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静淵

第1回                  


1

少女は、自分の家の庭が好きだった。
青々とした芝生が広がり、それを取り巻くように様々な木々が植えられ、
四季折々の色合いが楽しめる。
庭の隅に椅子を置き、そこに座ってただぼんやりと風景を見ることが、少女は好きだった。
その日も椅子に座って足を揺らしながら庭を眺めていた少女は、
遠く離れた門から見慣れた人物が近付いてくるのに気がついた。
「お父様……?」
黒いスーツを着た、鋭い目つきのその男に、少女はどこか気まずい思いを抱いてしまう。
つい先日、父親とは喧嘩をしたばかりだったのだ。
近付いてくる父親の表情を見ようと目を凝らすと、
その後ろに自分と同じ年頃の娘がついて歩いていることに気がついた。
「あれは……誰かしら?」
やがて父親とその娘は少女の目の前までやってきた。
「椅子から降りなさい」
父親に言われるままに少女は椅子から降り、背筋をしっかりと伸ばして立ち、お辞儀をした。
「お父様、今日はお早いのですね」
「ああ、色々あってね。お前に紹介しなければならない者がいるんだ」
「そちらの方ですか?」
少女は父親の斜め後ろに一歩引いて立つ娘を見た。
ぱっちりと開いた目はどこか鋭く光り、口元はきゅっと引き締められている。
黒一色の子供服を身に纏い、全体として冷たい印象を醸し出していた。
その娘は少女と目が合うと、前に進み出て、手を差し伸べた。
「初めまして。幸田静見といいます」
「あ……はい。初めまして。私は冴……朱鳥冴です」
二人は握手をして挨拶を交わした。
「今日からこの子は、朱鳥家で暮らすことになった」
少女の父親が言った。
「え……?」
「年は同じだが、お前より誕生日は二月ほど早い。姉と思って、仲良くしなさい」
「姉……ですか?」
少女は呆然と目の前の娘を見た。
「お父様、それは……この子はこの家の……朱鳥家の娘になるということですか?」
少女の問いに、父親は小さく笑って答えない。
二人の娘はそれ以上の言葉を交わすことはなく、ただお互いを見詰めていた。

