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魔女の祈り

第1回                  


1

 血が足りない。早く渇きを癒さなきゃいけない。じゃなきゃ、ベルゼブブ様に叱られてしまう。
早く、早く、早く。
手遅れになる前に、審判の日がやってくる前に、僕は位階を上げなきゃいけない。
神の軍団を打ち破る力をつけなきゃいけない。
そのためには、血を吸わなきゃ。罪深い魂を集めなきゃ。
僕がいっぱい血を吸えば、きらきらした鎧を着て、ベルゼブブ様の側近として働けるんだ。
そうさ、それが定説なんだ。
――いた。見つけた。
「兄ちゃん?」
  おいしそうな、罪深い人間。無知の罪に浸された、ちっちゃな子供。血をもらおう。
ごくごく飲ませてもらおう。
「ちょっ、どうしたの!」
この生贄を羽交い絞めにする。五月蝿いクソ餓鬼め。
お前なんか、ベルゼブブ様からいただいた神通力でイチコロなんだぞ。
「い、痛い! 放してったら!」
  じたばた動くな。ああ、おいしそうな首筋だ。待っててくださいベルゼブブ様。
今、血を吸ってあなたのお傍に行きます。
ちゅうちゅうぺろぺろ、なかなか、上手くいかない。もっと、強く噛まなきゃ駄目だ。
「助けてお母さん! 兄ちゃんが!」
  ええい、糞餓鬼め。僕の神聖な儀式の邪魔をするな。
せっかく集めた霊気が発散しちゃったじゃないか。
とにかく、こいつを静かにさせなきゃ。
「あぐっ……苦し……やめ……」
「プーレ! 何をやっているのトト!」
  放せくそばばあ。さもなくば僕の神通力を食らわせるぞ。
くそ、くそ、動けない。こうなったら、貴様も殺してやる。ポアしてやる。
「暴れないでトト! 誰か、誰か来てちょうだい!」
  死ね死ね死ね。僕の神通力を味わえ。一瞬で凍り付いて死に至るんだぞ。
――エターナルフォースブリザードッ!
「あなた、何を?」
  ……ちくしょう、どうして効かないんだ。霊力が足りないのかもしれない。
だったら、これでどうだ。
――ディアボリックデスバーストッ!
「トト?」
  ……くそ、ベルゼブブ様から力を貰ったはずなのになんで出ないんだよ。
「プーレ! おい、何があったんだ!?」
「さっきからこの子の様子がおかしいのよ!」
  止めろ、放せこの野郎。髭男め、汚らわしい手で僕に触れるな。
「いつっ、この野郎噛み付きやがった! 足を押さえてくれ。そら、じたばたするな!」
  霊気が……神通力が抜けて力がでない……。いつもの僕ならこんなやつら楽勝なのに……。
「この子は、悪魔憑きだわ……」
  そうさ……僕は……ベルゼブブ様の……。

 イゼベルは編み物をしていた手を休めて窓を眺めてみたが、雨は弱まっていなかった。
この様子では、今日じゅうには止まないだろう。
暖炉にくべられた薪はちりちりと燃えて熱を吐き出し、
この部屋と、部屋を横断する紐にかけられた衣類を温めている。
しかし、朝から干していても一向に湿気が抜ける気配はない。
昨夜から、梅雨の生暖かいどしゃ降りがラグナグの都市全体を覆っていた。
石畳に打ち付けられた雨水は街路脇の溝に流れ込み、溢れかえって小さな洪水を起こしている。
死体のようにぐったりと枝を垂らした街路樹の下には、どろどろの粥に変わった地肌があり、
砂糖のように溶かされた土は地面と舗装との段差を乗り越え、
こげ茶色の水となって氾濫した小川と合流する。
湿気は町中の壁にびっしょり汗をかかせて、
大雨は家々の屋根と窓ガラスに響きを立て、不均等なリズムで滴り落ちている。
イゼベルが居る建物の入口にぶら下がる、ストルドブラグ祓魔(ふつま)事務所と書かれた看板は、
ぽつぽつと大粒の涙をたらして、まるで来客が無いのを悲しんでいるかのようだった。
ここひと月、祓魔事務所の扉を叩く客は、とある一部の人間を除けば一人もいなかった。
ただでさえ財政が苦しいというのに、こんな天気が続いていけばますます客足が遠ざかって、
財布の中身は軽くなるばかりである。
(洗濯物も、乾かないし……)
  イゼベルは視線を手元に戻すと、はぁとため息を吐いた。
けれども、彼女は雨が嫌いではない。
雨音や、屋根を伝う水の音に耳を済ませていると不思議と気持ちが落ち着いてくるし、
大水のなかで身の安全を感じているのは心地よい。
(それに……)
  顔を上げて、部屋の中心ある古ぼけた机を見やる。
机の上で広げた本に手を当てたまま、もう片方の腕で頬杖を突いて居眠りしている青年が、
琥珀色の瞳のなかに映し出された。
時折、寝息に合わせて、青年の癖が付いた黒いぼさぼさの髪が小さく揺れる。
(今日は、ずっと二人きり)
  愛しい男を見つめながら、少女はその青白い肌をほのかな薔薇色に染めた。

