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直人の母

第1回 第2回  


1

 未婚の母になった女がいる。斉藤百合子という名前の若い女で、
年を数えてみると一人息子とは十六しか違わない。
そうかといって十代の頃に過ちを犯したわけでもなく、
やむを得ない事情で寡婦となったわけでもない。
息子の直人は彼女が腹を痛めて産んだ子供ではないからである。
  百合子は幼い頃から空想に耽りがちな女であった。
白馬の王子様――百合子にとって理想的な男性が迎えにきて、自分をお嫁さんにしてくれる。
物心ついたとき浮かんだ様々な未来像の中で一番のお気に入りはそうした物語であった。
寝ても醒めても幼い百合子が考えたのは、空想の中に住む白馬の王子様のことで、
そこでは王子様は百合子の願いを何でも叶えてくれて、周りの人たちを差し置いて、
百合子だけを贔屓して彼女の自尊心を満足させてくれた。
こういった子供の手前勝手な空想は、たいていの場合、その子供が成長するにつれて
周囲と折り合いを付けてなりを顰めるものである。
けれども百合子は極端に人付き合いの得意でない性分に生まれ付いていた。
思うことを素直に言い表すことのできない子供でもあった。
大人に対して面目をあらためようとしない、生まれながらの一国者でもあった。
いつも一人ぼっちで絵本を捲り、途方に暮れるわけでもなしに、
その邪魔が入るとかえって癇癪玉を破裂させるような子供には両親も愛情の注ぎようがない。
幼い百合子は孤独にならざるを得なかった。
  発達する知能に伴い百合子の空想の形も現実味を帯びて行った。
おとぎ話の白馬は幾千万円もする高級自動車へ変わり、
漠然としていた王子様の容貌はテレビで見るような芸能人の粋な顔立ちに作りかえられた。
想像力を逞しくさせた百合子がそのような理想像をこしらえたのは、
中流家庭の生まれである自分の社会的階級に反発を抱いたからであろう。
このころには百合子も世渡りの必要を心得て、
人の意表外に出るような行動は慎むようになっていた。
彼女自身は浮世の義理と気取った風に割り切っていたためか、
同級の子供たちよりも人当たりの仕方が洒脱で、
感情に任せた振る舞いはめったに見せることが無かった。

 初潮を迎える年頃になると、唯物的であった百合子の理想像は観念的な方面へ傾いてきた。
同年代の少年たちがする卑しい振る舞いや、自分も加わったとある少女へ非道な仕打ちに
嫌悪感を覚えた百合子は、人間は中身というものが何よりも大切であると考えるようになった。
愛は金で買えないという陳腐な常套句もそのころの百合子には新鮮に感じられた。
  百合子は始め、自分の望む王子様は思いのほか簡単に見つかるかもしれないと考えた。
けれども非の打ち所が無い人格なんてそうそうあるはずがない。
第一、どんな人格者といえども、どこかに百合子の知らない一面があるかもしれないし、
彼が過去に為した様々な事柄に百合子は干渉することが出来ない。
百合子が求めているのは聖人君子であるとともにその人格の全てが
彼女の思い通りになる人間である。
百合子にたけくらべの相方がいればまた違っていたかもしれないが、
いやな子供であった彼女に甘い思い出などあるわけがない。
百合子は途方に暮れた。これではいつまでも王子様が現れず、
自分は今までの人生において取らぬ狸の皮算用ばかりしていたことになる。
正常な人間からしてみれば、そんなのはばかばかしいと一笑に付すことも出来るであろうが、
あいにく百合子は大真面目であった。
物心ついてこのかた王子様王子様で物事を考えてきたことは、
百合子のなかに確固たる信念を築き上げていた。
もし王子様が現れないのなら、いっそのこと死んでしまいたいとさえ百合子は思った。
百合子が中学校の授業で源氏物語について学んだのは、
そういう風にくったくして日々を過ごしていた時期である。

 

