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病院倶楽部



1

「ねぇ、ご飯早く食べさせて。私、とてもお腹が空いているの」
「はしたないですよ、お嬢様。後一時間もすれば診察の結果も出ます、もう少しの辛抱を」
  足をばたばたとさせて頬を膨らませる少女を見て、私は誰にも聞こえないように
小さく溜め息を吐いた。もう15歳にもなり、来年はエレベーター式とはいえ高校生にもなるのだ。
それなのに今のように、子供のように我儘を言っては私を困らせる。
なるべく娘の好きにしてやりたいという旦那様の指示に従ってきた、
というのは言い訳だとは分かっている。
甘やかしてきたのが悪いとは思っているが、きっと今回も私が折れてしまうのだろう。
「早く早く、お腹が空いたわ。餓死寸前よ」
「それだけ元気があれば大丈夫でしょう」
  ぺちぺちと私の太股を叩く力は、とても弱い。だが逆らうことも出来ず、
私はお嬢様の方を改めて向いた。そしてポケットから彼女の大好物である安物のチョコバーを
取り出し袋を剥いてやると、途端に嬉しそうな声をあげた。現金なものだ。
しかも普段からこんな駄菓子よりもよほど良いものを食べているのに、
舌が庶民感覚らしいお嬢様は私の指までをも食べてしまいそうな勢いでかぶり付いてくる。
体温で少し溶けていたチョコレートで口の回りを黒く汚し、拭いてやってもまた汚す。
「慌てなくても、これは逃げませんよ」
「ザクロと一緒に食べれるのは、今だけだもの。それにザクロが好きな食べ物は、あたしの特別だわ。
それを他の人に盗られでもしたら、そう考えると我慢出来なくて」
  無垢な表情を浮かべ、お嬢は言う。それにしても懐かれているとは思っていたけれど、
ここまでだったのか。私は特別チョコバーが好きな訳ではない。安くて携帯に便利なので
仕事の合間に小腹が空いたときに食べたり、忙しいときのカロリー補充の為に
頻繁に口にしているだけなのだが、お嬢様には特別なものに見えていたらしい。
そんな部分も随分と幼い、普段は毅然としているのに妙にアンバランスな部分があるのだ。

 一本目を食べ終えると、こちらの裾を引いてくる。
「もう無いの?」
「ありません」
  本当はまだポケットに数本入っているが、屋敷に帰って少し休めばすぐに昼食だ。
ただ甘やかしているのではない。これだけしておいて何を今更、と言われるかもしれないが、
私は私の中のルールを守っているのだ。例えば、チョコバーは一日に五本までとか。
  残念そうにお嬢様は肩を落としたが、すぐに笑みを浮かべると次の話題を振ってきた。
切り替えが早いのは、お嬢様の数ある良い部分の一つだ。頭も良いので、会話をするだけでも楽しい。
そう出来るのは、才能の一つだろう。
『織濱さん、織濱識織さん』
  予想よりは早く診察の結果が出たらしく45分程で名前を呼ばれた。
診断結果の書かれた紙を受け取り、いつも通りに異常無しだと言われて安堵をしながら席に戻り、
「はい、行きますよ」
「うん」
  お嬢様が立ち上がろうとした瞬間、バランスを崩した。私はその細い体を抱いて、
その重さが偏った感覚に目を伏せた。お嬢様が産まれてきてから15年間、
毎日欠かさずに見てきているのに慣れることが出来ないのは私が弱い人間だからなのだろう。
弱さ故にお嬢様を甘やかしてしまうし、チョコバーにかぶり付いても注意もせずに口を拭ってやる。
「どうしたの?」
「いえ、早く帰りましょう。皆が心配します」
「そうね。本当はもっと二人きりで居たいのだけれど」
  私は差し出された『左手』を握ると、歩幅の狭い彼女に合わせてゆっくりと歩き出す。
病院の扉をくぐり、夏の陽射しに目を細めるお嬢様に帽子を被せた。
「ありがとう、やっぱりザクロはあたしの『右腕』ね」
  彼女の姿を見たら、皮肉にも聞こえるであろうその台詞。それに無理矢理作った笑みを向けて、
頷いた。小さな掌をしっかりと握って、止めていた足の動きを再開する。
  右の肩からその下が無い、彼女の体を案じながら。

