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或騎士之難儀

第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話    


1

 騎士であるところの木下後一郎右庵が家路につくのは、陽が昇った後である。
  仕事を終え、享楽に耽るわけでもなく、ただ真っ直ぐに帰路を行く。
  周囲の者達の喧騒にも動じることなく、黙然と道を歩く。
  その足取りは、健脚、と言うほどではないが、速い。
  右庵は、疲労を色濃く残しながら、しかし、足早に王都の大通りを行く。

 時たま、彼に話しかける町の者もいる。

「旦那、今日もお疲れで…」
「騎士様、ご苦労様です」

 が、そのような者達の言葉にも、彼は会釈だけで通り過ぎる。
  話しかける者達もまた、返事など期待してはいないのだろう。
  声をかけただけで、すぐ各々の仕事へと戻る。

 大通りを一刻ほど歩いたところで、右庵は路地に抜ける。
  そこでは、すでに朝の仕度を終えた女達の会話や、仕事を持たぬ男達の愚痴、
あるいは休んでいる男達の無駄話が飛び交っている。
  その者達は、右庵に話しかけようとはしない。
  逆に、右庵の方が時たま会釈をして通り過ぎてゆく。

 再び、比較的大きな通りへと抜ける。
  そこは、大小様々な屋敷が並ぶ通りである。

 がっちりとした門に、黒光りする瓦の大きな屋敷もあれば、
そのような巨大な屋敷に挟まれた小さな屋敷もある。
  ただ、どの屋敷も同じように門が閉じていた。

 この通りに入ったところで、それまでは気づかれることすらなかった右庵のみすぼらしさが覗いた。

 髪は茶筅。着物は仕事帰りとはいえ薄汚れ、右庵の姿勢の悪さがそれらを助長して見せている。
  しっかりとした設えの屋敷の前に立ち、掃除をしている子供は、
右庵を、汚い獣でも見るような目で彼を見る。
  あるいは、すれ違う商人にこれ見よがしに舌打ちをされる。
  それらに反応せず、黙りこくって歩いていることが、彼のみすぼらしさを一層引き立てていた。

 その一方で、彼に親しげに話しかけてくる者もいた。
  右庵と似たような格好をし、だが彼とは違って立派な大太刀を腰にさげた男は、よう木下殿、
と右庵に声をかけ。
  右庵もまた、ご苦労様です、と言葉を返してすれ違う。
  背中に薬箱を背負った女は、おとよさんの様子はいかがですか、と聞き。
  それに右庵も、おかげさまで、と答える。

 いずれも平凡なやりとりであり、そのようなやり取りをこなしつつも、右庵は足早に歩いてゆく。
  間もなく、右庵は一軒の屋敷の前で足を止める。
  そこで、右庵は眩しげに目を細めた。
  すでに、陽が昇ってから一時が過ぎていた。

「今日も随分と遅かったのですね」
「…すみません。
  仕事が長引いてしまって…」
「仕事が、ですか。
  いつも同じように、仕事が長引くのですね」
「…」

 針の筵、という言葉を右庵は思い出していた。
  帰ってくるのが遅いといつもこうなのだ。
  右庵の前で食事の準備をしている紗恵は、彼にひどく冷たい視線を向けていた。

 紗恵は右庵の姉であった。
  体は痩せ、起伏に乏しいものの、かなりの器量の持ち主である。
  怜悧、という言葉が相応しいそのかんばせは、時折会うだけであれば美貌、
と呼べるものなのであろう。
  しかし、常日頃から目を合わせている右庵にとって、その切れ長の目と黒く輝く髪は、
恐怖の対象となっていた。

 紗恵の怒りからどうにか逃れようと、ただでさえ姿勢の悪い右庵の体がよけい縮こまる。
  そんな彼の頭に湯気が当たる。
  いつの間にか、茶の入った湯のみが右庵の前に置かれていた。
  おそらく、紗恵が淹れたものなのだろう。
  彼女は、何をするにしても手際がいい。
  それに比べて自分は、と右庵が溜息をついたところで、部屋の右にある障子が開いた。

「姉様、もう昼の…あ、兄様」
「ただいま帰りました」

 障子を開いて部屋に入ってきた少女に、右庵が頭を下げる。
  途端、少女がかなりの勢いで捲くし立てた。

「兄様!!
  何故もう少し早く帰っていただけないのですか!
  我が家は女二人、何かあってもどうにもならないのですよ!!
  お役目なのはわかります。
  しかし、貴方が私達を慮るのであれば、一刻も早く帰ってくるべきなのではないのですか!?」
「…申し訳ありません」
「兄様のそれは聞き飽きました!
  いつも同じ返事しかして下さらないではないですか!
  私が求めているのは謝罪ではありません!」
「…」

 その問い詰めは、ひどく理不尽である。
  かといって、妹の言っていることは、常日頃右庵がどうにかせねばならぬ、
と思っていることでもある。
  結果として、右庵は再び黙り込んでしまった。

「兄様はいつも謝るばかり!!
  理由といえば仕事だから、仕事だからと同じ答えを繰り返されるだけ!
  同じ夜回りをしている楠原殿はもっと早くお戻りなっているというのに…」
「…」

 右庵に叱責を浴びせる少女の名は、十夜、と言う。
  紗恵と同じく、やや体が痩せていて、その面はやはり美しい。
  しかし、その上背と瞳に宿したものは全くの正反対である。
  十夜の背は低く、そして大きな瞳には炎のような輝きを宿している。
  他にも、所々その造作に差異が見られた。

 つまるところ。
  右庵という名の、王直参の騎士である青年の実の姉妹が、紗恵と十夜なのである。

 紗恵の冷徹な言葉と、十夜の喧しい言葉がひと段落したのは、食事の用意ができた頃だった。 
  長髪を後ろにたくし上げた紗恵は、風呂を沸かして参ります、と言って立ち上がる。

「ああ、水浴びですませるので…」

 姉様はゆっくり休んでいてください、と言おうとした右庵の言葉は、
途中で喉の奥へと飲み込まれることとなった。
  姉が、その冷たい瞳で睨んでいたからである。
  まずいことをした、と心の中で思いつつ、右庵の体は勝手に縮こまっていた。

「何か言いましたか、右庵殿?」
「いえ…」
「そうですか」

 これ以上は何も話すことはない、という体で紗恵は立ち去った。
  おそらく、これから風呂を焚きに行くのであろう。

 縮こまった右庵の視線は自然と湯のみに向かっていた。
  思い出したように、右庵は湯のみをあおる。
  その中に入っていた茶は、多少ぬるかった。

「…十夜」
「はい?」

 すでに隣の部屋に戻ってしまった妹に、右庵は呼びかける。
  呼びかけに、十夜が素早く右庵のいる部屋へと戻ってきた。

「ヨミズさんが、貴女の体のことを心配していましたよ」
「はあ…それがどうしたのです?」
「いえ、わざわざそのように薬師の方が聞いてくるということは、
十夜の体の調子が悪いのかもしれない、と思いまして」
「そのようなこと、兄様が心配なさることではありません」
「…」

 家族なのだからそんなことはないのではないだろうか、と右庵は考えて、
いや、ともう一度考え直した。
  大人であれば、私の生活にみだりに踏み入られるのは良しとはしないだろう。

 少女とは言え、それは右庵から見た話で、十夜はすでに立派な大人であるのかもしれない。
  右庵自身、齢を二十数えたばかりであり、十夜も余り歳は違わない。
  このように、ただひらすら恐縮するだけの自分に比べれば、
はきはきと自分の意見を言える十夜の方がよほど大人なのではなかろうか。

 そこまで考えて、右庵は自分の考えがひどく悪い方向へと向かっていることに気づいた。
  同時に、卓の上に乗っていた食事が全て平らげられていることに気づく。
  どうやら、紗恵が膳を並べおわってから、いくらかの言葉を十夜と交わすまでの間に、
飯から汁物まで全て口の中に入れてしまったらしい。

 いつの間に、と右庵は思ったが、その思考すら常の事である。
  疲労していたから、気が疎かになっていたのだろう。
  そう結論付けて、右庵は立ち上がった。

 仕事の速い紗恵のことである。
  もしかしたら、風呂は焚きあがっているのかもしれない。
  別に完全に湯が温まっていなくても、汚れがとれればそれでいい。

 ここにいて、十夜と話をしたとしても、右庵から話しかければ突き放され、
十夜の口からは愚痴か文句が出るのみなのだ。
  余裕があれば、そのような会話であろうと喜んで受け入れただろうが、
仕事を終えたばかりの右庵にそんな余裕はない。

 しかし、右庵はある一つの事柄に気づいてはいなかった。
  要は、風呂場には薪を焚き、その火加減を調節している紗恵がいるわけであり。
  十夜から離れても、紗恵に小言を言われるに過ぎないのである。

 立ち上がった拍子に、右庵がよろめく。
  もしかしたら、明け方の、泥棒との駆け競べが今になって足に効いてきたのかもしれない。
  明日に響かねばいいが、と思いつつ、右庵は、冷徹な姉の待つ風呂場に向かうのだった。

 日は暮れて、次の朝、ならぬ次の夜。
  紗恵に起こされ、今夜こそは定刻通りに帰ってくるように、と念を押されて家を出て。
  右庵が向かった先は、仕事で毎日訪れている、とある長屋だった。

 都中を練り歩き、馴染みの町人に話を聞き、あるいは町の様子を自分の目で探る。
  咎人がいればそれを捕らえ、好ましくない振る舞いをする輩には注意をする。

 騎士団では、この役目のことを「都廻」と呼んでいた。
  実のところ、その呼称は俗称である。正式には、「王属騎士団都中警羅番」という。
  名の通り、都の警邏が都廻の主要な仕事である。

 都廻の中にあって、右庵は情報収集の任に携わっている。
  要は、都の風聞、治安状況から、どこそこの誰が死んだ、変わった病が流行っているなど
諸々の情報を仕入れるのが彼の仕事である。
  その仕事において、最も重要な情報源となっている存在に、右庵は会いに来ていた。

「いつものことではないか。
  お前の帰る刻限が遅いのも、お前の姉と妹が怒っているのも」
「確かにいつものことですが…私が言いたいのは、朝方まで私を引っ張りまわさないでいただきたい、
ということなのです」
「ほう。お前がそのようなことを言える立場であったか?」
「…」
「私がいなければ、お前の仕事も成り立たないであろう」

 都の全てを把握している者がいるということを知っているのは、ごく一部の人間であるという。
  ごく一部の例外を除けば、騎士の中ですら、右庵と他数名しか知らない事である。
  つまりは、その都のことを全て知るという、秘中の秘、とでも言うべき存在が、
今右庵の目の前で酒を飲んでいる女なのだ。

 いや、右庵自身、千里耳のことを女であることは愚か、人間であることすら信じてはいない。
  前任者に幾度も念を押された、というだけでなく、右庵は実感として目の前の存在を
人と思ってはいないのである。

「…では、本日の分の書は…」
「まだ出来上がっておらん」
「…」

 酒をかっくらいながらも、雪のように白い肌を一向に赤くする気配もなく。
  偉そうにそんなことを言う女に、右庵は呆れるでもなく、ただ押し黙る。

 

 千里耳。
  千里先のことすら聞き及んでいる、という意味のその名は、目の前の女から右庵が、
そう呼べ、と言われた名前である。
  右庵の前任者に聞いたところ、その老人には黒巫女、などと呼ばせていたらしい。

 とにもかくにも、その名の通り、彼女は都のまさしく「全て」を知り尽くしているわけである。
  そんな彼女の機嫌をとり、その日その日の都で起こった目ぼしい事柄を抽出してもらい、
書類としてもらうのが、右庵の最も重要な仕事であった。

「では、この辺りの見回りをしてきますので、どうか夜明けまでには…」
「おや、酒が尽きたようだな」

 右庵が立ち上がろうとする機先を制して、千里耳はそんなことを言う。

「わかりました。
  それでは酒を買った後、見回りに参ります。
  よろしいでしょうか?」

 そう言った右庵に、千里耳は、肩の辺りで切りそろえられた髪を揺らし、当然のごとく頷いた。
  では、と言って、今度こそ立ち上がろうとした右庵を、千里耳が再び言葉で止めた。

「ああ、右庵」
「…は」
「これが今日の正午までの分だ。
  それ以降のものは今からまとめよう」
「…」

 千里耳がどこか誇らしげに差し出したのは、昨夜から今日の正午にかけての、
諸々の情報が書かれた紙束だった。
  見れば、明け方、右庵がこそ泥を捕らえたことまで事細かに記載してある。

 何故、自分の周囲の人間はこうも仕事が速いのだろうか。
  右庵はそう考えつつ、今度こそ、薄暗い長屋の一室から立ち去った。

 薄暗かった部屋よりなお暗い外へと右庵は出る。
  彼は、この刻限でも空いている酒屋をすでに二三、頭の中に思い浮かべていた。

 右庵は、千里耳から情報を受取るたびに、酒を買い、あるいは食事を共にしていた。
  千里耳が金を出すこともあるが、大抵は右庵の懐からその金は出ていた。
  軽い懐を探りつつ、右庵は路地から通りへと抜ける。

 夕暮れ時から夜が明けるまでが、右庵の仕事の刻限。
  右庵の仕事は、今始まったばかりなのである。

 陽が落ちてから、半時ほど過ぎて後。

「戸締りはしましたか?」
「はい」
「…ありがとう。
  十夜、もう寝てもよいですよ」
「はい、おやすみなさい、姉様」

 木下邸では、そのような会話の後、二つの灯火のうち、一つが消える。
  もう一つの灯りは、満月が南に至っても尚、点いたままとなっている。
  さらに一時が過ぎ、二時が過ぎても、それでも、灯りは点ったままである。
  結局、その灯りは、夜明けが訪れても尚消えず、外が明るくなってきたところでやっと消える。

「…右庵殿。
  貴方は、またあの女と共にいるのですか…?」

 物憂げな溜息と、心配そうな、しかし怨念じみた言葉と共に。

2

<一>

 王都の中で一日に死ぬ人間はそう少ないものではない。
  餓死から始まり、病死、凍死、あるいは事故死、そして変死。
それらを集めれば、一日で百を越えることもある。
  勿論、疫病などが流行ればその限りではないが、平常の数はやはり百かその程度である。

 右庵が王都における一日の死者の数について正確なことを知ったのは、
千里耳の元に通うようになってからである。
  当初千里耳のことについて懐疑的だった右庵が、彼女が本当に都のことについて知り尽くしている、
と思い知らされたのも、その数を教えられたからであった。

 千里耳から、都の諸事が記載された書を渡された後、右庵は死者の数と、
それらの死についてのある程度の概要を知らせるため、まず最初に詰め所に向かう。
  それが右庵の日課であった。

 何処其処で誰彼が死んだ。
  右庵は、他人に比べ、そのことある程度詳しく知ることができる。
  だが、右庵にとってそれは特別なことではなかった。
  彼は、他人の死などどうでもいいことであった。
  また、それは都に住む大多数の他の人間も同じである、とも考えていたのである。

「…これを」
「確かに受取った。
  と、ああ、木下殿はこれから見回りか?」
「はい」
「気をつけてな」
「…は」

 都廻の詰め所で書を渡してから、右庵は都中の見回りを始めた。
  千里耳の情報があるということもあり、見回りをすべきところは、
鈍重であるという自覚がある右庵にすら、ある程度見当がついた。

 これでも、右庵は夜回りとしては三年ほどの経験がある。
  ゆえに、都中の見回りにも慣れている。しかし、弊害が無い、と言えば嘘であった。

「…」
「どうした右庵。
  そんなしかめ面をして」

 その弊害が、右庵の視線の先にいる騎士姿の女だった。
  右庵が詰め所を出て最初に向かった、店の連なる通りにいたのは千里耳だった。
  千里耳は、どこをどうやってかは知らないが、何故かいつも、右庵の見回る場所にいた。

 確か私は書を書いていただくよう言ったはずですが、と言おうとして、
右庵はその言葉を口の中に押し込めた。
  これもまた平常のことなのである。
  話を聞くまでもなく、すでに千里耳は己のやるべきことは終わらせてしまっているのだろう。

「ここら辺りは夜盗のよく出る場所だったな。
  わざわざこのような場所に来ても夜盗と出くわすはずがないと思うのだが」

 女がその顔に浮かべたのは、嫌味な言葉とは裏腹の人の良い笑みだった。
  千里耳は、先ほどの長屋で出会ったときとは全く違う服装である。
  豊かな胸を晒しに押し込め、着ているのは袴と羽織。
  その容姿は、肩の辺りで毛先が揃えられているという、少々風変わりな髪形をした、
華奢な体格の騎士にしか見えない。
  とても、先ほどまで酒を呑み、あられもない格好をしていた女とは思えない。
  いや、右庵以外の者には女とすら気づかせぬほどの変装であった。

 千里耳は、いつもこのような格好をして右庵と共に見回りをする。
  何故かは知らない。前任者も、こういった経験は無いようで、粗相の無いように、
という型どおりの意見しかもらえなかった。

 だから、文句も言わず、元より言えるはずもなく、右庵は千里耳のさせたいようにさせていた。

「…啓蒙というものです。
  千里耳様も都廻のやり方はご存知でしょう」
「効果があるとは思えんがな」

 からかうような千里耳の言葉に再び口を結び、右庵は商家の門を叩くのであった。

 

<二>

 

「…」
「ほれ、どうした。
  ここの酒代は私が持つといっているだろう。飲まんか」

 男が観念したのは、騎士姿の女が口許に笑みを浮かべつつそう言った時だった。

 右庵と千里耳は、いくつかの商家と長屋を回り、店主や家主と話をした後、
都の南西を一通り見回った。
  その後、右庵と千里耳はある飯屋に来ていた。
  彼らの見回りが終わった時点ですでに、夜半を一時(二時間)は過ぎていた。
  今は、すでに明け方が近くなっている刻限であろう。

「しけた面をするものだ」

 決して不味くはない酒を不承不承飲み始めた右庵に、千里耳は笑みを向ける。
  右庵には、それがまるで面白がっているように見えた。

 飯屋は狭く、人もいない。
  右庵には、それが自分たちのせいのように思えて仕方がなかった。

“都には いらぬものが三つあり 騎士に狸に 稼がぬ夫”

 騎士は都の嫌われ者である。
  特権階級である、というだけで嫌われる十分な原因であろう。
  王から土地を授かり、仕事をしないでも米を食うことができる。
  騎士のほうにも民に対して優れているという意識がある。
  ひいては、民を切り捨てることすらも彼らの権利に数えているとあらば、
騎士が民に好かれる道理はない。

 例外的に、時たま民に持ち上げられる騎士もいる。
  二代前の都廻の長、小丘飛後守(こおかひごのかみ)などは、話もわかる、
粋も知った騎士だと評判であった。

 とはいえ、右庵には自分が民に好かれているなどと考えることはできなかった。

「しかし、この店は空いているな、主人。
  いつもこうなのか?」
「ははは、そんなことはございやせん。
  夜に賑わうのは、女茶屋や郭の近くの屋台ぐらいなもんでしょう。
  あっしの飯屋は味で勝負してるんで、昼は客でごった返しで大忙しでさ」