 みなしごであった直人は、三月の終わりに孤児院から斉藤百合子という女性の家へ引き取られた。
  斉藤さんは以前からたびたび孤児院を訪れていた。
外部の人間が孤児院にやってくることは、子供たちの間でギンミと呼ばれている。
庭で遊ぶ子供たちを窓から眺めながら外部の人と職員とがなにやら話し合っていると、
子供たちは「おまえギンミされてんぞ」「いや、あいつだよギンミされてんの」と
ひそひそ囁き合い、ある特定の子供ばかりが大人たちの視線を集めていると、
「オカイアゲ? オカイアゲ?」と手を叩いてはしゃぎ合う。
そうしてその一人を中心に輪を作り、なぜかお誕生会の時に歌う歌を合唱する。
こうした儀式を取り仕切るのはほとんどの場合年長の子供で、
まだ幼くてものを考えられない子供などは、その意義も意図も判らないまま年長さんの命令に従う。
このごろよくやって来る斉藤さんは、美人で優しいし、
なによりお菓子をお土産に持ってきてくれるから、子供たちは彼女に好意を抱いていた。
まだ六歳になったばかりの直人がギンミされたときは、
あまりに大声で歌ったために歌の調子が外れたくらいで、
直人より四つも年上のある男の子などほとんど泣き叫ばんばかりであった。
  直人が見初められて数日たった日の午前、孤児院でささやかお別れ会が催された。
しかし会の主役である直人はあまり穏やかな気持ちではいられなかった。
直人の友達も、なおざりに手を叩いたり、涙声になったりして見せていた。
あれは悔し涙かもしれないと直人は思った。
その日の午後に斉藤さんがやってくると、直人はお誕生会で貰った紙工作や衣類などを
小さなリュックサックに詰め込んで、それを背負って庭へ出た。
斉藤さんが微笑んで立っていた。
直人は斉藤さんに手を握られたが、不意に手を包んだ温かみに握り返すことが出来なかった。
腕が彼女に吊り上げられている心地がした。
斉藤さんは手を繋いだまま職員の方へ向き直って丁寧なお辞儀をした。
慌てて直人も頭を下げた。
職員や友達が何か言っているような気がしたが、気が動転した直人にはひと言も頭に入らなかった。
我に返ったときには、斉藤さんに手を引かれて孤児院の正門を跨いでいた。
直人は慌てて顔を孤児院へ振り向けた。子供たちはわれ先に屋内に駆け込んでいた。
職員たちばかりが後に残ってお辞儀を繰り返していた。孤児院の庭にはまだ雪がとけ残っていた。

 直人はやみ雲を掴むような気持ちであった。
歩いているうちに、握力の篭っていない手が斉藤さんの手のひらから滑り落ちた。
斉藤さんが汗ばんだ直人の手を掴み直そうとしたが、触れられた瞬間に引っ込めてしまった。
直人は先ほどまで握られていた腕をもう片方の腕で守るように押さえて歩いた。
十歩ほど歩くと、突然に肩を抱かれて斉藤さんの身体に引き寄せられ、直人はと胸を衝いた。
「寒くない?」
  頬に斉藤さんの体温を感じ、貰われっ子の辛さやるせなさで余計に居心地が悪かった。
「さむく、ない……です」
  それきり直人も斉藤さんも黙ってしまった。
  斉藤さんの運転する軽自動車で二時間ほど走ると、
新しい我が家となる片田舎の小さな一軒家にたどり着いた。
ぐるりを生垣で囲まれている割りかた小奇麗な建物で、
付近の民家の作りは瓦屋根だったり都会風だったり節操が無い。
斉藤さんの家は孤児院がある町の民家のそれと同じ平凡な構えの二階建てで、
屋根の色は小豆色である。
斉藤さんに促されるまま直人はその家の敷居を跨ぎ、孤児院の職員に教えられた通りに、
「ただいま」と言った。
「お帰りなさい」
  斉藤さんはそう言って、心底嬉しそうな表情を見せていた。
この日、直人が養母に自分から話しかけることの出来た言葉は、そのひと言だけであった。
  直人がリュックサックを開いてみると、孤児院の友達から貰った紙工作は一つ残らず潰れていた。
おそらく背負ったまま車の座席にもたれかかったせいだろう。
斉藤さんが台所で夕餉の支度をしている隙に、直人はそれを小さく丸めてゴミ箱に押し込んだ。

