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狂王の宴

第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回    


管理人より
こちらの作品は、プロットとして投稿された「King's Mind(仮)」から派生した作品です。
本編をお読みになる前に「King's Mind(仮)」の第1回を読んでおくことを推奨します。
1

 軍が町に着いてから全てが終わるまで、それは永遠のように長く、あっという間の出来事だった。
文字通りの殺戮。圧倒的な虐殺。
逃げ惑う人々を殺し、命乞いする人々を殺し、死体を死体の上に高く積み上げ燃やした。
軍隊に入っていたとはいえ、戦場に出た事がない私は虐殺の恐怖に震えた。
圧倒的な狂気を前にして、体が前に進まない。
それでも自らの体を鼓舞して奮い立たせたのは、ティークに対する思いだった。

ティークの怒りと悲しみ。ティークの望み。

そして、ティークへの愛のため。

指揮を執ったのはティークだ。自らが先陣を切って町に入り、
目に映る全ての人間を斬り伏せていく様は、まるで殺戮を楽しんでいる様にしか見えなかった。
狂ったような笑みで惨劇を眺めるティークに、かつての優しい面影はすでに無い。

彼は誰だ?目の前で笑っている男は一体誰だ?

私が知っているティークがこのような事をするはずがない。

私が知っているティークはこんな顔で笑うはずがない。

私が知っているティークはこのような殺戮を望むはずがない。

私が愛しているティークは?

ティークの顔をした悪魔は残忍な笑みを浮かべて言う。

「この町は敵国の毒に侵されている。焼き尽さねば国に被害が及ぶ。そうだろう、ゼンメイ?」

私は震える足を抑えるように、跪くしかなかった。
町を轟火が焼き尽し、全てを灰塵にし終えたのは朝日が昇る頃だった。

 町の中心には、足を縄で縛られたスラルと、
両手足を縛られた男が兵士達に囲まれて捕えられている。
スラルの腕の中には、幼い赤子が泣き疲れて眠っている。
三人を囲む兵士の輪が、大きく開いた。
三人の前に現れたのは、二人の女性騎士を従えたティークだった。

ティークの目は暗く澱み、濁って光を透さない底無し沼のようだ。
スラルの瞳が大きく見開く。自分が裏切った男が目の前に現れたのだ。
兵士達の鎧と装備から、自分の国の兵士だということはスラルも気がついていた。
そして、ティークが目の前に現れた瞬間、
ティークがこの惨劇を起こしたことににスラルは気がついた。

「ティーク…何故このような事を!何故罪の無い人々と町にこのような事を!!」

赤子を強く抱き、スラルが罵るように叫んだ。

(お前がこの町に居たから町の皆が死んだのだ。お前のせいで罪の無い人々が犠牲になったのだ。
ティークにこんな事をさせたのはお前だ!)

私は叫び出してしまいそうな言葉を、喉元でグッと堪える。

しばらくの沈黙の後、ティークがゆっくりと口を開く。

「この町は猛毒に侵されていたんだよ。それよりもスラル、迎えに来たよ。
さあ、国に帰ろう。俺は慈悲深い。スラルの行った過ちならいくらでも目を瞑ろう」

ティークは濁った目で、優しくスラルに言った。
闇だ。ティークの眼はスラルを見てはいない。闇を見ているのだ。
私はティークの真意が読めなかった。何故こんな売女にそんな優しい言葉をかけるの?

(なんでその裏切り者に許すなんてことを言うの?)

(見たじゃない、そこにいる男と幸せそうに笑っている顔を。
見ているじゃない、そのスラルの腕の中の赤ん坊を)

私の中に暗い炎が灯る。この町を焼き尽した轟火が燃え移ったのかもしれない。

(言ってよティーク。その女の首を斬り落とせって。お願いだから命令して!)

祈るように胸元で拳を握り締める。剣の柄を握り、ティークの言葉を、命令を待つ。

「貴方を裏切った私の罪のせいで、この町は滅びました。貴方を裏切って彼と国から逃げ出した私が
国に戻る事はできません。この場で処刑してください。
…その代わり、どうか彼と娘の命だけは救ってください!」

スラルは涙を流し、自らの命と引き換えに、彼と娘の命を救うことを懇願した。

 

私はじっと命令を待つ。早く「スラルを殺せ」と命令してほしい。

ティークが無言でスラルを見つめていると、横で跪いていた男が声を上げた。

「王よ。スラルを連れ去り、裏切らせたのはこの私です。罪は私にあります。
処刑するならばどうか私を!ですが、どうか…どうかスラルと娘の命だけはお救いください!」

スラルが涙を流し、男と見つめあう。
二人の表情からは、愛し合う二人の強い絆のようなものが感じられた。
二人のその顔を見て、ティークの顔が大きく歪んだ。

私をその表情をよく知っている。例えようのない「怒り」と「憎しみ」が混じり合うと、
このような顔になるのだ。ティークと私は2年間も顔を歪ませて苦しんだ。許せるはずがない。

やがて、表情がなくなったティークの眼に、暗い光が灯る。全てを飲み込み、焼き尽し、
塗り潰すような暗い闇に、私の全身に鳥肌が立った。

「……っは、はっはっはっはっ…」

廃墟となった町に、抑揚のない声が響く。

その場にいる全ての者の視線がティークに注がれている。
ティークは震えるように肩を揺らし、何かを堪えるように下を向いた。

そして、

「ハッハッハッハッハッハッハッハッ!アッハッハッハッハッハッハッハッハ!」

ティークは体を大きく揺さぶりながら、天を仰ぎ見るかのように体をのけ反らせて笑いだした。
何がそこまでおかしいのか、目に涙を浮かべながら笑うティークに、
その場に居る者たちは声を発することもできないでいる。

スラルに裏切られ、そんなに悲しかったからか?

目の前で二人の愛を見せつけられた事が悲しくて笑っているのか?

哀れな自分がおかしくて笑っているのか?

その場に居る者は皆、固唾を呑んでティークを見守る。ひとしきり笑い終えたティークは、
「何を言ってるんだ?そんなに自分達が罪を犯したというのか?そんなに自ら罪人になりたいのか?
そんなに自分達がしてきた事が罪だというのか?…そんなに俺が哀れか?
……そんなに俺を侮辱したいのか?」

ティークは優しく、おぞましい声で二人に問いかけた。

目の前で捕えられている罪人に、我が子に諭すかのように優しく、
罪人を地獄に突き落とそうとする悪魔のように。その声は、今まで聞いたことのない声だった。
ティークの顔をした悪魔の声にしか聴こえなかった。
「そんなに死にたいか?ならば望みどおり殺してやろう。
俺は慈悲深いから、最も苦しむ方法で殺してやる。…ゼンメイ、赤子を取り上げろ」

ティークの一言に、私は耳を疑う。

「……えっ?」

ティークは今…なんて言った?

 最も苦しむ方法で?
  赤子を取り上げろ?

 それを私に命令した

意味が分からず、私はティークの顔を見ていると、ティークは動かない私に苛ついた顔で、

「何をしている?俺はお前に言ったのだ。二度も言わせるな」

ティークは氷のような冷たい声で言う。

ティークは暗い眼で、飲み込むように私を見据える。

その眼は、「従わなければお前の首を落とす。もう一度言わせても同じだ」と暗に物語っていた。
圧倒的な死の恐怖感に足がすくむ。
王の命令は絶対だ。例えどのような命令であっても従わなければならない。
例えそれが、王の過ちであっても。

私は我が子を抱きしめて離さないスラルの腕を、近くの兵士を使って離させた。
泣き叫ぶスラルの声に耳を塞ぎ、我が子を奪う悪魔の手先を睨む眼から顔を背け。

赤子は柔らかく、ミルクのような良い匂いがした。

母親の愛情は私には分からない。
捨て子だった私には母親の愛など知る由もない。私にはティークに対する愛情しかない。
スラルとは違う。偽りの愛などではないのだ。
ティークに対する愛は何があろうとも絶対に揺るがない。何があろうとも絶対だ。

ティークに赤子を差し出す。ティークはゴミを見るような
目で赤子を摘み上げると、残虐な笑顔で、

「まずはコレだ。よく見ておけ。お前達の大事なコイツから先に殺してやる。
罪人にふさわしい罰だ」

 ティークはそう言うと、赤子の顔が二人に見えるように持ち、腰に差した剣を抜いて――。

赤子の腹を貫いた。

 絶叫。悲鳴が聴こえた。

目の前には串刺しにされた赤子を持ち、高らかに笑うティークが立っている。
剣の先からは、赤子の腹から流れる血がポタポタと流れ落ちる。

兵士達は顔を背け、ホーネットは顔を真っ青にして立ち尽くしていた。

「嫌あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

「うあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

なおも二人の絶叫が廃墟となった町に木霊する。魂を業火の炎で焼き尽す、罪人の悲鳴が響き渡る。

ティークは二人の絶叫とその様子に満足した顔で、剣を赤子の腹
から引き抜く。

「罪人が煩いな…ゼンメイ、ホーネット、二人の口を塞げ。
舌を噛み切られては困る。余興はこれからだ」

狂っている――ティークは狂っている。

 猿轡をされた二人の目の前で残虐なショーが始まる。
赤子の四肢を切断し、腸を掻き出し、首を斬り落とす。

あまりの凄惨さに、殺戮を行った兵士達さえ目を塞ぎ、顔を背けた。
見ていた兵士達は次々と嘔吐した。もちろん私も、ホーネットも。

スラルは途中で気を失った。男は最後まで自分の子が肉塊に変わっていくのを見ていた。
ティークが言ったのだ。

「お前が最後まで見なければ、次はスラルだ」

ショーが終わり、赤子の首を持ってティークは男に言った。

「この赤子を残さず食べろ。そうすればスラルの命だけは助けてやる。
なに、食えるように調理はしてやる」

狂っている――ティークは狂っている。

「城に戻るぞ。国王も楽しみに待っている」

私とホーネットは震えながら、血生臭いティークの後ろを追って歩きだした。

狂王。ティークがそう呼ばれる日の始まりだった。

それからのティークの行為は見るに耐えがたいものだった。

男を地下深くに幽閉し、赤子を残さず食べさせた。男はだんだんと痩せ細っていった。

スラルはあの日のショックからか心を病み、声が出なくなった。
国王は嘆き、スラルを城の自室から出れないようにして療養させた。

国王は知らない。スラルがこの様になった原因がティークにあることを。スラルに赤子がいた事も。

スラルが発狂したのは、よく晴れた日の昼食の時だった。
悲鳴を聞いて部屋に飛び込むと、スラルはスープを床に溢して震えていた。
スープの溢れた床には、安物の指輪の挟まった指が落ちていた。

スラルに出されていた料理は、愛した男の肉だった。
発狂した数日後、スラルは舌を噛み切って死んだ。

ティークはスラルの遺体と一晩を共にした。スラルが死んでしばらくして、国王が病に倒れた。
毒による暗殺。城の一部の者しか知らない真実。

ティークは若くして国王になった。ティークに進言する者は居なくなった。
ティークの気に障る者は処刑された。

ある日、占い師が城に招かれてティークに言った。
「王よ。貴方は全てを滅ぼし、全てを手に入れるでしょう。
そして、自らが滅ぼしたものに滅ぼされるでしょう」

ティークは占い師の予言を笑い、その場で首を斬り落とした。

ティークが他国を侵略し、国を強大にしていくのに3年が過ぎた。今では3つの国を滅ぼした王だ。

私とホーネット以外、誰もティークに近づかなくなった。近づく女は私とホーネットで始末している。
狂王の側には二人の魔女がいると、国の内外で囁かれている。

私のティークに対する愛は変わらない。むしろ強く増しているくらいだ。私の愛は揺らぐ事はない。
残る邪魔者はホーネットだけだ。ホーネットは手強いが、いずれ始末できるだろう。
やり方はいくらでもある。

ホーネットさえ居なくなれば、ティークは私だけしか居なくなる。
そうなれば、ティークは私だけを見てくれる。

例えティークが私を見なくても、私だけが見続けられる……。

私だけが側に居続けるわ、ティーク…。

 

