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桜荘へようこそ

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1.プロローグ

 また、俺はあの悪夢を見ている。
  夢。
  否応にも半強制的に流し続けられる映像は俺の心が引き裂ける。
待っているのは、大切にしていた幼馴染の泣き顔。
俺、深山一樹が二人の少女を傷つけた高校生時代の過ちが夢として何度も再現される。
どんなに苦しくても辛くても、人間は逃げることができずに永遠にその過ちに追われることとなる。
  ゆえに、俺は今も悪夢から解放されずに自責の念に押し潰されている。

「カズちゃんカズちゃんカズちゃんっっっ!!」
  可愛らしい声と同時に俺の背中を叩きまくる容赦のない幼馴染が、俺の惰眠を防ごうとするのは
少し殺意を感じるが、俺は学園の昼休みという短い時間で疲れを癒したいために
懲りない抵抗を続けるつもりであったが……。
「もう、更紗ちゃんたったら。カズ君を殴るんだったら業務用エクスカリバーで頭から足まで
真っ二つにしないと起きないよ」
「それもそうだね……。刹那ちゃんの提案どおりにカズちゃんの肉体をバラバラに引き裂いて
ミキサーに粉々にでもしないと起きてくれなさそうだね」

「そんなことやったら間違いなく死ぬわぁぁぁーー!! アホですかあんたらは」

 貴重な眠りから現実世界に帰還すると自分の机の周囲に集まっている幼馴染たちを一蹴する。
放っておけば何をやるのかわからない一般常識概念から少し外れた女の子たちだからな。
注意深く警戒しておかないと外国に売られそうで恐いぞ。

「カズちゃん。ようやく、起きたんですね。良かった」
「良くないわ。昼休みという勤勉に励んでいる生徒の安らぎの時間を奪われて、
俺は一体何を楽しみに生きればいいんだ」
「カズ君。授業中もたっぷりと寝てたのに。まだ、眠たいの?」

「どうせ、私たちのいやらしい裸を想像して寝られなかったんじゃないの。カ・ズ・ち・ゃ・ん・」
「どこでそんな言葉を覚えてきやがった。更紗」
「カズ君が隠してあった秘蔵のお宝本を燃やすときに中身をちらりと確認した時じゃないのかな?」
「な、な、なんですと……!?」

 俺に何の断りもなしに癒される本を躊躇なく捨てやがったのか。
  幼馴染っておーそーろーしーいー。

「そんな事はどうでもいいんだよ。カズちゃんを起こしたのは……。ほらっ」
  更紗が刹那の方を向くと彼女は照れ恥ずかしいそうに頬を手で抑えていた。
「刹那ちゃんが希望の大学を推薦入学で受かったんだよ」
「本当に?」
「裏口入学じゃないよぉ〜カズ君。正真正銘に受かったんだからっっ!!」

 刹那の甲高い声を上げながら、ポカポカと俺の頭を叩いてくる。
嬉しそうにその光景を見つめている刹那。
そして、サンドバックのように殴られている俺と彼女達はずっと一緒に過ごしていた幼馴染だ。

 家は隣同士で小中高と一緒で幼馴染の関係は腐れ縁のように続いていた。
  思春期の男女の気まずい関係を通り越してべったりとくっついて離れようとしない
二人の幼馴染に嘆息しながらも、

 仕方なく頼りのない二人の面倒は辛抱強くみていた。それは互いの両親から任されているし、
  使命を放棄して帰れば俺の親父の鉄拳の制裁を受けることになっているからな。

 拒否権も行使できない俺は二人の幼馴染と青春の日々を過ごすと言えば、
  恋人がいない男性からナイフで背後を刺されるかもしれないが、

 女の子二人と一緒に過ごすのはとーーてーーも神経を使って思わず胃炎になるぐらい大変である。

 この……二人は両親や俺以外の他人には全く心を開こうとしなかったからだ。

 白鳥更紗(しらとり さらさ)

 長い髪を黄色いリボンに纏めて、中学生のような童顔の顔立ちをした女の子。
  俺と接する時は天然で少しおっとりして少しだけ騒動しいのだが……。
  いざ、他人、クラスメイトの前になると借りてきた猫のように大人しくなる。
  人付き合いが苦手な更紗は怖怖しい態度でボソボソと呟いた声でしか話かけることができない。
  俺のことを、『カズちゃん』と呼ぶ。
その呼び方はやめてくれと頼んでも一向にやめる気配を見せない。

 進藤刹那(しんどう せつな)

 栗色の長い髪を真っ二つに分けて紐かゴムで結んでいて、
  顔立ちは同世代の少女の平均的な容姿を上回っているような顔立ち。
  小柄な体で精一杯に動く姿は可愛いと評される女の子。
  心を許した相手にはとことん懐いてしまうが、そうではない赤の他人の前では
適度な距離を置いてそれ以上近付けさせない。
  気が弱くて引っ込み思案の彼女は他人に物事をあまり強く言えないという短所もある。
  俺のことを、『カズ君』と呼ぶ。まだ、カズちゃんよりは少しまともな程度だ。

 その二人が学園生活を暮らすために俺の依存度は皆様のご想像でお考えください。

 ともあれ、刹那が見事に希望していた大学を推薦入学したことは
俺と更紗にとっては祝うべきことであり、
  大学の受験を控えている俺と更紗にとっては羨ましい限りであった。 

 だが、今まで幼馴染としてずっと一緒に居た俺達は離れ離れになって
互いの進路を行くことを意味していた。
  俺に依存していた刹那と更紗は、俺が希望する3流大学なんて余裕で行ける程の
高い学力を持っていたので、
  教師や親や、そして、俺の強い勧めで互いの学力に合った大学を受けさせることにした。

 何も言わないと、更紗と刹那は進学先の第一希望を、俺が受ける大学に決めるかもしれないからな。
  これは二人にとって、俺なしで生きるために乗り越えないと行けない壁であった。

 刹那の推薦合格が決まってから数日後。
  学園の放課後の屋上に俺は呼び出しを喰らっていた。
  本当なら面倒臭いので無断キャンセルをするところだが、
珍しくというか初めて手紙で時間と場所を指定された物を貰った。

 いつもと違った様子が気になったのか、俺の足は自然と屋上への階段を上っていた。
  屋上に着くと茜色に染まった空がどこまでも果てしなく広がっていた。
  フェンス越しに手紙の差出人が肌寒い風にスカートの裾を揺らしながら待っていた。

「もう……。来ないって思ってたよカズちゃん」
「どうしたんだ。いきなり、こんな物を貰ったからびっくりしたぞ」
  猫の肉球の模様が付いている手紙をわざとらしく取り出して、
俺は更紗が必死に書いたであろう手紙を左右に動かした。
「カズちゃんが来てくれるように必死に想いを込めて書いたんだから」
「で、何の用だ。わざわざ手紙まで書いて呼び出したんだから。何かあるんだろうな」
「もう、カズちゃん。少しは女心をというものに気を遣ってください」
  刹那は真っ赤な夕日のように顔色を真っ赤にして、俺を真剣な眼差しで見つめていた。

「刹那ちゃんが推薦で大学に受かちゃったね。今まで仲良しだった幼馴染が離れ離れになるんだよ。
ちょっと寂しいです」
「確かに離れ離れになるかもしれないけど、幼馴染の腐れ縁がなくなるわけじゃないんだぞ。
  会おうと思ったら、家は隣同士なんだからいつでも会えるじゃないか」
「そういう問題じゃないんだよ……カズちゃん」
「どういう問題」
「私はもっとカズちゃんの傍にいたい。
今の幼馴染の関係よりも深い絆で結ばれたいって思ってるの……。
  カズちゃん。
  私はあなたのことが小さな頃からずっと好きです。
  ずっと、カズちゃんの事を想っています。だから、私と付き合ってくださいっっ!!」
「えっ……更紗?」 

 突如、更紗から告白されたと脳が物事を理解するまで軽く間を空けてしまう。
  それほど、俺にとっては更紗の告白は唐突で予想できなかったのだ。
「恋人同士になりたいと思っています。だから、ちゃんと答えを聞かせてください」

 これ以上顔色が朱に染まった更紗が恥ずかしさのあまりに俺から視線を向ける。
  幼馴染としての認識から一人の女の子へと意識すると告白されている側も照れ恥ずかしい。

「俺は……」

 ずっと、幼馴染として隣にいた更紗。いつも傍で笑顔を絶やさずにいた少女を。
  俺は一体どういう風に思っているのか?

 改めて、考えてみる。
  少し一般常識から外れている天然なところもあるが、人付き合いがあまり上手ではない女の子。
  もし、更紗と付き合えば、残りの学園生活も楽しく過ごせることであろう。

 ただ、脳裏をよぎってしまったのは……もう一人の幼馴染の存在。

 刹那。
  もし、あの気が弱くて引っ込み思案な少女は俺と更紗の仲を応援してくれるのか? 
  だが、不思議なことに俺の勝手な想像では泣き顔を浮かべている刹那がいた。

 それに、3人の幼馴染の関係は両者のどちらかと付き合ってしまえば……
  もう今までの関係じゃあ居られなくなってしまう。

 幼少の頃から続く3人の関係。
  それは、深山一樹の人生の大半を過ごしていた大切な思い出を全て壊してしまうという意味である。

 それは、考えるだけで自分の心が引き裂かれそうになった。
  更紗の告白を受けるまで考えたこともなかったが、それはなんて恐ろしい事であろうか。
  付き合ってしまうとこれまでの日常が壊れる。
  だとしたら、俺ができる事は一つだけであった。

「ごめん。更紗とは付き合うことができないんだよ」
  喉から必至に声を振り絞って俺は精一杯の答えを出した。
  だが、更紗は紅潮していた頬からどんどん生気がなくなってゆく。
「う、う、嘘でしょ? カズちゃん。私のことは嫌いなの?
  もしかして、カズちゃんはカズちゃんはっっ!!」
「少し落ち着け。更紗っ!!」
「刹那ちゃんのことが大好きなの!?」
  俺の胸倉を掴んで瞳が潤んでいる更紗が必死に叫んでいた。その事実を否定するかのように。
  俺にとっては幼馴染二人のどちらかを選べるはずもなく、問題を先送りすることしかできない。

「俺は……」
  口篭もる俺に、問い詰めようとしている更紗。
  その間にもう一人の人物が乱入してきた。

「ふ、二人とも何をやっているんですかっっ?」
  屋上の扉の付近に見てはいけない物を見てしまった表情を浮かべていた刹那がそこに居た。
  予想すらしてなかった人物に俺と更紗は思わず驚愕する。
「カズ君と更紗ちゃんの姿が見えなかったから。もしやと思って来てみれば……
  酷いよ更紗ちゃん。約束を破るなんて本当に酷すぎるよぉ!!」
「約束?」
「カズ君に告白するときは一緒に告白しようと約束したでしょう。
  どうして、更紗ちゃんは抜け駆けしてカズ君に告白しているの?」

「刹那ちゃんにだけはカズちゃんを取られたくなかったんだよっっ!!」

 その言葉に刹那は更紗の方に近付いて、彼女の頬を平手で叩いた。
  普段大人しいはずの刹那が更紗の頬を叩くという尋常ではない光景に、
俺は一言も言葉を出すことができなかった。

「私だってカズ君のことが好き。
  誰よりも好きなんだよ……。
  その気持ちがお互いにわかっているはずなのに。
  私だって更紗ちゃんにカズ君を取られるのは嫌だもんっ!!」

 刹那の瞳から涙が頬を伝って零れ落ちて行く。
  二人とも目を真っ赤になって、言葉のならない言葉をお互いにぶつけ合っていた。

「カズちゃんは……私と刹那ちゃん。どっちが好きなのかここで答えてよぉぉ!!」
「そうだよっ!! カズ君は私たちのどちらを選ぶんですか?」
  更紗と刹那が迫り来るように重圧と何かを期待する視線を向けられる。
  この修羅場の迫力に圧されて俺は正常に思考することができない。
  ただ、恋をする乙女に対する怯えと、ここから一秒でも逃れたいという気持ちで一杯であった。

「俺は……」

「二人とも付き合わない。だって、俺達は幼馴染なんだからな。
付き合うとかそういう気持ちになれるはずがないだろ。
  幼少の頃からずっと一緒に居るんだ。一人の女の子として今更見れるはずもないし……。
  俺だって気になる人がいるんだよね。
  そ、そ、そう。C組の英津子さんみたいな物静かで清らかな人がいいんだよ……。
  だから、更紗と刹那のどちらかを選べと言われても困るんだよなぁ」

 本当の想いとは逆の言葉が俺の口から出て行く。これが俺なりに考えた大切な日常を、
  大切な幼馴染の関係が壊さない唯一の方法だった。
思いつくばかりの更紗と刹那を振る言い訳を、饒舌に語って行く。
  考えるだけで精一杯だったのか、二人のどういう顔を浮かべているのか全く気付いてなかった。
  長々と語り終わってから更紗と刹那の異変に気付くがもう遅かった。

「あっはっははは……カズちゃん?」
「ぐすぐすっっん。カズくん」
  顔色を真っ青にして刹那と更紗は乾いた笑みで浮かべていた。
虚ろな瞳は焦点を合わせずに瞳から涙が流れてゆく。

 壊れてしまった二人を見て、俺は悟ったんだ。
  自分が守るはずだった幼馴染の関係は木っ端微塵に壊してしまったこと。
  それがもう取り返しのつかない事であると。

 その日を境にして俺は更紗と刹那を徹底的に避けることにした。
  クラスメイト達は俺にべったりな彼女たちと俺の関係が
唐突に変わってしまった事を聞きたがるが、無視した。
  親や更紗と刹那のおじさん達から詳しいことを教えて欲しいと頼まれたが、
教えることなんてできなかった。

 だって、そうだろう。二人が勇気を振り絞った告白をあんな風に断って更紗と刹那を……
傷つけてしまったのだから。言えるはずがない。
  それでも学園の平凡な日々が続く。
  ただ、更紗と刹那の本質がそう簡単に変われるはずもなくて、
休み時間になる度に俺の席にやってきて、

 カズちゃんカズ君の好きな人と結ばれるようにお手伝いしてあげる、
と俺の事で何かと接点を持とうする。
  だが、俺は更紗と刹那をいないように扱った。
彼女たちが近付いても無視して二人を引き離すように教室の外に出る。

 昼休みや平凡な休日すらも追いかけてくる二人を避けて避けまくった。
  そうしないと俺はあの日の事を思い出して、更紗と刹那の泣き顔を思い出してしまい。
罪悪感に胸を潰されてしまうからだ。

 決めてしまった進路も俺は無理矢理に変更して。
故郷の地から遠く離れた大学に進学することを決めた。
  そこなら学生が借りられるアパートを探して、二人の距離を遠く離すことができると思ったからだ。

 高校の卒業式後、更紗と刹那に別れを告げずに。
  大学の合格発表後に俺は進学する先の場所の移り住む住所へと逃げるように引っ越してしまった。

 それから、更紗と刹那とは会っていない。

 せっかく入った大学も半年を通うこともなく中退した。
それからは無気力にフリーターを続けている。
  大切な物を失ってしまった俺は何かをやろうとする気力がすっかりとなくなってしまった。
  日々生きるための糧を手に入れる程度の労力を行使することができても、
真っ当な仕事に就こうとは思わない。
  現在の俺の存在価値はただ生きているだけである。
  もう、それは仕方ないことだと思う。

 大切な物を無くして始めて更紗と刹那が傍にいない寂しさに気が付いてしまったから。
  確かに思い出は美しい。
  人が生きるためには思い出だけでは弱かった。
  逃げてしまった臆病な自分が憎く思いながらも、
重くのしかかる現実を俺は受け入れるしかなかった。

 そして、運命の歯車は回りだす。

 離れ離れになってしまった幼馴染たちと再び交わるのは
俺が桜荘に移り住んでから1年の月日が経つ頃であった。

 プロローグ 完

第1話 『桜荘の愉快な人々』

 遠い過去と現実の境に行き来している俺は、あの忘れられない告白の出来事を思い出しては
悪夢のように何度もうなされる事はしばしばで。そんな日の朝は嫌でも早く起きてしまうのだ。
  眩しい陽の日光がカーテンの隙間から入ってきて、暖かい陽気に包まれて俺は布団から出て、
思わず背伸びを伸ばして欠伸をかく。
窓を開けて覗き込むとそこには満開な桜が咲いていた。