 かか、と笑いながら言った馴染みの主人の言葉も、本当かどうかはわからない。
  心の中で、騎士に対する反感を膨らませているかもしれぬのだ。
  そういった人間を、右庵は都廻の初めの二年で散々見てきた。

「しかし、いい呑みっぷりだねえ」
「そう、こやつは酒を呑む量だけは人後に落ちんのだ。
  全く酔わぬから酒を呑ましてもつまらぬのだが」
「そりゃあいけねえ。
  酔わない酒ってのは飛べねえ豚くれえに意味がないもんですぜ」
「飛べない豚?何だそれは」
「いや、最近やってる浄瑠璃であったんでさ。
  とある青年の話なんですがね…」

「ちょ、ちょいと蜂さん!!大変だよ!!」

 聞きなれぬ声が聞こえたのは、飯屋の主人が流行りの浄瑠璃について語ろうとした矢先だった。

「な、なんだい?」
「いや、橋の向こうの…とにかく、来ておくれよ!
  人が一人でも必要なんだ!!」

 一体何が、と右庵が思う前に、飯屋に駆け込んだ女と右庵の目が合った。

「あ、あなた様、都廻の騎士様かい!?」
「…そうですが」
「聞いておくれよ、流れ者が、火をつけていきやがった!!」

 機転が利く女だったのであろう。
  右庵が都廻であると知るや、女は素早くそう言い切った。

「…千里耳様」
「放火か。火付改めにでもまかせておけ」
「そうは参りません…少なくとも、消火は私どもの仕事でもございます」
「やれやれ」

 先だって右庵が席を立ち、暖簾をくぐる。
  飯屋の中も薄暗かったが、外は尚暗い。
  しかし、完全な闇ではなかった。
  光が西にあり、人の騒ぐ声も聞こえた。

「この先か…」

 と、右庵が呟き走ろうとすると、後から通りに出た千里耳が声をかけた。

「待て、右庵!」
「…は」
「火をつけたのは千十太の長屋、その一室に居候していたやくざものだな?」
「は?」
「はい!?」

 千里耳の唐突な言葉に、火付けの知らせをした女が素っ頓狂な声をあげる。
  しかし、千里耳は落ち着いた様子で、右庵に指示を下す。

「長脇差を持った髭面の禿げた男だ。見ればわかる。追え。
  名は研呉郎、無宿の流れ者だ」
「…それは、放火を行った男ですか?」
「そうだ」
「は。それと…」
「わかっている。飯と酒代は踏み倒したりはせん。
  火がついている人家を放ってどこかへ逃げることもな」
「…は」

 右庵が頷くと同時。小火の光りがあるのとは正逆、闇に包まれた通りの先で、獣が鳴いた。
  右庵がその獣の鳴いた方角を見据えるのと、
ありゃ、と火付を告げた女が首を傾げるのはほぼ同時だった。

「…あれ?騎士様、私研呉の糞野郎のこと、言ったっけね?」
「気にするな。奴が研吾郎とやらを追う。
  代わりに私が火消しの指示をとる。案内せよ」
「そ、そうだ早くしないと!!
  蜂さん、ほら、アンタも来とくれって!」

 後方でそんな会話を聞く。
  寅の刻限が過ぎた頃。高い獣声に向かって、右庵は走り出した。

 

<三>

 

「…」

 自分が追うべき者はすでに袋小路に追い詰めた。
  少量とはいえ酒を飲んだにもかかわらず、それでも十分過ぎるほどに
走ることができた自分の体に感謝し、右庵は立ち止まった。
  足には自身はあったが、旅を続けてきたような男に勝てるかどうかは
彼自身にもわからないことであった。
  しかし、どうやら元より地の利のある己が有利だったようだ、と右庵は心の中で思った。

「騎士がなんの用じゃぁ!!ワシが何をしたぁ!!」

 明け方になると、必ず厄介ごとに巻き込まれる。
  そう右庵が気づいたのは、千里耳について一ヶ月たった頃だったろうか。
  何故、と考えて行き当たったのは千里耳のことだった。
  都の全てを知っている千里耳ならば、事件が起こるべき場所に自分を連れてゆくのも
造作もないことだろう。
  しかし、問うた右庵に返ってきたのは、千里耳の呆れたような言葉だった。

 ―――見回る場所を決めているのはお前自身であろう。
  ―――それならば、事件に巻き込まれるのはお前のせいではないか?

「密告があった。放火を働いたな」

 右庵の抑揚の無い声が闇に通る。
  先ほど大声のせいだろう。
すでに、幾人かの人間がこちらの路地を覗き込んでいる気配が右庵にも感じられた。
  右庵には思い当たらないことであったが、おそらくここで罪人を獲り逃せば、都廻の評判は落ち、
下手を打てば他の町人にも被害がでることは明らかであった。

「何でワシが放火したことになる!!」

 支離滅裂にわめいた男は、追い詰められたから自棄になった、というわけではなさそうだった。
  むしろ、大声を以って隙を作ろうとしている、と右庵は感じた。
  内容に意味はない。必要なのは、必要以上の声量なのであろう。
  その証拠に、罪人の手には油断なく長脇差が握られており、剣先も震えてはいない。
  往生際の悪い罪人に、右庵は厄介だ、と思った。

 応援は来るかどうか定かではない。
  その上、詰め所からここまではかなりある。
  そして、近場を見回っている同僚はいない。
  それでも、どうにかなる、ということをある程度右庵は察していた。
  時間が過ぎれば、相手は冷静さを失うはず。故に隙を窺うだけでよい。
  そこまで右庵は考えたわけではない。
  ただ、いくつかの経験からどうにかなるであろう、と考えていただけである。

「何でワシが火をつけたことになる!
  告げたのは誰じゃあ!!」

 ここで告げた者の名を出すわけにはいかない、と思った時には、すでに右庵は言葉を放っていた。

「狐だ」

 突拍子もない言葉と同時、犬や狼とは違う、獣の高い鳴き声が空に聞こえ。

「ぐぁ!?」

 罪人が苦悶の声をあげた。
  理由はその右足にあった。足に獣が噛み付いている。
  その獣は、狐。

 見物人に罪人、誰もが突然の出来事に驚く中、ただ一人冷静に動く者がいた。

 木下右庵は、己の腰にさげた刀を鞘から抜くことなく、振った。
  その刀、いや、鞘はしたたかに男の手を打ち、その手に携えられた長脇差を叩き落す。
  それだけでは右庵はすまさなかった。
  さらに腿、脹脛を続けざまに右庵は叩く。

「…都廻である。
  放火の罪につき、無宿研呉郎、大人しく縄に付け」

 そう右庵が言った時には、研呉郎は足を押さえうずくまっている。
  すでに狐はおらず、空は白み始めていた。


<四>

 

 右庵が火付改方に研呉郎、すなわち放火の犯人を引き渡し、
南西町にある火付改方の詰め所から出た時にはすっかり空が青くなっていた。
  放火の対応に捕り物、さらには役人への、未明の小火と実行犯の素性についての報告。
  それだけの仕事を二時(四時間)あまりで済ませた右庵は、ひどく疲れた様子で歩いていた。
  姿勢の悪いことが、彼の疲れをより一層大きなものに見せているのかもしれないが、
目や瞼の様子からも疲労の具合は知れた。

 今日も遅くなってしまった、と思いつつ、右庵は家に帰ることにした。
  都廻の騎士、それも実際に町内の警邏を行っている者は、詰め所に戻る必要は無いとされている。
  忙しく、詰め所に戻る暇の無い右庵のような騎士も珍しくはないからである。
  当然、その抜け穴をついて楽をしようとする都廻もかなりの数に上る。
  しかし、それらはうまくいかず、かなりの数の騎士が数ヶ月もしないうちに
都廻を追われることとなる。
  一部の騎士は、都廻の有力な情報源の一つである元罪人の連中が、
騎士団の上部から監視の命を受けているのだろう、と考えていた。

「無事か、右庵?」
「…」

 いつの間にか、千里耳が右庵の隣にいた。
  その姿は先ほどまでの騎士の姿から、女ものの単衣を着ただけの、
長屋にいた時の格好となっていた。

「まあ無事だったろうがな」
「…ごらんの通りです」

 彼女は何も言わずに、困ったように笑った。
  その温かい笑みは、決して家族からは向けられることのない笑みである。
  ふと、右庵は今は亡き父母のことを思い出した。
  頭に過った過去の思い出を頭の片隅に置いたまま、右庵は別のことで礼を言った。

「消火の件、ありがとうございました」
「何、私は何もしとらん。
  私が何かをするより先に、近くの職人連中がよってたかって火を消したからな。
  まあ、壊す場所の指示ぐらいはしたが…それでも飛び火は防げなかった」
「それで十分です」

 右庵の言葉に、千里耳がそっぽを向いた。
  それが、どのような意味を持つのか、右庵には知れなかった。
  彼にもわかったことは、ただ千里耳の沈黙が長く続いた、ということであった。 

「……さて、飯でも食うか?
  丁度、お前も腹が空いた頃合ではないか?」
「…昨日の夕刻に私が言ったことは覚えておいででしょうか」
「よいではないか。稲荷鮨の一つや二つ、食うのにそこまで時間がかかるものではあるまい」
「…」

 どうやら、やけに上機嫌な千里耳の中では、
稲荷鮨を食べることはすでに決まったことであるらしい。
  しかし、流石に右庵も二日連続で針の筵に座するつもりはなかった。
  家に待っている姉と妹はかなりの怒りを覚えているはずだ。
  そしてまた、別の意味でも右庵は早く屋敷に戻りたかった。

「では、その分の銭だけ…」
「わからぬ奴だな。
  お前が食わずしてどうする」

 朝に、騎士が道端で遊女のような格好をした女と連れ立って歩く。
  それだけでもかなり目立つ光景である。
  そういった事情も含めて、右庵は陽が昇ってから千里耳と連れ立って歩くことは遠慮願いたかった。
  一方で、右庵の心情を知ってて尚、千里耳はわざわざ女物の服に着替えたのだろう、
と右庵は何となく察していた。

「…申し訳ありませんが、ここはなにとぞお許しを」
「そんな顔をするな。
  まるで私が悪事を働いたようではないか」
「…」
「…ああ、わかったわかった。帰れ帰れ。
  お前の好きなようにするがいい」

 やはり今日は上機嫌だったのであろう。千里耳は、あっさりと右庵の申し出を受け入れた。
  明日の、いや今日の夕方からの仕事もうまくいくかもしれぬ、
と考えた右庵は、少しだけ心が弾んだ。

 歩を進め、いつしか騎士屋敷が並ぶ通りの近くにまで来た。
  と。

 右庵の決していいとは言えない目がどうにか人影を捉える。
  騎士屋敷の通り、彼らの向かい側から一人の女が歩いてきていた。
  若い娘である。騎士の家の娘が一人で出歩くことはありえ無い、とは言えないが珍しい。
商家の使いか何かだろうか。
  それにしては身なりがよく、やけに歩みが上品だ、と右庵が考えたとき、左手に気配を感じた。

「…?」

 先程よりも、半歩ほど千里耳がこちらに近づいている。
  反射的に、半歩ほど右庵は右に動くがそれを封じるように、するり、と千里耳が手を絡めてきた。

 同時。

「…右庵殿」

 底冷えのする声がした。

 

<五>

 

 向かいにいた女は紗恵であった。

 先も言った通り、騎士の妻や娘は、屋敷から滅多に外に出ることは無い。
  外出の必要がある用事が舞い込んだ場合、そういった仕事は全て
下男や下女に任せるのが普通である。
  しかし、山下の家は、諸々の事情からそれが出来なかった。
これに限って言えば、扶持が少ない騎士の家にはよくあることでもあった。

「…右庵殿」

 己の名を呼ばれた右庵は体を縮めこませた。
  先ほどまでは、曲がりなりにも騎士としてあった風格が、ただの一言で消え去ったのである。
  右庵のその変化に紗恵は目を細める。不機嫌を露にして、再び紗恵が右庵に声をかけようとした。
  が、先に右庵に声をかけたのは、彼の右腕にすがり付いていた女であった。

「馬鹿者。しゃんとせんか」

 言って腕をほどくと、千里耳は右庵の背中を叩いた。
  軽い音が響く。
  慌てて右庵が姿勢を元に戻す。とはいえ、元より姿勢が悪い右庵である。
  大してその威風に変化はなかった。おそらく、気勢が衰えているのが元々の原因なのであろう。

 と、それまで右庵にのみ注がれていた紗恵の視線が、横に移った。
  まるで、それまで存在しなかった物を見つけたがごとく、紗恵は言葉を紡いだ。

「…無礼な。
  騎士に向かって、そのようなことをしてもいいと思っているのですか」
「男と女の間に騎士も何もないものだろう?」

 右庵の前に出た千里耳の顔には、右庵に向けるものとは違う笑みが浮かんでいる。
  先ほどまでの雰囲気は完全に消え、千里耳の別の顔が覗いていた。
  それにもまた畏れを感じる右庵であったが、彼の姉には全く畏まるに足りぬことであったらしい。

「それは獣の理屈でしょう」
「獣で結構。男女の繋がりなどそんなものよ。
  屋敷に引きこもり、いつまでも嫁がぬ未通女にはわからぬことだろうがな」

 明らかな侮蔑である。
  しかし、紗恵はその何も浮かばぬ表情を変えることなく、真正面から千里耳の顔を見据えていた。

 右庵には、少なからず紗恵の怒りが垣間見えた。
  紗恵の存在に萎縮していた青年も、これはまずいと悟ったか、少々及び腰だったが、
彼女らに近づき口を聞いた。

「…千里耳様、姉様、往来にございます。」

 右庵の言葉に、千里耳は、肩をすくめる。
  それはまるで、この女が悪いのだ、とでも言わんばかりの動作であった。
  だが、紗恵は怒りが抑えきれぬのか、まるで右庵の言葉に抗うように、次の言葉を口にした。

「そのような女、手打ちにでもすればよろしいでしょう」

 紗恵は、ひどく平坦な声でそう言った。右庵には、冗談を言っているようには聞こえなかった。
  いつも姉に感じる畏怖とはまた違う、別の感覚を右庵は感じ取った。
  背中に感じた冷たいものを無理やり抑え付け、どうにか右庵は言うべき言葉を言えた。

「姉様…落ち着いてください」
「私は落ち着いています。
  右庵殿こそ落ち着いて今の状況を把握して欲しいのですが…あ」

 と、そこで紗恵が滅多にあげないような、間の抜けた声をあげた。

 いつの間にか、千里耳は姿を消していた。
  通りの先にも後ろにも、屋敷の方角にもいない。

 千里耳も嫌な気分になったのだろうか、と右庵は考える。
  いつものこととはいえ、仕事を知らぬ姉と仕事の相棒の会話に頭が痛くなる。

 千里耳が屋敷までついてきて紗恵と鉢合わせるということは、よくあることではあった。
  その度に、紗恵は千里耳に敵意を向け、千里耳もまたその敵意に敵意を以って相対するのである。
  しかも、その後必ず、紗恵の敵意は向けるべき場所を失い、
右庵への不満となってぶつけられるのであった。

 だから。
  右庵は、この後行われるであろう紗恵からの追求と、
今日の夕方に必ずしなければならない千里耳の機嫌取りに頭を悩ますのであった。

「妖物め」

 囁かれた言葉ではなく、歯を噛み締める音を右庵は聞いた。
  彼が右手を見ると、一文字に口を結んだ紗恵の顔がある。
  言葉が出ない。右庵はしばし迷った挙句、言うのを忘れていたある言葉を口にした。

「…姉様、遅くなりました。申し訳ありません」

 一拍。それだけの間の後、姉は弟へと目を向けた。 

「言うだけならば誰でもできるのです」
「…」
「付き合いを止めろ、とは言えません。
  団長殿からも、“あれ”が警邏番においても重要な職務についているということは
私も聞いております」

 正確には職務ではないのだろう、と右庵は考えたが、
そういうことになっているのならあわせた方がよい。
  そう考えて、小言を言いつつ屋敷へと歩み始めた紗恵の後ろ姿を追って、
何も言うことなく右庵は歩を進めた。

「それでも、私や十夜のことを心配してくれるのであれば、もう少し早く帰ってきてください」
「…はい」

 右庵の姿勢が、再び縮こまる。
  細かく刻まれる紗恵の足音に、くたびれた右庵の足音が続いた。

「右庵殿。
  風呂はもう沸いております。食事の前に湯におつかりください」
「…はい」
「ああ、それと―――」

 頷くしかない右庵に、紗恵は視線を向ける。
  疲れているのか、それとも厄介ごとに頭を悩ましているのか、右庵の足取りは重い。

「―――酒を買っておきました。
  明日の仕事に差し支えない程度にお飲みになってください」
「…ありがとうございます」

 右庵の感謝の言葉に、ほんのわずかに紗恵の顔が緩む。
  しかし、地面に視線を向けている右庵の視界には、その表情は存在しなかった。

3

<一>

 十夜は、兄である右庵―――もとい、後一郎に無数の不満を持っていた。

 後一郎が酒好きなこと。
  やたらと姿勢が悪いこと。
  使用人をいつまでたっても雇わないこと。
  十夜と紗恵を残して勤めに行き、早く帰ってこようという努力すら見せないこと。
  しかも、時に女を連れて帰ってくることすらあること。
  紗恵の縁談を一向にまとめようとしないこと。
  彼の仕事のため、紗恵が昼に寝て、夜に起きることを余儀なくされていること。

 後一郎が屋敷にいない時、十夜はそういった不満を紗恵に漏らすことがあった。
  しかし紗恵はそのたびに、悲しそうに笑って、そういったことは言うものではありません、
と言うのだった。
  十夜には、紗恵が右庵を庇っているように思えた。
  その様を見ると、何故か十夜は、どす黒い想いが腹に座るのを感じるのであった。

 極論すれば、後一郎がこの家の当主であること、後一郎がこの屋敷に存在することそのものに、
十夜は不満を抱いていた。

 しかしそれでも、十夜は己の感情を外に出すことはしなかった。
  せいぜいが後一郎を叱責する程度で、それ以上行動を起こしたり、
感情を顔に出すといったことはまずなかったのである。

<二>

 十夜の、幼い頃についての記憶は最早薄れてきている。
  幼子の頃の記憶など、海に移る不知火のようなものである。
  元からはっきり覚えているわけでもない。

 それでも、思いだそうとすれば明確に脳裏に映る光景は、確かにあった。

 一つは、紗恵の柔和な笑顔と、冷たい瞳である。
  紗恵は年端のいかぬころより十夜と後一郎の世話をしてきた。
  子供だけで使いにいくことや、あるいは遊びに行くこともあったかもしれない。
  そのような時、紗恵はいつも自分には笑顔を向けてくれた。
  あの笑顔があれば、何があっても大丈夫だ、と思えたものである。
  その一方で、紗恵は厳しくもあった。
  禁じられたことや、公序良俗に反することを行えば、容赦なくあの冷たい瞳で十夜を射抜いていた。
  そして、紗恵は、いつも後一郎にはあの冷たい瞳をむけ、
決して笑顔を見せることはなかったのである。

