ほれ、見ろ。やっぱり遅刻だ。
校門まではゆっくり歩こうとする真守を引っ張ってきたのだが、
そこでHR開始の鐘を聞いて急ぐのを止めた。
こうなったらもう急ぐ理由はない。高校入学以来遅刻も欠席もなかったのに、もうどうせ遅刻だ。
悔しいから出来るかぎり遅れてやる。
そんな捻くれた事を考えつつ、釈然としない怒りに身を焦がしながら歩を緩めたそのとき、
ふと自分が何故遅刻したのか思い出す。
この釈然としない怒りの原因。全部、真守のせいだ。
そう思うと、真守に対して沸々と怒りが沸き上がる。
「ねぇ、真守?」
環は緩めたついでにピタリと歩を止め、後ろの真守に振り返る。
うっ、と真守が声をつまらせた。
それもそのはず、このとき環は皆勤賞を台無しにされて心の底から怒っていた。
顔は笑顔だけど、はらわたは煮えくりかえっていた。
付き合いの長い真守は、笑顔だけでは抑えきれない真の怒りを敏感に感じとったのだろう。
さすがだ。誉めてあげよう。許さないけど。
環は無言で振り被り、手に持った鞄で力いっぱい真守の右腕を叩いた。
ドカッ。
痛い、と小さく悲鳴をあげた真守は涙目で腕をさすりながら、
「ご、ごめん。悪かったよ……」
そう謝罪する。
環はふんと鼻をならした。
「本来なら、万死に値するけど、仕方ないから許してあげる。でも、今回だけだかんね」
「わ、分かった」
そう言いながら、真守はまだ痛そうに腕をさすっている。どうせ、たいして痛くないくせに。
下駄箱はやはりがらんとしていた。いつもなら、喧騒に包まれているのに、
時間が時間だからか人の影さえない。
その静かな玄関には、自分の革靴の足音がびっくりするほど大きく響いた。
「静かね」
気が付くと、環はそう呟いていた。
喧騒にまみれた玄関しか知らない環にとって、
この静寂はまるで別の世界に迷い込んでしまったような不思議な気持ちだった。
「この時間なら、いつもこんなものだよ」
のっそりと体を屈めて、真守は自分の革靴を下駄箱に入れる。
そして、代わりに上履きを取り出し、それを履くと屈めた体を一気にぐんと伸ばしす。
急に伸びた大きな影に、環は少しだけ驚き身を引いた。
「ん?どうしたの?」
わずかながら怯んだ事を不審に思ったらしい真守が、不思議そうに環を見ながら言った。
素直に、真守が大きくて驚いた、と言うのも何か悔しい。
環の中ではまだ真守は小さくて泣き虫な存在なのだ。
大きくなった事に驚いた自分を、また真守が自分より遥かに大きくなった事を暗に認めたくない。
「べ、別にどうもしないわよっ!!」
変な意地のせいではからずとも、声が大きくなってしまう。
「そ、そう?」
「そうよっ!」
なおも不思議がる真守を、環は強引に黙らせる。
納得したんだか、してないんだか分からない顔で真守は頷く。
そして、頷いた首を上げた時、急にあっ、と思い出したように声をあげた。
「な、何よ?」
またしても驚いてしまった環は、そんな自分を隠すように声を大きくした。
「HR」
「は?」
「HR始まっちゃう。急ごう」
何を言ってるんだ、と思う。HRなどとっくに始まっていて、自分達は遅刻者なのだ。
主に真守のせいで、自分の皆勤賞も台無しなのだ。今さら急いでもしょうがない。
もとからトロかったが、彼はそんな事さえも分からないのだろうか……。
分からないんだろうな、途端に頭が痛くなった。その痛みを押さえるように額に手を当てて環は、
「あのね、真守、」
「急ごう」
みなまで言わせず真守は、額を押さえる環の手を握った。
予想外の真守の行動、そして環の手を握った彼の手の大きさ、
暖かさに環は思わずドキッとしてしまう。
だけど、そんな有り得ない感傷に浸る時間なんて、嬉しい事にまったくなく、
急に駆け出した真守に引きずられるようにして、環も走り出した。
「ちょ、ちょっと、何なのよっ!!」
たまらず非難の声をあげるも、真守はまったく聞いていなく、返事さえしない。
代わりに、握られた手に力がこもった気がした。
日本人離れした長い足。大きなストライドで軽快なリズムを刻む真守の足音。
一方の環は完全にばた足で、ドタドタと重く無駄に大きな足音を立てる。
無人の廊下には、その二つの音がまるで違った楽器のように重なり響いた。
長い廊下を駆け抜けて、やがて階段に差し掛かると、