朱鳥家は、明治の初期から続く地方財閥である。
世界恐慌を乗り越え、財閥解体を免れて、何度か没落の危機を迎えながら、
現代に至るまでかろうじて南関東の一地方にその影響力を保持してきた。
財閥の名に示されるとおり、その経営は同族出身者のみによってなされていた。
財閥の頂点に朱鳥家の嫡男が立ち、その周囲を血の濃い順に固めていくという経営手法が、
百年以上に渡って連綿と受け継がれてきたのだ。
しかし平成の世になって変化が訪れた。
先代当主の朱鳥春治が病床に伏した折、朱鳥家には子供が二人居た。
長女の朱鳥依子と、その弟の朱鳥恭介であった。
伝統に従えば、春治が没した後は朱鳥恭介が跡を継ぐことになるのだが、春治本人がそれを否定した。
「あれには力が足りん。一族の中から優秀な男を選び、依子の婿として朱鳥家に迎え、当主としろ」
当時、日本経済の低迷に伴い、朱鳥家も大きな経済的損失を被っていた。
そんな中、財閥が再び浮上するには自分の息子では役者不足であるとする、冷徹な判断だった。
恭介はそれに反発し、主だった傍系の者たちも伝統を断ち切るのはどうかと意見したが、
春治の一声で皆黙ることになった。
そうして依子の婿として迎えられたのが、財閥の重役の末席に位置する瀬尾家の長男、
瀬尾慎太郎だった。
慎太郎にとってはまさに寝耳に水の話であったが、
元々依子に対して淡い恋心を抱いていたこともあり、拒否する理由も無かった。
「慎太郎……後は任せたぞ……」
そう言い残し、慎太郎と依子が籍を入れた一週間後、桜の散る頃に、朱鳥春治はこの世を去った。
当時十八歳の慎太郎は大学に進学したばかりだったが、すぐに退学し、財閥経営の実務に移った。
もともと実家の瀬尾家の仕事を手伝っていたこともあり、慎太郎はすぐに仕事に慣れた。
末席の家の者が突然頂点に立ったことから、周囲の反発は相当なものがあった。
主要な分家の者たちは恭介を中心にまとまり、ことあるごとに慎太郎と衝突したが、
慎太郎は己の経営から出る利益という結果でそれに対抗した。
経営の面で文句が言えなくなると、今度は礼節がなっていない、粗野だ、
などと人格についての批判が湧いて出たが、慎太郎はそれを完全に無視した。
元々格式を重んじる性質ではなかったし、何より慎太郎は自分に課せられた使命をよくわかっていた。
金と権利と権威の獲得――それこそが自分の為すべきことであり、
人格の美麗さなど追求しても仕方の無いものだとわかっていたのだ。
「粗野なのはわかった上で、先代も俺を選んだのだろうよ。むしろそれこそ俺の本領なんだからな」
ある日仕事に赴く際、慎太郎は笑ってそう言った。
「瀬尾の家は、それこそ百年の昔から、一族においては荒事担当だった。
朱鳥財閥の利益のためなら、どんなことでもやってきた。法律の穴をかいくぐって、
あるいは表に出ないように、何でもやってきたんだ。先代もそのことは重々承知していた」
つまりはそういうことだ。
どんなことをしてでも朱鳥家と財閥を建て直さなければならない状況にあったからこそ、
春治は自分を選んだのであり、選ばれたからには粗野だろうが汚かろうが
自分の本領を発揮して利益を出すべきなのだろうと、慎太郎は考えていた。
脅迫、騙し、贈賄――正当な経営の裏で、できることは何でもやった。
薄汚い当主と言われても気にすることなく、己の役目を果たすよう努めた。
一年もすると慎太郎と依子の間に娘が生まれ、慎太郎はさらに仕事を精力的にこなすようになった。
そして十年後、朱鳥家はかつての権威を南関東において取り戻していた。
慎太郎のやり方に対する黒い噂は尽きなかったが、確かに財政は立て直され、
数多くの政財界の要人との繋がりを得た。
慎太郎が十年でこれだけのことをやってのけることができたのは、
ひとえに妻である依子と、娘の冴に対する愛情のおかげだった。
「確かに、先代に任されたからにはこなさなければならないという思いはあった。
だがな、人間は辛いことを回避しようとする生き物なんだ。
それがわざわざ辛いことにぶち当たるようになるのは、欲しいものや守りたいものがあるからなんだ。
依子と冴がいなければ、俺は途中で逃げ出していたかもしれんな」
めったに酒を飲まない慎太郎だが、たまに飲んだ時はそう言って笑った。
「気の進まない仕事もあったし、これからもいくらでもあるだろう。
でも妻と娘がいれば頑張れる。あいつらに少しでも多くを残してやるために、頑張れるよ」
言って慎太郎はまた笑った。
しかし、いつしか慎太郎は、家族のことを口にして笑うことはなくなっていた。
そして、ある日、朱鳥家に一人の少女を連れて来たのである。

「あれから四年、か……」
二十畳はあろうかという、広い洋室。
ぴたりと閉じられた木枠のガラス窓からは、冬の午後の日差しが差し込んでくる。
その窓際の、やはり広いベッドに寝転んで、少女はため息をついた。
少女の名前は朱鳥冴。
やや細めの目と、陶磁器のような白い肌。肩までの黒髪はさらりと美しい。
慎太郎と依子の間に生まれた娘は、母に似て、か細い印象ながらも美しい少女に成長していた。
せっかくの休日だというのに、彼女はほとんど一日中ベッドに寝転んで過ごし、
何度もため息を繰り返していた。
ため息の原因は、この朱鳥家にいるもう一人の娘、幸田静見であった。
「あの子が来てからもう四年……今日もお父様とお出かけ、か……」
あの日朱鳥家にやってきてから、静見は一人娘の冴と同等の扱いを受けて育てられた。
同等の衣服を着て、同等の食事をとり、同等の教育を受けさせられ、この四年間を過ごしてきた。
養子縁組をしたわけではないので、幸田という姓は変わらない。
幸田静見は朱鳥家とはあくまで他人であるにも関わらず、
一人娘の冴と等しくある者として慎太郎から扱われてきたのだ。
「お父様はどうしてあんな娘を贔屓にするのでしょう……」
中学校にあがってしばらくすると、静見は慎太郎の仕事を手伝わされるようになった。
経営を学び、人材管理を学び、週末には慎太郎について外を回るようになっていた。
一方で、実の娘である冴には、何の声もかからなかった。
「どうして……お父様……お父様の娘は……跡継ぎは私なのに……」
冴は枕を抱きしめて唇を噛んだ。
悔しかった。
この朱鳥家において、令嬢である自分と同格に扱われる者が存在することが。
そして、その人物が父との関わりという一点においては自分を越えているという事実が。
「私が悪いのでしょうか……お父様……」
冴には心当たりがあった。
慎太郎が静見を家に連れて来た当時、冴はことあるごとに父である慎太郎に反発していたのだ。
仕事においては鬼と言われた慎太郎も、娘には甘かった。
いつも最後には娘の望みを叶えようとしてくれたし、そんな父親が冴も大好きだった。
しかし、令嬢として何人もの世話役がつけられ、
上流階級の子女としての教えを徹底的に叩き込まれた冴は、
成長するにつれて父親の慎太郎よりも他の親族に近い感覚の持ち主となっていった。
そのためか、父の立ち居振る舞いについて無性に恥ずかしく思うことがあり、
いつしか慎太郎に反感を抱き、何かにつけて悪く言うようになってしまったのだ。

