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蒼天の夢

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第11回 第12回          


1

 洞窟の中は所々から入り込んでくる陽光でほんのり明るかった。
  光と一緒に入ってくる歓声から推測するに今日の客入りも上々だ。
  そんな普段、気にもしないことを気にするあたり、今の自分の余裕のなさが伺えた。
「はぁ……」
  俺はため息をつきながら真新しい鞍を見つめた。
  まだ一度も使われていない鞍からは渋い革の匂いがしていた。どんな生き物のための鞍でも
最初はこの匂いがする。
  そして、使われてゆくごとにどんどん変わってゆく。
  馬の鞍は汗臭くなる。
  ラクダの鞍は硫黄臭くなるそうだ。
  だが、ワイバーンの鞍は錆びた鉄のような臭いに変わる。
  なぜそういう臭いになるのかは分からない。
  どうなるにせよ、臭いが変わる頃には自分はもうこの鞍を使ってないだろう。
そう自嘲気味に思いながら目の前に横たわる大きな水色の胴体に鞍を載せた。
  一瞬、胴体がくすぐったいように微かに震えた。
  長く、大きな胴体だ。なめらかな曲線を描き、そこからはトカゲのような鋭利な首と頭、
力強い二本の足、鞭のような尾、そして蝙蝠のような、しかし蝙蝠のそれよりも美しく
優雅な翼が生えていた。
ワイバーンと呼ばれる魔獣である。
  その姿は二本足なのを除けばドラゴンに非常に似ていた。
  しかし、ワイバーンはドラゴンより二周りも小さく炎も吐かず、知能も低い。
体も筋肉の塊のようなドラゴンと比べるととてつもなく細く、
学者たちからはドラゴンの退化した姿などと言われている。
俺は鞍を固定する四本のベルトを締め、鞍を掴んで何回か揺らしてみた。
  びくともしない。
  鞍を確認し終えると、床においてあった兜をかぶり、しっかりと紐を結ぶ。
「おい、ジース早くしろ!」
「今いく」
  洞窟にぽっかり開いた大きな出口。そこにいた誘導員にこれ以上せかされないよう、
手綱を水色のワイバーンにくわえさせ、出口へと俺の“相棒”を引いていった。
  外に出た瞬間、新たな歓声が沸き起こる。
  快晴の下、断崖絶壁に建てられたいくつもの観客席からは色鮮やかな旗が振られ、
応援歌が響いていた。
  俺たちはちょうど観客席から見下ろされる場所にある崖から突き出たプラットフォームに出ていた。
「そりゃ負け役がいないとレースにならないしな……」
  俺はそう呟きながらワイバーンに騎乗した。
  そして飛行中落ちないためのベルトを自分の体と鞍に固定すると、力いっぱい叫んだ。
「アズ―ル!」
  名を呼ぶと相棒は今まで折りたたんでいた水色の翼を広げた。
  再び歓声が上がる。
  貧弱とされるワイバーンたちはたった一つだけ、遠い親戚のドラゴンを凌駕する力を有していた。
  それは空を飛ぶことである。
  天を舞う時だけはワイバーンたちは他の生き物の追従を許さぬ美しさと強さを発揮する。
  鈍重なドラゴンより速く、綺麗なだけのペガサスより鋭く彼らは飛ぶ。
  そんなワイバーンの空中機動を一番よく見られるのがクリフ・スキッドと呼ばれる競技である。
  主に山や絶壁沿いのコースを飛び、一番速いワイバーンを競うという単純だが危険なレースだ。
毎年多くの人間とワイバーンが勝利を得るため空へ舞い上がり、散ってゆくスポーツ。
  それでも参加しようと志す者は後を絶たず、
ここ数年クリフ・スキッドの人気は衰えるところを知らない。
  俺もそうやって魅せられた連中の一人だ。
  アズールは二、三回大きく羽ばたくと、二本の足に力をこめた。準備が整った、の合図だ。
  俺は大きく息を吸い込むと相棒のわき腹を蹴った。
そして今日もスキッダーと呼ばれるワイバーンの騎手として、蒼い空にわが身を相棒と共に委ねた。

 狭い店内には時計の音しかしなかった。
  既に十一時を回っているのに客が一人もこない。
  けどそれも当然だ。
  ここ、グレイ・クリフの住人なら今のわたしみたいに店番でもしてなければ土曜は絶対、
街をうろついていたりしない。
  そんなことをするのはせいぜい郊外の塔に住んでいるあの忌々しいエルフ魔女ぐらい。
  土曜はみな、街の名の由来となる山、グレイ・クリフに上りクリフ・スキッドを観るのが普通だ。
何せクリフ・スキッドはこの街の主要事業であり、
それがなかったらそもそもこの土地に街を興そうなんて誰も考えなかっただろう。
  かく言うわたしも行きたくてうずうずしている。
  特に今日のレースはどうしても見たい。
  今日はわたしの憧れるスキッダーが出場しているからだ。
  彼の名はジース・グリン。
  グレイ・クリフの地元スキッダーの一人だ。今のところ大した成績はあげていないけど
彼は間違いなく近い将来、王都のリーグ戦に出られるほどの大物スキッダーになるに違いない。
  わたしはそう確信している。
  彼がみたい。彼の飛ぶ雄姿がみたい。彼の勝利する瞬間がみたい。
  そんな気持ちだけがどんどん大きくなってゆく。
  そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
  はっと周りを見回す。わたし以外にこの店には誰もいない。
店主のおばさんもどうせクリフ・スキッドを観にいっているはず。
  一度決断すると行動は早かった。
  わたしはカウンターの引き出しから羽ペンを取り出すと、すばやく紙に――

 “急用ができたのですこし店をあけます  ミリア”

 と書き残し、店の扉に『閉店』と書かれた札を下げグレイ・クリフ山へと走り出した。
 
  わたしがグレイ・クリフ山の山頂についた時にはレースがはじまる直前だった。
  さすがは普段使わない山頂と麓を往復する馬車に乗っただけのことはある。
賃金は高いけど自分で山道を登るよりは遥かにはやい。
  わたしは急いでチケットを買い、それから竜券を買った。
  もちろん賭けるのはジースさんだ。
「ミリアちゃん、毎回言うのもなんだがそいつに賭けたって金をどぶに捨てるようなもんだよ」
  竜券を握りしめるわたしを見て売り場のおじさんが呆れた声でいった。
「いいんです!それにお金のために買ってるわけじゃないですし」
  そう、わたしは彼のレースを観にくるたびジースさんに賭けている。
だけど別にお金のためじゃない。
「そりゃ毎回10ギード程度じゃ万が一勝っても大した金にゃならないが……」
  売り場のおじさんは首をかしげながら言う。
「いや、俺が言うのもなんだけどそれだったら貯めたほうがいいじゃないか?
おまえさん以外にジースに賭けてるやつなんてほとんどいないぞ?」
「これは私のこだわりなんです。ほっといてください」
  わたしがジースさんに賭けているのは本当にただのこだわり。
わたしなりの彼への想いを表現する方法にすぎない。
それにわたし以外に彼に賭けている人がいないのなら好都合だ。
  正直、彼にはわたし以外賭けてほしくない。
  わたしだけでいい。
  彼のファンはわたし一人でいいのだ。
  すると突然、山頂に角笛の雄雄しい音が響きレース開始を告げていた。
「あ!レースはじまっちゃうからおじさんまたね!」
  わたしはおじさんの返事も待たずに急いで観客席へと向かった。
  遅れてきたので観客席はすでに満席だった。
  座れないのは残念だけど、ジースさんが観られるのなら立っているのも苦じゃない。
  それにこの観客席の位置は自分にとってある意味、特等席だ。
  本当の特等席はスタート地点やコーナー付近。それも貴族などお金持ち専用の席だ。
わたしみたいな平民はたいてい山がまっすぐ横に伸びているところ、
つまり直線コース近くの席しかとれない。
  だけど直線はスキッダーたちがワイバーンの高度を上げる場面なので
観客たちのすぐ目の前を通過する場所だ。
つまり一番ジースさんをよく見られるのがこの直線沿いにつくられた席なのだ。
  わたしは適当な場所に移動するとワイバーンたちがやってくるだろう方角に目を向けた。
  彼の姿をこの目に焼きつけるため。

2

 競技が終わり、陽が沈んでも絶壁をくり抜いてできたワイバーン用の馬場は活気に満ちていた。
  ワイバーンの鳴き声。走り回る従業員やスキッダーたち。
  たとえレースが終わってもやることは山ほどある。
  ワイバーンに餌をやったり装備を片付けたりとむしろレース中より忙しい。
  下男を雇えるスキッダーは楽だ。レースが終わればそのまま帰れるのだから。
  だが俺のようなスポンサーつきでようやく参加できている奴にそんな余裕はない。
  ワイバーンの餌や装備の手入れなど、全て自分でやらなければならない。
  とにかくため息が出そうになるのを堪え、俺は備品のチェックに専念しようとした。
  忙しい時は自分の不甲斐なさをあまり考えずに済む。
  ちなみにレースの結果は10人中6位。
  決してよくない結果だがいつものことだった。
「よう、ジース!お疲れ」
  そこへ別のスキッダーが声をかけてきた。
  短く刈られた茶髪に悪戯っぽい笑みが特徴的な青年。
  名はアザラスと言い、同じグレイ・クリフのスキッダーの一人。
  今日のレースでは俺の次、つまり7位だった騎手だ。
「お疲れ……」
  俺は適当に返事をすると再び雑務に戻った。
  アザラスは気にした様子もなく、話を続ける。
「このあと友達と飲みにいくんだけどどうだ?」
「おまえ、ワイバーンの世話は終わったのか?」
  俺は呆れ声で返した。
  こいつは負けた割にのん気だなと思った。
「ああ、終わったよ。それよりどうだ?」
「いや、遠慮しておく」
「ん、そうか。んじゃ俺たちは縁者の園亭にいるから、気が変わったらきてくれ」
  そう言い残してアザラスは兜を肩にぶら下げながら去っていった。
  声が大きいためか途中途中、他のスキッダーにも声を掛けているのが聞こえてくる。
  俺はどうにもあの同世代の同僚が苦手だった。気に食わないと言ってもいい。
  一見、愛想がよくて気の良い男だが、ヘラヘラした感じが嫌だった。
  いつも王都リーグに出るだのでかいことを口にしながら、成績は中の下。
それでいて、負けてもまるで勝ったかのように明るく振舞っている。
  他の皆が必死になって頑張っている中、どうにも彼の態度は好きになれない。
  貴族だから恐らく勝てなくとも大丈夫なのだろう。
  クリフ・スキッドはとにかくお金のかかる競技だ。誰もがすぐにはじめられるものではない。
  だから多くのスキッダーは貴族だ。もちろん全員という訳ではない。
  俺のように地元の商会の支援を受けてやっている平民のスキッダーもいる。
  但しワイバーンを含め、装備はすべてスポンサーのものであり、
成績が悪ければ他のスキッダーと取って代われることもある。
  今回送られてきた新しい鞍だって贈り物ではなく、
成績不振の続く俺に喝を入れるためのものだろう。
  このまま結果を残せなかった場合、最悪――
「あー!やめだ!やめ!」
  物事がうまくいかないとどんどん悪い方向に考えてしまう。
  俺の悪い癖だ。
  とにかく来週だ。来週のレースで今日以上の成績を残せばいいだけだ。
  気分を切り替え、俺はとにかく仕事を終わらせることに専念した。
  そして全ての後片付けが終わったあと、アズールの頭を一撫でしてから山を下りた。

 麓の街につく頃には夜も更けていた。
  しかしそれでも街の方にはまだまだ活気が残っている。
  グレイ・クリフの街は主にクリフ・スキッドで収入を得ている街だ。
  国土の八割以上が山岳地帯のここアルス王国では珍しいことではない。
  元々資源の少ない土地。他に売り物にできるものは傭兵などの人的資源ぐらいしかない。
  よって観光やクリフ・スキッド関係の事業は特に力が入れられる。
  グレイ・クリフも例にもれず、夜になっても街の宿や酒場の明かりは灯ったままだ。
  夕飯がまだなので立ち寄ろうとも考えたが今日は騒がしい中で食事できる気分ではない。
  帰って適当に果物でもかじるか。
  俺は賑やかな繁華街を抜け、住宅地のはずれにある我が家へとまっすぐ帰った。
「ただいま」
  家の扉を開けるとまだ明かりがついていたことに驚いたがすぐにその理由が分かった。
「おうボウズ。帰ったか」
  そう言いながら熱いフライパン片手に出迎えたのが専業主夫の親父。
  エプロンをつけているものの、体格が大きいためどう見ても料理中、
というより刀剣でも鍛えていそうな鍛冶屋にしか見えない。
「おかえりなさい。どうせ夕飯まだでしょ?」
  見透かしたように言うのは食卓の上で何かを調合していた我が家の大黒柱にして街の薬師である母。
  そして――
「お久しぶり」
  部屋に響き渡るような澄んだ声。
  古典的な緑色のとんがり帽子に腰まで届く銀色の髪。
  美しいという言葉さえ陳腐に聞こえてしまうほどの端正な顔立ち。
  そして出自を語る細長く尖った耳。
「ひさしぶり、エリシアさん」
  母の隣には微笑を浮かべたエルフの魔術師、エリシアさんが座っていた。