2

 いかにろくでもないたくらみを持つ百合子といえども、
直ちにいかがわしい行為に及ぼうとは考えない。
そもそもそういった嗜好は持ち合わせておらず、
ちょこなんと座って養母の発言を待ち受ける少年をいじらしく思いこそすれ、
不埒な考えはもちろん、盲目的に愛情を抱くことさえ抵抗が残っている。
直人の生い立ちは孤児院の職員から聞いている。
職員が話せない立ち入った事情も興信所を介して知っている。
憫然たることながら、その不遇から来る影響を利用しようとも考えている。
  夕食を終えると一緒に風呂に入った。
そのとき直人は百合子の誘いに小さく頷いたきりで、
服を脱がす段になっても逆らう気配は見せなかった。
入浴中、百合子はしきりに直人に話しかけるけれども、
好きな食べ物や欲しい玩具の問いに対し直人は「うん」か「ううん」とだけ答え、
百合子に体中泡だらけされたときは、くすぐったそうに身を震わせて笑い声を漏らすのを耐え、
そうして可能な限り為すがままにされようと努めている。
この意固地に似た極端な遠慮が百合子には可愛らしく思われた。
  斎藤家にテレビは置かれていない。
娯楽といえるものは百合子の趣味による小難しい書物の数々と、
これまた子供の好みそうにないクラシック音盤ばかりである。
百合子は直人と二人で入用な品物を吟味することを楽しみにするあまり、
気を利かせて玩具や絵本を事前に用意することを失念し、
家にある品物で直人の興味を引けそうなものといったら、
百合子が子供の頃から愛読している例の白馬の王子様云々という絵本しかなかった。
一冊の絵本ではゆっくり朗読するにしても三十分ほどで読み終えてしまう。
直人がせがまないので繰り返し読むのも憚られ、百合子と直人は早い時間に床に着くことになった。
無論、布団は一組である。
  百合子の気が付いたときには、直人は規則正しい寝息を立てていた。
子守り歌を歌ってみたはいいが、正しい歌詞が思い出せず、音程も合わないから、
ああでもないこうでもないと天井を眺めながら幾度も歌い直し、
ようやく調子付いてきたと思ったら、当の聴き手は百合子と反対側に体を向けて
小さい肩を微かに上下させている。
百合子は捲れた布団を掛け直すと覆いかぶさるように直人の背中に寄り添った。
直人の体は少しだけひんやりする心地がした。

 あくる日、百合子と直人は自動車で町の方へ出かけた。直人の入用なものを買うためである。
今のより上等な洋服、玩具や本、それから来週小学校に入学するので、ランドセル等の学校用品、
その他こまごましたものと結構な種類に及び、丸一日かけても全て回れるか疑わしい。
  二人はまず、直人が使う学習机を見繕いに家具屋に入った。
直人が慎ましやかに後ろに控えて歩くので、百合子が先に立ち学習机を見て回った。
百合子が手ごろな学習机を見つけて、
「これなんかどうかしら?」
と直人に声をかけると、直人は黙ってその学習机をしばらく眺めた後、指を折って何か数えた。
それから首を横に振り、机コーナーの外れにぽつねんと置かれている小さなスチール机を指差して、
「あれがいい」
と言った。
「ほんとにこれでいいの?」
「うん。これがいい」
  それは鼠色の無骨な事務机で、趣味が渋いというよりも百合子への遠慮であったろう。
実際、先ほどの様々なキャラクターが描かれた子供好みの学習机に比べて
半分以下の値段が書いてある。
直人の気苦労を尊重した百合子はその事務机を購入するべく店員を呼んだ。
  次に向かった鞄屋でも、直人は流行りのハイカラな柄のランドセルを素通りして、
奥で埃を被っている黒いランドセルを手に取った。
会計の直前、百合子は直人に外で待つように言って、直人が店の外に出たのを確認すると、
似たような見た目でも値の張る上等なランドセルを店主に持って来させた。
  昼食は街中のレストランで取った。百合子は天ぷら定食、直人はお子様ランチを注文した。
海老天一つとハンバーグ一口を交換して食べて、
百合子は貰ったハンバーグの方を美味しく感じた。
コーヒーを注文した百合子がデザートや飲み物を頼もうかと聞いても、
直人は首を横に振るばかりで何も欲しがらなかった。
  午後は洋服を買いに行った。
直人が要らないと言っても、百合子は目ぼしい服を見つけては次々と直人に試着させた。
その有様はほとんど着せ替え人形といわんばかりであった。
百合子が両手に紙袋を幾つも抱えている横で、直人はぐったりしていた。

