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最後の絵、最初の絵

第1回 第2回                


1

 身の程、という言葉が日本語にはある。
  高望みしたり、不釣り合いな希望を持った人間に使われる言葉だ。

 高野純一は、その”身の程”を良く弁えた人間だ。

 中の上と言われる学力に、下の上と評される容姿、事故の影響で走る事が出来ない体、
  これらを総合的に評価すれば、高校生としての高野純一は最低ランクに属すると言えるし、
  高野純一自体が、その事を良く弁えていた。

 とは言え、彼に現状に不満はない。
  彼自身が、もとより高望みする性格ではなかったし、それなりに友人の数もいる。
  何よりも、一番の楽しみでもある絵を描くと言う、
その行為を、誰に邪魔される事もなく行う事が出来ているのだから、不満があるはずもなかった。
  唯一、彼が不満を持つとしたら、彼の幼馴染みである、宮島菜緒の事になるだろう。

 宮島菜緒は、成績優秀にして容姿端麗。
  誰に対しても変わらないその態度は、老若男女関係なく、学園の人気者である。
  運動だけが、あまり得意ではないが、それが逆に菜緒の魅力を際立たせていた。

 純一も例外なく、菜緒の事が好きだ。

 その気持ちは好きという単純な気持ちだけでなく、
  事故に遭った時、彼女だけが自分のリハビリに付き合ってくれた事に対する、
依存にも似た感情であり、 何を捨てても、菜緒だけは幸せにしたい、という、
  良く言えば自己犠牲、悪く言えば自分勝手な気持ちを抱いていた。

 それでも純一は分かっている、
  自分が菜緒に釣り合わない事を、
  菜緒を幸せに出来るのが自分ではない事を。

 それは客観的にみれば当たり前の発想であり、常識に乗っ取ったモノと言えるだろう。

 だが、彼は知っておくべきだったのかも知れない。
  人間関係、特に男女の恋愛において、そんなモノは何の役にも立たないという事実を。
  分かっている”身の程”が、どれ程に不幸を呼ぶかを。

 高野純一の朝は、宮島菜緒と共に登校する事から始まる。

 正確に言えば、宮島菜緒の朝は、高野純一を学校に迎えに来る事から始まる。

 だが、それは純一にとって、小さな重荷にも成っている。
  何せ、自分や菜緒の家から、高校までは自転車で通える距離なのにも関わらず、
  足が悪い純一は自転車に乗れずにバス通学をしているし、
必然的に菜緒をそれに付き合わせる事にもなっているからだ。
  その事に対して純一は、幾度となく菜緒に”自分に付き合わなく良い”と言っていたのだが、
  その都度、菜緒は決まり文句の様に”私が好きでやってるんだから、気にしない気にしない!”
と言うと、純一の背中を数回叩く。

 今でこそ、純一は何も言わなくなっているが、菜緒の優しさに付け込んで迷惑をかけている、
という気持ちはなくならない。

 純一にとって唯一の救いがあるとすれば、毎朝に一緒に登校しているにも関わらず、
  自分と菜緒が付き合っている、との噂が立たない事だろう。
  それは、純一の存在が空気だと言う事もあるし、菜緒の優しさが校内でも有名だと言う事もある。
  何より、菜緒に本命と目される相手がいる事も大きいのだろうが、
  そんな事よりも、純一にとってみれば、自分が原因で、
菜緒の可能性を閉ざしていない事実の方が大切だった。

 学校に着けば、菜緒は誰からも挨拶される。
  それは、彼女の人格を物語っているが、
  純一については、挨拶する者はおろか、その存在に気付く者も稀だ。
  純一が上手く自分の存在を消している、とも言えなくはないが、
素直に言えば、華の違い、としか言いようがない。

 それでも菜緒は、純一に対して優しい。
  帰りが重なったりする時は勿論、純一が部活で遅くなる時すら、彼を待ってから下校するのだ。

 その日も、菜緒は純一に部活の有無を聞き、純一が部活があると答えると、
終わるまで待ってると言うと、自分の教室へと向かった。

 「毎朝、可愛い幼馴染みと登校するなんて…羨ましい立場だ」
  純一が教室の自分の席に着くと、友人である、飯島啓太が、
嫌味とも皮肉とも言える言葉を投げかけてくる。