 来客があったのは、イゼベルが無防備に眠っている青年のほっぺたをつつこうと、
指を震わせて彼の前で身構えた瞬間だった。
「フェイド! フェイド・ストルドブラグは居るか!」
  ばん、とノックも無しにいきなり扉が開かれて、
雨でびしょびしょに濡れた緑色の外套を羽織った女性が事務所に怒鳴り込んできた。
その反動で青年の頬杖が折れ、支えを失った頭部が落ちた。
衝突した額と机がごつんと鈍い音を立てる。
イゼベルは一瞬だけびくりと大きく全身を震わせたが、
すぐまた我に帰って、不機嫌そうな顔を無粋な乱入者に向けた。
「おっと、すまないがイゼベルさん、外套はそこにかけておいてくれ。
ああ、それと紅茶は濃い目のオレンジペコを頼む」
  女性はそう言うと、首筋のあたりで切りそろえられた栗色の髪を揺らしながら、
青年の対座にある肘掛け椅子にどっかと腰を下ろす。
悪びれるどころかお茶を催促し始めた目の前の女に聞こえぬよう、イゼベルは小さく舌打ちをした。
「……わかった。少し待っていて」
  ご注文どおり、雑巾汁100%の特製紅茶を淹れてあげる。
そんな、ちょっとした仕返しを企みながら、至福の時間を邪魔された少女は台所へと歩き出した。

「フェイド! さっさと起きろ!」
  フェイドと呼ばれた、先ほどから眠りこけている青年は、
この女性の、やや低めだがよく通る声を夢のなかで聞きとったらしい。
彼はゆっくりとした動作で少しだけ顔と瞼を上げて、焦点の合わない目でちらりと正面を覗き見た。
しかし、彼の黒い瞳に彼女の姿が映るや否や、
再び糸の切れた人形のように机に突っ伏して寝息を立てはじめる。
「こら! 寝るな!」
  女性がばんばんと机を叩くと、耳元の振動と騒音でようやく目覚める気になったのか、
フェイドはけだるそうに頭をかきながら起き上がった。
やがて、安眠を妨害された彼は眉間に皺を寄せ、迷惑げに、重々しい調子の声で話しかける。
「……聖騎士マノン・ヤレリック卿。人がせっかく瞑想に耽っているというのに、
邪魔しないでもらえるか」
「何が瞑想だ。貴様は居眠りしていただけではないか」