真守は環を前にぐいと引き出して自分は立ち止まった。
勢いの止まらない環はあやうく転びそうになり、慌てて体勢を立て直す。
そして後ろの真守を睨みつけ文句を言った。
「な、何なのよっ、一体!!急に走り出したと思ったら、急に止まったりして、
転びそうになっちゃったじゃないっ!!」
「説明している時間はない。急ごう」
その真守の顔が、滅多に見せない真剣さを伴っていたから、
環は怒りをグッと堪えて仕方なく駆け足で階段を上り始めた。
そのすぐ後から真守がついてくる。
三階で、再び廊下に出る。
かなり急いで走ったから、疲れた。環は膝に手を当てて、乱れた呼吸を正常に戻そうとする。
が、それより前に再び真守が環の手を取って走り出した。
「も、もう、何なのよっ!!」
苦しい呼吸の隙間を縫って、環は三度目の非難の声をあげた。
息も絶えだえ教室にたどりついたとき、驚いた事にまだ担任は登場していないようだった。
その証拠に、廊下にまで響く賑やかな話声はHRでは有り得ない喧騒を携えていた。
ガラガラと乱暴に開いた戸に、クラスの喧騒は一瞬静まり返ったが、
そこにいるのが担任じゃないと分かると、再びクラスは喧騒に包まれる。
しかし、どうも様子がおかしい。クラスメートは皆、いやらしくにやつきつつこちらを見ている。
そして、先程とは種類の違う喧騒に包まれる。
「キャー、見て、あの二人手を繋いでるーっ!!」
「うわ、こんな朝っぱらからかよ」
「ご夫婦は今日も仲良さそうでうらやましいですな」
次々と飛び交う冷やかしの文句に、環はようやく真守と手を繋ぎっぱなしなのを気付いて、
慌てて手を放した。
「見て見て、加藤さん顔真っ赤にしてる〜、か〜わいい〜」
「照れてるんだ、うぶなんだね〜」
違う。これは走ってきたからだ。じゃなきゃ、なんでよりによって真守なんかと。
そう言いたかったが、乱れた呼吸ではうまく口が開かない。方や真守はと言うと、
涼しい息遣いで困ったように笑っていた。
あんたが誤解をときなさいよ、そんな怨念をこめて肘で真守をつつく。
すると、その意図を敏感に感じ取ったらしい真守が、驚くほど落ち着いた様子で、
それでいて環にしか聞こえないひっそりとした声で言った。
「無理だよ。それに、あんまりこっちがムキになると、むこうがおもしろがる。
だから適当にあしらえばいい」
じゃあ、さっさとやれよ、と思う。
しかし、真守は相変わらずの困ったような笑顔のままで何もする様子もなく、
そうこうする間に冷やかしは勢いを増していく。
「おいおい、何をこそこそ話してんだよ」
まずは、クラス一の馬鹿で、そのくせ妙にめざとい森が先陣を切り、後も続く。
「二人仲良く遅刻なんて、何やってたんだか」
「夫婦水いらずでいちゃいちゃしてたんじゃない?」
そのとき、真守がいきなり口を開いた。
「違うよ」
決して大きくはないがよく通る澄んだ声に、冷やかしに包まれた喧騒が嘘のように静まり返る。
まるで渦に飲まれるようにクラス中の関心が彼の言葉に飲み込まれ、
みな息を殺して真守の次の言葉を待っているようだった。
教室中の期待と好奇が真守に集まっている。
だけど、彼はそんなものに動じる様子はまるでなく、じらすような沈黙を作り、
それから、いつもの笑みを浮かべたまま、呑気にこう言った。
「離婚届けを出しに行ってたんだ」
ドッとクラスが揺らいだ。
結局、教室の盛り上がりは真守のあの一言で最高に達したが、
後はまるで浜辺に打ち寄せた波が引くように驚くほどあっさりと静まった。
何を言われても真守は笑みを絶やさないし、おまけにそんな真守が自分の体の大きさを利用して、
環を背中に隠して環の顔をクラスメートから見えなくしてしまった。
そのため、クラスメートからは感情の起伏が激しい環の顔を見えなくなり、
彼等の野次馬根性は当人達の思いの外──主に真守のだが──
寂しい反応に水をかけられた格好になった。
前言通り、真守が教室の盛り上がりをあしらって見せたのである。
しかし、環にはそれが真守に助けられたようで気に入らない。
よりによって真守なんかに、と微かに反抗心にも似た嫉妬を覚える。
だが、よくよく考えてみれば、そもそもそんな目に会うのは真守がちんたらしていたせいなので、
別に感謝する必要もない事に気付き、ほどなくして溜飲を下げた。
