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愛しさと心の壁



1

それは、何てことないいつもの放課後。

「ねえ遼君」
「何すか?」

 別に特別なことは何一つなくて、

「もうすぐ冬休みだね」
「そうっすね」

 ただ、放送室の中はひたすらに寒かった。

「何か予定とかあったりする?」

 由美先輩は外の景色を眺めながら、そんなことを尋ねてきた。

「別にないっすけど」

 僕も窓から外を見る。

雲量10、どう見ても曇り。どんよりとした雲が空を覆っている。雨でも降るだろうか。

「そっか」

 今年の初雪は、まだ。
  別にそれも普通で、例年通り。先輩が何だかよく分からないけど嬉しそうに笑っている
のもいつも通り。

「何かないっすかねー」
「何かって?」

 今年の冬もきっといつも通り、これといって変わったことはないだろう。
  でも、

「何かは………何かっすよ」

 心のどこがで『何か』が起こることを、僕は期待している。その『何か』は、
具体的なものじゃなくて、もっと漠然としていて、とにかく『何か』なのだ。
  この日々をほんの少しだけでもいいから面白くしてくれる、『何か』。
それを僕は待っていた。

「何それ? 訳分かんないよ」

 先輩は笑う。僕も笑う。とにかく変わったことは特にない。
  でもまあ別に―――それもいい。

 うちの高校の放送部の部員は二人。部長の松本由美先輩と僕――中原遼。通常業務は連絡放送、
集会時のマイクセッティング。放課後は大抵、放送室でだべってる。そんな感じ。

「そろそろ帰ろっか」
  校舎がロックされる時間が、僕たちの帰る時間である。
「そうっすね」
  荷物を持って僕らは放送室を出た。下校時刻間際の校舎の中は静かで、
僕と先輩の足音が廊下に響いていた。

「あ、雨降ってる」

 僕より先に昇降口から出た先輩が言った。

「ホントだ、雨っすね」

 やっぱり、雪にはならなかったみたいだ。

「遼君、傘持ってる?」
「ええ、折りたたみ持ってますけど………」

 僕がそう答えると、先輩はため息をついて

「残念、相々傘は出来ないみたいだね」
  なんて、鞄から傘を出しながら、冗談めいた口調で言った。

「ほんと残念っす」

 ―――僕と先輩は別に、付き合ってる訳じゃない。
ただの先輩後輩の間柄で、そういうのは一切ない。

「あー、心から思ってないでしょー」
「そんなことないっすよ」

 先輩のことは嫌いじゃない。好きか嫌いかで言えば、多分好きの方。
だけど、僕は先輩に『恋』はしていない。
  その理由の一つは、先輩が美人だということ。っていうか美人なだけじゃなくて、
スタイルも良くって、性格もいいし成績もいい。まさに完璧、ミスパーフェクト。
  それに対する僕はまあ、パッとしない、いわゆるフツーの男の子。
こんなんじゃ、先輩には到底釣り合わない。恋心を抱くなんて恐れ多い。
  先輩は僕のことをどう思っているんだろうか?

 …………分からない。とりあえず嫌われては、いないと思う。
  だからといって、恋愛感情なんかは持ってないんだろうなあ。

「…………何考えてんだか」
「どうしたの?」

 隣を歩く先輩が傘の下から覗いてきた。この構図も、由美先輩だからかなり絵になる。

「何でもないっすよ」

 笑って誤魔化す。先輩は「ふーん」とつまらなさそうにまた歩き出した。
  そうだ、これだって別に悪くない。
  何かを無理に急ぐ必要なんか、ない。
  僕は今のままだって構わない、いや今のままでいい。
  そうだろ、僕?

 帰り道、先輩と別れた後僕はふとコンビニに立ち寄った。
  漫画の立ち読み、主な目的はそれ。

「いらっしゃいませー」

 僕にそう挨拶をした店員さんは見ない顔だった。新しいアルバイトの人だろうか、見たことがない。
別にそんなに気にすることでもないのかもしれないけど、その新しい店員さんがなかなかに―――
いやかなり可愛い女性だったから、自然とその人に目がいった。

 うん、『可愛い』でいいと思う。先輩を『美人』と言うなら、この人は『可愛い』だろう。
背はそんなに高くなく体つきは小柄なほうだけど、こんなコンビニには似合わないほどの
存在感があった。

 ―――と、

「………あ」

 目が合って、僕は思わず声を出してしまった。彼女は不思議そうな目で僕を見ている。
僕は目を逸らして、雑誌コーナーに足早に向かった。恥ずかしくて仕方がなかった。
やっぱり人をジロジロ見るのは、良くない。

「は〜………」

 ため息をついてから、僕は発売したばかりの月刊漫画誌を手に取った。
  巻頭カラーは、よくある学園ラブコメディー漫画。冴えない主人公が複数の美少女に好
かれまくるっていう、現実的に見るとメチャクチャな物語。こんなの有り得ねえよな〜、
なんて思うのだけれどついつい読み進めてしまう。

 そして、大体目的の漫画を読み終えた頃だった。

「静かにしろ!!」

 ドアが勢いよく開かれる音と同時に声が聞こえた。その方向を見ると、

「レジに入ってる金をおとなしく全部渡せ!!」

 ―――強盗だった。レジの、あの『可愛い』女の子に包丁を向けている。そいつの容姿はジーンズ、
黒いジャンパー、そして目出し帽。笑っちゃうくらい典型的な強盗さんだった。

 おいおいマジかよ。こんな夕方の、人気の多いコンビニに押し入る強盗ってなんだよ。
頭悪いんじゃないか? 
  非常時にもかかわらず、意外に僕は冷静だった。

「早くしろ!!でねえと、こいつでぶっ刺すぞ!!」

 間近でそんなことを言われている店員さんは僕と正反対で、顔は青ざめてブルブルと震
えていた。
  強盗の興奮具合は異常で、目はメチャクチャに血走っていたし、呼吸も妙に荒かった。

「てめえ、聞こえねえのか!? 早く金を出せって言ってるんだよ!!」

 包丁はますます店員さんに近づく。

「い、いや………やめて……」

 震える声で彼女はそう言った。恐怖で体が動かなくなっているのだろう、
要求通りにレジから現金を出すことさえ出来そうになかった。

 ―――これは、マズイかもしれない。あの異常な強盗さんは、興奮のあまり彼女を本当に
刺してしまうかもしれない。店の中には女子高生が二人、おばさんが一人、そして残りは僕。
もう一人のコンビニ店員のおっさんは、腰をぬかしておにぎりの棚の辺りで倒れていた。
店員二人があの様子じゃあ、きっと交番に通報だってしていないだろう。

 ―――こうなったら僕が……。

 そう思ったけど、『おいおい、俺ってそんな勇敢な少年だったっけ?』と、心の中の僕が言った。

 ―――………そうですね。

 正直にそう答えた。

 第一あんな奴に立ち向かっていって無傷で済むだろうか? それに僕はそんなに強くない。
  きっとこういうとき、あんな漫画の冴えない主人公君だったら、
間違いなく店員さんを助けようとするんだろう。

 だけど、これは漫画じゃなくて、現実。刺されたりしたら物凄く痛いだろうし、
もしかしたら死ぬかもしれない。正義感に任せて特攻!!なんて出来やしない。

 だからゴメンね、店員さん。

 僕は黙ってことの一部始終を見守ることにした。
  ヘタレだな、僕。

「早くしやがれっつってんだよお!!」

 強盗の興奮状態はもはや最高潮に達していた。店員さんに刃が届くまで、あと数センチ。
彼女の目からは―――涙が流れていた。

 ―――その涙が、僕の気持ちを変えた。

 なんて、この言い方はちょっとカッコ付け過ぎかもしれないけど、確かに僕の気持ちは
変わった。
  近くの壁に、モップが立て掛けられていた。僕はそのモップを手に取る。
  『一撃必殺』
  僕の狙いはそれだけ。こっそりあいつの背後に回って、この聖剣でトドメをさす。
卑怯かもしれないけど、それが最良で最強の選択肢。あわよくば気絶なんかしてもらって、
それでK.O。それが理想。
  奴の死角を通るようにして、僕は静かに近づいていく。

「早く金、金をだせよおおおお!!」
「お願い、許して、許してぇ………」
  後一歩で僕の間合いに入る。僕はモップを振り上げた。

 ―――喰らえ、正義の剣をっ!!!

 心の中でそう叫んで、僕がエクスカリバーを振り下ろす直前
「あ?」
  強盗がこちらを振り返る。それに驚いて僕の手元が狂った。
「うぎゃあ!!」
  モップは彼の後頭部ではなく、右肩にヒット。一撃必殺は失敗。僕の頭を絶望が掠める。
  強盗はすぐさまターゲットを店員さんから僕に変更。狂気に満ちた目が僕に向けられる。
なるほど、こんな目に睨まれれば身動きも取れなくなるだろう。
店員さんの気持ちが今になって分かった。

「この野郎!!」
  僕が第二撃を放つ前に、強盗は僕に突っ込んできた。
反応が遅れて、僕は完璧にそれをかわすことが出来なかった。
「っつ………」
  包丁が左腕を掠った。僕は急いで距離を取る。

「早く!! 交番に連絡して!!」
  僕はレジで腰を抜かせてしまった彼女に叫んだ。
「は、はい!!」
  僕の一言で、ようやく彼女は動き出した。
「死ねやああああああ!!!!」
  強盗が僕にもう一度駆け寄ってくる。それを僕はモップの先端で突き返す。
こちらのほうがリーチは長い。用は近寄らせなければいいのだ。
「うおっ!」

 僕に押し戻された強盗はバランスを崩して壁際の冷蔵庫に激突した。
  ―――チャンスだ。
  今度こそ僕は渾身の一撃を奴の脳天にぶちかました。
「ぐへえっ」
  間抜けな声を出して、そいつは倒れた。
「ふう………」
  これにて、一件落着!! なんつって。

2

「ありがとうございましたっ!! 本当にありがとうございました!!!!」

 あれから何回この台詞を言われただろうか。感謝されるのは別に悪い気分じゃないんだけど、
なんだかくすぐったい。

 強盗も警察に連れて行かれて、僕はコンビニの奥の事務室らしき所にいた。
どうやらあの男は麻薬をやっていたらしい。警察の人にそう説明をうけた。
確かにあの狂い様は、正常な人間とは思えなかった。

 それで、終始腰をぬかしていた店長らしきおっさんは警察と一緒に店を出て行って、
事務室の中は僕とあの店員さんの二人だけだった。

 ―――密室で二人っきり!! ってバカか。

 自分で自分に突っ込みをいれる。

「いやまあ、別にそんな……」

 でも、こんなにもくすぐったい理由にはやっぱり、

「あなたがいなかったら、私はどうなっていたか分かりませんし」

 この娘が、とても可愛いからってこともあるんだろう。
  こういう娘に、ひたすら感謝されるっていうのは何だか照れる。それに、一度は見捨て
ようとしていたのだから、少し罪悪感もある。