 あるいは、後一郎の愚図な行いも、十夜の記憶の奥底には残っている。
  後一郎は、剣や手習い、学問に関してはある程度そつなくこなしていたが、
日常の生活ではひどく鈍重であった。
  たかが掃除だけで時間がかかり、一々こちらに何かを聞いて来た。
  その度に、自分は勢いのいい言葉で罵倒したように、十夜は記憶している。

 そして、すでに一枚の絵のようにしか思い出せない光景もある。
  その絵の中では、滅多に変えない表情を夜叉のように変化させて、紗恵が後一郎を叱責していた。
  全く前後の話は思い出せないが、紗恵は、昔から後一郎のことは
疎ましく思っていたのであろうという想像をするには十分であった。

 十夜の中にある、幼い頃の紗恵と後一郎についての記憶はその程度のものだった。
  些少な出来事ならある程度は思い出せるが、それは大して意味の無い出来事ばかりである。

 十を過ぎた頃の記憶であれば、ある程度鮮明に十夜にも思い出せた。
  中でも、十夜にとって、最も鮮明な記憶は、父母の死であった。

 八年前、十夜が十一歳、紗恵が十八歳、後一郎が十四歳の時である。
  最初に父が仕事の最中に調子を悪くし、続けざまに母もまた倒れた。
  紗恵が二人につきっきりで看病したが、彼女の努力も空しく、
二週間足らずで彼らは息を引き取った。

 父母の死後、しばらくのことは十夜も記憶していない。
  だが、その後、父母が亡くなったことで生活が厳しくなった辺りからの記憶ははっきりしていた。
  紗恵が内職をしていた光景は、今も鮮やかに思い出せることができた。

 生活が安定し始めたのは、十五となった後一郎が都廻の役目についてからであった。

 父の死後、家督を継いだのは後一郎であった。彼は右庵という実名を得て、木下家を継いだ。
  都廻の役目を得たのは、さる要職についている騎士の口ぞえということであった。
  木下家は直参の騎士ではなくて家禄も少なく、後一郎が都廻の役目を得たことによる俸禄で
家族三人が暮らしていけるようになったのである。

 しかし、その一方で。
  後一郎が都廻の役目についてから、十夜の彼に対する嫌悪は膨れ上がっていった。

<三>

 その日も後一郎が屋敷に戻って来たのは、巳の刻にさしかかろうかという刻限であった。

「右庵殿。食事の後はいかがなされますか?」

 紗恵が、空になった食器を片付けながら後一郎に話しかけるのが、十夜の耳にも届いた。

 紗恵は、後一郎のことを右庵、と呼んでいた。
  後一郎の本名は木下後一郎右庵である。
  「右庵」というのは確かに彼の名前だが、それは実名であり、
本来であれば口にするのを避けるべき名である。
  通例であれば、通り名である「後一郎」という呼称で彼を呼ぶべきなのだが、
紗恵は後一郎のことを実名で呼んでいた。

 いつからかは十夜も覚えていない。
  だが、すでにそれが当然に思えるほど長い間、紗恵が後一郎のことを
実名で呼んでいることは確かであった。

「…今日は寝ます」
「わかりました」

 それだけの言葉の後、何も語ることなく紗恵は居間を立ち去った。

 襖の陰から十夜が居間を覗いてみると、そこからはわずかに酒の臭いがした。
  居間の中心には、恐縮しきった後一郎が胡坐をかいて座っている。
  盆暗が、と十夜は心の中で後一郎を罵倒した。

 何故堂々としていられないのか。お前のその態度が姉様の怒りを助長する原因なのだと
何故わからない。
  しかも、酒を呑んで何様のつもりだ。酒を買うような金を稼ぐぐらいなら、
何故少しでも早く帰って来ないのか。

 無数の言葉が彼女の頭の中を駆け巡る。
  しかし、十夜はそれを決して口にすることはなかった。

 間もなく、頭を抱えた後一郎が立ち上がる。
  おそらく水浴びでもして寝るのだろう。

 今日は後一郎に話しかけられなかったことを安堵しつつ、
十夜はやりかけの裁縫の仕事に戻ることにした。

 後一郎は、用事がなければ紗恵にも十夜にも話しかけることがない。
  その点においては、十夜は後一郎を評価していた。

<四>

 時は過ぎて、申の刻より少し前。

 寝ている紗恵の代わりに家の中を掃除している途中、十夜は風を切る音を聞いた。
  よくよく聞くと、その音は庭から聞こえてくる。
  十夜にとっては、聞くだけで眉をしかめたくなる音であった。

 庭を見ると、後一郎が鉄の棒を振っている。
  十夜の目には、ひどく稚拙な動きに見えた。
  一つ一つの動作が大きく、緩慢なのである。
  生前の父とは比べ物にならないほど頼りなかった。

 と、音が止まった。
  しまった、と十夜が思う前に、後一郎がこちらの存在に気づいてしまった。

「…お疲れ様です」
「はい、おはようございます兄様」

 十夜はどうにか顔を繕い、挨拶を返す。
  後一郎は、十夜の努力も他所に、再び鉄の棒を振るい始めた。

「…っ」

 思わず、十夜が舌を打った。
  理由はわからないが、無性に腹が立ったのだ。
  しかし、その音は後一郎の棒を振るう音に掻き消された。

 後一郎は、十夜の存在など無いもののように鉄の棒を振るうことに専心していた。
  そのことに、十夜は余計に腹が立った。
  何故だろうか。最小限の会話しかせずに済んだのに、どうしてここまで怒りがこみ上げてくるのか。
  思わず、いつものように難癖をつけて兄を叱責しようとした時、後ろから声をかけられた。

「十夜、どうしたのですか?」

 怒りに心を占められていたところに唐突に背後から声をかけられ、
十夜は思わず体をびくりと震わせてしまった。
  背後にいたのは、言わずもがな紗恵であった。

「あ…姉様、おはようございます」
「はい」

 慌てて挨拶をした十夜に、穏やかに肯く紗恵は、そのまま庭へと目を向けた。
  彼女の視線の先には、庭に干された洗濯物があった。

「あ、洗濯物を取り込んでおきましょうか」
「…いえ、後でいいでしょう。
  食事の仕度をします。十夜も手伝ってください」
「は、はい!」

 返事とともに、軒先から土間へと向かう姉を十夜は追う。
  庭からは変わらず風を切る音が聞こえていた。

<五>

 夕刻。
  すでに、外も、そして屋敷の中もひどく暗くなっている。
  間もなく、暮れ六つを知らせる鐘が鳴る頃だろう。

「…行ってまいります」
「はい」

 短い問答の後、後一郎は屋敷から出て行った。
  同時、何かから解放されたかのように、紗恵の顔が緩んだのを十夜は見た。

「それでは、私達も食事にしましょうか」
「はい、姉様」

 紗恵の顔に浮かんでいるのは、後一郎が屋敷にいる時には決して見せない柔らかい笑みである。

 後一郎が家を出た後に、姉と共にとる食事。
  その食事の時間が、十夜にとって最も心安らぐ時間であった。

4

<一>

 仕事に出れば、千里耳の我儘に振り回され、何故か厄介ごとに巻き込まれ。
  かといって、屋敷に戻れば、姉の叱責と妹の罵詈が容赦なく降り注ぐ。
  それらに耳を塞いで剣の鍛錬に没頭し、疲れ果てて眠る。
  夕方になれば、起床し、再び仕事に赴く。
  畢竟、右庵の一日といえばその繰り返しであった。

 忙しさに追われてただその日常を繰り返すことしかできない。
  右庵自身が何かを変えたい、と思っても、そのような暇は、意識してもなかなか作れないのである。
  その元凶とも言えるのが、右庵が都廻において受け持っている役目である。
  千里耳から受取った書を詰め所へと送るという役目は、
  一日たりとて休むことを許されないのである。

 右庵にしても、やってみたいこと、あるいはやらねばならないと考えていることは幾つかあった。

 その最たるものが、紗恵と十夜の嫁入り先を探すことであった。
  紗恵は二十六、十夜もすでに十九である。
  さすがに、そろそろ嫁入り先を探さなければいけない歳ではあった。

 とはいっても、二人とも婚期を過ぎているわけではないし、器量も悪くない。
  右庵自身が使用人を雇っていないせいもあり、家事全般もそつなくこなす。
  唯一つ問題があるとすれば、少々家格が低い、ということぐらいであろうか。
  とはいっても、木下家程度の家格で嫁を探している家などいくらでもある。
  だから、右庵自身がその気になれば、縁談などすぐにまとまるはずである。

 一般的に考えればそのはずであったし、右庵自身も都廻になったばかりの頃はそう思っていた。

「お断りします」

 右庵がその言葉を聞いたのは、役目を終え、屋敷に戻ってきた時のことであった。
  目の前に座っているのは紗恵である。
  彼女は、いつもと変わらぬ冷たい瞳でそう言い放った。

「…しかし、姉様」
「断る、といったはずですが。
  これで何回目ですか?」

 説得を試みようとした右庵の出鼻をくじくように、もう一度紗恵は同じことを言った。
  その瞳に、右庵は背筋が冷たくなる。まるで刃を突きつけられているかのような感覚に、
  一瞬息が止まる。
  とはいえ、そこで退くことはできなかった。

「相手は勘定方の役目についている方で…」
「もう何度も聞きました。
  その上で私は、この事はお断りする、と言っているのです。
  それとも、貴方はそこまでして私をこの屋敷から追い出したいのですか?」

 私が家長である以上、貴女もいつまでもこの屋敷にいるわけにはいくまい。
  そんな言葉が右庵の頭を過るが、口にはしなかった。
  代わりに、紗恵の要望に沿うような話を持ち出す。

「…相手方は婿入りも吝かではない、と仰っております」
「木下の家を他人のものにする気ですか?
  私の婿、ということはその男が長男の扱いを受けることになるのですよ」
「それも已む無しかと」

 今度の言葉は、本心からのものだった。
  どうしても紗恵が屋敷を出て行かぬ、というのなら右庵は家長の座を
  放棄することすら覚悟していた。
  幸い、都廻の役目は、木下家に与えられたものではなく、右庵本人に与えられたものである。
  屋敷を出ていったとしても、どうにかなるという考えが右庵にはあった。

 しかし、崖に飛び降りるほどの覚悟で言った右庵の言葉は、姉には相手にもされなかった。

「話になりません」

 今回も駄目だったか、という弱気の虫が声をあげる。
  だがそれでも、右庵は頼まないわけにはいかなかった。

「…せめて、会っていただくだけでもできないでしょうか」
「この事については、これ以上話すことはありません」
「そこをどうにか、お願い致します。
  会えば、悪い男ではない、ということも姉様にご理解いただけると思います。
  どうにか…」

 右庵は頭を下げた。
  そこで、紗恵の言葉が止まった。
  考えを改めてくれたのだろうか。
  そんなわずかな希望とともに右庵は頭を上げた。
  しかし。

「…」

 紗恵は、すでに右庵の前にはいなかった。
  溜息をつくでもなく、右庵はただ黙り、視線を宙に彷徨わせた。

 

<二>

 

 紗恵が、嫁入りを拒否するのは初めてのことではなかった。
  右庵自身が具体的に嫁入り先を探してきた時だけで二回目である。
  それこそ、遠まわしに嫁入りを勧めた回数も含めれば、十は軽く越えるだろう。

 右庵は紗恵の態度が、愛着のある屋敷を出たくは無い、という意志の表れかと考えていた。
  だからこそ、婿入りも許容できるような相手を探してきたのだ。
  しかし、それでも紗恵は頭を縦に振らなかった。

 何か別のところに紗恵の本意はあるのか。
  右庵は考えてみたものの、全く思い当たることはなかった。

「…」

 どうしたものか、と思ってもどうすることもできない。
  体が疲れているだろうか、頭にもやがかかっているような感覚もある。

 くらり、と足がもつれそうになったところを、どうにか踏みとどまり、頭を振る。
  これはただ眠たいだけか、と考え、右庵は諦めて床に入ることに決めた。

 滅多にしない長話をしてしまったせいで、いつも右庵が眠る時刻は
  すでに過ぎ去ってしまっている。
  間もなく正午ではある。良くて二と半時程度しか眠ることはできないだろう。

 寝ぼけた頭の中で、何とはなしに、右庵は一つのことを思い出した。

 確か、紗恵は一度縁談がまとまりかけたことがあったのではないか。
  あれは、いつだったか。
  父と母が死ぬ、少し前だったような気がする。

 あの頃のことは色々ありすぎて、一つ一つのことを具体的に思い出すのが難しい。
  しかし、確かに紗恵はあの時にまとまりかけた縁談があったはずだ。

 とはいえ、そのことを紗恵本人に聞くわけにはいかないだろう。

 ならば、十夜に聞くべきか。
  しかし、彼女は八年前は十を過ぎたばかりの幼子だった。
  縁談のことなど、覚えているかどうか以前に、耳にしているかも怪しい。

 では、誰なら知っているだろうか。
  そもそも、何でそんなことを知ろうというのか。

 そうか、と右庵は己のうちで頷く。
  以前上手くいった経験があるなら、そこを辿れば答えが見つかるかもしれない、と思ったのだ。

 思考は混乱し、まどろむ。
  目を閉じると、あっさりと眠りにつくことができた。 

 

<三>

 

「姉様?まだ起きてるのですか?」
「ええ…寝付けないのです」

 時刻は正午を過ぎた頃である。
  十夜が姉の部屋をのぞくと、そこには紗恵がいた。
  平常であれば、部屋にいる右庵同様、紗恵も床についている時刻である。
  だが、何故か紗恵は眠ることもなく、彼女の部屋でただ座っているだけだった。

「何かあったのですか?」
「…十夜には隠せませんね」

 紗恵が困ったように微笑む。
  紗恵の話の内容は、縁談を右庵が持ち込んだ、という話であった。

「それで、縁談を受けるのですか?」

 話が終わると同時、十夜は思わず前のめりになってそう聞いた。
  だが、紗恵は首を横に振るだけであった。

「話を聞く限りではいいご縁であるように私には思われるのですが」
「…右庵殿もそうおっしゃっていましたね」

 先ほどとは違う、物憂げな笑みを紗恵は浮かべる。
  十夜は紗恵の表情に、内心右庵に対して苛立ちながらも、どうにか言葉を継いだ。

「では、何故。
  このような縁談を兄様が持ち込むなど、滅多にありません。
  ここで断れば、次は無いのかもしれないのですよ!」

 語気が荒くなったことを、十夜は言葉を口にしてから悟った。 
  紗恵がどこか驚いた顔をしたのを見て、しまった、とも考えた。
  しかし、紗恵が驚いたのは別のことについてであった。

「…右庵殿は、頻繁に縁談の話を持ち出されます。
  十夜は気づいていなかったのですか?」
「…え?」
「つい三ヶ月ほど前など、今回と同じように、縁談をある程度まとめて私に紹介したのです。
  その時も断ったのですが」
「……」

 紗恵の言葉に思わず、十夜は呆けてしまった。
  縁談があったことなど、初耳だったのである。
  同じ屋敷で暮らしている以上、些細な会話まで全て知っているはずなのだが、
  紗恵の縁談や結婚に関する話は聞いたこともなかった。

 妙な疎外感を覚えると同時、何故そのことを右庵が自分に言わないのか、
  という腹立たしい思いが浮かんできた。

 しかし、そのような怒りなど今はどうでもういいことのはずであった。
  十夜はどうにか自分の心を落ち着けて、もう一度、紗恵に本題を問いただした。

「と、ともかく。
  何故それらの縁談を断ったのですか?
  せめて、相手に会うぐらいすればよかったではないですか」
「そうもいきません。
  一度会ってしまえば、相手方は私にもその気がある、と勘違いしてしまうでしょう」

 十夜は黙り込む。
  紗恵も、次に言うべき言葉を思いつかなかったようであった。
  暫くして、十夜は、紗恵の意図を率直に聞いた。

「姉様は、結婚なさるおつもりが無いのですか?」
「ええ」
「何故ですか?
  このようなところにおられても…」

 十夜の言葉に、紗恵の表情が一瞬無くなる。
  不意に背筋に寒気が走ったように十夜は感じた。
  それは、幼い頃から時折感じていた、紗恵に叱られる前触れのようなものであった。
  十夜は、反射的に目を閉じる。

 しかし、何も紗恵は言わなかった。
  十夜が目を開けると、紗恵は、いつもの微笑みを浮かべていた。

「…そうですね。
  正直、嫁ぐということに否定的な気持ちは私にもありません。
  しかし、木下の家や、貴女のことが私は心配なのです」

 ほう、と息をする紗恵の言葉には嘘は無いようであった。
  紗恵の、自分のことを思いやる気持ちに、十夜は暖かいものに包まれる感覚を覚えた。

「十夜がどこかいい家に嫁げれば、私の心配も一つなくなるでしょうか」

 その言葉は、どこか冗談染みたもののように聞こえた。
  ただ、確かに自分が嫁入りでもすれば、紗恵の重荷も少しは軽くなるだろう。

 とはいえ、木下の家のことは、どうにもなるまい。
  後一郎が家を任せられるほど立派な人間であれば、と考え、紗恵は正直にそのことを口にした。

「兄様がもう少ししっかりしておられれば…」
「…全くその通りです」

 その時、姉妹の間で同じ意図が通ったように、十夜には思えた。

 話がやむ。
  そこで十夜は、紗恵の部屋を去ることにした。

 とりあえず、やるべきことができた、と十夜は考えた。
  紗恵の負担にならぬよう、立派な家に嫁ぐ。
  とはいえ、自分ではそんな縁など作ることもままならない。
  少々不満ではあるが、家長である後一郎に頼む必要があるのだ。

 さて、どう言ったものだろうか。
  十夜はそう考えつつ、掃除の続きをすることにした。

 

<四>

 

「と、いうわけです」
「…私にはわかりかねるのですが」
「よいですか!?
  姉様は、今まで長女としてこの家を支えてこられました!
  ですから!!そのご恩を返すためにも、私は立派な家に嫁がなければいけないのです!!」
「…とりあえず、貴女のために縁談をもってこい、ということでしょうか」
「そういうことです」
「…姉様の縁談を先にまとめなければならないのですが…」
「姉様が言ったのです!
  私が嫁に行けば、安心して嫁に行ける、と!!」
「…」

 夕方に目を覚ました右庵は、起床と同時に持ちかけられた、十夜の頼みに面食らっていた。
  彼女自身の勢いもそうだったが、内容自体も今まで聞いたことのないような頼みだったからである。

「…とはいえ、一朝一夕というわけには」
「わかっています!ですから、とりあえず姉様より先に、
  私の縁談をまとめて欲しいと言ったのです!」
「…」

 そう上手くいくものだろうか、と右庵は考えたものの、十夜に逆らっても
  彼女の機嫌を損ねるだけだということは良く知っていた。
  とりあえずその場は頷いておいたものの、実際にその通りにできるとは考えにくい。

 ただ、十夜のことを心配して紗恵は家に残っている、ということはそこそこ興味深い話であった。
  そうであれば、確かに十夜の言うとおり、十夜の縁談を纏めれば、
  紗恵も嫁にいくことを承諾してくれるのかもしれない。
  それは、今まで考えもつかなかったことである。

