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夜中に急に目が覚めて

第1回 第2回 第3回              


1

side草太

その日、その話を最初に切り出したのは母さんだった。
コト、と箸を置いて、僕の方を見据える。
何か真剣な話があるんだ、ということはすぐに分かったので、
僕も夕食のクリームコロッケを割るのをやめた。
自信作で、冷えるのはちょっと惜しいけど、まぁどうでもよかった。
 
「草太、あんたに妹が出来るから。」
何を言ってるのか、すぐには理解できなかった。
「…子供、出来たの?」
とりあえずそれくらいしか思い浮かばなかったので、聞いてみた。
「ばか、違うわよ。」
「俺は別に今からもう一人作ってもいいけど。」
「大ちゃんは今の状況が分かってんの?」
笑いながら父さんが言ったので、母さんはちょっとキレた。
父さんが空気を読めないのは知ってたから、
僕は母さんに「そんなことどうでもいいから続き」と促した。

まず、父さんの親友が家族と一緒に事故にあった、という話から始まった。
その話自体は僕も知っている。二週間前に僕も彼らのお葬式に出ていたからだ。
死んでしまった夫婦は僕の両親よりも若く、ああ若くして死んでしまったんだな、
と自分より年上の人なのになぜかそう思った。
事故にあったのはその二人だけじゃなくて、二人の子供もいた。
一人娘だったらしい。らしい、というのはそのお葬式にはその子は来ていなかったからだ。
その時にはまだ病院で意識が戻ってないと聞いた。その子も僕より小さくて、まだ小学五年生らしい。
目が覚めて、自分の親が二人とも死んでしまったのを知るというのは、どんな気分なんだろう。
そのまま目が覚めない方がいいんじゃないか、と残酷なことを思ってしまったのを覚えている。

「死んじゃった藤村さん夫婦はこっちに身寄りがないらしいのね。
旦那は身ひとつで地方から来た人らしいし、奥さんの両親は既に死んじゃってるの。
子供…蝶子ちゃんて言うんだけど。
その子は天外孤独、って奴になっちゃったのよ。あんた知ってるでしょ天外孤独。」
知ってる、という前に母さんは話をさっさと進める。
もう蝶子ちゃんの意識自体は戻ってること、藤村さん夫婦には随分世話になったこと、
施設に預けるくらいならうちで養子として育てたいこと、
父さんも母さんも役所とも付き合いはあるから
その辺の手続きはさっさと済ませられること、家にも収入的にも空きはあること、
学校の手続きのこと。
その他にも色々雑多なことを母さんは機関銃のように喋り続ける。
僕は大体の事情は飲み込めたけど、肝心なところを聞けてない気がして、母さんを止めようと思った。
それより先に父さんが立ち上がる。
「草太、会いに行こう。」

唐突にその子に会いに行くことになって、
僕は普段着のまま(別に特別な格好をして会うようなことではないんだろうけど)車に乗り込んだ。
運転席の母さんと助手席の父さんは、色々今後の話を続けている。
僕はそれに興味がなかったわけではないけど、
突然妹ができるという事態を何とか受け止めるのに精一杯だった。
妹ってどんなんだろう。
すぐに頭の中に従兄弟のリン姉ちゃんのことが浮かんだけれど、
多分姉ちゃんとは大分違うんだろうな。
年下の女の子がいきなり家族になるってのが、実感として湧きそうもない。
ガジュマルんちは妹と良く殴りあいの喧嘩をすると言ってたけど、
あいつのところは姉妹だからそういうのが平気なんだろう。
多分それもここで思い浮かべるべき例じゃないんだろうなと思った。
考えることはたくさんあったけど、どれもまとまらなかった。冬の車窓に全部消えてった。

あまり来たことのない総合病院の病棟の中を三人で歩き回って、その子が入院している部屋についた。
「ちょっと来る時間が悪かったみたいだな。寝てる。」
「草太を連れてきたんだから、紹介しようと思ったんだけど。」
ベッドには、丸まってるシーツしか見えなかった。
僕はと言えば、とりあえずその子に何を喋ればいいかなんてまったく思いついていなかったので、
むしろ良かったと胸をなでおろしていた。
「いいよ母さん。寝たいなら寝かせてあげようよ。」
「…ま、そうね。無理させちゃいけないわよね…。」
そのまま帰るのもあまり意味がないので、母さんは先生のところへ、
父さんは蝶子ちゃんが起きた時に何か食べるものを、といって売店に出て行く。
僕は、病室の椅子に腰掛けていた。
起きたら何を言ってあげればいいだろうか。やはりあまり思いつかない。
しかし、最初はやはり挨拶をするんだろうな。
まだ蝶子ちゃんは寝ているけれど、寝ているうちに予行演習をしておこう、と思った。
「こんばんは、今日から僕が君の兄さんだよ。」
自分で思ったより、優しい声が出せたと思う。
うん、まぁこれでいいかな、と思っていたら、シーツが動き出した。
寝ている、とばかり思っていたので、少しだけ驚いた。
モゾモゾと動き、中から女の子が顔を出す。