 桜荘。

 俺が大学に進学するために下宿先へと選んだアパートである。
更紗や刹那の幼馴染の関係の亀裂に走った原因を親や二人の両親たちに真相を喋らずに
突如進路変更した俺は気難しい親父と母親から勘当同然に家を出てしまった。
1年分の学費は払ってくれていても、毎月の生活費や仕送りはしてくれなかったので、

安い家賃のアパートを探していると不動産が紹介してくれた場所が、『桜荘』だった。
  家賃も破格な値段だったので俺は速攻に契約をして入居することに決めた。
古風な屋敷で建物自体はあちこちと老朽化は目立つが人が住めない状態ではない。

部屋は畳み部屋、洗濯は共同の洗濯機を使い、お風呂も共同で住んでいる住人と交代で入浴する。
トイレも共通のトイレがある。
今時、珍しいなんでもかんでも共同というのは住人同士のトラブル問題が勃発しそうで恐いのだが、
皆は仲がいいのかそういう事にならないらしい。

 俺が入居した日には住人共同の憩いの場で歓迎会など開かれたものだ。
今現在のお隣同士の希薄な関係は『桜荘』にはない。
ここには言葉では表現できない温もりや暖かさがここにはある。
  最後に『桜荘』の中庭には、大きな桜の木が立っている。
春の季節を巡る時に咲いている桜の木は、住人や近所の皆様にとって、
見ているだけで心が癒される『桜荘』の名物である。
桜が咲いている時は一般の方にも開放されて、
休日にはお花見などで大いに盛り上がっている声が聞こえてくるものだ。

 今年も桜の木は満開に咲いていた。

 春は出会いと別れの季節。
  俺が『桜荘』からやってきてからちょうど1年である。

「さてといい加減にモノローグに浸っていると奴がとんでもない起こし方で襲ってくるかもしれん。
昨日は必殺エルボーを腹部にお見舞いされたから。今日はハイキックかもしれん」
  急いで俺は布団を押し入れに仕舞おうとした時に、
自分の部屋のドアが勢いよく開かれる音が聞こえた。
反応するのが遅くて、奴は次の動作で問答無用に襲ってきた。

「お・に・い・ち・ゃ・ん・。起きろぉぉぉぉぉっっーー!!」
「ぐはっっ!!」
  回転がかかったキックを予言した通りに俺の腹部を直撃する。
胃から昨日食べた物が吐き出しそうになった。
少女は勝ち誇った顔をして、俺の体の上を馬乗りして見下すように言った。

「もういい加減に起きないと真穂さんが作った朝ご飯が冷めちゃうよ」
「雪菜。毎日毎日言ってるだろう。もっと、普通に起こすことができないのかよ」
「お兄ちゃんがいつまでものんびりに起きないから可愛い雪菜ちゃんが
少しでも眠たい時間を削ってまで起こしにやってきているんでしょうが。
感謝して雪菜に永遠の忠誠を誓ってくれるなら、
真穂さんが作ってくれた玉子焼きをくれてあげてもいいよ」
「誰が誓うか。んなもん」
  俺は馬乗りになった雪菜を乱暴に押し退けた。
年頃の女の子に触れているなら健康上よろしくはない。

 彼女の名前は、御堂雪菜。(みどう ゆきな)
  今月から近所にある学園を通う女子生徒で『桜荘』の住人である。
容貌は子供と見間違えるぐらいに幼いが最近は成長してだんだんと女の子の容姿になってきている。
俺をお兄ちゃんと呼んで慕うわけだが、そこにはまた別のエピソードである。

「うわ〜ん誓ってよぉぉ。お兄ちゃん」
「もう、二人ともなにやっているの。雪菜ちゃんも深山君も今日も仲良しさんだよね」
  開いている扉から入ってきたのは、同じくアパートの住人である安曇 真穂(あずみ
まほ)さんがエプロン姿を身に付けていた。
「仲良しというか、迫り来る狂犬から身を守るために必死に抵抗しているだけなんだけどな」
「それはどうかな……」
  と、安曇さんは曖昧な微笑を浮かべた。

 安曇 真穂(あずみ まほ)
  俺と同じ時期に『桜荘』に引っ越してきた住人である。
年頃は俺と同じ年齢で、ここから大学に通っている。
主に『桜荘』における料理担当という貧乏くじを引いてしまった彼女は入居した日からめげずに
アパートの住人の料理を憩いの場で腕を奮っている。
基本的には面倒見が良くて桜荘の良識人と言ったところだろうか。

「とりあえず、深山さんも雪菜ちゃんも戯れないでちゃんと朝食を食べに来てください。
そうしないと奈津子さんの胃袋が胃液で溶けてしまって、深山さんの部屋に殴り込みが来ますから」

 笑顔を絶やさずに安曇さんは恐ろしい言葉を残して俺の部屋を立ち去って行った。
あの人は男を冷笑で全てを凍り付かせる特殊な業を隠し持っている違いないと俺は密かに思っている。

「というわけで俺は奈津子さんを餓えさせるわけにもいかないから。
雪菜はさっさと俺の部屋から出る。いいな」
「ええっ。どうして、そんな急に追い出すの? 雪菜のことが嫌いなの?」
「着替えるんだよぉぉ!!」

 未だにパジャマから着替えていない俺の部屋に無断で入り込んでくる
女性達の奇抜な行動に慣れ始めていた。
普通の年頃の女の子なら男という狼の生物の生態をよく把握して、男の部屋なんて近付くはずもない。

ここの住人からは男と認識されていないのか、度々とやってきては俺の部屋で時間を潰すのは
日常茶飯事になっているのだ。
  これなんてエロゲー?

 桜荘の朝食は個々の部屋で食べるというごく一般的な摂り方はしない。
憩いの場という桜荘の住人が集う一室に、
皆が集まって一緒に朝食を食べるという変わった習慣がある。
俺も入居していた最初の時期は自分の部屋で寂しくご飯を食べていたのだが、
奈津子さんの脅しに似た強い勧めで俺も憩いの場で食事をすることにした。
不思議な事に皆で食べていると胸が暖かくなった。
それは失ったはずの幼馴染とお弁当を食べたあの頃を思い出してしまいそうになる。
 
  憩いの場に辿り着くとすでに桜荘の住人が全員揃っていた。
テーブルの上には安曇さんが作ってくれた朝食が数々と並んでいる。
皆の顔を眺めてから俺は挨拶した。

「みんな、おはよう」
「おはようございます。一樹さん」
「少し遅いわよ。一樹君」

 丁寧に礼儀正しく挨拶を交わした方と乱暴に言葉を返した二人の女性は、姉妹である。
前者は妹で、後者は姉である。この桜荘の中では支配者階級の立場にいる極悪な姉妹である。

 姉の方は高倉奈津子(たかくら なつこ)と言う。
  年頃は二十歳を少し過ぎており、桜荘の住人の中で圧倒的な長者である。
一応、桜荘の管理人兼オーナーであり、日頃は老朽化したアパートの維持のために
いろいろと頑張って修繕活動をやっている。
特に定職に就いているわけでもなく、アパート運営に人生の全てを捧げている。
あんまり儲からないらしいが。

 そして、妹の名前の方は高倉美耶子(たかくら みやこ)。
  雪菜と同じ学園に通う女子生徒であり、桜荘の管理人代理兼オーナー代理という
役に立ちそうもない役職を持っている。
長い髪を腰まで伸ばしており、清楚を漂わせるような整った顔立ち。
遠く眺めている限りでは美人なんだろうが、
その口を開いた途端に言い寄る男性がいなくなる程の毒舌の持ち主である。
恐らく、桜荘の中では一番腹黒いなのではないかと俺は密かに疑っている。

 桜荘の住人は

 御堂 雪菜

 安曇 真穂

 高倉 美耶子

 高倉 奈津子

 そして、俺。深山 一樹。
  以上。
  計5人が仲良く共同で暮らしている。
この少人数でよくボロアパートを運営しているのかと疑いたくもなるが奈津子さんの運営は
家賃収入以外に汚い手を使って得ている黒い収入のおかげで何とか維持をしてそうな気がしてしまう。
その辺の事は誰も突っ込まないという暗黙の了解があるため誰も触れようとする人間はいないだろう。

「真穂ちゃん真穂ちゃん。私の秘蔵のお宝から一本持ってきてくれない?」 

「奈津子さん。朝から飲むんですか? 
さすがに朝から飲酒するのは人としてどうかと思うんですけど。
昨晩もビールを2缶と焼酎まで飲んで。本当に大丈夫なの」

「高倉奈津子。その程度の酒の量で倒れる程のヤワな体じゃないのよ。
せいぜい、私を酔わせるならその3倍のアルコールを持ってこいって」

「そして、お姉ちゃんのお腹は水太りの階段を一歩一歩と突き進んで行くのでした。
行き着いた先は、必死に虚偽宣伝しているダイエット通販に手を出して……
挙げ句の果てにはリバウンドで更に体重が増加するという顛末は簡単に予想ができます」

 安曇さんからアルコールを受け取った矢先に、食卓で大人しくご飯を食べている美耶子が
ぼそりと呟いた。
カチンと来た奈津子さんは妹相手にムキになって言い返した。

「美耶子……あなたも言うようになったじゃない」
「アルコール依存症の姉を持つと月の生活費の半分が娯楽とDVDBOXに消えゆく運命なんですよ。
こうして、安曇先輩の手料理で栄養を補給することで、何とかこの果てしない暗闇と混沌を
頑張って生き抜いているんです。いつも。ありがとうございますね」

「いえ、どういたしましてって……奈津子さんも美耶子ちゃんも自分の欲望のために
無駄遣いが多すぎますよ。
一体何をしたら、学生で買えないような銘柄の酒やら、毎日のように配送会社から届けられる
アニメのDVDを買えるんですか? 
お二人の喧嘩よりもそっちの方が不思議です」

 安曇さんの指摘通りに俺も高倉姉妹の放蕩ぶりの資金源の謎を解明したい。
ただ、その答えは二人の笑顔を微笑んで同時に言った。
「それは禁則事項です(だから)」

 余程、腹黒いことをやっているのであろうか?

「雪菜もお兄ちゃん名義で闇金からたくさんお金を借りて、欲しいものたくさん買ってきていいかな」
「人の名前で借りてくるんじゃねぇっっ!!
  利息がありえない程に高いからやめておけ。人生狂うぞ」

 腹黒い方々の会話は子供の教育には宜しくないはずのだが。
この憩いの場に集まった以上は黒い話になるのは必然になってしまっている。
あの唯一の品行方正の安曇さんですらもこの空気に馴染んでしまっているから
慣れというのは恐ろしいもんだ。

「深山さんも大人しく朝食を食べてくださいねぇ」
  会話に入ろうとした俺は見事に安曇さんから注意されてしまった。
俺は嘆息を吐きながらせっせと作ってくれた朝食を口に運んだ。

 朝食を食べ終わると互いの食器は流し台に水で軽く汚れを落としてから食器洗い器の中に入れる。
安曇さんが全員分の食器が中に入っているのを確認してから洗剤を入れて、電源を入れた。
後は数十分後を経つと綺麗に洗い終わってくれているので文明の発達に改めて謝辞を述べたくなる。
  畳の上で皆はTVを見ながらぼんやりと過ごしていた。
春の季節になると自然と眠たくなるものだが、ここにいる5人は今日の予定について話し合っていた。

「雪菜ちゃんは明後日から入学式。
美耶子さんは明日から始業式が始まります。
奈津子さんはいつものようにお昼からお酒お酒で。
私は大学が今日は休み。
で、深山君はお仕事はどうなっているんですか? こんなにゆっくりしていいの」

「今日はオフだよ。そうじゃないと朝はこうやって落ち着いて過ごしてるはずないだろ。
仕事があれば遅刻になってクビは確実だね」
「一樹さんもいい加減に何の目的もないフリーターから足を洗ってカタギの世界を生きましょうよ。
世の中は搾取搾取搾取の弱肉強食時代なんです。
何も考えずに30代を迎えると個人的カタストロフィーで完全に発狂しますよ」

 と、毒舌の持ち主の美耶子の胸を突き刺す一言を言われる。
さすがに会話を振った安曇さんも苦渋な笑顔を浮かべて居心地が悪そうにしていた。

「いや、働いたら負けっていう名言があるし」
「働く以前に一樹さんは無意味に色目を使っているからヤンデレ症候群感染した女の子から
後ろから刺されるのがお似合いなのかもしれませんね。
幼女から熟女まで自分の手元に置いていくような人は修羅場を狙いすぎてますよ」

「そのヤンデレ症候群はクリスマス前に政府が提案した一夫多妻制度の導入で
解決されたんじゃないのか?」

 美耶子の言うヤンデレ症候群というのは昨年発生した女性にのみ発病する
一種の心の病である。感染した女の子達は片思いの相手に
他の女の子が近付いたりするとどんどんと病んで行くという恐ろしい病気である。
その病は昨年の政府が一夫多妻制の導入を決めたことによって表面的に解決したはずであった。

「まあ……深山君は優しい人ですから見た目で騙される人は多いかもしれませんね」

 と、安曇さんが視線を横に逸らしながら言った。
フォローを入れているつもりなのだろうか……俺の年齢=彼女いない歴だと勝手に想像されてそうだ。

 さて、今日の休日も憩いの場で桜荘の住人と一緒に過ごすことになるであろう。

 あの日、失った幼馴染の絆はもう二度と戻ることがないけど、
俺はここの生活に充分に満足している。

 だから、時々不安に思うことがある。

 この生活が粉々に壊れ落ちそうな予感が……。

第2話 『迫り来る影』

 大学を途中で中退した俺は親の仕送りや援助なしに生計を立てている。
安曇さんや美耶子や雪菜がそれぞれに学業に励んでいる間に
俺は仕事で賃金を稼ぐのに頑張っているのだ。
(奈津子さんというのんべぇはともかく)
汗水働くフリーターの時給は限りなく低いが、
桜荘に居られるためならどんな苦痛も恥も受け入れてやろう。
  例え、店長が限りなくうさんくさくてもな。

「ヘイっ!! カズキっっ!!」
「何ですか店長」
「カレーライスは思いやりで作るんじゃありません。
味もわからないお客の野郎どもは、味覚障害に等しい味覚しか持っていません。
賞味期限が切れた商品を知らずに喜んで家に持ち帰って、
食べている姿を想像するだけでワタシは卒倒してしまいます。
ゆえにコスト削減のために化学調味料をたくさんたくさん入れてしまうワタシを
責められるはずがありません」

 なにいってんだ。この人。
  相変わらず意味不明な言葉を呟いているのは正真正銘のカレーを専門に扱っているであろう
店の店長、東山田 国照(ひがしやまだ くにてる)である。
年頃は40才であり、髪に白髪が染まり始めた中年男性だ。

 俺が何をトチ狂ってこんなおっさんが経営しているカレー専門店にアルバイトをやっているのは
奈津子さんから無理矢理紹介されたおかげである。
人手不足で困っていると聞いたので俺は面接を受けるところまでは良かったのだが、
店長の性格が思っていた以上にエキセントリックで、普通に頭のネジが数本外れていた。

最初は断ろうと思っていたが、店長にあらゆる画像掲示板サイトに
俺のアイコラを張り付けてやると脅迫されたおかげで、俺は仕方なくここで働いている。
  とりあえず、働いてみると店長のコミニケーション能力の欠如やおかしな言動のおかげで、
客が来るどころか、同期に入ったはずのホールスタッフさんたちも速攻で逃げた。
  本音を言うと俺も逃げたかった……。

 だが、奈津子さんの紹介だったので、そう簡単にやめる訳にいかなかった。
いや、やめられない事情があったので、俺は自分の直属の上司である店長の尻を
サンダーキックで蹴りながら『カレー専門店 オレンジ』をどうにか
客が来る=俺の給料が払えるまでに店を成長させた。
  まあ、店長の料理の腕は悪くもないし、口さえホッチキスで止めていれば。
それなりにここは普通のカレーの専門店であった。