「右庵殿、食事ができました」

 部屋の外からそう声をかけた紗恵にも、朝の様子を引き摺っている様子は見られなかった。
  紗恵に今参ります、と答えてから。

「…ありがとうございます」
「はい?何か言いましたか、兄様」
「…いえ」

 妹に頭を下げ、右庵の一日は始まった。

 

<五>

 

「上手く言ったものだな。
  妹を屋敷から追い出せば、後に残るのはお前とあ奴だけ」

 夜の庭。
  投げかけられた不快な言葉に、刃を構える。
  月光を受けるその刃は、見事なまでに輝いていた。

 闇を払い、妖や魔を退けるはずの光。
  だがしかし、目の前にいる存在は何も感じてはいないようだった。

「私を切れば、王命が下るぞ?
  下手人を探せ、とな」

 冗談に聞く耳を持つ必要は無い。
  相手は、人ではない。
  これを殺したところで、何ら問題はないはずなのである。
  そもそも、殺せるとは思っていない。

「右庵がいなければ、言葉を交わす意味も無い、ということか」
「…その名を呼ぶな」

 口にされた名に、思わず言葉が先に出た。
  相手もそれを狙っていたのだろう。

「奴をそう呼んでいいのは自分だけ、か?
  自分の物にでもしたつもりか」

 嘲る様子の口調に、腹が捩れる感覚を覚える。
  それこそが相手の意図するところなのだとわかっていても、どうしようもない。

「やっと満足してもらえる相手が見つかった、と奴もほっとしていたのに。
  全く、あまり弟に迷惑をかけるものではないぞ」
「…黙れ」
「奴から離れるつもりはない、か。
  邪魔になる者は、八年前のように全て消す気か?」

 何故それを、とは聞かない。
  ただ、刃を振ることで答えた。

「魔を退ける煌き、とはいったものの。
  残念ながら妖魔の類ではないのだが」

 刀を振りかぶった時点で、標的はいつの間にか間合いの外にいる。
  しかし、それが無駄な行為であっても、敵意を失くすつもりもなかった。

「しかし、右庵に惚れた女でもできた場合はどうする気だ?」

 そんなことがありえるはずがない。
  もしあったとしても、どうなるかは知れている。

「それこそ愚問か。
  邪魔者を全て消す、と先ほど私が言ったとおりになるだけだな」

 表情は浮かんでいないはずだ。
  考えを読まれたか、とも思う。
  と、相手は頭に手をあて、やや大げさに首を振った。

「私の苦労もわかって欲しいのだが。
  今回のこともそうだが、あまり無茶はしないようにしてほしいものだ。
  あれ程頑丈で、しかも色々と都合のいい男はそうはいない。
  それこそ、私の相棒が務まるような男は、な。
  だからこそ、お前が何かをして、奴が王都にいられなくなりでもしたら、厄介なのだ」
「…貴様」
「だからお前が怒るなというに。
  男女の情愛をかわすようなつもりは私にもないぞ」

 そうは言うものの、油断はならない。
  いつ、何がどうなるかなどわからないのだ。
  この女にそのつもりがなくとも、男の方がそのつもりになってしまうことだってある。

「気持ちもわからんではない。
  お前との付き合いも、そう短いものではないのだからな」
「…貴様が右庵殿を引き回さなければ、私もこのようなことはしない」

 それはそうだ。
  自分の敵わない相手に、意味もなく刃を向けるほど愚かにはなれない。

「そうもいくまい。
  私にも色々と都合がある。お前に都合があるようにな」
「ならば、せめて右庵殿に付き纏うのは止めてもらおうか。
  あのように身を寄せ合う必要などないだろう」
「そうは言っても、な。
  商売女のような格好の者と、騎士が並んで歩くのなら、あのような関係が自然だろう」
「いつも袴姿でいればいいだろう」
「あの格好をしていると、右庵が窮屈そうなのだ」

 くく、と笑った女に、さらに怒りが膨れ上がる。
  自分の方が、彼のことをわかっているとでも言うつもりなのか。

 が、相手は自分の怒りになど興味はないようだった。

「…間もなく時間か。
  私は戻るぞ。そろそろあ奴が書の催促に来るのでな」

 当て付けそのものの言葉に、ぐ、と刀の柄を握り締める。
  しかし、相手は涼しい顔でひらひらと手を振るだけだった。

「よいか?重ねて言うが、無茶はするなよ。
  特に、あ奴が持ち出した縁談の相手に手出しなどするな。
  今と昔は違う。
  あれで、あ奴は切れ者だぞ…そういったことに関してはな」

 最後に聞こえたのは、ひどく具体的な忠告だった。
  だが、それも声だけである。
  自分が相対していたはずの女は、すでに屋敷の庭のどこにもいなかった。

 夜もとうに深くなり、肌寒さを感じる。

 きっと、「彼」は今夜も王都の中を巡っている。
  そして、明日の朝まであの女に振り回されるのだ。

 そう考えると、気が気ではない。
  だが、何もできない。

 彼がいない間、屋敷を守るのが自分の役目。
  彼が働けるよう、補佐をするのが自分の役目。

 そも、自分の体はそこまで頑丈ではない。
  この寒空の下、彼について回ったところで、体を悪くするのが関の山だろう。

 叫び出したいような思いを無理やり押し込め、屋敷の中へ、そして自分の部屋に戻る。

 灯をつける。

 暗闇に、わずかな光が生まれた。
  弱い光の下、浮かび上がったのは、最愛の人の着物だった。

5

<一>

 右庵は、ある女性と差し向かいで座っていた。
  正面に見える床の間には、見事な水墨画の掛け軸がある。
  脇棚には、花も活けられており、その花瓶についても、右庵には値段の検討もつかない。
  その見事さは、木下の家にある床の間と文字通りの意味で格が違うものだった。

「そっか。紗恵なら丁度いいかと思ったんだけどね」
「申し訳ありません」

 砕けた言葉で接する女とは対照的に、右庵はひどく畏まった様子で謝罪の言葉を繰り返していた。

「謝らなくていいってば。
  悪いのはあの陰険女でしょ」
「…こちらから頼んでおいて、誠に申し訳ありませんでした」

 棘のある言葉に、右庵は座ったまま、今度は頭までも下げる。
  が、その姿勢に当惑したのは、相手の女だった。
  一瞬目を見開いた後、くすくすと口を押さえて女は笑った。

「いいって私は言ったわよ、後一郎」
「…は」
「だから堅くなんなさんなって。あんたと私の仲でしょうが。
  ほら、茶でも飲みなさいな。美味しいのよ、この羊羹」

 勧められた羊羹は、確かに美味そうであった。
  そも、甘いものなど滅多に食べない右庵にも、綺麗に切り分けられ黒い菓子は美味そうに見える。

 右庵の対面に座るのは、彼より頭三つ分ほど背が低い女性だった。
  背丈とその童顔も相まって少女にしか見えないが、彼女はれっきとした大人なのである。
  右庵が嘘を言われ続けたのでなければ、右庵よりも年上のはずである。
  後ろで馬の尾のように垂らした髪も、よく動く瞳も、眩しく輝く白い歯も、
どう見ても少女にしか見えないが、紗恵よりも、年上なのである。

 確か、今年でいくつになったのだったか、と右庵は考えるが、思い出せなかった。
  どうにか思い出そうとしたが、その前に思考は言葉で断ち切られた。

「後一郎」
「…は?」
「今何考えてた」
「…いえ、特に何も」
「嘘つくな」

 ふわり、と甘い匂いと頼りなさげな感触が右庵を包む。
  途端、右庵の体は宙を舞った。

 

<二>

 

 一件の後、右庵が通された客間には、外で待っていると言っていたはずの千里耳が
騎士の格好をして座っていた。

 掛け声が、庭の向こうにある道場から聞こえてくる。
  かなりの声量ではあったが、右庵には気にならなかった。
  とかく、背と臓腑が痛むのである。

「首を捻りでもしたか?」
「…いえ。
  少しばかり背が痛むだけです」
「全く、お前は何かを学ぶということをしないのか」

 そう言った千里耳に右庵は言葉もなかった。

 部屋を訪れた侍女も、笑いをこらえようともせず茶を置き、出て行った。
  あれが何に対しての笑いなのか気づかぬほど自分は愚図ではないと、右庵は考えたかった。

 実のところ、右庵の考えはある一面では当たっている一方、別の意味では的外れであったのだが、
彼自身は知る由も無い。 

 一日の勤めが終わった朝、右庵は小久我家の屋敷にいた。
  小久我家は騎士には珍しく、商いを行っている家である。

 騎士というものは一部の例外を除き、商売を禁じられている。
  その例外の一つが、騎士を相手取った商売を行うことであった。

 小久我家は、柔術道場と剣術道場を経営している。
  また、次男は学問、というほどではないが、読み書きや簡単な算術を子供に教えていた。
  これらは全て、騎士の子弟を対象としたものであり、評判も悪くは無い。
  かといって、別段いいというわけでもないが、客がいなくならない、
ということはそこそこ優秀ではあるのだろう。

 右庵もまた、幼い頃は剣術、柔術を学ぶためにこの屋敷の門を幾度となくくぐったものである。

「大方、年のことでも言ったのだろう」
「別に口にしたわけではありません」
「お前の言葉は顔に出ているのだ」
「…」

 右庵が黙りこんだのは、決して反論できないからではない。
  思い出したように再び背が痛んだのと、下手なことを言ってまた投げ飛ばされるのが、
右庵は恐ろしかった。
  恐らく次は手加減などすまい、と思い、右庵は呑気に茶をあおる千里耳から目をそらした。

 右庵が小久我の屋敷を訪れたのは、長女である幸花に面会するためである。

 幸花は、かつては小久我の柔術道場の師範代であった。
  かつて、というのは右庵が小久我の道場に足しげく通っていた頃の話である。
  あの頃は、幾度となく幸花に投げ飛ばされたものであった。

 今では幸花は武術から離れているらしい。
  何でも右庵が道場をやめてからすぐ、稽古中に膝を痛めたのだという。

「まあよい。
  どうせ縁談を断ったことについては何も言われなかったのだろう?」
「…は」
「それ見ろ。
  心配するだけ損だと言っただろうが」

 縁談をこちらから一方的に断っておいて、悪く思わない方がどうにかしている。
  だが、右庵は考えたことを口にはしなかった。
  別にそんなことは千里耳とて百も承知であろう。

 右庵が小久我の屋敷に、しかも夜ではなく、全ての役目が終わった後、
朝に来たのは謝罪のためであった。
  紗恵に持ち込まれた縁談は、幸花が口聞きしてくれたものだったのである。

 本来であれば菓子折りか何か、謝罪の心持を示すものを持って参じるべきだったのであろう。
  とはいえ、縁談を断ることは、一刻も早く知らせなければならなかった。
  右庵の心にはそこまで―――つまり、手土産を持参するほどの余裕はなかったのだ。

 役目を終え、急いで向かった小久我の屋敷。
  そこで余裕の無い面持ちで謝罪を繰り返した右庵を迎えたのは、
気にするな、という幸花の言葉だった。

「妹の婿探しについては何か言ったのか?」
「…いえ」
「その前に投げ飛ばされたか。噂にたがわぬ乱暴者だな」
「…」

 幸花と右庵は別段親しいわけではなかった。
  なので、幸花の性格云々を論じることができるわけでもない。

 確かに組み手で世話になったことは多々あったが、
右庵自身は特に親しさを感じていたわけでもない。
  彼が親しかったのはむしろ、幸花の弟である小久我の次男坊、馨である。
  右庵より四つ年下の彼は、道場に通っていた頃から、
人付き合いが苦手な右庵にとっては唯一の友人と言ってもいい人物だった。

 右庵が都廻に、馨が学問所の師範になった後も、友人としての付き合いは続いていた。
  そして数ヶ月前。馨からの相談を右庵が解決した際、右庵はその見返りをしたいと言ってきた馨に、
紗恵の嫁入り先探しを頼んだのである。
  結果として、友人の姉として、多少の交流はあった幸花が縁談を持ってきたのだった

 とはいえ、最初に幸花が仲介してくれた縁談は、三ヶ月前に破談となった。
  それ以上迷惑をかけるつもりは右庵にはなかったのだが、幸花は再び、
紗恵の婿探しをしてくれたのである。

 そして、今回もまた、右庵が一方的に断ってしまった形となった。
  それだけの恩がある相手である。
  投げ飛ばされる程度、右庵にはどうということはなかった。

「まあ奴も焦っているのだ。
  察してやれ」

 耳だけで聞いた千里耳の言葉と同時、からり、と小気味よい音とともに襖が開く。
  庭から右庵が目を戻すと、襖を開いたのは、小久我の幸花その人であった。
  しかし、十五に及ばぬほどにしか見えぬ容姿の彼女は、ひどく不機嫌に右庵の名を呼んだ。

「後一郎」
「…は」
「そいつこっから追い出しなさい」
「…は?」

 突拍子も無い言葉である。
  右庵は思わず眉をしかめたが、かまわず横にいる千里耳が挑発するように言葉をかけた。

「嫌だ、と言ったら?」
「とりあえずどっから忍びこみやがったのよ、この女は」
「…?」

 そもそも、ここに千里耳を通したのは屋敷の者ではないのだろうか。
  だというのに、何故、忍び込んだ、などという言葉を幸花は用いたのか。
  突然物言いが変わった幸花と、自分が置かれた状況を訝しげに思いつつ、
右庵は、隣にいた千里耳に目をやる。

 果たしてそこにいたのは、美しい面持ちの騎士ではなく、艶やかな遊女だった。

 眩暈を覚えたのは、右庵が小心者だからでは決してないだろう。
  もしかしたら、いきなり叩き出さなかった分、幸花も大物なのかもしれない。
  とはいえ、そうだったところで、何が変わるわけでもなかった。

「女がこんなところに忍びこめるとは思わないけど」
「ふん、狐一匹捕らえられぬようでは、小久我の屋敷もしれたものだな」
「…どこから説明すればよいのかわかりませぬ…」
「付き合う女は考えたほうがいいわよ、後一郎。
  紗恵といい馨といい、あんたの周りはただでさえおかしな奴らばかりなんだから」
「まさに然りだな」
「…」

 どう説明するべきか、とそう考えたところでやっと右庵は思い出した。
  右庵の記憶が確かならば、幸花は今年で三十になるはずであった。

 

<三>

 

 屋敷が立ち並ぶその通りは、人の気配も少ない。
  騎士屋敷は普通の民家とは違い、ひどく庭が広く、そのため屋敷と屋敷の間隔がかなり開いている。
  その上また、一般の民はなかなか立ち入ったりなどもしないため、
自然人通りも少なくなるのである。

「…別に送っていただく必要はなかったのですが」
「あんたが悪いんでしょうが」

 結局、十夜の婿探しについても軽く頼んだ後、右庵は小久我の屋敷を後にした。
  そんな右庵に、幸花は、そこまで送る、といってついてきたのである。

 別に送ってもらわなくともよい、と言ったのだが幸花はそれを聞かなかった。
  幸花は右庵より年上であり、そもそも、かつて柔術道場の師範代だった彼女は、
右庵にとって目上の人物でもあった。
  断ることもできず、とりあえず近くまで送ってもらうことになったのだ。

「こっちは食事まで用意したってのに」
「…それはまた何故」
「少しは考えろ馬鹿」
「…」

 ぷう、と頬を膨らませたその姿はやはり、十もせいぜい半ばまでの少女にしか見えなかった。
  こう並んで歩くと、兄と妹、あるいは親と子のようにも見えるのではないか、
と右庵は心の内でそう考えた。

 右庵は一瞬だけ視線を移す。
  幸花の膝は、痛めたとはいえ歩くのには不便はない様子であった。
  そして、視線を前に戻そうとすると、不意に幸花と目があう。
  どうやら、自分が脚のことを気にかけたのがわかっていたらしい。

「…失礼しました」
「気にすること無いわよ。
  私だって余裕がなけりゃあんたを送ろうなんて考えないし」

 明るく幸花は笑う。
  それは、果たして本物の笑いなのか、取り繕った笑いであるのか、右庵には検討もつかない。
  ただ、曖昧な表情を浮かべ、わかりました、と言うのみである。

「それにしても、あんな女が騎士だとは…世も末よね。
  多分ああいう格好してた方が、町の人から話を聞くにはちょうどいいんでしょうけど」
「…」

 実際は騎士かどうかなど、右庵も知らない。
  ただ、仕事上の上役も同然の相手なので、そう納得してもらった方が都合よくはあった。

 千里耳とは、屋敷の門をでたところで別れた。

 何か用事があるのか、それとも何の意味もないのか。

 考えたところで意味はないのだが、それに思索をしてしまうのが常ではあった。
  千里耳の行動は支離滅裂ではあるが、彼女なりの意思がどこかに介在しているように
右庵には思えた。

 そんなことを考える暇があるなら、また別のことをしろ、と十夜や紗恵なら言うだろうか。

「後一郎?人の話聞いてる?」
「…は」
「やっぱ聞いてなかったか」

 ぴくり、と右庵は体を震わす。
  もしやと思ったが、流石に往来で人を投げ飛ばすことは幸花もしなかった。
  今度は不機嫌を隠す様子もなく、幸花は再び右庵に話しかけた。

「聞いといてよね…全く」
「は」
「弟になんかいい人ができたみたいなのよ」
「…は」
「あ、やっぱりその様子だと知ってたねあんた」
「…そのうち馨自身が話すと思ってたのですが」
「やっぱりそうなんだ」
「…」

 幸花は、確信を得たようにうなずく。
  自分は相手の誘導に乗ってしまい、幸花に確信を与えてしまったらしい、
と右庵が気づくのにはほんの少しだけ時間がかかった。
  同時、右庵の背が若干丸まる。
  それは、彼の気勢を表しているかのようだった。

「そんなんで都廻ねえ…」
「…面目ありません」
「私は向いてないような気もするけどね。
  後一郎は力はあるけど筋は甘いし」
「…」

 幸花が言ったことは、右庵にとっても気にしているところではあった。
  右庵はさらに気分が落ち込ませたが、知らぬ顔で幸花は話を続けた。

「あー、けど馨もそんな年か。
  十八だもんね…色づくのも当然といえば当然よね」
「…」

 実は、馨が件の女と仲が良くなったのはここ最近の話ではない。
  とはいえ、右庵はそのことを話すつもりは毛頭なかった。
  話すべきでない、と考えると自然と口が重くなる。
  口が重くなり、周りの音が聞こえるようになったとき、不意にその音は右庵の耳にはいった。
  どうやら、幸花も右庵と同様、その音に勘付いたようだった。

「これ、笛?
  どこの大道商人かしら」
「いえ、これは」

 珍しく、右庵がすばやく相手の問いに答える。

「祭囃子です」

 

<四>

 

「へえ…?
  この辺りで祭りなんてあったっけ」
「火山の社が今日だったかと」

 王都では、何かにつけて祭をする。
  大きな祭りならともかく、小さな祭りは王都のそこかしこで毎日のように開催されていた。

 人が集まれば、揉め事から犯罪まであらゆることが起きる。

“祭りなり 都廻も 御役御免”

 大騒ぎをする場で何かと規則を持ち出すのは無粋、という見方もあるだろう。
  しかし、それでも都廻は祭りの監視に幾人かの騎士と、そして手先である軽犯罪者達を
送りこんでいるのが常であった。
  たとえその場で取り締まることができなくとも、情報は残る。
  そして、一度どこかで罪を犯した者はまた同じ罪を犯す。

 それが故に、都廻、それも情報を司る任についている右庵にとっては、
王都と周りの村で行われる祭の日時場所を知っているのは当たり前のことであった。

「…」

 しかし、右庵の頭に過ぎったのは、都廻の仕事にかかわることではない。
  幼い頃の光景だった。

―――兄様、兄様!飴です!

