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姉(わたし)も妹(あのこ)も恋してる



1

 ―――季節の足音が本当に聞こえるならば、それは大層行儀の悪いことだろう。

 客人なら客人らしく、もう少し遠慮がちに上がりこんできてもばちは当たるまいと、

私は最近よく思う。

 それでも、濃密な緑の匂いを纏った日光はいつしか、全てを包み込むような夕焼けへと

姿を変えていた。

 眼下には歪な白線で描かれた楕円のトラックが幾重にもなり、

 その間隔をTシャツ姿の陸上部員たちが衛星のごとく駆け抜けてゆく。

 

 その中でもひときわ大きなストライド、というよりは大げさな大股で疾駆する姿があった。

 ともすれば小学生男子と見まがうようなショートカットに、

無造作にゴムで止めたしっぽがぴこぴこと側頭部で上下している。

 無論走っている本人はふざけてなどいないだろうし、周囲もそれについて言及するには

ちょっと足の速さが足りていない。

 集団のしんがりをつとめる少女が空を仰ぎ、半ばやけっぱちな叫び声でファイナルラップを告げた。

 弾けるように無茶なペースで駆け出す部員たち。だがその誰よりも、彼女は疾い。

 お尻にプラズマエンジンでも積んでいるのではないか、というような爆発的な加速の末に、

 彼女は二位にトラック半周分の差をつけてゴールした。苦しげにあえぐ声がここまで聞こえそうだ。

 と、不意に彼女は顔を上げた。こちらと目が合う。

「……おっ、ねえぇぇぇぇっ、ちゃあぁぁぁぁぁぁぁん!」

 校舎三階めがけて絶叫する高校一年生。周囲の人間がぎょっとするが、

ああいつものアレかと言わんばかりの生暖かい表情でこちらを見やっていることが

手に取るようにわかる。恥ずかしい。

「……勘弁してよね」

 いつだってあの子はそうだ。周りのことなんて一切見えていやしない。

体はそれなり、頭脳はお子様ランチがよく似合う。

 それでも今日は、なんとなく付き合ってやろうじゃないかって気分になった。

もちろんそれはほんの気まぐれで。

「……何よ!」

 ……どよめきと歓声が起こる。こちらが反応するのがそんなに珍しいのだろうか。

 妹は満面の笑みを浮かべ、

「……ばん、ごはーん、なにかなぁーっ!」

 

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妹(わたし)は実兄(あなた)を愛してる-2ndGeneration-

 

姉(わたし)も妹(あのこ)も恋してる

 

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「と、このおばかは近所一体に聞こえるような大声で叫びやがったのよ」

「でへへー」

「でへへじゃないでしょう、もう!」

 思い出すだけで顔に血液が集まってくるのがわかる。

「あーもう恥ずかしい。何でこの子はこう子供っぽいのかしら」

 はた、と妹以外の全員が食事の手を止め、思索の波打ち際で水遊びを始める。数瞬の間を置いて、

「……時々、樹里の娘であることが信じられなくなるときがあるのは確かだな」

 これは父。

「……生んだ憶えも、育てた憶えも確かにあるんですが。特に思い当たるふしはありません。

気づいたらこうなっていたというか」

 これは母。

「……育てた憶えはあるけど、至極真っ当な教育しか施していませんよ」

 これはもう一人の母。

「……至極真っ当じゃないのはむしろ楓かあさんの方よね」

「……うるさいだまれ」

 こちらを睨みながらテーブルの下で↓弱Kを連打する私の生みの母と、

 ただ乾いた笑いを上げながら目をそらす父。

 ヨソ様に事情を尋ねられるとちょっと困るどころかほぼ回答不能な我が家族とその成り立ち。

 それでも何とかやれているのは奇跡か偶然か、はたまた運命か。

 

 妹―――杏樹(あんじゅ)は、箸を両手に一本ずつ持ち、アジの開きをほじくりかえしている。

「こら、行儀悪いわよ」

「えー、だってできないものはできないもん。お姉ちゃんやってー」

「駄目よ。いつまで経っても焼き魚ひとつ満足に食べられないんじゃ、後々恥をかくのはあんたよ」

「ぶぅ」

 膨れているさまはまるで童女と変わらないが、ふと真顔に戻ったときに確信する。

 ころころした黒目がちの瞳も、日に焼けてなおきめ細やかな肌も、

間違いなく樹里母さん譲りの美しさだ。

「―――もみじ。そういうお前もあまり食が進んでいないようだね」

 晩酌の缶ビールを傾けながら、父さんが心配そうな顔をする。

「ちょっと食欲がなくて。体調は平気よ。心配しないで」

「……そうか」

「心配しすぎよ。……大丈夫。私は平気よ」

 

