逃げる一団と追う一団。
前者は死から逃れるため、後者は死を与えるため、それぞれ必死で駆けていた。
普通ならば前者の欲望の方が圧倒的に優っていたであろう。
しかし、後者には前者を圧倒するだけの健脚が備わっていた。
そう、忍びと呼ばれる彼らから逃れる術など、常人にあろうはずもないのだ。
忍びから逃げているのは数人の武士に守られた女人であった。
着ている打掛は上等であり、かなりの身分の姫君と分かる。
姫君は侍女に手を引かれて必死に走っているが、その足元はおぼつかない。
必死の逃走も虚しく、遂に切通しになった崖下で追い詰められてしまった。
追っ手は山伏の格好をした一団であった。
しかしその目はいずれも求道者のそれではない。
欲に白目を濁らせた贋山伏たちは、姫君とそのお供をグルリと取り囲んだ。
「むぅ……おのおの方……」
進退窮まった武士たちは一斉に刀を抜き放つ。
もはや戦いによってしか務めを果たせそうになかった。
「無駄なことはお止めなさいっ」
鋭い叱責が、武士たちの踏み出そうとした足を止めた。
山伏の列が左右に割れると、その背後から一人の女が現れた。
白い小袖に緋袴が目にも鮮やかな巫女姿である。
敵である武士たちも思わずハッとしたほどの美少女であった。
彼女は山伏たちの上役なのであろうか。
ごつい山伏たちが身を固くするのが武士たちにもハッキリ伝わってきた。
「務めに忠実なのはあっぱれ。なれど、そなたらに用はありませぬゆえ、さっさとお逃げなさい」
巫女は武士たちを嘲るようにクスクス笑った。
年端も行かない少女に侮られ、誇り高い武士たちは憤った。
そして頭に血を昇らせたまま、巫女に向かって斬り掛かっていった。
「お馬鹿さんたち」
巫女は身構えもせず、武士たちの突進を待ち構えている。
その目には恐怖どころか相手に対する憐れみすら浮かんでいた。
やがて互いが後一歩で切っ先が届く間合いに入った瞬間、信じられないことが起こった。
巫女の姿が忽然と掻き消えたのである。
「…………!?」
武士たちは我が目を疑い、刀を振りかざしたままで辺りを見回す。
揃って幻でも見ていたとでもいうのであろうか。
そこに巫女が立っていたという痕跡すらなかった。
「さっきまでそこに妖しげな巫女が……」
「確かに居たでござるな」
狐につままれたようにポカンとする武士たち。
互いに呆けた顔を見合わせた彼らは、とんでもないものを目の当たりにした。
なんと僚友の額に深々と棒手裏剣が突き刺さっていたのである。
「えっ……?」
「あっ……?」
我が身に何が起こったのか知る暇もなく、10人の侍たちはドゥッと大地に転がった。
次いで手裏剣が炸裂し、大音響と共に10個の遺骸は吹き飛んでしまった。
残された姫君と侍女は生きた心地もせず、抱き合って震えるばかり。
濛々たる煙が風に流されると、そこに先程の巫女が立っていた。
背後には山伏の集団が片膝をついて控えている。
巫女は姫君の前に進み出ると、山伏に倣うように膝をついて畏まった。
「地獄谷七人衆が一人、紅葉。頭領の名により“若様”をお迎えに参りました」
紅葉と名乗った巫女は深々と頭を垂れた。
「ぶ、無礼なっ。このお方を白樺城の菊姫様と知っての狼藉か。下がりゃっ」
侍女は気丈に声を張り上げ、帯に挟んでいた懐剣を逆手に抜く。
日の光を浴びて、白刃がギラギラと輝いた。
だが、紅葉はそんな物など目に入らぬかのように平然としている。
「姫様とな。白樺城に姫様がおられたとは不可思議な」
紅葉は全てを見透かしたように微笑を浮かべる。
そして、背後の山頂に小さく見えている城を振り返った。
城は炎に包まれ、真っ黒な煙が空に向かって立ち上っている。
それは隣国を治める濱崎弾正に雇われた、紅葉たち地獄谷忍軍による戦果であった。
白樺城主、滝川民部は弱小大名に過ぎなかった。
しかも、その民部は春の訪れを待たずして鬼籍に入った。