 起き抜けの心底不機嫌そうな目つきでにらまれても動じないこの女性の名前は、
マノン・ヤレリック。
ラガード王国竜騎兵第十三連隊、通称聖騎士団に大尉として所属する貴族である。
聖騎士といえば聞こえはいいが、ラガード王国における竜騎兵第十三連隊とは実際のところ、
退役間近の老人や扱いに困る貴族の子女といった、家柄は結構だが実力はいまいちで
解任しようにも解任できない士官の厄介払い先というのが現状だった。
元は近衛第七連隊という古くからあった連隊の一つで、
先代国王が行った大規模な軍備構造改革の際に、半ば形骸化した、
名誉職で官僚の天下り先となっていたそこを竜騎兵科として再編成して
厄介者の士官を集めたことが始まりである。
そうして、所属する貴族のうち男爵以上の称号を持たぬ者にはお情け、
というよりむしろ強制的に聖騎士の称号が与えられる。
騎士という階級は男爵の下に位置するため、聖騎士になるということは、
事実上、それ以上の爵位を得られない、出世街道から外れたことを意味するのだ。
そういった事情から、聖騎士団という通称は彼らに対する皮肉の一つであり、
結成以来未だ戦場に投入されていない事実からきた、抜けぬ懐刀、無敗連隊、
国立修道会といった揶揄と併せて用いられている。
ちなみに、竜騎兵第十三連隊はまだ出来て間もない連隊であるので、
田舎から飛び出してきた世相に疎い人間などは聖騎士団という名称を聞くと、
強い兵士の代名詞である竜騎兵の兵科も相まって盛大に勘違いしてくれるらしい。
  寝起きが悪いほうなのか、フェイドは正面でふんぞり返っているマノンを無視して、
しばらくの間虚ろな目を人差し指の背で擦った後、たっぷり一分間かけて全身で伸びをした。
それからやっと、首をこきこきと鳴らしつつも言葉を続ける。
「で、今日は何の要件だ? 除霊の依頼か? それとも人生相談か?
  おあいにくさま、後者は専門じゃないんでな。
教会の聴罪司祭さまかそこらの占星術師にでも当たってくれ」
「違う! 貴様、まさか今日が何の日なのか忘れているのではないだろうな?」
  フェイドには思い当たるふしがない。六月はとくに祝日もないし、
暦の中でこのやたら元気な女に関係する日なんて、先月の誕生日くらいだ。
「何だよ」
  欠伸を噛み殺す男の姿に、大きな、つり上がり気味の、不透明な青色をした目が細まった。

 しかしマノンが気を静めるように一度大きく深呼吸をしてしまうと、
目じりの力が抜け、今度は得意そうな目つきになり、ふふん、という含み笑いが口元でこぼれる。
不敵そうな面構えになった彼女は、懐から大事そうな手つきで薄汚れた紙切れを取り出して、
それを机の上にゆっくりと広げた。
「ああ、あのときのやつか」
  広告か何かの裏地を利用したのだろう、
所々に染みがあるそれには汚い文字でこう殴り書かれている。

『私、フェイド・ストルドブラグは本日十九時三十分、マノン・ヤレリック様から、
金貨百ガードを借り入れました。神に誓って返済期日までに――』

 先月、マノンと一緒に飲みに行ったとき、それまで溜めていた酒場のツケを
支払わなければならなくなり、持ち合わせの無いフェイドは彼女に代金を肩代わりしてもらった。
机にあるのは、そのときの借用書だった。署名の横には、ご丁寧に血判も押してある。
フェイドの脳裏に、酔いと困窮に任せるがまま、
このいけ好かない女に土下座してしまった屈辱が甦った。
暴君は手を腰に当てながら、薄い胸を張って言い放つ。
「今日がその返済日だ。耳を揃えて払ってもらうからな!」
「いつもニコニコ現金一括払いと、いきたいところだがな……
なあ、しょっちゅうウチに来てるんだから、わかるだろ?」
「ほほう。返せない、と言いたいのか」
「無いものは無い。そもそも依頼が無いんだ。収入だってあるはずが無い」
  今月の生活費だって、イゼベルの服を質に入れて得たものである。
それほど今の祓魔事務所は貧乏なのだ。
ここは対話と圧力による平和的解決を図るべく、フェイドは開き直ってやった。
降伏せよ、さもなくば一千万人の捕虜を送り込む、
とでも言いたげな顔つきをして腕を組み、鼻で笑う。
ハ、と声に出すのは、彼が人を虚仮にするときの癖である。
しかし、マノンは先ほどから浮かべている笑みをますます深めた。
「……ならば、貴様はこれから、私の奴隷になるということだ」
「はぁ?」
「見るがいい!」
  びしぃ、と折れるくらいにのけぞらせた人差し指で、マノンは借用書の隅っこを示した。
そこには普通に見るだけでは判別できないくらいの小さな文字で何かが書かれている。
フェイドはくっ付きそうなほど目を近づけて、あの時マノンが書き入れたらしい、
彼の知らない借用条件を読んだ。