「おにい…ちゃん?」

目が真っ赤に腫れていた。シーツに包まりながら、泣いていたんだろうか。
ただ、今は泣いているわけではないようだった。不思議そうな顔で、こちらを見ている。
同級生より幼いというのは分かっていたけど、
それでも自分が五年生だった時の同級生より随分小さい気がする。
相当、弱っているんだろうな。怖かったんだろうな。

そう思うと、急にこの子を守ってあげたい、と思った。いや、実際守らなくちゃいけないんだろう。
人一人にそういう感情を持つのがどれだけ重いことなのか、
その時の僕にはあんまり分かってなかった。
犬や猫をかくまうわけじゃない、ってことは流石に分かってはいたが。
僕の中の何がどう変わるのか、そこまで予想できていたわけじゃない。
ただ、泣かせちゃ駄目だなと思った。
この子がこんな風にして病室で一人泣いてるなんてことは、よくないことだ。
これからいっぱい笑わせてやろう。そう思っていた。

Side蝶子

パパとママが死んだ。
最初に目が覚めた時には、そのことは分からなかった。
私は知らないところで眠っていて、首を動かしてもそこが病院なんだということしかわからなかった。
先生が来て、看護婦さんが来て、色々調べられた。
足も手も動かすと痛みが走って、歩くこと自体辛かった。
車椅子に乗せられたまま色々回って、なんだか分からないうちに一日が終わっていた。
看護婦さんがもう一度ベッドのところまで連れてきてくれる。
そこで私は初めて、わざと考えないようにしていた不安を口にした。
「あの、パパとママはどこですか?何で会いにきてくれないんですか?」
看護婦さんは、
「二人ともちょっと怪我をしているのよ。それでまだ会いにこられないの。」
とだけ言った。
その言葉で、私は分かってしまった。いや、正確に言うと思い出した。事故のこと。

冬休みを使って旅行に行こう、と言い出したのはパパだった。
いつもと同じ、楽しい旅行。何の疑問も持ってなかった。
だから、その瞬間が来た時のことは、曖昧にしか分からない。
ガン、という音と、目の前の風景がひしゃげていったことは覚えている。
父さんと母さんから、赤いものが流れ出していたことも、何となく思い出せる。
そのことが思い出せるようになって、二人とも死んだんだということがわかって、私は吐いた。
吐いて、ベッドを掴んで、辺りにあるものを投げ飛ばして、思い切り泣き叫んで、
そこから先も、やっぱりあまり覚えていない。

私は泣いて暮らした。トイレの時以外はずっと身動き一つとらなかった。
何も食べなくても、看護婦さんが勝手に刺してくる点滴のせいでお腹は空かない。
シーツに包まって、ずっと泣いて、ぶるぶる震えていた。
そのうち、パパの友達だった、という二人が来た。
ベッドの中からチラッと見ると、知らない男の人と女の人だった。
その日からその二人のどちらかが部屋に来て、色々話しかけていった。
私はそんなことどうでも良かった。
ただ、大好きな人たちが死んでしまってもう会えないことを悲しむだけしかできなかった。
何日目だったのかは分からない。男の人が、私に言った。
それまでもずっと色々言っていたんだけど、何も聞いてなかった。
ただその日のその言葉だけは聞かないわけにはいかなかった。
「蝶子ちゃん。僕らと暮らそう。僕らが君のパパとママになるから。」

私は、あの人たちに引き取られるんだ。養子っていうのになるんだ。
頭の中では、理解できた。でも心は理解できない。
違う。わたしのパパはあんな男の人じゃない。わたしのママはあんな女の人じゃない。
わたしの知ってるものは何もかもなくなって、わたしの名前も藤村じゃなくなる。
わたしだって親を亡くしてしまった人がどうなるかくらい知ってる。
あの人たちは優しく見えるけど、本当に優しいかどうかなんて分からない。
きっと今までの家にもいられなくなる。わたしのものは何もなくなる。
パパの声を聞くことももうない。ママの布団で一緒に寝ることももうない。

怖かった。とても怖かった。
「うぇ……!!!!!」
白いシーツをつかんで、力任せにかぶる。
蛍光灯の光はシーツを通して差し込んで、そこはやわらかな暖かい場所のはずだった。
でも寒い。すごく寒い。わたしは必死で体を丸める。左腕で右腕を掴んで、右腕で左腕を掴む。
それでも手足がブルブルと震えて止まらない。怖い怖い怖い怖い怖い。
死んだ。パパもママも死んだ。もういない。
わたしのものなんてきっともう何も残ってない。
世界は変わってしまった。わたしは世界で一人なんだ。
涙が止まらない。震えも止まらない。怖くて怖くて、それ以上動けなかった。