「今は休憩時間だから店長が何を語ろうが、何をやろうが黙って見過ごしますが。
  お客さんがいる時にその口を開いたら、縛り倒しますよマジで」
「あっはははっっは。やれるもんならやってみろ童貞っ!!
  カズキの時給が0円まで下がってしまうだけですよ」
「その時は労働基準署に脱税と労働基準法違反で告発するから。多分、俺は余裕で勝てる」
「卑怯な……カズキはそんなことをする人間だと思ってみなかったぞよ」
  所詮、世の中は弱肉強食でありますよ店長。
  俺は勝ち誇った顔を浮かべると虚しくなってきたので休憩時間を早めに終わらせた。

 店長が作ったカレーをお客様に運び、オーダーを取り、
厨房に店長が変なことをしないかと見張っていると
  時間はあっという間に過ぎ去って行く。窓ガラスから見える景色はすでに陽が沈みかけていた。
この時間帯になると忙しくなるが、
  俺にとっていつもの訪問客が顔を出す頃であった。
  カララン。
  ドアに付けられた鈴の音が鳴り響いた。

「いらしゃっい……って。雪菜か」
「はいはい。今日も雪菜ちゃんが遊びにやってきましたよお兄ちゃん。
  バイト先に知り合いがいると何かたまらず遊びに行った
  ついでにクレームを思いきり付けたくなるのは私の遺伝子がそうさせるからなのかな」
「ようするに俺の奢りでタカリたいだけだろう」
「店長さ〜〜ん〜〜!! 今日もお兄ちゃんの時給から私のカレーをツケてねっ!!」
「YES マイマスター!!」
「さすがにおかしいだろそれっ!!」
  厨房から店長の了承する声が聞こえてきたので、雪菜の注文したカレーのお代は
俺の少ない時給からパタパタと飛んで行くのであろう。
「というわけで、お兄ちゃん。私は、カレーライス 極甘でお願いしますねっ」
「ぷっ」
「お・に・い・ちゃ・ん。どうして、そこで笑うのかしら? 
  ここのお店は極甘を頼むお客に対して嘲笑するのが接客の基本的な教育方針なの」

「いえいえ。お客様。私が考えた接客の基本は心遣いと思いやりを込めた笑顔を
お客様に届けるこそだと思っています。
  単純にもう女子高校生なのに小学生すら食べないような甘さに挑戦するお客様を
  お子さまだと思っただけですよ」

「ふぅ〜ん。お兄ちゃんは私のことをそう思っていたんだ……。
  どこがお子さまだよ!! 私だってちゃんと女の子をやっているんだよ。
  身長も伸びだし、胸もちゃんと大きくなっているんだから」

 そこから雪菜はカレーが出来上がるまで自分が女の子としていかに成長しているのかと
  お客が店内にいることが気付くまで延々と語っていた。
  気が付くと顔を100倍激辛カレーを食べたように真っ赤に染めていた。
  恥ずかしさのあまりに気まずい雰囲気の中で頼んだカレーを2杯もおかわりした。
  夕食はいつも桜荘の住人が集う憩いの場で今日も安曇さんが腕を奮って夕食を作っているのだが、
雪菜は曰く。

「育ち盛りなんだから。大丈夫だよっ!!」
「そんなに食べたら太ると思うんだけどな」
「そ、そ、それは……あみゅぅぅぅっっっ!!!!」
  奇妙な叫び声を捨て台詞を残して雪菜はカレー専門店を脱兎のように逃げた。
当然、料金払ってないでやんの。

 営業終了時間の20時になると俺はカレー専門店のオレンジの制服をロッカーに閉まって
  タイムカードに帰りの時刻がちゃんと刻み付けられてるを確認して、
後片付けを手伝わずにさっさと桜荘に帰宅する。
  汚れた皿ぐらいあの店長に洗わせても別に罰は当らないだろう。

 すでに陽が沈み、夜になっていた。
  暗い暗い帰り道を僅かな電灯の明かりを頼りにして、仕事で疲れた体を強制的に動かしていた。
  通い慣れた道を歩いていると今日の一日の終わりを実感する。
  何も変わらない極平凡な日々に俺は感謝するはずであった。

 ふと。
  俺の背後から足音が聞こえてきた。
  さっきまで誰もいなかったのに何者かの気配がする。

 少なくても、俺のアテにならない第六感が一般の通行人ではなくて……
自分に危害を加えそうな第三者の存在を訴えている。
  更に周囲の空気が一瞬にして変わった。
  春の季節なのに自分の背中に悪寒が走り、目の前の暗闇が更に深淵に潜り込んだような。
  試しに早歩きで歩いてみよう。

 少しだけ速度を早めると同じように自分ではない足音が早まって行く。
  これだけで確信した……背後にいる者は深山一樹を標的にしていると。
  これは被害妄想から来る架空の出来事ではなくて、今現実に起きている確かな危機である。

 後ろを振り向くと……長い髪を黄色のリボンで纏めた女性がニヤリと微笑んでこっちを見ていた。

 や、やばいっ!?
  確信が恐怖に変わる瞬間であった。
  後ろさえ振り向かずにさっさと逃げてしまえば良かったと俺は後悔していた。

 顔は長い髪に隠されて夜の暗さでぼんやりとして見えなかったが。
  そこから溢れだしている尋常じゃあないまがまがしいオーラーは正常な人間が出せるものではない。
  陰湿で人間という枠組みから外れた、壊れてしまった人間。
 
  一般人の俺に抗う手段はない。
  唯一、できることは逃げるのみ。

「うわわっっっ!!」
  情けない悲鳴の声を出して、俺は全速力で逃げ出した。
  幸いにも、今歩いている場所から桜荘はそんなに離れてはいない。
  いくら、陰気な女がオリンピックに出れそうな記録を持っていても、
男の俺の方が体力的に分がある。
「待って……ズ……ゃん……」
  女性が必死に引き止める声が聞こえても、今度は振り返らずに全力で逃げるだけ。

 次の曲がり角を曲がれば、桜荘の敷地が見えてくる。そこに逃げ込めば……俺の勝ちだ。
  桜荘の玄関を開けると俺はすぐに鍵をかけた。
何とか安堵の息を付くと腰の力が思わず抜けて尻餅をついた。

「はぁはぁはぁ……」
  荒い呼吸をしながら俺はしばらくの間、追われている時を思い出して怯えていた。

 それからのことはよく憶えてはいない。
  安曇さんが作ってくれた夕食を暖めて憩いの場で皆の雑談する声を聞きながら
  俺はさっき起きた出来事を誰にも言わずに。

 いつものように振る舞っていた。桜荘の住人には心配させたくなかったから。
  共同のお風呂が空く時間を待って、入浴して、自分の部屋に戻って……。
  布団に潜り込んだ。先程の恐怖を忘れるためにはさっさと寝た方がいい。

「明日もバイトが忙しいから……とりあえず寝よう」

 嫌な事は寝ることで忘れることが出来る。
  ただ、先程の悪夢の続きが真夜中でも再開されたらどうなるのであろうか。

 布団に入り込んだ瞬間に俺の携帯電話が安息の静寂を破るように鳴り響いた。
  俺は一体誰から電話がかかってきたのかと携帯電話の着信相手を見ると少しだけ驚愕した。

「白鳥 更紗?」
  ば、ば、ば、かなっっ!!
  夕方の屋上で幼馴染として関係が壊れたあの日の光景が自然と思い出された。
  更紗からの電話に俺は動揺していた。

「どうして、更紗が俺の携帯電話の番号を知っているんだ? 

 あの日を境にして携帯の機種だって変えて……メルアドや番号だって変えたんだぞ。
  知っているのは、桜荘の住人か店長しか知らないはずなのに……」
  当然、俺は故郷の話を桜荘の住人や店長に一度だって話したことはない。
  あの苦い思い出を語れるほど俺の犯した過ちを軽くない。
  更紗と彼女たちを結びつける接点はどこにもないので、それらの可能性は排除される。

「まさか……さっきの通り魔は更紗だったのか?」
  あの黄色なリボン……更紗のトレードマークだったリボンの色だった。
  だが、幼馴染が俺の後を追い掛けるような通り魔のような真似をやったのかは想像すらできない。

 そして、今度は携帯のメールを受信したメロディが流れた。
  俺は送り主が白鳥更紗だと確認すると躊躇なしにメールの中身を開けた。

(カズちゃん。今からそっちに行きますね)

「ーーー!?」
  そのメールの一文に俺は再び震えだしてしまった。
「こっちに来るだと……本気か!? 正気の沙汰じゃないぞ」
  すでに玄関やあらゆる場所に鍵が閉められて、中から人が入る場所はない。
  ピッキングや泥棒のスキルを身に付けない限りは桜荘に侵入することができないはずだ。
  それでも、誰かが侵入すれば住人の誰かが気付く。
ここの廊下は夜に歩くと思っている以上に足音が響く。

 ドンドンっっ!! ドンドンっっ!!
  ドンドンっっ!! ドンドンっっ!!
  ドアをノックする音が聞こえてきた……そんなに強い力で叩くな。他の住人が起きるだろうに。

「カズちゃんカズちゃん。ねえ、開けて? 開けてよぉ……」
  更にドアを叩く音が大きくなってゆく。
  正にドアを叩き壊して俺の部屋に侵入しそうな勢いだ。
  当然、鍵は閉めているので更紗はそう簡単に入ってこれないが。
  無闇に暴れて住人の皆さんの迷惑になるよりは俺の部屋に入って懐柔した方が良さそうである。
「わかった……今すぐ開けるから騒がないでくれ」
  と、ドア越しに聞こえるように俺は言った。更紗はぴたりと暴れるのをやめて大人しくなってゆく。
  そして、ドアを開けると……約1年ぶりに幼馴染と再会を果たした。

 幼馴染の更紗は1年前の面影は残っているものの、
容姿は昔と違って大人の女性に更に磨きが走っていたが、
  その顔色に生気は篭もってはいない。
俺の姿を見かけると笑顔を浮かべて、我を忘れて俺の胸に飛び込んできた。
  咄嗟に態勢を取ることを忘れていた俺はそのまま布団の方向にダイブする。
  幸い、クッション代わりに布団のおかげで大した痛みもないのだが、
  更紗が泣きながら俺の体にしがみつている状況はあんまりよろしくない。

「ひ、久しぶりのカズちゃんっっ!! カズちゃんだぁぁぁ!!」
「さ、更紗。頼むから離れてくれ。ついでに大きな声を出すな。
案外、ここの防音対策は0に近いから普通に聞こえるぞ」
「絶対に嫌っっ!! もう、離れないんだから。カズちゃんと私はずっと一緒なんだからね!!」
「更紗。お前はどうやって俺の住所を突き止めた。
  親には口止めをちゃんとやったつもりなんだが……」
「えへへっ……愛の力ですっっ!!」
「んなわけあるかっっっ!!」

 更紗が俺の体をしっかりと抱きしめながら、蔓延なる笑顔を浮かべていた。
  愛の力で俺の住所が突き止めることができたなら、

 この世界で行方不明になっている人たちだって簡単に探すことができるであろう。
  いろいろと偽装工作して家に来たんだから見破れるはずがないというのに。

「深山さん……真夜中に騒がないでくれませんかっっ!!」

 安曇さんの罵声と同時に勢い良く扉が開かれて……その目の前の光景に彼女は思わず絶句していた。
  そりゃそうであろう。
  俺と更紗が抱き合っている姿を見ればな。

 こうして、俺が恐れていた最悪の展開の狼煙が見事に燃え上がったわけだ。
  どうしよう。マジで。

第3話 『捨てられた子犬のようなマーチ』

「これから……第一回『深山一樹君が女の子を連れ込んだ件』についての
問い詰め会を始めようと思います。
資料は各自テーブルの手元に置いてあります。
司会進行役は作品内で出番が少なすぎる高倉奈津子が仕切らせてもらいます」

 奈津子さんが机に腕を乗せて上座の席に座っていた。
それ以外の桜荘の住人もいつものお気楽な雰囲気を醸し出すことはせずに
久々にシリアスモードのスイッチが入っていた。

「まず、深山一樹が女の子を連れ込んだ決定的な目撃した第一発見者の真穂ちゃんから
当時の状況や『女の子』についての詳細を発言してください」

「はい。わかりました」

 安曇さんは立ち上がって桜荘の住人の皆様に頭を下げてから、いつも真面目な安曇さんがより真剣な表情を浮かべて言った。

「あれは私が大学のレポートを提出するために頑張っていた真夜中の時間帯でした。
私は憩いの場に密かに隠していた缶コーヒを飲み干してから、作業に取り掛かろうとした時。
深山さんの部屋の方から大きなドアを叩く音がしたんです。
てっきり、いつものように雪菜ちゃんが深山さんのところに遊びに来たと思ったんです。
でも、しばらくしてから。深山さんと知らない女の子が騒ぎだしたんです。
住民の迷惑になるので、私は勇気を持って注意しようと思って、ドアを開けたら……。

 深山さんと知らない女の子が抱き合っていました!!」

 盛り上がるBGMがスピーカーを通して流れだした。
安曇さんの演技がかった仕草と透き通った声が舞台を支配する。

「ふむ。深山一樹君は知らない女の子を連れ込んでいた……。
更に放っておけば、隠していた男の本能が牙を向けると。正に悪魔が為せる業だな」
「はい。私も深山さんがケダモノだと思っていませんでした!!」
  バックで流れるBGMにいい加減に止めろよと、
俺は真っ暗な視界と凍り付くような寒い世界の先からしみじみと思う。

「で、その後は私の登場に驚いた女の子が逃げるように深山さんの部屋から脱出しました。
ちゃんとした捨て台詞を残して。
『カズちゃんは誰にも渡しませんっっ!!』って言っていました」

「う〜む。カズちゃんと呼ばれている時点でその女と一樹君のいやらしい関係が
容易に想像できそうだね。
餓えた性欲を満たすために、出張風俗嬢を襲う瞬間を真穂ちゃんは目撃してしまったと。
いかに面白い展開になってきたな」
  誰かこの司会兼進行役の口を黙らせろと、
俺は必死に隔てられた暗闇ごとき世界から必死の抵抗を試みる。
だが、無力であった。閉じ込められた場所はうんともすんとも言わなかった。

「さてと、弁護側は深山一樹君に対しての弁護は必要ありますか?」
  いつから、裁判モノになったんだオイ。

「異議あり!! 雪菜のお兄ちゃんは他の女の子を部屋に連れ込むことなんてしないもん。
お兄ちゃんはちょっと子供じゃないけど、大人でもないぐらいの女の子が好みだもんっ!!」
「ふむ……雪菜は何を根拠に言っているんだ」

「男の子ってのはロリコンしか発情しないんだよ」

 雪菜よ。弁護側の椅子に立っているのに被告を貶めるような発言はやめてくれ。

桜荘の住人たちが本気にしたらどうするんだ。ロリコン疑惑のある男性は嫁の貰い手はないんだぞ。

「うむ。雪菜の発言は認めます。
やっぱり、世の中の男ってもんは大人の女性よりも、
女子高校生や小学生の裸ごときで発情しやがるからね」

「うんうん。お兄ちゃんだってきっとそうだよ」
  血管がブチ切れそうになるのを我慢して俺は彼女たちの会議の内容に耳を傾けた。
弁護側が雪菜だとすると……検事役はあいつかっ!!

