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ハル ノ ヒナタ



1

 指で肩胛骨を嘗められる感触に喘ぐ。囁かれた言葉がスイッチになったのか、
全身がまるで性感帯になってしまったようだった。脳髄を白く焼く快感の波は、
気持ちよさよりも苦痛として認識される。身体を嘗め回る指から絶えず送り込まれるそれに
僕は逃げ出すことさえ思いも寄らない。結局、始めてから一分と経たずに、
僕は信じられないくらいあっさりと射精した。
  そんな僕の醜態を見て、おねえさんは「あらあら」と、まるで困ったとでも云うように苦笑する。

「ひぃちゃん、もう精通しているのね」

 クスクス、と。
妖艶――今の僕ならばそう評するであろう笑顔で僕を見下ろしながら
「どうしようかしら?」と呟いたおねえさんを見たとき、僕が抱いたのは確かに恐怖だった。
表面上はいつもとかわらない笑顔なのに――否、むしろ、
だからこそ内面に荒れ狂う情念の熱量が強調されて感じられたのかも知れない。
まるで尽きぬ炎を閉じこめた氷のようだ。いつ表面が溶けて炎が溢れ出るか分からない恐怖を、
僕は確かに感じていた。そして、そのことに怯えることしかできなかった。
おねえさんは怯える僕の首筋を甘噛みし、そのまま口を離すことなく顎と手を使って
僕のパジャマを剥いでいく。

「ねぇ、風邪なんて嘘でしょう?」

 嘘じゃない、とは云えなかった。歯からもたらされる触感が血管を伝って脳を揺らす。
どくんどくんと、首筋に心臓ができたような錯覚を受ける。言葉が喉で食べられている感じ。
云いたいことが声にならない。
僕の答えがないと見るや、「ほら、やっぱり」とおねえさんは笑った。
熱い熱い吐息が首に掛かって、思考も意志も融かされてしまう。
コリッと強めに血管を噛まれて不意に自分の身体が踊るのを感じる。
どうやらまた射精したらしい。それに気付いているのかいないのか、おねえさんは首筋をかみ続ける。

「どうして嘘なんか吐いたの? さとくん――お兄さん、
今日はわたしとデートの約束をしてたんだよ?」

「さとくんってば優しいから、ひぃちゃんのために今日はデートをすっぽかしちゃった」と、
悪戯に引っかかってすねる子供の口調でおねえさんは語りかける。

「わたし、今日は携帯電話家に忘れちゃって。待ち合わせ場所に行く途中で気付いたんだけど、
約束してた時間に遅れないようにって取りに帰るのを諦めて急いだんだけど、さとくん来ないし。
ずっと待ってたのにさとくん来なくて。
せっかく作っていったお弁当とかどんどん冷たくなっていくのにさとくん来なくて。
公衆電話からさとくん家に電話しようとも考えたけど、
待ち合わせ場所から見える範囲に公衆電話がなくて、もし擦れ違いになると行けないから、
擦れ違いになってさとくん帰っちゃったらイヤだからずっと待ってて」

 ざくり、と露わになった素肌に爪が刺さる。痛みはない。それは快感であり、
だから苦しいとしか感じない。そのまま爪が捻られて、それをある種の陵辱ととるならば、
僕はあのとき犯された。

「もしかしたら待ち合わせの日を間違えたのかな、とか。」

 †(ざくり)。

「もしかしたら待ち合わせは昨日で、さとくん怒って帰っちゃったのかな、とか」

 †(ざくり)。

「それで、愛想尽かして昨日の夜も電話くれなかったのかな、とか」

 †(ざくり)。

「どうすれば許してくれるのかな、とか」

 †(ざくり)。

「もしかしたら、どうやっても許してくれないのかな、とか」

 †(ざくり)。

「なんでこんなことになったんだろう、とか――」

 畑を桑で耕すように、間断なく爪を突き立てられる。剥き出しの感情をあんな風に
暴力として向けられたのはそのときが初めてで、僕は思考を殺されてしまう。
おねえさんにのし掛かられてから十数分、僕にはもうまともにものを考える思考すらなくなっていた。
自分が今どこにいてなにをされているのかという認識さえまともに出来ない。

 おねえさんは「応えられないんだ」と笑声を滲ませながら、

「――全部、ひぃちゃんの所為だったんだね」

 否定の言葉さえ思い浮かばない。髪の毛をつかまれ、頭を持ち上げられたかと思うと、
次の瞬間には布団にたたきつけられた。首肯でもさせたつもりになったんだろうか、
おねえさんは、それはもう嬉しそうな声で「やっぱりね」と笑った。

「ひぃちゃんが悪かったんだね。そうだよね、さとくんがわたしを捨てるはずないもんね?
ひぃちゃんが嘘吐いてさとくんを家から出さないようにしたんだ」

 そうだよね? と確認する口調なのに、どうしておねえさんは僕の頭を押さえていたのか。
布団に押しつけられて、声を出すことはおろか呼吸だって出来ない僕に、
どんな反応を期待したのか。

「酷いよね、ねぇ。どうしてそんなことをするのかな? さとくんに悪いとは思わないのかな。
子供だからってしていいことと悪いことがあるんだよ? ひぃちゃん、
頭がいいんだから、そんなことくらい分かってると思ってたのになぁ……」

 どうしてかな、と低く呟く。どうしてだろう、と僕は思う。射精の余韻に浮かされ、
かつ軽く酸欠状態になった頭では、どれだけ考えても分からない。
別に、兄さんとおねえさんの邪魔をするつもりなんて全然ないのに。
どうして?
不意に、おねえさんが「わかった」と呟く。

「わたしに嫉妬してるんでしょう」

 嫉妬。
その言葉の意味が分からない。

「お兄ちゃんを取られるって、そう思ってるんでしょう」

 取られる? それが嫉妬をすると云うことなのかと僕は思った。
でも僕はそんなことは考えたことがなくて。
兄さんとおねえさんの仲の良さを羨んだことはあっても、
それは取られるとかそういうことを危惧したのではなくて。
ただ、兄さんにとってのおねえさんみたいな人が、僕にもいてくれたなら、
というそういう欲求があるだけだったのに。
でも、僕には言葉を考える脳は射精の瞬間に精子と一緒に出て行ってしまっていて。
弁明の言葉は首筋を嘗めるお姉さんの舌に食べられてしまっていて。

「ひぃちゃん?」

 だから、おねえさんにとっての真実はもう固着されてしまっていて、なにかを云えた
としてもきっと無駄で。

「次に、こんなことしたらひどいから」

 次は殺すよ? と。
言外に囁かれた言葉が、あれから数年たった今も、僕を縛り付けているのだ。

2

 冬来たりなば春遠からじ――その言葉通りに、冬が過ぎるのはあっと云う間だった。
  気分の問題と云えばその通りだろう。事実、僕は――僕と同学年の少年少女にとって、
今年の冬は例年になく寒冷に感じた筈だ。人によっては人生初めての社会的試練――
多くの者が通過する普遍的試練とは云え、それでも恐れを抱かぬ道理はない。
およそ9ヶ月の長きに亘って続いた試練への備えは真実冬の類縁であり、
だからこそ、それからの解放からくる喜びもまた、強く春を予感させるものだった。
  辛く長い高校受験の冬が終わって、期待3割、不安3割、残りはすべて好奇心と云う心持ちは、
まさしく春の予感に相応しいと云える。
  冬が過ぎれば世が色めくのはいつの時代だって変わらない。その例に漏れず――と云うよりも、
むしろ積極的に混ざるようにして、僕の周囲も慌ただしくなっていく。
僕にとって厳しかった冬は、家族にとってもまた厳冬であったのだろう。
足早に近付いてくる春の気配に浮かれ、本人の僕が浮かれるのを忘れるほどに騒ぎ、
焦り、怯え、喜びまわり、そうして春を迎えるための僅かな準備期間は終わってしまった。

 本音を云えば、もう少しゆっくりと立場と環境の変化に馴染んでいきたかったのだけど、
まぁ、兄さんが涙を流すほど喜んでくれたのなら、それはそれで嬉しいことだ。
普段は自制が過ぎるあの人が、お酒の飲み過ぎで我を忘れるくらいにべべれけになったのを見たのは
初めてだったし、そう云う意味でも釣り合いが取れている。
  始まりの合図くらいは騒がしすぎるファンファーレこそがお似合いだろう。
それが兄さんの笑声であるならこれ以上はない。
  入学当日。
  厳冬の終わりを告げるに相応しい八分咲きの桜が連なる校門への路を、
僕はファンファーレに繰られる行進兵の気分で辿っていく。

 足の向く先にある校舎装いは真新しい。少子化による生徒の減少と校舎の耐久年数超過という
二つの問題に対するアプローチとして、同学区の三大公立進学校の合併と新校舎の設立が
行われた結果だった。新一年を含めた全校生徒数は3000を超す、
私立の総合大学並の人口を誇る巨大公立高校――その第一号生として入学する約1000人の内の一人が
僕と云うことになる。
  まぁ、色々と問題はあるし、意図とは食い違うことも少なくなかったけれど、
それは追々解決していくとして、当分は新入生の気分を満喫するかと思った矢先のことだった。
  バッ――と桜が舞って。
  時折吹く強い薫風に首を回されて目線をやった先にあったのは、可愛らしいデザインの白いパンツ。

 

††††

「じゃあ、今日はここまで。午後は自由時間だから、午前中の新入生歓迎会を思い出して
部活見学に行くも良し、帰るも良し、楽しんでくれたまえ」

 と、初老の担任から初めてのホームルームの終わりが告げられたとき、
教室の空気は僅かに弛緩した。
朝から見るもの聞くものすべてが新鮮で、或いは緊張疲れしていたのかも知れない。
見知らぬものに囲まれながら、一度に大量の情報を忘れないようにと気を張っていたのだから、
無理もないことだと思う。だから、今日はここで終わりだと区切りを入れられたとき、
緊張の糸が切れた気分になったのだろう。
  僕も例に漏れず、小さく嘆息する。これでやっと一息吐けるかと云う安堵の溜め息だった。

 まぁ、そんな緊張とも無縁のヤツもいるらしく。

「ヒナタ。部活見に行こーぜ」

 僕の前の席に座った男子生徒が、好奇心に目を輝かせて僕を振り向く。
「見に行くだろ?」と首を傾げる様子は、小柄な体躯や容貌と相まって無駄に愛らしい。
学校指定の制服を着ていなければ小学生と見まごう姿形をした彼は、
どうやら緊張とは無縁のようだった。
  僕は苦笑しながら首肯する。どのみち、部活の見学には行かなければならない。
外聞を良くするためか、新設校の強みの一つとしたいのか、基本的に僕ら新一年生の全員には
部活への参加が強制されている一方で、運動部や一部の文化部には定員を設けているものもあり、
意中の部活に入部するためには早めに行動を開始する必要があるためだった。
  周囲を見回しても、同じように見学する部の順番を相談している同輩は多い。
これは一足早くここを出ないと、出口当たりでごった返しになりそうだ。

「城内(キウチ)はどこか回りたいところある?」
「別に。とりあえず、適当に見て回ろうぜ」

 了解と呟いて鞄を片手に座席を発つと、そのまま肩を揃えて教室を後にする。

 人でごった返す廊下を、極力接触を避けるように動く。考えることは誰もが同じと云うことらしく、
部活の見学に向かう学生のフットワークは軽い。僕らをしてスタートが遅れたとは言い難いが、
それでも総勢1000を超す生徒がいるのだからさもありなんと云うところか。
確か、同学年でも三つの校舎に散在するように教室が配置されていると聞いたけれど、
とても信じられないような混雑具合だった。なるほど、僕らのクラスに残ったままの人は、
これを見越していたのだろう。
  正直、辟易する。
  僕一人であれば即座に回れ右して教室でのんびりして行くところだけれど、
小柄な体躯とは不釣り合いなほどエネルギッシュな同輩からすると、
そんな状況は意欲を駆り立てられるだけのようだった。
小躍りせんばかりに弾んだ「行くぞ!」と云うかけ声と共に手を引かれ、
僕は人の波への突撃を敢行させられた。
  かき分ける必要があるほどではないにせよ、混雑していることには変わりない。
城内は縦も横もミニマムサイズだから気にならないんだろうけれど、
標準的な体格をしている僕にとって、人混みは注意が必要な環境だった。
とりもなおさず、セクシャルハラスメントと云うのは世代を選ばない。
下手な接触事故で今後の学園生活を不穏当なものにしたくないと云うのは僕の偽らざる本音である。

 しかし、まぁ、目の前の城内に「もうちょっとゆっくり!」と提案したところで
この喧噪では聞き流されるのがオチだし、なにより僕自身もわくわくしてきたところだった。
せっかくの始まりの季節だと云うのに、及び腰では勿体ないと云うものだ。
スタートの合図がなったのだから、意気揚々と走り出さないと。
  僕を引く小さな手を頼りに、人混みを駆け抜ける。
  そして、泳ぐように人混みを抜けて、僅かな開放感を感じたその瞬間、
ふっと緊張をゆるめたのがいけなかったらしい。

「この痴漢ヤロウー!」

 予想外にも横合いから肝臓をずどんと打ち抜かれて、僕は悶絶した。

3

†††

 学園には、都合三つの食堂が存在する。3000人を収容する巨大施設なのだから、
食堂が複数あるのはさもありなんと云うところだけれど、
三つという数でもまだ十分とは云えなさそうだった。
  思いがけず早めに訪れたからこそ座席を確保できたものの、
僕らが着席してから十分とおかずに満席状態、今では座席を探して流浪する生徒
や座席の確保を諦めて食堂を後にする生徒も少なくない。
  一方で、食券販売機の前に長蛇の列が出来ているということもない。
静脈認証型のキャッシュシステムが搭載されたブレスレットをかざすだけで購入が出来るため、
一人一人に必要な時間が短くて済むためである。
購入したメニューの受け渡しも、中学の学食と比べるべくもない。
それでいて値段もコンビニ弁当を買うのと同程度となれば、食べる場所さえ適当に確保出来たなら、
毎日学食って云うのも現実的なアイデアに思えてきた。
  あとは味の問題か。

 目の前に置かれたトレイには、湯気を立てるうどんが鎮座している。
油揚げも天ぷらも載ってない、ドが付くような素うどんである。
素朴なものの方が調理人の腕が分かる――と云うことでチョイスされた一品だった。
  学食のうどんなんて粉末スープと冷凍うどんが構成要素の9割を超すだろうに、
そんなところに調理人の腕が関係するとは思えないのだが……。
  もちろん、選んだのは自分ではない。
  うどんの湯気を辿るように視線を上げて、僕の丁度対面に座る女生徒を見遣ると、
彼女も丁度こちらを観察しているところだった。

「ん? どうした? 遠慮なんてしなくて良いぞ」

 奢りだからって気にするな、と気さくな雰囲気で話しかけてくる彼女に対し、
「や、別に遠慮なんてしませんけどね」と返しながら、手元の割り箸を取る。

「先輩の切符の良い食べっぷりに見惚れていただけです。
先輩こそどうぞお気になさらず貪り食ってください」

「貪れって、お前なぁ……花の女子高生に使うべき動詞じゃないと思うぞ、それ」

 呆れたような口調で苦笑する様子は凛としていて隙がない。
すらりと細い顔立ちに鋭い目尻、うなじの辺りで無造作に束ねられた艶のある黒髪――無頼漢、
と云う単語が脳裏をよぎる。いわゆる男前な女性と云うのだろう、
だらしがないのに鋭いと云う在り方を体現している人を見たのは初めてだったから、
見惚れたという部分だけはあながち冗談ではなかったりする。
  まぁ、そんな真情も口述しなければ意味がなく、額面通りに皮肉と受け取った彼女は
「未だ気にしてんのかよ、ちっちぇえヤツだな」と溜め息を漏らした。

「さっきから悪かったって云ってるだろう。ほれ、今お前が喰おうとしているうどんだって
奢ってやったじゃないか。これで誤解した詫びとしては十分だと思うんだけどね」

「そうだぞ、折角先輩に飯奢って貰ってるんだし、そろそろ機嫌なおせよ」

「脇腹を軽く殴られたくらいじゃないか」
と横の席に座る城内から支援射撃が入る。
  そうなのだ。目の前に鎮座する女生徒、僕らの二つ上の――つまりは三年生の先輩であり、
つい20分前に僕をリバーブローで悶絶させた犯人なのである。

「ほら、同輩だってこう云ってることだし、さっさと機嫌なおしなよ」

「や、こいつが同じ目にあったら機嫌も直ろうってもんなんですけどね」

 軽く殴られただけと城内は云うが、それは現実に三掛けした表現である。
あれは殴打と云うよりも打突に近い。ピンポイントで内臓へと貫通する衝撃、
一瞬身体が宙に浮いたように感じたけれど、それが錯覚でないとしても
不思議ではないほどの拳打だったのである。
あれを「軽く殴られた」ですまされるのは、正直納得がいかないと云うものだ。
割り箸を割ったは良いが全く手を付けていないのは、
偏に殴られた肝臓がずきずきと痛んで食欲がわかないからだったりする。
  まぁ、機嫌が悪いのは、それだけが原因と云うわけではない――と云うよりむしろ、
もう一方の理由の方がより深刻である。

「あんな往来で痴漢扱いされた上に叩きのめされて悶絶するだなんて醜態を晒して……
俺の穏やかな高校生活を返して下さい」

「でもお前見たんだろ」

 と、悪びれた様子もなく切り返されると言葉に詰まる。
ここで「なにをですか」と問い返して醜名が広まるような愚だけは犯すべきではないからだ。
云われっぱなしと云うのは勘に障るが、我が身の不幸を呪うより他にない。

 とまぁ、僕がどれだけ自制しようが、僕以外の人が騒ぎ立てるのだから無意味である。
  先輩は自身の隣に座った女生徒の肩に手を置くと、

「希(ココロ)のパンティー」

 それはもう、底意地の悪い笑顔を浮かべるのだった。
  努めてその表情を無視してうどんを掻き混ぜながら、
「あれは事故です」と流そうとするけれど、
「事故っつったって見たことには違いないんだよな?」と確認を入れてくるところが
いやらしいと云うかなんと云うか。

「事故です」

「見たんだよな?」

「だから事故です」

「それは分かってる。でも、見たのは事実なんだよな? なぁ?」

 ああしつこい。思わず頭を抱えると、僕ではなくもう一人の事件の当事者の堪忍袋が
ぷちんと切れてしまったらしい。

「お姉ちゃん! いい加減にしてよ!」

 そのあまりの大音声に、音を立てて周囲の目が僕らに集中する。
  と、声を張り上げた女生徒にとっても予想外の事態であったらしい。
顔を赤面させてそのまま着席してしまった。
  僕と城内、そして先輩の三人は「なんでもないんでー」「お騒がせしましたー」などと
愛想を振りまき、なんとか集まった耳目を散らさんとする。
  周囲360度にぺこぺこと頭を下げながら、ふっと頭を過ぎった思考。

 ――ああ、僕の学園生活、スタートから転け続けじゃないか。

4

†††

 

 つまりは、こういうことだ。
  僕の斜め向かいで顔を赤くして俯いている彼女は、
今朝桜並木の下で薫風にスカートをまくられたその瞬間を僕に見られた被害者であり、
同時に、僕を悶絶させた加害者である先輩の妹なのである。
  ことの起こりは不幸な事故だ。互いに意図していない場面で起きたのだから、
事故と云って何ら問題あるまい。もちろん、僕だって女性の下着を見ておいて
ラッキーと喜ぶようなアホではない。
すぐに謝ってお互いに忘れるということで話を付けてから別れたのである。
  ただ、それで手打ちになったと思うのは、些か早計であったらしい。
手打ちにしたと云ってもショックを忘れきれなかった彼女は、高校初のホームルームを聞き流し、
常日頃から頼りにしている姉にメールで相談を持ちかけ、
姉は姉で可愛がっている妹の下着を覗き見た(と勘違いしたそうな)フトドキモノを誅すべく
僕らのところに訪れて――
と云うのが、つい20分前の話。
  それから悶絶している間、散々やれ痴漢だの破廉恥漢だのと罵られているところに
被害者である彼女が登場し、誤解が解けたところで先輩がお詫びの印に昼飯を奢ると主張したのが
発端となって、今の状況があると云うわけだ。

