身の程、という言葉が日本語にはある。
高望みしたり、不釣り合いな希望を持った人間に使われる言葉だ。
高野純一は、その”身の程”を良く弁えた人間だ。
中の上と言われる学力に、下の上と評される容姿、事故の影響で走る事が出来ない体、
これらを総合的に評価すれば、高校生としての高野純一は最低ランクに属すると言えるし、
高野純一自体が、その事を良く弁えていた。
とは言え、彼に現状に不満はない。
彼自身が、もとより高望みする性格ではなかったし、それなりに友人の数もいる。
何よりも、一番の楽しみでもある絵を描くと言う、
その行為を、誰に邪魔される事もなく行う事が出来ているのだから、不満があるはずもなかった。
唯一、彼が不満を持つとしたら、彼の幼馴染みである、宮島菜緒の事になるだろう。
宮島菜緒は、成績優秀にして容姿端麗。
誰に対しても変わらないその態度は、老若男女関係なく、学園の人気者である。
運動だけが、あまり得意ではないが、それが逆に菜緒の魅力を際立たせていた。
純一も例外なく、菜緒の事が好きだ。
その気持ちは好きという単純な気持ちだけでなく、
事故に遭った時、彼女だけが自分のリハビリに付き合ってくれた事に対する、
依存にも似た感情であり、 何を捨てても、菜緒だけは幸せにしたい、という、
良く言えば自己犠牲、悪く言えば自分勝手な気持ちを抱いていた。
それでも純一は分かっている、
自分が菜緒に釣り合わない事を、
菜緒を幸せに出来るのが自分ではない事を。
それは客観的にみれば当たり前の発想であり、常識に乗っ取ったモノと言えるだろう。
だが、彼は知っておくべきだったのかも知れない。
人間関係、特に男女の恋愛において、そんなモノは何の役にも立たないという事実を。
分かっている”身の程”が、どれ程に不幸を呼ぶかを。
高野純一の朝は、宮島菜緒と共に登校する事から始まる。
正確に言えば、宮島菜緒の朝は、高野純一を学校に迎えに来る事から始まる。
だが、それは純一にとって、小さな重荷にも成っている。
何せ、自分や菜緒の家から、高校までは自転車で通える距離なのにも関わらず、
足が悪い純一は自転車に乗れずにバス通学をしているし、
必然的に菜緒をそれに付き合わせる事にもなっているからだ。
その事に対して純一は、幾度となく菜緒に”自分に付き合わなく良い”と言っていたのだが、
その都度、菜緒は決まり文句の様に”私が好きでやってるんだから、気にしない気にしない!”
と言うと、純一の背中を数回叩く。
今でこそ、純一は何も言わなくなっているが、菜緒の優しさに付け込んで迷惑をかけている、
という気持ちはなくならない。
純一にとって唯一の救いがあるとすれば、毎朝に一緒に登校しているにも関わらず、
自分と菜緒が付き合っている、との噂が立たない事だろう。
それは、純一の存在が空気だと言う事もあるし、菜緒の優しさが校内でも有名だと言う事もある。
何より、菜緒に本命と目される相手がいる事も大きいのだろうが、
そんな事よりも、純一にとってみれば、自分が原因で、
菜緒の可能性を閉ざしていない事実の方が大切だった。
学校に着けば、菜緒は誰からも挨拶される。
それは、彼女の人格を物語っているが、
純一については、挨拶する者はおろか、その存在に気付く者も稀だ。
純一が上手く自分の存在を消している、とも言えなくはないが、
素直に言えば、華の違い、としか言いようがない。
それでも菜緒は、純一に対して優しい。
帰りが重なったりする時は勿論、純一が部活で遅くなる時すら、彼を待ってから下校するのだ。
その日も、菜緒は純一に部活の有無を聞き、純一が部活があると答えると、
終わるまで待ってると言うと、自分の教室へと向かった。
「毎朝、可愛い幼馴染みと登校するなんて…羨ましい立場だ」
