こんな夢を見た。
私には春華という二つ上の姉がいる。
子供の時から私の世話ばかり焼いていて、私はそんな姉のことが大好きだった。
いつだったか、大きくなったら姉さんをお嫁に貰ってあげるよ、と言ったことがあった。
姉は静かに微笑んで、いつか必ずそうして下さいね、と言っていた。
今思えば恥ずかしい限りである。
しかしそんな私たちも一度だけ喧嘩をしたことがあった。
十四の時分だったか、私が近所で悪さをしたのを咎めた姉に対して、
そんなことを言う姉さんなんて大嫌いだ、と深く考えずに口にした途端、
姉が見たこともないほど悲しそうな顔をするので、
逆に面食らってその後何も言えなくなってしまったことがある。
そのことを深く悔いて、以来十九になる今日まで私は姉と喧嘩をしていない。
又、姉はちょっと見ないくらいの器量良しで、何度も良家から縁談話が持ち上がるのだが、
姉はその全てを断っている。
父と母が困った顔で姉の部屋から出て行った後、必ず姉は私の元へやって来て、
姉さんは何処へも行きませんからね、いつまでもお前の傍に居ますからねと言うのだが、
その度私は申し訳ない気分になるのだ。
きっと姉は優柔不断で軟弱な私が心配で、おちおち嫁にも行けないのだろう。
早く身を固めて姉を安心させなければ、と思うようになり、そして半年ほど前、
私は夏芽という女に出会った。
夏芽は美しい娘で、私には勿体無いくらいの女だったが、私のどこを気に入ってくれたのか
怖いくらいとんとん拍子に縁談まで話は進んだ。
私は真っ先に姉を喜ばせてやりたいと思い、息を弾ませて姉へ報告に向かった。
しかし姉はぼんやりとした様子で、私の話を良く分かっていない様子であった。
どうしたのか、具合でも悪いのか、と私は尋ねたが、姉は何でもないの一点張りで
私は一向に了見を得なかった。
それからだ、姉の様子がおかしくなったのは。
今まで、男女七つにして同衾せず、と言って従妹の秋葉を預かった時も、
私が枕元で寝かしつけるのを目を吊り上げて怒っていたのに、お背中をお流ししましょう、
などと風呂場に断りも無く入ってくるなど尋常のことではない。
しかも長襦袢一枚しか纏っていないのだから始末に終えない。
蒸気で透けていく薄布の向こうに見える肌色と、かすかに見えた桜色に私は慌てて目をそらした。
それからは恥ずかしくて一度も姉を見ることが出来ずにいる。
惜しいことをしたという気持ちは正直に言うと少しある。
しかし私は大好きな姉を自らの劣情で汚してしまうことを何よりも恐れたのだ。
他にもある。
朝私が目を覚ますと部屋の前で待ち構えていたのかと思うほどぴったりに部屋に入ってきて、
お着替えを手伝いますと言ってされるがままの私を着せ替え人形のように着替えさせてしまうのだ。
何度も自分でやるからいいと言って聞かせても、あなたは私が居なければ何にも出来ないのですから、
大人しくしていなさいと言って聞く耳を持たない。
昔から頑固な所のある姉であったが、こんなに人の話を聞かないのも少々珍しいものだと思った。
他にも夏芽が家へ来た折に姉と夏芽の言い争う声が聞こえたという使用人の話もある。
所用で私はその場に居なかったが、姉が声を荒げるなど私の記憶の限りないことなので驚いたものだ。
姉にも夏芽に聞き出しづらく結局詳細は聞かずじまいだ。
二人とも私に何事も言ってこないので大したことではないのだろうと勝手に決めこんで、
そのことは忘れることにした。
そうしている内に結納も済み、いよいよ結婚は明日という日まで来た。
この日は一日中しんしんと雪が降っていたが夜には止み、今は雲の切れ間から満月が覗いていた。
そんな静かな夜、姉が私の部屋を訪れた。
姉は冬だと言うのに長襦袢しか纏っておらず、いつも結い上げている長い髪は下ろしており、
尋常ではない様子であった。
縁側へと続く障子を開けて入ってきた姉は頬を上気させ、目が潤んでいた。
障子を開けた拍子に冷たい夜気が流れ込んでくる。
「どうしんですか姉さん。そんな格好をしていては風邪を引いてしまいます。