「じゃあ、検事役の我が忠実な妹君は今回の騒動についてどう思うんですか?」
  今まで流れていたBGMが止まり、場を盛り上げるBGMに変更された。
あいつだけ特別扱いは許さんぞ。カスラックよ、さっさと課金しろ!!
「はいはいはい。名検事の美耶子ちゃんが今回の事件の真相を私なりの思い付きで語りましょう。
いいですか」

「真穂先輩が語った通りに一樹さんは女性らしき女の子を無理矢理連れ込みました。
別に風俗やロリコン趣味という線はまずありません。
天使の皮を被った悪魔は女性に暴力を奮う方の変態さんなんです。
私は以前に一樹さんに暴力を振るわれたことがあります。
  私は真穂先輩が作ってくれた夕食の一品を、一樹さんのお皿から摘んだだけで
頭をゲンコツで殴られました。
私はその事を子孫の子孫まで永遠に語り継ごうと思います。
  そんなおかずの一品も年下の私にやれないヘタレが、
まともな嗜好を持っているわけがないですぅ!!
きっと毎日毎日桜荘の住人からバレないように、私の下着を取り出しては
貪るように匂いを嗅いでるに違いないですぅ!!
お風呂だって盗撮カメラで録画して、毎晩桜荘が静まった夜に一人でニヤリと微笑みながら
見ているはずですぅ!! きっと」

 美耶子よ、だんだんと話が脱線して個人的な恨みと被害妄想に浸っているぞ。
おかずの一品を摘み食いする量がほとんど全部喰われてたら、
頭にゲンコツの一発や二発ぐらい落ちるし。
今現在進行中で俺の拳が真っ赤に燃えているんですけど。

「美耶子の当て外れた意見はどうでもいいが……そろそろ本人の意見が聞きたくなってきたね。
ねえ、一樹君?」
  奈津子さんから解放しろと合図が出たので、俺を閉じ込めれた寒く凍える世界から解放されて。
外部からドアを開けられる。憩いの場の照明の明かりが少しだけ眩しいぜ。

「れ、れ、れ、冷蔵庫の中に閉じ込めるなんてあんまりですよ」
「罰だから仕方ないじゃない。一樹君が女の子を連れ込んだおかげで、
桜荘の女の子の心が不安定になっているんだからね。
特に真穂ちゃんのご飯が美味しく食べられないのは私の胃袋に致命的だわ。
だから、その腹いせに冷蔵庫に閉じ込めるぐらいやらないと皆の気が済まないわ」

「あ、あのこれがノンフィクションだったら普通に死んでいるんだけど」
  冷蔵庫に一時間も閉じ込められたらどの哺乳類も凍死すると思うのだが、
俺の安全への配慮は本当にどうでもいいらしい。

「さてと一樹君  そろそろ、真相を聞かせてくれないかな?」
「お兄ちゃん。お願いだからロリ説が正しいって叫んで」
「一樹さんの暴力DV野郎説の方が私個人的に好みなんですが」
「深山さん……」

 4人の期待するような視線が真っすぐと俺に向けられた。
それは誰もが謎の侵入者の女と俺の関係を期待しているような目だった。
もし、すでに交際関係だと発覚すれば、桜の木の下に埋めてやるという意気込みさえ見られる。

「どの説も間違っている。俺は無実だ!!」

「この桜荘では真穂ちゃんの地位は管理人の私よりも高いのよ〜〜。
その証言も、ここでは確かな物証も出さない一樹君が今更何を言っていても判決は決まっている。
  神聖なる桜荘に余所の女を連れ込んだ罪は重い!! 有罪よぉぉぉぉ!!」

 裁判長が机を思い切り叩いて、更にBGMが五月蝿く鳴り響いた。
  いや、いい加減にその後ろで流れている曲を止めろよ。

 4人からタコ殴りの刑を受けた後も俺は圧力や脅しや暴力に屈することなく、
今日もバイト先へと出掛けて行く。
顔にあちこちと痣や傷はあるので今日はアホ店長をウエイトレスにでも使って、
俺は大人しく帳簿でも付けるか。
  そんな風に今日のバイトの過ごし方をのんびりに考えている時であった。
ゴミの収集場所の前を通り過ぎろうとした時。
俺はある違和感を感じたので、改めてゴミ収集の場所の方を振り向いた。そして、俺は絶句していた。
  人間が入れる大きなダンボールの中に、
俺の知っている知人が捨てられた犬のように入っていたからだ。

『捨てられた幼馴染を誰か拾ってください』という立て札が置かれていた。
小動物のような円らな瞳をして、俺の方を見つめていた。
「何やっているの? 刹那」
  俺は唖然とした表情を浮かべて呟いた。
刹那は嬉しそうに尻尾を振って、
約1年ぶりに声をかけてもらったことが嬉しかったのか笑顔に微笑んだ。

「カズ君カズ君カズ君。私を拾ってください!! お願いしますっっ!!」
「何故にダンボールの中で捨てられた子犬のような真似をしているんだ?」
「カズ君を驚かすために恥ずかしいけれど……頑張ったんだよ!!」
  顔を真っ赤に染めた刹那がダンボールの中でドタパタと騒いでいる。
本来なら、更紗と同様に模範的な優秀な生徒だったはずの彼女が
奇抜な行動をするというのは想像以上の恥ずかしさがあるのだろう。
根は真面目で、知らない人にはここから北極並みに距離を取るが、
心を許した相手にはとことん甘かった刹那の性格は
1年という月日が経っても変わってはいなかった。
むしろ、女の子から女へと成長しているので可愛らしい容姿が更に磨きかかっていた。

「恥ずかしいのはわかった……。では。俺はバイトがあるので何も見なかったことにして行くので」
「あぅぅぅ。ちょっと待ってください」
「カレーが俺を呼んでいる」
  捨てられた子犬が必死に俺の名前を叫ぶわけだが、当然のように無視をしてさっさと歩く。
「か、か、カズ君助けてぇぇぇっっっ!!」
  悲痛に似た刹那の叫びが木霊する。
  俺は下手な演技だと思いながら、
後ろを振り返ってみると髪の毛を逆立てたヤンキーたちに絡まれていた。

「おいおい。拾ってくださいだと……よし俺等が拾ってやるよ。あっちで遊ぼうぜ」
  腕に刺青が入ったヤンキーの一人が乱暴に刹那の右腕を引っ張って連れ出そうとする。
「い、痛い。わ、私に触らないでぇぇぇ!! 触っていいのはカズちゃんだけなんだからっっ!!」
「あん? ふざけたことを言っているなぁ。コラァ。シバクぞ ゴルァァァ!!」

 ヤンキー達の罵声を浴びられて怯えた刹那は顔色を蒼白にした。
ただでさえ人見知りが激しくて臆病な彼女が、ヤンキーに恫喝されるのは
本当に恐くてたまらないことであろう。
  俺だって恐い。本来なら関わろうとせずに絡まれている相手を見捨てていただろう。
だが、今絡まれているのはずっと幼馴染として隣に居てくれた刹那なのである。
もし、彼女をここで見捨ててしまえば俺は本当に彼女たちにとって最低最悪な人間になる。
  それだけは嫌だった。
  だから、震えた足を、前へと一歩だけ前進する。
喉の奥深くから声を振り絞って俺はヤンキーに向かって叫んだ。

「俺の大切な幼馴染に手を出すな!! 業務用炊飯器で殴り殺すぞ!!」
「カズ君……」
「てめえ、なんだ? ぶっ殺すぞゴラァ!!」

 ヤンキーの数人が俺の態度に気に喰わないのか、こちらにやってきた。
丸い円のように俺を囲むと無言で容赦なく暴力が振るわれる。
「うっぐっ……!!」
「彼女の前だから調子に乗ってんじゃねぇぞ!!」

 卑怯。という言葉は生温い。
大多数によって一人の弱者を徹底的に痛め付けるのは、
ヤンキーにとっては自分の力を示すための手段にすぎない。
痛みに顔が滲む姿を見て、彼らは楽しそうに笑っていた。

「カズ君っっっ!! お、お、お願いだからもうやめてぇぇぇ!!
  誰か来てください!! カズ君がカズ君が死んじゃうよぉぉぉぉ!!」

 刹那の悲鳴が街中に響き渡ってゆく。
だが、通りすがりの人間は今行なわれている悲惨な光景を見ぬ振りをして
何事もなかったように通り過ぎ去って行く。

 これが現実。
  下手に手を出してしまえば自分が火傷を負う。触らぬ神に祟りはなしだ。
  俺は振るわれる暴力に耐えるだけ。
 
  これだけ騒ぎになっているのだから、誰かが警察を呼んでいる可能性はある。
駆け付けるまで少しだけの辛抱だ。
  泣き叫んでいる刹那を慰めてやりたかったが……
俺の意識はどんどんと遠くなってゆくのがわかった。

第4話 『自分の胸に聞いてください』

「カレーの極意とは徹底された分量と希少な食材と共にある」

 カレー専門店オレンジの店長である東山田国照による、ウエイトレスの仕事の説明は難解であった。
常識外れた言動や必ず暴走するカレーへの情熱のおかげで、本来のホールスタッフやウエイトレスの
仕事にカレーの極意を熱論しても何の意味はなかった。
そうとは知らずに刹那は頑張って店長の言葉をメモ帳に書き込んでいるが。
  やめておけ。徒労に終わるだけだぞ。

「カズキがチンピラもどきにやられてしまったおかげで、
今日は店始まって以来の危機が訪れてしまった。彼の代わりは容易ではない。
それでも、カズキの代わりに仕事をやるというのかねセツナ?」
「はい。やります。やらせてくださいっっ!!」
「その意気込み……その意志。ワタシの爺さんが病人のフリをして毎日毎日病院に通って
ナースのおしりを触りに行くという偉業を成し遂げた時を思い出してしまう。存分に頑張りたまえ。
効率よく仕事をこなすことができたら、正レギュラーの昇進は考えてやるぞよ!!」

 刹那はあくまでも俺の臨時なんですけど。クソ店長よ……。

 ヤンキーに絡まれていた俺は目論みどおりに誰かが警察を呼んでいてくれたおかげで、
  あっさりと彼らはお縄に付いた。
  交番で警察官から事情聴取で時間を取られ。その後、病院へと強制的にタクシーで運ばれた。
  ある程度の打撲と打ち身が体のあちこちにあるが、検査の結果はどこも異常なし。
  医者からは絶対に安静でいるように診断されて、
  痛み止めの薬を貰っている間に陽は暮れてしまっていた。

 俺はうっかりと店長に連絡するのを忘れていたので、バイト先に着いた途端に店長はブチ切れた。
  仕事をやろうとしても、顔に紫色の仇が腫れている状態では接客の仕事は出来るはずがない。
  そこで付き添ってくれていた刹那が、カズ君がこんな酷い目に遭わせたのは私のせいだからと
  俺の代わりに仕事をすると言い出した。
  別に深刻な状況でもないために刹那の申し出を丁重に断ろうとしたが、

 刹那は頑固に己の主張を貫き通した。
  店長は今日一日だけならとOKのサインを貰って、現在に至る。

「い、い、いらしゃしませっっ!!」

 緊張で強ばった刹那の声が店内に響き渡った。
店長の意味不明な会話の後に、俺がウエイトレスの仕事を適当に彼女に叩き込んだ。
  ほんの30分ぐらいでは何も覚えきれるはずもないが、
必死に頑張ろうとする健気な姿にお客さま一同は暖かな目で見守っている。
  俺は調理場に引っ込んで店長の尻に蹴りを入れていた。
  目を離すと変な事をやってしまう未確認物体の監視は、思っている以上に神経を使う。

「カズキっっ!! ワタシに恨みでもあるのですか!!」
「恨みはない。ただ、調理マニュアルのないようなことをやるな!!
  何でオーダーされたカレーをレトルトでお湯で温めたモノで出すんだよ」
「それはスリルとサスペンスを味わうことで、
ワタシが作るカレーがより深みに上り詰めることができるからですぞぉぉ」

 その発言の後に俺のコークスクリュパンチが二回も店長の顔面に炸裂したのは言うまでもない。
  相変わらず、この店長は自分の奇抜な行動が売り上げにどう響くのかと理解してないらしい。

 俺がアルバイトを始めた当初は飲食店の常識の範疇を超えているカレーが
  お客さまの口の中に運ばれていることはしばしばあった。
  知らぬが仏という言葉がこれ程似合う事態に遭遇するのは生まれて始めてである。

「……わ、ワタシを殴ったのね? パパにも殴られたことがないのにっっ!!」
「口はいいからさっさと体を動かせっっ!!」
  勢い良く腰の回転が利いた回し蹴りが店長の尻に豪勢な音と共に炸裂した。

★一方、刹那は? 

 私は焦っていた。
  従業員の脱衣室のロッカーに少なめの荷物を入れてから、思わず嘆息を吐いた。
  大好きな幼馴染を傷つけた罪は悠久の日々を過ぎ去っても消えることはないが、
  彼の食費を繋いでいるこのアルバイトが出来ない状況を作り出した責任は、私にあります。
  カズ君の怪我が癒されるまでは、私がカレー専門店オレンジのウエイトレスとして
  仕事を最後までやり抜くことにしましょう。
  この店の頭のネジが一本外れた店長から、今日からこのコスチュームが正式な制服だと
  興奮気味に言われてしまいましたが……。

(これ、本当に着るの?)
  渡されたのはメイド服。フワフワしている白いフリルに膝上までしかないスカ−トの丈。
(一体、あの店長さんはどこで手に入れたんでしょうか?)
  だが、店長がこれを正式に制服だと決めた以上は臨時の従業員である私は
  大人しく従うしかないでしょうね。
  ここで拒否の意志を示すとカズ君にいろいろと迷惑をかけるかもしれない。
  私は勇気を振り絞って身に付けている衣服を脱ぎ捨てた。
  メイド服に着替えるのは照れ恥ずかしさと羞恥を感じてしまうが、
  これもカズ君のためなら私は頑張って耐えてみせます。
  それがカズ君との幼馴染の関係を取り戻すためなら。なんでもしますから。

 生まれて初めてメイドの服というものを着て、
  人前に出るのは顔から火が出るぐらいに恥ずかしかった。
  更に私は人見知りが激しくて、接客の仕事が出来るのか不安で一杯であった。
胸の中を締め付けるぐらいの緊張感が私を襲う。
  そんな時に私の背中に優しく力強く叩かれた。
「大丈夫か」
「カ、カズ君っっ!?」
「ウエイトレスの制服はそれしかなかったの? 
  カレー専門店で制服がメイド服って……。
  あのクソ店長が集めている制服コレクションだから、今日は大人しく頑張って仕事に励んでくれ」
「う、うん……」
「それに、そのメイド服は似合っているぞ」
「あ、ありがとう。カズ君」
  カズ君の下手なお世辞の言葉でも私は顔が朱に染まっていく。
  彼の言葉はいつも私に勇気をくれます。
本当に変わらない幼馴染の背中を見送ると私は両手の拳を握って。
「カズ君のヘルプを私が絶対にやり遂げてみせます!!」
  怯えている自分に喝を入れて、私は戦場へ駆け出した。

 店長やカズ君が教えてくれた接客マニュアル通りに私は接客に専念していた。
  夕食の忙しい時間にお客さまがやってくるが……私は曖昧な笑顔を作って対応した。
  オーダーを頂くと厨房に居るカズ君に伝えて、
  店長さんの尻をサンダーキックで叩きつける光景が見えたけど、

 それは見なかったことにしましょうね……。
そして、食べ終わったお客さまがレジに向かうと私は急いでレジで清算致します。
  初めてのレジに戸惑うことはありましたが、適当にボタンを押しておつりを渡せば問題ありません。
  (精算する時は絶対に合わないかもしれませんが)
  カレー専門店のオレンジの仕事に慣れてきて、
  気が抜けてきた頃にドアに飾られている鈴の音が鳴りました。
  入ってきたのは、可愛らしい女子高校生です。
小柄な身体に童顔せいなのか小学生みたいに見える女の子。

「いらしゃいませ……お客さま」
「あれ? お兄ちゃんは? てか、また新しい人を雇ったかな?」
「え〜と……とりあえず、お好きな席に座ってください。メニューが決まり次第に御呼びください」
「じゃあ、いつものお願いします」

「あ、あのいつものってなんですか?」
「雪菜がいつものと頼めば、いつものだよ。メイド服のお姉さん」
「あの私は幼馴染が私のせいで怪我したので、そのヘルプとして今日は働いているんです。
  お客さまのご注文している品がわからないので教えて頂けませんか?」
「あ、あ、あの笑わない?」
  目の前の少女が恥ずかしそうにして、私の耳に小声で囁いてきた。

「カ、カレーライス 極甘でお願いします」
「はい!! わかりました」

「後、お兄ちゃんが厨房にいるなら来るように言ってもらえないでしょうか」
「お兄ちゃんというのは店長さんのことなんですか? お兄ちゃん想いなんですね」
「ち、違うよっっ!! 雪菜が言っているお兄ちゃんはいつもウエイターで働いている
  カレー専門オレンジの黒幕の人の方だよ。あの変態さんと一緒にしないで」
  今、店内にいるのは店長さんとカズ君と私だけ。
  つまり、店長がお兄ちゃんではないとすると……カズ君がお兄ちゃんってことかな?

