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三姉妹+1のバレンタインデイ

第1回


1

 吉村一男という男は毎年二月十四日になると、決まって早朝から家を飛び出す準備をする。
  二月十四日はバレンタインデイ。
  全国的にチョコレートが売れ、企業にとっては稼ぎ時、恋する少女達にとっては勝負時となる日だ。

 そんな日に一男が家を早く飛び出すのは、もちろんチョコレートに関することが原因だ。
  しかし早く家を出たところで学校にいくわけではない。
  「自分で買ったチョコを貰ったものとして友人に見せびらかす」という
悲しい作戦の下準備のために、早朝からコンビニへチョコレートを買いに行くわけでもない。
  一男が二月十四日の午前五時に家を飛び出す理由。
  それは。

「……ふふ、今年こそは成功させてみせる。一男に私を食べてもらうのだ……」

 早朝から、いそいそと天井に仕掛けをしている美しい女性が玄関前にいるからだ。
  この行動と言動が不審な女、名前は倉子という。
  道路を挟んだ向かい側に建つ家に住む三姉妹の長女であり、一男の幼なじみの一人でもある。
  一男より年上で、現在は大学に通っている。ちなみに一男では入ることも困難な大学だ。
  頭脳、美貌、家事スキル、何れにおいても妹二人が束になっても敵わない実力を倉子は誇っている。
  しかし彼女の場合、行動や性格の一部に難がある。
  わかりやすく言ってしまうと、一男に対する行いが変態的なのだ。

「ううむ、やはりこの時間は冷える。だが、今の時間でなければこんなことはできないしな……」

 一男は玄関の覗き穴から倉子の行動を盗み見た。
  顔は天井を向いている。両腕は玄関の門灯へ伸ばしている。そして唇は怪しげに笑みを作っている。

「いつもよりも一時間以上早く行動したのだから、絶対に成功させねばな。
  ……そして必ずや、一男をこの手に。組子や恵子よりも早く、速く。急げ。そう、最速で!」

 倉子の言葉を聞いて、ああまたか、と一男は思った。
  同時に去年の二月十四日の出来事が脳裏にて再現される。
  庭の柔らかい土に霜が降りるほどの天候の中、かじかんだ手を温めながら玄関前を掃除した。
  後始末が遅れたせいで遅刻してしまい、屈辱を味わった。
  去年誓ったのだ。もうあんな悲劇を繰り返しはしない。

「一男はいつも五時には起きる。それからまず顔を洗って寝癖を直し、リビングで朝食をとる。
  その時点で六時。次に制服に着替えて、しばらく時間を潰すはず。
  出てくるのはだいたい七時半。あと二時間はあるな……退屈だ。
  どうせなら準備が終わってすぐに呼び鈴を鳴らすとするか……」

 倉子が一男の事情を完璧に汲み取っているわけではないと、一男はわかっている。
  しかし、それにしても今日は強引すぎる。
  バレンタインというイベントがあるのが悪いのか、おかしくなる倉子が悪いのか。
  もはや一男には判断できない。
  だが、自分がとるべき行動は思いつく。

「あとは……これを、ここに引っかければ……よし、終わった!
  さて、一男を呼び出すとしようか……」

 腕を下ろした倉子が、玄関の呼び鈴を押そうとした。
  その行動が結果を出すより速く、一男は動いた。

「おはようございます、倉子さん。今日も相変わらず冷えますね」
「ん、な……か、一男。お前……」

 一男は玄関の鍵を開け、倉子へ朝の挨拶をした。
  倉子が震えている。だがそれは朝日も差さない時間に行動していることが原因ではない。

「いつから見ていたのだ、一男」
「天井に向けて腕を伸ばしてぶつぶつ言っているあたりからです」
「ちっ……どうして今日はこんなに早く起きているんだ。
  いつもはなら目覚ましの鳴る五時からきっちり五分間布団の中に籠もっているはず。
  真っ先に玄関に来るなど、普段のパターンならば考えられないのに」

 どうやら倉子は昨年の出来事を忘れているようだ。
  一男は同じ過ちを繰り返さないために対策を練り、昨晩も早く寝た。
  しかし倉子は何も学習していない。
  行動する時間帯、仕掛けの場所、仕掛けているブツ、いずれも変わりない。

「倉子さん、いいことを教えてあげましょうか」
「ん、なんだ? 私の知らないことか?」
「どちらかというと、知っているはずなのに気づいていないことです。
  ……俺も成長しているってことですよ。去年みたいなことには絶対になりませんからね」
「去年? ああ、そういえば去年も私はこうやって玄関にくす玉を仕掛けていたな」

 一男と倉子が同時に頭上を見上げる。
  そこにあったのはくす玉だった。門灯にひもで引っかけてぶら下がり、
細い糸が一本ぶら下がっている。
  形状や仕掛けはなんら変わりない。一男の記憶の中にあるものと同じだ。
  しかし、一つだけ気になることがあった。

「去年より、大きくなっている……?」
「そうなのか? 私は一男のことを考えながら竹籤であれを編んでいったのだが。
  なるほどな。昨年より大きくなっているということは、
つまり私の想いも昨年を上回っているということか」

 冗談ではない! と、一男は叫びたくなった。
  叫ばなかったのは声の振動でくす玉が落ちてきてしまうのではないかと危惧したからだ。
  冗談じゃないのは倉子の想いが肥大しているということに関してではない。
  くす玉の中身を包み込む殻が大きくなっていることに関してだ。

「倉子さん、あの……あれ何キロぐらいありました?」
「はて。完成が遅れたせいで重量を測る暇がなかった。よって不明だ」
「直径、何センチです?」
「六十、いや、七十だったかな? 
  何を心配しているのだ、一男。いくらでかくなろうとも私は手抜きをしないぞ。
  中身にはぎっしりと私の愛と甘さが詰め込まれているからな」
「……うわあ嬉しいなあ」

 棒読みの間抜けな声が一男の口から漏れた。
  これからどうしよう。
今から桶を持ってきてあれを受け止めて――あ、その前に新聞紙を敷かないと。
  この危機に一男の判断力が乱れる。昨晩練った段取りが崩壊する。
  ひとまず、第一に取るべき行動を一男は取った。

「倉子さん、そこを動かないでくださいね!」
「ん? 何をするつもり……はっ! もしや朝から私の唇を温めるつもりか。ならば、私は……」
「違いますから! 目もつぶらなくていいです!」

 目を閉じて唇を突き出した倉子を置いて、振り返った。桶を取ってくるためだ。
  一男が足を踏み出す直前、背後から明るい声が近づいてきた。

「おはよーっ! おにいちゃぁーーーーんん!」

 早朝の住宅街の静寂をかき消す声量で吠えながら、一男へと突進してくる女の子がいた。
  反転して一男は声の主の体を受け止めた。
  腕に感じる衝撃が最近強くなっている気がするが、そんなデリカシーのないことは言わない。
  代わりに、女の子の名前を呼ぶ。

「おお、おはよう、恵子」
「えっへへへ。もう一回、おはよ! お兄ちゃん!」

 暗がりの中でも相手の顔が分かる距離で二人は挨拶を交わした。
  叫びながら一男へと突進したこの少女、名前は恵子と言う。
  倉子を長女とする三姉妹のうちで一番年下の末っ子だ。
  現在は中学三年生で、すでに一男が通っている高校を推薦で合格している。
  倉子をはじめとして、幼なじみの三姉妹は全員が成績優秀なのだ。
  数学と理科に絞るなら一男でも勝負はできるが、トータルで見ればやはり負けてしまう。
  年下の才女はひとしきり一男にくっついた後でようやく一男から離れた。

「お兄ちゃん、いつもこんな時間に起きてるの? お姉ちゃんが早いのは知ってるけど」
「いんや。今日は特別だよ。ちょっとやらなければいけないことがあってな」
「ふーん。でもよかった。お姉ちゃん、まだお兄ちゃんに渡してないよね? チョコレート」
「ふっ……甘いぞ。恵子」

 倉子が鼻で笑う。天を指さし、勝ち誇ったように言う。

「すでに私は準備済みだ。今からこの紐を引っ張れば一男に――」
「あーっ! ストップです、倉子さん!」

 くす玉の紐が真下へ引かれる寸前に、一男が倉子の右手首を掴んだ。空いた左腕も同様に。
  間一髪のところで止められた倉子が不満を顔と声に表わす。

「何をする一男。私はお前にチョコを渡そうとしただけだぞ」
「それです! それを止めるつもりだったんですよ俺は!」
「なにぃ! 私のチョコはもらえないと申すか!」
「違うんです! そういうことじゃないんですよ!
  もうちょっと普通に渡して欲しいだけなんです!」