 祭囃子が聞こえる中、幼い妹の手を握り。
  振り回されるのは自分の方。

―――ほら、あんた達!はぐれないはぐれない!

 道場で幼い子供達に指導をする、年上の女性に追いかけられて。

―――十夜ちゃんと後一郎さんは仲がいいなあ。
―――馨んとことは大違い。
―――うるさいなあ。僕だってあんな乱暴な…痛っ!

 仲間の声が遠くに聞こえる。
  それも間もなく聞こえなくなり。
  慌てて自分は道を戻る。

―――きゃあ!?に、兄様?

 幼い妹を腕に抱き。
  大人達の足元を走り抜ける。

―――おーい!ああ、いたいた!!私があんたらのお守り任されてんだからね!

「おーい?」

 あれは、すでに十年以上の前のこと。

―――後一郎!あんたもしっかりしなさい!!男でしょうが!

 記憶の中と同じ声。変わらぬ顔に呼びかけられて、回想はそこで途切れる。
  ただ、一つだけくっきりと思い出せたものはあった。

「後一郎?」
「…すいません。
  少しばかり考え事を」

 口では幸花の相手をするものの、右庵の頭はまだ別のことを考えていた。
  昔は仲が良かった兄妹が、仲たがいし口も聞かぬ関係になる。
  そんなことは珍しくもなんともない。
  むしろ、妹と会話ができる程度には、自分は恵まれているのだろう。

 だが、そうやって納得できるのはあくまで共にいられるからなのかもしれない。
  果たして、十夜と別れる時、自分はそれでいい、と言えるのだろうか。

 かつて見た、そして今となっては見ることが叶わぬ、十夜の笑顔。
  それは、右庵の頭に焼きつき、そしてどうしようもない虚しさを呼び寄せるのである。

 

<五>

 

「ここら辺でいいかしらね。
  私はそろそろ戻るわよ?」
「…は」

 幸花が足を止めたのは、三軒も進めば木下の屋敷につこうか、というところであった。
  三軒、と言っても普通の長屋や町屋敷とは違う。
  庭も広大な騎士屋敷の話であり、結構な距離はあった。
  とはいえ、ここまでの足労に礼ができないのは、右庵にとって心苦しかった。

「…茶と菓子ぐらいなら出せますが」

 あまりにも婉曲な言葉に、一瞬幸花はわけのわからない、というような表情をした。
  が、すぐに意を得たのか、右庵の肩をたたこうとする。
  結局背の低い彼女は右庵の肩に手が届かず、代わりに背を叩いた。

「気にしなさんな。
  私、っていうか、馨が受けた恩に比べりゃこんぐらいどうってことないわよ。
  あんたもとっとと帰んなさい」
「…申し訳ありません。
  十夜の件も、どうか宜しくお願いいたします」
「はいはい。
  まあ、悪いと思うなら今度は朝飯でも食べていきなさい。ばれないようにね」
「…は?」

 首をひねる右庵を尻目に、後ろ向きに手を振って、幸花は来た道を引き返していく。

「ま、夜叉と面と向かって戦うつもりなんざありゃしないし」
「…は?何か…」

 聞こえたわけのわからない言葉に思わず、右庵は幸花の背に声をかけてしまった。
  が、幸花は気にした様子もなく、振り返って童のように笑みを浮かべる。
  その振り返った姿も、右庵が幼い頃から全く変わらないように見えた。

「なんでもないよ」

 笑いながら、幸花は言う。
  ふと、右庵は違和感を覚えた。

 人気がない。
  騎士屋敷、それも庭に対面した辺りであるのだから当たり前ではあるのだが、何故か体が震えた。

「…ねえ、後一郎」
「…は」

 右庵は、心が身構えている、と感じた。
  自分が口にする言葉も固く、どこか幸花の笑みに薄気味の悪いものが混じったように見えた。

「後一郎は、何であの二人の婿探しをしてるのかしらね?」
「…?」

 幸花の言った意味が右庵にはわからなかった。
  何を、という前に、もう一度幸花の口が開く。

「貴方…本当は、二人を屋敷から追い出したいんじゃないのかしら」
「…は?」

 響いた言葉は、右庵の頭に染み込む。
  得体の知れない悪寒に襲われ、体が震える。

 言った相手は自分の世話になった、年上の女性。
  自分に規範を叩き込み、武の基礎を教えた女性。
  彼女の言うことは、いつでも正しかった。
  彼女は、自分自身でも気付かないことを指摘したこともあった。

 それでも、まさか、と右庵は言葉を返そうとする。
  だが、乾いた喉からは言葉は出ない。

「…」

 自分が、木下の屋敷から姉と妹を追い出そうとしている。
  言われてみれば、それは理にかなっているのではないか。

 幼い頃仲が良かった妹も。
  昔から冷たかった姉も。

 自分には嫌悪や苛立ちをぶつけてくるだけ。

 あの二人を追い出せば、あるいは。
  自分は心安らかに暮らせるのではないか。

「…ご冗談を」

 無理やり声を捻り出したものの、頭の中で巡る声は消えない。

「そうね、冗談よ」

 そうだ、そんなはずはない。
  二人の幸せのためにやっていることだ。

 だが。幸せ、と言うが。
  そもそも、あの二人は自分のことを嫌っているのではないか。
  そうであれば、わざわざ彼女らの幸せを願う必要はないのではないか。

「じゃあね、また会いましょ、後一郎」
「…は」

 もう話すことはないのか、幸花は、歩みを速めて右庵の前から去ってゆく。

 だが、右庵は別れの挨拶もそぞろに、表情を取り繕うことで精一杯だった。

 家族は守るべき存在のはずである。
  自分が彼女らをどう思おうとも、彼女らが自分をどう思おうとも、守らねばならぬ。
  いつまでも守ることができずとも、少なくとも、彼女らを守ってくれる男を
見つけなければいけない。

 だから婿探しをしているのだ。
  決して、二人を追い出したいからではない。

 自分にそう言い聞かせ、右庵は、かは、と息を吐き出す。
  そこで、やっと人心地がつけた。

 青が見える空には陽が上り、雲も少ない。
  天気は、右庵の心とはさかしまに穏やかだった。

 

<六>

 

 朝。
  少女が屋敷の間の道を行く。
  歩みは崩れず、しかし医者が見れば、左の膝が悪いことに気づくかもしれない。
  と、彼女は疲れたのか、足を止めた。

「でもね。もし冗談じゃなかったとしたら」

 幸花は、最後に一度だけ視線を背後に向ける。
  後一郎はすでに、自分の屋敷についている頃だろう。

「私も膝の借りを返せるというものね」

 童の顔、華奢な体躯、軽やかな声。
  だが、その顔は。
  歳に相応しく、相克する激情と理性が渦巻いていた。

6

<一>

 それは、八年前。

 父の没後、後一郎宛に認められた遺書にはただ、紗恵と十夜を頼む、と書かれていた。
  片や、生前に最後に聞いた言葉は、紗恵の婿と協力し、二人を守ってくれ、という言葉だった。

 それを見、聞いて、決心が新たになったというわけではない。
  騎士であれば、弱い者を守ることは義務であるいうことは、父に散々言われてきたことであったし、
剣術の師にもそう教わってきた。

 ただ、父母の死に涙を見せなかった紗恵と、泣きじゃくっていた十夜。
  二人を見て、紗恵に畏れを抱き、十夜に愛おしさを感じた。

 それは、幼い頃から後一郎が見てきた二人そのままだった。
  紗恵は、どんなことにも動じず、自分のするべき役目を果たす。
  一方で、十夜は平時は気が強くても、土壇場で崩れてしまうところがあった。
  そもそも、年齢の違う者を同列に扱うのが間違いであるかもしれないが、
後一郎にはそういった印象があった。

 結局のところ、十五の小僧が都廻という勤めを果たせたのは、
最後の一線で彼女の存在があったからなのだろう。
  たとえ悪し様に言われ、明確な嫌悪をぶつけられたとしても、
右庵にとっては、十夜は昔の幼い妹のままだった。
  彼女を守るために必死で働き、扶持を稼いできた。

 だから、追い出したいなどと考えるはずはなかった。

 だというのに。

 何故、自分は。
  紗恵と十夜を追い出したら気楽になる、などと考えてしまったのか。

 

<二>

 

 悩み事があろうと、寝て、飯を食い、仕事に出る。
  当たり前のことではあるが、右庵にとって、それらはやるべきことであり、
やって当然のことであった。

 特に千里耳の下で働くようになってからは、彼女の書を都廻の詰め所に届けるという仕事は、
雨だろうが雪だろうが行ってきたことなのだ。
  それこそ、病の時であろうと、怪我をしている時であろうと行ってきたことである。
  今更自分の都合でできない、などということはなかった。

 逆に言えば、役目の間や家での振舞いは変わらずとも、頭から迷いが離れるわけではなかった。

 やるべきことは粗方終わり、いつものように千里耳の言葉に従って酒場に入った時も、
特に酒を飲むだけでもなく右庵は思索に耽っていた。

 寝ても覚めても、という言葉を思い出す。
  幸花に言われたあの言葉が、右庵の頭を離れなかった。

『貴方…本当は、二人を屋敷から追い出したいんじゃないのかしら』

 あの時は慌てて否定し、自分がそんなことを考えていないと自分に言い聞かせた。
  しかし。今落ち着いて考えてみると、わざわざ後ろめたく思うことはなかったのではないか、
という考えが右庵の中で首を擡げていたのである。

 右庵は今年で二十二。
  騎士の、それも長男であれば嫁が決まるか決まらないか、といった年頃である。

 同じような境遇にいる者など、家にいる親や兄弟姉妹が出て行けばいいのに、
と裏で言っている者は少なくなかった。
  そうすれば、嫁を貰う前に、思う存分「遊び」に興じ、羽目を外すことができるのだろう。

 勿論右庵は、彼らのように遊ぶつもりもなかった。
  楽しみと言えば、せいぜい酒を飲むことと、時たま、
小久我の馨から愉快な話を聞くことぐらいであった。
  とはいえ、である。
  表で言えることではないが、一般に右庵の置かれた立場からすれば、
紗恵や十夜を追い出したいと思っても不思議ではない。

 そんなことを考えると、どうしてあんなにうろたえてしまったのだろうか、
などという方向に思考が向かうのである。

 もしかしたら、本当に、姉や妹に嫌気が差してしまっているのかもしれない。
  右庵は、あの時自分が、紗恵や十夜がいなくなったら心安らかになるのではないか、
と想像したことを思い出す。

 今度は自分が嫌になってしまった。
  父や母がいなくなった今、彼女らを支えるのは自分なのだ。
  それを放棄しようなど、騎士として、そもそも人間として間違っている。

 いつの間にか、また同じことを考えている、と右庵は思った。

 極論、幸花はそこまで考えて物を言ったわけではないだろう。
  だというのに、いつまで自分は悩んでいるのか、と右庵は頭を抱えるのだった。

 頭を抱えた手の間から、頼んだ料理が見えた。
  まだ冷めていないごた煮に手をつける。
  それは、紗恵の料理よりひどく味が濃かった。

 と、千里耳が珍しく真剣な顔で問いかけてきたのはそのときだった。

 

<三>

 

 彼の女性―――と言っていいかどうかは定かではないが―――は、
右庵が頭の中で考えていることは常に見透かしているようであった。
  だからこそ、千里耳に神妙な顔で、少しいいか、
などと聞かれた時は自分が今考えていることを聞かれるのではないか、などと右庵は考えたのだ。

 しかし、実際に聞かれたことは、全く異なることであった。

「お前は小久我の長女…幸花とやらのことを好いているのか?」
「…」

 千里耳は、一通りの食事を平らげ、今は酒だけを飲んでいるようであった。
  右庵は懐具合と食事の量を見て、まだ余裕があるということを確認してから、
正直に千里耳の質問に答えた。
 
「特には」
「特には?」
「特に好きだ嫌いだ、というわけではありません。
  世話になっておりますし、馨の姉君ともあれば、滅多な付き合いはできないでしょう。
  …何故またそのようなことを?」
「何となく気になったからだが」
「…」

 千里耳が何の意図で聞いてきているのか、本当に何の意図もなく聞いているのかは、
右庵に見当もつかなかった。
  普段であれば、都廻としての能力を疑われるだろうが、この相手では仕様がない。

「そこそこ器量はいいと思うのだ。乱暴に過ぎるがな」
「…私から何の言葉を引き出したいのでしょうか」

 妙に持って回った言い方が、その時に限って勘に触った。
  右庵にしては珍しく、苛立った声でそう聞き返す。
  が、千里耳は全く動じる様子もない。

「単純な話だ。
  それこそ、そろそろ嫁の一人でも見つけなければいけないのではないか?
  好いた女の一人や二人、おらんのか?
  いないのであれば、あの女でもよかろう?」
「…」

 右庵は、妙なところで自分の考えが読まれていたような気がした。
  先ほど感じた苛立ちは霧散し、代わりに、千里耳の言うままに応じてみるか、
などと考えが表に出てきていた。
  そもそも、隠し立てしても意味の無い相手ではある。
  世間話なのか、それとも何か意図があってのことかはわからないが、
右庵はとりあえず返答することにした。

「嫁も無く…というわけにはいかないのでしょうか、やはり」
「長男だろうが、お前は」

 本気で呆れたかのように千里耳は肩をすくめ、いつもは自分の立場にこだわっている癖に、
と言葉を続けた。

「それとも本気で姉や妹の婿に家督を渡すつもりか?」
「…できるならば」

 楽でいいでしょう、という言葉は口の中に押しとどめる。
  意味は無いことではあったが、外でこういった会話をするには若干の引け目が彼にもあった。

 実際、家督を他の人間に譲ったところで、また別の面倒ごとが起きるのはほぼ間違いない。
  しかし、嫁を貰う、ということは右庵にはどうにも実感のわかないことであった。

「お前は、紗恵はともかく、妹の婚姻には乗り気ではなかったと思っていたのだが、な」
「確かにそうですが…」
「昔は懐かれていたと聞いたことがあるな」
「ええ。あの子も、昔は私といても嫌な顔をすることはありませんでした。
  …年を重ねるごとに私を毛嫌いするようになりましたが」

 右庵の言ったことは正確ではなかった。
  嫌な顔どころか、右庵には、かつては十夜に慕われている、という自覚があった。
  また、十夜が右庵のことを邪険にするようになったのは、
年を重ねるごと、ではなく、ある事を契機にしてのことである。
  だがしかし、別に話の流れにおいてその辺りの真偽は重要ではないだろうと右庵は考えていた。

「十夜のことが今でも気にかかるか」
「気にかかる、というのであれば…いつでも気にかかります。
  姉様はともかく、十夜は体も弱く、要領も悪いですので。
  …私の目が節穴で、実際は違うのかもしれませんが」
「あれほど嫌われてもか?」
「…わかりません」
「ふむ」

 そこまで言って、一旦千里耳は会話を止めた。
  結局、右庵には千里耳が何を考えていたのかはわからなかった。

 酒場での食事代と酒代は、いつもより少しだけ安く済んだのだが、
右庵は大して気にも留めなかった。

 

<四>

 

 酒場を出ても、千里耳の話は終わらなかった。
  丑三つ時を過ぎ、町人達の住まう通りですれ違うのは、仕入れに向かう魚屋と、
仕込みを始める豆腐屋ぐらいのものである。
  静かな分、声はよく響いていた。

「なんだかんだで紗恵には世話になり、十夜のことは可愛くて仕方が無い、か」
「…」
「強く言えないのも当然と言えば当然だな」
「…」
「そして、二人のことが心配であれば他の女に気を持つ暇もないという訳だな」
「…それはどうかわかりませんが」

 右庵は、今更ながら居心地の悪さを感じていた。
  千里耳が意図的にやっているのだろうが、それでも納得できるものではない。

 と、千里耳の言葉の中に妙な言い回しがあったように、右庵には思えた。

「…千里耳様。
  私は姉様のことを…」

 右庵は、言いかけて気づく。
  こんなことは言ってもそれこそ意味のないことであるはずだった。

「なんだ?」

 あるいは、その言葉を引き出したかったのか。
  騎士姿の謎めいた美女は、先ほどまで緩んではいなかったその顔に、笑みを浮かべていた。

「…」

 右庵は、ため息をつき。

「私は姉様のことは心配したことなどございません」
「そうか?」
「…ええ。
  姉様ほどの女性に、私が心配することなどないでしょう」
「そうか?一つぐらい気にかけていることがあるのではないか?」

 鋭いのか、あるいはこちらを手玉にとって喜んでいるのか、それとも両方か。
  右庵は、心中で困った、と思った。

 紗恵は、そもそも右庵の思慮が及ぶような存在ですらなかった。
  ただ、一つだけ気にかかることはあるにはあった。
  が、それを正直に言っていいものかは、右庵にはわからなかった。

「…結局気にはかけているのだろう」
「…」

 

 右庵は、千里耳の言葉に答えることはなかった。
  ただ、そもそも何故自分が紗恵に嫁入りを勧めたのかを、思い出していた。

 紗恵は、ひどく世間ずれしている。
  右庵はそう考えていた。

 紗恵は確かに要領はいい。
  学問も達者であり、家事も十分にこなす。
  文書などは、右庵などよりも紗恵が書いたときの方が様になる。

 しかし、それはあくまで家の中で、の話なのである。
  右庵には、両親の死後八年、彼の姉が屋敷の外に出て、何かをしたという記憶がほとんどなかった。

 右庵が昼夜を逆転した生活を送る前、すなわち夜回りの仕事につき、
千里耳の書を受け取る役目を受ける前から、紗恵は常に屋敷にいた。
  家事をし、屋敷の手入れをし、他の騎士の家との手紙のやり取りをしているばかりで、
屋敷の外にはほとんど出なかったのである。

 十夜は昔から体が弱く、床にふせることも少なくなかった。
  また、父母の死とともに、使用人は去ってしまっていた。
  右庵は屋敷にいない。

 だから、紗恵は屋敷に居続けざるを得なかったのである。

 紗恵の言葉から察するに、それは決して嫌なことではなかったのかもしれない。
  しかし、二十を過ぎた女性が、外の世界を知らぬまま、屋敷に束縛されている、
という事実は、右庵には不自然に思えた。
  しかも、紗恵が屋敷の中にい続けなければいけない原因の一端は、右庵にもあった。
  だからこそ、紗恵が屋敷の外の世界を知らないことは、右庵にとってひどく心苦しかったのである。

 それが、嫁入りを勧めたきっかけであった。
  もっとよい家に嫁げれば。もっとよい者達に囲まれれば。
  そう、右庵は考えたのだ。

「ほれ」

 右庵の思索は、軽やかな音とともに終わらされた。
  背中を叩かれた瞬間、右庵はおもわず体を震わせる。
  他にこんなことをする者はいない。
  慌てて千里耳を見ると、彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。

