秋宅伊織は、下駄箱を開け、その中に白い封筒が一通納まっているのを確かめた。
それがファンレター、あるいは恋文の類であることは、封筒の中を確かめるまでもなく分かっていた。
何であれ、他人から愛情を向けられるのはうれしいことのはずだ。
そして、伊織には現在恋人もいず、また恋愛に飽き飽きするほど老成しているわけでもない。
だが、素直に喜べない理由が伊織にはあった。
伊織は、れっきとした女性であり、そしてここが彼女の通う女子高の玄関である以上、
その恋文を出したのもやはり女生徒のはずなのだ。
彼女には、「そのケ」はなかった。しかも、入学以来まだ2ヶ月あまりしかたっていない
にもかかわらず、こんな風に女生徒に愛情を伝えられたことは初めてではなかったので、
いささかうんざりしてもいた。
「ああ、またもらっちゃったんだ」
伊織の横合いから、声がかかった。伊織の友人である植田早苗だった。
伊織は、「まあね」と困惑の混じった苦笑を早苗に見せた。
「相変わらず、もてるんだね。入学してからこれで何通目?」
「さあ、どうだろ。わざわざ数えてないから」
伊織は封筒を手にとって、差出人の名前を確かめながらいった。
「知ってる人?」
「いや、少なくともこっちは知らないな」
「先輩からだったりして」
「そうかな?そうかも」
「だったらどうする?」
「どうするって、どうもしないよ」
伊織が女性にしてはいささか低く聞こえる声でそういうのを、
早苗は伊織の顔を見上げながら聞いていた。
伊織の背は、早苗に比べてずっと高かった。高校一年生のごく普通の身長である早苗に対して、
伊織は170センチを超えていた。
その顔を見上げながら、早苗はこの学園の女生徒が彼女にあこがれるのも
無理はないと感じるのだった。
友人の早苗からしても、伊織の面貌は実に美しく、りりしく見えた。
少し色素の薄い髪を短く切り、その下には直線的で細く濃い眉。
いかにも意志の強そうな、大きな二重の目。欧米人のようなとがった鼻に、薄く結ばれた唇。
鋭角的な小さなあご。その面貌を映えさせる白皙の肌。
そして、制服である白いセーラー服を持ち上げる豊かなバスト。
ヨーロッパ人の血が混じっているという噂もあるが、それも無理はないと思わせる、
日本人離れした美貌を伊織は誇っていた。
しかも、早苗もよく知るように、男のようにさっぱりとしていて、
それでいて女性らしい優しい性格でもあった。
女子高という特殊な空間が、伊織の人気を押し上げているのは間違いないとしても、
たとえ共学であっても彼女なら男女から今に劣らない人気を集めたはずだろうと早苗には思えた。
しかも、伊織は、この名門の学園にふさわしく、さる大きな会社の社長令嬢でもあった。
できすぎた人間というのは本当に存在するのだと、早苗は伊織のことを思うたびに感じるのだった。
早苗は、そんな伊織と友人になれたことは奇跡のようなものだと思っていた。
彼女は、ごく普通の家庭に育った、普通の少女であり、その容貌も人並み以上のものではなかった。
とはいえ、醜いというわけではなく、三つ編みの黒髪を肩からたらし、
制服のブレザーをきっちりと乱さず着こなしている様は、非常に清潔な印象を見る人に与えた。
利口そうな広いおでこに、薄い眉、伏目がちなまなざし。少しだけ低めの鼻の下に、小さな唇。
そして、凹凸の控えめな体。
なんとはなしに、優等生の雰囲気をまとっていた。
実際、彼女は学園内でもトップを争う優秀な学生であり、
そのおかげでこの伝統ある名門校に特待生として入学金、
授業料免除で入学することができたのだった。
そうでもなければ、ごく普通のサラリーマン家庭の出である早苗が、
この学園に通うことなどできないはずだった。
成績が良いことは昔から早苗にとって唯一ともいえる誇りのよりどころだったが、
そのおかげでこの学園に入学し伊織と友人になれたことで、
早苗はいっそう自らの頭脳に感謝するようになった。
「どうしたの?」
ぽけっとしながら感慨にふけっていた早苗は、伊織のその声で現実に引き戻された。
「ううん、ごめん、なんでもないから」
「そう?じゃ、いこう」
そういって、伊織が封筒をかばんの中にしまおうとしたときだった。玄関の向かい側の窓を、
