候補なんかとんでもないし、男共に他薦される様子もない。
  今回の生け贄は、バレー部の太田というのがもっぱらの観測だ。
  なんてったって、奴は成績優秀、バレー部のアタッカー、
そして親分肌で仕切るのが好きでもある。
  予想通り、男子代表委員開票で、さっそく太田の名前が3回呼ばれた。
  これは決まりだなって思ったところ、不意に俺の名前が告げられた。
「藤沢君」
  男子共が低くどよめいて、俺に視線を集めた。しかし当人の俺にも事情はわからない。
  俺も投票したのは太田だ。
「続いて、……藤沢君」
  さらにどよめきが流れる。沙羅が少し驚いた目をして、俺に視線を向けてきた。
  俺は沙羅にさっぱりわからないという意味で、首を横に振った。
「次……藤沢君」
  そのときになって、俺と男子生徒の多くは女子共が俺をうかがっているのに気づき始めていた。
  やがて開票結果で俺の票数が太田を常に上回り始め、
男子生徒達が当惑を抑えきれずに私語を始める。
「以上、結果は藤沢君23票、太田君19票……」
  呆然としている俺の目の前で、開票は女子代表委員に移った。
「以上、結果は、及川さん38票……」
  愕然と振り向いた俺と、沙羅の視線の先で、美那は立ち上がって、
優雅な振る舞いで全員に一礼した。

「図ったな」
「まあね。浩介だとなにかと便利だし、気心がしれてるから、頼みやすいしね。
……でも投票してくれた女子達には、浩介からもありがとうって言っておくのよ」
  ホームルーム終了後、苦り切った顔で、俺は美那の席の前に立っていた。
  いつものごとく、美那は俺の困惑などどこ吹く風という態度で悠然と席に座ったままだった。
「……俺にだって用事はいろいろあるんだけど?」
「宇崎さんとデートとか? だめ。前に言ったでしょ。浩介と宇崎さんは似合わないって」
「……あのな」
「私は、浩介のためを思って言っているの。宇崎さんのためでもあるのよ?」
「……俺達の問題だろ? そりゃ、釣り合ってないかも知れないけどさ」
  俺のその言葉で美那はその日初めて俺に笑顔を向けた。
  かつてあれほど欲していた彼女の笑顔は、いまはなにか不吉の兆候のように思われた。
  俺は自分がはっきりと変わってしまったのを自覚した。
  美那の何かに小さなうとましさを感じたのだ。それが何かを、表現することは出来なかったが。
「わかってるじゃない。なら、潔く身を引いたら? 宇崎さんもほんと、趣味悪いんだから」
  美那の言葉と共に、綺麗で魅力的なはずの彼女の笑顔が、
何か急に生理的不快感を感じるものになる。
  突然、得体の知れない熱さが俺の心を占めた。
怒りだと気付いたのは言葉を叩きつけてからだった。
「沙羅を悪く言うなっ! 美那は喜多口と楽しくやってればいいだろう?」
  心を突き上げる熱さのまま、俺は自席に大股で戻った。
  そして荷物を鞄に投げ入れると、そのまま走り出しかねない勢いで教室を出て、校門をくぐった。
  そんな俺を追いかけて走ってくる足音があった。その足音が後ろで止まる。
「謝れっ! 沙羅に謝れ!」
「……? 済まなかった」
「えっ? 沙羅?」
  振り返った先で、沙羅がかすかに笑っていた。それで心を縛っていた怒りが急速に溶けて消えた。
「あ、うわ、……ごめん! 沙羅、ほんとにごめん!」
  恥ずかしさで頬がほてる。それがさらに恥ずかしくて、俺は何度も頭を下げた。
「大丈夫。気にしていないから。というか、嬉しい」
  頭を下げ続ける俺の手を、沙羅がつかんで引いた。
「正直、浩介が及川のことを、まだ好きじゃないかって思っていた。
文化祭の準備で、浩介が私のことを忘れてしまうのじゃないかって思ってしまった」
「……ごめん、その、美那のことは、……もう話したくない」
「そうだな。……でも、私も文化祭、手伝うことにする。
浩介と一緒なら、きっと準備だって楽しい」
「うん、ありがとう」
  そう言う沙羅のかすかな、目尻が少し下がるだけのかすかな笑顔が、
なぜかいつもに増してまぶしく見えて、俺はまた顔が熱くなった。
  我ながら、怒ったり謝ったり照れたり、忙しい男だと思った。

 その夜、非常に珍しいことに、俺の部屋の窓が、控えめにノックされた。
「美那?」
「浩介、ちょっといい?」
  あんまり良くはなかったが、拒む理由もたいして無かった。
「いいよ。いつものように入ればいいじゃないか」
  言葉と同時に窓が勢いよく開いて、美那が入ってきた。
  これまた珍しく、いつものジャージ姿じゃなくて、可愛いパジャマ姿だった。
「ノックといい、そんな姿といい、今日はなんか珍しいことだらけだ」
「べ、別に、今日は、そういう気分なだけだから」
「ふーん」
  気分屋の美那ならそんなこともあるかも知れない。
素直に納得できた俺は、再び携帯電話に意識を集中した。
「何してるの?」
「ん、沙羅にメール」
  でかい観覧車がある遊園地で、かつホラーハウスが充実して、
それでいて入場料が安いところをピックアップしたメールを俺は書いていた。
携帯電話でのメールなんて極めて短文しか打たないので、
少し長文のメール作成に時間が掛かっていたのだ。
  突如、携帯電話が俺の手の中から消えた。
  振り返ると、美那がアンテナをつかんで、俺の携帯電話を持っていた。
「……返してくれ」
  その言葉に応えず、美那は携帯電話の画面を見た。
「ふーん、遊園地でデートなんだ? ラブラブだね?」
  美那の言葉がやけに粘っこく響いた。
「……何か用?」

 俺は美那を睨んだ。
「別にぃ」
  だが美那は済ました顔であさっての方を向いた。何か構って欲しいようだった。
「……ふぅ。なんか話があるの? 俺で良かったら話して欲しいんだけど?」
  美那は、昔、一方的に話がしたいとき、俺の邪魔をして注意を引くことが良くあった。
  ……そういや最近までは、俺は美那の表情を読んで、先回りして聞く態勢をとってたのだった。
  そして愚痴とかどうでもいいような話を、喜んで聞いていた。
美那を好きだったから、彼女の笑顔を見たかったからだ。
  でも、今は彼女の表情を読まず、邪魔されるまで自分のことをしていた。
たぶん、それが彼女は気にくわなかったのだろう。
  そのことに少し罪悪感を感じて、俺は下手に出てみた。
「浩介がそういうなら、話してあげてもいいかな。……実はね、私、喜多口くんと別れちゃったの」
「ええええ!?」
  その言葉で俺の体の力が抜けた。何のためにつらい思いをしてまで、紹介をしたのか。
それが全て音をたてて崩れてしまったからだ。
「ど、どうしてだ?」
  理由を聞かずに入られなかったが、俺の内心を知らずか、美那は簡潔に応えた。
「だって、気が利かなくて、つまんないから」
  がっくりくるとはこのことだった。俺は椅子の背もたれによりかかって、襲い来る疲労感に抗う。
「そ、それだけ?」
「喜多口くんは悪くないんだけど、いろいろと合わなかったのよ」
「……そうですか」
  もう何もする気を無くして、椅子から立ち上がると、俺はベッドにダイブした。