重臣たちは、嫡男の菊千代を正式に次期当主にするべく朝廷に奏上中である。
一見して、現在の滝川家は14になる若君を頂点にした合議制で仕切られているように見える。
しかしその実、家臣団は決して一枚岩と言えず、誰もが実権を握ろうと鵜の目鷹の目になっていた。
滝川家の内情は魑魅魍魎が跋扈する不安定な状態にあったのである。
そんな滝川家が戦国の世を生き延びるためには、近くの強国と同盟を結ぶしかなかった。
幸い、東に国境を接する白川家には妙齢の姫君がいた。
三国一の美姫として音に聞こえた雪姫である。
その雪姫が菊千代を気に入ってくれたのだから話は早かった。
今春にも婚礼の儀が執り行われ、両国は強固な同盟関係を築き上げるはずであった。
そうはさせまいと焦った者がいた。
滝川家の西隣に国を構える濱崎弾正である。
東に野心を抱く弾正は、滝川家の領土を虎視眈々と狙っていた。
滝川家を傘下に入れると、白川家とも正面から張り合える国力を持つことができる。
なんとしてでも雪姫を菊千代の元に嫁がせてはならない。
早々に白樺城を責め立てて、菊千代を亡き者にする必要がある。
それよりも菊千代を手中に収めて濱崎家の姫を娶らせれば──
自分は舅筋として滝川家を牛耳ることも可能なのだ。
梟雄として知られた弾正の動きは素早かった。
決断と共に訪れたのは、忍びの里として知られる地獄谷である。
弾正は頭領の陣風斉と面会すると、夜の支配権と引き替えにその忍軍を手に入れた。
そして即座に白樺城に対して攻撃命令を発したのであった。
目的は2つ。
城の破壊と菊千代の拉致である。
手慣れた忍びにとって白樺城ごときはどういうこともなかった。
正面から火を放ってやれば、搦め手から貴人が逃げ出すのは当たり前である。
裏門にはわざと兵を回さなかった。
その代わり七人衆の一人、紅葉を配したのである。
待つほどもなく、武士団に守られた貴人が裏口から出ていくのが見えた。
後は適当に逃がし、城から離れた所で襲撃するだけであった。
「成る程、姫様ですわ。これは失礼つかまつりました……」
美しい巫女は恭しくお辞儀して非礼を詫びた。
余りに人を食った態度であったので、侍女はかえって言葉に詰まった。
生きた心地もしないのであろう、見目麗しい姫君は侍女の背に隠れて身を震わせていた。
同じく巫女の背中もブルブルと震えていた。
しかしそれは恐怖ではなく、込み上げてくる笑いをこらえているために生じた震えであった。
「……ですから、こういう余計なモノは要りませんわね」
顔を上げた時、紅葉の顔はヨダレを垂らしたオオカミのようになっていた。
「ひっ?」
気圧され腰を引いた侍女は、次の瞬間、紅葉に手首を掴まれ宙を舞っていた。
侍女が地面に転がった時、懐剣は紅葉の手に移動している。
「小夜っ」
思わず侍女に駆け寄ろうとした姫君が紅葉に行く手を遮られる。
情け容赦ない斬撃が姫君に襲いかかった。
「…………!」
耐え切れないだろう傷みを覚悟して、姫君がその美しい顔を歪める。
傷みはいつまで経っても襲いかかっては来なかった。
うっすら目を開けてみると、体は何ともなっていなかった。
だが、ホッとしたのも束の間、巫女の狙いが分かったのはその直後であった。
「あぁっ?」
錦紗の帯が弾け飛び、小袖の前がハラリとはだけた。
剥き出しになった股間に付いていたのは──決して姫君にあってはならないモノであった。
「まぁ、なんて可愛らしい。流石は菊千代様のおちんちんですわ」
紅葉は目を細めてクスクスと笑った。
山伏たちも好色そうに目を細めてにやついている。
「見られちゃった……」
菊千代は慌てて身をよじって前を隠したが、全ては遅きに失した。
と言うより、相手は自分の正体に最初から気付いていたのだ。
「さぁ菊千代様、参りましょう。龍姫様がお待ちですわ」
龍姫というのは濱崎弾正の娘である。