 その唯一の純粋な被害者であるところの彼女はと云えば、
姉である先輩に「恥ずかしいこと云わないで」とか「お互い悪気があった訳じゃないんだし」とか、
小声でクレームを掛けている。一方、唯一の純粋な加害者であるところの先輩はと云えば、
もちろんと云うべきか、生憎と云うべきか、「わかった、わかったから」などと辟易した様子で
妹からのクレームを右から左へと受け流すばかり。
  さて、加害者であり被害者である僕は、そんな不毛な遣り取りに加わることなく
素うどんをぐりぐりと掻き混ぜ続け、唯一無関係な城内はと云うと、
僕のご相伴にあずかって先輩に奢って貰ったとんこつラーメンのスープを飲みきったところだった。
「ぷはっ」と縁から口を離してどんぶりを机に置くと、城内は僕の方に向き直る。

「じゃ、行くか」

「どこに」

「なに云ってんだ。部活見学に決まってるだろ。腹ごしらえも済んだことだし」

 否、腹ごしらえが終わったのはお前だけだと内心突っ込みを入れるも、僕としても異論はない。
どうせ今は食欲がないから、素うどんを食べるのでさえ億劫に感じていたところだし、
丁度二人の注意が僕らから逸れているのである。
今の今まで部活見学に行く最中であったことを失念していた手前、
なんと云って厄介事から退散したものかと思案していたところだったから、
城内の提案は正に渡りに船と云って良かった。
  誤解も済んだし、双方ともに詫びも入れた。今が退散するには丁度いい頃合だろう。
  僕は城内に肯いて見せると、正面に向き直る。
対面では、二人はまだ漫才のような掛け合いを続けていた。

「えっと、じゃあ今回の件はこれにて解決ってことで。
俺らは部活見学に行くんでここらで失礼します」

 二人に聞こえるか聞こえないかという声量でそう告げて、僕は席を発たんとし――

「希、そこまで。お前らもちょっと待て」

 ――たところで、耳敏い先輩に呼び止められた。

 思わず溢れそうになった舌打ちをなんとか飲み込んで、「なんですか?」と中腰の姿勢で振り返る。
腰を下ろさないのは、今すぐにでも出発したいのだと云う言外の意思表示のつもりである。
  先輩は僕の態度に気付いてないのか無視しているのか、「まぁ座れ」と着席を促した。
  一瞬、どうするべきかを思案する。とりあえず、朝の一件については話はついたはずである。
ならば別件と考えるのが自然なのだろうが、何についてなのかは分からない――が、
酷く厄介事のような気がする。

予感がする。

経験則から云っても、先輩が口にするのはきっと厄介事の類である。
経験則と馬鹿にするなかれ、十数年掛けて蓄積された経験情報に基づいて導きされたそれは、
機械工学的見地からすると未来予知の一種なのである。
  であるからには、今すぐにでも退席したいところだった。
現時点でも厄介事に巻き込まれすぎているキライがあって忸怩たる思いを抱いているのである。
これ以上は本当に勘弁して欲しい。
  と思うのだが、

「なにしてんだ? 早く座らないと先輩が話できないだろ」

 しっかりと着席し直し、こちらを見上げて問い掛ける城内の姿に思わず頭を抱えたくなる。
獅子身中の虫と云うべきか、厄介事の種は学園生活が始まったおよそ直後から抱えていたらしい。

 溜め息一つ吐き出して、仕方がないと腰を下ろす。
今更逃げると云う選択肢はなかったのだと頭から思い込むしかなさそうだった。
  気を取り直して先輩の方に向き直ると、僕の心情の機微を読み取ったのか、
彼女はいやらしい笑顔を向けてくる。思わず頬が引きつるのを自覚しながら、僕は先輩に問い掛けた。

「一体なんのご用ですか? 今回の件についてはもう落着ってことで良いと思うんですが」

「ああ、それはもう良い。希ももう良いだろ?」

 先輩の問い掛けに、彼女(こころ?)さんも肯いてみせる。
その様子に首肯を一つ、先輩は首を回して僕らを観察してから、
「で、お前らこれからなにをするんだって?」と問うてきた。
  その質問に閃くものがあったけれど、俺が返答を返す前に、城内が質問に答えていた。

「部活を見学に。ほら、俺らは部活に入るの強制されてるんで」

「そーかそーか」と呟く先輩の瞳が光ったように見えたのは勘違いではあるまい。
先輩の企みがなんとなく予想できて、僕は再度頭を抱えてしまう。
先輩はそんな僕を楽しそうに見詰めながら、
「どんな部活に入るのか決めてるのか?」と牽制球を投げてくる。

「べつに? 俺は決めてないけど、日向はなんか入りたい部活とかあるか?」

「特にないよ。ただ、朝早いのは勘弁して欲しいかも」

 頭を抱えつつ返答を返すと、城内は首を傾げてみせる。
ああ、そう云えばホームルームの自己紹介では住んでるところについては言及しなかったんだっけ。

「自宅通学でね。最寄り駅から電車を乗り継いでおよそ二時間かかるわけ。
始業の五分前の八時半に間に合おうと思ったら、六時半には家を出ないと行けない。
それでも十分きついのに、この上さらに朝練とか出ないと行けない部活に入ると
五時起き五時半出なんてことになる。さすがにそれは無理があるからさ」

「へ? お前ン家どこなわけ?」

 城内の質問に住所を答えてやると、城内だけじゃなく、先輩や先輩の妹まで驚いて見せた。

 まぁ、確かに意外なのだろうとは思う。3000人超の人口を収容する施設を新設する手前、
学園の立地は山奥と云って良い場所となり、交通の便も悪いことから、
学生のほとんどが公営の学生寮で寮生活を送っているのである。
  この反応を見たところ、僕以外の三人も多分に漏れず全員が寮住まいであるらしい。
僕は苦笑して、

「まぁ、そういうわけで、朝練とかある部活はパスってことで。
帰りが遅くなるのも終電の関係からパス。
となると、後はやる気のない運動部かヌルそうな文化部くらいしか行き場所がないってこと」

 ですから、と続けて、

「先輩の部活にはきっと入れそうにないですね」

「んなっ!?」

 急に話を振られて驚いたらしい、先輩はかなり奇天烈な叫び声で驚きを表現してくれた。
一瞬、らしくもなく可愛くきょどると、先輩はごほんと咳払いを一つ、
「何のこと?」と首を傾げて見せる。
  僕は「なんのことでしょうね?」と苦笑した。これで少しは意趣返しができただろうか。
先輩は「ぐぐぐ」とうなりながら睨み付けてきたけれど、僕は素知らぬふりをする。
  なんにしても、これで先輩から先輩の部活の話を切り出されることは
なくなったとみて良いんじゃないだろうか。今の先輩の悔しがりようから推すに、
先輩の部活はおそらく運動部、それも朝練に厳しい部活だろう。
その紹介をされる前に「僕は無理です」と意思表示をしたのだから、
先輩は出鼻をくじかれた形になる。こうなると、先輩としても部活の紹介をしにくいに違いない。
  これで後腐れなく、この場を後に出来る――とするには、気が早いことはもう学習済みである。
伏兵の存在はしっかりと考慮に入れてあるのだ。

「城内はどうよ? 運動部か文化部かって云うとさ。やっぱ運動部?」

 僕が話を振ると、城内は「そうだなぁ」と考え込む仕草をする。
そんな城内の様子を食い付くチャンスと見たのか先輩が身を乗り出そうとするが、
そうは問屋が下ろさない。またしても先輩の出鼻をくじく形で、

「でもまぁ、色々見て回りながら決めようぜ。とりあえずは人数制限のある部活からだな」

 学園には最大で三つ同じ名前を冠する部活がある。その多くは運動部であり、
たとえば野球部やサッカー部、水泳部などはその典型だろう。
それぞれ第一から第三までラベルを振り分けられて別個に活動を行っているわけだが、
これには三校が合併したと云う事情が絡んでいる。
多くの運動部では、試合への出場者制限を設けている場合が多く、
学校を合併するように部活も合併する、と云うわけにはいかなかったのである。

 そのため、苦肉の策として提案されたのが、元の学校の部活をそのまま移し、
それぞれ別々に活動させる、と云う妥協案だったのだが、
在校生としてはたまったものではない。練習に使える面積の広さ、時間、
それぞれの優先順位などについて開校ぎりぎりまで協議され、
あまつさえ開校時期が延びてしまったと云う逸話まであるほどだ。
  話が逸れた。閑話休題。
  現状のような部活が並立していることを鑑みると、それぞれの部活で技能や習熟に
差があるのは当然と云える。そして、人気がある部活は早々と募集を取りやめなければ、
他の部活に人員が流れないと云う弊害をもたらすことは容易に想像されることだった。
  そのため、ほとんどの部活では、募集人員を制限し、規定に達するないし
要件が満たされたと判断するや否や、募集を取り下げられると云うことになったのである。
  こうなってくると、およそ事態が早い者勝ちの様相を帯びてくるのは自明の理。
ロジカルに考えれば、他人の勧める部活よりもまず、制限がある方を見に行こうというのが
人情というものだろう。
  案の定、僕の言葉に城内は「まぁ、それもそうだな」と首肯する。
それを見て、僕は内心でガッツポーズをし、先輩はがくんとうなだれてしまった。
  完全勝利! でもなんか目的違わないか?

「人気のところはどこだっけ?」

「第一野球部か第三サッカー部だろ。俺はさっきの条件が満たせてたらどこでも良いから、
城内の方を優先的に決めていこう」

 なんとなく腑に落ちないながらも勝利の余韻を噛み締めながら、
「じゃあ先輩、そう云うことで俺らは行きますんで」と声を掛けるも、
先輩はうなだれたまま軽く手を挙げただけだった。
もう完全にK.O.されたと云う雰囲気を醸し出している。
  ここまですることはなかったかな、と思いながらも、
ここで情を見せると後々に響くことは間違いない。ここは心を鬼にして――と、
席を立ち上がった瞬間だった。

「あのっ」

 計算外の伏兵に、見事に隙だらけの横槍を刺されるのである。

「わたしも、部活見学行きたくて。その、一緒に行きませんか」

 先輩の妹が――あの純白パンツの彼女が、いかにも勇気を振り絞りましたと
云わんばかりの表情を僕らに向けていた。
  それを聞いた先輩がバッと音を立てる勢いで顔を上げるのを見て、
僕はマズイと思ったのだけれど、予想通り城内は気付かない。
単純で人の良い同輩が申し出をあっさりと快諾したのを見るやいなや、
先輩は勝ち誇った笑みを僕に向け、そして、

「希は確か、あたしの部活を見に来るんだよな? じゃあ行こう、今すぐ行こう」

 と喜色満面に言い放った。それを聞いて、妹さんはいつの間にか空になったトレイを持ち、
城内はどんぶりの中の割り箸をくず入れに捨てる。
  僕はと云えば、もう諦めの境地である。もうここまで来れば毒皿だと心に言い聞かせて、
先輩達に続くために席を発った。

 そのまま、先輩の後を付いていくと、食堂の入り口で「あ、そうだ」
と先輩が声を上げて向き直る。今度は一体なんだと構える僕を見て、
先輩は「いやね、」と苦笑を一つ。
 
「そう云えば、自己紹介をしてなかったってね」

 確かに。そう云えばそうだった。
  僕らが首肯すると、先輩は「じゃあ、あたしから」と快笑する。

「あたしは詞葉(コトバ)。志摩(シマ)詞葉。三年だから、一応あ
んたらの先輩ってことになる。よろしく頼むよ。で、こっちが――」

 と、妹さんに手を向けると、彼女は首肯を返し、一歩僕らに近付いて、

「詞葉の妹の希(ココロ)です。希望の希って書いてこころ。一年G組。
えっと、これから三年間、よろしくお願いします」

 と、すっと頭を下げて見せる。僕らは思わず顔を見合わせると、
誰からともなく拍手をしてしまった。すると、彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
その様子があまりに可愛らしくて、僕はつい苦笑してしまった。

 僕が苦笑しているのを見て、城内は「じゃあ、こっちは俺からってことで」と前置きしてから、

「城内孝(タカシ)。生年月日は七月七日、生まれた時間は朝の七時ジャストってことで、
生まれながらにスリーセブンの幸運男児。そこの日向と同じく一年C組だから、希ちゃんはもちろん、
先輩もいつでも来てくださいね!」

 と、やたらテンションの高い自己紹介をやらかした。
僕はホームルームで経験済みだから良いとしても、二人にしてみれば『初対面でそれはないだろ』
という心境であろうと察せられる――と云うのは、まぁ、僕の考えすぎだったらしい。
先輩はもとより、志摩さんも苦笑だったが笑っているのをみると、掴みとしてはそんなものか。
  城内の自己紹介の成功に僕が安堵の溜め息を吐いていると、
先輩が「なに緊張してるんだよ」と茶々を入れてくる。
どうやら今の溜め息を緊張から来るものだと受け取ったらしい。
にしても茶々を入れてくるとは、矢張り底意地が悪い先輩である。
  僕は気を取り直すために咳払いを一つして、全員に軽く目をやった。

 自己紹介とは繋がるための行為である。相手の情報を一つ知るだけで、
相手とのリンクは僅かずつでも太く強靱なっていく。
そんな行為を志摩姉妹と交わすと云うことは、厄介事と縁を結ぶと云うことに他ならないと、
僕の経験則が告げている。
  でもまぁ、どんな悪縁奇縁も縁の類には違いない。
今の時点でもう十分太いリンクが出来てしまったのだから、
今更どうこう云ったところで無意味だろう。
  懸念を二酸化炭素にくるんではき出して、僕はみんなに笑いかける。

「岸見(キシミ)日向。生憎と城内みたいに特筆するべきプロフィールなんてないから
記憶には残りにくいかも知れないけれど、これもなにかの縁ってことで。三年間、よろしく」

5

† † †

 

「だから、あそこではジャンピングエルボーじゃなくて延髄蹴りをするべきだったんですよ!」

「いやいや、ラリアットを喰らわせて転倒したところにドラゴンスクリューでしょ!」

「ドラゴンスクリューですか……なるほど。膝を潰すわけですね!?」

「そうそう。後半、相手方にやられたじゃない? あれがきっと勝敗を分けたに違いないね。
実力は伯仲してたんだから、あそこでドラゴンスクリュー喰らわなけりゃ勝てたんだって。全く。
鬼だの何だのと云われていい気になってるから……」

 食堂から出た僕らは、
先輩と城内に先導される形で三つの校舎を串刺しにする屋外廊下を歩いていく。

 外は少しだけ肌寒い。春とは云え、僕らの住むこの地方には冬の気配が色濃く残っている。
桜の開花が丁度入学式と重なったのはこのためで、
それに関してはここいらの学生は恵まれているんじゃなかろうか。
  学校の敷地に沿うように植えられた桜並木に視線を遣ると、
桜は日差しを受けて花弁を白く輝かせていた。未だ咲ききっていないから今が丁度見頃かも知れない。
満開になれば散り果てまでは駆け足になる。少しずつ暖かみを増す日差しは夏の到来を予感させた。
  とは云え、今は春も初めの4月である。夏が訪れるのは未だ先の話。
今は牛歩なりに環境に慣れていく時期だろう。
  僕は軽く辺りを見回しながら先輩と城内の後に付いていく。
周囲に人影は疎らで、その数少ない人影も駆け足でどこかへと向かう最中のようだ。
ほとんどの生徒は、校舎かグラウンドで部活を見学したりダベったりしているのだろう。
校舎からはもとより、校舎からは若干離れた場所にあるグラウンドからの喧噪さえもが
屋外廊下まで届いては、当地の熱気を伝えている。
それが却って僕らの居る屋外廊下の静謐を深く僕に染み込ませた。
前方、先輩や城内がなにやらプロレス談義で盛り上がっているけれど、
それは蝉の鳴き声のようなもので、静寂を利かせるスパイスの役割しか果たしていない。

 不意に、喧噪の間隙に静寂を見ることがある。
  自分と周囲の隔絶とでも云うのだろうか。属する群体から切り離された自分を強く意識する。
誰からも注意を向けられず、ふと消えてしまいたくなるような――
はぐれてどこか遠くへ彷徨いに行きたくなるような。
  我ながら青臭い話だと苦笑する。ピーターパンシンドロームを気取るような年齢でもあるまい。
今感じているのは、良いところピアプレッシャーの類だろう。
つまり、僕は集団の中で偶発的に発生する孤独の窪みに嵌り込んでしまったに過ぎない。
  城内が笑い、先輩が揶揄し――それを遠くから眺めている僕は、
ある種の透明人間になったつもりになっていて、
  だから、その声は意外なほど僕の意識に強く響いた。

「――ご迷惑でしたよね」

 不意に掛けられた言葉が自分に向けられたものとは気付かず、一瞬空耳だと勘違いする。
自分一人で居たつもりなのに、声を掛けられるとは思っても見なかったのだ。
やれ幻聴でも聞くようになったかとかぶりを振ると、
再び「ごめんなさい」と澄んだ声音が耳朶を打った。
  声が聞こえた方向に視線を転じると、僕に並んで歩く志摩さんの姿が視界に映る。

 志摩さんは前方に視線を投げている。先ほど聞こえたのは彼女のものだろうか。
にしては、彼女の注意は前方に向いたまま、僕に向けられていると云う気配はない。
矢張り勘違いだったかなと結論づけて僕も前に向き直ろうとしたところで、
志摩さんは僕に面を向けた。

「岸見さんにとって、現状は不本意なものでしょう?」

 突然の問い掛けに、なんと応えて良いか分からない。
それ以前に、質問の意図さえよく分からなかった。
不本意ではあるし、迷惑であることもまた確かだけれど、
それは今更どうこう云っても始まらない類のことである。
現状に甘んじている以上、不満を云うつもりはない。
何となれば、僕は城内と別れると云う選択肢もあったのだから。
  僕は少し考える素振りをして、「まぁ、不本意は不本意だけどね」と
志摩さんの言を認めることにした。
  僕の言葉を聞いて、志摩さんは少しだけ眉根を下げる。
それで初めて、僕は現状が彼女によって導出されたものであることに思い至った。
彼女の一言が切っ掛けになって先輩は活気づき、僕はあの場を退出しそこねたのである。
見方によっては、志摩さんがあの状況を支配していたと云っても過言ではあるまい――
伏兵だの何だのと考えておきながら、それを策だと見抜けない自分の愚鈍さに若干苛立つ。

 そんな心情が面に表れていたのか、志摩さんの顔からさっと血の気が引いた。
怒られると思ったのだろう、全身の筋肉が緊張で強張るのが察せられ、
僕は慌てて「ああ、別に良いよ気にしないで」と早口でまくし立てる。

「元々どこに行くとも決めてなかったし。
城内は城内で、入りたい部活なんてのもなさそうだったしね。
どこに行こうかって途方に暮れるところだったから、先輩のところに行くってのは、
ある意味で渡りに船だったんだ。
それにあんな破天荒な先輩が所属してる部活ってのにも興味が――って、悪い。
破天荒ってのは云い過ぎだったかな」

 若干慌ててフォローを入れていたからか、僕らしくもなく失言をしてしまう。
その失言にさらに慌ててフォローを入れた僕の様子が可笑しかったんだろう、
志摩さんは口元に手を当てて上品に苦笑した。

「別に構いません。お姉ちゃんが――姉が破天荒なのは事実なので」

「いつもああなの?」

「ええ、いつもああなんです」

 冗談めかした口調を交換すると、僅かに緊張が薄まってくる。
僕は肩をすくめて「それは大変そうだ」と苦笑を返す。
彼女はやんちゃな子供をもった母親のような風情で溜め息を吐く。

