INDEX > SS > 冬の星空

冬の星空

第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回
第11回 第12回 第13回 第14回 第15回 第16回 第17回 第18回 第19回 第20回
第21回                


21

夜の教室は、相変わらず不思議な感じがした。
昼間は多くのクラスメイトで賑わっているこの部屋も、夜は物音ひとつ立つことなく、
静かに、明日の朝を迎えるのを待っている。
大量に並べられた机と、黒板、時計、ロッカーといった学生生活に欠かせない物が置かれているだけ。
人の気配がほとんどなくなったこの教室で、たった一人だけ自分の席に座っている女の子がいた。
僕がこの1年半ずっと恋焦がれ続けていた、大好きだった女の子だ。
開けたドアに手をかけたまま、窓際の一番後ろに位置する彼女の席に向かって、声を掛けた。
「……美希」
「…………」
僕の呼びかけにも、美希は何も答えなかった。
机に頬杖をつきながら、ずっと窓の外を眺めている。
窓の外では、暗い夜空の中、まんまるい月が誇らしげに輝いていた。
その月明かりが窓から差し込み、美希の横顔を照らす。
綺麗に整えられたストレートヘアと眉、小さい楕円形の輪郭と大きな目。
日本人にしては少し高い鼻立ち、やや薄めの唇。
何度も見ている横顔なのに、少しだけ見惚れてしまった。
「秋穂と……なにしたの?」
不意にボソッと、美希がつぶやいた。抑揚のない声だった。
目線は相変わらず窓の方へと向いたままだ。
「…………」
「秋穂となに、したの?」
黙ったままの僕に、美希が再び問いかけてくる。
頬杖をやめ、ゆっくりと僕の方へ顔を向ける。
そこでようやく気がついた。
彼女の頬を、涙が伝っている事に。
「秋穂と、なにしたの?」
美希の問いかけが続く。
頬を伝う涙を拭く事もせず、しっかり僕の顔を見据えたまま。
「…………」
僕は何も言えなかった。
美希と目を合わせないように、ただ黙って俯くしかなかった。

「抱いたの? 秋穂の事」
「…………」
どうして美希がその事を知っているのか、なんとなくわかってた。
僕と秋穂に何があったのか、きっと秋穂自身が美希に言ったんだろう。
だから今、美希は泣いているんだ。だから今まで、僕を待っていたんだ。
この懐かしい夜の教室の中、一人ぼっちで。
「どうして……? なんで?」
彼女の声が、少しずつ涙声になっていく。
でも、その問いに答えるわけにはいかなかった。
ドアから手を離し、一歩一歩、彼女の席に近づいていく。
静かな教室の中を、上履きのすれる音と美希のすすり泣く声だけが響く。
美希の席に着くまでに、クラスメイト達の席をいくつも通り過ぎた。
秋穂の席、飯田の席、氷川さんの席、村田さんの席……
あっという間の距離なのに、なぜかとても長く感じた。
座ったままの美希を、黙って見下ろす。
それに答えるように、僕の目をジッと見つめたまま、美希が立ち上がった。
美希は女子の中でも背の高い方だ。
こうやって立ち上がると、目の位置が僕とほとんど変わらない。

かつての放課後と同じように、僕と美希は向かい合った。
だけど、もうキスはしない。抱きしめあうこともない。
他に言うべき事が、僕らにはある。
「……答えて。なんでなの? ただエッチしたくなっただけ? だったら私に言えばいいじゃない。
なんで秋穂なの? 他の女の子ともしてみたくなったの?」
「……そうじゃ、ないよ」
「じゃあ、どうして?」
「……どうしてかな」
本当に、どうしてだろう。
なんでこうなったしまったんだろう。どこで、間違ってしまったんだろう。

僕の言葉で、美希の表情が一気に崩れた。
「ひどいよ! ひどすぎるよ! あんなに秋穂に近づかないでって、言ったのに! 
私が一番って、言ったくせに! なんで、なんでなの……」
綺麗にマニキュアが塗られた指で、目元をぬぐう美希。
さっきまでとは違う。今度は本当に泣いているのが分かる。
思わず、慰めてあげたくなる。謝り倒して、許してもらいたくなる。

