INDEX > SS > しにがみのバラード

しにがみのバラード



1

宵高の死神。
ずいぶんとかっこいい呼び名だな、と思う。
実際は、そんなクールなイメージにそぐわない冴えない男なのに、誰がつけたかセンスが無さすぎる。
もっとこう、しっくりくる呼び名はなかったのか。
例えば、加藤環ならこう呼ぶ。
でくのぼう、と。

そのでくのぼうこと、米本真守は環の幼馴染みである。
「真守」なんて名前のくせに、昔から泣き虫で、よく名前負けだと笑われてい
たものだ。かくいう環も、子供の頃は男のくせにすぐにピーピー泣く真守にうんざりしていた。
おまけに気が弱く、おとなしい性格の真守はちょくちょくクラスメートに泣かされて、
そのたびになぜか環に頼ってくるから面倒くさい。
面倒くさくてたまらなかったが、幼馴染みの縁で仕方なく助けてやっていた。
そんな真守も中学に入学すると、ようやく泣き癖も治まり、その頃からグングンと背が伸びていった。
環よりずっと小さかったのに、気付いたら同丈に、高校二年ともなると首が痛くなるほど見上げないと
真守の顔が見えないくらいになっていた。
今、環の身長は166センチ、女子としては大きいほうだ。だけど、それ以上に真守が大きい。
米本真守の身長は185を超えていた。
だけど、真守が大きくなったのはあくまで身長だけ。内面はちっとも変わっていない。
おとなしくて、気が弱くて、トロい。だから、でくのぼうなのだ。

「ほらっ!!早くしなさいっ!!学校遅れちゃうじゃないっ!!!」
環は後ろを振り返りながらそう怒鳴った。だけど、怒鳴った相手の真守はそんなのどこ吹く風で、
もはや癖になってしまったのではないかと疑うほどの見慣れた柔らかい笑みを浮かべていた。
「もうっ!!学校遅れたらアンタのせいなんだからねっ!!」
一向に急ぐ気配のない真守に、環は顔を真っ赤にして怒った。だけど、真守は気にしない。
それどころか、遅刻ギリギリのこの時間にも真守は呑気に、こう言った。
「だったら、先に行っててもいいよ。俺は後から行くから」
あくまで呑気な真守に、怒る自分が馬鹿のように思え、しかしそれが気にいらなくて逆にいらつく。
まったく誰のせいで遅れそうになっているのか、分かっているのか。
全部真守が寝ぼすけのせいではないか。こちとら真守のお母さんに頼まれて、
仕方なく毎朝迎えに行ってやっているのだ。
そんな態度なら、すぐにでも迎えに行くのを止めてもいいんだぞ。
遅刻ばっかりになって泣きを見るのは真守なんだ。
そう心の中でまくしたて、ふーふーと肩で息をする。
どうやら、そこら辺をきっちりと教えとく必要があるようだ。
環はかしこまるような咳払いをひとつして、
「あのね、真守。あんた分かってないみたいだから言っとくけど、
自分が何回遅刻したか分かってんのっ?」
「さぁ?五回目くらいまでは覚えていたんだけど、もう分からないよ」

そう言って、真守は誤魔化すように笑った。もちろん環はそんな事では騙されない。
「冗談っ!三十回よ、三十回っ!!まだ七月なのに、どうやったらそんなに遅刻出来んのよっ!!!」
「よく数えてたね」
感心したように言う真守に、怒りのボルテージがもう一つ上がる。
「馬鹿っ!そんなわけないじゃないっ!!あんたのお母さんから電話があったのっ!!!」
「へぇ〜、そうなんだ。母さん、何て言ってた?」
他人事のように言う真守に、さらに怒りのボルテージアップ。
「これ以上遅刻したら、進級が危ないんだってっ!あんたのお母さん、泣いてたよ!?」
その言葉には、さすがの真守も驚いたように目を剥いた。そして何かを考えこむように、
ん〜、と唸ってから一言。
「それは大変だね」
あくまで微笑みを絶やさない真守に、環の怒りは沸点に達した。
「馬鹿ーーーーーーーっ!!!」
環の絶叫が空に響く。
近くの電柱でおとなしく鳴いていた雀が驚いて逃げてしまった。
夏の空は青く。そろそろ蝉の鳴き声も聞こえてきそうだった。

2

ほれ、見ろ。やっぱり遅刻だ。
校門まではゆっくり歩こうとする真守を引っ張ってきたのだが、
そこでHR開始の鐘を聞いて急ぐのを止めた。
こうなったらもう急ぐ理由はない。高校入学以来遅刻も欠席もなかったのに、もうどうせ遅刻だ。
悔しいから出来るかぎり遅れてやる。
そんな捻くれた事を考えつつ、釈然としない怒りに身を焦がしながら歩を緩めたそのとき、
ふと自分が何故遅刻したのか思い出す。
この釈然としない怒りの原因。全部、真守のせいだ。
そう思うと、真守に対して沸々と怒りが沸き上がる。
「ねぇ、真守?」
環は緩めたついでにピタリと歩を止め、後ろの真守に振り返る。
うっ、と真守が声をつまらせた。
それもそのはず、このとき環は皆勤賞を台無しにされて心の底から怒っていた。
顔は笑顔だけど、はらわたは煮えくりかえっていた。
付き合いの長い真守は、笑顔だけでは抑えきれない真の怒りを敏感に感じとったのだろう。
さすがだ。誉めてあげよう。許さないけど。
環は無言で振り被り、手に持った鞄で力いっぱい真守の右腕を叩いた。