「でも怪我がなくてよかったよ、ホントに」

 こんな可愛い娘に傷なんかが付かなくて本当によかったと思う。

「……はい、あなたのお陰です」

 あのまま見捨てていたら、きっと僕は僕のことを嫌いになっていただろう。
そうならなくてよかった。

「でも、あなたの方に怪我をさせてしまって……」
「ああ、こんなのただのかすり傷だって」

 僕は笑ってそう答えた。あの後左腕の傷は消毒して包帯を巻いてもらった。
これだけやってもらえば問題は無いだろう。

「制服代はこちらで弁償させてもらいますから」
「いいって、これぐらい。裁縫は得意なんだ」

 この嘘もきっとカッコ付け過ぎ。だけど、それくらいの嘘を今は格好良く言いたい気分だった。

「あの……本当にありがとうございました!!」

 そう言って店員さんはまたペコリ。きっとこのままじゃ堂々巡りだ。そう思って僕は、

「それじゃあ俺、帰りますね」

 そう言った。

「はいっ、ありがとうございました!!」

 最後に彼女の顔を見たかったけれど、頭を深く下げたままだったのでそれは叶わなかった。

 

コンビニを出ると外はもう真っ暗で、そして寒かった。しばらく暖房の効いた室内にいたので、
冷たい風に当たって身体がぶるっと震えた。

「さむっ………」

 吐く息は、当然のごとく白い。

 ―――冬は、僕の一番好きな季節だ。

 冷たい風、白い息、石油ストーブの匂い、張り詰めた空気、全部好きだ。

そして一番好きなのが、空。
 
僕は空を見上げる。雨はもう止んでいた。

 冬の夜空は、空気が澄んでいるので他の季節と違って星が良く見える。

 別に僕は星座に詳しいとかそういうのじゃない。
北斗七星と、あとはオリオン座くらいしか分からない。

 だけど僕は、冬の夜空が大好きだ。

星の光が、好きだ。

「あはは…………」

 口、半開きになってらあ。それに気付いて、一人で哀しく笑った。
  いつも通りの放課後、遼君は私に昨日の強盗騒ぎのことを話した。

「てな訳で、俺の華麗なアクションで強盗を撃退したんすよ!!」

 彼は少し興奮気味でそのことを私に話した。

「ふ〜ん……」

 感心したような態度を見せてから

「嘘でしょ?」

 そう言ってみる。

「な、嘘じゃないっすよ〜。まあ、多少の脚色はしてますけど……」

 遼君はそう焦る。その姿が面白くて私は笑った。

「コンビニ強盗の件なら私も今朝クラスの子に聞いたよ。お疲れ様〜」
「知ってたんじゃないっすか〜!!」

 ―――私は遼君が、好きだ。

いつから好きになったのかは、はっきりとは覚えていない。
気付いたら、彼に強く惹かれている自分がいた。

遼君は素直で、面白くて、そして優しい。

 だからこうやって彼と過ごすこの時間は、私の生活で一番大切なかけがえのない時間なのだ。
他の人から見ると下らなくて無益な時間に見えるかもしれないけれど、
私にとっては何よりも大事なものなのだ。

 彼も、遼君もそう思っていてくれていることを、私は願っている。

「あれ? 遼君、その上着どうしたの」

 彼の制服の上着の左腕の部分に、とても雑で、糸のほつれの酷い縫い目を見つけた。

「ああ、これっすか……昨日の強盗にね」

 苦笑いしながら遼君はそう答えた。

「だ、大丈夫!? 痛くないの!?」

 強盗と戦ったときに怪我をしたなんて話は、クラスメイトからも、
もちろん彼からも聞いていなかった。

「え、ええ。まあ、かすり傷っすから」
「そう、よかった………」

 それを聞いて安心してから、自分が明らかに取り乱していたことに気付いた。
恥ずかしくて、顔が赤くなりそうだった。

「それで、自分で縫ったんですけど………あんまり上手くいかなくて」

 またしても苦笑。私は彼のこういう仕草もたまらなく好きだったりする。

「貸して……」
「え?」
「直してあげるから、ほら」

 もうちょっと優しい言い方でも良かったかもしれないと、言ってから後悔した。

「裁縫セットがあったはずだから」

 ここの放送室には色々なものが置いてある。裁縫セットの他にも、大量の割り箸だとか、
ビンゴゲームに使うカード、ギターの弦、調理道具一式、星座早見盤……etc.とまあ
役に立つものから立たないものまでいろいろなものが揃っている。
恐らく卒業生たちが置き忘れていったものだろう。

 裁縫セットはすぐに見つかった。

「ほら、早く脱いで」
「あ、はい」

 遼君から上着を受け取る。受け取った上着には彼の体温がまだ残っていて、
私の鼓動は少し速くなった。

 手早く上着の縫い目を直して、遼君に上着を返した。

「どうもありがとうございました!!」

 そう言って遼君は頭を下げた。こうやって素直なのも彼のいいところだ。
「どーいたしましてー」

 わざとそっけない態度で言ってしまう。ここが私の素直じゃないところ。
分かってるけど直せない。これはもうどうしようもない。

「いや〜、だけど先輩って器用っすね〜。ホントに何でも出来る」

 そんなことはない。好きな男の子に自分の気持ちを素直に伝えることも出来ない
不器用で臆病な人間。それが自分。

「そんなに褒めたって何にもでないよ」

 それでも、彼といるときは他の人といるときに比べて、素の自分でいられると思う。
気兼ねもなく、楽で、心地いい。

「え、そうなんすか? 損したなあ〜」
「全くも〜」

 出来ればもう一歩先に踏み込みたい。だけど、その勇気が私にはない。今の関係を壊すのが怖い。
ああ何だかこの思考はホントに『恋する女の子』みたいだ。
実際恋をしているから間違いじゃないんだけど、何故か滑稽に聞こえてしまう。
そんなことを考えながら、私は遼君をみて微笑んだ。

3

 今日は早めに学校を出た。なぜかというともうすぐ期末テストが控えているわけだからだ。
先輩の成績は全く問題ないのだけれど、僕のほうがヤバい。
 
  先輩と一緒に学校を出ると、いつもの風景に一つ見慣れないものが入り込んでいるのを
見つけた。

「何すかね? アレ」
「さあ……何だろうね」

 黒塗りのベンツ、そして黒いスーツに、黒いサングラスの男が数人。
  どう見ても怪しいその集団は、校門の脇から学校の中を覗いていた。

「怪しいっすね……」
「うん、怪しいね……」

 僕も先輩も自然に声を潜めていた。
 
「とりあえず、触らぬ神に」
「祟りなし……っすね」

 僕らはその脇をそそくさと通り抜けて、さっさと退散することにした。

 が、しかし

「君、ちょっといいかね」

 そのどすの効いた声は明らかに僕に向けられていた。

「は、はい……何でしょう?」

 恐る恐る振り返る。
  僕の顔を確認してから、男はおもむろに上着の内ポケットに手を突っ込んだ。

 ――――まさか、銃!!??

 僕は慌てて駆け出そうと方向転換をした。このままじゃ殺される!!
  だが、僕の目の前には別の黒尽くめがいて逃走経路は絶たれていた。

「くっ………」

 気付くと僕の周りはいつの間にか黒尽くめに囲まれていて、先輩とは隔離されていた。

「ふむ、やはり間違いないな……」

 先ほどの男が、手元の紙と僕の顔とを交互に見比べて言った。銃は持っていないようだった。
少しだけ僕は安心した。

「あの、一体……」
「ご同行願えますか?」

 黒尽くめは無表情に、平らな声でそう言った。

「は?」

 理解できていない僕を無視してことは進んでいた。
両腕を黒尽くめに掴まれて、僕は車の中に押し込まれた。

「ちょ、ちょちょちょちょっと!!」

 僕の抗議もむなしく、ベンツは発進した。

「遼君!!!」

 ドアが閉められるときに、先輩の声が聞こえた……ような気がした。

 

 車に揺られて僕が連れて行かれた場所は、立派なお屋敷だった。
この街の高台に位置する壮大な屋敷。いかにも金持ちが住んでそうな建物だった。
  一体全体、どうして僕はこんなところに連れてこられたのだろうか? 今までの人生で、
こんなデカイ屋敷に住んでいる人と知り合いになったことはないと思う。
  うわ、内装もかなり豪華だ。壁にかかってるこの絵なんかは、きっとかなり高いんだろう。

 と、僕は大きな扉の前に着いた。

「失礼します」

 黒尽くめの一人がドアをノックして言った。

「うむ、入れ」

 中からは、低く厳つい声が返ってきた。その声に僕は緊張してしまった。

 ―――もしかして、ヤクザの屋敷!?

 だとすれば、最悪。人生終わった。

 重い扉が、ゆっくりと開かれる。

 扉が開いていくと共に、僕の緊張も高まる。

「ようこそいらっしゃった!! 歓迎いたすぞ」

 扉の先の広間の豪華なソファーにどっしりと構えているのは、白髪の老人だった。
着物なんかを着込んでいて、やけに威圧感があった。

「は、はあ……」

 僕は何も言えなかった。歓迎なんて言われても、別に招待状とかを貰った訳でもないし、
それにこんな知り合いはいない。親戚でもなければ、もちろん友人でもない。
恐らく、初めて会った人だろう。

「昨日は本当にお世話になった。なんとお礼をしていいのやら……」

 昨日? はて、この老人と昨日僕は何か係わりをもっただろうか。

 考えるまでなく、ノー。電車で席を譲った覚えだってない。
まあ、普段からそんなことはしないけれど。

 ―――と、僕はその老人の横に見覚えのある顔を見つけた。
圧倒的な存在感の彼にすっかり、彼女は隠れてしまっていた。

「あ、昨日の店員さん」

 気付くのに時間がかかったのは、昨日と服装が違ったのも原因の一つだろう。

 僕がそう言うと彼女の顔はパアっと明るくなった。

「はい! 覚えていてくださいましたか!!」

 昨日のことなんだから忘れているわけないだろう。それにこんな可愛い娘なんだし……。

「君がいなかったら、家の娘はどうなっていたことか」

 この時点で、僕の頭の中で色々なことが繋がった。

 昨日の店員さんはここの家に住んでて、あのいかつい爺さんはあの店員さんの父親か何か。
それできっと、今日僕がここに連れてこられた理由は、昨日のお礼をするためなんだろう。

 

 

 あの時のこと、昨日彼が私を助けてくれたときのことを思い出すと、今でも体が熱くなってくる。
  強盗の狂気に満ちた目から私を救ってくれた彼は、本当に格好よかった。
まるで、悪の魔王に捕まったお姫様を助け出す、『王子様』みたいだった。

 家に帰ってから、彼の名前を聞いておかなかったことを後悔した。かろうじて分かるのは、
制服から通っている高校くらい。何年生で、どこに住んでいて、どんな生活を送っているのか、
それらは全くわからなかった。

 気になって気になって仕方がなくて、私は家の者に彼を探してもらうことにした。
何としてもキチンとお礼がしたかったしそれに―――もう一度彼に会いたかった。

 感じたことのない胸の高鳴り。彼のことを思うだけで、鼓動は自然に速まった。
  初めての経験。これがいわゆる『恋』なのだろうか?