「え?じゃあ俺のこと待っててくれたわけじゃないの?」
  遅い夕飯のあと、みなで食卓を囲んで紅茶をすすっていた。
  ちなみに俺の期待と反して遅い夕飯は何も俺のためではなかったらしい。
「当たり前でしょ。別にレースに勝ったわけでもなし」
「今日はエリシアさんが来てくれたからな。料理には少しこだわってみたんだが、少し遅くなった。
おまえはタイミングよく帰ってきただけだ」
  相変わらず息子に対してデリカシーのない両親である。
「お疲れ様ジース君」
  対してエリシアさんの優しい労いはまさに神の贈り物だ。
「ありがとう。そういえばエリシアさんここ数年見かけなかったけど何処かに行ってたの?」
「秘密」
  そう言って人差し指を唇にあてるエリシアさん。
  相変わらず謎の多い女性だ。
  だがこの謎多きエルフの魔術師とはもう何年も家族そろって付き合いがある。
  母は薬師ということもあり、山で採れる様々な植物に詳しかった。
  エリシアさんはそういった植物を母から買うため、何年も前からちょくちょく我が家に訪れていた。
  普通ならお得意様で終わるところだが、
母と妙に気が合ったらしく商売以外でも会うようになったとか。
  そんなこんなで俺も幼かった頃にはよく遊んでもらった記憶がある。
  他にも彼女は俺の家庭教師だったことさえあった。
  たいてい平民の子供は10歳前後になると街の神殿で読み書きを覚える。
だが当時、神殿への寄付金という名の教育費をケチった親父はエリシアさんに
俺の読み書きを教えさせた。
  結果、俺は平民ながら貴族の子弟たちのように、エリシアさんという専属の家庭教師がついていた。
  おかげで共通語に加えエルフ語まで読めるようになった。
  しばらく談笑していると帰る時間なのか、エリシアさんがすっと立ち上がった。
「あら、もうこんな時間。ごめんなさいね、引き止めちゃって」
  母親はすまなそうに言い、親父は俺に顎で扉の方を指した。
「言われなくともちゃんと送っていくさ」
  どうせ言うだろうと思い、俺はすぐさま家の倉庫からたいまつをとりにいった。
「ごちそうさまでした。ごきげんよう」
  エリシアさんは両親と礼を交わすとゆったりと扉を出て行った。
  俺もたいまつに火を灯し、あとに続く。

 治安が比較的良好なグレイ・クリフでも夜道は完全に安全というわけではない。
  もっとも『グレイ・クリフの魔女』ことエリシアさんに手を出す輩はいないだろう。
  魔女というのは彼女がこの街に越してきた時ついたあだ名らしい。
  なんでもグレイ・クリフに現れてからたった一日で彼女は街の郊外に五階建ての塔を興した。
そのことに驚愕した街の住民つけた名だ。
  だから本当は見送りなんて必要ない。
  例え襲われたって賊程度じゃ簡単に返り討ちだろう。
  そんなことを考えながら隣を歩いていると、彼女の方から声をかけてきた。
「かわったのね」
「え?」
  いつもの淡白なしゃべり方だったので一瞬何のことかと分からなかった。
「あ、ああ。会うのは確か三年ぶりだったからね」
「人間ってすぐかわる」
「さすがにエルフほど長寿じゃないから――」
「そうじゃない」
  彼女は歩みを止めると、俺の眼を見た。
  確かにここ三年で俺の目線はようやくエリシアさんを見下ろす形になった。
  もうすぐ19歳にもなる俺にしてみれば当然なのだが、エルフの彼女からしてみれば
大きな変化なのだろう。
「私の髪、触らなくなった」
  彼女は肩から銀の川のように流れる髪を差し出しながら言った。
  口元はわずかに笑っているようにも見える。
「あ、いや……」
  何のことかようやく分かった途端、急に恥ずかしくなった。
「触ってもいいのに……」
  小さい頃から俺にはちょっと変わった癖があった。
女性の長い髪を見るとどうしても触りたくなるのだ。
特にエリシアさんの綺麗な銀髪は耐え難い魅力を放っているので、
よく研ぐように弄っていた記憶がある。
  母からはよく『恥ずかしいからやめなさい』とか『女性の髪を勝手に触るもんじゃない』
などと叱られてはいた。
  それでもエリシアさん本人からは止められなかったこともあり、
気づくとすっかり癖として定着していた。
「さすがにこの歳でそれはマズいかな、と」
  最近になってようやく自分がどれだけ恥ずかしいことをやっていたかに気づいた。
  以来、件のこと思い出すと崖から飛び降りたくなる。
「どうして?」
「どうしてって……それはやっぱり女性の髪を触るのは無礼だし、その」
「でもジース君いつも触ってた」
「それは俺も小さかったし……」
「大きくなったら触っちゃいけないの?」
「大人になったら流石に……」
「ジース君まだ子供」
  変わらず微かな笑みを見せながらエリシアさんはそっと俺の頭を撫でた。
「これでもクリフ・スキッダーなんだけど」
  エルフの彼女から見れば俺なんてまだまだ子供なのは分かる。
  でも19歳にもなって子供の時みたいに頭を撫でられるのは納得がいかない。
「子供」
  彼女はそれでも撫で続けた。
  しかも段々と撫でられるのが気持ちなってくるから危険だ。
「そりゃ今は未熟かもしれないけど、俺だっていつかは――痛ッ!」
  ちょっと不機嫌な顔してみた途端、痛みが走った。
  よく見ると頭を撫でていた手には俺の黒い髪の毛が数本握られていた。
「ふふふ、生意気」
「何するんだよ!」
  頭を押さえる俺をよそに彼女はむしりとった髪の毛を懐から出したビンに入れていた。
「これはお土産」
「は?」
「あとは大丈夫。ありがとう」
  そう言うとエリシアさんはさっさと闇の中に消えていった。
  あまりにも突発的なことだったので一瞬唖然としてしまった。
  追いかけようと思ったが、気づくとたいまつに照らされた小さな空間と、
夜空の中でもその存在を誇示する魔女の塔しか見えなかった。

3

 俺の朝は早い。
  まだ朝靄が街を覆い、空が紫かがっている内から家を出る。
  グレイ・クリフでレースが行われるのは週一回だがスキッダーは毎日練習する。
  そして俺の練習は家を出た瞬間からはじまる。
  まずはワイバーンの馬場(竜場とも言う)があるグレイ・クリフ山頂まで走りこみ。
  家から街までは平坦だから楽だ。問題は麓の街から山頂までの道のり。
  アルス王国の者なら誰でも山道は慣れたもの。しかし、走って登るとなると話は別である。
  ペースを考えながら走らないといけないのでなかなか馬鹿にできない鍛錬だ。
  唯一、気に入らないのは山道の幅が狭いこと。
  特に大きな馬車が通れば山腹にへばりついて道を開けなくてはならない。
  そして案の上、今朝走っていたら馬車が来たため一旦道を開けなければならなかった。
  ただ今回ばかりはへばりつくどころか道から外れ、山の斜面にまで退かなければならなかった。
「はあ……はあ……なんだよ。あれ」
  思わず立ち止まってしまうほど派手な馬車だった。
  四頭の黒馬に引かれたワインレッドの車両。所々金の装飾で彩られ、
馬車の横腹には翼を生やした狼の紋章が描かれていた。
  貴族の馬車なんてグレイ・クリフじゃ珍しくもないが、
あそこまで大きく豪華な馬車は未だ見たことがない。
  以前アザラスの馬車を見たことがあるが、今の馬車に比べたら
それこそ小悪魔インプとドラゴンぐらいの差はある。
  まさに権力と財力を誇示するが如く。
  名のある貴族には違いないだろうが、生憎と俺はそういった事柄に興味はない。
  と同時にレースのない日曜の朝に大貴族がグレイ・クリフ山に何の用か、と好奇心が湧く。
  幸い、俺の目的地も恐らくあの馬車と同じだ。
  考え事は山頂に着いてから。
  俺は再び険しい山道を走り出した。

 山頂の洞窟内に到着すると俺は汗をしっかりと拭き取り、クリフ・スキッド用の革鎧に着替える。
  着替え室から竜場に向かい、腹を空かしたアズールにたっぷりと餌をやる。
  朝早いにも関わらず、周りには既に何人ものスキッダーたちが各々の練習の準備をしていた。
  そんな中、俺の走りこみ中の疑問の答えが目に入った。

 竜場の中でも大きめに作られた奥の区画の一つ。
  そこには見たことのない赤いワイバーン。
  まるで竜神を拝めるかのように赤いワイバーンを世話する茶色い制服の一団。
  一団を護衛するかのように直立不動で立つ完全武装の兵士。
  そして彼らの盾には山を登ってくる際に見たあの馬車と同じ、翼の生えた狼が描かれていた。
  なるほど、と納得した。
  つまり今日からスキッダーがもう一人増えるのだ。
  とてつもなく“高貴”なスキッダーが。
「おはよう諸君!今日も王都リーグ目指して頑張ろうじゃないか!」
  準備をしながらチラチラと高貴な一団を見ていると、全く高貴じゃない貴族が姿を現した。
  アザラスである。
  最初は他の従業員やスキッダーに挨拶して回っていたが、
俺の望みとは逆に奴の声がどんどんと近づいてくる。
「おはよう!ジース」
  予想はしていたが、アザラスは最終的に俺の方にやってきてしまった。
  こうなっては適当にはぐらかすしかない。
「おはよう」
「次のレースのため頑張ろうな!」
「ああ」
「次こそは上位にあがろう」
「そうだな」
「ところで見たか?ベイヴェルグ公爵家の連中だぜ」
「ベイヴェルグ?」
  ひたすら生返事で通そうと思っていたが、どうやら好奇心の方が勝ってしまったようだ。
「ん?ジースは知らないのか?」
  一見気さくに笑っているアザラス。
その実、眼には自分の知識を披露したいという気持ちがありありと浮かんでいた。
「貴族の名前なんて一々覚えてられん」
「悲しいこと言うなよ」
「んで、そのベイなんとか様はどうなんだ?」
「ああ、そうそう。とにかく地味に影響力が大きい――」
  ベイヴェルグ公爵家。
  公爵という爵位の中でも最も高い位を持っているから偉い、というのは俺でも分かっていた。

 だがアルス王国の主要穀倉地帯の領主だというのは初耳だった。
  簡単に言うと輸入品か自家栽培でないかぎり、毎日口にする食べ物は
高い確率でベイヴェルグ領地産だということだ。
「まったく、これぐらいこの国の人間として知っておけよ」
  アザラスは説明が終わるとやれやれと言った感じに肩を竦めた。
「悪かったな」
  相変わらず気に障る仕草をする奴だ。
  しかしアザラスの言う通りならば、なぜグレイ・クリフにわざわざ公爵家の人間が来るのだろうか。
  確かにグレイ・クリフは週一回必ずレースを組むほどクリフ・スキッドに熱心な街だが、
腕の良いスキッダーはたいてい他の主要都市に集まる。
  少なくとも名声を手にしたいのならここより良い場所は幾らでもあるはずだ。
「まあ、大方あの一族の坊ちゃんの道楽かなんかだろ」
  俺の考え事をよそに、アザラスは呆れたような態度で話題を締めくくった。
  自分のことを棚にあげて何を、と言いかけて俺は何とか己の口を塞いだ。
  ここで反応してはこいつとの会話が長引いてしまう。
  とにかく俺の練習が遅れない内にここを出ようと思った瞬間だった。
「恥を知れ!」
  鋭い女の声が竜場内に轟いた。
  アズールでさえ驚いて飛び跳ねたぐらいだ。
  声は話題の主役であったベイヴェルグ家の一団の方向から来ていた。
  そーっと横目で見ると少女がベイヴェルグ家の兵士に向かって何か怒鳴りつけている。
「ん?あんな娘いたか?」
  不思議そうな顔でアザラスが尋ねてきたが俺もあの娘を見るのははじめてだ。
  あの一団に隠れて見えなかっただけだろうか。
  そう思っている内に少女は引きとめようとしているベイヴェルグの家来たちを無視して
着替え室の方へと歩きはじめた。
  先ほどの叫び声で気圧されたのか途中スキッダー、従業員問わず全員少女に道を譲ってゆく。
  一瞬だけ情けないな、と思ったがすぐに自分の愚かさを理解した。
「「うおっ」」
  不覚にも隣のアザラスとハモってしまうぐらい少女の姿は美しく、気品があった。
  肩で切り揃えられた金髪。
  研ぎ澄まされた刃物を思わせる切れ長の眼。
  エリシアさんが森のように爽やかでゆったりとした美しさなら、
目の前の少女はグレイ・クリフ山の如く壮大で鋭利な美しさだ。