ドカッ。

痛い、と小さく悲鳴をあげた真守は涙目で腕をさすりながら、
「ご、ごめん。悪かったよ……」
そう謝罪する。
環はふんと鼻をならした。
「本来なら、万死に値するけど、仕方ないから許してあげる。でも、今回だけだかんね」
「わ、分かった」
そう言いながら、真守はまだ痛そうに腕をさすっている。どうせ、たいして痛くないくせに。
下駄箱はやはりがらんとしていた。いつもなら、喧騒に包まれているのに、
時間が時間だからか人の影さえない。
その静かな玄関には、自分の革靴の足音がびっくりするほど大きく響いた。
「静かね」
気が付くと、環はそう呟いていた。
喧騒にまみれた玄関しか知らない環にとって、
この静寂はまるで別の世界に迷い込んでしまったような不思議な気持ちだった。
「この時間なら、いつもこんなものだよ」
のっそりと体を屈めて、真守は自分の革靴を下駄箱に入れる。
そして、代わりに上履きを取り出し、それを履くと屈めた体を一気にぐんと伸ばしす。
急に伸びた大きな影に、環は少しだけ驚き身を引いた。

「ん?どうしたの?」
わずかながら怯んだ事を不審に思ったらしい真守が、不思議そうに環を見ながら言った。
素直に、真守が大きくて驚いた、と言うのも何か悔しい。
環の中ではまだ真守は小さくて泣き虫な存在なのだ。
大きくなった事に驚いた自分を、また真守が自分より遥かに大きくなった事を暗に認めたくない。
「べ、別にどうもしないわよっ!!」
変な意地のせいではからずとも、声が大きくなってしまう。
「そ、そう?」
「そうよっ!」
なおも不思議がる真守を、環は強引に黙らせる。
納得したんだか、してないんだか分からない顔で真守は頷く。
そして、頷いた首を上げた時、急にあっ、と思い出したように声をあげた。
「な、何よ?」
またしても驚いてしまった環は、そんな自分を隠すように声を大きくした。
「HR」
「は?」
「HR始まっちゃう。急ごう」
何を言ってるんだ、と思う。HRなどとっくに始まっていて、自分達は遅刻者なのだ。
主に真守のせいで、自分の皆勤賞も台無しなのだ。今さら急いでもしょうがない。
もとからトロかったが、彼はそんな事さえも分からないのだろうか……。
分からないんだろうな、途端に頭が痛くなった。その痛みを押さえるように額に手を当てて環は、
「あのね、真守、」
「急ごう」
みなまで言わせず真守は、額を押さえる環の手を握った。
予想外の真守の行動、そして環の手を握った彼の手の大きさ、
暖かさに環は思わずドキッとしてしまう。
だけど、そんな有り得ない感傷に浸る時間なんて、嬉しい事にまったくなく、
急に駆け出した真守に引きずられるようにして、環も走り出した。
「ちょ、ちょっと、何なのよっ!!」
たまらず非難の声をあげるも、真守はまったく聞いていなく、返事さえしない。
代わりに、握られた手に力がこもった気がした。
日本人離れした長い足。大きなストライドで軽快なリズムを刻む真守の足音。
一方の環は完全にばた足で、ドタドタと重く無駄に大きな足音を立てる。
無人の廊下には、その二つの音がまるで違った楽器のように重なり響いた。

長い廊下を駆け抜けて、やがて階段に差し掛かると、
真守は環を前にぐいと引き出して自分は立ち止まった。
勢いの止まらない環はあやうく転びそうになり、慌てて体勢を立て直す。
そして後ろの真守を睨みつけ文句を言った。
「な、何なのよっ、一体!!急に走り出したと思ったら、急に止まったりして、
転びそうになっちゃったじゃないっ!!」
「説明している時間はない。急ごう」
その真守の顔が、滅多に見せない真剣さを伴っていたから、
環は怒りをグッと堪えて仕方なく駆け足で階段を上り始めた。
そのすぐ後から真守がついてくる。
三階で、再び廊下に出る。
かなり急いで走ったから、疲れた。環は膝に手を当てて、乱れた呼吸を正常に戻そうとする。
が、それより前に再び真守が環の手を取って走り出した。
「も、もう、何なのよっ!!」
苦しい呼吸の隙間を縫って、環は三度目の非難の声をあげた。
息も絶えだえ教室にたどりついたとき、驚いた事にまだ担任は登場していないようだった。
その証拠に、廊下にまで響く賑やかな話声はHRでは有り得ない喧騒を携えていた。
ガラガラと乱暴に開いた戸に、クラスの喧騒は一瞬静まり返ったが、
そこにいるのが担任じゃないと分かると、再びクラスは喧騒に包まれる。
しかし、どうも様子がおかしい。クラスメートは皆、いやらしくにやつきつつこちらを見ている。
そして、先程とは種類の違う喧騒に包まれる。
「キャー、見て、あの二人手を繋いでるーっ!!」
「うわ、こんな朝っぱらからかよ」
「ご夫婦は今日も仲良さそうでうらやましいですな」
次々と飛び交う冷やかしの文句に、環はようやく真守と手を繋ぎっぱなしなのを気付いて、
慌てて手を放した。
「見て見て、加藤さん顔真っ赤にしてる〜、か〜わいい〜」
「照れてるんだ、うぶなんだね〜」
違う。これは走ってきたからだ。じゃなきゃ、なんでよりによって真守なんかと。
そう言いたかったが、乱れた呼吸ではうまく口が開かない。方や真守はと言うと、
涼しい息遣いで困ったように笑っていた。