そういえば先日、次の侵略を予定していた国の王女がティークに謁見しに来た。
あの女のティークを見る目は危険だわ。ホーネットよりも先に始末しよう…。。

2

――王の命には逆らうな。首と胴を斬り離されるぞ。

――王の側には近づくな。二人の魔女に喰い殺されるぞ。

――王の逆鱗に決して触れるな。一族全てが滅ぼされるぞ。

――狂王ティークに逆らうな。死にたくなければ王の足元に跪け。

 国中で囁かれる畏怖の言葉。知らない者はいない。

 王が通る道には血の道が出来上がる。王が通った後には死体の山が出来上がる。
王が通る道には首が並ぶ。王の行く先には滅びが待っている。

 狂王ティークは他国を侵略する。たった三年で三つの国を滅ぼした。
略奪し、燃やし尽し、殺し尽す。

 三つの国を滅ぼしてからは、4つの国が無抵抗で平伏した。狂王に恐怖し、4人の王が跪いた。

 狂王ティークの名は、今や絶対的な恐怖の象徴になっている。

 ティークが王になってから、弱小国だった小さな属国はたった数年で巨大な強国に変貌した。

 土地の荒れた国も今では豊かになり、人口は増え、領土は今も拡がり続けている。

 国は活気に満ち溢れ、貧民や浮浪者、罪を犯す犯罪者も激減した。
民は安心した暮らしを得る事ができるようになった。

 国に来た者達は口を揃えてこう言う。

「とても狂王と呼ばれる王が治める国とは思えない」

 愚かな民衆は増え続ける。豊かな暮らしを求めてこの国にやって来る。

 愚かな民衆でも知っている。王が暴君ではないことを。
この国には圧政も重税も存在しない。王は民に慈愛を与える賢王だと知っている。

 ティーク王は自分を慕う者には寛大だ。自国の民には慈愛に溢れている。
その代わり、裏切り者だけは許さない。自分を裏切るような行為を許さない。
逆らう者には容赦しない。王を裏切ろうとする者は一人もいない。

 ティークは王妃を求めない。妻になろうという者もいない。
政略結婚を狙い、自分の娘を差し出そうとした王を見下してティークは言った。

「そのような貢ぎ物で俺に取り入ろうとは見下されたものだ。貴様は俺を侮辱するつもりか?
俺に心無い者を妻にして俺が喜ぶとでも思ったのか!!」

 ティークに罵られた王はその場で跪き、泣きながら許しを乞うた。
王の逆鱗に触れ、国が滅ぼされるかも知れない。
王はティークの許しを得るまでの3日間で、髪を恐怖で白髪に変えた。

 ティークは国の名前を変えた。

 スラル国――かつて愛した者の名前。呪われた名前。ティークの心を蝕み続ける悪魔の名前。

「――貴様はそんなに死にたいか?」

 王がこの言葉を口にした時、言われた者には二つの運命が待っている。

 生か――死だ。

「俺は慈悲深い――」

 王がこの言葉を口にした時、言われた者に残された運命は死だ。決して覆る事のない死の言葉。
王の目の前には、きらびやかな純白のドレスに身を包んだ女が立っている。

 辺境の小さな国の王女――侵略される予定の国の王女は、
小さく震えながらも、目の前の王の視線を真っ向から受け止めている。

 王女は自らに訪れるであろう死を受け止め、享受しているのだろうか?

 王女は自らの命だけに収まらず、自分の国に訪れるであろう運命に気づいているのだろうか?

 謁見の間には、緊張と殺気が立ち込めている。
巨人に踏み潰されるかのような重圧――下臣達は、
目の前の美しい王女に訪れるであろう運命を悟り、王の言葉を、身を固めながら見守っている。

 やがて――。

「――お前の暴言、許してやる」

 誰もが予想だにしなかった言葉。その場に居る者達は全員が驚き、王の言葉に我が耳を疑った。

「気に入った。この俺に対し、そこまで言える者は久しく見なかったぞ。王女よ、お前を歓迎しよう。
心ゆくまでこの城に残るが良い」

「ありがとうございます、ティーク王。やはり貴方は偉大な賢王です。慈悲深く、慈愛に満ちている。
寛大な心遣い、感謝致します」

 王女は顔を綻ばせ、ドレスのスカートを摘みながら、恭しく頭を下げた。
その姿は見る者全ての目を奪うような気品に満ち溢れていた。

 広間には先程までの重苦しい雰囲気はなくなり、下臣達は安堵の表情を浮かべている。
王女の周りに立ち込めていた殺気は既に消えていた。
広間には、王直属の騎士達が剣の柄に手を当て、王の命を待っていたのだ。

 しかし、広間にはまだ二つの殺気が残っていた。

 王の両隣に立つ二人の女性騎士。王が最も信頼する側近中の側近――
王の「剣」と「盾」と呼ばれる二人が、未だ王女に向かって殺気を放っていた。

「もう良い、ゼンメイ、ホーネット。俺が許すと言ったのだ。いつまでそうしているつもりだ?」

 二人は王に言われ、ようやく殺気を消す。

「はい…」

「…申し訳ございません」

二人の顔は王に気付かれてはいないが、苦虫を噛み潰したような表情で王女を睨み続けていた。
王の目の前に立つ王女は二人の顔を見て、不思議な笑みを浮かべた。

――忌まわしい、あの女の顔が二人の脳裏にちらついた。

 

「一体どういう事ですか王!? あのような者の言葉を許すなんて!」

「王に対する侮辱です! それに、あの王女の暴言を許されては王の威厳に傷がつきます!」

 王室内に二人の女性の声が響き渡る。
二人の声は問い詰めるような口調で廊下にまで聞こえる大きさだった。

「二人とも落ち着け。そんなに怒るとシワが増えるぞ?」

「まだシワなんてありません!!」

「王っ!!」

 ティークの一言に二人の声は怒声に変わる。二人の触れてはいけない何かに障ったのか、
怒声は先程の声よりも大きく、ティークの鼓膜と室内を揺さぶった。

 ティークの部屋は、大国の王にしては飾り気のない広いだけの部屋だ。
調度品が少しと大きな机に本棚が一つ。
テーブルに椅子、寝心地の良さそうな大きいベッドがあるだけで、
部屋が広いと言っても大して広くはない。とても大国の王の部屋とは思えない空間だ。

 ティークの前には、顔を真っ赤にして怒っている二人の女性騎士が並んで立っている。
狂王と呼ばれる王に対して、面と向かって怒鳴る二人の姿は下臣が見れば卒倒するであろう光景だ。

 狂王――匙加減を一つ間違えただけで首が飛び、国が滅びる恐怖の王。
その王を相手にここまで無礼とも言える振る舞いが許されるのは、この二人をおいて他にいない。

「面白い女ではないか。この俺に臆することなくあそこまで言ってのけたのだ。
あれほどの度胸がある者は我が国の騎士はおろか、国王達でもそうはいないぞ?」

 ティークが他の下臣達には見せることのない顔で二人に笑う。
まるで、新しい玩具を見つけた子供のような笑みを浮かべるティークに
二人の女性騎士は気勢を削がれてしまった。

「ただ殺すだけならいくらでもできる。何時でもな。だがよく考えてみろ?
たかだか辺境の王女の首を気に入らぬと斬れば、俺の威厳が損なわれる。
慈悲の無い王だと下臣の反感も受けるであろう? それに、言っただろう――俺は慈悲深いと」

 

 嘘だ――ゼンメイはティークの言葉が嘘である事を知りながら、反論することが出来なかった。

 真意はどうであれ、王であるティークがこう言っているのだ。
ティークは一度口にした言葉を覆らせるような事はしない。
王は自分が決めた事を覆らせるような事は決してしないのだ。

――気に入った。

 ティークが王女に言った一言を思い出し、ゼンメイの胸の奥に暗い嫉妬の炎が灯る。

(あのような辺境の国の王女如きが口にされて良いはずがない!
あのような売女がティークに気に入られて良いはずがない……!!)

 暗い炎が揺らぎ、胸の奥を焦がしていく。

「…分かりました。王の決定に逆らうようなことを口にしてしまい、申し訳ありません」

 沸き上がる怒りの炎を飲み込み、ゼンメイは頭が下げる。

「ですが、王女が王に無礼を口にした事に変わりはありません。
このまま放っておけば、後々王に不愉快な事を口にするかもしれません。
後で私から王女に一言申し上げてもよろしいでしょうか?」

 ゼンメイの横に立っているホーネットが、一歩前に出てティークに言う。

「…二人は余程あの王女が気に入らんのだな。だが止めておけ。
あの王女は言ったところで聞かんだろうよ。それに、王女はあのままの方が面白い」

「…そうですか、分かりました」

 ホーネットはそう言って頭を下げた。
悔しそうに歯を食いしばり、それをティークに見られないために。

 ティークはやれやれと溜め息を吐く。この二人は普段は忠実に自分に従うが、
女性の相手が現れるといつもこの様になる。ティークは時々この二人が恐ろしくなる。
狂王とて恐れるものが存在するのだ。いつかこの二人に殺されるのではないか――と。

 

「今夜は宴を開く。二人はそれまでゆっくり休め」

 宴――パーティーをあまり好まないティークが珍しく開くと聞いた時、
ティークをよく知るゼンメイとホーネットは驚いた。

(――まさかあの王女のために開くのか?)

 

 

 あの王女が来てからはティークの様子が変わった。
今までとは違うティークの王女への対応――小さな疑心が二人の胸に重く圧しかかる。

「そうそう、二人は宴にドレスで出ろ。宴の場に鎧は場違いだからな」

 ティークのその一言に、二人は驚きの表情を浮かべる。

「私達も…出てよろしいのでしょうか?」

「ですが、私達には王の護衛という役割が…」

 それまでの態度とは一変し、二人がおずおずと口を開く。

「何を言っている。俺の側に居なければ護衛も出来ないだろう?
美味い物も好きなだけ食える。二人は俺の側を離れるなよ」

 ティークは照れくさそうに笑みを浮かべ、少し顔を赤くして言った。

 狂王と呼ばれる者には似つかわしくない顔――二人だけに見せる素顔。

 ティークのその言葉に、その笑顔に、二人は涙を流してしまいそうになるほどの喜びを感じ、

「「ハイ!」」

 声を揃えて笑顔で答えた。

3

 ティーク王との謁見が終わり、アリアが通された来賓用の部屋は目を疑うほどの豪華さだった。

 招かれた部屋は、自分の国の自室に比べると倍以上あるのではなかろうか。

 壁は豪華な装飾品で埋め尽され、調度品はみたこともない高価そうな物ばかりだ。
アリアも一国の王女の身分ではあるが、あまりの格の違いに自分がみすぼらしく感じ、
王女であることさえ忘れてしまいそうになる。

 この部屋にある物だけでどれほどの価値があるのか――アリアは想像するだけで目が眩んだ。

 しかし、この部屋にある物は何処から手に入れた?