 毎朝の事で、純一も慣れた言い方で、
  「そう見えるなら、それはそれでいいさ」
  と、皮肉っぽく返す。

 「可愛い幼馴染み、なんて存在がいたら、俺だったらもうちょっとは浮かれるんだがねぇ」
  純一の答えに、啓太が溜め息を漏らしながら、彼の前の席に座った。
  「まっ、仕方ないか、ここまで不釣り合いじゃあ、夢の一つも見れないだろうし」
  啓太がクスクスと笑いながら言う。
  別に悪意のある言い方ではなく、啓太なりに、
この珍事を笑いに変える事で、純一を元気付けようとしているのだ。

 「下手な夢は見ないよ、俺だって、自分の事ぐらいなら良く分かっているつもりだしね」
  啓太の気持ちを理解している純一も、笑いながらそう答えた。

 「それがいいな」
  啓太が純一の様子を伺いながら言う。
  「宮島には、片桐って大本命がいるみたいだしな」
  しっかりとした声で、純一の意思を確認するように啓太は言う。
  それに対して、純一は”分かってるさ”と、多少に不機嫌を滲ませた答えを返す。

 啓太が言う片桐とは、サッカー部のエースで、女性人気が高い、片桐慎也の事だ。
  当人同士は否定しているものの、菜緒とは互いに好き合っているとの評判であり、
  ベストカップルとして、多くの人間から公認されている仲でもある。

 純一も、菜緒にその事実を確認しようとした事があるが、
  強い調子で否定され、その上で”何でそんな事を聞くのか”と、
逆に説教された為、それ以降に話題に出す事はない。
  何で菜緒があそこまで怒ったのか、純一には今一つの理解出来なかったが、
  恋愛と言う、女性には繊細な部分に自分が土足で踏み込んでしまった事や、
  自分を傷付けるのを恐れた、菜緒の優しさの現れだろうと、無理矢理に自分を納得させていた。

 「宮島と片桐は、そのまま、エロゲーに出て来てもおかしくない関係なからな」
  啓太が独り言の様に呟く。
  その呟きに、純一は頷きをもって答えた。
  誰もが認めているにも関わらず、くっつきそうでくっつかない関係、
  あの二人は何かの学園ドラマの主役なのだろうとは、純一も思う。

 「純一…」
  啓太が突如として、真剣な顔で純一を見る。
  「な…何だよ?」
  「脇役の男キャラってのは、早めに消えるのが正しい道だぞ」
  熱い眼をして、純一の肩に手を置きながら、啓太が涙ながらに語る。

 「何言ってんだ、お前は?」
  「俺はお前の為を思って言う!」
  呆れた声を出した純一に関係なく、啓太が熱弁を奮う。
  「俺にはお前が、ヒロインである宮島を襲おうとして片桐に邪魔される事で、
二人の仲を強化させる、当て馬キャラにしか見えないんだ!」
  周囲に注目される程の大声で語りきった。

 一応、純一は、
  「誰がするか、そんな事!」
  と、啓太の頭を殴っておいた。

 放課後、純一は部活に出る。
  絵を描く事が好きな純一が所属しているのは、当然に美術部だ。

 ある程度は出来上がっている風景画に、仕上げを施しながら、純一は考える。
  啓太に言われた事だ。

 無論、菜緒を襲うなどは純一にはないつもりなのだが、
  自分が絵を描き始めた理由は菜緒にある、そう言っても過言ではないからだ。

 運転が出来なくなった代わりに、という理由もあるのだが、
  それ以上に、純一は菜緒を描きたかったのだ。
  描く事によって菜緒の事を、形に残る思い出に変えたかったのだ。
  それは、自分が菜緒に相応しくないという気持ちから来る、失恋を前提にしていた。

 しかし、純一は菜緒の肖像画を描けずにいる。
  それは未だに、純一の中に未練が残っている事を意味し、彼自身もその事を分かっている。

 ”まるでストーカーだな”
  自嘲する様に純一は思う。
  自分の様な男の一途などただの犯罪に過ぎないし、変に嫉妬したところで醜いだけ、
  幾度となく自分に言い聞かせている事実は、頭では分かっていても、心が理解してくれない。

 どこかで区切りを付けなければいけない、
  その区切りの付け方は今の純一には分からなかった。
  だが、その区切りが付いた時、純一は菜緒の肖像画、
最初で最後になるだろう、を描くつもりでいた。