あんたが誤解をときなさいよ、そんな怨念をこめて肘で真守をつつく。
すると、その意図を敏感に感じ取ったらしい真守が、驚くほど落ち着いた様子で、
それでいて環にしか聞こえないひっそりとした声で言った。
「無理だよ。それに、あんまりこっちがムキになると、むこうがおもしろがる。
だから適当にあしらえばいい」
じゃあ、さっさとやれよ、と思う。
しかし、真守は相変わらずの困ったような笑顔のままで何もする様子もなく、
そうこうする間に冷やかしは勢いを増していく。
「おいおい、何をこそこそ話してんだよ」
まずは、クラス一の馬鹿で、そのくせ妙にめざとい森が先陣を切り、後も続く。
「二人仲良く遅刻なんて、何やってたんだか」
「夫婦水いらずでいちゃいちゃしてたんじゃない?」
そのとき、真守がいきなり口を開いた。
「違うよ」
決して大きくはないがよく通る澄んだ声に、冷やかしに包まれた喧騒が嘘のように静まり返る。
まるで渦に飲まれるようにクラス中の関心が彼の言葉に飲み込まれ、
みな息を殺して真守の次の言葉を待っているようだった。
教室中の期待と好奇が真守に集まっている。
だけど、彼はそんなものに動じる様子はまるでなく、じらすような沈黙を作り、
それから、いつもの笑みを浮かべたまま、呑気にこう言った。
「離婚届けを出しに行ってたんだ」
ドッとクラスが揺らいだ。

結局、教室の盛り上がりは真守のあの一言で最高に達したが、
後はまるで浜辺に打ち寄せた波が引くように驚くほどあっさりと静まった。
何を言われても真守は笑みを絶やさないし、おまけにそんな真守が自分の体の大きさを利用して、
環を背中に隠して環の顔をクラスメートから見えなくしてしまった。
そのため、クラスメートからは感情の起伏が激しい環の顔を見えなくなり、
彼等の野次馬根性は当人達の思いの外──主に真守のだが──
寂しい反応に水をかけられた格好になった。
前言通り、真守が教室の盛り上がりをあしらって見せたのである。

しかし、環にはそれが真守に助けられたようで気に入らない。
よりによって真守なんかに、と微かに反抗心にも似た嫉妬を覚える。
だが、よくよく考えてみれば、そもそもそんな目に会うのは真守がちんたらしていたせいなので、
別に感謝する必要もない事に気付き、ほどなくして溜飲を下げた。
すっかり沈静化したクラスの盛り上がりを背に席に向かう環と真守に、
人懐っこい笑みを浮かべた男がおはようと声をかけてくる。
真守の前の席に座る中村芳樹だ。中村は椅子に前後逆に座り、真守の机に腕を置いてこう言った。
「よっ、加藤と死神さん」
「その呼び方は止めてくれないかな?」真守は苦笑しつつ、鞄を机の上に置いて自分の席に座った。
「あんまり好きじゃないんだ、その呼び名」
嘘つけ。
環は知っている。彼の携帯ストラップに描かれたキャラクターがデフォルメされた死神である事を。
本当はまんざらでもないくせに。
「何で?かっこいいじゃん、この呼び名」
小首をかしげながら、加藤もそう思うだろ、と中村は話を環に振る。
明らかに肯定を期待する中村に対し、今朝からいらつきっぱなしの環はぞんざいに言葉を返した。
「別に〜。それに、真守に死神なんて似合わないわ。せいぜい貧乏神あたりが関の山よ」
環は鞄を机の上に置いて、真守の隣の席に腰を下ろす。
「貧乏神はやだな」
真守は困ったように頬を掻きながらそう言った。その意見には中村も同意する。
「そうだよなぁ、さすがにそれは酷いよな、MVP」
中村はイタズラっぽく唇を歪め、真守の肩を叩きながら今度はまた別の呼び方で話を振る。
彼の表情に、子供のような意地悪心が出ているのが分かった。
「だから、止めてくれって」
そう言いつつ、困り果てた真守が助けを求めるように環を見てきた。
「死神」とは違い、「MVP」と呼ばれるのを真守が嫌がっている事は環もよく知っている。
が、だからと言って、助ける気はさらさらない。
他力本願な、その弱々しい態度が気に入らないのだ。男のくせに情けない、と思う。

援軍が来ず、孤立したと分かった軍隊のようにみるみる困窮した顔になる真守。
環はそんな真守を睨めつけ突き放すようにふんと鼻を鳴らすと、机に突っ伏し狸寝入りを決めこんだ。
「ありゃりゃ、怒らせちゃったか?まぁ、いいや、なMVP」
がははと豪快に笑う中村の声が聞こえた。
ちなみにMVPとは、先週発表されたサッカーの県大会の個人タイトルである。
その県大会に優勝したのが真守や環の通う高校であり、あろうことか真守がMVPに選ばれたのだ。
こんなでくのぼうのどこがいいのか、環にはさっぱり分からないが、とにかく真守には絶賛の嵐で、
特に地元の新聞は彼のプレースタイルをこう評して称えた。
Vエリアの死神、と。Vが何の略かは覚えていない、興味もない。
「MVPは運がよかったからだよ。実力じゃない」
腕枕に包まれた暗闇の中、今度は真守の言い訳じみた声が聞こえてくる。すかさず中村が、
「何言ってんだよ。運だけの奴が代表に選出されるわけないだろ?」
そうなのだ。困った事に真守は県大会での活躍が認められ、
あろうことかU-17日本代表に選出されてしまったのだ。
先日行われた壮行試合にもちゃっかり出場したらしい。
県大会で真守がMVPを取った時は、県のサッカーレベルの低さを嘆いたけど、
代表となると国のサッカーレベルの低さに嘆かざるをえない。
いずれにしろ真守が代表に選ばれるなんて、この国のサッカー界お先真っ暗なのは間違いないだろう。
別に自分が困るわけでもないので構わないが。
「う〜ん、でも代表はやっぱりレベル高いよ。参加してみたら、一番下手だった」
当たり前だ。体をピクリと震わせた環は、闇の中で一人突っ込む。
真守が一番うまかったら、それこそ世界のサッカー界の終りだ。
だいたい真守の技術はウチのサッカー部内でさえ一番じゃない。
大甘に見ても、せいぜい二番か三番程度ではないか。
サッカー部マネージャーの加藤環が証言するのだからそこに間違いはない。

