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蜃気楼(仮)

第1回


1

 純情な女であった。あからさまに素直な気持ちを表せない、器用でない女であった。
内心大いに照れていても、勉めてそれと気取られぬよう不機嫌を装って、
どなったりはたいたり、あまのじゃくな仕草でしか女は情を示せなかったのである。
  物心ついた頃より女は一人の男を好いていた。家は隣同士であった。
朝、学校へ行くのに、相手の玄関で声を張り上げて、どんくさくもたついて出てくる男を叱った。
女はいつも男を後ろにつかせて歩いた。追い抜かれぬようわざと速く歩いたのである。
男がまってと言えば、女は男の手を乱暴に引っ張って歩いた。
女は男を、常に自分のそばに置いておきたかった。
じっさい、どこへ行くにも何をするにも一緒であった。
周りの者たちは、そんな幼い二人を姉弟のようだと評した。
  思春期を迎えても、照れ隠しの八つ当たりはいっそう酷くなったとはいえ、女は男を好いていた。
ひた隠しに隠している愛情の内容が、直接的になっただけのことである。
以前までは性に依存していなかった願望があらわに実感されるにつれ、
男に対する女の態度はさらにとげを増して、助平やら鈍感やら口汚く罵り、
わけもなくはたく回数も増えていった。
それがおのれの願いを遠ざけていることを女は知っていたが、
持って生まれた性分はどうしようもなく、中学、高校と上がって、
男に浮いた話が絶無なことを口実に、ずるずると、いつまでもあらためなかった。
  男と同じ大学へ通うことになって、男と同じアパートの、
それも隣の部屋に住むことになった女は、
「偶然なんだから、勘違いしないでよね」
なんてことを言いながら、男を小突いた。浅ましかった。
しかしいまさら習慣は変えようがなくて、体が成熟していても幼児の関係を続けざるをえなかった。
初めのうち、女はあれこれ男の世話を焼いて、入浴と寝るときのほかは、
必ずどちらか一方の部屋で過ごし、ほとんど同棲しているようなものであった。
女は大げさに疲れたふりをして、男のベッドに寝転がることもあったが、
期待し且つ怖れている出来事は一向に起こるけはいがなくて、空しく朝まで起きていた。
寝不足で回らない頭の中で女は 「甲斐性なし」と毒づいた。

 数ヶ月してから、男が夜遅くまで戻らないことがたびたびあるようになった。
アルバイトを始めたからであった。
四六時中一緒に居れるよう拙く策を弄していた女も、さすがに同じ職場で働くことは出来なかった。
男の居ない夜には、女は男の部屋の中を許されるかぎり広く歩き回ったり、
埃一つ無い床をなるべく丁寧に掃いたり、作り置いた料理のラップをかけ直したり、
それをゴミ箱に捨ててまた新しく作り直したりした。
手持ち無沙汰になってしまうと、ちゃぶ台に肘を付いて、
以前にわがままを言って作らせた合鍵を指先でもてあそびながら、男の帰りを待った。
眠たくなっても、薄情な男への面当ての気持ちから、自分の部屋に戻ろうとはしないで、
腕を枕にうたた寝をした。
朝に目覚めて、自分の部屋のベッドに寝かされていることに気が付き、
毎度のことながら、女はほっとしたような気持ちでため息を吐いた。

 女は不愉快であった。
  女が買い物に出かけたら、制服姿の少女を連れた男と街中で出くわした。
男の弁解によれば、少女は男のアルバイト先の同僚で、町で偶然会って、
そのまま買い物に付き合っていたらしい。
その少女の仕草や言動が、いちいち女の気に障った。
だいいち、その女子高生らしからぬ洒脱が気に入らない。
淡々とした口調で、しかも一人称が「僕」だなんて、この小娘は漫画の見すぎではなかろうか。
「七詩、あんた条例違反よ」
「ば、ばか。俺と後藤は別に……」
「いいえ市宮さん。僕は一応、この間十八になりましたので、
たとえ僕と七詩さんがそういった関係だとしても、
社会的にいって罰則を与えられるような事態にはならないはずです」
「後藤さん、でしたっけ? そうなら、貴女は今年受験生なんでしょう?
  随分余裕なのね。アルバイトなんかしていたり、ましてや、
こんなうだつの上がらない男とほっつき歩いたりして」
「社会勉強ですよ。机にかじりついてばかりではしっかりとした大人にはなれません。
それに、恋だって経験しておくに越した事はありませんから」
  生意気なことを言う。女は男の手をとり、返事を聞く前にすたすたと歩き出した。
「帰るわよ、七詩。あんたレポートまだ残ってるじゃない。
机にかじりつくのだって、私たち学生には大切なのよ」
  そう言い終えたとき、女は、男と少女とがなにやら目配せし合ったのに気付いた。

 それがあった日から絶えず沸きあがる不安は、女をして以前より刺々しい態度をとらせた。
アルバイト先の出来事について話してしていると、
男があえて例の少女の話を避けているのに心付いて、女は覚えず剣呑顔を浮かべた。
男は一旦口を噤み、それから慎重に言葉を選ぶ様子を見せて、再び吶々とした口調で続けた。
二人ともぎこちなかった。