 食卓を抜け出し、自室へと帰還する。

 自室といっても杏樹と共有しているため、実質私の陣地は二段ベッドの下段だけに等しい。

 残りの面積のほとんどは杏樹の所有するテレビやら

ホログラムディスク・レコーダーやらゲーム機やら、

 そういうもので埋め尽くされている。無論ドレッサーなんて洒落たものはない。

 さほど動いた記憶もないのに疲労がたまっているのか、はたまた別の要因か。

 仰向けに布団に倒れ込み、そのまま私は眠りの世界へと旅立った。

 夢は、みなかった。

………

……

 

「おねーちゃーん、あさー、あさだよー、あさごはん食べて学校行くよー」

 ゆさ、ゆさ、ゆさ。

「おっ、おっおっおねえちゃん、ああっああっあさささあさささだよっ、だよっ」

 ゆさっゆさゆさゆささささ、ゆささゆささゆさささゆさささゆさっ、ゆさっ。

「……姉の体でディスクジョッキーの真似するの、やめなさい……」

 

 お姫様抱っこでダイニングの椅子まで連れてこられてぐったりしている私の前で、

 甲斐甲斐しくピーナツペーストを塗りたくっている。

 家族の誰よりも早寝早起き、二軒隣の高橋さんちのおジイちゃんの朝の散歩に

付き合うことも珍しくない。

 そんな杏樹は別に高血圧でもなんでもなくて、単に私の寝起きが悪いだけです。

「…そんなに厚く塗ったら胸焼けしそうだからやめて」

「えー、お姉ちゃん、ちゃんと食べないと大きくならないよー」

「そんなの食べても太るだけよ」

「むー」

 渋々私のトーストから余剰分をバターナイフでこそげ取り、自分の分に塗ってちょうど適正量。

 …こいつはただでさえ出るとこ出てない私の体を、出ないとこ出るようにしたいのだろうか。

 杏樹の出ているところを睨みながら、ブラックコーヒーを啜る。

2

 そうこうしているうちに、走行しなければ本鈴にすら間に合わない時間帯になってしまう。

「おねえちゃんが食べるの遅いからこうなるんじゃなーい」

「お、起こされてねえ、い、いきなりっ、はぁっ、あんなおも、重いもの、食べさせてっ」

「やっぱりマーマレードの方がよかった?」

「うっさいっ、ばかっ、ばか杏樹っ」

 歩幅のギア比は子供用自転車と、大人のそれくらいの差があるのはもちろん、

 奴には元気印のバッテリーアシストがあって、私にはない。

「おねーちゃーん。怒鳴るとますます疲れるよー?」

 もう疲れました。

 思わず立ち止まる。と、急には止まれない杏樹が逆チョ○Qのような挙動で戻ってくる。

「ギブ?」

「…ギブ。だからあんた、先に行きなさい…」

 既に気温が上がり始め、汗ばむような陽気の初夏の朝なのに、

熱を出して寝込んでいるときのような嫌な汗と寒気がする。

「…やだ」

 ぶんぶんと首を横に振るたび、でんでん太鼓の振り子のように遅れてついてくるお下げ。

「…やだ、じゃない。あんたまで遅刻すること、ないでしょっ」

「やだっ」

「…いいから、先! 行きなさいっ!」

 精一杯怖い顔をして、姉らしい命令口調で怒っても。

 …それでもこの子は、優しいから。

「だめ。お姉ちゃんだけ遅刻させるなんて、あたしが許さない。

 もっとあたしが、ちゃんとお姉ちゃんを起こせばよかったんだ」

「…私の、寝起きが、悪いのは、あんたの、せいじゃ、ねーでしょ」

 …まずい。真っ暗な目の前で、朝なのに七番星くらいまで輝いている。

「いーの。お姉ちゃんはあたしのおねーちゃんで、おねーちゃんだから。

 おねーちゃんはね、どっしり構えて、うむうむ言ってるだけでいいの」

「…どこのボスよ」

「あたしの、ボスだよ」

 腰の辺りをホールドされ、ひょい、とリフトアップされる。

「ちょ、あんた、それは禁じたはずでしょ半年前にっ」

「非常事態だよっ」

 父親と子供以外が行ったところで道交法に抵触するわけではないが、

 少なくとも年子の姉妹で、かつ妹が足役というのは現実的ではない。ないのだが。

 ただでさえ狭窄した視界が、高いわ揺れるわ秒速数メートルだわで。

 ―――いちばん、現実的でないのは、なんだっけ……?

