<一>
何かが自分の下を去るのは、本来、寂しいものなのだろう。
しかし、まだ後一郎という名しかなかった頃の彼にとって、
両親との別れは何ら寂しいものではなかった。
確かな記憶が今でも残っているわけではない。
それどころか、父母の死の前後の記憶は、随分あやふやではある。
ただ、寂しさは感じず、安堵を覚えたような気がする。
記憶が明確でない以上、おそらく、という前置きがつくものの、右庵は自分の父母が死んで
胸を撫で下ろしたのだ。
そう感じた理由はいくつか考えられる。
破談になった姉である紗恵の縁談。
それによって立ち消えになった婿入り。
結果として、転がり込んできた当主の座。
親が死んで安堵を得たこと。
それは、人の情から考えれば決して不自然なことではあるまい。
今より少し若かった頃の右庵はともかく、今の右庵はそう考えている。
鎖から解き放たれることで、心の安寧を得ることができた者を、右庵は己の眼で見たことがある。
それが、愛する者の死であろうと、そういった感情を得ることがあるのだ。
況や―――
<二>
木下後一郎右庵がその笑い声を聞いたのは、勤めを終えた後の、帰途でのことだった。
快活と言うに相応しい笑い声に、彼は足を止めた。
声が聞こえたのは右手の騎士屋敷。その高い塀の向こう側からだった。
会話の詳しい内容まではわからなかったが、少女と男の声だということはわかった。
下女と下男、あるいは騎士の父と娘といったところだろうか。
いずれにしても、右庵が普段聞きなれない声ではあった。
彼が勤めとしているのは、とある人物の書を騎士の詰め所に持って行くことと、
夜間における王都の見回りである。そして、いずれの勤めも、休みという概念は存在しない。
畢竟、彼が起床し外を出歩くのは、夕暮れから日明けまでとなる。
滅多なことでは朝方から昼の、他の家庭の様子など知り得ないのである。
勿論、普通の家族を持っている者であれば、右庵が今しがた聞いたような声を聞くことは
できるだろう。
しかし右庵の家庭は、特に彼が屋敷にいるときは、いっそ滑稽な程に笑いというものと無縁であった。
「そんなに気になるか?」
そう右庵に声をかけたのは、彼の隣を歩いている騎士であった。
肩の線で切りそろえた髪、女かはたまた少年か、見分けがつかないような顔かたちと背格好。
黒に染められた袴と羽織は、まるで新しく誂えたもののようである。
半ば散切りのような形で無造作に伸ばした髪を茶筅髷にまとめ、
少々色褪せた紺の羽織が目に付く右庵とは、ある意味好対照な騎士であった。
「この家は特に、問題などなかったように思うが……ふむ」
「……いえ、そういうわけでは」
本人曰く、千里耳、という名のその騎士は、おそらく自らの頭の中から、
この周辺で起きた事項を確認しているのだろう。
右庵は千里耳に一言謝って、再び歩き出した。
「なんだ、何かあったわけではなかったのか」
「はい」
「お前のことだから、てっきり気になることでもあったのかと思ったぞ」
千里耳は拍子抜けしたな、と付け加え、続ける。
「紗恵か十夜の声にでも似ていたか?」
「……」
右庵は否定の言葉すら口にせず、ただ首を横に振る。
千里耳の言っていることは正解ではないが、かといって的外れでもない。
よくこちらの考えることを言い当てる御人だ、と右庵は口にするでもなく思う。
鑑みるに、千里耳は特に勘が鋭い、というわけではない。
そのことは、数年来、千里耳と仕事を共にしていた右庵はよく知っている。
ならば―――
「お前の顔を見て考えたわけではないぞ」
「……」
思考を先回りされて、右庵が目を見開く。
「まあ、要するに、だ。
お前が仕事以外で考えることなど、家族ぐらいのものだろう、と思ったわけだ」
得意げに言われても、右庵としては言いようがない。
少々言葉に詰まった挙句。
「……は」
と溜息まじりに言葉を返すだけだった。
気にすることはない。
右庵の考えることなど、私でなくともわかる。
そういった内容の話を暫く続けた後、千里耳は不意に言葉を止めた。
