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枷(仮)



1

「女なんか嫌いだよ」
  教室のざわめきの中で、坂野正人は幼馴染みの健太に呟いた。
「随分と物騒なこと言うんだな。お前は一体誰の腹から産まれてきたつもりなんだよ」
「それとこれとは話が別だろ、健太」
「まぁ、そりゃそうだが……」
  相槌を打つように深く溜め息をつくと、それっきり二人は黙り込んでしまった。
沈黙から成る消沈した空気が広がっていく。
それは、騒ぎ合っている他のクラスメートと差別化を図るかの如く二人を包み込む。
こんな状況を作ってしまったことに対して罪悪感はある。
一応に事情を知っている健太にこんな愚痴を言うのは酷なことだともわかっている。
それでも、心の奥底でたぎるドス黒い不快感を言葉に乗せて吐き出さずにはいられなかった。
「正人、お前さ――」
「ごめんね正人、遅くなって。ホームルームが伸びてね。待ったよね」
  健太の言葉を遮るように高い声が響く。
聞こえてきた方に目を向けると、そこにはやはり彼女がいた。
何かを誇示するように伸ばした背筋が、女子としては高い身長を遺憾なく見せつけている。
運動部の練習によって引き締められた無駄のない手足は、
外観の繊細さからは想像もつかないほどの力を有していることを正人は知っている。
そして、可愛い部類には入るであろう小顔を彩る、黒のショートヘアー。
特別な感情はないが、正人は純粋にそれを綺麗だと思っている。
しかし、そのことは忘れたい過去を回帰させ、正人の胸を締め付けるに事足りるものだった。
そんな正人の胸中を知らずか、その少女は笑顔の花を満開にしている。
正人が唯一気を許せる女子――幼馴染みの洋子だ。
「別に。気にするなよ」
「ありがとね。それじゃあ帰ろうか」
「あぁ。健太も一緒に帰るか」
「いや、俺は今日部活してくから。二人でお先にどうぞ」
  正人と洋子の二人それぞれに視線を送りながら、健太は両手を交差させて“×”を作って見せた。
「そうか。頑張れよ」
「今は暑いんだから、無理はしちゃ駄目よ。水分補給はマメにね」
  二人からの激励を受け、健太は口で三日月を描きながら親指を立てた。
そして椅子から立ち上がると、土色に汚れた“野球部”の文字が
ど真ん中に書かれた鞄を持って教室を出て行った。
その後姿を見送った後、正人も制鞄を持って洋子と目を合わせる。
「俺らも行こうぜ」
「うん。後、ちょっと……」
  洋子は急に声のボリュームを下げながら、正人を手招きした。
その小さな悪戯を思いついた子供のような仕草に頭中で疑問符が乱立しているのを感じつつ、
正人は洋子の口元へゆっくりと耳を近づける。
拳一つ分ほどの距離になったのを確認して、洋子が両の掌でメガホンを作りながら囁く。

「今日も、来て」

 耳を仲介としてそのまま正人の脳内を溶かそうとしているのではないかと思えるくらい
甘く囁きかけた。
実際、洋子の故意の有無に関わらず、正人はその言葉にかなり動揺させられている。
冷汗が全身から噴き出し、洋子と目を合わせるのが恐くなってしまっている。
生唾を気付かれないように嚥下しながら、震える唇から何とか言葉を搾り出す。
「一昨日……行ったばっかじゃん。そんな頻繁には不味いだろ」
「大丈夫、お母さんもお父さんも夜までは帰ってこないし」
「だけど……」
「いいの」
  洋子の確固たる口調の前に、正人は無言を貫き通す他なくなってしまった。
抵抗すべきだと心が訴えかけてはいるが、自分の指を大蛇のように絡み取ってくる
洋子のしなやかな五指の感触が、僅かな理性を脆くも溶かしていく。
自身に内在するのは、負の感情のみで上塗りされた歪な感情だけである。
「正人は悪くない。全然気にしなくたっていいんだよ。安心して」
  力の籠っていない正人の掌を、洋子更に強く握ってくるのがわかる。
伝わる温めりのせいで、心臓が早鐘を奏でている。
それでも、洋子の手を振り払うことは正人にはできなかった。
「あたしが、したくてやろうとしているだけだから」
  ――そして、用意された責任転換への道。その安楽が、再び正人を壊した。
「……わかった」
  正人は、洋子の手を握り返した。自堕落への承諾の証を、行動で以って示してしまったのだ。
「ありがと」
  正人の手を離した洋子の表情は、暗く湿った正人の心中とは真逆に、
どこまでも白く透き通っていた。