「わかったろう?
  今はともかく、初めはそう考えていたのだ。
  姉と妹のために、と思って始めたことなのだろう?」
「…は?」

 千里耳の言っていることが、右庵にはよくわからなかった。
  目を白黒させ、間抜けな顔で首をかしげる。
  そんな右庵の様子に、千里耳は、く、と笑いを漏らした。

「初心忘れるべからず。
  下らぬことに気を囚われず、役目にも精を出せ、馬鹿者が」
「…」

 一瞬の後、右庵はあることに思い当たった。
  この、人の考えなど見透かしたかのような存在は、
自分の悩みを解決するためにこのような話をしていたのだろうか。
  それは、さほど的外れではないように思えた。

 げに恐ろしきは世事に通じし人ならざる者か、と右庵は考え、
また一方で、気遣いをありがたくも思った。

「何をしている。
  まだ夜は明けておらんぞ」

 千里耳はすでに、右庵の十歩ほど先まで進んでいる。
  右庵は重い刀を掴み、小走りに駆けて追いつき、頭を下げた。

「…申し訳ありません」
「とく行くぞ右庵…盗賊改方に先を越されぬうちにな」
「…そのような者達の相手をすれば、こちらの命が危うくなると思いますが」

 いつもの調子でそう言った右庵に、千里耳もまた、いつものようにうんざりとした様子で返す。

「景気付けに言ってみただけだ」
「…は」
 
  視界はいつの間にか開けていた。
  暗い夜闇の中で、それでも無数のものが見える。
  右庵は、千里耳から渡された書の内容を思い出しつつ、
残りの時間でどう見回りを行うかを考えていた。

 

<五>

 

「姉様はともかく、だそうだ。
  独りで立てるというのも考え物だな」

 夜。
  その女と会うのは、いつも夜であった。
  屋敷の庭にて、何の前触れもなく訪れる女。
  まるで獣のようだ、と思ったのは今日だけではない。

 木々の隙間からこちらを用心深く見やる獣たち。
  紗恵にとって、彼女は、そういった存在であった。
  実際、今も笑いを含んだ言葉が聞こえるだけで、顔も体も見えはしない。

「これもお前の予想通り、か?」
「…」

 からかいに来たのか、それとも律儀に報告に来たのだろうか。
  どちらでも紗恵には気に入らないことであった。

 自分の知らない弟を、あの女は知っている。
  それをまざまざと見せ付けられる形になるのだから、当然といえば当然であった。

「…しかし」

 言葉を口にすることすらも、厭わしい。
  だが、感情はそんな嫌悪よりも意地を優先した。

「右庵殿は、誰に恋心を抱いているわけでもない。
  貴様にも、小久我にも、他の女にも、増してや十夜にも」

 それは、彼は自分から離れられない、という意味を含んだ言葉だった。

「確かに、幸花とやらにそのような感情を抱いている節はなかったな。
  とはいえ、これからもそうだという保険はないだろうに。
  先も言ったが、お前の妹は随分と大事にされているぞ?」
「…そのためにあの子に暗示をかけた」

 少し時間をおいて。
  紗恵の言葉に、その者にしては珍しく、苦みばしった声が返ってくる。

「…先代も厄介な技をお前の母に教えたものだ」
「私には関係の無い話だ」

 言うと同時、紗恵は注意深く目を凝らす。
  その女を見つけたのは、木の上だった。
  女はこちらが姿を認めたと知ると、顔だけこちらに向け、言葉を投げかけてきた。

「回りくどいことをせずに、体を使って自分のものにしてしまえばいいだろう。
  奴はまだ若い。女体を知れば考えも変わると思うが」
「…」

 それは、千里耳が紗恵の弟への思いを知った時に最初に言った言葉であり、
その後幾度と無く勧めてきた方法でもあった。
  だが、それは誇りが許さなかった。

 自分は選ばれるべき存在であって、選ぶ存在ではない。
  本末転倒ではある、ということは彼女自身理解していたが、
先程のように、理屈や損得を誇りが上回ったのである。

「…言語道断、か。
  あれだけ弟を躾けておいて、最後の一線は自分で選ばせるとはな」

 何も答える必要はなかった。
  紗恵にとってこの女は、極力言葉を交わす必要がない相手であった。

 刃を持たずに庭に出たのは間違いだったろうか、とも紗恵は考える。
  無手で化け物相手に勝てると自惚れるほど、紗恵は間抜けではなかった。

 が、相手の化け物は元より争いなどに全く興味はないようであった。

「ともかく、だ。
  お前も気づいているだろうが、小久我の長女がよからぬことを考えている。
  手は先に打っておけ」
「…言われるまでも無い」

 紗恵の言葉に、千里耳は、ふん、と鼻を鳴らして樹上から消え去った。
  どこへ行ったのかなど、夜目が大して利くわけでもない紗恵にはわからぬ話である。
  だが、大方右庵のところへ行ったのだろう、と紗恵は考えた。

「…」

 庭から屋敷の中に戻る前に、紗恵は思う。

 先手を打たなければ、と焦りを覚えた時点で、すでに後手に回っているのだ。

 そしてまた、こうも考えた。

 先手とは、常日頃から打っておくべきものだ、と。

7

<一>

 現在から三代前の王が世を平定し、かねてから巨大な商業都市であったその町が、
『都』となってから数十年ほどたった頃の話である。

 人斬りの事件があった。

 最初の殺しがあったのは、雨のひどい夜、とある騎士屋敷でのことだった。
被害者は十五人。
主、その奥方、娘、息子、さらには門番、使用人、その家族に至るまで、
その屋敷の人という存在はすべて、屋敷の中にいたまま斬り伏せられていた。
鏖殺である。

 地獄絵図となった現場を検分した騎士は、一人の娘の惨状に注目した。

 その家の使用人である年若い娘は、首を断ち切られ、臓物を抉りだされていた。
特に陰惨だったのは、下腹。女陰、菊門が切り裂かれていたのだ。

 騎士たちは、十五人の被害者の中に刀を持って殺されていた者が数名いたことから、
下手人は一人ではないであろうと考えた。
だらに、集団の中の一人に、異常な性状を持ち、
あるいはこの娘に恨みを持っている者がいるだろう、とも予測した。

 当初、都廻の他、騎士の有志が集まり、下手人の捜索にあたったが、全く効率があがらなかった。
今ほど、都廻の組織化と情報の共有が進んでいなかった、ということも一因であるだろう。

 次に手を挙げたのは、すでに対盗賊武装集団として組織の完成を見ていた盗賊改方だった。
彼らは盗賊の無法を取り締まるために構築した、盗人や軽犯罪者の情報網を用いて、
下手人を見つけようとした。
しかし、それもまた、徒労に終わった。
盗賊改方では、下手人そのものは愚か、その足取りやわずかな情報すらつかめなかったのである。
結論から言うのであれば、盗賊改方の情報網は役に立つはずがなかった。
この事件は、特定の犯罪集団やならず者によって引き起こされたものではなかったのである。

 盗賊改方の捜査が暗礁に乗り上げたのと時を同じくして、次の被害者が出た。
やはり雨のひどい夜、王都でも有名な踊り子が、殺害されたのである。
彼女は、かの使用人の娘と似たような格好で屍を晒していた。
また、彼女が生活をともにしていた一座の人間もまた、尽く殺されていた。
斬り方、そして手法から、同じ集団による犯行であると考えられたが、
結局、都廻や盗賊改方は有益な手がかりをつかむことができなかった。

 都の人々は、恐れ慄いた。

 次に殺されるのは誰か。
都ではそんな言葉が囁かれ、夜の人通りも少なくなっていった。
さらには、いつまでたっても下手人を捕らえられぬ都廻や盗賊改方、
ひいては騎士たち全員への不満も膨れ上がっていった。
有事の際に役に立たなければ、騎士などただの無駄飯喰らいである
道を歩けば時折礫がぶつけられ、子供は刀を見て飾りと笑う。
そんな光景が、無礼な者を斬り捨ててよい、
という権利を騎士たちが持っていたにも関わらず繰り広げられていたのである。

 実際のところ、このような事件より恐ろしい事件などいくらでもあった。
さらには、都の中では、いくつもの盗賊集団が跋扈しており、
それらが数十名におよぶ人間の殺人を行うのも、珍しいことではなかった。
無論、ひとたび彼らが火付けを行えば、百人単位で人死にがでる可能性だって否定できはしない。

 その事件が町人たちの間へ知れ渡り、騎士たちへの非難の元となったのは、
情報を供給する噂話や瓦版が原因であった。
人の噂にしろ、瓦版にしろ、興味深い事件としてその殺しを扱い、
無駄に町人の興味を煽るように情報を伝達していったのである。

 ともあれ、そこにきて、ついに『王』が重い腰を上げた。
騎士の中でも、王に直に見える資格を持つ『直参』と呼ばれる者たち。
彼らを、王属騎士団都中警羅番―――すなわち、都廻と同行させ、
件の事件の解決に当たらせたのである。
余談ではあるが、都廻の長官や、あるいは都廻で特殊な任についている者が
『直参』の騎士であるのは、この時の名残であるともいわれている。

 結局、都を恐怖に陥れたこの事件は、『直参』の投入によってあっけなく解決へと至った。
一人の騎士と、二人の娘の命が失われたが、王都の人々の論調は、
「三人で済んでよかった」というものであった。

 公の発表では、この事件は、剣術崩れの若者たちによる犯行とされており、
瓦版や噂も、細部は異なるものの、似たような話を人々に伝えていった。

 だが、ありがちなこととはいえ、事実は別のところにあった。

 五十にものぼる殺しを行ったのは、集団ではなく、たった一人の人物。
その人物は、犯罪者でもなければ、剣術家でもなかった。

 

<二>

 

 数日前から降り続いた雨は上がり、満月が空に浮かんでいる。
提灯すらいらぬとまでは言わないが、それでも相応の明るさはあった。

 そんな夜に、王都の外れの林、その少々開けたところに、二つの人影があった。

「…何故?」

 男は黙り、ただ自分の真正面にいる者を見据えていた。
左前の半身、柄が頭の横に位置する辺りに刀を構えている。
八双にも似た、攻め一辺倒の構えである。

 対するは女。
長い黒髪を揺らし、刀を構えることなく、真正面に体が向いている。
肩からは力が抜けており、全く攻めの姿勢は見えない。
むしろ、己の体を切り裂けと言わんばかりに体を差し出しているようにも見える。
一方で、月明かりに照らされた、血糊の纏わりついた刀は、彼女が人を斬った後に、
ここに来たことを示していた。

 妖しい、というよりも張りつめた空気が二人を支配している。
そんな中で。

「…何故、あの子なのですか?」

 もう一度、女は問うた。
男は黙したまま、応えることはない。
ただ、摺足で一歩、前に進んだだけ。

「……何故、私を…連れて行ってはくれぬのですか?」

 三度目の問いにも、ついぞ男は答えることはなかった。
口を動かすことは愚か、頬すらぴくりとも動きはしない。
表情と同じく、彼が掴む刀もまた、揺らぐ気配はない。

 足を滑らせ、男がさらに間合いを詰めんとした刹那。
女の華奢な体が、跳ねた。

 足が地面を蹴ったときの音すら聞こえぬ、猫のような跳躍。
彼女の踏み込みで、両者の間に存在した間合いは無くなる。
瞬きの後には、黒い長髪がたなびき、男の首から刀が生えていた。

 見事な一撃である。
刃は、首の骨や筋で止められることなく、喉を貫いていた。

「……あ」

 女の動きが止まり、か細い吐息が漏れた。
先ほどまで怜悧な輝きをたたえていた瞳が大きく見開かれる。

 ぱさり、と音をたてて、女の長い髪が崩れる。
刃によって貫かれた、男の喉を凝視する女の瞳は、揺れ、潤んでいた。

「何故…?」

 四度目の問い。
女は正体を失ったのか、声が震えている。
否、或いは正気を取り戻したのかもしれない。

 兎にも角にも、そこで初めて、男は口を開いた。

「―――」

 しかし、彼の口から、言葉が生まれることはなかった。
男は喉を貫かれている。
声などでるはずもなく、代わりに口の端から血が漏れた。

「…ぁ」

 小さな喘ぎが、女の口から漏れ。
そして。
男の刀が、袈裟に振り下ろされた。

 

<三>

 

「とまあ、それが話の顛末であったわけだ」

 背の高い茶筅髷の騎士と、やや背の低い、髪を肩の辺りで切りそろえた騎士が、
隣り合わせで座っていた。
それぞれの刀は脇に置かれており、背の低い騎士の右手には、刀とともに鉄扇が置かれている。

 背の高い騎士の格好は質素ではあるが、手入れそのものはしっかりとされているようであり。
背の低い騎士の服は、上品ではあるものの、どこか違和感がつきまとっていた。
服を着なれていないわけではない。その騎士の体躯の起伏は、男性の筋骨と異なるのである。
よく見なければわからない違いではあるが、気づく者は気づくのだろう。
そんなふうに、背の高い騎士―――木下後一郎右庵は常々考えていた。

 時は夜明けまであと一時と迫ったあたり。
千里耳と右庵がいたのは、都の南西、通りの中心からやや外れた場所にある飯屋だった。
見回りが終わった後、右庵は千里耳に連れられるまま、この飯屋に来たのである。

 が、ここの主人の愛想は、お世辞にもいいとは言えなかった。
そのため、途中で話しかけるのに飽きたのであろう千里耳は、
妙な昔話を右庵に語り始めたのである。

「…」
「何だ。せっかく長々と話していたのに、何も思うところがないのか?」

 人の好い笑みで言った千里耳に、右庵はふと考えてみる。
話の内容そのものには、大した内容があるわけではなかった。

 ある騎士が妹に恋をした。
紆余曲折の末、騎士と妹は結ばれるのだが、最終的に、騎士は姉に殺された。

 長かったことは長かったが、まとめてみればその程度の話であった。
枝葉末節まで記憶はしていないが、その概要は間違っていないはずだ。
ただ、一つだけ、右庵には気になることがあった。

「…最後のところですが」
「ふむ?」

 言ってみせろ、とでもいうように千里耳が右庵の方に顔を向ける。
手に持っていた湯呑を置き、右庵は千里耳に言った。

「その騎士の姉は、剣術に秀でていたのでしょうか」

 右庵の言葉に、千里耳が、かくり、と首を折った。
予想外れのことを聞いてしまったのだろうか、と右庵は思った。
とはいえ、そこ以外、話の内容で惹かれる箇所はなかったのである。

 首を曲げたまま、千里耳は上目でこちらを見ている。
右庵は、何をしたいのかわからず、ただ眉をひそめた。
と、そこで千里耳は口を開いた。

「…とりあえず、騎士よりも剣術は達者だったが…」
「…なるほど」

 右庵は頷く。
それならば最後の騎士の行動にも合点がいった。

 彼は最初から捨て身の意思で、姉との殺し合いに臨んだのであろう。
最初から一撃を避けれぬと思い、自らが刃を受けた瞬間に相手を斬り飛ばす。
騎士の、大きく刀を振り上げた構えにも意味があった、ということである。

 納得したところで右庵はもう一度湯呑を手に取り、中に入っていた湯を啜った。

「というかな」
「…?」

 呆れたように、千里耳が言葉をかけてきたのは、湯呑が空になったところであった。

「気付かんのか?」
「…何にでしょうか」
「…」

 そこまで言って、千里耳は何かを言う気もうせたのか、手元にある酒と肴に取り掛かり始めた。
焼魚をつつく箸はどこか焦っているというか、苛立っているようにも右庵には見えた。

 千里耳は、何かを自分に期待していたのであろうか。
あるいは、自分が何かまずいことでも言ったのであろうか。

 その思考は、右庵がいつも姉や妹と相対する時に似たものである。
要は。自分からは何もできない状況に追い込まれているということであった。

 右庵の思考が同じ場所を延々と巡っている間に、千里耳は酒を空にしてしまっていた。

「…」

 右庵は会計を支払うために懐を探る。
無愛想な店主に支払いを終えたときにはすでに、千里耳は席を立ち、外に出ていた。

 

<四>

 

 それからしばらく、千里耳は無言であった。
小道から通りに出る間、二人は互いに何も言うことなく、道を歩く。
夜風は少しばかり寒かったが、酒の入った千里耳には丁度いい塩梅なのだろうか。
黙っているといはいえ、文句を言うでもない千里耳に、右庵はそんな感想を持った。

 通りに出て、水路にかかる橋を渡り、また別の区画へと出る。
路地に入り、再び別の通りに抜けたところで、右庵は先ほどの話のある部分が気にかかった。

 千里耳の顔を、意味はないと知りつつ、盗み見る。
そこには、すでに飯屋で見せたような表情はない。
いつものような笑みが浮かんでいるだけである。

「どうした?」
「…いえ。先ほどの話で」
「ふん?やっとわかったか?」
「…いえ」

 同じ言葉でも、二度目のそれに、右庵は否定の意味を込めた。

「少々気にかかることがあっただけです」
「ほう」

 千里耳は相槌をうつだけで何も言わない。
別に怒っているわけではないだろうが、と思いつつも、右庵は腰がひける思いがした。
とはいえ、ここまで出かかった言葉を言わぬわけにもいかない。右庵は千里耳に問いを投げかけた。

「…先ほどの話はいつあったことなのでしょうか」
「いつ、とは?」

 眉をひそめるでもなく、ただそうとだけ返す千里耳に、右庵は続けた。

「…昔話、と千里耳様はおっしゃっていました。
そうであれば、何年程前に、その出来事…いえ、事件は起こったのでしょうか」
「ふむ」

 千里耳は、「事件」と言った右庵の言葉に納得したようであった。
そして、頷くとすぐに、右庵の問に対する答えを返した。

「百と数十年ほど前だ…詳しい年号を聞きたいか?」
「…いえ、調べればわかる話でしょう。
世が太平になったばかりの頃ですか」
「ああ」

 千里耳の言葉には、どこか別の世界のことを話すような投槍な雰囲気があった。
右庵の問は千里耳の意図するところのものではなかったのであろう。

 ただ、右庵は、自分の中でひとつの確信を得ていた。

 おそらく、千里耳の語った事件は口から出まかせのものではない。
実際にあったことなのである。

 今とは状況は違うが、それでも都廻の役目において、何か参考になるかもしれぬ、と右庵は考える。
どうすればその事件について知れるのだろうか、などと思いを巡らせていた。

「ふむ?」
「…」

 だからであろう。右庵は、千里耳が、どこか一点を見やり、
わざとらしく声をあげたことに気づかなかった。
右庵が歩いているのは、かなり広大な土地を持つ騎士屋敷の前の通りである。

「―――!!」

 叫び声があがったのは、千里耳が声を上げてから、数秒もたたぬうちのことだった。

「…」
「何かあったな」

 してやったり、というように千里耳が笑みを浮かべる。
それはあるいは、右庵が自分の声に気づかなかったことに対する当てつけなのだろう。

 だが、右庵はその笑みの意味に気付かなかった。
もとい、千里耳の方を振り向こうともしなかった。

 何かしらの異常な事態が起こっていれば、動くのに遅れた時間だけ、状況が悪化する可能性がある。
だからこそ、声を耳にして、ほんのわずかに硬直した後にはすぐ、右庵は駆け出していた。