思索をめぐらしていた一方で、それでも千里耳の言葉に耳を傾けていた右庵は、頭を傾ける。
「……どうかされましたか」
「お前こそどうした。
先ほどから上の空のようだが……ああ、そういえば」
「……」
「今日だったか。
妹の縁組の話に行くのは」
やはり千里耳の言葉は、真を穿つものではないが、完全に的を外したものでもない。
あの笑い声を聞いて、右庵が想起していたのは。
幼い頃の妹の笑顔であった。
<三>
十夜の婚姻について、小久我の長女である幸花に相談したのは一週間ほど前。
その返事がきたのが三日前である。
幸花の都合と合わせて打ち合わせた結果、右庵が小久我の屋敷に赴くことになったのは、
千里耳の言うとおり、確かに今日であった。
千里耳と別れ、右庵が自分の屋敷に戻ったときには、すでに紗恵は仕度を終えていた。
紗恵が用意してくれていた朝食を食べ終わった後。
「……やはり、十夜は連れて行かないのですか」
「ええ。十夜は行くつもりだったようですが」
小久我家には、紗恵と右庵の二人で行くことになっていた。
この屋敷に住んでいるのは、右庵とその姉妹の三人だけであり、
できれば、屋敷を完全に空けることは避けたい。
また、本人がいない方が進めることのできる話もある。
ただ、右庵としては、本人を連れて行った方が話は早く進むのではないか、と考えてはいた。
が、紗恵の意見も最もである。故に、右庵はそれ以上の異論を口にしなかった。
右庵より先に、紗恵は外に出ていた。
千里耳が気を利かせたのかはわからないが、右庵が帰途につけたのは、
常日ごろより比較的早い時間帯だった。
時は、陽が昇ってから一時が過ぎた頃。
日光は白く、右庵自身も眩しいと感じる程度ではあった。
「……」
「右庵殿?」
「……少し」
待っていてください、とまでは言わず、一旦右庵は屋敷の中に戻る。
「手早くお願いします」
外から聞こえてきた紗恵の言葉に少々胆を冷やしながらも、目的のものを見つける。
開き具合や外観を確かめた後、外に出る。
「……申し訳ありません、遅れました」
謝り、屋敷から出た右庵を待っていたのは、紗恵の訝しげな視線だった。
余計なことだったか、と思いつつも。右庵は持ってきたものを使い、紗恵に当たる日差しを遮った。
日傘である。
右庵もそうであるが、こと、紗恵の肌は病的と言っていいほど白い。
彼女は、日が差している時刻に外に出ることなど、滅多にない。
そんな状態で、何の対策もないまま日照に肌を晒すのはまずかろう、と右庵は思ったのだが。
「……」
当の紗恵は、一つ息をつくだけだった。
とはいえ、気に障った、というわけではないらしい。
「では、参りましょう」
紗恵は日傘を受け取り、右庵に先を促した。
何か足りない。右庵がそう思ったのは、屋敷を出てから間もなくのことであった。
大事な用件などを忘れたわけではないが、この状況であるべきものがない。
些末事にも関わらず、当たり前のように行っていたことを忘れたときのような感覚が、頭をよぎる。
いつも都の警邏を行っているときのように、辺りに目を配る。
当然、真っ先に目についたのは、隣を歩く紗恵であった。
そもそも、である。紗恵と二人で外出することは、随分久しぶりであった。
少なくとも、右庵が都廻となってからの七年間で、紗恵と共に出かけた、
という記憶は数えるほどしかない。
都廻の仕事が非常に遅くなったときなどは、よく紗恵は右庵のことを出迎えに来る。
そして、その帰りに共に歩くのを勘定にいれるならば、外出はしている、ということになるだろう。
「……」
しかし。そういった時の紗恵は、それこそ目を合わすことすら躊躇われるほど、機嫌が悪い。
表情そのものは大して変わらないというのに、言動から、行動から怒りが滲み出る。
父母が死んでから、寄り添うとまではいかないが、姉兄妹三人で暮らしてきた間柄である。
その纏う雰囲気程度は流石に、右庵にも感じとることはできた。
では、今は。そう思って右庵は紗恵を見て―――
「……」
「……!?」
―――驚いた。
