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桜荘へようこそ

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第10話 『絶望』

 幼馴染の更紗と刹那がやってきてから2日目の夜。
俺は桜荘の住民に呼び出されていた。
先程の夕食は雪菜や美耶子が嫉妬して俺の隣の席を独占する暴挙に出たおかげで、
二人の幼馴染から冷たい視線を浴びせられていた。夕食を食べた気が全くしなかった。
  その夕食を食べ終えてから憩いの場を離れた時に……
安曇さんが幼馴染たちや桜荘の住民には気付かれずに

指定した時間にその場所に来てくださいと言われた。
  桜荘の住民の中で最も良識のある人間(個人的な妄想で)安曇さんの呼び出しとなれば、
俺に拒否権はない。
ちゃんとした時間厳守で、桜荘の名物である庭に建てられた大きな桜の木の前に
向かうために歩いていた。
夜に見る桜と昼頃に見る桜とでは全く印象や雰囲気も違っている。
夜桜は月の光に照らされて幻想的な雰囲気を漂わせている。
そこで待ち合わせている安曇さんもいつもとは違う顔があった。

「あっ。深山さん来てくれたんですね」

 舞い散る桜の花びらが安曇さんの着ている服に少しだけ積もるように付いていた。
散り行く桜の運命を象徴する現象に名残惜しく思える。
彼女は俺がやってくると笑顔を浮かべて、明るく迎えてきた。

「安曇さんの呼び出しを華麗にスルーしたら後が恐いしな」
「むっ。酷いことを言ったらダメですよ。女の子は何気ない一言でも簡単に傷つくんだからね」
「で、肝心な用件は何なんだ? こんな場所にまで呼び出して」
  本来なら何でもない用件なら安曇さんの部屋で話を聞けばいいのだ。
だが、あえて彼女は桜の木の前に呼び出しをしている。
更に更紗や刹那の幼馴染たちや桜荘の住民には気付かれずに来て欲しいと言えば、
大切な話なのは明らかである。

「白鳥更紗さん。進藤刹那さん。深山さんの幼馴染の二人についてです」
「更紗と刹那がどうしたって言うんだ?」
「私もこの桜荘に来る前にそうだったのですが……二人とも絶望している。
少なくても、明日に希望を持つことができない。そんな寂しげな子犬のような目をしています」
「……!?」   

「深山さんと更紗さんと刹那さんの間に一体何があったのかはわかりませんが。
同じく、世界から絶望していた頃があった私にとっては他人事だと思えなかったんです。
誰も信じられずに家族の温もり、仲間の大切さを知らず。
常に自分だけが不幸で孤独だと思い込んで。
差し伸ばされた手を拒んだ愚かな私まで助けてくれた深山さんの想いのおかげで今の私がいるから」

 安曇真穂。
  俺と同時期に大学に通うための下宿場所として桜荘に入居。
その頃の安曇さんは桜荘の唯一の良識のある人間ではなくて……物凄く荒れていた。
人と人の関わり全てを否定して、信じられるのは自分だけだと。
人を寄せ付けぬ雰囲気を漂わせていた。桜荘の憩いの場として料理を奮うまでには
いろんな出来事があったが。
彼女は自分の力だけではなくて、桜荘の住民の助けや励ましで絶望から立ち直った。
少なくても、今の安曇さんがいるのは俺の想いだけではなくて……
桜荘という居場所があるおかげであろう。

「だから、更紗さんや刹那さんには立ち直って欲しいんです。
私はかつての自分と同じ空気を持った人間を見ただけで……支えになってあげたいと思いました。
世界は優しくて厳しいけれど、そんなに絶望するだけの世界じゃあないと教えてあげたい」

「安曇さん……」
「それに誰かに奉仕させられるだけのために奮った料理の腕よりも、
皆を笑顔にするための料理の作り方を桜荘で学びましたからね。これからは大変ですよ。
7人分の料理の支度をしなくちゃだめなんですから」

「いつも美味しい食事を作ってくれてありがとうな」
「えへへ。もう、深山さんったら誉めて何も出ませんからね」

 安曇さんの顔色は朱に染まり、嬉しそうに微笑を浮かべた。
彼女にとっては誰かに強制的に奉仕させられるのは已むべきことであり、
祝辞の言葉を語る人間は桜荘に来るまで現れたこともなかったのだ。

「後、もう一つだけ。更紗さんと刹那さんが桜荘にやってきたおかげで。
ようやく、私は深山さんも絶望している事に気が付きました」
「俺が絶望?」
「はい。そうです。深山さんも桜荘に来る1年前は私と同じように落ち込んでいましたよね? 

この1年間でいろんな出来事があって、深山さんは立ち直っていたと思っていました。
でも、違ったんですね」

「……」
  安曇さんの指摘に俺は返す言葉が見つからなかった。
そう、1年前以上に起きた悲劇は今も悪夢として何度も再現され俺を苦しみ続けている。

「だって、いつもの深山さんは笑っているのに。
あの子たちが来てから、深山さんが滅多に笑うことがなくなったんですよ。
食卓にいる時は更紗さんや刹那さんの方を見る度に辛そうな表情を浮かべてる」

「そこまで注意深く観察されているとこちらとしては恥ずかしいわけだが」
「だって、深山さんの視線を無意識に追っているんだから。
誰でも深山さんが本来の調子とは違うって気付きますよ。
それに……いつも……なた……ことを……見て……から」

 安曇さんは顔を下に向けて、表情を悟らせないように髪で隠して、
耳まで真っ赤に染まる程に顔色を紅潮させていた。
最後の一部分だけは小声で聞き取ることができなかった。
新手の病気じゃないのかと思うほど、桜荘の女の子の赤面率は高い。
女心というのは理解しがたい物があるな。

「確かに更紗と刹那の事に関しては過去にいろんな事があったりしたけど……」

 幼馴染の告白を断ったあの時から失ってしまった大切な絆。
粉々に壊してしまったことを後悔して泣き続けた。
臆病な自分は故郷から遠い地にまで逃げた。
だが、逃げた場所が悪かったのだ。桜荘の暮らしが自分を変えてしまった。
この家族と呼べる仲間達の出会いは俺の荒んでいた心の色を塗り替えたのだ。

 だから……。

「どうにかなると思うよ」
  何の根拠もなかったわけだが、自然と胸の奥深くから自信というものが沸いてくる。

「その意気ですよ深山さん。さてと無事に背中を押す役を全うしたので。
私はお風呂にでも行ってくるとしましょうか」
「ありがとう。安曇さん」
  去って行く小さな背中を見送った後にもう一度だけ、
俺は誰にも聞こえない声で安曇さんにお礼の言葉を呟いた。

 更紗と刹那が桜荘に馴染んできた頃。桜は間もなく枯れ落ちようとしていた。

 第11話 『悪魔と呼ばれる者』

 幼馴染たちが桜荘にやってきてからもう2週間の月日が経過していた。
更紗も刹那も桜荘に自分の部屋を敷金保証金なしで借りることができた。
ただし、保証人が俺になっているおかげで奈津子さんに
『二人が逃げたら未払いの家賃と賠償金を払うのよ』と
軽く脅されてしまった。

まあ、すでに帰る家がない住所不定の二人に部屋は素性が怪しいと判断されて、
どの会社も貸してはくれないだろう。
桜荘は敷地が広く空き部屋も余っているというのに入居者は全くいないと言って等しい。
そのような事情があるためか、奈津子さんにとて、
更紗と刹那を入居させることは歓迎すべきことであったのだ。
  ただ、困ったことに所持金をここに来るまでに使い果していた更紗と刹那の生活用品やら
下着やらなどを揃える必要があった。
俺は仕方なく自分の貯金の半分も引き落として、二人の生活用品を揃えた。
その金額は二人が泣きながら絶対に返すよと真っ赤な誓いを強制的に結ばれた。

  更紗と刹那が桜荘に馴染んできた頃。桜は間もなく枯れ落ちようとしていた。

 憩いの場にて、桜荘の住民の皆と一緒に安曇さん作ってくれた朝食を食べていた時であった。
席を立った奈津子さんが珍しくお酒の一滴も飲まずに皆に語りかけた。

「さてと。桜荘の桜がもうじきに枯れるから、私たちのお花見を今週の休日に開こうと思うんだけど。
誰か都合の悪い人がいるかな?」

 桜荘の管理人兼オーナーである奈津子さんが提案するのは桜荘恒例のお花見会であった。
普段、桜荘の中央の庭にある木は桜が咲く頃になると一般人の方々、町内の皆様、
会社のお花見会として場所を貸し出すのである。
奈津子さんは有料で提供しているおかげで桜が咲いている間は収入を得ることとなる。
そのお金は奈津子さんの懐にはいかずに桜荘を維持するために賄われるのだ。
桜の木が枯れ落ちる時期に合わせて、桜荘の住民たちだけのお花見会が開かれる。
  来年も良い桜が咲きますようにと、祈りと感謝の意を込めながら。

「私は大学が休みなので朝からご馳走を作りますからね。楽しみにしてください」
「去年、雪菜は桜荘に住んでいなかったからね。初めてのお花見会だよ。真穂さん。
美味しい料理を一杯作ってね」
「任せてくださいよ」
  去年の桜荘のお花見会の頃に雪菜はまだ桜荘に住んでいなかった。
その数日後に雪菜と邂逅するわけなのだが、それはまた別の話だ。

「去年のお花見会はいろんな意味で盛り上がりませんでしたね。
私が参加してなかったのも確かなことですが。一樹さんが場を盛り上げるために衣服の全てを脱いで、
歩道に出てくれれば、面白いことになっていたのに」
「引きこもっていた分際で人を犯罪者というか露出狂に仕上げるつもりか。美耶子……」

「まさか……一樹さんを陥れるために日々努力している女の子に、
そんな恐ろしい犯罪もどきが出来るわけがありませんよ。
せいぜい、近所の皆様に一樹さんは桜荘に住んでいる女の子を脅迫して
凌辱しまくっていることを言い広めているだけですから」

「なお悪いわ!!」
  饒舌な毒舌口調の美耶子のテンションに頭がまだ寝呆けている状態では
さすがに付いていける状態ではない。
せめて、相手をするならコーヒを飲んで完全に目覚めてからだ。

「カズちゃんは凌辱するよりされる方が好きなんだよね?」
「更紗も美耶子という悪魔の囁きに乗るな」
  朝食を食べている更紗がお茶碗を持ちながら、箸を俺の方に差して言っていた。お行儀が悪いぞ。
「お花見会に参加するなら、カレー専門店オレンジの仕事と都合を合わせる必要がありますね」
「大丈夫だよ。刹那。今のあの店は客をライバル店に取られているから。
人手はそんなに必要じゃないし。お花見会に3人とも休めると思うよ」
  更紗と刹那はカレー専門店オレンジのスタッフとして採用された。
朝倉京子という頭のネジの外れた女の登場で、うやむやになった件を改めてクソ店長に認めさせた。
単純にイナズマキックで気絶させてから腹話術化したクソ店長の口から
サイヨウサイヨウサイヨウと言わせたので文句なしに二人の採用は決定された。
  ただ、朝倉京子率いるライバル店のブルーは早くて美味しくて安いモットーに、
駅前で可愛い制服姿をして堂々と広告を配っていた。
その効果があったのか、ブルーには客が大幅に客入りが右肩上がりに好調になり。
逆にオレンジはライバル店に客を取られて、どんどんと寂れて行く一方であった。
「じゃあ、全員参加ということで。今週の休日のためにいろいろと準備するわよ!!」
「おっーーーー!!」
  皆が揃え合うように声を合わせて腕を上げた。
桜荘恒例のお花見会は皆にとって楽しみな行事になりつつある。
去年と大きく比べて違うのはその瞳に生気が篭もり、自然と皆が笑顔を浮かべていた。
  ただ、とある二人以外は……。

 労働というのは日本人にとっての義務であり、
ある年令に達すると強制的に社会に放り出されるわけだが。
さて、俺の働いている職場のカレーを専門に扱っているお店は客が全くやって来なくなった。
その原因は隣に何の伏線もなくライバル店のブルーが先週に開店されたから。
当初は開店セールが過ぎた頃にはある程度のお客が戻ってくるとお気楽に思っていたが
計算が狂ってしまった。
  新しくアルバイトの更紗や刹那を雇ったのにこれでは何の意味もなくなった。

青山次郎、朝倉京子の勝ち誇る高笑いが脳裏に聞こえてくると自然と怒りが沸いてきた。
  とはいえ。

 アルバイトの立場である俺が出来ることは何もない。
唯一、店の最大最悪の危機に対して、
皆を引っ張って行くリーダーシップを取るべき存在である店長は。

「ちょうちょ−ちょうちょーちょうちょー。わ〜い」
  現実逃避していた。
「ダメだ。こりゃ」
  新たなバイト先か就職先を探した方がいいかもしれない。
  真面目にそう思っている最中に店のドアに飾られている鐘の音が鳴り響いた。
  客が来たと思って、ホールから飛び出してくるとそこには憎きライバル店の
ウエイトレス兼ホールスタッフの朝倉京子の姿がそこに在った。

「あらあら。せっかく、お客として来たんだからさ。もう少し笑顔で迎えてくれないの?」
「客ってか、あんたはただのスパイだろ」
「スパイ? こんな寂れた店にスパイする諜報機関があれば教えて欲しいわ。
とりあえず、私はあなたたちの絶対敗北を見届けるために遅い昼食を食べに来たんだから。
何でもいいから持ってきてくれる?」
「わ、わかりました……」

 一応、お客としてやってきた朝倉京子を邪険して追い出すのは敗北の二文字を認めることだ。
俺は不機嫌な顔を隠して朝倉京子をテーブルに案内する。
  そして、適当なメニューの名前を叫んだ。

「店長っっ!! 貧乳カレーをお願いします!!」

「Oh!! 気合いと私の怨念を込めて作らせて頂くぞよ!!!!」
「ってアンタら……いい度胸じゃない。コロス。コ、コロしてやるわ!!」

 顔を赤面させた朝倉京子が俺の衣服を掴んで、拳を強く握っていた。
ウエイトレスで鍛え上げた腕力は平均年令の女性を僅かに上回ると同時に
欠点を指摘された恥辱の怒りのおかげでそれは更に倍増されていた。
  いざ、殴りかからんとした時に心強い味方が通りすがりとしてやってきた。