 一男がここまで必死になる理由。くす玉の中身をぶちまけて欲しくないから。
  今日がバレンタインデイである以上、当然くす玉の中身はチョコレートだ。
  しかし、昨年の例から言わせてもらうとただのチョコレートでないことは容易に分かる。

「ちょっとだけで、片手に持てるぐらいでいいんです。
  甘いものは好きですけど、さすがにくす玉一杯に詰められた量は摂れません」
「まあ、そうだろうな。同じ味では一男も飽きるだろうし」
「でしょう? だからあの物騒なくす玉を下ろして構いませんよね?」
「心配しすぎだ、一男。ちゃんと飽きが来ないように配慮してある」
「へ?」

 まさか、あの中身には板チョコが二三枚入っているだけとか?
  なんだ、そういうことなら早く言ってくれればいいのに。

「ちゃんと、ミルク、ビター、ホワイト、ストロベリー、ブラックと取りそろえてある」
「違いますよ! というかなお悪いです! 俺が言っているのはそういう意味じゃなくて」
「む、クランキーも混ぜ込んでいたかな? 近所のスーパーのチョコレートを買い占めたのだが、
  あまりに量が多すぎて覚えていないのだ。許せ、一男」
「なんて致命的なことを! どうしていつも後のことを考えないんですか!」
「馬鹿を言うな! 私ほど一男との未来予想図を精緻に組み立てている女はいないぞ!」
「そういうマクロ的な視点じゃなくミクロ的に!
  去年は一種類だけで大変だったんですよ。今年は粒子状のものまで含むなんて――――」

 あんた馬鹿か? と一男は言いたかった。
  普段倉子に世話になっていることを自覚している一男には言えないのだが。

 ――さて、一男がどうしてここまでくす玉を割らせまいと尽力しているのか、
ということについて説明しよう。
  昨年、何も知らずにくす玉を割った一男は、降りかかってきたチョコレートを全身で受け止めた。
  学校に行く準備を万全にしている状態だったので、制服を着ていたのだ。
  しかし、ここで疑問が一つ浮上する。
  なぜチョコレートを受け止めるぐらいのことを一男は避けたがるのか?
  簡単だ。チョコレートの形状――いや、状態が問題なのだ。

「絶対にこの手は離しませんよ、倉子さん」
「その台詞、いつもならば真正面からどんと受け止めるところだが……今日だけは別だ。
  絶対にチョコレートを受け取ってもらうぞ、一男よ」

 一男と倉子が両腕で組み合い、足を踏ん張って力をぶつけ合う。
  押し合っているだけなのでどちらかが力を抜いたら、その人間の方向へと二人とも倒れ込む。
  一男は負けるつもりはない。絶対に学校を遅刻したくないのだ。
  膝を曲げ、足の指で地面を掴むつもりで構える。前にも後ろにも倒れたくない。
  倉子も何度か力の方向を変えてはいるが、なかなか一男の体勢を崩せずにいた。
  バレンタインデイの早朝から手を繋ぎあう男女。
  端的に言えばそう言い表せるが、実際は神経のすり切れそうな争いを繰り広げている状態だ。
  ここからどうやって倉子を説得しようかと一男が考えているとき、背後から声が聞こえた。

「ねえお兄ちゃん、このくす玉開けてもいい?」

 恵子の状況を理解していない暢気な質問に一男は少しだけバランスを崩した。
  好機と見た倉子の手が動く。一男の右足が外側に開いた。

「くっ……」
「ふっはははは! 形勢逆転だ、一男! 
  いいぞ恵子。そのくす玉を割るがいい。スパーンとやってしまえ!」
「駄目だ、恵子! それは邪だったり負だったりする念がこもっているくす玉なんだ!
  希望はこもっていない! 俺が遅刻するという結果を導くだけなんだ!」

 背後へ向けて一男は怒鳴る。その間にも足が下がる。倉子の腕に翻弄される。

「もう遅い、遠慮無く受け取れ、一男! 私の愛をその体の隅々で味わうがいい!
  やってしまえ、恵子!」
「うん、わかった。いくよ、お兄ちゃん」
「やめろ! そいつの中身は!」
「毎年のことなんだから照れなくてもいいのに。あとで私のもあげるから、ちゃんと貰ってね?」
「やめろおぉぉぉーーーーっ!」

 一男の叫びが空しく響く。今の一男にできるのはそれが精一杯だった。
  えいっ、というかけ声とともに軽い音がした。恵子が紐を引っ張り、くす玉を開けたのだ。
  頭上からプレッシャーが襲いかかった。それは気配だけではなく、物体としての形をとっていた。
  真の土壇場に追い込まれた一男は自分の頭が覚めていくのを感じた。
  もう遅い。そのことはわかる。
  ならば、せめて今できることをしなければ。

 一男は倉子の手を思いっきり押した。
  その行為は自分のためではなく、倉子のためのもの。
  散りゆくのは自分だけでいいとの考えからだった。倉子を救おうとしたのだ。
  倒れ込む途中で恵子の姿が見えた。小柄な体を押しやろうと腕を伸ばす。
  しかし、襲撃者は一男にチャンスを与えるような愚を犯さなかった。
  一男が恵子に触れると同時、無慈悲な雪崩の如き一撃が襲いかかった。

 ――ばちゃり、という効果音を伴って。

*****

「どうお兄ちゃん、匂いとれた?」
「ん…………うん。完璧じゃないけどよく嗅がないとわからないな」

 一男は恵子の髪の毛の匂いを嗅いでからそう言った。
  ちなみに一男が普段そんな行動をとることはない。
  親しき仲にも礼儀あり。幼なじみといえども女性の髪の匂いを軽々しく嗅ぐのはよろしくない。
  それなのにたった今そんな行動にでたのは、やむを得なかったからだ。

「じゃ、お兄ちゃんも屈んで」
「おう。…………どうだ?」
「大丈夫みたいだよ。私と同じシャンプーの匂いしかしないもん」

 その返答を聞いて一男は安堵のため息を吐き出した。
  朝からチョコレートの匂いをさせて学校に行く訳にはいかない。
  ましてや今日はバレンタインデイ。友人達にチョコレートの匂いを嗅がれたら問い詰められてしまう。

「じゃあ私、髪の毛乾かしてくるね」
「ああ。ドライヤーなら……」
「おばさんの部屋の化粧台の前、でしょ? ちょっと借りてくるね」

 恵子は一男の母親の部屋へと向かった。
  幼なじみなのでもちろん一男の家の構造は知り尽くしている。
勝手知ったる他人の家、というやつだ。
  一男は髪の毛をバスタオルで拭きつつリビングへ向かった。
  そして、リビング中の空気がどろどろしたものに変貌していることに気づいた。
  はた迷惑な気を振りまいている人間の姿を捜す。
  その人物はソファーの上で体育座りをしていた。

「昔……一緒に入ろ……て、一男は言って…………。それが今じゃ……」

 そんなことを呟きつつ、生気のない瞳で床を見つめているのは言うまでもなく倉子だ。
  ちょっとだけ悪いことをしたかもしれない、と思った一男だったが、すぐに思い直した。
  声をかけずにすたすたと歩き、キッチンへ向かう。
  冷蔵庫の中からコーヒー牛乳入りの瓶を取り出すと、それをあおる。
  五回数えるうちに飲み終えると、わざとらしく一男は息を吐き出した。ぷはー、と。

「朝風呂に入った後のコーヒー牛乳なんか久しぶりだな。そうだ、恵子にもあげてこよう」
「私も……」
「あ、でも髪の毛が乾くまでもう少しかかるかな。その間に着替えてくるか」
「私にも……コーヒー、牛乳……」
「着替えた後はさっきの制服をすすがないと。誰かさんのせいでろくでもないことになったんだから」
「……うぅ…………一男が冷たい」

 倉子が何か言っている。それをもちろん一男は聞き逃していない。
  無視しているのだ。なぜかというと、倉子に腹を立てているから。
  洗濯場へ向かおうと一男は歩き出した。
  リビングの扉をくぐる寸前、背後から声をかけられた。

「……待たんか! 一男!」

 これも無視しようかと思ったが、一男はそうしなかった。
  そろそろ反省も済んだころだろう。あとは謝罪の言葉を聞かせてもらおうか。
  振り向く。視線の先にいる倉子はソファーの上で腰に手を当てた仁王立ちになっていた。