 私は小学校も、中学校も、そして今通っている高校も全部女子校だったから、
同年代の男の子と接したことがほとんどなくって、だからよく言う『恋愛』の経験なんかは一切ない。

 だから、もう一度彼と会いたかった。もう一度会ってこの感情の正体を確かめたかった。
  家の者たちには手がかりとして、昨日のコンビニの監視カメラから抜き取った
彼の顔写真を持たせた。

「あの、中原さん」

 二人きりでは間が持たなくなって、私は彼に話しかけた。

「は、はい?」

 彼も少し固くなっているようだった。
  全くお父さんたら何考えてるんだか……。いきなり、

『それじゃあ、後は若い者に任せて……』

 なんて言っていなくなるなんて。それで私たちは今、広間で二人っきりになってしまっている。
お見合いじゃないんだから変な気を遣わなくていいのに。

「今日はその、少し乱暴なやり方になってしまったみたいで、申し訳ないです」

 使用人たちは一体何を勘違いしたんだか……。あんな連れて行き方をしたら、
彼もビックリするに決まってるのに。

「いや、そんな気にしなくていいからさ」

 困ったような笑顔で彼は笑った。

「それにさっきから、綾瀬さん頭下げてばっかりだし」

 彼の一言で、私はハッとした。

「そ、そういえば」
「ね?」

 思わず笑いがこみ上げてきて、私たちは二人で笑った。
このお陰で、場の空気が少し緩んだ気がした。

「それにしたって立派なお家だよね」

 彼は周りをきょろきょろ見回しながら言った。

「そうですね、無駄に大きいですよね」

 ホントに無駄に大きな家だと思う。家族は私と父親だけだから、部屋は大量に余っている。
残りは住み込みの使用人が使ったり、たまに来るお客様用の部屋になったりしている。

「物凄い大家族でもないと使いきれそうにないよね……」
「そうですね」

 また少しの沈黙が訪れてから、中原さんが口を開いた。

「あのさ、俺と綾瀬さんって同い年なんだよね?」
「はい、そうですが……」

 そのことはさっきの軽い自己紹介で話したのだけど、どうしたのだろう?

「じゃあさ、敬語とかじゃなくっていいんじゃないかな?」

 にこりと笑いながら彼は言った。その姿もやっぱり爽やかで、胸がドキンと鳴った。

「い、い、い、いえっそのっ」

 声が上ずっているのが自分でも分かった。顔が赤くなってしまう。
そんな私を見て中原さんはまたにっこり笑ってくれた。

「あの何て言うか、これはクセみたいなもので、私も無意識のうちにそうなってしまうんです」

 焦っている自分が本当に嫌になった。

「そっか、なら別に無理しなくていいんだけどさ」

 優しく笑う中原さんは、本当に格好よかった。

「あの、本当に昨日はありがとうございました」

 改めて私はお礼を言った。

「別にそんなに大したことじゃないからさ、ホントに頭あげてよ」

 困ったように彼は言う。それでも、何度感謝したって足りないくらいだった。

「何かお礼をさせていただきたいんですけど」

 だから別に気にしなくっていいって、と彼は笑った。

「そういう訳には」
「じゃあ、もう一杯このお茶貰える?」

 私の言葉を遮って中原さんはそう言った。

「俺、こんなおいしい紅茶飲んだことなくってさ。流石だね」

 私は急いでお代わりを彼のカップの中に注いだ。

「綾瀬さんはさ、何であそこのコンビニでバイトしてたの?」

 新しく入ったお茶を一口飲んでから、彼はそう尋ねてきた。

「社会勉強です」
「社会勉強?」

 確かにこんな家に住んでいるのに、わざわざアルバイトするのは疑問に思うだろう。

「はい、今までずっと学校と家の往復だけの生活だったので、ちょっと私世間知らずだから」

 なんて言うと聞こえは良いかもしれないけど、本当はお父さんに強制されただけだった。

「へ〜、偉いんだね」

 やった、中原さんに褒められた。思わず頬が緩む。

「でも今回の一件で、お父様がもうあんな危ない仕事はだめだって」
「ありゃりゃ、大変だね」
「はい………」

 あのままあの店で働いていられたら、これから中原さんと沢山会えるのに。

 それから、私と中原さんは互いの趣味だとか血液型だとか誕生日だとか、
そういう他愛ない話をした(中原さんの誕生日は四月だそうだ。覚えておこう!!)。

「お嬢様、そろそろお時間が……」

 ノックをして執事が入ってきて言った。確かにもう結構な時間だった。

「あっ、ごめんなさい。こんな時間まで引き止めてしまって」
「別に帰ったって何にもするわけじゃないから大丈夫だよ」

 中原さんはまた、笑って言った。まだ数時間しか一緒にいないのに、
この人は本当に優しい人なんだと、心から思った。

 帰ろうとする中原さんに私は勇気を振り絞って言った。

「あの……ま、また会ってくれますか?」

 頷いてくれた彼を見て、私は今までに感じたことのない程の幸福感に包まれた。

 

 

 帰りも僕は黒塗りのベンツに乗せてもらった。こんなの一生に何回あるだろうか?

 ああしかし綾瀬さん可愛かったなあ。彼女の姿を思い返して僕は思わずため息を吐いた。
  まるでお人形さんみたいに彼女は可愛かった。
  あんな可愛い娘にあんなに感謝されて、もうマジで言うこと無し!! って感じだったりした。

『あの……ま、また会ってくれますか?』

 あんなの顔赤くしながら言うなんて、反則に決まってる。

 鞄から携帯を取り出すと、先輩からメールが来ていた。
何やら黒尽くめに拉致された僕を心配してくれているらしい。

『大丈夫でした〜
  詳しいことは明日学校で話しますね』
と、先輩にはこれだけ送っておいた。

4

「おはよ遼君」

 いつも通りの朝、通学路で私は遼君に声をかけた。

「あ、おはようございます」

 よし、今日は朝から遼君と会えた、いいことありそう。なんて心の中でガッツポーズ。

「今朝も寒いっすね〜」

 何だか嬉しそうに遼君は言った。

「どうしたの、そんなにニヤニヤして?」

 彼の機嫌がいいと、私まで何だか嬉しくなる。

「冬は好きなんすよ」

 これまた笑顔。やっぱり私は彼のことが好きなんだ。

「そうなんだ〜」

 こんな他愛もない会話をしながら、学校までの坂道を登る。

「あれ?」

 突然遼君が声をあげた。その視線の先には、

「あの車って………」

 いつぞやの黒塗りのベンツが悠々と走っていた。

「また誘拐されちゃうかもね」

 冗談めいた口調で私は言った。

「まさか」

遼君は苦笑いをしながら、それでもあの車が気になっているようだった。

あの誘拐事件から一週間が経っていた。
遼君が可愛い女の子との再会について頬を思いっきり
緩ませながら話すのを見て、私はどうしようもなく不愉快な気分になって、
そしてそんな自分が嫌になったりもした。

 黒塗りのベンツは周りに威圧感を振りまきながら進んでいって、校門の前で停止した。

「もしかして……」

 私の心に今あるのは、不安。
  じゃあ遼君の心の中にあるのは?

「マジかよ……」

 ――――もしそれが期待だったら、

「中原さん、おはようございます!!」
「え!? 綾瀬さん、それウチの制服じゃ」

 ――――そしたら私は、どうすればいいんだろうか?

 

 正直、驚いた。こんなことが起こるなんて思ってもみなかった。

「今日からお世話になります、綾瀬楓です。よろしくおねがいします!!!」

 朝のHR、担任の紹介をうけた後、綾瀬さんはそう言って頭を下げた。
彼女が教室に入ってきたときからずっと、教室中がざわめいている。

「すげー、可愛い……」
「ほ、惚れた……」
「あんな娘、初めて見た……」

 それくらい、綾瀬さんは可愛いのだ。

指定された席に向かう途中、綾瀬さんは僕の方を見てニッコリ微笑んだ。
…………それだけで、今日一日幸せに過ごせそうだった。

 

一時間目が終わってからの休み時間、当然クラスメイトたちは綾瀬さんのもとに詰め寄った。

「どこに住んでんの!?」
「え、えっと……桜ヶ丘のほうに」
「血液型は!?」
「え、Aです」
「誕生日は!?」
「十月さんじゅ」
「俺、高橋っていうの!!! よろしく!!!」
「え、あ、はい、よろし」
「てめえ、抜け駆けしやがって!!!! 俺武藤、よろ」
「お、俺佐藤!!!」
「え? え?」
「田中です!!!!!!!」
「わ、あわわ」

 可愛そうに綾瀬さん、飢えた獣たちに囲まれて。

「は、はう〜〜〜」

 漫画とかだったら混乱で目が渦巻きになっているんだろうなあ、
とか呑気に考えながら僕は席をたって、手を叩きながら群集の中に割って入った。

「はいはい諸君落ち着いて、綾瀬さんも困ってるだろ?」

 みんなが次第に落ち着きを取り戻し始める。もう高校生だしそんなにガキじゃないってことだろう。

「はあ、はあ…………中原さん、助かりました。ありがとうございます」

 言うと同時に天使の笑みが発動。生きててよかった〜。
  と、僕が和むのとは反対に、級友たちは殺気立っていった。

「何、おまえら知り合いなの?」

 し、しまった。

「い、いや、知り合いっつーか何つーか……」

僕は言葉を濁して何とか最悪の事態を回避しようと努める。

「い、いえ、中原さんは知り合いなんかじゃなくて……」
「そうそう知り合いなんかじゃなくて」

 ナイスだ綾瀬さん。

「中原さんは私の……だ、大事な人です」
「そうそう大事な……って、え!?」

 おいおいそんな顔を赤らめながら言ったら、みんなに誤解が……って、え?
  え?この娘は何を言ってるんだ!?

 ほらみんなまた殺気立ってるし、

「み、みんなほら落ち着いて、もう高校生なんだから大人に、ね?」

 何を言っても無駄のようだ。目に宿った殺意は消えるどころかどんどん膨らんでいく。

「や、やめろーーーーーーーー!!!!!」

 死刑、確定。

 

「あ、あの中原さん」

昼休みになった。私は待ってましたというばかりに彼のところへ向かった。

「どうしたの、綾瀬さん?」

 中原さんはにこやかに振り向いて、それからすぐ
「あ………やば」
「え?」

 すぐに気まずそうな顔をした。

「とりあえず外へ!!」

 中原さんは急に私の手を掴んで、教室から逃げ出すように走り出した。

「え? え? どうしたんですか?」

 いきなりの出来事に私の頭は上手く動いてくれない。中原さんは走り続ける。

「あ! こら中原!!!」
「抜け駆けは許さねえぞ!!」
「待ちやがれーーー!!!」

 教室中から野太い声が溢れ出すのを、走りながら私は聞いていた。でもそのときの私の心は、
中原さんと繋がれた右手にあって、他の人達のことなんてちっとも考えていなかった。

 胸が、すごくドキドキしていた。

 中原さんが私の手を握っている。

 私の、手を。

 私も中原さんの手をぎゅっと握り返す。

 このままずっと走っていてもいいな、なんてそんなことまで考えていた。

 