『もしも、下賤で卑屈な私めが期日までに麗しく高貴な貴女さまへ金銭を返済できなかったばあい、
全額を返済するまでの期間、マノン様の奴隷になることを誓います』

 残念なことに、後から書き込んだ形跡はない。
おそらく、べろんべろんに酔っ払っていたせいで見逃してしまったのだろう。
「な、ふざけやがって……」
「ふふん。しっかり確認しなかった貴様の自業自得だ」
  たしかに、最期の血判を押させる前に、彼女はやたらとフェイドに同意の確認を取っていた。
しっかり読んだかという言葉を何度も繰り返したことから考えるに、
マノンは今の状況を見越していたらしい。
嵌められた、とフェイドは思った。その場を凌げるならどうとでもなれさという、
投げやりになった心の隙を突かれた。
あの時は酔っていたとはいえ、こんな女に出し抜かれてしまった。
目も当てられないほど愚劣きわまる失敗をしでかしてしまったのだ。
フェイドは、地団駄を踏んで悔しがった。
この失態は、死ぬまで自分に付きまとうだろうとさえ感じた。
そんな彼とは対称的に、マノンは非常に上機嫌のようだ。勝ち誇って、顔を赤らめてさえいる。
悔しがるフェイドの姿を、真面目な顔つきでじっと観察しているかと思えば、
突然口元をだらしなくにへらと緩ませて、次の瞬間には慌てて引き締めたりしている。
忙しなく歓喜を表現している彼女の様子を見て、フェイドは心の中で呪詛を唱えた。
祓魔師という曲がりなりにも聖職者である彼が口にすべきではない罵詈雑言を延々と唱え続けた。

 イゼベルが三人分のお茶をお盆にのせて音もなく現れたとき、
マノンはあさっての方向に顔を逸らして、
「そ、そういうことで、まずは私の買い物の荷物持ちをやってもらう!」
  と叫んでいた。彼女の耳は充血して、赤く色付いている。
イゼベルはなんとなくその仕草が気に入らなかった。
なので、フェイドの分のお茶だけを降ろして、マノンの分をのせたまま、
机の上で聖騎士の体からなるべく離れた、手が届きそうで届かないような位置にお盆を放置する。
そのままイゼベルは自分の椅子に戻って、編み物を再開した。
お茶が飲みたければ自分で歩いて取りに行け、と少女は心の中で貴族の女につぶやいた。
「アンタ、聖騎士の任務はどうするんだよ。今日は非番じゃないだろ」
  いくらお飾りの聖騎士団でも、平日には練兵所で訓練だとか、
路上のゴミ拾いだとかの雑用があるはずである。
ならば彼女が毎日のようにここへ入り浸っているのはどうなのか、
と問われると困るのだが、ともかく、苦し紛れにフェイドは建前上の常識を持ち出してみた。
いくら窓際貴族でも、おおっぴらに遊びまわるのはよろしくないのだ。
「有給休暇をとった」
  マノンはけろりと言った。
そういわれてみると、フェイドは彼女の恰好が普段と違うことに気が付く。
いつもなら外套の中には、あの無闇に派手で気色悪い色合いをしているうえ、
布地が見えなくなるほどたくさんの勲章をぶらつかせている、
聖騎士団専用の恥しい軍服があるはずだった。
けれども今の彼女は私服姿で、四六時中、後生大事に抱えている例の長剣も持っていない様子である。
「外は雨が降っているだろうが」
「貴様が傘になればいい」
  フェイドはまた厭な記憶を思い出した。
以前、雨の翌日に彼女と町を歩いていて、大きな水溜りに出くわしたことがあったのだ。
マノンはそんなときに限って新品の高価な長いスカートとやらを穿いていて、
濡れるのがいやだとかいう理由で彼の上着を水溜りの上に敷かせた。
ちょうどそのころ彼女に弱みを握られていたフェイドは、
反論さえ出来ずに泣く泣く上着を一着献上したのだった。
後日、マノンから詫びとして、駄目にしたそれよりも値の張る上着を買い与えられた。
そうしてその晩、フェイドは自分の惨めさと、情けなさを呪った。