「へぇ〜、そうなんだ。日本も広いな」
「そうだね。うまい人はたくさんいるよ」
相変わらずの呑気な声を聞いたそのとき、教室の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
クラスのざわつきが真守と村上の会話共々一斉に止み、
その静寂の中に教壇を叩くくぐもった足音が響いた。
そして、その音が止まぬ内にクラス委員長が号令を上げる。
「きりーつ」
今日も、また日常が始まる。
椅子が引きずられる音が聞こえ、次々とクラスメートが立ち上がる音を聞いた環は
おもむろに立ち上がった。

3

サッカー部には現在マネージャーが三人もいる。
もともと部員も少なく、また量より質が重視されるこの学校のサッカー部には朝練がなく、
しかも午後の練習時間も三時間程度なので、そんな部活にマネージャー三人とはいかにも多い。
その三人のマネージャーの中では環が一番の古株で、高校に入学したての去年の四月に入部した。
真守に拝み倒されて仕方なくマネージャーの仕事を引き受けた時には、
環以外にマネが一人もいなくて、毎日が激務だった。
しかし、去年の秋に一人増え、県大会優勝した翌日にもう一人増えて三人になった今では、
あの忙しさが懐かしいくらい仕事が楽になった。
とは言え、最近は県大会優勝のあおりを受けてそれなりに忙しいのだが。
さて、その三人のマネージャーの内の一人、去年加わった家本楓に呼び出されたのは、
この日の昼休みの事であった。

四限の終了を告げるチャイムとほぼ同時に、スカートのポケットの中で震え出した携帯電話。
授業を終えた教師が教室から出ていくのを見計らい、
環は携帯をポケットから取り出してその内容を確認した。
どうもメールらしい。
差出人はマネ仲間の家本楓だった。
そこで環は妙だな、と思う。
何の用だか検討もつかないが、どうせ後二時間で授業は終わるわけだし、
用があるなら放課後の部活で話せばいいはずである。
それでもわざわざメールを寄越したのは、なにか余程大事な内容なのだろうか。
と、無駄に勘繰りつつ、そのメールを開くと中身はこんな内容だった。
「昼休み、部室で待ってる」
部室に呼び出すなんて、ますますもって不思議である。
まぁ、どうせ昼休みにやる事はないので別に構わないのだが。
そんなわけで、お弁当を食べ終えると環は、
部室棟の一角にあるサッカー部部室へと向かうために席を立った。
どこに行くの、と訊いてきた真守を無視して、廊下に出る。
廊下の奥の階段を下り玄関から校舎を出た。

 

ところで、この学校には校舎が二つある。片方が第二校舎と呼ばれる一、二年校舎で、
こちらは教室だけで構成されている。
それに対し、もう一方の校舎、第一校舎は三年の教室、職員室、並びに学食、購買、図書室など、
学生生活を過ごす上で外せない設備が搭載されていて、何かにつけて利用機会は多い。
明らかに不公平だ。
さて、その二つの校舎は、グラウンドを挟んで向かいあっている。
二つの校舎を結ぶ渡り廊下は南北にひとつづつあり、
昼休みになると北の渡り廊下は購買や学食に向かう生徒でごった返すのに対し、
南にはまず人影がない。理由は簡単、南側の通路は校門には近道だが、
第一校舎に渡るには圧倒的に遠回りだからだ。
現在、環がその南側の渡り廊下を歩く唯一の人なのは、
その道の途中に部室棟があるからであり、環の目的地もそこだからである。
元々部活動が盛んとは言えないこの学校には運動部が数えるほどしかない。
そのため、二階建ての部室棟には空き部屋がちらほら散見でき、
その余った部屋のいくつかをサッカー部が使わせてもらっていた。
おかげでサッカー部は現在、一階に部室を連続して4つも所有している。
問題はその4つの中、呼び出しのメールを寄越した楓がどこにいるのか、なのだが、
環にはあらかた予想がついていた。
部室棟についた環は、外をグルリと回って、一番奥の部屋まで行く。
この部屋は、無駄に部室が4つもある事にこきつけて、
もはやマネージャーの控室として勝手に占領していた。
男子禁制のその部屋は他の部屋のように汗臭くなく、
環はもちろん他のマネージャーの憩いの場でもあった。
わざわざ汗臭い部屋にいる必要もないので、楓がいるならこの部屋だろう。
うっかりノックするのを忘れてノブを捻ると、鍵の感触が手首に残ることなく、
カチャリと音を立ててドアが開いた。
ドアに鍵がかかっていなかった時点で、ほとんど当たりは確定していたわけなのだが、
中を覗くと予想通り、そこに家本楓がいた。
楓は部屋に入った環に気付いた様子もなく、
物憂げな表情をガラスに写して窓の外をただただ眺めていた。