「お父様は、ご自分が一族の者たちに何と呼ばれているかわかってらっしゃるの?
  知性も気品もない、暴力にまみれた山猿だと言われているのですよ?」
ある時、冴は慎太郎に言った。
「私、恥ずかしいです。どうしてお父様のようながさつで、
礼節を知らない方が私の父親なのでしょう。
いっそ、お父様なんかじゃなくて、恭介叔父様のような方が父親なら良かったのに」
慎太郎は人格への批判には基本的に動じない人物だったが、
冴はその時の慎太郎の表情に確かな悲しみの色が浮かんでいるのを、
生まれて初めて見て取ることとなった。
それから冴は慎太郎に対して気まずい思いを感じながら過ごし、
数日後に慎太郎が幸田静見を家に連れてきたのである。
「私があんなことを言ったから、お父様は私のお父様をやめてしまったのですか……?
  別の子を娘として育てることにしたのですか……?」
天井を見つめ、冴は問いかけた。
「私がお父様を嫌だと言ったから、お父様は私の言うことを聞いてくださったということですか? 
……確かにお父様は昔から、
最後は私の願いを受け入れてくれましたけれど……それは……それは余計です。
あんなの、反抗期の子供のくだらない言い分じゃありませんか。
本気で取るなんて、それこそ大人げが無さ過ぎだとは思いませんか」
あれ以来慎太郎が冴に話しかけることは無くなった。
冴から話しかければ昔と変わらない微笑で応じ、必要なことがあればそれを伝えようとはするが、
家族としての触れ合いは存在しなくなっていた。
目に見えない壁を隔てて対するような、そんな感覚を、冴は父親である慎太郎に抱いていた。
「お父様……まさかあの子を跡継ぎにするつもりなのですか?
  まさか……私を差し置いてあの女が朱鳥家の跡取りに……?」
四年間で冴も大人に近付き、幼い頃には気付かなかった一族内の相克に気付いていた。
格式と実際の対立。
分家の末席から当主に選ばれ、傾きかけた財閥を復興させた父がどんな立場にあるのか、
おぼろげながらわかっていた。
父の強引な手法と伝統を蔑ろにする思考はやはり好きにはなれなかったが、
父なりに一族の利益を真剣に追求した結果なのだろうと理解することはできた。
だから過去の自分の暴言についてはただ後悔の思いしかなかったが、
あてつけのように赤の他人を実の娘のように育てる父には、
やはり憎しみの思いを抱かざるを得なかった。
「私が悪かったのはわかります……でも、だからって……!」
冴の胸中には複雑な想いが渦巻いていた。
再び慎太郎に娘として受け入れてもらいたいという気持ち。
幸田静見を娘として扱う慎太郎を、
やはり洗練された感覚を持ち合わせていない下層の出の者なのだと侮蔑し、憎む気持ち。
根源を同じとする相反する気持ちが、互いにせめぎあっていた。

「どうしたらいいのかしら……? 私はいったいどうしたいのかしら……?」
窓から差し込む光りは夕日の色となり、部屋の中は橙赤に染まった。
いらいらとした気分に収まりがつかず、冴はベッドの上で何度も寝返りをうった。
「もう夕方……静見がお父様と出かけるといつもこう。
せっかくの休日なのに、こうしてベッドに寝転んで考えるだけで、結局何も解決もしない……」
苛立たしげに言って、冴は目を閉じる。
ベッドに寝転んだまま背を丸め、身を小さくして、冴はその細い指先を自らの服の中に潜り込ませた。
左手を胸に、右手をスカートの中に入れ、下着の上から軽く擦るようにして指を動かす。
数ヶ月前に覚えてしまった、つたない性の遊びだった。
「ん……」
鼻から小さく息を漏らす。
父と静見に関してこうして悩んだ時、苛立った気分を抑えるために自慰をすることが、
このところの冴の習慣となっていた。
いけないことだと考え、罪悪感のようなものも感じてはいたが、
一時でも全てを忘れさせてくれる性の快楽は、どうにも抗いがたいものがあった。
「ぁあ……」
夕影に沈む部屋の中で、冴は声を殺して自慰に耽った。