「お客さま。水とおしぼりです。
後、カズちゃんの顔に傷の一つでも付けたら。
間違いなく、その場で八つ裂きになりますからね。お気を付けてください。
後、今度から馴々しくカズちゃんと口を聞いたら、問答無用に私がキレます」

「な、何よ。この子は……」
  突如、現われた更紗が黒い殺気を朝倉京子に向けて放っていた。
少しだけ後ろに一歩を下がりたい彼女は誇り高いプライドが邪魔して下がることができない。
表情は少し怯えを含んでいたが、傲慢な態度を無理矢理に繕うとしていた。
「さっさと持って来なさいよね!!」
「はいはい」
  黒化した更紗の首っこを猫のように掴んで、俺達はホールに戻って行く。
これ以上、朝倉京子と会話すると更紗が熱いカレーライスを
何かの拍子で顔面にぶつけるかもしれない。

それはそれでオレンジの信頼と信用というものを失ってしまうのだ。
  更紗よりも大人しい彼女に料理を運んでもらうしかない。
  俺はその彼女の名前を呼んだ。
「おめぇの出番だ。刹那!!」
「わ、私、頑張って貧乳カレーを運びます」

 おどおどしい態度で刹那は出来上がった貧乳カレーをトレイの上に載せて、貧乳の元へと向かう。
足はびくびくと震えているが、人見知りが激しかった刹那はこの仕事をきっかけに
対人スキルの方は上がっている。
ただ、不機嫌さを全く隠さない貧乳がホールの方に人を殺せそうな視線を送っているのだ。
その辺にいる見た目だけが格好いいチンピラだったら数秒で睨み負けて、
情けない悲鳴を上げて退散するだろう。

「あ、あ、あの貧乳カレーです。冷めない内にどうぞ」
「貧乳言うなぁぁぁぁ!!
  そ・れ・か・ら・。注文を頼んでから、何分待たせるつもりなの? 
私の店じゃあ、この程度のカレーは数分以内に出来上がるわよ」

「ううっ……すみませんですぅ」
  貧乳の罵声に耐え切れずに、半分泣きそうな表情を浮かべた刹那は助けを求めるかのように
ホールにいる俺達に視線を向けた。

(刹那ちゃん……ああいう狂暴な人種とか大苦手なんだよね)
(ああ。小さい頃、野良犬に追われたトラウマを思い出すんだろうな)

 と、俺と刹那は親鳥の暖かい目で小鳥の巣立ちを悠長に眺めていた。
又は見捨てたともいう。それから、刹那は朝倉京子の罵声を何分も聞かされるのであった。

 朝倉京子が遅い昼飯をのんびりと食べている時にドアに飾られている鐘の音が鳴り響く。
見知った制服と共に現われたのは毎日顔を合わせている雪菜と……美耶子だった。

「いらしゃいませ。って、雪菜ちゃん。それに美耶子ちゃんがオレンジにやって来るのは
私がバイトしてから初めてだよね? だよね?」
「そうですね。桜荘唯一の危険人物の一樹さんがアルバイトしているお店を荒らしたのは
更紗さんがアルバイトする前でしたので、初めてと言えば初めてですね」
「うわっ。同じ空間で暮らしている人たちが自分の職場に来ると
なんだか無性にサービスしたくなるよ……」
「雪菜ちゃんと一緒に来る時はいつも店に大赤字無限コンボを喰らわしているので
お気遣いなくですよ」
「まあ、更紗さんも美耶子さんがここに来る意味をおのずとわかってくると思うよ。
雪菜はお兄ちゃんが頑張って労働している姿を見るだけで満足なんだけど。この人は違うからね〜」

 毎日のように通ってくる妹分の雪菜は常連客として扱っている為に何の動揺はしなかったが、
美耶子だけはさすがの俺も息を呑む程に驚愕する。
前回の悪夢の出来事を思い出すだけで胃が締め付けられるような痛みに襲われる。
多分、神経胃炎だろう。

「じゃあ、二人とも席について。すぐに水とおしぼりを持って行くから」
  更紗が水とおしぼりを取りに行っている間に俺は雪菜と美耶子が着いた席に向かっていた。
今回はどのような意図で来たのか確かめるためである。

「いらしゃいませ。学校帰りの買い喰いは校則とかで禁止されていないのか?」
「あはははあははっ。何を怯えているんですか。一樹さん。
今日は雪菜ちゃんと一緒にカレーというものを食べに来たんですよ。
それにお客を接待する態度じゃあありませんよ」
「では。ご注文の方をどうぞ」

「雪菜ちゃんは何にする?」
「雪菜は当然、極・甘・カレーをお願いします」
「だったら……私は店長が推薦する100倍カレー、30分以内に完食すると賞金一万円が貰えちゃうものをお願いしますね」
「は、は、はい。わかりました」
  悪魔は意味ありげに微笑する。

 

それはきっと……これから起きる戦いの狼煙なんだろうということで次回に続く。

第12話 『オレンジの危機』

美耶子たちが注文したメニューをホールの方に伝えるため暗澹たる足取りで向かっていた。
当然であろう。これから始まるのはカレー専門店『オレンジ』の最大最悪の危機。
俺の時給以上の労力と一般人には縁がない常識を疑うような騒動に巻き込まれることとなる。
平穏な生活を望む俺としては何事もないカレー店を経営して、
今日一日を無事に終えたいところなんですが……。
  厨房を覗くとまたアホなことをやっている店長の姿を見て、
俺は凄まじい程にその大きな尻を蹴りを入れてやりたい気分になるが、
今は戦力を失うが惜しいので。腹の奥底から戦いの狼煙を上げるオーダーを読み上げた。

「オーダーが入ります……。極甘カレーが一つ。そして、100倍カレーが一つ。以上です」
「100倍カレーだって……!!」
「店長。悪魔が、デビルの奴が来たんですよ」
「面白い。久々に腕が鳴るぜ……ただ、カレーを作る日々に飽き飽きしていたぞよ。
  貴様らは今この時を持って、悪魔を倒す剣として生まれ変わるぞよ!! 
  クソったれな平穏をぶち壊し、今度こそ我々はデビルに勝つ!! 
奴に奪われた一五万円をこの手に取り戻す!! 貴様らはその覚悟があるか!!」

「カレー!! カレー!! カレー!! カレー!!」
「カレー!! カレー!! カレー!! カレー!!」
「カレー!! カレー!! カレー!! カレー!!」

「野郎ども!! この戦いの目的は何だ!!」
「殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!! デビルの内臓を食い散らせ!!」
「ヤンマー!! ヤンマー!! ヤンマー!! ヤンマー!!」
「マンボー!! マンボー!! マンボー!! マンボー!!」

「OK! 行くぞ!!」
  店長の号令で俺や更紗や刹那が持ち場に着く。カレーが出来上がるまで待機するだけだが、
厨房にはかつてのない熱気と気合いだけが込められていた。
「アルバイトの研修で意味のわからない叫び声の練習はこのためなの?」
  更紗がぽつりと言う。
「デビルを打ち倒すための儀式みたいなもんらしい」
  だが、俺は知っている。そんなアホみたいな掛け声とは関係なしに、
デビルである美耶子には15連敗しているという現実。
特に意味はないんだろうなと……。
  出来上がったカレーを刹那が美耶子と雪菜のテーブルの元に運ぶ頃には、
客席はギャラリーで埋まってしまっていた。
恐らく、隣のライバル店ブルーから流れてしまった客層だと思うが、
たった一人の小娘が100倍カレーに挑戦するだけなのに何でこんなに騒動しくなるのであろうか。
「極・甘・カレーと100倍カレーをお持ち致しました。
100倍カレーに挑戦するお客さまへ。
もし、そのカレーを食べて精神が発狂したり、ショックで突然死しても当店は一切責任はありません。
この契約書にサインしてから、私が合図してから30分以内に食べれたら
賞金の一万をお渡しいたします。
もし、制限時間内に食べれなかった場合は罰金100万を頂くことになるので
出来るだけ制限時間内にお召くださいませ」

 刹那が差し出された契約書に美耶子が躊躇なくサインをした。
100倍カレーに挑戦した勇者達は限りなくいたのだが……
誰も罰金の100万円を払う人間はいなかった。
大抵は生死の境界線を彷徨い、五体不満足で日常生活を送ることになるからだ。
  美耶子はたった一人だけ人類が誰もが成し遂げることができなかった
オレンジ名物100倍カレーを制した時には英雄と崇められた。
小遣い稼ぎのために100倍カレーに挑戦するだけで人々は恐れ、敬い、
その偉業をこの目で見るために自然と集まってくるのだ。

「今日も軽く伝説を達成しましょうか……」
「美耶子さん。負けても勝ってもお兄ちゃんの奢りなんだから。そんなに気負うわなくても」
「あははっ……そうですね。でも、一樹さんの困った顔が見たいので。
ここはいつものように完全勝利を目指しますよ」
「伝説に挑戦する前にどれだけ辛いのか私が一口だけ味見していいですか?」
「いいですよ。刹那さん 」
「よし。辛いと言っても人が食べられないものじゃないはずです」
  刹那は100倍カレーをスプーンで口に含んでから数秒後ぐらい経ってから。
その頬は真っ赤に染まって口から炎を吐いた。

「刹那ちゃん?」
  厨房の片隅で大人しく様子を見ていた更紗が刹那の変貌に思わず駆け出しそうになるが、
俺は彼女の細い腕を掴んで制止させる。

「もう、刹那は俺が知っている刹那じゃないんだ。
常人が100倍カレーを食べると一般人なんて
一瞬で精神がドス黒い何かに汚染させられるんだ。もう、遅い」

「そんなことって……」
  焦点が合わない虚ろな瞳で刹那は100倍カレーを食べたことによる副作用で
口から火炎放射をあちこち吐きまくっていた。
他の客の髪の毛に燃え移ったりするが、そんなことはどうでもいい。
  刹那は店の中央を陣取り、周囲の呼び掛けるように叫んだ。

「カレー専門店にいるオレンジのお客さま皆様。
  お願いがあります。死んで頂けないでしょうか?
  自殺して欲しかったのですけど。駄目ですか?
  ではオレンジの従業員方々、皆殺しにしてください。
  虐殺です」

「するかぁぁぁっっっ!!」
  俺と更紗が速攻で刹那の頭をハリセンでどついた。
「お客さま……どうも、申し訳ありませんでした」
  適当に周囲のお客に頭を下げて、俺と更紗で発狂した刹那を厨房の所にまで連行して行った。
あの100倍カレーを食べた刹那は虚ろな瞳で天井を見上げながら炎を吐く。
俺達が出来ることはその口に水を流すことしかない。なんて無力なんだ俺達は。

「なんなのよ。この店は……」
  朝倉京子が目を丸くしてこの状況を理解できずに驚愕してぼそりと呟いていた。

「うふふふっ……。今日のカレーは美味しいですね。えへへっへっ……」
「美耶子さん。今日も完全に完食コ−スだね。雪菜なら100倍カレーって聞いただけでも
卒倒するというのに」
「雪菜ちゃんももう子供じゃないんだから、極甘味ばかり食べないで辛い物を食べて、
今度は一緒に100倍カレーに挑戦するべきです」
「雪菜、遠慮するよ……」
  あの刹那を発狂させた100倍カレーのほとんどを美耶子は平らげていた。
皿にはほんの少しだけ残っており、今回も完食コースなのは間違いなかった。
「何故だ。ワタシが徹夜で考え込んだ対デビル用100倍カレー改がこんなにあっさりと
突破されるなんて。悪夢を見ているのだろうかカズキ」

「クソ店長がどういうスパイスを作ったのかは知らないが。
あんたのポケットマネーから1万円のお札が飛び出すのは確定事項だな」
「カズキのお給料から差し引いてもいいか?」
「あっはははは。余裕ではみがき殺すことになるかもしれないが。それでもいいなら」
「だって、赤字続きのお店を更に傾けるなんて残酷なことを出来るわけがない」
「いや、更紗と刹那と俺の給料は毎月未来永劫支払うことができるのか? クソ店長」
「あきらめやがれですぅ」

 少し色気のあるクソ店長の言葉に静かな怒りと殺意が沸いてくる。
業務用のカレー鍋(中身アリ)を頭にぶちかけても、一体どこの誰が責められようか? 