窓の外、グラウンドに何かあるのだろうか。
彼女の様子からそう思い、環は背伸びをして窓から外を伺う。
しかし、そこには当たり前のように何もなく、
まっさらな土のグラウンドが陽炎で揺らいでるだけであった。
そこに特別目を引くような物は影も形も見当たらない。
それでも、楓は飽きもせず窓の外をただただ眺めている。
時折思い出したように桃色吐息を吐きながら、まるで恋する乙女のように。
「……楓?」
たそがれる楓に後ろから声をかけると、彼女は悪事を暴かれた泥棒のようにビクリと体を震わせて、
恐る恐る環に振り返る。
が、自分に声をかけたのが環だと分かると、楓は胸に手を当てて安心したように息をついて、
「も、もう、おどかさないでよ。びっくりしたじゃない」
そう、少し怒ったそぶりを見せて、はにかんだ。
「別に、おどかしてないわよ。それより、何してたの?ボーッと窓の外なんか見て」
環が窓の外と楓の顔を見比べながら問うと、楓はえっ、と気の抜けたような声をあげた。
そして次の瞬間には頬がみるみる赤くなり、
最後にはとうとうその熱に耐えかねたように下を向いてしまった。
「何?もしかして、具合でも悪いの?」
心配した環の問いに楓は小さく首を横に振る。
「じゃあ、どうしたの?」
「……ない」
ボソリと、消えるように何事か呟く楓。
しかし、その声は小さすぎて、環にはほとんど聞き取れなかった。
「え、何?」
「……でもない」
曖昧な言葉だけを残して、楓はむっつりと黙りこくってしまった。
その楓の態度がじれったくて苛々する。この程度の質問くらいはっきりと答えればいいのだ。
とはいえ、彼女がもともとそういう子である事を重々承知している環は、
雪のようにしんしんと降り積もる苛々を受け流すように溜め息をついて、
「まぁ、いいわ。で、用って何?」
「……えっ?」
ポカンとした表情で楓が顔を上げる。
「えっ、て、楓が私を呼び出したんでしょっ!?」
溜め息では流し切れなかった苛々が言葉に宿ってしまって、環は少し後悔する。
これでは逆効果だ、余計楓が萎縮してしまう。

 

しかし、幸いにも楓は気にならなかったようで、慌てたように肩を揺らして、
「あ、そ、そのね、」
で、結局、言葉を濁らせる。長い髪を指でくるくると遊ばせながら、言いにくそうに視線をさ迷わす。
「早く言いなさいよ」
この場に呼び出しておいて、用件さえ言い淀む楓がやはりじれったくて、
静かに言おうと気を付けても、言葉の節々に刺が入ってしまう。
楓がいい子だとは分かってはいるのだが、彼女の口下手を遥かに通り越した曖昧さを、
環はどうも許容できないのだ。
訪れたしばしの沈黙を、苛立ちを募らせながら待つ。
やがて、ようやく。本当にようやく、体中の勇気をかき集めたらしい楓が、
まるで機嫌を伺うような上目遣いでこう訊いた。
「あ、あの、たまちゃんはね、その、ま、真守くんと、付き合ってるの?」
楓の言葉が耳に入った瞬間、考えるより先に感情が否定していた。
「ば、馬鹿言わないでよっ!!そんなわけないでしょ!?ど、どうしてそんな事……」
「だ、だって、二人はすごく仲よさそうだし、だ、だから……」
「はっ、冗談。そんな事ありえないわ。絶対にね。
あたしは、幼馴染みとして仕方なく、本当に仕方なく面倒見てあげてるだけよ」
「ほ、本当?」
探るように環を覗きこむ楓の瞳はどこか嬉しそうだった。
「当たり前じゃない」
胸を張ってそう答えると、今度ははっきりと分かるほど嬉しそうに楓は胸に当てた手を握った。
何か、予感がする。いや、予感までには至らない、胸騒ぎのような。
「ちょ、ちょっと、待って、楓。え〜とね、あんた何でこんな事を──」
言いながら、答えは自ずから見つかった。
「──ま、まさか」
真守が好きなの、とまでは言えない。
何か、感情の塊のようなものが喉の奥で詰まっていて、声が出ないのだ。
それでも環の言わんとした言葉を感じ取ったのだろう、
楓は恥ずかしそうに頬を朱に染めてコクリと頷いた。
環は絶句する。
その拍子に、心の中に転がっていたはずの感情の塊がゴロリと口から転げ落ちた。
「ど、どうしてよっ!?あんな奴のどこがいいのっ!?」