 最後は玩具屋に寄った。
「ゲームでも、ロボットでも、何でも好きなのを選んでいいのよ」
  洋服の場合とは違い玩具に関して百合子は門外漢である。
まごつく直人の肩を抱いて、怪我人を歩かせる介添人のようにおずおず足を進めて行った。
可愛らしかったり、あかぬけていたり、珍妙であったり、どぎつい色合いであったり、
そうした目に付き易い玩具の前でいちいち立ち止まって、
「あらこれかわいい」、「どんなおもちゃなんだろ」、「どうやって遊ぶんだろ」、
「こんなのはどう」という風に百合子は直人に声をかけた。
直人は恐る恐る玩具を手に取ったかと思えば、すぐまた元の位置に戻していた。
しかるに百合子の観察したところによれば、
いかにも物見高くならないよう気をつけている風に見えた。
  商店街の小さい玩具店である。大した時間もかからず見尽くして、百合子が試しに
「なにか欲しいのはあった」と聞いてみたところ、
その途端に直人ははにかんで耳を赤らめてしまい、
百合子がもう一度回ろうかと言う前に、雑貨の棚の前にちょこちょこ走りで行って、
安っぽい作りの小さな剣玉を掴んで戻ってきた。二束三文の品である。
「ほかにも欲しかったら、持っていらっしゃい。ほら、これとかどうかしら?」
  百合子は近くにあった木製の珍妙なロボットを手に取って見せたが、
「これじゃないのはいらない」
「なら、ゲームは欲しくない?」
「ううん。これだけでいい」
  直人はそう言って、百合子が幾ら勧めても別の物を所望しなかった。
  勘定を済ませて外に出ると日が傾きかけていた。
ハンドルを握って夕闇の濃くなりつつある田園に視線をやると物寂しい気持ちがした。
助手席に座る直人が玩具屋で買ってあげた剣玉を指先で玩びながら、
ゆっくり流れて行く景色を眺めていた。
「ねえ、直人。また今度、あのおもちゃ屋さんに行こう」
「うん」
  百合子が直人を呼び捨てにしたのは始めてであった。

 

 

 教室で名前を呼ばれても、直人は咄嗟に席を立つことが出来なかった。
今はもはや、彼がこれまで馴染んでいた名前は、斉藤直人という聞き慣れない名前に替わっていた。
語感も、釣合いが悪い感じがした。
もう一度呼ばれてようやく立ち上がると、
他の子供たちはちょっとばかり首を傾げたに過ぎなかった。
それは直人をまごつかせて赤面させるには十分なことであったが、
また孤児院と小学校の違いを示す証拠にもなった。
  直人は毎朝六時半に起きていた。
まず部屋の掃除や朝食の支度を手伝い、朝食を終えて七時半近くになったら、
ゴミ袋を持った百合子さんと一緒に家を出て、集合場所である公会堂の前へ行き、
班員がみんな集まるのを待って登校した。
  直人の通う小学校では集団登校が義務付けられていた。
直人の部落における登校班は、背が高い六年生の少年と、心持ちふっくらした五年生の少女と、
それから同級生の清水葵さんという少女で、直人を含めて四人の班であった。
歩くときは班長の六年生の少年が先頭に立ち、次に清水葵さん、直人の順で続き、
そうして副班長である五年生の少女が最後尾を歩いた。
通学路は車が速度を出し易い田舎の県道で、ダンプカーなどの大型車も頻繁に走った。
そのため、登校中のお喋りや道草は推奨されていなかった。
自然、四人は黙々と歩くことになるが、時によって五年生の少女が直人に話しかけることもあった。
  道路は田園の真ん中を通っていた。
辺り一面に田圃が広がり、目印程度の集落が遠くの方にぽつぽつ見えるばかりであった。
こうした風景を見慣れない直人からしてみれば、本当に歩いて学校に行けるのかも疑わしかった。
帰りもこの道を歩かなければならないのかと考えると気が滅入った。
それでいて、俯きながら三四十分も足を進めていれば
いつの間にか学校にたどり着くから不思議であった。
初めのうち、直人はもたついて立ち止まることがよくあった。
靴紐を結びなおしたり、ズボンの具合を調節したりして他の三人に迷惑をかけた。
上級生の二人は心配そうに眺めるだけであったが、直人の前を歩く清水葵さんは、
「早くしてよ」というようなことを言って直人を急かした。
直人が謝っても清水葵さんは喚くのを止めなかった。
いつもそれを見かねた副班長の少女が彼女を宥めていた。