すっかり沈静化したクラスの盛り上がりを背に席に向かう環と真守に、
人懐っこい笑みを浮かべた男がおはようと声をかけてくる。
真守の前の席に座る中村芳樹だ。中村は椅子に前後逆に座り、真守の机に腕を置いてこう言った。
「よっ、加藤と死神さん」
「その呼び方は止めてくれないかな?」真守は苦笑しつつ、鞄を机の上に置いて自分の席に座った。
「あんまり好きじゃないんだ、その呼び名」
嘘つけ。
環は知っている。彼の携帯ストラップに描かれたキャラクターがデフォルメされた死神である事を。
本当はまんざらでもないくせに。
「何で?かっこいいじゃん、この呼び名」
小首をかしげながら、加藤もそう思うだろ、と中村は話を環に振る。
明らかに肯定を期待する中村に対し、今朝からいらつきっぱなしの環はぞんざいに言葉を返した。
「別に〜。それに、真守に死神なんて似合わないわ。せいぜい貧乏神あたりが関の山よ」
環は鞄を机の上に置いて、真守の隣の席に腰を下ろす。
「貧乏神はやだな」
真守は困ったように頬を掻きながらそう言った。その意見には中村も同意する。
「そうだよなぁ、さすがにそれは酷いよな、MVP」
中村はイタズラっぽく唇を歪め、真守の肩を叩きながら今度はまた別の呼び方で話を振る。
彼の表情に、子供のような意地悪心が出ているのが分かった。
「だから、止めてくれって」
そう言いつつ、困り果てた真守が助けを求めるように環を見てきた。
「死神」とは違い、「MVP」と呼ばれるのを真守が嫌がっている事は環もよく知っている。
が、だからと言って、助ける気はさらさらない。
他力本願な、その弱々しい態度が気に入らないのだ。男のくせに情けない、と思う。
援軍が来ず、孤立したと分かった軍隊のようにみるみる困窮した顔になる真守。
環はそんな真守を睨めつけ突き放すようにふんと鼻を鳴らすと、机に突っ伏し狸寝入りを決めこんだ。
「ありゃりゃ、怒らせちゃったか?まぁ、いいや、なMVP」
がははと豪快に笑う中村の声が聞こえた。
ちなみにMVPとは、先週発表されたサッカーの県大会の個人タイトルである。
その県大会に優勝したのが真守や環の通う高校であり、あろうことか真守がMVPに選ばれたのだ。
こんなでくのぼうのどこがいいのか、環にはさっぱり分からないが、とにかく真守には絶賛の嵐で、
特に地元の新聞は彼のプレースタイルをこう評して称えた。
Vエリアの死神、と。Vが何の略かは覚えていない、興味もない。
「MVPは運がよかったからだよ。実力じゃない」
腕枕に包まれた暗闇の中、今度は真守の言い訳じみた声が聞こえてくる。すかさず中村が、
「何言ってんだよ。運だけの奴が代表に選出されるわけないだろ?」
そうなのだ。困った事に真守は県大会での活躍が認められ、
あろうことかU-17日本代表に選出されてしまったのだ。
先日行われた壮行試合にもちゃっかり出場したらしい。
県大会で真守がMVPを取った時は、県のサッカーレベルの低さを嘆いたけど、
代表となると国のサッカーレベルの低さに嘆かざるをえない。
いずれにしろ真守が代表に選ばれるなんて、この国のサッカー界お先真っ暗なのは間違いないだろう。
別に自分が困るわけでもないので構わないが。
「う〜ん、でも代表はやっぱりレベル高いよ。参加してみたら、一番下手だった」
当たり前だ。体をピクリと震わせた環は、闇の中で一人突っ込む。
真守が一番うまかったら、それこそ世界のサッカー界の終りだ。
だいたい真守の技術はウチのサッカー部内でさえ一番じゃない。
大甘に見ても、せいぜい二番か三番程度ではないか。
サッカー部マネージャーの加藤環が証言するのだからそこに間違いはない。
「へぇ〜、そうなんだ。日本も広いな」
「そうだね。うまい人はたくさんいるよ」
相変わらずの呑気な声を聞いたそのとき、教室の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
クラスのざわつきが真守と村上の会話共々一斉に止み、
その静寂の中に教壇を叩くくぐもった足音が響いた。
そして、その音が止まぬ内にクラス委員長が号令を上げる。
「きりーつ」
今日も、また日常が始まる。
椅子が引きずられる音が聞こえ、次々とクラスメートが立ち上がる音を聞いた環は
おもむろに立ち上がった。 |