「ちょっとぉ! いきなり寝るってどういうこと?」 
「俺の苦労が無駄になったから、どっと疲れた。寝る」
  布団の心地よい冷ややかさに埋もれながら、俺は目を閉じる。
「うぉ!」
  背中に温かく重いものが乗った。そんなことをするのは美那しかいない。
「浩介、感謝しなさいよ! 私がフリーに戻ってあげたんだから、
もてない浩介と遊んであげられるんだよ?」
「はいはい、感謝感謝」
  無意味に口答えして、美那の機嫌を損ねると後が面倒くさかった。
が、そんなに嬉しいわけでもない。
「むー! なんか気持ちがこもってない! ……じゃあ、こんなのはどう?」
  ふと、背中になにか柔らかいものが押し当てられる。
そして耳たぶに生暖かい息があたる感触が湧いて、甘い臭いが至近距離から漂ってきた。
「み、美那?」
  背中の感触の正体に気付き、俺は焦った。経験はないが、体勢からして胸……のような気がする。
「昼はごめんね」
「え?」
「私、浩介にもっと似合う人がいると思うから、つい酷いことを言っちゃったんだ」
  美那の声が、珍しく真摯だった。
「……そのことは、もういいから」
「浩介は私のこと、嫌い?」
「いや。幼なじみだしな」
  心が少しだけ痛む。でもそれはほんの少しで、そして俺の心に沙羅が浮かんだら、痛みは消えた。
  なぜか、美那の手が俺の前にまわされた。抱きしめられるような感じになる。
「私達、幼なじみなのにあんまり仲良くできないね」
「ごめん。ただ俺のことならともかく、沙羅のことは悪く言って欲しくないんだ」
  俺の言葉に、美那はなぜか長い沈黙を返した。
やがて、すこしオクターブが上がった美那の声が再び流れた。
「じゃあ、私が宇崎さんのことに触れないのなら、今までどおり、付き合ってくれる?」
「あたりまえだろ」
「私達、文化祭実行委員だからさ、息を合わせて仕事しなければいけないんだよ?」
「美那が票をたのんだ女の子達にも悪いから、実行委員はちゃんとするし、
美那一人に押しつけて平気なほど俺、冷たくはないから」
「文化祭、一緒にがんばろーね?」
「ああ」
  俺のその返事とともに、背中の温かい重みが消えた。
  ベッドから起き上がって振り向いた俺の前に、美那がいたずらっぽい笑いを浮かべて立っていた。
「で、私のおっぱいの感触、どうだった? 立った?」
「美那っ!」
「じゃあね、浩介! オナニーはほどほどにね」
  俺の抗議の叫びが消えるまでに、美那はさっさと窓を開けて、姿を消していた。
  だから憤慨する俺が、美那に携帯電話を持って行かれたのに気付いたのは、
寝る直前になってからだった。 

2

「浩介、デートのキャンセルの話だが、実行委員が忙しいなら、別の日でも良いぞ?」
「はい?」
  朝、いつものように通学路で俺達はおちあった。
開口一番、一見わからないが実はやや沈んだ顔をした沙羅が、俺に意味不明なことを言ってきた。
  それぞれの話を確認した上で、沙羅が彼女の携帯電話を俺に見せた。
  忙しいからデートは中止。そんなメールが受信BOXにあった。送信は、俺になっている。
「……やられた」
  俺は額を手で押さえた。
「おはよー、浩介」
  その声は問題の主、美那だった。彼女はなんら悪びれずに俺達に声を掛けてきていた。
「美那! おまえなぁ!」
「その日は実行委員の仕事の予定よ。どうせ浩介は断るのに時間が掛かるから
私がやっといてあげたわ。宇崎さんもそういうわけだから」
  その言葉と共に俺の携帯電話が、俺に向かって放り投げられる。
両手でおたつきながら受け止めたときには、美那は既に学校の方に去っていっていた。
「……どういう顛末なのか、聞きたい」
「わかってる。ちゃんと話すよ。……話すから、俺の腕をそんなに握りしめるのはやめてくれ」
  彼女は俺の腕を放さなかった。むしろ抱き込んで、そして俺にぴったりと寄り添い、
後ろ姿が小さくなる美那を睨んだ。

「及川が、浩介の部屋に来るなんて初耳だ」
「今まではそんなに多くなかったから、別に話すほどのことも無いと思ってた……
喜多口とつきあってると思ってたし」
「思ってた? 付き合ってないのか?」
「別れたって美那が昨日言ってた」
  顔を寄せ合っていきさつを話している、その相手、沙羅の眉が、寄せられる。
「……浩介っ!」
「は、はい! 」
  突然、顔をあげた沙羅が、恐ろしい勢いで迫ってきた。
「今日は浩介のうちに行く」
  黒瞳から刺さりそうな視線が発せられ、俺の首の筋肉を自動的に動かした。
「ど、どうぞ」
  機械人形のごとく首を振っていた俺は、さらなる変化に戸惑った。
  睨んでいた沙羅が突然頬を染めて呆けたのだ。そして、さらにいきなり顔を青ざめさせる
「浩介の……うち。……浩介のうち? ま、まずい! まずいぞ!」
「あ、あの沙羅?」
「浩介! 私は用事があって家に帰る。女として一生の大事な用事なんだ。
だが、浩介のうちには必ず行く。だから学校で待っててくれ!」
  それだけを言うと、彼女は今来た道を走って戻っていく。
俺はわけのわからなさに、途方に暮れた。

 その日のロングホームルーム。
「文化祭、うちのクラスの出し物は、コスプレ喫茶よ。文句があったら聞くけど?」
  開口一番、美那はそう言いはなった。もちろん、事前の打ち合わせとは全然違う。
  だれもが、担任すら口を馬鹿みたいに開けて、静止していた。
「チョット待て! 喫茶店じゃなかったのか?」
  あまりにあまりでつっこめないクラスメートに代わり、
さすがに俺が反射的につっこむこととなった。
「だから喫茶店じゃない。ついでにコスプレして浩介の望みをかなえてあげるから感謝してよね」
  だが俺の抗議は、美那のいたずらっぽい笑顔に跳ね返されて、あえなくたち消える。
「藤沢ぁ! いいぞぉ!」
「ナイス、藤沢!」
「藤沢くんってエロいよねー」
「もっと真面目かと思ってたよー」
  どっと教室が沸いた。主に男子が歓声を、女子が不平を漏らしたのだ。
「どうしてなんだよ……」
  俺が頭を抱えているところに、突然音をたてて教室のドアが開いた。

「遅くなりました」
  どよめいていた教室が、再びあっけにとられた静寂に変わる。
  その静寂の中を、沙羅は全く表情を変えずに、絶対零度のクールさを維持したまま着席する。
「……遅くなりましたって、もう授業おわりじゃない」
  誰かがひそひそとささやいたが、沙羅はまるで聞こえないように振る舞った。
「それで、浩介のコスプレ喫茶店だけど、反対の人は? 宇崎さんはどう? コスプレ喫茶?」
  美那が、笑顔で沙羅に話しかける。
  あくまでも美那は笑顔で、沙羅は無表情。
なのに、そこはかとなく、緊張が走るのは、俺の気のせいだろうか?
「こ……藤沢……くんが、コスプレ喫茶を提案したのか?」
「そうよ。宇崎さんのメイド姿とか見たいって」
「ちょっと、美那!」
「浩介は黙ってて!」
  再度の俺の抗議は、斬りつけるような美那の声に封じられる。
「……藤沢くんが、言うならそれで構わない」
「ほんとに? 恥ずかしい格好させられちゃうかもよ? 浩介は結構ムッツリスケベだから」
  美那の言葉でクラスが爆笑の渦に飲み込まれた。
  笑っていないのは、美那と、苦り切った顔の俺、そして沙羅だけだった。
  やがて笑い声がゆっくりと潮がひくように下がり、全員の興味が沙羅に集まり始めた。
  沙羅は笑いの中でもまったく動じず、澄んだ泉のように、平静を保っていた。
  その幾分低い、しかし艶やかな声がゆっくりと流れ始める。
「……愛する人のためなら、コスプレぐらいなんでもない。
浩介がそれを望むなら、私に出来ることをするだけだ」
  美那の言葉が花火だとするなら、沙羅の言葉は爆弾だった。
  クラス全員の心を吹き飛ばして真空にしたあげく、
吹き戻しの風のようにクラス全てを狂乱にたたき込んだ。
  俺も、そして美那ですら驚きのあまり、絶句していた。
  ただ爆心地の沙羅のみ、いつものごとく平静だった。