 こうした失態を直人がしばしば演じたことは百合子さんが揃えてくれた衣装が原因であった。
孤児院で直人が着ていた服はどれもお古ばかりで、
ほとんど寸法が大きくゆったりした着心地のため、生地がごわついていても結構動き易かった。
直人が今着ている服は、生地が柔らかく、前のように色あせていたり、
ほつれていたりはしていないけれど、古着に馴染んでいた直人は
そのぴったりした着心地に窮屈を感じた。
履き潰されていない靴は固くて、足に靴擦れを拵えそうになった。
新品の洋服の匂いは新鮮であったが、それがかえって直人を煩わした。
直人は服を傷めたり汚したりしないよういちいち気を遣った。
休み時間は図書室で過ごした。運動場や体育館に出て遊ぶ同級生たちが羨ましかった。
しかし百合子さんに迷惑をかけるわけにはいかなかった。
  直人に遊び友達は出来なかったが、幾人か上級生に知り合いが出来た。
どれも高学年の少女ばかりであった。
ある時、登校班が一緒の五年生の少女が図書室にやってきて、
一人で動物図鑑を眺めている直人を見つけた。
そのときに話しかけられたことがきっかけで、
直人は彼女と彼女の友人たちに可愛がられるようになった。
彼女たちはいつも図書室で休み時間を過ごしているようであった。
漢字を知らない直人に振り仮名の無い文章を読んでくれて、
他にも、こっそり学校に持ち込んで来た毛糸を使って綾取りを教えてくれた。
少女たちは直人を猫可愛がりはしていたが、
図書室以外の場所で彼女たちを見つけても直人は自分から話しかけようとはしなかった。
それは直人なりの拙い処世術であった。
孤児院にいた当時から、直人は不思議と年上の少女に好かれることが多かった。
その由で周囲の顰蹙を買うことも経験していた。
  学校が終るといつも直人は真っ直ぐ家に帰った。
同じ部落の斉藤葵さんは放課後に運動場で遊んでいるので、
直人が彼女と下校を共にする機会はなかった。
直人は一人で帰った。たまに、通学路を近所のおばさんが車で通りかかることもあって、
その時は家まで乗せてもらっていた。
家に帰った後は、直人は宿題をするか、庭で剣玉遊びをして過ごした。
勉強にしても庭遊びにしても、たいてい百合子さんが傍で相手をしてくれた。
直人が気の休まるときは、百合子さんが書斎に篭って仕事をしているときだけで、
そういう機会は滅多に訪れなかった。

