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ひとり多い



1

「おはよう!」
 
  今日の天気を表すような底抜けに明るい声に続いて、背中をばしんと叩かれる。
  驚いて振り返ると、そこには見覚えのある顔がひとつ。
 
「朝から暗い空気背負っちゃって。
  相変わらず司郎は元気ないなあ!
  わたしの、すこし分けてあげよっか?」
 
  すらりと伸びた手足。
  激しく自己主張する胸と腰。
  こちらを見上げる切れ長の瞳は蒼く輝き、
  流れるセミロングは太陽にも負けない黄金色。
  正常な青少年ならまず間違いなく“ヤリたい”と思ってしまう外見。
  かくいう僕も、幾度となく自慰のオカズにしていたりする。……まあそれはそれとして。
 
  そんな美少女が、僕に対して気さくな態度で。
  朝の挨拶を、投げかけてきた。
  それに対して、僕は。
 
「…………ぉ……ょぅ」
 
  唇をモゴモゴ動かして、そのまま少女から離れようとした。
 
「司郎は今日、3限からだっけ。
  まだ少し時間あるよね? ちょっとお茶しない?
  この前借りたレポートなくしちゃったお詫びに、わたしが奢るからさ!」
 
  別にいいよ、と言おうとしたが、
  慌てて口を塞ぎ、僕は努めて彼女を無視する。
 
  今は駄目だ。
  彼女に大きな話しかけてはいけない。
  ここは大学の講義棟のすぐ近く。
  昼休み前とはいえ、まわりにたくさん人がいる。
 
「ほらほら、行こうよ!」
 
  ぐい、と腕を抱え込まれる。
  二の腕に柔らかい感触。
  しっとりマシュマロのようなそれに、思わず抵抗する力が失せてしまう。
  そのままずるずると引きずられていく。
  行き先はおそらく、大学近くの喫茶店。
  彼女はいつも、僕をそこに連れ込んでいく。今日も、きっとそうなのだろう。
 
  ――あそこなら、人も少ないから。

 

 城井珠希(しろい たまき)
  両親は国際結婚の日米ハーフ。
  一見遊んでいそうに見えるが、妙に貞操観念が強く、悪い噂はとんと聞かない。
  ひょっとしたら処女かもしれない。
 
  僕が、彼女について知っているのはその程度。
 
  知り合ったのは、大学に入ってから。
  彼女の方から話しかけてきて、そのまま何故か僕に積極的に構うようになった。
 
  僕は、自他共に認める“つまらない”人間である。
  趣味無し、金無し、体力無し、友達無し、会話無し。
  人と話しても7秒以上保つことなど滅多にない。
  そんな僕に、何故か彼女は積極的にアタックしてくる。
 
  信じられなかった。
  だから。
  僕は彼女を無視している。
 
  それでも彼女は挫けることなく。
  毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日馬鹿のひとつ覚えのように話しかけてくる。
 
  これはもう、人付き合いのほとんどない僕にだって、おぼろげながら理解できる。
 
 
  ――城井珠希は、僕のことを好いている。
 
 
  これが現実だったら、どんなに幸せなことだろうか。
 
 
 
 
 
  喫茶店で珠希にひたすら中身のない話を押しつけられた後。
  紅茶とケーキで栄養補給したはずなのに、何故かふらつく足取りで。
  僕は講義のある教室へと向かっていた。
 
  講義棟の一番奥。
  教室の前から6列目。
  僕以外誰もいない列に座る。
  熱心な人はもっと前に座るし、やる気のない人はもっと後ろに座る。
 
  周りに人が座ってない、ぽっかり浮いた教室の孤島。
  ある人が“根暗ゾーン”と呼んでいたそうだ。あながち間違いでないのかもしれない。

 

 そんな根暗ゾーンに、一人の乱入者が押し入ってきた。
  すとん、と僕の隣の席に腰を下ろしたのは、こちらも見覚えのある少女だった。
 
「こんにちは」
 
  挨拶に添えられたのは、穏やかな笑顔。
  流れる翠の黒髪は、触れたら濡れて溶けてしまいそうな美しさ。
  今日は気温もそれなりに高いのに、長袖ロングスカートで汗ひとつかいていない。
  背筋は真っ直ぐ伸びており、とても“きれい”な女の子だ。
 
  そんな子が、隣に座り、挨拶してきたので。
 
「…………」
 
  僕は無言でノートに視線を落とした。
  無視。
  隣の少女は、少しだけ悲しそうな溜息を吐いた後、気を取り直して授業の準備を始めた。
 
「……あっ」
 
  ふと、隣から息を呑む気配が伝わった。
  何とはなしに目を向けると、バインダーを開いて固まる少女。
  顔を上げた少女の視線は彷徨い――僕のと重なった。
 
「……資料を忘れてしまいました」
 
  助けを乞うような目で、呟いてきた。
  手元に視線を落とす。
  そこには、色々なプリントの挟まった僕のノート。
  その中に、きっと彼女が欲しているものも含まれるだろう。
 
