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明暗六角形

第1回 第2回 第3回              


1

from:兄
Sub:なし
−−−−−−−
今日帰りに神社
寄ってくけど、
お前も行くか?

そう表示されたメールを見て、受け取り主である弟、御影(みかげ)は、
本文に『行く』とだけ付け加え、返信した。
「(今日もか……)」
携帯電話を閉じ、制服のポケットにしまい込んだ。机に両肘を突き、ぼんやりと外を眺め始める。

御影の兄、陽樹(ようき)は、大学受験を控えている。

志望する大学に合格することを目指し、日夜勉強に励んでいるのである。
その志望校というのは、本来陽樹の学力ではあまりに不相応だと言わざるを得ない、
屈指のレベルを誇る大学であった。
何故陽樹がそんな大学を目指しているのか。
理由は、一人の女生徒に関わっている。

倉林瑛子――――陽樹の恋人であり、彼女もまた先の「屈指のレベルの大学」の受験を予定している。
こちらは陽樹と異なり、抜群の成績を取っている。合格の見込みもほぼ間違いないと
周りから言われている才女であった。
そんな瑛子の恋人として、同じ大学へ進学したいという気持ちを抱き、陽樹は、
普段はしないようなことでも、目標達成のための努力として、出し惜しみせず行っている。
神社へ寄り、参拝するのもその一つである。
元々、陽樹は神仏に祈る習慣などなかった。しかし現在、陽樹はワラをも掴み取る思いで、
たびたび神社に足を運び、手を合わせている。
弟の御影から見て、全く兄らしくない行為だと思いつつも、
合格のためなら何でもやってやるという気概は実に兄らしいと、妙に納得していた。
兄のメールを返してからほんの一分程度で、御影の携帯が震えた。
兄からの返信は、『じゃ、放課後神社前でな』という文章のメール。
御影は脳内スケジュール表に神社への寄り道を書き込んでから、机に伏せた。
午後の授業が始まるまでこうしていようと。

五限を迎える直前の御影に、ごく些細な出来事が起きた。

「あれ? 忘れたかなあ」
御影の隣の席で鞄の中を念入りに探る少女、羽鳥雛(はとりひな)。
どれだけ探しても、次の授業に必要な、英語の教科書がない。
「あちゃ〜」
雛は頭を左右に振った。左右に二つ束ねられた柳のような髪もつられて揺れる。
英語の授業では、前回の復習と称して、二、三人の生徒に一人ずつちょっとした問題が出る。
きちんと答えられるかどうか即ち、復習しているかどうかが成績に影響するのは言うまでもない。
大体は、前回進めた教科書の範囲を、授業の直前にざっと見直しておけば答えられる。
本日その復習には雛も当てられることになっているので、開始前に確認しておこうと思ったら
その教科書がない、というちょっとしたピンチを迎えていた。
雛の落胆の声は御影の耳にも入った。伏せた上体を起こし、隣の席で頭を振っている雛を見て、
御影は状況を認識した。
自分の教科書を手に取り、雛の眼前に突き出し、
「まあ、使えよ」
と言を添えた。

「およ?」
雛はきょとんとした顔つきをしたが、すぐに目を希望に輝かせた。
「おおおおぉっそれは!!」
声を上げたと同時に教科書を取り、即座に開く。
大袈裟なリアクションだと、御影は苦笑した。
「いや〜助かるよ。終わったら返すね」
繰り返し頭を下げる雛に向かって、御影はいやいや、と手を振った。
教科書の貸し借りなど、クラス内では珍しいことではない。
雛のように、英語の復習問題担当なのに教科書を忘れた、というのもよくある話であった。
特に友達ではない雛に貸したのは御影にとっては初めてだったが、
そのことになんら気まずさも感じていない。
実際は、寝て起きたばかりで相手がどうとか考える前に、手と口が動いただけなのだが。
「はいさんきゅー」
無事に復習問題をこなした雛は、笑みを浮かべて教科書を御影に返した。
口元が、だらしないくらいに緩んでいた。