学生時代なら少年法というものがあったのでやりたい放題にできるわけだが、
社会人ならここは大人しく我慢しておく必要がある。
  さてと、視点を美耶子の方に戻すと彼女の中心に盛大な拍手と声援が店内を包み込んだ。

どうやら、あの100倍カレーを見事に完食したようである。

「さすがはデビル……あの人外カレーを16回も完食するとは……。

この街に新たな歴史が刻まれた。デビル・ミヤコに栄光あれーーー!!」

「デビル・デビル・デビル・デビル」
「デビル・デビル・デビル・デビル」
「デビル・デビル・デビル・デビル」
  オレンジ店内はデビルコールに一色されていた。
それは店内にいる客だけではなく、外にいる見物客たちも大声で美耶子を讃えるように
大声でデビルの名前を叫んでいる。
「ど、どうも。応援ありがとう!! 今度も私はきっと頑張って完食してみせます!!」

「デビル・デビル・デビル・デビル」
「デビル・デビル・デビル・デビル」
「デビル・デビル・デビル・デビル」
  一番の最高の盛り上がりに客達は喉の奥底から吐き出される声は鼓膜が破れそうに
情熱が篭もっていた。
「ど、ど、どうして。カレー一つでこんなに盛り上がれるのよ……」
  耳を抑えながら、カレーをひたすら寂しく食べていた朝倉京子の呟きは……。
まあ、誰にも聞こえないだろうな。

 美耶子が100倍カレーを完食してからのオレンジ店は正に大繁盛であった。
招き猫的存在の美耶子が閉店するまで雪菜と一緒に居てくれたおかげで
彼女を拝もうとする客で後が絶えなかった。
おかげで隣のブルーが開店した以来でウチの売り上げはいつもの数倍以上の利益を
得ることとなったのだ。
  カレー専門店オレンジの救世主的存在になった美耶子を労わるために
閉店した店で祝賀会が開かれることとなった。
と言っても、残り物のカレーを皆で食べるだけなのだか。

「今日はもうカレーなんて見たくないんだけど」
「刹那ちゃん。100倍カレー改のことは記憶の彼方に忘れてさ、
これはカズちゃんが愛情を込めて作ったカレーライスだと思えば。きっと、大丈夫だよ」
「う、うん。そうだよね。カズ君が作ったカレーならきっと食べれるはず」
「刹那さん、よっぽどあのカレーのせいでカレー自体にトラウマが……」
「一樹さんの唾液入りのカレーだと私は食べれないんですけどね」

 と、女性陣は呑気に談笑しながらカレーを食べていた。
俺はホールの方で皿を洗っているわけだが、その量は気が遠くなるような膨大な量であった。
こんな小さな店に最新型の食器洗い機ははなく、節約の為に手洗いで今まで過ごしてきたわけだが。

この量を一人で洗うとなると、家に帰れるのは日付が変わる頃であろうか。
クソ店長は明日の仕込みをするので手伝うことができないし、刹那と更紗に手伝わせるのは
俺のプライドが許さない。
というわけで一人で皿を洗っているわけだが、全てを終わらせるにはまだまだ遠い。

 人が丁寧にカレーの汚れが拭き取っている最中にクソ店長が鼻歌を歌いながら、
こっちへとやって来た。
何か嫌味とか言えば、瞬時に俺の蹴りが奴の尻へ飛ぶであろう。

「よう。カズキ」
「何ですか。クソ店長」
「あの子はこの1年間で随分と元気になったぞよ」
「美耶子のことか?」
「最初に100倍カレーを無理矢理に挑戦させた頃と比べると今は人を引き寄せるような
いい笑顔をしてる」
「うん? そうか。俺は小悪魔が何かを企んでいる笑顔のように見えるんだが」
「カズキの目は節穴か? 引きこもりだったミヤコが最初にここに来た時に比べるとな」
「んなことはわかってる」
  美耶子が外の世界に羽撃くきっかけはたった小さな思いやりであり、
笑顔を取り戻したのは桜荘の皆の生活のおかげである。
一応、美耶子の件に関してはクソ店長もそれなりに貢献しているので、
何かと気にかけているのであろう。

「あんたのカレーのおかげでもあるけどな」
  俺は人生で生まれて初めて、このクソ店長を誉めた。
お互い顔を見合わせながら苦笑すると自分の仕事に戻っていた。

第13話 『枯れる桜』

 更紗と刹那が桜荘に来てから2週間。
桜はもうすぐに枯れ落ちて、今年の最後の見納めになりそうな時に二人の歓迎会の意味を含めて
桜荘の恒例のお花見会が開かれた。

毎年、桜荘にある桜は一般にも開放されて多くの人で賑わう。
どこぞの会社の団体がお花見する時にはちゃんと料金を支払って、
桜荘の自慢の桜を見物しながら飲み食いをする。
その料金で桜荘の維持費に使われている。

桜荘に人があんまり住んでいないのに奈津子さんたちが生活をしていく理由はそこにある。
多くの会社にバショ代を払ってもらえるおかげであんな豪華な生活を送れるのだと俺は確信した。
  とはいえ。そんな私利利欲塗れの桜が散る風景をこの目に刻み込みながら、

安曇さんの料理を食べるのは悪いことではない。
去年の如く奈津子さんと俺だけで虚しく酒を飲んで二日酔いに遭うことに比べたら数倍マシである。
  今年のお花見会はちゃんと公言した通りに美耶子や安曇さん。
そして、その後に桜荘に住むことになった雪菜。

そして、俺の大切な幼馴染である更紗と刹那。
  皆がようやく揃った、桜荘恒例のお花見会が始まろうとしていた。

「桜荘恒例のお花見会を始めるわよ。
今年は一樹君が公言した通りに桜荘の皆一緒に揃ってお花見をすることができた。
これは私たちにとって喜ばしいことであり、去年までは叶うはずがなかった行事でした。
新たに桜荘の仲間に加わった更紗ちゃんに刹那ちゃんも居るし。
今日のお花見会は私の奢りで盛大に盛り上げましょう!! 
  というわけで乾杯!! 真穂ちゃん、私の秘蔵のお酒を持ってきて。
今日はそう簡単に寝かせてあげないわよ」

「そうですね。奈津子さん。今日は地獄の果てまで御供します。うっっ……」
「真穂ちゃんもついに大人の階段を登り始める時がやってきたのよ」
  と、奈津子さんの挨拶終了後に、安曇さんはさっそくパシリとして、
泣きながら秘蔵のお酒を取りに走りだした。
  桜荘の中でも大きな桜の木の前に場所を陣取り、俺達は安曇さんが懸命に作った料理を並べて、
夜の桜を見上げながら散り行く名残を楽しんでいた。

単純に言えば、花より団子の女性陣は奈津子さんにあっさりと捕まり、
アルコ−ル度数が高そうな酒を飲まされている。
俺はちゃんと今年の桜の散る場面を思い出の一つとして刻み込んでいる。
すでに酒臭い女性陣に比べて、ちゃんとお花見をやってますよ俺。

 黙々と美味しいという言葉以外は評価できない安曇さんの料理を食べながら、
無意味にテンションが高い女性陣は五月蝿く騒いでいた。元気でいいことだ。

「で、雪菜は言ってあげたんですよ……私にコクってくるのは2000年早いって。
本当にどうして年頃の男の子は万年発情期なんだろうか?」
「それは男の本性がオオカミさんだからですぅ。
一樹さんが私たちを監禁して凌辱行為に走るのかと毎日毎日怯えている私は、
彼氏がいない方が幸せな人生を送れると……」

 と、美耶子は男という生物というよりは俺がどれだけ危険な男であると熱弁していた。
本来なら背後から首を絞めて失神コースの刑は確実なのだが。
二人の頬は真っ赤に染まるぐらいに出来上がっていた。
酔っ払い相手に実力行使すると俺の服に嘔吐物が付着しそうで恐い。
ここは大人しく雪菜と美耶子の会話を聞かなかったことにして、
更紗と刹那の方に近寄ると逆に近寄りづらい雰囲気を醸し出していた。
二人は顔を俯いて奈津子さんのお酒を少しずつ小さな口で飲みながら、ぼそぼそと呟き始めていた。

「ねぇ、刹那ちゃん」
「なぁに更紗ちゃん」
「私たちってそんなに魅力がないのかな?」
「カズ君。私たちをデートに誘ったり、夜に襲ったりとかしないよね」
「私は桜荘に引っ越してきた時はちょっと期待していたんだよ。
カズちゃんと一緒に暮らせるから、以前みたいな関係に戻れるって思っていたんだけど」
「うんうん」
「カズちゃんは私たちに少しだけ距離を置いているよ」
「やっぱり、カズちゃんが好きだって言った英津子さんの事が忘れなくて……。
でも、英津子さんを徹底的に問い詰めても何にもわからなかったし。カズ君の嘘だったね」
「その英津子さんは問い詰めのせいで人間不振になって、
一人の男の子を監禁して犬プレイさせているらしいよ。羨ましいよ」
  と、二人は痛々しい会話を永遠と続けていた。
やはり、お酒が入ると普段のタガが外れるらしいが、
当事者である俺は傍目から聞いているだけで身震いがする。
更紗と刹那に視線を合わせないように俺は二人の会話に全身全霊を耳に傾けていた。

『カズ君の観察日記とかさ……』

『カズちゃんを監禁して、思う存分に甘えたり、』

『カズ君の首輪と鎖を買ってこなきゃ』

『カズちゃんの口に私の唾液を……』

『カズ君のためならなんでも……』

 と、恐ろしい呟きが含み笑いと共に聞こえてきた。
お酒を飲む人が変わるのかと長い間幼馴染をやっているけど、
この驚愕の事実を今知った。出来るだけ二人に酒を飲まさないようにしよう。

『恋愛同盟を結成して……本格的にアプローチを』

『あの時の言葉は嘘だったのかな?』

 もう、俺は完全に無視を決め込み、これ以上幼馴染の会話を聞き取るのをやめた。
だって、そうだろう。こんな会話を聞けば幼馴染に拒絶反応の一つや二つぐらい起こるもんである。

 さて、盛り上がってきたお花見会は奈津子さん以外の参加者はすでにノックアウトで倒れていた。
俺は女性陣のスカートの裾から見える下着などを隠しながら、
奈津子さんの元で一緒に酒を飲んでいた。
泡を吹いて倒れている安曇さんの髪を優しく撫でている奈津子さんは魔性の女がよく似合っていた。

「こんなに楽しいお花見会は始めてだよ」
「いつもと変わらないと思うぞ。憩いの場で皆で飯を食べるのと殆ど一緒だな」
「確かにそうかもしれないけどね。一樹君と私にとっては違うでしょ。
寂しく二人きりでこうやってお酒を飲み明かした時と比べれば」
「桜荘恒例のお花見会と言っても、去年初めて開かれたし……。
それに安曇さんや美耶子も去年みたいに荒れてもいなかったしな」

「一樹君のフィンガーテクニックのおかげだよ」
「んな猥褻な表現の仕方すんなコラァ」
「でも、一樹君が頑張らなかったら、今日のお花見会はなかったわ。
美耶子も雪菜ちゃんや真穂ちゃんもずっと荒れたままだったでしょ」
「確かにそうだけど……」
  1年前のお花見会は悲惨な物であった。俺は幼馴染の事で酷く憔悴していたし、
嫌々に奈津子さんによって強制的にお花見会に参加させられて、
二人で寂しくお酒を飲み明かした。今思い出すだけでも充分に寒い。

「桜荘に向かって、大声で叫んだでしょ?」
「うっ……当の本人にとっては記憶の彼方に忘却したい事なのに」
「確か、俺が絶対にあいつらを絶望から救ってやるって」
「その場に雪菜が居てくれなかっただけが救いだな。
あいつなら朝を起こす時にマイクで復唱するかもしれんし」
「雪菜ちゃんもその一生モノの名場面を見逃したって言っていたし、
今年の抱負をここで桜荘に向かって叫んでみたら?」

「だが、断る」

 去年みたいな最悪の状況は回避されているし、
今年の抱負は正月の時にでも適当に決めておくものである。
それに赤の他人の問題に突っ込むのはどれだけ大変なのかと言うことをこの1年間で思い知ったし。
これ以上何かの問題が発生するというならば、間違いなく舞台から下りる。てか、降板させてくれ。

「今年は去年以上の問題が起きるかもしれないわよ?」
「起きてたまるもんですか」
「あら。そう」
「ちょっと酔いを覚ましてきます」
「酔いの勢いで一般人の人たちを襲ったらダメよ」
「誰が襲うかっての!!」

 と、酔っ払いの絡みから逃げるためにさっさとその場から離れた。

 酒の勢いが体全身に回っているせいか、歩くだけで足はふらついていた。
さすがは奈津子さんの秘蔵のコレクション。

ラベルのアルコール度数は偽装表示されているんじゃないのかと言うぐらいにきつい。
夜風に当たるために桜荘の敷地で酔いを覚まそうとするが、心地良い睡魔に襲われつつあった。
その辺にある桜の木に背中を預けると俺は安堵の息を吐いた。

 1年間。
  言葉にするとそんなに時間が流れていないかもしれない。
ただ、体感してきた当事者にとっては忙しい日々と多くの苦難を乗り越えてきた。
特に桜荘のいる住人にとって人類が月に到達するぐらいに大きな進歩があった。

過去の悲しみを乗り越えて成長した少女の姿がここにはある。
  だが……。
  更紗と刹那は過去にあった悲しみを乗り越えたのだろうか?

 否。
  俺が逃げている限りは一生解決できる問題ではない。
二人の想いを真っ正面に受けとめることができない臆病な自分が真っ向から立ち向かわない限り。
ずっと。

 でも、解決する方法が一つだけある。
  早く、新しい人を見つければいい。
そうなったら、更紗と刹那は俺から離れて新しい男と幸せにできるだろう。

「それでいいの?」

 刹那。

 少女の呟きが聞こえてた。少なくても、桜荘の住人ではない誰か、女の子の声が。
  その声の位置には純白なワンピースを身に纏った少女が立っていた。

「優柔不断で中途半端な人間のやる事全てがあの子達を傷つけてゆく……」
「アンタは誰さ?」
「私はさくら。人間じゃないわ。桜荘の桜の木の精。わかりやすく例えるなら……悪霊。
そう、言った方がわかりやすいわ」
「酒を飲みすぎて何か幻覚を見ているのかな。木の精って、どこのマンガの世界だよ」
「ううん。現実とか架空の世界はどうでもいいんだよ」
「えっ?」

「絶望。その言葉を覚えていて。あなたが無意識に避けていた問題が一気に噴出する。
これは避けられない事態。来るべき、幼馴染との破局にあなたの心は耐えられるかしら?」
「何を言ってやがる」
「美耶子、真穂、雪菜の絶望を解き放ったことだけは誉めてあげる。
でも、あなた自身の暗闇の中を彷徨っているのに、二人を暗闇の中から手を差し伸べることができる」
「絶望とか暗闇とか意味わからんことをグタグタと」
「まあ、仕方ないでしょう。私が桜の木から解放される条件の一つに桜荘の住人の幸せと希望。
対局の状況に陥っているのは偶然ではないわ。
桜荘には世界に絶望した人間が集まるようになっている」
「類は友を呼ぶって奴か?」
「わかりやすいことわざをありがとう。それと似たような状況が桜荘にも起きているの。
だから、同じく絶望している更紗と刹那がここにやってきたのよ」
「一体、二人はどうして絶望しているんだ?」

「こ、この鈍感野郎っっ!!!!」
  さくらと名乗った少女はどこぞに隠していたわからないが、棍棒を右手に持ち、
手慣れた動作で俺の頭部に叩きつけた。すでに酒の酔いが体に回っていたので
その衝撃と痛みは俺の心地の良い睡魔を与えることになった。

第14話 『回想1』

「あっはっはははっは」
  胸を張り、声を高らかに上げて、俺はひたすら笑い続けていた。
  奈津子さん以外が酔い潰れてしまった桜荘のお花見会から1週間の月日が経っていた。
朝起きると自分だけで外で寝ていていた。おかげで少し体調を崩してしまったが、
今日は楽しみに待っていた日であった。
  今日は営業を勝手ながら休業している、カレー専門店オレンジのテーブルの上で
俺は喜びの余りに高笑いをしている。