 過去に来た時にはこのような部屋は存在しなかった。

 答え――決まっている。他国を侵略し、奪った物だ。こ
こに在る物は全て他国を滅ぼしてまで手に入れた物だ。

 アリアはこの部屋に、滅ぼされた国の者達の怨念が渦巻いているような錯覚にとらわれ、
無数の亡霊の目に見られているような感覚がして身震いした。

 ティーク王はこう言った。

「来賓用の部屋は物置のように感じるかもしれない。気に入らないなら別の部屋を用意しよう。
お前は大事な客だ、不満があるならいくらでも言ってこい」

(――あの時の言葉はこの事か。与える部屋を物置とは変に聞こえたけど、よく言ったものね)

 アリアにしてみればとんでもない話だ。不満など言えるはずがない。
このような豪華な部屋を与えられたのは、自分が歓迎されて、
丁重に招かれているなによりの証拠なのだ。そんなことが分からないほど愚かではない。

 だが――それでも自分には似合わない。自分には相応しくないのだ。
この部屋は私にはもったいなさ過ぎて怖くなる。

(でも、この部屋を代えてもらうよう頼めば王の歓迎に泥を塗るような真似になる…)

 それだけはしたくない。
自分の暴言を許し、そればかりか歓迎してくれた王の心遣いに背くような事は出来ない。

 アリアは豪華な装飾の施された椅子におずおずと座り小さく溜め息を吐くと、
王と初めて会った時の事を思い出す。再び会うことができたティークの顔を思い出すと、
それだけで胸の奥がじんわりと暖かいもので満たされていくのを感じた。

 昔に比べると精悍で凛々しい顔になっていた。王の威厳に満ちた顔は神々しく思えた。

(あの方は立派な王に変わった。でも、心はきっと昔と変わっていない。きっと変わっていないわ)

(自分を本当に忘れていたっていい。きっと思い出してくれる)

 

 アリアは過去に一度だけ、ティークに会いに来た事がある。
ティークがスラルと結婚し、王に即位してからしばらくが経った頃だ。

 初めて謁見した時のティークは目の下にクマをつくり、疲れた様な顔をしていた。
若き新王は威厳も風格も感じない、人の良さそうなだけの顔色の悪い青年にしか見えなかった。

 聞けば婿養子に来た貴族の長男――純粋な王族の血筋ではない。
しかも王女は結婚して間もなく、どこぞの馬の骨とも分からない男と駆け落ちをしてしまったと聞く。
結婚早々に妻に逃げられた婿養子は、ただの情けない男にしか見えない。

 だからだろうか――それだからか、己の身分を驕る事なく下臣に接し、
慣れない執務に励むティークは誰よりも、父よりも王に相応しい何かを持っているように感じた。

――血筋ではない。威厳や気品、王の風格は確かに必要だが、
それよりも必要なのは「国と民を思う心」なのだ。

 アリアは心の何処かでティークを軽蔑し、見下していた自分の心を恥じた。
そして、いつの間にかティークに強く惹かれている自分に気がついた。

 滞在してしばらくが経ったある日、ティークに誘われて、ある所に連れて行ってもらった。

 一面が花で囲まれた庭園――色とりどりの花で埋め尽された庭園は、
アリアを歓迎するかの様に花が咲き誇っていた。

「どうです? 素晴らしいでしょう。この庭園はスラルが一番好きな場所なんです。
ここに来て花を見るスラルは本当に幸せそうな顔で笑うんです。
ですから、いつ帰ってきても良いようにこの庭園は手入れを欠かさないようにしているんですよ」

 寂しそうに笑いながら、ティークは一輪の花を摘み取り、アリアに渡してくれた。

「ああ、アリア姫には白い薔薇が良く似合います。もっと沢山差し上げたいのですが…
あまり摘み取るとスラルが帰ってきた時に見たら悲しみますから……」

 今にも崩れ落ちてしまいそうなティークのその姿に、アリアは何も言う事ができなかった。

(――こんなにも優しい彼を捨ててまで消えたスラル王女は何を考えているの?)

(―――こんなにも自分のことを思ってくれている彼を捨ててまで
他の男の元に行ったスラル王女はどんな人なの?)

(――――こんなにも愛してくれている彼を裏切ったスラル王女は何をしているの?)

(―――――こんなにもティーク様を傷つけてスラルは自分だけ幸せでいるの?)

 アリアはまだ見たことのないスラルに嫉妬した。
ティークに深く愛されているスラルを憎みさえした。

 アリアが国に帰る日、ティークはアリアに言った。

「また来てくれる日を心よりお待ちしております。
その時は…スラルとあの庭園と共に、心より歓迎します」

 アリアは再びこの国に訪れる事をティークに誓った。初めての約束――神聖な誓い。
スラルの名前を口に出されたときに胸が痛んだ。スラルなんて戻ってこなければいい――。

 それから2年が過ぎ、スラルが見つかり、城に戻ってしばらくして亡くなったと聞いた。

 それからの3年間は信じられない話ばかり聞いた。
信じられない話しか聞いていない。耳を塞いでも聞こえてくる話。

 あのティーク王が狂った。他国を侵略し始めた。他国を一人残らず滅ぼした。

 狂王――あの優しいティークを知るアリアには想像も出来ない悪名。

 噂は噂ではなかった。数えきれない逸話。全てが真実だった。
聞けば聞く程信じられない話は、止まる事を知らない。

 アリアの城に手紙が届いた。差出人は狂王ティーク。手紙の内容は簡潔で短かった。

〈我が国の支配下になれ。断れば国を滅ぼす。服従か死かを選べ〉

 視界が真っ暗になり、頭の中が真っ白になった。
信じられない話は現実となり、恐怖となってアリアの元に届いた。

 手紙が届いた翌日、アリアは父である国王に言った。

「私がティーク王に会いに行きます。あの方ならきっと分かってくれるはずです」

 必死で止める国王を説得し、アリアは護衛と共に城を出た。向かう先はスラル国。
死んだ王女の名前の国。心とは裏腹に、アリアの顔には笑みが浮かんでいた。

(あの方に再び会える。あの日の約束を果たせる!)

 一刻も早く辿り着けるように馬車を走らせる。

 あの日の約束を果たすために――あの日の誓いを守るために。

 5年ぶりに訪れた国は大きく様変わりしていた。
昔の面影など何処にもない。小さかった国は倍近くも大きくなっていた。

 荒れていた土地は整備され、今は豊かな緑に溢れている。町の中は人々で溢れかえっていた。
行商人が町を行き交い、露店商が並び、その前に客が集まっている。町は大勢の人々で賑わっていた。

 小さな子供が笑顔で走り回り、健康そうな大人達が仕事に励み、
老人達は幸せそうな顔をして会話を楽しんでいる。
とても狂王と呼ばれる国王が治めている国とは思えない。

たった5年――それだけの期間でティークは国をここまで繁栄させたのだ。
目の前の現実を見ても信じられない光景だった。

 たった数年でここまで国を繁栄させる事は並大抵の労力ではない――並大抵の王には出来ない。
天性の王の資質――国を繁栄させようとする強い意思と、
国の民を幸せにしようとする思いがなければ不可能だ。

 人々の顔からは狂王に対する恐怖を感じない。
それどころか、絶大な信頼を寄せられている事が人々に聞いて分かった。

「狂王? 何を言ってるんだ、あの方は賢王だよ。
この国で王のことを悪く言う奴はどこにもいないよ。間違っても狂王なんて軽々しく口にするなよ?
聞いたら町の皆が許さないからな」

「ティーク国王は素晴らしい方だよ。
あの方が国王になってからは見違えるように国が良くなったのが何よりの証拠だよ」

「そりゃあ他国を侵略するけどさ、そのおかげでみんな裕福になってるんじゃない」

「あの方ほど国民を大事にする国王様は他にはいないよ。ほら、そこの大きな建物があるだろ?
あれは親がいない子供達が安心して裕福に暮らせるようにって国王様が建てたんだ。
もちろんあそこだけじゃない。この国にはそんな施設がいくつもあるんだ」

 聞く人間は年齢も性別も問わず、国王を褒め称える。
国王に目を細めて感謝し、賛辞の言葉を贈る。国王を自慢する者さえいた。

 下臣が町で話を聞いてきた内容を聞き、アリアは驚きながらも喜んだ。

(やっぱりティーク様は変わってなんかいない。あの方は以前と変わらず優しい方のままだ)

 それでも疑問は残る。その疑問がトゲのようにアリアの胸に刺さり、頭を苛む。

――何故、ティーク様は侵略する必要のない国まで支配下に治めようとするのだろう?

 自分の国――リスト国は辺境の小さな国だ。
山と緑に囲まれた小さな国。貧しくはないが、決して裕福という事もない。
王女と言っても、大きな国の大貴族と比べればどちらが格上か分かったものじゃない。

特別なものは何もないし、侵略するメリットなど何も思い浮かばない。
領土を拡大させる事が目的だとしても、大した意味が無いのは明らかだ。
国交を結んで長い年月も経っている。親しい付き合いをしていたそんな国を何故侵略するのだろうか。

 思い返せば、ティークが侵略した国の一つで、国土が荒れ果て、他国と交流もなく、
何もしなくてもいずれ滅びるだろうという国があったのを聞いた。
ティークがどんな目的でその国を支配下に置いたのか全く検討もつかない。

(分からない…ティーク様は一体何を考えてまでそこまでするの?)

 小さいトゲが胸を苛む。痛みが波紋となって全身に広がり、疑問が頭を締め付ける。

(ティーク様に会って話せば分かってくれるはずよ。理由なくするはずがないわ。
そう、理由だって聞けば教えてくれるはずよ)

 アリアは期待と不安を胸に秘め、王が待つ城に向かって足を進める。
未だ恋焦がれるティークに謁見するために。あの日の約束を果たすために――。

4

「よく来た、リスト国の王女よ」

 謁見の間には大勢の下臣達が向き合うように並んで立っている。
アリアの目の前には五年ぶりに見る懐かしい顔が微笑みながら王座に座っていた。
ティークは5年前に比べると、逞しく精悍な顔つきになっていた。
大国の王の威厳と風格を持ち、ただそこに居るだけで圧倒的な存在感を放っている。

「このたびは再び会うことができて光栄です。
ティーク王…この日が来ることをずっと願っていました」

 また会うこと――ずっと願い続けていたことが叶い、
アリアは涙が溢れだしてしまいそうになるのを必死で堪える。
白い薔薇を見るたびにティークのことを思い出していた。
ティークの顔を忘れてしまわないように、たくさんの白い薔薇を育てた。
城の庭園は真っ白な薔薇で埋め尽されている。
5年間――アリアにとってこの年月は永遠のように長く感じた。それが今報われたのだ。
再会できた喜びを伝えようとアリアが口を開いたそのとき、

「再び…? 何を言っている。俺は王女と以前に会った事があるか?」

「…え?」

 ティークの一言でアリアの胸の奥に亀裂が入る。
予想だにしなかったティークの言葉に、頭の中が真っ白に染まった。

「……覚えて…ないのですか?」

「覚えているもなにも、俺とアリア王女は今日が初対面のはずだ」

 嘘だと言ってほしい。全身から力が抜けていき、
目の前にいるはずのティークがとても遠くに感じた。
ついさっきまでの喜びが絶望に変わり、自分が夢の中にいるのではないかと錯覚した。
これが夢であればいいのにと強く願った。

(ティーク様にとって私は簡単に忘れてしまうほどの小さな存在だったの?
それほど価値の無い、どうでもいい存在だったの?)