「何か言うことは?」
「なぜこんな仕打ちをするのだ! 一男は私のことが嫌いなのか?!」
「こんな仕打ちって?」
「私のプレゼントしたチョコレートをその身に浴びてそれを洗い流すなんて!
  おまけに恵子と一緒に風呂に入るなんて何を考えている!」
「一人ずつ入ったら効率悪いでしょ」
「なぜ私を一緒に入れてくれない! お礼に私のわがままボディで洗ってやったのに!」

 自分で自分の体をわがままボディとか言うなよ、と一男は思った。
  スタイルがいいのはわかるが、そういうのは他人が頭の中で名付けるものだ。

「それなのに私を閉め出して、恵子と一緒に入るとは。このロリコンめ!」
「……怒りますよ? いえ、すでに怒っているんですけどね。もっとあからさまに怒りましょうか?」
「なぜだ。なぜなんだ。一男のことが私にはわからない。私のどこがいけないのだ!」

 あえて言うならばあなたの行動がです。

「……倉子さん。この際だからはっきり言っておきます」
「ああ、言え。私に足りない部分があるならば詳細に述べろ。
  どんなものだろうと三ヶ月のうちに必ず補ってみせる」
「なんでくす玉に溶かしたチョコレートなんか入れてんですか!」

 そう。倉子の用意したくす玉の中には液状になったチョコレートが詰まっていたのだ。
  しかもその量が半端ではない。一男と恵子の二人の体を満遍なくデコレーションするほどのもの。
  吉村家の玄関先は様々な色が混じり合った液体に濡れ、お祭りの後の如き様相を呈していた。

「溶かしただけではないぞ。全て牛乳と混ぜ込んでホットチョコレートにしてあったはずだ」
「俺は動機を聞いてるんですよ」
「聞きたいのならば聞かせてやるとも。
  ……私は一男にチョコレートをあげたかった。しかし、ただあげるだけでは面白くない」
「そんな思考に至る時点ですでにおかしいです」
「一男は妹二人からもチョコレートを貰うはず。同じものでは差別化を図れない。
  いっそのこと一男の身にチョコレートをかけてしまえばずっと覚えてくれるはず、と思った」
「ええ。忘れたくても忘れられないですね。今年のことは」

 バレンタインデイの早朝にチョコレートを頭から被り、風呂場で甘い匂いが落ちるまで洗い続けた。
  昨年も同じことをしたが、今年は粒状のものまで混じっていたのでより時間がかかった。
  風呂場の排水溝が詰まってしまう心配までオプションでついてきた。
  学校から下校したら玄関前も掃除しなければならない。
  そう思うと一男は今すぐ布団に潜り込んで現実逃避したくなる。

「全身にチョコを浴びたら一男は風呂に入るだろう。そこで私の出番。
  ボディソープを体中に塗りたくって体を擦りつけて洗ってやれば、むらむら来た一男が」
「襲いかかってくるだろうと思った、と」
「なのに! 一男は恵子と風呂に入った! 数百年昔なら二人とも成人している歳なのに!
  あれだけ入れてくれと言っても私を風呂場に入れてくれなかった!
  私がどれだけ涙したか、一男にはわかるまい!」

 一男と恵子が風呂に入っている途中、倉子は何度も怒鳴った。風呂に入れろ、と。
  もちろん一男は入れなかった。
  風呂場の扉のガラスを割られる心配があったので、脱衣場の扉の向こうに倉子を閉め出した。
  何度か扉を強く叩かれたが、三回目のシャンプーをする時点でその音は止んでいた。
  やりすぎたとは思わない。倉子に対してはこれぐらいやってもやりすぎではない。
  だって、倉子の行動が笑い話になりそうなほど常軌を逸しているのだから。

「それに一男。なぜ恵子と一緒に風呂に入った。
  正直、姉としてこれは許せん。どういうことなのか説明して貰おうか」

 そこに女としての気持ちが入り込んでいるのかどうか確かめたい一男だった。
  指先で軽く頭を掻き、問い詰めたい気持ちを抑えて質問に答える。

「第一に、一刻を争う事態だったからです。すぐにでも洗い流さないと匂いが染みつきます。
  俺は最悪の事態に備えて昨晩のうちに風呂にお湯を張ってました。
だから恵子と一緒に入ったんです。 倉子さんの家の風呂の湯は温まっていないでしょ」
「少しぐらい匂いがしてもいいじゃないか」
「いいわけないでしょう。俺が去年どれだけ辛い思いをしたか知らないからそんなこと言えるんです」

 去年は体中からチョコレートの匂いを放っていることをクラスメイトに知られ、
丸一ヶ月ネタにされた。
  なかでも一番恐ろしかったのは、三姉妹の次女だった。
  一男が視線を向ければ睨みをきかせ、近づけば拳を握り、話かければ暴力が飛んでくる。
  ホワイトデイにおべっかを使って甘味処に誘い、ようやく機嫌が直ったぐらいだった。

 一男の言葉の正当さに倉子が言葉を詰まらせる。二人の間に沈黙が流れる。
  沈黙を破ったのはリビングのドアが開く音だった。
  髪の毛を乾かし終えた恵子が戻ってきたのだ。

「お待たせ、お兄ちゃん」
「おう。ちゃんと乾いたか? チョコに濡れたら髪の毛にどんな影響が出るかわからないぞ」
「ちょっと匂いがするぐらいだよ。それにこれぐらいなら香水よりも弱いし」
「な、なぜだ。なぜ一男は恵子にだけは優しいのだ。やっぱり一男は、年下が好きなのか……?」

 一男は恵子がやってきたことで倉子を完全無視。笑顔を浮かべ、見せつけるように恵子をいたわる。

「コーヒー牛乳飲むか? それとも甘い奴は今はやめとくか?」
「うー……うん。普通の牛乳ある?」
「ああ。ちょっと待ってろ。出してやる」
 
  冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。次に食器棚からマグカップを取り出す。
  それから牛乳を注ごうとしたところで、横からマグカップを奪われ、食器棚に収められた。
  一連の行動をとったのは恵子だった。
  姉妹揃っての行動不審振りに一男は目をしばたたかせる。

「何やってんだ、恵子」
「こっちに入れて、お兄ちゃん」
「え? いやお前、これは……」

 恵子が両手で差し出したのは牛乳の瓶だった。
  さっき一男が飲み干したコーヒー牛乳が入っていた瓶。底に薄茶色の液体が残っている。

「瓶で飲んだ方がおいしいもん。ね? お願い」
「駄目だぞ恵子! まだ私もしたことのない真正面からのうらやましいねだり方をしては!」
「え? 何言ってるの、お姉ちゃん?」
「だって、それはさっきか、かずお、一男が……」

 倉子が狼狽している理由はわかる。
  今日はまだいい思いをしていない倉子が、妹に先を越されようとしているのだ。
  一男がにやりと笑う。倉子が言葉を失う。恵子がきょとんとする。

「いいぞ、恵子。じゃんじゃん飲むといい」
「ああっ! 一男、きさまっ! 待て恵子!
  まず私が瓶の口を舐め――じゃなくて牛乳を毒味してからでないと何が入っているか!」
「平気ですよ。俺が飲んでも平気でしたから。……ちなみに直接口を付けて飲んでます」
「何っ!? それはさすがに初耳だぞ!」

 やりとりをしている最中にも瓶に白い液体が注ぎ込まれていく。
  瓶の口付近までが白くなる。ほぼ満杯の状態だ。

「変なお姉ちゃん。今日はいつもよりおかしいよ?」
「気にしなくていい。恵子は倉子さんを見て己の行いを省みればいい女になれる。
  ささ、ぐーっと飲め。おかわりもあるからな」
「させるかあっ! それは私の牛乳だ!」

 キッチンへと倉子が特攻する。しかしその行動はあまりに無策だった。
  一男が上中下と三段ある冷蔵庫のドアを全て開けた。
  カウンターで倉子の顔面、胴体、膝が打ち付けられる。
  全身への同時攻撃。避けられるはずもない。
  倉子は弾かれ、悲鳴も上げずに床に倒れ込んだ。

「うわ! 大丈夫、お姉ちゃん?」
「気にするな。お前のお姉ちゃんは鉄人だから」
「うぐぐ……違うぞ、一男……本当はタンポポの種みたいに
風が吹いただけで飛ばされてしまうほどやわなんだ。
  ほら、こんなに鼻血が出てる。だから優しくしてくれ。手を貸してくれ……頼む」