「待ちにまった、今日は給料日。というわけでここに集まっている諸君は
俺に何かを美味しい物を奢ってくれ」
  と、後ろを向いて告げる。同じ、テ−ブルに大人しく座っている3人をしっかりと見据えて、
「というわけでおまえらも100円ショップの買い出しに手伝うように」
「どうして、全然無関係な私まで連れて来られるわけ? あんた、何様のつもり?」
  朝倉京子が鋭い視線を向けながら、刺々しい口調で告げていた。
「今回はライバル店とかオレンジとか関係ない。
ある程度、顔と認識がある奴をそれなりに脅してこの場に集合させた。
これから始まる戦いに敗北は許されるわけないからな」

「マジで言っているのかよ」
  朝倉京子はうんざりとした表情を浮かべていたが、
俺は気にすることなく今回の100円ショップの買い出しに熱意を込めて、
ここに集まった皆に説明する。

「あのクソ店長が美耶子の賞金を支払うから俺の給料を払えないと血迷った戯言を言ってきたので、
そこにゴミグスのように転がっていた物体へと転化した。残り代金1万。
正に1ヵ月1万円生活をリアルでするはめになろうとは。安曇さんが大学関連で帰宅が遅くなって、
夕食が作れない日があれば見事に餓え死ぬぞ」

「お兄ちゃん……そこまでして食費を削って私の生活費と学費を払わなくても……」
「う〜ん。一樹さんにはもっと惨めで貧乏な生活を送って欲しいんですが。
1ヵ月1万円は私にとっては多すぎると思いますよ。
一樹さんは1ヵ月5円だけでやっていけます。私が保障するので、きっと大丈夫……ですから」
  と、横から声をあげたのは、心配そうに見つめる雪菜と、
いつものように毒舌の口調で俺を精神的に追い詰める美耶子だった。
彼女たちを呼び出したのは、昨日いきなり決定した創立記念日で学校が休みだからである。
(いわば、サボリ)

「俺の給料を奪った張本人がどの口で言うのかな?」
「ふぇ〜ん。い、痛い。痛いですぉ。これは間違いなくイケメンで勝ち組のエリートだった彼が
実はDV男だったオチですね。
私を精神支配して風俗に売るつもりなんですね」

「どうして、そこまで猛烈に下ネタに走るんだよ」
  美耶子の柔らかい頬を引っ張るが、本人は嫌がるどころか更に痛々しい妄想を口にするのでやめた。
さすがにこれ以上をやってしまうと俺のアイコラ画像を画像掲示板に
うpされてしまう可能性があるからな。
「で、白鳥さんと進藤さんはオフなの?」
  と、騒動しい騒ぎにうんざりしている朝倉京子がここにはいない更紗と刹那の名前を口にした。

「二人は今日オフなんだ。てか、俺が休ませた。まさか、100円ショップで女々しく
生活用品とカップラーメンを買っている姿を見れば、いろんな意味で卒倒するだろうに」
「むしろ、1ヵ月1万円で過ごすこと自体が馬鹿馬鹿しいわよ」
「むっ。男の一人暮しはこんなもんですよ」
  安曇さんが夕食を作るまでは俺の食生活を悲惨すぎた。
家事一般は家を出るまでは親任せだったし、親がいない時に更紗と刹那の手料理ばかり食べていた、
天国のような環境にいたのだから仕方ない。

安曇さんや二人に頼りすぎるのは人として情けないため、出来るだけ自立しようとする
俺の健気な努力ぐらいは認めてくれてもいいだろうに。
  ただ、朝倉京子という女にとっては男の生物は性欲の塊で常に獣だと思っている節がある。
そんな、貧乳に男の独り暮らしの孤独と寂しさと苦労と虚しさを知れと言っても理解不能であろう。

「さてと、そろそろ戦場に駆け出すとするか」
  改めて、俺は笑顔を浮かべた。
「あ、あの、お兄ちゃん。学園の制服姿じゃあ普通にサボってきたの丸わかりなんだけど?」
「気にするな。少年少女が19時以降になるとカラオケ店に入ることができないような条令は、
俺が100円ショップでイヤホンをあるだけ買い漁る前には無力!!」

「一樹さん。最近では学園に行っている時間帯に歩いているだけで補導されてしまう条令が
可決されるそうですよ。
まさにひきこもりにとっては開店前のゲームショップで並ぶのはいいカモになっちゃいました」
「あっはははっは。そんなもの。100円ショップで売られている、
有毒性の物質が摘出されたアルミ鍋に比べたら、東方は赤く燃えてるぐらいに大したことじゃあない」
「うわっ……さすがは一樹さん。今の言葉を美耶子ちゃんメモにちゃんと記録しなくちゃ。 
一樹さん観察帳。ヘタレワーキングケアフリータがまたおかしな事を言ってきた。対処方法。
★ミキサーに入れて、粉々にして生き血はお姉ちゃんに飲ます。っと」

 と、バカな会話を繰り広げながらオレンジの外へと出た。
朝倉京子、美耶子、雪菜を引き連れて街の外を歩いていると
周囲の男性たちから冷たい視線が送られてくる。。
一応、可愛い女の子3人を引き連れているからな。
羨望の眼差しで見られるのは仕方ないことだが、現実はそう甘くない。
俺はいつ爆発してもおかしくない時限爆弾を背負いながら、
街道を恐る恐ると頭の髪の毛が抜け落ちるぐらいに神経を使いながら歩いていた。

「どうして、私まで深山一樹のくだらない買い出しに付き合っているんだろうか」
「そりゃ、お前がオレンジの100倍カレーのネタをパクって、
美耶子に一瞬にして無限コンボを喰らったせいだろうに」
  オレンジで異常に盛り上がった100倍カレーの似たようなネタを企画立案実行に移した
青山次郎と朝倉京子はオレンジより客を呼べると思っていたのだが、
美耶子があっさりと100倍カレーを平らげてしまったおかげで
無駄に高額だった賞金を支払うことに。
それから、毎日嫌がらせのように美耶子は100倍カレーに挑戦して、カ
レー専門店ブルーの経営は見事に傾いた。

 あの女が伊達にデビルという称号で呼ばれているわけじゃない。
ただ、狡猾で腹黒い美耶子は今回の買い出しを条件に賞金をチャラにするという取引を申し込んだ。
しぶしぶと朝倉京子は条件を呑んで、現在に至る。

「だって。だって。だって。まさか、美耶子が挑戦するなんて誰も思わないじゃない。
てっきり、オレンジの疫病神であって、ブルーに来るなんて全然思わなかったもん」
「あのデビルはからかいやすい相手ならどんな嫌がらせにも労力と残業を惜しまない相手だぞ。
常にデビルの攻撃から警戒しないと」

「今度からそうするわ。デビル立ち入り禁止だけじゃあ甘いから、
デビルスレイヤー深山一樹の強制的呼び出しを発動トラップでも作っておかないと」
  なんだそれ。
  朝倉京子が危ないことを思いつかないうちに俺はさっさと戦場の元に走りだそう。
100円ショップはカレー専門店オレンジから500Mぐらいに離れた場所で営業している。
すでに半分以上の道程は喋りながら過ごしてきたので走ればすぐに辿り着くだろう。
「じゃあ、先に戦場に特攻してくるぅぅぅ!!」
  目先の目的に頭が一杯だったのであろう。
俺はマンホールの蓋が開いていることに気付かずに最初の一歩を踏み外して、奈落の底に落ちた。

 それは唐突な出来事だったかもしれない。
何故、この時に限ってマンホールの蓋が開いているんだと
行政の怠慢さに国家賠償請求で訴え殺したい。
ただ、わかっていたのは誰かの悪戯というよりも、あのお花見会で見た夢。
  さくらと名乗った少女の幻影が脳裏をよぎる。
  もし、彼女の仕業だったとしたら、マンホールの蓋ぐらい開けて、俺は落とすぐらいは可能であろう。
相手は桜の精。
人間外の相手なのだから、物理法則を完全無視にしてこの状況を作り込むぐらいは簡単なのであろう。
  やれやれ。下水道の中は異臭がするレベルじゃないんだよ。
どうせ、やるならば、大根で頭部を殴ってもらった方が精神的負担は小さい。
  ともあれ、頭を強く打ったので俺の意識は暗黒へと落下していく。

 と、彼は咄嗟に慌てて上体を起こした。夢から覚めた衝撃で状況を把握しようと
左右に視線を振った。
だが、ここはよく見慣れた自分の家。
そう、引っ越す前の自分の部屋だと気付くと安堵の息を吐いた。
あの夢に見ていた事は何かの悪い夢だったのだ。
「どうしたの。カズちゃん」
  と、更紗がにっこりと笑顔を見せている。

「カズ君が少し昼寝すると言ってから1時間以上も経っているんだよ」
  刹那も起き上がった俺に対して優しい笑顔を浮かべていた。
  そう、この情景には見覚えがあった。ベットから起き上がると
二人は受験勉強のために机に教科書やノートを載せて勉強していた。
大学受験のために3人で俺の部屋で勉強していた……幼馴染の絆が壊れていなかった頃である。

「俺は寝ていたのか? ゆ、夢を見ていたんだ。思い出せないけど、とても嫌な夢」
「カズちゃん、寝言で何かうなされていたらしいけど。どんな夢を見ていたの?」
「それが意味わからないんだ。なんか、俺が原因で更紗と刹那が喧嘩を始めて、
幼馴染の絆が木っ端微塵なぐらいに修復不可能になるまで砕かれてさ……
桜荘というボロアパートに逃げるんだけどさ。
そこに意味のわからない女の子達といつまでも馬鹿騒ぎをしているんだ。

それに俺はそこでカレー店のアルバイトをやっていて、
店長とかいう変態の尻をいつまでも蹴り続けるんだ。本当にそんなことがあるわけないのに」
  と、呼吸をすることを忘れて、俺は夢で見た恐ろしい事を更紗と刹那に告げていた。
  更紗と刹那は少し険しい表情を浮かべて、とあることに動揺していた。

「カズちゃんが女の子達と……」
「いつまでも、馬鹿騒ぎ……」
  二人とも暗い雰囲気を背負って、俺の元にやってきた。
「そんなの絶対に悪い夢だからさっさと忘れた方がいいよ。
カズちゃんと私と刹那ちゃんの幼馴染同士の絆はそう簡単に崩れないん
だから。私が絶対に保証するから。そんな夢の内容はさっさと忘れること。いいっ!!」

 忘れると言っても、あの夢は現実感がありすぎて、俺の頭に印象深く残りすぎた。
しばらくの間はその件で憂欝になるであろう。

「カズ君。女の子達といつまでも馬鹿騒ぎしている夢を見たと言っていましたね。
多分、大学受験の勉強ばかりやっているから欲求不満になっていると思うよ。
今度の休日に更紗ちゃんとカズ君と私でデートに行きましょう。
それなら、嫌な事だって忘れるでしょ」

「刹那ちゃん。それナイスアイデア。3人デートしましょう」
「ああ。いいかもな」
  刹那が優しく手を握り、俺の頭を更紗が優しく撫でる。昔の自分ならそれだけ顔を真っ赤にして
振り払って虚勢の一つでも言っているのであろう。
だが、俺は二人の好意に甘えていた。もう、それが永遠に失われてしまうことを知っているから。
「カズちゃん」
「カズ君」

「ずっと、3人一緒だよ」

「ああ……」
  その言葉を告げる前に目の前の二人は消えていた。
  暗闇の視界に彷徨うと今度は新たな光の元へと意識はそこに辿り着いていた。
「どうしたんだよ。深山。あんまり飲んでないじゃないか」
  次、意識が目覚めるとそこは宴会場であった。声をかけたのはクラスの中でも仲が良かった
旧友の薔薇野がそこに居た。
どうやら、今度は学園時代のクラスの卒業記念として皆で飲み会に行った時のものである。
1年前の事なのに凄く懐かしいと思えた。

「うるせー。そんな気分にならないんだよ。
てか、未成年でこんな宴会場を貸し切って飲んで喰えの騒ぎが学園にバレたら
卒業資格を失うんじゃねぇのか?」
「ここは学園のOBが経営している飲み屋だから大丈夫だろ」
「はい〜。そうですか」
「それに深山。白鳥さんと進藤さんを放置して大丈夫なのか? 
ほら、あそこでさ。女癖が悪い二人に捕まって、無理矢理に酒を飲まされてるぞ。
宴会を終わった後でラブホに連込んで襲われるぞ。
で、ヤってしまった写真で女の子を脅して嫌々に付き合うつもりなんだぜ」
「俺の知ったことじゃない」
「おい。深山。学園でも評判の良かった美少女の二人を狙っている男子なんていくらでもいるんだぞ。
二人が襲われてもいいのかよ?」
「もう、俺達は幼馴染でもなければ赤の他人だ。
更紗と刹那が他の男性と肉体関係を結んだとしても、何の関係もないんだよ。
それに明日は新たな場所に旅立つ予定だから、この後の二次会にも参加しないぜ。
まあ、勝手にやってくれと」

「見損なったぞ。深山。あれだけお前を慕っていた二人をこんな風に見捨てるなんて。
何で、いつから、そんな最低野郎になり下がったんだよ」
「俺が聞きたいよ。んなこと」
  薔薇野は今にも殴りかかりそうな勢いで俺の胸倉を掴むが、
この飲み会の場を、クラスメイト達の最後の交流を壊すことを恐れて、あっさりと離した。
それ以上に彼は憤慨している表情を浮かべて、俺の席から離れて行った。
  一人になった俺は静かに酒を呑んだ。酒の味はわからない。

とりあえず、美味しくないってことだけは確かだ。
学園を卒業したとは言え、大人は何でこんなもんを美味しいそうに飲むんだろうね。
しばらく、肴と酒を交互に飲み食いをして気分を落ち着かせる。
  更紗と刹那は青い顔をしながら、女癖が悪い男達に捕まって、無理矢理に酒を勧められていた。
恐らく、焼酎のようなアルコール度数が高い酒であろう。
そんな酒の品種の名前を知らない彼女たちが、
恐らく、同じクラスメイトでもほとんど話したことがない男と絡まれているだけでも
恐怖に等しいであろう。
ただ、男達の目的も知らずに酒さえ飲めば解放されると信じて、
自嘲的な表情を浮かべて我慢して飲んでいる姿は滑稽であった。
  ふと、更紗と刹那と視線が合った。
  助けを求めるような子犬のような瞳で