美しいが大変な癇癪持ちとして、領民から恐れられる悪姫であった。
「いやだっ、龍姫なんかに会いたくない」
菊千代は怯えた顔になり、激しく頭を振ってみせる。
凶暴で知られる龍姫の手に落ちたら、どんな目にあわされるか分かったものではない。
「聞き分けのない若君様。紅葉がついておりまするゆえ、恐れることは何も……」
紅葉が優しく諭すが、怯えた菊千代はイヤイヤをして後ずさりする。
気の短い紅葉は徐々に苛ついてきた。
「菊千代様っ。どうせ行くのですから、痛い目をなさらずともよろしいでしょうに」
紅葉は少々口調を厳しくし、強引に菊千代の手を取りに行った。
その瞬間であった。
背筋に走った殺気を捉え、紅葉は大きく飛び下がり後方宙返りをうった。
たった今まで立っていた場所を数本の手裏剣が駆け抜けていった。
「どなたですのっ?」
周囲を見回す紅葉の目は鋭く吊り上がっていた。
「汚い手で若君様に触れないでもらおうか」
その声は周囲のあちこちから降ってきた。
左右にそそり立つ崖を反射板として利用しているのである。
「山彦の術? 小癪な」
相手も忍び、しかも自分と同じクノイチと知って紅葉の表情が険しさを増す。
「何処だ。何処にいる?」
紅葉は五感の作用を使って周囲を探る。
気が付けば、知らないうちに周囲の景色に霞がかかっていた。
菊千代が、そして山伏たちが藁人形のように次々と倒れていく。
「……しまった」
慌てて飛び上がった時には遅かった。
霞に含まれた薬草の成分が全身を痺れさせていたのだ。
「不覚っ」
飛び上がり損ねた紅葉は、悔しそうに地面に倒れ伏した。
その体勢のままで、紅葉は素早く計算する。
守るべき菊千代を巻き込むおそれのある術ならば、決して致命的な薬草ではないだろう。
まだ勝機はある。
果たして──
霞を割って敵のクノイチが姿を現せた。
まだ若い──幼いと言ってもよい少女忍者であった。
艶やかな黒髪を後ろで束ね、あり合わせの細縄で縛っている。
彼女が意外に整った顔立ちをしていることに紅葉は驚いた。
表情にも荒んだ色はなく、純情そうに見える。
ちゃんとした化粧をすれば、姫様の替え玉に使えるのではないかとさえ紅葉は思った。
丈の短い袖無しの着物を着ており、剥き出しになった二の腕と太ももが眩しい。
手首と足首には革の脚絆を巻き付けている。
粗末な袋帯の後ろには無造作に小刀を差し込んでいた。
少女忍者は倒れた菊千代に近づくと、その場に平伏した。
「鬼庭の里から参りました、疾風の霞。御免」
霞と名乗ったクノイチは菊千代を抱き起こすと、自分の唇を主君の唇に重ね合わせる。
そして、そのまま深呼吸して、胸の盛り上がりを大きく上下させた。
菊千代の肺に溜まった毒素を吸い出しているのである。
元々毒性の弱い成分であったので、菊千代は直ぐに意識を取り戻した。
もちろん霞の体には何の影響もない。
「お、お前は……?」
鼻先に知らない女の顔を見つけ、菊千代は怯えたように身を引いた。
「ご安心を。行部少輔様のお声掛かりにより馳せ参じた、鬼庭の者にございます」
霞は後ずさるとその場に平伏して控えた。
「父上が……そうか……」
亡き父が自分の護衛にと忍びの者を雇ってくれていたのだと知り、
菊千代は目頭が熱くなるのを感じた。
「さぁ、先を急ぎましょう。まだ敵の包囲を破ったわけではありません」
霞は主君を急かそうとして、背後に迫った殺気を感じた。
振り返りざま、飛来した手裏剣の雨を小刀で弾き返す。
「あははははぁ〜っ、イイもの見ちゃいましたわよぉ」
巫女姿のクノイチが笑いながら飛び込んできた。
その動きにはキレが戻っている。
巻き添えになる主君の体を思うばかり、霞隠れに用いた毒素が少なすぎたのであった。
鍛え上げられた紅葉の体は、既に毒素を排泄してしまっていた。
「接吻してたの黙ってて欲しいのでしたら、菊千代様をこちらへお寄越しなさい」