「そうですよ。今日のことだって、大したことないって云ったのに大事にして――」

「このメールでどうやったら勘違いできるんでしょうか」と、
志摩さんは僕に緋色の携帯電話を見せてくる。会話の流れからディスプレイに映っているのは
志摩さんが先輩に送ったメールの本文らしい。ちょっと失礼、と断りを入れてから、
志摩さんの携帯電話を借り受ける。ストラップも偏光フィルタもかかっていない素朴な携帯電話――
志摩さんらしいと思いながら、表示さて居る内容に目を通し――って、オイ。
  僕は思わず額に手を当てる。携帯電話を志摩さんに返す際に、
「これを先輩に送ったわけ?」と念のため確認してみると、

「そうですよ?」

 まるで「なにが聞きたいんですか?」とでも云わんばかりの表情を返されて、言葉を失う。

 具体的な内容について言及することはしないけれど、
おぼろげにしか意味が介せない多種多様な修辞と僕なんかでは思いも寄らない奇抜な感情表現が
横12文字、縦70行に渡る文面を縦横無尽に踊り回り、如何に下着を見られて屈辱だったのか、
どれほどの羞恥に見舞われたのかが語彙の限りを尽くして力説されている上に、
下着を見た男子生徒――つまりは僕だ――の対応がその場凌ぎかつ適当であったかを
言外に匂わせることも忘れていないと云う力作だったことについては明言しなければなるまい。
  そりゃ先輩が勘違いしたのも無理はない――むしろ勘違いするなという方が無理がある、
そんな内容であった。
  実はまだ根に持ってるんじゃあるまいなこの娘。ちらりと視線を投げると、
志摩さんはこらえきれないと云う風に苦笑を深めている。

「あ、間違えました。本当はこっちです」

「さっきのはさすがに冗談が過ぎましたからね。草案でボツにしたんでした」
と苦笑混じりに示された携帯電話のディスプレイには、
先ほど見た内容とは似てもにつかない素っ気ない文面で、下着を見られたこと、
相手とは和解したこと、ショックだから帰りになにか奢って欲しいと云う旨のみが記載されていた。

 ――一瞬、呆気に取られる。
  一拍遅れで先ほどの文面が悪戯であったことに思い至り思わず志摩さんを凝視するも、
志摩さんはすました表情で僕の視線を受け流すばかり。
僕はからかわれた羞恥に頬を染めながら、志摩さんの人物評の修正に取りかからざるを得なかった。
  第一印象からすると気弱で押しの弱い性格かと思っていたのだけれど、
僕の人を見る目は相当腐っているらしい。話してみると、存外志摩さんは気さくなタイプのようだ。
冗談を解して冗談を返す程度の機知はあるし、
一対一で面と向かって居るこの状況でも物怖じしない胆力も持ち合わせている。
先ほどの悪戯を見ると、まじめ一辺倒ではなく茶目っ気もそれなりにありそうだ。
加えてあの状況操作の手腕を鑑みれば、意外と腹黒い人なのかも知れない。
  これは油断が出来ないな――そう思いながらも相好が崩れる。
女性としてではなく友人としてであれば、この手の腹芸を隠し持つ人種は好みとするところである。

「そう云って、本当はさっきのキツイのを先輩に送ったんじゃない?」

「さぁ?」

「どうでしょうね?」と澄まし顔で受け答えする志摩さんの口調は軽快の一言に尽きる。
本当、イイ性格である。僕に出来ることと云えば、
僅かばかりの皮肉を載せて肩をすくめる程度のことくらいだった。

「にしても――」

 苦笑していた志摩さんの表情が僅かに締まり、瞳から笑いの気配を散らしながら、

「本当に、ご迷惑をお掛けしました。今回は、なんとお詫びしていいか……」

 と足を止めて頭を下げる。僕はと云えば、一体何のことについてなのだか、
把握が遅れた所為で掛けるべき言葉が見つからない。

「えっと、ごめん。何のことか分かんないんだけど。謝って貰うようなことってあったっけ?」

 僕が訊ねると、志摩さんは申し訳なさそうに瞳を逸らしながら、
「あの、姉が……」と言葉を濁す。それで、あの廊下での一件――
先輩に公衆の面前で痴漢扱いされたアレだ――を云っているのだと気が付いた。
そう云えば、あれについては全くなにも考えていなかったなと思い直す。
それなりに深刻な事態だと考えていた割には脳天気な話である。
  これは季節にやられたか――自分の想像に苦笑する。
  僕が笑っているのを訝しんでか、志摩さんが不思議そうな眼差しをしていたから、
僕は「大丈夫だよ」と応えて見せた。

「うん、まぁそれなりに色々厳しいけど、フォローが出来ないって程でもないし、
それなりになんとかなりそうな気もするし。
もちろん、先輩や志摩さんにもそれなりに手伝って貰うことになるとは思うけど。
大事にはならないんじゃないかな」

 人の噂も七十五日と云うわけではないけれど、この時期は色々と誰もが余裕のない時期なのである。
自分のことに追われていれば関わり合いがない他人の起こしたイベントも忘れてくれるだろうし、
そもそもに今回の事件はネタとして収束させるって手もあるのだ。
痴漢と間違われたことを切っ掛けに仲良くなったと云うのは人に聞かせるエピソードとしても
申し分ない。こうやって協力を得られるからこその手段であることや、
つい先ほどまで逃げようとしていたことを考えれば調子のいいことだとは思うが、
まぁそこは結果オーライと云うことで。
  僕の反応を見て安心したのだろう、志摩さんは安堵の溜め息をはき出した。
その様があまりに可愛かったから、僕はすこし悪戯心を刺激される。

「でもまぁ、僕の方はいいとしてもさ、志摩さんこそ大変だよね」 

「――なにがですか?」

 不意に話の焦点を自分に映されて、志摩さんは何のことか分からない、と云う風に僕を見る。
僕は苦笑しながら、

「だってほら、先輩が僕を痴漢呼ばわりしてたときにさ――」

 先輩は痛みに身動き一つ取れない僕を睥睨しながら、
階のすべての教室に響き渡るような大声でこんな風に啖呵を切ったのである。

『アンタが覗きしたパンティはなぁ! 入学に向けてウチの妹が気合いを入れるために
穿いた勝負下着なんだからなぁぁ!!』

 僕が苦笑していると、志摩さんもあのことを思い出したのだろう、
月白の肌を瞬く間に真っ赤に染めて恥ずかしそうに口を噤んでしまう。
  まぁ、それも仕方ない。五十人を超す同級生に勝負下着がどうたらと云う話を
聞かれてしまったのである。僕の痴漢疑惑は地道にフォローしていくことで
印象を回復が出来ようものだけど、そもそも志摩さんの下着云々については
マイナスでもプラスでもないただのネタなのである。
そう云うネタに限って長寿なのだから、彼女にとっては災難と云うより他にない。
あれで先輩としては善意の行動のつもりだったと云うから、本当に救いようのない話だった。

「本当に……お姉ちゃんは……」

 志摩さんは顔を羞恥で染めながら、ぶつぶつと恨み言を云っている。
それが可愛らしいやら可笑しいやらで、僕は溢れ出てくる笑声を止めることが出来なかった。
僕の笑い声を聞き咎めたか、志摩さんは恨みがましい目で僕を見詰めてくるけれど、
それも僕にとっては笑点を突く働きしか果たさない。
今度こそ僕は大笑いを始めてしまう。
  僕が突然笑い始めたから驚いたのか、前を歩く二人は急に振り向くと、
怪訝な表情を浮かべている。

「お、なになに、なんかあったの?」

「あー、なんか怪しいことになってんなぁ二人とも」

 城内は純粋な疑問を、先輩は揶揄をそれぞれ僕らに向けてくる。
  振り返ってみれば、僕と志摩さんは向かい合うように足を止め、
志摩さんは恥ずかしげに顔を朱に染めながら僕を見上げているし、
僕はアホの子のように大笑いしているのだから、
端から見れば解釈に困る情景であろうことは察せられた。
  だけど、僕は未だに笑気が去らないから状況を説明することも出来ず、
志摩さんは志摩さんで恥ずかしそうに顔を伏せるばかりである。
城内は不思議そうな顔をして僕の返答を待っていたけれど、
意地が腐ってる先輩は大人しく待っててはくれなかった。
「あーなるほど」とわざと含みを持たせるように呟くと、城内に耳を貸せと云う。
素直な城内は先輩の仕草がいちいち芝居くさいことに気付かない。
「はいなんですか」と頭を寄せたところに、
先輩は僕らにも聞こえるような声量で
「今二人は青春してるんだよ。だからそっとしておこう」と告げると、僕らに対して笑顔を見せて、

「じゃあ希、あと岸見もな。あたしら先に第2体育館の一階に行って待ってるから、
お前らはゆっくりやってこい」

 そんな口上もそこそこに、城内の手を引いて走って行ってしまった。

 僕はさらに声を上げて笑う。ああもう、姉妹揃って癖のある人たちである。
  僕の笑い声を聞いて、怒っているのが馬鹿らしくなったのか、
志摩さんも僅かに声に出して笑っていた。

「まったく、お姉ちゃんったら」

「いい家族じゃない。ああ云う手合いは好きだな、俺は」

「姉に云ってあげてください。きっと大げさに喜んでくれますよきっと。
あんな姉で良ければいつでも差し上げますから」

 心底呆れ果てたと云う風に溜め息を吐きながら笑う彼女の横顔から僅かながらに
誇らしげな空気を読み取った僕は、
「でも、好きなんじゃない? 先輩のこと」と苦笑を投げる。
僕の質問に、志摩さんは苦笑と共に「ええ」と応えた。
  その笑顔を見たとき、僕の思考は停止する。
  その時ようやく――本当に遅まきながら、僕は志摩さんが美人であることに気が付いた。

「わたしの自慢の姉なんです」

 それは大輪の花を連想させる鮮やかさ。
  真情をそのまま面に出したかのような向日葵の笑顔。

 

† † †

† † †

 

 体育館に着くと、先輩が肩を怒らせて待っていた。
自分が言い出したことながら「遅い!」と僕らを咎め立てする先輩を見も、
志摩さんと苦笑を交換する。

「ごめんなさい先輩」「お待たせ、お姉ちゃん」

 二人で先輩を宥めながら、僕は自分が居る位置に思いを巡らす。
  ガイダンスで聞いた話によると第2体育館は二階建ての構造物であり、
1階は剣道場や柔道場などの特別教室、2階はバレーボールやバスケットボールに使われる
コートと云う風に別れていた筈だ。僕らが居るのは1階、つまり特別教室と云うことになる。
体育館の特別教室と云うからには、何らかの武道、或いはそれに類されるなにかを目的として
敷かれた場所であろうと予測が付いた。
  先輩が居る部屋の扉に掛かったプレートに視線を遣と、
予想通りそこには達筆な文字で『練武場』と書かれている。
練武館、と云うのが何のための場なのかは想像も付かないが、
先輩が所属しているのは格闘技やなにやらをやる部活に違いない。
先輩に殴られた脇腹の痛みがじくじくと尾を引いているのも納得と云ったところだろうか。
  思索をまとめたところで丁度先輩は怒りを鎮めたらしく、
「まぁ、仕方ない」と云ってスライド式の木扉を引くと僕らに入室を促した。

 扉の内から香ってくるのは畳の独特な香、汗が染みついた木の匂いがそれに混じっている。
新設とは云え、元の学校から耐久限界年数まで達していない施設の一部は移設されたと聞いたけれど、
この場所もその類なのだろう。
畳に縁遠い家に住んでいるためか僕は新鮮な気分で靴を脱ぎ、
城内や志摩さんに続いて屋内に入ろうとしたところで、目端に先輩が頭を垂れている姿を捉えた。
  ああ、そう云えば、道場と云うのは礼をして這入るものだったか。
  僕が先輩に倣って頭を下げると、先輩は苦笑する。

「別にそんなことしなくてもいいのに」

「そうなんですか?」

「そうそう。礼ってのはね、尽くすべきが尽くせばそれでいいわけ。
知らないヤツに礼を求めても仕方がないし、そもそも礼ってのは心根から来るものであるべきだから」

 礼と云う単語は、おそらく礼儀に換言できるだろう。
つまり礼を知らないくせに礼をしたところで意味がない――礼儀と云うのは意図しなければ
ただの行為なのだと云いたいのだろう。
  それは確かにその通り。でも――

「形式から心底に根付くものもありますよ、先輩」

「――その通り」

 僕が何とはなしにそう返すと、屋内から返答が返ってきた。
先に入った城内や志摩さんの言葉とは違う落ち着いた声音である。どうやら先客が居たらしい。
  先輩を先に通して僕も場内に入ると、一瞬、あまりの光量の差に目が眩む。
特別教室に囲まれている廊下とは違い、窓から差し込む陽光に照らし出された屋内は
不思議なほど眩しかった。
  目が光りに慣れると、まず一番最初に目に映ったのは畳の緑だった。
道場の床を埋めるように規則正しく畳が敷かれ、その外縁を木板床が囲っている。
そのほぼど真ん中、僕らを振り返る城内と志摩さんのさらに向こうに、
僕ら以外のただ一人の先客の姿が目に映る。
にこにこと穏やかな微笑を浮かべるその初老の男性教諭には見覚えがあった。
  僕と城内は思わず頭を下げる。僕らのクラス担任である吉見(ヨシミ)先生は鷹揚に首肯すると、

「城内くんと、岸見くん……で合ってますか?」

 僅かに驚きながら、問われた内容に肯定を返す。
  特別目立つこともしていない始業式の日に、僕らの顔と名前だけを憶えると云うのは考えにくい。
とすると、

「今日一日でクラス全員の名前を覚えたんですか?」

 思わず訊ねた僕に、先生は穏やかに微笑した。

「教師を長年やっていると、このくらいは当然できますよ。
昔は全校生徒の名前だって把握していたんですけどね」

「いやわたしも歳を取りました」と穏やかに云う吉見先生。僕と城内は唖然とするしかない。
僕らのクラスだけと考えても五十人を下らない生徒が居るのだから、
普通はそう簡単に憶えられるものではない。
それをこうも簡単に把握するとは、それだけでも凄いスキルなんではあるまいか。
  驚嘆するやら感心するやらの僕らを面白そうに見詰めていた先生は、ふと先輩に視線を移すと、

「行為は繰り返すことで盤石となる。滴涙が岩の形を変えるように、
一見意味がない行為も積み重なることで意味を成すことがあります。
礼儀と云うものは、つまり行為を発端とした心の整形なんですよ」

 と、先輩に諭す。なるほど、先ほど屋内から掛けられた言葉の続きである。
僕の言説に補足をしているのだろう。かと云ってただ補足をするだけではなく、
「もちろん、礼に意味を込めることは大切なんですけどね」
と先輩を立てるようにフォローを入れることも忘れないところなんかは、
さすがに人生経験が豊富と云うべきか。
  視線を転じると、先輩はらしくもなく恥ずかしそうに俯いていた。
  少し意外に思う。誰にでも気安いタイプかと思っていたのだけれど、
意外とこれは……ふむ。面白いかも知れない。

 我ながら少し奇抜に過ぎる思索に耽っていると、
吉見先生が僕らを見回して不思議そうな表情をする。

「それで――岸見くんに城内くん、それに――」

「初めまして。詞葉の妹で、1年G組の志摩希と云います。姉共々、よろしくお願いいたします」

 先生が自分を知らないことに気付いたのだろう、志摩さんが助け船を出す。
先生は嬉しそうに微笑むと、「これはご丁寧に。そうですか、志摩さんの妹御。
こちらこそ、よろしくお願いいたします」と丁寧な口調で返礼をする。

「岸見くんに城内くん、それに志摩さん――希さん。練武場に一体何の用事ですか?
  今日は特別な行事を予定しては居ないのですが――」

「ああ、それはあたしです。あたしが連れてきて」

 不思議そうに訊ねてくる吉見先生に、先輩が手を挙げてアピールをする。
「部活、見学していって貰おうと思って」

 先輩の言葉を聞いて納得したのか、先生は「ふむ」と黙考することしばし。
それから、苦笑しながら先輩に向き直り、

「志摩さん、当部の活動内容については解説しましたか?」

「え!?」

 問い掛けられた先輩は表情と仕草で狼狽を示した。なんと云うかこの人、
いろんな意味で隠し事に向いてない。
  苦笑する僕を恨めしそうに見ながら「説明、してません」と云う先輩に、
仕方ないと云う風に溜め息を吐いてから、先生は僕らに体正面を向けて微笑んで見せる。

「さて、と云うことですが、今から他の部の見学に行かれる方はいらっしゃいますか。
当部はとても人気のある部活とは言い難い。
特に人気のある部活は、早ければ今日中にでも定員オーバーになってしまうでしょうから、
見学したい部がある方はそちらを優先させて下さい」

 そう鷹揚に云って、順繰りに僕ら一人一人に視線を移す。

 僕はと云えば元から入りたい部活なんてないし、城内もそれは同様のようだ。
志摩さんは当初よりこの部活の見学を決めていた節がある。
そんなわけで、僕らは誰一人として席を辞そうとはしなかった。
  僕らの様子に先生は嬉しそうに微笑すると、
「では、当部について解説をさせていただきますが、その前に」と前置いて、先輩に視線を投げた。

「志摩さん、先ほど演劇部の築路(ツキジ)部長がお見えになっていましたよ」

 築路。
  聞き覚えのある名前に、心の表面が僅かにざわつく。
  先生に声を掛けられた先輩は、いやそうな表情をして、

「つっちー、なにか云ってましたか?」

「いえ、でも、おそらくは例の件でしょう」

「ああやっぱり」と天を仰ぐ先輩。それを苦笑しつつも嬉しそうに見守る先生。
  僕は――酷く不吉な予感をいだかずには居られなかった。

 築路。

「先輩、その築路先輩って、それはもしかして――」

 僕が予感に推されるように先輩に問い掛けたその瞬間。
  道場の扉ががらりと音を立てて開いて、

「失礼します、築路です。志摩さんは――」

 少しだけ硬質な、それで居て女性らしい丸みを帯びた声音が、僕の鼓膜をノックした。
  ああ――なんて偶然だろう。
  経験則は正しかった。志摩姉妹に関わるとロクでもないことになるって分かっていたけれど、
これはとびきりの極めつけだ。
これから数週間、噂が払拭されるのに掛かる手間をこそ経験則がいう厄介事なんだと
思いこんでいたけれど、その見通しは全然甘かったとしか云いようがない。
真打ちは後で登場すると云うセオリーを忘れていた。
  僕は耳馴染みの深い声に引かれるように扉の方に首を回す。

 第一印象は、すこし痩せたと云うことだった。
より正確を期すならば、身長が伸びた所為でボディバランスが変化したために
痩せたように見えたというのが正しいのだろう。
顔の造形が細くなったように感じたのも、耳を隠すように頬を流れる髪の房が
輪郭を狭めているからに違いない。
僅かに化粧をしているのだろうか、全体的な印象がより鮮明なものとなっていて――或いは、
記憶の中に保存されたそれとは明確に異なるものであったかも知れない。
  でも、それでも――理屈抜きに理解する。

「え?」

 道場に足を踏み入れた女生徒は、視線が僕を過ぎるや否やピントを僕に固定させた。
その面に映る感情は混沌としていて正しく読み取ることが出来なかったけれど、
驚いているだけではないと云うことくらいは分かる。
  だって、僕がそうだ。頭の中が混乱していて、驚くなんてことさえ忘れてしまいそうになっている。
自分の感情が出鱈目に拡販されて、マーブル模様を描いているのが自覚される。
きっと彼女も同様だろうと思われた。
  目を離すことが出来ない。それは、首を僅かに曲げると云うことすら許さない、
激流のような情動だった。
  それでも、彼女は一瞬僕から視線を逸らす。
そこに、僕と彼女が抱く感情の違いが表れていたのだろうと思う。

 もう一度僕に視線を戻すと、彼女は確認する口調で問い掛けた。

「――ひぃちゃん?」

「うん」

 懐かしさに繰られて、僕は彼女に笑いかける。

「――久しぶり、ひぃ姉」

 築路浩(ヒロ)。
  ひぃ姉。
  年上の幼なじみ。
  耳元で、二年前の僕が皮肉気に囁いた。

 