 そんなことを考えているうちに、私の脆弱な意識は、あっけなく途絶えてしまったのであった。

 

 結局、意識が戻ったのは昼近くになってからだった。

 水を打ったように静まり返った部屋の中、白衣を着た保険医の先生がなにやら書類を書いている。

「…気分はどう?」

「…まあまあ、です」

 正直なところ、すぐに動けるような状態ではない。

 だが、そこで素直にそういってしまえば、妹の好意がなんだか無駄になってしまうような気がして、

 私は強がってしまった。それを見透かしているのかいないのか、

「まあ、もうすぐお昼だからね。昼休みが終わるまで、ゆっくりしていきなさい」

 そんな風にため息をついて、また机に向き直る。

「はい」

 先生はボールペンを握った右手を淀みなく動かしながら、

「ところで、最近の体調はどう?」

 虎柄チームの動向を尋ねるような口調で、問診が始まる。

「いえ、特には…」

「関節が痛んだり、目が覚めてすぐに胸が痛くなったりは?」

「しません」

「指先や手の甲が痺れるような感じがしたりしない?」

「はい」

「……月経は?」

「いえ……」

 要するに現状維持。好転も悪化もしていない。
  そもそも私の身体構造が、そんな簡単に表現できる類のものかというとかなり怪しい。

 この国の法律において婚姻できる下限を過ぎてなお、わたしの身長は百四十センチに満たない。
  というより、年齢が二桁になるころにぴたりと成長が止まってしまった。
  先天性の遺伝子異常によるものだ、と聞いてはいる。
  まあ、私の父と母が実の兄妹であることを考えればやんぬるかな、といった塩梅である。
  それが初めて判ったとき、父母は自らの背負う業に随分打ちのめされたらしいが、
  私からすればそんなものは元々存在しないと言うしかない。

 私は自らの宿命について、何の絶望も抱いていない。
  自由になる両手両足があり、家族は皆健在で、日々の衣食住に困ることもない。
  生殖能力を持たぬ不具者として生涯を過ごし、
  せいぜい母のように世間にミームを撒き散らして消え去るのも悪くない。
  そんな風に考えている。

「さしあたって危険な兆候はないみたいね。
  でも、少しでも違和感を感じるようなことがあったらすぐに私の所に来なさい。いいわね?」
「はい」
  私の家族の真実を知る、数少ない人間のひとりであるこの保険医は、
  この学校の校医であると同時に私の主治医でもある。
  というより、私のためにここに出張してきている、といったほうが適切だろう。
  何故そのような特別待遇―――というほどのものでもないが―――を受けられるかについて、
  周囲の大人は言葉を濁す。私に対して後ろめたい密約でもあるのか否か、
  実はやっぱりどうでもよかったりする。

「さて、私はこれから用事があるから。誰か来たらしばらく戻らないって伝えてね」
  保険医はぱたぱたと内履きを響かせながら、足早に保健室を後にしていった。

 とたんに静寂を取り戻す室内。窓は開け放たれているがカーテンは揺るがず、
  校庭を挟んだ反対側を通る車の走行音も、ここからではほとんど聞き取れない。
  無論、そこから孤独を想起するような私ではない。
  あと数十分もしないうちに、あの騒々しい妹とクラスメイトたちが大挙して押し寄せ、
  私のつかのまの平穏を瞬く間に蹂躙してくれやがるだろう。
 
  だから私は、この純白の大海原に身を投げ出し、かりそめの"独り"を愛する。
  たとえそれが、ほんの一時であっても。
  味わっていたいって、思うんだ…

………
……

 と、ちょっぴり切なげな気分になるのにはもちろん、きちんとした理由があるわけで。
  教室の椅子に座らせられて動くことは許されず、周囲をクラスメイトに塞がれている。
  極めて誤解を招きやすい表現を意図的に使うとこうなってしまうが、
私はいじめを受けているわけではない。