慎太郎と静見が仕事から戻ったのは、夜の七時を回ってからだった。
夕食の時間にはいつも通り、広い食堂のテーブルに、慎太郎と静見が隣りあって座り、
その対面に依子と冴が座った。
席についた慎太郎を、妻である依子は心配そうに労った。
「今日も一日お疲れ様。このところ働き過ぎなのではないかしら?」
「師走だからな。忙しくもなるさ」
短く答えて、慎太郎は運ばれてきた料理に手をつける。
妻の心配などどこ吹く風といった様子だった。
「もう……体には気をつけてね」
慎太郎の態度にため息をつきながら、依子は柔らかな笑みを浮かべて静見に向き直った。
「静見ちゃんも大変ね。こんな時間までお仕事の手伝いなんて。
お友達と遊ぶ時間も無いんじゃないかしら。
あんまりこき使われるようなら、たまには文句の一つも言った方がいいわよ?」
「いえ。慎太郎様からの扱いに、特に不満はありません」
静見は冷たく鋭い目で依子を見て言った。
慎太郎が連れてきた娘は、四年間で、冴とはまた違った雰囲気の美少女に成長していた。
背まで伸ばした美しい黒髪。
整った容姿ではあるが、表情も声色も変えることがなく、まるで人形のような印象を与える。
瞳の奥に氷のような冷たさを宿し、ただ静かにやるべきことをやる。
そんな娘になっていた。
「そ、そう……ならいいんだけど」
静見の瞳に見つめられるだけで、依子はなたじろいでしまう。
十五歳の少女とは思えぬ切れ味が、その視線にはあったのだ。
「静見にはもともとお友達なんていませんわ、お母様」
冴が口を開いた。
「学校でもいつも陰気に過ごしていて、話す人も話しかける人も一人もいないんですもの。
ですから、余計な心配です。ねえ、静見?」
挑発めいた言い方に、依子は冴をたしなめたが、当の静見はというと気にした様子も無く、
黙々と食事を口に運んでいた。
「ちょっと、無視しないでくださる?」
静見は食事の手を止めたが、やはり口は開かず、冷たく冴を見つめるのみである。
冴を相手にするつもりなど、そもそもにしてないかのようだった。
「何よ……その目は……!」
冴は手に持っていたナイフとフォークを机に叩きつけるように置き、静見を睨みつけた。
「ちょ、ちょっと、あなたたち……」
依子は焦った様子でちらりと慎太郎を見る。
慎太郎は小さく息をついて、「やめなさい」と言った。
「食事の席だぞ、冴」
「……すみません」
「静見もだ。余計ないざこざを起こしたくないなら、
必要な時はきちんと喋りなさいと前にも言っただろう」
「はい。すみません」
冴は渋々と言った様子で、静見は特に感情を示さず、慎太郎に謝った。
「あなたたちも来年には高等学校に入学するんだから、もう少し大人にならなくてはだめよ」
「そうだな……高校か……」
依子の言葉を継いで、慎太郎が冴を見た。
「冴、星鳳学院への進学の準備は進んでいるのか?」
「あ……はい。準備というほどのものもありませんし」
「油断はするな。推薦があるとはいえ、選抜試験であまりにお粗末な成績だと、
落とされるかもしれないからな」
「大丈夫ですわ、お父様。私はあの程度の試験で失敗するような愚かな人間ではありません」
冴は胸を張って答えた。