どれくらい時間が経ったのかは分からない。一日くらい経っていたのかもしれない。

「ちょっと来る時間が悪かったみたいだな。寝てる。」
「草太を連れてきたんだから、紹介しようと思ったんだけど。」
「いいよ母さん。寝たいなら寝かせてあげようよ。」
「…ま、そうね。無理させちゃいけないわよね…。」

僕らと暮らそう、といった男の人と、その人と来ていた女の人の声がした。
あともう一人、知らない人の声が混じっている。

その人たちは何かを喋って、誰かがこちらに歩いてくる。
誰なのかはシーツを通してはわからない。
その誰かは、お見舞いに来てくれる人が良く座る椅子にそのまま座った。
しばらくは静かだった。何も喋りかけてはこない。私が眠っていると思っているのだろう。
これ以上、泣くことも出来なかった。
泣いて、起きていると思われて、シーツをはぐられたら、その時何を言えばいいのか分からない。
そのうち、唐突に声がした。

「こんばんは、今日から僕が君の兄さんだよ。」

そんな言葉を投げかけられた。
最初、何を言っているのか分からなかった。
知らない。わたしにはお兄さんなんていない。
パパとママみたいに、いなくなってしまったんじゃなくて、それは元からなかった。

だから。

この人は元のものなんか何もなくなってしまったわたしの世界に現れた、
唯一の「新しいもの」なんだ、って。
そう思った。

「おにい…ちゃん?」

顔を上げると、こちらを見たまま止まっている男の子がいた。
私よりも年上で、ああやっぱりこの人がお兄ちゃんなんだとなんだか納得した。
お兄ちゃんは、しばらくこっちをボーッと見た後、急に笑顔になった。

「おはよう、蝶子ちゃん。」

2

Side 草太 

 目覚ましがなる2分前に起きられた。目覚ましが仕事をする前にきっちり止めてやる。
いつもと変わり映えのしない部屋。いつもと同じ朝。
ただ、何もかもが今までと同じってわけじゃない。トントン、と居間に下りていくと、
少し前には見ることのなかった風景が広がっている。
綺麗な食卓。4人分の食器のうち、僕の分には既にご飯とお汁が盛ってある。完璧なタイミング。
父さんも母さんもまだ泥のように眠っているので、これは二人の仕業じゃない。
二人ともそんな気を使う人じゃないし、そもそも朝はほとんど僕の当番だ。
これをしてくれたのが誰なのかはわかってる。そんなことしなくてもいいんだけどな…。

「おはよう、お兄ちゃん。」

 台所にはやっぱり、父さんのエプロン(父さん用の熊さんプリントを気に入ったらしい)
をつけた蝶子ちゃんがいた。

「はい、お兄ちゃん。お弁当。」
朝練に参加するため、早く出発する僕に、
ピンクの包みに入った弁当箱を手渡してくれる蝶子ちゃん。
「お弁当まで作ってくれたの!?蝶子ちゃん、そこまでして早起きしなくていいんだよ。
今日は加賀崎とパン食おうと思ってたしさ。蝶子ちゃんはもっと寝てても」
「ご、ごめんなさい!!余計なことした!?」
と、妹はいつの間にか半泣きになってしまった。
ああ、またやってしまった。最近この問答をずっと繰り返してる。
「そんなことしなくていいよ」「ごめんね余計なことして」「余計なんかじゃないんだ」
もうこれで何回目だろう。いい加減、僕は学ぶべきなんだ。

 かなりの間入院していたからか、病的に白い肌と、それと対照的に真っ黒で艶やかな髪の色。
蝶子ちゃんが泣いているところは、綺麗だった。笑顔よりもかわいいかもしれない。
しかし、兄としてそんなことを思ってる場合じゃない。
「ううん、余計なんかじゃない。ありがとう。」
笑って、彼女の頭を撫でてやる。
蝶子ちゃんが、顔を上げて微笑む。ああ、やっぱり笑顔もかわいいや。
「良かった。いってらっしゃい、お兄ちゃん。」

 

「桐野、あんた最近朝練に良く出るようになったねー。」
「うん、朝の家事から開放されてね。時間ができたんだ。」
僕らは学校までの道を二人で走っていた。僕は陸上部で、彼女は剣道部。
「ガジュマルは朝練欠かさないんだよね。えらいな。」
「そりゃ一年生だもん、色々やらなきゃいけないことも多いさー。
あんたが不真面目なんだよ?まぁ両親共働きで当番制で仕方ないのは分かるんだけどさ。」

