「遅い」
神社前、息を切らして走ってきた兄に向かって、弟の御影は早速文句をつけていた。
「いや悪い悪い。授業がちょっと長引いて」
兄、陽樹は顔に汗を浮かべながら。白い息をしきりに吐き出している。
御影はそこまでで文句をやめ、兄と一緒に神社への石段を登り始めた。
「ふぅ、ふぅ」
一段一段上がっていく度に、陽樹の大きな呼吸音が出て、御影の耳に入る。
上り続けるに従って、兄と弟の距離が開いてきた。
「兄貴、疲れてんのか?」
兄より少し先の位置にいた御影は足を止めた。明らかに、陽樹は上るペースが遅く、
御影と並ぶ位置に着いたら、膝に両手を置いた。
「ずっと、勉強ばっかで、動いてなかったからなあ」
陽樹の呼吸はまだ激しく、汗の量も階段を上り始めたときより増えていた。
ふーっ、と上を向いての一度深呼吸の後、陽樹は再び足を踏み出した。
「でもまだ大丈夫だ!」
「ホントかよ……」
御影はそれに続く。
まだ大丈夫とは、家に帰る前に限界が来ることもあるという意味なのか。
途中でバタッと倒れるのだけは勘弁して欲しいと、御影は誰にでもなく願った。
結局、御影の心配は無駄なものとなった。石段を上りきる直前には、陽樹の呼吸ペースは
平常時に戻り、汗も引いていた。
石段を上り、続く石畳の参道を直進した先に、八鏡(やかがみ)神社の拝殿がある。
その拝殿前では神社の巫女、八代美霊(みれい)が竹箒で落ち葉の散らばる地面を掃除していた。
箒が地面をする音、落ち葉が触れ合う音が、二人に耳にも届く。
「あ……」
強めの風が吹き、一まとめにしておいた落ち葉の山が吹き崩され、ちょうど拝殿前まで来た
陽樹と御影に直撃した。
飛ばされた落ち葉を集めようと美霊が振り返って、そこで初めて陽樹が来ていたことに気付く。
と同時に、落ち葉のシャワーを浴びせてしまったことに赤面した。
「す、すみません、急に北風が来たので……」
陽樹のもとに駆け寄り、服に付いた砂を払おうと美霊が手を伸ばす。
「いや大丈夫。今日もお参りに、ゴホゴホッ!」
陽樹は両手の平を前に出す仕草で断り、自分の手で汚れを払い始めた。
服をはたいて舞う砂塵が喉に入り、また咳き込んでしまう。
「いや〜寒いな。それに空気も乾燥してる」
「(いくらなんでも無理があるだろ。嫌味にも聞こえるわ)」
あまり美霊に気負わせないようにと、陽樹はさりげなさを演じるが、隣の御影は内心毒づきながら
冷ややかに見つめた。
陽樹は受験に備え、健康には人一倍気を遣っている。御影はもちろん、美霊もそれを知っていた。
そんな陽樹がここに来て風邪を引くわけがないのだから、美霊はますます申し訳ない思いを
膨らませた。
二人が賽銭箱の前に着くまでに、頭を下げる美霊と、いいっていいってと許す陽樹のやり取りが
繰り返された。
一人話の外の御影は、これにはうんざりした。
人の良い兄と、これまた人の良い巫女の無駄な言い合い。
手早く参拝を済ませ、帰って勉強したい陽樹とは別の心情だが、御影も早く参拝を済ませて
帰りたい気持ちだった。
いざ参拝となれば、さすがに陽樹と美霊もやり取りを止めた。兄弟でそれぞれ賽銭を投じて、
手を合わせる。
「合格合格合格合格……」
「(うるせえ)」
陽樹は祈るときになるといつも、念仏のように合格合格と唱える。
美霊に、お祈りの内容は口に出さなくても大丈夫、と言われても止めないのだ。
そのため御影も、
「(兄貴の努力が報われますように)」
と、毎回同じ内容で祈る他に無かった。
「あの……」
参拝を済ませた二人に、美霊はおずおずと声をかけた。
「もしよろしければ、少しこちらでゆっくりしてはどうでしょうか? さ……寒いですから、
お茶でも飲んで暖かくですね、その、あの……いかがですか?」
両手を慌しくばたばたさせ、顔を赤らめながらも、目線はまっすぐ陽樹の方へ向ける。
御影は、美霊が陽樹だけを見ていることと、回答の権利が陽樹にあることを察した。
「ああ、悪いけどすぐ帰るから」
一方陽樹は、志望校の合格と、その先の恋人との生活ばかりを見ていた。
「そうですか……」
ため息混じりの相槌を打ち、美霊は肩を落とした。