 

 ◇ ◇ ◇

 今日も私は病院に来ていた。しかし昨日とは違い、個人的な理由によるものだ。
私の体が病んだ訳でもなければ、お嬢様の診断結果が気になった訳でもない。
約束をしている娘が居たから、と言えば聞えは良くなるかもしれないが、
残念ながら色っぽい話では無い。
そもそも色恋沙汰などは私とは無縁、自分のことながら言っていて悲しくなる。
三十手前にもなって浮いた話の一つも無いというのは、どうなのだろうか。
「いや、まだ希望が!! それに私には仕事が……」
「ザクロさん、急に叫んでどうしたんですか?」
  背後からかけられた声に我に帰り、振り向いた。そこに立っていたのは杖を突いて歩く、
目を閉ざした少女。年頃はお嬢様と同じくらいだろうが、詳しく聞いていないので
外見で判断するしかない。あまり良くない身近な例としてお嬢様のような存在を基準にしたなら、
もう少し年上かもしれない。だとすれば、高校2年生くらいか。最近の子供は発育が良く
体が大きいので判断が難しい。これが世代の違いというものか、と軽くショックを受けた。
「で、ヒヨリちゃん。いつから?」
「ついさっきです。色恋沙汰がどうとかの辺りから」
  全部聞かれていたのか、恥ずかしい。
「そう言えば、ザクロさんって男の人なんですか? あ、やっぱり言わなくても良いです。
正体不明の謎の人との密かな交流、何だかロマンチックじゃありませんか。
そう考えると私のこの目も捨てたものじゃないですね、少し感謝ですよ。感謝感謝」
  久し振りに会ったからなのか、よく喋る。この娘が私の約束の相手、ヒヨリちゃんだ。
名字を名乗らなかったし、今の台詞から考えるとヒヨリという名前も本当のことか怪しいけれど、
それ以外は至って元気で分かりやすい良い娘だ。最初にヒヨリちゃんと出会ったのは半年前、
お嬢様の定期診断の待ち時間のときだった。

 お医者様に診察をして頂いているとき、少し時間が開いたので病院の中を散歩していた私は、
廊下で豪快に転んでいる彼女を見付けたのだ。今でこそ閉ざされた視界を補う為に発達したらしい
抜群の記憶力を駆使して病院の中を好き放題に歩いては、看護婦さん達を困らせているらしい。
だが当時院内の構造があやふやだったらしいヒヨリちゃんは、
壁にぶつかるわ階段で転びそうになるわの酷さだった。それを見かねて案内したことから次第に
仲が良くなり、今では年齢の差を越えた友人となっているのだ。
「今日はどのくらいお話出来ますか?」
「あと二時間くらいかな、お嬢様を迎えに行かなきゃいけないから」
  あまり長い時間ではないが、それでも娯楽の少ない彼女にとっては嬉しいものらしい。
短い時間を補うよう、いつものマシンガントークで様々な話題を振ってくる。最近あった面白いこと、
病院食の味付けが変わり美味しくなってきたこと、ラジオで聞いた気になるニュース、
患者の間で密やかに流れている幽霊の噂、新しく入ってきた面白いお医者様の奇行など
取り留めのないものばかりだが、聞いていて飽きない。
そのような部分は、少しお嬢様に似ていると思う。私によく懐いてくるところなどもそっくりだ。
「あぁ、私もお金持ちの家に産まれたかったですよ。ザクロさんみたいな人が居たなら、
きっと毎日退屈しないでしょうね。そのお嬢様が羨ましい」
  じゃれて腕にもたれかかってくるヒヨリちゃんの頭を撫でたとき、
「ザクロ!!」
  お嬢様の声が、強く響いた。
「お嬢様、学校は?」
「ザクロに会いたくなったから、早退してきたわ。でも帰って来たら、
ザクロは病院だとユキが言うから。どうしたの、どこか悪いの? 任せて、最高のお医者様を……」
「いや、大丈夫ですから」
  ちらりとヒヨリちゃんに目をやると、小さく笑みを浮かべて立ち上がる。
「それじゃ、私はここで退散しますね」
  そう言って杖を突いて去るヒヨリちゃんの後ろ姿、
盲目の少女の背中をお嬢様は今まで見たこともない、鬼のような形相で睨み付けていた。