紗恵は、差した日傘を、手で弄びながら……それこそ、幼い娘がするかのように、
くるくると、回していたのだ。
年甲斐もない、だとか。あるいははしたない、だとか。さらには、紗恵もこんなことをするのか、
などといった考えが右庵の頭を掠める。
しかし、それ以上に、右庵は安堵を覚えていた。
元々、紗恵は雰囲気が張り詰めたところがある。
神経質、というのとは少々違うが、仕事をしていないときですら、何かを気にかけているようなところがある。
少なくとも、右庵が屋敷にいる時はそうであった。
ああ、と右庵は気づく。
足りないもの、とは右庵自身の、そして紗恵の緊張なのである。
今日の紗恵は屋敷の中にいるときの彼女とは違った。
気づいてみれば、確かにいつもより雰囲気も和らいでいるような気がする。
そう気づくと、どうということはなかった。
考えてみれば紗恵は、右庵と共に外出するときは、得てして機嫌が良かったように思える。
それにしても―――今まさに横で、表情を変えぬままで、肩にかけ、
差したままの日傘をくるくると回し。
かつ、男の右庵に遅れず、拍子よく歩を進める紗恵の姿は少々奇異にも見えはした。
「……姉様も、外を出歩くのは久しぶりですか?」
「ええ。流石に夕暮れ時や深夜に外を出歩くわけにもいきません。
元々、陽が当たるところが好きというわけではないので、いいのですが」
傘を弄びつつ、それでいて歩を止めず。
紗恵は険のない言葉を返してくる。
「ですが、偶にはいいものですね。
この辺りであれば、人通りも少ないですし。
今ぐらいの時間は、日差しも強くありません」
「……」
日傘で影をつくりながらも、やや眩しげに空を見る紗恵の言葉に嘘はないように見える。
右庵自身、そういった様子の紗恵を見ると気が緩む。その一方で、こういった散歩の機会すら
与えられない、という事実が彼の中で頭をもたげるのであった。
右庵は、自身の感情の流れとして当然のように、紗恵の婚姻について口にしようとした。
しかし。
「……」
「右庵殿、どうされましたか?」
眼前の姉は、いつもの怜悧なかんばせの下に、今は右庵ですら理解できる、
柔らかな流れを湛えていた。
こと家族に対しては、気の弱さが先に出る右庵が、何かを言えるはずもなく、
一息もしない間に口を噤んだ。
紗恵にとって、自身の婚姻というのは、ひどく気に入らない話題であるようだった。
少なくとも、口の端に乗せた瞬間に先回りして会話を終わらせるような話題が、
紗恵にとって心温まるものであるはずはない。
それがどこに起因するものなのかは、右庵にも完全には理解できないが、話題を振れば、
如何様な結果になるかは火を見るよりも明らかである。
別に紗恵に何を言われようとも、右庵にとっては大した問題ではない。
しかし、ここ数年来見たこともないような、穏やかな姉の心持を乱すことは、
右庵にはできなかった。
「……外を出歩かなければ、お体に障ります。
家にいてばかりでは、気血の流れも滞ります」
「そうなのでしょうね」
「……」
「右庵殿が共にいてくれるのならば、早朝に外を歩くこともできましょう」
流れも、空気も変えぬまま。ただ、右庵は本来言うべきである言葉を腹の奥深くに沈める。
後に続いた会話を、右庵は特に頭にとめなかった。
他愛のない会話だった、ということなのだろう。
常日頃、必要なことしか口にしない紗恵がそういった会話を交わすことは、珍しいことではあった。
その意味に右庵は気づくことなく、紗恵もまた、意に介さない。
ただ、小久我家の屋敷が見えたところで。姉は、小さく溜息をついた。
<四>
小久我の屋敷に着いた後、右庵が案内を受けたのはいつもの客間。
しかし、案内された先で待っていたのは、幸花ではなく、小久我家の次女、香であった。
小柄な体躯に加え、顔かたちもどこか、小久我の長女、幸花の面影がある少女。
その前髪は瞳を覆う程にも長く、後ろ髪は肩に届いている。
「ご足労いただきありがとうございます、後一郎様」
「……ああ」
「お久しぶりです、紗恵様」
「ええ、香殿も」