紅葉は嬉しそうに手裏剣を連発する。
それを瞬きもせず打ち落とす霞。
無数の火花が散っては消えていく。
決して避け得ない手裏剣ではなかったが、背後の菊千代に当たるおそれがあった。
防御に徹する不利を悟った霞は、懐から手裏剣を取り出し巫女に向かって連射する。
それをお払い棒で弾き返すため、紅葉は本気を出さねばならなかった。
「意外にできますわ。えぇ〜い」
短気を起こした紅葉は、お払い棒を片手に突っ込んでいく。
それに呼応するように、配下の山伏たちも走り出す。
「まずい」
手練れの紅葉を相手にしながら、山伏軍団から菊千代を守り抜くのは至難の技である。
「逃げましょう。霞が盾になります」
霞は菊千代を促すと、迫り来る敵に向かって煙玉を投げつけた。
一瞬にして霞が立ちこめ視界が遮られる。
先程の術を目の当たりにしていた紅葉たちは、その場にたたらを踏んだ。
今度の煙は猛毒の可能性もあった。
その隙に、霞と菊千代は駆け出した。
「フリチンの坊やを逃がしちゃダメですわ」
紅葉を始め、山伏たちが一斉に手裏剣を放つ。
出鱈目に投げられた無数の手裏剣は、予測不能な軌道を描いて霞たちに襲いかかった。
何発かは弾くことができたが、全てを防ぐことはできなかった。
「うぅっ」
菊千代を庇った霞の肩口に、背中に、鋭い切っ先が食い込む。
途端に霞は視界がぼやけてくるのを感じた。
手裏剣の刃先に毒を仕込むのは常套手段である。
息が苦しくなり、脂汗が全身の毛穴から吹き出てきた。
このままでは霞は動けなくなってしまう。
しかし、菊千代の護衛は頭領が彼女に科した任務なのである。
命と引き替えにしても守り抜かねばならなかった。
気力だけで走り続ける霞だったが、やがて限界がやってきた。
もはやこれまでと悟った霞は、その場に踏み止まって敵を迎撃する策に出た。
その間に菊千代を少しでも遠くへ逃がそうというのである。
「ここは霞が引き受けますのでお逃げ下さい」
護衛役と離れることに菊千代は躊躇した。
だが、共に踏み止まるのは更に危険に思えた。
「頼んだぞ」
菊千代は小さく頷くと脇目も振らずに逃げ出した。
「菊千代様……どうぞご無事で」
若君の背中に向かって霞が呟く。
そして振り返ると追跡者に向かって駆け出した。
一心不乱に駆ける菊千代の頭は、たった今別れたばかりの少女忍者のことで一杯だった。
忍びとは恩賞しだいでどうにでも転ぶものだと知っている。
家臣が主君のために死ぬことが戦場の理だということも知っている。
しかし、今だ初陣も果たさぬ菊千代にとって、そんな理屈は通用しなかった。
我が身に成り代わり、喜んで死地に赴こうする存在は余りにも鮮烈であったのだ。
「霞、とか言ったっけ……無事だといいんだけど……」
菊千代の顔が不安に曇る。
だが、菊千代には他人の心配をする余裕は無くなってしまった。
前方から騎馬隊の一団が駆け寄ってきたのである。
一難去ってまた一難。
思わず身を固くした菊千代だったが、直ぐにホッと胸を撫で下ろした。
林立している旗指物には、同盟国たる白川家の家紋が鮮やかに染め抜かれていたのだ。
その騎馬隊は白樺城の危急を知った白川家が送ってきた援軍であったのだ。
「どう、どうっ」
先頭に立っていた騎馬武者が、竿立ちする愛馬を制止する。
鎧姿も凛々しい女武者であった。
白川家の姫君にして菊千代の婚約者、雪姫である。
白皙の面が上気して、今は桜色に染まっていた。
「雪殿ぉっ」
叫びながら駆け寄ってきた菊千代を見て、雪姫は思わず顔を赤らめた。
女物の小袖の前がはしたなくはだけ、菊千代の大事なモノがブラブラしていたのである。
「あれっ」
思わず指先で口元を覆った雪姫だったが、その視線は菊千代の股間に釘付けになっている。
「雪殿、お願い。私のためにまだ戦っている家臣がいるんだ」
菊千代は必死で援軍を訴えかけた。
無論そのつもりで出陣したのであり、雪姫にも異存はなかった。