「ど、どこがって、その。あの、や、優しいし、かっこいい……」
優しい、かっこいい。
およそ真守からは想像出来ない単語が深く頭の芯に響き、
その余韻が消え去った後で驚くほど動揺している自分に気付く。
すると急に頭が冷えた気がした。
おかしい。
なぜ、自分が動揺する必要があるのか。
真守がどうなろうと自分には関係ないはずだろう。だって真守はただの幼馴染みなのだから。
そう反芻しつつ深呼吸をして、環はわざとらしい咳払いを一つ。
それから、目の前の美少女を死神の魔の手から救うべく、神父のような神妙な声で、
「あのね、楓。あんた、よ〜く考えなさい。本当に真守なんかでいいの?
だって、あなた、すごくかわいいじゃない、間違いなく引く手数多よ。
わざわざ真守にまで望みを落とさなくても、」
「……そんな事、ないよ」
静かな声だった。
だけど、その声ははっきりと環の言葉を否定していた。
何故だろう、心臓がズキリと鈍く痛み、環は思わず胸を押さえた。
そんな環を楓は真っ直ぐ、強い決意を宿した瞳で見つめていた。
そして彼女はいつになくキッパリと自分の意思を宣言する。
「私、真守くんがいいの。ううん、真守くんじゃなきゃだめ。
私、真守くんの事、す、好き、だから……」
話の流れから予想はしていたし、分かっていた事だった。
だけど、楓の口から直接「真守が好き」と言われると、覚悟をはるかに超える衝撃が環を襲い、
「そ、そう。そうなんだ……」
それだけ捻り出すので精一杯だった。
「う、うん。だからね、たまちゃんにね、その、お、お願いがあるの……」
「え……お願い……?」
「その、き、今日呼び出したのもそのためなんだけど、」
楓は口許を右手で押さえて、僅かな沈黙を作り、
それから少しだけ言いにくそうに、
「あ、あのね、その、手伝ってくれないかな?」
「て、手伝うって、な、何を?」
「その……こ、告白」
言ってから、楓は頬を朱に染めて、恥ずかしそうに身を小さくして黙りこんだ。
一方の環は楓の言葉の意味を噛み砕けずに、まるで魂を刈り取られたように呆然としていた。

 

楓が、
真守に告白……?
──ダメ。
そんなのダメだ。ダメに決まっている。
「だ、ダメよ。そんな事。ダメ、絶対っ!!」
理屈より先に、感情が否定していた。
自分でもよく分からない、焦りにも似たその感情が無意識に環を突き動かしていた。
ふと気付くと、楓は、あっ、と悲しそうな声をあげ、
何か知ってはいけない事を知ってしまったような、悲愴感にくれたその瞳をふせて、
「そ、そうだよね。ダメだよね、たまちゃんも、真守くんが、好きなんだもんね……」
「え……?」
あたしが?
真守を好き?
我に返ったように環はぶんぶんと首を振り、その最悪な思考を排除する。
ありえない。
そんな事は絶対にありえない。
自分が真守を好きなわけない。
だって、真守はただの幼馴染みで、泣き虫で、でかいだけのでくのぼうで、
一回も好きなんて感じた事はない。
おまけに自分がいないと何も出来なくて、苛ついていたくらいだ。
自分は断じて真守が好きなわけではない。絶対に、だ。
環がそう心を固めていると、目の前の楓は申し訳なさそうに、それでいて悲しそうに、
「ご、ごめんね。たまちゃんの気持ち、考えないで、わ、私、諦める、から……」
「わ、分かったわ」
環は、慌てて楓の話に割り込んだ。
「その告白、手伝ってあげるわよ」
変な誤解をされるのは、嫌だった。

4

ふわりと、窓から吹き込んだ夜風がカーテンをさらい、頬を撫でる。
窓の空には夜空があって、いくつかの星が瞬いたり消えたりしていた。
西の空には月が出ている。今日は満月だ。
月明かりが斜めにベッドを照らし、その光の中に無数の埃が舞っているのが見えた。
電気を消した自室である。
加藤環はベッドの上で枕を抱いて体育座りで蹲まり、
出来るだけ何も考えないように気を付けてぼんやりと虚空を眺めていた。
しかしその実、どうにも落ち着かない思考は五感に繋がる神経を圧迫し、
感覚を頭の中の空想だけに集中させている。
堂々巡りを繰り返す思考が、最後に行き着くのはやはり、
「……楓、可愛かったなぁ」
今朝の楓の姿を思い出すと、火照った溜め息がついつい漏れてしまう。
忘れようにも忘れられない。それほど、今朝顔を見せた楓は可愛くて、魅力的だった。
彼女なりに精一杯背伸びをした服装、環を見て恥ずかしそうにはにかんだときの
うっすらと朱に染まった頬、かすかに漂う甘い香水の香り、
そして腰まで伸びた琴線のようにしなやかで、艶やかな長い髪。
大人と呼ぶにはまだ早い、それでも大人になりきれない少女の純真な輝きが、
鮮やかに環の脳裏に焼き付いている。
──その楓が今日、よりによって真守なんかに告白する。
そう思ったそのとき、チクリ、と鋭く胸が痛んだ。

『また』、だ。

楓に対する焦りとも憧れともつかない感情を抱く度、真守に告白するという事実を再認する度、
胸に鋭い痛みが走る。
回数は既に覚えていない。それほどの数を繰り返していた。
もう、うんざりだ。
痛み自体は小さく、決して耐えられないわけではない。
しかし、放っておくといつまでも続きうざったいので、
環はその痛みをかき消そうと自分の枕を強く抱き締めた。
そうする事で、いくぶん気が紛れたせいか、次第に思考は記憶の沼に堕落していく。