 再びあんな思いをするのはこりごりだと考えた彼は、次の理由を持ち出す。
「……俺にだって祓魔師の職務ってものがある」
「こんな大雨の日に客が来るのか?
  それにしても、留守番ならイゼベルさんにしてもらえばいいではないか」
「こいつは愛想がないから接客は無理だ。そうだよな?」
  そうだと言え、と、フェイドは窓際で編み物を続けるイゼベルに熱の篭った視線を送る。
「ええ」
  少女は手元から視線を外さずに答えた。
もとより彼の言うことに関して彼女の答えは肯定以外にない。
自分たちの平穏をぶち壊してくれた女を追い出すためというのなら、なおさらだ。
そんなイゼベルの思惑を知ってか知らずか、マノンは立ち上がって、
すたすたと机の周りを歩いて行き、紅茶の乗ったお盆の前で止まった。
そうして冷め始めたカップの取っ手に手をかけながら、少女をとがめる。
「イゼベルさん、あまりフェイドを甘やかしてはいけない。貴女がそうだからいつもこいつは」
「とにかく、駄目なものは駄目だ。今日はなんとなく胸騒ぎがするんだよ。
こう、耳の後ろにざらついた感覚があってだな、きっと俺に助けを求める依頼人が……」
  説教がうるさくなりそうだから、フェイドは適当に思いついたことを口走る。
「馬鹿なことを言うな。来るはずな――」
  ――こん、こん、という弱々しいノックが、マノンが言葉を続けようとした矢先に扉から響いた。
一瞬にして、姦しかった事務所に静寂が訪れる。
一ヶ月と二週間ぶりの、来客を知らせる音色だった。
マノンはノックをしないので、普段は聞こえることはない。
数十秒ほどして、再び、先ほどより少し強めに、こん、こん、と鳴った。
ぽかんと間抜けに口を開けたままでいるマノンより、
一足早く気を持ち直したフェイドがイゼベルに目配せすると、彼女は小さく頷いて、
「どうぞ」
  と、鈴を鳴らすようなかわいらしい声色で言った。
こういうときに言葉をかけるのはもっぱら女性であるイゼベルの役目である。
スケベ心と言っては身も蓋も無いが、相手がよほどの女嫌いでもないかぎり、
客に聞かせる第一声は儚げな少女の声のほうが好印象を与えられるし、
依頼者が女性の場合でも気安さを装うことが出来る。
後は事務所に入れてしまえばこっちのものというわけで、大事な大事なお客さんを逃がさないために、
フェイドはゆっくりと立ち上がって扉に近寄った。

 充分に油の差されていない扉がぎいと小さな唸り声を発した。
開いた隙間から覗きこむように、髭を生やした中年男性の、おどおどと気後れした顔が現れる。
「あ、あのぅ……」
  声と同時にフェイドは飛び掛るように男性の肩に手をかけると、
すぐさま扉を大きく開いて半ば無理矢理彼を部屋の中に招きいれた。
「ああ! お客様ですね! ささ、ご用件は何でしょうか? 悪魔憑きですか?
  それとも悪霊? 洗礼オプションの悪魔祓いのほうもたいへんお安くなっておりますよ」
「あ、悪魔憑きです」
  背中を押しながら一息にまくしたてる青年に気を呑まれたのか、
依頼者の中年男性は声の調子は弱々しいものになっている。
「おお! なんと悪魔憑き! それでは、まずはこちらにおかけになって。どけ!」
「いたっ。何をする貴様!」
  あっけにとられつつも椅子に戻ろうとしていたマノンの体を
フェイドは無造作な手つきで払いのけ、彼女の席に緊張し切った依頼人を座らせた。
そうして、マノンの首根っこを掴み扉のほうへと引き摺りながら、顔だけをお客さんに向けて続ける。
「ええ、安心してください。これでも悪魔殺しのプロです。
必ずやにっくき悪魔野郎を屠殺してくれましょう!」
「は、はぁ」
  あれよあれよという間に、依頼人はちょこんと椅子に腰掛けて、マノンは出口に追い遣られていた。
「そんなわけだ。じゃあなマノン」
「ちょっと!」
「ここからは部外者お断りだ。最近は個人情報云々もうるさいからな」
「まだ私お茶飲んでな――」
――ばたん、と音を立てて扉が閉まった。続いてがちゃんと鍵をかける音が聞こえ、
聖騎士マノン・ヤレリックは一人ぼっちで外に取り残された。
大粒の生暖かい雨が、マノンの体を打ち据える。壁から跳ね返るしぶきが、彼女の顔を濡らす。
あっという間に、追い出されてしまった。豪雨は弱まる気配もない。
彼女は懐から、湿気でふやけてよれよれになった小さな紙片を取り出して眺める。
やがて、新悲喜劇優待席と書かれた二枚のそれを、彼女はくしゃりと握りつぶした。
地面と同じで、心も水びたしだった。
「……この、下衆男」
か細い声で、彼女は扉に向かってつぶやいた。
ストルドブラグ祓魔事務所と書かれた看板が小さく揺れる。
「この、インチキエクソシスト――ッ!」
そう叫んで、マノンは大雨の中を疾走した。