「はあ、はあ……ここまで来れば大丈夫かな……」

 鬼のようなクラスメイトたちから何とか逃げ切って、僕らがやってきた先は屋上だった。

「はあ、はあ、はあ、はあ………すっごく、ドキドキしました」

 綾瀬さんが息を切らしながらいった。

「ゴメンね、急にこんなに走らせちゃって」

 でも、こうでもしないと僕は確実に飢えた餓鬼ども、もとい愉快なクラスメイトたちに、
先ほど同様、ボコボコにされてしまう訳で。

「いえ、そんな………楽しかったですし」

 何故か綾瀬さんは顔を赤くしてモジモジしながら、まるで照れてるみたいにそんなことを―――

「あ」

 やっとその理由に気付いて、僕は綾瀬さんと繋いでいた手を急いで離した。

「そっ、そのっ、ごめん!!!」
「あっ………」

 離された僕の右手を見て、切なそうな声を出す綾瀬さん。そんな綾瀬さんを見て僕も
思わず顔が赤くなってしまったりして、もうどうすればいいか分からない。

「え、ええっと、その………それで綾瀬さん、なんの用だったの?」

 何とか平常心を取り戻して、僕は綾瀬さんに尋ねた。

「あの、お昼ご飯、ご一緒できないかなって思って」

 これまた顔を赤らめながら。全く、こんな可愛い娘にこんな表情でこんな提案をされたら

「うん、もちろんいいよ」

 断れるはずがないだろう。

「本当ですか!? ありがとうございます!!」

 そんでもってこの笑顔が、僕をとんでもなく幸せな気分にしてくれる。

 僕と綾瀬さんはベンチに腰掛ける。流石にもう十二月ということもあって周りには誰もいない。

綾瀬さんは嬉しそうに鼻歌なんかを歌いながらお弁当の包みを開いていく。
その様子を僕はにこやかに見ながら自分の弁当を……

「あ」

 持っていなかった。弁当、というか今朝コンビニで買ったおにぎりは教室に置きっぱなしだ。

「どうしました?」
「いや、昼飯、教室だった」

 取りに戻ろうにも教室に行った途端、僕はこの天国には帰って来られなくなるだろう。
愉快な仲間達の手によって。

「す、すみません。私が急に」
「いや、急に連れ出しちゃったのは俺だからそんな謝んないでよ」

 どっちが悪いとかそういう問題じゃなくて、仕方のないことなのだ。

「昼は次の休み時間にでも食べればいいから、綾瀬さんは気にしないで」

 ね、と付け足して僕は綾瀬さんに言った。

「それじゃあ、私のお弁当少しあげます」

 少し悩んだ後、綾瀬さんはそう言った。

「そんな、綾瀬さんのもらうなんて」
「いいんです。私どうせ食べきれないんだから」

 そう言って、はい、とサンドウィッチを手渡してくれた。なんだかんだ迷った挙句、僕
はそれを受け取って、楽しい昼食の時間を過ごした。

5

 ―――おかしい。

 昼休みが始まってもう三十分が経つのに、遼君はまだやってこない。
いつもなら昼休みの連絡放送と昼ごはんの為に、毎日放送室にやってくるのに……。
無論私が放送室にいるのは遼君と昼ごはんを食べるためだけど。

 ぐ〜〜。

 お腹が間抜けな音を立てて鳴る。遼君が来るまで私も昼ごはんは我慢していた。
一体何があったのだろう? 先生に用事でも頼まれたのだろうか?

「遅いよ、遼君……」

 思わずそう呟いてしまった。一人でいる放送室は静かで寒くて、そして寂しかった。

「はあ………」

 何だか、嫌な予感がする。

 教室にでも見に行ってみようか? でもそんなことしたら遼君に変に思われるだろうか?
  でもやっぱり心配だし、行ったほうがいいかな。どういう理由にすればいいだろう?

『放送室に来なかったから心配になって』

 これじゃあ好きだってことがバレバレだ。

『連絡放送サボりやがって何やってんだコラァ!!』

 うん、これはいい。でもいちいちこんなことで教室まで行ったら嫌われるだろうか?
  ウザイ先輩だなんて思われたら一貫の終わりだ。ああもうどうすればいいんだろう?
  とにかく会いたいよ……会いたいよ遼君!!

「ええいもう、行ってしまえ!!!」

 とりあえず教室にいるかどうかだけ見に行ってみよう、
それからどうするかはその時考えればいい!!

「突撃!!」

 私が放送室を出ようとノブに手をかけたときだった。

「あれ?」

 勝手にドアのノブは回って扉が開かれた。バランスを崩して私は前に倒れる。

「……おわっ、と。大丈夫っすか先輩?」

 バランスを崩した私が倒れこんだその先は、

「りょ、遼君……」

 誰よりも待ち望んだ彼の胸の中で、私はしばらくそのままで居たくなった。
でも、その幸せはやっぱりそんなに長くは続かないようで、

「よいしょっと」

 遼君は私の肩を掴んで、私の体勢を立て直した。

「怪我はないっすか?」
「……うん」

 やさしく笑う遼君。私はどうしようもない幸福感に包まれる。

 ―――――だけど、

「し、失礼します」

 ―――――だけどその瞬間、私の幸せは音を立てて崩れ去った。

 

 

「んじゃあ入って」

 僕は綾瀬さんを中に招き入れた。

「し、失礼しま〜す」

 綾瀬さんがおずおずと中に入ってきた。少し緊張したその表情も、
ああ、ため息が出そうになるくらい可愛い。

「……………誰?」

 先輩はポカンとした様子で呟いた。

「あ、こちら今日転校してきた綾瀬楓さんです。学校の案内してたとこなんすよ」
「よ、よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げる綾瀬さん。

「……………先輩?」

 未だにただ立ち尽くす先輩に、心配になって僕は声をかけた。

「……え? あ、ゴメンゴメンちょっとぼーっとしちゃって……」

 申し訳なさそうに笑った後、先輩は「よろしくね」といつものような口調で言った。

 だけど、その昼休みの先輩の様子はどこかおかしかった。

 

 

 一瞬で分かった、とでも言うべきだろうか。

 あの人は、放送室にいたあの先輩は、確実に中原さんのことが好きだ。

 昼休みが終わって午後の授業が始まっても、私はそのことを思い出していた。

 最初に中原さんと喋っていたときのあの表情、同じく私が入ってきた時のそれ、
そしてその後の様子。

『女の勘』とでも言うものなのだろうか、こんなのは初めてだ。

 綺麗な、人だった。

 あの人は私の何倍もの時間を中原さんと過ごしていて、私の知らない中原さんを沢山知っている。
正直、分は悪い。

でも、

「…………負けるわけには、行かないですよね」

 誰にも聞こえないくらいの声で、私は言った。自分自身を鼓舞するために、
この戦いに勝利するために。

 中原さんの後ろ姿を見て、今日何度目か分からないため息をついた。
黒板に書いてある授業内容をノートに写している。

 ああ、これから毎日彼の背中を眺められるなんて、私は何て幸せなんだろう?

 だめだめ、背中なんかで満足してちゃ駄目なんだ。

 もっと、もっと近くに。

 もっと、中原さんの近くに。

 ―――そして願わくば………。

 その後のことを考えると、顔が赤くなった。

 これももう、今日何度目か分からない。

 よし、決めた。私も放送部に入ろう。

 まずは、そこからだ。

 

 不安は的中した。当たりも当たり、大当たりした訳だから『女の勘』っていうのも
あながち間違いじゃないんだろう。

「…………ハア」

 昼休みが終わって始まった午後の授業。今の私には何の教科なのかは分からないし、
興味すらない。

 窓の外を見ながら考えてるのは、もちろん彼のこと。

 あの娘(綾瀬さんっていったっけ)に話しかける遼君の目、それに遼君を見る彼女の目。
頭にこびりついて離れない。

(嫉妬ってやつか………)

 自分がこんなにそんなことをする人間だなんて今まで思ったこともなかった。

 遼君は彼女のことをどう思ってるんだろうか?

 あれだけ可愛い娘だし、嫌いってことはないだろう。
でも、でもきっと知り合ってまだ少ししか経ってないし、好きってことも………
希望的観測すぎるだろうか。

 全く彼の気持ちは分からない。

「でも」

 はっきりしてるのは、あの娘が遼君のことを好きだっていうこと。

 あの表情は、あの声は、あの目は、完全に恋をしている。

「…………ハア」

 それを考えるだけでまた、胸の中にとんでもなく汚いものが込みあがってくる。

 ―――嫌だ。遼君を取られたくない。遼君が私以外の女の子にあんな風に笑うのを見たくない。

 それに、それにあの娘が私は許せなかった。放送室に、私と遼君の聖域に、
入り込んできたあの娘が私は許せなかった。

「…………負けるもんか」

 そうだ、負けてたまるか。遼君を好きな気持ちだったら、出会って間もないあんな娘になんか
負けるはずがない。もう怖がってなんかいられないんだ。
『ただの先輩』のままでいる訳にはいかないんだ。臆病な自分を変えないといけないんだ。

「…………よし!」

 今日は遼君の勉強を見てあげよう。密室二人っきりの放送室、これは私にとっての最大の武器だ。
あわよくば急接近!!

 さあ心は決まった。あとは全力で事にあたるのみ!!

 ノートに大きく太く、『打倒綾瀬楓!!!!』と書いて、私の決断式は完了した。

6

「あー遼君、違うって〜。組み合わせはPじゃなくてCを使うんだって〜」

 それは、何てことないいつもの放課後の放送室、

「あ、そうっすね」

 ………の、はずだった。

「わ〜、中原さんの字って結構綺麗なんですね〜」

 綾瀬さんが右隣で感心したような声をあげる。

「そ、そうかな?」

 一方左には、

「ほら遼君、集中して! もうテストまで時間ないでしょ!」

 ちょっぴり不機嫌な先輩が座っている。

「あ、はいすいません」

 なんだか今日はいつもと違ってやけに熱心だ。

「頑張って下さい!! 確立はちゃんと考えれば絶対できる分野ですから!!」

 それとは対照的に楽しそうに笑っている綾瀬さん。

「うん、ありがと」

 まさに『両手に華!!』って感じな状況なんだけど、僕はヘラヘラ笑っている訳にもいかず、
「ほら!! 全く気抜くとすぐ計算ミスするんだから〜」
「通分は早めにやっておくといいですよ〜」
「…………………」
「…………………」

 何故だか睨み合う二人。
  全く持って辛い状況だった。綾瀬さんの笑顔に釣られて頬が緩むと、
何故か先輩のほうから殺気が………。

「あは、はははは…………」

 もはや、笑うしかなかった。

 

「寒いね………」
「そうっすね………」

 綾瀬さんは車(いつものベンツ、流石金持ち)で帰ったので帰り道、
私は遼君と二人っきりになることができた。

「部員、増えましたね」
「……そうだね」

 今の私の返事はきっと、最高に不機嫌だったに違いない。
  全く放送部に入ってくるんなんて……、まあ遼君に近づくという目的においては
かなり効果的な手段だとは思う。

「これで映像とか、ラジオドラマとかもできるかもしんないっすね」
「……うん」

 遼君が少し嬉しそうなのも、また気に食わない。まあ彼が喜んでいるのは、
単純に活動の幅が広がるということからのみだろう。
  でも、

「遼君」
「はい?」

 でも、もしそれ以外の理由で喜んでいるんだとしたら、

「………寒いね」

 そんなことを考えるだけで胸が不安で一杯になってしまう。

「え、ええ……」

 微妙な沈黙が流れて、それから遼君が口を開いた。

「雪でも降らないっすかね〜。ね、先輩?」

 遼君は私に気を遣って明るく振舞ってくれているのだろう、そんな遼君の優しさが胸に染みてきた。

「そうだね〜。何か雪って降ってくるだけでワクワクするよね〜」

 そうだ、今は、少なくとも今だけは遼君も私のことを考えてくれている。
  二人っきりでいることが出来る時間なのだから、目一杯楽しもう。

 
  さっきの時間があった分、今日のこの時間は格別だった。
  他愛のない話をしながら遼君と歩く。
  ああ、やっぱり私は遼君のことが好きなんだ。
そう思うのと同時に、暗い気持ちも一緒にやってくる。
 
  この笑顔を、彼を独り占めしたい。他の女の子なんかには絶対渡したくない。
  私だけを見て欲しい。私だけに笑って欲しい。私だけ、私だけを……。

「………もう」

 ここまで考えて止めた。頭を振ってその考えを振り払う。
  自分は全く持って嫌な女だ。何て汚くて、自分勝手な感情なんだろう。

「どうかしましたか?」

 遼君が心配して声をかけてきてくれた。

「ううん、何でもないよ」

 心配かけないように、笑って言った。うん、遼君は優しい。

 そんな優しい彼に相応しくなれるように、私はいい女の子にならなきゃいけない。
  息を深く吸って、吸った分全部を白く吐き出した。
ああ、この醜い気持ちも全部白い息と一緒に消えていってくれればいいのに。
そんなことを考えて、ちょっと都合が良すぎるかなと思って、一人で苦笑いした。

 あたりはすっかり暗くなってしまっていて、頭上には星がキラキラ光っている。
  遼君は白い息を吐きながらそんな空を見上げていた。私もそれに続いて夜空に目を向ける。
二人の息が白く空に昇って、混ざり合って、そして消えていった。

「星、綺麗だね」
「そうっすね〜」

 そう答える遼君の横顔は楽しそうで、だけど何だか少し哀しそうだった。
  遼君はたまにこんな顔をする。どうしてだろう?