僕と併走している彼女の本名は、牙集丸 達子(がじゅうまる たつこ)。
…というのは冗談で、本名は栗本果樹。
かじゅ、という読みの名前からあだ名がガジュマルってわけだ。
栗本さんちは果樹園を営んでる。だから子供が果樹、ってのはなんとも安直だが、
ぴったりだとは思う。
なんというか、大木的な意味で。
ふと、ガジュマルの性格が蝶子ちゃんみたいだったら、どんななんだろうと考えてしまった。
この安定感たっぷりの体と、もう冬だというのに日焼けが抜けない顔色で
「ごめんねお兄ちゃん…。」

「ふあはははははははははははは!!!!!!!」
「な、なんだなんだ!?どうしたよ桐野!?」
僕の突然の笑い声で、ガジュマルをびっくりさせてしまったようだ。
驚いた顔でこちらを見ている。
「いやね、メイド服姿のガジュマルを想像しちゃって。絶望的に似合わないんだこれが。」

 返事の代わりに、ガジュマルは走りながら器用に竹刀袋を解いて、左手で持つ。
「りやああああああああああああああ!!!!!」
烈風の気合と共に繰り出される突き。
しかし僕はそれをあっさりと避ける。というか、間合いから逃れる。
こう来ることは分かってたから。
「貴様はいつもいつもいつもいつもーーー!!!」
「あはは、ごめーん。」
言いながら、ギアをトップに変える。スタミナ消費を考えない、全力疾走。
「まちやがれえええええええええ!!!!」
ガジュマルも鬼の形相で追いかけてきた。さぁ、朝の練習はここからだ。

 
「あー、なんとか引き離した、か。」
それでも今日は危なかった。ちょっと彼女の足を舐めすぎていたかもしれない。
全力疾走してガジュマルを引き離して、スピード落としてガジュマルが追いついてくるのを待って、
繰り出される技を寸でで避けきり、またスピードを全開にして、を何回か繰り返す。
スリルとサスペンスに溢れた、最高のインターバルトレーニング。ガジュマルと過ごす最高の朝だ。
多分、彼女も僕のトレーニングに付き合ってやってくれてるのだろう。
じゃないと毎回毎回同じこと繰り返す説明がつかない。
友人に恵まれた幸せを感じながら、僕は校門をくぐった。

「お前の今日の弁当は、いつもより豪華だな。」
「あ、やっぱり分かる?ほら、前に言っただろ。新しく妹になった子が作ってくれたんだ。」
「それはまた、羨ましい話だな。」
加賀崎は、しかし大して羨ましがってるとは見えない顔で自分のパンを貪っている。
こいつはいつもこんな風に落ち着きすぎているので、表情の変化はあまり読み取れない。

 僕は、蝶子ちゃんのことについて、友達には包み隠さず話すようにしている。
隠すようなことじゃないし、蝶子ちゃんと会った時に「親をなくしたかわいそうな子」
という像だけであの子を見るような人たちとは、友達になっていない。

 加賀崎の言うとおり、その弁当は豪華だった。
僕は昨日の余りものを弁当に詰めてくるのが常なので、肉じゃがが箱いっぱい詰め込まれてるとか、
ロールキャベツと肉汁とご飯が渾然一体になっているとか、まぁ「貧相」ではないけれど、
お弁当というカテゴリに入れていいのかどうか悩むシロモノになることが多い。
「僕もちょっとびっくりしてるよ。朝からこんなの作ってくれるんだもんね。」
ご飯どころか綺麗に握られたおむすびに玉子焼き、
丁寧にもタコさんにしてあるウィンナーに彩りのアスパラ。
その他色々なおかずがきっちり並べられてて、それはお弁当の見本という感じだった。
「気を使わなくていい、って言ってるんだけどね。蝶子ちゃん、自分からやりたいみたいで。」
ちょっと困るくらいなんだ、って言おうとしていたところで、隣にガジュマルが近づいてきていた。
もしや朝の決着をここに持ち込むつもりか?とちょっと身構えたが、矛先はそこではなかった。

「なんだそれはっ!世界にそんな妹がいるわけがないっ!!許されねぇありえねぇ!!
妹ってのはもっと殺伐としたもんなんだよ!
コナンを見るか関口博を見るかで血で血を洗う抗争が起き、
朝目が覚めれば油断した方のツラにハイキックが飛んでいく!!そういうのが妹と姉の関係だろ!!」
「いや、俺兄だから。姉じゃないから。」
他にも突っ込むべきところはたくさんあるような気もするが、
ガジュマルのペースにくっついていくと落ち着いて飯も食えないので、申し訳程度に突っ込む。
「おかしい、おかしいよ不公平だよ…。私のところにも『お姉さま、はい、お弁当です。』って
言ってくれる妹が生まれるべきだったよ…。」
勝手に身の不幸を嘆きながら牛乳を飲みだした。ほっとこう。

