† † †
「だから、あそこではジャンピングエルボーじゃなくて延髄蹴りをするべきだったんですよ!」
「いやいや、ラリアットを喰らわせて転倒したところにドラゴンスクリューでしょ!」
「ドラゴンスクリューですか……なるほど。膝を潰すわけですね!?」
「そうそう。後半、相手方にやられたじゃない? あれがきっと勝敗を分けたに違いないね。
実力は伯仲してたんだから、あそこでドラゴンスクリュー喰らわなけりゃ勝てたんだって。全く。
鬼だの何だのと云われていい気になってるから……」
食堂から出た僕らは、
先輩と城内に先導される形で三つの校舎を串刺しにする屋外廊下を歩いていく。
外は少しだけ肌寒い。春とは云え、僕らの住むこの地方には冬の気配が色濃く残っている。
桜の開花が丁度入学式と重なったのはこのためで、
それに関してはここいらの学生は恵まれているんじゃなかろうか。
学校の敷地に沿うように植えられた桜並木に視線を遣ると、
桜は日差しを受けて花弁を白く輝かせていた。未だ咲ききっていないから今が丁度見頃かも知れない。
満開になれば散り果てまでは駆け足になる。少しずつ暖かみを増す日差しは夏の到来を予感させた。
とは云え、今は春も初めの4月である。夏が訪れるのは未だ先の話。
今は牛歩なりに環境に慣れていく時期だろう。
僕は軽く辺りを見回しながら先輩と城内の後に付いていく。
周囲に人影は疎らで、その数少ない人影も駆け足でどこかへと向かう最中のようだ。
ほとんどの生徒は、校舎かグラウンドで部活を見学したりダベったりしているのだろう。
校舎からはもとより、校舎からは若干離れた場所にあるグラウンドからの喧噪さえもが
屋外廊下まで届いては、当地の熱気を伝えている。
それが却って僕らの居る屋外廊下の静謐を深く僕に染み込ませた。
前方、先輩や城内がなにやらプロレス談義で盛り上がっているけれど、
それは蝉の鳴き声のようなもので、静寂を利かせるスパイスの役割しか果たしていない。
不意に、喧噪の間隙に静寂を見ることがある。
自分と周囲の隔絶とでも云うのだろうか。属する群体から切り離された自分を強く意識する。
誰からも注意を向けられず、ふと消えてしまいたくなるような――
はぐれてどこか遠くへ彷徨いに行きたくなるような。
我ながら青臭い話だと苦笑する。ピーターパンシンドロームを気取るような年齢でもあるまい。
今感じているのは、良いところピアプレッシャーの類だろう。
つまり、僕は集団の中で偶発的に発生する孤独の窪みに嵌り込んでしまったに過ぎない。
城内が笑い、先輩が揶揄し――それを遠くから眺めている僕は、
ある種の透明人間になったつもりになっていて、
だから、その声は意外なほど僕の意識に強く響いた。
「――ご迷惑でしたよね」
不意に掛けられた言葉が自分に向けられたものとは気付かず、一瞬空耳だと勘違いする。
自分一人で居たつもりなのに、声を掛けられるとは思っても見なかったのだ。
やれ幻聴でも聞くようになったかとかぶりを振ると、
再び「ごめんなさい」と澄んだ声音が耳朶を打った。
声が聞こえた方向に視線を転じると、僕に並んで歩く志摩さんの姿が視界に映る。
志摩さんは前方に視線を投げている。先ほど聞こえたのは彼女のものだろうか。
にしては、彼女の注意は前方に向いたまま、僕に向けられていると云う気配はない。
矢張り勘違いだったかなと結論づけて僕も前に向き直ろうとしたところで、
志摩さんは僕に面を向けた。
「岸見さんにとって、現状は不本意なものでしょう?」
突然の問い掛けに、なんと応えて良いか分からない。
それ以前に、質問の意図さえよく分からなかった。
不本意ではあるし、迷惑であることもまた確かだけれど、
それは今更どうこう云っても始まらない類のことである。
現状に甘んじている以上、不満を云うつもりはない。
何となれば、僕は城内と別れると云う選択肢もあったのだから。
僕は少し考える素振りをして、「まぁ、不本意は不本意だけどね」と
志摩さんの言を認めることにした。
僕の言葉を聞いて、志摩さんは少しだけ眉根を下げる。
それで初めて、僕は現状が彼女によって導出されたものであることに思い至った。