「私は不適切な対応をしてしまっただろうか?」
「……俺個人としてはすごく嬉しかったけど、
きっと卒業まで……卒業してもネタにされるだろうなぁ」
「そうか」
  少し沙羅の顔が曇る。
こういうとき、沙羅は結構落ち込んでいるらしいというのが最近わかるようになってきた。
  だから俺はそっと沙羅の手を握った。
  ホームルームは収拾が付かなくなったあげく、時間切れで終わった。
コスプレ喫茶で行くのか、俺ですらわからない。
  唯一決まったのは明日の朝のミニホームルームで決をとることだけだ。
そう言うわけで俺達は一緒に下校していた。
「気にするなよ。個人としては嬉しかったって言っただろ?」
「うん。でもその、浩介も、その、私のコスプレを見たい?」
  沙羅の顔が元に戻り、目がかすかに揺れる。
「いや、俺そういう属性ないし。だいたい、沙羅ってメイドよりも、
……なんというかなぁ、もっときりっとしたのというか」
  俺は頭をひねった。沙羅にメイドとかそういうのは似合わないと思う。
  ご主人さまぁって媚びた声を出す沙羅は、不自然なことこの上ない。
「……どっちかというと、女神とか天使とか……そういう感じだよな」
「て、天使?」
「うん、地獄にいた俺を救う、清らかで、でも威厳があって、そして優しい天使」
  どこか超然としているくせに、結構熱い心をもっているのも似合っていると思う。
  そして彼女が俺にとっての天使であるのは、紛れもない真実。
  ふと黙り込んだ沙羅を見た。
  彼女は、顔を真っ赤にしていた。首から上を赤一色に染めて、瞳すら潤ませていた。
  その姿が、不条理にも、俺のなにか急所を射抜いた。
「て、天使は、か、過剰な、け、形容だと、思う。
……ひ、人を、ほ、褒めるのも、や、やりすぎると、し、真実みが……」
  俺は答えなかった。答えることが出来なかった。
俺の目に映っていたのは、ただ恥じらう乙女と、その可憐な唇のみ。
  欲しいとしか思わなかった。獣と言われればそうだろう。
獣はただむさぼることしか考えないのだから。
  手を掛けた肩は、とても華奢だった。そして柔らかかった。
沙羅が驚いたように俺を見つめていた。
  引き寄せて、そして何らためらわず、唇を奪った。そして腕の中の彼女をしっかりと抱いた。
  彼女は少しだけ驚いたように体をこわばらせて、やがてその熱い体から力が抜けた。
沙羅の臭いはかすかに甘く爽やかだった。
  唇は、思ったよりも柔らかく、そしてその柔らかさが何かを心に満たしていくのがわかった。
……それは、どうしようもない愛おしさだった。
  二人の鼓動が一つになってしばらくして、ようやく唇が離れる。
「……道の真ん中で、いきなりだなんて……浩介は……
ムッツリスケベどころじゃなくて……ケダモノだ」
「あう……ごめん」
  そう言いながら沙羅は、頬を染めたまま、俺の腕から逃げようとしなかった。
むしろ、俺の胸に顔を埋めて、体を寄りかからせる。
「うれしい」
  やがてぽつっと彼女が呟いた。
「私が、私だけが、浩介の恋人だ」
「……当たり前だろ」
「浩介は優しすぎる。……だから浩介が及川のことを、まだ好きなんじゃないかって、
つい、心配になる」
「俺は沙羅が好きだ。……沙羅が愛おしい。……美那は好きだったけど、
でもきっと、……それは俺が勝手に作り上げた幻の美那だった……今ならそう思う。
俺は本当の彼女を……、いや、沙羅も美那も誰も、ちゃんと見ていなかったんじゃないかと思う」
「浩介?」
「自分で独り相撲をしていたんだよ。……馬鹿なことに。あの時沙羅に言われたとおりだよ。
勝手に好きになって、でも勝手に怖がって告白もせず、わざわざ他の男に美那を紹介して、
勝手に落ち込んで泣いて……」
「それは仕方がないと思う。私も浩介になかなか思いを伝えられなかった……」
「でも沙羅はちゃんと思いを言えたから。沙羅こそ本当に強くて優しい。
……俺のは、ただ無難に生きているだけ」
「そんなことない。私だって浩介の優しさに救われた。
あんなに悲しいときだったのに浩介は私を拒まなかった。だから……だから、私は浩介が大好きだ」
  もう言葉は要らなかった。ただ俺達はお互いを溶け合わせるかのように、抱きしめた。

「……でも視線が痛いな」
  俺の胸で沙羅は呟いた。
「……考えて見れば、道の真ん中だったような」
  沙羅の肩で俺は答える。
  十分はゆうに過ぎると、さすがに二人とも理性が回復してきたらしい。
  作業服の中年男性や、買い物帰りの老女、子連れの主婦たちが、露骨に俺達を避けていた。
ただし目つきは興味津々だったが。
「ところで沙羅、俺のうちに来るとか来ないとか?」
「!? 突発的大イベントが、あまりにもあまりだったので、大事なことを忘れていた」
  するりと沙羅が俺の腕から抜け出た。沙羅の居たところに冷たい空気が入り、
それがひどく寂しい感じを俺に与えた。
  だが沙羅は俺の左腕をとり、腕を絡ませた。
「では、彼女としての重要イベント、彼氏の自宅訪問に出発!」
  沙羅が、心からの笑顔を浮かべていた。
俺はまた抱きしめたくなって、自分を抑えるのにすこし苦労した。
「……まあ、見ても面白い部屋ってわけじゃないけど、沙羅のご希望なら、
ご招待させていただきますよ」
「安心して欲しい。私が見るとまずいものを、片付ける時間はちゃんととるから」
  そういうと彼女はすこしからかうような目つきをした。それもまた魅力的だった。
「……美那が勝手に出入りするのに、俺がそういうものを放り出しておくとでも?」
  俺は顔だけ憮然としたふりをして、抗議を試みる。
「……では、彼女チェックに耐えられる部屋というわけだ。……ふふ、実に楽しみだ」
「あ、沙羅さん、そこのところは、是非お手柔らかに。……頼むから、ね? ね?」
俺の言葉に彼女が笑う。それがとても愛おしかった。

「どう? 別に普通だろ?」
  興味深げに俺の部屋を眺め回す沙羅の姿に、俺はどこかくすぐったいものを感じていた。
  しかし沙羅は、相変わらずわかりにくいが、
その目にどこか楽しげでそして安らいだ光を浮かべている。
「そうでもない。やはり男性の部屋というのは、やはり独特の雰囲気がある。
少し乱れているところとか、隙みたいなものがあるんだ」
「隙?」
  彼女はストンと床に座り込むと、俺の出したマグカップに両手を添えた。
そして何かを考えるようにすこし首をかしげた。
「そう。……別に他人の部屋に詳しいってわけじゃないけど、女性の部屋は、
もっとこう、部屋の主の意識が隅々まで行き届いているんだ。
カーテンや壁紙や小物で部屋を自分の支配下に置くというか……。
それが客にとっては少し落ち着かない感じにさせる」
「ふーん」
  理解が追いつかない俺の中途半端な相づちを聞いて、彼女はカップを傾けた。
細い喉がコクコクと上下するのがやけに色っぽかった。
「男性の部屋は、違う。例えば私が自分のものをここにおいても、
頓着せず、ずっと置いてあって、そういう入り込める隙や乱れがあって、それが心地良い」
  カップを戻して口を開いた沙羅は、手を伸ばして側にあったベッドをなでた。
「ふーむ。わかるような、わからんような」
「別にたいした話じゃないからわからなくていい。それよりもこの窓……」
  柔らかな光を放っていた彼女の目が、一つの窓のところで止まり、きらりと光った。
「うん? ああ、そこから美那の家のベランダに入れる。
建築基準とかが古いから、子供でも渡れるほど接近してるんだ」
  俺がカーテンを開けると、家のベランダが見え、
そしてそこからわずか20cmもないところにほぼ同じ高さで美那の家のベランダがあった。
  沙羅が立ち上がって俺の側に来ると、部屋のベランダとその先の美那の家を見つめた。
  互いの家は狭い敷地の上に古い建築基準でぎりぎりのところまで建てられている。
  今建て直せば、建築容積とかで家の敷地として使える面積は大幅に減ってしまうから、
俺の家も美那の家も、せいぜいリフォームでお茶を濁している。
  ゆえに、この接近しすぎたベランダは、建築されて以来手はつけられていない。
「こういうのは、なんというか、渡ってくださいって言うようなものだな」
  複雑そうな光を目に漂わせる沙羅に、俺は肩をすくめて、親父達の言ってた事をそのまま話した。

「業者が、出来るだけ広い家を建てようとして、ぎりぎりまで頑張ったんだって。
美那のうちも同じ業者が建てたから、こんなことになったんだってさ」
「なるほど」
  そういうと沙羅は、窓に鍵を掛けて、カーテンを閉めた。
「なあ、浩介。これからも私、部屋に来ていいか?」
「当たり前だろ」
  カーテンを閉めた姿勢のまま、沙羅は俺を見つめた。
「毎日でも?」
「いいよ。……何を気にしてるんだ?」
「……仕方がないとはいえ、これはさすがに近すぎると思う。
及川と浩介に、なにか特別な絆があるような気がして……」
  沙羅が、どこか不安そうな光を目に浮かべた。
「沙羅が思うほど、美那は来ないよ。それに来ても漫画読んだりゲームしたりしてただけだし」
「……それが特別だと思う」
「気にしすぎだと思うが……、んと、ちょっと待って」
  そういうと、俺は机に向かう。引き出しの奥をさぐった。目当てのものはあっさりと出てきた。
  それは小さな巾着だった。じゃらりと金属音が鳴る。