「お邪魔します」
  抑揚のない声を携えながら、正人は洋子の部屋の扉をゆっくり開けた。
視界の先には一昨日来た時と変わらない光景が広がっている。
きちんと整理整頓されている本棚には、正人が面白いと言った漫画が揃えられている。
事実、正人が持っていて洋子が持っていない漫画は一冊とてない。
このことに関して正人は、昔から他人に流されることなく
自分のスタイルを一貫し続けている洋子にしては不自然だと常々思っている。
理由を聞いても「正人が面白いって言うんなら」の一点張り。
その内追及する気も失せてしまったが、今尚洋子について疑問に思っていることの一つだ。
結局幼馴染みといえども、何もかもを理解し合える訳ではないのだと結論付ける他なかった。
「そこに腰掛けて」
  苦笑しながら正人は、洋子が指差した方向へと目を向ける。
皺一つない純白のベッド。
一昨日したことなど全て忘れてしまったとでも言いたげなその姿を、正人は見つめた。
途端、胸を占めていた憂鬱な気分が一気に発露し、
この場に居るのが非常にいたたまれなくなってしまった。
「ちょっと、風呂借りるよ」
  上擦りそうな声を何とか制御しながら、正人は洋子と目を合わせないまま部屋を出ようとする。
幾度となく経験してきたこととは言え、やはり緊張しないなどということはありえない。
否、した方がいいのだ。しないということは、自ら非日常を日常に摩り替えたのと同義だから。
「いらないよ、お風呂なんて」
  立ち去ろうとする正人の背中に、洋子が勢い良く抱きついてきた。
嫌でも押し付けられる洋子の双丘の柔らかさに当惑してしまう。
他の女子に同じことをやられていたら、まず間違いなく背筋を冷たい恐怖が駆け巡るだろう。
しかし、正人にとって洋子だけは特別な存在なのだ。幼馴染みというほどき難き関係。
そして何より、洋子は自分を貶めることはしない――そう正人は確信“させられている”。
そのことを再確認しながら、正人は洋子に目をやる。
「汚いから」
「汚くなんかないよ」
  そう言うと洋子は一層、正人の体に回している両腕の力を強めてきた。
そこから伝わる、洋子の揺るぎなき意志。
しかしそれは、正人にとっては、洋子に残酷な決意を強いている自らの弱さの証明に他ならない。
洋子からの思い遣りは、正人にそれ以上の焦燥と罪悪感を与えている。
無論、今尚過去の忌まわしき記憶を清算し切れていない自分を労わろうとする洋子の気持ちを
無下に扱うことなど出来る筈もなく、正人は彼女の為すがままとなっている。
それが彼女を利用した如何に卑劣な行為かは、とうの昔から重々理解しているが、
それでも洋子が用意してくれている逃げ道に安堵し、甘えているのだ。
洋子を一人の個人と捉えずに、一般化することで、“女性を克服した”
という改竄の下にある自己満足に浸ろうとしているのだ。
やっぱり自分は汚いと、正人は思った。その負の認識が、自己嫌悪が、
正人に僅かながらの理性を取り戻させる猶予を与えた。

「ごめん、洋子。やっぱやめよう」
  自分の為に汚れ役を買って出てくれている洋子に対して余りにも失礼だとは分かっているが、
それでも洋子を自分の勝手な都合で汚すよりはマシだ。
正人は絡められた洋子の両腕を解き、彼女の方へ向き直る。
そして説得――しようとしたが、洋子と目を合わせた瞬間、言葉を失ってしまった。
全身が硬直し、にも関わらず震えは止まらない。
デジャヴというトラウマの喚起のきっかけが、今の正人の心を支配している。
そしてその最たる起因となったのが洋子の瞳だ。
“あの時の、あの女の瞳”に酷似している。
洋子は違う、そう頭の中では理解していても、心に深く深く刻み込まれてしまっている傷は
疼いてしょうがないのだ。
これはもう理性ではどうすることも出来ない本能的感覚なのだろうと、
正人は恐怖に彩られた思考の中で必死に答えを捻り出した。
「痛いほど分かる。あたしには正人の気持ちが分かるよ」
  洋子が近付いてくる。ただそれだけのことが恐ろしかった。決して洋子が怖いのではない。
洋子の瞳の雰囲気から呼び起こされる忌々しい記憶が恐ろしいのだ。
自分が正当と信じ、相手が悪だと疑わない、傲慢極まりない灰色の薄汚い瞳。
あの瞳が恐く、それに気圧された自分が情けなかったのだ。
洋子の瞳からそんなものを感じてしまうのは、“あの時”に植え付けられた女嫌い、
もとい――女性恐怖症が原因なのだろう。

「痴漢で冤罪なんてことあったら、誰だって女の子信じられなくっちゃうよね」

 もう二年も前のことなのに、その言葉によって“あの時”の事実が
リアルに正人の脳裏に再生された。
「でも、あたしだけは正人の味方だから。だから、リハビリしよう」
  あの光景を思い出すのが恐ろしく、正人は完全に思考を停止させてしまった。
そんな自分を、洋子がベッドにそっと寝かせているのを感じながら、
正人は繰り返し嘆く。

自分の弱さを。

2007/10/29 To be continued.....

 

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