私立星鳳学院女子高等科――
良家の娘のみを集めてふさわしい教育を施す、名門中の名門と言われる学校への進学が、
冴は推薦で決まっていた。
推薦といっても、正式な意味での推薦ではない。
星鳳学院女子高等科への入学は、選抜試験はほとんど形だけのもので、
各家につき一人の推薦枠によって事前に決められるものだった。
この推薦枠は一度与えられるとその後数年間は与えられないため、
各家から星鳳学院女子高等科に入学してくるのは、
その家の娘たちの中でも最高の教育を受けさせることを望まれる者に限られる。
つまり、星鳳学院に入学することは、将来その家を継ぐ立場にあることの証明であり、
星鳳学院出身であることは、社交界における「一流」の最低条件であった。
「なるほど。頑張っているようでなによりだ」
「このくらい、朱鳥家の娘として当然ですわ」
星鳳学園に進学が決まっていることは、冴にとっての大きな心の支えだった。
それは朱鳥家の一人娘として、跡取りと認められている証であり、
静見への優越感の源となったからだ。
「静見はどちらの学校に進学するのかしら?」
先ほどとは打って変わって上機嫌に冴は尋ねた。
「私は……」
「いや、僕から話そう」
答えようとした静見を、慎太郎が手で制した。
依子と冴の視線が慎太郎に向いた。
「静見も星鳳学院に進学させることにした。来春からもお前とは学友ということになるだろう」
「は……?」
冴は間の抜けた声を出した。
依子も驚きの表情で慎太郎を見た。
「お、お父様、どういうことですの、それは!」
「どういうことも何も、進学先はお前と同じだということだ」
「とぼけないで! わかっているのでしょう!? 星鳳学院に入学することが、何を示すかを!
  お父様は……お父様はまさか静見を……? 私を推薦してくださるのではないのですか!?」
「落ち着け」
「落ち着いていられません! そんなどこの馬の骨だか知れない娘にこの私が……!」
冴は立ち上がり、テーブル越しに慎太郎の方へと身を乗り出して詰め寄った。
「朱鳥家の推薦はお前のものだ。それは安心していい」
慎太郎は淡々と言った。
「静見が入学するのは特進生としてだ。星鳳も進学成績を残して名門としての体裁を保つために、
年に二十名程度推薦枠外から特進枠の生徒を受け付けているのを知っているだろう?
  静見はその枠で星鳳に進学することになる」
「でも、そんな……同じ家から年に二人、星鳳に入学するなんて、そんなことが許されるのですか?」
「静見は自らの力で星鳳に益する人間と認められて進学するんだ。何も問題は無いだろう」
「でも……でも……」

冴は焦っていた。
やはり、という思いがあった。
(お父様はやはり、静見を跡取りにしようと考えている……?
  そうでなければ、なぜ静見を星鳳に入れようとするの?)
冴の隣で黙っていた依子も、苦言を呈した。
「慎太郎さん、それは私も良くないと思うわ。静見ちゃんを星鳳に入学させようとすると、
おそらく分家の方々が黙っていないのではないかしら。
跡取りこそが星鳳に通うというのが伝統なわけだし……」
「跡取り跡取りとお前達は言うが、静見はそもそもにして幸田姓だぞ?
  何をそんなに気にするのかわからんな」
「慎太郎さんがそう言っても、分家の者達は、
いつ慎太郎さんが静見ちゃんを養子縁組してもおかしくないと考えてるのよ」
やれやれと慎太郎は頭を振った。
「まあ、皆川に相談したら同じことを言われたよ。分家の者達がうるさく言うだろうとね」
部屋の隅に立って控えていた男が頭を下げた。
皆川儀一――朱鳥家で先代から執事を務める男だった。
「それで昨日、重役会議のついでに分家の主だった連中にこの話をしてみた。
確かに猛反発にあいはしたが、最後には認めさせたよ。
真に優秀な人間なら、星鳳に入る価値があるのだとね。
連中、静見が新入生総代となれるなら、静見の星鳳学院入学を受け入れるそうだ」
「総代……?」
首を傾げる冴に、慎太郎は説明した。
「星鳳は入る際には階級差別が為されるが、入ってしまえばその中では実力主義だ。
長所は伸ばし、短所は是正しようと徹底した教育をする。
そこには学院外での身分や家柄など入る余地はない。
新入生総代の選抜もまた例外ではなく、入学者選抜試験において最も得点の高かった者が
総代として入学式で抱負を読み上げることとなる」
「お父様は……静見にそれをさせようというのですか」
「そういうことだ」
「つまり、静見が総代となれなかったら……一番の成績を取れなかったら、
星鳳学院入学は取り消しということなのですね」
「それはそうだが……」
慎太郎は薄く笑って静見を見た。
「静見、やれるな?」
「やってみせましょう」
静見は表情を変えることなく、きっぱりと言い切った。