 倉子が鼻血の付いた手を伸ばす。鼻の下から口の周りまで真っ赤だ。痛々しくて目も当てられない。

「お兄ちゃん、ああ言ってるけど?」
「あれは嘘だ。構わないでくれ、という意味が含まれているんだ。俺が言うんだから間違いない」
「うーん……そうだね。お兄ちゃんは嘘吐かないもん」
「恵子! いつのまに私をそんな目で見るように?!
  それに一男はそれなりに誠実だが全く嘘を吐かないわけではないぞ!」
「ほら、早く飲まないと遅刻するぞ」
「はーい。それじゃあ、いただきます」
「無視するな! あ、あああああ、うわああああああああああああ!」

 恵子の唇が瓶の口に触れる。恵子が首を後ろへ倒していくと瓶も傾き、牛乳も水面の形を変える。
  恵子は喉を鳴らしながら牛乳を飲む。瓶の中身は少しずつ、しかし確実に減っていく。

「恵子、やめろおおおおおおっ! 一男と間接キッスぅぅぅぅぅぅっ!」

 二月十四日の朝七時、吉村家の中には絶叫が、隣接する住宅には絶叫の残滓が響き渡った。

*****

「――――ということがあったんだ」
「そう。それで、最後に何か言うことは?」
「朝から騒がしくて申し訳ありませんでした。これからは同じ失敗を犯さないよう力を尽くします」
「……まあいいでしょう。あんたに関してはね。姉さんにはここまで甘くしてやらないけど」

 一男はいつもと変わらない登校時間に学校へ向かう道を歩いていた。
  傍らにはクラスメイトであり、幼なじみの少女が付き添っている。
  倉子と恵子を含む幼なじみ三姉妹の次女、組子だ。
  一男が組子に謝っていたのは、もちろん朝の住宅街を騒がしくした件についてだ。

「にしても、昨日キッチンに籠もって何をやっているのかと思っていたら。
  去年の反省を活かさずに同じことをやらかそうとして、実際にやらかしてしまうなんて。
  事に一男が絡んだときの姉さんの変貌振りには度肝を抜かされるわね」
「本当にな。……なあ、倉子さんって本当に成績いいのか?」
「そうよ。親戚の間じゃ姉さんを大学院まで通わせて学者にしよう、なんて話が進んでいるんだから。
  今通っている大学だって向こうから誘いが来たくらいよ。
  一男が思っている以上に姉さんは頭――は悪いか。成績がいいのね、うん」

 倉子の頭の危うさについての質問は何度もしている。返ってくる答えも毎回変わらない。
  それなのに一男はいくら聞いても納得がいかない。
  一男と顔を合わせているときの倉子はどう見ても知的に見えないからだ。
  好きな人を前にしてはっちゃけるのはわかるが限度というものがある。
  しかも悪いことに、そのときの倉子の記憶力は赤ん坊の唇みたいに締まりがない。緩みきっている。
  この落差が親戚に知れ渡ったらどんな良い話も破談になることは間違いない。

「本当、バカよね。ホットチョコレートなんてぶっかけて気を引けるなんて本当に思ったのかしら」
「思ったからこそ実行したんだろう。途中で気づいてたら今朝はあんなことにならなかった」
「それはそうね。ところで、恵子があんたの家に来なかった?
  起きたとき恵子のベッドが空だったのよ。
戻ってきてから行き先を聞いても、教えない、の一点張りだし」
「いんや。来たのは倉子さんだけだ」

 一男はそっけなく答えた。組子は答えに満足したのか、それ以上踏み込んで聞かなかった。
  今朝の一件を説明するとき、一男は恵子に関する事柄を意識して省いて話を繋げた。
  朝五時に倉子が家に来てくす玉を仕掛けて、
倉子がくす玉を割ったせいで中身のホットチョコレートが体に掛かり、
朝から風呂に入る羽目になった、という内容だ。
  この話に恵子を交えるとややこしくなる。どこがややこしくなるかというと、風呂に関する説明だ。
  倉子に対しては強くでることができる一男だが、組子に対しては怒らせないよう配慮する。
  高校に通う歳になって二歳年下の少女と二人きりで風呂に入ったことが組子に知れたら、
ただでは済まない。
  想像するのも恐ろしい。熱湯風呂に入ることを強要されるかもしれない。
  もし事実を隠していることがバレたらもっと恐ろしいことになるだろう。
  しかし倉子はあの後で茫然自失としてしまったし、恵子には口止めをしてある。
一男は口を割るようなヘマをしない。
  組子の知らない数ある内緒話のように今回の件も隠し通そう、と一男は目論んでいた。

「そう。ならいいわ。あんたが私に隠し事なんかするわけないでしょうしね」
「当たり前だろ。叩いても蹴ってもホコリが出ないような生き方を心がけているからな」

 本当は倉子の口から組子の下着の好みまで聞かされたりしているのだが、そのことは言わない。
  今日は木曜日だから下着の色はライトグリーンなんだろう、とも言わない。言う訳がない。

「ま、仮に内緒にしていて、それがバレたとしても安心なさい。
  姉さんが悪いところもあるから、
温泉の素入りの熱湯風呂に三分間頭を浸ける程度で許してあげるわ」
「アリガトヨ」

 顔中に水ぶくれを作らせないためにも内緒にしよう、と一男は決意を新たにするのだった。

「ところで組子よ」
「何…………よ、その手は」
「とぼけるなよ。今日が何の日かもちろんわかってるだろ?」

 一男は右手のひらを組子へ向けて差し出す。もちろんチョコレートを受け取るためだ。
  義理と言い張りながら、組子はバレンタインデイになると一男にチョコレートを渡す。
  しかも小学校に入った頃からずっとそれを続けてきた。
  毎年あげているものが実は義理チョコだということは、組子しか知らない。
  一男は気づいていない。十年近くに渡って義理チョコだと言い張られてきたのに、
今更あれは本命だったなんて言われても嘘だとしか思えない。それぐらい一男の感覚は麻痺している。
  その代わり、毎年最低でも組子からもらえると一男は踏んでいる。
  組子からは絶対にもらえるという確信が外れることはないと思っていた。

「チョコのこと? 悪いけど、持ってきてないわよ」

 だから、組子が平然と言い放ったその言葉は心をたやすく穿った。

「……冗談?」
「じゃないわよ。学校に持ってくるわけないじゃない。持ち物検査でもされたらどうするのよ」
「まさか、今日に限ってそんな無粋なことを先生がするわけが」
「無い、とは言えないでしょう?」
「じゃあお前、本当に持ってきてないのか?」

 組子が頷いた。それを見て一男の首がうなだれた。
  気分が落ち込む。歩幅が短くなる。心なしか身長が縮んだ気がする。
  一男は急に自分が情けなく思えた。

「なあ、泣いてもいいかな」
「我慢なさい。男が涙を見せるもんじゃないわ。
  ……あんた、そんなに私からチョコを貰いたかったわけ?」
「当然だろうが。お前はこの日がどれだけ男のプライドに響くか
分かっていないからそんなことが言えるんだ」
「ふぅ……ん。ねえ、私がどれだけありがたいことをしてあげていたのか、身にしみて分かった?」

 弾んだ声音での問いかけに、一男は力なく頷いた。
  声を出す気力すらない。このままでは一男は学校にたどり着くことすらできないかもしれない。
  組子の顔がしてやったり、といった感じの笑みに変わる。

「安心なさいな。持ってきてないだけで、ちゃんと家に用意してあるから」
「何! 本当か?!」
「本当の本当よ。こんなことで嘘吐く訳無いじゃない。
  だからそんなに落ち込むのはやめなさい。みっともない」
「組子……やっぱりお前は俺の期待を裏切らなかった! ありがとう!」

 感極まった一男が足を止め、組子の右手を握りしめる。
  潤んだ瞳に見つめられ、組子が頬をほのかな朱に染める。
  そのことを自覚したのか、素早い動きで一男の手を振り払った。

「い、いきなり手を握らないでよね、このバカ!」
「いやすまん。だって、組子の一途さに嬉しくなってしまって……俺、吉村一男でよかった」
「誰があんたに一途だってのよ! 義理よ義理!
  十年分の義理が詰まってるんだから覚悟しなさい!」

 組子はそう叫ぶと顔を背けて歩みを早めた。
  数歩後ろを歩きながら、チョコを貰わずともこれからも組子との関係を続けていこう、
と一男は思った。

 二人は校門をくぐり、校舎の入り口の靴箱置き場にたどりついた。
  そこでは男女二人がお互い照れながらもチョコレートを
受け渡しするような出来事は起こっていなかった。

「面白くないな。取引現場を目撃されて慌てて逃げ出すカップルの姿を見たかったのに」
「みんな渡すときは人目があるところでも渡してるわよ。中には呼び出して、って人もいるけど。
  からかわれたって義理だって言い張ればいいんだしね」
「ほう……ということは今日誰かに呼び出しの手紙を受け取らなくても、
まだ期待してもいいんだな?」
「あんたには多分振る舞われないわよ。……うん、多分。おそらくは」