(カズちゃん)
(カズ君)

(助けて)
  と、切実に訴えていた。俺は思わずその意図がわかってしまうので慌てて二人から視線を外した。
それが二人にどんな絶望を与えてしまったのか。知りたくもなかった。
  更紗と刹那をあんな形で振ってしまった俺が助ける資格なんてもうない。

 他の男が二人の体を目的で近付いて来ても、それは更紗と刹那とその男達との問題であって、
俺はその問題に触れることさえ許されない。無関係な人間なんだから。
  もし、そいつらが更紗と刹那を幸せに出来るならば、女癖の悪い男達でも別に構わないじゃないか。
他の男たちに無理矢理犯されてもさ……かえって免疫力がつく。

 悲観的に物事を考えて自嘲じみた笑みを浮かべると俺はコップに入ったお酒を飲み込んだ。

(ごめん。更紗。刹那。助けられなくて)

第15話 『追憶2』

 次、目が覚めた場所には見慣れた桜荘の自分の借りた部屋の天井がそこにあった。
どうやら、今度は桜荘へ戻ってきたようである。部屋の周囲を確かめるように調べたが、
一つだけ異変に気付いた。
カレンダーの日付が先程の飲み会から3日後になっていた。
そう、桜荘にやって来てから、2日目の朝であった。
春休みに突入するとすぐにこの桜荘へとやってきたことを思い出した。
  確か1年前の俺はこれから始まるであろう桜荘の生活に希望と期待を全く抱くことなく、
幼馴染から逃げるため傷心した気持ちで沈んでいた。
そう、陰気な男と評されてもおかしくない。
それ程に更紗と刹那と別れてしまったことに精神的なダメージを負っていたんだ。
それがこの桜荘の生活で何もかも変わってしまうとは一体誰が思うのであろうか。
 
  過去を遡っているなら、その現象に大人しく従おう。
これから語られるのは俺が桜荘にやってきたばかり頃の話だ。

 
一人で朝食を食べる日々、つまりそれは男の独り暮らしとは虚しく
心に空白を開けることに等しい行為であった。
一応、桜荘の管理人である奈津子さんの話では憩いの場と名付けられている
住人たちの交流の場として使われている部屋には美味しいご飯と味噌汁が常備しているらしいのだが、
初日に人間が作った物ではない食事を味わうことになろうとは夢にも思わなかった。
あんなクソ不味い飯を食べるぐらいなら、自室に引き篭もって食パンを生かじりで
食べていた方が何倍もマシである。
  ただ、自室に引き篭もっていると遠い故郷で見捨てるような形で別れた幼馴染を
嫌でも思い出すのは欝だったからさ、
まだ、この桜荘の住民の方々に挨拶してないし、この際に済ませておこう。

 ドアを開けると桜の花吹雪が枚落ちてきた。
廊下に散らばる桜の花びらは一体どこの誰が片付けるんだろうと胸中で思いながら、
隣の部屋を借りている住人のドアまで辿り着くと深呼吸をした。
  最初の第一印象というのは大事である。
第一印象が特に悪い場合はその後の人間関係は円満に上手く築くことができずに
憎しみと悲しみを呼ぶ、争いに突入することだってあるのだ。
  最低限の気を遣いながら、俺は隣の住人のドアをノックした。

「あの……すみません。一昨日に桜荘に引っ越してきた者なんですけど」
「は〜い」
  可愛らしい声で返事して、初めて隣の部屋に住んでいる住人が女性だと気付いた。
その内側から開くと女性が姿を現わした。
「い、一体。何のようですか?」
「初めまして。俺は深山一樹っス。今度、桜荘に引っ越してきました。よろしくお願い致しますね」
「ええ。そうですか。ご用件はそれだけですね。
私は誰とも仲良くしませんし、あなたとは永遠に関わる機会はないと思います。
それに馴々しい態度で近付いてくる人間は私の経験上、
絶対に災いを運んでくるに決まっているんですから」
「あの……」
「ではこれで失礼致します。では」
  と、不機嫌な態度で俺を薄汚れたような視線で睨み付けていた少女は
乱暴にドアをおもいきりに閉めた。
そして、ドアをロックする音まで聞こえてくる。

「い、一体。なんだったんだ……彼女は?」
  名前も知らない隣の住人に絶対零度に等しい冷たさに接するような事を、
やった覚えのない俺は茫然として彼女のドアの前で口を開けて、立ち尽くしていた。
  表札を見ると少女の名前はこう書かれていた。

 安曇 真穂。

 深山一樹の痛い人リストに加えておこう。

 暖かい日差しが桜荘の敷地に降り注いでいるおかげで欠伸が出そうになる。
  春という季節は人に心地良い睡魔を与えてくれる。
大きな桜の木を身近で見学しようと桜荘の敷地を探険している途中だが、
  桜以外に見物できる場所はないのでいい加減に見飽きていた。
  先程の痛い少女、安曇真穂の邂逅を思い出すと、
それは深山一樹にとってはそれなりの衝撃を与えていた。

 だって、そうだろう。

  隣人を愛せよという言葉通りに周囲の人間関係を築くことは桜荘という一種の社会にとっては
   大切な物であり、
   適用できない物は冷酷に排除される。少なくても、孤立することは避けられないであろう。
   だが、安曇真穂という陰気な少女と隣人関係を築こうとしても、
   あちらの俺に対しての敵対心と警戒心は常人に理解できるようなものではない。
   一体、どういう人生を送れば、引っ越しの挨拶に来た人間に罵声を浴びることができるのか。
   逆に問い詰めたくもなる。 
   一応、仲良くするつもりはないが……顔を見合わせる度にあんな冷たい視線で見られると
   どんな嬉しいことすらも台無しになりそうだ。

「それに……桜荘の住人は俺とあの安曇真穂だけ。それでアパートなんて経営できるんだろうか?」
  親の反対を押し切って、この土地にある大学に進学することを選んだのに。
   先行きがこんなに不安に思えるなんてこれまでの人生にはなかったんだけどな。
  目蓋に浮かぶのはいつも隣に居てくれた幼馴染の更紗と刹那。二人が傍に居続けてくれたから、
  一人になる孤独の辛さも寂しいことも知らなかった。世間知らずでなんて馬鹿な自分。哀れだよ。
「さっさと部屋に戻るか。気晴らしにもならない」
  案外、こっちに来てから引っ越してすぐにホームシックにかかっているかもな。

 桜荘の敷地を一周して、玄関の場所まで戻ってくると配達員の方が出てくる姿を目撃した。
  軽く一礼してから、俺は桜荘の中に戻る。桜荘の共用の下駄箱に自分の靴を置くと専用のポストに
  自分宛ての宅配物がないかと確認するが、
  誰も俺がここにいるのを知らないのであるはずがなかった。
  そのまま、自分の部屋に戻ろうとした瞬間に俺は自分の目に映った物を疑った。
  布団を自分の体に身に纏った少女がそこに居た。

「あわわわわわっっっ……」
  俺の姿を凝視すると少女は顔を青くして怯えていた。
  ここにいるってことは桜荘に住んでいる住民なんだろうかと俺は素朴な疑問を抱いていると。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ〜〜〜〜〜!!」
  少女は唐突に声にならない叫びをあげると、布団を抱えたまま、脱兎のごとく逃げ去っていく。

「一体、何なんだ……。俺と安曇真穂と管理人さん以外は敷地内にいるはずがないのに……」
  と、呆気に取られた俺は嘆息しながら呟いていた。
「んっ……どうしたんだ」
「あっ。奈津子さん。実はですね」
  先程の布団お化けについての詳細を奈津子さんに話した。
  彼女は軽く苦笑をしながら、温かい目で去っていた布団お化けの道を見ていた。

「その布団お化けはさ……私の妹なんだ。高倉美耶子。
  今年の春から高校生なんだけどさ。まあ、今日は桜荘恒例のお花見会でじっくりと話すとするか。
  一樹君は強制参加だから出ないと桜荘から追い出して警察に通報する。わかった?
  わかったなら、返事をしなさい」
「う、うん。わかった」
「じゃあ、今日の夜7時の大きな桜の木にね」
  そう、告げると奈津子さんは管理人室の方に向かって去っていた。
  嫌と言えないヘタレの俺は奈津子さんが主催するお花見会とやらに参加する羽目になった。

 とりあえず、深山一樹の痛い人リストに高倉姉妹を追加するべし。

 夜。
  不気味な夜風と舞い散る桜の花びらの道を通り過ぎると
大きな桜の木にもたれている奈津子さんの姿がそこに在った。
  時間厳守にやってきたつもりだが、すでに酒の瓶を2つとも開けていて、
  顔を朱に染まっていた彼女が遅いぞとろれつが回らないぐらいに酔っていた。
  あの酔っ払いの相手をするぐらいなら、
部屋で夕食のカップラーメンを食べていた方が幸せのはずなんだが……。
「来るのが遅いぞ。一樹君」
「すみません」
  一応、謝る俺。二度も言わないでくれ。
  これだから酔っ払いの相手は嫌なのだと。
  そういえば、桜荘にやってきた時は二日酔いに苦しみながら、ここに辿り着いたんだったけ。
   奈津子さんの息が酒臭かったおかげで飲み会で飲み過ぎて、
頭痛を抱えながらの旅立ちに誓った事を思い出したじゃないか。

 酒は二十歳になってから。

「で、一体何を話したいんですか?」
「そりゃ、決まっている。妹の美耶子について」
「妹さんは変わった趣味については俺は誰にも言い触らしませんよ。
お墓にまでその事実を持ってゆくつもりです」
「アンタ、いい度胸してるわ……。私の大切な妹を変態扱いしないでくれる」
「そうじゃないんですか? こんな所まで呼び出したのは妹さんの奇行を
口止めするために俺を亡き者に」
「いい加減にまともな話をしたいんだけど?」
  恐ろしく迫力のある奈津子の睨みに俺は悪ふざけをやめて、真面目に彼女の話に耳を傾けた。
  短い人生を終わらせたくないからな。

「高倉美耶子。私の妹は不登校児というか、ひきこもりなんだ。
  中学生2年生の時にクラス全員に無視されたことがきっかけでずっと家に閉じ篭もっている。
  一応、高校の入学試験だけは受けさせたが……入学式を待たずにずっとひきこもりをしているんだ」

「ひきこもり。リアルで存在していたとはな……」
「私も美耶子がひきこもりになるなんて夢にも思わなかったよ。
  両親が死んで、この桜荘を遺産として引き継いで、妹が一人前になるまで
頑張って面倒を見ようと矢先にこれだ。
  美耶子と会話したのは高校受験を無理矢理に受けさせた日以来かな。
  それっきり、美耶子の姿を見ることなんてなかったよ」

「まあ、ひきこもりの人を強制的に高校受験を受けさせたら、姉妹の仲もギクシャクになるわ」
「確かに。姉として妹を救ってあげられないなんて情けないのにも程がある。
  死んでしまった、母さんや父さんにどう申し開きができようか?」

 酒を呑みながら、饒舌に過去の出来事を懐かしく想いながら、
  何も解決していない現状に苛立ちを隠せない奈津子さん。彼女の言葉一つ一つに重みがあった。
  だが、一昨日に桜荘にやってきたばかりの俺に家庭の事情を話すのには
互いの信頼と信用が築き合ってはいない。

「いや、出来ない。出来るはずがない。私は無力な人間。
だから、一樹君に託したいんだ……妹や安曇さんの事を」

「はい?」

 どうして、一昨日にやってきたばかりの人間が赤の他人の問題に関わらないといけないんだ。
  そもそも、俺は幼馴染の事で傷心していて、他人を気遣ってやれる余裕はない。
「母さんが目指していた桜荘は住人たちが一つの大家族として支え合って
苦楽を共にすることを目標にしていたんだ。
  この敷地内に入居しているだけで家族なんだ。だから、一樹君も家族の一員なんだよ」
「あの……契約書には何にも書かれていなかったんですけど?」
「細かいことを気にするな……家族として妹と安曇さんを絶望から救ってやってくれ」
「妹さん、もとい、何で安曇さんまで……!?」
「安曇真穂。近所に住んでいるから、奥様方の井戸端会議ネットワークから
いくらでも情報が入ってくる。
  彼女の複雑な家庭の事情のおかげであんなにも捻くれて誰も寄せ付けない態度を
取るようになったんだ」
「だから、どうして。俺なんですか?
  俺は何の取り柄もない平凡な大学生になる予定の一般人ですよ。
  他人の問題を解決なんてできるはずじゃないですか」
  それは俺自身が保証する。幼馴染から逃げるために遠い故郷から逃げてきたのだ。
  そんな自分にひきこもりや複雑な家庭の事情など言った問題を解決できるわけがない。
  奈津子さんは一体何を考えてやがる?
「一樹君が他の二人と同じように絶望していたから。
  だから、二人を暗闇の奈落から救うことができるかもしれないと思ったからかな?」
「絶望だって……」
  俺が絶望している。
  その言葉に胸の奥底をナイフで切り裂かれるような痛みを感じたのは錯覚じゃあない。
  幼馴染を傷つけて、拒絶して、最後には見捨てた。

(カズちゃん)
(カズ君)

 俺に助けを求める訴えていた姿が脳裏に焼き付いている。
  思い出すだけで自分の首を絞めたくなる衝動に駆られてしまうだろう。
それほどに俺の犯した罪は重い。
  ならば、その罪を償うためにはどうすればいいのだろうか。
更紗と刹那にどれだけ謝ったとしても許されるはずがない。
  だとすると。
「俺に出来ることがあると思いますか?」
「仮に天才がどれだけ苦労しても出来なかったことが赤の他人ならあっさりと出来たりする世の中だ。
  赤の他人の一樹君になら出来るかもしれない。そのかもしれないが大切なんだよ。
  それは可能性。誰にも可能性はある。
  それを最初から諦めているから、人は自分に絶望する。
  常日頃から絶望と向き合う強さを持つことが大切なんだよ」
「奈津子さんはそんな強さを持つことができたんですか?」
「んなわけないだろ。強さを持っていたら、昼からお酒に頼って、
生きている生活はしてないだろうね」
「おいおい。そんな、体たらくなのに自分の妹と安曇さんを助けてくれって言えたな」
「だから、頼んでいるんでしょう。他の桜荘の住人は誰も入居していないし、

