ほんの少しでいいから、人が心の奥底で考えてること、
想っていることが解ればどんなに生きるのが簡単だろう――
独りそんなことを思いながら喫茶店でコーヒーをちびちび飲んでいた。
高校生の分際で独り平日の放課後に制服で喫茶店に入り浸る奴が、
一体周囲にどんな印象を与えるのだろうか?
まあ、今この喫茶店にいるのが自分と、
カウンターの向こうで暇そうにしているウェイトレスしかいなければ気にする必要もないだろうけど
「おい、店員さんお給料もらってるならもう少し働いたらどうだ」
「うっさいなー、暇人の道楽に付き合ってんだからこんくらいいいでしょ」
暇人と言うのは、俺のことでなくこの喫茶店の店長のことだろう。
この店にはよく来ているが、ついぞ店長の顔をみたことがない。
「ひまーーー」だるそうな声を出しながら、カウンターの向こうの回転椅子で回っている。
よっぽどひまなんだろうな。
「そんなに、ひまならバイト変えればいいじゃないか」
「変えるったって、たとえば何よ」
俺は、しばらくわざとらしく考えるふりをしたあと。
「その平均より遥かに健康的な体を使って、ホームセンターで力仕事なんかどうだ?」
そう、無駄にニコニコしながら答えてやると
「お前は次来たときコーヒーに雑巾の絞り汁を入れてほしいみたいだな」
ドスの効いた声で、そう言うとどこから持ってきたのか、
小さな包丁を手に持って器用に振り回している。
半分、褒めたつもりなんだけどな。
「ま、まあ落ち着け夏木、冷静に話せば分かり合える。 まずはその凶器を収めるところから――」
「うっさい冗談に決まってるだろ、いくらあたしがバカで野蛮でも刃物振り回したりしないわよ」
そう言って包丁をどこぞに収めると、不機嫌そうにそっぽを向いた。
怒っているのだろうか? しばらく、嫌な沈黙が続いた。
窓から入った夕暮れの光が、店を包む漂白された無機的で真っ白な光を押し退け夏木の肌を照らす
光を背にしている所為かその顔は、酷く憂鬱そうで。
茜色に照らされたその細い腕は、自分の褐色の肌を隠すようにしていた。
「ほめたつもりなんだけどな……」
こういう時、どうすればいいのか解らなくて。
俺は、底にコーヒーが微かに残ったカップを傾けながら、消え入りそうな声で釈明する。
居心地が悪くて体のどこもが、常に何か居場所を探していた。
そう、何かもっと気の効いた釈明を混乱する頭で必死になって探していると。
不意に、こらえている様なかすれた笑い声が聞こえてきた。
「なにお前もしかして、本気で怒ってるか心配した?」
そう言うと何がそんなに面白いのかは知らんが、
目の前のバカはこらえきれないという風に笑い始めやがった。
なにが面白いんだ?