 ところで、学問および学問に裏付けられた技術による合理化――即ち学問の進歩――とは、
それを欲しさえすれば、どんなことでもつねに学び知ることができるということである。
そして、そこにはなにか神秘的な、予測し得ない力がはたらいている道理がないということであり、
むしろすべての事柄は原則上、予測によって意のままになるということである。
高度に発達した科学は、魔法であってはならない。
魔法からの世界解放こそ、科学というものにほかならないのだ。
剣と魔法が支配するこの世界においても、人類発生以来絶え間なしに続けられた
数多の賢者たちの思索と実験によって、魔法は既に元来の意味における魔法ではなくなり、
主知化、合理化、原則化、体系化され、
つまり予測しえる現象に昇華されて人類の英知の一つとして君臨した。
この世界の人々にとって魔法とは火と車輪と言語の延長であり、
神秘や不思議なんてものは一欠けらもなしに極々一般的の学識として人間の生活に溶け込んでいる。
物語の舞台となるのはたしかに剣と魔法の世界だが、
森や草原でおとぎ話に登場するような怪物が跋扈しているわけでもない。
あくまで地上における最も強い種族は人間で、最も賢い種族も人間なのだ。
半人半獣の亜人種なんてものも、漫画のなかにしか存在しなかったりする。
しかしそれでも、こんなつまらない世界であっても宗教というものは存在した。
神が何度となく起きた宗教革命で半殺しにされ、さらには哲学者によって息の根を止められた後も、
神秘と歴史ある思想に憧れる人々は今だ教会を徳の拠り所とし、
坊主達の食い扶持を補ってくれていた。
魂を扱うという、このほとんど暴きつくされた神秘の最後の砦は、
しかしまた難攻不落の要塞であった。
祓魔師という、いかがわしい、やくざな業種が生き残れているのもそのお陰である。

 交渉はとんとん拍子に運んだ。
  ――プランはどのようにいたしますか?
  バリューパック甲、乙、丙に、法人向けビジネスパックや各種オプション、
プラチナスペシャルゴージャスパックをご利用なら
ただ今キャッシュバックキャンペーン実施中でたいへんお徳――
  ――あの、一番安いやつで……。
  ――……通常祓魔プラン丙ですね。
  ――は、はい。それで頼みます。
  ――では教区のほうはどちらで?
  ――ええと、リェレナです。
  ――それなら教会のほうから補助金が下りますので、
ここと、ここに署名をお願いします……貧乏人が。
  ――はい?
  ――なんでもございません。ささ、御記入は済みましたか?
  それではお子さんに憑いた悪魔がどのようなものなのか、お聞かせください。