「妹さん、かわいいか。」
最初からガジュマルのことに興味をなさそうにしていた加賀崎が、突然聞いてくる。
加賀崎は誰それがかわいいとかそういうのにあんまり興味ないんだろう、
と何となく思っていたので、ちょっと驚く。
「か、かわいいよそりゃあ。」
おかげで、ちょっとどもってしまった。
「そうか。良かった。両親の関心が新しい兄弟に行くのを憎んで苛める、なんて話を思い出してな。
お前ならそういうことはないとは思うが、一応聞いてみたかった。」
「…んなことするような奴に見えるのかよ、僕は…。」
「いや、見えない。だから、ないとは思うが、という前提をつけただろう?」
落ち着き払って、2個目のパンの包装をビリビリ破き始める。
褒められたのか貶されたのか、微妙な気分になりながら、僕も箸を進めた。

 実際、僕ら家族が蝶子ちゃんをいじめるとか、そんなことをするわけがない。
彼女はおそらく、「養子」とか「義妹」と呼ばれる存在としては、完璧だった。
食事は当番制だから、という前に自分からやると言い出すし、
洗濯掃除も気づいたらやってしまっている。
僕も蝶子ちゃんのおかげで朝練に参加できるようになったし、
父さんも母さんも当番が減った分ゆっくりできる。
(母さんの暇が増えて、一緒に酒量も増えてしまったことだけはマイナスだった。)
僕らが蝶子ちゃんに文句を言うべきことなんて、何一つ思い浮かばなかった。

「むしろ、こっちがちょっと気を使うくらい、あの子はいい子だよ。」

 あの子の泣き顔を見て、ちゃんと「お兄さん」をやろうと決めた。
けど、新しい生活が始まってみると、僕のやるべきことはあんまりないようだった。
そもそも、彼女の境遇から考えたら、
「あんたたちなんて私のパパとママじゃない!!」
とか、
「なんで私だけこんな目に会わなきゃいけないのよーーーー!!!」
って叫びだしちゃうとか、そういうことがあると思ってた。覚悟していた。
蓋を開けてみれば、あの子は割合早く状況に順応したみたいだった。
一番驚いたのが、来て3日くらい経つと、もう父さんと母さんのことを
「パパ」「ママ」と呼び出したことだ。
普通、こういう時は何年か「おじさん」「おばさん」と呼ぶ時代があって、
ある劇的な事件をきっかけにようやく「お父さん」「お母さん」と呼べるようになる、
ってのがセオリーなんだと勝手に思っていたのだが。
もしかして、そう呼ばないと追い出されるとでも思っちゃってるのかもしれない、と思って、
「無理はしなくていいよ。」と諭したこともある。しかし彼女は
「無理なんかしてないよ。二人は新しいパパとママだから。
前のパパとママは、もういなくなったから。」
と、ごく普通のことのように答えた。

「やっぱり、どこか無理してるんだろうな。」
放課後練習を終えて、帰ってきた玄関で呟く。
あんな出来事に巻き込まれたのに、立ち直りが早すぎる。
今日こそは、あの子にこの家でもっと楽に生活していけるような言葉をかけてあげよう、
と考えながら、扉を開けたところで。
「おかえりなさい、お兄ちゃん。」
すぐに蝶子ちゃんが迎えてくれた。

小学生の蝶子ちゃんが帰ってくるのは僕よりずっと早い。
随分長い間、ここで待っててくれたんだろう。
そんなことしなくてもいい。だけどそれをストレートにいうと
「ごめんなさい。次からは部屋でちゃんと待ってるから…。」
と泣かれるというのはついこないだ経験したばかりだったので。
「ただいま。」
だけ答えておいた。もちろん笑顔で。


「ご飯にする?お風呂にする?」
「蝶子ちゃん、そんな台詞どこで覚えたの。」

 蝶子ちゃんの言った台詞は嘘でも冗談でもなく、
実際もうお風呂の準備もご飯の準備も終わっていた。
「あー、極楽だわー。こんなに美味しいビールが飲めるようになるとは。」
今日の諸々の当番は母さんだったはずなのに、既に蝶子ちゃんが全部済ませてしまっているので、
母さんは早々に管を巻いていた。
駄目だ。
このままじゃ蝶子ちゃんに気楽に振舞ってもらう前に
母さんの駄目人間度メーターが振り切れてしまう。