 胸の中の言葉を声に出して言いたい。本当に忘れているのかどうか聞きたい。
でも、ティークの口から出る言葉が怖くて聞けない。
本当に覚えてないと言われたら、今度こそ心が砕けてしまう。

「それよりも、今日ここに来たということは手紙の返事が決まっての事だろう?
なにも世間話をしに来たわけではあるまい」

 アリアのことなどまるでどうでもいいかのようにティークは会話を進める。
だが、その言葉でアリアは本来の目的を思い出す。

(……そうだ。何のために私はここに来たのだ。
本来の目的は王に侵略を考え直してもらうために来たのだ。国の未来が私の手に委ねられている。
目的を忘れるな――私の心など国の存亡の前には塵にも等しい)

 自分の言葉一つで目の前の王の気分を害するかもしれない。
自分の言葉一つで国が滅ぼされるかもしれない。自分の言葉一つで――。
アリアは大きく息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。

「私の国、リストは小さな国です。争いを好まず平和を望み、これまで暮らしてきました。
国は貧しくはありませんが、決して裕福とも言えません。
自然に囲まれているだけの小さな国です。王がこれまで侵略してきた国々に比べると、
進呈して差し上げるものも少なく、王を満足させることができませんでしょう」

「…それで? だからなんだ?」

 謁見の間に沈黙が立ち込める。ティークの表情からは何も読み取る事ができない。
アリアはティークの目を見つめ、謁見の間に居る全ての者達に聞こえるように言う。

「リスト国への侵略をお止めください」

 謁見の間がざわめくと同時に、周囲から無数の殺気がアリアに向けられる。
王の一言があればいつでも動けるように、騎士達が剣の柄に手を添える。
ティークは表情を変えず右手を軽く挙げ、全ての下臣達を制止させる。

「その言葉の意味、分かって言っているんだな?」

 氷のように冷たい声でティークが言う。
一欠片の慈悲すら感じさせないその声に、アリアの体が恐怖ですくんだ。
しかし、このまま引き下がることはできない。アリアは意を決して口を開く。

「――国王の数々の非道の行いを星の数ほど聞いてきました。
ティーク王は殺戮を好み、敵対する国の破滅を望み、敵国から全てを奪う狂王だと聞いています」

 空気が凍りつく。下臣達は青ざめて、騎士達の殺気が一層強まる。
そして、王の表情に変化が起きた。

――ティークは笑っていた。嬉しそうに。悪魔が舌なめずりをするかのように。

「何が言いたい?」

「私は、王が血も涙もない方になってしまわれたのが信じられませんでした。
どうしてそこまで変わられてしまったのかと思い、それを確かめたくて私はここに来たのです。
ですがこの国に来て、自分の考えが杞憂である事が分かりました」

 謁見の間が再びざわめく。下臣達はアリアが何を言いたいのか分からずに困惑していた。

「お前達、少し黙れ。次に王女以外が囀ったら首を斬り落とす」

 ティークのその一言で、謁見の間に一瞬にして緊張が張りつめる。

「…続けろ」

「私はこの国の町と民を見てきました。
国民は活気に満ち溢れ豊かな暮らしに満足し、喜びに満ちていました。
国民は皆国王を褒め称え、感謝していました。無慈悲な王が民に慕われることなどありえません。
王の他国への侵略は国の繁栄のため、国の民を思っての事でしょう。
ならば、無意味な侵略を止め、他の国々と手を取り合うべきです。
聡明な貴方様なら分かっているはずです」

 ティークは黙ったまま、アリアの目をじっと見つめながら聞いている。
すでにさっきまでの笑みは消えている。

「俺の非道を聞いたと言ったな? 俺は侵略する国を滅ぼす――言葉通りの意味で、だ。
これは何故だと思う?」

 ティークからの質問。答えを間違えれば待ち受けるのは破滅――。

「確かに王は敵国を滅ぼします。けれど残虐な行為を示しそれを広めれば、
他国は怯えて争う事なく降伏します。
まだ争わない国も、そう易々と攻めてこようとは思わないでしょう」

「他国と手を取り合ってどうする?
俺の噂は遠い他国まで広まっているのに、どこの国が親交を望むと思うんだ?」

「王がそれを望めばきっと叶います。言葉を交わし、仲が深まれば他国の王も
ティーク王のことを理解してくれるはずです。
私は――リスト国はこれからも、これまで以上に親交を深めていきたいと思っています」

 ティークは面白いものを見るような目でアリアを見ながら笑うと、
今度はイジワルを思いついた子供のような顔になった。

「そうか。では俺が軽々しく下臣の首を斬り落とすという話を聞いてどう思う?
教えてくれないか?」

 この質問は無意味だ。なぜこんな無意味で悪質な質問をするの? 自分は試されているの?
ティーク様が望む答えは分かっている。だけど、それを言っていいの? それでいいの?

 思考が幾重にも重なっては消え、まるで迷宮に迷い込んでしまったようだ。
ティークは目を細め、楽しそうにアリアの顔を眺めながら答えを待っている。

 これに答えなんかない。意味の無い質問には答えなんてないんだ。
これが正しいのかは分からない――だが、私は答えなければいけない。
言わなくてはならないことをいうだけだ。
全ては国とティークのために――。

 アリアは覚悟を決め、静かに口を開いた。

「…ティーク様、私も貴方に聞きたいことがあります。
何故貴方はそれほど自らを侮辱させたいのですか? 何故貴方は全てを敵に回したいのですか?
無意味な侵略は大国の王のすることではありません。今の貴方は間違っています!」

 アリアの言葉を聞き、ティークの表情が変わる。
謁見の間は静寂に包まれ、自分の心臓の鼓動だけが大きく聞こえる。

「――ティーク王を侮辱するような事を口にしてしまい申し訳ありません。
ティーク王、お望みならば私の首を差し上げます。ですから、どうか私の進言に耳を傾けてください」

 アリアはそう言うと目を瞑り、首を差し出すように頭を下げた。
その姿を見てティークは王座から立ち上がり、重く低い声を響かせる。

「――貴様はそんなに死にたいか?」

 ティーク以外、もうこの場には誰一人として声を出す者はいない。
アリアは暗闇の中、若き頃のティークを見つめる。
誠実で人の良さそうな、顔色のあまり良くない青年。
永遠にも感じる沈黙の中、アリアは庭園の白い薔薇を思い出していた。
一輪だけくれた綺麗な薔薇。
アリアによく似合うと言ってくれたティークの笑顔は今も鮮明に記憶に残っている。

(許して…くれないですよね。ティーク様と一緒に、もう一度見たかったなぁ…)

 どうしてもっと上手く話せなかったんだろう?
どうしてこれほどまで変わられてしまったんだろう?
これから私の国はどうなるんだろう?
どうしてティーク様は私のことを忘れてしまったんだろう――?

 数々の疑問が頭の中を駆け巡る。
本当に自分のことを忘れているのか――それが一番知りたかった。
アリアは顔を上げ、ティークの顔を見る。死ぬ前にティークの顔を目に焼き付けるために。
見上げたティークの表情は優しさに満ち溢れ、まるで昔見た時のままのように見えた。

(ああ、やっぱりティーク様は変わっていない…。もう許されなくてもいい――)

 でも、もし許してくれるのなら――最高の笑顔で応えよう。そして―――。

 そして、王の声が聞こえた。

5

 謁見のときの事を思い出していると、今まで抑えていた感情が洪水のように溢れだしてきた。
心臓が早鐘を打ち、喜びが全身を駆け巡る。
顔が赤くなっているのが鏡を見なくても分かるくらいに熱い。
踊りだしてしまいたい衝動を抑えるために、
部屋の中をグルグルと歩き回るがそれでもまだおさまらない。
ひたすら何周も歩き回りようやく疲れ、ベッドの上に倒れこんで大きく深呼吸をする。
私は柔らかいベッドに体を沈ませながら、目を瞑ってティーク様のことを再び思い出す。

 本来ならば、私はあの場で殺されていた。
殺されて当然のことを、それだけ酷い暴言をティーク様に言ったのだ。
それをティーク様は寛大な心で許してくれた。
そればかりか歓迎するとまで言ってくれた。パーティーまで開いてくれる。
こんなに幸せなのは初めてだ!

(きっと私の気持ちが通じたんだわ! 私は間違ってなかったんだ!!)

 ティーク様の顔を思い出すだけで胸の中が熱くなる。
5年ぶりに会ったティーク様は以前よりもずっと立派になっていた。
王の威厳と風格を兼ね備え、寛大な心を持っていた。
狂王なんて呼ばれているが、国と民のことを誰よりも考えていた。
以前の優しいティーク様のままだった。これほど嬉しいことはない。

 だが、あることを思い出すと胸の中の熱が急速に冷めていく。
目を開いて体を起こすと、無意識に深く溜め息がこぼれた。
それと同時に、さっきまでの喜びが嘘のように消えていく。
まるで喜びを溜め息と一緒に吐き出してしまったみたいだ。

 ティーク様は私の事を覚えていなかった。たった5年前のことなのにだ。
忘れていたのだ。私の事も約束も、まるで何も無かったように。
それがどうしようもなく悲しかった。
それが真実かどうかは分からない。本当は忘れていないのかもしれない。
侵略する側として、情を持ちたくなかったから隠していたのたもしれない。
大国の王として、小国の王女との立場を考えてのことなのかもしれない。
本当のことはティーク様しか知らないのだ。

 本当に覚えていないのなら仕方ない。身が引き裂かれるほど悲しいことだけど仕方ないことだ。
3年前にスラル王女が亡くなってからティーク様は心が病んでしまったと噂では聞いている。
その後のティーク様は人が変わったように侵略を始めたことを考えると、
心が病んでしまったという噂は本当なのだろう。
最愛の人が亡くなったのだ。スラル王女を深く愛していたことを私は痛いほど知っている。
自分が忘れられていた悲しみがティーク様の悲しみよりいかに小さいか考えると、
忘れられていたことも仕方ないと思えてしまう。

(忘れられたのならば思い出してもらえばいい。
思い出してくれなくても、新しく私のことを覚えていってもらえばいいんだ)

 そう思うと、さっきまで沈んでいた心もだんだんと晴れやかになってきた。

 そういえばティーク様は国の名前を変えられた。
国の名前をスラル王女の名前にしたのは、やはりまだ愛しているからなのだろうか?
ティーク様はスラル王女が亡くなってから新しい后を迎えいれようとしない。
それを考えると、ティーク様はやはりまだスラル王女のことを愛しているのかもしれない。

――忌々しい!! ティーク様を裏切って他の男の元に行きながら、それでも愛されているなんて!
死んでまでティーク様の心を縛りつけているなんて許せない。
ティーク様に愛される資格なんてない!
死んで当然だ。報いなのだ。売女の分際でティーク様を裏切った罰だ! 王女の資格すらない!!
私がスラルだったらとどれだけ思ったことか…! 私が愛されたらとどれだけ思ったことか……!!
私ならティーク様のために身も心も、魂も捧げることができる。
ティーク様が望むならなんだってする。死ねと言われたら死ぬ覚悟もある!
ティーク様が望むなら国を滅ぼそうとも神を敵に回しても構わない! 私なら……。

(駄目だ!! 何を考えているの私は!? そんなことが良いはずがない!
そんな考えは間違ってる!)

 どうもスラル王女のことを考えるといつも頭に血が昇ってしまう。
スラル王女のことを考えるときはいつも胸の中に黒い感情が芽生える。
気がつくといつの間にか両手を痛いほど固く握りしめていた。
掌を開いてみると爪の痕がしっかりと赤く刻みこまれている。
両手の掌を見つめていると憂鬱になり、私は再び大きく溜め息を吐いた。

 私は亡くなったスラル王女に嫉妬している。
私はもういないスラル王女に今もなお嫉妬している。
この醜い嫉妬はどうして消えないのだろう?
この醜くおぞましい嫉妬はどうすれば消すことができるのだろう?
この醜い嫉妬はまるで怪物だ。私の声で悪魔の言葉を囁く。
怪物は私の心を喰らいながら成長を続け、いつか私を支配するかもしれない。
私はこの怪物がどうしようもなく怖い。

 もう一つ気になることがある。ティーク様の両脇には二人の女性騎士が立っていた。
あの顔は覚えている。5年前に比べると随分印象が変わったが、私は忘れていない。
一人は長かった髪が短くなっていたが、もう一人は短かった髪を伸ばしていた。
確か名前はゼンメイ、ホーネット、とティーク様は呼んでいた。

 5年前に来た時に、ティーク様の側に必ずいた二人だ。あの時はメイドと護衛だったはずだ。
私がティーク様と話しているとずっと睨んでいた。
一人でいると、いつ後ろから刺されるのかと怯えたりもした。
謁見の間が殺気に満ちた時、一番強い殺気を感じたのはあの二人からだ。
周囲の殺気が消えても二人の殺気は最後まで残っていた。
ティーク様が言わなければずっと私に殺気を向け続けていただろう。

 あの二人もティーク様のことを愛しているのだ。二人の反応を見ていれば分かる。
二人ともティーク様を見るときの顔は愛する者を見る目だった。5年前からそれは変わっていない。
だが、あの二人なら問題ない。大国の王と護衛が結ばれることなどありえない。
もし恋仲になっていたとしても結婚することはできないだろう。
それにティーク様は国の名前をスラル王女の名前にするくらいだ。
一途なあの方が簡単に心移りするわけがない。
もしかしたら夜伽をしているかもしれないが、ティーク様に限ってあるはずがない。
それだけは考えたくない。
もし万が一、仮に夜伽をしていたとしても所詮はそれ止まりだ。それ以上の関係にはなれない。

 もしティーク様と私が結ばれたらどんなに幸せだろう。幸せすぎて死んでしまうかもしれない。
ティーク様はきっと私を大切にしてくれるだろう。
スラル王女のように一途に私だけを愛してくれるだろう。
子供が産まれたらきっと喜んでくれるだろう。可愛がって大切に育ててくれるだろう。
想像しただけで幸せになる。きっと国中が祝福してくれる。

(愛されたい! スラル王女のことなんか忘れて私だけを見てほしい!!)