 そこは男の一樹君が颯爽に皆の問題をヒーローのように解決するのが筋でしょうに」
「人に頼みをする前に何を隠してやがる。赤の他人に身内の問題を解決させるために、
どんな思惑が隠れているんだよ」
「それは……立派な厨房はあるのに誰もご飯を作ってくれないから……まともな食事を摂りたいの。
ほらっ。安曇さんや美耶子なら美味しいご飯を作ってくれそうだし。
毎日、コンビニのお弁当ばかりだと飽きるでしょ?」
「あの……憩いの場にあるご飯と味噌汁は誰が作ったの?」
「桜の精じゃないの?
  私が学生の頃の家庭科の成績は測定不能だったのよ。作れるはずがないじゃん」

 桜荘の未来に絶望した。
  俺は開いた口が塞がらないということわざの意味を体で思い知らされた。
昔の人は名言ばかり残したもんだ。

奈津子さんという女は妹のひきこもりの問題ですらも他人任せにするような廃人なのだ。
このままだと高倉妹や安曇さんまで人生のどん底に落ちる可能性は高い。
正直、こんな風に誰かを助けなくちゃいけない要求に駆られるのは始めてだ。

「俺が絶対にあいつらを絶望から救ってやる」
「一樹君……ついに決心してくれたね。あなたの双肩には桜荘の朝ご飯と昼食と夕食がかかって
いるのよ。男の子なんだから。人生の崖から誤って落ちるぐらいの勢いで頑張りなさいよ!!」
  完全に酔っ払っている奈津子さんの励まし声援は無視して、
俺は自分の口から出てきた言葉の重さに絶望する。

 だが、停滞していた自分の人生って奴が再び動きだすような予感を感じていた。

 更紗と刹那を傷つけた罪は彼女たちを救うことで償おう。

今の俺が立ち直るために何でいいから理由があればそれで良かったのだから。

第16話 『追憶3』

★御堂雪菜視点
  はぁはぁはぁっっ……。
  私は激しく息を切らしながら、唐突に降り注いだ雨から身体を防ぐために
雨宿りの場所を探すために走っていた。
家出してから20日目なのに雨で洋服が濡れるなんて本当に運がないよ。
  中学2年の終業式終了後の春休みを利用して、私は家出を決行した。
  よくTVやニュースにあるような、何の意味もない家出ではないし、
長期期間の休みだけ家を出るプチ家出のような類でもない。
これはあの家から抜け出すための逃避行だ。
  雪菜の家庭はお父さんやお母さんも雪菜に全然関心を持たない。
例えば、私が学校から帰ってきても、雪菜におかえりって言ってくれない。
私がどれだけ誉められるために学校でいい成績を取っても、喜びこともなく、
ただの紙切れをゴミ同然に捨てる。

親の愛情に飢えていた頃の私は親が私に言葉の一つもかけてくれないのは
私が悪い子だからだと勝手に思い込んでいた。
だから、いい子になろうと思った。
ちゃんと自分で出来ることは自分でやろうと張り切った。
朝早く起きてみたり、自分で家事一般を頑張ってみたりしていたのだが。

 全ては無駄だった。

 あいつらは……何も反応しなかった。私がここにいるってことを認識してないのか、
自分達の趣味や仕事に没頭していた。
そう、自分の娘よりも自分達の娯楽の方が大切なのだと分かった時に心底絶望した。
  それからは雪菜もあいつらがいないように扱った。
でも、学校の参観日や体育祭などいった行事には親の愛情に渇望していることを思い知らされる。
クラスメイト達に深い嫉妬と羨望が入り交じってしまう。

 自暴自棄になって無計画に家出を決行して雪菜があの家から居なくなったら、
お父さんとお母さんは雪菜のことを心配してくれるのかな? 
ちゃんと他の子の親のように雪菜を叱ってくれるよね?
  そんな、甘い期待を抱いて家出をしたけど。
  わかってた。わかっていたんだよ。

 両親は娘が家出した事実にも気が付いていない。なんせ、春休みだ。
誰か友達の所に泊りに行っているということすらも脳裏に浮かんでいないはずだ。
  雪菜にはそんな友達はいないんだよ。お父さん。お母さん。

 親の愛情を知らない私がまともな人間であるはずがない。クラスではいつも一人だけ浮いているし、
流行の話題にも付いていけずにいつも孤独なんだよ。
 
  この行く先のない家出は、雪菜の死に場所を求めているかもしれないね。

 そんな風に自虐的に物事を考えていると頬から涙が流れていた。
零れる雫を拭かずに灰色の空を見上げて、雨の音で私の泣き声が遮ることできるなら、
この際だから思い切り泣いてしまおう。
  どうせ、誰も雪菜の存在を気にかけるような人間はいない。
  もし、そんな人間が居たとするならば、それこそ奇跡だ。
 
  しばらく、嗚咽を洩らして泣いていると知らない男性が雨宿りに私の隣にやってきた。
どうせ、雪菜の存在はこの世界から認識されていない。
幽霊のように誰からも見えない存在なんだよ……。
  と、私は雨宿りにやってきた男性の言葉に耳を疑ってしまった。

「どうしたの? 大丈夫」

 それは雪菜がずっと求めていた温かな手であった。

★深山一樹視点

 大学の帰りに暗雲な足取りで桜荘の帰路をゆっくりと歩いていた。
俺が桜荘の皆を救ってやると大きな事を口してからすでに月日が流れていた。
時が過ぎるのは早すぎるというか、もう少し悠長に進んでくれたらいいと思う。
  始まった大学には馴染まずにほとんどやる気もない日々を続く最中、
俺が意気揚揚と頑張っているのは桜荘の住人の問題児とコミニケーションを取ることだ。
ひきこもりである美耶子にはドアに鍵が閉められて開けてくれず、
安曇さんに関しては冷たい口調で罵られて、今度私に近付いたら警察を呼びますからと言われ、
自分のやることが全てが裏目に出ていた。拒絶されても、頑張っていれば、
心を開いてくれるってのは俺の妄想かもしれないな。奈津子さんにご飯まだぁ? 
と間の抜けた事を言われるとさすがにあの言葉は俺がお酒で酔った勢いで出た
何の根拠もない戯言だと思うようになってきた。

 ただ、今でも悪夢を見てしまうあの時の更紗と刹那の事を思い出す度に罪悪感が胸を苦しめる。
その痛みから解放されたいために桜荘の住人を救いたいと諦めずに
今日も二人に返ってくることがない会話のキャッチボールを仕掛ける。
  思わず、嘆息して。

(俺は一体何をやっているだろうね)

 しばらく、頭をからっぽにして歩いていると雨が振り出してきた。
先程までは晴天だったというのに、今は雲行きが怪しくなっている。
すぐに雨は強く勢いよく降り出した。俺はどこか雨宿りする場所がないかと走っていると
屋根付きの自動販売機とベンチがあったので、俺はそこで雨宿りすることに決めた。
  その場所には中学生らしい女の子が顔を下に向けて座っていた。

この子も急に振り出した雨を避けるためにここに逃げ込んだ来たのであろう。
  俺は少し離れた場所に座って、安堵の息を吐いた。雨の勢いが少しだけ弱まったら、
桜荘までBダッシュで帰ることにしよう。ちょっと濡れた服を洗濯することになるのだが、
洗濯機は共同だからな……。
安曇さんと鉢合わせすることになったら、どれだけ冷たい言葉で罵られることになるのであろうか。
極度のマゾ体質ならともかく、一般人なら3日以上はずっと落ち込むぞ。あれは。

 そんな風に思考しながら、思わず退屈なためか周囲を見渡した。何にもない街の風景。
そして、隣には中学生らしい女の子が……泣いていた。
  しかも、その泣き方は尋常ではない。
悲鳴に似た嗚咽を洩らして、少女の涙から雫が頬を伝って零れ落ちてゆく。
  一体、少女に何があったんだろうか? 
  だが、赤の他人に関わっても決して良い事はない。
逆に見知らぬ人間から声をかけて、泣いている原因は何って聞くのか。
気味悪がって警戒されて拒絶されるだけだ。
  何もしない方がいいのに。
  俺というバカ野郎は少女に声をかけてしまった。

「どうしたの? 大丈夫」
「えっ?」
  少女は驚いた表情を浮かべて、目を丸くして俺を眺めていた。そりゃ、当然だ。
  見知らぬ男性がいきなり話しかけられたら、誰だってびっくりするし、恐がってしまう。
特に最近は少女を狙う犯罪が増加の一方を辿っていると聞く。
女にとっては男が近付くだけで襲われると思い込んでいてもおかしくないわけであって。
俺は哀しんでいる少女に声をかけたこと、ほんの少しだけ後悔した。
「な、何でもないです。気にしないでください」
「あっ。そうですか……」

 俺は消沈して元にいた場所まで戻ると安堵の息を洩らした。
赤の他人を救うことが傷つけた幼馴染の贖罪になればいいなと思っていたが、
現実はそうココアのように甘くないようだ。
  と、思っていたら、さっきの少女が俺の前にやってきて、口を震わせた声で言った。

「あ、あの……もし、よろしければ、雪菜のお話を聞いてくれませんか?」
  少女、雪菜が何かすがるような子犬のような瞳で、
助けを求めるように会ったばかりの俺に自分の過去話を長々と語ってくれた。

「というわけなんです」
  雪菜の長い懺悔のような独白が終わる頃には、降り注いでいた雨が止んだ代わりに
雲の隙間から綺麗な虹がかかっていた。
俺は彼女の零れる涙をハンカチを押える役目に没頭しながら過去話を聞いていた。
  つまり、御堂雪菜は親から徹底的に放任されて、
自分の居場所がなくなった家を逃げ出すためにあてのない家出を決行した。
と要約すればわかりやすいが。とはいえ、困った話だ。
俺が突っ込んでどうにか出来る問題じゃあない。
  そんな、俺の困惑した姿を表に出さずに冷静な表情を繕いながら、雪菜に優しい口調で言った。
「で、家出した雪菜ちゃんは今までどこに?」
「ずっと公園かネット喫茶で過ごしていました。
でも、もうお金がないから今日からは完全に野宿するしかないですけど」
「女の子が野宿するなんて危ないだろ。親御さんの元に帰るという選択肢は?」
「あんな家に戻るぐらいなら、このままお腹を空かせて餓死した方がよっぽどマシです」
「ふ〜む」

 俺は首を傾げて、この難問を抱えていた。
家出少女は安全かつ平穏に家に帰るように説得すればいいと思っていたが、
現状は破綻してしまった家族の関係を修復するのは現実的に不可能。
だったら、俺は雪菜が野宿生活を送らずに最善な方法で彼女の希望通りの生活を送らせる必要がある。
一応、関わってしまったのが不運ってことか?
  でも、事情を聞いておいて見捨てるような行為は、あの時の光景を嫌にでも思い出してしまう。
「いい名案を思いつきました」
  雪菜の表情が電球のように輝いて、これこそが年金問題を解決させそうな名案だと
言わんばかりに胸を張った。
「ようするにお兄ちゃんの家に泊めてもらえばいいんですよ!!」
  と、俺の予想を遥かに超えるとんでもない戯言を雪菜は言いやがった。
冗談を聞き逃すっていうレベルじゃないぞ。
親からの仕送りの援助を打ち切られている貧困生活を送っている大学生には、
今日の夕食をご馳走する程のお金の余裕はないぞ。

「えっ? ダメなんですか」
「ダメというか、世間体的にまずいだろ。
一つの屋根の下に若い男女が一夜を過ごすだけでも大問題になる世の中なのに」
  いや、待てよ……。
  あの強欲でアルコール依存症の女の顔を脳裏に浮かべて。今の現状を打開する良案を思いついた。

「雪菜ちゃん。もし、住む場所がなければ桜荘を紹介してもいい。あそこはボロアパートだけど
管理人がと〜て〜も〜いい加減な人が管理しているから。
きっと、お願い次第では中学生でも住まわせてもらえると思うぞ」
「ほ、ほ、本当ですか!!」
「まあ、家賃と生活費はどうにか払えばの問題なんだけどな」
「大丈夫です。私、ゆとり教育に絶望していますから。
今の中学を辞めて、勤労少女として頑張って働きますから。その桜荘に連れて行ってください」
「わ、わかった……」
  雪菜の勢いに圧されて、曖昧な返事をする。ついでに言うと中学は辞められないと思うんだが。
一応、義務教育だし。
  その事は触れず、雪菜と俺は一緒に横に並びながら桜荘へと向かった。

 その帰路の途中に雪菜は俺の手を握って、初めて会った時とは反対に笑顔を浮かべて、言った。
「私は誰かに初めて優しく接してもらいました。こんな事は私が生きている限りは
絶対にありえないと思っていたんですよ」
「そんな、大袈裟な……」
「大袈裟じゃないですよ。私は今まで親の愛情を知らずに育ってきたんです。
そんな子が真面目に社会と共存できるはずがないよ。
いつも友達も作れずにずっと寂しい想いをしていたの。
あなたにとってはほんの少しの気紛れだったとしても、
私にとっては暗闇の底から僅かに照らされる光だったの」
「雪菜ちゃん」
「だから、今日からあなたの事を私の本当の『兄』のように接していいですか?」
「いや、会ってから3時間も経っていないのに兄呼ばわりされてもな」
「大丈夫だよ。きっと慣れますから」
「慣れの問題じゃねぇーーー!!」

 これが深山一樹と御堂雪菜の出会いであった。

 それから、雪菜を入居させるためには奈津子さんの無理難題を聞き、
大学を辞めて、あのカレー専門店『オレンジ』に働くことになる。

暗黒の視界を通り過ぎて、過去の出来事をこの目で体感してきた。
法則性のない夢と似た現象で過去を辿ってきた。
それは更紗と刹那、幼馴染達の平穏な日々と見捨てた過去。
安曇さん、美耶子さん、雪菜と始めて出会った過去。桜荘の住人はそれぞれに問題を抱えていた。
彼女自身の力では到底解決できるものではなかったが。
ほんの僅かな温かな手が差し出されたおかげで彼女たちはようやく一歩を踏み出すことができた。

 この1年間は一体何だったのか。
  振り返ってみると桜荘の住人は救われたが……本当に救いたかった人たちはここに含まれていない。
(むしろ……)

「大好きな人に見捨てられたことが絶望なのよ。あなたが現実逃避したことによって、
傷つけられた二人は悲しみ最中にいる。そして、大きく育まれた絶望は悲劇を生む。」

 お花見会の時にいた不思議な少女さくらの呟きが暗闇の中でしっかりと力強く聞こえてきた。
その言葉だけが脳裏に刻みこんだのかのように頭から離れることなく、
意識は更に遠く深い場所へ旅立った。

 次に目覚める時は一体何が変わっているのだろうか?