 

 ――ついに罪に追い付かれたね――

6

†††

 見つめ合っていたのは、僅かな時間。
  我を取り戻したのはひぃ姉の方が先だった。彼女は一瞬涙を堪えるように顔を歪ませたかと思うと、
転瞬、俯きながら僕にゆっくりと近付いてくる。
  柔らかい畳を歩いているからだろうか、彼女の足音は不思議なほど柔らかい。
とん、とん、とん、とん――一まるでノックをする調子で耳朶を叩く。
それからかつての面影は見られない。
昔――とは云え、ほんの二年前の僕であれば、足音を聞かずとも
気配だけで彼女を特定できた筈である。
それなのに今となっては、こうやって面と向かっていてでさえ、
記憶の中のひぃ姉とほとんどイメージが重ならないことに、僕は驚きを禁じ得なかった。
  二年間――言葉にすればたったそれだけの期間でしかない筈なのに、
ひぃ姉は記憶の中の彼女とは似付かないほどに成長するには十分な時間だったらしい。
  ――だけど、本当に驚いたのはそこじゃない。
  もちろん、容姿が大きく変化したことはそれなりの驚きではあったけれど、それ以上に、
容姿における同一性が認められないにも関わらず、
目の前にいる女生徒がひぃ姉であると云う認識が揺るがなかったことにこそ、僕は驚愕したのである。
  見た目はおよそ別人と云われても信じてしまいそうになるほど変化したのに、
彼女が彼女であると云う確信が薄れない。
  ひぃ姉とは古い付き合いである。実兄よりも長い時間を共有した――
それこそ小学生の頃から実の家族のように慕っていた人なのだから、
二年ほどのブランクなんて憂慮に値しないと云われれば否定の言葉は浮かばない。
それでも、僕は複雑な思いを抱かずには居られなかった。

 気が付けばもう十センチも離れていないほど側まで来ていたひぃ姉が、
僕を見上げながらぽつりと呟く。
姿形は変わってしまっていても、声音にはそう大きな違和感を感じないことが
不思議と云えば不思議だった。

「――背、伸びたね」

 云われてみれば。
  二年前、記憶の中の僕は、いつもひぃ姉を僅かに見上げていた気がする。
当時のひぃ姉の身長が150台後半と身長が高かったことも原因の一つではあるけれど、
僕の身長が低かったことも原因の一つだろう。
だけど、中学2年の春からどんどん身長が伸びてきて――
今では、特に意識しなくてもひぃ姉と視線を合わせることが出来るくらいにまでになっていた。
  自分自身のことながら、いつの間にこれだけ身長が伸びたんだろうと不思議に思う。
毎年の身体測定で身長が伸びているのは知っていたけれど、
現実にどの程度伸びたかなんて実感することは稀だった。
  そうか、と僕は納得する。
ひぃ姉がそうであるように、僕もまた同じ時間をかけてかつての僕から乖離した。
僕がひぃ姉に感じた違和感はひぃ姉だって感じているだろうし、
そも違和感を感じると云うことが現在の僕らの距離を端的に表している。
昔の僕らはもういないから、違和感の元が相手にあるのか自分にあるのかさえ分からないのは
無理からぬ事に違いなかった。
  なんと反応していいか分からずに曖昧に肯いた僕を、ひぃ姉は不満げに睨んで腕を組んだ。
その仕草には見覚えがある。ひぃ姉は拗ねるといつもそうやって唇をとがらせたのだ。
  思わず笑った僕を、ひぃ姉は拗ねた口調で詰る。

「ひぃちゃん、なんでそんなに嬉しそうなの?」

「否、懐かしくてね」

 嬉しそうと云う彼女の指摘は間違いだ。だって、彼女の仕草が見覚えのあるそれから変わっていない
と云う事実は、懐古の情を喚起することこそあれ喜びには至らない。
なぜならそれは、一番変わって欲しかった部分が手付かずで放置されている可能性を
示唆しているからだ。
僕の罪が二年前から今なお変わらず彼女に息づいている証拠の一つになり得たからだ。
  先の僕のそれは自嘲の笑みである。ほら、僕は無様じゃないか。
時間があらゆる問題の万能薬だなんて妄言を信じたわけでもあるまいに、
期待はずれだなんて思っているバカな自分は嘲うより他にない。
  僕が笑うのをやめないのをどう受け取ったのか、ひぃ姉は「まぁいいわ」と短く嘆息した。

「色々云いたいことはあるけど、とりあえずそこに座りなさい」

「は?」

「だから、座れって云ってんの。意味分からない?」

 意味は分かるが意図は分からなかった。まぁ、別に指示を聞かぬ理由があるでもなし、
僕は云われるままにその場に腰を下ろす。
制服越しに感じる畳の床は、思っていたよりも堅くて冷たく感じた。
畳ってこんな感触なんだなと僕が感心していると、ひぃ姉は座った僕の後ろに回って膝建ちになり、
僕の後頭部を胸元に抱え込んだ。
  耳元で、ひぃ姉が囁く。

「改めて久しぶり、ひぃちゃん」

「……うん」

 耳元で囁かれた言葉に万感を返す。
  ひぃ姉の突然の行為に戸惑いは感じなかった。
後頭部から伝わる温度に、ひぃ姉が昔こうやって抱きしめてくれたことを思い出したのだ。
彼女はことある毎に僕と接触を持ちたがったし、
僕は僕で、彼女に抱きしめられるのは嫌いじゃなかった。
こうやって抱かれていると、許容されていると――或いは守られていると実感できたから。
  上半身をひぃ姉に預ける。ひぃ姉の身体は不思議と柔らかくて、
抱きしめられているとどこまでも深く沈み込んで行けそうな気がした。
頭の中にひぃ姉の甘い体臭が香ると同時、全身に安堵が広がっていく。
いけないと分かっていても、それは麻薬的な心地よさで、だから、ここに僕らしか居なければ、
きっと僕はひぃ姉に為されるがままに抱きしめられ続けたに違いない。
  だけど、運が良いと云うか悪いと云うか、ここには衆目があって。

「えっと、先輩どうしましょう? 突然いちゃいちゃし出しましたよ彼ら!?」

「しっ! こう云うときは写メだ写メ! 証拠写真を撮って後々恐喝だ!」

「恐喝って……よしなよお姉ちゃん……」

「こんな公衆の面前でベタベタする方が悪いに決まってるだろ。城内、未だか!?」

「写メ付きケータイなんて新型機種は所持しておりませんサー!」

「大丈夫だ、あたしが持ってる! さぁ、いくぞ――」

「――やめいそこのアホ二人」

 先輩と城内の叫び声が五月蠅くて、僕はすんでの所でひぃ姉にもたれるのを自制する。

 二人に視線を遣れば、下卑た、もといスキャンダルを見つけた記者を連想させる笑顔で
僕らを見下ろしている。くそう、殴りたいなコイツら――よし、ちょっとだけ冷静になった。
  端から見れば、現状、僕らはよりにもよって公共施設で節操なくいちゃいちゃしている
露出狂の手合いと同類だろう。感動の再会と云う情景補正が働いたとしても、
無駄にくっついたままと云うのはいくらなんでもマナーに反する。
先輩や城内が囃し立てるのは業腹だが自業自得と云われても仕方がない。
  まぁ、丁度いいと云えば丁度いい、か。ちょっと残念ではあるけれど、
ひぃ姉がくれる安堵に埋もれるのは危険でもあったのだ。僕にとっても――ひぃ姉にとっても。
  とりあえず、体裁的にも心情的にも、ひぃ姉と離れた方が良いのは間違いない。
後ろ髪を引かれる思いを振り切って、
僕は「ごめん」とひぃ姉に断りながら首元に回された彼女の両腕を丁寧に除けて立ち上がった

「駄目」

 つもりが、ひぃ姉に無理に引っ張られて、それまでより深くひぃ姉に寄りかかる形で座らされる。
  思わず溢れる溜め息。首を回して振り返ると、ひぃ姉は嬉しそうに微笑んでいた。

「あのさ……恥ずかしいから止めて欲しいんだけど?」

「だから駄目だって。ひぃちゃんに会うの久しぶりなんだから。ちょっとくらい、じっとしてなさい」

 そう云って僕を抱く腕に力を込めるひぃ姉。冗談めかした口調とは対照的に
全力で僕を放すまいとするその様を見せつけられて、僕は抵抗の意志を失ってしまう。
ひぃ姉は体裁ってものを解さないほど子供ではない。
事実、今の一連の行動を冗談のように見せかけようとする意図は察することが出来た。
だけど、それでもなおここまで暴走しているのだとすれば、
現状でも自制できる限界まで自制していると見るべきだろう。
  どうしようかな、と考える。力尽くで除けようと思えば出来ないことはないと思う。
二年と云う年齢差を考慮しても、体格が五分であれば純粋な筋力では男性の方に分があるのは
試すまでもない。だけど、出来ることなら僕はひぃ姉に自分から離れて欲しかった。
今、無理矢理引き剥がしたら、ひぃ姉は僕にまた拒絶されたと感じるかも知れなかったから。
  ひぃ姉だってきっと気付いているはずだ。どれだけ力を込めて抱きしめたところで、
大切なものを繋ぎ止めておくことなんて出来ないんだってコト。
なぜなら、ひぃ姉が鎖(つな)いでおきたい『僕』は、もう僕自身にすら手が届かない場所に居る。
過去を保存できたらいいのに。
だけど、過去はいつだって僕らと歩みを揃えることはしてくれなくて――
どうやったって、取り戻すことなんて出来ないのだ。
  だから、ひぃ姉。そんなに強く縛ったってきっと無駄だよ。
ひぃ姉が必死にしがみついている僕(ソレ)は、本当に手放したくないものとは別物なんだ。
それとも、ちゃんと言葉にして、態度に出して突きつけてあげないと理解してくれないのかな?
  人付き合いは飴と鞭――と云えば聞こえは悪いけど、そう云った一面を軽視する事は難しい。
甘くするだけでも厳しくするだけでも健全な関係は育めないし、
それぞれのタイミングを誤れば関係の破綻を招くこともある。
僕とひぃ姉の関係をして健全と云えるかどうかについては甚だ疑問の余地がある上に、
関係も一度大凡の破綻を見ているとは云え、そのセオリーは変わらない。
  許容(アメ)と拒絶(ムチ)――僕は今、どっちのカードを切るべきだろう?
  どちらにせよ、適当なところで切り上げさせないといつまで経っても終わらないな――
そんな風に考えた丁度そのときだった。

「あのさ、そろそろ離れないかお前ら」

 そんな溜め息混じりの言葉と共に、僕とひぃ姉の間に腕が差し込まれる。
なんだと訝しむ間もあればこそ、ひぃ姉の腕は解かれ、僕は解放されていた。
  背中に感じていた体温が空気に解けていく感覚に未練と安堵を感じて自己嫌悪に陥るも、
とりあえず僕は立ち上がる。振り返ると、僕らを引き剥がした張本人であろう志摩先輩が、
ひぃ姉の腕を引いて立たせているところだった。

「邪魔して悪いね。でもまぁ、場所考えなよ二人とも」

「……別に。止めてくれなかったらどうしようかと思ったわよ」

 唇をとがらせながら、それでも冗談の口調で先輩に悪態をつくひぃ姉。僕と離れたことで、
一時的であるにせよ安定したらしい。安堵の溜め息を吐きながら、僕は苦笑してみせる。
ここはひぃ姉に口裏を合わせた方が何かと都合が良さそうだ。

「ひぃ姉は昔から悪のりが過ぎるんだって。にしても、先輩、そんな嫌そうな顔しないで下さいよ。
囃し立てたのは誰ですか、全く」

 先輩は一瞬驚いた様子を見せたものの、すぐに頭を掻きながら「や、アレはその場のノリってヤツ。
ホントにいちゃつきだしたときはどうしようかと思った」と苦笑して見せた。
他の面子を確かめると、城内は「え、アレって冗談だったのか? 迫真の演技ってヤツだなー」
と感嘆して見せ、吉見先生は無言で鷹揚に微笑している。
  なんとか誤魔化せたかと内心安堵していると、
志摩さんが鋭い視線を僕に向けているのに気が付いた。
  怪訝に思って、「あ、えっと、ごめん。面白くなかったかな」と訊ねると、
志摩さんは表情を崩して「そんなことはなかったですよ? どうしてですか?」と首を傾げてみせる。

「ああ、なんでもないならいいんだ。ごめん」

 なにか勘付いたかな――僕は苦笑しながら、志摩さんを観察する。
  先ほどまでの鋭角な雰囲気は欠片も残っていないから、さっきのは僕の錯覚だとしても
いいのだけれど、さっきのひぃ姉の態度が冗談ではないことくらいは見抜いていても不思議じゃない。
志摩さんの態度に不自然なところは一切見られないとしても、
志摩さんは油断できないと評を修正したこともあるし、
とりあえず気付かれていると判じた方がいい、か。
  まぁ、演技だって気付かれたところで今の時点では大した影響もなさそうだし、
手を打つのは後でも大丈夫だろう。

「岸見くん、一つ伺いたいのですが」

 今後の立ち回りについてひぃ姉と話をしないといけないな、と考えていると、
吉見先生が僕に訊ねてきた。

「お二人はどのような関係ですか?
  非常に親しい間柄であると云うことは、先ほどの一件で承知しているのですが……」

 ……なんと応えたものだろう。僕は曖昧に苦笑するしかない。
どう思われているかはわからないけれど、何種類か推すことくらいは出来る。
で、僕が予想するいくつかの解答は、その大半が的を射るものだった。
  たとえば――

「どう見えますか?」

 ひぃ姉が冗談めかして訊ねる。
ああ、またいらんことを――僕が内心でひぃ姉にチョップしている間に、
先輩や城内が挙手をして、指名も待たずに解答を始めた。「恋人!」とは城内の弁。
それに対して先輩が、「いや、恋人ってよりは親戚じゃないか?」と自説を披露し、
志摩さんが「わたしは姉弟のように見えましたけど……」と反論してみせる。
  ……ノリがいい人達だ。頭を抱えたくなるほどに。
  ちなみに、吉見先生の解答は「幼なじみでしょうか?」だった。
  ひぃ姉は微笑して僕の方に面を向ける。僕に答えさせようと云う腹積もりらしい。
別にそれは構わないけれど――僕の解答に合わせて、ひぃ姉は態度を改めてくれるのだろうか。
それだけが僅かに心配だった。
  まぁ、考えても仕方がない。このネタをいつまでも引き摺るのは危険だし、
僕らの関係を周囲に明示できる機会だと考えれば有用な機会でもあるのだ。

「城内は残念、恋人なんて大層なもんじゃないよ。後、先輩も間違い。僕とひぃ姉の間に、
親戚と呼べるほどの血縁関係はありません。吉見先生と志摩さんは大体正解。世間一般的には
幼なじみですし、僕の感覚から云うとひぃ姉――築路先輩は姉みたいなものですからね」

「姉弟ですか」

「そー云う感じです。ちっちゃい頃お世話になってて、
でも築路先輩が受験の時にちょっと疎遠になって――」

 ――疎遠になった原因を切っ掛けに僕らは断絶して、そして――

「――今日こうやって再会したって訳です」

 ――断絶したまま、こうやってまた再会した。

 再会を予期していなかったと云えば嘘になる。だけど、予定よりも大幅に早い――一見して分かる。
ひぃ姉はまだ完治していないに違いない。シナリオの修正が必要なのは明白だった。
だから、と云うわけではないけれど、僕が僕らに設定したのは幼なじみと云う関係。
僕らの関係が歪む前から、もう一度『僕ら』をやり直す。
  僕が簡単に間柄を説明すると、先生は得心したと云う風に肯いた。
その後ろで先輩達も疑問が解けてすっきりしたのか、リラックスした風である。
ひぃ姉は不満そうに唇をとがらせているけれど、なにも云ってこないあたり、
とりあえずは『幼なじみ』をやってくれるらしい。
  これで一安心、と云いたいところだけれど、ここで話題を変えておかないと、
いつまでもこの話題を引き摺られる可能性がある。
僕は雑談する全員に満遍なく聞こえる程度の声音で、ひぃ姉に話しかけた。

「そう云えば、ひぃ姉――じゃなくて、築路先輩」

「別にひぃ姉でいいわよ。なに?」

「否、志摩先輩に用事があるみたいだったから。なんだったのかなってさ」

 僕の一言に、志摩先輩が表情を硬くする。あ、これは聞かない方が良かったのかと思ったけれど、
今更間に合うはずもない。ひぃ姉は「ああ、思い出した」と呟くと、
志摩先輩の両肩に手を置いて、一言。

「よろしく主演女優」

「……だから、あたしゃやんねーって云ってるだろーが」

 笑顔のひぃ姉とは対照的に、志摩先輩は憂鬱そのものと云った態度で溜め息を一つ。

「なんども断ったよな、あたしは。あたしは役者なんて柄じゃない。
それに、他の面子――演劇部の副部長や囲富(イトミ)達は納得してるのか」

「いいえ、志摩さんの抜擢には大概のメンバーが否定的かな。演技は一朝一夕じゃ出来ないから、
素人を起用するのは不安なんだろうね。だけど、わたしは志摩さんなら大丈夫だと思ってる。
それに、なんど断られても諦める気はないって、わたし云わなかったっけ?」

「否、確かに聞いたけどさぁ……つっちーって強引だよな。それだけ強権振りかざしてると、
部活の面子に放逐されるんじゃないか?」

「もうすぐ引退だしね、わたし。それに、みんなはわたしの云うことなんて聞かないよ。
もちろん、僻みじゃなくて良い意味で、だけど」

「はぁ……こりゃ囲富が苦労するはずだわ」

 呆れたような先輩に併せたわけではないけれど、僕も同時に溜め息を吐く。
  なんつー暴君っぷり。よくもまぁ、演劇部はひぃ姉を部長にしているものだ。
もっとも、ひぃ姉は昔から人心を掴むのがとにかく巧かったし――
それはもちろん、ひぃ姉が先の言とは異なり暴君そのものではないからなのだが――、
中学の頃から演出についての心得もあったから、
ひぃ姉を部長にした理由を推すならその辺りになるのだろうけれど、それにしたって――
  辟易した様子の先輩に、微笑みながら勧誘を続けるひぃ姉を見ていると思わずにはいられない。
  なんたって面倒をしたがるんだか。ひぃ姉以上の適材なんていくらだっていただろうに。
  まぁ、部外者の僕が推したところで正解に手が届くとは思えないし、
先輩の言端にたびたび上る囲富さんってのが誰なのかは知らないけれど、
とりあえず演劇部の人たちには自業自得だと諦めて貰おう。
選択に責任が伴うのは、どこの組織だって同じなのだ。
  問題は志摩先輩の方か。全容を把握したとは言い難いけれど、聞いている範囲の情報から察するに、
先輩に関しては完全なとばっちりでしかないらしい。
いやよいやよも――と云う風情であれば放置するところなのだけれど、
本格的に嫌がっているようだし止めに入らないのは後輩としては失格だろう。
それに、先輩には僕にしがみ付いていたひぃ姉を引き剥がしてもら
った恩もある。
  効力が疑わしいのはさて置くとしても、なにもしないのは人道にもとると思い直し、
僕はひぃ姉に制止の声を掛けた。

「ひぃ姉、そこまでにしなよ。さすがに無理矢理ってのは良くないんじゃない?」

「無理矢理ってほどじゃないでしょ。お願いしてるだけなんだから」

「お願いも繰り返すとプレッシャーになるんだから、お願いしてるだけなんて云えないだろ。
それに、ぼくも演劇部の先輩の意見は正しいと思う。素人を役者にしようだなんて無茶が過ぎる。
演技は職人芸なんだから」