(カズ君とこの女子高生さんがどういう関係なのか気になるよぉ〜)

 私は適当に相鎚を打って、傷心した足取りで厨房に向かった。
  厨房は春の過ごしやすい季節にもかかわらずにここは真夏の熱風のように燃え盛っていた。
  ってか、実際に燃えていた。
「カズキっっ!! カレー専門店オレンジは燃えているか?」
「これが幻覚じゃあなければ、厨房の火の不始末で燃えているな」
「ええっっ!! これなんで燃えているの? どうして、カズ君と店長さんは落ち着いているの!?」
  カレー鍋の底から溢れだした炎が天井という高みまで上り詰めて、壁は真っ黒に焦げ始めている。
  私は目を丸くしてその光景を茫然と見つめていた。
「まあ、刹那……落ち着け。あれはこのクソ店長が火災保険を騙し取るために
小火を出したように見せかけた偽装工作だ。
  店長の財布の懐が寂しい時に使う手段だが、保険会社には簡単に見抜かれるんだけど。
  あんまり、気にしないで」
「おおおっ!! カズキっ!! てめえが主犯だろゴラァ!! 
  犯行計画を立てたのは貴様だ。仲良く牢獄パラダイスで懲役10年コ−スを受けようぜっ!!」

「思いつきの犯行計画を冗談で言っただけじゃあ罪に問えませんからぁぁ!!」
  カズ君が放った回し蹴りが店長さんの背中に豪勢な音と共に炸裂した。
  気味の悪い悲鳴を上げて、店長さんは厨房の濡れている床に倒れ尽くして、
起き上がる気配はなかった。
「で、厨房に来たってことはオーダーでも入ったのか?」
「ううん。違うの。お客さまがお兄ちゃんを連れてこいと言っているんです」

「ああ……雪菜が学校帰りに寄ってきたのか。うん。顔を出してくる」
「カズ君?」
「んっ?」
「お兄ちゃんって……どういうことですか? 私にわかるように言ってくれないかな?」
  私は出来るだけ怒りを表に出さないように穏やかな微笑を浮かべた。

★一樹視点

 幼馴染に胸倉を掴まれて、黒いオーラーに隠された激しい殺気に圧されてから。
  無言で刹那から頬にビンタをお見舞いされた俺は、
叩かれた右の顔を押えながら、妹分の元へ歩いていた。

「今日もお兄ちゃんの奢りでカレーをご馳走になりにきましたぁ!!」
「来たか。俺の少ない給料から毎日のようにカレーを大盛りで頼んでくる疫病神が」

「そんな……疫病神なんてひどいよぉ〜。
  雪菜はこう見えても、カレー専門店オレンジのマスコットキャラクターだもん。
  ほらっ、招き猫ならぬ招き雪菜だよ。
  雪菜がいるだけでお客がいない時間に比べると格段に増えているはずだよ」

「そりゃ、雪菜が来る時間はウチがもっとも忙しい時間で混んでいるからだよ。
  決して、雪菜のおかげで客は増えてませんから!!」

「お世辞でも雪菜ちゃんのおかげでこの店は救われているんだ。
  そう、砂漠にある救いのオアシスのような存在っ!! 
  思わず、求婚したくなるぜって感じに言ってくれても罰は当たらないはずだよ」
「お前は本当にそんなことを言って欲しいのか?」
「飾った言葉よりも気持ちを込めた言葉の方が何倍も嬉しくなるよ」
「そうか……」

 雪菜のハイテンションに付いて行ける人間は桜荘でも美耶子以外にいないだろうと思いつつ、
  こいつが頼んであろうカレーライス極甘味が来ることを早急に望んだ。
  カレーを食べてたら、少しぐらいは大人しくなるはずだ。
「そういえば、お兄ちゃんの顔が痣だらけなんだけど。どうかしたの?」
「その辺の道端で派手に転んだんだ」
「もう、お兄ちゃんは少し運動神経が鈍いんだから。少しは気を付けてよね。
  もし、お兄ちゃんに何かがあったら一生傍に居て面倒みてあげるんだから」
「そ、それはありがとうな」

 雪菜が心配そうな顔に俺は少しだけ胸が暖かくなった。
  普段は意地っ張りで本音は誰にも明かさないような性格をしているのに、
  誰かが傷ついてたりすると何振り構わずに気遣ってくれる優しい女の子。

 出会った頃と比べれば、他人に壁を作っていた雪菜はここ1年ぐらいで
すっかりと良い方向へ変わっていた。
  まあ、幼馴染を助けるために暴漢と戦ったと正直に話せば、
違う意味で雪菜が怒り狂うことは目に見えているので
  余計なトラブルの種は回避するに限る。

「そうだ。今日の学校の帰りに美耶子さんと会ったんだけど、
一緒にオレンジに行かないって誘ったんだけど……
  『残念ながら今日は外せない用事があるので、今日はご遠慮しますが……
  今度、私が来る時は店を閉める準備と縄と遺書を用意してくださいね 』
って伝言しておいてって頼まれたんだけど……」
「悪夢だ。あの悪魔は人の不幸を喜びと快楽で感じてやがる」
「頑張れ男の子」
  あの悪魔に俺のバイト先を訪問されるってことは誰かの血の雨が降り注ぎ、
誰かの不幸が同時に起こることを意味している。
  雪菜は同情するかのように俺の肩に優しく手を置いて励ましてくれる。
  が、その程度では未来に起きるであろう嵐に巻き込まれて船は沈没する。絶対にな。

「お、お客さま……カレーライス 極甘味をお持ち致しました」
  雪菜が注文したカレーをメイド服に身に纏った幼馴染が乱暴にテーブルの上に置いた。
「では。お客さま。ごゆっくりしてください」
  一礼してから、厨房の方向に歩いて、更に刹那が振り返って。
俺に鋭い視線を突き付けてから刺々しく言った。
「カズ君もごゆっくりしてくださいね……!!」
  カレー専門店オレンジの雰囲気を絶対零度化するような冷笑を浮かべているが、
目は全然笑っていなかったりする。
  刹那はツインテ−ルの髪を揺らしながら、厨房の方に去っていた。

「お兄ちゃん……カズ君ってどういうことかな? とりあえず、話すまでは帰らないからね」
  刹那に負けない程の殺気を俺に圧し当てるように雪菜は表情をひきつらせていた。
  いろんな意味で俺はピンチだな。

第5話 『集結』

 手が痛かった。
  握られている圧力が人間業じゃね−よとツッコミを入れたくなる程に
  俺は痛みを顔に出さずに我慢していた。
バイト終了後に待っていたのは人類が体験したこともない地獄であった。
  閉店の時間になるまで俺を問い詰めていた妹分、御堂雪菜。

 今日、俺の代わりに店を手伝ってくれた幼馴染、進藤刹那。
  二人がきっちりと俺の手を力強く繋いで、離そうともせずに桜荘の帰路を歩いていた。
その雰囲気は夜よりもなお暗き者が存在するような完全なる混沌。
まともに二人の顔が見ることができない。
いや、様子を探ろうとすることさえ恐怖を感じてしまうのだ。
  俺はなんとか重い空気を少しでも軽くするために積極的に二人に話し掛けた。

「そういえば、刹那は今どこに住んでいるんだ? 雪菜を送った後に家まで送ってやるよ」
「家なんかありませんよ。カズ君と再会した時に使っていたあのダンボ−ルが
  私にとっての唯一の家だったの」
「え、えっと?」
「行く場所がないので……カズ君の家に泊まっていいでしょう?」
「いや、出来ればお金を貸してやるからその辺にあるビジネスホテルに泊まってくれたら
  俺的には嬉しいんだけど?」

 その言葉と共に刹那が握っている手に新たな握力が込められる。
小さな悲鳴をあげたいところだが、
俺はひたすら我慢しなければ更に恐ろしい事に遭遇するのだと本能が悟っていた。
  刹那を桜荘に連れて行くのは違う意味で危険すぎる。あの桜荘の中で男は俺一人だけであって、

あの共同生活に触れるだけで刹那はとんでもない勘違いしそうである。
特に桜荘の住民は雪菜を筆頭にいろんな意味で濃いキャラが多すぎるのだ。
故郷に「幼馴染が俺のために拾ってくれワンワンプレイを披露した」ことを知られると……
奈津子さんの酒の肴に使われて、美耶子には永遠とからかわれるネタを提供してしまうことになる。
  それだけは避けねば……。
  安曇さんだけは桜荘の唯一の良心だ。
彼女なら周囲の空気を読んでいろいろとフォローしてくれるはずだ。

「お、に、い、ち、ゃ、ん……。今、他の女の子の事を考えていなかった?」
「滅相もございません。俺ごときが可愛い女の子と一緒に手を繋いで帰られるような
夢のような一時に他の女性の事を考えているなんて。うん。ありえないっ!!」
「でも、カズ君……妙に焦っていない?」
「大丈夫だ。常に強姦魔や痴漢がいつでも襲いかかってもいいように
俺は周囲を警戒している。近付けば、俺のザムディンが火を吹くぜ」
「心強いお兄ちゃんに守ってくれるのは嬉しいけど……下手なボケでゴマかすのはよくないと思うよ。
  ねぇ、刹那さん」
「ええ。同意ですね」
  二人の圧力は俺の手を握り潰すまでに握力を加えて、逆に痛覚が感じられない領域に辿り着いた。

 グシャグシャグシャ………。
  俺の掌は桜荘に帰るまで原形を保っていられるだろうか?

 夜の桜の花びらが舞い落ちる桜荘の前に辿り着くと俺は涙が出るぐらいに感激していた。
悪夢からの解放は人類が望んだ希望なのだから。
少なくても、俺は助かったと気を抜いていたが中で待ち受けていたのは、
今日の出来事を遥かに超える悪夢であった。

 食卓には、奈津子さん。美耶子。安曇さん。雪菜。
  反対側の席には、俺、刹那、そして、更紗が座っていた。
桜荘の住民に向けられる視線の全てが俺を睨んでいるのは気のせいではないだろう。

 雪菜と刹那を連れて帰宅すると、重圧に押し潰されて老朽化が進んでいる桜荘に漂う空気は
尋常ではなく、汚染地域に犯されたような感覚がした。
それは俺の被害妄想ではなく、重い空気の正体を知ったのは桜荘の住民に束縛されて
尋問を受けている更紗の姿を目撃した時であった。

 昨日に不法侵入していた更紗が桜荘の住民たちに捕獲された理由は考えなくてもわかる。
俺に会うために彼女はまたここにやってきたのだ。
ただ、ここの住民たちは常人を遥かに凌駕した人たちだから二度目の侵入は不可能であった。

 俺は奈津子さんに縄を解いてと懇願して、解放された更紗は俺の腕にくっついて
離れようとはしない。
更に対抗して刹那も反対側の腕を組んで、また離れることなんてしなかった。
  そして、今日の昼に行なわれた桜荘緊急会議が再び行なわれていた。

「これから……第一回『深山一樹君が幼馴染ちゃんたちをどういう風に誑し込んだのか?』
についての問い詰め会を始めようと思います。資料は各自テーブルの手元に置いてあります。
司会進行役は作品内で出番が少なすぎる高倉奈津子が仕切らせてもらいます」

 奈津子さんが用意した資料には昼に会議した内容も更に付け加えられていた。
事実と違う歪曲と捏造を重ねた書類に抗議をしたいが、
俺にはそんな発言と弁解することは残念ながらここでは出来ない。

「では。白鳥更紗ちゃんがどういう風に捕獲されたのか。
実際に更紗ちゃん捕獲作戦を提案した我が愚妹からの報告を聞いてもらいましょうか」

「では愚姉の代わりに私こと高倉美耶子がその時の状況と
作戦発案に関する経緯を報告させて頂きます!!」
  目を輝かせた美耶子が饒舌に今回の更紗に関する件について語り始めた。

「それは桜が舞い散る出会いと別れの季節の時期でした。
桜荘の中央にある庭に桜の木があるから桜荘という安直な名前のセンスに疑問を抱いていた私は
急な監督降板にDVD−BOXの予約をキャンセルしようかと思っていたときに閃いたんです!!
  とりあえず、一樹さんをからかって遊ぼう!! 
そのためには忍び込んできた出張風俗嬢を捕まえて、一樹さんの情報を得るというのが目的でした。
だから、私は一樹さん不在の時に管理人代理権限で一樹さんの部屋を無断で開けて、
部屋の前に目立つ立て札を置きました。

『深山一樹、桜荘の女の子を凌辱中』と。

 後は、安曇先輩と交代で見張りしていると私の立てた策にはまった女の子、
白鳥更紗さんが一樹さんの部屋に物凄い剣幕で乗り込んで……
用意した罠にはめて見事に捕獲完了です」

 満足な表情を浮かべて語り終えた美耶子は大人しく席に座った。
その報告にいろんな意味でツッコミどころ満載だったが
更紗が捕獲されるまでの経緯に触れない方がいい。
真実というのは時にして残酷だからな。

「私も驚いたわ……一樹君の盗撮写真が部屋中にばら撒かれていて、
写真相手に頬を擦り付けている更紗ちゃんの姿にちょっと」
「てか、俺の盗撮写真かよ!! どこで流失したんだよ」
「では……真穂ちゃんの過激な拷問によって得られた情報をここに公開を……」
「コラぁ。華麗にスルーするな!!」
  その盗撮写真の疑惑や犯人を追求する暇もなく、安曇さんが立ち上がって、
更紗を拷問した時のことを喋りだした。
「とりあえず、深山さんの盗撮写真に夢中になっている白鳥さんを縄で縛る行為は容易でした。
捕獲してからの拷問は……お、お、女の子の秘密ということで」

 顔を朱に染めてしまった安曇さんが恥ずかしそうにその話題を見事に避けた。
どのようなやり取りが存在していたのか、過去の世界にタイムスリップしてまでその事実を
喉から手が出る程に知りたいが、更紗が桜荘の住民どもに自分たちの関係を
隅々まで白状している可能性もあるので。深入りするのは危険だな。

 俺は自分の腕を組んでいる幼馴染たちに視線を向けた。
このバカらしい問い詰め会を、この桜荘の住民たちに一体どういう風に思っているのか。
更紗も刹那も敵意の込めた視線を4人の女性たちに向けていた。

「さてと……そろそろ、一樹君の幼馴染たちの意見が聞きたいね。
はるばると遠い故郷から上京するのは並大抵の事じゃない。
特に幼馴染という名の異性を付け回すなんて普通じゃないからねぇ」
「まあ、奈津子さん。今日はこれくらいで勘弁してくださいよ。
更紗も刹那も慣れない場所に居たり、知らない人たちに出会ったりして疲れているんです。
二人から詳しい話を聞いて後で報告しておきますから」

 ここで更紗と刹那に喋らせるととんでもない事をこの場で言いそうで恐かった。
俺は出来るだけ桜荘恒例の問い詰め会を終了させてから、
更紗と刹那が桜荘にやってくる経緯を聞いておきたかった。
そのためには住民達が納得するような理由を鈍い頭を働かせて考える。

 その間に桜荘の玄関の入り口にある電話が鳴り響いた。
各個室に電話は設備されているが、玄関からすぐにある電話は賃貸マンションやアパートなどで
広告に紹介されている電話番号はそこにかかるようになっている。
管理人である奈津子さんに関係のある用件ばかりであった。
  だが、今の状況で奈津子さんは電話に出ようとしない。
空気を読んだ雪菜が仕方なく椅子から立ち上がって、電話に出ていった。

「ダメよ。今日の一日の疲れを癒すためには心地の良い住民の面白いネタを
皆で存分に楽しまなくちゃ」
「ちょっと待て。管理人職の仕事はほとんどやってなさそうに見えるあんたが言うな」
「管理人は大変よ。一日やることがないからどうやって過ごせばいいのか悩むのよ」
「単にニートなのでは?」
  さりげなく、相手の図太い神経を傷つけるような言葉を発するが
奈津子さんは余裕の態度であっさりと言い返す。
「告白されたけど、どっちかを選べなかったチキン野郎とは違うわよ」
「うぐぅ……」

 だから、桜荘の住民たちに更紗と刹那の過去に遭った忘れたい出来事を知られるのは嫌だったのに。
安曇さんや美耶子もジト目でこちらを睨んでいた。
これまで築いてきた人間関係が音を立てて崩れてゆくのがわかる。
今の俺は二股をかけている最低最悪の遊び人男として彼女たちに再認識されたに違いない。