香―――小久我香は、小久我家の次男坊、馨の双子の妹である。
その身を包んでいるのは、質素な女中用の衣服。
曲がりなりにも、小久我の娘がそのような衣服を、
しかも来客の取次ぎを行うときに着ているのは、奇妙ではある。
しかし、彼女と小久我家の事情を、当事者として経験してしまった右庵としては、
特に気に留めることではなかった。
「幸花が相手方の案内をしておりますので、私が後一郎様への取次をすることになってしまいました」
「……いや、構わない。姉様」
「問題ありません」
姉と弟の、目を合わせることもしないやり取りに。ほぅ、と安堵の溜息を漏らして、
香は言葉を続ける。
「そう言って頂けると助かります。
本日は姉上の立会いの下、お相手の家の方からお話を伺う予定だったとお聞きしておりますが」
「……ああ」
「先方は間もなくいらっしゃると思います。
後一郎様と紗恵様でお話する、ということでよろしいでしょうか」
今度は紗恵と右庵が目を合わせる。
紗恵が首を横に振るのを見て、右庵は肯いた。
「では、私だけで顔合わせをさせてもらう。
幸花様はどちらに」
「あ、はい……もう一方の客間にいらっしゃいます」
「……相手方は、どちらの方かわかるか?」
「は、はい。夏日田様です」
「……」
右庵が押し黙り、数秒がたつ。
ふ、と香の目が泳いだところで、右庵は口を開いた。
「夏日田の……五兵衛殿か」
「はい、その通りです」
「……なら、幸花様が間に入るより、私が口を利いた方が早いかもしれんが」
「とはいえ、姉上の面子もありますので」
そこまで香が言ったところで、右庵は言いようもない怖気を覚えた。
体が震え、背を縮める。
何時もに比べて、あまりにそれまでが穏やかだったから、気を抜いてしまっていたのか、
と頭の隅で考える。
その怖気の理由は、言うまでもなく。
「……」
隣に座っている彼の姉だった。
紗恵の目は、いつもと変わらない。
目に限らず、表情そのものも、いつもと変わらない。
しかし、確かに、先ほどまでの紗恵とは雰囲気が変わっていた。
右庵が知っている紗恵がそこにはいた。
紗恵が千里耳と会った時や、紗恵が屋敷にいる際に時折感じる何か。
自分自身が意識することなく感じられる何か。
平常、右庵に向けられる怒りに類する感情と似てはいるものの、何か根本的に異なる感情を、
今の紗恵は抱いている。
しかし、その理由が右庵には今ひとつ理解できず―――と、そこでやっと右庵は合点がいった。
小久我の屋敷にいるときに、紗恵が一際恐ろしくなる理由など一つしかないのだ。
香すらも一言も発せぬその中で、からり、と障子が軽い音をたてる。
そして、客間に向かって発せられた声もまた、軽かった。
「ごめん、後一郎。遅れたわね。
……っと、そういやあんたもいるんだったわね」
客間を開いたのは、小久我の長女。
幸花が来たことで、右庵にはその場の雰囲気が、余計に重くなったように感じられた。
<五>
「申し訳ないわね、今日も役目あったんでしょ?」
「……いえ。こちらこそ、このような手配をしていただき、ありがとうございます」
「言いっこなし。こっちだってこれで借りを返せるなら安いもんよ」
話の上に出た「借り」とは、数ヶ月前、あるいは三年前にあった小久我家に関わる
事件のことである。
幸花との人付き合いそのものは、右庵にとって深いものではない。
が、柔術での手ほどきは少なからず受けたことがある。そのときの経験から、
幸花は自分の意を言葉に顕さなければいられぬ人間ではないか、と考えていた。
そういった経験から察するに。
数ヶ月前と三年前に右庵が噛んだ事件は、どうやら小久我家にとって疎ましい出来事であり。
少なくとも、こういった縁結びのような事案を金を取って片付けている幸花が、
無償でこちらの依頼に応じてくれる程度には、外に出したくない出来事であったのだろう。
その推測も十分、右庵の気分を曇らせるに足るのだが。
今の右庵の心持はただの雲ではなく、雪が降る前の黒雲に覆われているかのような状態であった。
原因は、紗恵と幸花の二人である。