 「相変わらず上手いねえ…」
  ある程度、作品が仕上がった時点で、一人の女子生徒が純一に声をかけてきた。

 女子生徒は、美術部の部長である早川美由紀、
  美人だが、気難しくて気分屋と言われてはいるが、親しくなれば、面倒見の良い姐御肌な人だ。
  ちなみに、啓太に言わせると、片桐の攻略キャラの一人らしいが、その詳細を純一は知らない。

 「これ、屋上からの景色でしょう?」
  「あんな何の変哲もない様な風景が、こんな綺麗になるんだー」
  「やっぱり純一は私好みのイイ絵を描くよ!」
  美由紀がオーバーアクションを取りながら、純一の絵をベタ誉めする。

 誉められる事に純一は悪い気はしないものの、流石に照れ臭く、
  「いや…そんなに誉められると…」
  と、顔を真っ赤にして言い、
  「先輩の彫刻の方が綺麗ですよ」
  と、自分でも似合わない発言をつい、してしまい、更に照れ上がってしまった。

 「ありがとね!」
  「私も純一に誉められると、誰に誉められるより嬉しいよ!」
  快活に笑いながら、社交辞令を交えつつ、美由紀が喋る。
  既に照れ上がっていた純一は、それに対して何も答えられずにいた。

 純一は、美由紀先輩の事を嫌っている訳ではないが、
菜緒以外の女性から好意的な対応をされる事がないせいか、美由紀の反応にいつも戸惑らされていた。
  人嫌いの噂もあった美由紀が、入部当初から何かに付けては自分の面倒を見てくれるし、
気にかけてもくれている。
  純一は、そんな美由紀の行動が部長としての責任からである、
と分かっていても、勘違いしそうになる自分を押さえるのに必死だ。

 「ねえ、肖像画も描こうよ?」
  美由紀が囁きかける様に漏らした言葉で、純一は我に返った。

 「肖像画…ですか?」
  「そう、肖像画!」
  「純一の描いた肖像画を私、見てみたいしね」
  何が楽しいのか、明るく喋る美由紀に、純一は黙り込むしかなかった。

 初めて描く肖像画は、菜緒に決めているし、それを最後にするつもりでもある。
  とは言え、その事を美由紀先輩に言うつもりは純一にはない。
  まず気持ち悪がられるだろうし、通報される事はなくても、敬遠される事は間違いない、
  純一はそう考えているからだ。

 「私がモデルになってあげるって、何回も言ってるでしょうが!」
  そう言いながら美由紀は、純一の決意を促す様に、その背中を何度か叩く。

 「いや、それはちょっと…」
  「なあに?私じゃあ、役不足だっての!」
  渋る純一に美由紀がずばりと切り込む。

 ”正しい意味での役不足だからな”
  純一はそんな事を考えながら、思わず首を振った。
  菜緒の事がなかったとしても、この先輩を描いてしまえば、ますます自分が勘違いしてしまう、
  そう想ったからだ。

 「私だったら、ヌードでもOK何だよ?」
  純一の胸中を知ってか知らずか、美由紀が冗談っぽく言う。

 そんな事になったら、自分の思い込みが止まらなくなる、
  第一、自分は最初で最後の肖像画は菜緒を描くと決めているのだ。
  そう考えた純一は、
  「あっ、俺、もう時間ですんで!」
  と、焦る様に立ち上がると、
  「先輩、すみませんが俺、先に失礼します!」
  とだけ、挨拶をして、美由紀の返事を待たずに逃げる様にして、部室を後にした。

 純一はよほど、慌てていたのだろう。

 だから、
  「私だけを描いて、私だけを見るように成ればイイのに」
  という、美由紀の独白が、純一の耳に入る事はなかった。

 校門には菜緒がいた。
  そして、その横には片桐の姿も見えた。
  純一の場所から良く分からないのだが、二人が何かの話しをしている事だけは、見て取れた。

 ”校門以外の、別の場所から帰るか”
  二人の邪魔をしない為にも、純一はそう考えたが、その考えはすぐに無駄になった。
  「純一!」
  純一の姿に気付いた菜緒が、そう呼びながら純一に駆け寄って来たからだ。

 「遅いって、もう」
  肩で息をしながら、菜緒が抗議の声を上げる。
  「いや、仕上げの部分だったから、つい…」
  菜緒の抗議に、純一が理由を言う。
  「でも、こんなに遅くなるなら、私も部室に行けば良かったかなあ」
  純一の言い分に納得しなかったのか、菜緒は小声でぶつぶつと呟きだした。