 それだけではない。
  洞窟内にとどく淡い光でも反射してみせる紅い革鎧と脇に抱えた女神のレリーフが施された兜。
  両方ともワイバーンを一頭買えるぐらいの品なのだろう。
  なにより革鎧の胸部に縫い付けられた紋章。
  彼女がまさしくアザラスの言っていたベイヴェルグ公爵家の
“道楽”息子ならぬ娘であると確信した。
  とりあえず俺の好奇心は満たされたので後は自分のことに集中するだけだ。
「よう!俺はドレンの子、アザラス。昨日はいなかったようだけど今朝ついたのか?」
  一方で俺とは行動原理が正反対の奴がさっそく少女に声をかけていた。
  ここまで来ると気さく通り越して、ただの馬鹿である。
「馴れ馴れしい……」
  呼び止められた少女は一端止まると、強烈な視線をアザラスに向けた。
  まるで虫けらでも見ているかのような見下した眼。
  直接見られている訳でもないのに、つい後ずさりしたくなってしまう。
「おいおい、同じスキッダーじゃないか。それにここは闘技場じゃない。
競技選手同士もっと気楽にいこうぜ」
  そのままビクついて引っ込むかと思っていたアザラスは意外にも真面目な顔で話していた。
  少しだけ見直したかもしれない。
「ふん、田舎貴族が偉そうに何を申すか!勝負事においては己以外すべてが敵。
ましてやクリフ・スキッドはもとはと言えば竜騎兵を鍛えるための演習の一つ。
戦へと赴くのと同じ覚悟で挑むのが礼儀」
  もとから不機嫌だったのか、アザラスの態度が癪に障ったのか少女は物凄い剣幕でまくし立てた。
「それを競技?選手同士?笑わせるな!まったく、お前のような輩がよくもスキッダーなどと
名乗れるものだ!」
  相手に言い返す隙を与えぬ猛攻である。
  アザラスをはじめ、グレイ・クリフのスキッダーたちは割と気楽である。
だからお互い貴族だの平民だのと気にしない。
  それに慣れて忘れていたが、本来貴族様というのはこういうものなのだろう。
「わかった、わかった。俺が悪かったよ。とにかく名前を聞かせてくれないか」
  出だしはよかったがアザラスはすぐに折れた。
  前言撤回。
  やっぱりこいつ駄目だ。
「……私はエラミノの子、ティオーナ。ティオーナ・エラミノ・ベイヴェルグだ」
  アザラスのみならず竜場のいる全員に宣言するかのように彼女は名乗りをあげた。
  まるで他の者に何度も名乗らせるな、と暗に言うような尊大な口ぶりである。
「そ、そうか。よろしくな」
  アザラスは手を差し出すもティオーナは一瞥をくれるだけで歩き去っていった。
「ありゃ乗ってるワイバーンの方が大人しいんじゃないのか?」
  誰かが声を潜めて言った。
  まったくその通りである。
  貴族の女性と言ったらもっと慎ましやかな淑女を想像していた。
ティオーナ嬢は貴族女性の幻想を見事なまでに打ち砕いてくれた。
  だがこのままだとあのアザラスでも可哀相に見えてくる。
もちろん間違っても俺は奴に同情なんてしてやらない。
  兜を持ち、俺は練習に赴くためさっさと竜場を後にした。

4

 色鮮やかな旗もなく、野次や賞賛を叫ぶ声もない。
  食べ物を運ぶ給仕もいなければ、優雅に扇子をあおる貴婦人もいない。
  レース当日とは打って変わって無人の貴族専用観客席。
  ここが俺の練習場だ。
  俺は暇が許す限りここで自分の技術を磨いてきた。
  トーンの低いワイバーンの鳴き声が聞こえる。
  振り向くと朝日を背に、北の山腹に沿うように一頭のワイバーンが向かってきた。
  徐々に高度を上げながら迫ってきたワイバーンは観客席真正面付近で一気に急降下する。
  俺は観客席からやや身を乗り出して、その姿を逃すことなくわが眼に刻む。
  山々の外周に沿って飛ぶクリフ・スキッドではこのようなコースのコーナー部分に
貴族席が設置される。
  ただ真っ直ぐ飛ぶ直線より遥かにリスクの高い機動をとる曲がり角の方が見応えがあるからだ。
  特にクリフ・スキッドでは高度制限があるため、“コーナー”を飛び越えていくと失格になる。
余裕をもって曲がってもコースから外れ、時間がかかる。
  よって一番効率的な曲がり方は山の斜面を掠めるかのように落ちながら曲がること。
  そうすることでワイバーンは素早く曲がりながら、
次のストレートでも簡単に高度を稼ぐことができる。
  崖を掠める。クリフ・スキッドの名の由来だ。
  クリフ・スキッドは基本的に直線で高度を稼ぎ、曲がり角で降下し、
次の直線で再び高度をあげ、降下する。
  一見単純な繰り返しが非常に難しい。
  俺はスキッダーになってから、いや、なろうと思う以前から絶壁を制覇する技を学ぼうとしてきた。
  人からワイバーンの乗り方なんて一度も教わったことがない。
  全ては観客席から独学で学んできた。
  ある意味、グレイ・クリフで飛ぶスキッダー全員が俺の師匠だ。
  だがそれも限界にきている。
  スポンサーをつけるため、あたかも乗り方を知っていたかのようにみせるのと、
観衆の前で実際スキッダーとして活躍するのでは必要な実力が違う。
  だからといって今からコーチなんて雇う時間もお金もない。
  スポンサー側だって俺がいつか成功するまで待っている余裕なんてない。
  スポンサーと言っても地元の雑貨店や個人経営の店が集まった小さな商会である。
  貴族の個人事業ではじまったワイン会社や冒険者ギルドみたいに莫大な資産がある訳ではない。
「はぁ……」

 来週勝てば良い、と気分を切り替えたつもりだったが現実をみればみる程暗い気持ちになってゆく。
  眼で追っていたワイバーンとスキッダーは俺が立つコーナーを抜け、
南へ延びる直線へと飛んでいった。
  その先にはグレイ・クリフ山のコースの中でも随一の難所、『牙』が待ち構えている。
  本当はグレイ・クリフ山の峰が繋がっているもうひとつの非常に細長い山だ。
  普通なら飛び越えていけるはずの山稜も高度制限のあるクリフ・スキッドでは別だ。
  グレイ・クリフ山から西に突き出ている『牙』の周りをわざわざ迂回しなければならない。
  向かってゆくスキッダーたちにとってはヘヤピンカーブ同然。
  普通、スキッダーは『牙』を見ると心臓の鼓動が早くなるらしい。
  俺は『牙』を見るたび心が落ち着く。
  なにせ『牙』は俺にとっての原点であり、俺の武器なのだから。
  もちろん『牙』だけでは勝てないから悩んでいるのだが。
「はあ……」
  再びため息が出るが、すぐに持ち直し青空を見据える。
  最低限、練習から何か得なければ練習をしている意味がない。
 
  午前は他のスキッダーの技を盗もうと観客席で過ごし、
午後は実際にアズールに乗って午前参考にした様々な技を試してみた。
  結果は可もなく不可もなく。
  俺は相変わらず普通のコーナーが苦手だということが分かっただけだった。
  レースがない日は後片付けも簡単なので、終わったのはちょうど夕暮れ時だった。
  山を降りようと洞窟を出たところで俺は珍しい人と出会った。
「ミリアちゃん?」
「あ!ジースさん!」
  声をかけると、満面の笑みで少女が駆け寄ってきた。
「久しぶりだな。でもどうしてここに?」
  ミリア・ブラム。
  後ろで束ねた長い緑色の髪が特徴的な俺より二つ歳下の女の子。
  スポンサーの一人、ブラム防具店のライアンおやじの一人娘。
  防具店のほうは父親と二人の兄が仕切っていて、普段は道の向かい側の雑貨店で働いている。
「え〜と、実は昨日お仕事サボっちゃいまして。それで今日の配達は代わりに私が……」
  少し照れながら身を屈む姿はまるで子犬のように可愛い。
  屈む際に垂れる前髪もつい触ってしまいたくなる。

 豊作祭になれば街の男子が躍りに誘いたくなる娘一位というのも頷ける。
「サボるって、ミリアちゃん。また?」
「だってジースさんの飛ぶところが観たかったんです……」
「それは嬉しいけどさ……何か言われなかったか?」
  一緒に山道を下りながら会話する間もミリアちゃんは俺の周りをくるくると歩く。
  本当に散歩をする子犬みたいに元気な娘だ。
「えへへ、実はおばさんに今度やったらクビにするぞって怒られました」
  彼女に反省の色は全くない。
「えへへって、本当にクビになっても知らないぞ?」
「その時はその時です。それより今日は早いんですね」
「レースがない日はこんなもんさ。まあ、それでも他のみんなよりかは遅いんだけどさ」
「え?どうしてですか?」
「いやさ……俺ほら、負け続けだし。下男とか雇える余裕ないから
全部一人でやんなくちゃいけないんだよ」
「えー!ワイバーンのお世話から全部ですか?」
「ま、慣れているから特に問題じゃないさ」
「お父さん、ジースさんの後援者の一人のはずなのに……何もしてないんですね!」
「いや、ライアンさんには俺の相棒を買った時もそうだけどかなり援助してもらってるよ」
  確かに俺が使っている革鎧は防具店の冒険者用のものにベルト用の金具を付け足しただけの物。
  兜に至っては無塗装の鉄兜ときた。
  文句を言いたくなる時もある。
  それでもアズールを買った時、だいぶ投資してくれた恩がある。
「……」
  ミリアちゃんは突然考えるように押し黙った。
「ミリアちゃん?」
  一瞬の静寂のあと、彼女は何か呟いた。
「じ……わた……ゃ……さぃ」
「え?」
「じゃあ、わたしを雇ってください!わたしがジースさんの雑務を引き受けます!」
  突然何を言い出すかと思えば。
  元気なのは良いことだがやっぱりミリアちゃんは子供っぽいところがある。
「気持ちは嬉しいけど、お給料払えないよ?」
「いいんです!わたし、ジースさんのお役に立ちたいんです!」
「だったら尚更タダ働きさせられないな。大体ほぼ毎日働くことになるんだよ?」
「大丈夫です。これでも体力には自信がありますから」

 やや大きな胸を張るミリアちゃん。
  華奢な体の何処からそんな体力が出てくるのか。
  もっと自分が結果を残せていたら、ちゃんとした給料で手伝いを頼んでいたかもしれない。
  だが今は空を飛べているだけでも感謝しなくてはいけない。
  ここは少し意地悪なことを言ってでも諦めてもらわねば。
「じゃあミリアちゃん、ワイバーンの世話の仕方分かる?」
「分かります。お父さんから聞きました。知らないものはすぐに覚えます」
「でも世話って言うと竜場の清掃とかだよ。糞とかもきれいにしなきゃいけないんだよ?」
「大丈夫です」
「臭いよ?」
「問題ありません」
  手強い。
  しかし俺には彼女が諦めざるえない必殺技がある。
「分かった。そこまで言うならライアンさんからちゃんと、許可を貰えたら頼もうかな」
  幾らライアンおやじといえども、可愛い一人娘が竜場で働くことをよしとするはずがない。
「本当ですか?やったぁ!約束ですよ?」
  まだ許可を貰ったわけでもないのに、彼女はピョンピョンと飛び跳ねながら喜ぶ。
「あくまで許可を貰えた場合だけだよ?」
「はい!分かってますよ〜」
  とりあえず今は喜ばせておこう。
  どうせ明日辺り、落ち込んだ顔で『無理でした』という台詞を聞くことになるのだ。
  その時フォローを入れてあげればいい。
  俺はミリアちゃんを家まで送り届けたあと、一人酒場に向かった。
  現実的に来週のレースに勝つため、何か考えるためだ。
  結局、何も思いつくことなく帰路につくこととなった。

5

 醜い断末魔。
  サラサラと舞い落ちる灰。
「やっちゃった」
  本日六匹目。
  幾ら魔界から召還している魔物でももったいない。
  どうしても感情が抑制できない。
  私の、グレイ・クリフ住民曰く“魔女の塔”の実験室。机の上には水晶球がおいてある。
  『物見の珠』と呼ばれるマジック・アイテム。
  以前に見たことがあるものなら念じるだけで映してくれる。
  私はいつものようにジース君をみながら魔法の研究していた。
  最近、頭の中までお花畑の小娘がジース君にまとわりつきはじめた。
  今日も朝から竜場に押しかけている。
  困った顔をしている彼の周りをブンブンブンブン。まるで凛々しい駿馬に寄生する蝿のように。
  でもジース君は根気強く蝿女に付き合ってあげていた。
  あの娘は確かジース君のスポンサーの子。
  可哀想。立場上、嫌とは言えない。
  それなのに蝿女は彼の気持ちも考えず、構わず飛び回る。
「ギ――」
「あ」
  七匹目の魔物が灰となる。
  いけない。もっと集中しないと。
  これは魂を抜き取る実験。
  『分解』の呪文の練習じゃない。
  小さなことで心をかき乱されてはいけない。蝿より実験のほうが大切。
  実験が成功し、研究が完成すれば私はジース君とついに結ばれることができる。
  もう少しの辛抱。
 
  ジース君にはじめて会ったのは十二年前。
  当時、しばらく里を離れてみようとグレイ・クリフに越してきた。
  ある日、私は薬草を買おうと地元の薬師を訪ねた。
  その時目を輝かせながら母親の脇にいたのがジース君。最初はただの可愛い男の子。
  私に若木を愛でる趣味はないから当然のこと。
  時々せがまれて遊んだことがあるぐらい。
  変化がきたのは彼が9歳の頃。
  庭先でジース君と遊んでいた時。

「エ、エルフのまじょめ!」
  彼の友達が突如やってきて私に石を投げつけた。
  多分エルフに慣れていなかったのだろう。
  風を操り、石を逸らそうと思った瞬間。
  ジース君は私を庇って石を己の身に受けた。
  私と友達が驚いている間、ジース君は詰め寄り友達を殴り倒した。
「エリシアさんはエルフのまじょだ。だからどうした!」
  驚いた。はじめてだった。
  今まで人間とそれなりに関わってきたつもり。
  多くは私をエルフとして。あるいは魔術師として、どちらか一方でしか扱ってくれなかった。
  ジース君は両方認めた上で私に接してきてくれたのだ。
  身体が熱くなる。不思議な高揚感に包まれる。
  あの瞬間、私は彼に大樹の器を見た。
  ジース君はその後、母親に酷く叱られ、泣きながら私のもとへ来た。
「友達殴っちゃだめ」
  可愛かったので私はジース君のおでこを弾いた。
「でもありがとう」
  そう言うと、彼はこれまでにない誇らしげな顔で笑った。
  おとぎ話に出てくる英雄の笑顔。
  将来はきっと様々なものを育む立派な樹になる。
  そして大きく成長した彼の隣に立っていたいと私は強く想った。
  彼の隣にただ一人、立っていたいと。
 