「んっ……あ〜っ。終わりか」
三年生のクラスの教室内、その最前列の席で伸びをするのは遠山陽樹(とおやまようき)
今日最後の授業が終了してからおよそ三十分間、まとめとして、
復習を兼ねたノートの一部書き直しの作業などをしていた。
「お疲れ様」
陽樹の側に寄った倉林瑛子が、肩を軽く叩いた。
瑛子は自分のクラスの授業が終わった後、陽樹のクラスの教室前で待ったいたのだった。
「ああ、お疲れい」
「図書館に寄ってく?」
「いや、今日は神社行くわ」
陽樹は帰り支度をしながら返した。陽樹の放課後は、瑛子と一緒に図書館で勉強するか、
今日のように神社に行くかのどちらかであった。
「熱心ね」
瑛子は笑って見せるものの、内心は穏やかではなかった。
合理的に考えれば、神社に行ってお祈りなどしてる暇があったら、
その分勉強したほうがより合格に近づけるに決まっている。
ましてや陽樹は神仏を信仰する性格ではなかったはずなのに、今では合格のためと必死に祈っている。
陽樹は、合格するまで休日のデートもプライベートの電話も禁止すると自戒していた。
図書館などで一緒に勉強することは多いが、それはあくまでただの勉強であり、
二人の仲を深めるものになっていない。
たまには息抜きにでもと色々持ちかけても、陽樹は合格するまで我慢すると言って聞かない。

瑛子は、ここまでガチガチで息つく時も安らぐ間もなくては、
どこかで軋轢が生じてしまうのではないかと恐れていた。
軋轢とは――そう、急に神社などに行くようになったこと。
瑛子は過去に一度、陽樹と共に神社を訪れたことがあった。
訪れたはいいものの、敷地内にある樹齢数百年とか言われる神木にも、霊験あらたからしい祠にも、
ほとんど興味が湧かなかった。
ただ年老いてくたびれた木と、古くて汚れた百葉箱くらいにしか思えなかった。

しかし一つだけ、瑛子にとって悪い意味で印象的な存在がいた。
陽樹と瑛子を出迎えた巫女。
その人物は、慎ましく、儚げで、大和撫子を絵に描いたような女性。
そして陽樹にとっては、勉強以外のところで接している女性。
最近神社によく足を運ぶのは、もしや……。
……という所まで考えて、そんなわけがない、と振り払う。でもやっぱり……。
思考が何巡もしていく。
「(私が先に音を上げてどうするのよ……)」
瑛子はずれてもいない眼鏡を掛け直した。

「それじゃあ、一人で行くわね」
「ああ」
「神社の後もちゃんと勉強するのよ」
「わかってるって」
陽樹を残して教室を出た瑛子は、足早に下り階段へと向かった。
遅れて教室を出ようとした時、陽樹の携帯が鳴る。
開いて見ると、弟からメールが来ていた。
『遅い。寒い。まだか』
苛立ちの程が窺える催促であった。
「(やっべ早く行かないと)」
陽樹もまた、勢いよく校門を飛び出し、神社まで駆けて行った。

2

「遅い」
神社前、息を切らして走ってきた兄に向かって、弟の御影は早速文句をつけていた。
「いや悪い悪い。授業がちょっと長引いて」
兄、陽樹は顔に汗を浮かべながら。白い息をしきりに吐き出している。
御影はそこまでで文句をやめ、兄と一緒に神社への石段を登り始めた。

「ふぅ、ふぅ」
一段一段上がっていく度に、陽樹の大きな呼吸音が出て、御影の耳に入る。
上り続けるに従って、兄と弟の距離が開いてきた。
「兄貴、疲れてんのか?」
兄より少し先の位置にいた御影は足を止めた。明らかに、陽樹は上るペースが遅く、
御影と並ぶ位置に着いたら、膝に両手を置いた。
「ずっと、勉強ばっかで、動いてなかったからなあ」
陽樹の呼吸はまだ激しく、汗の量も階段を上り始めたときより増えていた。
ふーっ、と上を向いての一度深呼吸の後、陽樹は再び足を踏み出した。
「でもまだ大丈夫だ!」
「ホントかよ……」
御影はそれに続く。
まだ大丈夫とは、家に帰る前に限界が来ることもあるという意味なのか。
途中でバタッと倒れるのだけは勘弁して欲しいと、御影は誰にでもなく願った。