彼女の一言が切っ掛けになって先輩は活気づき、僕はあの場を退出しそこねたのである。
見方によっては、志摩さんがあの状況を支配していたと云っても過言ではあるまい――
伏兵だの何だのと考えておきながら、それを策だと見抜けない自分の愚鈍さに若干苛立つ。
そんな心情が面に表れていたのか、志摩さんの顔からさっと血の気が引いた。
怒られると思ったのだろう、全身の筋肉が緊張で強張るのが察せられ、
僕は慌てて「ああ、別に良いよ気にしないで」と早口でまくし立てる。
「元々どこに行くとも決めてなかったし。
城内は城内で、入りたい部活なんてのもなさそうだったしね。
どこに行こうかって途方に暮れるところだったから、先輩のところに行くってのは、
ある意味で渡りに船だったんだ。
それにあんな破天荒な先輩が所属してる部活ってのにも興味が――って、悪い。
破天荒ってのは云い過ぎだったかな」
若干慌ててフォローを入れていたからか、僕らしくもなく失言をしてしまう。
その失言にさらに慌ててフォローを入れた僕の様子が可笑しかったんだろう、
志摩さんは口元に手を当てて上品に苦笑した。
「別に構いません。お姉ちゃんが――姉が破天荒なのは事実なので」
「いつもああなの?」
「ええ、いつもああなんです」
冗談めかした口調を交換すると、僅かに緊張が薄まってくる。
僕は肩をすくめて「それは大変そうだ」と苦笑を返す。
彼女はやんちゃな子供をもった母親のような風情で溜め息を吐く。
「そうですよ。今日のことだって、大したことないって云ったのに大事にして――」
「このメールでどうやったら勘違いできるんでしょうか」と、
志摩さんは僕に緋色の携帯電話を見せてくる。会話の流れからディスプレイに映っているのは
志摩さんが先輩に送ったメールの本文らしい。ちょっと失礼、と断りを入れてから、
志摩さんの携帯電話を借り受ける。ストラップも偏光フィルタもかかっていない素朴な携帯電話――
志摩さんらしいと思いながら、表示さて居る内容に目を通し――って、オイ。
僕は思わず額に手を当てる。携帯電話を志摩さんに返す際に、
「これを先輩に送ったわけ?」と念のため確認してみると、
「そうですよ?」
まるで「なにが聞きたいんですか?」とでも云わんばかりの表情を返されて、言葉を失う。
具体的な内容について言及することはしないけれど、
おぼろげにしか意味が介せない多種多様な修辞と僕なんかでは思いも寄らない奇抜な感情表現が
横12文字、縦70行に渡る文面を縦横無尽に踊り回り、如何に下着を見られて屈辱だったのか、
どれほどの羞恥に見舞われたのかが語彙の限りを尽くして力説されている上に、
下着を見た男子生徒――つまりは僕だ――の対応がその場凌ぎかつ適当であったかを
言外に匂わせることも忘れていないと云う力作だったことについては明言しなければなるまい。
そりゃ先輩が勘違いしたのも無理はない――むしろ勘違いするなという方が無理がある、
そんな内容であった。
実はまだ根に持ってるんじゃあるまいなこの娘。ちらりと視線を投げると、
志摩さんはこらえきれないと云う風に苦笑を深めている。
「あ、間違えました。本当はこっちです」
「さっきのはさすがに冗談が過ぎましたからね。草案でボツにしたんでした」
と苦笑混じりに示された携帯電話のディスプレイには、
先ほど見た内容とは似てもにつかない素っ気ない文面で、下着を見られたこと、
相手とは和解したこと、ショックだから帰りになにか奢って欲しいと云う旨のみが記載されていた。
――一瞬、呆気に取られる。
一拍遅れで先ほどの文面が悪戯であったことに思い至り思わず志摩さんを凝視するも、
志摩さんはすました表情で僕の視線を受け流すばかり。
僕はからかわれた羞恥に頬を染めながら、志摩さんの人物評の修正に取りかからざるを得なかった。
第一印象からすると気弱で押しの弱い性格かと思っていたのだけれど、
僕の人を見る目は相当腐っているらしい。話してみると、存外志摩さんは気さくなタイプのようだ。
冗談を解して冗談を返す程度の機知はあるし、
一対一で面と向かって居るこの状況でも物怖じしない胆力も持ち合わせている。