第17話 『争乱の幕開け』

 目が覚めると見慣れない天井がそこにあった。
意識はまだ遠く、頭の回転が鈍いために現状把握もできないまま、今自分がどこに居て、
何をしているのか思い出そうとした時。
100円ショップの商品を買い漁るために美耶子や雪菜や朝倉京子を率いて向かっている最中に
マンホールの蓋が開いていて、下水道に繋がる穴に踏み外して転落した時のことを鮮明に覚えていた。

 ケガをしているのだろうか。俺の体のあちこちに包帯が巻かれ、
頭部には何重も重点的に巻かれていた。転落した時に頭を強く打ったのか、鈍い痛みを感じる。
どうやら、あの転落で俺の体は重傷を負ったのか?
  消毒臭い匂いと妙に全体的に清潔感がある空間は、ここは病院と言うことなのだろうか。

俺はようやく頭の回転が元通りに動きだすとベットの上に置いてあるナースコールのボタンを押した。
  看護士さんの声が聞こえると、深山さんはもう意識が戻っていたんですね。
すぐにそっちへ行きますと告げられ、初めてナースコ−ルの通信を終えた。
ふと疑問に思ったのだが、看護婦から看護士と呼称が変わったなら、
ナースコールも呼称を変える必要があるのではないかと
どうでもいい事を数秒間考えている間に看護士さんと医者がやってきた。

「大丈夫かね。深山君。君は昨日までやっていた工事現場の呆れたミスのおかげで
マンホールを踏むと自然と落下するという珍しい事故の被害者になったんですよ」
「そ、そうなんですか……」
  その工事を請け負っていた会社に損害賠償で訴えることを視野に入れておくことにしよう。
と、俺には誰も見舞いに来てくれる客がいなかったので、
誰か来ているのかと尋ねると……医者はスラリと言った。
「ピーピー鳴くから病院から追い出した。
又は立入禁止になった。
さすがにここは病院であって、ハーレム天国ではないと厳重に抗議しておいた」

「そ、そうですか……」
「今時の若い子は最低限の病院のマナーを知らなくて困る。
特に病院の中で平気で携帯電話をかけている姿を見ると真っ二つに壊したくなる。全く」
「で、俺の容態は……」
「若い子のことを語るとつい話を脱線してしまうな。
深山君。君が転落事故に遭ってから3日も意識がなかったんだ。
転落した時に頭を強く打ってな。大したケガではなかったが、
脳へのダメージが激しかったはよくわからないが、君は死人のように眠り続けていた。
まるで毒リンゴを食べた白雪姫のようだった」

「白雪姫って……微妙な例え方だな」
「7人の女性が見舞いに来る野郎に王子という比喩の表現を使いたくなかっただけだ」
「あんた、本当に医者か?」
  白い髭を生やした威厳のある高齢の医者は修羅場を潜り抜けてきた猛者のような、
獲物を狩る細い瞳で俺を睨み付けた。

「深山君。明日からは検査検査の日々だ。その検査結果の次第で何事もなかったら、
病院を退院することができるだろう。
それまで、裏口試験で受かった私の医師としての神髄を受けることになる。覚悟したまえ」

 と、妙な捨て台詞を残して、看護士を率いて俺の病室を後にした。
「あの人。うちの店長といい勝負かもしれんな」
  珍しく、あの医者に畏怖して、俺はベットに寝転んだ。

 それから、1時間もしない内にお見舞いの客は訪れた。
今日は休日らしいので桜荘の皆も特に予定が入っていないおかげで
病院からの連絡ですぐに駆け付けてきた。
  個人の病室に、更紗、刹那、雪菜、美耶子、安曇さん、奈津子さんらが入ると
とても狭く感じるのは仕方ない。
ただ、俺の事を心配してくれているのか、目に涙まで浮かべていた。
更紗と刹那に至ってはもう泣きだしている。

「うっ……カズちゃんの意識が戻って良かったよ〜」
「ぐすっ……カズ君カズ君」
「皆に心配かけたな」
  と、この場にいる皆に申し訳ないように頭を下げた。マンホールの蓋が開いて、
その底に落ちるという俺の人生でも前代未聞な出来事のせいでいらぬ心配を
桜荘の住民にさせてしまったこと。
本当に悪いと思っていた。今度からはちゃんと下を向いて歩こう。

「で、結局、100円ショップの方はどうなったの?
  今月は確か給料が貰えなかったはずなんだけど?」
「ごめんなさい。お兄ちゃん。お兄ちゃんの転落事故のおかげで動転してすっかりと忘れてたよ。
本当に大変だったんだよ。急いで、救急車を呼んだり、警察に事情を聞かれたりと」
「そりゃ、大変だったな」

「でもね。朝倉京子さんが狼狽えている私たちに喝を入れて、
ちゃんとお兄ちゃんのために病院の入院手続きをやったり、
警察と救急隊員の方とテキパキと対応したり。
桜荘の皆に連絡を入れたのも朝倉京子さんのおかげなんだから」

「あの貧乳がそこまでやってくれたのか。後でお礼を言っていた方がいいかもな」
  ライバル店の従業員だから見捨てて、とどめにマンホールの蓋を落としちゃったって感じで
残忍な奴だと思っていたが、少しだけ見直してやるか。

「それに朝倉京子さんは『別にあいつのために頑張ってわけじゃないんだからね』って、
ツンデレ娘のありきたりな事を言ってましたよ。良かったですね。一樹さん。
これでフラグが立ちましたよ」
  五月蝿い外野の美耶子が面白おかしく俺をからかってくる。
これも桜荘では見慣れた光景であり、夢の中の彼女とはまるで全然違う。
蔓延なる笑顔の明るさは陰気だった過去の面影さえもない。
ただ、余計な一言にちょっとムカつくこともあるが。

「フラグってオイオイ」
「深山さん深山さん。美耶子ちゃんもさっきまでは目を真っ赤にして泣いていたんですよ。
意識が目覚めた途端に天邪鬼さんに戻ちゃってるし」
「あわわっっっ……。真穂さんっっっ!! それは言わないお約束だよっっ!!」
  安曇さんの指摘されると美耶子の頬がトマトのように赤く染まっていた。
恥ずかしがり屋な彼女はどうしても素直になれない部分はあるからこそ、
いつも刺々しい口調で隠そうとしているのはこの1年間の付き合いでわかってきた。

「正にハーレム状態だね。一樹君」
「ここの医者から散々嫌味を言われましたよ。奈津子さん」
「あの医師は私の知り合いでね。一樹君がアルバイトしている東山田店長とは親類だそうだ。
まあ、あの一族とは私の仕事関係上でいろいろと知り合う機会が多いからな」

「どうりで……あのクソ店長と同類な予感がしたわけか」
  てか、一族って……。クソ店長の顔を浮かべると殺意と様々なトラブルの事を思い出すが、
この病院も同じノリで患者を看ているんじゃねぇよな?
  そんな不安を抱いていると病室のドアが勢いよく開いた。

「コラコラ……。君達は病院の立ち入りを禁止したはずだろう。
こんな可愛い女の子達が見舞いにやってくると他の大部屋で入院している男性患者に知られてみろ。
そいつは間違いなく殺されるだろう。
私だって医者という聖職じゃなければ点滴の中に牛乳を入れるのに」

 ダメだ。こいつ。後で殺そう。

第18話 『消失』

 ヤブ医者の顔面を数回殴った後に病院の方で退院手続きをしてから、病院を後にした。
まあ、検査結果は脳に異常はなかったが、検査検査の度にヤブ医者の嫌がらせをしてくるので、
俺の血圧が200を突破するぐらい頭に血が登りそうになった。
報復手段としてクソ店長と同じように手加減なしのパンチとキックによる滅殺コンボを
お見舞いしてやったが、さすがはクソ店長の血縁者なのだろうか。
数秒後にあっさりと復活しやがった。不死身か。このヤブ医者?
  最後にヤブ医者は呪われそうな捨て台詞を言い放った。

「今度来る時は女の子に刺されて運び込まれてくる時かな 」
  問答無用で深山家秘伝の奥義、『零式』をヤブ医者に炸裂した事は言うまでもない。
 
  久々に桜荘に戻ってくるとこの敷地全体が懐かしく思えてしまった。
たった、3日程度ぐらいしか入院してないというのに。
俺は感慨にふけていた。敷地内に入ると桜荘の名物であった桜は枯れていた。
いや、俺が転落事故に遭う頃には完全に桜は枯れていた。

とはいえ。桜が枯れてしまっている風景を寂しさと憂鬱を覚えるのは何故だろうか。
あのさくらという桜の木の精の戯言を真に受けているわけではない。
  絶望。
  耳にタコができるまでこの言葉を聞かされていた。
一体、何のために。その言葉の意味を強く印象付ける過去の夢を見せ続けられたのか。

あれは俺の絶望ではなくて、桜荘の住人の絶望。
そう、全てはこれから起きる『絶望』に立ち向かうためではないのか? 
  過去の夢のおかげで思い出したことはいくつかある。

 それは、更紗と刹那を見捨ててしまった飲み会。
その後、二人とも他の男達と一緒に連れて行かれて襲われてしまったのか? 

あの時の記憶は今の俺にはない。
ヤケ酒を飲んで、二人を見捨てた現実から逃避するために必死だった。
だから、次に意識が目覚めた時は俺は自分の家でなぜか裸でベットで寝ていたし。

次の朝は旅立ちの朝だったし、二日酔いの頭で故郷から逃げるように離れたために
事実把握は全くわからなかった。
いや、更紗と刹那が他の男に抱かれている事自体が俺にとっては知りたくもない現実だった。
  だから、今まで忘れていた。

 桜荘の日常が楽しくて幸せだったから。
  俺は更紗と刹那を傷つけた過去を今まで忘れていたんだ。
  最後の更紗と刹那の助けを訴えている瞳を無視して見捨てたことすらも。

 最悪な過去に目を背けて、今ある幸福に酔い痴れていた。
愚かな自分を自分で首を絞めてやりたい気持ちにもなる。

 桜荘の玄関の扉をくぐって、住人事に指定された下駄箱に下靴を置くと自分の部屋に向かった。
気分は最悪だった。
夢の出来事を真面目に考える事が自分の犯した罪を対面する事を意味するのだから当然であろう。
特に忍び足で静かに自分の帰宅を知らせないように廊下を歩いている最中に
更紗か刹那のどちらかに会えば、
俺はサスペンスホラーに出てくる殺人鬼がとてつもない凶器を持って、
ニヤリと微笑んでいる姿に悲鳴をあげるぐらい動揺する。絶対に……。

「うわっ!! カズちゃん。帰ってきたんだぁぁ!!」
「jdkoふあいおふあおふあおふあおふあおふぁ!!」
「どうしたの? カズちゃん」
「この時間なら更紗はアルバイト中じゃないのか?」
「カズちゃんが退院する日なんだから。
仕事なんて休んで当たり前でしょう。カレー専門店『オレンジ』の店長さんに頼んで、
今日はオフにしてもらったの。刹那ちゃんは早めに切り上げて、戻ってくるから。
幼馴染だけで退院パーティでもしようかなって」

「そ、そうなんだ……」
「もう、カズちゃんがいない間は私たちがちゃんとお掃除していたから。綺麗だよ。
さあ、一緒に行こうね 」
「そうだね」
  強制的に更紗が俺の腕を掴んで、そのまま部屋まで連行された。

 更紗は俺の腕を離さずにぴったりとくっついて離れようとはしない。
その事を数回ぐらい指摘しても、
「カズちゃんは私と腕を組むのは嫌なの?」

 と、目に涙を蓄めながら、上目遣いで見てくるのだ。
さすがに嫌とは言えないので、俺は仕方なく、この状況を受け入れた。

これで刹那が帰ってくるとどんな事態を招いてしまうことやら。
刹那は内気で人見知り激しいが、心を許した相手なら容赦することはない。 
部屋全体は俺が転落した当日以前よりも綺麗になっていた。ちゃんと散らかった物は整頓されて、

適当に脱いだ服も片付けられている。おそるべし、幼馴染。
と、言っても故郷にいた頃は更紗と刹那が日常茶飯事にいらんお節介ばかりやっていた。
おかげで衣食住に困ることはなかったが、代わりに自由はなかったような気がする。

エロ本が見れる歳になって、勇気を振り絞って成年指定の本を書店から買ってきた。
隠し場所としてはお約束のベットの下に隠したが、
二人が掃除した後には綺麗さっぱりと無くなっていた。
代わりに置かれていたのは、更紗と刹那の写真だった。

 そのことがトラウマになって、俺は厳重に隠し場所を作ることになった。
と、そんなどうでもいい過去はともかくだ。
  更紗がべったりと俺に甘えていた。
俺の腕に自分の頬を擦り付けるぐらいに滅多に見られない彼女の頬が真っ赤に染まっていた。

「あの更紗さん?」
「どうしたの? カズちゃん」
「何かちょっとだけ体がひっつきすぎなのでは?」
「えっ? これは自然な幼馴染の関係だよ。恋人でもない男女がこうやって
イチャイチャできる人種って、幼馴染しかいないよ〜」