 組子はふと立ち止まった。何かを考えるように腕を組み、首をひねる。

「まさかとは思う……けど、もしかしたら……本命がいる…………かも?」
「どした、組子」
「その場合、私だったら……呼び出す。どうやって……?」

 組子の様子がおかしい。最近はとみにこうなることが多い。
何かイベントごとがあるときに組子は難しい顔をして考え込む。
  だから一男はまた始まった、とだけ思って靴を脱いだ。

「先に行ってるぞ、組子」
「やるんなら、他の人間が手を出しそうにない場所……パーソナルスペース。そこは、どこ……?」

 返事もしない。耳に届いているかどうかすら怪しい。
  一男は声をかけるのを諦めて、自分の上履きが入っている棚の前に向かった。
  そうしている間にも、組子の呟きは止まっていなかった。
「机の中、鞄の中、更衣室は無いわね。あとは……靴箱。靴箱――ってここじゃない!」
  靴箱には一人分の棚に対して一つ扉が設けられている。ちなみに右に開く仕組みだ。
  一男の上履きが収まっている箇所も例外ではない。
  右手で自前の運動靴のかかとを摘み、指を使って扉を開ける。
  左手で上履きのかかとを掴もうとしたとき、一男は違和感を覚えた。

「ん、なんだ? ……紙? なんで俺のところに?」

 疑問に思いつつも、紙を掴む。紙切れではなく、便せんらしき感触だった。
  取り出そうとした瞬間、校舎の入り口方向から威圧感が襲ってきた。
  振り向く。組子がいた。本気モードの顔つきになっている。有り体に言えば、怖い。

「何怒ってんだ? 置いていったぐらいで機嫌損ねるなよ」
「一男。何か入ってた?」
「なんか紙切れが入ってるけど。それがどうかしたか?」
「そう。やっぱりそうだったのね。気づいて良かった。誰だか知らないけど――」
「おい、組子? 一体どうした?」

 その時、突然組子が倒れ込んだように一男には見えた。
  実際にはただ前のめりになっただけだ。走るための準備態勢をとったのだ。
  指をピンと伸ばし、腕を振り、組子が走る。一男の居る地点、五メートル先へ向かって。
  変化に気づいていない一男は棚の中に手を入れたまま立ち尽くしていた。
  後に、自分の反応の鈍さに後悔することになるとも知らずに。
  助走をつけた組子が跳躍。腰の位置が一男の目線よりも高い位置まで来ている。
  空中で反転する。スカートが翻り、一男の予想通りにライトグリーンのショーツが顔を見せた。
  相変わらず綺麗なふとももだなあ、と一男が思った瞬間、組子が叫んだ。

「絶対にやらせない!」

 同時に、空中でさらに反転した組子の蹴りが炸裂した。一男が手を入れている棚へ向かって。
  派手な効果音を伴い、扉が閉まった。当然一男の腕を飲み込んでいる。
真っ青になった一男が口を馬鹿みたいに大きく開ける。

「――――いっ……………………」

 そして、朝の校舎に男子生徒の叫び声がこだました。

  
  一時限目と二時限目の間の、十分という短い休み時間。
  あるクラスでは、左手を満遍なく包帯で覆った男子生徒が机にうなだれていた。
もちろん吉村一男だ。

「おはよー、吉村君。……返事できる?」
「おお……その声は神川か。ちゃんと起きてるぞ。痛みで寝ることもできないし」

 おそるおそる声をかけてきたのはクラスメイトの神川だった。
  一男にとっては成績に難がある仲間同士。組子にとっては油断ならない存在だ。
  と言っても、神川は一男をどうこうしようとしているわけではない。
むしろ同じクラスの友人二人をくっつけようとしている。
  組子の気持ちが誰に向けられているのかクラスメイトの過半数が知っているが、
直接口を出すのは神川だけ。
  だからこそ、組子は邪険にできず頼ることもできず、対処に困っている。

「また組ちゃんを怒らせちゃったの? 駄目だよ。からかいすぎちゃ」
「違うんだ聞いてくれ。俺は誓って何もしていない。いきなり組子が蹴ったんだ」
「……なんで?」

 神川の質問は窓際の席に座る組子へと向けられていた。
  組子は窓の向こうにある校庭を眺めたまま返事をしない。
  諦めた神川は一男に事情を伺った。細部まで状況を説明してもらい、台詞まで再現させた。
  聞き終えると、短く感想を述べた。

「組ちゃんが悪い」

 少しトゲのある言葉だった。組子の黒のショートヘアが揺れる。
ちなみに窓は閉め切っているので風は吹いてきていない。

「だよな? 俺は何もしてないよな?」
「聞く限りではね。もしその紙を見て、その内容に応えようとしていたなら別だけど」
「内容が分かるのか?」
「大まかなところは。吉村君は見てすらいないからわからないから分からないだろうけど。
吉村君は、ね?」

 最後の一節は組子へと向けられていた。しかし組子は振り返らない。
  神川が組子の机へと近づいていく。机に肘を乗せてしゃがみ込み、問いかける。

「なーにが書いてあったのかな? その紙には」
「さあ? 神川さんはどうして私が知ってると思うの?」
「そうだねー。吉村君はのたうち回っていて見る余裕なんかなかっただろうから、
残された人が見たんじゃないかな?
  そして内容に腹を立てた誰かに処分されちゃったんじゃないかな? と読んだだけ」
「私がそんなことをすると思う?」
「ふふん。――甘いよ、組ちゃん。吉村君相手ならそのはったりは通用するけど、私には無駄」

 組子が言葉を詰まらせる。重ねて言うが、組子にとって神川は油断ならない相手なのだ。

「正直に話してみない? 微力ながら力添えするよ」
「……知らない。紙きれなんかなかったし。たぶん一男の錯覚よ」
「ほっほー、そんな態度に出ますか。……なら、やーめたっと」
「え?」

 ようやく顔を向けた組子を置いて、神川は机から離れた。
  今度は一男の席に近づき、誰も座っていない前の席に足を組んで腰掛ける。

「そうだよね。組ちゃんは間違ってない。間違ったことを言わない。
だから紙きれなんかなかった。そういうことにしておくよ」
「変な納得をするなよ。いきなり跳び回し蹴りを食らわすような女が正しいわけが」
「――ライトグリーン」
「正しいに決まってるよな。うん、神川の言うとおり、組子は間違ってない。
俺は紙きれなんか見なかった。 ……だから黙っててくれ。頼む」
「わかってるって。私と組ちゃんと吉村君は友達同士。
仲良くしなきゃね。というわけで、その一環として」

 神川は立ち上がると、ポケットからあるものを取り出した。
  片手に収まる大きさのそれは――――黒いパッケージに覆われたお菓子だった。

「これ、吉村君にあげる」
「……え? 神川さん……?」

 組子が立ち上がる。そして友人の顔に浮かぶものを見て言葉を失う。
  手の中にあるものの正体には気づいていない。
  ただ、驚いていた。友人がこんな行動に出るとは考えてもいなかったのだ。

「もらってくれるかな? 買ったものだけど、勇気を振り絞って用意したんだ」
「神川、これ……」
「やっぱり私じゃだめかな? もっと慎ましくて、自分の気持ちを言えずに乱暴になっちゃうけど、
  実は一途な女の子の方が吉村君の好み?」
「そうじゃなくて、それは……」
「ひどい! ちゃんと応えて! ごまかさないで! だって、本当は私だって……」

 神川が演技をしていることはわかっていたが、色々あって疲労していた一男は正直に言った。
  実にあっさりと。

「のど黒飴じゃん、それ」

 ペンが床にぶつかる音。教室の中にいる誰かが落としてしまったようだ。
  あちこちで吹き出すような声まで聞こえる。
三人のやりとりをクラスメイトがしっかりと聞いていたのだ。
  神川が取り出した黒飴はスティックタイプ。どこのスーパーでも百円出せば買えそうな代物だった。
 
「ああん、もう! ノリ悪いよ吉村君!
  もっとこう、組ちゃんも参加させて話を盛り上げないと面白くない!」
「面白くないのはお前の冗談だ。確かに黒くて甘いが……飴はないだろ」
「そこを面白くするのが芸人の務めでしょう。みんなは甘い話を求めているわけじゃない。
  これからどうなるんだろう? どっちが勝つんだろう? それとも全員が倒れてしまうの?
  ……みたいな、ちょっとハードなメロドラマ的結末を期待しているんだよ」
「一人でやってろ。お前はどうしてそう俺を振り回すようなことばっかり――」