遡るのは、部室で楓に真守への告白の手伝いを頼まれたあの日。
その話を承諾したあの日、環の中で何かが軋んだ。
軋みはやがて歪みを生み出し、環は取り憑かれたように作業に没頭した。
おかげでマネの仕事がおろそかになる事も多々あり、
楓ではないもう一人に苦言を呈された事もあった。
それでも環は脇目も振らずに、雑誌やネットを駆使してデートコースを練り上げ
計画を洗練させていった。
環が真守と幼馴染みという事もあり、初めはどこか懐疑的で遠慮がちだった楓も、
環の懸命な姿を前に徐々に態度は軟化していった。
無事に計画実行日を迎えた今では、楓の気持ちはすっかり変わったようで、
ちょくちょく感謝の念を向けられるようにまでなっていた。
が、環に言わせれば、それは見当違いも甚だしい。
もともと、楓のためにやっていたわけではないのだから。
本当は、ただ証明したかったのだ。
楓が真守を好きだと打ち明けてきた時感じたおかしな感情を否定したかっただけなのだ。
そんな意地とプライドに突き動かされ続けた結果、
出来上がったデートプランを環は完璧だと自負している。
そのまま雑誌におすすめとして載せてもいい、とはさすがに言い過ぎだが、
少なくとも対真守専用としてはこれ以上ないと断言していい。
あえて言えば雨だけが唯一の不安材料だったが、幸いにも今日はうまいくらいに晴れてくれた。
記憶の沼から這上がった環は、瞳を閉じて静かに想像する。
二人で歩く月明かりに照らされた湖畔。ほとりから道なりに歩いていくと、現れる大きな噴水。
硝子を散りばめられたその噴水は夜になると内部からライトアップされ、幻想的な光を辺りに放つ。
そして、蛍のような淡い光の中で楓は真守と見つめあい、告白するのだ。

 

頭の中で再生されるその光景は、映画のワンシーンのように感動的で、
身悶えするほどロマンチックだった。
いや、なにも仮想に限定するまでもなく、現実もきっと最高の雰囲気に違いない。
──しかし。
どうしてだろう。それでもなお楓の告白が成功するとは、環には思えなかった。
むしろ成功するわけがない、とさえ思う。
根拠はある。
だいたいにおいて、楓ほどの美少女が真守なんかを好きになるなんておかしすぎるのだ。
だって楓の想い人である真守はとろくて、気が利かなくて、図体だけでかくて、
楓が惹かれる所なんて全然ない。
真守は優しい?優柔不断なだけだ。
真守はかっこいい?どこが。
楓の真守に対する感情は、単に最近のマネージャーとしての激務でおかしくなっているだけ。
だから今日のデートで前述の真守の正体を知れば、さしもの楓は幻滅し、
真守への想いもただの気の迷いだと気付くに違いないのだ。
そうやって根拠は確信へと到る。時折心に浮かぶ疑惑は全て強引にねじふせる。
そうすると、いまだくすぶる胸の痛みが和らぐ気がした。
ダメ押しとばかりに再びぎゅうっと枕を抱き締めて、胸の痛みを沈黙させる。
潰された枕に染み込んだシャンプーの匂いが微かにかおり、
嗅覚を先陣にして、圧迫されていた五感に神経が通う。
そして環は、ハッとする。思い出したようにベッド脇に置かれた時計を見た。
暗闇の中で掲光塗料が妖しく光る短針は8を、長針は12を差している。
八時。もう八時、だ。
事前の計画通りなら、そろそろ二人は帰途につくだろう時間である。そして、告白の結果ももう……。
そう思ったそのとき、突然携帯電話が歌い出した。
環はビクリと体を震わせて反応する。携帯が口ずさむその曲は、春に流行った穏やかなラブソング。
口ずさみやすいメロディーと歌詞から、お気に入りの曲のひとつであり、
環はこの歌を春先からずっと着うたに設定していた。

ベッドの上で震え続ける携帯。環は弾かれたように携帯電話を手にとり、折り畳まれたそれを開いた。
暗闇に青く光るディスプレイ。そこに表示されていたのは、「家本楓」の文字と彼女の携帯番号。
今朝、楓は告白の成否はともかくとして、結果を報告すると言っていた。
用件は間違いなくそれだろう。
そう思うと、胸が緊張で押し潰されそうになり、呼吸が乱れる。
胸に手を置いて、深呼吸を一つ、心を落ち着かせる。
それでも、通話ボタンを押すだけの作業がたまらなく難儀だった。
何かおかしな感情が、環の指を縛りつけていて、それでも無理矢理動かすと痙攣したように震える。
大丈夫。うまくいったわけないのだから。楓はきっと気の迷いだと気付いてくれたはずだから。
そう心に言い聞かせ、なんとか。本当になんとか通話ボタンに指を這わせて、親指に力をこめた。
そして通話モードに切り変わった携帯を恐る恐る耳元に持っていく。
第一声は声が震えないよう、上擦る事がないよう気を付けて口を開いた。
「……もしもし」
うまく不機嫌そうな声が出て少しだけ安心する。
「あ……、たまちゃん?」
電話の向こうから、どこか間の抜けたおっとりした楓の声が聞こえた。
「……何か用?」
「あ……、ご、ごめんね?もしかして、寝てた?」
「別に、寝てないわよ。それで用って何?」
「その、やっぱり、たまちゃんには話しておきたいから……」
「……で、用は?」
言葉に刺が入る。
もともと用件などひとつしかないのだ。さっさと本題に移り、環の知りたいそれについて話せばいい。
それなのに、楓は環をじらすように本題に入ろうとしない。
それが、環の苛々を仰り、環の声は演技ではなく不機嫌になっていく。
「本当に、ごめん、ね?」
「いいから、用は何?」
環は苛々を隠さず言う。
「あ……そ、その、具合悪そうだから、ま、また、かけなおそうか?」
「いい加減にしてっ!!用件は何って聞いてるのっ!!」

 