結局、御影の心配は無駄なものとなった。石段を上りきる直前には、陽樹の呼吸ペースは
平常時に戻り、汗も引いていた。

石段を上り、続く石畳の参道を直進した先に、八鏡(やかがみ)神社の拝殿がある。
その拝殿前では神社の巫女、八代美霊(みれい)が竹箒で落ち葉の散らばる地面を掃除していた。
箒が地面をする音、落ち葉が触れ合う音が、二人に耳にも届く。
「あ……」
強めの風が吹き、一まとめにしておいた落ち葉の山が吹き崩され、ちょうど拝殿前まで来た
陽樹と御影に直撃した。
飛ばされた落ち葉を集めようと美霊が振り返って、そこで初めて陽樹が来ていたことに気付く。
と同時に、落ち葉のシャワーを浴びせてしまったことに赤面した。
「す、すみません、急に北風が来たので……」
陽樹のもとに駆け寄り、服に付いた砂を払おうと美霊が手を伸ばす。
「いや大丈夫。今日もお参りに、ゴホゴホッ!」
陽樹は両手の平を前に出す仕草で断り、自分の手で汚れを払い始めた。
服をはたいて舞う砂塵が喉に入り、また咳き込んでしまう。
「いや〜寒いな。それに空気も乾燥してる」
「(いくらなんでも無理があるだろ。嫌味にも聞こえるわ)」
あまり美霊に気負わせないようにと、陽樹はさりげなさを演じるが、隣の御影は内心毒づきながら
冷ややかに見つめた。

陽樹は受験に備え、健康には人一倍気を遣っている。御影はもちろん、美霊もそれを知っていた。
そんな陽樹がここに来て風邪を引くわけがないのだから、美霊はますます申し訳ない思いを
膨らませた。
二人が賽銭箱の前に着くまでに、頭を下げる美霊と、いいっていいってと許す陽樹のやり取りが
繰り返された。

一人話の外の御影は、これにはうんざりした。
人の良い兄と、これまた人の良い巫女の無駄な言い合い。
手早く参拝を済ませ、帰って勉強したい陽樹とは別の心情だが、御影も早く参拝を済ませて
帰りたい気持ちだった。

いざ参拝となれば、さすがに陽樹と美霊もやり取りを止めた。兄弟でそれぞれ賽銭を投じて、
手を合わせる。
「合格合格合格合格……」
「(うるせえ)」
陽樹は祈るときになるといつも、念仏のように合格合格と唱える。
美霊に、お祈りの内容は口に出さなくても大丈夫、と言われても止めないのだ。
そのため御影も、
「(兄貴の努力が報われますように)」
と、毎回同じ内容で祈る他に無かった。

「あの……」
参拝を済ませた二人に、美霊はおずおずと声をかけた。
「もしよろしければ、少しこちらでゆっくりしてはどうでしょうか? さ……寒いですから、
お茶でも飲んで暖かくですね、その、あの……いかがですか?」
両手を慌しくばたばたさせ、顔を赤らめながらも、目線はまっすぐ陽樹の方へ向ける。
御影は、美霊が陽樹だけを見ていることと、回答の権利が陽樹にあることを察した。
「ああ、悪いけどすぐ帰るから」
一方陽樹は、志望校の合格と、その先の恋人との生活ばかりを見ていた。
「そうですか……」
ため息混じりの相槌を打ち、美霊は肩を落とした。
「(兄貴じゃあ、気付かないか)」

美霊の顔が赤らんでいたのは、寒さや、始めの気恥ずかしさのせいではない。
神社に陽樹が来るたび、何かしらの理由で引き止めていること。そして表に出やすい本人の態度。
すなわち陽樹の方ばかり向いていて、御影や瑛子との会話が極端に少ない。
美霊が何を思って陽樹と接しているのか、御影には予測がついている。
この巫女は、兄に思いを寄せている、と。
厄介なことに、美霊は陽樹に恋人がいることを知っていて、それでも想いを捨てていない。
陽樹は気付かぬまま、普通に接しているのだ。
「じゃあ、また来るよ。来週になるかな次は」
「ええ……いつでもどうぞ。お待ちしています」
「(また来る。なんて言って気を持たせるから……)」
手を振る美霊に送られて、二人は神社を後にした。

「ただいま。っと」
日が没したばかりの時刻に、陽樹と御影は自宅に着いた。
「お帰りなさい」
そこに二人の妹、理乃(りの)が出迎える。中学生の理乃は、二人より早く帰宅していた。
陽樹と御影はそれぞれの部屋に戻った後、兄はすぐ机に向かい、弟はベッドに寝転がった。