 一男の言葉を遮るかたちで、二時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。
  程なくして教師もやってくるだろう。騒いでいたクラスメイトはそれぞれ自分の席へと向かう。
  神川は一男の机の上に黒飴を置いた。

「まあまあ、これあげるから機嫌直してよ。ね?」
「すでにどうでもいい気分になってるよ。でも、ありがとな。後でいただくとする」
「正直だね。誰かさんもこれぐらい正直になればいいのに」
「……神川さん。早く席に着いた方がいいわよ」
「はーい。あ、言い忘れてたことがあった。あのね、吉村君」
「ん?」

 一男は右手で数学の教科書とノートを取り出していて、机の上しか見ていなかった。
  だから、神川がその時にどんな表情をしていたのかわからなかった。
  神川が口を開く。

「それ、義理じゃなくて本命だから」

 教室の中の誰かが息を呑んだ。全員かもしれないし、たった一人かもしれない。
  神川の言葉は、友人である組子の気持ちを汲んだもの。
  ずっと言いたくても言えなかった言葉を、
実に軽く、本気とも冗談ともとれないような声で口にした。

 それから、興味深くやりとりを聞いていたクラスメイト全員、
呆気に取られたまま二時間目を受けることになった。

*****

 放課後までの時間を珍しく一睡もせずに過ごした一男は靴箱置き場へとやってきていた。
  今日は掃除当番だったため、いつもより教室から出る時間が遅れていた。
  左手は痛みから回復した。挟まれた箇所が腕の部分だったからだ。
  もう少しでも手の方へずれていたら手首を痛めるか指を飛ばされていたかもしれない。
怖い想像だった。

 靴箱置き場には人影がなかった。
  ほとんどの生徒は帰っており、残っているのは雑用をこなす生徒か部活に励む生徒くらい。
  それと、人に言えない用事のある生徒だけだ。

「組子のやつ、誰に会ってんだろ?」

 誰に向けるわけでもない独り言を呟く。
  組子は陸上部に所属しているが、今日は行かないのだという。大事な用があるらしい。
  真面目な組子が部活を休むだけでも珍しい。
  だが理由を詳しく伝えずにどこかへ行くというのはそれ以上に稀だ。
  もしかしたら今頃好きな男に告白しているかも、という想像を一男はした。
  そしてすぐに違和感を覚えた。
  組子に恋愛が似合わないというわけではなく、男を隣に配置することができないのだ。
  組子と付き合っている男のことを知らないだけ、ということもあり得る。
  高校二年生なのだから恋愛ぐらい経験していてもおかしくない。
  しかし、自分以外の男と一緒にいる組子は想像できない。
  一男にとって組子はいつまでも幼なじみのままだから。

 ――そう、だから一男は組子の好意に気づかない。
  愚かなまでの鈍感さでもって、神川をはじめとする周囲の人間の期待をある意味で裏切り、
ある意味で裏切らない。
  もっとも、いつまでも正直に気持ちを暴露する度胸を持てない組子にも問題はある。
  今朝、一男の靴箱の中に入っていた手紙を回収した。
一男と手紙の主を会わせないようにするためだ。
  一男と同様に、組子も自分以外の女と付き合う一男の姿を想像できない。
  想像したくないから、意識的に避けているのだ。
  組子の抱くものは恋愛感情だ。本人はもちろん自覚している。
  しかし、幼なじみとして過ごした日々と自分の妄想が溶け合った想像は、
組子の感情に歪みをもたらした。

 ――一男は私とずっと一緒にいてくれる。居なければならない。他の人間と一緒に居てはいけない。

 相手の意志を無視した、いわゆる独占欲だ。
  日頃姉や妹と一緒にいるときは強く表れない。彼女たちも組子の日常に組み込まれているから。
  だが、日常というサークルの外から入り込んでくる存在を前にすると独占欲が頭をもたげる。
  普段の組子ならば、一男に非がない状況で怪我をさせるような愚を犯さない。
  今朝変貌したのは、例外があったから。一男に近づく女の影が見えた。
  なのにそんなことにも一男は気づかない。だから腹が立ってしまった。
  あの蹴りにはそんな感情も込められていたのだ。
 
  時計の秒針が五回転するまで一男は待った。
  しかしそれでも組子が現れなかったので、仕方なく一人で家路についた。

*****

「……あり?」

 自宅の玄関にたどり着いた一男は思わず間抜けな声を出した。
  それも無理はない。何せ家から出たときには玄関前は見るも無惨な状態で、
多種多様な色に染まっていた。
  それがいきなり綺麗になっていたら驚くに決まっている。
  チョコレートに濡れた部分だけでなく、庭の雑草まで払ってあった。
  正月に出張から帰ってきた両親から言い渡された庭掃除の課題は、
何者かの手によってすでに終わらされていた。
  こんなことができる人間は一男の知り合いでは三人しかいない。
  うち一人は綺麗好きの父親、もう一人は異常なまでの整理魔の母親、
最後の一人は家事万能な幼なじみの大学生。
  次に両親が帰ってくるのは四月だ。予定が繰り上がることは考えにくい。
  ということは、残る一人しかいない。

 鍵を開けて出たはずの玄関の扉を開ける。
  なぜ開いているのかは深く考えない。
家に上げたとき、知らないうちに鍵の型をとられたのだろうと得心している。
  階段を上り自室へと向かう。扉を開けても中には誰もいない。
  一人暮らし状態の家に帰ってきたらそうなっているのは当たり前なのだが、
人の進入した形跡がはっきり残っている
現状では不可解な感想しかもたらさない。
  制服から部屋着へと着替えつつ思考する。
  キッチンで料理を作っているとは思えない。料理の匂いが漂ってこない。
  チョコレート色に染まった制服を洗濯している。あり得るがちょっと違う気がする。
  待てよ――もし、今朝のことに関係していたら。

 部屋から出た一男は階段を下りて脱衣所へ向かった。
  扉を開けると生暖かい熱気が肌にふりかかった。そしてガラスの向こうにある風呂場からは水音が。
  予想通り。的中しすぎているのか、相手の行動が短絡的すぎるのかいまいち決着がつかない。
  どうしようか迷った一男は、見て見ぬふりをしようと決めた。
  きびすを返す。動きを読んだかのように背後で戸の開く音がした。
  振り返らず、近所の小学生を相手に言い聞かせるときの気分で問いただす。

「倉子さん、一体何やってるんです」
「状況を見たらわかるだろう」
「……俺が聞きたいのは動機を含んだ説明なんですが」
「一男と風呂に入りたいから、浴槽に良い加減の湯を入れていた。まだ説明が必要か?」
「もう一歩、踏み込んでください」
「いいだろう。――私は一男に謝りたかった。だが言葉では信じてもらえまい。
  ならばどうしよう。そうだ、汚れた玄関前を掃除すれば機嫌を直してくれるはず。
  掃除を完璧にこなした私を見て、一男は悪い気になる。
  朝はあまりに強く言いすぎました。倉子さん。朝はごめんなさい。何か償いをしたいです」

 まかり間違ってもそんなことは言わない、と一男は思った。

「そうか。ならば、一緒に風呂に入ってくれ。朝のことは背中と一緒に水に流そうじゃないか。
  上手いこと言いますね、倉子さん。じゃあ一緒に入りましょう……となる。
  一男が学校に行っているうちにお湯を貯めておけばおけばすぐにでも欲情――もとい浴場に入れる。
  以上だ。これ以上語るとなると今朝の出来事まで語ることになるから勘弁して欲しい」
「よくわかりました。ええもう、はっきりと」

 倉子にこちらの常識は通用しないということがわかった。
  この才女は成績が良くても自分と会うときにはネジが外れる。
  慌てて直そうとするとネジが斜めに入り込む。
  きっとそのサイクルを繰り返すうちに取り返しの付かないところまでいかれてしまったのだ。

「わかったのならいい。さあ早く入ろう、今すぐ入ろう。もう我慢の限界だ」
「ごめんなさい。小学生でもないのに一緒に風呂には入れません」
「何を言っている。今朝は恵子と一緒に風呂に入っていたじゃないか。
  一男と恵子は二つ離れている。同じく、私と一男も二歳違う。どこに条件の違いがある?」
「ありすぎですよ! ……体型が全然違うじゃないですか」