「やぁぁぁん、もう! もみっち可愛すぎ! ラブ! 超ラブ! 極ラブ!」
「ホント、素材がいいからどんな髪型でも似合うわね」
「ね、ね、ね、せっかくだから軽くメイクしてみよっか」
「次はツインテールでしょう、常識的に考えて」
「もみすけの愛らしさは異常」
「念」
  暇さえあればこんな風に、人形遊びに付き合わされる羽目になっている。
  どうでもいいけど極って何? 発泡酒?
  そして、何より許しがたいのが。

 机に頬杖をついて、でれーんとメルトダウンしている。
  妹。

「ちょっと待って、いつも思うんだけどあんた、私の妹でしょ?
  姉に萌えてどうす―――」
「はいはい立たないで動かないで息もしないで」
  やっぱりいじめかも。これ。

 結局、授業開始までに追加で三度お色直しをさせられ、
  グロッキーになっているところを教師に心配されてしまった。
  ひっきりなしにPDAに届き続けるメール(主に発信源は私の周囲の女の子、たまに男の子)に
返事をする気力もなく、
  重力に引き寄せられるままに机の天板とコンタクトしつつ、残りの授業をやり過ごした。

3

「おばか。あんたまで一緒になって騒いでどーすんのよ。しかもこれ何回言わせる気?」
「いやー、かわいいは正義、って言うじゃないですか」
「誰の言葉よ…」
「リンカーン」
  大統領はそういうことをたぶん言わない。
  そして少なくとも、こんな人民のための政治はやらないだろう。

「でも、あんたに限らず、私に対するスキンシップが最近ちょっと過剰じゃない?
  隙あらばべたべたべたべた…冬ならともかく、暑苦しくてしょうがないんだけど」
「う…これ、言ってもいいのかな……」
「…何か知ってるなら、言わないと後で酷いわよ」
  杏樹の顔からみるみる血の気が引いていく。
「お、お姉ちゃんの『後で酷い』は本当にヒドいからなー。
  でもなー、これ言うとお姉ちゃん絶対怒りそうだしなー…」
「―――あ、もしもし、楓かあさん? アスパラガスとカリフラワーが…」
「わぁぁぁぁぁぁぁっ!! やめて! それだけは! ごしょーだから! かんにんして!」
「…安かったから、買って帰るね。それじゃ」
「おねーちゃん、外道…」
「あんたの器だけ大盛りにされたくなかったら、さっさと喋った方がいいと思うけど?」
  アスパラとカリフラワーのホットサラダは、対・杏樹戦におけるリーサルウェポンである。
  使用する側にとって完全に無毒であり、かつ極めて安価で入手も容易。
  さらには攻撃対象が一切耐性を獲得しないという、まさに無敵の兵器である。

「…怒らない?」
  叱られた子犬のような目でこちらの顔色を伺っている。
「あんたが私を怒らせるようなことを言わなければね」
「ずるい…。えーとね、お姉ちゃん、最近また男の子から告白されたでしょ。
でも、断っちゃったよね?
  確かその前も、さらに前も、そのまた前も断ってたし、
  もしかしてお姉ちゃん、その……男の人に興味のないひとなんじゃ
ないかなーっていででででででぇ!」
  言いようのない嫌悪感が全身を駆け巡った腹いせに、とりあえず抓っておく。
「誰がおレズさんだって? 憶測で適当なこと言うんじゃないの!」
「あたしが言ったんじゃないもん! うー…じんじんする…ひどいよ…おねーちゃんのばかぁ」

 確かに、これまでに何度も男子から愛の告白というやつを受けてきている私ではあるが。
「何て言ったらいいのかしら…こう、違うのよ。顔とか、背が高いとか、そういうことじゃなくて…」
  もっとこう…たとえば…無口なんだけど頼りがいがあって、どっしり落ち着いてる感じというか…」
  そんな甲斐性を同年代の男性に求めることがそもそも間違いだとは、わかってはいるのだけれど。
「お姉ちゃん、寂しがりやだから」
「…っさい」
  否定はしない。どんなに憎まれ口を叩こうが、常にシニカルな態度を装っていようが、
  私の根幹は常に安楽な依存先を求めている。
  両親らに依存し、妹に依存し、友人たちに依存する。
  そしていつの日か、日差しを遮る大樹の木陰が見つかればいいな、なんて考えていたりする。
  …甘い、よね。