  以来、私はジース君の成長を支えようと尽力した。
  さらってしまいたいと思ったことは何度もある。
  でも鷹は鷹の巣で育てるもの。不自然な育て方をしては害悪でしかない。
  だからと言ってただ傍観する私ではない。
  一番大切なのは大きくなったら私だけを見るようにすること。
  彼の良さに気づくのは私だけではないはず。
  だから前以てジース君の身体に、心に種をまいておく。
  彼の両親と交友を続け、家庭教師になるとも申し出た。
  彼の知識の多くは私が教えたもの。
  ジース君が私の髪を触りたがっていたのも知っている。
  もちろんとめなかった。むしろ触りたくなるように仕向けた。
  髪だけじゃない。匂いを嗅ぐことも。時には身体を触ることさえ。

 人の好みとは幼いころから徐々に構築されてゆくもの。
  その過程の所々に“私”を埋め込む。
  大きくなったら他所に目がいかないように。
  でもがっついてはいけない。
  自然界でも直情的な生き物は狩りが下手。獅子やグリフォンもそう。
  逆に蜘蛛や狼は狩り上手。ただ己の力に任せて襲わない。
  策を練り、罠を仕掛ける。獲物が自らやって来るように。
 
  八匹目の魔物でようやく成功。
  手の中には赤黒く光る珠が浮かんでいる。
  魔物の魂。私の研究に必要な素材の一つ。
  すぐに氷の呪文で結晶化し保存する。
  実験といっても後は微調整と素材集め。研究の基礎は既に実証し、何度も成功している。
  でも今度はジース君に施すから準備は万全にする。
  あと少し。あと少しでジース君は私のもの。
  すごく楽しみ。思わず口が潤う。
  ジース君の愛は一体どんな味がするのだろう?

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 時間というのは止まっていて欲しいと願えば願うだけ早く過ぎていく。
  まるで人が苦しむ姿に快感を覚えるサディストだ。
  気づくと一週間過ぎて、レース当日になっていた。
  その間様々なことがあった。
「ジースさん!がんばって下さ〜い!」
  俺と相棒に手を振るミリアちゃん。
  彼女を見るたびライアンおやじの薄い頭が正常なのか疑いたくなる。

 ミリアちゃんに父親から許可が降りれば雑務係として雇う。
  俺は六日前の帰り道、彼女にそう答えた。
  彼女の父親、防具店のライアンおやじは絶対承服しないだろうと踏んでの発言だった。
  翌朝、普段通り竜場に行ってみるとどうだろう。
  そこにはダブダブのつなぎに着替え、
  俺の愛騎アズールに餌をやりながら鼻歌を歌うミリアちゃんがいた。
「おはようございます!ちゃんとお父さんに許可もらいましたよ!」
  俺が何を言おうとしたのか分かったのだろう。

 彼女はすぐに一枚の紙切れを取り出した。
  そこには短く『どうか娘のわがままを聞いてやってくれ』と書いてあった。
  うちの親父といい、ライアンおやじといい。アルス王国の男が厳しいのは外見だけなのだろうか。

 気は進まなかったが俺の出した条件を見事にこなしたのだ。断れるはずもなかった。
  以来、ミリアちゃんは朝早くから竜場に働きにきている。
  仕事の内容は悪くない。おかげで俺の仕事の量はかなり軽減された。
  逆にレース開始直前になってもなんら策を見出せない自分が情けない。
  既に準備を終えたスキッダーとワイバーン達が次々と飛び立っていく。
  俺もアズールに跨り、洞窟の出口へと向かう。
  不安はあるものの今更どうしようもない。ミリアちゃんの声援を背に、
  俺と相棒は地上に別れを告げた。
  洞窟から離陸するとスキッダーたちは参加する選手が揃うまでグレイ・クリフ山の周囲を旋回する。
  全十一騎が空中にあがると、山頂付近にアルス王国の大旗が掲げられる。
  スキッダーたちは規定高度にワイバーンを下げる。一旦コースをゆっくり飛びながら、
  くじ引きで決められたスタート順位に並ぶ。さながら竜騎兵の編隊飛行だ。
  その間に声を魔術で拡張した司会者が各スキッダーの紹介をしてゆく。
  俺のスタート順位は3位。悪くない位置だ。問題はこの順位を維持できるか。
  目の前の2位を飛ぶのはティオーナと彼女の赤いワイバーン。
  練習中に分かったことだが、彼女の腕は半端ない。
  新人であることや妙に真剣すぎる態度。
  腕の方は身分とは正反対に低いだろうと俺は高をくくっていた。
  だが彼女の飛び方を五日間見てそんな気持ちは吹き飛んだ。
  何処かの竜騎士の下で修行していたのか。まるで恐れを知らない急降下。風を切り裂くような機動。
  ワイバーン、スキッダー共々まさに一流と呼ぶにふさわしい。
  未熟な俺が言うのもなんだが、彼女は間違いなく上位に食い込んでくる。
  全員が定位置にいることが確認されると今度は王国旗が振られる。
  スタート地点となる山の北側の観客席を次に通過した瞬間、レースが開始するという意味だ。
  一番緊張する時間である。
  視線は前を飛ぶワイバーンより、横手の山腹に広がる観客席に泳いでゆく。
  規則とはいえ、ゆったりと編隊飛行しているのがもどかしく思えてくる。
  まだか。まだか。高ぶる心を静めるのが難しい。
  程なくして、山の曲がり角を回るとそれは視界に入ってきた。
  一際大きく造られた観客席。王侯貴族の来訪を視野に入れた豪華な主催席を兼ね備えた建物。
  無数の小さな旗が振られ、観測用の塔も見える。
  あれがスタート地点だ。
  手綱に力が入る。両足が強張る。全神経が耳に集中してゆくのが分かる。
  あの音を聞くために。
  そして先頭のワイバーンが観客席を通り過ぎた瞬間。
  野太い角笛の咆哮が轟いた。
「いけぇ!アズール!」
  どのワイバーンもスキッダーもまるで角笛に応えるかのように叫び、力を解放する。
  優雅な編隊は解かれワイバーンたちは我さきへと、前へ跳躍する。
  まるで勝利への渇望が空を支配したように。
  クリフ・スキッドは今日も平常運転である。

6

 蒼い秋空の下、レースがはじまった。
  グレイ・クリフではコースの長さから最初に三週した者が勝者となる。
  スタート直後のストレートで順位が変動することは少ない。
  どのスキッダーもコーナーが勝負どころだと分かっている。
  そして最初のコーナーに差し掛かる。
  まるで事前に打ち合わせたようにワイバーンたちは皆翼を僅かに折り、
  胴体を傾かせ急降下してゆく。
  山の絶壁がどんどん迫る。頬に当たる風が強くなる。
  地上の木々が大きくなり死という概念が現実味を帯びてくる。
  低すぎない高度で手綱を引き絞り、ワイバーンに高度を上げろと指示をだす。
「……っ」
  見上げると、四位にいたワイバーンが俺の正面上を飛んでいた。
  早くも四位に脱落。
  なぜだ。今のコーナーでミスはなかったはず。
  直線になり、どのワイバーンも高度を稼ごうと大きく羽ばたく。
  大丈夫。四位との開きは微々たるもの。次のコーナーで追い抜ける。
  一位も二位もまだ近い。
  すぐに次の曲がり角。
  最初のコーナーと同じように山腹に沿うように降下する。
  今度はスピードをつけるため、少し角度を急にする。
  コーナーの出口付近で三位のワイバーンを抜く。
  これで三位復帰。と思ったら後ろからきた別のワイバーンに直線で
  高度を上げている最中に抜かれる。結果、変わらず四位。
  悔しくも今のところ、いつも通りの展開だ。何も失敗をしていないのに抜かれる。
  抜き返したと思ったら他のワイバーンに順位を奪われている。
  コーナーを抜けるたびに順位が少しずつ低くなっていく。
  気づくとアザラスの青いワイバーンにまで抜かれ、七位。
  吹き付ける風の中でも自分の歯軋りが聞こえてきそうだ。
  しかし、色鮮やかなワイバーンの群れの向こうに『牙』が見えてきた。
  ほぼ直角に近い傾斜。山というよりは絶壁、岩の城壁にちかい。
  生える木々は少なく灰色の岩肌が続いている。
  その名の通り、獣の牙のようである。
  焦りが消え、自信が溢れてくる。静かな高揚感で思考が晴れてくる。
  大丈夫だ。相棒の調子も良い。やれる。
  ワイバーンが羽ばたき、身体が上下するたびに『牙』が近づいてくる。
  既に横手にはグレイ・クリフ山と『牙』を繋ぐ山稜が続いている。

 山が途切れる時。そこが勝負だ。
  先頭のワイバーンが急旋回を切る。
  後続のワイバーンたちも胴体を真横に倒しながら『牙』を回ろうとする。
  俺はアズールにそのまま速度を維持させる。
  旋回するため減速していたアザラスを一時的に抜く。
  この時、視界の端にあった灰色の岩肌が地平線ととって代る。
「今だ!」
  俺は握っていた手綱の片方だけ斜め下に引っ張り、両足で相棒の胴体にしがみつく。
  アズールの身体が真横に傾く。ここまでは普通だ。
  だが、俺は手綱を引っ張り続ける。
  相棒は身体全体を捻り、天地がひっくり返る。
  背面で飛んでいる状態となった瞬間、今度は手綱を両方、力の限り手元に引く。
  アズールの鋭い顎が大地に向けられる。
  風の音が変わる。
  唸りから咆哮へ。頬に当たる山風はアズールごと殴り飛ばそうとする暴風へ。
  地上の緑がかつてない勢いで迫り、胃が何者かに握られる感覚を味わう。
  歯を食いしばり、手綱を引き続ける。
  激突するかと思われた地面が緩やかに遠ざかる。
  水平飛行に戻り、顔を上げれば目の前にはワイバーンが二頭のみ。
  口元が緩む。一気に三位だ。
  先頭の二頭は旋回時に失った速度を必死に回復している。
  対してこちらは垂直落下で得た速度がまだ残っている。
  俺は『牙』のあとに続く直線で難なく二位のスキッダーと一位のティオーナをごぼう抜きにする。
  ついに一位。もしかしたら今回は勝てるという希望が生まれる。
  幼い頃観た憧れのスキッダーの活躍が脳裏に浮かぶ。
  はじめて忍び込んだ貴族の観客席。
  そこから見上げた先には『牙』で一位を華麗に奪うスキッダーがいた。
  その時、披露した技が今の『スプリット』である。
  『牙』の周りを旋回するのではなく、背面飛行から輪を描くように急降下する。
  一つ間違えば地面に墜落。角度を誤れば『牙』の山腹に激突。自殺行為に等しい機動だ。
  しかし、成功すれば最下位だろうとトップに立てる。
  俺は『スプリット』を見た瞬間からスキッダーになりたいと決心した。
  そして『スプリット』は素人の俺にスポンサーを与え、夢を与えた。
  今回は勝利をももたらしてくれるかもしれない。
  前には誰もいない蒼い天空、灰色の山、緑の大地。スキッダーなら誰もが欲する光景だ。

 今度こそは勝てる。俺は次のコーナーが迫るのを見ながらそう信じていた。
  だが夢が覚めるように、あるいは美酒の酔いが薄れるように勝利の幻想は、そこで終わった。
  後はいつも通りだった。
  一周目で奪った一位の座は曲がり角の度、遠くなっていった。
  毎回『牙』で奪い返すも、後に続くコーナーで失う。
  本当にいつも通りの展開だった。

 終わってみれば散々な結果だった。
  11位中6位。先週と変わらず。
  一位はなんとティオーナだった。
  新人、しかもグレイ・クリフ山での出場ははじめてだというのにいきなりの優勝。
  酒場での話題はしばらく彼女が独占しそうである。
  だが俺はその逆の意味でスポンサーたちの話題を独占しそうだ。
  これで何度目の敗北だろう。いよいよもって深刻な状況である。
  近日中にスポンサーから解雇宣言されてもおかしくはない。
  そんな俺でもミリアちゃんは竜場に戻るなり笑顔で出迎えてくれた。
  俺が悔しさの余り兜を地面に叩きつけ、喚き散らさなかったのはひとえに彼女のおかげだろう。
  彼女は六位だった俺を優勝したかのように扱ってくれた。
  気を遣われているようで一瞬苛立ったが、すぐに落ち着いた。
  何が気に食わなくてイラついている?しっかりしろ、と己に言い聞かせる。
  イラついているのは自分のせいであって、彼女は何も悪いことはしていない。
  いじけていた俺を心配してか、ミリアちゃんに片付けも自分一人でやるから
  休んでいてくれと言われた。
  これは流石に断った。
  負けた上に女の子に片付けを全て押しつけたとあっては男として失格だ。
「じゃあ水汲み用のバケツを倉庫から取ってきてくれます?」
「ああ、分かった」
  それでも簡単な仕事を頼んでくれるミリアちゃん。
  彼女の厚意に応えるためにも今は残った仕事を終わらせるのが先だ。
  アズールの世話を彼女に任せ、俺は急いでバケツを取りにいった。
 