「確かここの中に一本あったはずだけど」
  机の上に中身をぶちまける。
  自転車の鍵、チェーンの鍵、おもちゃ箱の鍵、親父の昔の車のキーホルダー、鞄の鍵に机の鍵。
何の鍵かわからないものもある。
  その中に目当ての鍵はあった。
「あった。これこれ」
  そういうと俺は変哲のない鍵をつまみ上げ、沙羅にかざした。
「これは?」
「この家の鍵。沙羅に渡しておくよ」
  その言葉で沙羅の瞳孔が、急に縮んだ。かなり驚いたみたいだった。
「し、しかし、そんなもの私が……」
「うん、その鍵、使うのは数日後に沙羅を、お袋に紹介してからにして欲しいんだけど……
でも、沙羅なら俺の部屋に自由に入っていいから」
「……!!」
  沙羅の目が、ますます見開かれた。
「美那は勝手に入ってくるだけ。だけど沙羅は俺が入っていいって認めるから。
……これが俺の沙羅に示せる絆。
……なんかしょぼくて悪いんだけどこんなのしか今は出来なく……」
  言葉を続けることは出来なかった。ひっくりがえりそうな勢いで、沙羅が俺に飛びついたからだ
「さ、沙羅?」
  沙羅は応えなかった。ただ体を震わせ、沙羅が顔を押しつけているところが熱く濡れて、
回された細い手が強く俺を抱きしめただけだった。
「……あり……がとう……」
「あー、うん、……その泣くほどことかな?」
  思わず頭を掻いてしまう。女の子に泣かれるのが、こんなに始末にわるいものだと、
今、まさに思い知らされていた。
  とにかく居心地が悪く、焦ってしまうのだが、だからといって出来るのは、背中をなでるだけ。
  こんな時でも余裕を持って対処できるのが大人の男なのだろうが、
あいにく俺はもてない方に属する冴えない普通の高校生だ。

 長い時間が過ぎたように思ったが、時計をみると十五分程度だった。
  ようやく沙羅は泣くのを止めて、真っ赤に目を腫らしながら、
しかし心からの優しい笑顔を浮かべて、俺が渡した鍵を両手で握り込んだ
  そして俺は沙羅に手を引かれてベッドに並んで座っていた。
  会話はなかった。ただ沙羅が俺の手を握りしめ、俺にもたれかかっているだけだった。
  かなりたった頃ただ一言、沙羅が俺の名を呼び、瞳を閉じて、顎を心持ちあげた。
  何をやるかは明らかだった
  はやる心を抑えて、丁寧に慎重に唇を重ね、空いた手も沙羅の手を握った。
  初めは、ただ唇を重ねるだけのキスだった。
  だが沙羅は唇を離さなかった。それどころかわずかに舌が差し込まれ、俺の唇をなぞった。
  驚きながらも、俺も同じように返していると、沙羅の舌が俺の舌に絡まった。
  そして沙羅が俺の唾液を飲み始める。
「さ、沙羅っ!」
「浩介……好きだ」
  思わず唇を離して叫んだが、沙羅がすぐに俺の唇をふさいだ。
  いつしか沙羅は俺の膝にのり、俺達は一心不乱に抱きしめ合いながら相手の口をむさぼっていた。
  唇が唇に挟まれてなぞられ、差し入れた舌が絡み取られて吸われ、
声を漏らしながら唾液を飲み下し、涌いた唾液が即座にすすられた。
  やがて、銀色に光る唾液の糸を引きながら、唇が離れる。
俺の膝にのって、沙羅は至近距離から俺を見つめた。
「浩介、私は浩介にあげられるものが一つしかない」
「別に沙羅に何かもらいたくて、鍵を渡した訳じゃないよ」
「うん、わかってる。でも、今日は私がもらってばっかり」
  沙羅の穏やかな顔がやけにまぶしくて、俺はなぜかすごく照れた。
「そ、そんなことないよ。俺、沙羅の唇、奪っちゃったし」
  それは照れ隠しの冗談のつもりだった。
「唇だけで満足なのか?」
「え?」
「浩介のものが、私を欲しいって、突っついてる。ずっと我慢させられて、
……その、苦しいんじゃないか?」
  沙羅が微妙に腰を動かす。いつの間にか屹立したものが沙羅の……股間に当たっていた。
「い、いや、 これは、その、生理的反応で、はは、あの、その」
  俺は「息子」のしでかした事に思わず逆上して混乱した。
顔が熱くなって、頭が煮え立ち、言ってることは支離滅裂になった。
「浩介は、私を欲しくないのか?」
  その問いかける沙羅が、異様に蠱惑的で、俺の口から唾液を瞬時に奪い、砂漠にした。
  沙羅の瞳から得体の知れない磁力がでて、俺をとらえて放さなかった。
「さ、沙羅?」
  制服の上着がするっと落ちた。
「好きな男に部屋に行くと言う意味、わかっているつもりだ」
  襟元のリボンが外される。
「お、俺はそんなつもりでは……」
  一つずつ一つずつゆっくりとシャツのボタンが外されていく。
「これが、私が浩介に示すことのできる絆」
  素肌の肩が見え、きれいな白い下着に包まれた見事な上半身が現れる。
「……その太ってて、及川みたいにスタイルはよくないけど」
  そういうと沙羅は少し自嘲の笑いをもらした。
「はぁ? どこが?」
  さらに釘付けとなっていた脳と目が、その仕草で我に返った。
  胸は豊かで大きいのに肩から腰は見事に絞り込まれていて、
どうみても誰が見ても太っているなんて言えない体だった。
  美那には悪いが、美那は少しボリュームが足りないと思う。
「……腰も細くないし……胸もかわいくないし」
  なぜか沙羅は落ち込んでうなだれた。
「…… なあ、沙羅」
「な、なんだろうか?」
「俺に美那と沙羅を比べてほしいの? 俺は沙羅を、沙羅だけを愛してるんだけど?」

 途端に、俺の顔が柔らかいものに埋まる。胸の間に抱き込まれたとわかったのは数秒後だ。
「沙羅、ちょ、ちょっと!」
「浩介ぇぇぇぇ」
  俺の頭を強く抱き込んだせいで、ブラがずれ始め、当たる素肌が増え始める。
  熱いしずくを頭のてっぺんに感じながら、口元に小さな固まりが当たり出した。
  少しは我慢したと思う。なし崩しはよくないとか、もう少しわかり合ってからとか
きれい事が脳裏のどこか遠いところでぐるぐるしていた。
  だけど、俺も男であるわけで、好きな女のかわいい乳首と胸が目の前にさらされていれば……。
食べたくなるのは、……本能な訳で……我慢はすぐにつきて、
……俺は乳首を口に含んで吸い始め、余った手で反対側の沙羅の胸をつかんだ。
  沙羅はただ体を震わせただけだった。
  沙羅の胸は、どこか懐かしくて、でもいつまでも吸い付いていたくて、
何も考えたくなくて、ひたすら吸って転がした。
「浩介、は、反対側も……」
「うん」
  かわいそうだと思った。沙羅の体で左右に差をつけるなんてかわいそうだった。
そう思って沙羅の胸を一生懸命可愛がった。
  気がついたとき、沙羅が体を離していた。
「あ、い、痛かった?」
  沙羅は首を振って、俺の膝からよたよたと降りた。
  そして、スカートを脱ぎ、靴下を脱いで、ショーツだけになると、彼女の鞄を探り箱を差し出す。
「浩介……ゴムをつけて、……」
「え? あ、うん」
  顔を赤らめて言う彼女の言葉に逆らうはずがなかった。
  説明書をみながら、コンドームをなんとかつけた。
……沙羅がベッドに寝転びながらそれをじっと見ていた。
「さ、沙羅?」
「うん」
  コンドームをつけた肉棒を沙羅の股間にあてがう。だけど、どこが膣なのか全くわからなかった。
「そ、その、ど、どこなんだろう?」
  沙羅のひんやりとした手が伸びて、俺の肉棒に添えられた。
「そのまま、入ってきて」
  いきなり入れるとすごく痛いと聞いたことがあった。
だから、できるだけゆっくりと入れるようにした。
  二三度滑って、逸れた。けれども、沙羅は根気よく俺の肉棒を導いた。
  やがて先端が熱く狭い肉に飲み込まれる。
「は、入った」
「うん」
  沙羅が唇を噛みしめていたのに気づき、少しだけ興奮が収まった。
  腰をゆっくりと進めていく。沙羅の足の指が震えて曲げられていた。
「い、痛い? こ、ここでやめる?」
「……いい、から……」
  目をつぶり口を引き締めていた沙羅が首を横に振った。
  さらに進めるとかすかな抵抗を感じた。
  すこしためらいはあった。しかしここまできて止められるはずもなかった。
  意を決して腰を進めると抵抗はなくなった。
そのままゆっくりと進み、やがて肉棒がすべて埋まった。
「沙羅、全部入った。……大丈夫?」
  涙をにじませながらも、沙羅はほほえんだ。それがいとおしくて、もう一度唇を重ねる。
  沙羅の舌を吸い、唾液をすすっていると、肉棒をがちがちに包んでいたものが少し和らいだ。
「う、動くよ?」
  沙羅が嫌などと言うはずもない。唇を交わしながらうなずく沙羅をみて、少しずつ腰を動かす。
  限界はすぐに来た。
  沙羅じゃなきゃ早漏だって絶対に言われそうだと思いながら、
俺はのけぞって、沙羅の一番深いところで放った。