先ほどの悪戯を見ると、まじめ一辺倒ではなく茶目っ気もそれなりにありそうだ。
加えてあの状況操作の手腕を鑑みれば、意外と腹黒い人なのかも知れない。
これは油断が出来ないな――そう思いながらも相好が崩れる。
女性としてではなく友人としてであれば、この手の腹芸を隠し持つ人種は好みとするところである。
「そう云って、本当はさっきのキツイのを先輩に送ったんじゃない?」
「さぁ?」
「どうでしょうね?」と澄まし顔で受け答えする志摩さんの口調は軽快の一言に尽きる。
本当、イイ性格である。僕に出来ることと云えば、
僅かばかりの皮肉を載せて肩をすくめる程度のことくらいだった。
「にしても――」
苦笑していた志摩さんの表情が僅かに締まり、瞳から笑いの気配を散らしながら、
「本当に、ご迷惑をお掛けしました。今回は、なんとお詫びしていいか……」
と足を止めて頭を下げる。僕はと云えば、一体何のことについてなのだか、
把握が遅れた所為で掛けるべき言葉が見つからない。
「えっと、ごめん。何のことか分かんないんだけど。謝って貰うようなことってあったっけ?」
僕が訊ねると、志摩さんは申し訳なさそうに瞳を逸らしながら、
「あの、姉が……」と言葉を濁す。それで、あの廊下での一件――
先輩に公衆の面前で痴漢扱いされたアレだ――を云っているのだと気が付いた。
そう云えば、あれについては全くなにも考えていなかったなと思い直す。
それなりに深刻な事態だと考えていた割には脳天気な話である。
これは季節にやられたか――自分の想像に苦笑する。
僕が笑っているのを訝しんでか、志摩さんが不思議そうな眼差しをしていたから、
僕は「大丈夫だよ」と応えて見せた。
「うん、まぁそれなりに色々厳しいけど、フォローが出来ないって程でもないし、
それなりになんとかなりそうな気もするし。
もちろん、先輩や志摩さんにもそれなりに手伝って貰うことになるとは思うけど。
大事にはならないんじゃないかな」
人の噂も七十五日と云うわけではないけれど、この時期は色々と誰もが余裕のない時期なのである。
自分のことに追われていれば関わり合いがない他人の起こしたイベントも忘れてくれるだろうし、
そもそもに今回の事件はネタとして収束させるって手もあるのだ。
痴漢と間違われたことを切っ掛けに仲良くなったと云うのは人に聞かせるエピソードとしても
申し分ない。こうやって協力を得られるからこその手段であることや、
つい先ほどまで逃げようとしていたことを考えれば調子のいいことだとは思うが、
まぁそこは結果オーライと云うことで。
僕の反応を見て安心したのだろう、志摩さんは安堵の溜め息をはき出した。
その様があまりに可愛かったから、僕はすこし悪戯心を刺激される。
「でもまぁ、僕の方はいいとしてもさ、志摩さんこそ大変だよね」
「――なにがですか?」
不意に話の焦点を自分に映されて、志摩さんは何のことか分からない、と云う風に僕を見る。
僕は苦笑しながら、
「だってほら、先輩が僕を痴漢呼ばわりしてたときにさ――」
先輩は痛みに身動き一つ取れない僕を睥睨しながら、
階のすべての教室に響き渡るような大声でこんな風に啖呵を切ったのである。
『アンタが覗きしたパンティはなぁ! 入学に向けてウチの妹が気合いを入れるために
穿いた勝負下着なんだからなぁぁ!!』
僕が苦笑していると、志摩さんもあのことを思い出したのだろう、
月白の肌を瞬く間に真っ赤に染めて恥ずかしそうに口を噤んでしまう。
まぁ、それも仕方ない。五十人を超す同級生に勝負下着がどうたらと云う話を
聞かれてしまったのである。僕の痴漢疑惑は地道にフォローしていくことで
印象を回復が出来ようものだけど、そもそも志摩さんの下着云々については
マイナスでもプラスでもないただのネタなのである。
そう云うネタに限って長寿なのだから、彼女にとっては災難と云うより他にない。
あれで先輩としては善意の行動のつもりだったと云うから、本当に救いようのない話だった。
「本当に……お姉ちゃんは……」
志摩さんは顔を羞恥で染めながら、ぶつぶつと恨み言を云っている。