純一が教室の自分の席に着くと、友人である、飯島啓太が、
嫌味とも皮肉とも言える言葉を投げかけてくる。
毎朝の事で、純一も慣れた言い方で、
「そう見えるなら、それはそれでいいさ」
と、皮肉っぽく返す。
「可愛い幼馴染み、なんて存在がいたら、俺だったらもうちょっとは浮かれるんだがねぇ」
純一の答えに、啓太が溜め息を漏らしながら、彼の前の席に座った。
「まっ、仕方ないか、ここまで不釣り合いじゃあ、夢の一つも見れないだろうし」
啓太がクスクスと笑いながら言う。
別に悪意のある言い方ではなく、啓太なりに、
この珍事を笑いに変える事で、純一を元気付けようとしているのだ。
「下手な夢は見ないよ、俺だって、自分の事ぐらいなら良く分かっているつもりだしね」
啓太の気持ちを理解している純一も、笑いながらそう答えた。
「それがいいな」
啓太が純一の様子を伺いながら言う。
「宮島には、片桐って大本命がいるみたいだしな」
しっかりとした声で、純一の意思を確認するように啓太は言う。
それに対して、純一は”分かってるさ”と、多少に不機嫌を滲ませた答えを返す。
啓太が言う片桐とは、サッカー部のエースで、女性人気が高い、片桐慎也の事だ。
当人同士は否定しているものの、菜緒とは互いに好き合っているとの評判であり、
ベストカップルとして、多くの人間から公認されている仲でもある。
純一も、菜緒にその事実を確認しようとした事があるが、
強い調子で否定され、その上で”何でそんな事を聞くのか”と、
逆に説教された為、それ以降に話題に出す事はない。
何で菜緒があそこまで怒ったのか、純一には今一つの理解出来なかったが、
恋愛と言う、女性には繊細な部分に自分が土足で踏み込んでしまった事や、
自分を傷付けるのを恐れた、菜緒の優しさの現れだろうと、無理矢理に自分を納得させていた。
「宮島と片桐は、そのまま、エロゲーに出て来てもおかしくない関係なからな」
啓太が独り言の様に呟く。
その呟きに、純一は頷きをもって答えた。
誰もが認めているにも関わらず、くっつきそうでくっつかない関係、
あの二人は何かの学園ドラマの主役なのだろうとは、純一も思う。
「純一…」
啓太が突如として、真剣な顔で純一を見る。
「な…何だよ?」
「脇役の男キャラってのは、早めに消えるのが正しい道だぞ」
熱い眼をして、純一の肩に手を置きながら、啓太が涙ながらに語る。
「何言ってんだ、お前は?」
「俺はお前の為を思って言う!」
呆れた声を出した純一に関係なく、啓太が熱弁を奮う。
「俺にはお前が、ヒロインである宮島を襲おうとして片桐に邪魔される事で、
二人の仲を強化させる、当て馬キャラにしか見えないんだ!」
周囲に注目される程の大声で語りきった。
一応、純一は、
「誰がするか、そんな事!」
と、啓太の頭を殴っておいた。
放課後、純一は部活に出る。
絵を描く事が好きな純一が所属しているのは、当然に美術部だ。
ある程度は出来上がっている風景画に、仕上げを施しながら、純一は考える。
啓太に言われた事だ。
無論、菜緒を襲うなどは純一にはないつもりなのだが、
自分が絵を描き始めた理由は菜緒にある、そう言っても過言ではないからだ。
運転が出来なくなった代わりに、という理由もあるのだが、
それ以上に、純一は菜緒を描きたかったのだ。
描く事によって菜緒の事を、形に残る思い出に変えたかったのだ。
それは、自分が菜緒に相応しくないという気持ちから来る、失恋を前提にしていた。
しかし、純一は菜緒の肖像画を描けずにいる。
それは未だに、純一の中に未練が残っている事を意味し、彼自身もその事を分かっている。
”まるでストーカーだな”
自嘲する様に純一は思う。
自分の様な男の一途などただの犯罪に過ぎないし、変に嫉妬したところで醜いだけ、