「浩介」
「うん?」
  そして事が終わって、俺たちは裸のまま寄り添っていた。
「コンドームまで用意してエロい女だと思わなかった?」
「へ? いや。むしろ、その用意しておかない自分のうかつさのほうがね」
  けだるい疲れの中、物語でも語るように、沙羅がとりとめもないおしゃべりを続ける。
「……こんな風になるなんて思っても見なかった。あのコンドーム、お母さんたちのなの」
「え? あ、そうか、そうだよな」
  つながらない会話、間抜けな相づち。それでも俺たちは満ち足りていた。
「私、浩介の赤ちゃんなら欲しいと思う」
「いい? そ、それはちょっと」
「うん、わかってる。いきなり赤ちゃんはきついし、
変に妊娠したら浩介とのこと、終わってしまいそうだから」
「……ごめん、沙羅。……俺、自分のことしか考えてなかった」
  赤ちゃんと聞いて、恐れてしまうのはなぜだろうかと思ってしまう。
  そしてそんなことまで考えていた沙羅に対し、
目先の事に振り回されている自分が情けなくなった。
「わかってる。浩介はこんなこと考えてなくて……
でも私は……及川にいつも嫉妬して、不安だった。
あんなに近いから、とられてしまいそうで、怖かった。だから……証が欲しかった」
  俺は無言で沙羅を抱き寄せた。
美那を意識しすぎる沙羅の心がとてもかわいそうに感じたからだった。
「浩介?」
「この窓、鍵を掛けるよ」
  沙羅が息を呑んだ。
「けじめをつけなかった俺がいけないんだよな。
……もう沙羅に心配はかけないから、だから、こんな証がなくても俺は……」
「うん、うん。でもね……」
  沙羅がまた泣きながらうなずいた。でも彼女は続けた。
「こうなりたかったのも本当」
  そういうと彼女は俺の裸の胸に顔を満足そうにこすりつけた。

 このとき、なぜ美那が来ないと決めつけていたのか、今の俺にはわからない。
  翌日、ベランダに残った、雨でも洗濯物でもないはずの濡れたしずくの跡に気付きながら、
何も意味を見いださなかった自分の迂闊さには呪うしかない。
  幸せは、俺の目を確実に塞いでいたのだ。

3

俺と沙羅は、エロ猿になった。
「ん……んふ……」
  もちろん、沙羅に無軌道に欲望をぶつけたりしないよう自重をしているつもりだったが。
「浩介……、どうした? さわらないのか?」
「う……、そのさ、なんか沙羅に悪いような気がしてさ。エロいことばっかりしてるからさ」
  昼休み。人気のないクラブ棟の予備室。沙羅は大胆にも俺の膝の上に座って、
そして俺は沙羅に口移しで昼飯を食べさせられていた。
  沙羅が言っているのは、俺が沙羅の胸を触らないのかということだ。
……誰がなんと言おうと、俺たちが爛れきっているのは間違いなかった。
「私は、浩介に触ってもらえるのがうれしいんだ。
浩介がおそるおそる私に触ってこようとするときなんて、抱きしめたくなるんだぞ」
「いや、まあ、そのさ、エロイことばかりしていると、
女の子が「私の体だけが目当てなの!」って怒るって聞くからさ。
俺は、エロイことばかりじゃなくて、ほんとに沙羅が好きだから……」
  そこまで言うと、またもや俺の顔は胸の谷間に挟まった。
というか押しつけられて、息が苦しくなる。
「……浩介っ! うん、わかってる。わかってるから。……ね、浩介。
今日はだいぶん痛まないから、私の中に……」
  どうにもまた沙羅が「いってしまった」らしい。
沙羅は何かの拍子にスイッチが入ると俺をすごい勢いで抱きしめる。
  なんでも精神的に「いってしまう」らしい。
  いつもは絶対零度のクールさなのに、俺といるときはこんな風に暴走することが多かった。
  しかも動かすとまだ痛いらしいのに、その……入れることを……求めた。
かえって俺が心配になるほどである。
  けれども彼女自身は痛くても入っているとなにか満足するらしい。
  そこのところは、俺にはよくわからない。
  それはともかく、だ。
俺は最大限の精神力をふるって、魅力的な柔らかいふくらみから頭を引きはがした。
「いや、沙羅、それって学校でSEXだろ。まずいって」
「うん、でも、浩介が苦しそうだし、私の中で出してほしいし」
「さすがにさ、見つかったらまずすぎるからさ、沙羅。
  今はいっぱいキスしてあげるから我慢してくれ」
「ん。でも帰ったら……ね」
  その唇に軽くキス。残念だが彼女の期待に添える言葉が言えないからだ。
「……ほんとに悪いんだけど、今日は実行委員会の日なんだ」
「じゃあ、待ってる。浩介の部屋で待ってるから。……そうだ、今日のお母様の勤務は?」
「えと、夜勤だったかな?」
  けなげなことを言う沙羅が、思いついたようにお袋の事に話を飛ばした。
俺のお袋は看護師をしている。
「じゃあ、私が夕食も作る。一緒に食べよう?」
  沙羅のお袋への紹介は、あの後次の日にした。
お袋も沙羅をわりと気に入ってくれたようで、沙羅はちょくちょくうちにくるようになった。
「それはありがたいけど、あんまり遅くまで待ってちゃだめだぞ。
沙羅のおばさんに、申し訳ないから」
「母さんにはちゃんといっておくから、ね」
「わかった」
  そして欲情抜きで100%の愛情を込めた口づけを沙羅にした。
沙羅の顔がうれしそうに輝くのをみて、俺も心が温かくなる。
  その途端、そんな俺たちを引きはがすかのように携帯電話が鳴った。

「浩介! いったい、どこにいるのよ!」
「み、美那?」
「実行委員の事前打ち合わせしたいのに、休み時間になればどこかいっちゃうんだから!
  とにかく、実行委員会室まですぐ来て!」
  耳を電話から十五センチ離しても、ゆうに聞こえるキンキン声が響く。
  沙羅が音を立てずに俺の頬にキスをした。
「わかった、わかった。すぐに行くよ」
「ほんとにもう。三分で来て!」
「三分は無理だけど、すぐ行く」
  通話を終了し、肩をすくめる。
「というわけだ。ごめんな」
「だいじょうぶ。……でも浮気はだめだぞ」
「おいおい。そもそも美那が相手にしてくれないよ。俺を男としてさえみてくれてるかどうか」
  軽口を叩いただけなのに、沙羅は目に少し屈託の色を浮かべた。まだ気にしているらしい。
「沙羅はほんとうに心配性だな。少女漫画じゃあるまいし、三角関係なんかそうそうないさ」
  俺はそういうと沙羅を促して、クラブ棟を出た。
そして沙羅は別れるときまで笑顔を浮かべなかった。

「おそーい!」
  実行委員会室、という名になっている使用されていなかった教室にたどり着くと、
その声で出迎えられた。
「俺にだって大事な用事はある。三分でいけないって言った」
「どうせ、宇崎さんといちゃいちゃしてたんでしょ」
  美那のあまりに図星な指摘に、たぶん、俺はぎくりとした顔をしていたに違いない。
  俺の表情を読んだ美那が、さらに不機嫌になった。「沙羅で」不機嫌になったかも知れない
「と、ともかく必要品の計算とかからやろう」
  あの衝撃のロングホームルーム、その次の日、コスプレ喫茶は、割とあっさりと実施が決まった。
  たぶん他の奴はその他の案を持っていなかったに違いなかった。
  なんといっても、仮装をする以外は喫茶店である。手軽と言えば手軽だった。
  とんとん拍子にスタッフが決まり、必要物品の手配と予算の申請が急務だった。
  上級生に頭を下げて借り出した、前年や一昨年の喫茶店をやった時のデータをみながら、
買い出すものなどをピックアップしていく。
  すぐに時間が経ち、午後の授業開始が迫った。