とうとう耐えられなくなって声を張り上げてから、しまったと思う。
これでは自分がムキになってるみたいだ。
「あ、あの、その。きょ、今日の結果を報告しようと思って……」
電話の向こうでは躊躇いがちに楓が言葉を紡いでいる。
その楓の勇気に水を差さないように、今度こそ環は極力気持ちを落ち着かせて、
「そう、で、どうだったの?」
「あ、うん。そのね……」
沈黙。
それはまるで受話器を持ち換えただけとでも言うような僅かな間であったが、
今の環にはたまらなく長く嫌な時間だった。
この感じ、高校受験で滑り止めに受けた学校の合格発表時と似ている気がした。
結果は分かっている。だけど、万が一の可能性に対する恐怖が環の中で大きくなっていく。
そんな緊張。
ゴクリと生唾を飲み込む。
緊張に爆発しそうな心臓を胸ごと抑える。
そして、環は楓の言葉を待った。
「……真守くんね、オッケーだって」
「え……?」
瞬間、頭の中が真っ白になった。
「私と付き合ってくれるんだって」
まるで遠い異国の言語のように、楓の弾んだ声は頭に定着せずそのまま外に流れていく。
自分を支えていたはずの確信があっさりと崩れさり、環は心の置き場を失い呆然とする。
同時に携帯を握る力が無意識に緩み、指の隙間から滑り落ちた。
落下した携帯が太股に衝突し、そのかすかな痛みが頭になけなしの理性を戻させる。
「あ……」
慌てて携帯を拾いあげて、環はそれを耳に当てる。
電話の向こうの楓は、心配そうに環の名前を呼んでいた。

「……まちゃん、どうしたの!?ねぇ、大丈夫!?」
「だ、大丈夫、だから。ちょっと携帯を落としちゃっただけ……」
はは、と渇いた笑い声。それが自分の声とは、とても思えなかった。
「そ、そう?なら、いいんだけど……」
そう言って、楓は言葉を切って黙りこんだ。環も黙りこむ。
嫌な沈黙。
何か言わなきゃ、と思う。だけど、真っ白な頭の中で言葉が舞ってしまって、どうにもならない。
「あ、あの、それでね、たまちゃん」
沈黙を打ち破り、楓は改まったように言葉を並べる。
電話の向こうで彼女が大きく息を吸ったのが分かった。
空っぽのまま環は思わず身を固くして、
「な、何よ……?」
「……本当に、ありがとう。全部たまちゃんのおかげだよ」
柔らかなその言葉が、鋭い刃となり環の胸に突き刺さった。
今までと違う強烈な痛みに、吐気さえ覚える。
続けて楓は、
「あのね、これからね、真守くんが家まで送ってくれるんだって。ふふ、やっぱり真守くん優しいね」
「そ、そう。よかったわね」
「うんっ!!」
声を聞くだけで、見たことないほど嬉しそうで、幸せそうな顔をしている楓の顔が目に浮かぶ。
不意に、頭の中で思い描いた楓の隣に真守の姿が写り、腹の底がジワリと鈍くうずいた。
そのとき、電話の向こうでは、楓が話を終結に持っていこうとしている。
「私、今、トイレでね、真守くん待たせてるんだ。だから、ごめん、もう切るね」
それだけ言うと、環の返事も聞かずにいきなり電話は切れた。
賑やかな声が消えた後には、虚しい機械的な電子音と、おそろしく深い静寂だけが残った。
思考は何も考えない。目の集点が合わず、視界には何も写らない。
何か大事な物が抜け落ちたような喪失感に、環は身動きさえ取れない。
そんな環を嘲笑うように、頭の中では幸せそうに話す楓の声が幾度も反響していた。

 

──私と付き合ってくれるんだって。
──本当に、ありがとう。全部たまちゃんのおかげだよ。
──あのね、これからね、真守くんが家まで送ってくれるんだって。
   ふふ、やっぱり真守くん優しいね。

その一つ一つがぽっかりと空いた心の穴に吸い込まれるようにして、虫歯のようにズキズキと染みる。
しかし、それ以上に大きな喪失感が、まるで津波のように胸の痛みをまるごと飲み込み、
かき消していく。
そうやって、環は呆然としていた。
一分か十分か、はたまた一時間か。
時間だけが、多大な喪失感を徐々に埋めていく。
やがて、とうとう喪失感を超えた胸の痛みに、環はふと我に返った。
止まっていた世界が、思考と共に回りだした気がした。
すると、唐突に自分に対する言い知れぬ怒りが腹の底から沸々とこみあげてきて、
たまらず環は握っている携帯をベッドに叩き付けた。
そして、未だくすぶるおかしな感情や、胸の痛みをその怒りのままに無理矢理ねじふせた。
腹が立つ。なぜ、自分がこんな気持ちにならなければいけないのか。
真守が誰と付き合っても環には関係ないはずだ。
そもそも真守なんて大した事ない、平凡な男だ。
特別頭がいいわけでもないし、運動神経はまぁ上々でサッカーの代表に選ばれこそしたが、
それは単にサッカー協会の見る目がないからだ。
顔だって全然冴えないし、でかいだけでとろいし。
昔から泣き虫で、「真守」と言う名前にボロ負けしてきた情けない男で、
彼の後れをいつも環がしり拭いをしてやってきた。
だから、これからは真守の面倒を見なくてすんでせいせいする。
自分の事だけに集中出来るのだ。こんなにすばらしい事は他にない。
むしろ、情けない男の面倒を見なくてはならない楓がかわいそうなくらいだ。
そう。これでいいのだ。
だって環は──、
「──真守なんか、何とも思っていないんだから……」

2007/11/22 To be continued.....

 

inserted by FC2 system