それが可愛らしいやら可笑しいやらで、僕は溢れ出てくる笑声を止めることが出来なかった。
僕の笑い声を聞き咎めたか、志摩さんは恨みがましい目で僕を見詰めてくるけれど、
それも僕にとっては笑点を突く働きしか果たさない。
今度こそ僕は大笑いを始めてしまう。
僕が突然笑い始めたから驚いたのか、前を歩く二人は急に振り向くと、
怪訝な表情を浮かべている。
「お、なになに、なんかあったの?」
「あー、なんか怪しいことになってんなぁ二人とも」
城内は純粋な疑問を、先輩は揶揄をそれぞれ僕らに向けてくる。
振り返ってみれば、僕と志摩さんは向かい合うように足を止め、
志摩さんは恥ずかしげに顔を朱に染めながら僕を見上げているし、
僕はアホの子のように大笑いしているのだから、
端から見れば解釈に困る情景であろうことは察せられた。
だけど、僕は未だに笑気が去らないから状況を説明することも出来ず、
志摩さんは志摩さんで恥ずかしそうに顔を伏せるばかりである。
城内は不思議そうな顔をして僕の返答を待っていたけれど、
意地が腐ってる先輩は大人しく待っててはくれなかった。
「あーなるほど」とわざと含みを持たせるように呟くと、城内に耳を貸せと云う。
素直な城内は先輩の仕草がいちいち芝居くさいことに気付かない。
「はいなんですか」と頭を寄せたところに、
先輩は僕らにも聞こえるような声量で
「今二人は青春してるんだよ。だからそっとしておこう」と告げると、僕らに対して笑顔を見せて、
「じゃあ希、あと岸見もな。あたしら先に第2体育館の一階に行って待ってるから、
お前らはゆっくりやってこい」
そんな口上もそこそこに、城内の手を引いて走って行ってしまった。
僕はさらに声を上げて笑う。ああもう、姉妹揃って癖のある人たちである。
僕の笑い声を聞いて、怒っているのが馬鹿らしくなったのか、
志摩さんも僅かに声に出して笑っていた。
「まったく、お姉ちゃんったら」
「いい家族じゃない。ああ云う手合いは好きだな、俺は」
「姉に云ってあげてください。きっと大げさに喜んでくれますよきっと。
あんな姉で良ければいつでも差し上げますから」
心底呆れ果てたと云う風に溜め息を吐きながら笑う彼女の横顔から僅かながらに
誇らしげな空気を読み取った僕は、
「でも、好きなんじゃない? 先輩のこと」と苦笑を投げる。
僕の質問に、志摩さんは苦笑と共に「ええ」と応えた。
その笑顔を見たとき、僕の思考は停止する。
その時ようやく――本当に遅まきながら、僕は志摩さんが美人であることに気が付いた。
「わたしの自慢の姉なんです」
それは大輪の花を連想させる鮮やかさ。
真情をそのまま面に出したかのような向日葵の笑顔。
† † †
† † †
体育館に着くと、先輩が肩を怒らせて待っていた。
自分が言い出したことながら「遅い!」と僕らを咎め立てする先輩を見も、
志摩さんと苦笑を交換する。
「ごめんなさい先輩」「お待たせ、お姉ちゃん」
二人で先輩を宥めながら、僕は自分が居る位置に思いを巡らす。
ガイダンスで聞いた話によると第2体育館は二階建ての構造物であり、
1階は剣道場や柔道場などの特別教室、2階はバレーボールやバスケットボールに使われる
コートと云う風に別れていた筈だ。僕らが居るのは1階、つまり特別教室と云うことになる。
体育館の特別教室と云うからには、何らかの武道、或いはそれに類されるなにかを目的として
敷かれた場所であろうと予測が付いた。
先輩が居る部屋の扉に掛かったプレートに視線を遣と、
予想通りそこには達筆な文字で『練武場』と書かれている。
練武館、と云うのが何のための場なのかは想像も付かないが、
先輩が所属しているのは格闘技やなにやらをやる部活に違いない。
先輩に殴られた脇腹の痛みがじくじくと尾を引いているのも納得と云ったところだろうか。
思索をまとめたところで丁度先輩は怒りを鎮めたらしく、
「まぁ、仕方ない」と云ってスライド式の木扉を引くと僕らに入室を促した。
扉の内から香ってくるのは畳の独特な香、汗が染みついた木の匂いがそれに混じっている。
新設とは云え、元の学校から耐久限界年数まで達していない施設の一部は移設されたと聞いたけれど、