 そんな菜緒の様子よりも、純一には気になる事があった。
  さっきからこちらを見ている、片桐の事だ。

 「菜緒、良いのか?」
  「何が?」
  気を利かせたつもりの純一の質問に、菜緒は気付く様子もなく、顔を見上げる。
  「片桐を待たせてるみたい…だからさ」
  純一としては、あまり口にはしたくない言葉だったのだが、
菜緒が片桐と何らかの約束をしていたとしても、不自然ではない。
  だとすれば、自分はお邪魔虫になっているのだろう、純一はそこまで考えていた。

 「なんでそんな事を言うの?」
  純一の言葉に、菜緒が眼を吊り上がらせて、怒りを見せる。
  「何でって…言われても…」
  「私は純一を待ってたんだよ、片桐君は関係ないでしょう?」
  戸惑う純一を、菜緒が冷静に追い詰める。

 「それとも、なに?私が片桐君と仲良くなった方が、純一はイイとでも言うの?」
  「それは…」
  自然な姿で当たり前だろう、そう言葉を紡げなかったのは、純一が菜緒に失恋しきれておらず、
  片桐に強い嫉妬を感じてしまっているからだ。

 「私はずっと純一の隣にいる!」
  「それは約束したでしょう?」
  強い調子で言う菜緒に、純一は思わず頷いてしまった。
  確かに約束はしたが、それは事故の時の話で、既に時効だと、純一は考えている。

 フト見ると、片桐の姿は見えなくなっていた。

 「ねえ、絵を描くのって、美術部じゃないとダメかな?」
  帰りのバスの中、菜緒が呟きを漏らした。

 「まあ、ダメって訳じゃないんだけど…」
  「あそこは資材や道具が揃ってるから、何かと便利なんだよ」
  菜緒の呟きに、純一が淡々と答える。
  事実、純一が美術部に入っている理由はそれ以上にない。

 「そうだよ、ね」
  「便利だから、行ってるだけだよね?」
  菜緒が純一の眼を見据えながら、何かを確認する様に問い掛ける。
  純一はその質問の意図が分からず首を傾げた。

 「もし待ってるのが辛いなら、無理しなくても…」
  「そうじゃないよ!待つのは私の義務みたいなものだし、楽しみでもあるから問題ないの!」
  純一が言葉を言い切る前に、菜緒が勢い良く否定してきた。

 だが、次の瞬間にはすぐに顔を曇らせ、
  「美術部が便利だから通ってるだけで、あの先輩は関係ない…」
  と、純一には聞こえない小声で、自分に言い聞かせ始めた。
  純一は、そんな菜緒の姿に、再び首を傾げる他になかった。

 菜緒と別れ、自宅の自分の部屋に帰った純一は、一人考える。

 帰りのバスでは、少し菜緒におかしなところがあったものの、
  それでも、菜緒といる時間は、純一にとって心地良い時間だった。
  その心地良さに甘えていたいからこそ、純一は菜緒から離れられずにいた。

 「ストーカーか、俺は?」
  自分でそう言う事で、自己非難をしてみるが、効果が上がる事はない。

 眼を横にやれば、やや古いキャンバスが、純一に見える。
  それは初めて小遣いで買った物であり、
  最初で最後の肖像画、すなわち、菜緒を描く為に、今まで使わずにとっておいた物だ。

 早めに、このキャンバスを使わなくてはならない、
  自分の菜緒への恋心を此処に、想い出として封じ込めなくてはいけない。
  純一は、切実にそう願う。

 だが、今はまだ、それが出来そうになかった。

2

 「お前さ、菜緒のコト、好きだったりとかすんの?」
その日の昼休み、片桐からされた質問に、純一は動きを止めた。

 ”大事な話がある”
そう言われてきた校舎裏、
人気はなく、その場で話をしているのは、片桐と純一の二人だけだ。

 純一には答えようがなかった。
菜緒の事を好きか嫌いかで聞かれれば、好きだとしか答えられない。
だがその言葉は、純一の菜緒に対する想いにはそぐわない。
それをなんと表現すれば良いか、純一には分からない。
ただ、好きと安易に言えない事だけは確かだ。

 「答えられねえか」
純一の姿を見ながら、片桐が苦笑する、
「じゃあ、聞き方を変えてやるよ」
「高野は、お前自身が菜緒に釣り合ってると思えるか?」

 純一の反応を確認する為か、顔を見ながら聞いてくる片桐に、
純一はきっぱりと、
「釣り合う訳がない」
と言い切った。
菜緒に対する複雑な感情はあるにせよ、純一は菜緒と釣り合う、
恋人同士になれるとは、考えてもいなかったし、諦めてもいた。
故に、純一の答えは淀みのない、はっきりとしたものだ。