  竜場から洞窟内の通路を右に曲がったところに倉庫がある。
  主にワイバーンを世話するための器具が保管してある場所だ。
  俺は整理された室内から難無くバケツを見つけ、部屋を後にした。

 竜場に戻ろうと通路を歩いていると今日のレースの勝者、ティオーナに出くわした。
  既に着替え終わっているようだ。
  腰に護身用の短剣を帯び、男物の革のズボンと白いシャツという出で立ちだ。
  挨拶しようかとも考えたが先日のアザラスの件もある。
  特に俺は平民だ。プライドの高い彼女からすれば媚を売っているように思われるかもしれない。
  簡単な礼だけして通ろうとした時。
「おい、おまえ」
  予想に反して声をかけられた。
「ん?なんだ――」
  ティオーナの鋭い眼がさらに細められる。
「――ですか?」
「ふん、まあいい……聞きたいことがある」
  心の中で密かにホッとする。
  ついアザラスたちと話す時と同じように対応するところだった。
  慣れとは本当に恐ろしい。
「おまえが『牙』でみせた技。何処で覚えた?」
  珍しい質問だ。
  スキッダーが知っている特徴的な空中機動や技はコーチや師範から習う。
  あるいは俺のようにライバルたちの飛び方を研究して盗む。
  ファンからの質問ならともかく、答えを知っていそうなスキッダーからというのは意外である。
「どうして気になるのですか?」
「私の質問に答えよ」
  緑色の瞳は貫くように冷たく俺を捉えている。
「……あれは昔憧れていたスキッダーの技を再現してみたものです」
「なんだと?」
「簡単に言うと見様見真似ですよ」
  もっとも、レースで使えるようになったのは何度も死に掛けながら練習した結果だ。
「その技は元々どのスキッダーのものだ?」
「疾風のドノテと名乗っていました。もちろん偽名ですが。それ以上は知りません」
  『スプリット』は凄い技かもしれないが、
  編み出したスキッダー本人は平凡に毛が生えた程度だった。
  レースにはたまに勝っていたが王都リーグに推薦されるほどでもなかった。
  如何なる時も兜をかぶり、明らかに嘘くさい偽名を名乗っていた。
  今考えると俺も随分と変わったスキッダーに憧れていたものだ。

「嘘を申すな」
  突然ティオーナの顔から冷淡さが消え、怒気が露になる。
「はい?」
「私を小娘だと思って馬鹿にしているのか!」
「い、いや本当ですって。それに嘘をつく理由がありません」
  ある程度何か気に食わないことを言って怒鳴られるのは覚悟していた。
  しかし、何でよりにもよって他愛のない会話でホラ吹き呼ばわりされるのか。
  大体なぜ怒る必要がある?
「ならば正直に言え。そのドノテというのは何者で、本当はどうやってあの技を習得したのだ?」
「ですから何度も言っているように偽名以外のことは知りませんし、
  技の方はただの真似事ですって!」
「まだ言うか。ならば」
  鉄の擦れる音と共に彼女は短剣を抜く。
「ちょ、ちょっと」
  喉元に伝わる冷たい感触。
「話す気になったか?」
「本当ですよ!それに何で俺の技なんかに興味があるんですか?」
「おまえには関係ない」
  まるで敵兵でも尋問するかのような口の利き方。
  つまり彼女は『スプリット』の秘密が知りたいのだろうか。
  だとしたら随分と捻じ曲がった根性をしている。
  自分の観察眼で他人の技を盗むならともかく、脅迫紛いの行為をして手に入れるのは卑怯だ。
  俺は我慢の限界にきていた。負け続けで頭が茹で上がっていたのもある。
「……いい加減にして下さいよ」
  自分が何を言っているのか考えるより先に口が動いていた。
「なに?」
「いきなり剣で脅して。こんなことをして恥ずかしいとは思わないんですか?」
「平民が――」
「平民だろうが貴族だろうが関係ありません。ここまでこき下ろされたら誰だって怒ります!」
  ここは大人しくしているのが賢いやり方なのだろうが、俺にもプライドというものがある。
「それとも何ですか?貴族は平民に何をしても良いと?名誉は平民相手には適応しないと?」

「黙れ!」
  彼女は短剣を俺の喉元に押し付ける。皮膚が僅かに裂け、血が一筋だけ流れ落ちる。
「ほう?ここで俺を斬って捨てますか?どうぞ。やってみて下さい」
  スキッダーは死と隣合わせの職業だ。
  喉元に刃物など、急降下する時の恐怖に比べればどうということはない。
「くっ」
  貴族といえども年頃の娘だ。自らの手で人を傷つけるのには抵抗があるのだろう。
  短剣に込められた力が少しだけ抜ける。
「とにかく仕事がまだ残っておりますので之にて失礼します」
  俺は短剣を手で払い、歩き出した。
「ま、ま、待て!話はまだ終わっていない」
  彼女は俺の服の袖を掴みながら引きとめようとする。
「あの技をモノにしたいのなら御自分で観察してください。俺もそうして己が技としました。では」
  嫌みたっぷりにエリシアさん直伝の宮廷式のお辞儀をする。
  ティオーナは平民が宮廷式のお辞儀を知っているのがよほど驚きなのか、呆気にとられていた。
  そんな彼女を背に、俺は洋々と竜場へ戻っていった。

7

 月曜日の朝。
  竜場は今日も鍛錬に精を出すスキッダーとワイバーンでいっぱいである。
  俺はと言えば、いつものレース結果にいつもの如く意気消沈していた。
  それに加え、試合の後に起こったティオーナとのいざこざもある。
  冷静に考えてみれば、俺はついカッとなってとんでもない無礼を働いたのだ。
  しかも公爵家の娘に。
  あの日以来、練習中いつティオーナと鉢合わせになるのか気が気ではなかった。
  もし鏡があったら俺の顔は夜の闇より暗く映っていたに違いない。
  するとそこに眩しいばかりの光が差し込んできた。
「ジースさん!元気出して下さいよ」
  いつも元気なミリアちゃんである。
  ロープを肩にかけたつなぎ姿は普段のスカートより似合っているかもしれない。
「ハハ、大丈夫だって」
  なんとか笑ってみるが自分でも乾いた笑いだと分かる。
「大丈夫じゃありません。ジースさんが元気出さないとわたしまで落ち込んじゃいますよ?」
  彼女の笑みに陰りが生じる。
「それは困るな」
「でしょう?」
  そしてすぐ笑顔に戻る。
  俺も見習って、演技でもいいからうまく笑おうとする。
「ハハハ」
「そうですよ。人間笑っているのが一番です」
  と彼女は言いながら思い出したように付け加える。
「それに今日はお父さんが午後から店に来てくれって言ってましたから、
笑顔で行かなきゃだめですよ?」
「……え?」
  俺の笑いは凍りついた。
  スポンサーになってからほとんど顔を合わせなかったライアンおやじが突然、
直接会いに来いと言ってくる。
  備品の支給なら誰かをよこすだろうし、伝言があるならミリアちゃんに託すだろう。
  考えられるのは一つ。解雇を言い渡すためだ。
  ついに最悪の事態が訪れた。
  頭が真っ白になった。
  いや、正確には解雇という文字がぐるぐると頭の中を渦巻いている。
  ミリアちゃんが何か話しているようだが言葉が耳に入ってこない。

 毅然と現実を直視するのが男らしいのだろうが、今の俺にはできない。
  どうする、と自問する。このまま解雇を受け入れるのか。
  できない。長年の夢を簡単に諦めることなんて無理だ。
  だからと言って解雇に対して俺に拒否権はない。
  では土下座して何とか考え直してもらうか。
  いや、スポンサーは一人じゃない。商会の全員を説得するなんて不可能だ。
特に俺が残してきた成績では。
  頭が混乱している。考えがまとまらない。
  対して時間は滞りなく進み、有無言わせず俺を引きずってゆく。
 
  午後。山を下り、ライアンおやじの防具店に着いた俺は崩れ落ちた。
  余りの自分のくだらなさに。
  用件は解雇宣言などではなかった。
  実は昨日、グレイ・クリフの市長からパーティーの招待状が届いたらしい。
  開催されるのは三日後の木曜日。場所は市長邸。
  グレイ・クリフの有力者が多く招待されている。
  驚きなのはクリフ・スキッド関係者に至っては身分問わず呼ばれていることだ。
  それこそ上は貴族のスポンサーから下は平民の清掃係まで。
  当然スキッダーたちも呼ばれている。
  ただ俺たち選手は制服、つまり革鎧を着用してくるようにとのお達しだ。
  その打ち合わせでライアンおやじは俺を呼んだ、ということだ。
「ははは、そうだったんですか」
  自分の肩から見えない重りが消える感じがした。
  同時に自分の早とちりに嘆息する。
  てっきり解雇されるのとばかり考えていたため、午前中は普段はしない行動の連続だった。
  相棒に長々と話しかけたり、記念にと水色の鱗をポケットにしまったり。
  竜場から観客席まで、山頂施設を記憶に留めようと感傷的にうろついたりもした。
  思い出すだけで顔が熱を帯びてくる。
  しかも一部始終をミリアちゃんに見られていた。後で口止めしておかなくては。
  とにかく解雇じゃないのは嬉しいが平民まで招いてのパーティーとは珍しい。
「何でまたパーティーなんて?」
  俺は疑問を口にしてみる。
「なんでも日頃グレイ・クリフのために尽力してくれているお礼だとよ。
ま、ここは素直に招待されようじゃないか」
  ライアンおやじは招待状がきたのが嬉しいのか上機嫌である。

「パーティーは夕刻からだからな。行きと帰りはわしの馬車で送ってやるから、
練習は早めに切り上げて来るんだぞ」
  その後俺はライアンおやじと待ち合わせ場所を決め、安堵を胸に防具店を出た。
 
  そしてつつまなく三日が過ぎた。
  木曜の夕方、俺は街の広場でライアンおやじの荷台馬車に乗っけてもらい市長邸を目指す。
  赤とオレンジが混ざり合う夕暮れの下、市長邸へと通じる石畳の道を何台もの馬車が行進している。
  貴族の豪華な屋根付の馬車もあれば、俺が今乗っている平民の荷台車もある。
さながら民族大移動だ。
  しばらく馬車に揺られていると燃えるような夕日を背に市長邸が見えてきた。
  街の開けた一角に市長邸は建てられていた。
  緑豊かな庭園に囲まれた北方風の丸太造りの大きな館だ。
  一見地味に見えるが、木柱には神話の彫刻が施されている。
一つの柱は隣の柱から物語を受け継いでおり、まるで立体的な絵本のようだ。
  貴族の豪邸なんて派手なだけで例えお金があっても住みたくないと思っていた。
  だが目の前の市長邸は平民の俺でも住んでみたいと思えるほど落ち着いたデザインだ。
  招待客たちは馬車を敷地のすぐ外にとめ、招待状片手に庭園へと続くアーチを潜る。
  どうやら全員正装してきているようだ。
  ライアンおやじに同伴しているミリアちゃんもラベンダー色のガウンを身にまとい、
普段は見られない魅力をかもし出している。
  そんな中、衛兵でもないのに革鎧を着ているスキッダーたちは目立つ。
  特に俺の革鎧は泥茶色の安物なので余計視線を集めている気がする。悪い意味で。
  人が大勢いるため、宴は外の庭園で行われるようだった。
  館の手前の噴水を囲むようにテーブルが配置され、その上には大量の料理が湯気を立てている。
  しばらくして招待客が落ち着くと、館からグレイ・クリフの市長が出てきた。
  随分と恰幅のいい紳士だ。歩き方もテキパキしており、
どちらかと言うと執事のような雰囲気をしている。
  市長は咳払いをしたとあと、堂々とした声で演説をはじめた。
  渋い声だとは思うがこの時点で俺は演説よりも料理に方に興味が移っていた。
  幸い演説はすぐに終わり、パーティーがはじまった。
  早速貴族様の料理とやらを味わおうと思ったが、すぐに呼び止められる。
  正直に言うとファンだと期待していた。だが現実は違った。
  俺に話しかけてきたのは雑貨店のおばさんや酒場のおじさんなど、商会の人たちだった。

 なぜかファンは一人もいなかった。
  あのアザラスでさえ三人の女の子に囲まれているというのに。
  平均的に言えば俺より成績が下のくせにこの差は何なのだろうか。
  これが貴族と平民の違いとで言うのか?
  一方商会の人々との会話で収穫があったのなら、
それは表面的にせよ自分がまだ期待されているということだった。
  もちろん叱咤ともとれることは言われた。
  だから安心はできないが絶望するほどでもない、というのが現状だろう。
  そして永遠に続くかと思われた社交辞令が終わり、俺はようやく料理に手をつけることができた。
  ご馳走を口に運び、上流社会の味をかみ締める。少し脂っこいが美味い。
  豪華な夕食を堪能し、次はワインでも試そうかと考えていた時だった。
「ジース君」
  宴の喧騒を無視して、声が俺の耳に届いた。
  一瞬、自分の名前が呼ばれたのかどうか分からなかった。
  それだけ洗練され、歌うように快い発音だった。
  頭では何処から声が来たのか分からなかったが、身体は自動的に声の主へと向いていた。
  共通語を流れるように喋れる、否、詠える人といったら俺の知る限り一人しかいない。
「エリシアさん……」
  振り向くと、エリシアさんが人ごみの中からゆったりと歩み寄ってくる。
  彼女はいつものとんがり帽子に木の葉をモチーフにしたローブを着込んでいた。
  普段着のはずなのに周りの正装した人間たちに全く見劣っていないあたり流石である。
  むしろ服装にしても美貌にしてもエリシアさんは人間では到達しえない領域にいる。
  正直、そこらの貴族娘なんて目じゃない。
「エリシアさんも来てたんだ」
  俺は笑顔で彼女を出迎えた。
  会えると思ってなかっただけ、この偶然は嬉しい。
「呼ばれた」
  なるほど。確かにエリシアさんも地元の有“力”者だ。
「それよりジース君。傷」
  彼女は微笑を浮かべながら、スッと細い指を俺の喉元に添える。
「ああ、これ?ちょっとしたかすり傷だよ」
  本当はこの間ティオーナにつけられた傷だが、一々言う程のものでもない。
  するとエリシアさんは人差し指を口に含み、なんとその指で俺の喉元の傷を優しく撫でた。
  濡れた感触が素肌に伝わった刹那電撃が身体を走り、頭が真っ白になる。