この場所もその類なのだろう。
畳に縁遠い家に住んでいるためか僕は新鮮な気分で靴を脱ぎ、
城内や志摩さんに続いて屋内に入ろうとしたところで、目端に先輩が頭を垂れている姿を捉えた。
ああ、そう云えば、道場と云うのは礼をして這入るものだったか。
僕が先輩に倣って頭を下げると、先輩は苦笑する。
「別にそんなことしなくてもいいのに」
「そうなんですか?」
「そうそう。礼ってのはね、尽くすべきが尽くせばそれでいいわけ。
知らないヤツに礼を求めても仕方がないし、そもそも礼ってのは心根から来るものであるべきだから」
礼と云う単語は、おそらく礼儀に換言できるだろう。
つまり礼を知らないくせに礼をしたところで意味がない――礼儀と云うのは意図しなければ
ただの行為なのだと云いたいのだろう。
それは確かにその通り。でも――
「形式から心底に根付くものもありますよ、先輩」
「――その通り」
僕が何とはなしにそう返すと、屋内から返答が返ってきた。
先に入った城内や志摩さんの言葉とは違う落ち着いた声音である。どうやら先客が居たらしい。
先輩を先に通して僕も場内に入ると、一瞬、あまりの光量の差に目が眩む。
特別教室に囲まれている廊下とは違い、窓から差し込む陽光に照らし出された屋内は
不思議なほど眩しかった。
目が光りに慣れると、まず一番最初に目に映ったのは畳の緑だった。
道場の床を埋めるように規則正しく畳が敷かれ、その外縁を木板床が囲っている。
そのほぼど真ん中、僕らを振り返る城内と志摩さんのさらに向こうに、
僕ら以外のただ一人の先客の姿が目に映る。
にこにこと穏やかな微笑を浮かべるその初老の男性教諭には見覚えがあった。
僕と城内は思わず頭を下げる。僕らのクラス担任である吉見(ヨシミ)先生は鷹揚に首肯すると、
「城内くんと、岸見くん……で合ってますか?」
僅かに驚きながら、問われた内容に肯定を返す。
特別目立つこともしていない始業式の日に、僕らの顔と名前だけを憶えると云うのは考えにくい。
とすると、
「今日一日でクラス全員の名前を覚えたんですか?」
思わず訊ねた僕に、先生は穏やかに微笑した。
「教師を長年やっていると、このくらいは当然できますよ。
昔は全校生徒の名前だって把握していたんですけどね」
「いやわたしも歳を取りました」と穏やかに云う吉見先生。僕と城内は唖然とするしかない。
僕らのクラスだけと考えても五十人を下らない生徒が居るのだから、
普通はそう簡単に憶えられるものではない。
それをこうも簡単に把握するとは、それだけでも凄いスキルなんではあるまいか。
驚嘆するやら感心するやらの僕らを面白そうに見詰めていた先生は、ふと先輩に視線を移すと、
「行為は繰り返すことで盤石となる。滴涙が岩の形を変えるように、
一見意味がない行為も積み重なることで意味を成すことがあります。
礼儀と云うものは、つまり行為を発端とした心の整形なんですよ」
と、先輩に諭す。なるほど、先ほど屋内から掛けられた言葉の続きである。
僕の言説に補足をしているのだろう。かと云ってただ補足をするだけではなく、
「もちろん、礼に意味を込めることは大切なんですけどね」
と先輩を立てるようにフォローを入れることも忘れないところなんかは、
さすがに人生経験が豊富と云うべきか。
視線を転じると、先輩はらしくもなく恥ずかしそうに俯いていた。
少し意外に思う。誰にでも気安いタイプかと思っていたのだけれど、
意外とこれは……ふむ。面白いかも知れない。
我ながら少し奇抜に過ぎる思索に耽っていると、
吉見先生が僕らを見回して不思議そうな表情をする。
「それで――岸見くんに城内くん、それに――」
「初めまして。詞葉の妹で、1年G組の志摩希と云います。姉共々、よろしくお願いいたします」
先生が自分を知らないことに気付いたのだろう、志摩さんが助け船を出す。
先生は嬉しそうに微笑むと、「これはご丁寧に。そうですか、志摩さんの妹御。
こちらこそ、よろしくお願いいたします」と丁寧な口調で返礼をする。
「岸見くんに城内くん、それに志摩さん――希さん。練武場に一体何の用事ですか?