 ◇ ◇ ◇

 織濱識織は、一人で病院へと来ていた。学校に居るときを除いては常に自分の傍らへと
寄せているザクロは、今は居ない。それについては寂しいと僅かに思ったが、
今からすることを見られてはいけないという理由での、苦渋の判断だ。帰ったら思いきり甘えようと、
そうした決意を胸に足を前へと進めてゆく。向かう先は573号室、中館・日和という盲目の少女が
入院している病室だ。個室なのは幸いだった、と笑みを浮かべる。
  普段は入らない病棟を歩くが、注目する者は殆んど居ない。
この病院は祖父が経営しているものの一つなので職員は全員識織の顔を覚えているし、
産まれたときから毎月通っているので大抵の患者も彼女の顔を覚えていた。
自慢の従者であるザクロを見せびらかす為、
『泥棒猫』に自分のものだと見せ付ける為にしょっちゅう院内を連れて歩いていた効果もある。
中には傍らにザクロが居ないことを疑問に思う視線や言葉も有るが、
そのような者には学校で浮かべているような凜とした笑みを返して何事もなく進んでゆく。
  着いた。
  滅多に見舞いに来ないという家族が居ないことを窓から確認すると、識織は数度ノック。
唇の端を先程他の患者に向けていたものとは違う意味で歪めると、返事も待たずにドアを開いた。
驚きの表情を向けてくる日和に構わず、中へと入ってゆく。
「初めまして、では無いのかしら。こんにちは、中館・日和さん」
「あら、貴方は先日の」
「そう、織濱・識織。ザクロの主人よ」
  カルテを見せて貰っていたので自分の姿が見えないことは分かっていたが、
識織は己を誇示するように薄い胸を反らした。安堵したような表情を浮かべた日和の顔を見て
小さく鼻を鳴らし、来客用の椅子にどかりと腰を降ろす。
「あの、学校は?」
「そんなものサボったわ、貴方への用事に比べたら取るに足らないことだもの」

 ザクロの部屋からくすねてきたチョコバーの袋を歯で噛んで剥くと、小気味の良い音をたてながら
食べてゆく。二本目を食べ終えたところで口の周りをハンカチで拭い、三本目を日和へと差し出した。
唇に触れさせたところで、日和もそれを口に含む。
「美味しいでしょう?」
「はい」
「当然よ、ザクロがいつも食べてるものだもの。そしてザクロの特別はあたしの特別」
  四本目を、今度は自分で食べる。これで識織が食べたのは三本目、ザクロは一日に五本までしか
くれないので、残りは二本になる。日和に与えたものもカウントに入れてしまうならば、
残りは一本だ。この数分間で、一気に数が少なくなった。
「辛いのよ、その特別が減るのは。ザクロは一人しか居ないから尚更だわ。
こんな駄菓子は正直幾らでも買えるけれど、ザクロは絶対に買うことが出来ないし」
  言いながら五本目をさくり、これで今日の分は無くなった。
「あの、何を?」
  言っている意味が分からない、といった表情を浮かべている日和を冷たい笑みで見ると、
識織は立ち上がった。わざとらしく踵を鳴らして近寄ると日和の頬を撫でて、
至近距離で顔を覗き込む。見えないだろうが、これだけの近さなら存在が分かる。
「今日は、貴方にお願いがあって来たの。さっきのは、そのお駄賃よ」
  一拍。
「あのね、もうザクロに近寄らないで頂戴。迷惑なのよ、とっても。『貴方なんか』に、
『あたしの』大切なザクロが構うのが嫌で嫌で堪らないのよ。分かるわよね?」
  一部を強調するように言い放ち、距離を取る。
「貴方、目が見えないのでしょう? 気持ち悪い」
  吐き棄てるように出たその一言で、日和は目尻に涙を浮かべた。