「…………っ……」
 
  数瞬、逡巡する。
  やがて、ゆっくりとノートを開き、資料を探し出す。
  はたして、目当てのものはすぐに見つかった。
  僕はそれを、無言で机の上に広げる。
  位置は、僕のノートの真横。右手寄りの方向だ。
  隣の机にはみ出してしまっているが、誰かが文句を言わない限りは大丈夫だろう。
 
  これくらいなら。
  きっと、大丈夫。
 
  右隣の少女は、嬉しそうに微笑んだ。
  僕はその笑顔を直視せず、視線は手元に落としたまま。

 

 竹月天花(たけつき あまか)
  純国産のお嬢様。
  とても真面目で誠実な、いまどき珍しい人格の持ち主である。
  まず間違いなく処女だろう。
 
  僕が彼女について知っているのはその程度。
 
  知り合ったきっかけは忘れてしまったが、彼女とはよく講義で一緒になる。
  そして何故か、根暗ゾーンをかいくぐり、僕の隣に座ってくる。
  時折チラチラと向けてくる視線や、語りかけてくるときの甘い声色。
 
  信じられなかった。
  だから。
  僕は彼女に対して素っ気なく振る舞う。
 
  それでも彼女は挫けることなく。
  毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日馬鹿のひとつ覚えのように隣に座ってくる。
 
  これはもう、人付き合いのほとんどない僕にだって、おぼろげながら理解できる。
 
 
  ――竹月天花は、僕のことを好いている。
 
 
  これが現実だったら、どんなに幸せなことだろうか。
 
 
 
 
 
  今日の講義も全て終わり、帰りの電車に三十分ほど揺られた後。
  自宅の最寄り駅に到着した頃には、既に日は落ちかけていた。
  駅前は、帰宅途中の学生軍団や買い物部隊の主婦たちでごった返していた。
  隙間を探すのが難しい、ヒトの群れ。
  それをぼんやりと眺めていると。どこか落ち着いた気分になる。
 
  ――僕は、人混みが好きだ。
 
  たくさんの中に紛れられるから。
  ひとつくらい混じっても、大差ないから。
 
  川を上る鮭のようなヒトを見るのは、唯一の心の清涼剤。
  この瞬間、僕は日々の疲れから解放され、救われた気分になる。
 
  ああ、ヒトがいっぱいいるなあ、と

 

 そんな風に。
  心休まる時間を堪能していた僕の視界に。
  一人の少女が、映った。
 
  まずい、と思って身を隠そうとしたが。
  その前に向こうに発見されたようで、ずんずんとこちらに近付いてくる。
 
「やあ! 今帰り? 奇遇だね!」
 
  腕や顔は黒く日焼けしているが、胸元は妙に白い、典型的な“部活焼け”。
  小柄ながらも活力に溢れた肢体には、そそる男も多いだろう。
  髪はベリーショートに軽く色を付けている。
  ホットパンツから伸びる生足には、思わず生唾を飲み込んでしまいそうになる。
 
  そんな、いかにも青春を謳歌していそうな少女が、僕に擦り寄り、話しかけてきたので。
 
「……………………」
 
  僕はそっぽを向き、離れようとした。
 
「――もう! なんで逃げるかな!」
 
  ぐい、と腕を掴まれた。
  二の腕に押しつけられた柔らかさは、昼前に味わったそれより数段弱いが、
  それでもドキリとさせられる。
 
「違う大学になっちゃってあんまし会えないんだから、もっと構ってよー。
  アタシ、寂しくて死んじゃいそうー」
「…………」
「構ってくれないのなら、こっちからくっついちゃうもんー」
「…………」
「もう、こんなに可愛い彼女が甘えてるのに、その態度はいかんわよー」
 
  彼女じゃないだろ、と言いたくなってしまうが、必死に抑えて無言を保つ。
  会話をする必要はない。
  放っておけばそのうち黙る。
  黙らなければ逃げればいい。
 
  話さなければ、それでいいのだ。
  彼女の方を向き、声を出し、体を動かす。
  そういったことさえしなければ、きっと大丈夫に違いない。
 
  自分にそう言い聞かせて、僕はとにかく無言を貫いた。

 

 雪野きつね(ゆきの きつね)
  同じ高校に通っていた幼馴染み。
  趣味はソフトボールで、大学に入ってもソフト部に入部する、典型的な体育会系。
  体格は小柄ながらも、引き締まった足首は、妙なエロさを感じさせる。
 