 休日、男が、急にアルバイトが入ったと言って出かけた。
女は髪を後ろに結んで帽子を被り、伊達目がねをかけ、
普段着ることの無い組み合わせで洋服を着て男の後をつけた。
案の定、男はアルバイト先とは正反対の方向へ歩いて、
待ち合わせ場所と思わしき広場であの小生意気な少女と合流したのである。
私服姿の少女は、肩で切りそろえられた髪を両側で結び、
ひん曲がった性格とは真逆に子供子供した恰好をしていた。
二三言葉を交わしてから、少女は媚を売る仕草で男の腕に絡みついた。
そうして男もまんざらではないかのように頬を指で掻いて、明後日の方角へ顔を向けた。
「今すぐ出てって張り倒してやろうか」と女は思った。
  店先での冷やかし、レストラン、映画館と続いた後、
男と少女は腕を組んで宿泊施設へと入って行った。
女は悲しんだ。これまでのように、後を追っていくことも出来ず、
手から滑り落ちて中身の散乱した鞄を拾うことも忘れて突っ立っていた。
女は「どうせ長く続かないわよ」と呟いてみた。むなしかった。
  ただもう生きているという感じで、女はその日その日を引き摺られるように暮らした。
女は、これ見よがしにしょげて見せるほどのしたたかさは持ち合わせていなかった。
押し殺して平静を繕い、淡々と身の回りの世話を行い、これまでどおり、
どなったりはたいたりの怒りっぽい幼なじみを続けた。

 それから一年の月日が過ぎた。
  男と少女はまだ別れていなかった。
けれど女は見切りを点けられず、報いの無い世話焼きを続けた。
掃除、洗濯、食事、それら日々の家事が女の生きがいであった。
男の衣服に付着した長い毛髪を見つけても女は以前ほど動揺することはなくなり、
男が帰って来ない晩があっても始めの頃のようにわれとわが身を慰めて男の蒲団を濡らしたりせず、
ただ小さく歎息を吐くばかりであった。

 更に一年の月日が過ぎた。別れなさい別れなさいと
一日もかかさず続けた女の祈りは届かなかった。
それどころか、男は結婚することになったのである。
例の少女が身重になったことが原因であった。女にはもう余裕が残っていなかった。
  式のひと月前に、女は自分の部屋に男を呼び出した。
この一年間というもの、男はほとんどアパートを留守にしていたので、
こうして二人きりで話すのは久しぶりであった。
「あたしとあんたってさ、結構長い付き合いだよね」
「そうだな。腐れ縁ってやつかもな」
「……。あのさ」
「なんだよ」
  それきり女は黙ってしまった。男恋しさわが身悔しさでひと言も言えなくなった。
おのれの情けなさに涙すら浮かんだ。なぜか急に、男にこれまでのことを謝りたくなった。
だからあの少女と別れてくれと付け足すという浅ましい考えに思い当たり、
その邪な思いつきを捨てるべく、俯いて目を瞑った。
しかし男が、
「おい、どうしたんだ?」
と言った途端、これまで溜め込んでいたもろもろの思いが決壊し、
女は音を立てて膝立ちになり、間を置かずして男の胸へと飛び込んだ。
  女は男の名を呟きながら顔を相手に押し付け、体中を絡み合わそうとするように動かした。
幼馴染の突然の変貌に男は色を失って、女を両手で突き飛ばし、言った。
「ふざけるのは、やめろよ」
  女は両手を後ろについたまま、男が着衣の乱れを直しているのを呆然と見つめた。
あわただしくアパートの階段を駆け上がる音が聞こえ、一息置いて、
「七詩さん、いますか」
と例の少女の声がノックの音とともに響き渡り、羞恥と屈辱とで我を忘れた女は、
裸足のまま部屋を飛び出して、女の剣幕に驚く少女を頬打った。
それから階段を数段飛ばしに駆け降りて、
裸足から血が流れるのもかまわず逃げるように駆け走った。

 もうだめだもうだめだ、どうしようもなくなってしまったという言葉が錯綜して
女の頭の中を駆け巡っていた。
前後不覚で狐つきのごとく白昼の町を失踪し、人間、自転車、自動車、
それぞれの通行を妨害しながら、きちがいじみた形相で声を張り上げた。
「あの女がみんなわるいのよ!」
  交番を横切って、商店街を通り過ぎ、公園の真ん中で立ち止まった。
「ごめん、七詩。ごめんなさい、七詩。わたしあんたにひどいこといっぱいした。
すなおじゃなかった」
  女は天を仰いでそう叫んだ。小さな子供たちが指を指していた。女は再び駆け出した。
「あんたがのぞむならなんでもするから! もうぶったりしません。あれたりしません。
やきもちやきません。すなおになります。だから、だから……」
  けたたましい音と衝撃に続いて誰かの叫ぶ声の後、
巨大なタイヤが眼前に迫ってくるのを知覚したかしないかの一瞬間に、
アスファルトの上に跳ね倒されていた女の意識が途切れた。

 女の四十九日が終って、女の埋まる墓の前で立ち尽くす男に少女が声をかけた。
「きっと、天国の市宮さんは、七詩さんの落ち込む姿なんて見たくないと思っていますよ」
「……」
「僕ら生きている人間は、幸せにならなければいけないんです。
七詩さんが幸せなら、市宮さんだって、絶対に喜んでくれますよ」
「そうかな」
「そうですよ、きっと。それに、市宮さんは、僕らの心のなかに生きてるじゃありませんか」
「そう、だよな」

2008/05/29 完結

 

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