 ただの喧嘩であるかもしれない。
あるいは、喧しい夫婦の罵り合いかもしれない。
さらには、取るに足らない酔いどれの叫び声かもしれない。

 それでも、確認しなければならないのが、『都廻』という役目である。

 右庵は腰に差した刀を左手で掴み、道を駆ける。
夜明けは近い。
冷えた空気は、風となって右庵の体に絡みついてくる。

 走る右庵の近くには、すでに千里耳の姿はない。
しかし、彼女とは別の存在が、彼と一定の距離を保ち、夜闇の中を駆けていた。

 

<五>

 

 夜明け。

「…追剥だったな。昼廻りの連中が上手くやれば、今日の夜までには捕えることができるだろう。
ああ、あと、どうやら帰りに目明しの手下と諍いがあったらしい。
殴られた腕を少々腫らして帰ってくるかもしれんが、気にするな。
そこまでの痛手ではないようだ」

 千里耳は、ここ最近、いつもそうしているように、木下邸の庭に来ていた。
樹上に器用に座りながらそう言ったときには、すでに紗恵の気配は部屋の中にはなかった。

 わざわざ他の『耳』に頼んで確認するまでもない。
井戸に水でも汲みにいったのだろう、と思いつつ千里耳は木の幹に手をつく。
見れば、そこには数本の手裏剣が刺さっている。
千里耳が声をかけたとき、紗恵が撃ちこんできたものだ。

 よくもまあ飽きないものだ、などと思いながら、千里耳は今からどうするか考える。
紗恵相手に無駄口を叩いてもいいが、右庵が帰ってくる以上、最早こちらの相手などしないだろう。

 酒を飲むか、それとも右庵に渡す書をまとめるか。
どちらにしろ、退屈なことには変わりない。
溜息をそこでつくほど、人間の真似をするつもりはないが、少々陰鬱な気分になった。

 気づいたときには、考え始めてから数分が経過していた。

 その時にはすでに、右庵は屋敷に戻ってきていた。
屋敷の中からは何やら、右庵が弁解する声と、紗恵が右庵の未熟を指摘する声が聞こえてくる。

 紗恵の言葉には、叱責が大半を占めているが、所々に右庵を心配し、
あるいは慈しむ言葉が混じっている。
とはいえ、恐縮しきっている右庵には、その言葉は届かないのであろう。

 人間の言葉と立ち居振る舞いを教えてくれた友と、その友の思い人であり、
さらには自分の妹分の恩人でもある騎士。
幼いころからそうだったように、二人のやり取りは、ひどくもどかしく、歪み、危うい。

 親を殺し、妹の人格を歪めてまで、弟の元から離れず、そしてまた離れさせまいとする姉。
姉妹への思いを、あるいは諸々の感情を心の奥底に押し込めて、役目を一心不乱にこなす弟。

 何かの拍子に崩れてしまうかもしれない。
あるいは、このままの関係が延々と続くのかもしれない。

 千里耳とて、何も知らなければ、そう考えていただろう。
だが、違うのだ。
この二人の関係は、いずれ壊れる。
それは決まったことなのだ。

 『黒巫女』などと名乗っていた、先任者の言葉を思い出す。
歴史は繰り返される。
引き金は情愛と憎悪。嫉妬という名の情動。

 手はうってある。
紗恵にはこうやって、自分が頻繁に会いに来ている。
右庵のことは、自分の妹分が監視と護衛をしている。
十夜の情報を得ることにもぬかりはない。
彼らの周囲の人々についても、動きは把握している。

 だが。この程度のことであれば、幾代か前の先任者も行っていたはず。
それでも、数百年前には、数千人の死者がでた。
百数十年前には、数十人とはいえ、人が殺された。
そして、中心にいた者たちは、例外なくその命を落としている。

 王に頼まれるまでもない。

 友を死なせたくなどない。
恩人が死ねば、妹分は悲しむだろう。

 だからこそ、千里耳と名乗る彼女は動く。
人でなくとも、彼や彼女との縁は失いたくないから、動く。

 そのために、今できることは。

「…早く書を認めるか」

 結局、その程度のことなのであろう。
千里耳は、独り言を呟いた後。
木の陰にいる妹分に後のことを頼み、自らの塒(ねぐら)に戻ることにした。

 

<六>

 

「右庵殿。
湯加減はいかかですか」
「…はい、丁度いいかと」
「わかりました」
「…」
「…」
「…その、姉様。
わざわざ火の番までしていただかなくとも…」
「…何か?」
「…いえ」
「…」
「…」
「…そういえば。
小久我の次男殿から連絡がありました」
「…は」
「都合の良い日に、右庵殿や私を含めて、十夜の相手について話をしたい、とのことです」
「…わかりました」
「…」
「…」
「右庵殿」
「…は」
「腕の調子はいかかですか?」
「…先ほども…いえ。
腫れはひどいですが、骨や肉は傷んでおりません。
これなら、明日の役目も無事こなせるでしょう」
「…よかった」
「…何か」
「いえ、何も」
「…は」
「…」
「…」
「…」
「…」

8

<一>

 何かが自分の下を去るのは、本来、寂しいものなのだろう。
しかし、まだ後一郎という名しかなかった頃の彼にとって、
両親との別れは何ら寂しいものではなかった。

 確かな記憶が今でも残っているわけではない。
それどころか、父母の死の前後の記憶は、随分あやふやではある。
ただ、寂しさは感じず、安堵を覚えたような気がする。

 記憶が明確でない以上、おそらく、という前置きがつくものの、右庵は自分の父母が死んで
胸を撫で下ろしたのだ。

 そう感じた理由はいくつか考えられる。

 破談になった姉である紗恵の縁談。
それによって立ち消えになった婿入り。
結果として、転がり込んできた当主の座。

 親が死んで安堵を得たこと。
それは、人の情から考えれば決して不自然なことではあるまい。

 今より少し若かった頃の右庵はともかく、今の右庵はそう考えている。
鎖から解き放たれることで、心の安寧を得ることができた者を、右庵は己の眼で見たことがある。
それが、愛する者の死であろうと、そういった感情を得ることがあるのだ。

 況や―――

<二>

 木下後一郎右庵がその笑い声を聞いたのは、勤めを終えた後の、帰途でのことだった。
快活と言うに相応しい笑い声に、彼は足を止めた。

 声が聞こえたのは右手の騎士屋敷。その高い塀の向こう側からだった。
会話の詳しい内容まではわからなかったが、少女と男の声だということはわかった。
下女と下男、あるいは騎士の父と娘といったところだろうか。

 いずれにしても、右庵が普段聞きなれない声ではあった。
彼が勤めとしているのは、とある人物の書を騎士の詰め所に持って行くことと、
夜間における王都の見回りである。そして、いずれの勤めも、休みという概念は存在しない。

 畢竟、彼が起床し外を出歩くのは、夕暮れから日明けまでとなる。
滅多なことでは朝方から昼の、他の家庭の様子など知り得ないのである。

 勿論、普通の家族を持っている者であれば、右庵が今しがた聞いたような声を聞くことは
できるだろう。
しかし右庵の家庭は、特に彼が屋敷にいるときは、いっそ滑稽な程に笑いというものと無縁であった。

「そんなに気になるか?」

 そう右庵に声をかけたのは、彼の隣を歩いている騎士であった。
肩の線で切りそろえた髪、女かはたまた少年か、見分けがつかないような顔かたちと背格好。
黒に染められた袴と羽織は、まるで新しく誂えたもののようである。

 半ば散切りのような形で無造作に伸ばした髪を茶筅髷にまとめ、
少々色褪せた紺の羽織が目に付く右庵とは、ある意味好対照な騎士であった。

「この家は特に、問題などなかったように思うが……ふむ」
「……いえ、そういうわけでは」

 本人曰く、千里耳、という名のその騎士は、おそらく自らの頭の中から、
この周辺で起きた事項を確認しているのだろう。
右庵は千里耳に一言謝って、再び歩き出した。

「なんだ、何かあったわけではなかったのか」
「はい」
「お前のことだから、てっきり気になることでもあったのかと思ったぞ」

 千里耳は拍子抜けしたな、と付け加え、続ける。

「紗恵か十夜の声にでも似ていたか?」
「……」

 右庵は否定の言葉すら口にせず、ただ首を横に振る。
千里耳の言っていることは正解ではないが、かといって的外れでもない。

 よくこちらの考えることを言い当てる御人だ、と右庵は口にするでもなく思う。

 鑑みるに、千里耳は特に勘が鋭い、というわけではない。
そのことは、数年来、千里耳と仕事を共にしていた右庵はよく知っている。
ならば―――

「お前の顔を見て考えたわけではないぞ」
「……」

 思考を先回りされて、右庵が目を見開く。

「まあ、要するに、だ。
お前が仕事以外で考えることなど、家族ぐらいのものだろう、と思ったわけだ」

 得意げに言われても、右庵としては言いようがない。
少々言葉に詰まった挙句。

「……は」

 と溜息まじりに言葉を返すだけだった。

 気にすることはない。
右庵の考えることなど、私でなくともわかる。

そういった内容の話を暫く続けた後、千里耳は不意に言葉を止めた。
思索をめぐらしていた一方で、それでも千里耳の言葉に耳を傾けていた右庵は、頭を傾ける。

「……どうかされましたか」
「お前こそどうした。
先ほどから上の空のようだが……ああ、そういえば」
「……」
「今日だったか。
妹の縁組の話に行くのは」

 やはり千里耳の言葉は、真を穿つものではないが、完全に的を外したものでもない。

 あの笑い声を聞いて、右庵が想起していたのは。
幼い頃の妹の笑顔であった。

<三>

 十夜の婚姻について、小久我の長女である幸花に相談したのは一週間ほど前。
その返事がきたのが三日前である。
幸花の都合と合わせて打ち合わせた結果、右庵が小久我の屋敷に赴くことになったのは、
千里耳の言うとおり、確かに今日であった。

 千里耳と別れ、右庵が自分の屋敷に戻ったときには、すでに紗恵は仕度を終えていた。
紗恵が用意してくれていた朝食を食べ終わった後。

「……やはり、十夜は連れて行かないのですか」
「ええ。十夜は行くつもりだったようですが」

 小久我家には、紗恵と右庵の二人で行くことになっていた。

 この屋敷に住んでいるのは、右庵とその姉妹の三人だけであり、
できれば、屋敷を完全に空けることは避けたい。
また、本人がいない方が進めることのできる話もある。

 ただ、右庵としては、本人を連れて行った方が話は早く進むのではないか、と考えてはいた。
が、紗恵の意見も最もである。故に、右庵はそれ以上の異論を口にしなかった。

 右庵より先に、紗恵は外に出ていた。
千里耳が気を利かせたのかはわからないが、右庵が帰途につけたのは、
常日ごろより比較的早い時間帯だった。

 時は、陽が昇ってから一時が過ぎた頃。
日光は白く、右庵自身も眩しいと感じる程度ではあった。

「……」
「右庵殿?」
「……少し」

 待っていてください、とまでは言わず、一旦右庵は屋敷の中に戻る。

「手早くお願いします」

 外から聞こえてきた紗恵の言葉に少々胆を冷やしながらも、目的のものを見つける。
開き具合や外観を確かめた後、外に出る。

「……申し訳ありません、遅れました」

 謝り、屋敷から出た右庵を待っていたのは、紗恵の訝しげな視線だった。
余計なことだったか、と思いつつも。右庵は持ってきたものを使い、紗恵に当たる日差しを遮った。

 日傘である。

 右庵もそうであるが、こと、紗恵の肌は病的と言っていいほど白い。

 彼女は、日が差している時刻に外に出ることなど、滅多にない。
そんな状態で、何の対策もないまま日照に肌を晒すのはまずかろう、と右庵は思ったのだが。

「……」

 当の紗恵は、一つ息をつくだけだった。
とはいえ、気に障った、というわけではないらしい。

「では、参りましょう」

 紗恵は日傘を受け取り、右庵に先を促した。

 
何か足りない。右庵がそう思ったのは、屋敷を出てから間もなくのことであった。
大事な用件などを忘れたわけではないが、この状況であるべきものがない。
些末事にも関わらず、当たり前のように行っていたことを忘れたときのような感覚が、頭をよぎる。

 いつも都の警邏を行っているときのように、辺りに目を配る。
当然、真っ先に目についたのは、隣を歩く紗恵であった。

 そもそも、である。紗恵と二人で外出することは、随分久しぶりであった。
少なくとも、右庵が都廻となってからの七年間で、紗恵と共に出かけた、
という記憶は数えるほどしかない。

 都廻の仕事が非常に遅くなったときなどは、よく紗恵は右庵のことを出迎えに来る。
そして、その帰りに共に歩くのを勘定にいれるならば、外出はしている、ということになるだろう。

「……」

 しかし。そういった時の紗恵は、それこそ目を合わすことすら躊躇われるほど、機嫌が悪い。
表情そのものは大して変わらないというのに、言動から、行動から怒りが滲み出る。
父母が死んでから、寄り添うとまではいかないが、姉兄妹三人で暮らしてきた間柄である。
その纏う雰囲気程度は流石に、右庵にも感じとることはできた。

 では、今は。そう思って右庵は紗恵を見て―――

「……」
「……!?」

 ―――驚いた。
紗恵は、差した日傘を、手で弄びながら……それこそ、幼い娘がするかのように、
くるくると、回していたのだ。
年甲斐もない、だとか。あるいははしたない、だとか。さらには、紗恵もこんなことをするのか、
などといった考えが右庵の頭を掠める。
しかし、それ以上に、右庵は安堵を覚えていた。

 元々、紗恵は雰囲気が張り詰めたところがある。
神経質、というのとは少々違うが、仕事をしていないときですら、何かを気にかけているようなところがある。
少なくとも、右庵が屋敷にいる時はそうであった。

 ああ、と右庵は気づく。
足りないもの、とは右庵自身の、そして紗恵の緊張なのである。

 今日の紗恵は屋敷の中にいるときの彼女とは違った。
気づいてみれば、確かにいつもより雰囲気も和らいでいるような気がする。
そう気づくと、どうということはなかった。
考えてみれば紗恵は、右庵と共に外出するときは、得てして機嫌が良かったように思える。

 それにしても―――今まさに横で、表情を変えぬままで、肩にかけ、
差したままの日傘をくるくると回し。
かつ、男の右庵に遅れず、拍子よく歩を進める紗恵の姿は少々奇異にも見えはした。

「……姉様も、外を出歩くのは久しぶりですか?」
「ええ。流石に夕暮れ時や深夜に外を出歩くわけにもいきません。
元々、陽が当たるところが好きというわけではないので、いいのですが」

 傘を弄びつつ、それでいて歩を止めず。
紗恵は険のない言葉を返してくる。

「ですが、偶にはいいものですね。
この辺りであれば、人通りも少ないですし。
今ぐらいの時間は、日差しも強くありません」
「……」

 日傘で影をつくりながらも、やや眩しげに空を見る紗恵の言葉に嘘はないように見える。
右庵自身、そういった様子の紗恵を見ると気が緩む。その一方で、こういった散歩の機会すら
与えられない、という事実が彼の中で頭をもたげるのであった。

 右庵は、自身の感情の流れとして当然のように、紗恵の婚姻について口にしようとした。
しかし。

「……」
「右庵殿、どうされましたか?」

 眼前の姉は、いつもの怜悧なかんばせの下に、今は右庵ですら理解できる、
柔らかな流れを湛えていた。
こと家族に対しては、気の弱さが先に出る右庵が、何かを言えるはずもなく、
一息もしない間に口を噤んだ。

 紗恵にとって、自身の婚姻というのは、ひどく気に入らない話題であるようだった。
少なくとも、口の端に乗せた瞬間に先回りして会話を終わらせるような話題が、
紗恵にとって心温まるものであるはずはない。
それがどこに起因するものなのかは、右庵にも完全には理解できないが、話題を振れば、
如何様な結果になるかは火を見るよりも明らかである。

 別に紗恵に何を言われようとも、右庵にとっては大した問題ではない。
しかし、ここ数年来見たこともないような、穏やかな姉の心持を乱すことは、
右庵にはできなかった。

「……外を出歩かなければ、お体に障ります。
家にいてばかりでは、気血の流れも滞ります」
「そうなのでしょうね」
「……」
「右庵殿が共にいてくれるのならば、早朝に外を歩くこともできましょう」

 流れも、空気も変えぬまま。ただ、右庵は本来言うべきである言葉を腹の奥深くに沈める。

 後に続いた会話を、右庵は特に頭にとめなかった。
他愛のない会話だった、ということなのだろう。
常日頃、必要なことしか口にしない紗恵がそういった会話を交わすことは、珍しいことではあった。
その意味に右庵は気づくことなく、紗恵もまた、意に介さない。

 ただ、小久我家の屋敷が見えたところで。姉は、小さく溜息をついた。

<四>

 小久我の屋敷に着いた後、右庵が案内を受けたのはいつもの客間。
しかし、案内された先で待っていたのは、幸花ではなく、小久我家の次女、香であった。
小柄な体躯に加え、顔かたちもどこか、小久我の長女、幸花の面影がある少女。
その前髪は瞳を覆う程にも長く、後ろ髪は肩に届いている。

「ご足労いただきありがとうございます、後一郎様」
「……ああ」
「お久しぶりです、紗恵様」
「ええ、香殿も」

 香―――小久我香は、小久我家の次男坊、馨の双子の妹である。

 その身を包んでいるのは、質素な女中用の衣服。
曲がりなりにも、小久我の娘がそのような衣服を、
しかも来客の取次ぎを行うときに着ているのは、奇妙ではある。
しかし、彼女と小久我家の事情を、当事者として経験してしまった右庵としては、
特に気に留めることではなかった。

「幸花が相手方の案内をしておりますので、私が後一郎様への取次をすることになってしまいました」
「……いや、構わない。姉様」
「問題ありません」

 姉と弟の、目を合わせることもしないやり取りに。ほぅ、と安堵の溜息を漏らして、
香は言葉を続ける。

「そう言って頂けると助かります。
本日は姉上の立会いの下、お相手の家の方からお話を伺う予定だったとお聞きしておりますが」
「……ああ」
「先方は間もなくいらっしゃると思います。
後一郎様と紗恵様でお話する、ということでよろしいでしょうか」

 今度は紗恵と右庵が目を合わせる。
紗恵が首を横に振るのを見て、右庵は肯いた。

「では、私だけで顔合わせをさせてもらう。
幸花様はどちらに」
「あ、はい……もう一方の客間にいらっしゃいます」
「……相手方は、どちらの方かわかるか?」
「は、はい。夏日田様です」
「……」

 右庵が押し黙り、数秒がたつ。
ふ、と香の目が泳いだところで、右庵は口を開いた。

「夏日田の……五兵衛殿か」
「はい、その通りです」
「……なら、幸花様が間に入るより、私が口を利いた方が早いかもしれんが」
「とはいえ、姉上の面子もありますので」

 そこまで香が言ったところで、右庵は言いようもない怖気を覚えた。
体が震え、背を縮める。
何時もに比べて、あまりにそれまでが穏やかだったから、気を抜いてしまっていたのか、
と頭の隅で考える。
その怖気の理由は、言うまでもなく。