「ねぇ?」
  ぽつりと美那が声を掛ける。
  俺は顔をあげた。美那は視線を合わせず、窓の外を見ながら呟いた。
「浩介はさ、私のこと、好き?」
  少しだけ心がざわめく。だがすぐに落ち着かせた。
「好きさ。幼なじみとして」
  それきり沈黙が落ち、俺はノートに視線を戻す。
「浩介は、私のことを見てくれなくなったんだね。前はもっと私のことを見てくれたのに」
  はっとして再び顔をあげる。美那は相変わらず外を見ていた
「どういう意味?」
「言葉通りだよ」
  俺の質問に間髪入れず答が返る。
「美那は喜多口と付き合うようになったから、人の彼女、
  あんまりじろじろみてちゃ悪いと思ってさ」
「嘘」
  少し考えて口に出した答は、即座に否定され、俺は言葉に詰まった。
  チャイムが鳴り始め、美那が俺に顔を向ける。

「泥棒猫が浩介をとったから、だよ」

 その言葉で俺は息が止まった。
「美那っ!」
「浩介が好きだったのは、私だったのに」
  美那の目が、光を吸い込むかのように、暗く輝く。
「今なら、許してあげる。私も、浩介にいっぱい悪いことしたから」
「なんのことだよ」
「今、私にキスをして、泥棒猫と別れるって誓ってくれたら、私、浩介の浮気を忘れる。
  そして今度こそ浩介の良い恋人になる」
「う、浮気って、なにがだよ? いや、良い恋人ってなんだよ、それ!」
「せっかくやり直すチャンスを作ったんだよ? 私も浩介が好きだってやっとわかったから、
  だから二人は今からやり直すんだよ?」
「……うそ……だろ?」
「嘘? 何を言ってるの、浩介?」
  美那が重力を感じさせないような仕草で起ち上がる。
「浩介は悪い女にたぶらかされたの。あれほど別れなさいって言ったのに」
「悪い女って、沙羅は、そんなんじゃない!」
  ゆらりと美那が近づく。
「まだ、たぶらかされてるんだね。でもしょうがないか。浩介は初めて優しくされたからね」
  さらに近づいた美那が、一枚の折りたたんだ紙を取り出し、俺の手に落とした。
  無意識にそれを広げて、俺は目を剥いた。それは全裸で寝ている俺と沙羅だった。
  驚愕のあまり、紙と美那を交互に見ることしか出来なくなった俺に、美那が笑いかける。

 その笑みは、目が全く笑わず、ただ口だけが三日月のように赤く割れただけ。

「泥棒猫の公開処刑ってどう思う?」

「美那っ!」
「……浩介。私はね、女の子にひどいことをしたくないの。だからね……」

 浩介がほんとうに好きなのは私だよね

 禍々しく赤い三日月は、そんな音を出し、俺は視界が歪むのを感じて、机に突っ伏した。

 吐きそうなほどの不快感と焦燥感が俺の中を駆けめぐった。
  そんな俺の首にするりと白い腕がまきつく。
「ごめんね、浩介。……大丈夫だよ、そんなひどいことしないから。
  私だって浩介にきらわれたくないもん」
  俺の背後から聞こえる声は、いつもの美那の声だった。
「……美那」
「今はキスで我慢してあげる。でもそのうち泥棒猫にしたことは、全部私にもしてもらうから」
「美那っ!」
「浩介はね、今まで我慢してきたことをいっぱい私で楽しめばいいの。
  私もね、浩介とならなんでも楽しいと思うよ。
  そうしていけば、浩介はきっと本当の気持ちを思い出すよ」
  背後から抱きついた美那が、俺の耳をひとなめした
「そして本当の気持ちを思い出したら、あの女に私も一緒に謝ってあげる」

 その言葉で俺の混乱は、限界に達した。
訳のわからない衝動に突き動かされて起ち上がり、美那に振り返った。
「……どうして、……どうして今頃になってなんだ! 俺は美那が喜多口と付き合うから、
  ……あきらめたのに、……なんでなんだ!」
  わめく俺に、驚いた顔をしていた美那が、やがて顔を歪め、大粒の涙を落とし始める。
「なんでってこっちが聞きたいよ。好きだったら、どうして告白してくれないの!
  どうして勝手に諦めるの!
  私の気持ちをちっとも聞いてくれなくて、どうして勝手に他の女の子を好きになっちゃうの!」
  その言葉で俺は自分の犯した間違いの大きさに気付いた。
「あ、うあ……」
「ひどいよ! 好きな癖して、他の男の子を紹介して!
  嫉妬もしてくれないで、勝手に悲しい目をして、勝手に遠ざかって!
  やり直してよ! もう一度好きになってよ! 私を愛してよ!」
  そのまま美那は、背を向け、走り去っていき、紙を持った俺だけが部屋に一人取り残された。

 そして曇り空だった空のどこかで、遠雷が響き始める。空にも俺にも嵐が訪れようとしていた。

 放課後、ついに空は崩れ始める。
  雨音が激しくなる中、実行委員会全体会議が行われ、部屋の割り振りと、
予算申請の確認が行われる。
  窓ガラスに雨粒がたたきつけられ、教室は蛍光灯がともっているにもかかわらず、
寒々とした暗灰色に塗りつぶされた。
  俺はともかく、美那も涙の後を見せずに会議に出た。
  退屈な議題をこなして、会は散会となり、荒れた天候にぶつぶつと文句を漏らす者達を傍目に、
俺は無言で自分の教室に向かう。
  その後を、美那がやはり無言で歩いていた。
  人気の絶えた教室は、天候もあいまって、より寒々とした印象を与えた。
  俺は自分の机に戻り、鞄に資料を押し込む。
  強い風が窓ガラスを鳴らし、たたきつける雨が時折波のような音を立てた。

 帰ろうと振り向いたとき、美那がそこにいた。
  驚きはしなかったが、彫像のごとく動かず俺を見つめる美那に言うべきことも無かった。
  無言で退治する俺達を煽るように、風と雨が勝手にダンスを踊り、とりとめのない音楽を鳴らした

 やがて、意を決したように、美那が口を開く。
「浩介、あの女が帰ったら、私の部屋に来て」
  その言葉が終わると共に、稲光が光り、教室を一瞬照らした。
「来ないと、……わかるでしょう?」
「……どうしてもなのか?」
「全てを今日から、やり直すの。……今のまま、浩介に避けられて、終わるわけにはいかないの」
  美那が、まるで沙羅のように、全く感情を見せずに、淡々と語った。
「どうして俺なんだ? 美那なら、誰だって愛してもらえるだろう?」
  きっとこのとき、俺の顔は悲しみと苦しみで歪んでいただろう。
「誰も、私の表面しか見てなかった。明るくて美人で優しくて人気者で。
  勝手なイメージを押しつけるだけ。
  わがままだったり、愚痴ったり、ジャージで寝転がって本を読んだり、
  そういうところを受け入れてくれたのは、浩介だけだった」
「美那……」
「あの女に取られて、浩介に無視されて、それでわかったの。
  私が私で居られるのは、浩介の側だけなの」
「でも、俺は幼なじみとしてなら……」
「ダメ! あの女にメールを打ってたときも、その前も、浩介は私を構ってくれなかった。
  それに、浩介は、あの窓に鍵を掛けた」
  轟音が教室をつんざいた。雷が鳴ったのだ。
「私の居場所だったの。私だけの居場所だったの。だから、浩介も私の居場所も返してもらうの」
  美那が何かを抱くように、手を胸の前で組み合わせた。
「そして、今夜、私は私を、浩介に捧げるの。私の居場所のために。私のやり直しのために」
  今度こそ、ずしんと腹に響くような音が駆け抜け、重々しい雷鳴がそれに続く。

 蛍光灯が、光を失い、学校が闇に落ちる。

 そして光が戻ったとき、

 俺の唇に、

 美那の唇が

 重ねられていた。

4

 叩きつけるような雨の中を、俺は傘も差さずに走る。
  雨だろうと風だろうと雷であろうと、今の俺には気にならなかった。
  水を吸って張り付くシャツもスラックスも、そしてパンツすらどうでも良かった。
  髪の毛から流れ落ちる水も、隙あらば目を差そうとする雨も、意識することはなかった。
  何かに追われるように地面を蹴り、冷たい雨風の中、焼け付くような息であえぎ、
黒い雨雲の暗い空の下を泳ぐように走る。
  駆り立てていたものは苦しみと恐れだった。
  信じていたものが崩れ落ち、あこがれていたものが変転した。
  三流ホラーのように化け物に変わるのなら、出来の悪いサスペンスのように狂ったのなら、
ここまで恐くはなかった。
  好きだった女が、昔から良く知っていた少女が、
正気のまま、俺への好意のために、俺の行いによって、変わってしまった。
  豪雨の中で頼りない光をともす街灯の下を走りぬけていく。
  雨にけぶってかすむ我が家が見えたとき、俺はようやく安堵感を覚えた。
  だが、影絵のように揺らぐその向こうの隣家を見てしまい、
ゆるまりかけた足は再び全力疾走になった。
  門を体当たりするように開けて、しかし何かに怯えて乱暴ながらもきちんと締め、
震える手でかんぬきをかける。
  そして俺は玄関に飛び込むと、扉を閉め後ろ手に鍵を掛けた。
  制服の上にエプロンをつけて出てきた沙羅の姿に、一瞬美那の姿をだぶらせ、俺は震える。
「……傘を差さなかったのか?」
  少し目を丸くしながら問いかける沙羅に、俺は濡れた体を投げ出すように抱きついた。