「(兄貴じゃあ、気付かないか)」
美霊の顔が赤らんでいたのは、寒さや、始めの気恥ずかしさのせいではない。
神社に陽樹が来るたび、何かしらの理由で引き止めていること。そして表に出やすい本人の態度。
すなわち陽樹の方ばかり向いていて、御影や瑛子との会話が極端に少ない。
美霊が何を思って陽樹と接しているのか、御影には予測がついている。
この巫女は、兄に思いを寄せている、と。
厄介なことに、美霊は陽樹に恋人がいることを知っていて、それでも想いを捨てていない。
陽樹は気付かぬまま、普通に接しているのだ。
「じゃあ、また来るよ。来週になるかな次は」
「ええ……いつでもどうぞ。お待ちしています」
「(また来る。なんて言って気を持たせるから……)」
手を振る美霊に送られて、二人は神社を後にした。
「ただいま。っと」
日が没したばかりの時刻に、陽樹と御影は自宅に着いた。
「お帰りなさい」
そこに二人の妹、理乃(りの)が出迎える。中学生の理乃は、二人より早く帰宅していた。
陽樹と御影はそれぞれの部屋に戻った後、兄はすぐ机に向かい、弟はベッドに寝転がった。
コンコン。
程なくして、御影の部屋のドアがノックされた。
「うん?」
寝転がったまま顔だけドアの方へ向けると、ドアが少しだけ開かれ、隙間から理乃が
顔を覗かせていた。
御影は起き上がって、理乃を部屋の中へ招き入れる。理乃は制服姿のままだった。
「どうかしたか?」
「うん、影兄(かげにい)さん、ゲームやっていい?」
部屋のテレビと御影を交互に見つつ、理乃は部屋の中央、テレビの前に座った。
「ああ、俺もやる」
御影はテレビの下にある棚からゲーム機を引っ張り出した。そこに理乃は持って来たソフトを
セットする。
テレビもゲーム機も、いぜんは陽樹の部屋に置かれていたものだった。
御影の部屋に移された理由は、陽樹の受験のためである。
「陽兄(ようにい)さんは?」
「もう勉強始めてる。静かにな」
御影は理乃の隣に座る。理乃は位置を見直して、わずかに御影の側に寄った。
陽樹、御影は血を分けた兄弟だが、理乃は違った。
陽樹たちの父は過去に一度離婚し、現在より二年前に再婚した。その相手の娘が、理乃であった。
理乃は陽樹たちとは血のつながりの無い、義理の妹となる。
始めは互いに緊張して話もままならなかったが、夫婦が仲睦まじいこともあって、
それほど長い日数を費やさずして、兄妹も打ち解けていった。
既に陽樹には瑛子という恋人がいたため、御影の方が、妹と接している時間は長い。
そのため、理乃もどちらかといえば御影に懐くようになった。
「影兄さん」
「何かな。理乃」
ゲームを始めて数十分後。理乃のコントローラの操作が乱暴になっていた。
「ハメ技使うなんてずーるーいー!」
「ハメ技じゃないぞ。ちゃんと抜けられる」
理乃は出鱈目にボタンを乱打するが、画面上のキャラは一方的に殴られ続けるままであった。
御影は嘘は言っていない。タイミングを計らって、然るべき操作をすれば反撃できる状態である。
だが、それを行うには多少突っ込んだゲーム知識が必要で、理乃はそれを持っていなかった。
「ずーるーいーよー!」
「あ、こら!」
理乃は耐え切れず、両手両足を振り回した。その時、左腕が机の上に置いてあった
御影の鞄に当たった。
鞄は落下し、中に入っていた教科書、ノートが飛び出し、音を立てて散らばった。
ゲームよりもずっと大きな音に、二人は硬直する。
陽樹の勉強の邪魔をしてはならないよう、との暗黙のルールがあるため、理乃も大人しくなった。
「ごめんなさい……」
「……まあ、抜け方は今度教えるから」
ゲームは中断され、二人は散らばった教科書を片付け始めた。
理乃が英語の教科書を手に取ったとき、ほんの一秒ほどであったが、理乃の動きが止まった。
「(髪の毛?)」
御影の英語の教科書に、一本の髪の毛が挟まっていることに気付く。
「(かなり長い……影兄さんのものじゃない?)」
理乃が手を動かしながらもその毛を見つめていることに、御影は気付かなかった。
「(誰のものなんだろう……)」 |