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ママン

第1回    


1

 夫が死んだ。
鉄製の壁の向こうではもう何十分も前から夫の身体が焼かれている。
焼き場の職員はいましがた出て行き、この場には私と息子しかいない。
「さよなら」と私は夫に別れの挨拶をした。
その言葉を聞いた息子はうつむいていた顔を上げ、
「母さん、父さんが死んで悲しいだろうけど僕がいるから」と私を慰めてくれる。
それを嬉しく思いながら、私は苦笑した。
この子、和也は私達夫婦の事をわかっていないと。
夫が死んだ事を私は悲しいとも思っていないし、淋しさの微塵も感じていないのだ。
優しさだけが取り柄のような父とその父の尻を叩く母、どこにでもいるような仲むつましい夫婦。
和也の目にはそう映っていただろう。
しかし、そうではない。そうではなかったのだ。

 夫は私を愛していなかったし、私も夫を愛していなかった。
はじめこそ二人の間に愛はあったのだろうとは思う、だからこそ和也が産まれたのだから。
けれど、私が夫の帰宅が遅い理由を知って。
それを責めて、それでも夫は変わってはくれず、諦め、
離婚を決意するのに時間はさほど掛からなかった。
後は離婚届に夫が判を押すだけだった。
夜、和也が眠った後静かに私達は話を進めた。

声を荒らげる場面は双方に無かった、それなのに気が付いたら背後に和也が立っていた。
トイレで起きたのだろうか、連れて行こうと私が歩みよる前に和也は泣きだした。
「怖い夢でも見たの?」と問う私に和也はコクンとうなづく。
「大丈夫よ、ね?ほらお母さんと一緒に寝よ。そうしたら怖くないでしょう。」
あやす私に和也は首を振った。
「夢でお父さんがいなかった」和也はそう言って泣き、
「だからお父さんも一緒が良い」と泣き、
「お母さんとお父さんと三人が良い」と泣き、
結局和也を挟んで三人で布団に入るまで泣き止まないものだったから、判は押せないままだった。
そして次の日私は離婚届を破り捨てた。
夫婦間に愛は無かったがお互いに息子への愛はあったので、
私と夫は和也の前では愛し合っているふりをしていることを決めた。

「ありがとう和也」
私は優しい和也を抱きしめる。
あの夜泣き止まない和也を抱きしめながら眠った時とは違い、
少し筋肉質な身体からは柔らかさを感じる事はない。
思春期の息子を抱きしめるなんてそうそうないからだろう、私はそれに少し驚き、ときめいた。
これからもこの子の成長を見守られる、こうしてこの子の成長を感じられると。
「母さんにはもう和也しかいないや。」
同じくらいになった背の拓也の肩に顔をうずめながら言った言葉は勿論嘘で、
本当はずっと以前から私には和也しかいない。
しかしそれで私は幸せだった。
母である事の幸せは、女でいることの幸せも、仕事で得られる幸せも、他のどんな幸せさえも
霞んでしまうのだから。
「うん、僕はずっと母さんの側にいるから。ね?だから二人で一緒に頑張ろう。」
だから私は和也のその言葉に嬉しさを感じる。
和也が私の側にいるかぎり、私は和也の母でいられると。

 蝉を煩く感じる、太陽の熱に煽られ汗がとめどなく流れる。
早く家に帰って、閉めきった部屋でクーラーの涼しい風を至近距離から浴びたかった。
角を曲がればもう家だ、
ガリガリ君が冷蔵庫にあったはずだ。
そんなことを考えながら、角を曲がればもう家の玄関が見えた。
「ん?」
視界の中に人影があった。
家の駐車スペース、日陰になっている所に誰かが座り込んでいる。
熱射病、来客者、いくつかの考えが浮かびながらその人の方へ、というか家に歩みを進める。
「女?」
歳は着ているブレザーの制服からして僕と同じ高校生か中学生だろうか。
彼女の目の前まで来たのだが、顔を膝に埋めており僕に気付く素振りはない。
「あの……」と勇気を出して声を掛けてみる。
「え?」と彼女は女性にしては低めの声で反応し、膝に埋めていた顔を上げた。
「あ、あの。あ、いや」
どもってしまった。
なんというか、彼女の雰囲気のせいで。
猫のような大きな目、長いまつ毛、厚めの唇、整った鼻、濃すぎる黒色の長い髪、なきぼくろ、
彼女は異様に美人だった、中学生や高校生に美人というのは
中々無いのかもしれないが美人という言葉以外に当てはまりそうな言葉が無いのだから仕方ない。
それらがなんだか普通じゃないような雰囲気を作っていた。
「…………」
彼女は何も言わない。
そのかわり、大きな目で僕を見つめる。
「…………」
顔に何かついているのだろうか、鼻毛、目やに、
大きな目でギロリと見つめられては、睨まれているような気分になった。
「あ、」
少しして彼女は、はじけるようなそれでいて低めの声をあげた。

「和也さん?」
指された指の先には僕。
僕の名は和也。
だが、人違いではなかろうか。僕にこんな知り合いはいない。
「山本和也さん?」
答えずにいると彼女は、玄関に掛かった山本と書かれた表札を指指しながら言った。
「は、はい」
名字が山本で、名が和也で、この家に住んでいる。
それならば僕しかいなかった。
僕はなんだか普通じゃない彼女が怖かった、のだが気が付いたら反射的にそう言ってしまっていた。
「良かったー」
僕に用があって家まで来たのだろうか、肯定の言葉を聞き彼女は安心したようだった。
「あ、私、高下美月です。はじめまして」
彼女の言葉からして、やはり僕とは初対面なんだろう。
いよいよわからない。
初対面の彼女は僕に一体何のようで、何で僕の名を知っているのだろうか。
「あの、私。お線香あげたいんです」
自分なりの答えをまとめる前に、彼女は自ら答えを教えてくれた。
「父の?」
うちに来て線香をあげる相手は父しかいない。
「はい」
彼女はうなづき、僕の返事を待っている。
少しばかり怖いが、こんなとびきりの美人に線香を焚いて貰えば
父も喜んでくれるとは思うが僕には聞きたい事があった。
「えーと、あのー」
が、さっき自己紹介してくれた名前が思い出せず質問もままならない。
「美月です。美月って呼んで下さい。」
正直名字の方で呼びたいのだが、彼女の申し出を断るなんて僕には出来なかった。
「み、美月さん?」
「私、和也さんより年下です」
頑張って名で呼んで直ぐの彼女のその言葉。
年下という事は中学生だろう、だから「さん」はいらないということだろうか。
こんな美人が中学生という事に驚いた。
「美月ちゃん?」
「はい」
彼女は納得したという感じで、気持ちの良い返事で返してくれた。
「あの……」
呼び方も決まり、僕は彼女に聞いた。
「美月ちゃんは父と、どういった関係?それを教えてくれないと」
初対面な上、父から彼女の話を聞いたこともない。
そんな人物を家にあげるわけにはいかなかった。

「あ……」
彼女は考える素振りを見せ、
少しして意を決したように話し出した。
彼女には父がいなかった事。
けれど週に何回か尋ねてくるおじさんがいて、寂しくはなかった事。
急にそのおじさんが来なくなってしまった事。
「和也さんのお父さんがそのおじさんなんです」
彼女は続けて話す。
「もしかしたら、私の」
「そんなわけない」
気が付いたら僕は叫んでいた。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい」
彼女の低めの声がひどく耳に残った。

2008/05/15 To be continued.....?

 

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