 純一の考え、答えは、一般的に見れば妥当だろう。
片桐もそう考えていたのか、純一の答えに満足した笑みを浮かべる。
そして呟いた。
「お前が変な勘違いしてたら、菜緒が苦しい想いをするからな」

 片桐の言葉の意味が、純一には理解出来ず、顔をしかめる。
そんな純一を気にも止めず、片桐が語り出す。

 「オレもよ、菜緒がオレのコト、好きだってのは、大分前から気付いてたんだけどな…」
その事は純一も感じている。
いや、校内でその事を信じない人間は、おそらくは二人しかいない。

 「アレだけ良く練習や試合を見に来てくれてんのに、気付かないワケねえんだけど…」
それも純一は知っている事だ。
純一は、自分が出来ない為か、激しい動きが必要なスポーツ、特に屋外でやるサッカーが好きで、
サッカー部の風景を良く絵にしていた。
そして、そんな時は、絶対に菜緒がいたのだから。

 「そんな気持ちに、オレも答えてやりたくて、色々とアプローチしてやったんだけど」
「どうにもお前のコトを気にしちまってるみたいでな…」

 淡々と思い出を語る様に喋る片桐に、
純一は、それが何故、自分に関係があるのか、と疑問を抱いた。
だがそんな疑問は、片桐の次の言葉で吹き飛んだ。

 「菜緒のヤツ、優し過ぎるからな」
呆れる様な声で言う片桐、
その言葉で純一は多くを理解し、思わず顔を伏せた。

 「でもまあ、お前が身の程を知っててくれて良かったよ!」
明るい声で純一の肩を叩きながら、片桐が言う。
自分を恥じてしまっていた純一は、何も答える事が出来ない。

 「そこまで分かってんなら、菜緒から離れてやってくれよ?」
「それが菜緒の幸せに繋がるんだからよ!」

 片桐のそんな言葉に、何かを言おうと、純一は思わず顔を上げる。
そこには、女なら誰でも惚れるであろう、片桐の爽やかな笑顔があった。
”菜緒を幸せに出来る男ってのは、こんな男なんだろう”
純一は素直にそう思った。

 「頼んだぜ!」
そう言い残して、片桐がその場から去ると、
ここには純一一人が残された。

 ”自分の存在が菜緒の恋愛を阻害していた”
そんな発想が純一の脳裏に浮かび、それが純一を苦しめた。

 純一にとっての菜緒は、命の恩人、そう言っても差し支えのない存在だからだ。

 10歳の時、純一は自動車事故に遭った。
大きな手術の後、意識を取り戻した純一が、最初に見たのが、菜緒の泣き顔だった。

 辛いリハビリも、菜緒がいたから純一は耐えられた。
もう走れない、そう知った時も、菜緒がした約束、
「私がずっとちゃんを支える!純ちゃんと一つになるって約束する!」
それが純一を自暴自棄から救った。

 術後、純一が初めて松葉杖なしで歩いた時の、
菜緒の笑顔は、今でも純一の脳裏に鮮やかに残っている。

 そんな菜緒の幸せを、僅かでも妨害する事は、純一にとってあってはならない事だ。
もし、あの時の約束が菜緒を縛っているなら、開放しなくてはならない。

 「しっかりと言わなきゃな…」
純一は呟く。
菜緒に何と言うかは、決めていないが、既に菜緒から離れる事は決めている。

 それが菜緒の為になる、
そう信じて疑わず。

 その日の放課後、純一は部活に出ていた。
菜緒と離れると決意したまのの、きっかけと言うべき言葉が思い付かずにいたからだ。

 せめて絵を描けば、それも思い付くのではないか、
そんな甘い期待がなくはなかったのだが、
今まで取り掛かっていた作品は既に昨日で完成していたし、かと言って新しい題材もなく、
ただ、白紙のキャンバスを見つめているだけだった。