「……」
先ほどから幸花は、時折紗恵に対して視線を向けていた。
会話の流れの上では右庵に対して問いかけているのではあるが、
その動きは紗恵にも意見を求めているようにも見えた。
が、それに対して紗恵は、幸花が来てからというものの、一言も喋っていない。
幸花は紗恵を見るたび、そんな紗恵を意に介さない「ふり」をして、右庵と会話を続ける。
その振る舞いがまた不自然で、右庵と、その場にもう一人いる、
香の気分に重しを加えることになる。
結果、右庵の背は縮こまり、香の笑みも固まっていく。
にも関わらず、幸花は何度でも紗恵に視線を向け、そしてまた、
紗恵も特にかわらず口を噤んだままである。
幸花の軽い口調子が、その雰囲気にそぐわず、余計気まずくなる。
気まずくなると、右庵の背はさらに縮む。香は笑みも維持できなくなってくる。
……それでも尚、幸花と紗恵は同じ行動をとり続けるのであった。
そもそも。
幸花は、視線を向けているだけで、紗恵に意見を問うている訳ではない。
加えて、幸花に縁談の取次ぎの依頼をしたのは右庵であり、
そしてまた、木下家の当主も右庵である。
そうである以上、右庵と幸花の会話に紗恵が口を挟まないのは当然とも言える。
しかし、ではなぜ紗恵は右庵に同行したのか。
そんな疑問が右庵の頭を掠めた。
「……五兵衛殿はもうお待ちですか?」
「ええ、待ってるわよ。
流石都廻、なのかしらね。夏日田様も大概腰が軽いわ」
「……」
夏日田五兵衛は、右庵も顔を知っている都廻である。
役目についてから相応の年数を経ており、役目についたばかりの頃の右庵を知る、
今では数少ない都廻であった。
先ほど、右庵が自分から口を利いた方が早い、と言ったのもその繋がりからである。
「……では、そろそろ参りましょう。
五兵衛殿をいつまでもお待たせするわけにはいきません」
すでに、五兵衛とは右庵だけで話を通すことを、幸花に伝えてある。
流石に幸花も、今度は紗恵に視線を向けることない。
「そうね」
言って、幸花は席を立とうとした。
と。そこで右庵はくい、と袖を引かれるのを感じた。
見れば。紗恵が自分の袖に触れていた。
怪訝に思いながらも、右庵が紗恵と視線を合わせると、紗恵は小声である問いを右庵に伝えた。
「……」
そんな問いをなぜ、と思った次の瞬間、疑問は氷解する。
なるほど、と考えると同時、右庵は紗恵から伝えたれた言葉を、そのまま幸花に問うていた。
「幸花様」
「ん?何?」
「幸花様は同席なされますか?」
「別に、もう夏日田様には話通したしね。
何?一人じゃ寂しい?」
冗談はともあれ、こういった話合いの場に、取次ぎをした者が同席することは少なくない。
当事者同士が知己でなければ尚更である。
とはいえ、今回は右庵と相手方―――夏日田はお互いを知っており、
会話も幾度となく交わしている。
紗恵が警戒したのは、夏日田五兵衛との会話の中で出た話が、幸花の耳に入るかもしれぬ、
ということであろう。
幸花は、こと他人の話についても事細かに聞き、記録している節がある。
それが何のためか、と考えれば、自然と答えは出ようというものだ。
油断のならない、隙を見たら人の弱みを握ってくるような女。
それも幸花の一面であることは、右庵自身もある程度知っていたし、
何より幸花自身が公言していた。
おそらく。
右庵が紗恵が同行したのは、右庵ではまともに太刀打ちできぬ相手だ、と分かっていたなのだろう。
「ま、どうしてもってんならついていくけど」
「……いえ、お忙しいのでしたら、問題ありません。
夏日田様も、面倒なことはお嫌いでしょう」
「ふぅん。じゃあ、私はこれで失礼するわ」
どうやら右庵の言った通り、幸花は他にも複数の用事を抱えていたようだった。
そこまで言って、振り返り。
「それじゃ、また。紗恵殿も」
挨拶と共に一礼。
瞬間、右庵が見ている光景が別の物にそっくり入れ替わる。
軋む音がした。
硬いものと硬いものが噛み合う音ではなく、なにかが押しつぶされようか、という音。
右庵の耳には音は聞こえず、ただ、目に頭を下げた幸花だけが映る。