「何って、お前あたしがちょっと黙っただけでそんな取り乱して――」
途中まで言いかけて、また笑い出した。なんなんだ、これは。
「うるさい、お前みたいなチンチクリンに言われたく…な……い」
言い切った後、俺は目の前で機嫌良く、先ほど収めた筈の包丁をまた振り回す乱暴な少女を見た。
「誰が、チンチクリンだって?」
夏木は手にした安っぽく薄白いぎらつきを放つ包丁とは、
かけ離れた夏の晴天を思わせる満面の笑みで質問をした。
「池澤くん、質問にこたえなさい」
この迫ってくる笑顔をどうしたものだろう、どうにも解らない。
俺は万事休すといった感じでカウンターの机に突っ伏した。
「……つかれてんの?」
何故か真上から聞こえた声に一瞬、体が震えた。声はとても近く感じられ、
そんな些細なことが、馬鹿馬鹿しい位露骨にわかりやすく心臓の鼓動を速くし、頬を熱くした。
見なくても自分で解るくらいに紅潮した頬を見られたくなくて、
ゆっくりとおそるおそる視線をもたげた。
夏木は、カウンターの向こうからこちらを覗き込む様にしていて、一瞬その透き通った幼さの残る瞳と
目が合った。が、途端短い髪を揺らし、大げさな音を立てながら向こうの椅子に背筋良く座った。
「本当に疲れてんなら早く帰って布団で寝な」
そういう訳じゃないんだけどな――
「大体、池澤はそんなに賢くもないのに見栄はって伊田高校なんか行くから、
寝る時間が無くなるんだ。 もっと近場の公立にでもしとけばよかったのに」
「よけいなお世話だ」
伊田高校と言うのはここらではまあまあ名の通った私立で俺の通ってる学校。
そして、どうにも最近その勉強のスピードについていけない。塾でもいこうか
「これでも、結構悩んで――」
と、言いかけたところで目の前に何か小さな箱が置かれた。
そう、ちょうどケーキ屋かなんかで見るのと同じ様な箱が。
俺は、しげしげとそれを眺めた後、微かな期待を抱きつつぎこちなく口を開いた。
「なに? これ」
「ケーキ」
スパンと解り易く明瞭な答えが返ってきた。
「俺に?」
「そう」
「なんで?」
「店長が、期限危ないから今日売れなかったら持って帰ってもいいって」
なんか、色々と問題があるような気がする。と言うか、ここのメニューにケーキが在ったのか。
けれどそんな事より変な期待をした自分が恥ずかしかった。
「あたし、別に甘いもの好きじゃないしお前にやる。
それに甘いものって頭の疲れを取るんだろ、ちょうどいいじゃん」
まくし立てるように、目の前のケーキを譲渡する理由を教えてくれたが、
淡い期待を打ち砕かれた所為かどうにも耳に入らない。
窓の外はすっかり暗くなっていて、窓枠の端には小さな街灯の光も見えている。
店内の空気もするどく冷え、冴えていた。
目の前にあるのは白く味気ないケーキの入った箱と、その上に置かれた夏木の健康的な褐色の手。
もし俺が、今ケーキ箱に手を伸ばさず。小さな手のひらを取ったら目の前の少女はどうするだろう。
はねのける? ゆっくり手を離して、適当な当り障りのないことを言って俺を帰らせる?
それとも手を取ってくれる?
もし、起こりえることがこれだけなら三分の一の確立で報われることになる。
しかし、俺はそれであっても手を取れないだろうし、
まして現実はもっと多い選択肢の中から一つを選ぶんだ。到底思い通りにはいかないだろう。
そうして、諦めに冷えた手でケーキ箱を受け取った。
「ありがとう。 これ食って家でがんばるよ」
ずいぶん長い時間座っていた気がする椅子から腰を上げ。ぼんやりと礼を言った。
「ああ、気をつけてな。 もう暗いぞ」
「おう、おまえもバイト帰りは気をつけろよ」
それだけ言って、入り口のドアを押した。そいつは何時も、入ってきたときより重く感じる扉だった。
「おい、池澤ちょっといいか」
「ん、なんだ小林?」
放課後、人影もまばらになった教室で日直の仕事をしていると、おもむろに小林がずいと寄ってきた。
「お前、今つき合ってる奴とかいないよな」
「なんかむかつく質問だな」
「まあそう、がなるなそんな池澤君に吉報なんだからよ」
吉報?なんとも胡散臭い話に思わず聞き返しそうになったが、
そこはこらえて適当に抑揚なげに返事をした。
「小林が俺の為にそんないい話を持ってきてくれるとは驚きだ。 感動で涙が止まらん」