 ふとんの中で、どうしたら蝶子ちゃんがもっと楽に過ごせるようになるのかを考える。
答えは出ない。家事をしないと家を追い出される、
と考えている線は、もういくらなんでもないだろう。
僕らはそこまで彼女を冷たい目で見てない。それは彼女も分かってくれてると思う。
じゃあ何であんなに僕らに甲斐甲斐しいのか。
それはやっぱり…そうしないと、身が保たないんじゃないか。
彼女が事故のことをあれこれ考えていないはずはない。
一時でもそれを忘れるためには、ほかの事に気を配るしかなかったんだろう。
他の方法で蝶子ちゃんを楽にしてあげられる方法は、ないんだろうか。思いつかない。
「ああ、情けないなぁ…。」
こんな時、あの人なら何かいい手が思いつくのかな、と、従姉妹の顔を思い浮かべる。
その想像は、すぐに頭の中から消えた。
「お兄ちゃん、入っていい?」
という蝶子ちゃんの声が聞こえたからだ。

「ごめんね、今日もやっぱり、眠れなくて。」
もぞもぞ、と彼女がふとんの中に潜り込んでくる。
ごめんねと言いつつ、そこに躊躇の色は見えない。慣れたものだった。
僕の方ももう随分なれてきたので、何もいわずに隣を開けてやる。
もちろん、最初こうなった時は、ドギマギしていたどころの騒ぎじゃなかった。

「怖くて眠れないから、一緒に寝て。」
と彼女が頼んできた時は。
ありえない。今日のガジュマルの言葉じゃないが、その時の僕もそう思った。
お兄ちゃんになるとは決めたが、本当の兄妹でもこの年になったらそんなことしないだろうし、
大体そういうのって普通お母さんとかお父さんの役目のはずだ。
ただ、彼女の言葉で納得せざるを得なかった。
「パパもママも疲れてて、邪魔しちゃったら悪いから…。」
確かに、うちの二人はいつも家に帰ってくると疲れきっていた。
何度か仕事場を見にいったが、すごいハードワークなんだと実感した。
蝶子ちゃんも、二人が夜どれだけゆっくり寝たがってるか、ってのを感じ取っているのだろう。
だから僕も、受け入れた。ただ隣で寝るだけでいいんだから、応じないわけにはいかない。
僕の布団の中に入ると、彼女はあまり喋ることもなくすぐ目を閉じる。
すーっすーっという寝息が聞こえてくるのもすぐだ。
僕は。最初のころは、目の前にあるかわいい女の子の顔に緊張しっぱなしで
眠るどころじゃなかった。
嬉しくないわけじゃないけど明らかに拷問だ。学校で居眠りする回数が増えた。
だんだん慣れてきた今はというと。こうしている蝶子ちゃんを見て、少しだけ安心している。
嬉しい。嫌らしい意味ではない。…ほんの少しも嫌らしい意味がないというとそれも嘘になるけど。

 昼間はずっと気丈に振舞ってるけど、この子が失ったものは想像つかないくらい大きなものだ。
だから、もっともっと頼ってほしかった。色々な思いを受け止めるつもりだった。
けれど彼女が僕を頼ってくれるのはこの時だけ。夜が怖い時だけ。
この時だけは、僕は彼女のお兄さんとして振舞えている時なのだろう。
いつかこの子が安心して一人で眠れる時がくればいい。
その時には、もう過剰に気を配るようなこともなくなっているだろう。
そんな日を願って、僕も眠りについた。香ってくるシャンプーの匂いが気持ちよかった。

3

Side蝶子

「はいお兄ちゃん、お弁当。」
とびきりの笑顔でお兄ちゃんに手渡す。
「お弁当まで作ってくれたの!?蝶子ちゃん、そこまでして早起きしなくていいんだよ。
今日は加賀崎とパン食おうと思ってたしさ。蝶子ちゃんはもっと寝てても」
ハンカチで包んだそれを持ちながら、お兄ちゃんは慌てている。
「ご、ごめんなさい!!余計なことした!?」
お兄ちゃんに嫌われるためにしたわけじゃない。ただ、私の作ったものを食べてほしかっただけ。
でもお兄ちゃんは嫌だったのかもしれない。そう思うと、涙が出そうになって、視界が滲む。
滲んだお兄ちゃんが、もっと慌てるのがわかる。
優しい声が、もうこれ以上無理というくらい、パイ生地の中のクリームくらい甘くなる。
「ううん、余計なんかじゃない。ありがとう。」
笑顔でそう言ってくれた。おまけに、頭を撫でてくれた。
「良かった。いってらっしゃい、お兄ちゃん。」