食事を終え部屋に戻る道すがら、冴は廊下で静見を呼び止めた。
「星鳳学院に入れてくれと、あなたがお父様に頼んだのかしら?」
「いいえ」
冴は敵意を剥き出しにした口調だったが、静見はいつも通りに全く動じることはない。
あくまで静かな声色で言った。
「慎太郎様から言ってこられたことよ」
「ふぅん……あなた、自分が本当に総代になれると思っていらっしゃるの?」
「そうなるつもりだけど」
「そう……大した自信なのねぇ……」
わずか二十名の名門の特進枠に応募する者達の質は、半端なものではない。
全国から選りすぐりの者達が集まってくるだろう。
その中で最も優れた成績を残すことがどれだけ困難なことか、想像に難くない。
しかし目の前の娘は、それを実現すると、臆することなく言ってのけたのだ。
(本当に気に食わない子……)
冴は拳を握った。
「まあいいわ。思い込むだけ思い込んでおきなさい。
最後には、あなたは生きる世界が違ったのだとわかるでしょうから」
言い捨てて冴は踵を返した。
部屋に戻ると冴はすぐに机につき、猛然と勉強を始めた。
「そうよ……要は、静見が一番を取れなければいいのよ……」
冴は、幸田静見が星鳳学院に入学するのを阻止するために、
自分に出来る限りのことをしてやろうと心に決めていた。
跡取りの地位のためなのか、静見に負けたくないからなのか、
あるいは慎太郎の思うとおりに事が進むのが嫌だからなのか。
自分がここまで必死になる理由が何なのか冴にはわからなかったが、
とにかくその日から冴はがむしゃらに勉強をした。
星鳳学院女子高等科の入学者選抜試験までの一月余り、
授業など受験には無駄だとばかりに学校を休んで勉強した。
心配した依子が部屋を訪ねてきたが、問題ありませんと一言言って追い払った。
そしてある日、ドアがノックされて振り向くと、部屋の入り口に慎太郎が立っていた。
「学校に行っていないそうだな」
「お父様……」
「依子が心配していたぞ。いったいどうしたんだ」
慎太郎が冴の部屋を訪れるのは実に数年ぶりだったので、冴は驚きながらその問いに答えた。
「星鳳学院の選抜試験のための勉強です。
学校の授業を受けるより、自分で本を読んで問題を解いた方が進度が速いですから」
「お前の今の学力なら、星鳳学院への入学が困難だということはないだろう」
「それは、私が朱鳥家の推薦枠を使っているからですわ、お父様」
冴は言った。
そして慎太郎の顔をじっと見た。
「使えるものを使うことは、悪いことではないだろう」
「私の誇りの問題ですわ」
「……あまり無理をするんじゃないぞ」
そう言い残して、慎太郎は部屋を出て行った。
後に残された冴は、悔しげに唇を噛んだ。
「無理はするな……ですって?」
慎太郎からの労いの言葉は、冴の心を燃え上がらせた。
それは怒りの感情だった。
慎太郎はあの食事の席で、静見にただ「やれるな?」とだけ聞いた。
そして今、自分には「無理をするな」と言った。
「お父様の中では、静見にはできても私には無理なことというわけですか……」
沸々と湧く怒りと憎しみに、冴は知らず声を出していた。
「絶対に……絶対に負けるものですか……!」
そして冴は寝る間を惜しんで勉強した。
自分こそが星鳳学院の新入生総代となるために。

師走はあっという間に過ぎ、新年に入り、
ついに星鳳学院女子高等科の入学者選抜試験の日がやってきた。
冴と静見は別々に朱鳥家を出て、別々に試験会場に入った。
午後の三時半には試験を終え、冴は帰路についた。
できる限りのことはやったつもりだった。
帰りの人ごみの中で、静見の顔を見ることができたが、
その表情からは試験の出来不出来を読み取ることはできなかった。
静見は後ろで一つに束ねた黒髪を揺らしながら、
澄ました顔でたくさんの受験生の間を縫うようにして歩いていた。
(あの子は、本当に一位を取れたと思っているのかしら……?)
冴は感触として九割以上を取ったと思っていた。
仮に自分が最高得点でなくても、今年の倍率は八倍を越えたと聞いている。
推薦入学者の枠を入れて数えてその倍率なので、
二十名の特進枠を奪い合う他の受験生達に限って言えば、実質五十倍以上ということになるだろう。
上位の得点については、極めて熾烈な争いになると予想できた。
「そうよ……あんな娘が……そこまでうまくいってたまるものですか」
気付いたら静見の姿は視界から消えていた。