 てか、幼馴染は人種だったのか? んなわけねぇだろう。

「更紗。病院に行こう。最近、知り合った頭のおかしい医者は俺の事を実験動物のように扱うけど、
腕は確かだ。幼馴染ってのは他の男と付き合ったりすると公式BBSがマッハを超えて
光の速度で荒れるんだ。頭の中身の悪い腫瘍を取り除いて真っ当な幼馴染に生まれ変わりなさい」

「何の事を言っているのかわからないけどさ。幼馴染同士でイチャイチャするのは悪い事なの?」
「悪いことじゃないけどさ……」
「私はカズちゃんが手抜き工事でマンホールの蓋が開いていたのを気付かずに
転落して病院に運び込まれたって。
朝倉さんから連絡があったとき。世界が崩壊するぐらいにショックを受けたんだよ」
「大袈裟な」
「大袈裟じゃないよっっ!!」
  更紗が俺の言葉を遮るような大きな声で言った。

「カズちゃんは全然わかってないよ。意識を失っていたカズちゃんを見ただけで私は恐かったもん。
もう、カズちゃんが二度と目覚めないんじゃないかって。
私はこの世界からカズちゃんがいなくなるだけでもうダメだよ。い、生きていられないよぉ!!」

 それは悲痛な叫びだった。俺自身は自分が意識を失っていた時の皆の心情は全く知らなかった。
たった、3日間でも彼女たちに恐怖と絶望を与えてしまったことに後悔する。
それが更紗にとっては抑え込んでいた想いさえも溢れ出すトリガーを引いてしまった。

「ううん。私は言うよ。だって、人間はいつ死ぬかわからないじゃない。
今回のことで私はようやくわかったよ。人間は生きられる時間が決まっているんだ。
その時間を無駄になんか出来ないから」

「駄目だ……更紗」
  更紗は俺の腕を離して、真っ正面になるように移動する。
胸の位置を合わせて、頬は朱に染まり、瞳は潤んでいた。

「私はずっと恐かったの。この1年間はずっと一人で寂しくて辛くて……
カズちゃんの事ばかり想っていたんだよ。
ようやく、再会した時に嬉しくして我を忘れるぐらいに不法侵入までして。
カズちゃんが働いている場所を閉店になるまでずっとストーカーのように見ていたんだよ。
後を追いかけたけど、カズちゃんって呼べなかった。どうしてか、わかる?」

「もういい。やめるんだ」

「1年前。カズちゃんが私と刹那ちゃんを拒絶していたよね。
あの頃を思い出すだけで声をかけるのが恐くて仕方なかった。
だって、カズちゃんにあの時みたいに避けられたら。
私の心が壊れちゃう。だから、カズちゃんが皆に問い詰められた時に庇ってくれたのは嬉しかったよ。
私たちと一緒に居たいためにカズちゃんが働いている場所を紹介してくれたよね。
本当に昔みたいに3人で仲良く出来ると思っていた」

「やめるんだ!!」

「言うよ」

「わたし、カズちゃんの事が大好きです」

「小さな頃からずっとずっと大好きでした。カズちゃんが傍にいないと私は生きていけない。
だから、私と付き合ってください。」

「更紗ちゃんっっ!!」
  たくさんの買物袋を抱えていた刹那が玄関の前で顔色を悪くして立ち尽くしていた。
そして、その視線は真っすぐに更紗に向けられていた。

 ついに俺が恐れていた事態が起きようとしていた。

第19話 『奈落の底へ』

「ずるいよ。私がアルバイトしている間に抜け駆けをするなんて……。
今日はカズちゃんと私たちだけで退院記念パーティをしようと思って、お買い物までしてきたんです。
その時間を利用して……カズ君に告白するなんて!!」
「刹那ちゃん。私は謝らないよ。だって、私は今まで我慢していたこの気持ちを、
抑えることができないもん」
「こ、この裏切り者。カズ君を苦しめるような事はもうやめようと約束したじゃない。
また、あの時みたいに裏切るの。ねぇ、更紗ちゃん?」
「刹那ちゃんに奪われたくなかったから」
 
「更紗ちゃんっっっ!!」
  そう叫んだ時には更紗の頬を刹那の平手が叩いていた。
鈍い音が狭い暑苦しい部屋に静かに響いた。
更紗の頬は赤く腫れて、叩いた本人である刹那は、潤んでいる瞳から一筋の涙を零している。
刹那にとっては大切な親友と思っている相手に2回も裏切られたのだ。
恐らく、叩かれた本人よりも痛いであろう。
  更紗に関しては叩かれた箇所を手で抑えて、
あんまりショックを受けた様子も見られずに刹那を直視して言った。

「だって、私はカズちゃんのことが好きなんだもん。誰にも渡したくないもん。
特に刹那ちゃんには!!」
「私だってカズ君のことが好きです。ううん、愛しているの。
更紗ちゃんよりも世界中の誰よりも愛しているんです。
でも、その想いを伝えるのは躊躇していたんだよ。
昔、更紗ちゃんと約束したでしょう。告白する時は二人一緒で。なのに……ひどいよぉ」
  嗚咽を洩らして、泣きだす刹那に誰も差し伸べる手は持っていない。
俺は更紗と刹那の迫力に押し負けて、二人の間に口を挟むことができなかった。
三角関係の修羅場の恐さを身を持って実感している。
さっきから、足がたちすくんで動くことすらままならない。
  止めたい。
  更紗と刹那を、止めたかった。
  だが、すでに事態は手遅れだった。
「ねぇ、カズちゃん。この際だから選んでよ。私と刹那ちゃん。
  どっちが好きなの?」

「そうだよ。カズ君。カズ君はどっちが好きなんですか?」
  二人が見捨てられた子犬のような瞳で訴えていた。
  それはあの今でも悪夢として甦る過去と同じ状況であった。
  あの時は更紗と刹那を片方を選ぶと、どちらが悲しんで二度と立ち直れなくなる。
だから、俺は二人を傷つけることを判っていて両方を振ったんだ。
それがあの頃にとって、二人の幼馴染の関係を維持することができると信じて。
  だが、その目論みは外れて、俺達の関係はあっさりと離散してしまった。
  それから、一年。
  きっかけは先日の転落事故のせいだろう。
そこで更紗と刹那は俺がこの世からいなくなる可能性が頭に浮かんだ。
俺が意識を取り戻した時に二人の喜びから尋常ではなかった。
  あの過去の夢はいずれ来る、絶望に備えての予行練習。
  俺は二人にその絶望を突き付けた。

「俺の答えはもう決まっている」

 俺は更紗と刹那を傷つけてしまった。二人がせっかく勇気を振り絞って告白したのに
俺は何の考えもなしに幼馴染の関係を維持したくて、適当な言い訳で振ってしまったこと。 
好きでもない女子の名前を出して、二人の無垢な気持ちを傷つけた。

 そして、桜荘の生活が毎日が楽しくて、更紗と刹那を見捨てた事実すらも忘れてしまったこと。

 俺が償う罪は多い。

 そんな男と付き合うわけにはいかないだろう?

 だから。

「ごめん。俺は更紗と刹那とは付き合えない」
  俺は俺の目的のために。
  二人を見捨てた。
  あの時のように。
 
  告白の返事を待っている間はこの部屋は静寂に包まれ、重い空気によって支配されていた。
この部屋の主なのに一番気まずい思いをしている俺は、
更紗と刹那の表情を注意深く観察していたが、徐々に変化が表れてきた。
  更紗は乾いた笑みを浮かべて、誰にも焦点を合わせずに言った。

「カ、カ、カズちゃん。カズちゃん。カズちゃん。カズちゃん。
ごめんなさい。わ、私みたいなブスな女の子が告白したら迷惑だよね。
本当にごめんなさい。もう、カズちゃんに近付いたりしないから……」
「更紗?」
「私はバカだもん。本当にバカだから……最初からカズちゃんに相応しい女の子じゃなかったの。
だから、焦っていたんだよ」

 更紗の様子がおかしかった。それは自らの暗闇を自白するように呟かれた。

「だって、刹那ちゃんの方が私よりも美人だもん。なんでもできるもん。
料理だって、私が作った御粗末な料理よりも上手だもん。
頭もいいし、私よりいい大学に合格しているし。わたしがないものを全て持っているからっっ!!」

 悲鳴に似た叫びで胸の中で隠していた感情を吐露する。
それは更紗にとっては誰にも明かしてはならない黒く渦巻く感情だったはず。
だが、彼女は俺や刹那がいないかのように言葉を続けた。

「刹那ちゃんにカズちゃんを奪われるのが恐かった。
二人が幸せになって、私だけが孤独になるのが恐くて恐くてたまらなかった。
それだけは絶対に避けたかったの。
子供の頃の約束を破ってまでカズちゃんに選ばれたかった。
でも、私みたいな親友を裏切った女の子なんてカズちゃんが好きになるはずがないよね」

 その約束はいつの頃に結ばれたのかはよくわからない。
更紗はその約束を破ったことを後悔して、その場に座り込んで泣き続けた。
いや、癇癪を起こすように自分の感情を制御することができなくなった。
  俺は慰めることができずに茫然と取り乱した更紗の方を見つめていると、
今度は刹那が胸の辺りを衣服が破るぐらい強い力で手で抑えていた。
激しく乱れた呼吸で苦しそうにもがきながらも、生気のない瞳はただ俺だけを見つめていた。

「か、カズ君にフラれちゃったよ。ど、どうしよう。
わ、私。こ、今度こそ独りぼっちになっちゃうの? 
はぁはぁ……そんなのは絶対に嫌」

「刹那……」
「この一年間。ずっと、カズ君の事を想い続けていたのに。
ど、どうして。わたしたちの事が嫌いなんですか。
やっぱり、私がドジでノロマだから。だから、カズちゃんに嫌われて、
親友の更紗ちゃんに裏切られるのかな?」 

 その問いに答える人間はいない。刹那はただ虚ろな瞳をして、倒れたまま涙を零していた。

「いいんだ……。カズ君も更紗ちゃんも。誰もあの時の約束を守ってくれなかったし。
純粋に信じてた私がバカみたい。
でも、その約束を支えにして、この一年間の孤独を耐えていたことは何の意味もなかったんですね。
あっはっはっは……、これからは……はぁはぁ……。
この胸の痛みと孤独が私を苦しめてくれるよぉ」

 その言葉をいい終えると胸の痛みに耐えられなくなって、刹那は失神してしまった。
俺は慌てて刹那に駆け寄るがその寝顔は死人の顔色に近いことに驚愕する。
それは医者でもない俺には死んでいるように思うが、
それに近い状態だということを直感した俺が、部屋を抜け出して救急車を呼びに行こうとした時。
  もう一人の幼馴染である更紗が髪を無理矢理に引っ張って剥ぎ取ろうとした。
俺は更紗の尋常の行動を止めるために背後の体にしがみついた。

「わ、わ、わたしは……もうdfkafjafおいあふおあいう」

 だが、女の子の腕力とは思えない程にあっさりと俺ははじき飛ばされた。
正気を失った相手を抑え込むには一人では心許ない。
俺は自分の机に置いてあった携帯電話を取り、迅速に119番の番号を押した。

 

 その後はよく覚えてはいなかった。
  救急車が来るまでは暴れる更紗の体をしっかりと抱き締めていた。
そうしないと更紗は自分の体を傷つけてしまう。親友を裏切り、
俺に振られた事実に耐えられなく、自分を責めてしまうからだ。
救急隊員の方と協力して、鎮静剤を打った後は静かに眠りに就かせた。

後は意識を失っている刹那をタンカーで運んでもらうと、その不気味なサイレン音を鳴らして、
二人を乗せた救急車は桜荘を後にした。
  その頃になると桜荘の住民にこの事件を知られることになるが。

俺は事情を説明せずに更紗と刹那が倒れただけと詳しいことは伝えなかった。
その意図をわかっていたのか、
詳しい事情を聞かずに安曇さんと美耶子と雪菜は搬送された病院に向かった。

更紗と刹那の病状は気になるが……病院には行けなかった。

 行けるわけがないっっっ!!
  俺はまたしても過ちを繰り返してしまったのだ。
更紗と刹那の告白を断った結果が今回の災いを呼ぶ結果となった。
二人の想いを、気持ちを、受け取ることを拒否した。
  過去に傷つけてしまった俺にそんな資格がないというのに。
見捨てた。
見捨てたのだ。 
だから……今回も二人の気持ちを踏み躙った。
  とはいえ。
  更紗と刹那の壊れてしまったことに俺は後悔を覚えてしまっていた。
二人の気持ちなんて全く考えずにいたのは俺の方か?
  問う相手は脳内に誰もいない。

 何でこんなことになったのだろうか?
  最初はいつも三人でいる事が当たり前だった。

それが居心地が良い関係であり、永遠に続くと思われていた。
でも、気付いた。それが永遠に続くはずがないと。更紗と刹那の周囲には親しい友人はなく、
完全に女子の間から浮いていた。
更紗は俺達以外に心を開くことなく、刹那はとても人見知りが激しかったからだ。

二人はどこまでも俺に依存していた。子供の頃はそれで良かったかもしれない。
だが、大人になるとどうなる? 三人はきっとそれぞれに違う道を行く。
そこには冷たい風が吹き、誰も助けてはくれないのだ。
  その時には俺が傍にいることは出来ない。頭を撫でて助けてあげることは無理なのだ。

だから、更紗と刹那を俺から引き離そうとした。
深山一樹に依存することなく、自分の道を自分の力で切り開く強さを身に付けさせるために。
  大学の進学の際に更紗と刹那に自分の学力に合った場所に受験させようとした。
俺の頭で入れる大学では、俺よりも頭のいい二人はきっと俺の後を追いかけてしまう。
  それではダメだ。

 二人の両親と一緒になって、更紗と刹那を納得させた。
刹那が早めに推薦入学したことで俺は油断していたと思う。
通う大学の場所は違うが、俺と繋がる確かな絆さえあればいい、
と更紗と刹那のどちらかは考えたのであろう。

 その経緯で更紗は告白をした。
刹那が告白の途中で乱入するのは予想外のアクシデントだったが、
結果的には俺は更紗と刹那を振った。
  失恋することで俺に頼ることなく、その後の人生を強く生きるために。
  だが、ここから。俺の思惑は大きく外れることになる。
  更紗と刹那はこれまで以上に俺を求めてしまっていた。

 俺は逃げたんだ。
  桜荘に。

To be continued.....

 

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