「エ、エリシアさん?!」
「ずるい!」
  エリシアさんの謎の行動に俺の頭は軽いパニックになった。
  同時にいつからそこにいたのか、ミリアちゃんの言動も訳が分からない。
  どちらから先に説明してもらおうかと迷ったが、
エリシアさんは元から謎なので先にミリアちゃんに聞いてみる。
「ミ、ミリアちゃん、なんでそこでずるいってなるんだ?」
「ち、ち、違うんです!別にわわわ、私は……」
  上ずった声で支離滅裂なことを言うミリアちゃん。
  言葉を発するたびに声が小さくなっていく。最後には両手を合わせながら俯いて黙ってしまった。
  疑問は残るが更に問い詰めるのはかわいそうな気がしたのでそっとしておく。
「エリシアさんもいきなり何を――」
「傷。治った」
「え?」
  自分の首を触ってみる。本当だ。
  傷口がかさぶたごとなくなっている。
「ふふふ」
  控えめに笑うエリシアさん。
  別に大した怪我ではなかったが触れるだけで治せるなんて、彼女はやっぱり凄い。
「あ、ありがとう」
「どう致しまして」
  未だ信じられないように首をいじりながら俺は彼女にお礼を言った。
  気をとり直して、二人の美女を見据える。 
  かなり変わった出会い方ではあるが調度いい。
  俺はこの機会を利用してエリシアさんとミリアちゃんをお互いに紹介することにした。
  簡単にエリシアさんは昔からの知人で、ミリアちゃんは俺の雑務係だと伝える。
  初対面で緊張してかミリアちゃんの表情は硬い。
  意外だったのはエリシアさんも同様に緊張していることだった。
  いつもの微笑はなく、口を横一文字に結んでいる。
  淀みない水流を思わせる瑠璃色の瞳も今は凍りついているような印象さえ受ける。
「そうでしたか。それで、エリシアさんはジースさんと知り合ってから長いんですか」
「ずっと一緒」
  エリシアさんはそう言うといきなり俺の腕を両手で絡めとる。
「え、ちょっ――」
「奇遇ですね。わたしもジースさんと働いてるんですよ。毎日。一緒に」

 ミリアちゃんはもう一方の腕をとり、二人は俺を挟んで睨み合う。
  痒いのか、二人の頬が時折ビクっと痙攣している。
  二人を紹介するはずが何やら議論がはじまってしまった。
  しかも妙に加わりにくい雰囲気だ。
「たった一週間ちょっと」
「引き篭もって何もしてあげられない人に比べればマシですよ」
「役に立っていると思い込んでいるだけ」
「誰かさんこそ何もかも知ったふりをしてるだけなんじゃないですか?」
「私は知ってる。すみずみまで」
「へ、へえ。その根拠がどこから来るのか知りたいですねえ」
「最近まで一緒にお風呂に入っていた」
「ジースさん!」
  ミリアちゃんが悲痛な顔で掴みかかってくる。
「本当なんですか?!」
「な、何が?」
  何について話していたのか分からないがそんなに真剣な話題なのだろうか。
「ジースさんってつい最近までエリシアさんとお風呂入っていたんですか?!」
「はあ?!」
  俺は説明を求めるべくエリシアさんに視線を向けた。
「最近まで一緒に入ってた」
  と彼女は余裕の笑みで言う。
「そりゃ長寿のエルフ族にしてみれば最近だろうけど……」
  どういう経緯でお風呂の話になったのかは知らないがミリアちゃんは何か誤解をしているようだ。
「あのな、確かに入ってたけど――」
「入ってたんですね!」
「いや、それは俺が小さかった頃の話だから!」
「え?」
「だからエリシアさんと一緒にお風呂に入っていたのは俺がまだ小さかった頃の話なんだって!」
  もちろんその幼さを盾に、抜群のプロポーションを誇るエリシアさんの身体を
触ったことがあるのは秘密である。
「そ、そうですよね。ジースさんがそんな破廉恥なことする訳ないですもんね」
  ミリアちゃんはホッと胸を撫で下ろす。
  その純粋さが俺の心を鋭く刺す。
「エリシアさんもミリアちゃんをからかわないでよ」
「はーい」
  つまらなさそうな顔をするエリシアさん。
  困ったものだ、と呆れていると庭園の中央から音楽が聞こえてきた。
  太鼓と笛を中心としたテンポの早い演奏。庶民に馴染み深い踊曲である。
  どうやら踊りがはじまるようだった。周りの招待客たちも加わろうと、
次々と庭園の中央へ集まってゆく。
「行きましょう」
「行こう」
「え?」
  反応する間もなく、突然二人に引っ張られていく。
  物凄く疲れそうだ。なぜそう思ったか分からないが、俺の勘がそう囁いていた。

8

 エリシアさんとミリアちゃんに引っ張られ、俺たちは庭園の中央までやって来た。
  そこでは既に大勢の人々が手や腕をつなぎながら踊っていた。
  音楽を奏でるのは市長が呼んだ大楽団。
あらゆる楽器が用意されており、どんな唄でも演奏してくれそうだ。
  今流れているのは祭りでよくある踊曲だ。
  太鼓や笛など、シンプルな楽器が素早くリズムを刻んでゆく。
  踊っているのはほとんどが平民だが、
周りの貴族たちもリズムに合わせて手を叩くほどノリの良い曲だ。
  料理もいいが宴といえばやっぱり踊りである。これは平民も貴族も変わらない。
  俺が踊りに見とれている間、エリシアさんとミリアちゃんは何か視線で語り合っていた。
  いつの間にそんなに仲良くなったのかと感心いると――
「ジースさん、わたしと踊りましょう!」
  いきなり踊りに誘われた。
「もう少し様子見ないか?」
  別に踊りたくない訳ではないが食後からすぐに、というのも何だか気が引けた。
「いいから、いいから」
  ミリアちゃんはそんな俺を有無言わせず、強引に踊りの輪の中に引きずり込んだ。
  民踊の渦に加わると、中は炎のような真っ赤な熱気で満ち溢れていた。
  とてもではないが今さら脱出なんてできない。
  だがすぐに逃げる必要なんてないと分かる。
  民踊の動きは大味なものの躍動感があり、純粋な楽しさがフツフツと湧き上がってくるのだ。
  ミリアちゃんと腕を組ながら回って、とまって、また回る。
単純な動作の繰り返しだが余計なことは何も考えず、歓喜に身をゆだねられる。
  子供の頃の無邪気さが戻ってきそうだ。
  気づく頃には曲が終わり、もう一回踊りたい気分になる。
  踊曲が終わると平民の招待客はそそくさと踊り場から撤退する。
  入れ替わるように貴族の紳士淑女たちがゆったりとした足取りで中央に進み出る。
  俺もミリアちゃんと一緒に踊り場の外周まで戻ってくる。
  するとそこにはエリシアさんが腕全体で曲線を描くように手をさし出しながら待っていた。
「教えたことは覚えてる?」
  俺は思わず微笑みながらエリシアさんの手の甲に口づけをする。
「もちろん」
  エリシアさんから教わったのは何も読み書きだけではない。
  そして柔らかい手をとり、再び踊り場に舞い戻る。

 楽団はうって変わって、アルス王国の舞踏曲を弾きはじめる。
  ヴァイオリンやリュートなどの弦楽器で導かれ、ゆっくりとはじまる曲だ。
  舞踏曲の踊りは基本的に男女のペアで行われる。
  そして祭りの曲とは違い全てのステップは正確にして優雅。
パートナーの瞳を覗き込みながら、身体の動きを制御する繊細さが必要だ。
  アルス王国の舞踏曲は曲が進むにつれて参加する楽器が増えてくる。
ゆったりとした雰囲気が壮大さに変わる。
  それに応じて踊る男女の動きも鋭さを増し、一歩一歩が強調される。
  エリシアさんの動きに合わせ、間合いを計る剣士のように的確に姿勢を変える。
  舞踏曲の最後は全楽器がそれぞれの音色を一気に奏で、そして一同揃って静止する。
  残るのは石像のようにポーズをとって固まるペアと熱情の余韻のみ。
  曲が終わり、閑静から開放されるとドッと疲れがきた。
  楽しかったが休まず二回も踊ったため、少し休憩が必要だ。
  エリシアさんをエスコートしながら踊り場を去ろうとすると、背後で再び祭曲がはじまる。
「凄いスタミナだな。あの人たち……」
  休まず演奏を続ける楽団員。踊り場を取り戻そうとするかのように一斉に飛び出す平民の招待客。
  疲れを知らないのだろうか。
「ジースさん!もう一回踊りましょう!」
  すると彼らに混じってミリアちゃんがエリシさんから俺の腕を引っ手繰る。
「ちょっと休ま――」
  返事する間もなく、俺は再び踊りの輪の中に連行されていった。

 そして六曲目が終わると、俺はプライドを投げ捨て片膝をつきながら懇願した。
「もう……勘弁して。あ、足の感覚がもうない……」
  俺は休む暇も与えられず二人にかわるがわるダンスに誘われた。
  宴の席で女性に誘われたのだから断りたくなかったが、流石に六曲も連続で踊らされると話は別だ。
「え〜!わたしともう一回……」
「お願い。本当にもう体力が……」
「わ、分かりました」
  ミリアちゃんとエリシアさんはまだまだ踊り足りない様子だったがなんとか許してもらえた。
  それから二人は何か飲み物をとってくると言い、人ごみの中へと消えていった。
  俺は適当なベンチに腰掛け休むことにした。

「ふぅ〜……」
  貴族主催のパーティーでこれほど疲れるとは思っていなかった。
  もっとも、ここまで楽しいとも思っていなかった。
  今のところ予想していた堅苦しい宴とは正反対である。
  しばらくしてボーっと視線を泳がせていると、
一人のきらびやかなドレスを身に纏った女性が目に入った。
  薔薇を思わせる真っ赤なドレスだ。
  恐らくは貴族のご令嬢だろう。周りの取り巻きを見ただけでも分かる。
  召使いや護衛の騎士。家来だけでも4,5人はいる。
その他にもダンスに誘おうとしている貴族のお坊ちゃまや社交辞令に来ている偉そうな爺さんたち。
  彼女の行くところに常に人だかりができている。
  ご苦労なことだと顔を他所へ向けようと思った時、令嬢と一瞬だけ目が合った。
「……あ」
  よく見ると俺は彼女のことを知っている。
  刃物を思わせる鋭い目つき。派手な服装に負けない気品のある金髪。
  いつもとは違う女らしい服装で気づかなかったが、あれはティオーナである。
  不思議なのは彼女もスキッダーなのにドレス姿だということ。
  市長はスキッダー全員、貴族平民問わず革鎧を着てこいと言ってきた。
それなのになぜ彼女だけあんな豪華な格好をしているのか。
  あるいはベイヴェルグ家の娘だから例外なのだろうか。
  ふと、ある推測が頭をよぎる。
  もしかしたらこのパーティー自体、市長がティオーナのために開いたものなのかもしれない。
つまり“市民への感謝の気持ち“は建前で、本当の理由は彼女の優勝を祝うため。
  だとしたら彼女だけ正装していることや突然の宴にも納得がゆく。
  そんなことを考えていると、先日の口論を思い出した。
  ティオーナの態度は明らかに乱暴でおかしかった。同時に俺の対応もただの八つ当たりだった。
  彼女に非がまったくないとは思わない。
  だが男なら悪かったところは素直に謝っておくべきだろう。
  大体このままティオーナにビクビクしながら過ごすのも身体に悪い。
「よし」
  決心がつくとまだ感覚の薄い足に活を入れ、ティオーナの方へ歩いてゆく。
  しかし近づくにつれ、彼女と話せるかどうかさえ怪しくなってくる。
  彼女の周りには人の壁があり、
中には明らかに俺がこの場にいることを快く思っていない人たちもいる。
  特に貴族のお坊ちゃまたちの視線が痛い。

