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1

明かりなど何もない夜の教室で、ぼう、と何かが揺らめく。
煙が漂っているようでもあり、袋の中に何か光を出すものが入っているようでもある。
しかしそれは煙でも光でもない。魂である。鬼、といってもいいかもしれない。
よくよく見れば、その姿が現代の教室にはまるで似合わぬ、刀を身につけた侍風であることが分かる。
和装に身を包み、しかし髷は結わず自然に流している。
その魂は生前の名前を、森巣誠一郎といった。彼は、この場所を訪れたことを後悔していた。
最初に外観を見た時から、陰の気が濃い、と感じた。
最早人の身ではない彼にとって、それはむしろ心地いい場所であることを示す。自然、足が向いた。
この時代の子供たちの学び舎であるということは分かっていたが、
既に使われていないということは、草の生え始めた外壁を見てもはっきりしていた。
そこの住人であるかのように、何の躊躇もなく建物に立ち入った。

(迂闊だった。)
と、彼は思っている。
彼が心地よい場所とは、つまり他の息をしなくなった者たちにとっても心地いいということだ。
既に人の姿かたちとか意思といったものを捨て、何か不透明なもの、
といった程度のものになった者なら、
無視もできるし襲ってくるなら切り捨てることもできた。

しかし、彼がその日出会ったものは、完全な人の形を保ったままの、しかも少女の霊だった。
数えることもなく何階か上った先の廊下で出くわしたその少女は、座り込んで泣いていた。
女子学生のよく身に着けている服と同種のものを身に着けている。この学校で死んだ者の魂だろうか。
その少女に、彼は、
「どうした。」
と、声をかけた。死んだものにどうしたも糞もない、ということもあるが、
彼はそういうことができない性分である。見捨てて立ち去る自分に負い目を感じる。
少女は、青白い顔を森巣の方に向け、しばらくその姿を見つめていた。
立ち上がりはしない。突然に言い放った。
「私を切って。」

予想していなかった言葉に、少し目を見開き少女を見る。
少女は、たじろがなかった。
双方何も言わないままでいると、しばらくして少女がぽつりぽつりと語った。

何人と落ちても誰も自分の傍にはいてくれない。皆自分とは別のところに逝ってしまう。
もう落ちるのには飽きた。今度こそ誰かに終わりにしてほしい。

少女は転落して果てたものであり、これまで何人か人を道ずれにして見たものの、
浮かばれることも満足することもできない、という、おおよそのことは森巣にも分かった。
そして、自分が何をすべきかといえば。
立ち去るか、切るかしかないのだろうということも見当がつく。
元気を出せ、という言葉ほどその場で滑稽なこともないし、念仏を唱えてやることもできない。
その身に大小を帯びている森巣の様子を見て、彼女は切られようという思考に至ったのだろう。
切ってやれば、この少女の未練とか無念といったものも断ち切れるのだろうか。
魂の行き着く先などは彼には分からなかった。が、刀を抜いた。
それを見て、少女はそっとうなだれる。首を、差し出した。
その細い首に、森巣の刀が走った。

そういうことがあって、彼は自分の行動を後悔している。
こういう場所には、少女のような思いを抱えた先客がいるということを思い出すべきだった。
(あの少女は、自分のような者に出会うべきではなかった。)
そういう思いが強い。
自分の無念が何であるかも知れずただただこの世をさ迷っているような、そんな男に出会わず、
何かを諭してやるような人物と出会っていれば。
無常といった気持ちを、改めて彼は覚えていた。

が、不意にそういった気持ちが消えた。
生きているものの匂いを嗅ぎつけたからである。
どこからか、漂ってくる。彼のような虚ろのものではない、確かな息遣い。
(どこかに、いる。しかし姿が見えない。)
妙だった。彼の目は、反射した光を網膜で捉えるのでなく、
ものの魂を感じ取る、といったように見える。
それなのに、何も見えない。

すっと再び刀を抜き、下段に構え、左踵を上げる。
(遁甲で身を隠しているのか。)
彼のいた時代にも、この時代にも、そういう術士たちは生き続けている。
生きている頃にはむしろ疑っていたが、闇夜に住むようになってからは否応なしに出会う連中だ。
「誰だ。」
見えないものに向かって、声をかける。
「分かるの?大したものね。」
果たして、どこからか返事があった。返事をするとは、相手はどうやら素直な人物のようだ。
しかし、声から相手の位置は分からない。
空気が震えるというよりは、頭の中に直接響いているだけだ。
「何の用かは分からないが、私は誰かに害を成すつもりはない。」
だから放っておけ、という意味だった。術士は大抵悪霊を払うか生きている人間を呪うかで、
無害な霊をいちいち成仏させてやるのは僧の仕事というのが相場である。
「抜け抜けと。肝試しに訪れる人を突き落として殺す、地縛霊の癖に。」
ふん、と笑うように声は言う。彼には一瞬何のことだか分からなかった。
が、すぐにそれが先ほど自分が切った少女の霊のことだと解した。
「人違いだ!」
咄嗟に、大声で弁解したが、声はそれ以上響いてこなかった。どうやら説得はできそうにもない。
油断なくあたりを見渡す。
きゅ、と、微かに床と砂利が擦れて鳴るような音がした。すぐにその方向に目をやる。
そこには何もなかった。ただの暗闇である。しかし、何かがいる。
少し離れたその位置にどう対処しようか思案していると、相手の方から動いた。