どうかこちらに来て暖まって下さい」
何事かと驚きながら、私はそう言って姉をストーブのある部屋の中に勧めたが、
姉は聞こえているのか聞こえていないのか判然としない様子で、
二歩三歩と足を進めるとそこでまた立ち止まってしまった。
これはいよいよ何かあると思い、私は腰を上げて姉の前に立った。
「冬樹さん……」
熱に浮かされたような声で、姉が私の名を呼ぶ。
「姉さん、本当にどうしたんですか。風邪でも……」
私はその言葉の先を言うことは出来なかった。
姉が私の言葉を遮るようにその身体を私に投げ出したからである。
思いの外小さかつた姉の身体が私の胸にすっぽりと収まった時、
えもいわれぬ香りが私の鼻腔を突いた。
「冬樹さん、……行っては、嫌です……」
消えるような声で姉は言った。
姉のこんな声を聞いたのは生まれて初めてであった。
そしてその時、私は全てを悟った。
姉の熱っぽい、潤んだ視線が何を意味するのか。
何故私の部屋を訪れたのか。
何故こんな寒い夜に薄布一枚なのかを。
今までの姉との思い出が走馬灯のように私の脳裏に浮かび、そして消え、また浮かんだ。
姉は私のことを愛していた。
私もまた姉のことを愛していた。
しかし私の姉に対する愛は肉親へのそれであり、姉の私に対する愛は男へのそれであったのだ。
姉の気持ちは胸が熱くなるほど嬉しく、しかしこれから口にする言葉を考えると
身を切るほど切なかった。
それは十四の時以来口にしていなかった姉に対する拒絶の言葉になる。
私は今まで生きてきた中で一番真剣な目をして姉を見つめた。
それは夏芽に求婚する時にすら向けたことの無い視線だった。
「姉さん、駄目です。私には……」
できません、の一言がどうしても言えず、
私は凍えきった身体で縋り付く姉を抱きしめることしか出来なかった。
「……すみません」
私はただ謝る。
最愛の姉に対する初めての、そして生涯最後の抱擁になるだろう。
……どれだけの間そうしていたことだろうか。
私が姉の身体を離そうとその華奢な肩に手をかけた時であった。
不意に何事か、私の耳元で姉が呟いた。
蚊の泣くような声だった上、不意のことだったので私は即座にはその意味を測りかねた。
……ただ、何となく背筋が寒くなった。
それから姉は自ら身体を離すと、待っていてくださいね、と言って部屋から出て行ってしまった。
そう私に言った姉の笑顔は、今まで見てきた中で最も美しい笑顔であった。
私はしばらく呆然としていたが、はたと気が付き部屋から飛び出した。
姉の姿を探す内に使用人を見つけたので尋ねたところ、台所に向かったそうだ。
その話を聞いているうちにもう一人の使用人が慌てた様子でやって来て、
姉が包丁を持って家を飛び出して行ったことを伝えた。
それを聞くや否や私はすぐに玄関に向かった。
私は雪の降り積もった町を徘徊していた。
ただ徘徊しているのではない。
姉を探しているのだ。
人から見ればただの狂人だろう。
裸足で、しかも上着も羽織らずに師走の夜を走り回っている男など
気が違ったのかと思われても仕方が無い。
しかし外には誰も居らず、静か過ぎるほどであつた。
月は雲に隠れ、ガス灯の明かりを頼りに私は姉を探した。
そして私は姉が何故包丁を持ち出したのか考えていた。
……分からなかった。
本当は分かっているのかも知れないが、私の頭はそれを分かろうとはしなかった。
それからは何も考えず、ただ無心に姉の姿を探すのみであった。
やがて私はその姿を見つけた。
雪道の向こうからこちらに向かって歩いてくる姉は、最後に見せた美しい笑顔のままであった。
しかし薄く白い着物には赤い斑点、その右手には血に染まった包丁という狂人の様相であった。
いつの間にか空は晴れ渡り、天には満月が輝いている。
裸足で雪を踏み締めて歩み寄ってくる姉を見つめながら、私はこの時戦慄するより先にああなるほど、
と得心していた。
先ほど姉は私の耳元でこう言ったのだ。
「あの女が居るからなのね」
と。 |