「星とか詳しいの?」
「えっ? 何でっすか?」
「何かそういう風にみえたから」

 私がそう言うと遼君は笑いながら
「別に詳しいなんてもんじゃないっすよ」

 そう言ってから少し間を置いて、
「ただ……ぼんやりと眺めるのが、何となく好きってだけです」
「そうなんだ」

 そう言ってまた星空を見上げる遼君に私も続く。分かる星座は……オリオン座くらいだった。

「あはははっ」
「どうしたんすか、いきなり?」
「遼君、口ポカーンって半開きになってたよ?」

 その姿があまりにも無防備で、可愛くって、私は声を出して笑った。
「………人の癖っていうのは、やっぱり移るもんなんすかね」
「えっ?」
「いや、何でもないっすよ」

 恥っずかしいな〜と、遼君が誤魔化すように笑う。その前に見えた一瞬、
彼の顔は今まで見た中で一番寂しそうだった。

「…………………」

 理由が、とても気になった。だけど私は何も聞かなかった。
聞いたところできっと誤魔化されてしまうだろうし、それにしつこい女は嫌われてしまうだろう。
  というか、

「…………………」

 聞けなかった、のだ。やっぱり私はとんでもなく臆病だ。

「寒いっすね……」
「そうだね……」

 北風が私たちの間を吹きぬける。きっとくっついて腕を組んだりしながら歩けたら
寒くなんかないんだろうなあ、ってそう思って、そんな光景を想像した。

 ―――うん、いい。

「ねえ遼君」
「何すか?」

 でもやっぱりそんなこと言えなかった。

「ううん、何でもないよ」

 首を傾げる遼君。そんな彼に気付かれないように、私は静かにため息をついた。

「何か今日、二人とも『何でもない』ばっかっすね」

 笑いながら言う遼君。

「あはは、そうだね」

 それにつられて私も笑う。

 そんな、帰り道。

7

「はい、止め。鉛筆置いて〜」

 チャイムと同時に教師の言葉が発せられて、期末テスト二日目は終了した。
さして出来た訳ではないんだけれど、それほど出来なかったという訳でもなく、
まあ詰まるところいつも通りということだった。

「問3の答えってさ……」
「ああ、34通りだろ?」

 答えの確認のため話しかけてくるクラスメイトと適当に会話する。

「ああ、よかった〜。当たってたよ」
「ああいうのって不安になるよな〜」

 手早く帰り支度を済ませて席を立つ。

「じゃ〜な〜」
「おう、またな」

 辛い試験期間だけど、唯一の救いといえば早く帰れるということだろう。
今日は十二時丁度に全ての試験が終了した。
  テスト期間中は部活動は禁止されているので、放送室に行くことはできないし、
恐らく連絡放送の依頼もないだろう。
さあ今日も早く帰って昼寝と行くか、と思って席を立ったところだった。

「あの……中原さん」

 綾瀬さんだった。言うまでもなく今日も可愛い。
声かけられるだけでドキッとするじゃねえかこの野郎。

「どうしたの?」
「いや……あの、えっと」

 言いにくそうな、ためらっているようなそんな感じ。一体どうしたんだろう?
  まさかチャックでも開いていただろうか!?
  急いで確認。
  よし、開いてない!
  じゃあ何だ? もしかして、鼻毛か!? それはまずい!!
  いくら鼻の下を伸ばしたって、そればっかりは確認できない。
  くそっ、鏡!! 鏡はどこだ!!

「……これから、何か予定とかありますか?」
「ふぇ?」

 鼻の下を伸ばした状態の僕には、そんな間抜けな返事しか出来なかった。

 

「……こ、ここが『幕怒鳴る度』」
「いや、何か変換間違ってるけどね」

 綾瀬さんは緊張した面持ちで、おなじみの赤地にMの看板を眺めていた。

「こういうとこってやっぱ、初めて?」

 綾瀬さんは恥ずかしそうに頷く。
  彼女のようなお嬢様をこんなところに連れて行くのも気が引けたけど、
僕の財布の中の状態を考えるとこういう安いところしかない訳で。

「ほんとにいいの? こんなとこで」
「も、もちろんです!!」

 やっぱり綾瀬さんみたいな人を連れて行くのは高い店……ロイ○ルホストとかがいいんだろうか?
  てか高い店って言ってロ○ホぐらいしか思いつかない自分が嫌になった。
悲しきは庶民の性、か……。

「それじゃあ入ろっか」

 気を取り直して僕は言った。

「は、はい!!」

 そんなこんなで、僕らは昼ごはんを食べに来たのだった。

 

「い、いただきます」

 綾瀬さんは丁寧にそんなことを言ってから、ハンバーガーの包みを開ける。

「このまま、かぶりつくんですよね」
「う、うんそうだよ」

 もちろんこんな所にナイフもフォークもあるはずがない。
  そしてハンバーガーを口に運ぶ。
  真剣な顔でハンバーガーを味わう綾瀬さん。
  そんな様子を黙って見る僕。
  ファーストフード店ではまず見られないような奇妙な構図。

「…………ど、どう?」

 ハンバーガーを飲み込んだ綾瀬さんに僕は恐る恐る尋ねた。

「はい、とても美味しいです!!」

 いつもの太陽のような笑顔を見て、僕はやっと安心した。

「初めてだったから少し心配してたんですけど、すっごくおいしいです!!」

 そう言って綾瀬さんは二口目を食べた。

「よかった〜」
  そう言って僕もようやくハンバーガーを食べ始めた。
  綾瀬さんはポテトを食べては感動し、コーラを飲んではびっくりし、
さらにここまで安い値段に疑問を持ち(というかきっと、いつも食べてる物が高級すぎるのだ)、
とにかく見ていて飽きなかった。

「……こういうのって、テレビとかで見て憧れてたんです」

 うっとりしながらそんなことを言う綾瀬さん。

「俺なんかにしたら、こんなんしょっちゅう何だけどね」
「えっ、そうなんですか!?」

 何だかショックを受けたように綾瀬さんは言った。

「そりゃあ、俺らにしたらマ○クなんて普通だしね」

 僕がそう言うと綾瀬さんはホッとしたように、

「そ、そういうことですか。もうビックリさせないでくださいよ」

 そう言って一息ついた。僕にはさっぱり分からない。

「どゆこと?」
「そ、それはですね、つまり……」
「つまり?」
「こ、こういう風に、中原さんみたいな人と………で、デート……するのに憧れてたんです」
「………………………………………」

 言葉を失う。
  思考回路がまともに働かない。
  ただひたすら『デート』という単語が頭の中をぐるぐる回って、
綾瀬さんの反則なくらい可愛い仕草が目から離れない。
 
  え? デートってあれ? 「date」? 日付とかそういう意味だよな。
うんOK、合ってる合ってる。これくらい中学知識さアハハハ。
うん、もちろん日本語でのアレとは違うよね。まさかまさか、そんなことって、ねえ?
  え、でも待てよ。綾瀬さんのあの言い方はどう見ても………あは、あはははは。

「あ、あの中原さん?」
「え? あ、ああごめんごめん、ついボーっとしちゃって」

 これって、もしかして僕は本当に綾瀬さんに、その……そーゆー風に見られてる
ってことなんだろうか? いや、綾瀬さんって何だかんだで世間知らずっていうかそんな感じだし、
そういう意味で言ったわけじゃ……。

 頭の中で必死にその可能性を否定する。だってこんな可愛い娘が僕のことを好きになるなんて
考えられないし………それに何より勘違いしてしまうのが怖かった。
  臆病、とでもいうのだろうか。そうなのかもしれない。
だけど、どうしても僕は慎重にならざるを得ないのだ。
  格好悪いけど、やっぱり思い切ることは出来ない。

「………それで、中原さん」
「は、はい何でしょう!?」

 何て考え事をしていたから、僕の返事はこんなものになってしまった。
そんな僕をみて綾瀬さんがクスリと笑った。
その笑顔はやっぱり天使みたに温かくて、陳腐な比喩だろうけど、
僕にはその表現しか出てこなかった。

「それで、中原さんはそういうのには慣れてるんですか?」

 いつになく真剣な顔で綾瀬さんは聞いてきた。

「えっと……」

 その態度を見て、思わず答えあぐねた。記憶を辿って綾瀬さんの問いへの回答を探す。

 ―――少なくとも、こういうところに女の子と来たことはない。

「慣れてなんかないよ」

 ―――そう、こういうところに来たことは、ない。

「ほ、本当ですか!?」
「もちろん」

 笑って、心の中を見透かされないように、笑って僕は答えた。
  嘘は言ってないのだから、問題はないだろう。

「そうなんですか……、よかったあ」
「そもそも、俺がそんなにモテるように見える?」
「は、はいもちろん!!」
「そ、そう……」

 何かこの娘といると妙に照れるっていうかドキドキするっていうか、
心のどこかが落ち着かなかった。
でもそれと同時に、このくすぐったさに楽しさを覚える自分もいて、―――でも、
怖さを覚える自分もいて、やっぱりどうにも複雑だった。