 女は生来の役者であるなんて文言もあるけれど、それとこれとは話が別で。
  舞台に立つ役者に求められる職能は、日々の研鑽を抜きに成立するものではない。
もちろん、高校の演劇部レベルと限定してしまえば未習熟は致し方ないとは云え、
ぽっと出の素人よりは時間を掛けて修練を積んできた部員に任せるのが適当と云うものだろう。
まして、ひぃ姉が志摩先輩に依頼しようとしている役所は主演女優である。
主演女優と云えば、舞台における最重要要素と云っても過言ではない。
そんな役を外部の、しかも素人に任せようと云うのなら、反対が起きるのは当然のことに思われた。
  ひぃ姉はそんなことは承知していると首肯する。

「だから、今頃わたし以外の部員は主演女優の決定を急いでるんじゃないかな。
志摩さんが引き受けたら面倒なことになるし」

「じゃあ勧誘止めろよ」

 思わずと云った風に突っ込む先輩。や、それは完全に仰る通りだと僕も思う。

 ひぃ姉には我を貫こうと云う強い意志なんて持ち合わせてはいない。
ただ、任されたのであれば自分が満足できるように行動しようとしているだけなのだ。
だから、他の演劇部員が別に主演女優を決定すれば、ひぃ姉は強く反対することはしないだろう。
決定に対しては逆らわず決められた枠内で最大の結果を導出する――
ひぃ姉は、所謂そんなタイプの人間だった。
  つまり今回のことは、先輩にとっては本当にただの災難でしかないのである。
引き受けても演劇部内からは反対され、引き受けなくてもひぃ姉の嘆願を
聞き続けなければならないのだから。
  僕は思わず溜め息を吐いた――と、今度もまた先輩のそれとタイミングが重なる。
僕らはどちらからともなく視線を合わせると、苦笑を交換した。

「まぁ、勧誘はここまでにしようよ、ひぃ姉。先輩だって部活があるだろうし、
ひぃ姉だってそろそろ部活に戻らないと駄目なんじゃない?」

「そうね、今日はここいらが限界かな。わたしが戻らなくても部は機能するんだけどね」

 それでいいのか部長、と思わず呆れてしまった僕を無視して、ひぃ姉はなにか思い付いたように
「そう云えば」と人差し指を立てた。

「ひぃちゃんって今なにをやってるの?」

「部活見学。僕らは全員部活に所属しないといけないからね。
めぼしいところを探している最中で――」

 ……あ。
  しまった、と思ったときには遅かった。
  ひぃ姉は僕の側まで瞬きの間に寄ってくると、
僕の両手を掴んで持ち上げながら面を微笑みに崩して一言。

「――ひぃちゃん、演劇部に来なさい」

 声音は低く沈むよう。表情が笑みを作っているのとは対照的な酷く切迫したそれに、
僕は思わず言葉を失う。文言は一句も違わず予想通りだったと云うのに、
そこに込められた意図は僕が考えていたそれとは重みが異なったからだ。
  先ほど抱き付かれたときと状況は同じだった。ひぃ姉は僕にしがみつこうとしている。
離れまいとしている。それこそ、全身全霊を掛けているとでも云うように。
事実、ひぃ姉に捕まれた掌は、痛みを感じるほど強く握り締められていて――
そこに込められた力はきっと、溺れる者が藁を掴むときのそれと酷似しているに違いなかった。
  そのことに、僕は忸怩たる想いを抱かずにはいられない。
  それだ。
  それこそが、僕がひぃ姉から切除しなければならない患部である。
  それこそが、ひぃ姉の病巣であり、僕の罪業の証なのだ。
  僕はひぃ姉の手を握り返すと、ひぃ姉に笑いかける。

「とりあえず、演劇部はまた今度にするよ。今から志摩先輩のところを見学する予定だし――」

 それに、と言葉を繋ぐ。

「つもる話もあるだろうから、また今度、ひぃ姉のところにおじゃまして聞きたいから」

 病巣を切り落とすのであれば、僕自身も痛みを負う覚悟が必要だった。
  贖罪のルール――どんな苦痛も、どんな心労も、背負う覚悟はとうの昔に出来ている。

7

†††

 ――で、

「……なんで俺はこんなところにいるんだろう」

 炬燵の中で胡座を掻きながら、僕は小さく愚痴を漏らす。
独白を聞き咎めるものはいなかった。そもそも、ここには僕一人しかいないのだ、
応答など期待できようはずもないのは知っていたけれど。
けれど――

「と云うか、なんで一人なのさ」

 何度目になるか分からないぼやきを聞くものは相変わらずなし。あーやってらんねぇ、
とクッションに倒れ込む。
視界に映る天井は初めて見るそれだった。白光を放つ丸い蛍光灯も、
クリーム色の壁紙に掛けられた時計が立てる音も、北側に備え付けられた書棚に収められている
本のレパートリーも、南向かいの窓から見える風景も――なにもかもが見知らぬものばかり。
他人の部屋なのだ、見知らぬのは当然である。
だけど、そこかしこに見覚えがあると云えば矛盾を指摘されるだろうか。
たとえば――部屋全体の色彩のバランス感覚、電灯が調度品や家具に形作る陰影の雰囲気、
化粧棚や小物入れの配置、時針が時間を刻む音、身を抱き留めるクッションの感覚、
そしてなにより花のそれに似た匂い。そのどれもが脳の引き出しの中にあるそれとは少しずつ違って、
だけど同時に、感覚が記憶しているそれとは完全に合致していた。
視覚が、聴覚が、触覚が、嗅覚が――僕の認識世界を構成する全ての要素が、
ここは僕の居場所なのだと主張している。
もちろん、初めて入った部屋である。似た間取りの部屋も記憶にない。
さらに云うなら、見ず知らずの部屋に居座って自分のものだと主張するほど
太い神経をしているわけでもないと来れば、見覚えのある理由もある程度限定されて来る。
ミクロではなくマクロ的な意味合いで、部屋の有り様に表れるものは使用者の気質や性格であり。
この部屋は、慣れ親しんだ顔見知りの――つまりは、ひぃ姉の部屋なのだった。

†††

†††

『ひぃ姉のところにおじゃまして――』

 思い返せば、今日一番の失言はそれだったのだと思う。
僕の言葉を聞いたひぃ姉は電流でも流されたかのように顔を跳ね上げると、僕の両眼を凝視した。

「……ひぃちゃん?」

「なに?」

 なにかおかしなコトを云っただろうか――そのときの僕はそんな脳天気なことを考えていたのだから
始末に負えない。ひぃ姉が驚くのは当然であり、気付かなかった僕はどうかしていたんだろう。
『ひぃ姉のところにおじゃまして』だなんて。
それは、二年前のあの日からずっと避けてきたことだった筈なのに。
兎角、僕が取り消すこともしなかったことから、
失言をそのままの意味で受け取ったひぃ姉がどう感じたかについては、今更推すまでもない。
ひぃ姉は緊張に凝固させていた表情を解かすと、零れんばかりの笑顔を浮かべた。
化学反応を思わせる急激な変化に僕は戸惑う。ひぃ姉はどうしてこんなに嬉しそうなんだろう?
僕は今、何かしただろうか? 僕は今、ひぃ姉になんと云ったんだっけ――
思考が空転する。

「ひぃちゃん、ちょっと待ってて! すぐ帰ってくるから、ここで待ってて!!」

 喜色を顔に貼り付けたまま、ひぃ姉は廊下に飛び出していく。
僕はと云えばなにがなんだか分からないで、馬鹿のようにその後ろ姿を見送った。
唐突な展開の変化に思考がなかなか追っ付かなかったのだ。
えっと……? 頭が上手く起動してくれない。待っててってどう云うことだ。
部活に行ったんじゃないのか?
状況を忘れて考え込むのは僕の悪い癖で、その癖が発動したときは大概が面倒なことになる。
このときもそうだった。待ってろなんて言葉は無視して、この場から離れるべきだったのだ。
もちろん、こんなことは後になってから述懐するから云えることで、
そのときの僕には思いも寄らなかったのだけど。
開けっ放しにされた扉から覗く廊下を呆然と見詰めていると、
三分ほど経った頃にひぃ姉は戻ってきた――何故か鞄を肩に掛けて。

「……ひぃ姉?」

 走って来たのだろう、はぁはぁと肩を揺らしながら呼吸を荒くする
ひぃ姉におそるおそる声をかける。
なにも走ってこなくても、とか。
部活中じゃなかったの、とか。
待ってたけどなにするつもり、とか。
聞きたいことはいくつか思い付いたけれど、言葉にして訊ねることはしなかった――
否、できなかったと云う方が正しいか。練武場の唯一の出入り口を防ぐように立ちながら
息を整えるひぃ姉は、疲労に顔を歪めながらも笑っていて、見るからに平静を欠いている。
まぁ、それは僕も同様だった。ことがあの場面に至って、
ようやく自分が何らかの失敗をしたと自覚した僕は常にないほど混乱して、
まともに物を考えられる状態ではなかったのだから。
どう対応して良いか迷ったまま停止した僕とは異なり、ひぃ姉の行動は迅速だった。
吐息を整えるのもそこそこに僕の側まで来て、全身で抱きかかえるように
がっしりと僕の腕を掴んだかと思うと、
「じゃあ、行きましょ」と一言断って僕をお持ち帰りしたのである。

†††

†††

「なんだかなぁ……」

 何度目になるか分からない溜め息を繰り返し吐きながら、僕は寝返りを打つ。
他人様の家で横になるのは礼を失する行いだとは分かっているのだけれど、
家主が不在なのだから咎められることもない。
客を無理矢理連れ込んだ癖に、自分は出て行ってしまうだなんて、
ひぃ姉も一体なにを考えているんだか。
出かけるにしても、なんの用事でどのくらい待たされるのかくらいは云って行っても
罰は当たらないだろうに、ひぃ姉が置いていったのは、
寮室の扉の鍵を閉めるガチャリと云う金属音だけだった。
もちろん、それで閉じこめられたと云うことはない。
内側からなら当然のように好きに鍵を開けることが出来るし、
学校の着工と同時期に建てられた寮は真新しく、
オートロック錠なんてものまで完備されているから、
開けっ放しで出て行ったところで問題はないのだ。
……本当に問題なければ素直に待つなんてしなくて、出て行くところだけど。

「……女子寮から男が一人で出て行くなんてマズイよなぁ……」

 そう、最大の障害は、ここが女子寮だってことなのだ。ここが男女共用の寮であれば、
男が一人で正面玄関から出ても問題ないだろうけれど、女子寮ではそうはいかないんじゃなかろうか。
事情があるとは云え女性しか立ち入りを許されていない場所を臆面もなく闊歩する度胸は
僕にはないし、男子寮なら兎も角、女子寮の構造なんて分かるわけもなく、
裏門から出て行くと云うプランも検討段階から廃棄せざるをえない。
いっそ窓から、と考えもしたけれど、地上三階からベランダ沿いに降りる間に
万が一にでも人目を集めたとしたら、それこそ言い逃れなんて出来るもんじゃないだろう。
他にも色々と脱出方法を考えてみたけれど、どの案も色々と問題がありそうだった。
一件退出自由に見えるこの場所は、多角的な意味で脱出困難な監獄に等しいの
である。置いて行かれた腹癒せと云うわけでもないけれど、これじゃあくつろぐくらいしか
することがない。

 南側の窓に視線を遣ると、カーテン越しの空が茜に染まっているのが見て取れた。
ひぃ姉に引かれて半ば人形的にこの部屋に連れ込まれた時は、
確か夕焼けの気配なんて微塵もなかったように思う。気付けば、相当長い時間滞在しているらしい。
そう云えば、今は何時頃だろうか。あまり遅くなるようなら、
兄さんたちに心配をかける前に電話でもした方がいいんだろうけれど――
考えながら視線を時計に移す。
正確な場所は分からなかったけれど、大凡の位置はアタリをつけていた。
二年前までは文字通り毎日ひぃ姉の部屋に入り浸っていた僕である、
調度品の配置の癖くらいは分かるのだ。
たとえば、ひぃ姉は寝起きが弱いから、ベッドに横になった姿勢からでは
絶対に手が届かない範囲に目覚まし時計が置いてある筈である。

「よっ、と」

 上半身を起こし、丁度対面に位置するベッド周りをなぞるように視線を動かすと――見つけた。
ベッドの横に置かれた腰丈ほどの高さの書棚の上に置かれた半月型のアナログ時計。
僕は思わず微笑ってしまう。配置が同じだけじゃなくて、
使っているものまで同じなんだと気付いたからだ。
不意に懐かしさがこみ上げてきて、思わず炬燵を抜け出して時計を手に取りに行く。
炬燵から見たときとは違い時計には細かい傷が目立っていて記憶の中にある姿のままでは
なかったけれど――手の中に感じる重みと感触に、言葉を忘れるほどに懐古の念が喚起される。
この時計は、まだ僕が小学生の頃にひぃ姉にプレゼントしたものだった。
誕生日プレゼントにって/     /と買いに行ったんだっけ。
文字盤にプリントされた羊のイラストが可愛いってひぃ姉は気に入ってくれて――
なんて懐かしい。余りに懐かしすぎて、

 ――窓から投げ捨ててやろうかな。

 そんなことを考える。
使えないって程ではないけれど経年劣化も著しいし、なにより見窄らしいじゃないか。
買い換え時がとうの昔に過ぎているなんてことは一目瞭然なのに、
どうして今でも使っているのか理解できない。きっとなんとなくタイミングを逸して
買い控えしているとか、そう云うパターンじゃなかろうか。
なら、いっそ壊れてしまった方が新調できていいんじゃなかろうか。

 本当にそう思っているのか、とか。
内心に反響する自問の言葉を無視して、とりあえず勢いだけで投げ捨ててしまおうと
向き直った瞬間、窓から差し込む夕日が鋭く認識を串刺しにして、僕の思考は眩んでしまう。
――脳を冒すような炎色が滲む視界の中、僕の意識は過去を幻視する。
そこは茜色の水槽だった。半透明のレースのカーテン越しに、余光の朱がゆらゆらと揺れる。
柔らかい光に照らし出されたそこは水底の気配が漂い、荒廃の静寂が漂っていた。
そんな中、プレゼントした時計の秒針がカチコチと音を鳴らし、同心円状の波紋を広げていく。
脳髄に連想が焼き付く音がする。
僕は魚だ。この場所でしか活きられない。
心と身体は本質的に同じものだと思う。
身体が呼吸するように、心も息継ぎをしなければ窒息してしまうんだから。
だけど、心の厄介なところは、身体のように物理的な法則には則っていないところで。
心の呼吸器の構造は、きっと一人一人違うのだ。
僕のそれはえら呼吸に似たシステムで運用されているに違いない。
だから、『いつも』なんて大気中では上手く呼吸が出来なくて――
『ひぃ姉と一緒にいられる場所』だけが、僕にとって呼吸できる環境だった。
――今更の話だ。
頭を振って、霞が掛かったような思考を振り払う。
ここはあの水槽ではなくて、
今はあの頃じゃなくて、
そしてなにより、僕はあの頃の僕ではない。
どれだけ似せたところで、この部屋はもはや無条件で安堵をもたらすあの部屋ではないし――

 玄関の方からガチャガチャとノブが回される音が聞こえてきた。ガチャガチャと何度も繰り返して、
そこで鍵が掛かっていることを思い出したんだろう、鍵が回されるガチンと云う金属音。
破裂音を響かせてドアが開かれたかと思うと、続いて聞こえたのは細い廊下を叩く足音だった。
昔と同じだ。先に部屋に帰ってきた僕のところに、
ひぃ姉はいつも足音を鳴らしながら駆け込んでくるのだった。
僕は廊下と部屋を繋ぐ扉に視線を遣る。

「ひぃちゃん!?」

 ほとんど同時に部屋に転がり込んできたひぃ姉が、息を切らせながら僕の名前を呼ぶ。
呼んで確認しなければ、僕が残っているかどうかの確信が持てなかったんだろう。
そこまで分かっていながら、僕はひぃ姉に笑いかける。

「どうしたのさ、慌てて。俺がどうかしたわけ?」

 我ながらなんて白々しい。でも、ひぃ姉はコロリと騙される。
慌てた表情を崩しながらへなへなとその場に座り込んで、
気が抜けたような――今にも泣きそうな笑顔を浮かべた。

「良かったぁ……ひぃちゃんいたぁ……いてくれたよぅ……」

 荒い呼吸の合間に嗚咽混じりに僕の名前を呼び続けるひぃ姉に「そりゃいるよ、
ひぃ姉が閉じこめたんじゃないか」と苦笑しながら悪態を吐く。
側にかがみ込んで目線を合わせると、ひぃ姉は「うん!」と首肯を一つ。
そして、花開くような笑顔を浮かべながら、

「おかえり、ひぃちゃん」

「ただいま、ひぃ姉」

 昔と同じように、迎えるものと迎えられるものが食い違った挨拶を交わしながら考える。

 ここがあの部屋と近似している理由は推察できる。きっと保存したかったのだ。
あの頃のひぃ姉自身と――叶うならば僕との関係を。実の家族よりも長い時間を共有し、
片割れとして互いが互いに不可欠だった時分の僕らを。
そのために、似てもにつかない間取りの部屋を、
内装を整えることで無理矢理にかつての己の部屋と近似させようとした。
曰く、部屋とは内面世界の顕れである。
礼儀礼節の話ではないけれど、アウトプットとしてのカタチの相似は有り様を規定する
一つのファクターたり得るのだ。
普通なら居住者の変化に伴って部屋の在り方は変化していくものだけど、
仮令ば部屋の有り様を固定することで居住者の変化を抑制するコトなんて出来るものだろうか。
僕は無理だと思う。人の心の有り様を規定する要素は一つだけじゃない。
たった一つを固定できたところで、それ以外の環境が大きく変われば、
自ずと影響を受けるのが人間だろう。
だから、それは当然の如くただの徒労で、きっとひぃ姉だってそんなことは分かっている。
その証左に、ひぃ姉は出掛けに鍵を閉めていった。
僕が黙って出て行かないと確信を持てなかったからだ。
自分自身さえ騙しきれないのであれば、嘘なんて文字通りの無駄でしかないじゃないか。
でも、無駄なことでも必要な場合があるってコトくらいは、僕にだって分かるから。
だから、出来るだけ平静を装いながら、昔のように丸い声音を意識して、

「なんで泣くかな。泣きたいのはこっちだろ。
いきなり拉致監禁した理由は当然聞かせてもらえるんだろうね?」

 少しだけ。
ひぃ姉のオママゴトに付き合ってやるつもりになったのだ。

8

「改めて、久しぶり」

 あの後、互いに炬燵の対辺に腰を下ろすまでが長かった。
泣きながら僕に抱き付こうとするひぃ姉を押し止め、思い直させるまでに数分かかったのは、
この際仕方ないとしよう。その後、なんとか落ち着いたひぃ姉がお持て成しにと
飲み物を用意しようと思い立ったまでの展開も、まぁ自然の成り行きだろう。
その後がいけなかった。なんの因果か、そのとき丁度インスタントコーヒーも茶葉も
切れていたのを思い出したひぃ姉は、近所のコンビニまで買いに行くと云い出したのである。

『大丈夫、走ったら直ぐだから!!』

 財布をひっつかんで飛び出していったひぃ姉を止めなかったのは痛恨と云えた。
別に喉が渇いていたわけでもなし、無いならないで構わないと云うべきだったのに、
結局ひぃ姉は飛び出して行って僕は再び一人で待たされる羽目になったのだから、
もう笑い話としても三流以下だろう。
ひぃ姉が帰ってきたのは、それから十数分後のことだった。
そんな僕の忍耐とひぃ姉の努力の結晶のようなコーヒーから口を離すと、僕らは互いに微笑んだ。