 沙羅に下着以外をはぎ取られて、バスタオルで体中を拭われた後、
俺は自室で着替えて、ダイニングに降りた。
  やけどしそうに熱い緑茶を少しずつ呑みながら、俺は起こったことを思い返す。
  沙羅は、何も語らず椅子に座る俺の背後に立って、湿り気の残る俺の頭を丁寧に拭いていた。
  雨音だけが続き、二人とも言葉を発しなかった。
  それでも沙羅の心遣いがしみた。彼女はこういうときじっと何も言わず待てる女だった。
  そんな温かさが俺に少しずつ人心地を取り戻させ、湯飲みの茶を飲み干したときには、
俺の考えはまとまっていた。
  少しだけためらい、心を決めて俺は沙羅の名を呼ぶ。
「沙羅」
「うん?」
「ご飯を食べたら送っていくけど……そしたら、しばらくこの家には来ない方がいい」
  ひとときだけ頭を拭く手が止まる。だが、沙羅は応えなかった。
「沙羅?」
「いやだ」
  短いながらも本気の否定が返り、俺は思わず沙羅に振り返った。
  沙羅は相変わらず無表情だった、目にも怒りも悲しみも浮かんでいない。
ただ何か強い光だけがあった。
「沙羅のためなんだ。頼むから、俺の言うことを聞いてくれ」
「……理由を言うべきじゃないのか?」
  当然の返答に、俺は少し迷った。だが、隠す理由はなくて、鞄から例の紙を取り出す。
  それを見た沙羅に動揺はなかった。
「……及川か?」
  カラープリンタで普通紙に印刷された、俺と沙羅が裸で寄り添って寝ている写真。
  染みいった水でところどころインクがにじんでいる他は、なにも説明はない。
  これだけ出されても、何のことかわからなくても無理はないのに、
彼女はわずかな沈黙の後で正答した。
「ああ。美那につきあわないとばらまくって脅された。……俺が迂闊だったせいだ」
  写真の左右には俺の部屋のカーテンが写りこんでいる。
間違いなく、美那の家と隣接したベランダから写されたものだった。
  自室だからと油断したわずかな隙、
そこをこの写真は巧妙に……いや俺の間抜けさを的確に、突いていた。
「……確かに少し迂闊だったな。浩介といる時間が楽しくて、隙を作ってしまったようだ」
「だけど、……美那の考えていることがわからない。こんな写真で脅して、なんになるんだ?
  人を好きになるって、そういうことじゃないだろう? 俺にはわからないよ」
  あの教室での思い詰めた美那の顔を思い出す。思いは真剣なように見えた。
  それゆえに真意が図りかねた。
  沙羅が泥棒猫などと呼ばれるような絆なんて、俺と美那にはなかったからだ。
  あったのは、俺の一方的な思いだけ。
「きっと……及川は、幸せな女、だったんだ」
  ぽつりと沙羅がつぶやいた。
  そのとき、インターホンがなった。

「はい、どなたですか?」
  豪雨の中の来客にいぶかしみながら、
俺は立ち上がってインターホンのところに行き、受話器をとった。
「私だよ、浩介、開けて」
  その声に思わず受話器の口にあたる部分を押さえて、沙羅を見る。
「美那だ!」
  その言葉に沙羅は無表情のまま、玄関に向かった。
「沙羅! おい、沙羅!」
  俺の声にも振り返ることなく、沙羅は玄関に姿を消した。
  やがて鍵が開く音がして、すぐに扉の開く音とともに激しい雨音が流れ込んだ。
  美那と沙羅の会話に声は、雨音にかき消されて聞こえなかった。 
  息詰まるような時間が過ぎて、沙羅とそして美那がダイニングに入ってきた。

 美しいといえる女が二人、しかも両者とも同級生。
クラスの男共であれば、例外なくうらやましい奴めというだろう。
  なのに、俺は、一分でも早くこの時間が終わることを願っていた。
  リビングで沙羅と美那が向かい合って座っていたからだ。
  とはいえ、露骨ににらみ合ってる訳ではない。沙羅はお茶なんか振る舞ったりしている。
もっとも美那は手をつけてないが。
  それでも二人の間に帯電した空気が満ちていた。
  しかし、それは争う寸前の男同士の一触即発ではなく、
冷え冷えとして粘っこい異質の空気である。
  それでも対決という状況には充分ふさわしかった。
  俺はといえば、長方形のリビングテーブルの長辺に座る彼女らの横にいた。
  まるでレフェリーのごとく、彼女らから等距離の部分である、
リビングテーブルの短辺のところに座っていた。
  対決からはじき出されたポジションなわけだ。
  なにげなくここに座ったら、女達が対決ポジションに位置してしまい、
以来うかつに声も掛けられなくなった
  そのため冷え冷えとした沈黙が俺の胃まで十分に冷やして、
何か理由をつけて席を立とうと思い始めたとき、美那が口を開き始めた。

 美那の言ったことは、先ほどの繰り返しに近いものだった。
「つまり、私が、及川の居場所を奪ってしまった。
そして好きという気持ちに気づいたから、浩介を返してほしいと?」
「ごめんね、宇崎さん。ほんとうに悪いとは思う。だけど、私には浩介が必要だから」
  腹立たしい内容のはずなのに、表情を一切変えないまま沙羅は美那の言葉を要約をして返した。
  それに対して、美那は少し笑顔すら浮かべ、さらにはわずかだが頭まで下げた。
「言うことを聞かなければこの写真がばらまかれると?」
「そんなことは言ってないわ。 ただね、こんな写真をとられちゃうようなだらけたつきあいは、
二人にとってよくないと思う」
  構わず沙羅は要点に突っ込み、美那はあくまでもにこやかに対応した。
「私たちは、つきあうのにふさわしくない?」
「そうよ。宇崎さんは美人だし、きっと浩介以上のいい人が
  すぐにみつかると思うからもったいないよ」
  ふと、沙羅の目だけが燃え上がったように見えた。
「浩介以上のいい人?」
「ええ。たとえばもっと運動ができる人とか、もっと勉強ができる人でもいいし、
  もっと大人の人でも似合うと思うよ」
  そこでまた沈黙が落ちる。再び雨音だけが室内を流れた。
  沙羅がすこしうつむいた。その手がスカート越しに自身の膝をつかむ。
  美那はすこし安心したように肩を落とした。だが沈黙があっても俺が口を挟める状況ではなく、
  黙って俺は待つしかなかった。

「中学の時」
  やがて、ぽつりと沙羅がつぶやいた。
「体育の後、なぜか制服がなくなったことがあった」
  顔を落とした沙羅の表情はわかりにくい。
「帰るときに、ジャージを貸してくれた男子がいた」
  俺は記憶が呼び覚まされるのを感じていた。
「昼休みに、弁当がなくなってたこともあった。」
  昼休みも半ばを過ぎていたのに、彼女は固まったように座っていた。
  あくまでも無表情に、なんでもないように。
「次の時間にパンをくれた男子がいた」
  だからジャージを洗って返してくれた礼に、彼女にパンをおごっただけだ。
「お気に入りのキーホルダーが無くなったことがあった。一緒に探してくれた男子がいた」
  その頃になると、違うクラスの俺でも何が起きているかは わかった。
  ある女子グループが焼却炉でなにかこそこそしていたから、
  念のために見たら、たまたまそれが見つかっただけだ。
「修学旅行の時に、班行動のはずなのに私だけ一人置いて行かれた。
  一緒に行こうって言ってくれた人がいた」
  その時美那は仲のいい友人とどこかに行ってしまっていた。
  そして所在なげに立っていた彼女と目があって、
  その時にはもう知り合いだったから、声をかけただけ。
「この学校の合格発表のとき、その人はまた同じ学校だねって声をかけてくれた」
  卒業前には俺はその女生徒をすこしまぶしく思っていた。
  集団に埋もれまいとしているように凛と背筋を伸ばし、
俺のように愛想笑いを浮かべることもない。
  他の女子のようにとりとめのないおしゃべりを続けることもなく、
いじめを受けてもその姿勢を変えず清冽な雰囲気を変えなかった。
  その時好きだったのは美那だ。その女生徒には異性としての感情は持ってなかった。
  それでも彼女の人柄には好感を抱いていた。……いや、尊敬すらしていた。
  だからその偶然を、俺は合格の喜びとともに、伝えたかった。それだけだ。他意はない。