 そんなこんなであくる日には、フェイドとイゼベルは悪魔に憑かれたという少年が住む村、
リェレナ行きの郵便馬車に揺られていた。
  馬車の窓の外には、菜種畑が広がっている。
花盛りを過ぎ、波打つように敷かれた緑の毛布は、
黒々としたあぜ道で大きな網の目に仕切られている。
ところどころで鎌を持った農夫が、茶色の地肌を広げるべく、せっせと菜種刈りに精を出している。
空では、巨大な蒸気の塊が青い下地の半分を覆って、太陽光を遮り、
大地にくっきりと影を落としている。
馬車が雲の影を抜けた。
柔らかな日光に愛撫されて、イゼベルの透き通った白い肌の上に、
綿の糸のようにぼやけた、ほのかなうぶ毛が浮かび上がる。
曲がり角に差し掛かったのか、車体が大きく揺れた。
細い、色あせた金髪がほつれて、少女の瞼にかかる。
前髪を撫でるように指を滑らせると、イゼベルは頑丈な石造りの家並みをぼんやり見つめた。

「僕は地獄からやってきた魔王ベルゼブブの部下だ、か。やれやれ、面倒なことになりそうだ」
  イゼベルの向かいに座るフェイドは、調書を手に持ってそうつぶやいた。
彼の言葉を聞いても、イゼベルは外の景色を眺めたまま、何も言わない。
馬車の乗客は彼らだけだった。速歩で進む二頭の馬の蹄に、古くなった車体の軋みと、車輪が回り、
道路を踏みしめる音のほかには、二人分の衣擦れだけが聞こえていた。
今みたいに彼女と二人きりのとき、
彼はよほどのことがないかぎり少女に意見を求めることはありえない。
彼は自分自身に言い聞かせるような独り言しか口に出さないのである。
イゼベルはそのことを痛いほどよく理解しているから、沈黙をまもるのだった。
  二人がリェレナの集落にたどり着いた時、村の学校で正午の鐘が鳴り響いていた。
鐘が鳴り終わってしばらくすると、昼飯に帰るのだろう学童たちが校門から、
競争するように大急ぎで飛び出してきた。
村道を歩くフェイドたちの正面にも、何人かの腕白小僧がわれさきにと腕を振り振り走ってくる。
そうして、見慣れぬ法衣姿の青年と、こんな田舎ではまずお目にかかることの無い、
フリルの付いた服を着た少女の二人組みに遭遇すると、わっと大声を上げて驚き、
すぐにまた踵を返して、喚きながら逃げていった。
  こうして若い祓魔師と助手の少女の訪問は、当日のうちに村中へ知れ渡ることとなった。
田舎では、流行が伝わるのは遅いが、個人の噂はどんな都会よりも素早く広まる。
悪魔に憑かれたトト少年の父親、依頼主のラッシ氏はこの点において考えが足りなかった。
対岸の火事ほど面白い話題はない。
無関係な人間ほど変に勘ぐったり、憤慨して陰口を叩きたくなったりするものだ。
早く息子を元に戻したいばかりに段取りを焦りすぎたおかげで、
ラッシ氏は村に新たな娯楽を提供してしまった。
その上、悪魔憑きの人間も悪魔祓いの人間も、ごく真っ当な村人からしてみれば、
教義を厳守する教区司祭変わらないのである。
ようは、楽しく陰口をたたける手合いなのだ。
そうして、祓魔師フェイド・ストルドブラグはそれを知っていながらも、
わざわざ真っ昼間に村を訪れたのだった。
格安には格安なりの待遇がある、とは彼の言い分である。