菊千代に手を差しのべ自分の前に跨らせると、ムチを一発くれて馬を走らせた。
切通しに戻ると、地獄谷忍軍は既に立ち去った後であった。
突如現れた白川軍に、形勢不利と見て逃げ去ったのである。
勝てぬと見ればさっさと逃げ出す。
それが忍びの恐ろしさでもあった。
「霞ぃっ」
菊千代は命の恩人の名を叫びながら辺りを見回す。
壮絶な戦いが繰り広げられたのであろう、あちこちに山伏の姿をした敵の忍びが倒れている。
いずれも正確に眉間を射抜かれており、ピクリとも動かない。
そんな男の死骸に混じって、動かない少女忍者が倒れていた。
「霞っ」
雪姫の馬から飛び降りた菊千代は霞の元に駆け寄る。
調べてみると、体に無数の傷を負いながらもまだ息があった。
「よかった……」
安堵の溜息をついた菊千代は、ふと馬上の雪姫を見上げて──戦慄した。
雪姫の顔が般若のようになっていた。
「家臣などとおっしゃるからどなたかと思ったら……乱破ではございませんの」
雪姫の顔に蔑みの色が浮かぶ。
「けど、雪殿……この者は私の身代わりとなって……」
菊千代が恐る恐る切り出すのを、雪姫は手で制して遮った。
「よろしいですこと、菊千代様。乱破などという下賎の身は、
君主の盾になってこそ初めて価値があるのです」
雪姫が冷たく吐き捨てるのを、菊千代は違和感を覚えながら聞いていた。
確かに雪姫の言う通りであり、別に彼女が冷血な訳ではないのであろう。
下級兵士の生死をいちいち気に掛けていたら、君主は戦どころではなくなる。
戦に犠牲はつきものだし、兵士だって割り切って戦っているに違いない。
しかし、霞の場合は違う。
彼女は自分の目の前で、自分の代わりに死のうとしたのだ。
「そんな甘いことで、雪の婿が務まりましょうか」
雪姫は菊千代に向かって手を差しのべた。
「さぁ、そんな乱破は見捨てて参りましょう。まだ残党が潜んでいるおそれがあります」
雪姫に促され、菊千代は仕方なく馬上の人となった。
姫を怒らせることは滝川家の存亡に関わる。
決して自分一人の問題ではないのだ。
「霞……済まない……」
馬上の菊千代はもう一度倒れ伏した霞に一瞥をくれる。
そして後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
「惜しいことをしましたわ。あのおちんちん、余りにも美味しそうで……」
燃え残った白樺城の二の丸で、巫女姿の紅葉がやけ酒を飲んでいた。
板間に寝そべっただらしない格好である。
城を奪い取ることには成功したが、肝心の菊千代を逃がしてしまった。
このままでは弾正の元には戻れない。
依頼はまだ半分達成したに過ぎないのだ。
「いずれ、あのおちんちんは龍姫様のものに……私のお毒味の後ですけれど」
そう呟いた紅葉の含み笑いが凍りつく。
背後に確かな殺気を感じたのである。
「余裕だねぇ。鬼庭者なんかに後れをとっちゃった割りには」
「地獄谷七人衆の恥さらしめ。頭領もご立腹だ」
闇の中から現れたのは、火縄銃を担いだマタギ娘と、緋色の陣羽織を着た女武芸者であった。
「早蕨……松風……どうしてここへ?」
紅葉は同じ七人衆の2人が出張ってきたことに疑問を感じた。
「決まってるじゃん。アンタ一人じゃ勝ち目ないって判断されたの」
「陣風斉様も呆れ果てておられる」
紅葉の目から余裕がなくなった。
頭領を怒らせてしまったのなら、このまま粛清も有り得る。
2人を敵に回して勝てる見込みは皆無であった。
「まぁ安心しなよ。まだ消されるって決まったわけじゃないし」
「この次しくじったら命の保証はないがな」
それは怖ろしい警告であった。
地獄谷衆に二度の失敗は許されない。
再び疾風の霞と相まみえて後れを取るようなことになれば、生きて日の目は拝めなくなるだろう。
紅葉は生唾を飲み込みながら、体の震えを自覚していた。 |