「でも、その人の目はずっと別の人を追っていた。好きな女性の一喜一憂に
  その人も一喜一憂していた。それでも一年の時は別のクラスだったから、我慢できた」
  クラスが違っていた去年、彼女は会うたびにきれいになっていったと思う。
  陰湿ないじめがやんだから、俺はそう思って、すこしうれしく思っていた。
「彼が追う女性は、同じ女なのに明るくて華やかで、人当たりがよくて、彼が好きになるのも
  無理はないって思った。幼なじみと知って、あきらめようと思った。だけど……」
「宇崎さん……」
  のまれたように話を聞いていた美那が思わず声を発した。美那にもわかったのだ。
「その人は、思いをずっと我慢していたけど、端から見ればその女性を好きなのは丸わかりだった。
その女性だって、彼の思いをわかっていたのに、……わかっていたのに、彼を利用するだけだった」
「違うよ!」
  美那の悲鳴のような抗議は、沙羅の激しい声にはねのけられた。

 いつの間にか沙羅の顔があがって、その目が美那を貫き通さんばかりに鋭さを帯びている。
「違わない! 修学旅行の時、及川と浩介はせっかく一緒の班になった。
  なのに及川が仲のいい友人をもう一人入れたいといって、浩介は自分から班を出た」
  美那が楽しめるなら、それでよかった。
「夏の課題を提出したとき、まるっきり同じ内容のが二つあって、
  丸写しだって教師が怒ったことがあった。浩介が自分が写したと告白して
  再提出になったことがあった」
  ……一度やったから、もう一度だって、がんばればできるから……
「浩介がいる前なのに、友人にからかわれると及川は、
  ただの幼なじみだよって何度も何度も否定していた」
  それがその時は真実だったからだ……。
「あ……ああ」
  美那の顔が蒼白にゆがんでいた。家に入ってきたときの思い詰めた表情と違って、
  その顔から自信が抜け落ちていた
「見ていてたまらなかった。浩介はいつも笑いながら泣いてたんだ。
  見ているだけの私の方がつらいのに、浩介は笑いながら、好きだという気持ちを抑え込んで」
それはきっと自業自得。
「浩介の側が及川の居場所というなら、どうして浩介はそんなに苦しい思いを
  しなくちゃいけなかったんだ?」
「わ、私は……」
  美那の唇だけがむなしく動く。後に続くべき言葉は出なかった。
  その美那に紙が叩きつけられ、美那が思わず顔を背けた。
「こんな写真、ばらまきたいならばらまけばいい!  私は、浩介と会うために学校に行ってる!
  こんな写真で学校を辞めさせられるんなら、その時は浩介の子供を産んで、
  浩介のために料理を作って、帰りを待つ生活をする!
  及川一人で私も浩介もいない学校に通えばいい。 浩介は渡さない!
  浩介を悲しませた女になんか絶対に渡さない!」
  ほとんど叫びに近い糾弾と宣誓の言葉は、沙羅が秘めていた熱い思いだった。
  言い終わって肩で息をつきながらも、沙羅の目は鋭さを一切減じなかった。

 その熱さが、俺の恐れや惰弱を灼いて、腑に落ちるように心が落ち着いた。
「美那、ごめん」
「こ、浩介?」
  頭はなんの気負いもてらいもなく下がった。
「俺に勇気がなかった。狂いそうに好きだったのに、
  幼なじみの関係を壊したくなくて、告白できなかった。
  美那の気持ちを無視して、一人で悲劇の主人公をやっていた俺が、一番の馬鹿だ」
「やだよ、浩介」
「でも、そんな一番みっともない時の俺でも、沙羅は好きだと言ってくれたんだ」
  あのときの沙羅の顔は今でも忘れたことはない。
「聞きたくないよ、言わないで」
「聞いてくれ。こんな俺でも沙羅を幸せにすることだけはできるんだ。
  好きだという思いに応えてもらえることがどんなに人を幸せにするかは、俺、よくわかるから」
「だったら! だったら私も!」
  その叫びの悲痛さに心がうずく。それでももう引きずられはしなかった
「でも一人だけなんだ。俺は、一人だけしか幸せにできないから、だから、ごめん。
  謝ってもなにも慰めにはならないけど、ごめん」
「いやだよぉ、やだぁ、なんでぇ」
「俺たちは、お互い、間違えまくってしまったんだ。……ごめん」
  美那がぼろぼろと涙を落とす。俺たちはただ無言でそれを見守っていた。
  沙羅の目から、厳しさも鋭さも消えた。
  ただ苦い、勝利感など無い取り返しの付かない苦さだけが、俺と沙羅を取り巻いていた。
  やがて美那は何も言わずに、泣きながら立ち上がる。
  俺たちに掛ける慰めの言葉も無く、美那もそれを待つはずもなく、
しゃくりあげる声だけを残して、美那は家を出て行った。
  美那が去っても、俺たちは動かずただ手を握りあっていた。
「俺は馬鹿だ。自分が一番傷ついていると思い込んで、美那や沙羅、喜多口も傷つけて……」
「私だって偉そうに言えない。浩介はつらいときに何度も助けてくれたのに、
  私はずっと手をこまねいていて……。
  だから私が及川の立場であっても、全く不思議じゃないんだ。
  本当は私にも彼女を罵倒する資格なんかなかった……」
「俺は、……きっと罪深い」
「浩介が罪深いなら、この嫉妬と執着に支配されて、そして及川が去って安堵すらしている私は、
  間違いなく地獄行きだ」
「俺たちは、思っている以上に似合いのカップルなのかもな」
  沙羅はわずかに苦い笑いを浮かべる。
  雷鳴と風雨が、俺たちの罪に非を鳴らし続けていた。

 そして嵐はやがて去り、

「美那?」
  俺の手にメモリーカードが渡される。ここは校舎裏。嵐が過ぎ去って太陽が輝いた次の日。
  俺は美那に呼び出されて二人だけでここにいた。
呼び出しに応じたのは、彼女の目が、とても真摯で澄んでいたからだ。
「ごめんなさい」
  彼女は深々と頭を下げた。
「本当は宇崎さんにも謝るべきなんだけど、……まだ心に整理がつかないから」
「これに、例の写真が?」
「うん。これだけ。あの写真をコピーとかは、する気が無かったから。
  だってすごく悔しかったし。だからこの中にしか入れてないの」
  数グラムの頼りないプラスチックの板。俺は手の中でカードを二三度もてあそんだ。
「もう邪魔はしないから」
  そう告げる美那の目が、少しだけ潤む。
「でもね、これだけは言いたいの。……私、待ってるよ。浩介を好きなまま、待ってるよ」
「……美那」
  ついと涙が彼女の頬を伝う。
「待ってるだけならいいよね? そしてもし宇崎さんに振られたら、その時は、ね」
「俺が振られることは確定なのか?」
  涙を流しながら、彼女は思いっきり舌を出す。
「浩介が宇崎さんを振るなんて、生意気なんだから!
  振られてへこんだら、二度と逃げられないように私が浩介の心をメロメロにしてやるんだから!
  復讐してあげるんだから! 一生、私から……はな……さ……ないん……だから」
  手で何度目をぬぐっても涙はあふれ、ついに美那は顔を覆った。
「馬鹿……浩介! きっと……、後悔……するんだから!」
  背を向けて美那が駆け出す。

でも俺が彼女を追いかけることはない。
去りゆく姿を目で追い続ける俺に、クールな長身の影が寄り添う。
「……もし私が娘を産んだら、美那という名前はどうだろうか?」
「……母子で修羅場なんかごめんだ。……それに」
  見上げた空は雲一つなく晴れ上がっている。
「俺はもう、悲しい女は見たくない」
「そうだな。……そのとおりだな」
  手が握られる。少し冷たくて意外に華奢なその手こそが、俺の絆。
  空いた手のメモリカードに力を加えると、乾いた音をたてて割れた。
  二人分……いや三人分の思いを込めて、破片を放り投げると、
太陽がそれを数秒間きらめかせて、やがて消えた。

2008/06/19 To be continued.....?

 

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