ただの暗闇の中から、いきなり手が生えた。いや、手だけが現れた。
見るとその手は白い何かを指で摘んでいる。それを、森巣に向かって振り放った。
大した速さではない。体にたどり着く前に、刀を跳ね上げて切り払う。
しかし。
(重い!)
鉄の腕に刀身を握られて、思い切り押されているような感覚。
それでも何とか押し返し跳ね返した。ひらひらと下に落ちたそれを見ると、ただの紙片である。
(ただの紙に、呪をかけているのか!)
相手はかなりの呪術者か陰陽師であるらしい。
再び暗闇から紙片を掴んだ手が現れる。目をこらすと、紙片のすぐ横に顔らしきものも見えた。
ぶつぶつと口が何かを呟いているようだが、不可視の術のせいかおぼろげにしか見えない。
再び投げつけられたそれを今度は上段から叩き伏せるが、やはり尋常な重さではない。
が、ぎりぎりで押しのけて進めないということはない程度の重さだった。
次々と投げつけられるそれを牛の群れを掻き分けるような気持ちで押し分けながら、
彼は暗闇の方へと歩を進める。

「嘘!?く、来るなぁ!!」
暗闇の方も、自分の間合いに森巣が侵入してくるのがわかるだけに、
一歩一歩と必死で遠ざかりながら紙片を投げようとする。
しかし、うまくはいかないようだった。どうやら、何か布のようなもので身を包んでおり、
それが霊である森巣の目から逃れることが出来るのと同時に、
身を包むものの動きを阻んでいるらしい。
森巣は、襲撃者の後ずさる動きが鈍いことに気づくや否や、渾身の力で床を蹴りつけた。
右足が地に着くのと同時に、切っ先は紙片を摘む手のその紙片だけを正確に貫いていた。

紙片と共に、襲撃者の身を包む布のようなものも巻き込まれたらしい。
はらり、とそれが落ちる。
現れたのは、白い小袖に緋袴の巫女だった。
年は20にも満たぬだろう。大きく見開かれた黒い瞳が、こちらを呆然と見つめている。
白い頬に、つ、と赤い血が流れた。どうやら、切っ先が顔にも触れたらしい。
彼が刀を引く前に、芯を抜かれたようにどすんと巫女が床に尻餅をつく。
何事か、と思っていると、巫女の大きな目から涙が流れ出した。
彼は、慌てた。それを顔には出さなかったが、こんな年端もいかない娘相手に必死に応戦し、
挙句刀を向けて泣かせてしまったとあっては、なにやら恥ずかしくもある。
君が調伏しようとしていたのは別の霊であり、自分は君にも他の人間にも危害を加えるつもりはない、
ということを何とか説明しようと思ったが、
しかしそれを考えていたせいで、手に持つ武器を鞘に収めるのを忘れていた。

彼女にとって、自分の眼前に刀をつきつけ、何かを考え込んでいる森巣の姿は、
彼女をどうやって殺そうかと思案している悪霊の姿にしか見えなかった。
生きたまま切り刻まれるのか、あるいは一撃で首を落とされてしまうのか。
もしかしたら、散々に嬲られ犯され殺されるのかもしれない。
ここで何人も殺しているだろう悪霊なら、そういうことをしても何も不思議ではなかった。
自殺した学生の霊か何かだろう、と高をくぐっていた挙句、
自分の術が通じない敵に出会ってしまった。
不意に股が濡れているのに気づく。恐怖に耐え切れず漏らしてしまったのだ。
ああ、なんて情けないのだろう、と絶望する。しかし、彼女にはもうこう懇願するしかない。
「お願い。殺さないで。」

彼の目の前で助命を願う巫女の姿は、たまらなく痛々しかった。
抱きしめて、大丈夫だと言ってやりたいほどだったが、
しかし先ほどまで彼女とは命のやりとりをしていたのである。
結局、ここでも彼は去る以外の何も方法が思い浮かばなかった。
刀を引き納め、振り返ると、心もち急ぎ足でその場を後にした。
昇降口と呼ばれる門を出ると、空は白みかけていた。
結局、彼はこの日二回も女の涙を見ながら、
そのどちらにもたいしたことをしてやることはできなかった。
(俺が誰かにしてやれることなど、もう何もないのだ。)
何を果たせば満足できるのかも分からないままに、諦めだけが身に積もっていく。
太陽に晒され、さらに薄くなっていく自分の体を見ながら、森巣はため息をついていた。

これが、森巣誠一郎と鏡春菜との、最初の出会いになる。

2007/09/13 To be continued.....

 

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