けど、それはできなかった。

肩に掲げていたバッグの中から、茶封筒を取り出す。
あの日秋穂からもらった茶封筒だ。中にはちゃんと「アレ」が入っている。
「これ、開けてみてくれるかな」
「……なに、これ?」
嗚咽を漏らしながら、赤くなった目で、美希が茶封筒を受け取る。
封筒の中から「アレ」を取り出し、確認した瞬間、
先程まで絶え間なく涙を零していた彼女の綺麗な瞳が、さらに大きく見開かれた。
「こ、これって……?」
「こっちが聞きたいよ。それ、なんなんだ?」
なるべくさりげない調子で、美希に問いかける。
「し、知らない……こんなの、知らない」
美希は持っていた「アレ」を茶封筒ごと投げ捨て、そっぽを向いた。
その態度で、彼女が嘘をついている事は、容易に予想がついた。
床にしゃがみこみ、茶封筒と「アレ」を拾い上げる。
身体を上げる瞬間、彼女の短いスカートから見える綺麗な白い足が、震えている事に気がついた。
「……これだけじゃない。他にももっと聞きたい事があるんだ」
僕は、秋穂から聞いた全てを、彼女に話した。
いじめの事、秋穂との過去の事、あの事件の事、全部。
美希はそっぽを向きながら、黙って僕の話を聞いていた。
彼女は反論する事もせず、僕の話がひとつ終わるたび、顔を青ざめていった。

「なんとか……言ってよ」
「…………」
僕の話が全て終わった後も、美希は黙り込んだままだった。
小さく震え、顔を真っ青にしながら。
「なんとか言ってくれよ! 嘘なんだって! そう言ってくれよ!」
気づいたら、叫んでいた。ガラにもないほど大きな声だった。
一階の職員室まで届くんじゃないかってくらいの音量だった。
けど、それでも美希は何も言わなかった。
「…………」
「……嘘だって、言ってくれよ」
自分が涙声になっている事に、僕はようやく気がついた。
さっきまでと全く逆だ。
僕が美希を責め、僕が涙を流している。
バカみたいに大声を出しながら、惨めにすがり付いている。
暗く、冷たい泥のような失望が這い上がってくる。
もう、だめだ。

――あの日、あの秋の夕暮れの中見た美希の微笑みは、幻だったのだ。
あの日からずっと、僕達は一緒に歩いてきた。
それも全て、僕の願望が生み出した幻だったんだ。
あの明るい、悪戯好きな美希は、いつも弁当を作っていってくれた美希は、
夜の部屋で、甘い声を響かせていた美希は、幻だった。

僕の大好きだった少女――三浦美希は、幻想だったんだ……

 

「……別れよう」
簡単に、その言葉は出た。自分でも驚くほど感情のこもっていない声だった。

「……え? な、なに言ってるの?」
美希がようやく、青ざめたままの顔を向けた。
「そ、そんなの駄目だよ! ぜ、絶対、駄目だよ!」
「……どうして?」
「どうしてって……駄目に決まってるじゃない! そんなの!」
僕の肩を掴み、凄まじい形相で迫ってくる美希。
どうしてこんなに必死になってるんだ?
僕を捨て、高田や村田さん達と楽しく残りの学園生活を送る。
それが美希の望みなんじゃないか?
「駄目だよ……絶対駄目だよ! そんなの許さない! 
そんなの、そんなの! ねえ、要! 絶対駄目だよ? 駄目なんだからね?」
何度も同じ事を言いながら、肩をゆすってくる。
だけど……もう無理なんだ。
「無理だよ。もう無理だ」
「なにが無理なの? さっきの写真の事? 秋穂の事? じゃあ、じゃあ謝るよ! ごめんなさい!
もうしないから! 絶対しないから! 浮気したのだって、全然平気だよ。
一回くらい、誰にだってあるよね? しょ、しょうがないよ。うん。
全然だいじょぶだから、だから、だから……」
美希の声が震え始める。再び彼女の大きな瞳が、涙で濡れ始めた。
――ああ、この子は最後の最後まで、僕に嘘をつくのか。
これが最後なのに。これで全てが終わりなのに。
この期に及んで尚、僕に偽りをぶつけてくるのか。この娘にとって、僕はその程度の存在だったのか。
僕は……僕は……
「離して、くれ……」
肩にかかっていた彼女の手を、ゆっくり外す。
力なく、美希の手はだらん、と離れていった。
「やだよ。要。やだ……」
美希の瞳から、さらに大粒の涙がこぼれ始める。
今日で何度目だろう。美希のこんな顔を見たのは。
あの時みたいな思いをさせたくないから、あんな約束をしたのに。
結局、僕は……道化みたいなものだったのだ。