幾度となく自分に言い聞かせている事実は、頭では分かっていても、心が理解してくれない。
どこかで区切りを付けなければいけない、
その区切りの付け方は今の純一には分からなかった。
だが、その区切りが付いた時、純一は菜緒の肖像画、
最初で最後になるだろう、を描くつもりでいた。
「相変わらず上手いねえ…」
ある程度、作品が仕上がった時点で、一人の女子生徒が純一に声をかけてきた。
女子生徒は、美術部の部長である早川美由紀、
美人だが、気難しくて気分屋と言われてはいるが、親しくなれば、面倒見の良い姐御肌な人だ。
ちなみに、啓太に言わせると、片桐の攻略キャラの一人らしいが、その詳細を純一は知らない。
「これ、屋上からの景色でしょう?」
「あんな何の変哲もない様な風景が、こんな綺麗になるんだー」
「やっぱり純一は私好みのイイ絵を描くよ!」
美由紀がオーバーアクションを取りながら、純一の絵をベタ誉めする。
誉められる事に純一は悪い気はしないものの、流石に照れ臭く、
「いや…そんなに誉められると…」
と、顔を真っ赤にして言い、
「先輩の彫刻の方が綺麗ですよ」
と、自分でも似合わない発言をつい、してしまい、更に照れ上がってしまった。
「ありがとね!」
「私も純一に誉められると、誰に誉められるより嬉しいよ!」
快活に笑いながら、社交辞令を交えつつ、美由紀が喋る。
既に照れ上がっていた純一は、それに対して何も答えられずにいた。
純一は、美由紀先輩の事を嫌っている訳ではないが、
菜緒以外の女性から好意的な対応をされる事がないせいか、美由紀の反応にいつも戸惑らされていた。
人嫌いの噂もあった美由紀が、入部当初から何かに付けては自分の面倒を見てくれるし、
気にかけてもくれている。
純一は、そんな美由紀の行動が部長としての責任からである、
と分かっていても、勘違いしそうになる自分を押さえるのに必死だ。
「ねえ、肖像画も描こうよ?」
美由紀が囁きかける様に漏らした言葉で、純一は我に返った。
「肖像画…ですか?」
「そう、肖像画!」
「純一の描いた肖像画を私、見てみたいしね」
何が楽しいのか、明るく喋る美由紀に、純一は黙り込むしかなかった。
初めて描く肖像画は、菜緒に決めているし、それを最後にするつもりでもある。
とは言え、その事を美由紀先輩に言うつもりは純一にはない。
まず気持ち悪がられるだろうし、通報される事はなくても、敬遠される事は間違いない、
純一はそう考えているからだ。
「私がモデルになってあげるって、何回も言ってるでしょうが!」
そう言いながら美由紀は、純一の決意を促す様に、その背中を何度か叩く。
「いや、それはちょっと…」
「なあに?私じゃあ、役不足だっての!」
渋る純一に美由紀がずばりと切り込む。
”正しい意味での役不足だからな”
純一はそんな事を考えながら、思わず首を振った。
菜緒の事がなかったとしても、この先輩を描いてしまえば、ますます自分が勘違いしてしまう、
そう想ったからだ。
「私だったら、ヌードでもOK何だよ?」
純一の胸中を知ってか知らずか、美由紀が冗談っぽく言う。
そんな事になったら、自分の思い込みが止まらなくなる、
第一、自分は最初で最後の肖像画は菜緒を描くと決めているのだ。
そう考えた純一は、
「あっ、俺、もう時間ですんで!」
と、焦る様に立ち上がると、
「先輩、すみませんが俺、先に失礼します!」
とだけ、挨拶をして、美由紀の返事を待たずに逃げる様にして、部室を後にした。
純一はよほど、慌てていたのだろう。
だから、
「私だけを描いて、私だけを見るように成ればイイのに」
という、美由紀の独白が、純一の耳に入る事はなかった。
校門には菜緒がいた。
そして、その横には片桐の姿も見えた。