口の中が渇き、目が見開かれる。
体中の穴が開き、頭を締め付けられる。
重心が何もせずに沈み、膝から力が抜けるのを自覚する。
拳を突きつけられたかのような心持。
体がそれに従い対処しようと動く。
しなやかな猫とも、狡猾な狐とも、躾けられた犬とも違う。
まるで暴れ馬のような其れを叩き潰すために―――
「ええ、ありがとうございました……幸花殿」
―――と。
いつの間にか、右庵は自分が立ち上がっていることに気づいた。
紗恵が礼を言っているのに気づいて、慌てて頭を下げる。
「気にしない気にしない」
とうに面を上げていた幸花は手を振りながら、苦笑する。
強張る顔を自覚しながら、右庵はそれを隠すようにもう一度頭を下げた。
<六>
「結局、どうなったのですか」
そう、紗恵が問うてきたのは、夏日田との話合いも終わった後の、小久我屋敷からの帰り道。
その程も半ばに差し掛かったところであった。
「……」
周囲に人はいない。
人が少ない場所を通って帰っているのだから、当然ではあるが、右庵は確認せざるを得なかった。
そして、それで尚口にするのを躊躇うのは、自分が臆病だからなのだろう、と考える。
眉を寄せ、もう一度、周囲に人がいないのを確かめてから、右庵は口を開いた。
「……話せば長くなりますが。
要点だけ言うのであれば、嫁として引き取る前に、一度こちらの屋敷で働かせてみて欲しい、と」
「……」
騎士の娘が、他の騎士の家や、商家で一時的に働くことは珍しいことではない。
そういったことで得る金が必要ほど貧に窮している家もあれば、
嫁ぐ前に相応の教養と最低限の技術は身につけて欲しい、という家もある。
しかし、今回の縁談の相手である夏日田家が言っていたのは、凡そに考えられる理由ではなかった。
―――木下の家には、死がついて回っていると噂されている。
そう、夏日田五兵衛は右庵に言ったのである。
勿論、縁談の話に、どういう形であれ耳を貸してくれた五兵衛や夏日田家そのものが、
頭からその文言を信じ込んでいるわけではないだろう。
一方で、そういった噂があるのは確からしい。
考えてみれば、言われるだけの下地はある。
相次いで死んだ父母。
父母の死後、暫くは臥せったままで、回復した後も家から出ることのない十夜。
それらに加え、右庵が長女を嫁に行かせることなく、婿を探そうとしたことも噂が立った一因らしい。
自分が何時死ぬかわからないから、右庵は婿を探している、ということだった。
ある意味、右庵が何時死ぬかわからない、というのは真実ではある。
だがそれでも、である。右庵は、自分が五兵衛に聞くまで、その噂を聞いたことがなく。
その上、あの幸花ですら聞いたことがない、というのは、右庵には俄かに信じがい事であった。
あるいは、千里耳は知っているかもしれない、とも考えたが―――公と私は分かたれてあるものだ。
曲がりなりにも、直参の身分と同等の位にあると聞く彼女が、役目の上で必要無いことまで
右庵に知らせるはずはあるまい。
ともあれ。
少なくとも右庵の父母が相次いで死んだのは確かである。
また、十夜の体が弱いことも事実。
ならば、一度夏日田家で働いてもらい、嫁に取るに足るかどうかを見たい。
それが、夏日田家の言い分であった。
「理に適ってはいますね」
「……ええ。夏日田家では、特に悪い噂は聞きません。
一応、下調べや、十夜自身の意思も確認しますが……」
そこで、右庵は立ち止まる。
紗恵も、同じように足を止め、右庵を振り返る。
言わなければいけないことだ。
いずれにせよ、紗恵ならば、最終的な決定は右庵に委ねるであろう。
しかも、心の裡が決まっていると見透かされているのだとしたら尚更である。
掠れた声を喉から吐き出しそうになり、慌てて咳で払う。
辺りにはやはり、まだ誰もいない。
陽は間もなく、天の四半を過ぎようとしており、風はやや肌寒い。
無自覚に他のことに思考を移そうとして、右庵は踏みとどまる。
言わなければいけないのは、ただの数言だ。