 コーヒーから立ち上る湯気を視線で追いながら、

「元気そうだね、ひぃ姉」

「ひぃちゃんも息災なようでなによりです。心配してたんだよ?」

「それはお互い様。何事もなく?」

「そうね、まぁ特に事件とかはなかったかな。ひぃちゃんも?」

「そうだね、ウチも特に事件は」

「おじさんとおばさんは?」

「んー、相変わらず」

「……そっか」

 などと、近況報告を兼ねて雑談する。
互いの家族は元気かどうか、会っていなかった時期はなにをやっていたのか、
共通の知り合いは今なにをしているのか、などなど、話題は尽きることがない。
昔はずっと一緒にいたからか、今ほど饒舌に話さなければならないほど相手について
知らないこともなかったし、互いにそれを必要と思ったことはなかった。
そう云えば、これだけ話したのは初めてだったかも知れないな、と思い至る。
だけど、今の僕らには必要であることは疑いようもなかった。
僕らの間には溝がある。それは深いものなのか、それとも存外浅いものなのかも分からないけれど、
二年間掛けて刻まれた底の見えない溝だ。
昔のようにとは云わないまでも、互いに手を伸ばせば理解し合える距離にまで近付くためには、
溝を埋めて橋を架ける必要があった。
会話は僅かな繋がりを残したまま、方々へと散っていく。

「じゃあ、智明(さとあき)さん、昇進したんだ。おめでとう」

「昇進って云っても、兄さんが云うには、給料の方はほとんどかわらなくて
責任だけが増えたんだそうだから、おめでたいかどうかは分かんないけどね」

「でも、管理職の仲間入りをしたわけでしょ? 認められてるってことだよ、良いことじゃない」

「かな。まぁ、ひぃ姉がおめでとうって云ってたとは伝えとく」

「よろしくー」とかなんとか云いながら、机に額を付けるひぃ姉。どうしたのかと訝しんでいると、
そのままくるりと首を回して、頬を机で丸く潰しながら僕を見上げて「……んふふー」と唸った。
それがあまりにあまりな姿だったから、僕は思わず苦言を呈してしまう。

「気持ち悪い声出さないでよ。と云うか、だらけすぎ。
他人様に見せていい姿じゃないって自覚してる?」

 頬を机に付けたままなのに表情は笑顔の形にに緩みきってて、とても見れたものではない。
まさに百年の恋も冷めるとかそう云う感じ。笑い声なのかなんなのか、
時折半開きの口から漏れてくる声は語尾がだらしなく伸びていて耳障りだし、
それに合わせて背中がぴくぴくと動くのは気持ち悪いの一言に尽きる。
女として終わってると云われても仕方のない光景だった。
しかし、迂回なく直接的に注意してもひぃ姉は改めようと云う気配がない。
どころか、僕がうんざりしているのを楽しんでさえいるようだった。
あまつさえ「いーの。ひぃちゃん以外の人には見せないんだから」とか云い出す始末である。
僕は思わず頭を抱えて溜め息を吐いた。本当、今日は溜め息ばっかりだ。

「自分一人なら好きにしなよ。だけど、他人がいるのにそれはどうかと思う」

「ひぃちゃんは他人じゃないじゃない」

「そう云うことじゃなくて――」

 僕はなんと云ったものか言葉を探すけれど、効果がありそうな文言を思い付かない。
こう云ったことでひぃ姉を説得できた試しがないのである。
そんな風に悩んでいる僕を見てにやにやしているひぃ姉を見てると、
馬鹿馬鹿しくなってくると云うかなんと云うか。
ああ、つまりはなにを云っても無駄だってことだな、と諦めるのが一番楽かも知れない。

「いいの、普段はしっかりしてるんだから。小姑みたいなこと云わない」

 まぁ、その点については認めるもやぶさかではない。
記憶の中のひぃ姉は、僕と二人きりの時以外は凛々しくも気さくな人物を演っていたし、
今にしても、演劇部の部長を任じられていることを鑑ると、対外的にはしっかりしているらしいし。
だけど、急場では日頃の態度がものを云うのもまた確かなことである。
たとえばそう、デートの時なんかには。

「そんなんじゃ、いつまで経っても彼氏なんてできないんじゃない?」

 好きな人の前で猫を被らないことは難しいだろうけれど、
それ以上に、ふとしたときに漏れ出す日常の癖を隠す方がよっぽど難しいと聞いたことがある。
そして、往々にして、そう云う隙のある瞬間にこそフォーカスが合いやすいのだとも。
だから、最低限、女性として見られないような態度は普段でもしない方がいいんじゃなかろうか。
そんな風に講釈をたれる僕に向かって、ひぃ姉は一言。

「いたよ、彼氏」

「……ぇ?」

「だから、彼氏は居たって」

 思わず、数秒呆ける。完全に予想外の返答に、組み立てていた会話の流れが引っ繰り返されて
二の句が継げなくなった。頭の中が真っ白でなにかを考えるにも手順を踏まなければならず、
その手間がとても煩わしい。
いた。なにが? 彼氏が。だれに? ひぃ姉に。
――へぇ。
理解が追い付くと同時、手を遣ってひぃ姉から口元を見えないように隠した。
見られてはならない。口の端が引きつっているのなんて、絶対に見られてはならない――

 なんとか平静を装いながら、僕は何気なく質問を続ける。

「居たって……いつからいつまで? 現在進行形?」

 僕が訊ねると、ひぃ姉はあからさまに嫌そうな顔をする。
「なに、なんでそんなに食い付きいいわけ? わたしが彼氏作ったらいけないっての?」
なんて毒突いてくる。

「いつからいつまでなんてどうでもいいでしょう。もう別れたんだから気にしないで」

「あ、別れたんだ」

「……まぁ、ね」

 つまらなそうに僕の質問に答えるひぃ姉。僕から視線を逸らし、窓の方に目を向けている。
ふて腐れている様子を見るに、あまり愉快な話題とは決して云えないようだった。
まぁ、それもさもありなん。別れ話を楽しいなどと云えるのは、当事者でないヤツだけだろう。
あからさまに詳しく聞いてくれるなと云わんばかりの態度だったから、
僕も今以上に追求しようなんて思わなかった。
――否、思えなかったと云う方が正しい。僕は、あまりのことに思考が整理できていなくて、
追求しようだなんて考えは全く浮かんでこなかったのだから。
だって、ひぃ姉は僕がいない間に彼氏なんて作っていたんだ。
これで動揺しない方がおかしいってものだろう。
混乱した僕がなにも云えずにいると、ひぃ姉が僕をちらりと見て、不安そうにして見せる。

「ひぃちゃん……怒った?」

 怒る? 僕が? どうして?

「まさか。怒る理由なんて全然ないじゃない」

「……それはそれでむかつく」

「どうしろって云うのさ」

 そこでもう堪えきれずに、僕は思いきり笑い出した。突然爆笑しだした僕に驚いてか、
身体を起こしたひぃ姉が奇妙なものを見るような目で僕を見るけれど、気にしない。
だって(・・・)、僕は嬉しかったのだ(・・・・・・・・・)。この上なく(・・・・・)、
どうしようもなく(・・・・・・・・)、嬉しくて(・・・・)――嬉しすぎて(・・・・・)、
気にしてなんか居られなかった。
ひぃ姉に彼氏ができたって云うのが嘘じゃなければ、
ひぃ姉は僕以外にも心を許せるようになったってことだ。
それは、この二年間のブランクが全く無駄ではなかったと云う証左となりうる情報だった。
だから、僕が怒るなんて有り得ない。僕はそれをこそ望んでいたのだから。
でも、ひぃ姉にとっては面白くないコトだったんだろう、「ひぃちゃん笑い過ぎ」と唇を尖らせる。
それがまたおかしくて、僕はずっと笑い転げる羽目になった。

「なによ、まったく。そう云うひぃちゃんこそ彼女は居たの?」

 ここまで人のことを笑っておいて、まさか居ませんだなんて云わないよねぇ?
と云わんばかりの表情で僕を睨むひぃ姉。
なんとか笑いを飲み込んだところだったのに、また小さく吹き出してしまう。

「ひぃ姉は居たと思うわけ?」

「分からないから聞いてんでしょうに。どっちなの?」

「もちろん、いなかったよ」

 そう答えると、ひぃ姉は「ほら見たことか」と鬼の首を取ったようににやりと笑う。
いじめっ子特有の、意気地の悪い微笑みだった。

「やっぱりね。ひぃちゃんみたいな捻くれ者には、女の子は靡かないのです。男の子は優しくないと」

 人差し指を立ててそう宣うひぃ姉は、昔のままの姿ではない。
そうだ、ずっと僕もひぃ姉も昔とは違うんだって思い続けていたのに、
本質的なところで僕は僕らがなにも変わっていないって思いこんでいたんだろう。
そうじゃなかった。何度も繰り返し思ったじゃないか。
昔のままではいられない、人は変わっていくものなんだって。
ひぃ姉も変わった。僕以外の誰かに心を寄せることが出来るようになったのだ。
人は、変わる――そのことが嬉しくて、僕は今日初めて素直に笑った。

「優しくないと生きていく資格がない?」

「なにそれ?」

「強くなければ生きていけない
(If I wasn't hard, I wouldn't be alive.)、
優しくなければ生きていく資格がない
(If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.)
ってね。チャンドラー。知らない?」

「知らない」

 オイオイ、それでいいのか演劇部部長。まぁ確かに古典ではあるけれど、
名言名句の類としてはかなり有名な一節じゃないか。
原書を知らないのは仕方ないにしても、物語に携わる人間ならこの文言くらいは
知っているものだと思っていたのだけれど。ひぃ姉の偏読は相変わらずのようだ。

 僕が笑っているのを見たひぃ姉は再び頬を机に付けて溶けるような笑顔を浮かべた。
「だらしないから止めなってば」と注意するも、
本気ではないことを看破しているのだろうひぃ姉は気にした素振りすら見せないで
僕に視線を固定する。
そこで、会話が途切れた。
それまでずっと話し通しだったからか、不意の沈黙が常ならぬ存在感を持っている。
だけど、それは決して不愉快ではなかった。
まるで昔の僕らの間にあった、あの理解に満ちた沈黙に思えたからだ。
それは錯覚で、だから幸せな勘違いだった。人は変わる。昔のままだって感じが錯覚なのは、
喜ばしいことなのだ。

「ねぇ、ひぃちゃん」

 ひぃ姉が蕩けるような口調で僕の名前を呼ぶ。口調は丸く溶けた感じ。耳からずるりと滑り込み、
鼓膜のところで揺れている。僕は身体の中から芯を抜かれたような心持ちになって、
半ば浮かされるように返事した。

「……なに」

「溶けちゃいたいね――」

 炬燵の中で、手と指を絡めてくるひぃ姉。
炬燵の中で暖められた僕とひぃ姉の掌は同じ温度をしているように思われた。
皮膚なんて境界線がなかったら、僕らは混ざり合えただろうか。
この沈黙に溶けてしまって、好意も、嫌悪も、罪悪感も、
その他もろもろの感情も全部カタチが分からなくなるまで――
それは退廃的ながらも甘美な誘惑だった。
あまりに甘美すぎて、浸ることさえ躊躇してしまうほどの。
僕は言葉を無くして、ひぃ姉を見る。ひぃ姉は、じっと僕を見詰め続ける――

 沈黙を破ったのは、携帯電話のバイブレーション音だった。
僕が視線を投げると、不満気な顔をしながらひぃ姉は頭を振って見せた。
と云うことは、僕の携帯電話ってことか。
僕は結ばれた手を解いて、脇に立て掛けておいた鞄と薄手のコートを持ち上げる――と、
コートのポケットから微弱ながらも振動が伝わってきた。
二度三度で止まっていないところを見ると、どうやら電話のようだけど、一体誰からだろう。
不思議に思いながらディスプレイを見ると、

「……あ、」

 しまった。
思わず窓へと視線を遣ると、外は暗く宵の口が疾うに過ぎたことが見て取れた。
話している間はそうと感じなかったけれど、どうやらかなりの時間が経過していたようだった。
とりあえず、急いで電話に出る――と、

「/                 /」

 予想していたのとは違う、女性の声が――

† † †

「ごめんなさい、ひぃ姉――築路の――に会って。ちょっと話し込んじゃって」

「/                                    /」

「うん。そう」

「/            /?」

「分かってる、今すぐに帰るから」

「/                 /」

「うん、大丈夫。すぐ帰るから」

「/     /」

† † †

 電話が切れると、思考を阻害していた真っ黒なフィルタが取り外されて、
まともにものを考えられるようになる。
電話でなにを話していたか、ほとんど憶えてない。えっと、なんて云われたっけ。
細かいところまでは思い出せないけれど、おおざっぱに云えば「早く帰ってこい」とか
そう云う感じのことを云われた気がする。
確かに外は日が暮れていて、下校時間が疾うに過ぎているのは明らかだ。
懐かしい再会の次巻はおしまい。電話で/    /に云われた通り、早く帰るすることにしよう。
そう結論づけて、帰る用意を始めようとしたのだけれど、

「……ひぃちゃん?」

 ひぃ姉が炬燵に入ったままの僕の足首をぎゅっと掴んでいる所為で、
立ち上がることすらままならない。ああ、そう云えば、帰るって云うのを忘れてたっけ。

「ごめん、えっと家からで。帰って来いってさ。ほら、夜も遅いし。だから、そろそろ――」

 お暇しようかなって――そう告げたとき、ひぃ姉がきつく僕の足首を握り締める。
どうしたの? と訊ねても反応はない。
仕方なしに、僕の足を掴んでいるひぃ姉の手を解こうと炬燵に手を入れると、
ひぃ姉は足を放して今度は手を握ってきた。両手で、それも力一杯に。
これでは振り解こうにも振り解けない。
困惑してひぃ姉を見ると、ひぃ姉は僕以上に混乱している様子だった。
なにかを云おうとしては言葉が見つからないのか口を閉ざし、
なにかを考えては否定するように頭を左右に振るのを繰り返している。
どうしたんだろう? 早く帰りたいとしか思えない頭の中は、ひぃ姉の異常を検知できない。

「ひぃ姉? えっと、帰りたいんだけど?」

「――どこに?」

 問い返す声音のトーンは低い。重たく、深く――先ほどまでの蕩けきったそれとは違って、
沈殿する泥の質感で絡み付く。
僕がひぃ姉の変調を訝しみながら、「どこって……家……実家?」と応えると、
ひぃ姉は腕に力を込めた。握られている掌が痛い。じわじわと力が込められていく。
エネルギーに置換された感情の一片。ひぃ姉の憤りが掌から伝わってくる。

「なんで? ひぃちゃん、寮生活じゃないの?」

 ああ、そう云えば、ひぃ姉は僕が実家通いだと説明した場にはいなかったっけ。
ならば、家に帰ると云うのをおかしいと思うのも無理はない。

「否、実家から通学することになってる。ここからだと家まで二時間くらいかかるんだから、
早めに帰って来いって」

「寮に住めばいいでしょう。そんなの無駄だよ。通学よりも寮の方が安く済むんだし」

「それはそうなんだけどね……」

 ひぃ姉の切り返しの素早さに戸惑う。ひぃ姉の口調はまるで討論のそれで、
攻撃と否定がブレンドされた厳しいものだった。今だってそう。
僕がなにかを云ったとしても、一刀で切り伏せんと云う気概で僕を睨んでくる。
説得には骨が折れそうである。
なんと云うべきかと悩む間にも時間はどんどん過ぎていく。
電話が鳴ってから早十数分が経過していて、このままだと最悪、終電を逃しかねない。
さりとて無理矢理脱出しようと云うには場所が悪すぎる。
どうしたものかな、と頭を捻っていると、ひぃ姉が静かに宣言する。

「ひぃちゃん、入寮手続きしに行こう?」

「なんなら部屋が決まるまではこの部屋に住んでもいいから」と身を乗り出してくるのを
押し止めながら、「それ無理」と拒絶する。ひぃ姉はやや怒った様子で僕に理由を問うてきた。

「なんで? 今でも男子寮の部屋は空いてるよ? 相部屋なら絶対空いてるし、
個室でもいくつか空きがあるって演劇部の同期に聞いたんだから」

「まぁ、空きはあるだろうけどね」

 空き部屋の一つは、僕が申請して獲得し、兄さんが勝手にキャンセルした部屋なのだから。

「それとは別に、兄さんとの約束なんだ。高校は家から通うこと。だから、寮には住めない」

 僕は当初、寮に住むためにこの高校への進学を希望した。
学区で一番遠い高校で、交通費よりも安価な学生寮が完備されているこの高校ならば、
寮生活を許可してくれると考えたからだ。
だけど、兄さんは僕に黙って違約金を支払ってまで寮の部屋を解約し、
僕に自宅からの通学を強要した。
――家族は一緒にいるものだから。
兄さんがそう云うなら、僕には選択肢なんてない。

 僕が事情を説明すると、ひぃ姉は口端を噛んで、ぽつりと呟く。

「……また智明(おにい)さんなんだ」

「え?」

 良く聞こえなくて訊ね返すと、ひぃ姉は僕の目を鋭く睨んで、錐のように尖った言葉を吐いた。

「ひぃちゃんってさ、智明さんのこと好きなの?」

 質問の意図が分からない。兄さんは家族だ。家族のことなんだから、好きで当然じゃないか。

「智明さんのこと好きなのに、家から通うんだ」

 それは兄さんの希望だからで――僕が望んだことじゃない。

「智明さんってさ、たしか二年前に/     /と結婚したよね。謂わば新婚さんじゃない。
おじさんと(・・・・・)おばさんは(・・・・・)相も変わらず(・・・・・・)
失踪中なんでしょう(・・・・・・・・・)?
ひぃちゃん、智明さんと/     /を二人っきりにさせてあげようとは思わないの?」

 ――――――――――
ひぃ姉は畳み掛けるように、僕の眉間を指さして、

「ひぃちゃんはね、邪魔なのよ、二人にとって」

 だから帰るのは止しなさいと。
磔にせんと云わんばかりの調子で断言した。

 僕は頭を抱えてしまう。どう説明すれば伝わるだろうか。そんなことは僕だって分かり切っている。
邪魔だって自覚があったからこそ入寮を希望したのだ。
だけど、兄さんは僕を邪魔だと思ってはいなかった。
むしろ、僕が家から離れることを忌避している観すらある。
/   /は、兄さんの言に否やを唱えることはしないのだから、
本心ではどう思っていても僕が家にいることを表立っては邪険にすまい。
それに、僕も/    /も兄さんに幸せになって欲しいと云う意志だけは共有できるのだ。
兄さんの希望には、できるだけ添うように行動したかった。

「……ひぃちゃんは、智明さんが一番なんだ」

「そんなことはないけど。家族なんだ、大切にするのは普通じゃないか」

「……家族、ね」

「それにさ」

 ひぃ姉を含めてみんな勘違いしているようだけど、

「父さんと母さんはもう少ししたら帰ってくるんだ。再会は家族一同で迎えたいらしいよ」

 ひぃ姉が驚いた様子で僕を見る。あれ、なにか変なこと云ったっけ?
確かに父さんと母さんは失踪中で――ああ、そうか、失踪してから八年目の去年からは、
社会的には一応死亡扱いになってたんだっけ。でもまぁ、それは社会のシステムの方の問題で。
二人はもうちょっとしたら、必ず帰ってくるんだから、出迎える準備くらいはしておかないと。
と、ひぃ姉の手から力が抜けている。今の内なら抜け出せそうだ。
僕は素早くひぃ姉の手を振り解いて炬燵から抜けだし、ひぃ姉に背を向けてコートを持ち上げた。
そのまま袖を通すと、コートは部屋の冷気を吸っていたのか冷たく感じられる。
否、逆か。僕が暖まりすぎたのかも知れない。
まぁ、なにはともあれ、帰るためにはひぃ姉の協力が必要なのだ。
僕はひぃ姉に寮の外まで案内して貰おうと振り返――

「帰っちゃダメ!」

 る間もなく、ひぃ姉に背後から飛び付かれた。

「ちょ、と、うわっ」それが余りに勢いが付いていたものだから、
僕はひぃ姉に押し倒される形でうつぶせに倒れ込んでしまう。
背中に感じる人の体温。耳元に掛かる呼吸。背筋を這い上がる――
あ、ヤバイかも、と云う予感はわき上がる衝動に塗り替えられていく。
ひぃ姉が僕を帰らせないようにと抱き付いたまま必死で説得の言葉を紡ぐのも、
胴に痛みを感じるほど強く絡み付く腕もなにもかもが遠くなって、
現状が抽象化された概念として脳で結実する。

