―――季節の足音が本当に聞こえるならば、それは大層行儀の悪いことだろう。
客人なら客人らしく、もう少し遠慮がちに上がりこんできてもばちは当たるまいと、
私は最近よく思う。
それでも、濃密な緑の匂いを纏った日光はいつしか、全てを包み込むような夕焼けへと
姿を変えていた。
眼下には歪な白線で描かれた楕円のトラックが幾重にもなり、
その間隔をTシャツ姿の陸上部員たちが衛星のごとく駆け抜けてゆく。
その中でもひときわ大きなストライド、というよりは大げさな大股で疾駆する姿があった。
ともすれば小学生男子と見まがうようなショートカットに、
無造作にゴムで止めたしっぽがぴこぴこと側頭部で上下している。
無論走っている本人はふざけてなどいないだろうし、周囲もそれについて言及するには
ちょっと足の速さが足りていない。
集団のしんがりをつとめる少女が空を仰ぎ、半ばやけっぱちな叫び声でファイナルラップを告げた。
弾けるように無茶なペースで駆け出す部員たち。だがその誰よりも、彼女は疾い。
お尻にプラズマエンジンでも積んでいるのではないか、というような爆発的な加速の末に、
彼女は二位にトラック半周分の差をつけてゴールした。苦しげにあえぐ声がここまで聞こえそうだ。
と、不意に彼女は顔を上げた。こちらと目が合う。
「……おっ、ねえぇぇぇぇっ、ちゃあぁぁぁぁぁぁぁん!」
校舎三階めがけて絶叫する高校一年生。周囲の人間がぎょっとするが、
ああいつものアレかと言わんばかりの生暖かい表情でこちらを見やっていることが
手に取るようにわかる。恥ずかしい。
「……勘弁してよね」
いつだってあの子はそうだ。周りのことなんて一切見えていやしない。
体はそれなり、頭脳はお子様ランチがよく似合う。
それでも今日は、なんとなく付き合ってやろうじゃないかって気分になった。
もちろんそれはほんの気まぐれで。
「……何よ!」
……どよめきと歓声が起こる。こちらが反応するのがそんなに珍しいのだろうか。
妹は満面の笑みを浮かべ、
「……ばん、ごはーん、なにかなぁーっ!」
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妹(わたし)は実兄(あなた)を愛してる-2ndGeneration-
姉(わたし)も妹(あのこ)も恋してる
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「と、このおばかは近所一体に聞こえるような大声で叫びやがったのよ」
「でへへー」
「でへへじゃないでしょう、もう!」
思い出すだけで顔に血液が集まってくるのがわかる。
「あーもう恥ずかしい。何でこの子はこう子供っぽいのかしら」
はた、と妹以外の全員が食事の手を止め、思索の波打ち際で水遊びを始める。数瞬の間を置いて、
「……時々、樹里の娘であることが信じられなくなるときがあるのは確かだな」
これは父。
「……生んだ憶えも、育てた憶えも確かにあるんですが。特に思い当たるふしはありません。
気づいたらこうなっていたというか」
これは母。
「……育てた憶えはあるけど、至極真っ当な教育しか施していませんよ」
これはもう一人の母。
「……至極真っ当じゃないのはむしろ楓かあさんの方よね」
「……うるさいだまれ」
こちらを睨みながらテーブルの下で↓弱Kを連打する私の生みの母と、
ただ乾いた笑いを上げながら目をそらす父。
ヨソ様に事情を尋ねられるとちょっと困るどころかほぼ回答不能な我が家族とその成り立ち。
それでも何とかやれているのは奇跡か偶然か、はたまた運命か。
妹―――杏樹(あんじゅ)は、箸を両手に一本ずつ持ち、アジの開きをほじくりかえしている。
「こら、行儀悪いわよ」
「えー、だってできないものはできないもん。お姉ちゃんやってー」
「駄目よ。いつまで経っても焼き魚ひとつ満足に食べられないんじゃ、後々恥をかくのはあんたよ」
「ぶぅ」
膨れているさまはまるで童女と変わらないが、ふと真顔に戻ったときに確信する。
ころころした黒目がちの瞳も、日に焼けてなおきめ細やかな肌も、
間違いなく樹里母さん譲りの美しさだ。
「―――もみじ。そういうお前もあまり食が進んでいないようだね」
晩酌の缶ビールを傾けながら、父さんが心配そうな顔をする。
「ちょっと食欲がなくて。体調は平気よ。心配しないで」
「……そうか」
「心配しすぎよ。……大丈夫。私は平気よ」
食卓を抜け出し、自室へと帰還する。
自室といっても杏樹と共有しているため、実質私の陣地は二段ベッドの下段だけに等しい。
残りの面積のほとんどは杏樹の所有するテレビやら
ホログラムディスク・レコーダーやらゲーム機やら、
そういうもので埋め尽くされている。無論ドレッサーなんて洒落たものはない。
さほど動いた記憶もないのに疲労がたまっているのか、はたまた別の要因か。
仰向けに布団に倒れ込み、そのまま私は眠りの世界へと旅立った。
夢は、みなかった。
………
……
…
「おねーちゃーん、あさー、あさだよー、あさごはん食べて学校行くよー」
ゆさ、ゆさ、ゆさ。
「おっ、おっおっおねえちゃん、ああっああっあさささあさささだよっ、だよっ」
ゆさっゆさゆさゆささささ、ゆささゆささゆさささゆさささゆさっ、ゆさっ。
「……姉の体でディスクジョッキーの真似するの、やめなさい……」
お姫様抱っこでダイニングの椅子まで連れてこられてぐったりしている私の前で、
甲斐甲斐しくピーナツペーストを塗りたくっている。
家族の誰よりも早寝早起き、二軒隣の高橋さんちのおジイちゃんの朝の散歩に
付き合うことも珍しくない。
そんな杏樹は別に高血圧でもなんでもなくて、単に私の寝起きが悪いだけです。
「…そんなに厚く塗ったら胸焼けしそうだからやめて」
「えー、お姉ちゃん、ちゃんと食べないと大きくならないよー」
「そんなの食べても太るだけよ」
「むー」
渋々私のトーストから余剰分をバターナイフでこそげ取り、自分の分に塗ってちょうど適正量。
…こいつはただでさえ出るとこ出てない私の体を、出ないとこ出るようにしたいのだろうか。
杏樹の出ているところを睨みながら、ブラックコーヒーを啜る。 |