 食卓には、五つのスープ皿が置かれている。
じゃが芋と玉ねぎのほか、四等分されたキャベツが丸ごと放り込まれたスープのなかに、
パンが浸してあり、皿の底にはすこしばかりの牛肉のかけらが沈んでいた。
ところどころに傷が目立つ、何十年も使い込まれた木のテーブルを、フェイドとイゼベル、
この家の主人であるラッシ氏、妻のメリー夫人、
首に包帯を巻いた次男のプーレ少年の五人が囲んでいた。
都会の生活に馴染んだフェイドとイゼベルにとって、
この農家の食事はあまりいいものとは思えなかった。
いくら農奴制が廃止されたといっても、まだまだ農家の生活は楽になったとはいえない。
このわずかな牛肉だって、突然の客に対する精いっぱいのもてなしなのだろう。
味は、そんなに悪くない。量もそれなり、腹いっぱいある。
けれども、どうも貧乏臭くていただけない。
作り笑いを浮かべて、依頼者家族と談笑しながら、図々しくもフェイドはそう感じていた。
「トトは、ほんとうは、ちょっとだけ気の弱い、とても優しい、いい子なんです。
ですから神父さま、あの、坊やにあまりひどいことは……」
  昼食を終えたプーレ少年が学校へ戻り、家の中が大人たちだけになってしまうと、
メリー夫人がおどおどと切り出した。
悪魔祓いの儀式というものは、それはそれは恐ろしいものだと彼女は噂に聞いていた。
寝台に縛り付けて延々と呪文を聞かせたり、悪魔を追い出すためと称して鞭で打ったり、
監禁、断食、去勢云々、そういった、様々なおぞましい仕方で行われるらしいのだ。
かわいい息子を、そんな目に合わせたくない。
そう思った子を溺愛する母親は、なんとかやさしくしてもらえないだろうかと、
人好きのする微笑みを称えた好青年に懇願したのだった。
「ご心配なさらず、奥様。私は決して、お子さんを打ったり、縛り付けたりはいたしません。
そもそも、悪魔が憑くということは、主が我らを試みるある種の試練です。
私はただ、その試練に打ち勝つお手伝いをさせていただくだけであり、
私たち祓魔師の秘蹟も、そのためだけのものなのです」
  胸に手を当てて、いかにももったいぶった仕草で答えるフェイドの姿に、
メリー夫人はその好色そうな、ややたるみ気味の顔を赤らめた。
生まれたときから田舎の野卑な男たちの間で育った村の女には、
彼のような似非紳士の胡散臭い動作でさえも、上品なものとして見えるらしい。

すると、青年の一挙一動にいちいち感激する妻にラッシ氏が横槍を入れる。
「お前がどう言おうたって、もう高い金を払っちまったんだ。
何が何でもトトのやつを正気に戻してもらわんと困る。
ただでさえ、あいつの気狂いのおかげでご近所に醜聞が広まってんだ。
なあ、ラグナグの先生。なにはともあれ、どんなことしてもいいから、
さっさと悪魔を追い払ってくだせえ」
  ラッシ氏は、祓魔師を値踏みするような目でにらみ付けて、腹立たしげに言った。
けっこうな出費が半分の理由で、もう半分は若い男への嫉妬である。
フェイドたちがこの家に訪れたときから、ラッシ氏は事務所の扉を叩いたときとは正反対の、
このような、いかにもいかめしい態度で話していた。
自分の領域のなかにいるときだけ気が大きくなるというのは、
田舎の亭主たちにとってそれほど珍しいことではない。
臆病そうな、地主に絶対服従の小作人だって、家のなかではごく普通に酒を飲み、
妻子に当り散らし、傲慢に振舞うのだ。
「うちにはあいつ一人のために使える余分な部屋はないもので、
昨日言ったとおり、トトは今、教会のほうに預けてんです。
これ以上の余計な出費は抑えなきゃならん。なんで先生、さっさと行きやしょう。
出来れば今日中に片付けてもらえるとありがてえですがね」
  ラッシ氏はそう言い、不機嫌そうに鼻を鳴らして家から出て行った。
そんな彼を見たフェイドは、ハ、と鼻で小さく笑うと、
法衣の上に、奇妙な紋様の刺繍が入った白い上衣を羽織る。
そうして、似非神父は仰々しい仕草で夫人の手を取って歩き出し、開きっぱなしの扉をくぐった。
  最期に残ったイゼベルは、二人の手元をぼんやりと眺めていた。
いつものことであるが、くすぐったそうな顔をして、彼の手に自分のそれを乗せて歩く女を、
彼女は心底羨ましく感じた。
それと同時に、女の腕を、懐のナイフで切り落としてやりたい衝動に駆られた。
肩先から断ち切ったそれを地べたに叩きつけ、何度も何度も突き刺して、
ぐちゃぐちゃになるまで踏みにじり、最後には魔法で本人ごと焼き尽くしてしまいたかった。
手を握られるということは、日ごろ彼からぞんざいに扱われている彼女にとって、
それほど魅力的な行為なのだ。
けれども、イゼベルは人並みくらいには忍耐強かった。
彼女は我を忘れてしまわないように小さく息を吐いてから、
みんなの後を追って、すたすたと静かに歩きだした。

2007/11/28 To be continued.....

 

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