「……」

 隣に座っている彼の姉だった。

 紗恵の目は、いつもと変わらない。
目に限らず、表情そのものも、いつもと変わらない。
しかし、確かに、先ほどまでの紗恵とは雰囲気が変わっていた。

 右庵が知っている紗恵がそこにはいた。

 紗恵が千里耳と会った時や、紗恵が屋敷にいる際に時折感じる何か。
自分自身が意識することなく感じられる何か。
平常、右庵に向けられる怒りに類する感情と似てはいるものの、何か根本的に異なる感情を、
今の紗恵は抱いている。

 しかし、その理由が右庵には今ひとつ理解できず―――と、そこでやっと右庵は合点がいった。
小久我の屋敷にいるときに、紗恵が一際恐ろしくなる理由など一つしかないのだ。

 香すらも一言も発せぬその中で、からり、と障子が軽い音をたてる。
そして、客間に向かって発せられた声もまた、軽かった。

「ごめん、後一郎。遅れたわね。
……っと、そういやあんたもいるんだったわね」

 客間を開いたのは、小久我の長女。
幸花が来たことで、右庵にはその場の雰囲気が、余計に重くなったように感じられた。

<五>

「申し訳ないわね、今日も役目あったんでしょ?」
「……いえ。こちらこそ、このような手配をしていただき、ありがとうございます」
「言いっこなし。こっちだってこれで借りを返せるなら安いもんよ」

 話の上に出た「借り」とは、数ヶ月前、あるいは三年前にあった小久我家に関わる
事件のことである。

 幸花との人付き合いそのものは、右庵にとって深いものではない。
が、柔術での手ほどきは少なからず受けたことがある。そのときの経験から、
幸花は自分の意を言葉に顕さなければいられぬ人間ではないか、と考えていた。
そういった経験から察するに。
数ヶ月前と三年前に右庵が噛んだ事件は、どうやら小久我家にとって疎ましい出来事であり。
少なくとも、こういった縁結びのような事案を金を取って片付けている幸花が、
無償でこちらの依頼に応じてくれる程度には、外に出したくない出来事であったのだろう。

 その推測も十分、右庵の気分を曇らせるに足るのだが。
今の右庵の心持はただの雲ではなく、雪が降る前の黒雲に覆われているかのような状態であった。
原因は、紗恵と幸花の二人である。

「……」

 先ほどから幸花は、時折紗恵に対して視線を向けていた。

 会話の流れの上では右庵に対して問いかけているのではあるが、
その動きは紗恵にも意見を求めているようにも見えた。
が、それに対して紗恵は、幸花が来てからというものの、一言も喋っていない。

 幸花は紗恵を見るたび、そんな紗恵を意に介さない「ふり」をして、右庵と会話を続ける。
その振る舞いがまた不自然で、右庵と、その場にもう一人いる、
香の気分に重しを加えることになる。

 結果、右庵の背は縮こまり、香の笑みも固まっていく。
にも関わらず、幸花は何度でも紗恵に視線を向け、そしてまた、
紗恵も特にかわらず口を噤んだままである。

 幸花の軽い口調子が、その雰囲気にそぐわず、余計気まずくなる。
気まずくなると、右庵の背はさらに縮む。香は笑みも維持できなくなってくる。

 ……それでも尚、幸花と紗恵は同じ行動をとり続けるのであった。

 そもそも。

 幸花は、視線を向けているだけで、紗恵に意見を問うている訳ではない。
加えて、幸花に縁談の取次ぎの依頼をしたのは右庵であり、
そしてまた、木下家の当主も右庵である。
そうである以上、右庵と幸花の会話に紗恵が口を挟まないのは当然とも言える。

 しかし、ではなぜ紗恵は右庵に同行したのか。
そんな疑問が右庵の頭を掠めた。

「……五兵衛殿はもうお待ちですか?」
「ええ、待ってるわよ。
流石都廻、なのかしらね。夏日田様も大概腰が軽いわ」
「……」

 夏日田五兵衛は、右庵も顔を知っている都廻である。
役目についてから相応の年数を経ており、役目についたばかりの頃の右庵を知る、
今では数少ない都廻であった。
先ほど、右庵が自分から口を利いた方が早い、と言ったのもその繋がりからである。

「……では、そろそろ参りましょう。
五兵衛殿をいつまでもお待たせするわけにはいきません」

 すでに、五兵衛とは右庵だけで話を通すことを、幸花に伝えてある。
流石に幸花も、今度は紗恵に視線を向けることない。

「そうね」

 言って、幸花は席を立とうとした。

 と。そこで右庵はくい、と袖を引かれるのを感じた。
見れば。紗恵が自分の袖に触れていた。

 怪訝に思いながらも、右庵が紗恵と視線を合わせると、紗恵は小声である問いを右庵に伝えた。

「……」

 そんな問いをなぜ、と思った次の瞬間、疑問は氷解する。
なるほど、と考えると同時、右庵は紗恵から伝えたれた言葉を、そのまま幸花に問うていた。

「幸花様」
「ん?何?」
「幸花様は同席なされますか?」
「別に、もう夏日田様には話通したしね。
何?一人じゃ寂しい?」

 冗談はともあれ、こういった話合いの場に、取次ぎをした者が同席することは少なくない。
当事者同士が知己でなければ尚更である。
とはいえ、今回は右庵と相手方―――夏日田はお互いを知っており、
会話も幾度となく交わしている。

 紗恵が警戒したのは、夏日田五兵衛との会話の中で出た話が、幸花の耳に入るかもしれぬ、
ということであろう。

 幸花は、こと他人の話についても事細かに聞き、記録している節がある。
それが何のためか、と考えれば、自然と答えは出ようというものだ。

 油断のならない、隙を見たら人の弱みを握ってくるような女。
それも幸花の一面であることは、右庵自身もある程度知っていたし、
何より幸花自身が公言していた。

 おそらく。
右庵が紗恵が同行したのは、右庵ではまともに太刀打ちできぬ相手だ、と分かっていたなのだろう。

「ま、どうしてもってんならついていくけど」
「……いえ、お忙しいのでしたら、問題ありません。
夏日田様も、面倒なことはお嫌いでしょう」
「ふぅん。じゃあ、私はこれで失礼するわ」

 どうやら右庵の言った通り、幸花は他にも複数の用事を抱えていたようだった。
そこまで言って、振り返り。

「それじゃ、また。紗恵殿も」

 挨拶と共に一礼。

 瞬間、右庵が見ている光景が別の物にそっくり入れ替わる。

 軋む音がした。
硬いものと硬いものが噛み合う音ではなく、なにかが押しつぶされようか、という音。

 右庵の耳には音は聞こえず、ただ、目に頭を下げた幸花だけが映る。

 口の中が渇き、目が見開かれる。
体中の穴が開き、頭を締め付けられる。
重心が何もせずに沈み、膝から力が抜けるのを自覚する。

 拳を突きつけられたかのような心持。
体がそれに従い対処しようと動く。
しなやかな猫とも、狡猾な狐とも、躾けられた犬とも違う。
まるで暴れ馬のような其れを叩き潰すために―――

「ええ、ありがとうございました……幸花殿」

―――と。
いつの間にか、右庵は自分が立ち上がっていることに気づいた。
紗恵が礼を言っているのに気づいて、慌てて頭を下げる。

「気にしない気にしない」

 とうに面を上げていた幸花は手を振りながら、苦笑する。
強張る顔を自覚しながら、右庵はそれを隠すようにもう一度頭を下げた。

<六>

「結局、どうなったのですか」

 そう、紗恵が問うてきたのは、夏日田との話合いも終わった後の、小久我屋敷からの帰り道。
その程も半ばに差し掛かったところであった。

「……」

 周囲に人はいない。
人が少ない場所を通って帰っているのだから、当然ではあるが、右庵は確認せざるを得なかった。

 そして、それで尚口にするのを躊躇うのは、自分が臆病だからなのだろう、と考える。
眉を寄せ、もう一度、周囲に人がいないのを確かめてから、右庵は口を開いた。

「……話せば長くなりますが。
要点だけ言うのであれば、嫁として引き取る前に、一度こちらの屋敷で働かせてみて欲しい、と」
「……」

 騎士の娘が、他の騎士の家や、商家で一時的に働くことは珍しいことではない。
そういったことで得る金が必要ほど貧に窮している家もあれば、
嫁ぐ前に相応の教養と最低限の技術は身につけて欲しい、という家もある。
しかし、今回の縁談の相手である夏日田家が言っていたのは、凡そに考えられる理由ではなかった。

 ―――木下の家には、死がついて回っていると噂されている。

 そう、夏日田五兵衛は右庵に言ったのである。
勿論、縁談の話に、どういう形であれ耳を貸してくれた五兵衛や夏日田家そのものが、
頭からその文言を信じ込んでいるわけではないだろう。
一方で、そういった噂があるのは確からしい。

 考えてみれば、言われるだけの下地はある。

 相次いで死んだ父母。
父母の死後、暫くは臥せったままで、回復した後も家から出ることのない十夜。
それらに加え、右庵が長女を嫁に行かせることなく、婿を探そうとしたことも噂が立った一因らしい。
自分が何時死ぬかわからないから、右庵は婿を探している、ということだった。

 ある意味、右庵が何時死ぬかわからない、というのは真実ではある。
だがそれでも、である。右庵は、自分が五兵衛に聞くまで、その噂を聞いたことがなく。
その上、あの幸花ですら聞いたことがない、というのは、右庵には俄かに信じがい事であった。

 あるいは、千里耳は知っているかもしれない、とも考えたが―――公と私は分かたれてあるものだ。
曲がりなりにも、直参の身分と同等の位にあると聞く彼女が、役目の上で必要無いことまで
右庵に知らせるはずはあるまい。

 ともあれ。

 少なくとも右庵の父母が相次いで死んだのは確かである。
また、十夜の体が弱いことも事実。
ならば、一度夏日田家で働いてもらい、嫁に取るに足るかどうかを見たい。

 それが、夏日田家の言い分であった。

「理に適ってはいますね」
「……ええ。夏日田家では、特に悪い噂は聞きません。
一応、下調べや、十夜自身の意思も確認しますが……」

 そこで、右庵は立ち止まる。
紗恵も、同じように足を止め、右庵を振り返る。

 言わなければいけないことだ。
いずれにせよ、紗恵ならば、最終的な決定は右庵に委ねるであろう。
しかも、心の裡が決まっていると見透かされているのだとしたら尚更である。

 掠れた声を喉から吐き出しそうになり、慌てて咳で払う。
辺りにはやはり、まだ誰もいない。

 陽は間もなく、天の四半を過ぎようとしており、風はやや肌寒い。
無自覚に他のことに思考を移そうとして、右庵は踏みとどまる。
言わなければいけないのは、ただの数言だ。

 今、右庵が望んでいるのは、十夜や紗恵の未来が少しでも広がりのあるようなものになることである。
故に、答えは決まっている。

「……とりあえず、夏日田家へ、十夜を嫁がせようと、私は、考えています」

 声が震えたが、それでも最後まで言葉を搾り出す。
言い切れば、どうということはない。

 元から、意思は決まっている。やるべきことはわかっていた。
だから、自分自身の中の躊躇いは、見ないようにするしかない。

「そうですか」

 紗恵は肯くだけだった。

 右庵は思う。

 紗恵は右庵自身にあれこれと世話を焼く割には、時に、あっさりと右庵自身の決定に肯くことがある。
なんとなくだが、そんな経験が多かったように、右庵は記憶していた。

 十夜とは違う。
幼い頃から、十夜は、自分についてくることが多かった。
そのわりに、彼が言うことに、何でも食い下がった。
それが、十夜自身に益になることが明らかであるときも、である。
考えて見れば、右庵自身は。十夜に、自分のような者に付いてくるぐらいなら姉を見習え、
と言っていたようにも思える。

 ある意味、今も昔も十夜の根の部分は変わっていないのかもしれない。
ひどく険悪な関係になった今でも、十夜は右庵の決定や行動に、背くばかりだ。

「……」

 言いようもない感情が、胸を衝く。
たとえ険悪でも、共にいれば、十夜と会うことができた。
だが、夏日田の家に行けば、安否は知れても、言葉を交わすことはできなくなる。

 十夜のために、金を送ることはできる。
十夜のために、言伝をすることはできる。

 だが―――

「寂しくなりますね」

 紗恵の言葉に、右庵は何も返せない。
そう。自分はどうしようもなく、寂しい。

 生きるための目的や、自分の義務などと言ってみたところで、
幼い頃から苦楽を共にした実妹と別れるのは寂しい。

 必死に役目に励めば、ひと時は忘れられるだろう。
鉄の棒を振り続ければ、何も考えずに済む。
その気にならずとも、金を出し、売女の機嫌をとれば、ひと時の楽しみを得ることはできよう。

 それでも、己が帰るべき場所に帰ったとき、そこにはもう、十夜はいないのだ。
その事実が、どうしようもなく、寂しかった。

 これまでの生で味わったことのない、言いようも無い寂寥感。

 父や母を失った時も。
役目で、仲間が死んだ時も。

 このような気持ちになったことは、なかった。

「……ええ。
これ以上遅くなると、姉様の体にも差し障りがあるでしょう。
先を急ぎます」

 やっとのことで、右庵は肯き、また歩き出す。
一瞬遅れて、紗恵の歩がその後を追う。

 紗恵がついてくるのを確認しながら、機械的に人通りの少なく、
それでいて治安のいい箇所を縫って歩く。
八年の歳月で身に染み付いた動きをなぞるだけにして、屋敷への道を急ぐ。

 ふと、頭の隅に、幸花の言葉が過ぎる。

『貴方…本当は、二人を屋敷から追い出したいんじゃないのかしら』

 どうしようもなく的外れな意見だ、と右庵は思う。
そんな思いで動ければ、どれだけ楽であったろうか。

 もう一つ過ぎるのは、千里耳の言葉。

『姉と妹のために、と思って始めたことなのだろう?』

 今は、それに縋るしかない。
どれだけ自分が十夜のことを大切に思っていても、所詮は自分だけの思いだ。
ならば、十夜のために出来るだけのことをすべきなのだ。

 そこで一つ、言うべきことを思い出した。

「姉様」

 言葉は返ってこない。
だが、彼女であれば、こちらの言葉に耳を傾けているだろう。
そう思って、右庵は言葉を続ける。

「……今回のことは、姉様から十夜に伝えてください。
その時、くれぐれも、私がどう考えているかは伝えぬように」

 右庵の思うところを知れば、十夜はまた、右庵の意図に背くかもしれない。
また、右庵自身が十夜と会話すれば、それは彼女の判断に影響するだろう。
それでは、意味がない。

 一瞬。背後を歩く、紗恵の歩みが乱れたように思った。
しかし、すぐに返事が来る。

「わかりました」

 行きの道程とは、全く異なる帰り道。
紗恵からは無駄な言葉など一言も発することなく、姉弟は粛々と家路を行く。

 去来する思いに潰されぬよう、右庵は必死に足を運んでいた。

<七>

 あの時のように、右庵をかき抱こうと、体は動いた。
しかし、手を伸ばそうとしただけで、それ以上のことはできなかった。

 ここで彼を抱きしめて、どうする。
慰めて、心の隙に入り込むか。
それとも、かつての記憶を思い起こさせるか。

 そんなことは、できない。
それでは、あの女と同じだ。
あの女と同じように行動しても、意味がない。
私は、あの女とは、違う。

 我侭に言葉を述べつらい、思う侭に行動し。
そして、彼の愛情を独占する。
それで全てを手に入れられる、あの女と私は、同一ではない。
最初から、彼を独占しているあの女を真似たところで、何の意味もない。

 同じことをしたところで、その結びつきは、あの女に及ばない。

「わかりました」

 手を引き、理性を以って押しとどめる。
私は自分の思うままに行動はしない。できない。
せいぜい冗談めかして、我侭を言うのが関の山だ。

 ―――今は急ぐ必要は、無いのだ。

 紗恵は自身に言い聞かせる。
今のところ、万事が自分の思惑通り進んでいた。

 十夜の記憶は未だ戻らず、右庵もそれについて言及しない。
自分に関わる、社会的に厄介な事実について、無闇に探ろうとする幸花の動きは掴んでいる。

 婿入りの話は、あの噂を流すことによって、一時的に話題の上ることは少なくなった。
これで、右庵と会話する際に、婿入りの話題を警戒する必要はしばらくはなくなるだろう。

 噂を流したことで、縁談を緩やかに進めることができるようになったことは思わぬ僥倖だった。
婚姻まで急ぎ話しを取りまとめることは、十夜にあまりいい影響を与えない。
そういった意味では、良し悪しで考えるならば、良い方向に話が転んだ。

 何より。十夜が自ら、あの屋敷を出て行くことを決心させ。右庵に否を言わせなかった。

 恐ろしいぐらい、上手く行っている。
この八年で、こんなことは初めてだった。

 始まりが何処にあったのかはわからない。

 ただ、最初の自分は彼と共にあろうとしただけだった。
それだけのはずなのに、障害が、そこには存在した。
その障害を取り除いたとき、自分は道を外れた。

 ―――それでも、彼は。道を外れた私と共にいてくれると言った。

 幸せだった。私は、自分の思いが成就した、と思った。
しかし、あの女は、そんな思い込みをあっさりと打ち壊した。

 彼に纏わりつき、邪魔をするだけで愛される女。
体が弱く、ただ臥せっているだけで心配される女。
ただ、彼女が彼女であるという理由だけで、彼と共にあることができる女―――!

 自分と、彼と、そしていつも共にいた、もう一つの存在。
あれは、真っ当な方法で、自分が勝ちうる存在ではないのだ、とその時に思い知らされた。

 否、私は知っていたはずだったのに、それまでは冗談と思い込んでいたのだ。
そんなこと、あり得るはずがない、と。
その場にいるのは自分のはずだ、と。

 思い込みが打ち壊された後に残ったのは、どうしようもない嫉みと、妬みと、願いと、望み。

 それに従い、私は八年を費やし、あの女を排除しようとした。
殺すことはできない。自ら手を下さずとも、あの女が死ねば右庵は悲しむ。

 だから、あの女が自ら、右庵から離れるように仕向けた。

 現状を把握し、布石を打つ。
少々厄介な障害が生じたこともあったが、それを逆手にとって駒とし、あるいは強引に切り抜けた。

 やっと、ここまで来た。
ここまで来れば。後は、彼が自分の思いに気づいてくれれば。

 一度、受け入れらくれた想いを、彼が思い出してくれれば。

 そして何より、彼自身が私に明確な感情を抱いてくれれば。

 きっと、愚直な彼は、死ぬまで私と共にいてくれるだろう。

 来世まで、などと望みはしない。
ただ、せめて、今生の間だけでも、一緒にいて欲しい。

 まるで、走るように歩く彼の後を、影を踏まないようにして歩く。
急に変わっても、急に抱きしめても、きっと彼は戸惑うだけだろう。
少しずつ、少しずつでいいのだ。

 焦って、全てを台無しにしないように。
今度は、打ち壊されないように。

 ―――今度は、私を愛してもらえるように。

2011/03/11 To be continued.....

 

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