試験結果は一週間後に届けられた。
冴の番号は当然ながら合格者の中に含まれていた。
そして、少し離れて静見の番号もしっかりと載っていた。
「おめでとう、冴」
合格の報を聞いて依子は手放しに喜び、お祝いをしようと言ったが、冴はそれを断った。
「お母様、お気持ちは嬉しいですが、お祝いはせずにおきましょう」
「あら……どうして?」
「……そういう気分ではないのです」
合格者の番号表と共に送られてきた、入学手続きの書類の入った封筒。
その中には、総代を任せる旨の書かれたものはなかった。
自分の力で静見の星鳳学院入学を阻止しようとしたその試みは、失敗に終わったのだ。
「私が駄目だったからといって、静見が一番の成績だったとは限らない……けど……」
不安だった。
この家の中にもう一つ同じ封筒が存在するはずなのだが、
それを受け取った当人に結果を尋ねることはできなかった。
依子も冴の不安を感じ取ったようで、二人は庭に面した洋間でお互い沈黙したまま時を過ごした。
日が沈んだ頃、仕事から帰った慎太郎が姿を現した。
「お父様……」
「合格したようだな。ひとまずおめでとう」
慎太郎の後ろには、静見がいつものようにひっそりと立っていた。
「今日はお祝いをすることにしようか。冴と静見、二人の合格祝いだ」
「え……」
冴が絶句する。
「静見ちゃんは……総代に選ばれたの?」
依子の問いに慎太郎が答えた。
「ああ。もう分家の奴らには書類の写しを送っておいた。これで連中も黙るだろう」
慎太郎は低く笑い、執事の皆川に祝いの準備を言いつけた。
皆川が居間の外に消え、家中があわただしく動き始める。
冴は顔面蒼白なままで立ち上がり、足取りもおぼつかない様子で部屋を出ようとした。
「冴、どこに行くの」
「お母様……先ほども言いましたが、私はお祝いなどしなくてもいいのです。
そういった気分ではありません」
「でも、せっかく慎太郎さんが……」
依子の言葉に冴は慎太郎を見た。
そして、軽く頭を下げた。
「すみません、お父様。私は遠慮させていただきます」
「そうか」
「……私は、入ることが決まっていた人間ですから……特にめでたいことでもないでしょうし」
そう言って冴は居間を出た。
廊下を歩いているうちに、不意に涙がこぼれそうになってしまった。
静見に負けたのだという思いが、彼女の涙腺をいつになく刺激した。
静見が総代となったことを告げた時の、慎太郎の嬉しそうな顔が思い起こされた。
自分に対しては「ひとまずおめでとう」と感慨も無く一言あったのみだった。
静見への憎しみ、慎太郎への憎しみ、そして敗れた自分への憎しみ――
負の感情が胸の内で暴れていた。
星鳳学院への進学という、唯一静見への優越を感じられる要素が完全に失われてしまった今、
冴を支えるのは朱鳥家の直系の血を引く唯一の娘であるという事実だった。
慎太郎と依子の実子であるという誇り。
しかしその誇りも、慎太郎の態度によって容易に揺らいでしまうものだった。
冴は涙をこらえるのに必死で、自室に戻るまでの廊下がいつも以上の長さに感じた。
「お父様……! どうして……!」
自室のベッドに倒れこみ、冴はむせび泣いた。
「そう……そうよ。やはりお父様は分家の末席の出だから、真に洗練された人間というものが
どういったものかわからないのよ。だからあんな娘に目をかけるんだわ……」
慎太郎を貶め、罵倒した。
慎太郎の生まれを、性格を、言動の全てを非難した。
「そうよ……あんな下賎の出の人間に何をどうされても、私が気にすることはないのよ。
そもそもにしてものの価値のわからない人間に品評されたからといって何だというの? 
私は朱鳥家の娘として、幼い頃からそれにふさわしい教育を受けてきたんですもの。
お父様が認めなくても、他の皆が私を優れた跡取りとして認めているわ。
だから、あんな人の言うことなんて……っ……」
冴は言葉に詰まり、また大粒の涙をこぼした。
慎太郎をどんなに悪く言っても胸の内が晴れることは無かった。
「憎い……お父様が憎い……あんな下賎な男は大嫌い……なのに……」
なぜこんなにも悲しいのだろう――
その日も自分の気持ちに解決を見ないまま、冴は泣き疲れて眠ってしまった。