 お兄ちゃんは駆け足で学校に向かっていった。
私はまだ、幸せな気分のままでいる。朝の寒さも、体の中から感じる暖かさで気にならない。
泣いたのは、半分は嘘じゃない。
「蝶子ちゃんはそんなことしなくてもいいんだよ。」
ってお兄ちゃんや新しいママや新しいパパに言われた時は、本当に悲しかった。
少しでも早く、変わってしまった世界に慣れたかったのに、
しちゃいけないことをしていたんだろうか、と。
私に残されてることは、ほとんどなかった。
ママに教えてもらった、パパに褒めてもらった、お料理のことくらいしかなかった。
他に何をやればいいのか、思いつきそうになかったから、心底困りそうになったのを覚えている。
新しく家族になった人たちが、怒ってるんじゃないってことは、すぐに気付いた。
怒ってるんじゃなく、心配してくれてるようだった。
家事をしないと追い出されると勘違いして、無理をしてるんじゃないか、って。
嬉しい。私のことを思ってくれる人がいることは、とても安心できる。
だから私は、無理をしてるって思われたくて、頑張った。
ただ、新しいパパとママは、しばらくすると「そんなことしなくていいよ」って
言わなくなって、笑って「ありがとう」というようになった。
それはきっと家族として認められていくってことなんだろうなってわかったけど、
ちょっと寂しかった。
自分が欲張りなんだなぁ、って、そんなことで気がついた。

 
お兄ちゃんは違った。私がご飯を作るのにずっと慣れてくれないらしい。
私が洗濯物をするのにも掃除をするのにもずーっと。
さっきだってそう。
「お弁当なんか作らなくたっていいんだよ。」
って、私を説得するみたいに喋りかけてくれるお兄ちゃんを見るのは、
すごく心が躍って、もっともっと私を見て、私のことだけ考えて、って言いたくなってしまう。
もしかしたら私は、悪いことをしてるんだろうか?

 

 学校での私は、「あまりお喋りしない暗い子」ということになっていた。大体合ってるとは思う。
「友達」を強いて作ろうとは思わなかったから。
前の学校にも友達はたくさんいた。
お家の都合で転校することになった、と先生が言いだした時に、
「必ず手紙書くからね。」と言ってくれた子も何人かいた。
多分私に手紙を出してくれる子はいないだろうな、と何となくわかった。
その時は、みんな本当に出してくれるつもりでいるんだと思う。
私のことを心配して、何かしてあげたい、って思ってくれてるんだろう。
だけどそんなこと、すぐ忘れる。ただ友達だったってだけで、
いなくなった子をずっと気にするなんて、無理だから。
実際、手紙は来なかった。新しい学校で新しい友達を作ることも、
なんとなく面倒になってしまった。
そんな不確かなもの、いらない。私はきっと、もっと確かなものを手に入れているから。

 ただ、それだとクラスで虐められるかもしれないなぁ、と覚悟もしていた。
グループに入ろうとしない転校生なんて、恰好の標的になるかもしれない。
だから多少面倒でも、すぐになくなっちゃうものだってわかってても、
一応作っておいた方がいいのかなとも思ってた。
それが、取り越し苦労、っていうので終わってくれたのは、担任の先生のおかげだった。

 先生は、しっかりしてる、とか、頼りがいがある、とか、
いじめを絶対に許さない信念の人、だとか、そういう人たちとは違った。むしろ、逆だった。

「俺はもうダメなんだ…教員なんかやめてローソンのバイトに戻るんだ…。」
担任の、埼玉先生の弱気な声が響く。
さっきまで男子が騒ぎ出して五月蠅かったはずなのに、何で埼玉先生の声は響くんだろう。
それも、「静かにしなさい」とか「やめなさい」とかは全然聞いてもらえないのに。
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「せ、先生、落ち込むなよ…ごめんよ、またうちの母さんがなんか言ったんだろ。」
「またかよー。なんとか止めろって言っておいただろ。」
「うちの父ちゃんも今度先生に文句言いに行くって行ってた…俺の算数の成績が落ちたからって。」
「うわ、玉井んとこもかよー。先生自殺しちゃうよ。」
「先生を殺さないためにも、みんなまじめに勉強しましょう!」
男子もいつの間にか反省して、委員長が前に出てきて、黒板に何かを書き出した。

 このクラスでは、「先生」が一番可哀そうな存在だった。
親から何か言われるたびに落ち込んで、
それを授業中に思い出しては塞ぎ込んで、うずくまっちゃう。
まともに授業が進まないので、塾で教科のちょっと先のとこまで進んでる子が、
わからない子に教えてあげたりする。
「自主自立」っていうのがこの学校の目標だったと思うけど、
実はこのクラスがそれを一番達成してるのかもしれない。
他の子に教えたり、先生を慰めたりと忙しいこのクラスでは、
転校生をいじめようとか、そういう余裕は浮かんでこないようだった。
私にとっては、この上もなくラッキーだったんだろう。
数メートル先に見える、ダメな大人のおかげっていうのは、ちょっと複雑だけど。