僕と彼女の一年半は、こんな風に終わるのか……。
「私……私、要の事……」
「……さよならっ!」
何かを言いかけた美希を残して、開きっぱなしのドアから教室を出た。
もう限界だった。この教室にいるのも、彼女の涙を見るのも。
たとえその涙が偽りのものだったとしても、彼女の泣き顔は見たくない。
「ぐう……ううっ……」
廊下を走っている間も、涙が止まらなかった。
美希との思い出が、頭の中に浮かんでは消えていった。
もう二度と戻らない、二度と見る事のないであろう彼女の笑顔が、何度も再生された。
駄目だ。こんなじゃあ、忘れられない。忘れる事なんてできない。
僕はまだ美希の事が……
「要……」
「……っ! 高田……」
階段を下りようとしたところで、高田に出会ってしまった。
なんで今、この時間に高田がここにいるのか、その理由はなんとなく分かる。
多分、美希に会いに来たのだろう。彼女がここにいるって知っていたんだ。
高田は静かな表情で、階段の下から僕を見上げている。
相変わらず整った顔立ちをしている。背も高くて、頭もいい。
少し西洋人の血が混じっているからなのか、彼は僕らとは違う、独特の存在感がある。
性格だって飄々としていて、つかみどころがないけど、悪いわけじゃないと思う。
僕なんかが敵う相手じゃない。
「……じゃあな、高田。もう、これが最後だ」
「…………」
高田にひと声かけた後、勢いよく階段を下りた。
そのまま高田の方を振り向かない様に、下駄箱へと向かう。
高田は何も言わずに、僕を見送った。
それがなんだか、すごくありがたく感じてしまった。

下駄箱から出た先のグラウンドでは、サッカー部の部員達が一生懸命に汗を流していた。
彼らにも随分迷惑をかけてしまった。悔やんでも悔やみきれない。
心の中で彼らに何度も謝罪しながら、校門へと向かった。

校門を出た先に、一人の女の子が立っていた。
茶色いダッフルコートのポケットに手を入れながら、白い息を吐き出している。
僕と美希の関係を変えたのは、この子だった。この子が近づいてきてから、全てが変わったのだ。
あの日、もしこの子と約束をしなければ、どうなっていただろうか。
僕と美希は、今でもあの夜の教室で、逢い続けていただろうか。
「あ……要君。遅かったね」
僕に気づいたその子――庄田秋穂は静かに微笑みながら、ゆっくり僕の方へ近づいてきた。
すぐ目の前にまで来ると、黙ったまま、白くて細い右手をポケットから差し出してくる。
僕も何も言わずに左手を差し出し、秋穂の右手に添える。
あの中庭での約束とは違う。これは握手じゃない。
だから右手じゃなくて、左手だ。
添えられた僕の左手を、秋穂はしっかりと握り、嬉しそうに笑った。
「帰ろっか」
「……うん」
彼女はやっぱり、僕と美希のやり取りをどこかで見ていたんだろうか。
だからこんなに嬉しそうなんだろうか。
わからない。僕にはわからない。
よく考えてみれば、秋穂が何をするかなんて、僕には全然分からなかった。
彼女が何を考え、何を望み、何を成し遂げようとしていたのか、全く分からなかった。
彼女は自分で自分を変えることのできる人間だった。
自分の思ったとおりに、現実を変える力を持った強い人間。
……僕とは違う。僕のような臆病者とは、全然違う。
「……だいじょうぶよ。私はいなくならない。ずっとあなたの側にいるわ」
夜空を見上げながら、秋穂が僕の手をさらに強く握った。
僕が何を考えているのか、なんとなく察したんだろうか。
彼女の視線を追うように、僕も夜空を見上げた。
相変わらず、綺麗な星達が夜の闇に広がっている。本当に綺麗だ。
僕と美希が一緒だった時も、僕と美希が別れた今でも、この空は変わらない。
きっとこれからもそうなんだろう。ずっと変わらない。
僕と、同じだ。

僕もこの空と同じように変わる事ができなかった。いや、怖くて変われなかった。
美希に手を掴まれたあの時、それがようやくわかった。
僕は美希を守りたかったんじゃない。ただ怖かっただけなんだ。
美希との交際がばれて、余計皆から糾弾されることになるんじゃないかって、そう思っていたんだ。
結局自分のことしか考えていなかった。ただ周りの目線に怯え、
自分と美希の関係を隠し続ける事しかできなかった。
もっと他にも方法があったかもしれないのに、もっと他に道があったかもしれないのに、
それを考えようともしなかった。
そして美希を失った。一番大事なものを、失ってしまった。
僕は秋穂とは違う。駄目な人間だ……。

 

 

――もし僕に秋穂のような力があれば、美希との関係も、違うものになっていただろうか。
僕自身が変わる事ができていれば、こうして手を握っているのは、
今でも美希のままだっただろうか。

 

それも、もう分からない。ただ今は、僕の横に秋穂がいる。

それだけが、事実なんだ。

2007/12/20 完結

 

inserted by FC2 system