8

「今日はとっても楽しかったです、ありがとうございました」
「いやいや、こっちも楽しかったし」

 丁寧に頭を下げる綾瀬さんに僕は恐縮してしまった。

「はい、それではまた明日」
「うん、またね」

 最後に綾瀬さんの笑顔を残して、いつもの黒塗りベンツは遠ざかっていった。

 というか、マ○クの前にあんな高級車が横付けしている光景なんて、
一生に一回見られるかどうか分からないようなものだ。

「………何つーか、貴重な体験だったかも」
「ふ〜ん、そう。そんなに楽しかったんだ」
「へ?」

 振り返ると僕のすぐ後ろに、由美先輩が立っていた。

「う、うわあ!!」

 その距離があまりに近かったから、僕は思わず飛びのいてしまった。

「………そんなに楽しかったんだ、あの娘と一緒にいて」
「………せ、先輩?」

 先輩がただ、無表情でそこに立っていた。

「い、いつから見てたんですか?」
「二時間くらい前から」

 それってほぼ最初からじゃないか。

「ど、どうしてここに?」
「帰りに寄ったら偶然二人がここにいたから」
「アハハ、覗き見なんて趣味悪いっすよ〜」
「…………………」

 先輩の様子はおかしかった。
  ふざけてる様子もないし、別に僕をおちょくってる訳でもなさそうだ。
  微妙に気まずい沈黙の後、先輩が口を開いた。

「……ねえ遼君」
「は、はい」

 今までに見たことのないような先輩の顔、それは何だか―――

「……あの娘のこと、好きなの?」

 ―――何だかとても、寂しそうだった。

「………先輩、どうしたんすか?」

 あまりに様子がおかし過ぎる。今にも壊れてしまいそうな、そんな表情で僕を見る。

 先輩の方に手を伸ばす。

「あっ………」

 先輩の体がビクンと揺れた。

「大丈夫、ですか?」

 その一言を機に、先輩の表情が変わった。

 『戻った』という表現が適切だろうか、ともかく先輩の様子はそれからだんだん
人間味のあるものに変わっていった。

「あ、アハハハ!! 冗談よ冗談」

 まるで今までのことを全て誤魔化すために笑っているようだった。

「もう、遼君たら本気でビックリしちゃってるんだもん。
私の演技力も捨てたもんじゃないかもね〜。あはははは〜」
「……何か、あったんすか?」

 そうやって笑っている先輩は、とても無理をしているように見えた。

「何にも無いってば〜、もう〜遼君ったらホント騙されやすいんだから〜!!」

 何にも無い訳ないじゃないか、そんな顔してたら。

「……その、俺で良かったら何でも力になりますよ!!!」

 そんな先輩が心配で、放っておきたくなくて、僕はそんなことを言っていた。

「えっ?」

 僕がそう言うと先輩は少し驚いたように黙って―――まあ僕もこんなことを言った自分に
驚いたんだけど―――それからため息をついて、

「………その張本人にそんなこと言われてもね」
「え、何です?」
「何でもないですー」

 一言目は、何と言ったのか良く聞き取れなかった。

「先輩」
「何よー?」
「何か、拗ねてます?」
「なっ、そ、そんなことある訳ないでしょ」
「そ、そうっすか」

 どう見てもそういう風に見えるのだが。

「……ねえ、遼君」
「はい、何すか?」

 少しの沈黙が過ぎた後、先輩がおもむろに口を開く。

「さっき『何でも力になってくれる』って言ったよね?」

 確かにそう言った。思わず出た言葉ではあったが。

「ええ、まあ。俺に出来ることだったらですけどね」
「うん、問題ない」
「?」

 僕には先輩が何を言おうとしてるのか分からなかった。
だけど先輩は何だかとても楽しそうに、ニヤニヤと笑っている。

「そしたら、これからの登下校は毎日必ず私と一緒にすること!!」

 先輩が言った意外なことに、僕は思わずポカンとして言葉を失った。

「いい、毎日だからね、毎日!! 一日だってサボったら駄目なんだからね!!」

 毎日一緒に登下校、別にどうってことない。クラスの男子どもには何て言われるか分からないけど。

「………はい、別に構わないっすけど」
「ホントに!!??」

 断る理由がどこにあるというのだろう。

「ええ、っつーかそんなことで良いんですか?」
「アハハ、やったー!!」

 てっきりもっと無理難題を押し付けられるのかと思っていたので、
思いっきり拍子抜けしてしまった。

「約束だからねっ、遼君!!」

 何故かは分からないけど子供みたいにはしゃぐ先輩を見て、僕は少し安心した。

 

 走る車の中から流れていく町の景色をぼんやり眺めながら、彼のこと、中原さんのことを考える。

 今日は幸運にも中原さんと二人でお昼ご飯を食べに行けた。今まで一度も行ったことのなかった
ファーストフード店に連れて行ってもらって、おいしくハンバーガーを食べて、
楽しくおしゃべりをして、まさに待ち望んだ通りの展開。

 なのに、

「……なのに、どうしてでしょうか?」

 こんなに、満たされない感じがするのは。

 この数日間、中原さんと一緒に過ごして分かったことが幾つかある。

 一つ目は、中原さんがあまり積極的に人と交わろうとしていないこと。
クラスに特に親しい友人が居るわけでもなく、どこか一歩引いた付き合いとでもいうような友好関係。
人当たりも良く、もっと異性にも人気があるように思えていたが、彼自身が何と言うか、
心に『壁』を作っている感じがした。

 その壁は限りなく透明に近くじっと目を凝らしても分からないくらいで、
それでも確かにそこに存在していて、彼と他人とを隔絶していた。

 恐らく、その壁の存在に気付いていない人も多くいるのだろうと思う。
私だって最初はそんなこと分からなかった。
それでも何となく違和感がして、私は中原さんを見続けた。
確信を得たのは一昨日くらいだろうか。

 それくらい、中原さんは上手に人を避ける。避けた相手に不快感を与えることもなく、
上手く人から遠ざかろうとする。
  私の彼への好意も、わざわざ転校までしてきた時点でバレバレだろうに、
彼の行動が鈍感なためのものなのか、それとも意識して気付かないようにしているものなのか、
よく分からないものだった。

 そして二つ目、これが一番問題だ。

「…………はあ」

 思い出すだけでため息が出る。

 その中原さんの『壁』が、ある特定の人物の前でだけ、薄くなる。
もちろん完全になくなるという訳ではなくて、薄くなるだけ。
それでもその人の前では、中原さんの笑顔は、ずっと自然で、ずっと本物に近い。
私やクラスメートと話しているときとは確実に違う。
  その人物は一番私が負けたくない人で、認めざるを得ない現実は今まで感じたことのないくらい
歯がゆくて、悔しいものだった。
中原さんと一緒に過ごした時間、その点でやはり私は彼女に敵わない。

 しかし、それ以外の部分では負けている気はしない。容姿でも、彼を想う気持ちでも、
少しも譲る気持ちはないのだ。強いて一つ上げるとするなら………、

「………これぐらいでしょうか」

 自分の胸部に目を向ける。

「………情けない」

 思わずそうこぼしてしまった。眼下に広がるはなだらかな平原。
もちろん女性の価値がこれの大きさだけで決まるわけではない、ということは分かっている。
それでも敵役の彼女と比べると、自分のそれは明らかに劣っていた。

 やっぱり中原さんも、その………大きい方が好きなのだろうか?

「お嬢様、どうかされましたか?」

 そんな私の様子に気付いたのか信号待ちの際、運転をしていた滝村さんが声を掛けてきてくれた。

「いえ、その……」

 そうだ、滝村さんにも聞いてみよう。
彼は私が生まれたときからずっと側に居てくれた信頼できる老執事だ。

「あの、滝村さん」
「はい、何でしょう?」
「……滝村さんは、『山』と『平地』だったらどっちが好きですか?」
「……は? それはどういう意味で?」
「いいからお願いします!!!」

 しばらく悩んだ後滝村さんは、

「そうですな〜……私は『山』ですかな」

 そう答えた。

「……そうですか」

 やっぱり男とはそういう生き物らしい。思わずため息が出てしまう。

「山は自然も多く、美味しいキノコや山菜も沢山取れますしな。
それに何より空気が綺麗で……っと、お嬢様どうされましたか?」
「………いえ、別に」

 滝村さんは減給処分にでもしてもらおうか、そう思った。

 

 腕時計を見る。約束の時間まで、あと十分。ちなみに待ち合わせ場所には三十分前からいた。
何と言うか、落ち着いていられなかったのだ。

 だってだって、朝から待ち合わせをして一緒に学校に行くなんて……まるで、まるで、

「まるでカップルみたいじゃない……」

 自分でも自分の顔が思いっきり緩んでいることには気付いていた。
決して知り合いには見せたくないような顔だったが、自分ではどうすることも出来なかった。
これから私のためにここに来てくれる遼君のことを考えると、どうしてもにやけてしまうのだった。

 手鏡を取り出して身だしなみをチェック。
家を出る前も散々確認したが、この場所に着いてからも何回やったかは分からない。

 よし、大丈夫、私、可愛い。

 自分で自分に何度も言い聞かせる。

 ああ、遼君が来たらまず何て挨拶しようか。

 笑顔で元気に、

『おはよう遼君!!』

 だろうか?

 それとも甘えた感じで、

『もう〜遅いよ〜遼く〜ん』

 とかもいいかな?

 そしたら遼君は、いつもみたいにちょっと困ったように笑いながら、

『すいません先輩、ちょっと寝坊しちゃって』
『も〜こんなに手冷えちゃったよ〜』

 それでそれで、遼君は私の手を優しく握って、

『ああ本当にゴメンよ、僕の愛しの由美。僕がすぐに暖めてあげるからね』
『だ、ダメよ遼……みんな見てる』
『そんなの関係ないよ由美。さ、目を閉じて………』
『もう、遼ったら……………』

 …………………………………。

 ……………………。

 ……………。

 って、なんじゃこりゃああああああ!!!!!

 思わずそう叫びたくなるところを、寸前で我慢する。

「はあ……はあ……、まったく何考えてんだか……」

 色んなところが色々間違っている、全く持って大した想像力、もとい妄想力だった。

 何か遼君は私のことを呼び捨てにしてたし(まあ、別にそれも悪くないんだけど)、
それに私も『遼』だなんて………。

「……うん、いい」

 ためしに口に出してみようか、ああでも何か恥ずかしいなあ〜。

 うん、でもちょっとだけ。ちょっとだけ言ってみよう。

「りょ、遼……」
「はい、何すか?」
「って、うわああああああああ!!!!!」

 いつの間にか私のすぐ隣に遼君が立っていた。

「な、何で、そこに?」
「何でって、そういう約束だったじゃないっすか」

 当然のように言う遼君。全く本当にビックリした。

「いや、いつの間にそこにいたのかって聞いてるの!」
「ちょっと前から」
「どうして声かけてくれなかったの?」
「言いましたよ、『おはようございます』って。でも何か先輩上の空だったっていうか」

 まさかそこまで自分が妄想に耽っていたとは……。というかその姿を遼君に見られていたなんて、
恥ずかしくて死にそうだ。これでは『もう〜遅いよ〜遼く〜ん』なんて出来るはずもない。

「という訳で、改めておはようございます。由美先輩」
「おっおお、おはよう遼君」

 全くこっちが照れてどうするんだ。

「待ちましたか?」
「う、ううん、私も今来たところだから」

 ああ、一度やってみたかったこのやり取り。ホントにカップルみたいだ。

 腕時計を見ると時間はきっかり待ち合わせ時間の五分前。流石遼君。

「今日も寒いっすね〜」
「うん、そうだね」

 日に日に寒さを増していく十二月中旬。だけど今の私には寒さなんて関係なくって、
ただ遼君と二人でいられることが嬉しかった。

「それにしても先輩」
「ん、何?」

 おもむろに遼君が口を開く。

「昨日も言ったんすけど、ホントにこんなんでいいんですか?」
「え?」
「だからその………俺が先輩の力になるっていうのです」
「ああ、そのことね……」

 しかし、昨日の自分のことは正直思い出したくないくらいだ。

 帰り際に偶然立ち寄ったファーストフード店で、遼君と綾瀬さんを見つけて、
それからずっと二人のことを離れた席から見ていた。

 その時の私の様子はさらにヤバかったと思う。

 頼んだ飲み物の中の氷を、気付いたときには全て粉々に砕ききっていた。

 ―――どす黒い気持ちがグルグル回って、抑えきれなくなって、結局遼君の目の前に出て、
あんなことまでしてしまった。

 格好悪過ぎる、思い出すと自己嫌悪で首でも吊りたくなってしまう。

 最終的には正気を取り戻すことが出来たけど、
それまでは完全に嫉妬に狂って理性を失ってしまっていた。

 ああ、あんな顔を遼君に見られていたのかと思うと………。

「えっと………」

 しかし、どう説明したらいいんだろうか?