 もう我慢しているだけは嫌だ。想っているだけは嫌だ。
どうすればこの恋は叶うのだろう?
もしこの恋が叶うのならそれだけで私は―――。

 気がつくと部屋の中は薄暗くなっている。長い間考えていたらしく、窓の外は陽が落ちかけている。
もうすぐパーティーが開かれる時間だ。いつまでも考えている時間はない。
私のために開いてくれるのに、私が遅れるわけにはいかない。
ドレスの色は決まっている。ティーク様が似合うと言ってくれた薔薇の色。純白のドレスだ。
ティーク様がこれで思い出してくれたらどんなに幸せだろう。
褒めてくれたらどれほど嬉しいだろう。
さあ、パーティーの準備をしよう。最高の思い出を作るために―――。

 私は部屋に戻るとあまりの嬉しさに堪えきれず、部屋中をバタバタと何周も駆け回り、
ベッドの上に飛込んで身悶えした。
気を抜くと叫んでしまうかもしれないから、
歯を食いしばってベッドの上をゴロゴロと転がりまわる。
しかし、とうとう我慢できなくなって部屋の外に声が漏れないよう枕の下に頭を潜らせて
キャーキャーと叫んでしまった。
もし誰かに聞かれていたら明日の朝には城中に広まっているだろう。
だがそんなことすら今はどうでもいい。
これほど嬉しい思いをしたのは生まれて初めてだ。
まさか叶わないと思っていた夢が叶うなんて―――。

(夢じゃないよね? これは夢じゃないよね!?)

 ティークの屋敷に住んでいた頃はメイドだった。
城に済んでからはメイドから護衛になり騎士になった。
パーティーには給仕としてしか出たことがない。
パーティーの場は私にとって別の世界の出来事だった。
華やかなドレスを着て踊り、見たこともない豪華な食事を楽しみ、
心地良い音楽の音色に酔いしれる。
何度も夢に見た。ドレスを着た私はティークに手を添えられて会場に入り、
音楽に合わせて踊るのだ。そして寄り添いながら長い夜をティークといつまでも一緒にいる。

 そんな夢を見た後はきまって現実に打ちひしがれていた。拾われた使用人には出来すぎた夢だと。
別に夢と同じようにと高望みをしたりはしない。ただティークと一緒にパーティーに出たいだけ。
それすら不可能だとは分かっているが、夢と空想の中なら許される。
ドレスを着て、ティークと一緒にパーティーに出たい――
決して叶わないと諦めていた夢が現実になったのだ。

(ティークと一緒にパーティーに出席できる。ドレスを着て一緒に出席できるんだ…!
嬉しい、なんて嬉しいんだ! こんなに幸せなのは生まれて初めてだ!!)

 ベッドから起き上がってドレッサーの鏡を見る。
鏡の中には顔を赤くして嬉しそうに笑う私の顔が映っていた。
目尻が垂れ下がり、頬は弛んで口の端が不気味なほど上がっている。
とても自分の顔だとは思えない。
自分のこんな顔を見るのは初めてだ。自分にこんな顔が出来ることが驚きだ。
この3年間は嬉しい事があった記憶も、笑顔で笑った記憶もない。

 

 長かった髪をばっさりと切り、騎士になるために血反吐を吐きながら剣の訓練をした。
「女の分際で騎士などと笑わせるな。王に気に入られているから今の地位があるんだ」
と陰で言われ続けてもティークのために必死で頑張ってきた。
非難、侮辱、軽視、嘲笑をされても耐えてこれたのは、全てはティークを守りたいがためだ。

 ドレッサーの引き出しを開け、中にある小さな箱を手に取る。
箱を開けると中にはイヤリングとネックレスが入っている。
これはティークが私にくれた大切な宝物だ。私はこの二つの宝物を身につけるだけで幸せになる。
辛い時はいつもこれを身につけて自分を慰めていた。
私はこれを身につけるだけで力が湧いてくるのだ。
これらを身につけてドレスを着て、ティークとパーティーに出られたら
どんなに幸せだろうかと夢に思っていた。
その夢が今日叶う。嬉しくて死んでしまいそうだ。

 パーティーが開かれることになったのはアリア王女を歓迎するため。
ティークに暴言を吐き、侮辱したことは許せない。
だが、そのアリア王女のおかげで念願の夢が叶うことになったわけでもあるから感謝してはいる。
それにティークが許したのだから私が怒っていても仕方がない。

 パーティーを開く理由は気に入らないが、
滅多な事がないとパーティーが開かれる事がないのも事実だ。
ティークが次にパーティーを開くのは何年後になるのかなんて分からない。
二度と無いのかもしれないのだ。
そう考えたらアリア王女に対する怒りはだんだんと消えていった。

 謁見の時のことを思い出す。アリア王女は5年前よりもさらに美しくなっていた。
ティークは覚えていなかったが私は覚えている。
アリア王女がティークを見る目が私に強く覚えさせたのだ。
あの目はティークに惚れている目だ。私と同じ目――ホーネットと同じ目をしている。

 ティークの噂は遠い他国にまで広まっている。
決して怒らせてはいけない狂王。破滅をもたらす恐怖の王、と。
それを知りながらもアリア王女はティークを目の前にして
あそこまで言ってのけたのには正直驚いた。

(なぜティークを怒らせるかもしれないことを言うのだ?)

(王女は自分が死ぬことを恐れていないのか?)

(国が滅ぼされることになるかもしれないことが分かっているのか?)

 今になって冷静に考えてみると、なぜ王女があんな暴言とも取れる発言をしたのか分かる。
王女はティークのためと心から考えて、自らの命を懸けてまで進言したのだ。
あの時の王女の目には確かに『覚悟』のようなものを感じた。
自分の国のためもあるだろう。だが、それだけじゃあそこまで無理をすることはない。
おとなしく降伏すれば国は助かったのだ。
自分が死ぬかもしれない――いや、死ぬと分かっていながらも
アリア王女はティークを止めようとした。
下臣のだれよりも、他国の王女がティークのことを考えて進言したのだ。

 アリア王女がティークに言ったことは、本来は最も身近な下臣である私が言うべきことなのだ。
ティークと誰よりも近い位置にいて、
誰よりも長く一緒にいた私なら止めることができたかもしれない。
それなのに私はティークを止めることをしなかった。止めようとさえしなかった。
なぜなら、私にとってティークは王である前に、一人の愛する男なのだ。

 私の剣はティークのためにある。
私の命はティークのためにある。
私の魂はティークのためにある。
私はティークの望みを叶えるためだけに生きる。『王』のためでなく、愛する男のために従うのだ。

 私は王女に嫉妬している。ティークのために命を懸けたアリア王女に嫉妬している。
私がティークと結ばれることは不可能だ。どれだけ願ってもそれが叶うことは決してないだろう。
ティークは私のことを一人の女とは見ていない。
姉として、忠実な下臣としてしか見ていないだろう。
悔しいことに、私はティークの最も側に居ながら、恋愛の対象からは最も遠い位置に居るのだ。
だがそれでもいい。私はティークの側に居られればそれでいい。
ティークの役にたてればそれだけでいいのだ。

 胸が痛む。このことを考えるといつも胸の奥が痛みだす。
ふと鏡を見ると、すでにさっきまでの笑顔は消えていた。
代わりに鏡の中には今にも泣きそうな私の顔が映っている。
イヤリングとネックレスを握りしめ、胸に抱くように当てる。
こんな顔ではパーティーには出られない。
笑顔になろうと努力するが、鏡の中の私の顔は醜く歪むだけで、
まるで苦しんでる魔女のように見えた。

(元気にしてくれ。いつものように私に勇気を与えてくれ)

 祈りは通じない。代わりに胸の痛みが酷くなった。鏡の中の顔がさらに酷くなっただけだ。

 もし、もしもだ。アリア王女とティークが結ばれたらどうなるだろう?
ティークはスラル王女の一件以来、新たな后を向かえ入れようとしない。
それは私とホーネットが陰で必死に阻んでいた事もあるが、ティーク自身が求めないのだ。
ティークがアリア王女のことを気に入ったと謁見のときに言った。
恋愛の対象としてでの意味ではないだろうが、
それでも王女の方がティークに恋していることは間違いない。
もし二人が親密になれば、結婚もありえない話ではない。
アリア王女ならティークを昔の優しい頃のように戻せるかもしれない。
命を懸けてまで進言をしたんだ。可能性はある。
ティークが昔のように笑ってくれたらどんなにいいだろう。
あの頃のティークに戻ってくれたらどれだけ――。
アリア王女なら―――。

 ……胸の奥が痛い。さっきよりも痛みが酷くなって、息ができないほど苦しい。
痛くて苦しくて死にそうだ。
私にはティークの幸せを祝福することしかできない。ティークの幸せを願うことしかできない。

(嫌だ! そんなのは嫌だ! 誰とも結婚してほしくない!!)

 あの忌々しいスラル王女の顔が頭にちらついて離れない。
アリア王女の顔が脳にこびりついて離れない。

(嫌だ! ティークが他の女と笑っている姿だけは見たくない! 私だけを見てほしい!!)

 私は――私はどうしたいんだろう? どうすればいいのだろう――――?

 

 考えているうちにかなりの時間がたってしまった。早くパーティーの準備をしなければいけない。
ずっと昔から考えていた色は薄いピンクのドレス。空想の中で何度も着ていた。
ティークから貰ったイヤリングとネックレスはこれときっと合うに違いない。
もう用意は出来ているだろう。胸の痛みは治まった。
今からは何も考えないでただパーティーを楽しもう。
最高の思い出を作るために―――。

6

〈SIDE:ゼンメイ〉

 王室の前でティークを待っていると、真紅のドレスに身を包んだホーネットがやってきた。
金色の長く美しい髪とドレスのスカートをなびかせ、淑女のように歩いてくる。
いつもより化粧に時間をかけたのか、普段よりさらに綺麗に見える。
優雅で華麗――貴族の令嬢を思わせる気品と風格があり、
それでいて貴族特有の嫌味さを感じさせない。
同じ女性でありながらも息を呑んでしまうほどの美しさは、不思議と赤い薔薇を連想させた。
嫉妬と羨望――ホーネットにほんの僅かでも敗北感を感じてしまった自分が恨めしい。

 そういえば、ホーネットは貴族の出身だと聞いたことがある。
厄介者扱いで放り出されるように城に来る事になり、スラル王女の従者になったとか――。
昔聞いた話――詳しい経緯は聞いていないが、貴族の出身なら今のホーネットの姿も納得ができる。

「王はまだ用意が出来ていないのか?」
ティークの居る部屋の扉を見ながらホーネットが聞いてくる。
「ああ、もうすぐ支度が出来るらしい」
私が感じた感情がホーネットに気付かれないように、平静を装って答える。
私が答えると「そうか」とだけ呟いて、今度は私の姿を上から下までじっくりと見て、
「よく似合っているじゃないか。最初に見たときは誰だかわからなかった」
ホーネットがにやりと笑いながら言う。言葉に含まれる何かが癪に障る。
「それはお世辞なのか? それとも馬鹿にしてるのか?」
ホーネットの口ぶりと態度にイラつき、つい声に棘が入る。
「素直な感想さ。お互いにこんな格好をするのも、
そんな格好をしているのを見るのも初めてだからな」
ホーネットがドレスのスカートを摘みながら笑う。ホーネットが笑うことは滅多になかった。
この三年間でホーネットはよく笑うようになった。

 

 ホーネットは変わった。
三年前のスラル王女の一件から暫く経ってからのホーネットの変わり様は、
ティークとは正反対の変貌だ。
男装を止めて髪を伸ばしはじめ、化粧もだんだんとするようになった。
喋り方も変わり、物腰も女性らしくなった。
クールなところは変わっていないが、表情が豊かになって冷たいイメージがなくなった。
表情の少ない男装の麗人は、三年間で美しい女性騎士に生まれ変わった。