二ヶ月後の四月七日、星鳳学院女子高等科の入学式の日、
静見は百五十名の生徒の代表として壇上に立ち、星鳳学院入学にあたっての抱負を読みあげた。
その姿は堂々としたもので、新入生もその保護者達も、会場の皆が大きな拍手を送った。
ただ一人、冴は俯いたままで、拍手を送ることは無かった。
入学式の後、依子が皆で写真を撮ろうと言った。
「一生に一度なんだから、記念に撮っておきましょうよ」
重厚な造りの校門を入ったところにある大きな桜の木の下で、慎太郎と依子が並んで立ち、
その両脇に静見と冴がそれぞれ立った。
「皆川、頼む」
皆川は心得たとばかりに、持ってきていたカメラを取り出した。
「冴、仏頂面だな」
皆川が撮影の準備をしている最中、慎太郎は依子の隣に立つ冴をちらと見て言った。
「は……?」
「こんな時ぐらい笑ってみせた方がいいと思うがな」
「はい……お父様」
返事はしたものの、笑うことはできなかった。
それを言うなら静見はどうなのだと思った。
静見は、新入生総代の栄誉を担った幸田静見という娘は、
それこそこんな時だというのにいつものように表情は無かった。
ただ当然のように星鳳の漆黒の制服に身を包み、慎太郎の隣に立っていた。
「……先日入試の得点が公開されたんだがな」
俯いたままの冴に、慎太郎がぽつりと言った。
「朱鳥冴は、特進枠を含めた順位は九位。推薦枠での入学者の中では、紛れもない一位だそうだ。
飛びぬけた成績だったと学院の者が驚いていたぞ」
「え……?」
「家の力だけで星鳳に入学するぼんくらどもとは格が違ったということだろう。……よくやったな」
冴は思わず顔を上げて、慎太郎を見てしまう。
その瞬間、準備を終えた皆川がシャッターを切った。
「皆様、良いお顔でしたよ」
皆川が笑顔で言った。

家に帰り、冴はまた自室でベッドに寝転がり、ぼんやりと考えていた。
「お父様……何を考えていらっしゃるのかしら」
確かにあの時、慎太郎は冴を褒め称えた。
あの時の言葉は飾りではない、本心からの言葉のように冴は感じた。
「私を邪険に思っているわけではないのかしら……?」
だとしたらなぜ、静見を自分よりも重く用いるのだろう。
なぜ、跡取りのみが入学することが慣例になっている星鳳に、静見を入学させたのだろう。
「これから……どうなるのかしら」
自分に成り代わるように朱鳥家に居座る静見はこの上なく憎い。
それは変わらないし、その静見に目をかける父親も、やはりどうしようもなく憎かった。
「でも……お父様……私を褒めてくれた……」
桜の木の下での会話を思い出し、冴の表情がふと緩んだ。
が、すぐに慌てて首を振った。
「いいえ、駄目よ。油断しては駄目。あの男が何を考えているのか、わからないんだから。
それこそ本当に朱鳥家をあの娘に奪われかねないのだし……」
胸の中に苛立ちが募っていき、何度も寝返りを打った。
「お父様……」
呟いて、冴は服の中に手を潜り込ませた。
そしていつものように、終わらない悩みの連鎖を断ち切るために、自らの性感帯に指を滑らせた。
「ん……」
体を丸め、下着の上から秘所を刺激する。
少しずつ、布に愛液が染み出してくるのがわかった。
「お父様……お父様のバカ……お父様のバカぁ…………ん……ぁあ……!」
次第に顔が上気し息が荒くなる。
冴は目を閉じて、自らの秘所を弄ぶことに没頭した。
「お父様……あぅ! んっ……! んんぅう……!」
父を罵りながらの自慰はいつしか父に呼びかけるだけに変わり、
やがて冴はベッドの上で背を反らして小さく震えた。
秘所から体全体に快楽がじわりと広がり、頭の中が真っ白になった。
その日冴は、生まれて初めて性の絶頂を味わった。

数日後、四人並んで撮った写真は現像され、小さな額に入れられたものが各々の部屋に飾られた。
写真の中で慎太郎と依子は寄り添うように立ち、穏やかに微笑んでいた。
静見はいつもの鋭い瞳でレンズを睨みつけるかのように見つめていた。
そして冴は、父である慎太郎を見つめ、微かに、本当に微かに、その頬を染めていたのである。

2007/12/14 To be continued.....

 

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