コンコン。
程なくして、御影の部屋のドアがノックされた。
「うん?」
寝転がったまま顔だけドアの方へ向けると、ドアが少しだけ開かれ、隙間から理乃が
顔を覗かせていた。
御影は起き上がって、理乃を部屋の中へ招き入れる。理乃は制服姿のままだった。
「どうかしたか?」
「うん、影兄(かげにい)さん、ゲームやっていい?」
部屋のテレビと御影を交互に見つつ、理乃は部屋の中央、テレビの前に座った。
「ああ、俺もやる」
御影はテレビの下にある棚からゲーム機を引っ張り出した。そこに理乃は持って来たソフトを
セットする。
テレビもゲーム機も、いぜんは陽樹の部屋に置かれていたものだった。
御影の部屋に移された理由は、陽樹の受験のためである。
「陽兄(ようにい)さんは?」
「もう勉強始めてる。静かにな」
御影は理乃の隣に座る。理乃は位置を見直して、わずかに御影の側に寄った。

陽樹、御影は血を分けた兄弟だが、理乃は違った。

陽樹たちの父は過去に一度離婚し、現在より二年前に再婚した。その相手の娘が、理乃であった。
理乃は陽樹たちとは血のつながりの無い、義理の妹となる。
始めは互いに緊張して話もままならなかったが、夫婦が仲睦まじいこともあって、
それほど長い日数を費やさずして、兄妹も打ち解けていった。
既に陽樹には瑛子という恋人がいたため、御影の方が、妹と接している時間は長い。
そのため、理乃もどちらかといえば御影に懐くようになった。

「影兄さん」
「何かな。理乃」
ゲームを始めて数十分後。理乃のコントローラの操作が乱暴になっていた。
「ハメ技使うなんてずーるーいー!」
「ハメ技じゃないぞ。ちゃんと抜けられる」
理乃は出鱈目にボタンを乱打するが、画面上のキャラは一方的に殴られ続けるままであった。
御影は嘘は言っていない。タイミングを計らって、然るべき操作をすれば反撃できる状態である。
だが、それを行うには多少突っ込んだゲーム知識が必要で、理乃はそれを持っていなかった。
「ずーるーいーよー!」
「あ、こら!」
理乃は耐え切れず、両手両足を振り回した。その時、左腕が机の上に置いてあった
御影の鞄に当たった。
鞄は落下し、中に入っていた教科書、ノートが飛び出し、音を立てて散らばった。
ゲームよりもずっと大きな音に、二人は硬直する。
陽樹の勉強の邪魔をしてはならないよう、との暗黙のルールがあるため、理乃も大人しくなった。
「ごめんなさい……」
「……まあ、抜け方は今度教えるから」
ゲームは中断され、二人は散らばった教科書を片付け始めた。

理乃が英語の教科書を手に取ったとき、ほんの一秒ほどであったが、理乃の動きが止まった。
「(髪の毛?)」
御影の英語の教科書に、一本の髪の毛が挟まっていることに気付く。
「(かなり長い……影兄さんのものじゃない?)」
理乃が手を動かしながらもその毛を見つめていることに、御影は気付かなかった。
「(誰のものなんだろう……)」

3

放課後の教室、その一角。

「アニメとか、興味ない?」
「無い!」
御影は椅子に座ったまま、必死に顔をそらす。そこに、雛が手に持ったアニメ雑誌を
見せてやろうと、御影の目の前に突き出している。
数日前、御影が雛に教科書を貸して以来、雛は異様といえるほど御影に絡むようになった。
「ほら、こういうのは」
「いらんってるのに!」
雑誌の中を広げて見せてくるのを、両手で拒み続ける。
雛はクラスの中でも少し浮いた存在であった。その理由を、今御影は身をもって知らされていた。
どれだけ拒否しても、雛は諦めずにアニメ雑誌を押し付けてくる。
雑誌だけでなく、雛自身の凹凸に乏しい身体もぐいぐいと押し付けられていた。
他のクラスメイト達は上手に空気を読み、距離を取っている。

「おい御影。メール見な……」
「(来た! 助け舟来た!)」
陽樹が教室に入ってきたのを見て、御影は椅子から立ち上がろうとしたが、
雛にしがみ付かれて転倒した。
一方陽樹は、弟に送ったメールの返事が来なかったので、直接話をしに来たのだが、
二人の様子を見て口元が緩む。
「何だよ。メールの返事がないと思ったら、そうだったのか」
「兄貴、助けてくれ」
御影は助け舟に乗ろうとしたが、乗船拒否された。
「じゃ、神社には俺一人で行くから」
「あ、兄貴!?」
「お兄さん! 羽鳥雛です! よろしくお願いします!」
陽樹は御影に満面の笑みを送ってから教室を出た。
御影の言葉を成していない叫びが聞こえる。