今、右庵が望んでいるのは、十夜や紗恵の未来が少しでも広がりのあるようなものになることである。
故に、答えは決まっている。
「……とりあえず、夏日田家へ、十夜を嫁がせようと、私は、考えています」
声が震えたが、それでも最後まで言葉を搾り出す。
言い切れば、どうということはない。
元から、意思は決まっている。やるべきことはわかっていた。
だから、自分自身の中の躊躇いは、見ないようにするしかない。
「そうですか」
紗恵は肯くだけだった。
右庵は思う。
紗恵は右庵自身にあれこれと世話を焼く割には、時に、あっさりと右庵自身の決定に肯くことがある。
なんとなくだが、そんな経験が多かったように、右庵は記憶していた。
十夜とは違う。
幼い頃から、十夜は、自分についてくることが多かった。
そのわりに、彼が言うことに、何でも食い下がった。
それが、十夜自身に益になることが明らかであるときも、である。
考えて見れば、右庵自身は。十夜に、自分のような者に付いてくるぐらいなら姉を見習え、
と言っていたようにも思える。
ある意味、今も昔も十夜の根の部分は変わっていないのかもしれない。
ひどく険悪な関係になった今でも、十夜は右庵の決定や行動に、背くばかりだ。
「……」
言いようもない感情が、胸を衝く。
たとえ険悪でも、共にいれば、十夜と会うことができた。
だが、夏日田の家に行けば、安否は知れても、言葉を交わすことはできなくなる。
十夜のために、金を送ることはできる。
十夜のために、言伝をすることはできる。
だが―――
「寂しくなりますね」
紗恵の言葉に、右庵は何も返せない。
そう。自分はどうしようもなく、寂しい。
生きるための目的や、自分の義務などと言ってみたところで、
幼い頃から苦楽を共にした実妹と別れるのは寂しい。
必死に役目に励めば、ひと時は忘れられるだろう。
鉄の棒を振り続ければ、何も考えずに済む。
その気にならずとも、金を出し、売女の機嫌をとれば、ひと時の楽しみを得ることはできよう。
それでも、己が帰るべき場所に帰ったとき、そこにはもう、十夜はいないのだ。
その事実が、どうしようもなく、寂しかった。
これまでの生で味わったことのない、言いようも無い寂寥感。
父や母を失った時も。
役目で、仲間が死んだ時も。
このような気持ちになったことは、なかった。
「……ええ。
これ以上遅くなると、姉様の体にも差し障りがあるでしょう。
先を急ぎます」
やっとのことで、右庵は肯き、また歩き出す。
一瞬遅れて、紗恵の歩がその後を追う。
紗恵がついてくるのを確認しながら、機械的に人通りの少なく、
それでいて治安のいい箇所を縫って歩く。
八年の歳月で身に染み付いた動きをなぞるだけにして、屋敷への道を急ぐ。
ふと、頭の隅に、幸花の言葉が過ぎる。
『貴方…本当は、二人を屋敷から追い出したいんじゃないのかしら』
どうしようもなく的外れな意見だ、と右庵は思う。
そんな思いで動ければ、どれだけ楽であったろうか。
もう一つ過ぎるのは、千里耳の言葉。
『姉と妹のために、と思って始めたことなのだろう?』
今は、それに縋るしかない。
どれだけ自分が十夜のことを大切に思っていても、所詮は自分だけの思いだ。
ならば、十夜のために出来るだけのことをすべきなのだ。
そこで一つ、言うべきことを思い出した。
「姉様」
言葉は返ってこない。
だが、彼女であれば、こちらの言葉に耳を傾けているだろう。
そう思って、右庵は言葉を続ける。
「……今回のことは、姉様から十夜に伝えてください。
その時、くれぐれも、私がどう考えているかは伝えぬように」
右庵の思うところを知れば、十夜はまた、右庵の意図に背くかもしれない。
また、右庵自身が十夜と会話すれば、それは彼女の判断に影響するだろう。
それでは、意味がない。
一瞬。背後を歩く、紗恵の歩みが乱れたように思った。
しかし、すぐに返事が来る。
「わかりました」
行きの道程とは、全く異なる帰り道。
紗恵からは無駄な言葉など一言も発することなく、姉弟は粛々と家路を行く。
去来する思いに潰されぬよう、右庵は必死に足を運んでいた。