 三日に一度は百合子さんに連れられて買い物に出かけた。
そのときはきまってお菓子を買ってもらえた。
なるべく安いお菓子を選んだ。家に帰って食べたくなったら、
「お菓子たべていい?」と百合子さんに尋ねてから食べた。
「いつでも、好きなときに食べていいんだから、そんなこと聞かなくてもいいのよ」
  百合子さんはそう言ったが、直人にとってこうしたことに許可を求めないというのは
わがままを言うことと同じ認識であった。
  喚き声や泣き声でうるさい孤児院の食卓とは反対に、
この家では喋りながらの食事をすることはなかった。
百合子さんの料理を一口食べたときに、「美味しい?」と聞かれるだけで、
その受け答えが済んでしまうと二人とも黙って食事を続けた。
直人はかえって気が楽であったが、この後に待ち受ける入浴のことを思うと気が沈んだ。
  何も身に付けない直人と違って、百合子さんは毎回タオルを巻いて浴室に入っていた。
孤児院で他の子供たちと一緒に入浴することの多かった直人は何とも感じないが、
百合子さんは気恥ずかしそうにタオルを抑えて縮こまっていた。
幾度入浴を繰り返してもそれは変わらなかった。
百合子さんはスポンジ一つ取るのにももじもじして、
なぜそんなに取り乱すのか直人には理解しがたかった。
直人の体を洗う手つきもぎこちなく、半ばくすぐるような感じなので、
直人は笑い声を抑えるのに苦心を重ねて、お湯を被った頃にはお腹が引きつりかけていた。
百合子さんは背中だけを直人に洗わせた。
スポンジを上下させると直人自身の体を擦るよりも滑らかに感触された。
肌の色も、直人の腕よりだいぶ白かった。
浴室の明るい照明に当てられるとその違いがより際立った。
体重をかけて擦っているとき、たまに勢い余ってスポンジが横に滑り込むことがあった。
この日もそうであった。
手首にやんやりした触感があった途端、百合子さんはきゃっと声を上げて全身を跳ねさせた。
「もういいからお湯に入ってなさい」
  そうした意味のことを訥々と言いながら、
百合子さんは直人からスポンジを引っ手繰って、自分の体を洗い始めた。
直人は今日もまたへまをやらかしてしまったと思った。

 直人は肩までお湯に浸って天井を眺めた。
そうしていなければ、百合子さんがいつまでも身体を洗い終えることが出来ないからであった。
身体を洗う姿を見られるのを百合子さんは嫌がっていた。
視線があることに気付くと、直人に苦笑いした顔を向けて、いつまでもそのままの体勢でいた。
スポンジを持つ手は動いているが、同じところばかりを擦るので一向に捗らなかった。
  直人と向かい合い浴槽に浸かって、百合子さんはようやく落ち着きを取り戻してくれた。
体が温まるころになると、その日学校であった出来事などを直人に尋ねてきた。
百合子さんの質問に直人は毎回正直に答えていた。
勉強について尋ねられて、手を上げて問題に答えたことを話した。
体育について聞かれて、その日の徒競走で一等賞を取ったことを話した。
友達のことについて切り出されると、直人は少し言葉に詰まってから、
上級生の少女たちのことを話した。
「でもね、直人。男の子とも遊ばなくちゃ、駄目よ」
  肩を掴まれてそう言われた。いつもより語尾が強まっているように思えた。
叱られたような疚しい気持ちになった。自分自身でもそう感じた理由が判らなかった。
ただ、入浴前に気が滅入るのは、毎度このようなやり取りが起こるためなのは確かであった。
  直人は随分長いことテレビを観ていなかった。孤児院で毎週観ていたアニメを見たかった。
同級生たちが休み時間にそれについて話しているのが耳に聞こえて、
続きが気になって仕様が無かった。
けれどもこの家にテレビは無かった。ラジオさえ無かった。
直人は我侭を言って欲しがってはいけなかった。
風呂上りに歌の無い音楽を流し、うっとりと聞き惚れている百合子さんを、
このときばかりはほんの少し恨めしく思った。

 直人は同衾には慣れていた。孤児院でも、由美さんという十四五歳の少女と一つの布団で眠り、
ある出来事があってからは、今度は別の年上の少女と、
百合子さんに引き取られるまでずっと一緒に眠っていた。
百合子さんは前の二人とは違った匂いがした。
最初の少女は、甘ったるい匂いがしたけれども、あまりにそれが強すぎて、
鼻につんと来るような感じであった。
次の少女は、布団に入ったときゴムに似た匂いと石鹸の匂いを混ぜこぜにした匂いがしたが、
時間が経つとともに石鹸の匂いが薄れて行き、
そうして濃くなりすぎたゴムのような匂いに妙な気持ちが高じて頭がふらふらになった。
百合子さんはいつまでも石鹸の匂いがした。
布団を被り、子守唄を歌う百合子さんの腕に顔を埋めると、直人は安らいだ気持ちになった。
耳が塞がれたことで音程の外れた歌声が薄れるのも良かった。

2008/05/01 To be continued.....

 

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