『自分の汚い嫉妬が嫌で、でも遼君がいつでもわたしの側にいてくれれば
そんなこともなくなるだろうからです』

 …………………………。

 ………言えるはずない。

 言える訳がないし、こんなのだって結局は根本的な解決には繋がらない応急処置に過ぎない。

 私が強くなるしか、ないんだと思う。私が強くなって、自分にもっと自信を持って、
それで遼君と思いが通じ合えたなら、そうしたらきっとこんな気持ちもなくなるんだろう。

 だけど今は、今はまだ

「…………迷惑、かな?」

 それには時間がかかるだろうかから、今はまだ少し甘えさせて欲しい、
こうやって誤魔化させて欲しい。ダメかな、遼君?

「い、いや迷惑なんて事はないんすけどね」

 急いで否定してくれる遼君。

 優しくて、こんな駄目な自分でも一緒にいてくれるのが嬉しくて、やっぱり私は遼君が好きだ。

「うん、ありがとっ」

 少し照れたように頭を掻きながら、私のすぐ隣を歩く遼君。
  待っててね、遼君。頑張ってすぐに遼君に相応しい女の子になるから。

「……頑張れ、あたしっ!」

 遼君に聞こえないよう小さな声で、新たな決意を固めて私は意気揚々と歩き出す。

 と、その矢先、

「あ、あれ」
「……はあ」

 目の前を忌々しい黒塗りベンツが通り過ぎて、少し行ったところで停車した。

「おはようございます、中原さん!!」

 中には案の定、宿敵綾瀬楓嬢が。

「おはよう綾瀬さん」
「はいっ、おはようございます。………あ、あと松本先輩も」

 全く朝からやってくれる。

「お、おはよう綾瀬さん」

 必死で笑顔を作って挨拶を返す。

 頑張れ、頑張るんだ私。遼君に相応しい女の子になるんだから、
こんなことで頬をピクピクいわせていてはダメだ。

「滝村さん、ここまででいいので降ろしてください」
「かしこまりました」

 うわ、なんか上品そうな運転手。どんだけ金持ちなんだ、この娘の家は。

「では、行きましょうか中原さん」
「え、あ、うん」

 何でこうなるのかなあ、心の中で深い深いため息をついて、学校への坂道を遼君と、
邪魔者と一緒に歩いていった。

「……頑張れ、あたし」

 遼君に聞こえないように私は小さく呟いた。

9

『今日は楽しかった。ありがとね、遼』
『………ああ、うん』

 ここで別れなくてはいけないのが名残惜しくて、
電車を一緒に降りることすら出来ないのが悔しくて、
自分が受け入れた約束であるのにそんなことを思う自分にどうしようもなく腹が立って、
僕の返事は図らずとも歯切れの悪いものなってしまった。

『………………………』
『………………………』

 微妙な沈黙が、僕らを包む。

 ――――この電車を降りたら、僕らの関係は『別になんでもない友達』に戻る。

 せめてそれまでは、そう思って僕は彼女の手を握る僕の手に、少し力を込めた。
  そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女は苦笑いに似た表情を浮かべて僕の手を握り返した。

 電車がもうすぐ、駅のホームに入っていく。
  今日の終わりは本当に、もうすぐそこまで来ていた。

 おいおい、別にこれが今生の別れでもないだろ?
  これからだってこんな機会は何回だってあるんだし。
  そう自分に言い聞かせるが、それでも胸の痛みは引いてくれなかった。

 嫌だ、終わって欲しくない。

 今日に終わって欲しくない。

 だけどそれでも、僕の意思とは無関係に、僕らを乗せた電車はゆっくりと、
ゆっくりと減速していって、そして――――停まった。

『それじゃ、バイバイ』

 荷物を持って、彼女が言った。その顔は、相変わらず優しく微笑んでいた。

『……うん、また』

 彼女の手を、離す。

 振り向きもしないで歩いていく彼女を少しの間見送って『彼女とは別の』扉から僕も電車を降りた。

『…………………はあ』

 ホームに彼女の姿は見えなかった。この目で見送ったのだから当然のことだけれども、
それでもため息が漏れた。

 それから僕は一人で階段を上って、一人で改札を出て、一人で家路に着いた。

 クリスマスの街は色とりどりのイルミネーションや、幸せそうなカップルで満ち溢れていた。
それらに毒づく気力もなく、僕はただ冬の星空を見ながら歩いた。

 彼女も今、この星空を見ているだろうか?

 そう思ってから、ああそういやアイツバスで帰るって言ってたっけ、と思い出し僕は力なく笑った。

『…………オリオン座みーっけ』

 その日はやけに、星が綺麗だった。

 

 

「………さん、中原さん、起きてください、中原さん」

 優しい声と体を揺さぶられる感覚に、僕は目を覚ました。

「大丈夫ですか、中原さん?」

 心配そうな顔で僕を覗き込む綾瀬さんの顔がすぐ傍にあった。何だろう、顔が濡れている気がする。

「大丈夫も何も……」

 教室の中には、僕と綾瀬さんしかいなかった。

「あれ、今………」

 周りは静寂に包まれていた。

「四時間目、皆さんは今体育です」

 時計を見ると十二時ぴったり、まさに四時間目の真っ最中だった。
期末テストが終わって既に数日経っていて、授業は平常のものに戻っていた。

「………寝過ごしたって訳か」
「そういうわけですね」

 記憶があるのは前の授業の途中までだった。

「でも、何で綾瀬さんがここに?」

 当然の疑問が浮かんできた。僕なんて放っておけばよかったのに。

「い、いえ、その〜、休み時間も必死になって起こそうとしてたんですけど、
中原さんとてもグッスリ眠ってらして………、気付いたら授業始まっちゃってたんです」

 綾瀬さんはアハハと笑いながら言った。

「………あー、何か付き合わせちゃってゴメン」
「い、いえそんなの全然いいんです!!」

 顔を赤くして否定する綾瀬さん。
  何でかは分からないけど、やっぱり可愛いなあ。
  綾瀬さんには授業をサボらせてしまって悪いけど、この状況もさほど悪いものじゃない。

「それより中原さん、大丈夫なんですか!?」

 と、綾瀬さんが僕が起きた直後の表情に戻った。

「大丈夫……ってどういうこと?」

 僕には彼女の意味するところが全く分からなかった。

「いえ、その……中原さん、ひどくうなされてたので」
「え?」

 心配そうな顔で綾瀬さんが続ける。

「休み時間までは、中原さん物凄く安らかに眠ってらしたんですけど、
四時間目に入ってしばらくしたらうなされ始めて、それから………」
「それから?」

 綾瀬さんは僕の頬にそっと手を当てて、

「――――中原さん、泣いてました」
「…………あ」

 僕の頬を優しくなでる綾瀬さん。顔が濡れている気がした理由がやっと分かった。
  その雰囲気が何だか彼女に似ていて、容姿なんかは丸っきり違うのに何故だかそんな気がして、

「何か悪い夢でも見たんですか?」

 さっきまで見ていた夢を、僕は思い出した。

 ――――何より大切だったあの女の子が、

 ――――誰より大好きだったあの女の子が、

 ――――そしてもう、僕の隣には居てくれないあの女の子が、僕の脳裏に蘇ってきた。

「………………………………」
「中原さん?」

「……アハ、アハハハハハハ、全然大丈夫だよ!! いや〜何つーか、
昨日テレビで深夜にやってたホラー映画思い出しちゃって〜、それがもうすっごく怖いやつでさ〜」

 笑って誤魔化す。誤魔化そう。

「呪いのCDっていって、それ聴いた人は三日以内に死んじゃうっていうやつでね」
「中原さん……」

 立ち上がって綾瀬さんに背を向け、窓の方へと歩き出す。
あまり今の表情を綾瀬さんに見せたくなかった。

「うおー、今日は体育マラソンか〜。こりゃ参加しなくて良かったかもな〜」
「……中原さん」
「あはは、見てよ。吉本の奴、周回遅れになりそうだよ、女子にも抜かされてやんの!!」
「中原さん!!!」

 その声と同時に、後ろから軽い衝撃が走った。

「あ、綾瀬さん?」

 綾瀬さんの腕が、僕の腰に回っていた。

「……今の中原さん、凄く悲しそうです」

 詰まるところ、僕は綾瀬さんに後ろから抱きしめられているのであった。

「な、何言ってるの綾瀬さ」
「無理、しないで下さい……」

 僕を抱きしめる腕に力がこもる。静かで寒い教室の中で、
綾瀬さんの息遣いとその温もりだけが感じられた。

「あ、あ、ああ……………」

 頭の中に様々な感情が、思いが溢れ出す。

 彼女の笑顔、匂い、体温――――泣き顔、激しい自己嫌悪、喪失感、悲しみ、哀しみ、
どうしようもない程の後悔、色を失った、生きる意味を失った世界、一緒に見上げた星空、
オリオン座、白い息。

「くっ………」

 駄目だ駄目だ駄目だ、このままじゃ、もうここにはいられない。どうにかして、気持ちを、
気持ちを落ち着けないと。

「ごめん、綾瀬さん!!」

 綾瀬さんの腕を振り解いて、僕は走り出した。

「な、中原さん!!!」

 後ろから綾瀬さんの僕を呼ぶ声が聞こえた。
  それでも僕は走った。これ以上あそこにいたら、きっと僕は決壊してしまう。

 

「はあ、はあ、はあ………」

 そこからどこをどう走ったのか分からなかったが、僕が行き着いた先は屋上だった。
幸いここに来る途中教師には見つかっていない、と思う。

 誰とも一緒に居たくなかった、一人になりたかった。

 仰向けに寝転がって空を見上げる。
  僕の気持ちとは正反対に、そいつは全くの晴天だった。
こういう時の天気は土砂降りくらいが丁度良いだろうに。

 呼吸が落ち着いてくると、だんだん思考もしっかりしてきた。
  自分がここに来るまでの経緯、綾瀬さんの体温、言葉、
そして突然フラッシュバックして来た沢山の思い出。

「最近は、あんまりなかったんだけどな………」

 ハハハと乾いた笑い声を出す。

 何より大事なことのはずなのに、何より忘れてはいけないことのはずなのに、
最近の僕は周りの変化につられて、忘れかけてしまっていた。
  そのことにどうしようもない寂しさを、自己嫌悪を、後悔を感じる。

「………………ごめんな」

 誰に向けての謝罪なのかはハッキリしている。ただ、何についての謝罪なのか、
それはそうすべき対象が多すぎて挙げきることが出来ない。

 空は相変わらず馬鹿みたいに青い。

 あれからもうすぐ一年近くが経とうとしているのに、
僕は相変わらず『そこ』で止まったままだった。

10

 行ってしまった、中原さんが、私の好きな彼が。とてつもない喪失感と、胸の苦しさが私を襲った。
 
  一体彼の心の中には何があるというのだろう?