今日は特別な行事を予定しては居ないのですが――」
「ああ、それはあたしです。あたしが連れてきて」
不思議そうに訊ねてくる吉見先生に、先輩が手を挙げてアピールをする。
「部活、見学していって貰おうと思って」
先輩の言葉を聞いて納得したのか、先生は「ふむ」と黙考することしばし。
それから、苦笑しながら先輩に向き直り、
「志摩さん、当部の活動内容については解説しましたか?」
「え!?」
問い掛けられた先輩は表情と仕草で狼狽を示した。なんと云うかこの人、
いろんな意味で隠し事に向いてない。
苦笑する僕を恨めしそうに見ながら「説明、してません」と云う先輩に、
仕方ないと云う風に溜め息を吐いてから、先生は僕らに体正面を向けて微笑んで見せる。
「さて、と云うことですが、今から他の部の見学に行かれる方はいらっしゃいますか。
当部はとても人気のある部活とは言い難い。
特に人気のある部活は、早ければ今日中にでも定員オーバーになってしまうでしょうから、
見学したい部がある方はそちらを優先させて下さい」
そう鷹揚に云って、順繰りに僕ら一人一人に視線を移す。
僕はと云えば元から入りたい部活なんてないし、城内もそれは同様のようだ。
志摩さんは当初よりこの部活の見学を決めていた節がある。
そんなわけで、僕らは誰一人として席を辞そうとはしなかった。
僕らの様子に先生は嬉しそうに微笑すると、
「では、当部について解説をさせていただきますが、その前に」と前置いて、先輩に視線を投げた。
「志摩さん、先ほど演劇部の築路(ツキジ)部長がお見えになっていましたよ」
築路。
聞き覚えのある名前に、心の表面が僅かにざわつく。
先生に声を掛けられた先輩は、いやそうな表情をして、
「つっちー、なにか云ってましたか?」
「いえ、でも、おそらくは例の件でしょう」
「ああやっぱり」と天を仰ぐ先輩。それを苦笑しつつも嬉しそうに見守る先生。
僕は――酷く不吉な予感をいだかずには居られなかった。
築路。
「先輩、その築路先輩って、それはもしかして――」
僕が予感に推されるように先輩に問い掛けたその瞬間。
道場の扉ががらりと音を立てて開いて、
「失礼します、築路です。志摩さんは――」
少しだけ硬質な、それで居て女性らしい丸みを帯びた声音が、僕の鼓膜をノックした。
ああ――なんて偶然だろう。
経験則は正しかった。志摩姉妹に関わるとロクでもないことになるって分かっていたけれど、
これはとびきりの極めつけだ。
これから数週間、噂が払拭されるのに掛かる手間をこそ経験則がいう厄介事なんだと
思いこんでいたけれど、その見通しは全然甘かったとしか云いようがない。
真打ちは後で登場すると云うセオリーを忘れていた。
僕は耳馴染みの深い声に引かれるように扉の方に首を回す。
第一印象は、すこし痩せたと云うことだった。
より正確を期すならば、身長が伸びた所為でボディバランスが変化したために
痩せたように見えたというのが正しいのだろう。
顔の造形が細くなったように感じたのも、耳を隠すように頬を流れる髪の房が
輪郭を狭めているからに違いない。
僅かに化粧をしているのだろうか、全体的な印象がより鮮明なものとなっていて――或いは、
記憶の中に保存されたそれとは明確に異なるものであったかも知れない。
でも、それでも――理屈抜きに理解する。
「え?」
道場に足を踏み入れた女生徒は、視線が僕を過ぎるや否やピントを僕に固定させた。
その面に映る感情は混沌としていて正しく読み取ることが出来なかったけれど、
驚いているだけではないと云うことくらいは分かる。
だって、僕がそうだ。頭の中が混乱していて、驚くなんてことさえ忘れてしまいそうになっている。
自分の感情が出鱈目に拡販されて、マーブル模様を描いているのが自覚される。
きっと彼女も同様だろうと思われた。
目を離すことが出来ない。それは、首を僅かに曲げると云うことすら許さない、
激流のような情動だった。
それでも、彼女は一瞬僕から視線を逸らす。
そこに、僕と彼女が抱く感情の違いが表れていたのだろうと思う。
もう一度僕に視線を戻すと、彼女は確認する口調で問い掛けた。
「――ひぃちゃん?」
「うん」
懐かしさに繰られて、僕は彼女に笑いかける。
「――久しぶり、ひぃ姉」
築路浩(ヒロ)。
ひぃ姉。
年上の幼なじみ。
耳元で、二年前の僕が皮肉気に囁いた。
――ついに罪に追い付かれたね―― |