 さて、どうしたものかと困っていると幸運にもティオーナ本人が気づいてくれた。
「おまえは」
  威圧的な雰囲気は健在だが、口調は普段より柔らかだ。
「お久しぶりです」
「何用か?」
「少し話がありまして。すぐに終わります」
  言い終わった瞬間、ティオーナの取り巻きの目つきが変わる。
平民の分際でお嬢様に何を、と言わんばかりだ。
「……いいだろう。来い」
  そう答えると俺に集まっていた目線は驚きをもってティオーナに返される。
  異様な光景に思わず笑い出しそうになるがなんとか堪える。
  対してティオーナは周りのことなどどこ吹く風。ドレスの裾を持ち上げ、さっさと歩き出した。
  護衛の騎士が付き従おうとするが彼女は鋭い眼光でそれを制す。
「お前はここで待っていろ」
「しかし……」
「いいな?」
「……ハッ」
  騎士は主人の命令に頭を垂れる。同時に俺に一睨みすることも忘れない。
  流石は公爵家の護衛の騎士。例えスキッダー相手でも警戒心を隠そうともしない。
  俺はティオーナを宴から少し離れた庭園の一角へとついていった。
  そして彼女は適当な木の下で止まり、振り返った。
「ようやく何か話す気になったのか?」
  闇に埋もれるのを拒むかのように輝く金髪に一瞬見とれてしまう。
「ぁ……いや、俺は先日の件で無礼を働いたことに謝りたいのです」
「なに?」
「その……あの時は負けてイライラしてました。大変申し訳ありませんでした!」
  俺は頭を下げ、なるべくハッキリした声で謝ろうとした。
「つまり、おまえの技の話を聞かせてくれる訳ではないのだな」
  彼女は額に手を当てながらため息をついた。
「え?あ、はい。ですから――」
「もういい。分かった」
  ティオーナは俺の言葉を遮ると両手を太ももの上で合わせ、改めるように言った。
「あの時は私も大人気なかった。すまなかったな」
  驚いた。貴族が平民に謝っている。
  てっきり俺が一方的に責められ、罵詈雑言が飛んでくるものと想像していた。

 それとも単に俺がティオーナと貴族に対して偏った見方をしていただけなのだろうか。
  呆気にとられた俺をよそに彼女は続ける。
「しかし、本当に何も知らない、いや、喋る気がないのだな?」
「つまり……」
「おまえの技のこと。疾風のドノテのこと、だ」
  ようやく俺にも合点がいった。
  彼女が知りたがっていることを俺が話すと思ったからつき合ってくれたのか。
「疾風のドノテのことでしたら俺よりファンの方が詳しいはずです。
技は先日言った通り御自分で見定め下さい」
「おまえまさか……いいだろう。明日からしっかりと見ておいてやろう」
  一瞬何か気づいたような表情を浮かべたが、すぐに不敵な笑みに変わる。
「それでおまえの名はなんという?」
「ジース・グリンです」
「ジースか。覚えておこう。私の名は分かるな?」
「ティオーナ様ですね」
  彼女がはじめてグレイ・クリフに来た日のことを思い出す。
  おおげさな自己紹介の仕方だとは思っていたが彼女の態度から見てやっぱりわざとだったらしい。
「うむ。用件はこれで全部か?」
「はい、お騒がせして申し訳ありませんでした」
「お互い様だ」
  ティオーナは来た時のようにドレスの裾を持ち上げ再び歩き出した。
「ではジースよ、パーティーに戻るとしよう」
「はい」
  短い会話だったが妙な満足感があった。
  刃物のような少女だと思っていたティオーナといつの間にかくだけた雰囲気で話せたのだ。
  もしかしたら彼女は案外普通の女の子なのかもしれない、という考えさえよぎった。
  派手だと思っていたドレス姿も可愛く見えてくる。
「あぁ、これか」
  俺はいつの間にかティオーナのドレスを見つめていたようだ。
  彼女はそれに気づきバツの悪そうな顔で言う。
「これはリックベン殿――市長殿――がどうしてもというのでな。ここについてから
着替えさせられたのだ。悪く思わないでくれ。何も特別扱いされたい訳ではないのだ」
「いえ、そういうつもりではありません。ただ似合っているなと思っただけです」
「……おまえは作法や踊りの他に世辞もうまいのだな」

 プイっとそっぽを向くティオーナ。
  珍しくしおらしい仕草を見て俺は吹き出しそうになった。
  パーティーの方へ戻ると律儀にもティオーナの取り巻きが同じ場所で待っていた。
  当然ながら全員、俺に対して険悪な顔を向けてきた。
  予想外だったのは彼らと共に、ミリアちゃんとエリシアさんも不機嫌な表情で
飲み物片手に待っていたことだ。

9

 パーティーから二日後の昨日のレース。ジースさんはなんと4位だった。
今までで一番高い順位。賞金獲得枠まであと少しだった。
だけどジースさんは少しも喜ばなかった。
理由は分かっている。ジースさん、本当は5位だった。
4位になったのは前を飛んでいたスキッダーが途中、事故で墜ちたから。
最終周回、ゴール近くのコーナー。そのスキッダーが曲がろうとしていたら突風が吹き、崖に接近しすぎていたため反応する間もなく岸壁に叩きつけられた。
わたしは直接見なかったけど話に聞くとかなり惨かったらしい。
惨くないクリフ・スキッド事故なんてあればだけど。
わたしはアーちゃんの餌を入れたカートを押しながら竜場を見回した。
静かだ。
まだお昼なのに。まだ大勢の人が働いているのに。
普段は騒がしい山頂の洞窟。でも今はワイバーンたちが時々あげる鳴き声や物音しか聞こえない。
今日はグレイ・クリフのスキッダー全員が喪に服している。
だから丸一日、例え練習であっても誰も飛ばないことにしている。
でも竜場が静かなのはそれが原因じゃない。
だって全員いつも通りにきている。
いつも通りワイバーンの世話をしている。ただ無口でしんみりしているだけ。
みんな仲間を、ライバルを失ったことが悲しいのだ。
それとも自分たちもしかしたら同じ末路を辿るかもしれない、と不安になっているのかな。
わたしはカートから生肉を取り出すとアーちゃんが食べやすいようにナイフで切ってゆく。
普段は気にも留めない肉を切る音が妙に大きく聞こえる。
「いけない……」
暗い考えを頭から振り払う。
スキッダーのみんなは仕方ない。その目で見てしまったのだから。
でも雑務係の私までしんみりしたらいけない。集中しないと。
ここで働きはじめてすぐ分かったこと。それは雑務係がしっかりしないと
スキッダーの身に危険が及ぶ。
雑務係の仕事にはワイバーンの世話やスキッダーの装備のお手入れが含まれる。
どちらも手を抜けば大変なことになる。だから気合をいれないとだめ。
こんな時は楽しかった時のことを考えるのが一番。
楽しかったこと。
やっぱりすぐに思い浮かぶのは数日前の市長邸でのパーティー。

 市長様が主催しただけあってとっても豪華だった。
それにジースさんのスキッダー姿も間近で見られた。
だけど疲れることもあった。
特にジースさんに近づこうとするファンの女の子。
本人は気づいてないだろうけど、ジースさんって結構人気がある。
だっていつもあんな命知らずな空中機動をするのだ。
たとえ勝てなくてもその勇姿に惹かれる人はいるだろう。
でもジースさんはスポンサーとの話し合いで忙しかった。
だからわたしはファンの女の子が邪魔しないよう、彼女たちに事情を説明して遠ざけていた。
貴族のお嬢様たちはわがままだったからどうしても聞かない場合、
わざとドレスに飲み物こぼしたり、転ばしたりしなくてはならなかった。
本当に手間がかかった。
でもおかげでジースさんは何事もなく商会の皆さんとの面談を終えることができた。
計算外だったのはあのエルフ魔女。
ファンをさばき終わってジースさんのところへ戻ろうと思っていたのに。
いつの間にか現れて、汚らしい唾液のついた指でジースさんの首筋を撫でていたのだ。
あの時のジースさんの表情。おびえるウサギのような顔。
物凄く可愛かった。
あんな顔をさせられるのがエルフ魔女なんじゃなくてわたしだったらどんなにいいか。
「ハァ……」
ため息が漏れる。
あの魔女の方がわたしより遥かにジースさんに近いことぐらい知っている。
エルフ魔女がジースさんのご家族と仲良くしているのは町では有名な話。
そしてジースさんを昔から可愛がっていたのも。
『私は知ってる。すみずみまで』
あの女が言った言葉が頭の中で木霊する。
わたしが知らないジースさんの秘密をいっぱい知っている魔女。
ダンスで踊る順番を待っていた時、エルフ魔女はわたしと目が合う度笑っていた。
ずるい。ずるい。ずるい。
妖しい光が灯った眼。
きっとジースさんが家に帰ったあとも押しかけて誘惑しているに違いない。
エルフ魔女だけじゃない。
ティオーナという新人のスキッダーにして公爵家のご令嬢。
あの貴族女も油断ならない。
踊りの後、わたしとエルフ魔女が飲み物を取りに行っている隙に
貴族女はジースさんをさらっていった。

 公爵家の権力で無理矢理二人きりになって、ジースさんに何を言ったのだろう。
ジースさんは少し話をしていただけって言っていたけど。
本当はどんなことを強要されているのか。
「ミリアちゃん?」
「わヒャっ!」
突然、ジースさんの声がした。
驚いて振り向くと、すぐ眼の前にジースさんの精悍な顔があって
色んな意味で言葉を失ってしまった。
「あー、ごめんごめん。あのさ――」
ジースさんは苦笑しながら謝る。
「――小さく切ってくれるのは嬉しいんだけど、微塵切りにしなくてもいいからね」
「え?」
わたしは驚いて手元を見る。
ジースさんの言う通り、小さな肉片の山ができていた。
「ごごご、ごめんなさい!すぐにやり直します」
「いいよいいよ。いつもより食べにくいかもしれないけど、こいつなら大丈夫だって」
ジースさんはそう言ってアーちゃんの頭を軽く撫でる。
「で、でも……」
「とにかくカートとナイフ戻しておいで。そうしたら帰ろう」
「え?もう、ですか?」
「今日はほら、アレだから飛べないし、世話が終わったら何もやることないし」
わたしはてっきり夕方まで竜場に残ると思っていた。
他のスキッダーと同じ様に。
「けど……」
「ほらほら、餌やるのは俺がやっておくから」
わたしは渋々納得すると言われた通り道具を片付けにいった。

 片付けが終わるとジースさんはそのままわたしを連れて山を下った。
やっぱり他のスキッダーたちが残っているせいか、山道を行くのはわたしたちだけ。
いつもだったら二人っきり、ということで喜べたかもしれない。
けど今はそんな気持ちにはなれなかった。
切なさ、寂しさだけがぐるぐると頭の中を泳ぎまわってる。
そんな感情に耐え切れずジースさんに話しかけた。
「ジースさん……アーちゃんをあのままにしておいて大丈夫なんですか?」
実は前々から持っていた疑問だった。

 スキッダーが自分のワイバーンを可愛がるのは当然のこと。
もちろんそれはジースさんだって同じ。
だけど側でお手伝いをしていて思ったのは、ジースさんってかなりあっさりしている。
アーちゃんのお世話はしっかりしているし、撫でたりするのは普通なのに、
やることやったらそのまま帰ってしまう。
今日だって他のスキッダーたちがやることなくなっても愛騎の側にいたのに、帰っちゃうし。
「ああ、だから言い淀んでいたのか」
わたしの言いたいことが分かったのか、ジースさんは笑った。
「別に大丈夫だろ。それにいつも以上に辛気臭くしていたら相棒に迷惑だ」
「でも他のスキッダーさんたちはワイバーンの側に残ってましたよ?」
「あいつらにはあいつらのやり方がある。俺には俺のやり方があるんだ」
「それはそうですけど……昨日はあんなことがあったばかりなのに……
アーちゃんの側にいてあげた方が……」
「正直、あいつがそこまで理解してるのか分からないし、俺が側にいてやっても食事の邪魔だって」
「そんなことありません!アーちゃんだってきっとジースさんに――」
そこまで言うと話を遮るようにジースさんはわたしの頭を撫でた。
「あいつはワイバーン。俺は人間。人間の基準で考えたってしょうがないんだ」
「でも……」
自分がしつこいと思いつつも、どうしても食い下がれなかった。
「だけどな、一つだけあいつと喋れる言語があるんだ」
ふとジースさんの顔を見ると笑みは消え、真剣な顔で遠くを見ていた。
「それは飛ぶこと」
「え?」
「ワイバーンはな、野生でも速さを競うんだ。レースというのは彼らの本能に
刻み込まれているんだ。相棒に人間独特の言葉ややり方で感情を示したって意味がない。
本当にあいつと会話できるのは飛んでいる時だけ」
ジースさんは言葉を一旦切ると自らに言い聞かせるように言った。
「そしてレースで俺たちが一番速いってことを証明できた瞬間こそ……
俺は相棒に、本当に感謝の意を伝えることができるんだ」
わたしは言葉を失った。
すぐ側に居たのにも関わらず、ジースさんのことを少しも理解していなかった。
わたしは結局スキッダーとしてのジースさんしか見ていなかった。
再びあの魔女の笑みが浮かび上がる。
彼が好きな気持ちは誰にも負けない、と思っていた。

 でも想うだけじゃ足りない。
想うだけのファンの女の子じゃジースさんと結ばれる資格なんてない。
「っと、ごめんごめん。なんか変に真剣になっちゃって」
ジースさんはすまなそうに頭をかいた。
「いえ、ジースさんがどんな考えでアーちゃんに接しているのが分かってよかったです。
わたしこそしつこく聞いたりしてごめんなさい」
「気にしなくていいよ。それに共に働く者として俺の考えを理解してもらえて俺も嬉しいし」
理解、という言葉を聞いて胸が痛んだ。
違う。わたしはまだ何も理解していない。
だからこれからもっとジースさんを知らなくてはならない。
もっと。あの魔女なんかに負けないくらい。
「そうだ、まだお昼過ぎだからお茶して帰りません?」
思いついたら即行動。今からでもジースさんのこと知らなくちゃ。
「俺はいいけど……」
「大丈夫ですよ。ワリカンでいいですから」
「いや、それは流石に……」
「無理しなくていいですよ?ジースさんのお財布事情は知ってますから」
「そうは言っても……」
「はいはい、行きましょう」
わたしはジースさんの腕を引っ張って麓の街まで急いだ。
昨日今日と周りの雰囲気は暗かったけど、おかげで新しい目標ができた。
待っていて下さいねジースさん。わたしもっと貴方に相応しい女の子になってみせますから。