 四つ離れているから違うのは当然だが、倉子と恵子の差は歳に因るものではないと一男には思える。
  きっと恵子が成長しても倉子のようにはなるまい。
  秘められた可能性も無視できないが、プラスよりはマイナスの公算が強い。
  倉子は小学六年生の頃から胸の谷間がはっきりできていたのだ。発育がとてもいい。
  対して、恵子は十五歳になった現在でもぺったんこだ。
タオル越しに目測したのだから間違いない。
  生まれた時から体型に差がついているのだ。

「だから、入れませんよ。……俺だって男なんですから」
「もちろん知っている。私が意識していないとでも思っていたか?」

 背後に倉子の気配が感じられる。しかし一男は逃げない。
  ここで向かい合わなければ似たことが繰り返されてしまう。この際、決着をつけるべきだ。

「一緒に過ごす年月が重なっていくうちに、弟としてではなく、男として見るようになっていった。
  最初に意識したのは私が七歳のときだ」
「……それはさすがに冗談でしょう?」
「年の差なんて関係ない――だったかな。あれはいい番組だった。特にタイトルがいい。
  どうしていきなり放送されなくなったのか子供ながらに疑問を抱いたよ」
「ごめんなさい。さっきよりも余計に年の差を意識してしまいました。知らないです。そんな番組」
「気にしなくていい。私だって内容は覚えていない。
  言いたかったのは、異性を好きになるには年齢が一桁でも二桁でも関係ないということだ」

 それについては一男も異論を持たない。
  時折三姉妹にロリコンと呼ばれている自分を擁護するわけではない。
  一男の初恋は小学校の入学式の日だったからだ。
  初めて会う同級生の女の子の可愛い雰囲気に惚れ込んでしまった。
  どんな感情だったかは覚えていないが、あれが初恋だった、ということは理解している。
 
「あれから十余年が過ぎた。私の気持ちは萎えることなく育ち続けた。
  一男、お前のことが好きだ。誰を目の前にしても私は言い切ることができる。
  今の面白おかしい関係が嫌な訳ではない。だが、望ましくはない。
  私はすでに後悔しているんだ。どうして一目見たときから愛しなかったのか。
  意識しない間、ずっとこんなにもどかしく、切なく、でも心地よい感覚を味わえなかった。
  早くお前の心と体をこの手に掴みたい。もう一度言う。……好きだ、一男」
「俺は……俺だって、その」
「言葉は要らない。態度で示してくれ。
  オーケーなら私の体を抱きしめてくれ。ノーならその扉を開けて出て行ってくれればいい。
  どちらを選んでも私はお前を責めない。……さあ、望むままの答えを」

 一男は振り向きたかった。倉子が好きなのだ。その気持ちに正直になりたい。
  しかしどうしても組子の姿が引っかかる。そして、恵子の笑顔も。
  姉、双子、妹。一男が三姉妹に抱く感情は異性としてのものではなく、家族としてのもの。
  離れることはない。楽観的に考えていた。
  誰か一人を選べば残りの二人を失うのだ。
  足下が不安定になる。日常が崩れ、支えとなっていたものが消え失せる。

 一男は思考を解放した。自分の五感に頼ることにしたのだ。
  夢見心地の状態でいると、自然に右腕が動いた。
  その手は扉のドアノブへと伸びる。本能に従い――危険を察知して、扉の鍵を閉めた。

「え……なんだ、これ」

 出て行くでもなく、倉子を抱きしめるでもない第三の選択肢に戸惑う。
  無意味にこんな行動をとるとは考えにくい。とすると、何かの理由があるはず。

「一男、やっぱり私を選んでくれたんだな……私は、生まれてきてからここまで喜んだことは……」
「待ってください。違う。これは、この感覚は――組子か?」

 扉へ向けて問いかける。答えたのは予想通りの相手だった。

「……よくわかったわね。息を潜めてたっていうのに」
「お前……いつから」
「そうねえ。あんたと恵子がお風呂に入った、って辺りからかしら?」
「それ、ほとんど大事な部分聞いてんじゃねえか!」
「聞き逃さなくてよかったわ。嘘を吐いていたことがはっきりわかったしね」

 ドアノブが回転する。しかし鍵を閉めているのでもちろん扉は開かない。
  それでも動きは止まらない。だんだん動きが速くなっていく。
  しまいには扉全体が震えだした。声は静かだが、その実、組子は激怒している。

「うふふ、うふふふふ、うふふふふふふふ、ふふふふ。こんなに嬉しいのは久しぶりだわ。
  わけのわからない相手をずっと待っていたのに結局来なかった、
この苛立ちを一男にぶつけられるなんて」
「お、落ち着くんだ! 殺人は難しいんだぞ。後片付けが特に」
「片付け? そんなものする必要なんかないわ。だって、私は手を下さないもの。
  ただ、バレンタインデイらしくあんたの体中にチョコを塗りたくった上で
手足を縛り付け外に放置するだけだから」
「絶対に死ぬだろ! 最近は霜が降りることがしょっちゅうあるんだぞ!」
「運が良ければ生き延びられるわよ。
  ちなみに、ここを開けなかったら……穴の開いていない覆面と繁華街も
オプションで付くことになるからよく考えてね」
「人間の尊厳さえ奪うつもりか?! 暗いうえに誰にナニをされるかわからんじゃないか!」
「でも生存確率は上がるんじゃない? 相対的に見て、だけど」
「そうは……させない。ずっとこうやってお前から逃げ続ければいいだけだ」
「そして姉さんとくっつく、ってわけ?」

 一男の肩が揺れる。すっかり忘れていた。後ろには答えを待つ倉子がいるのだ。
  さっきから倉子は口を挟んでこない。黙り込んだままだ。

「姉さん、良かったわね。一男が損得勘定のできる人間なら、まず姉さんを選ぶはず。
  もし一男がそうしたとしても……仕方ないことだと思わない
?生きるためなら、望まない選択肢を選ぶ必要もあるものね」
「貴様! 一体どこまで私の邪魔をする! せっかくのチャンスだったのに!」
「あら。色仕掛けで無理矢理迫って仕留められなかったくせに。
  せっかく静観してあげたのに選ばれなかったものね。
一男はエロいことしか頭にない人間が嫌いみたい。
  恵子にもしっかり教えてあげなくちゃ。きつい折檻をしてあげながら、ね」

 一男は今更に気がついた。組子に事実を隠していたのは恵子も同じだった。
  この状態の組子がどんな怒り方をするかは想像できない。
  ただ、あどけない中学生の少女の心にトラウマが残るのは確実だろう。
  バスタオルで体を包んだ倉子が一男の肩を押しのけた。扉へ向かって怒鳴る。
 
「とうとう恵子にまで手を出そうというのか…………もう許さん!
  一男の選択肢を減らす! 悩みの種である貴様を排除する! そこを動くな!」
「来なさいよ! こんな卑怯なやつらを守りたいなら!」

 倉子の手が扉の鍵を解く。
  目に飛び込んできた組子の形相は鬼のように恐ろしかった。
  対面した二人が同時に右腕を振りかぶり、突き出す。
  一男は殴り合いを止めるために、果敢にもその争いの中へ身を投じた。
  だが、女二人の勢いはそれぐらいで収まるようなものではなかった。
  一男の左頬に組子のストレートが、後頭部に倉子の打ち下ろしが迫る。

* * *

 一方、吉村家の玄関前では、高校の制服を着た少女が指をさまよわせていた。
  チャイムを押そうか押すまいか、たったそれだけのことを悩んでいたのだ。

「いるかなぁ……でも結局怖くって待ち合わせにも行けなかったし、
出てきても渡せないよ。うぅぅ……」

 どうしよう、を連呼しながら腕を下ろしたり上げたりを繰り返す。
  首を左右に振った。迷いを振り払うような仕草だった。
  胸を反らして深く息を吸う。背中を丸めながら長めに息を吐き出す。
  深呼吸を数回繰り返した少女の目はしっかりと前を見据えていた。

「お、押しちゃえっ! どうだってなれ!」

 まっすぐに伸びた指がふるふる震えながら亀が歩くより遅い速度で進む。
  あと五センチ、というところで少女の背後に背の低い人影が現れた。

「こんにちわ。お兄ちゃんのおうちにご用ですか?」

 にこやかに声をかけてきたのは恵子だった。
  しかし少女にとってはそれだけの挨拶でも驚愕する原因になる。
  少女は指を止め、顔を強張らせながら振り向く。恵子と真正面から見つめ合う。
  ただでさえ緊張していた少女は初めて会った人間を前にしたせいで動くこともできなくなった。

「あの……? おうち、間違っちゃいました?」
「ううぅん、そうじゃ……なくって、えぇと、本当は手紙で呼び出してたんだけど、
色々あって出て行けなくって……」
「家に行くのに手紙を出したんですか?」
「いえ、ほんとは学校だったり……屋上だったり、あぁう、体育館の裏? どこだったかなぁ……」