<七>
あの時のように、右庵をかき抱こうと、体は動いた。
しかし、手を伸ばそうとしただけで、それ以上のことはできなかった。
ここで彼を抱きしめて、どうする。
慰めて、心の隙に入り込むか。
それとも、かつての記憶を思い起こさせるか。
そんなことは、できない。
それでは、あの女と同じだ。
あの女と同じように行動しても、意味がない。
私は、あの女とは、違う。
我侭に言葉を述べつらい、思う侭に行動し。
そして、彼の愛情を独占する。
それで全てを手に入れられる、あの女と私は、同一ではない。
最初から、彼を独占しているあの女を真似たところで、何の意味もない。
同じことをしたところで、その結びつきは、あの女に及ばない。
「わかりました」
手を引き、理性を以って押しとどめる。
私は自分の思うままに行動はしない。できない。
せいぜい冗談めかして、我侭を言うのが関の山だ。
―――今は急ぐ必要は、無いのだ。
紗恵は自身に言い聞かせる。
今のところ、万事が自分の思惑通り進んでいた。
十夜の記憶は未だ戻らず、右庵もそれについて言及しない。
自分に関わる、社会的に厄介な事実について、無闇に探ろうとする幸花の動きは掴んでいる。
婿入りの話は、あの噂を流すことによって、一時的に話題の上ることは少なくなった。
これで、右庵と会話する際に、婿入りの話題を警戒する必要はしばらくはなくなるだろう。
噂を流したことで、縁談を緩やかに進めることができるようになったことは思わぬ僥倖だった。
婚姻まで急ぎ話しを取りまとめることは、十夜にあまりいい影響を与えない。
そういった意味では、良し悪しで考えるならば、良い方向に話が転んだ。
何より。十夜が自ら、あの屋敷を出て行くことを決心させ。右庵に否を言わせなかった。
恐ろしいぐらい、上手く行っている。
この八年で、こんなことは初めてだった。
始まりが何処にあったのかはわからない。
ただ、最初の自分は彼と共にあろうとしただけだった。
それだけのはずなのに、障害が、そこには存在した。
その障害を取り除いたとき、自分は道を外れた。
―――それでも、彼は。道を外れた私と共にいてくれると言った。
幸せだった。私は、自分の思いが成就した、と思った。
しかし、あの女は、そんな思い込みをあっさりと打ち壊した。
彼に纏わりつき、邪魔をするだけで愛される女。
体が弱く、ただ臥せっているだけで心配される女。
ただ、彼女が彼女であるという理由だけで、彼と共にあることができる女―――!
自分と、彼と、そしていつも共にいた、もう一つの存在。
あれは、真っ当な方法で、自分が勝ちうる存在ではないのだ、とその時に思い知らされた。
否、私は知っていたはずだったのに、それまでは冗談と思い込んでいたのだ。
そんなこと、あり得るはずがない、と。
その場にいるのは自分のはずだ、と。
思い込みが打ち壊された後に残ったのは、どうしようもない嫉みと、妬みと、願いと、望み。
それに従い、私は八年を費やし、あの女を排除しようとした。
殺すことはできない。自ら手を下さずとも、あの女が死ねば右庵は悲しむ。
だから、あの女が自ら、右庵から離れるように仕向けた。
現状を把握し、布石を打つ。
少々厄介な障害が生じたこともあったが、それを逆手にとって駒とし、あるいは強引に切り抜けた。
やっと、ここまで来た。
ここまで来れば。後は、彼が自分の思いに気づいてくれれば。
一度、受け入れらくれた想いを、彼が思い出してくれれば。
そして何より、彼自身が私に明確な感情を抱いてくれれば。
きっと、愚直な彼は、死ぬまで私と共にいてくれるだろう。
来世まで、などと望みはしない。
ただ、せめて、今生の間だけでも、一緒にいて欲しい。
まるで、走るように歩く彼の後を、影を踏まないようにして歩く。
急に変わっても、急に抱きしめても、きっと彼は戸惑うだけだろう。
少しずつ、少しずつでいいのだ。
焦って、全てを台無しにしないように。
今度は、打ち壊されないように。
―――今度は、私を愛してもらえるように。 |