 

 元々綺麗な顔立ちであることは知っていた。
整った顔の作りからして美人だとは分かっていた。
男装を止めて化粧をすれば美しくなるだろうと私も思ったことがある。
女は化粧で変わる――誰かが言っていたが、まさかここまで変わるとは私も予想だにしなかった。
化粧に不慣れで未だに手間取る私は少し羨ましくすら思う。
剣の腕ならともかく、化粧の腕はホーネットに遠く及ばない。

 ここまで変わった理由――決まっている。ティークの気を惹くためだ。
ティークのためにホーネットは変わった。
化粧もせず男装をしていた理由は、恐らくスラル王女の護衛としてだろう。
スラル王女の一件以降まで続けていた理由は分からない。興味もないし知りたくもない。

 ホーネットについて知っていることは、自分の事をよく理解している頭の切れる女だということ。
ホーネットとの付き合いは五年以上経つが、ホーネットの考えは未だによく分からない。
何も分かっていないのかもしれないし、これからも分からないのかもしれない。分かりたくもない。
お互いに理解しようという考えは持ちあわせてはいない。少なくとも私はそうだ。
ホーネットの事でただ一つだけはっきりとお互いに分かっていることは、
ティークを好きだということ。

 私は時々、ホーネットが怖くなる。
ホーネットと一緒にいると、時々背筋が凍りつくような感覚に襲われる。
得体の知れない恐怖は私の背中を舐めまわし、心臓を握り潰そうとする。
時折背後から感じる視線は殺意が込められ、
それがホーネットの視線であると分かるようになったのはいつの頃からだろうか。
魔女の視線――蛇に睨まれているような感覚。呪いが込められているのかもしれない。
いつかホーネットとは殺し合うことになるだろう。そう遠くない未来にも。
今は互いに隙を窺っているだけ。機会を窺っているだけ。

 私達は二匹の蛇のようだ。
お互いに大きく口を開き、その牙で相手の頭を咬み砕こうとしている。
尻尾を絡めあい、お互いを飲みこもうとしている。
二匹の蛇――神話に出てくる破滅の化身。私達と重なる。妙な妄想に身震いする。

 

 

 妙な妄想を振り払い、ふとホーネットの胸元に目をやると、大きな胸が目についた。
胸元を強調したドレスのせいか、豊満な胸が更に大きく見える。
普段は甲冑のせいで分かりにくいが、ホーネットの胸は大きい。
悔しいことに、私の貧相な胸とは雲泥の差だ。
ホーネットの胸を見ていると、大人と子供を比べているようで悲しくなる。
普段の食事や生活はそう変わらないというのに、ここまで差が開くのはどういうことだろうか。

 ホーネットが私の視線に気付き「フフン」と鼻で笑った。
「そんなにじろじろと見るな。いや、ゼンメイの気持ちも分からなくはない。女に生まれたからには
避けては通れない道だからな」
ホーネットが勝ち誇った顔で、胸を突き出すようにして私と向き合う。胸を張ると嫌でも目に入る。
「うぐっ…き、騎士に胸の大きさなどは関係ない! 邪魔になるだけだし動きにくいだけだ!」
「そうか? 男は胸の大きな女性を好むがな。それに大きいに越した事はない。
騎士とは言えど我々は女だ。鎧を脱げば色気も必要だろう?」

 胸元に手をやり、ホーネットが淫靡な表情を浮かべる。
ホーネットの見たことのない表情に、私の顔が熱くなる。
同性でも見惚れてしまう表情――私にはできない。
寄せ上げるようにして胸を抱え、胸の谷間を強調する仕草はとても真似できない。
詰めものを入れればよかった――ふとそんなことを考えてしまった。

「わ、私には関係ないことだ! 王を守れるだけの腕と力さえあれば…」
「そうか、胸が大きくなる方法を教えようと思ったんだが…ゼンメイには必要ないか」
「ち、力さえあれば…」
「簡単に大きくなるんだがなぁ。ゼンメイが必要ないなら教える必要はないか…」
「……」
「………」
「…………お、大きくできるのか?」
「ぷっ! あははははははっ! なんだ、ゼンメイも気にしているんじゃないか。
本当に素直じゃないなゼンメイは」
「うっ、うるさい笑うな! 少し気になっただけだ!」

 自分の浅はかさが恥ずかしくて情けなくなる。
ホーネットに笑われた事で悔しくて顔が熱くなり、恥ずかしくて涙が出そうになる。
自分の言葉を翻して聞いてしまったことを後悔しながらも、
それでもまだ知りたいと思う自分が恨めしい。

 

 栄養をとるということは分かる。人の成長に栄養は欠かせないものだからだ。
しかし……胸を揉むという事はつまり、『自慰』をしろということなのか?
ホーネットの口ぶりからはそうは聞こえなかったが、言っている事の意味はそれだ。
いや、マッサージという意味なのだろうか? それなら自慰とは違うのか?

 恥ずかしい事だが、自慰なら何度もしたことがある。
ティークを思い浮かべながら、夜更けに何度もしたことがある。
ティークの名前を口にしながら胸をまさぐり、その……を弄る。
文字通り自分を慰めるように毎晩していた時期もある。
けれど、何度胸を揉んでも一向に大きくなる気配はなかった。

 やり方に問題があったのか? 例えばもっとこう、丹念に時間をかけてとか?
それとも何か別に問題があるとか? もしかしたら何か薬を塗るのか?
流石に刺激を与える方法をホーネットに聞くのだけは嫌だ。
そんなことを聞いたら、きっと城中に根も葉もない私の噂が広まるだろう。
誰かに聞こうにも、私にそのような事を聞く相手はいない。
城の侍女達に聞こうものならたちまちにあらぬ噂が立つだろう。
ホーネットに聞くのと代わりはないし、いらぬ誤解を招きたくはない。

――どうする? 聞くべきか、聞かざるべきか。本当か、嘘か――

 数秒でいくつもの思考を重ねて吟味し、
「そうか、つまりホーネットはそのように大きくなるまで毎日のように胸をマッサージしていたのか。
なるほど、勉強になる良い事を聞かせてもらった」
「私はそんなことをしなくても自然と大きくなったがな。まあ、ゼンメイは試してみたらどうだ?」
「残念だが、私は王の護衛以外の時間は剣の鍛練で忙しいからな。
それに胸を刺激するにもやり方がわからない。
教えてもらっておいてなんだが、私は遠慮しておく」
「……そうか、残念だな。これでゼンメイをからかうネタが増えると思ったんだが」

 やはり思ったとおりか。
ホーネットが私にとって得になるような事を教えるような奴ではない。
やはり私の予想は当たっていた。
きっとホーネットは私が信じてコッソリと胸をマッサージする事を想像して
ほくそ笑んでいたのだろう。
騙された私の悔しがる顔を見て笑うつもりだったのだ。こういう女なのだ。

7

 聞いたこと自体がそもそもの間違いなのだ。自分の愚かさに心底腹が立つ。
ホーネットの戯言に耳を傾けようとするなんて私はどうかしていた。
やはり騎士には胸など必要ないのだ。剣の腕と忠誠心さえあればいい。きっとそうだ。

―――…まあ、栄養は必要だからな。ミルクはよく飲むようにしよう。

「今度の剣の訓練の時はホーネットの胸を叩き潰してやる」
「それは怖いな。用心させてもらおう」

 人をからかうように笑うホーネットを睨みつけていると、ティークの部屋の扉がゆっくりと開いた。
部屋の中から出てきたティークの格好は、王が着る衣装とは程遠いものだった。
ガウンさえ羽織らず、着ている衣装は貴族のものと大差がない。
衣装の素材こそ最上級の物を使って作り上げられているが、
大国の王が着るにはあまりにもふさわしいとは言えないものだ。
ティークが豪華な衣装をあまり好まないことは分かっているが、これでは王の威厳に関わる。

「待たせたな。遅くなってすまない」
「ティ…王、そのような衣装では…」
「よくお似合いです、王」
私が苦言を呈そうとしている最中に、ホーネットが横からしゃしゃり出る。
「ああ、何を着ようか迷ったが、やはり俺は派手な衣装は似合わないし苦手だ。
ゴチャゴチャした衣装では肩がこるだけだしな。
しかし二人とも良く似合っている。別人のように見違えたぞ」
「あ、ありがとうございます!」

 前言撤回――言わなくてよかった。少しだけホーネットに感謝だ。
ティークに言われた一言だけで全身が喜びで震える。
期待していた言葉が聞けた――それだけでティークの衣装にとやかく言う気が失せた。
むしろティークが私のことを褒めてくれたのに、
私がティークの衣装にとやかく言うのは失礼極まりない。
よく見ればティークの衣装は素晴らしいものじゃないか。
王が着るにふさわしい、王にしか着れない、王のための衣装じゃないか。
私の目が節穴だった。うん、そうに違いない。
その他一名も褒められたように聞こえたが気のせいだろう。別にどうでもいい。

「さて、それでは行こうか」
そう言ってティークが両腕の肘を横に突き出すように曲げる。
その行動の意味が分からずにキョトンとしていると、
「では失礼します」
と、ホーネットがティークの左腕に手を絡めた。
「…え?」
間の抜けた声を出して呆けている私にティークが残った右腕を向ける。
「何をしているゼンメイ。俺と腕を組むのがそんなに嫌か?」
「い、いいえ! 決してそのような事は……よ、よろしいのですか?」
「淑女のエスコートは紳士の務めだ。いや、嗜みと言うべきか? それとも義務と言うべきか?
まあどれでも変わらんか…ほら、さっさとしろ」
「は…はい!」

 緊張で手が震える。
ティークの右腕にゆっくりと手を絡める。頭と心臓が破裂しそうだ。
ティークの体に触れる事は何時以来だろうか?
思い出そうとするが、混乱した頭では思い出そうとするだけ無駄だった。

(ああ――夢にまで見たことが現実に…!)

 喜びのあまりに叫び出してしまいそうになる。
ティークと触れ合っている。
体温が感じられる。
最も近い距離にいる。
女性としてエスコートしてくれている。
今なら死んでもいいとさえ思える。
喜びを噛みしめながら、この時間がずっと続けばいいのにと夢みたいな事を考えてしまう。

「では行こうか」
ティークが私達に合わせてゆっくりと歩き出す。
私は長い廊下を歩きながら、この先にあるパーティー会場に夢を膨らませた。

 

「今宵は宴だ。存分に楽しむがいい」

 音楽団が演奏を始めると、大広間はそれを合図に華やかな宴の世界に変わった。
薔薇の香りの香水が立ち込める大広間は大勢の人で溢れかえっている。
大きな円卓のテーブルが無数に置かれ、その上には様々な料理が並べられている。
給仕達がワインやシャンパンの入ったグラスを配り回り、貴族達が受け取って飲んでいる。
招かれた貴族達は会話に興じ、または音楽に酔いしれ踊る。
煌びやかなシャンデリアが大広間を照らし、その下で紳士淑女が蝶のようにダンスを舞う。
夢のような世界――御伽話に出てくるような世界。

 招かれた貴族達がティークに我先にと挨拶に向かう。

「ティーク国王陛下、この度はお招き頂いてありがとうございます」

「ティーク国王陛下、この度はお目にかかれて光栄にございます」

「国王陛下、私は○○家の当主、○○にございます。この度は――」

「陛下――」

「陛下―――」

「陛下――――」

「――ああ、もういい。せっかくの宴だ。そんなに挨拶に来られては楽しみようがない。
私に挨拶しに来るならまた今度にしろ」

 ティークはうんざりしたような顔で貴族達をあしらう。
その「今度」がいつになるか分からないから貴族達は集まる。
顔を覚えてもらうために。寵愛を受けたいがために。懇意にしてもらいたいために。
ティークは昼間に贈った招待状の数を後悔した。

『今夜城で宴を開く。暇な者は来い』

 簡潔でぶっきらぼうな招待状――とても招待するような文面ではない。
適当な数を送ったつもりだった。当日に送られてきても迷惑なだけの招待状だ。
無理に来ようとしなくてもいいと意味を含めてのつもりだった。
用事がある者や準備の間に合わない者が多数で、来れる者は少ないだろうと思っていた。
実際は送った数よりも多いのではないかというくらいに集まった。