「おいおい、こっちはそれなりに真剣な話なんだぞ。 襟を正せ、襟を」
そう言ってはいるが、小林からにじみ出る雰囲気はどう見たって、真剣とは程遠い。
けれど、こいつが始めに聞いてきたつき合ってる奴、についての話が妙に引っかかった。
もしかして、そう言う意味での吉報なのか? けどそんな事はないはずだ。
こいつとは昔からの付き合いで、夏木のことも、俺がどう思っているかだって知っている。
汚れた黒板消しを持ったまま、小林が次に言い出すことを当てもなく考えた。
カバンをまさぐる小林を横目に、たいした意味もなくチョークの粉で白く汚れた指先どうしを
こすっていると、急に辺りの雑踏が気になった。
しかし、教室のまばらな人影のどれもこちらを気にかけているようではなく。
茜色の放課後は、ただ静かでまぶしい。
「四組の島崎由香さんって知ってるよな。 お前が一年のとき同じクラスだった。
その島崎さんからのお手紙 中身はいわずともがな」
「見たのか?」
「んなわけないだろ、バカ」
小さく気づかれないように溜息をついて、
小林がカバンから取り出した真っ白な味気ない封筒を受け取った。
たしかに全く赤の他人ではないのだが、そんな告白されるほど仲が良いわけじゃない。
去年だってたまたま席が近かったから喋ったようなもので、
進級してクラスが別々になってから話したことなんてないんじゃないだろうか。
俺は何とか、記憶の棚の隅で埃をかぶり半分壊れかかったその印象を思い起こした。
まあ、小林がどうこう言う位に可愛い、いや奇麗のほうが近いかもしれない。
けれどそいつは、肌が磁器で出来たような重苦しい奴だった。
話していて理解できない恐ろしさが、ふっと目の前を横切ったことも少なくない。
何時も薄暗い微笑をして、こちらを見透かしたような風に深淵をかすめる言葉を吐き出していた。
そんな奴は不気味以外の何物でもない。
「ありがたいけど、遠慮する。 大体お前だって知ってんだから、断ってくれたっていいじゃないか」
手持ち無沙汰に今時古風だなと言い手紙をひっくり返したり、透かしてみたりしながらグチると、
小林はしばらく怪訝そうな顔をしたあと、さも呆れたと言う風に大げさな口ぶりで言った。
「もしかして、池澤……お前まだ夏木由加のこと――」
慌てて小林の口を塞ぎ、嗜めるようにその眼を睨んだ。
しかし、教室は既にがらんどうでこの話を耳をする人間は居ない。
自分でもバカらしいと思うくらいに幼い行為だった。
こんなことくらいで恥かしがるなんて小学生でも最近はないんじゃないだろうか。
小林は口を覆っていた俺の手を退かし、こんどは逆に責めるような厳しい口調になった。
「池澤、お前が初めてあいつの事を俺に相談したのは何時だか覚えてるか?
中学一年だぞ。 そんで俺は、幼馴染のお前の為にあれこれ手を打って、
何回だって告白するチャンスを作ってやっただろうが。 それを全部ふいにして、
まだあいつのことが好きだなんてな。 こんな事言いたくないが、ストーカーじみてる」
ストーカーじみてる、ああその通りなのかもな。自分でも情けなく思ってはいるさ、
本当に何回でも告白するチャンスは在った。
第一昨日だってそうだ。あの時に手を取って、好きだと言うだけじゃないか五秒もかからない。
その答えだって夏木なら一瞬で返すだろう。
臆病なんだ、振られたら、笑われたら、そう考えただけで頭の中に死にたくなるような絶望が
いくつも生まれて、そいつらが情けない音をたてながら、玉突き事故を起こして思考をとめる。
それだけのことで、夏木を直視することが出来ないくらいに怖かった。
一体自分は、夏木にどう思われているのだろう。
中学時代のクラスメイト、暇なバイトの適当な話役、ただの顔見知りの客。
なんて女々しいんだ。
けれど、こう自分を批難できるのも頭の中だけでとても、現実に改めることなんて出来やしない。
「まあ、でも今時そんなに一途なのも珍しいかもな。
でも高校のときの恋愛なんて長持ちしないんだって、
お前ももうちょっとおき楽に考えて広く浅く男女交際してみたらどうだ」
ずっと黙りこくっているのを心配したのか、フォローをいれてくれたが。
自分でも小林の言っていることの方が、何となくだが正しいのだろうなと思ってしまった。 |