 言動が支離滅裂になりだした。助けを求めるような目で恵子を見る。
  しかし状況が把握できない恵子は首を傾げるだけ。

「とりあえず上がります? たぶんお兄ちゃん、中にいますから」
「う……い、いいの?」
「はい。全然問題なんかないですよ」
「そうなんだ……じゃあ、お言葉に甘えて……」

 少女が恵子の背中にくっつく。とても高校生とは思えない弱々しい姿。
  恵子はその様子を見て微笑むと、何気なく手を玄関のドアノブへと伸ばした。

「チェストォォォォォッ!」

 唐突なかけ声。一拍置いて、激突音を伴って扉が激しく揺さぶられる。
  家の中から何かがぶつかったのだ。
  恵子と少女が目を丸くする。少女にいたってはカタカタと震えだした。

「大丈夫か一男! 組子貴様、よくもっ!」
「一男、邪魔すんじゃないわよ! 次の蹴りは今朝の比じゃないわよ!」
「いってえ……この怪力女。ひとんちで、暴れやがって……」

 扉の向こうから三人分の声が聞こえてくる。どう平和的に解釈しても穏やかではない。
  少女が恵子の両肩を後ろから掴む。夕方の寒さとは無関係に手が揺れている。

「な、何なの? 強盗? それとも捕り物?」
「ううん、違うよ。お兄ちゃん達がよくやってることだもん」
「嘘!? だって今ガシャーンって、ほら、ガラスにもヒビが入ってるし!」
「確かに今日はちょっと過激だけど、大丈夫だよ。三人とも優しいから」
「え、ええええっ!?」

 恵子のあまりの緊張感のなさに、少女は狼狽する。
  通報しようとしたのか携帯電話を取り出したが、手を滑らせて地面に落としてしまう。
  屈んで拾おうとしたところで、またしても破壊音が響いた。木製の何かが壊れたようだ。
  小さな悲鳴をあげ、少女が尻餅をつく。

「避けるな組子! おとなしくその低い鼻を陥没させろ! この靴箱みたいに!」
「勝手なことぬかすな! その目障りな乳をもぎ取ってやる!」
「傘を放せ! それは布をはぎ取って振り回すもんじゃないんだよ!」
「うるさい一男! 正月は親戚の幼女と遊ぶために帰省して初詣に一緒に行かなかった癖して!
  このロリコン!」
「んだと! 下着がライトグリーンの癖しやがってよく言えたもんだな!」
「あ……あんたいつの間に! とうとうミラーマンに成り下がったのね!」
「月曜日は白で火曜日はオレンジで水曜日はライトブルー、そして木曜日の今日はライトグリーン!
  さすが成績優秀な陸上部員は律儀だぜ!」
「毎日覗いてたわけ? あんたなんかサイテーよ!」
「黙れ! 金曜日に金のモール入りの下着を穿かないで俺をがっかりさせたくせに!」
「く、ぐ……くああああああ!」

 誰かが雄叫びを上げた。扉越しでもその威圧的な声は少女の耳に届いた。
  少女は腰と腕を使ってずりずりと後ろに下がる。
  もはやひととき前の恥ずかしそうな表情は浮かべていない。
  ただ目の前で繰り広げられる闘争に怯え、逃げまどうだけだ。
  そして、とどめと言わんばかりに殺意のたっぷり籠もった憤怒の念が放出される。

「それのどこが悪いのよ! 私の勝手でしょうがぁぁあああああ!」

 鈍い音とガラスの破砕音。扉の上のガラスが粉々に砕け散り、玄関先へと降り注ぐ。
  扉の向こう側で誰かが倒れるような音がした。この時点で少女は限界に達した。

「ごめんなさい! 私は何にも聞いてないし見てない! さようなら、お嬢ちゃん!」

 慌てて立ち上がり、少女は逃げ出した。
  何もないところでバランスを崩し、足をもつれさせる。その度に地面へヘッドスライディングする。
  路地の角を曲がって姿を消すまで、ずっと悲鳴を上げ続けていた。

「なんだったんだろ。変な女の人………………あれ?」

 恵子は庭に転がっている物を見つけると手に取った。
  各辺が十センチある四角形。高さは二センチほど。
  赤い紙で包装されたそれは間違いなくチョコレートだった。

「チョコ? バレンタインの? ……じゃあ今の人、これをあげるつもりだった?」

 少女の走っていった方角と手の中に収まった箱を交互に見る。
  恵子の眉間に小さなしわが現れた。

「………………なんかヤダな。そんなの」

 呟くと、恵子は散らばったガラスの破片を避け、コンクリートの上に腰掛けた。
  合わせた両膝の上に箱を置く。少しの逡巡の後、両手を合わせる。
  そして短く、いただきます、と言った。

「ああ! 一男の頭が天井近くの窓に激突した?! しっかりするんだ、傷は浅いぞ!」
「あはははは! もう手遅れよ!
  ……一男は私がこの手で仕留めた。一男の最初で最後の女は私なのよ。
  度を超したスケベにはふさわしい末路だわ。いえ、もったいないぐらいね」
「そうは行くか! まだ体は温かい。ならば今のうちに、一回だけ……」
「そんな状態じゃ立つものも立ちゃしないわよ。諦めなさい、姉さん。みっともない」
「おのれ……許さんぞ、組子っ!」
「許してもらう気なんかさらさら無いっての! ちゃっちゃととどめを刺してやるわ!」

 ぶつかり合う二人の姉の怒号と、壁を打ち貫くような破壊音。
  二つを耳に入れながら、恵子はチョコレートを食べていた。
  小さな口で端を囓り、少しずつ口の中に運ぶ。
  頬が自然と緩む。甘い物を食べられてご満悦のようだ。

 ハートマークのチョコレートを完食した恵子は、両手を合わせた。

「ごちそうさまでした。……ごめんね、でもお兄ちゃんは駄目だから。
  うん、他の人は……絶対に駄目。だって……嫌なんだもん……」

 そう言うと包装紙を折り曲げてスカートのポケットに入れた。
  そして、喧嘩するほど仲のいい姉たちの気が済むまで、恵子は黙って座り続けた。

*****

 翌日、高校の一角にある一男のクラスに組子の姿は無かった。校庭を望める窓際の席は空いていた。
  一男は登校してきていた。しかし、いつもとは明らかに様子が違う。
  どこが違うのかというと、特に首周りと顎先。
  朝のホームルームが始まるまでの時間に、一男と神川は向き合って話をしていた。

「ごめんなさい」
「なんで神川が謝る」
「だってさ、その怪我はあれでしょ? 組ちゃんがやったんでしょ?」
「……うむ」

 一男は自分の意志を伝える手段のひとつを失っている。
  頷けないのだ。首には見るからに痛々しいサポーターが巻かれている。

「私が昨日あんなこと言ったから、たぶんそれで組ちゃんが……」
「考えすぎだ。それとは別のものが原因だ」
「吉村君が組ちゃんを怒らせた?」
「ある意味では外れていない。だがあれはやむを得ないことだったと俺は思う」
「何があったの?」
「勘弁してくれ。正直言ってこの首じゃ喋るだけで辛いんだ」

 朝に恵子と液状のチョコレートを浴び、洗い落とすために一緒に風呂に入った。
  そのことを不満に思った倉子が一緒に風呂に入るよう強要してきた。
  しかも間の悪いことに、倉子との会話を組子に聞かれていた。
  腹を立てた組子が一男の顎をアッパーで打ち上げて、体も高く打ち上げた。
  まとめればそんな感じになるが、説明するのが面倒だ。
  この状況を簡潔に言い表せることのできる四文字熟語があってほしい、なんてことを一男は思った。

「ね、あとで組ちゃんのところに行かない? 保健室で寝てるんでしょ?」
「俺はパス。歩くのも辛いから」
「そう。……あ、そろそろ先生来るかも。じゃね」

 自分の席から離れていく神川から、窓際にある組子の席へと視線を移動する。
  寂しげだった。組子の姿も、フックに掛かっているスポーツバッグも、机の中の教科書も見えない。
  結局昨日はチョコレートももらえなかった。
  家にやってきていたのはチョコを渡すためだったのかもしれない。
  それなのにあんなことになってしまった。組子には悪いことをした――――ような気がする。
  一男は組子が教室に帰ってきたら一言謝ることを決めた。

 毎年組子がくれる、義理にしては力の入りすぎているバレンタインチョコレート。
  それを一日遅れで渡してもらうために。

2008/02/14 完結

 

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