 分からない、分からないけど………、

「とても、辛そうでしたね………」

 呟いてみても返事はない。教室の中には、私しかいない。

 途中までは良かった。
  中原さんはグッスリ眠っていて、その顔は穏やかで、本当は私は起こそうとなんか
少しもしていなくて、その寝顔をただずっと見つめていて、とても幸せだった。

 この寝顔を今見ているのは、今彼の一番近くにいるのは、あの先輩なんかじゃなくて私なのだ。
そう思うと、どうしようもない気持ちが胸に溢れてきた。

『ん……、ああ……』

 もう、寝言まで言い始めちゃって。格好良いだけじゃなくてカワイイなあ〜中原さんは。
あ、涎たらしちゃったら私が舐めて綺麗にしてあげますからね? なんちゃって。

 ――――私は幸せだった。

『ともこ………』

 ――――そう、この寝言を聞くまでは。

 ………え? 中原さん、それ誰ですか? 『ともこ』って、誰のことです?
  私の名前は『楓』ですよ? 

 その名前を呼んでから、中原さんの寝顔は急変した。

 穏やかだった表情は苦痛に歪められ、額に汗をかき、『ごめん、ごめん』とうわ言を繰り返して、
そしてついに中原さんの瞳から――――涙が、零れ落ちた。

 そこから先、私は中原さんを必死に起こして、中原さんは誤魔化すように明るく笑って、
その姿がとても辛そうで、私は気付いたら彼を抱きしめていた。

 そして私は彼に、中原さんに、

「拒絶、されちゃったのかなあ……」

 そうだとしたら、それは悲しい。悲しくて、辛い。

 先ほどまで彼を抱きしめていた腕で、自分の身体を抱きしめた。温もりはもう、
ほとんど残っていない。

「中原さん……」

 彼の抱えていた哀しさは、何なんだろう?

 今まで見たこともないくらい、哀しみに満ちたあの顔。

 アレが私の見ていた『壁』の向こう側なんだろうか。

 切なくて、心配で、苦しかった。

 中原さんの荷物は全部教室に置きっぱなしで、走っていくときに落としたのだろう、
携帯電話も床に転がっていた。
  勝手に見るのは悪いとは思いながらも、私は中原さんの携帯電話を開いた。

 電話帳を開いて、下の名前が『ともこ』という人物がいるかどうか探す。

 ともこ、ともこ、ともこ………。

 電話帳のどこにも『ともこ』なんていう名前は見つからなかった。
登録件数が思いのほか少なかったので、探すのには苦労しなかったし、見落としたとも思えなかった。

「はあ……………」

 誰なんだ、『ともこ』って。

 もうすぐ四時間目も終わる。昼休みになったら中原さんは戻ってくるだろうか?

 ………望みは薄いな、何となくそう思った。

 かと言って、校内を探し回ってバッタリ会ったとして、私は何を言えばいいんだろうか?

「………少し、落ち着いて考えましょう」

 そうだ、焦ってはいけない。今のまま中原さんに会っても私は何も言えない。
だったらもう少し考えをまとめて、それから行動したっていいはずだ。

「しょうがないなあ………」

 そのためにはやっぱり情報が必要だ。あの人を頼るのは嫌だけど、今は仕方がない。

「中原さん、待っててくださいね」

 ――――私が必ず、あなたをその悲しみから救い出してみせますから。

 

 

 昼休み、授業が終わった途端、私はまさに脱兎の如く(クラスメイトが唖然とした目で
見ていたがそんなものは気にしない)教室から駆け出た。

 あのクソハゲ爺授業三分も延ばしやがって、遼君といられる(まあ恐らくあの邪魔虫も一緒だが)
昼休みが削られてしまうじゃないか。

 やっとこさ放送室に着いて、ドアを勢い良く開ける。

「やっほー、遼く……」
「こんにちは、松本先輩」

 そこには私の求めていた彼はいなくて、宿敵(『ライバル』とか『とも』とは絶対に読まない!!)
しかいなかった。

「中原さんなら今日は多分来ませんよ」

 いつも遼君に振舞うのとは全く正反対の、愛想ゼロの表情で彼女は言った。

「それ、どういうことよ?」
「先生に仕事を頼まれたみたいで、昼休み中は働きっぱなしだそうです」

 遼君が来ないだって? それじゃあこんなに急いできた意味がないじゃないか……。

「はあ………」

 ため息をついてから私はパイプ椅子に腰掛けて、お弁当箱を広げた。テーブルの向かいの彼女も、
非常に詰まらなさそうにサンドイッチをパクついている。というかこの娘は、
遼君の前ではどうやら猫を被ってるようだ。普段の可憐さは今はなりを潜めている。
それでもやっぱり、その顔立ちは同性から見ても心が動きそうになるほど綺麗なのだけれど。

「そういえば松本先輩」
「ん、何よ?」

 唐突に彼女から口を開いてきた。

「中原さんの昔のこと、何か知りませんか?」
「昔のこと?」

 何が言いたいのか分からなかった。

「はい、昔のことです。例えば………女性関係のこととか」
「さあ………私と会う前のことは分からないけど」

 というか知っていたって、この娘にだけは教えたくない。

「じゃあ、それからは何かありましたか」

 身を乗り出して、やけに熱心に尋ねてくる綾瀬楓。

「別に、遼君はずっとあたし一筋だったけど?」
「………真面目に聞いてるんですけど」
「な、何呆れた顔でみてるのよ!!」
「いえ、松本先輩って外見は頭良さそうに見えますけど、実は中身はそうじゃないみたいだなあ
って思っただけです」
「なっ………」

 なめやがってこの!!

「何よ、あんただって遼君の前じゃあんなに猫被っちゃって!!」
「それの何がいけませんか? アホよりマシです」

 さらっと言ってのける猫かぶり女。どう考えてもこいつは、明らかに喧嘩を売っている。

「このっ……!!」
「ほら、そうやってすぐ挑発に乗る。アホの証拠ですね」
「………………………」
「………………………」

 立ち上がって睨み合う。相手も退く気は一切なさそう、というか思いっきり挑戦的な目つきだ。

「ちっ………」

 私は震える拳を押さえて、何とか腰を下ろした。

「それでは本題に戻りますが」

 何事もなかったように話を戻す。こ、この女は……。

「高校に入ってから中原さんにそういう話はなかった、ということですね?」
「………ええ、そうよ」

 なかった。うんそう、遼君にそんな話はなかった。
  それは別に私が遼君に近づく女の子を全員潰してきた、とかいう訳ではない。

 遼君が他人と、特に女の子とは距離を置いた付き合いをしているからだ。
  一見人当たりの良さそうに見える遼君だが、決して人の心の深くに踏み込んで行くこともしないし、
それに他人に自分の深いところには絶対に踏み込ませない。

 私だってきっと、遼君の心の奥底には触れられていない。
だけど、遼君と出会ってからのこの時間の中で、ゆっくりだけど確実に近づけてきているとは思う。

 その証拠がこの前の、

『……その、俺で良かったら何でも力になりますよ!!!』

 ――――この台詞。

 これを言ったとき、無意識だけど遼君はきっと私を心配してくれていて、
それは他人の心の中に踏み込んでいくことに違いなくて、この一言を貰えたとき、
実は本当に嬉しかったのだ。

「そうですか………」

 綾瀬さんは微妙な顔をして黙り込んだ。

 しかしこの娘は、何でこんなことをいきなり私に尋ねてきたのだろうか?
  彼女にしたら、きっと私は一番頼りたくない人物だろうに。

「………………ともこ」

 沈黙が続いた後、彼女はおもむろにそう呟いた。

「は? 何?」
「いえ、何でもありません」

 そう言ったきり、彼女は黙ってしまったので、私は特に追及することもせず自分のお弁当に戻った。
  それからは特に話すこともなく、私たちはお互い、多分遼君のことを考えていた。

「それじゃあ、私はそろそろ教室に戻ります」
「んー」

 とっとと帰れ、そして二度とここに来るな。

「あ、そうだ先輩。中原さんからの伝言です」

 立ち上がってから、ふと思い出したように彼女は言った。

「え、遼君から!!??」

 そんなんがあったなら早く言いなさいよ、猫娘!!

「帰りも少し遅くなりそうだから放送室で待ってて下さい、だそうです。
ちゃんと伝えましたからね?」
「うん、分かった!! ありがとう」

 も〜遼君たら、私との約束のためにこんなことまでしてくれるなんて。えへへ、照れるなあ〜。

「………それと、先輩」
「ん、なあに?」

 遼君からの伝言を貰って、自分でも分かるほど私はすっかり上機嫌だった。

「ごめんなさい」

 唐突に謝りだす綾瀬さん。一瞬何のことか分からなかったが、
すぐにさっきの口喧嘩のことだと分かった。

「別にいいわよ、特に気にしてないし」
「そうですか、では失礼します」

 彼女が出て行って扉が閉じると、私は放課後のことを想像して思いっきりにやけた。
  昼休み会えなかった分、放課後の時間は大切に過ごそう。

「えへへ〜、りょうくんっ」

 その妄想だけで午後の授業は軽くやり過ごせそうだ。

 

 

 放送室を出て廊下を歩く。にやけそうになる顔を抑えながら私は歩いた。

 ――――知らなかった。間違いなくあの人は彼の抱えた哀しさを知らなかった。

「…………………あは、ふふふ」

『ともこ』という女性の存在も、少し触れただけで壊れてしまいそうな中原さんの表情も、
あの人は知らない。軽く『ともこ』について触れてみたが、
恐らくあの様子ではやっぱり知らないのだろう。

「あははっ」

 松本先輩、あなたは何にも知らないんですよ?

「あはははははっ!!!」

 ………っと、危ない。今全然笑いを抑えきれていなかった。

 ああでも、愉快だなあ。何にも知らないくせに、彼のことなら何でも分かってますっていうあの顔。

「ばーか」

 今私は、間違いなく彼女より有利な立ち位置にあるといえる。

 今の中原さんを癒せるのは、私だけ。

「ふふ、うふふふ………」

 やるなら今しかない。勝負を決めるなら、今だ。

 彼女は今日の放課後、何も知らずにあの場所で彼を待ち続ける。

 本当にあの人は馬鹿な人なんだなあ、あははっ。
 

 ――――まんまと私の言葉を信じるなんて。

 教室に戻ると中原さんの荷物は先程のままで、彼がここに戻ってきた形跡はなかった。

「……念のため、下駄箱も見ておきましょうか」

 幸運なことに一年生の教室は一階なので、すぐに確認することが出来た。

 ………よし、中原さんはまだ校内にいる。

「あはっ、あはははははははははは!!!」

 今のところ、何もかもが、私の思う通り上手く行っていた。
  愉快すぎて笑いが収まらない。

 ――――ねえ、松本先輩。

 ――――さっきの『ごめんなさい』は、あの下らない口喧嘩の謝罪なんかじゃなくって、

 ――――その本当の意味は、

 

「ごめんなさい松本先輩、中原さんは私が頂きます」

 ――――こういう意味だったんですよ?

To be continued.....

 

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