  僕が彼女について知っているのはその程度。

 近所同士だが、高校卒業直前まで、互いが近くに住んでいたことを気付けなかった。
  知り合ってからは、なにかと僕に話しかけてくるようになった。
  遊びや食事の誘いなどしょっちゅうで、街で会うたびにくっついてくる。
  充実した人生を送っているのに、何故か僕なんかのことを構いたがるのだ。
 
  信じられなかった。
  だから。
  僕は、彼女をいない者として扱った。
 
  それでも彼女は挫けることなく。
  毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日馬鹿のひとつ覚えのように擦り寄ってくる。
 
  これはもう、人付き合いのほとんどない僕にだって、おぼろげながら理解できる。
 
 
  ――雪野きつねは、僕のことを好いている。
 
 
  これが現実だったら、どんなに幸せなことだろうか。
 
 
 
 
 
  城井珠希。
  竹月天花。
  雪野きつね。
 
  僕のことを好いているであろう三人。
 
  こんな幸運、一生どころか何度転生したとしても、今だけだ。
  おそらく今の僕には、泥酔した恋愛の神が間違えて宿っているとしか思えない。
  このチャンスを活かせば、きっと僕は、
  誰もが羨むようなハイレベルの彼女を手に入れることができる。
 
  でも。
 
  ――誰が“当たり”なのか、わからない。

 

 僕は、少しおかしいのだ。
  人付き合いが苦手だとか、そういった意味ではない。
  そもそも僕が人に話しかけられなくなったのには、原因がある。
  そしてそれは今もなお、僕を縛り付けて動けなくさせる。
 
 
  僕の周りは、常に“一人”多いのだ。
 
 
  家族は、いつの間にか兄や妹が一人増えている。
  クラスメートは、常に名簿の数より一人多い。
  親戚の集まりに参加すると、いつの間にか親の兄弟が増えてしまう。
 
  僕は常に、人を一人多く数えてしまい、
  それが現実に存在するかの如く、認識してしまうのだ。
 
  いないはずの人間に話しかけ、周囲の人には気味悪がられる。
  カウンセリングや精神科にも通ったが、治る見通しは全く持てず、今は落ち着く薬を貰うだけだ。
  その瞬間に話している相手が、実は存在しない人間かもしれない。
  それは、僕にとって酷いストレスとなり。
  いつしか僕は、ヒトを避けるようになっていた。
 
  この、“一人多くなる”という誤認知は、どうやらルールが存在するらしい。
 
 
  まず、あるカテゴリーに分けられる集団から、架空の人間を作り出す。
  次いで、一人多くなったら、その集団からはそれ以上増えない。
  そして、増えた瞬間から、僕の中でその存在は現実となり、如何なる方法でも区別できない。
 
 
  特に、最後のルールが厄介だった。
  例えば携帯の着信履歴や物のやりとりなど、形に残る証拠があれば、
  比較的容易に認知の狂いを発見できるはずだ。
  カウンセラーも、周囲の物を注意深く見てみるといい、などと言っていた。
  しかし、僕にとっては、“絶対に存在しているはず”なのだ。
  そういった物的証拠を見ても、“それが無いなんて信じられない”のだ。
 
  だから、僕の周りには常に一人。
“存在しないはずのヒト”が存在するのだ。

 そして。
“僕を好いている女性”というカテゴリーで。
  きっと、一人増えている。
  全員が偽物だったら、ある意味気は楽かもしれないが、
  存在しない人間だけでカテゴリーが作られることはないようなので、
  少なくとも一人は、僕のことを好いている女性が存在するということになる。
  ……なんて勿体ないんだろう。
  三人が三人、どれをとってもレベルの高い美少女ばかり。
  悔しすぎて涙がこぼれそうになってしまう。
  彼女たちとの記憶は少なからず存在するが、
  そのうちひとつは僕の頭の中で勝手に作られたものなのだ。
  たとえ彼女ができたとしても、それが架空の人物だったら、
  誰もいない空間に向かって話しかけることになる。
  最悪、一人でホテルに入って、ベッドの上で独り腰を振る羽目になる。
 
  それが怖いから。
  僕は、城井珠希、竹月天花、雪野きつねの三人には、決して近付こうとせず、
  不当な期待は抱かないことにした。
 
  ひとり多い限り、きっと僕は、大きな声で話しかけることはできない。
  せいぜい、人気のない場所で、小さな声でぼそぼそ会話するのが限界だ。
  こんなつまらない男、普通ならすぐに飽きて離れてしまう。
  しかし、彼女たちは、こんな僕に呆れもせずに、ずっとこちらを気に掛けてくれる。
 
  彼女たちは、一体どれだけ、僕のことが好きなのか。
 
  でも。
  ひとり多いから。
 
  僕は、このまま、彼女たちを避け続けるだろう。
 
  彼女たちが、どんなに僕のことを好こうとも。

2007/06/30 To be continued.....

 

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