 静かな茜色の空の下、妹と共に家路をゆく。
「…にんげんってさあ、むつかしーよねえ」
「熱でもあるの?」
「いやあ、うちのおとーさんとかおかーさんたちのことを考えてたら、
なんかこんがらがってきちゃって」
「こんがらがってることは事実よ少なくとも社会的には」
「いつかあたしも、誰かと誰かを取り合ったりする日が来るのかなあ」
「…なんで略奪愛前提なのよ」
  前略親御さん方。
  あんたらの影響で妹の恋愛観は歪んでいます。
「え? だって好きになっちゃったらどうしようもないんじゃないの?」
「誰が言ったのそんなこと」
「うちのお母さんたち」
  訂正。歪みは直伝でした。

「…おかえり。早速だけど手を洗ってきて、パウンドケーキを焼いてみたから、お茶にしましょう」
  たおやか、という言葉を心身ともに体現しているようなこの母親が、
  まさかそんな生臭い思想を腹の底に隠し持っているとするなら、
杏樹ではないが本当に人間は難しい。
  どたばたと洗面所へ走ってゆく妹を尻目に、ふと疑問を投げかけてみる。

「楓かあさん、〆切はいいの?」
  びしり、と空気に亀裂が入ったような気がした。
「知ってる? パウンドケーキってね、小麦粉・砂糖・卵・バターを一ポンドずつ使うから
その名がついたのよ。
  発祥の地イギリスでは一日に七回もティータイムがあって、
そのうちのひとつ“アフタヌーン・ティー”のお供によく出されたそうよ。
そうそう、嗜好品を巡って戦争が起こることが珍しくないのは有名ね。
  アヘン戦争の発端も、輸入元の中国に対してイギリスが銀でなくアヘンで
お茶の代金を支払ったのが発端だし、アメリカのイギリスからの独立も、
紅茶に掛けられる法外な税金が原因のひとつだった、とされているわ」
「はいはい、ネタのためにネットで調べた知識を娘にひけらかさないの。さっきから電話鳴ってるよ?
  出なくていいの?」
  着信メロディに設定していると思われるラプソディ・イン・ブルーが、
先ほどから延々と家の奥から響いてくる。
「忘れようとしてたのに…うう…」
「後で差し入れしてあげるから、頑張って」
「はーい……」
  幽鬼のような足取りで自室へと引っ込む母は、物書きを生業としている。
  私と杏樹の世話を焼きつつ、一般的なクリエイターへのイメージと大して変わらない、
  躁鬱の激しい生活を日々送っている。
  もう一人の母親、樹里かあさんは祖父の法律事務所で秘書の仕事を、
  父は大手自動車メーカーの営業部門でそれなりに出世していたりするらしい。
  二人とも多忙らしく、昨日のように五人揃って夕食のテーブルを囲うことができることは
わりと少なかったりする。
  この日は三人で夕食を取り、電話を手に虚空に向かって頭を下げ続ける母を後に、
姉妹共々早々に床に入ったのであった。

4

 ある休日のこと。
  珍しく朝と呼んで差し支えない時間帯に覚醒した私は、朝食を摂ろうとダイニングへやってきた。
  と、杏樹がテレビに向かって何やらがちゃがちゃとやっている。
「朝っぱらからうるさいわね、いったい何事?」
「あ、おねーちゃん。おはよー」
「はい、おはよう。…私は朝ごはんまだなんだから、ホコリを立てないでほしいんだけど」
「うー、ごめん」
  灰色に煤けたパジャマを着替えに脱衣所へ向かう杏樹にため息をつきながら、
  樹里かあさんが湯気の立つコーヒーを淹れてくれる。
「さっきからあの調子なの。ゲームがどうとか言ってたけど…」
「ゲームだったら、自分の部屋でやればいいのに」
「何でも、こっちの大きいテレビじゃないと駄目なんだって」
「ナマイキ言いよってからに」
  樹里かあさんはまだ昨夜までの疲れが抜けきっていないらしく、欠伸ばかりしている。
「あとは私がやっておくから、もう少し寝たら?」
「そうねえ…じゃあ、ごめんね」
  そう言って、潔く撤退するあたりが樹里かあさんらしいというか。
  これが楓かあさんなら、意固地になった挙句にコンロでヤケドするのが
  関の山といったところだろう。
  卓上の食パンをトースターに投入し、冷蔵庫の中から作りおきのサラダを出す。
  既に流しの上に出してあったベーコンを、油をひいて熱したフライパンに投入。
  間髪いれず生卵を投入し、蓋をして数十秒待つ。
  頃合をみて、少量の水をさし、蒸し焼きをしつつトースターを監視。
  しばしの後、きつね色に焼けた食パンと、半熟ベーコンエッグを同じ皿に盛って
  ダイニングへと戻ったところで杏樹がやってきた。