「お兄ちゃん。電話だよ」
  受話器を持ってきた雪菜が俺に渡してくる。この時間帯に俺に用があるとするならば、
頭のネジを全て解き放った店長ぐらいしか思いつかないが。とりあえず、俺は電話に出た。
「はい、もしもし」
「やぁ。我が息子よ。久しいな」

 電話の相手は、なんと親父だった。

 夜分遅く電話をかけてきた奇特な人物は俺の親父であった。
家族との会話を桜荘の住民に聞かれるのはあれなので、俺は早足で憩いの場を離れた。
廊下の隅の方に辿り着いてから、少し怒気を篭もらせた声で電話の主に言った。

「一体、これはどういうことなんだ?」
「なんのことだ。坊や」
「坊やじゃねぇぇ!! 更紗と刹那のことだよ。
親父や母さんにも俺が下宿している場所を知らせていないんだよ。
どうして、桜荘の場所を知っている?」
「ん? そんなものは探偵を雇って調べさせた。
家出したつもりのクソカギの居場所なんて1週間ぐらいで見付けられる」 
「そ、そこまでするか?」
「まあ、更紗ちゃんや刹那ちゃんには教えるつもりはなかったんだけど。
お前がいなかって、この1年間で元気だった二人とも脱け殻状態になっていたからな。
せっかく、苦労して入った大学も1ヵ月足らずで辞めちゃったしな。でも、今回は事情が違う」
「何があったんだ」
「父さんと白鳥さんと進藤さんが連帯保証人になっていて、多額の借金を背負ってしまったんだ」
「なんだってぇぇぇっっ!!」
「共通の友人が会社を作るから気持ち良く連帯保証人になったのはいいが……。
その会社は多額の負債を抱えて倒産。連帯保証人になっていた父さんたちにも借金取りが迫ってくる」
  見事な人生破綻コースを直行しているのは親父らしくていいが、
おじさん達まで巻き込むなよと言ってやりたい。
「借金返済のために父さんたちの家は売り払った。
それでも、莫大な借金は返すことができないんだよ」
「借金はいくらなんだ?」
「残りは3億ぐらいだが」
「どこかにお金持ちで生意気で高慢なお嬢様に拾われて執事として人生をやり直したらどうだ?」
「フン。後、父さんが20才ぐらい若かったら執事に志願していたかもな」
  執事になれるのは最低条件が車に牽かれたり新幹線に飛び込んだりしても生きていることなのだが。
一般のサラリーマンであるウチの親父に勤まるわけがない。
「借金取りがしつこく更紗ちゃんと刹那ちゃんを風俗とかで働かそうとしていたので。
お前の住所を教えて逃げろと言ったら。すぐにそっちへ行ってしまった」
「それは正しい判断だと思う」
「お前が更紗ちゃんと刹那ちゃんを守れ。支えになってやれ。
父さん達はラスベガスで一山を当てて帰ってくる。それまでは頼んだぞ」
「ラスベガスって……」
「すでに!! 友人達に頼んで、日本を脱出する手筈は整えた。
総資金は20億。これで父さん達は聖戦を勝ち抜くつもりだ。それまで達者でな」
「親父っっっ!!」
「俺の屍を超えて行け!!」
  と、電話が切れた。

「20億もあるなら借金を返せよ」

第6話 『いちおう、初夜なのか?』

「反対!! 反対!! 反対!!」
「反対!! 反対!! 反対!!」
「反対ですぅ!! 絶対に反対!!」
  桜荘の住民である雪菜、安曇さん、美耶子が盛大に反対コールを繰り返していた。
  先程の電話の内容は皆に伝えて、俺の部屋に3人で暮らすという胸が痛む決断を発表した結果、
  桜荘の住民からブーイングが起きた。刹那と更紗は白い頬を真っ赤に染めていたが、
一緒に暮らすことには同意しているのであろうか?

「お兄ちゃん。酷い。酷いよぉ。雪菜だってお兄ちゃんの部屋に一緒に住みたいと思っているよ。

 でも、お兄ちゃんの部屋にお泊りするのはダメで言っているのに。
どうして、その人たちならいいの?」
  妹分の雪菜が切ない声で訴え始めていた。
普段なら見せることのない表情に俺は動揺を覚えるが事情が事情なので仕方ないのである。

「私は若い男女が一つ屋根の下で暮らすってことは……えええっっと?」

 安曇さんはそれから先の事が言えずにモジモジと様子を伺っていた。
  この桜荘の唯一の良識人は男女関係に関する免疫はほとんどない。
「幼馴染たちと久しぶりの再会。燃え上がる男の欲望と限度のない性欲。
  更紗さんと刹那さんを性奴隷にする今夜は喘ぎ声が桜荘に響き渡ることになります。
  私はまだまだ大人の階段に登れない聖少女なので早めに寝ようと思います。
途中で起きるのは嫌なので、睡眠薬は取説に書かれている量の倍以上は飲んでおきます。
ああ、一樹さんのキチク!!」

 美耶子はもう以下略で。

「まともな心理描写もどきが省かれるなんて酷い」
  今の会話を華麗にスルーすることにして。桜荘の支配者、
   いや、管理人は反対も賛成もすることなく、ただ不気味に静かであった。
   何かを企んでいるような笑みを浮かべて、奈津子さんは言った。

「一樹君が童貞卒業するから……明日はお赤飯かしら」

 童貞という言葉に思い切り強調してくれた奈津子さんを半眼で軽く睨んだ。
  男という生物はそういうくだらない事に意味のわからんプライドを持つものだ。
「とりあえず、誤解しないでください。少なくても、更紗と刹那が働く場所を探して、
  一人で暮らせる場所を見付けるまでは俺の部屋で暮らすってことです。
半同棲とかそういうのじゃあないですよ」
  憩いの場に集まっている桜荘の住民達に俺は淡々と熱弁を振るう。
  思い込みが激しくて暴走しやすいこの人たちにはちゃんとブレーキで止めておく必要がある。
  だが、思わなかったところから声が上がってきた。

「ええっっ!? カズちゃんと一緒に暮らせると思っていたのに」
「カズ君。私達とたくさん寝たことがあるのに。どうして、そんなことを言うかな?」
  幼馴染方面からの苦情と抗議に反論したかったが、時はすでに遅かった。
  桜荘住民サイドが顔をひきつらせていた。
女性数人で冷笑を浮かべている姿は想像を絶するに恐ろしいものであった。
  背中に冷たい汗が流れてゆくのがわかる。

(ようするにどちらの顔を立てても俺は破滅エンド一直線なわけか)

 本音を言えば、この憩いの部屋と名付けられている魔の領域から逃げ出したい。
  どうして、桜荘には男の入居者がいないのかと空の彼方にいる神様という者に問い詰めてやりたい。
  そうすれば、この恐怖と心労を平等に負担してくれるはずだ。

  現実逃避している間に時間は過ぎて行く。
時計を見るとそろそろ柔らかくて暖かい布団の中に就寝する時間が近付いていた。
   今日はヤンキーどもに暴行を受けたから、痛み止めを飲んでさっさと寝ようと思っていたが。
予定が大幅に狂っている。

「そろそろ寝ようか?」
「あん?」
  奈津子さん以外の女性たちが物凄い形相でこちらを睨んでいた。
「そんなことをしても決定は覆らない。明日は早いんだから。マジで寝ないとヤバイんだからな」
  カレー専門店オレンジという店に働くだけで常人に信じられない体力を消費する。
店長の奇抜な行動を監視しながらお客の相手にするのは疲れるのだ。
特にゴキ○リなどカレーに入れた時は、
笑顔でそのカレーをお客に差し出す辛さは胃が痛くなるぐらいだ。
「というわけで更紗も刹那もさっさと俺の部屋に行くぞ」
  二人の細くてかよわい腕を問答無用に引っ張って俺は自分の部屋に戻る。
雪菜、安曇さん、美耶子が送る冷たい視線を俺はあえて無視して憩いの部屋を出た。

 畳6丈ぐらいの部屋に荷物と家具が置いてあるおかげで、
やっと一人が寝れるスペ−スがあるかどうかだ。
ロクに部屋を掃除していなかったのであちこちに汚れや埃が溜まっている。
男の一人暮らしを象徴している自分の部屋を興味津々に更紗と刹那は周囲を観察していた。
「ここがカズちゃんがいつも寝起きしている部屋なんだよね?」
「1年前からな」

 俺は機械的な口調で返事してから、思わず嘆息する。
幼馴染二人を泊めるという暴挙に出たのは親が連帯保証人になって多額の借金を背負ったおかげで
家まで売ってしまったことだ。
あのクソ親父から聞いたことを推測すると、俺が更紗が刹那が住んでいた家はなく、
こちらにやってきた理由は借金取りから二人を逃がすために俺の住所を教えたということだ。
つまり、更紗と刹那は家亡き子状態に陥っているってこと。
  正直、俺の心情では二人に二度と出会うつもりはなかったのだ。
こうして、自分の部屋に泊めてしまうのだって感情的に納得できているわけもない。
1年前の告白を断ったことで更紗と刹那を傷つけてしまったことは確かなのだ。
  二人が自分のことを好きだと言う気持ちを今も純粋に想い続けている。
という自惚れを俺は抱いていない。
1年もあれば、桜荘の住民達のような素敵な出会いだってたくさんあるのだ。
特に昔のクラス、高校でも評判の良かった可愛い更紗と刹那なら。尚更ね。
  俺は押し入れにしまっている布団をひいてから、枕を置く。これで就寝する準備は整った。

「じゃあ、俺は廊下で寝るから」
「ええっ……!? カズ君。ちょっと待ってください」
「どうして、カズちゃんが廊下で寝なくちゃいけないの?」
「男は紳士であれ。
  年頃の若い女の子と一緒の部屋に寝るなんて俺の性根が許さない」
「ちょっと……カズちゃん。私たちは幼馴染なんだよ。
お風呂だって一緒に入ったり、3人で一緒のお布団で寝たこともあったでしょ」
「そ、そうだよ。カズ君」
「って、それは全部子供の頃の事じゃん」
  幼い頃は俺や更紗や刹那の両親が共働きで、夜遅くに帰ってくる時に
3人で共同生活もどきを送っていたが。
それは子供の頃のことだ。
今は俺と更紗と刹那は男と女なのだ。
嫁入り前の女性がオオカミに変化する男と一緒にいるわけにはいかない。
「……やだ」
「更紗?」
「カズちゃんと一緒に寝られないなんて嫌だよ」
「嫌だよと言われても。これだけはどうにもできないことなんだ」 
  更紗の唇を尖らせて拗ねていた。
聞き分けのない甘えん坊の暴君が無理矢理でも俺と一緒に寝る主張を通そうとする。
更紗には昔から俺の事に関しては最後まで譲らない頑固者だった。
「でも、更紗ちゃん。あの布団だと二人しか寝れないと思うよ」
「刹那ちゃんは冷たい廊下の上で一人で寂しく寝たらいいんだよ」
「むぅっ……更紗ちゃん酷い。そんなことを言う人はカズ君は一緒に寝てたりしませんよっ!!」
「カズちゃんは私のことが大好きだから今日だけじゃなくて。
明日からもずっとずっと一緒に寝てくれるよぉ」

「何を根拠に言っているのかな? か、カズ君は……私と寝るんだから!!」
  女の醜い戦いの一部始終を他人事のように俺は茫然と口を挟めずに見ていた。
親友同士であったはずの更紗と刹那が1年前とそう大差ないように口喧嘩をしている。
親友と呼べる者がいない俺にとっては彼女たちの強く結ばれていた友情に憧れたりしていたが。
あの出来事を境に粉々に壊れてしまっていた。その張本人は俺だ。
俺が幼馴染の関係の維持を望んでしまったから二人の友情は絶縁状態になったんだ。
  それは後悔。
  悲しんでいる更紗と刹那の姿を見たくないから、現実を逃避した自分の弱さ。
逃げても追いかけてくる過去。それは月日が経つほどに重くのしかかる罪であり、罰でもあった。
  だったら、自分に出来ることは一つ。

 流れに身を任せよう。

「二人とも喧嘩はダメだよ。ここは一緒に3人で仲良く寝よう。
そうしないといつまでも更紗と刹那も朝まで生ケンカをやっていることだしね」
「さすがはカズちゃん。話がよくわかる」
「カズ君と更紗ちゃんと寝るなんて小学生の頃以来だね」

「あれ?」
  あのそこは修羅場的な要素を含んでいる場合は
『どうして、そんな女と一緒に寝ないといけないのよ』とか、
『あの人と一緒に寝るぐらいなら他の場所で寝るわよ』といった展開になるのでは?
  更紗と刹那は先程の口喧嘩の剣幕が嘘のように打ち解け合っていた。
それも過去の光景だった俺が嫉妬するぐらい仲の良かった二人に戻っていた。
「逃がしませんからねカズちゃん」
  俺の右腕をしっかりと更紗に掴まれて、
「毎晩、幼馴染の私たちと寝ましょうね。カズ君」
  更に左腕を刹那に掴まれて、布団の上に倒れるようにダイブする。

 もしかして、俺は……ハメられたのか?

 その晩。
  狭い布団の中で天国のような地獄を味わった。
女の子二人に抱き付かれると男の煩悩が覚醒しそうになっていたが、
二人の幸せそうな寝顔を見ていると自然と穏やかな気持ちになってゆく。
温かな気持ちに満たされた時に見る夢は

 予兆であった。

 それは、桜荘に住んでいる者にとってやがて訪れるであろう。
 
  桜の……。

第7話 『さくら』

 朝がやってきた。眩しい朝日がカーテンの隙間から入ってくる。
更に鳥たちの鳴く声が響き渡り、寝呆けている俺の頭の回転が少しずつ動きだそうとしていた。
腕や肩に何者かが乗っているような重量を感じた。
目蓋を開けて、すぐに視界に入ってきた二人の少女が寝息を立てていて、
昨日まで日常が違っていることを思い出した。

 幼馴染という赤い糸よりも深く繋がっている腐れ縁のおかげで
白鳥更紗と進藤刹那はとある事情で、強制的にこの俺の部屋で同棲生活を
送ることになったのは昨日ことだ。
親父とおじさんたちがタチの悪そうな友人の連帯保証人になったおかげで多額の借金を背負い、
何故か借金金額よりも多い資産でラスベガスに旅立ったという、
人様に最初から最後まで正直に話すと正気を疑われるような事が起因になっている。

 俺も首を傾げたくなる唐突な出来事のおかげで、
断るはずだった幼馴染の同居を認めなきゃいけない状況に陥った。
かよわい女の子を家亡き子状態にしておくのは危険だ。
昨日、刹那がこの街の不良たちに囲まれたばかりだ。
だから、更紗と刹那の距離をある程度離して、
俺の目が届く範囲に彼女たちの住居を探さないといけない。

 その前に現在における最強敵対勢力の猛攻をどうやって防ぐか。
もう、この先の事を考えると胃が痛くなりそうだ。
  起き上がろうとすると更紗と刹那が掴んでいる俺の腕が、身動きできなかった。

更に絡み合うように俺の足と彼女たちの足が重なっていた。
女の子特有の肌の温かさと柔らかな感触を感じながら、嫌な予感が脳裏をよぎった。

(そ、そうだ……。雪菜がいつものように起こしに来るんだ)

 一応、妹分である彼女にこの光景を目撃すると兄として威厳が失われるどころか。
あっという間に桜荘の住民に知らせる可能性がある。
昨日、更紗が桜荘に不法侵入したおかげで二人の印象が悪くなったり、
俺に対して冷たい眼差しを向けられていた。
人間関係なんて一度拗れてしまうと後で必ず厄介な問題として転化する。
  だが、現実というものは常に最悪な事態を無理矢理に選択させるのがお約束らしい。

「お兄ちゃん、起きろぉぉぉぉぉ!!」
  いつものように雪菜が元気よく俺の部屋のドアをノックなしにぶち開けた。

「もう、さっさと起きないと……えっ」
「お、おはよう。雪菜」
「こ、こ、こ、これはどういうことなの!?」
  般若のような形相を浮かべて、怒気を篭もらせた声で、
雪菜は寝ている俺の髪を数十本ぐらい抜けそうな勢いで掴んでいた。