 

「―――はぁ、こんなに集まるとは…貴族達は余程暇な者が多いのだな……」
「いいえ、これは王の人徳からのことでしょう。
王ほど慕われなければ、これほどまでに集まることはなかったでしょうから」
「そうです。これだけ集まったということはそれだけ王が民に慕われている何よりの証拠です」
「目的はどうであれ、だがな。どっちにしろ面倒でかなわん」

 一息でワインを飲み干し、ホーネットが空になったグラスにワインを注ぐ。
ゼンメイは困ったような顔でティークを見る。
酒を飲むペースがいつもより早い。不機嫌になりつつある証拠だ。
せっかくのパーティーがこのままでは台無しになってしまう。

「社交場では主催者に挨拶に伺うのが礼儀です。それが王なら尚更のこと。
それに、王のおかげで国が繁栄していることを喜んでいる者は大勢います。
感謝の言葉を伝えたいという気持ちもあるのでしょう」
「王、会話を楽しむのも宴の楽しみの一つですよ」

 ゼンメイとホーネットがなだめるように言う。もちろんティークも分かっていることではあるが。
ティークは溜め息をつきながら再びワインを飲む。
どうしたものかと二人が思案に暮れていると、

「――ティーク国王陛下、お礼の挨拶はよろしいでしょうか?」

 声が聞こえた方を見ると、純白のドレスに身を包んだアリアが静かに佇んでいた。
気品のある清楚な純白のドレス。エメラルドのネックレスが胸元で輝いている。
ゼンメイが赤い薔薇なら、アリアは白い薔薇のようだ。
アリアはティークの前に歩み寄るとドレスのスカートを軽く摘み、恭しく一礼する。

「ああ、アリア王女か」
「今日は私のためにパーティーを開いて頂きましてありがとうございます」
「礼には及ばん――すまないな。アリア王女を歓迎する宴だと皆に伝えなかった。非礼を詫びよう」
「いいえ、私のことを気遣ってのことで感謝こそしても、非礼などとは思いません。
その心遣いだけでとても嬉しいです」

 予想外の言葉――アリアが自分の考えを察していたことに、ティークは素直に驚いた。

 

 アリアを歓迎するために宴を開いたと貴族達に伝えれば、貴族達はアリアに群がるだろう。
一国の王女とお近づきになろうと下心を持つ者は多いはずだ。
アリアを籠絡させられれば王族の一員になれるかもしれない。
未来が約束された地位にありつけるかもしれない、と。
宴の主賓に不快な思いをさせて気分を害させるのは、
宴を開いた者として、王として許せないことだ。
ならば誰もアリアのことを知らなければ良い。それなら満足に楽しむことができるだろう。
アリアには失礼とは思いつつも、言わなかった理由はティークがそう判断したからだ。
結局は自分が一番失礼なことをして不快な思いをさせるのではないかと考えたりもした。
だが、アリアはそれを察して、お礼すら行ってきたのだ。

「――そうか…アリア王女、改めて歓迎しよう。今夜は宴を楽しんでくれ」
「はい」

 アリアは微笑みながら再び一礼する。

(挨拶が済んだのならさっさと何処かに行け!)

(消えろ。貴族達の輪の中なり豚小屋なり好きな所に行って二度と現れるな)

 ティークの両脇でゼンメイとホーネットが怨念をこめてアリアを睨む。
だが、二人の思惑と視線を無視するかのように、アリアはティークの側から離れようとしない。
アリアは給仕からワイングラスを受け取ってティークに差し出す。

「陛下、もしよろしければ乾杯していただけますか?」
にっこりと笑いながらティークの手に持っている空のグラスと交換する。
「ああ、構わんぞ」
それを見たゼンメイとホーネットが給仕からグラスを急いで受け取り、
ティークのグラスの前に近づける。
「わ、私もよろしいですか? まだ乾杯していませんよね?」
「では僭越ながら私も…よろしいですね?」
「あ、ああ…俺は構わんが…」

 二人の勢いに押されてか、ティークは少し腰を退きながら頷く。
時々二人はこのように訳の分からないことをする。まるで張り合うように。
その度にティークは訳の分からない寒気を感じるが、その理由がいつも分からないでいる。
四人がグラスを合わせる。
ティークを除いた三人それぞれの思惑にティークが気付くことなく――宴が始まった。

 

 大広間の中心では貴族達がダンスに興じている。
音楽団は休むことなく音楽を奏で続けている。
ティークがダンスを眺めていると、
「せっかくのパーティーです。よろしければ私と一曲踊っていただけませんか?」
アリアが顔を赤らめて申し出る。
タイミングを見計らっていたのだろう。
さっきからそわそわとしていたのは分かっていたが、その理由まではティークにも分からなかった。

 アリアに誘われて、ティークは少し考え込むそぶりを見せる。
アリアは『断らないでください』と目で訴え、
ゼンメイとホーネットは『断ってください』と目で訴えている。
だがティークの背後からの視線のため、二人の視線は気付かれることなく――、
少しの沈黙のあと、
「…そうだな。では踊るか」

 その返事にアリアが目を輝かせて喜ぶ。
ティークの後ろでゼンメイとホーネットが悔しそうな顔をした。
「少し踊ってくる。二人はそこで待っていてくれ」
ゼンメイとホーネットにそう言うと、ティークはアリアの手を取り、
大広間の中央に向かって歩きだした。

 

 ティークとアリアが大広間の中央に近づくにつれて、大勢の人々が道を開ける。
二人が中央に立つと同時に、緩やかな音楽が流れ始めた。

 ティークはアリアの手を取り腰に手を回し、音楽に合わせてゆっくりとステップを踏み始める。
最初は単調な動きから、徐々にアリアの呼吸に合わせていく。
やがて二人の呼吸が合わさると、その後は音楽と相手に合わせて踊るだけだ。
ティークとアリアは互いを見つめあいながら踊る。
アリアは顔を赤らめて。ティークは感情の読めない表情で。
やがて音楽が半分を過ぎた頃になって、
「――アリア王女。やはり王女には白がよく似合う」

 ティークが囁くように言うと、その言葉にアリアの目が驚きで大きく開いた。
動揺でリズムが狂い、ステップを踏み外しそうになるのをティークが上手くカバーする。
腰に回した手に力が入り、抱き寄せるようになる。
「―――っ! すみません……ティーク様、覚えていてくれたのですか?」
「いや、最初は忘れていた。思い出したのは謁見の最中だ。俺に首を差し出しただろう? その時だ。
出会った時は小さな姫君だったな。歓迎すると約束していたのに忘れていた。すまなかったな」
ティークは少しだけ口の端を上げて自嘲するように笑い、アリアに謝罪する。

「いいえ、思い出してくれただけでも嬉しいです。
それにティーク様は――陛下は約束を守ってくれたではないですか。それだけで私は嬉しいです」
目に涙を浮かべ、アリアはティークの手を強く握る。喜びを伝えるために。気持ちを伝えるために。
「――名前でいい」
「え?」
「俺のことは名前で呼んでかまわん。俺もこれからは名前で呼ぶ。アリア」
「――はい、ティーク様!」

 

 音楽が終わったと同時に大広間は拍手に包まれた。
いつの間にか大広間はティークとアリアのダンスを観賞するかのような流れになっていた。

 アリアがドレスのスカートの端を摘みながら深く一礼する。
ティークもアリアに一礼し、アリアの腕をとってゼンメイとホーネットの居る場所に歩き出す。
元居た場所に戻ると、ゼンメイとホーネットの間の雰囲気が妙に重くなっていた。
ふと近くの給仕の顔を見ると、顔が引き攣ったまま凍りついている。
重苦しい緊張感のようなものが二人の周囲を流れ、
それを感じとったのか誰も側に近づこうとしない。
さっきまでと違う二人の雰囲気――ティークはそれに気付きながらも、
あえて何事もないかのようなそぶりで二人の元に戻った。

「ふぅ…久しぶりに踊ったから感覚がなかなか思い出せなかった。変じゃなかったか?」
ティークが大きく息を吐いて二人に聞く。
「いいえ、とても素晴らしかったです」
心なしかゼンメイの目尻が引き攣っている。眉間に皺が寄っている。
「ええ、私も踊りたくなる見事なダンスでした」
気のせいかホーネットの頬が痙攣している。口の端が不自然に上がっている。
気のせいだ――ティークそう思うようにした。気のせいではないと分かっている。
明らかに二人は様子がおかしい。二人から出されてる雰囲気と表情を見れば誰だって分かる。
しかし理由も原因も分からない以上どうすることもできないのだ。下手につつくと後が怖い。
ティークにだって恐ろしいものはある。

「ティーク様、踊っていただいてありがとうございました」
ティークの腕に抱きつくように密着するアリアを見て、二人の顔が険しくなる。
更に重苦しくなった雰囲気に、流石のティークも耐えきれなくなってきた。
背筋を冷たい汗が流れる。
「そ、そうだ。ところで二人は何か話していたのか? 面白い話なら聞かせてくれ」

 ゼンメイとホーネットは奇妙な表情で笑いながら、

「ええ、次に私達のどちらが王と踊るかについてと――」

「女狐の狩り方について――」

8

 心地いい音楽が流れる中、ティークは重苦しい雰囲気に困り果てていた。
剣を向けられているような、緊張感にも似た雰囲気に息が詰まる。
その重苦しい雰囲気を作り上げているのは二人の淑女。
二人の近くに居ると、その場所だけ空気が薄く感じる。寒気がする。
二人の淑女――ゼンメイとホーネットが怒りを隠して微笑んでいる。
隠しているとはいえど、顔に出ている上に雰囲気で伝わっている以上は隠れていないといえるが。
怒りを堪えて無理に笑っている奇妙な表情。口は笑っているのに目は笑っていない。
無理をして笑顔を作っているのが一目瞭然だ。

 怒気と殺気の混じった二人の視線はティークの隣にいるアリアに向けられている。
アリアが二人の出す雰囲気と視線に籠められたものに、
気付いているのか気付いていないのかは分からない。
何故なら、ティークの腕に手を絡ませながら幸せ沿うに微笑んでいるからだ。
まるで、ゼンメイとホーネットの存在など忘れているかのように振る舞い、
ティークの側から離れようとしない。
それどころか周囲に見せつけるかのようにべったりとくっついている。
それが二人の怒りに火を注ぐ事になっている。

 ティークも二人が怒っている原因になんとなくだが気がついた。
二人がそこまで怒る理由までは分からないが。
アリアに突き放すように離れろと言うわけにはいかない。
この宴はアリアを歓迎するために開いた宴だ。自分の都合でアリアを悲しませるわけにはいかない。
しかし、このままではいつ二人が爆発するかも分からない。怒った二人は恐ろしい。
敵に囲まれているかのような心境にも似ている。寿命が縮まりそうだ。
ティークはワインをちびちびと飲みながら、
どうしたものかと頭を痛めながら途方にくれるしかなかった。

 ティークが現状を打破しようと思案に暮れていると、貴族の輪の中から一人の男が歩み寄ってきた。
歳は四十を半ば過ぎた頃だろうか。一目で名門の貴族と分かる貫禄を漂わせた男だ。
艶のある髪はまだ若々しく、口髭さえなければもっと若く見えるかもしれない。
豪華な衣装を身に纏い、装飾品がシャンデリアの光に照らされて輝いている。
威厳のある風貌だが、気品というものは感じない男――ホーネットの表情が歪んだ。

「ティーク国王陛下、挨拶が遅くなって申し訳ありません。
この度はお招きに預かり光栄に存じます」
「べリアル卿――ホーネットの父だな。ああ、よく来てくれた」
べリアルと呼ばれた男は恭しく頭を下げると、ホーネットの顔を一瞥する。
ホーネットの表情はいつの間にか元に戻っていた。
まるでさっきの表情が錯覚だったと思わせるように。
感情の読めない表情は氷のような冷徹さを感じさせる。
彫刻のような表情――視線が鋭利な刃を思わせた。