「うー、いいにおい」
  Tシャツとハーフパンツに着替えた樹里の髪は濡れており、
  ほのかにシャンプーの匂いが漂ってくる。
  昨夜はいつものように夜更かしした挙句に風呂に入らず、そのまま寝入ったらしい。
「あんた、もう食べたんでしょ?」
「えへー」
  餓鬼かこいつは。
  私に向けられる何か物欲しげな視線を無視しつつ、杏樹に問う。
「さっきから、何やってたの?」
「えーとね。ゲーム機を繋ごうと思って。大昔の。すごい古いやつ」
「大昔って、どのくらい昔?」
「えーとね。えーと。…十八年くらい前?」
「私たちが生まれる前じゃない! よくそんなのあったわねえ。動くの?」
「それがねえ、動くんだよねえ」
  テレビのかたわらに置いてあった紙袋から、なにやら白いヌンチャクのようなものを取り出し、
  頭上に掲げる。
「うゐー!」
  奇声を発する妹。
「何それ」
「えー、お姉ちゃんしらないの? テンドン256だよ」
「……天丼?」
「こうやってねえ、コントローラーをっ、振り回してっ、遊ぶんだよぉぉぉぉぉっ!?」
  珍妙な掛け声と共に、中華っぽい演舞を繰り出す妹。
  とうとうおかしくなったか、と胡乱に思っていると。

「…おお! 懐かしいなっ! テンドン256か! どこで手に入れた?」
  やたらハイテンションな父登場。どうやら親世代だとメジャーなアイテムらしい。
「友達に借してもらったの」
「ずいぶん物持ちのいいウチもあったもんだなー…。親御さんのか?」
「ううん、こういう古いゲームを集めるのが趣味なんだって。他にも色々あったよ。
  ギガドライブとか」
「渋ッ! いやー渋いなあ。あの時期はなー。
  普通はぴーえす4かバツバコテンエイティかテンドンか、の三択でなあ…」
  父、やたらと歓喜。
「実際にやってみせてよ」
  ちょっと気になってきた私は、杏樹を促す。
「それがね、ケーブルを繋ぐ所がないっぽいんだよね…」
  ひらひらと杏樹の手元で左右するケーブルの末端を、父が捕まえて目をこらす。
「眼鏡がないとよく見えんが…。これは…D端子か? うわ、大昔の規格だぞ?
  最近のテレビには普通ついてないぞ」
「ええええ! そうなの!? あっちのテレビにも見当たらないから、おかしいと思ったんだよね…」
「よくわからないけど、とにかくそのゲーム機はうちのテレビじゃ遊べないってこと?」
  父は無精髭の伸びた顎に手を当てると、
「うーん、変換コネクタか何かあれば…。その、これを貸してくれた友達はどうしてたんだ?」
「電話して聞いてみるよ」
  すかさず、杏樹は“静かに”のジェスチャーをしながら耳元にPDAを押し当てた。
「――あ、やぎっち? わたしー。おはよー。あのね、借りたテンドンなんだけど、
  うちのテレビじゃ繋がらないみたいなんだよねー。…え? 変換? あ、そう。
  え? 今から? 悪いなあ。いいの? わかった。でも、うちの場所わかんないよね?
  うん。じゃあ、駅で待ち合わせしない? 十時にサンカクの像で。あいさー。じゃね。ばいばーい」
  通話を終えた杏樹は満面の笑みで、
「その変換するナントカ、ってやつ貸してくれるって」
「そか。なら、さっさと借りてきて父さんと対戦しよう。車出してやるから」
  父さん、喜びすぎ。

 意気揚々と出かけていったのに、何故か帰ってきた父の顔色はあまりすぐれず、
  そのテンドンとやらに目もくれずに書斎に引きこもってしまった。
  そんなことを気にも留めず、テレビの前で踊り狂う妹。
  結局、修羅場中の楓かあさんが怒鳴り込んでくるまで、杏樹の乱痴気騒ぎは続いたのであった。

2007/10/09 To be continued.....

 

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