教師の一人が開けた瞬間、強い風が入り口から吹き込んできて、伊織が手にしていた封筒を飛ばした。
伊織は、あっと声を挙げて捕まえようとするが、封筒はそれを逃れて玄関まえの廊下まで飛んでいく。
・
「ああ、もう」
伊織は視線で封筒を追いながら急いで靴を上履きに履き替え、姿勢を低くして廊下に駆け寄った。
そして、封筒がスリッパを履いた誰かの足元に着地しているのを確かめて、拾う前に一言断ろうと、
その足の持ち主の顔を見た。
まず目に入ったのは、まるで紅を引いたかのような赤い唇だった。伊織は、なぜか彼岸花を連想した。
そして、長くて黒い髪。漆黒というのも足りないほどに黒々とした髪で、緑がかってすら見えた。
切りそろえた前髪の下には、細いアーチ状の眉に、ガラスにダイヤモンドで刻み込んだような、
深い切れながの目。
その瞳も、彼女の髪に劣らず、漆器のような黒さに輝いていた。
細くとがった鼻。柔らかい曲線のあご。そして、若干青みがかかったような、白い肌。
そして、転校生ででもあるのか彼女は学校指定の白いセーラー服ではなく、
つやのある黒いセーラー服を着ていた。
髪の黒さと、セーラー服の黒さが、彼女の色の白さを輝かせんとばかりにいっそう引き立てていた。
伊織には「そのケ」はない。
だが、彼女を見て、伊織は素直に美しいと感じた。それと同時に、何か危険なものを感じもした。
あまりに美しい調度品や美術品を見ると不安を感じることがあるが、
それと同じことなのだろうかと伊織は思った。
すると、彼女がニコリと笑みを浮かべながら、伊織の顔を見返してきた。
そうすると、それまで感じていた危険な感じが霧散し、人懐っこいとさえいえる雰囲気に代わった。
伊織は自分が他人の顔をまじまじと見つめるという不躾を犯していることに気がついた。
「ああ、ごめんなさい。失礼なまねをして。その、封筒が」
彼女は伊織の言葉を全部聞かないうちに膝を折ってかがむと、封筒をついと拾い上げた。
「はい、どうぞ」
細く、形のよい指に挟まれて、封筒が伊織に差し出された。
だが、伊織がそれを受け取ろうと手を伸ばすと、封筒が引っ込められ、空を切った。
「え?」
伊織が困惑した顔をすると、彼女は今度は控えめな上品な声を上げて笑った。
「これをお返しする代わりに、職員室の場所を教えていただけますか?」
「え?ああ、もちろんそれはいいけど」
それを聞くと今度こそ封筒は伊織に手渡され、
その代わりに伊織は職員室の場所を彼女に教えてやった。
「もしかして、転校生?」
「ええ、先生に連れられていたのだけれど、きょろきょろしているうちにはぐれてしまって。
この学校って素敵で面白いでしょう?」
「そうかな」
「そうよ。ほら、そこの窓枠だって」
早苗は、そんな風に談笑する二人を見ながら、
まるで西洋人形と日本人形が会話しているようだと思っていた。
どこか、非現実的な光景に見えた。それだけ、二人の様子は絵になっていたのだ。
だがそれだけでなく、早苗はよく分からない胸騒ぎを覚えていてもいた。
それは見知らぬ少女が、どれだけ人懐っこそうな笑みを浮かべていても消えることはなかった。
むしろ、彼女のまとう雰囲気が親密そうなものであるだけ、胸騒ぎは大きくなった。
自分は嫉妬しているのだろうか、と早苗は感じた。
伊織はさっぱりとした性格をしているが、それでも彼女に気安く声をかけられる人間は限られていた。
その美貌にあこがれるものはいくらでもいるが、その憧れが彼女からひとを遠ざけてもいた。
その伊織と親友と呼べる間柄なのは自分だけだという自負が、早苗にはあった。
ただ、それと同時に自分が伊織とは不釣合いな存在であると自覚してもいた。
いずれ、伊織にふさわしい友人が現れて自分はお払い箱になるのではと、ひそかな恐れを抱いていた。
伊織がそのようなことをする薄情な人間ではないと知っていながら。
「それじゃあ、今川さん」
「はい、またいずれお会いしましょう」
伊織は手を振り、少女はお辞儀をして別れた。
「名前、聞いたんだ」
「ああ、今川しのぶさんだって。転校生で、1年らしいよ」
「1年生?そうは見えなかったけれど」
「もしかしたら同じクラスになるかもね」
早苗は伊織が笑顔でそういうのを聞いて、さきほどの胸騒ぎをいっそう大きくした。 |