「(御影の奴も、少しは女の子と遊ぶ経験してみてもいいんじゃないか?)」
陽樹とて、御影が嫌がっていることはすぐに察知できていた。
しかし、恋人を持ち、充実した時を過ごす経験を持つ兄からの気遣いとして、
弟にその良さを知ってもらおうかと思いついたのだった。
御影は勉強もスポーツも平均以上にこなすことが出来る。
トップの実力には届かないが、苦手分野は少ない。
そんな弟の珍しく不得意な点が、この女性関係である。恋人との付き合いがある陽樹と比べ、
御影には浮いた話の一つもなかった。のだが。
「(あの子、結構可愛かったじゃないか。しかもあれだけ積極的なら……
きっとうまくいくだろうな)」
陽樹は、兄弟揃って善い春を迎えられそうな気がしていた。

神社に一人で訪れた陽樹は、美霊にいたく歓迎された。
その喜びようは、弟や恋人と一緒に訪ねた時のものより大きかったが、陽樹は気付かない。

いつも通りの参拝を済ませて、即座に帰ろうとした陽樹を、美霊は引きとめた。
「これを、どうぞ」
陽樹の目の前に、銀色の缶が現れた。
「懇意にさせていただいているお茶屋さんからの物ですが……」
美霊が差し出したお茶の缶を見て、陽樹は一瞬きょとんとするが、すぐに缶に手を伸ばす。
「ありがとう。みんなで飲むよ」
「え、ええ。とても良い味ですので、はい」
みんなで、の部分が引っかかり、美霊は返事の言葉に困った。
しかし内心では、一つの達成感が湧き始めていた。

思いを寄せる相手への接近。
距離にしておよそ一歩。たった一歩だけでも、美霊にとっては大きな前進であった。
陽樹に恋人がいることは分かっているが、それでも自分の方を向いて欲しい。
ひたむきに祈り、努力する陽樹の近くにいたい。
美霊は、ひそかに自分に勝算があると考えていた。
なぜなら、今こうして二人だけの時間が存在するのだから。
二人だけの時間といっても、参拝する間のごくわずかな時間でしかない。
だからこの時間を少しずつ延ばして、ゆくゆくは……。

美霊は家路に着く陽樹を見送りながら、次の出迎えの仕方を考え始めた。

貰ったお茶はその日の晩、一家全員で飲まれ、家族から好評を得た。

翌日。陽樹は昨日のお茶を水筒に入れ、学校へ持参した。

放課後になり、例によって一人になるまで居残りして、復習とまとめを終えたところで、
一息つこうとお茶を出し、口へ流し込んだ。
玄妙な味が口の中を刺激し、身体の奥が温まり、頭がすっきり冴えてくるような気分がする。
陽樹は実に御機嫌であった。こんなにいい物を貰えるとは。
今度神社に行くときは、お返しの品を持って行った方がいいだろうと、美霊へ感謝していた。

「あらいい香り」
と、そこに瑛子が姿を現す。陽樹は二杯目を注いだ。
「ああ、いいお茶を貰ったんだよ」
「へぇ、誰から?」
「神社で、美霊さんにさ」
そう答えて、陽樹は二杯目のお茶を飲み干した。
「あら、そう」

瑛子は水筒へ手を伸ばす。自然に、そうするのが当たり前のように。
真ん中を掴み、自分の胸元へ寄せて、わずかに静止した。

「瑛子っ!!」
陽樹が声を張り上げて、瑛子は驚き水筒を手放した。
注ぎ口を下にして、床の水溜りに落下した水筒は、横向きに倒れて中味を吐き出す。
「え? ……あ、えっ……?」
陽樹が声を上げる直前、瑛子は水筒を持つ手の手首を返し、逆さまにしていた。
しかし、瑛子の記憶にそのような行動はない。
身体を動かした憶えはなく、ただお茶の香りが不快だった、その感情しか残っていない。
「何してんだよ急に」
「あ、ご、ごめんなさい……」
拾い上げられた水筒のお茶は、ほとんどが床にこぼされていた。
「私、今、何をしたの……?」
瑛子は床の掃除のことも浮かばず、自分の身体が意識せずに動いていた事実に困惑していた。

2010/06/20 To be continued.....

 

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