 ――背後から組み敷かれている。

 /全部、ひぃちゃんの所為だったんだね/背中が耕される†(ざくり)、†(ざくり)、
†(ざくり)、†(ざくり)、†(ざくり)、†(ざくり)、†(ざくり)、†(ざくり)、
†(ざくり)――

 気が付けば、僕はひぃ姉を突き飛ばしていた。
ひぃ姉が呆けたような表情をして僕を見ている。
逃げなければ――脳が絶叫する。生存本能。理性を駆逐する、生き物としての性だ。
僕はそれに必死に抗う。よく見ろ。目の前にいるのは/    /じゃなくて、ひぃ姉じゃないか。
それに、僕はもう/   /に好き勝手にされるような子供じゃない。
力だってあって、背後から組み敷かれたくらいで抵抗できなくなるほど弱くはない。
そう分かっているのに、背筋が恐怖に粟立っている。
恐怖は冷たい。僕は自分が氷になってしまったような錯覚を抱く。

「ひぃ姉」

 だからだろうか。自分の口から零れだした言葉は、
自分のものとは思えないほどに冷厳で、透徹なものだった。

「――また、同じことをするつもりだったの?」

 それを聞いたひぃ姉の全身が雷に打たれたように跳ねる。
呆けたままだった表情が見る見る間に歪んで、目端から涙が溢れていく。
「……ち、ちが……そんな、つも、じゃ……」
呼吸が不規則で、弁明の言葉すら言葉にできないらしい。
僕はそんなひぃ姉を慰めなければと思っているのに、口から出た言葉は思惑とは外れていた。

「別に怒ってないよ。でもね、次に同じことをしたら」

 ――諦めるから。
ほとんど音にならなかったその言葉は、だけどひぃ姉には確かに伝わった。
ひぃ姉は更に顔を歪めて、僕に許しを請うた。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
二度としないから、絶対にしないから、本当にもうしないから許して。
お願いだから、なんでもするから、わたしを見捨てないで――
ぼろぼろと真珠みたいな涙をこぼしながら、つたなくも必死に僕に懇願するひぃ姉。
僕は不思議と冷めていく。暴れ回る獣のような恐怖が少しずつなりを潜め、
僕は冷静な思考を取り戻す。
錯乱したまま、立ち上がることすらしないひぃ姉の側まで行って、正面から抱きしめる。
ひぃ姉はそのまま僕に縋り付くように抱き付いて、大声で泣き始めた。
あやすように背中を二度三度と叩きながら思う。

 ――僕は下種だ。

† † †

「ここまででいいよ」

 あの後。しばらくして泣き止んだひぃ姉にお願いして、女子寮の玄関まで送ってもらう。
女子寮は不思議と閑散としていた。不思議に思って時計を確認したところ、今の時間は夕食時。
寮生は外で食べるか食堂で食べるかしているのだろう。ひぃ姉の顔は、未だ涙の跡も生々しい。
端から見たらどう見えるかが一目瞭然なだけに、人気がないのは有り難かった。
閑散とした廊下を並んで歩く間、ひぃ姉はずっと黙ったままだった。
僕の方も掛けるべき言葉がない。
なんと言葉を掛けても薄っぺらくなるような、そんな空気が僕らの間にあった。
だけど、玄関まで辿り着くと、なにも云わないわけにはいかない。僕はひぃ姉の方を向き直って、
「また、機会があれば、お邪魔するから」と告げた。
ひぃ姉はなにも云わずに、ただ僕を見ながら微笑んでいる。
ひぃ姉だって分かってるんだろう。僕の言葉が気休めにもならないその場凌ぎだってことくらいは。
だけど、ひぃ姉はそれを指摘しなかった。ひぃ姉は僕との関係が再び切れることを恐れているから、
僕の嘘を嘘と指摘できない。
そうと知りつつ嘘を吐く僕は、本当に救いようがない下種だと思う。
僕は酷く居たたまれなくなって、ひぃ姉に背中を向けた。
記憶が確かなら寮から駅までは徒歩でおよそ十数分の道のりである。
終電を気にしなければならないような時間帯ではなかったけれど、多少は走った方が良さそうだ。

「ひぃちゃん」

 さて、走り出そうとしたところで、ひぃ姉が僕に声を掛ける。
振り返っても、電灯の光が届かず影が落ちたひぃ姉の表情を細かく伺うことはできない。
影から言葉だけがこぼれ落ちてくる。

「……いつまで、こんなのなの?」

 その質問に、僕は言葉を返せない。返事をしないでいると、ひぃ姉が苦笑した気配が伝わってきた。

「ごめんね、忘れて」

 そう云って、寮の中に戻っていくひぃ姉の背中を見ながら、僕は懐中で答えを告げる。
いつまでこんな状態が続くのか、だって?
そんなのは決まっている。

 ――ひぃ姉が僕を必要としなくなるそのときまでだ。

9

 疎らに散らばる雲に隠れてしまったのか、見上げた夜空に月は見えなかった。
それがどうと云うことはないのだけれど、足下が見えないのは心許ない。
地元の駅から家までの路には数えるほどしか電灯が設置されていないため、
月明かりがなければ路の輪郭以外はまったくと云っていいほど
墨汁じみた暗闇に隠されてしまうのだ。
もっとも、さすがに住み慣れた地元だけあって、路を違うだとかそう云った心配はほぼ皆無。
狐狸の類が出ると云う話もここ数年は聞かないから、
路の輪郭を踏み外さなければ危険はないのだけれど。
それでも不安に感じるのは、ついさっき乗り継ぎのために降りた駅の明るさが
瞼の裏に残っているからなのかも知れない。
帰路には水を張ったような静寂だけが広がっていた。もっとも、全くの無音と云うわけでもない。
潮騒にも似た草木のさざめきや、山の方から吹き下りてくる風の遠吠えじみた低音が、
年がら年中止まないような土地である。
ちょっと耳を澄まば、季節に見合った昆虫やら蛙やらの声だって聞こえてくる筈だ。
だけど、生活音がほとんどしない――人の気配がほぼ皆無に近いからか、
たったの半日で街の喧噪に慣れた僕の耳には思議と静寂だけが意識された。
僕の地元はドを付けてもなんら語弊が生じないような田舎である。
しかも、老人しかいないような半端な田舎とは違い、
あらゆる世代を通じて人が少ないと云うどうしようもない場所だ。
時刻は二十時を少し回ったくらいだと云うのに擦れ違う人の数は片手の指に余ると云うのだから、
住人の少なさは推して知るべし。
そもそも住居の数が少ない上に、一軒一軒の間隔が百メートルを切ることがない
なんて逸話もあることを考えれば、集落と云うほどの規模でさえないのかも知れない。
なんでそんなところに電車の駅があるかと云うと、
これはこれで色々と面倒な事情があるらしいけれど、詳しくは知らないので、
それは別のお話と云うことにして。

 兎角、近隣の主要都市圏まで電車で一時間から二時間でアクセス可能という立地条件の割に、
ここまで過疎化が進んだのは、地元民をもってしても不思議と云うか理解に苦しむと云うか。
よっぽど市長だか区長だかが無能って事だろうか。
それとも、やはりアレだろうか――原発があるだとか、山に挟まれるような立地だとか、
国土が一本も通ってないだとか、お化けが出やすいだとか、
非人道的な古いムラ社会の慣習が未だに息づいて居るだとか、
一年に決まって十数件の通り魔事件があったりするだとか、
住めば既知外になってしまうだとか――そんな馬鹿げた噂の所為だろうか。
そんなの、まともに信じる方がどうにかしている。
たとえば原発なんてものがあれば、それなりの労働力がいるに決まっていて、
すると人の流入出はそれなりになるはずで、ここまで人口が少ないなんてあり得ない。
立地が悪いだなんてのも、交通事情が改善した昨今では言及するのもばからしいと云うものだ。
他の噂だって――まぁ、全部が全部嘘だとは云わないけれど。
それでも、住んで暮らせないほどの僻地と云うわけでもあるまいに。
……まぁ、他人様の思考に干渉しようとは思うまい。
人が多くなればなったで、それなりに面倒事が増えそうな気もする。
慣れていないからかも知れないが、ただでさえ騒がしいのは得意な方じゃないし、
今の地元の静けさにもそれなりに愛着があるんだから。
空には煌めく星明かり。足下を照らし出せないような弱々しい光しかないけれど、
これはこれで風情がある。余分な灯りが一切ないここいらでは、
星が満天に広がっていることも稀ではないけれど、
今日みたいに流れる雲に隠されて所々が見えないくらいが、僕の感性には綺麗に映った。
道なりに、山に向かって歩を進めると、星空を背負うような建築物が見えてくる。
一般の住居を三軒ぐらい並べたような横幅をした木造二階建てのそれは、
僕が卒業した小学校だった。
とは云え、他のどこよりも少子化の影響が顕著な田舎のこと、数年前に廃校になってしまっている。
僕が通っていた時代でも在校生の数が職員よりも少ないなんて状況だったから、
それもまぁ仕方ないことなんだろうけれど。

 僕とひぃ姉はここで出会った。
旦那の浮気に嫌気がさして離婚したひぃ姉の母親が、ひぃ姉を連れて実家に戻ってきたのは、
僕が小学3年生になったばかりの頃。
ひぃ姉の親戚筋に当たる/   /に紹介されたのが切っ掛けだった。
当時のひぃ姉は今とは違い、表情変化に乏しく感情表現が異様に下手な子供だった。
一般的に人情味が溢れていると評される田舎での生活が、そんな彼女を快活にしたかと云えば、
答えはノーだ。田舎は実際のところ単なる閉鎖社会でしかない。
ひぃ姉が抱えている事情は彼女が引っ越してくる前から村中の大人子供の誰もが知っていた。
そして、そう云った特殊性は、子供にとっては格好の話題であり――簡単に云えば、
ひぃ姉はいじめの対象に祭り上げられた。
異邦人は仲間じゃなかったから、攻撃しても問題ない。
属する社会の外側に居る人間に対してはどこまでも冷徹になれるのが田舎と云う場所だ。
しかも、都会とは違って監視機構が一切ないと来れば、
いじめがどんどんエスカレートするのは当然の成り行きだったのかも知れない。
僕は、だから、ひぃ姉を選んだ。ゲームと同じ。弱っていたから――補食するように、
刷り込むように、ひぃ姉の依存を構築していったのだ。
兄さんにとっての/   /の役を、ひぃ姉に演ってもらえるように。
優しさを餌にひぃ姉を餌付けするのは容易だった。
当初は孤立が深まるように、依存が確立した後は周囲との融和を形成するように、
表に裏に僕が動き回ったことをひぃ姉は知らないだろう。
生来の気質からか、いじめを乗り越えたひぃ姉が僕らの世代で人気を博す頃には、
ひぃ姉の僕に対する依存は薄れようがないほど確立したものへと成長していた。
溺れる者は藁をもつかむ――ひぃ姉が溺れるのを待ってから、
藁になって見せた僕に彼女が依存するのは、ある種自然なことだと思う。
それが作為によって喚起された感情だとしても。
校舎を挟んで山側にある家にショートカットするために、グラウンドを突っ切りながら考える。
狙って依存を引き出すことは、そう珍しいことじゃない。
ホストだって先生だって政治家だって大なり小なり同じことをやっている。

 ――弾劾されるべきは、依存させてから見放すことだ。

 僕は失敗した。幼さ故の勘違いで、ひぃ姉を依存の毒で狂わせた。
そうと知りつつも、僕は、僕が形成したひぃ姉を受容することは出来ない。
だけど、依存させた責任は果たさなくてはならないし、見放した落とし前は付けなくてはならない。

 

†††

 山を背負うその家は、夜闇の中にあって酷く不気味に見えた。森影の中に埋もれるように、
その家屋には厚みがない。夜空の星を切り取るように、山風に踊る樹木のように、
のっぺりと無言でそびえ立つ。それはあたかも通せんぼして人を困らせる怪異を連想させるような
嘘臭さを醸し出していた。
そんな外観をした築十数年の二階建ての我が家は、
ここいらのニュータウン計画の頃に建築された建物である。
周囲にも似たような外観の家屋が十数件あるけれど、電気が付いているのは僕の家だけだ。
他に住んでいる人は誰もいない。僕が子供の頃は二、三世帯は住んでいた筈だけれど、
小学校が廃校になったあたりでみんな都会へ引き上げてしまった。
電気の付かない家々を見ていると、ふと廃村に迷い込んだような錯覚に捕らわれる。
人がいなくなった村、ただ朽ちていくだけの家の群れ。
そんな中で唯一光を放つ僕の家は、古い怪談なら旅人を拐かす人食い鬼の住処と云った趣である。
壁に塗られた白いペンキ壁は仄白く瞬いているようで不気味さに拍車を掛けて居るし、
その中から人の気配がまったく感じない事実が周囲一帯の静寂にホラー映画の色彩を添えていた。
まぁ、そんな所感は家に対する僕の苦手意識から来るもので、
実際のところはどこに出もあるような一戸建てである。
病は気から。お化けは「居るか居ないか」じゃなくて「見るか見ないか」
なんて区分なんだと、そう云う話。
僕のお化けは僕しか見ない。
だけど、憂鬱の種が家の中にあるのもまた、確かなことだった。僕にとってのお化けの原型。
僕が「見る」お化け。
「……はぁ」
溜め息と共に僕は玄関への扉の前へ立った。
頭の中からすぅっと温度が抜けていく。
手足に憂鬱が重しを付けたのか、全身の動きが緩慢になる。
腕時計を見ると、短針が真左を指していた。
午後二十一時。
意識してとのこととは云え、駅からゆっくり歩きすぎたかも知れない。
兄さんは心配しているだろう。心配させるのは本意ではない。
ここまで引き延ばしてきたのだから、この期に及んでは覚悟を決めるしかなかった。
諦めと共に、取っ手に手を掛ける。力を込めて、扉を開いた。
――――――――
屋内から溢れ出てきた空気を吸い込んで一番最初に感じたのは吐き気だった。
内蔵がひっくり返る感じ。髪の毛の一本一本までを知覚するような認識異常。

 

†††

 嫌悪と拒絶――思考と心理の接続、断絶。
以降、半安全圏まで反射接触機構へコミュニケーションプロトコルを委譲する。

 

†††

「ただいま、兄さん。/お姉さん/も」

 後ろ手に扉を閉めながら声を掛けると、居間から兄さんが顔を出して、「お帰り」と云った。
俺が改めて「ただいま」と云うと、兄さんは表情を不満げに歪めた。

「遅かったじゃないか」

 角張った口調でそう云われて、俺は苦笑混じりに「ごめん」と返す。
一見すると怒っているように見えるけれど、心配から来る言葉だと知っているから、
素直に謝るより他にない。

「ホントはもうちょっと早く帰るつもりだったんだけどね。
電話でも云ったけれど、ひぃ姉に会ってちょっと話してたから」

「ひぃ姉……ああ、築路の浩ちゃんか。日向の幼なじみの。同じ高校だったのか?」

「らしいね。今日偶然会ってびっくりした。/お姉さん/からはなにも聞いてなかったの?」

 ひぃ姉の親戚筋に当たる/お姉さん/が、ひぃ姉の進路を知らない筈はないから、
知ってて黙っていたと考えるのが妥当だろうか。まぁ、気にするほどでもない。
靴を乱雑に脱ぎ捨てて、玄関に上がると、兄さんは首を傾げて、
「特になにも云ってなかったような……案外、驚かせようとしたのかもな」
と云いながら居間に戻っていった。

「なら成功だね。俺もひぃ姉も本気で驚いたんだから」

 軽口で応じながら廊下を歩き、兄さんの後を追う。居間に入ると、/お姉さん/が
読んでいた新聞から顔を上げて、「/お帰りなさい。遅かったわね/」と笑った。

 心臓を鷲掴みにされる感覚。刻み込まれた恐怖から、脳からの命令をキャンセルして
身体の筋肉が固まりかける――けれど、それは俺が僕だったときの話。
俺は/お姉さん/に笑いかける。

「ただいま帰りました。遅くなりました」

「/お帰りなさい。私達は先にご飯をいただいちゃったけれど、
ひぃちゃんは帰り際になにか食べてきた/?」

「ご飯を食べるだなんて時間はありませんでした。やっぱり交通の便は悪いですね、
電車のチャンネルもかなり難しいし」

「/そう。じゃあ、ちょっと待っててね/」

 俺の言葉を聞いて、/お姉さん/は台所へ移動する。
我が家の食事は全て/お姉さん/の手に拠るものだ。
俺も兄さんも両親不在のころに自炊していただけあって、それなりに料理は出来るのだけど、
/お姉さん/は厨房を男子禁制として炊事の全てを取り仕切り、
軽食を作る以外の料理をやらせて貰えない。
俺が食卓の椅子に座ると、兄さんがお茶を持ってきて、僕の対面に腰掛けた。

「で、どうだったんだ高校は。やって行けそうか」

 こうやって食卓に着くと、兄さんはいつも俺に質問する。
今日どんなことがあって、どんな風に過ごしてきたのか、なんてたわいもないことを。
それはメソッドとして確立されたコミュニケーションの様式で、
だから俺たち兄弟は、六歳なんて年の差がある割には仲良くやれていた。
俺は今日一日を思い返しながら、

「初日なんだから分からないよ。友達は、まぁ出来たんじゃない?
やっていけるかどうかは今後次第かな。とりあえずは痴漢疑惑を晴らさないと」

「痴漢? なんだ日向。いきなりなにやらかしたんだ?」

 俺の言葉に大きく驚いて見せる兄さんに苦笑しながら
「だから疑惑だって。僕はなにもやってないよ。むしろ巻き込まれたの。
完膚無きまでに被害者なの」と主張すると、兄さんはそれが笑い話の類だと勘付いたのだろう、
口の端を鋭くして笑うと、

「説明責任。詳しく聞かせて」

「嫌だって。兄さん絶対楽しんでるだろ」

「まぁ、それもあるけど。場合によっては相手方に謝罪に行かなくちゃならんだろ、
保護者代行として。ほら、判断するために必要だから、話してみろって」

 そんなことを宣う兄さんは、実際は面白がっているだけなのが丸分かりの表情を浮かべていた。
こうなると、誤魔化しは全くと云って良いほど意味がない。
――もっとも、誤魔化すつもりなんて当初からなかったのだけれど。

「仕方ないなぁ……」

 渋々と云った表情で俺が事の顛末を話して聞かせていると、/お姉さん/が
晩ご飯を持ってきてくれる。
鶏肉とレンコンの煮物、味噌汁、昨日の残り物の大根サラダなどを手早く並べながら、
/お姉さん/は俺たちに「/なになに、なんの話/?」と問い掛けた。
事情を聞いて声を殺しながら笑っている兄さんを不愉快げに見詰めた後、
俺は憮然とした表情を意識しながら箸を取り、並べられた晩ご飯に手を付けた。

「別に。いただきます」

 そんな俺の様子に好奇心をかき立てられたのか、/お姉さん/は兄さんの隣に座り、

「/聞かせてよ。ねぇ、さとくんは教えてくれるよね/?」

「ええ、実は……」

 兄さんは嬉々として、俺の痴漢疑惑に関するあれこれを多少の誇張を交えて暴露していく。
/お姉さん/は兄さんの言葉の端々に反応しては驚いて見せ、
嬉しそうに兄さんの話に耳を傾けている。
俺は不機嫌な表情を作りながら、ご飯を早く処理してしまおうと黙っている。
そんな食べ方をしていたら味なんて分からないものだけど別に解する必要もない。
どうせ栄養にもならないのだから、
心配を掛けないように食べるパフォーマンスだけしていれば十分なのだ。
五分後に並べられた全てを詰め込み同然で片すと、兄さんも丁度話し終えたところだった。
食器を片付けながら、