純一の場所から良く分からないのだが、二人が何かの話しをしている事だけは、見て取れた。
”校門以外の、別の場所から帰るか”
二人の邪魔をしない為にも、純一はそう考えたが、その考えはすぐに無駄になった。
「純一!」
純一の姿に気付いた菜緒が、そう呼びながら純一に駆け寄って来たからだ。
「遅いって、もう」
肩で息をしながら、菜緒が抗議の声を上げる。
「いや、仕上げの部分だったから、つい…」
菜緒の抗議に、純一が理由を言う。
「でも、こんなに遅くなるなら、私も部室に行けば良かったかなあ」
純一の言い分に納得しなかったのか、菜緒は小声でぶつぶつと呟きだした。
そんな菜緒の様子よりも、純一には気になる事があった。
さっきからこちらを見ている、片桐の事だ。
「菜緒、良いのか?」
「何が?」
気を利かせたつもりの純一の質問に、菜緒は気付く様子もなく、顔を見上げる。
「片桐を待たせてるみたい…だからさ」
純一としては、あまり口にはしたくない言葉だったのだが、
菜緒が片桐と何らかの約束をしていたとしても、不自然ではない。
だとすれば、自分はお邪魔虫になっているのだろう、純一はそこまで考えていた。
「なんでそんな事を言うの?」
純一の言葉に、菜緒が眼を吊り上がらせて、怒りを見せる。
「何でって…言われても…」
「私は純一を待ってたんだよ、片桐君は関係ないでしょう?」
戸惑う純一を、菜緒が冷静に追い詰める。
「それとも、なに?私が片桐君と仲良くなった方が、純一はイイとでも言うの?」
「それは…」
自然な姿で当たり前だろう、そう言葉を紡げなかったのは、純一が菜緒に失恋しきれておらず、
片桐に強い嫉妬を感じてしまっているからだ。
「私はずっと純一の隣にいる!」
「それは約束したでしょう?」
強い調子で言う菜緒に、純一は思わず頷いてしまった。
確かに約束はしたが、それは事故の時の話で、既に時効だと、純一は考えている。
フト見ると、片桐の姿は見えなくなっていた。
「ねえ、絵を描くのって、美術部じゃないとダメかな?」
帰りのバスの中、菜緒が呟きを漏らした。
「まあ、ダメって訳じゃないんだけど…」
「あそこは資材や道具が揃ってるから、何かと便利なんだよ」
菜緒の呟きに、純一が淡々と答える。
事実、純一が美術部に入っている理由はそれ以上にない。
「そうだよ、ね」
「便利だから、行ってるだけだよね?」
菜緒が純一の眼を見据えながら、何かを確認する様に問い掛ける。
純一はその質問の意図が分からず首を傾げた。
「もし待ってるのが辛いなら、無理しなくても…」
「そうじゃないよ!待つのは私の義務みたいなものだし、楽しみでもあるから問題ないの!」
純一が言葉を言い切る前に、菜緒が勢い良く否定してきた。
だが、次の瞬間にはすぐに顔を曇らせ、
「美術部が便利だから通ってるだけで、あの先輩は関係ない…」
と、純一には聞こえない小声で、自分に言い聞かせ始めた。
純一は、そんな菜緒の姿に、再び首を傾げる他になかった。
菜緒と別れ、自宅の自分の部屋に帰った純一は、一人考える。
帰りのバスでは、少し菜緒におかしなところがあったものの、
それでも、菜緒といる時間は、純一にとって心地良い時間だった。
その心地良さに甘えていたいからこそ、純一は菜緒から離れられずにいた。
「ストーカーか、俺は?」
自分でそう言う事で、自己非難をしてみるが、効果が上がる事はない。
眼を横にやれば、やや古いキャンバスが、純一に見える。
それは初めて小遣いで買った物であり、
最初で最後の肖像画、すなわち、菜緒を描く為に、今まで使わずにとっておいた物だ。
早めに、このキャンバスを使わなくてはならない、
自分の菜緒への恋心を此処に、想い出として封じ込めなくてはいけない。
純一は、切実にそう願う。
だが、今はまだ、それが出来そうになかった。 |