「ホーネットは陛下のお役に立てておりますでしょうか?
なにぶんまだ若い娘なので、まだ至らないところがあるでしょうが」
「心配いらん。ホーネットは優秀だ。ちゃんと役に立ってくれている」
「そうですか。無礼な事をして陛下のお気を煩わせることがないかと心配しておりましたが、
そう言ってもらえまして光栄です」
そう言ってちらりとホーネットの顔をちらりと見る。
べリアルの視線からは娘を心配する気配は感じられない。
二人の視線が交差する。親子の視線とは思えない視線。誰も気付くことはなかった。

「そうだ、久しぶりに親子が会ったのだ。積もる話もあるだろう。
俺に構わず二人きりで話をしてきたらどうだ?」
ティークにとってべリアルが来たのは幸いだった。
べリアルがホーネットをこの場から連れ出せば、一時はこの状況から逃れることができる。
ホーネットも少し離れれば機嫌が変わるかもしれない。
「よろしいですか? それなら…」
「いえ、私は王の護衛という任務の最中です。
王のお気遣いは嬉しいのですが、今はこの場を離れるわけにはまいりません」
ホーネットはべリアルの顔も見ようともせずに言葉を遮る。
その口調にははっきりとした拒絶が含まれていた。
べリアルとの会話の拒絶か、ティークの側を離れる事の拒絶か。あるいはその両方か、別の何かか。

「ホーネット、久しぶりに私と会ったのだ。少しくらい話を」
「それよりも王、次は私と一曲踊っていただけませんでしょうか?
先程の踊りを見て、私も王と踊りたいと思っておりまして」
べリアルの会話を遮るその口調は有無を言わせない迫力がある。
べリアルのことなどどうでもいい――そう暗に含ませて言っている。
殺気に近い雰囲気を出すホーネットに、ティークとべリアルは思わずたじろいでしまう。
「そ、そうか…では一曲踊るとしようか。すまないな、べリアル」
「…いえ、私のことはお気になさらず…おいホーネ」
「ちょうど音楽が始まる頃です。では参りましょうか」
アリアがティークの腕から離れている隙に、ホーネットがティークの腕を取る。
アリアが「ああっ!」と小さく声を上げた。
ティークの腕に抱きつくように絡みつき、引っ張るようにして大広間の中央に向かう。
王に対しての無礼な行為――べリアルの顔が青ざめた。
アリアはすねた子供のような表情で、ゼンメイは怒りを堪えた表情で見届ける。
「お、おい引っ張るなホーネット! べリアル、会話の途中ですまないがホーネットと踊ってくる。
俺のことは気にせずに宴を楽しんでくれ」
「…は、はい、陛下。それでは失礼します」
ティークを引っ張るように広間の中央に向かうホーネットの顔――
見た給仕の顔が恐怖で引き攣った。

 

 ティークとホーネットのダンスは素晴らしいの一言だった。
それはアリアとの時よりも盛大な拍手が贈られる程のものだった。
華麗にステップを踏み、優雅に舞うその姿は一匹の蝶のようで、
呼吸一つのずれもなく舞う二人の姿は、とても初めて踊るペアのダンスとは思えない出来だった。

「いや、驚いたな。これほどダンスが楽しいと思ったのは初めてだ。
ホーネットはダンスが上手いのだな」
「私がこんなに上手く踊れたのは王がお上手だからです。
王が相手でなければこれほど上手く踊れませんでした。
踊っていただいてありがとうございます」
謙遜してティークを誉め称えるホーネットの顔は、
踊る前とはうって変わって嬉しそうに微笑んでいる。
頬はほんのり赤く染まり、視線は熱を帯ている。
その妖艶な表情に、ティークは顔を赤くして喉を鳴らした。

 腕を組んで戻って来る二人を見て、ゼンメイとアリアは悔しそうに唇を噛む。
その二人の表情を見て、ホーネットが勝ち誇ったように笑った。
まるで勝者が敗者を見るかの様な視線に、二人の表情が一瞬で怒りに変わる。
何処からか、ブチブチッという音がした。

「よろしければ後でまた踊っていただけませんか」
豊満な胸を腕に押し付けながらホーネットが囁く。胸の谷間にティークの腕が埋もれる。
「あ、ああ、もちろんだ」
上擦った声でティークが答える。
顔を赤くして、腕を意識しないように明後日の方向を向いて答える。
そんな二人を見て、ゼンメイの怒りが頂点に達した。
「お、王! 私ともぜ、ぜひ踊っていただけませんかッ!」
挑むようにゼンメイが声を張り上げる。まるで一騎討ちでもするかのような気迫だ。
「私はまだ踊っていません。私も踊りたいです! よろしいですね!!」
ゼンメイの迫力にティークが一歩後ずさる。さすがのティークにもゼンメイの怒りが伝わった。
ホーネットが睨みつけるが、ゼンメイの迫力に気後れしたのか、ティークの腕を放した。
ホーネットも自分の命の危機を感じたらしい。
「あ…ああ、それは構わんが、しかしゼンメイは踊ったことがないだろう? 踊れるのか?」
「大丈夫です! さあ、ぜひッ!」
鼻息を荒くしながらティークの腕をもぎ取るように掴み、ガッシリと腕を組む。
手を取り合う事すら忘れている。
ティークの返事すら聞かずに大広間の中央に大股で歩き出す。
鬼気迫る勢いのゼンメイに、貴族達が慌てて道を開けた。
「分かったからそう強く腕を組むな。今日のゼンメイとホーネットは何か怖いぞ」
「私なら大丈夫です! あの二人には負けません!!」
答えになっていない答え。だがこれ以上怒らせるのは恐ろしいから聞くのを止める。
ティークはゼンメイが怒っている理由を考えるのを止め、大きく溜め息を吐いた。

 

「すっ、すみません!」

「いい、気にするな。ゼンメイは初めてだからな」

「も、申し訳ありません!」

「だ、大丈夫だ。じきにだんだん慣れてくる」

「ごご、ごめんなさい! ごめんなさいっ!」

「……わざとでは…ないよな?」

「あうぅ…すみません……」

 ゼンメイが何度も謝りながらティークの足を踏みつける。
たどたどしい足取りでステップを踏もうとするが、その度にティークの足を踏む。
拙いという言葉では足りない。あまりに酷すぎる失敗の繰り返し。
ゼンメイの顔は蒼白になり、今にも泣き出しそうだ。
頭の中は混乱でぐちゃぐちゃになり、ティークの足を踏まないことだけでいっぱいになっている。
想像と現実の違い――必死の表情で足下だけを見ながらステップを踏むゼンメイの頭の中は
“こんなはずじゃなかった”という考えで埋め尽されていた。

 下手なんてものじゃない。ダンスと呼べるものではない。見る者が目を覆う程の酷さ。
ティークとのステップは噛み合わずにずれ続け、よろけて転びそうになり、
手足の動きはてんでばらばらだ。
他のペアにぶつからなかっただけでも奇跡に近い。
もっとも、ティークとゼンメイの周囲に大きな空間ができていただけだが。
とても見られるものではなく、まだ子供のダンスのほうが拙くとも見れるものだ。
アリアとホーネットとは比べものにならないほどの酷さは、
言葉で表現するにはあまりにも可哀想だった。

 想像の動きと現実の動きは違う。
相手の呼吸に合わせて動かなければならず、曲によってはリズムも違う。
それに緊張も合わされば、初めてで上手く踊ることは至難の業だ。
見よう見真似で踊ろうにも、初心者のゼンメイにダンスはあまりにも難易度が高いものだった。

 

 曲が終わり、俯きながらすごすごと元居た場所に戻るゼンメイは、
踊る前とは正反対の表情に変わっていた。
「あううぅ…本当に申し訳ございませんでした…」
頭を下げ、深くうなだれたままのゼンメイを見て、ティークが苦笑する。
「ゼンメイ、お前は王の足をなんだと思っている」
「まあまあ、ホーネット様、初めてでは仕方ありませんわ」
ホーネットに叱られ、アリアに慰められ、ゼンメイは更に深くうなだれる。
二人のダンスとは比べようがない事は事実で、
自分が何を言われてもしょうがない程の下手さだった事もまた事実だから何も言い返せない。
ゼンメイは涙を堪えてぷるぷると震えて耐えるしかなかった。
「…そうですね。私も“ゼンメイほど”じゃないにしても最初は上手く踊れませんでした」
「そうですよ。私も“ゼンメイ様ほど”じゃないにしても最初は下手でした。
最初から上手く踊れる人はそうそういませんわ」
優しい口調だが、二人の言葉が矢のようにゼンメイに突き刺さる。
いつの間に仲良くなったのだろうか、二人の間には先程までの刺々しい雰囲気はなくなっている。
二人は可哀想な者を見る目でゼンメイを見る。
ホーネットは嘲りを含んだ口調で、アリアは同情と憐れみを含めた口調で優しく言う。
いつもなら反論の一つでも言うのだが、今のゼンメイはただ堪えるしかない。
踊る前の意気込みが嘘のように意気消沈しているゼンメイに、
ティークが慰めるつもりで声をかける。
「ゼンメイは初めてだったからな。
なに、何度も踊ればすぐに上手くなるだろう。俺も最初は下手だったぞ。
ほら、最後のほうは足を踏まなかったじゃないか。ゼンメイならすぐに…ゼンメイ?」
「……すみません…ぐすっ」
ティークに慰められたからか、ティークが止めを刺したのか、
ゼンメイはぷるぷると震えて鼻をすする。
軽く突けば泣いてしまいそうだ。三人はさすがに可哀想になって同情した。
ゼンメイはひたすらぷるぷる震えている。
両手を握りしめ、歯を食いしばって涙が流れそうになるのを堪えていた。

「まあ、ゼンメイの必死な顔が見れただけで十分に楽しめたぞ?
そうだな…ゼンメイにその気があるなら次に備えて練習でもするか?
暇な時なら付き合ってやるぞ」
その一言で、ぷるぷる震えていたゼンメイがぴたりと止まった。
そしてアリアとホーネットの顔に動揺が走る。
ゼンメイは驚いた表情でティークを見上げると、
「ほ、本当ですか? 本当に練習に付き合ってくれるのですか!?」
「ああ、また何度も足を踏まれるのはさすがに嫌だからな。どうするゼンメイ?」
「ぜひ! ぜひお願いします!!」
鼻をぐずらせながらゼンメイが声をあげる。頬が真っ赤に高潮し、目には輝きが戻る。
さっきまでの曇った表情が嘘のように明るくなり、
生気の戻ったゼンメイを見て、ティークは肩をすくめながらも少し安心した。
だが、ティークは気付いていない。
ティークの後ろで二人の淑女に変化が起きていることに。

「ティーク様、よろしければもう一度一緒に踊っていただけませんか?」
アリアがにこやかに微笑みながらティークの右腕に手をかける。
「それならば私ももう一度お願いします」
ホーネットが左腕に手をかけ、胸を押し付けて微笑む。
二人からはもはや遠慮というものが感じられない。先ほどまでの和やかな雰囲気はすでにない。
ティークをダンスに誘う二人を見て、ゼンメイも、
「そ、それならば私ももう一度…」
「「ゼンメイ(様)は足を踏むからダメだ(です)」」
「ぅぐっ…!」
そんな三人を見て、ティークはやれやれと溜め息を吐く。
「その前に少し休ませてくれ。流石に少し疲れた。
宴はまだ始まったばかりなんだ。これでは体が持たん」
ティークは明日の朝の事を考える。二日酔いと筋肉痛になることは間違いないだろう。
執務はどうしようか。やる事は山のようにあるが、たまには休んでもいいかもしれない。
久しぶりの宴だ。こんなに楽しいのは何時以来だろうか――?
宴はまだ始まったばかりだ。いっそのこと、倒れるまで踊り狂うのも悪くない。
三人はまだ言い争っている。三人の相手をするのは疲れるが、これもなかなか悪くない。
そろそろ曲が変わりそうだ。誰と踊ろうか――?

 大広間は光に満ち溢れている。音楽は鳴り止まない。
ティークは考えるのを止め、ワインを一息で飲み干した。

2008/02/10 To be continued.....

 

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