 目が見えない日和は気付かない、気付くことも出来ない。外見で言うならば、
識織の方が余程体が奇形だということも、その彼女がどれだけ醜い表情を浮かべているかも。
体に何の障害も無い者が見たのなら、最初に嫌悪感を抱くのは、間違いなく識織の方だろう。
腕の有る無しを抜きにしても、それは変わらない。目を閉じてはいるけれど
日和は誰より美しい少女だ。どちらを取るかと言われたら、間違い無く誰もが日和の方を選ぶ。
だが姿を映像として捕えることが不可能な少女は、それすらも認識することが出来ずに、
ただ唇を噛んだ。膝の上で拳を握り込み、震わせている姿を見て、識織は愉悦の笑みを浮かべた。
「ザクロがどんな表情をしていたか分からないでしょう?」
  容赦無く識織の言葉は続く。
「とても、辛そうだったわ。見ているあたしが泣きたくなるくらいに」
  嘘だ、笑みを浮かべていたのを識織は見ていた。泣きたくなったのは同情からではなく、
自分以外にザクロの笑みが向けられていたという事実から。立場を抜きにして向けられた笑みに
嫉妬と羨望が沸いてきたからからだった。自分に向けられている笑みが偽物でないことは
分かっていたが、たまに無理をしているのも理解していた。
それが一切無いザクロの表情を見て、どうしようもない気持ちになったのだ。
  もしも日和のようにもっと美しく産まれていたなら、もしもきちんと両腕がある状態で
産まれてきたのなら。その願いは歪んだ想いを生み出して、結果、最悪の形で露呈した。
  醜く歪んだ意地の塊の、残酷な嘘の言葉。
  それが決定打になったのか、堪えきれずに日和の頬を雫が伝った。
「これに懲りたら、もう二度とザクロに会わないことね」
  泣き続ける日和を一蔑すると、識織はステップを踏むように軽い足取りで部屋を出た。

 

 ◇ ◇ ◇

 ヒヨリちゃんが死んだ。
  聞かされたとき最初に覚えたのは、大きな喪失感だった。
「残念だわ、せっかくお友達になれたのに」
  学校をサボったり、勝手に私の部屋からチョコバーを盗んだことを叱ろうと思っていたのだが、
それが一気に失せてしまった。きっと、お嬢様なりのコミュニケーションだったのだろう。
二人で仲良く会話をして、私のことを話しながら菓子を食べる。
普通の女の子のような日常を与えようとしていたのかもしれないし、
お嬢様自身も腕のコンプレックスを気にせずに付き合える相手として嬉しかったのかもしれない。
目が見えないということを使った逃げだと思う人が居るかもしれないが、
対等な付き合いが出来ることには変わり無いだろう。それでも良いと、私は思う。
  なのに、その矢先の出来事だ。
  私の友人が死んだという事実とお嬢様の友人が死んだという事実とが混ざり、
どうにもいたたまれない気持ちになる。何故、彼女は死ななければいけなかったのだろうか。
「自殺、だったらしいわ。悪いけど少し周りの人に少しお話を聞いたら、彼女結構悩んでいたみたい。
家族もあまりお見舞いに来なかったらしいし、体にコンプレックスもあったみたいだし。
あたしにはザクロが居るけど、彼女には」
  それ以上は言えなくなったのか、胸に顔を埋めてきた。
  何故、気付けなかったのか。
  ヒヨリちゃんがあの元気な顔の下に、それだけ重いものを持っていたことに。
どれだけ辛い思いをしていたのか、それを知ろうともせずに、お喋りばかりしていた愚かな自分が
恨めしい。お嬢様も同じ気持ちなのか、片腕だけの弱い力でも精一杯に私を抱いてくる。
「ねぇ、ザクロ。あたしをもっと大切にしてね」
「勿論です、命に代えても」
  我儘でいつも私を困らせてばかりの娘だが、長年共に生きてきた大切な人だ。
家族など言うのは恐れ多いかもしれないが、誰よりも大切に思っている。
絶対に、生涯大切にしていこうと、甘えるように抱きついてくる小さな体温を感じながら、
私は固く誓った。

2007/05/08 完結

 

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