 「どうしたの、純一?手が止まってるよ」
押し黙る純一の背中から、美由紀の陽気な声が聞こえてきた。

 「ひょっとしてスランプにでもかかった?」
純一の肩に手を置きながら、美由紀が言う。

 美由紀が馴れ馴れしい程にコミュニケーションをとるのは何時もの事、
だが純一は、その”何時もの事”に何時まで経っても慣れる事はない。

 この時も、
「スランプとかじゃないですから…」
と答えながらも、何回か肩を大きく揺らした。

 もっとも、美由紀がその程度で怯むハズがある訳もなく、
むしろ、美由紀の手の力は強くなる。
”嫌がる自分の反応を見て、楽しんでいるだけなのでは”
と言う純一の想像は、半分は当たっている。

 「純一、もし何か悩みがあるならさ」
美由紀が久しぶりに真剣な声で言う。
「部長である私に相談して欲しいな、とか思うワケなんだけど…」
落ち着いた優しい声で美由紀が言う。
肩に置いているての指を絶妙に動かしながら。

 優しい声と、それに相反するような指の動きで、
何かが目覚めそうになりながらも、純一は懸命に強い調子で、
「悩んでなんかいないですって!」
と、反論した。

 確かに、菜緒の事で純一は悩んでいる。
だが、その悩みは人に相談する類のものではない、
そんな意志が、無意識に表に出た事は、純一自身も気付いていない。

 「そっかあ」
純一の答えに、美由紀が何か寂し気にそんな声を出すと、純一の肩から手を離した。
「純一は、未だに私を信頼してないんだね?」

 美由紀の言葉に、純一は少し動きを止めた。
そして、言葉の意味に気付くと、
「そんな事ないですって!」
「それは関係ない俺個人の問題なだけで…!」
と、慌てて否定した。

 純一は美由紀の事を信頼している。
優しい先輩として、頼れる部長として、美術に関して自分と同じ感性を持った人間として。
それは、クラスの友人である啓太を上回る程である。
それこそ、美由紀に惚れてもおかしくない程に…。
もっとも、それを”思い上がり”と考える純一がする可能性はないが。

 「今は、その答えに納得してあげる」
慌てる純一に、そう言う美由紀の顔は、純一には理解出来ない種類の笑顔だ。

 「そうだ、純一!」
何か思い付いたのか、そう言う美由紀の顔は、何時の屈託のない笑顔に戻っている。

 「もし本当に悩んでいるなら、色々と変えてみるとイイよ」

 「変える…ですか?」
美由紀の言葉に、純一は思わずその顔を見た。

 ”変えれるなら変えていきたい、
だが、何を変えれば良いか、分からない”
そんな純一の気持ちに気付いていない様な感じで、美由紀が言葉を続ける。

 「何も、そんなに難しく考える必要はないんだよ?」
「普段と違うモノを描くとか、朝に部室に来てみるとか、そんな程度でイイんだよ」
「朝に、ですか?」
美由紀の最後の言葉が、純一を刺激した。

 部活だと言う事で、朝早くに家を出れば、菜緒とは別の登校になるだろう。
それは、菜緒から離れる理由の一つとなりそうな気がした。

 「でも朝に部室は開いてないでしょう?」
純一が口にしたそれは当然の疑問だろう。
文化部である美術部に、朝練なんてモノはないし、当然、朝早くに出てくる部員はいない。

 だが美由紀は、
「それは問題ないって!」
と、高く笑いながら言った。
「部長の私は、部室の鍵を持ってんだよ!」
「純一が朝早くに来るってなら、私が付き合ってあげるから!」

 美由紀の提案に、純一は、
「そんな…、自分の個人的な事情に、先輩まで付き合わせるワケには」
と断ろうとしたが、
「部長として、我が部のホープを助けるのは、当たり前のコト!」
と、強い調子で言い聞かされ、純一は返す言葉を失った。

 確かに純一は、絵画で様々な賞を取っているし、話題になる事はなかったが、
最年少で受賞した事も少なくない。
だからこその先輩の発言なのだろう、
そう思った純一は、それならば、これ以上、断る事は、
部長としての面目を潰しかねない、そう考え、
だから、それ以上に反発せず、素直に、
「じゃあ、明日からにでもお願いします」
と、美由紀に頭を下げた。

 純一の答えに、美由紀は、
「全てはこの美由紀先輩に任せなさい!」
そう笑いながら、純一の背中をパンパンと叩きだした。

 そんな中、純一は、
”これが菜緒から離れる一歩目になる”
という、思案に耽っており、
その為か、純一は美由紀の言葉を聞き逃した。

 「アレも意外と役に立つ」
そんな一言を。

2008/02/27 To be continued.....

 

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