「ごちそうさま。おいしかったです」

「/いえいえ、お粗末様でした。ひぃちゃんも今日は大変だったみたいね/」

/お姉さん/が苦笑の表情を浮かべたから、僕は殊更不愉快そうに表情を歪めて席を発った。
必要な要件は全て満たした。これ以上ここにいる必要はない。
重ねた食器を炊事場まで持っていき、そのまま二階の自室へ向かおうと階段に足を掛け、
「じゃあ僕は部屋に戻ってるから」
と云っても引き留める声はない。これまで散々布石を打ってきたのだ、
不愉快そうにして見せれば、/お姉さん/はもとより、兄さんが引き留める筈もなかった。
僕が自室の前まで行くと、階下から兄さんの声がする。

「おやすみ、日向」

「うん、お休み」

 短く返事を返しながら、自室の扉を開ける。

 

†††

 安全圏への到着を確認。思考と心理の再接続――完了。
以降、コミュニケーションプロトコルを主人格へと返還する――

 

†††

 部屋に滑り込んだ瞬間に、僕は体当たりするように勢いを付けて扉を閉じた。
バタンと大きな音が
響いて、一呼吸とおかずに扉が閉まりきる。全身で圧されてぎしぎしと軋みを上げているのに、
そのまま数秒間、全力で扉に身体を押しつける。
絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、この場所に這入らせないように。
耳ではなく脳で聞く荒々しい呼吸音。激しい運動をしたわけでもないのに、
ドクドクと激しく鼓動する心臓の音が酷く遠くに聞こえる。
自分の身体が自分の物ではないような錯覚。指が震えて扉に付いている鍵を閉めることが出来ない。
焦りと恐怖が思考と視界を鈍磨させていることにも気付かずに、
僕はただ鍵を閉めようと躍起になって――それから数分して、
ようやく――かちゃり――鍵を掛けることができた。
「――」
一瞬、呼吸を忘れる。鍵が掛けられたことで頭の中で暴れ回っていた狂騒が姿を消して、
思考が全くの空っぽになってしまった。身体を支えることも忘れてしまう。
ずるずると、扉をずり下がって――そのまま座り込んで、僕はがくりと項垂れた。
体力の全てを使い切ったような心持ちだった。
極度の緊張から解放された全身の筋肉が弛緩していて、指一本だって動かせる気がしない。
そのまま僕は荒い呼吸を繰り返す。
部屋には淡くラベンダーの香りが漂っていた。アロマオイルなんて上等なものではないけれど、
香料が含まれる置物から発せられるその匂いは、
恐々状態でヤスリに掛けられたような尖った神経を穏やかに宥めてくれる。
ふぅ、と溜め息を吐くと、ようやく人心地付けた気がした。
垂れていた頭を上げて部屋を見回せど、部屋の中は暗い。
そう云えば、電気を点け忘れていたかと思い至り、僕は改めて苦笑した。
毎度毎度のことながら、自分の痴態を嘲らずには居られない。
否、年々酷くなっている観さえある。
人前ではないからまだいいものの、客観視すれば、
僕がやっていることは明らかに心を病んだ者のそれだと云う自覚があった。
もっとも、改めようとは思わない。なぜなら、これらは全て自衛行動なのだから。
取り急いではと、僕は入ってすぐの場所に置いた金属製の洗面器を手元に引き寄せる。
両手で持ってもなお幅のある洗面器を足下に置きながら、
手早く学ランとシャツを脱いでベッドに投げると、
僕は洗面器に顔を突っ込むようにして、ほとんど無自覚的に、

 ――喉を指で引っ掻いた。

 ザラリとした触感の皮膚が咽頭を撫でる感触に、
脳ではなく身体が拒絶反応を示して胃と食道を蠕動させる。
先ほど食べた未消化の諸々が胃から迫り上がって来る感覚に抵抗せず、
僕はそれらを洗面器にぶちまけた。口内が胃酸の酸っぱい味で満たされる。
吐瀉物の刺激臭を嗅いで頭が痛い。
だけど、気持ち悪さは薄まっていく。
家に入ってからずっと感じていた異物感とか心地悪さが吐瀉物と一緒にはき出されて、
僕は下呂を洗面器に吐きながらも、心持ちは酷く清々しい。
だけど、全然足りない。まだ気持ち悪いのが残っている。
僕は喉に手を突っ込んでは吐くと云うバカな行為を何度も何度も繰り返した――

 

†††

 胃の中身がなくなって、胃液しか吐き出せなくなってようやく、僕はその行為を辞めた。
家に帰り着いた瞬間に感じた気持ち悪さはもとより、
内臓全部をはき出してしまったように身体が軽く感じられて、加速度的に気持ちが落ち着いていく。
用意して置いたタオルとウェットティッシュで手と口元を拭きながら、
自分の身体を軽くチェック。
念のためにと上着を脱いだ上半身はもとより、ズボンにも吐瀉物が付着した様子は見られない。
毎日のことだからそう簡単にはヘマはしないけれど、新しい制服を着てたからか、
汚さなくて良かった。
帰り際に買ってきたミネラルウォーターを口に含み、口内を清めてから洗面器に吐き出した。
そして、刺激臭を放つ洗面器に蓋をして、蹴飛ばさないように部屋の端に寄せてから、
僕は立ち上がって部屋に電気を付ける。
電灯の明かりに照らし出された自室は、いつものように閑散としていた。
ものが極端に少なく、フローリングの床が覗く面積がかなり広いためか、
実際よりもかなり空間があるように感じられるのだ。
スチールなどの匂いが付きにくい素材で作られた家具のみが並んでいることも、
味気ない印象をいっそう強める要因なのかも知れなかった。唯一異彩を放つのは、
ベッドの横でヴヴヴヴと羽虫のような低音を響かせている真っ白な冷蔵庫。
曰く、部屋の有り様は、その主の心の有り様を表している。
だけど、この部屋は僕が意図的に作り上げた伽藍だった。
僕はこの部屋のようになりたかった。中身が空っぽになって、なにも感じずに済むものに。
生憎、その願いはまだ叶う兆しさえ見えないのだけれど。
とりあえず、はき出して空っぽになったお腹にものを詰めないといけない。
過食症の患者のように自己誘発嘔吐なんてやっている僕だけど、
ものを食べることに抵抗があるわけではないのだ。
身体か心か、そのどちらかが受け入れるなら、どんな下手物だって食べる自信だってある。
/お姉さん/の料理だって、別に食べられないってわけじゃない。
だけど――結局は、消化できないって点では同じことだから。
階下から誰かが階段を上ってくる足音に、緩んだ神経が引き延ばされて鋭くなる。
人間は個性の固まりだから、足音にだって個性が出るものだ。
僅かに耳を澄ませると、そこから誰が上ってきているのかなんて考えるまでもない。
僕は急いで扉を押さえつけて、中に誰も入れないような体勢を採る。
元々鍵を閉めているし、スペアキーだって僕が管理しているから、
誰かがこの部屋に入ってくることなんてできっこないとは分かっているけれど、
本能から来る恐怖を理屈で治めるなんてできっこない。
足音は近付いてくる。トン、トトン、トン、トトン――ああ、聞き間違いなんてあり得ない。
自律神経がパニックになって急に全身が発汗する。そのままどんどん体温が低下していく。
揮発速度がそんなに速いわけがないけれど、体感温度は氷点下を目指して急落中といった心持ち。
それどころか、全身が凍り付けにされたみたいに動かなくなって、
僕は扉に背を付けて膝を抱える置物になってしまう。
頭から温度が抜けていって、後に残るのは耳の奥に残響する鼓動の音だけ。
心臓の感覚もなくなったのに音だけがやけに響くものだから、
頭蓋骨の中に心臓があるように錯覚する。どくん、どくん――
足音のリズムに合わせて動く脳の心臓が、カウントダウンの声に聞こえ始めるともう末期だった。
トン――足音が扉の前で止まるのと同時に、脳の心臓も鼓動を辞めて、
鉛の固まりに変わったかのように重みだけを感じさせる。
足音の主は、扉の前に着いても言葉を発しない。
それがプレッシャーを掛けるためだと分かっているから、僕も沈黙に身を浸す。
身体感覚が失せているからか、時間の経過を感じないのが幸いと云えば幸いだった。
もったいぶってジワジワと食べられるのも、
頭から一飲みされるのも同じように感じられることを幸いと云うなら、だけど。

 そうやって、どれだけ時間が経ったのか、
扉の向こうの誰か――/お姉さん/は、「/今日は/」
と言葉を紡ぎ始めた。

「/二十分二十七秒/」

 僕に応答の言葉はない。なんのことかなんて訊ねる必要だってない。
だって――それこそ毎日のことだからだ。
それは、今日一日の間に兄さんが僕を見ていた時間で、僕と会話していた時間で、
僕に注意を向けていた時間だ。
家族なんて云っても、社会人と学生の生活時間はほとんど重ならないから、
意識すれば接触する時間はどれだけでも短くすることが出来る。
それでも、三十分を切ると云うのは、
健常な仲の良い家族であればあり得ない短さだろうとは思うのだけど。
だけど、お姉さんの所感はいつものように異なっていた。

「/いつもより長かったね。でも、今日はまぁ仕方ないかな。
せっかくの入学日なんだから、さとくんがひぃちゃんを構っちゃうのは当然だものね/」

 だけど、と/お姉さん/は前置いて、

「/だからって、さとくんがわたしよりひぃちゃんを重んじてるってことじゃないから。
ひぃちゃんは頭がいいから、まさか勘違いなんてしてないとは思うけど、一応ね?/」

 だん、と扉が蹴られて音を立てる。背中に伝わって、空っぽになったはずの内臓まで響く。

「/さとくんは家族思いで優しいから、ひぃちゃんにも優しくしてるけど、
さとくんが一番大切なのはわたしだから。だって、わたしはさとくんの配偶者だもの。
さとくんにとってわたし以上に大切な人なんているわけがないんだから/」

 だん。

「/だから、さとくんがひぃちゃんと話しててもどうってことはないのよ。
だけど、勘違いして欲しくないから、こうやって釘を刺してるの/」

 だん。

「/さとくんが一番大事にしているのはわたしなの/」

 だん! と一際強く蹴りながら、/お姉さん/は声を荒げる。
兄さんにとって一番大切なのは誰で、兄さんにとっての僕はどんな存在なのかを、
何度も何度も何度も何度も云い聞かせる。同じことの繰り返し。
繰り返された言葉は、泥水の触感で脳に染み込んで、僕の認識を染色していく。
僕は兄さんにとって要らなくて、僕はここにいるべきではない。

「/でも、さとくんがどうしてもって云うから、高校卒業までは居てもいいけれど、
進学したらでてって貰うからね/」

 そんなことは云われなくても分かってる。元々今の高校だって寮生活をしたかったから
受験したのだし。だけど、兄さんは僕がこの家から出て行くことを反対している。
どうして? なぜ? 現実と認識の齟齬を僕には埋めることが出来ない。
兄さんは僕が要らないのに、兄さんは僕に出て行くなと云う――
気持ち悪い。改めてわき起こった吐き気が胃を蠕動させるけれど、
僕の中身は空っぽで吐くものなんて胃液一滴残っていないから、
口を噤んで耐えるより他になかった。
お姉さんは僕の無言をどう取ったのか、更に強く扉を蹴る。
それだけ強く蹴ったら階下に響きそうなものだけど、
聞かれて困る人には聞こえないように配慮していると云うのだから恐れ入るところだ。

「/ねぇ、ひぃちゃん/」

 わすれてないよね――問い掛けは氷柱を刺されるかのように冷たく鋭い。
思い出すのは、あの夜のこと。
突き立てられた爪の痛み。
背中を耕されていく恐怖。
人間はモノだから、その精神だって物理的側面を持つのは当然で、
だから時間経過によって風化する。
ずっと消えない恐怖はないし、どうやったって忘れられない物事なんてあり得ない。
だけど、ずっとこうやって更新されていたならば。
何度も何度も連想して、追想して、想起していたならば。
その感情は、風化するどころかコーティングを厚くして、
ちょっとしたことで再生される悪夢に成る。

「/ねぇひぃちゃん。云ったわよね、次はないぞって/」

 呟きが遠い。
恐怖がピントを狂わせると、
たちどころに面積換算にしておよそ九割を占める感情に意識が向けられる。
コーティングされて、規則正しく隙間なく並べられた、萎縮の感情。
恐怖なんて言葉では到底全てを云い表すなんてできないストレス。
目をそらすことが出来なくなったら後は早い。
圧倒的な感情の質量の奔流に、僕はあっけなく意識を手放した。

 

†††

 意識を取り戻したときは、時刻はもう午前3時を超していた。
都合五時間近く気絶していたことになる。
これは新記録かな、と嘯いたところで気分が楽になるでもなく、
僕はうつぶせに倒れていた身体を起こした。
座って気絶したつもりだったけど、どうやらバランスが悪かったらしい。
以前は下呂吐きながら気絶していたものだから、
今日のようにうつぶせになった状態で気絶から目を覚ましたら
下呂の海に頭を浸けていたモノだけど、どうせ吐くならと自分で吐くようになってからは、
とりあえず髪の毛に下呂の匂いが着くのは回避できている。
まぁ、次善の策と云っても、惨めなのは同じなのだけど。
さて、気を取り直して、と軽く伸びをすると、
凝り固まった筋肉がぎしぎしと音を立てているのが感じられた。
今が冬場でないのは助かった。下手をすれば風邪を引きかねない。
病気に罹るとばれないようにするのが大変だから、そう云った意味でも助かった。
なにはともあれ、空きっ腹にモノを詰めなければならない。
正直、空腹感は一切ないどころか、気持ち悪さで胸焼けさえ感じられるのだけど、
栄養だけは摂るようにしなければ、それこそ病気になってしまう。
僕は部屋の冷蔵庫まで歩いていって、中身を物色する。
と云っても、本格的な調理しなければ食べられないようなものは入っていない。
炊事場を使うと、どうやって気付くのか/お姉さん/が機嫌を悪くするからだ。
冷蔵庫の中は空に近い状態だった。と云うか、随分前にドラッグストアの安売りで
買いだめしたゼリー飲料しかない。普段であれば、部屋の中の調理器具――
ホットプレートと電気ポッド――で作れる麺類やら野菜炒めやらの簡単料理の食材が
入っているものだけど、学校の帰りに買ってこようと思っていたのを失念していた。
ひぃ姉と会ったり拉致されたりした所為でうっかりしていたのだ。
まぁ、こうなっては仕方がない。とりあえず、十秒チャージで有名なゼリー飲料で
空腹を満たすことにしようと、蓋を開けて飲み込む。
ざりざりと引っ掻いた喉をゼリーが通る度にちくりと刺激を感じるけれど、
これくらいはしょうがない。病気から来るものではない自己誘発嘔吐なんて
完全に自業自得なのだから、痛みくらいは耐えないと。
パックを絞ってゼリーを喉に落としながら、
ベッド横の窓を開ける。山を降ってくる風は強くて冷たかったけれど、身を切るような鋭さはない。
気圧が安定している証拠だろう、数日は晴れの天気が続きそうだった。
ベッドに腰掛けながら、しばし土の匂いがする風を浴びる。
蓋をした洗面器から漏れてくる下呂の匂いを入れ替える意味でも、
もうちょっと窓を開けておかなければならない。
そうして、ゼリーを飲みながら考えることは今日のこと。
クラスメイトの城内や同級生の志摩さん、そのお姉さんの志摩先輩。
そして、ひぃ姉に兄さんに/お姉さん/。新しい季節の始まりに相応しく、
問題はのっけから山積しているわけだけど、果たしてどれから手を付けたモノだろうと思う。

 志摩さん方面はなんとかなる。もちろん、協力は申請しなければならないだろうけれど、
片付ける手腕くらいはある。問題はひぃ姉との絡みを見られたことで、
そっちについては一度ひぃ姉と話し合わなければ成るまい。
ひぃ姉の方の問題は気長に構えるつもりで居た。
リミットは一年間だけど、今度こそはなんとか解決しなければならない。
出来るだけ二人きりを避けつつ、ひぃ姉の周囲を使って、
環境から彼女の内面を変質させる――まぁ、やってやれないことはないと思う。
/お姉さん/については、当面は放置するしかない。
聞く耳を持つ持たない以前に、僕の方から働きかけることが出来ないからだ。
自分の部屋以外で/お姉さん/と接触すると、条件反射のような対応しか取れなくなる。
僕以外の人の手を借りると云う方法もなくはないけれど、/お姉さん/の対人関係を把握することは
容易ではないし、唯一共通の知人であるひぃ姉からアプローチを掛けるには、
まずひぃ姉の問題を解決しなければならない。
とりあえずは、差し迫っては学校の方の問題解決に力を入れる以外にないっぽいなぁと
結論づけると、空になった容器をゴミ箱に投げ入れながら、ベッドに仰向けに寝転がる。
これで三年。家ではこんな生活が続くことになるわけだけど、僕は果たして耐えられるだろうか。
差し迫って一年目はひぃ姉のことに注力すればいいけれど、それ以降はどうしていいか分からない。
元々中学の頃からこの生活で心身共に疲弊していたから、家から出る目的で寮生活を願い出たのだ、
これ以上の酷使は身体的、精神的の両面で無理がある。耐久値なんて現状でも底を突きかけている。
感情のメモリはいつ正気を失う方に傾いたっておかしくない。
僕に残ってるのは、責任感だけだ。
考えれば、僕は周囲の色んな人に迷惑を掛けてきた。
兄さんのお願いを無碍に出来ないどころか無条件で受け入れているのだって、
本を正せば償いの感情に行き当たる。僕の所為で人生を狂わせたのだとすれば、
僕はたとえば狂っても、あの人を真っ当に生きさせてあげなければ嘘じゃないか。
だけど、僕が兄さんに採っている態度は、その逆も良いところで。
お姉さんが不機嫌にならないように、必要最低限度のコミュニケーションで済ませるべく、
ほとんどメソッドで会話をしていることだって少なくない。
会話を少なくするための最良の方策は、無視ではなくて満足させることだ。
今日だって、志摩さんの痴漢疑惑なんて問題がなければ、
適当な事件をでっち上げて楽しませる予定だった。
そうすれば、自ずと会話に密度が生まれて満足させやすくなるからだ。
不義理といえば不義理きわまりない対応である。
だけど、どうして良いか分からない。どうすれば誰もが満足できるのかなんて、
出来の悪い僕の頭では思い付かない。
無機質な天井に答えが書いてあるはずもなく。
僕は思索に沈んでいく。

 家の中に居場所がないのは事実だった。
そもそも、家に入ってきた時点で幽かに情交の残り香が漂っているのだから、
意識して居場所を無くそうとしていると見るのが当然だろう。
もっとも、あまりに幽かなので、嗅覚に僅かな障害を持つ兄さんには分からないだろうけれど、
神経過敏になって匂いにも鋭い僕には分かる。アレはマーキングだ。
犬がするようなそれを、/あの人/と兄さんは家中で繰り返している。
別にセックスに嫌悪感を持ってるわけじゃない。
愛情を確かめるにせよ、快楽を得るためにせよ、子を授かるためにせよ、
それは男性と女性の間で行われる健常な行為であることは分かっている。
でも、それを使ってマーキングだなんて発想には拒絶感しか抱かない。
随分前まではそれにも耐えてきたけれど、分水嶺を超した中学時代からは、
自動的に感情と対応を切り離すだなんて反射まで身につけてしまった。
そうして二人の前で和やかに過ごしている自分を意識する度、僕は自分が分からなくなる。
自分自身が分裂している。軽度の解離性同一性障害を疾患しているような気もするけれど、
自分のことなんて分からない。
ただ、このままでは重度に進行することもあるんじゃないかなぁと思っていたりはする。
まぁ、先のことなんて全然分からないのだけど。
手元の問題を先に解決していけば、問題は自ずと減っていくんじゃないか、
なんて期待もしたりして。
元々、一番最初の狙いである寮生活って逃げは出来なかったのだ。
出来なかったことをいつまでも悔やんで時間を費やすなんて出来ない。
僕が自壊するまでに、そんな時間が残されているとも思えないから。
だから、とりあえずは少しずつ。先ずはひぃ姉の問題から着手しようと心に決める。

 ――でもまぁ、とりもなおさず今は、洗面器に貯まった下呂をどうにかする方が先らしかった。

2008/04/13 To be continued.....

 

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