「ふ、ふ、不潔だよぉぉぉぉ!! お、お兄ちゃんのバカぁぁ!!
  真穂さんに言い付けてやるぅぅぅ!! うぇぇんん!!」
「あぎゃっっ!!」 
  俺は間抜けな声を挙げて、将来のハゲにならないことを密かに祈っていた。
飛び出した雪菜の悲鳴に似た泣き声のおかげで、この同衾事実は桜荘の住民たちに
知られてしまったことであろう。
「う〜ん……カズちゃん。えへへへ」
「もう、カズ君ったら甘えん坊さんだね。うふふふ」

 お、女を殴りたいと本気で思ったのは生まれて初めてだ……。

 その後の朝食会の雰囲気は俺が桜荘に来てから……最悪な居心地であった。
更紗と刹那の朝食分は安曇さんは何事もなく用意してくれたのだが。肝心な俺の朝食は。
「あ、あのこれは?」
「どうしたんですか? 深山さん」
「何で俺だけ朝食が冷飯と海苔だけなんだ?」

「私が毎朝早く作った朝食のメニューに文句があるんですか?」

 普段、大人しくて桜荘の唯一の聖人だと思っていた安曇さんが、
背後から黒い殺気のオーラーを発していた。
原因は朝の両手に花状態であろう。
少なくても、桜荘で唯一の男性である俺は普段から硬派を気取っていたので、
今回の件からすると女性陣からすれば裏切りに近い行為だった。
冬眠していたオオカミという男の本性が目覚めたと住民たちは警戒しているかもしれない。
だが、この有様はあんまりである。

「せ、せめて、温かなお味噌汁を……」
「ぷっぷっぷんんん……。深山さんに相応しいたっぷり健康栄養満点の青汁を用意しておきますから。
ちゃんと残さずに飲んでくださいね。少しでも残していたら、当分の間は覚悟してくだい」

 勢い良くテーブルに叩き付けられたのは青く草色に濁った液体が入ったジョッキであった。
冷笑を浮かべて安曇さんが威嚇するように睨みながら自分の席に戻っていた。
  新たな修羅がここに誕生した。彼女の名前は最後の女戦士……。
いや、そんなボケをかましている余裕は俺にはなかった。

「お兄ちゃん……雪菜に教えてくれるかな? どうして、更紗さんと刹那さんと一緒に寝ていたの? 
幼馴染の関係だとはいえ年頃の男の子と女の子が一緒のお布団に寝ているのは
教育に悪いと思うんだけど」
「い、い、い、いや。お兄ちゃんも本当は一緒に寝ようと思ったわけじゃないんだけど。
更紗と刹那の友情タッグの陰謀に見事にはめられてしまって……。うっ。ごめん」

 圧倒的な迫力に圧されて、年下の妹分の雪菜に平謝りする俺を誰が責められようか。
頬を膨らませてジト目で睨んでいる雪菜が可愛いと思うのだが、
実はこの状況がもっとも油断できない事態に発展しているとわかるのは、
1年も付き合っている桜荘の住民だけであろう。

「本当に悪いと思っているなら、真穂さんが愛情を込めて作ってくれた
青汁を一気に飲み干してくれるかなお兄ちゃん。
それで今日はお兄ちゃんが私の部屋で一緒に寝てくれるなら今朝のことは水に流してあげる」
「待て……この青汁を一気に飲むなんて」
  泡を吹いているジョッキに視線を向けて、これだけの量を飲み干すと食道が詰まって
器官に入ったりして死ぬのがオチであろう。
  だけど、桜荘の住民たちの人間関係を壊すわけにもいかないから。

この罪を引き受けよう。
ジョッキの掴むところを持ち、俺は目を瞑って青汁を少しだけ、一口だけ飲み下した。

「ぐっっぎゃあぁぁぁぁっっっっ!!」
  たった一口で俺はこの世に生きていることを後悔する。
舌の味覚が苦味渋味に支配され、それらを総合すると不味いという生半可な単語では
言い表わせない青汁独特の味が俺を襲う。
胃の中の物を吐き出したくはなるが、雪菜がじっと俺が飲み干すところを見つめているので、
兄として、幼馴染たちと一緒に寝た責任を取るために。
  全てを飲み込め!!

「ぐっぎょぎょごごぁぁぁぁぁーーー!!」
  鈍い悲鳴を浴びて、俺の朝食タイムは最悪な形で終了を迎えた。
正直に言おう。安曇さんや雪菜は普段ではこんな狂気に犯された危ない人間じゃあない。
1年間も桜荘の住民として付き合いした俺が言うんだから。間違いない。

 ただ、この何事もない朝食の光景を誤解した人たちがいた。
  言わずともわかるであろう。
 
  遠い故郷からはるばるとやってきた更紗と刹那である。

 朝食の時間が終わると桜荘の住民はそれぞれに解散して、自分たちの生活に戻る。
安曇さんは大学へ行き、美耶子と雪菜は同じ高校へ通学。
奈津子さんは一日桜荘の管理人兼オーナーとしての職務を果たすことであろう。

俺はバイトに行きたいところだが、店長には午後から行くと電話で連絡していた。
昨日のチンピラどもに殴られたことを理由にしたが、実際は違う。
昨夜、俺の元にやってきた幼馴染の二人とこれからの事をゆっくりと話すつもりで、
午前の仕事は勝手ながらキャンセルしたのだ。

 憩いの場の朝食で一口も喋らずに礼儀正しく静かだった幼馴染を自分の部屋に連れてきた。
ここ以外の場所で話すと奈津子さんレーダー内に感知されて、
新たに俺をからかう美味しいネタを提供する可能性がある。
そんなものはもうごめんだ。勝手にやってくれ。
  今朝のような酷い朝食を回避するためなら、
俺は安曇さんに平謝りして買物の荷物を全て背負ってもいいくらいだ。
  小汚い組み立ての机を立てると俺は憩いの場から借りてきたお茶をコップに注いで、
更紗と刹那の方に渡した。

 さて、話すべき議題はもう決まっている。
「更紗。刹那。今日中に新しい部屋を探してこの家を出ていってくれないか?」
  と、単刀直入に俺は言った。
「どういうことなの? カズちゃん」
「桜荘の住民というか、安曇さんや雪菜が昨日の出来事で相当キレかかっている。
更に敵に回したくない美耶子が沈黙を隠したままだ。
このままだったら、せっかく1年間で築いてきた人間関係にひび割れそうなんだよ」

「わ、わ、私たちよりも桜荘の人たちが大切なの? カズ君」
  刹那が怯えた表情を浮かべて、すがるような円らな瞳で俺を見つめていた。
彼女の指摘通りに今はどちらを天秤に傾けても、俺の中の優先順位というものははっきりとしている。

壊れてしまった幼馴染の関係よりも現在の桜荘の住民の関係の方が大事だから。
  だが、その答えをはっきりと言うのは1年前みたいに二人を傷つけてしまうだろう。
すでに俺達の過去において、更紗と刹那を……たくさん傷つけてしまった。

 更紗と刹那をあんな目に遭わせた自分が二人に好かれていいわけがない。
もう、嫌われてしまっているなら、とことん嫌われてしまえばいい。
  自虐的な気分になりながら、俺は答えを口にする。

「い、今は桜荘の桜荘の人たちが大切だよ」
「カズちゃん」
「カズ君」
  胸が引き裂けるような想いを抱いたのはどちらだろうか。
更紗も刹那も俺も気まずい雰囲気の中で誰も視線を合わせようとはしなかった。
二人が傷ついた顔を見るのが恐い。
  大丈夫、と思っていた。更紗と刹那が傷つく姿を見ても、俺は耐えることができるのだと。
この桜荘に入居してからいろんな出来事が遭ったおかげで精神的に強くなった。

だが、それは妄信であった。
ただ、あの時の頃のように二人の泣き顔を目蓋の中で浮かぶだけで逃げたくなる。

「カズ君は……どうしてどうしてどうして……私と更紗ちゃんを避けるの? 
私たちのことが大嫌いだから? この1年間。カズ君の事を忘れたことはなかったよ!!」
「俺は忘れていたよ。更紗と刹那のことなんて」

 半分は嘘。半分は本当であった。
桜荘の住民と過ごす日々の間に更紗と刹那の存在は記憶の彼方に置き忘れていた。

楽しいことを忘れても、あの告白した日の事は忘れなかったのだ。
刹那は少しだけ涙目になって凄い剣幕で言った。

「そんなの……酷すぎるよ」
「カズちゃん……。告白した時の事は謝るから。昔みたいに3人で仲良くしよう。ねっ?」
  更紗も体全体を震わせて言葉を搾り出した。
俺は自分で入れたお茶を啜って沈んでいる気分を落ち着かせる。
熱いお茶のおかげで舌が少し火傷したが、最初から言うべきことは決まっていた。

「それはもう無理だよ。更紗。
  もう、昔みたいには戻れない。だって、俺は逃げてしまったから。
結局は肝心なことからはいつも逃げていたんだ。
決断すると壊れてしまう居心地の良い場所を失いたくなかったからさ」

 深山一樹という臆病者は大切に想っていた幼馴染の関係を壊れる事を恐れて逃げた。
対面するだけでその禁断の話題が口に出るのを防ぐために避けた。
俺に温もりを求めて、必死にすがり付いてきた更紗と刹那の救い手を差し伸べることはなく。
自分はさっさと遠い地まで逃げてしまった。

結局、俺はチキン野郎と呼ばれる男の分類に入るのだ。
  そんなヘタレでクズな男に一体何の価値があるのであろうか? 
更紗と刹那の傍にもっと相応しい人間が隣にいるべきだと俺は思った。

「だから、もう一緒には居られないんだよ。俺達は」

 心の奥に秘めた想いとは逆の言葉を更紗と刹那にかけることしかできなかった。
  そう、二人ともこんなクズ男からさっさと巣立って行かないとダメなんだ。

 

★盗聴器を仕掛けるのは乙女の常識です

「……居られないんだよ。俺達は」
  奈津子は管理人部屋室から内緒で仕掛けていた盗聴器で
住人の一人である深山一樹と幼馴染の会話を盗聴していた。
住民のプライバシー侵害という言葉よりも管理人としては
桜荘に燃え盛る火種をできるだけ早いうちに消火したかった。
特にあの幼馴染たちは桜荘にとっては百害あって一利なしの存在である。
彼女にとって危惧しているのは彼が来る1年前の桜荘の状況に戻ることだけは避けたかった。
深山一樹の働きにより、安曇真穂、御堂雪菜、自分の妹の高倉美耶子が笑顔を取り戻してくれたのだ。
  それは、管理人として、姉として、彼に感謝している。

 だからこそだ。
  深山一樹の幼馴染の登場は3人の心を大きく動揺させることになるであろう。
ほんの小さな勇気を振り絞って心を救ってくれた人に想う気持ちは、大抵は恋心と決まっている。
まだ、誰も意識をしているわけではないが、白鳥更紗と進藤刹那という、
1年間の過ごした思い出よりもたくさんの思い出を持っている幼馴染たちに
嫉妬することになるであろう。
火種が大火する前に幼馴染たちを追い出してしまえば全ての問題はクリアされるはずであったが……。

「まさか、一樹くんと幼馴染たちの過去にそんなことがあったとはね……」

 昨日の尋問でも白鳥更紗は一樹との関係はただの幼馴染としか答えなかった。
それ以上のことは初対面の人間に話す必要はないであろう。
はるばると尋ねてきた幼馴染から距離を取ろうとする一樹に違和感を覚えていたが。
彼らの関係は複雑であった。
  要約すれば、告白された一樹は幼馴染の二人を選べなかった。

それは長年大切していた関係が壊れるのを恐れてから。
  それが現在の一樹にとっては思い出したくない過去であった。
精神的に動揺してしまっている彼を癒すのは最終的に幼馴染の関係の修復であろう。
だとすると幼馴染を追い出してしまうのは一樹にとって立ち直れる機会は永遠に失われる。

「う〜ん。思っている以上に厄介な問題だわ」
「だったら、あの幼馴染たちを殺してしまったら?」
  後ろから囁かれた透き通った声の持ち主は奈津子の背後にいつの間にか存在していた。
他者を圧倒する絶対的な存在感、強い意志が感じられる黒い双眸を奈津子へとぶつけてきた。

「さくら。冗談でもそんなことは言わないでくれる」
「それが最も効率がいいやり方だと私は思ってるよ。あの子たちが邪魔なら尚更ね」
「人間は感情的な生物だから、どれだけ効率が良くても人を殺すことには躊躇するわ」
「だって、私は人間じゃないもん。桜の木だもん」

 黒く艶やかで流麗な黒髪、そして人間の女性が最も理想とする整った容姿。
彼女は人間以外の存在だと言われても、年頃は一樹たちとそう変わることがない。
  さくらと呼ばれた少女は桜荘の庭に立っている桜の木。

わかりやすく言えば、桜の精と言われる存在であった。
奈津子ですら母親から紹介された時は腰が抜けるぐらいに驚愕してしまった。

「全く、この地に縛られる桜の精の業はいつになった解き放たれることやら」
「もうすぐよ……。さくらはようやく解放されるわ」

 さくらが桜の呪縛から解放される日は近い。

 後、たった一つで彼女は……。

第8話 『ブルー』

 自分の気持ちを真剣な眼差しで幼馴染に訴えた。クズ男から離れるためには、
更紗と刹那は俺から自立して巣立って行かなければならない。
だから、俺は少し距離を置いて冷たい態度で二人に接していた。それが二人のためになると信じて。
  だが、更紗と刹那は俺に対する態度をナナメ横に受け止めていたらしい。

「一緒には居られないって……それはようするに桜荘の女の子とイチャイチャしたいから? 
私と刹那ちゃんというコブ付きがいるから他の女の子に言い寄れないのが嫌だから
追い出したいんじゃないの? ねえ、そうでしょカズちゃん」
「待て待て」
「雪菜ちゃんからはお兄ちゃんお兄ちゃんって慕われているよねカズ君。
昨日、カレー店で二人ともツーカーでわかりあえる仲だったもんね。
どうやって、あの幼女を誑かしたのか詳しく教えてくれないかな?」
  更紗と刹那はこれまで沈んでいたのか嘘のように悍ましい殺気と黒いオーラーを発していた。
俺の体は身震いが止まらずに鳥肌が立っていた。距離を置こうと思ったけど、
一秒でも早く部屋から逃げ出したくなるとは。

「さ、更紗も刹那も誤解している。てか、頼むから落ち着いてくれ」
「カズちゃんが他の女の子に手を出したら、私はその女の子を殺して、
バラバラに切り刻んでミキサーに入れるから。
そして、私も死ぬから。そんな人を殺した私がカズちゃんに愛されると思っていないし、
汚れてしまった私はカズちゃんに相応しくないから」
「どこかで聞いた台詞だなオイ」
「更紗ちゃんとは恋のライバルですが、無垢なる刃の誓いの元にカズ君に近付いてくる女の子を
協力して排除する同盟を結んでいるんです。
その同盟が結ばれたのは私たちが小学生の頃です」

「どうりで俺の人生に女の子からモテたことがなかったのか。
って、あんな幼女の頃から何をやっているんですか!!」

 無邪気な冷笑で恐ろしいことをすらりと呟いた少女たちに怯える俺。
真面目な話、純粋すぎる愛は一方的な暴力に等しいのではないかと悟りを開いてもいい頃であろう。
更紗も刹那も幼馴染の仮面を外せば、少し病んでいる女の子だ。
中身は1年前とは何も変わっていないことを俺は心地よい殺意と共に現在進行中で刻み込まれている。
  俺が逃げ出した理由の一つとして挙げられるのは、
更紗と刹那の告白を断った時に精神的に一生に残るような傷を与えてしまったこと。
それが原因で二人は尋常では行動力と生気が篭もっていない瞳を併せ持ち、
性格が急に豹変してしまうことだ。主に俺が他の女の子と絡むとこのような修羅場を迎える。

「ど、ど、ど、どうせ、カズちゃんは同じ年頃の安曇さんか、
ちょっと毒舌を放つフェロモン放出の女子高生の美耶子さんか、
ちょっと年上で酒ばっかり飲んでいるお姉さんか、
童顔のお兄ちゃんと慕っている年下の女の子がいいもんね。
幼馴染属性なんて最初から興味ないんだね。
昨日は一緒に寝て、わ、わたしの胸を触ったくせにぃぃ!!」