10

 今日は生憎の雨だ。
朝、山を登って来る時は快晴だったのに竜場についた途端ふり出した。
今はまだ軽くふっている程度だが、雲の様子から見て恐らく嵐になるだろう。
嵐になると俺たちスキッダーは練習どころか通常飛行もできない。
だからと言って今無理に飛び立てば練習飛行の真っ最中に嵐になってしまう可能性がある。
もちろん竜場に来てしまった以上、何もしない訳にはいかない。
周りのほとんどの者はいつものようにワイバーンの世話や備品の手入れに勤しんでいる。
俺も暇な内に相棒を洗っておこうと、水を汲みに行った。
そして水場からの帰り、竜場の真ん中で三人のスキッダーが集まって話し込んでいた。
普段は皆忙しいのでこのような光景は珍しい。
(やっぱり飛べなきゃ暇だしな)
と思いながら通り過ぎようとした時、あまり聞きたくない声に呼び止められた。
「お!噂をすればジースじゃないか」
振り返ると、それはやっぱりアザラスだった。
「なんだ?今水汲み中だ」
「まあまあ、仕事熱心なのはいいけどたまにはスキッダー同士の交流を深めようぜ」
「別に俺はお前と交流を深めなくとも一向に構わんが」
「アハハ、そう言わずにジース君、こっちおいでよ」
そう言ったのは革鎧に身を包んだ赤毛の女性だった。
確かグレイ・クリフでは数少ない女スキッダーの一人だ。
「そうそう、ただでさえお前は人付き合いが悪いんだからな」
もう一人の中年スキッダーも相槌をうつ。
「はあ、分かったよ」
アザラスだけなら別に無視してもよかったが、他の同僚たちもいたのなら仕方ない。
「んで、噂をすればってことは俺の話をしてたのか?」
赤毛の女スキッダーが俺を指差して言う。
「ズバリ!君今恋人とかいる?」
「は?」
てっきりもっとスキッダーらしい話題を想像していたのでかなり間抜けな返事になってしまった。
「あ、別にあたしがジース君に気があるって訳じゃないから勘違いしないでね」
「分かってるよ。アザラスじゃあるまいし」
「おい!俺だってな――」
「して何でそんなこと聞くんだ?」
一々アザラスに反応してられないので、無視して話を進める。

「いいから先に質問に答えてよ」
「いや、いないけど」
「ほうほう、その割にはこの前の宴では熱心に踊っていたが?」
中年スキッダーは顎鬚をいじりながら言った。
「確かお前さんのとこで働いている娘っ子だったか?」
「ははーん。女の子がお前のワイバーンを世話していると思ったら、
ジースお前そういう魂胆だったのか」
「家で若い使用人雇っている貴族様に言われたくないね。
ともかく彼女は俺の恋人って訳じゃないからな」
俺の答えが予想外だったのか、なぜか三人とも考え込む。
「とするとやっぱりあのエルフの魔女殿か……」
尚考えるようなアザラスに対して、もう二人の同僚は何やら想像を飛躍させていた。
「ずっと若いままの嫁さんか。羨ましいねえ」
「異種族恋愛か〜。ロマンチック〜」
「だからそうじゃないって!エリシアさんとも付き合ってないし、
俺にはそもそも恋人がいないんだって」
誤解されるのも嫌だが、自分に恋人がいないと全力否定するのも何処か恥ずかしい。
「なんだ、つまんない」
赤毛の女スキッダーが残念そうに肩をすくめる。
「つまんなくて悪かったな。大体皆はどうなんだよ。俺ばっかりいじりやがって」
「いや、俺既婚者だし」
と中年スキッダー。
「俺は許婚いるしな」
とアザラス。
「あたしも全然。出会いがないのよ」
はあ、とため息が出てしまう。なぜ俺は暇人たちの会話の肴にされなければならないのだろう。
とにかくこれ以上留まったらまた何言わされるか分からない。
「さて、俺は相棒洗わなきゃいけないからまたな」
「えー、もうかよ」
「もう一人じゃないが、だからと言って女の子に全部任せる訳にはいかないからな」
そう言って俺はアズールの居る竜場の区画まで戻ってきた。
「あ、ジースさん……」
振り返ったミリアちゃんはなぜか複雑そうな顔で俺を出迎えた。
「ん?何かあったのか?」
「別に何でもないです」
そっぽを向かれ、余計訳が分からない。

 天気というのは人間の心にも多大な変化を及ぼすものだな、とブラシを水に浸しながら思った。

アズールの胴体を綺麗にし終わった頃、外に続く人間用の門が勢いよく開けられた。
俺を含め、竜場内の人間のほとんどが何事かと注目する。
入ってきたのは貴族の男女。恐らく夫婦だろう。
彼らの護衛らしき兵士が二人。
そして最後には――
「お父さん?!」
隣にいたミリアちゃんが驚きの声を上げる。
ミリアちゃんの言う通り、貴族の夫婦に続き入ってきたのはライアンおやじだった。
咄嗟に解雇の二文字が頭をよぎる。
しかしその考えを振り払うよりも早く、ライアンおやじは俺を見つけると
貴族共々こちらに近づいてきた。
俺は濡れた手を素早く腰布で乾かすと一行と対峙した。
「ジース……」
ライアンおやじが俺に声をかけるも、そこにはいつもの威厳はなかった。
不安、否、罪悪感にも似た感情が顔に出ていた。
解雇を言い渡しに来たような雰囲気ではないが、良い知らせでないことは確実だ。
「ジース、実はな――」
「君がジース・グリンかね?」
ライアンおやじを押し退け、貴族の男が乗り出してきた。
羽振りの良い服が全く濡れてないところから、
ここに上って来た時は密閉型の高価な馬車にでも乗ってきたのだろう。
「そうですが何か?」
「君に今から飛んで貰いたい」
一瞬男の言葉の意味が分からなかった。
「今からですか?あの雨の中を?」
「困難なのは分かっている。だが君の腕を見込んで頼んでいる」
貴族の男の眼を見て一瞬で嘘だと分かった。
平民を見下す眼。頼んでいる訳でも、俺の腕を見込んでいる訳でもない。
命令しているのだ。
「そうだ。私の娘の捜索を手伝ってもらいたい」
「捜索ですか……しかし――」
「君の本職とはかけ離れているだろうが、今は非常時なのだ」
なるほど。俺の意見は最初から聞いてないということか。

 だが外を見れば幾ら命令されているとしても無茶だということが分かる。
普段はワイバーンが発進する洞窟の大きな口からは、
暗くなる一方の雲空と少しずつ激しくなる雨しか見えない。
「非常時と言いましても……」
「伯爵様、ここは私が。ジース、来い」
食い下がる俺を見てライアンおやじが歩み出る。
貴族の男もその方が良いと思ったのか、頷くと横に退いた。
ライアンおやじは人の少ない角に俺を連れ出した。
ミリアちゃんも一緒について来ているが咎められない辺り問題ないのだろう。
「ライアンさん、一体何が起こっているんですか?」
何かに耐えるような表情でライアンおやじは淡々と切り出した。
「二日前にランソン伯爵様のご息女がピクニック中に行方不明になった」
「誘拐ですか?」
「いや、脅迫文等はなかった。大方迷子だろうな。
ともかく最初は伯爵家の者だけで捜索していたが手がかり一つ見つからなかったそうだ。
そして迷子になってから二日経った。
ご息女は確か十歳程度のはずだから体力もそろそろ限界に近いだろう。
そして思いついたのが空から探す、ということだ」
「でもお父さんおかしいよ。なんでジースさんが探さないといけないの?」
ミリアちゃんがいきなり割って入る。
ライアンおやじの眉間に皺が寄る。
「……うちの商会、いやうちの店は伯爵様に金を借りている……」
外は曇る一方だが事の内容は今の言葉で晴れた。
つまり借金をしているのだから捜索に手を貸せ、さもなければ、と脅されたのだ。
「事情は分かりました。やります」
「ジースさん?!何言っているんですか?ダメですよ!」
ミリアちゃんは悲痛な声で抗議した。
心配してくれているのは嬉しい。だが――
「もとはと言えば俺が原因です。責任はちゃんととりますよ」
そもそも借金をしているのは多分にして俺がレースで勝てないからだろう。
なら今回の役目は色んな意味で俺が適切だ。
「バカモン!何を勝手に決め付けている?借金はとある投資に失敗したからだ!
間違ってもお前のせいではない!」
ライアンおやじは怒鳴り、俺の肩を掴みながら続けた。
「いいか、一勝もしないうちにいなくなったら承知しないからな!地を這ってでも戻ってこい!」
手を離すとライアンおやじは大股で伯爵のところまで戻っていった。

 悪天候の中飛ぶのは不安だが、今のライアンおやじの言葉で断然やる気が出た。
それに事実として迷子の子供がいるのだ。放っておく訳にもいかない。
「ミリアちゃん、準備手伝ってくれ」
「でも……」
「頼む。グズグズしていると飛び立つ前から嵐になってしまう」
「わ、分かりました」
俺とミリアちゃんが急いで準備をする最中、伯爵は他のスキッダーの助けを応募していた。
成功すれば大変な名誉だの、多額な報酬を用意するだの演説して必死に注意を引こうとしている。
もちろん他のスキッダーたちはそう簡単に了承しない。
俺たちみたいにスポンサーまで押えられている訳でもないし、
多大なリスクを負ってまで行くことはない。
同時に冷静になって考えてみれば伯爵も貴族とは言え、子の親。
他人の弱みにつけ込むのは感心しないが心配だということは分かる。
鞍をアズールに載せ、スキッダー用の革鎧に着替えると
具体的に何をすればいいのか伯爵に指示を仰いだ。
「グレイ・クリフから北西に少し行った辺りを飛んでほしい。巨人の積み石付近一帯だ」
結局他のスキッダーの助力を得られなかったようで、伯爵の声から疲労が伺えた。
「地上では我が家の者が捜索を続けている。君は上空から目を光らせ、
見つけたら即座に近くの捜索隊に連絡してくれたまえ」
「分かった。必ずや貴殿のご息女を連れ帰ってこよう」
俺の代わりに答えたのは女の声だった。
驚いて振り返るといつの間に着替えたのか、あの真紅の革鎧をまとったティオーナが立っていた。
「ティオーナ様?!」
一番驚いたのはどうやら伯爵の方で口をぱくぱくとさせている。
「ジース、時間が惜しい。行くぞ」
さも当たり前のように出発しようとするティオーナを伯爵が引き止める。
「なりません!貴方様のような方を行かせる訳にはいきません!」
偉そうな伯爵が急に謙虚になる辺り公爵家の名は流石である。
「我々の同胞は我々で助ける。特にランソン殿のご息女ともなれば王国の明日を担う者。
放ってはおけない」
「しかし……ティオーナ様にもしものことがあったら……」
「案ずるな。雨の中で飛んだことは以前にもある。
それに平民のスキッダー一人では心許ないだろう」
恐らく頭の中で自らの面子や立場と愛娘の命を天秤にかけたのだろう。

 しばし思案した後、伯爵は頭を下げた。
「どうか娘をお願いします」
「うむ。任せるがよい」
俺とティオーナはそのまま騎乗し、ワイバーンを出口へと向かわせた。
途中、先ほど話し合った同僚たちに見送られた。
「また飛行停止になるなんてごめんだからな。戻ってこいよ」
「やばいと思ったら遠慮なく着陸しなさい」
「ジース、死んだら俺が墓石買ってやるからな」
唯一アザラスだけは笑えないことを言っていた。
「意地でも死なねぇよ」
「ジースさん……」
最後にミリアちゃんが涙を孕んだ眼で俺の名を呼んだ。
「いってくる」
短くそう言うと、ミリアちゃんは頑張って笑顔を作り、送り出してくれた。
「……いってらっしゃい」
洞窟の外に突き出た高台に出るなり、激しくなる一方の雨に打たれながらも
二頭のワイバーンは翼を広げ、準備運動をはじめる。
飛んでいる間は手信号でしか会話できないのでティオーナに何か言うのであれば今だった。
「ジース、おまえの方がここの地理には詳しい。先行しろ」
ティオーナは兜の紐を締めながら言った。
相変わらずワイバーンに乗った彼女はさながら神話の戦乙女だ。
「了解です。それと――」
「なんだ?」
「協力ありがとうございます」
「愚か者。お前のような半人前に任せておいては助かる命も助からん。
せいぜい墜ちないよう頑張るんだな」
「は、はい」
パーティーでは少し親密になれたかと思ったが、
俺に向けられた言葉は元の高圧的なものに戻っていた。
やっぱり案外普通の女の子だという認識は俺の勘違いなのだろうか。
だが今はそんなことを気にしている場合ではない。
行方不明の女の子を見つけるのに集中しなければ。
準備ができたのか、アズールは二、三回大きく翼を羽ばたき、両足に力が込められるのを感じる。
「ではいきます!」
「うむ」
俺は相棒のわき腹を蹴り、飛び立たせた。
暗雲は渦巻き、雨粒は矢の如き降り注ぐ。風は満ち、遠くで雷鳴が轟く。
不思議と最初にあった不安は消え、高揚感が俺にも浮力を与えていた。

To be continued.....

 

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