「先生ってさ。」
隣から声がした。
「あれでよく先生の試験通ったよね。」
メガネの黒岩さんが私に話しかけてくる。珍しかった。
彼女もあんまり人と喋らない大人しい子だったから。
「うん、私もそう思う。不思議だよね。」
正直に答えた。黒岩さんも、私はあんまり喋らない子だと思ってたみたいで、
ちょっと驚いた眼をしてる。
だけどすぐに笑い出した。もちろん先生から見えないように、教科書で顔を隠して。
私も同じように笑った。ああ、友達、できるかもしれない。
でもこれも先生のおかげなんだろうか。そう思うと余計おかしかった。



桐野のお家に帰って、冷蔵庫の中身でご飯を作って、
それを食べてるお兄ちゃんを見るのが嬉しくて、
ああ今日も楽しかった、ってとてもいい気分でベッドに入ったことは覚えてる。
だから、私は夢を見ているんだろうなぁってことは、分かっていた。
だけど、目を覚まそうと思っても、それはできなかった。

 私は電車に乗っていた。ボックス席の座席は柔らかい。隣に座っているママの肩も柔らかい。
パパは私の目の前に座っている。三人でどこかへ行くんだ。
どこへ行くのかはよく分からない。
窓から見える景色は黒一色で、海も空も山もビルも橋も何も見えない。
私たちどこへ行くの、と聞こうとしたら、突然ママが立ち上がった。パパも立ち上がる。
どうしたの、という前に、冷たい風が吹きこんできて気がついた。
ドアが開いている。二人はここで降りるんだ。
だけど私は。私は、まだ降りられない。私は降りちゃいけないんだ。
二人が歩きだす。パパとママはここで降りなくちゃいけないから。
「パパ!ママ!待ってよ!!」
だけど二人は振り返ってくれない。顔を向けてもくれないまま、二人はドアからホームへ出た。
ピリリリリリ、とベルが鳴って、ドアが閉まる。

 どうしよう。どうしたらいいんだろう。二人が行ってしまった。
何で置いて行かれたのかわからない。私だけじゃ行き先がどこなのかもわからない。
足元から吹くヒーターの暖気は私を暖めてはくれない。
外を見ると、やっぱり真っ暗なままだった。電燈の明かり一つ見えない。
このまま一人で電車に乗り続けるの?
ぬるりと不安が背を撫でる。怖い。ここにいたくない。でも降りるなんて怖いことできない。
目をつぶって耳を塞いで、何もなかったことにすれば…。

 そう考えた時、車掌さんがこっちに来るのが見えた。

 切符。そうだ切符。出さなきゃ。
ポケットを探る。指で何度も何度も生地を掻いても、そこに切符はなかった。
どうしよう。捕まっちゃう。切符を買わずに乗ってる悪い子だって。
喉が異常に乾いて、汗ばかり出てくる。どうしよう。どうしよう。何もできない。
H

「切符見せてね。」

 車掌さんがすぐ隣まで来ていた。

もう、どうしようもない。
ごめんなさい、って謝ったら許してくれるだろうか。きっと許してもらえない。

「はい。切符。」
目の前に手が伸びてきて、切符を渡してくれた。横を見ると、お兄ちゃんが座っていた。
何でこんなこと忘れてたんだろう。そうだ、私はお兄ちゃんと乗ってたんだ。
お兄ちゃんに一緒に切符を買ってもらって、持っておいてもらったんじゃないか。
「どうしたの、蝶子ちゃん。」
笑ってお兄ちゃんは切符を差し出してくれている。
そうだ、これを受けとって、車掌さんに見せなきゃ。
そうしたらきっとどこへでも行ける。次の駅も、次の次の駅も。
私は切符を手にとって―

 そこでやっと夢から解放された。
目を開けてもやっぱり真っ暗闇だったけど、体を包む温かさはさっきまでのベッドのものだ。
まだ心臓がドキドキしている。それが、怖かったからなのか、
嬉しかったからなのか、はっきりとは分からない。
毛布を蹴とばして、急いでベッドから降りる。
心臓の動きは収まらないまま、一歩一歩がドクドクという音をたてて私の体を揺らす。
手探りで机のライトをつけると、まだ12時だった。
この時間ならお兄ちゃんのところに行ってもまだ大丈夫。
すぐにお兄ちゃんの部屋に向かった。 
迷いはなかった。確かめたかった。
今度はいなくなったりしないんだ、そこにいるんだ、ってことを、確かなものにしたい。
このまま寝たらきっともう一度あの夢を見る。その時お兄ちゃんは横に座っていてくれるだろうか?
毛布から引き離された体は、もう寒さを感じ始めていた。
いかないと。暖かいところに。

2008/02/06 To be continued.....

 

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