「なにゅっっ!?」
「ね、捏造だぁぁぁ!!」

 更紗の唐突な告発に刹那は声にならない驚愕の声をあげて、俺は速急に彼女の発言を否定した。
幼馴染の胸を触るという性犯罪的な行為をやってないと高らかに主張したいところだが、
昨晩は更紗と刹那による強制的に腕を固定されていたので寝呆けて触った可能性があるかもしれない。
薮から蛇を出す前に話題をさりげなく変えよう。それしか、最悪な事態を回避する手段はない。

「わ、わかった。俺の降参だ……。頼むからこれ以上偏頭痛のネタを増やすのは勘弁してくれ」
「何を降参するのかな? カ・ズ・ち・ゃ・ん」
「最低限の譲歩は認めてやる。俺の部屋から出てもらうが、桜荘の空いている部屋には住んでいい」

 贔屓にしていたプロ野球のチームが10連敗して落ち込んでいる熱狂なファンのように、
俺はがっくし重い腰を下ろした。
仕方ないのである。捏造とは言え、このような事実を桜荘の住民に聞かれるだけで
朝食の悪夢が再来する可能性がある。
それだけは嫌だ。朝はご飯に目玉焼きに味噌汁を、悠長に味わって食べたいのだ。
  特に青汁だけはもう嫌……。

「ブーブーブー。本当はカズちゃんの部屋に泊まりたいんだけど」
「3人に一緒に衣食住ができるような部屋でもないし、ここは空部屋が他に一杯あるんだから。
そこに住みなさい」
「カズちゃんがそこまで言うなら仕方ないけどね」
  ようやく、我侭娘が納得するように頷いた。
何とか捏造問題を糧に同居させられるというお約束なオチは、
見事に回避されたと俺は安堵の息を吐いたが。
更紗の嘘を真に信じていた者がいたことを忘れていた。
  頑張って徹夜したテスト勉強の範囲が間違っていたぐらいに沈んでいた刹那が呟いた。

「うっ……更紗ちゃんの胸を触ったのに……どうしてどうしてどうしてどうして
  カズ君は私の胸を触ってくれなかったの? 
ううん……女の子が一緒に寝ているのに。
オオカミになって襲わないのは女の子にとって失礼じゃないですかぁ!!」

「待て待て。妄想を爆発させるんじゃない」
「カズ君を襲いたいのを我慢しているんですよ。
今も押し倒したい衝動を抑えるのに苦労しているのに。
妄想を現実として実現しても更紗ちゃん以外は誰からも責められませんから!!!!」

 すでに話題は胸を触ったことから、年頃の男の子が同じ布団に寝ている女の子を
襲わないことに転換していた。
刹那も気が動転して自分でも何を言っているのかわからないのである。
長い付き合いだ。そんな時は大抵することが決まっている。

「カズキチョッッッップーーーー!!」
  刹那の頭上から素早く俺の手刀が炸裂する。
少し力を加減しているので気を失うことはないが、せいぜい正気を取り戻すぐらいであろう。
ちなみに店長になら、手加減抜きの全力でやるので仕事中に何回も気絶させたことがある。

「カズ君痛いよぉ〜」
  悲痛な叫びで頭を手で擦っている刹那を軽く無視して、
  本日の二度目の重大な用件を彼女たちに伝えよう。
「さて、更紗と刹那の働く場所は……」

 更紗と刹那を何とか説得して、これから働く場所を視察もとい見学するために
アルバイト先へと向かっていた。
昼食を食べ終わった後で温かな日差しに触れるだけで睡魔が襲ってくるが、
何とか堪えて前へと街道を歩く。俺の後方にはちゃんと離れずに、二人が楽しそうに喋りながら
くっついてくる。
この光景は俺が中学生の頃と酷似していた。

あの頃は思春期の真っ最中で男の子と女の子が一緒に居るのはからかわれる対象だったし、
意地を張りたい男の子であった俺は更紗と刹那とはそれなりの距離を置いて、
男同士の友情を育みたいと思っていたが。
捨てられた子犬のような目をして、二人が必死に俺の後を追い掛けられたら、
情が沸いてしまうのが人間である。

突き放すことができずに学校内ではあまり近付かないことを絶対的な条件にして、
家や誰もいない場所では今まで通りの関係を維持していた。

 あの頃とは違うが、自然と自分の後を追っている姿は懐かしい頃を思い出す。
胸が鼓動が高鳴り、自然と笑みが浮かんでくる。その姿は更紗と刹那が夢中に会話していたので
気付くことなかった。
  やがて、数十分ぐらい歩いた先に辿り着いたのは洋風なレンガで組まれた建物に
洋風なイメージを漂わせるカレー店。
俺がアルバイトで働いてるカレー専門店『オレンジ』。
  頭のネジが数本外れた店長が経営している店は近所の皆様やカレーマニアの方々から好まれている。

儲けは淡々と右肩上がりで上昇傾向であるが、
店長が接客に応対すると一気に今まで築いてきた信頼と信用を一気に失ったりもする。

不思議なお店。
  その店の隣には見知らぬお店が開店準備を始めていた。
昨日までは偽ブランドを売っていたお店が跡形も無くなっていることに驚いたが、

俺達は気にすることもなく自分たちの店の従業員専用ドアを開いた。

「うーむ……難問ぞよ」

 カレー専門店のオレンジの店長が珍しく悩んでいた。
更紗と刹那の両方を首を横に振って見比べていた。
俺が午前中に休んだことによって起きてしまった店内の損害や厨房の片付けのために
3時間ぐらい店を閉めることにした。

夕方の仕込みするにもちょうどいいが、ついでに更紗と刹那をここのウエイトレス兼ホールスタッフに
雇って欲しいと頼んでみた。
店長は滅多に見せない真剣な表情を浮かべて、『少し考えさせてくれ』と言った。
それから、30分の時が流れていたが正式な回答はまだない。
  不安そうな表情を浮かべて、ちょっと強ばっている更紗と刹那のために
さっさと雇えといつものように蹴りをお見舞いしようと思ったが、仮にも雇い主だ。
ここは華というモノを持たせてやろう。

「どちらをお嫁さんにするのか……一生の問題だな」
「なんですとっっっ!?」
「一人は勝ち気のある幼馴染。もう一人はお金持ちで旅の行き先で世界一の大富豪の親バカが
貴重なアイテムをくれるお嬢様。
どちらを夜の相手として迎えるか。いや、一夫多妻制度がOKというリアルなら
両方頂くことも可能ぞよ」

 だめだ、こいつ。なんとかしないと。

 そういうわけで。

「サンダーキックじゃあボケぇぇぇぇぇぇーーーー!!」
  電光石火に店長の頭に俺の放ったキックは炸裂した。
吹っ飛んだ店長が五月蝿く調理器具と共に倒れ伏せた。
俺はくるりと華麗に着地して、
今の状況に驚愕している更紗と刹那を宥めるべく、優しく微笑んでから言った。

「まあ、こんな場所でもいいのなら……一緒に働かないか?」
「カズちゃん」
「カズ君」
  自分でも矛盾している事だというのは嫌程分かっている。
こんなクズ男とは一緒には居られないと宣言したのに。
更紗と刹那を自分と同じ職場で働かそうとする。

(……一緒に居たい)
  曖昧な距離は彼女たちに誤解を与える。二人は俺から巣立って行かなければならない。
彼女たち自身のために。

(……一緒に居たい)

 だって、更紗と刹那には俺よりも相応しい相手がいるはずだ。
そいつに幸せにしてもらえばいい。俺は這い上がることができない絶望に飲み込まれたから。

(一緒に居たい)
  でも、あの二人が居るだけでこんなにも安らぎを覚えるのは何故だろうか? 
血迷ったことをしまった理由の根源はそこにあるかもしれない。
仲の良かった幼馴染の関係に戻れると薄い期待を抱いてしまう。

(だから、あなたが憎い)

「更紗と刹那が良かったら……」 
  一緒に働いてくれないか? と言う前に俺の言葉は豪勢な鈴の音によって遮られた。
ドア付近には見知らぬ人間が威張った態度で立っていた。

「この店のオレンジの店長はいるかな? あの腰抜けで脆弱なクソ野郎だ」
  その男はオレンジの店長と同じ年頃の中年男性であり、背の高い細身の人物である。
清潔感を漂わせる白衣の服は調理師が仕事をするための作業着である。
その男は堂々と、店の中までしっかりとした歩調で店内に入り込んできた。
厨房にやってくると周囲を見渡してから、情けない格好で倒れ伏せている店長に視線を移した。

「フン。長年のライバルを尋ねてきたやってきたが。なんてくだらない。
私はこんな男を生涯の目標としてこれまでのカレー人生を生きていたのかと思うと
自分が情けなくなるな」

「あの貴方は一体誰ですか?」
  突如、現われた不審な人物に、冷たい視線と警戒心を丸出しで俺は尋ねた。
「我輩は明後日からカレー専門店オレンジの隣で開店させていただく
  カレー専門店『ブルー』の店長、青山次郎(あおやま じろう)と言う。
  短い間だと思うが、その紫色の脳細胞に深く刻み込んでくれ。
カレー革命を起こすであろう偉大な男の名前をな」

 青山次郎と名乗る男の登場により、俺は新たな頭痛のタネを抱える予感がしていた。

 そう、ウチの店長と同類の匂いが。

第9話 『朝倉京子見参』

 その男は強気な口調で周囲を威喝して、明らかに自分以外の他人を見下していた。
傲慢な態度は初対面の印象を悪くするには充分過ぎると言ってもいいであろう。
少なくても、俺や更紗や刹那はこの『青山次郎』という男に関わるのは良いと思っていない。
  重苦しい程の雰囲気の中で俺は時間がさっさと過ぎ去ることを祈っていた。
だが、その期待は倒れ伏せていた男の驚異的な復活によって、あっさりと裏切られた。

「Oh! 麗しき花嫁を未亡人にするなんてカレーが許しても、このワタシが許さないぞよ。
カズキに寝取られるぐらいなら、核兵器型カレー爆弾で心中した方がまだマシであるぞよ」
  4回転のきっちりと無駄な仕草で回っている店長が勢いを付けて俺達の居る場所まで
飛んでやってきた。
相変わらず、この店長のやることは人間業ではなかった。
「久しぶりだな……東山田国照。我輩の長年のライバル」
「貴様は……ジロウ。アオヤマジロウじゃないかっっっ!!!!」

 二人の中年男性はお互いを睨み常人に理解することができない殺気を飛ばし合っていた。
冷静に俺は二人のおっさんが見つめ合っている姿はキモイとしか思っていないが。

「我らの師が多大なる食中毒事件を起こして、カレー世界から退いた事件。
『あのカレーは腐ってる』以来か。国照よ……」
「もう、そんなになるぞよか」
「あの事件を境に我輩の顔に泥を塗った貴様を打ち倒すために死ぬ気で修業してきた。
その成果でカレー専門店『ブルー』という店を開店することができた。
本来ならば、こんな寂れた場所で店を開店するのは愚かなことだが……
手始めに国照が経営している店を潰すのもいい余興だと思って、
隣に我輩の店を出店した。光栄に思え」

「やれやれ……ツンデレ野郎の相手をするのは本当に大変ぞよ」
「フン……。今の内にボケを好き放題にやればいい。
我輩が本気になれば、こんな古ぼけた店は1ヵ月以内に潰れるであろうな……。
ふっふはははは。愉快だ。
かつては我輩の地位を脅かしてきた男が手も足も出せずに敗北の味を舐めることになるとは」

「いや、うちの店長と競い合っている時点で同類な予感も」
  次郎の高笑いの隙に俺はぼそりと嫌味を呟いた。どうも両者の会話はすでに絡み合うどころか、
互いに縦斜め横の上を行っている。会話が全く成立できずに茫然と二人のやり取りを見るのは
案外辛いものである。

「カズちゃん。こんなとこで働くぐらいなら、他にいい場所を探したら?」
「俺はいつもそう思っているよ。でもな……いろいろと複雑な理由があって辞めるに辞められない」

「あっははは……カズ君もいろいろと大変だね」
  この場所で働いているといろんな意味で同情を受けるのは仕方ない。
更紗と刹那からの同情は嬉しかったが、それを表情に出すのは恥ずかしいので二人に背を向けた。

「開店は明後日だ。そこまで存分に平和な日常を堪能してくれたまえ。
もうすぐ、訪れる客が全くやって来ない……」

 青山次郎の饒舌な口調を遮るようにカレー専門店のオレンジのドアに付けられている
鐘の音が鳴り響いた。
先程の中年男性とは違う訪問者は、俺や更紗や刹那と同じ年頃の少女が
物凄い剣幕で殴り込むように入ってきたのだ。

「クソ店長……開店準備も手伝わずにどこで油を売っているの!! 
そんなことはこの朝倉京子の目の黒い内はサボリ途中退社資金横領は絶対に許さないから!!」

 その少女は青山次郎と同じ調理師の白衣を身に纏い、
腰まで伸ばしている長い髪を紐で一つに纏めていた。
容姿は大人しくしていれば美人の分類に入るであろう。
だが、勝気な態度と乱暴な口調でそれは全て台無しになっているが、
彼女自身の独特な雰囲気がいい味を醸し出していた。

 その彼女は視界に入った青山次郎の返事も待たずに己れの判断で無表情のまま、
首から顎の部分に誰もが目に移らない速さで拳を放っていた。
気が付いた時には青山次郎は壁に激突して口から汚い涎を零して地面に倒れ伏せていた。
ほんの数秒の出来事に誰もが彼女の行動に驚愕していた。

(こ、こ、この女。できる)

「これでゴミクズは片付いたわ」

 蔓延なる笑顔を浮かべる彼女は自分の上司の倒れ具合に非常に満足していた。
その光景はカレー専門店オレンジで起きる事と酷似していた。
暴走する上司を自分が鍛え上げた拳で制止する。
それはここでは特に珍しくもないありふれた光景だが、
自分と同じことをやり遂げる人物が他にもいることに驚きを隠せない。

「あらっ……オレンジの皆様。こんにちわ。私は朝倉京子(あさくら きょうこ)と申します。
以後、よろしく。明後日から開店するカレー専門店『ブルー』の
ウエイトレス兼ホールスタッフをやっています。
短い間ですが宜しくお願いします。てか、記憶に残らない程の短い付き合いになりそうね」
「なんだと……」
「あららっ。本当のことでしょう。クソ店長はともかく。
朝倉京子様が率いるカレー専門店『ブルー』に死角はないわよ」

 朝倉京子は自信に溢れた表情を浮かべ大きく胸を張っていた。
その根拠のない自信は一体どこから溢れてくるのかと問い詰めてあげたい。
高飛車で強気な女の戯言を最後まで聞いてあげるほど、俺は品行方正な人間ではない。
  彼女の欠点を……一つだけ。大げさに強調するかのように彼女の体の一部分に指を差した。

「黙れ……貧乳」

「なぬっっ!!」

「貧乳よ。大草原のように真っ広い称号を持つ者よ。一つだけ言っておこうか。
  せめて、パットでも入れたらどうだ?」

「こ、こ、こ、こいつは……」
  自分の欠点を指摘されると朝倉京子は胸を隠すように両手で覆った。
顔を赤面に染め、俺の方に殺意と等しき視線を送り続ける。

「ふふっ……私が最も気にしていることを……。こ、殺すわ。絶対に殺す。
顔を剥ぎ取ってから、血に餓えたピラニアの水槽の中に入れ込んでやるわよ!!」
「楽しみにしておくよ。貧乳」
「クキャーーーー!! オマエだけは絶対に許さないんだから!! 

クソ店長、いつまで寝てるのよ。
さっさと帰って、こいつらを血祭りに仕上げる方法を考えるわよ!!」

 気絶している青山次郎の首根っこを掴んで、逃げ去るように朝倉京子は連れと共に店を去っていた。
女性の細身で成人の男性を運べる力が一体どこにあるのかと疑問に思ったが、
個人的には俺の背後で睨んでいる幼馴染の方が気になったりした。

 恐る恐ると後ろを振り返ると……。

 目が全然笑っていない更紗と刹那に『私たち以外の女の子の体をいやらしい目で見るなんて。
許しませんよ』と怒っていた。

 結局、店が閉店になるまで俺は幼馴染に徹底的に説教されて。

その日に決まるはずだった更紗と刹那の採用は曖昧になってしまった。

To be continued.....

 

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